2010年9月30日木曜日

内田樹(2010)『街場のメディア論』光文社



人目を引くタイトルではありませんが、人類学的なコミュニケーション論として面白く読める新書ですので多くの方々にお薦めしたい本です。

内田先生は、コミュニケーションの交換的側面ではなく、生成的な側面に注目します。

親族を形成するのも、言葉を交わすのも、財貨を交換するのも、総じてコミュニケーションとは「価値あるもの」を創出するための営みです。ことの順序を間違えないでください。「価値有るもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返戻を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。(176-177ページ)

私たちは「モノには価格がついている」という信念の中にどっぷり浸かっています。市場での商品取引が私たちの根源メタファーになっています。だから学び・教育や恋愛・友情も、自分にとって「お得」かどうかを判断基準にしたりもしています。「価値」は「価格」に変えられ、もっぱら交換されるものとみなされています。

だから自分に「価格」を支払う購買力がなければ、自分は「価値」を得られないと考えてしまいます。金があれば勝ち組。なければ負け組。金がなければ「価値」とは無縁の人生を送らざるを得ないとも思ってしまいます。

しかし私たちは価値を交換により獲得するのではなく、コミュニケーションにより生成させることができると内田先生は説きます。何かに対して肯定的な反応をするというコミュニケーションは実は価値の創出行為なのだと内田先生は考えます。他の人はなんとも思わないかもしれない物事に対して「ありがたいものだ」と感謝の意を表することで、そこには価値が生まれてきます。そして感謝をするだけでなく、その価値に報いるために何か新しいことを始めるコミュニケーションによってさらに価値の生成は連鎖的に派生してゆきます。

僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前には遡ることができません。 (183ページ)

私たちは市場の価格がついた物事ばかりに目を向け、金銭だけを度量衡にせずに、ただそこにあり多くの人にとっては「なんだかわからないもの」を「自分宛の贈り物」として価値を見出す力を取り戻すことが必要です。そして見出した価値に感謝しつつ何か新しい活動を行うことを始めなければなりません。

この後期資本主義社会の中で、めまぐるしく商品とサービスが行き交う市場経済の中で、この「なんだかわからないもの」の価値と有用性を先駆的に感知する感受性は、とことんすり減ってしまいました。
それもしかたありません。僕たちの資本主義マーケットでは、値札が貼られ、スペックが明示され、マニュアルも保証書もついている商品以外のものには存在する権利さえ認められないんですから。その結果、環境の中から「自分宛の贈り物」を見つけ出す力も衰えてしまった。 (203ページ)

しかしこれは深刻な事態です。自ら価値を見出し創出できる力こそが生きる力に直結するからです。

「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。言い換えれば疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力のことです。 (204ページ)

よく「昔の子どもはその辺にある石ころや草花などからでもいくらでも遊ぶことができたけど、今の子どもはテレビで宣伝しているものや大人の用意したものでしか遊べない」と言われます。この意味で今の子どもは確実に生きる力を失っているのかもしれません。

何もないと思われるところに価値を見出し、それを感謝し、それに報いようとすることは、どんな時にでも希望を失わない「信仰」という文化の基礎でもあると内田先生は言います。

人間のコミュニケーションはその言葉 [=ありがとう] からしか立ち上がらない。
それは「おのれを被造物であると思いなす」能力が信仰を基礎づけ、宇宙を有意味なものとして分節することを可能にしたのと、成り立ちにおいて変わらないと僕は思います。信仰の基礎は「世界を創造してくれて、ありがとう」という言葉に尽きるからです。自分が現にここにあること、自分の前に他者たちがいて、世界が拡がっていることを「当然のこと」ではなく、「絶対的他者からの贈り物」だと考えて、それに対する感謝の言葉から今日一日の営みを始めること、それが信仰ということの実質だと思います。
人間を人間的たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力です。この能力はたいせつに、組織的に育まれなければならない。僕はそう思います。ことあるごとに、「これは私宛の贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚えるような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。(204-205ページ)


私の分野である英語教育の世界でもしばしば「コミュニケーション能力」について語られています。しかし私たちはその言葉で何を意味して、何を意味しそこねているのか。「英語教育の思想」あるいは「英語教育の無思想」の分析が必要なのかもしれません。










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【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

言語コミュニケーション力論と英語授業(2010年度版)

学部三年生用の授業「「言語コミュニケーション力論と英語授業」のためのファイル・リンク集を公開します。授業ではこれらの理論編を終えた後、各種DVDなどで授業の観察をします。

ダウンロードする資料は、引用が多いため、公開すると著作権法に触れますから、授業を受けた人にだけパスワードを教えます。パスワードは授業の受講者以外には教えないでください。(えっ、パスワードを忘れた?あなたは先週どこにいましたか?--大文字小文字に注意して!)


授業のイントロダクション

言語コミュニケーション力論の構想

2009年度の学生さんのレポートから(言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて)


第一回:チョムスキーとウィトゲンシュタイン

PDFファイルのダウンロードはここ(パスワード必要)
参考文献
Chomsky, N. 1965. Aspects of the theory of syntax. Cambridge, Massachusetts: The MIT Press (第一章のセクション1,2,8のみ)
Wittgenstein, L. 2002. Philosophical investigations. Oxford: Blackwell
「文法をカラダで覚える」とは何か
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4664.html
鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html
「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html


第二回:ハイムズ、カナルとスウェイン
参考文献
Hymes, D. 1972. On Communicative Competence. In J. Pride and J. Holmes (eds.), Sociolinguistics: Selected readings (pp. 269-93). Harmondsworth: Penguin.
Canale, M. and Swain. M. 1980. "Theoretical bases of communicative approaches to second language teaching and testing." Applied Linguistics, 1 (1): 1-47.(セクション1と3のみ)
Canale, M. 1983. From communicative competence to communicative language pedagogy. In J. C. Richards and R. W. Schmidt (eds.), Language and Communication (pp. 2-27).  London: Longman.


第三回:ウィドウソンとバックマン
バックマンとパーマーの2010年に関する記事は
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html
参考文献
Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Press.(第1章のみ)
Bachman, L. F. 1990. Fundamental considerations in language testing. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
Bachman, L. F. and Palmer, A. S. 1996. Language testing in practice. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
Bachman, L.f. and Palmer, A.S. 2010. Language Assessment in Practice. Oxford: Oxford University Press. (第3章のみ)


第四回:デイヴィドソン

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay01.htmlの「コミュニケーションという革新」と「コミュニケーションの極から考える」という記事を読んで下さい。

続いて次の二つの論文(草稿)を読んで下さい。

ブログ記事「二項対立の間でデイヴィドソンを考える」も読んでください。

そしてこのファイル(学位論文の一部)(パスワード必要)を読んで下さい。

参考文献(Donald Davidsonが書いた論文)
1973, ‘Radical Interpretation’, Dialectica, 27, reprinted in Davidson, 2001b.
1986, ‘A Nice Derangement of Epitaphs’, in LePore (ed.), 1986, reprinted in Davidson, 2005a.
2001b, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford: Clarendon Press, 2nd edn.
2005a, Truth, Language and History: Philosophical Essays, with Introduction by Marcia Cavell, Oxford: Clarendon Press.


第五回:内田樹、片山洋次郎

以下を読んでください。
内田樹関係資料のダウンロードはここ(パスワード必要)
片山洋次郎関係資料のダウンロードはここ(パスワード必要)
言語使用の倫理?
正義が「呪い」に転ずるとき ―あるいはネット上での発言についての注意―
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/blog-post_30.html
内田樹『街場のメディア論』光文社
近藤真(2010)『中学生のことばの授業』太郎次郎社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010_20.html

参考文献
内田樹・名越康文 (2005) 『14歳の子を持つ親たちへ』新潮新書
内田樹(2004)『死と身体 コミュニケーションの磁場』医学書院
内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』海鳥社
内田樹・三砂ちづる(2006)『身体知』バジリコ
内田樹『先生はえらい』(2005)ちくまプリマー新書
片山洋次郎 (1989/2006) 『整体から見る気と身体』ちくま文庫
片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫
片山洋次郎 (2001) 『整体 楽になる技術』ちくま新書
片山洋次郎 (2007) 『身体にきく』文藝春秋



第六回:異文化間コミュニケーションとしての翻訳

○必ず予習で読んでおくべき記事
伊藤和夫『予備校の英語』研究社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1997.html
文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ―「は」の文法的・機能的転移を中心に
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_29.html
純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_7354.html
翻訳教育の部分的導入について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_26.html
水村美苗『日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008_16.html
藤本一勇『外国語学』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009_18.html
イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1996.html
イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2009.html
橋本治『言文一致体の誕生』朝日新聞出版
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010.html
安田敏郎『「国語」の近代史』中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html

○できれば読んでほしい記事
After Babel
ジェレミー・マンディ『翻訳学入門』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009.html
山岡洋一先生の翻訳論
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_9410.html
山口仲美『日本語の歴史』岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2006.html
福島直恭『書記言語としての「日本語」の誕生』笠間書院
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008.html
Googleが変える検索文化と翻訳文化
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/google.html

○参考スライド
ポスト近代日本の英語教育―両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html



第七回:アレント

パワーポイントスライドのダウンロードはここ(このファイルはパスワード不要です)
それから
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418
および
このブログ記事「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html
も読んで下さい。
アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけに関しては、このエクセルファイルの概念図をご覧下さい(パスワード不要)。

関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2008.html
ついでに「当事者が語るということ」もどうぞ
さらに「現代社会における英語教育の人間形成について―社会哲学的考察」を読んでください。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html



第八回: 言語コミュニケーション力の三次元的理解

まずこのファイルをダウンロードしてください(パスワードが必要です)
次にhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.htmlの論文を読んで下さい。
中学三年生への講演で使ったパワーポイントスライドのダウンロードはこちらから(パスワードは不要です)
「補遺」もダウンロードしてください(パスワードは不要です)
言語コミュニケーション力論の構想」も参照してください。



第九回:ルーマン

■印のパワーポイントスライドを「とりあえず眺めて」、★印のホームページ記事を「完全にわからなくてもいいから、とりあえず読んで」みてください。授業でできるだけ解説しますから、わからなくても心配しないでください(ただ必ず一度は目を通してください)。

▲印の記事は読んでわかりますし、卒論を書くときなど必要になりますから、とりあえず読んでください。

その他の記事は参考程度に読んでください。



★日本語解説としてhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.htmlを読んで下さい。

▲この「社会的展開」の観点から私がやっている一つの試みとしての「理系に学ぼう」の連載は
でやっています。

・その他の参考記事
ルーマンの「システム」に関する分類図はここからダウンロード(パスワードは不要です)。
なぜ書くことが人の知性を発展させるのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html
ルーマンのメディア論から考える日本の英語教育
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/blog-post_184.html
ルーマン『社会の社会 1』法政大学出版局
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/n-2009-1.html
ルーマン『社会の社会 2』法政大学出版局
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/n-2009-2.html
ルーマン『社会理論入門 ニクラス・ルーマン講義録2』新泉社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/20092.html
メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性



第十回:言語獲得訓練における「意識」


インタビュー研究における技能と言語の関係について
意識の再編成と原理の体得
「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」(HTML版)
参考:尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎



■追記: S(秀)判定について

正義が「呪い」に転ずるとき ―あるいはネット上での発言についての注意―




この記事は「英語教師のコンピュータ入門」で使う資料の一つとして書いたものです。

内田樹先生の『邪悪なものの鎮め方』(2010年 バジリコ株式会社)と『現代人の祈り―呪いと祝い』(2010年 釈徹宗先生、名越康文先生との共著 株式会社サンガ)には、特にネット上で邪悪なことばを発することが、いかに他人だけでなく自分自身を損なうかについての優れた考察がありますのでここで紹介します。なお内田先生はご自身の著作物を引用されることに関しては非常に寛大な方針をとっておられますので、ここでは他の記事よりも引用を多く使いながら紹介します。


まずは『邪悪なものの鎮め方』から。

内田先生は最初に「正義」の凶々しさを説きます。


これまでも繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。(18ページ)


「邪悪なことば」とは実は「正義」へのあまりに未熟な衝動に由来しているのではないかというのが、内田先生の見立て(少なくとも私が内田先生の文章から読み取ったこと)です。

内田先生はさらにカミュのことばを引用します。


私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私が知りたいのはどうふるまうべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのようにふるまい得るかを知りたいのです。(20ページ)


もとより正義を求める心を失ってはいけません。しかしその正義を求める心がしばしば「理性」や「神」の名のもとに暴走してしまうとしたら、私たちはどうすればいいのか。どう「ふるまえば」いいのか―内田先生はこの問題を日常の立ち居ふるまいの問題として考えようとします。

そこで邪悪なことばについてです。内田先生は邪悪なことばとしての「呪い」についてこう書きます。


私たちの時代に瀰漫している「批評的言説」のほとんどが、「呪い」の語法で語られていることに、当の発話者自身が気づいていない。
「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」である。(81ページ)


実は「呪い」である「批評的言説」を発する人が、それを発し続け、かつそれが「呪い」であることに気づいていないのは、その人が「居着いて」いるからだと内田先生は説きます。「居着く」とは「こだわる」ことです。


「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。(90)


「居着く」ことの恐ろしさは、自己修正・自己変革ができなくなることです。周りの状況からすれば明らかに自らを変えてゆかねばならないのにそれができなくなることです。


人をして居着かせることのできる説明というのは、実は非常によくできた説明なのである。あちこち論理的破綻があるような説明に人はおいそれと居着くことができない。居心地がいいから居着くのである。自分の現況を説明する当の言葉に本人もしっかりうなずいて「なるほど、まさに私の現状はこのとおりなのである」と納得できなければ、人は居着かない。
そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自分で現況を改善するということができなくなる。(90ページ)


人の世が人間で構成されている以上、人々の間での批判や批評は不可欠です。それがなくなった時に社会は暴走します。しかしその批判や批評が、実は、自分が「かくありたい」と思いながらそうなれない「理想我」へのこだわりや、「自分はまったく悪くない」と思い込みたいがゆえの「被害者意識」からもっぱら生じているものだとしたら、それは警戒すべきです。なぜならそういった「批判」や「批評」は、その根源的な思いの一面性ゆえに他者への有効な批判や批評とはならず、当人の過度の自己愛的状況を助長するがゆえに自分自身の可能性をつぶしてしまうからです。

自分があまりに舌鋒鋭くある対象を攻撃し、自分の論が正しいことや自分が全面的な被害者であることに毫も疑いが抱けない時、あるいは自分が自分の正しさに酔ってしまいそうな時、私たちはそのことばが「自分自身にかけた呪い」(92ページ)ではないのかと自問するべきでしょう。

繰り返しますが、批判や批評を一切してはならないというのではありません。批判や批評抜きに民主主義も科学も、いやまともな社会も共同体もありえません。ただ自分が批判や批評と思っている言説の正しさを自分が少しも疑うことができなくなっているなら、それは自分が何かに居着いてしまっているのではないか、それは実は「呪い」のことばになっているか、自己吟味し、そうだとしたらそれを止めるべきだ、ということなのです。

「呪い」は他人を害し自らを損ねます。批判や批評は正義を求めながらも邪悪なものになりえます。そして批判や批評が邪悪なものになったときにはたとえ自己利益しか考えないとしてもそれを自制すべきです。なぜならそれは「自分自身にかけた呪い」だからです。

ではその「呪い」をどうやって解くか。「理性」や「神」を引用(というより濫用)しての解除はよけい問題を悪化させそうです。ここで内田先生は、立ち居ふるまいレベルの行動規範あるいはマナーといってもいい日常的なことを「道徳律」として説きます。


道徳律というのはわかりやすいものでもある。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。(150ページ)


しかしこのように「批判」や「批評」が暴走する可能性を説くことは、日本では逆効果であるのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。日本では身内で「なあなあ」と波風を立てないことを是としてるうちに、その「身内」からはじき出された人をひどく抑圧していることがよくあるからです。また「身内」に閉じこもり他人からの批判や批評に一切耳を貸さないでいるうちに、その「身内」が世界にまったく対応できないようになってしまうかもしれないからです。

この点はもっともだと思います。現代日本の課題の一つは批判や批評の健全な言論空間を創り上げ成熟させることだといえるでしょう。

しかしネットという新しい空間は危険だということを内田先生は、『現代人の祈り―呪いと祝い』で述べています。


ネット上に氾濫している攻撃的な言説のほとんどは僕の目には「呪い」に見えます。言葉によって、その言葉を向けられた人々の自由を奪い、活力を損ない、生命力を減殺することを目的としているのであれば、その言葉はどれほど現代的な意匠をまとっていても、古代的な「呪詛」と機能は少しも変わらない。われわれは今深々の「呪いの時代」に踏み込んでいる。このことの恐ろしさにほとんどの人々はまだ気づいていない。(21ページ)



ネットの特徴は誰でも発言できることです。特に掲示板やコメント欄などでは実生活では考えられないぐらいにずかずかと入り込んで居座り続け延々と発言できます。実際の物理空間でのコミュニケーションなら、さすがに周りの反応に肌身レベルで気づくことができるでしょうが、ネットではそれを察知することもなく、自分の「正義」で武装した人はひたすらに他人を攻撃し、そして結局は自らを損ねてゆきます。これに気づきにくいところ―これがネットのこわいところです。


過剰な自尊感情とぱっとしない現実の乖離に苦しんでいる人達を、僕たちの社会は構造的に大量に生み出している。その一方で、匿名で世界に向けて発信できる安価で便利なテクノロジーは圧倒的に普及している。この二つの要素が組み合わさったことによって「呪い」の言説の培養地が出来上がっている。ある意味で、これほど「呪い」にとって有利な情報環境というのは、歴史上存在しなかったのではないかと思えるくらいに。(29ページ)



以上、内田樹先生の『邪悪なものの鎮め方』『現代人の祈り―呪いと祝い』をネット上での発言で注意すべきことという観点から私なりにまとめました。ですが、これら二冊はこういった観点からだけでなく広く読める本です。紙の本で議論の肌理をじっくりと味わう経験は、ネット上での断片的な情報摂取では得られません。興味をもたれた方はぜひこれらの本をお買いあげの上、手にとってお読みください。

私としては、内田先生のことばを引用することによって語ってきたこの「批評」が凶々しいものに転化する前に、ここらでこの文章を終えておきたいと思います。










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2010年9月29日水曜日

英語教師のためのコンピュータ入門 (2010年度)

以下は柳瀬の授業(「英語教師のためのコンピュータ入門」)の受講者のためのページです。授業の資料は著作権などに抵触しない限り、できるだけここに掲載します。資料の掲載はまだ不完全ですので、このページに徐々に追加してゆくこととします。




「コンピュータを学ぶ」から「コンピュータ学ぶ」へ
「英語を学ぶ」から「英語学ぶ」へ
そして「コンピュータと英語学ぶ」へ


Computer for Communication and Community


"The only person who is educated is the one who has learned how to learn and change."
Carl Rogers


"You are not bored. You are just boring."


***

2010年度
英語教師のためのコンピュータ入門

1年生: 水曜3-4限 K208教室
2年生: 火曜7-8限 K208教室
教室変更しています!
担当:柳瀬陽介
yosuke@hiroshima-u.ac.jp


■授業で使う主なホームページ

柳瀬ブログのこのページ(教材提示用)
ラベル「授業」に掲載




広島大学WebCT(コミュニケーション用)

情報メディア教育研究センターのページ右の「WebCT]アイコンをクリック


主に使うのはDiscussionsとAssignmentsです。



■この授業の目的

(1) 現代社会におけるコンピュータ文化の重要性を理解する

(2) コンピュータについて自分で学べるようになるための基礎知識と検索技術を習得する。

(3) ウェブ上の有益な英語情報を活用できるようになる。

(4) 統計量統計に関する基礎的理解に基づいてエクセルを使いこなせるようになる。

(5) パワーポイントや音声・画像関係のソフト等が使いこなせるようになる。

(6) タイピング技術に習熟する。



■助言

(1)コンピュータを怖れないでください。コンピュータはあなたを助ける道具なのですから。

(2) まずは基礎的な原理と構造を理解してください。あとは操作の中から手があなたに知恵を与えてくれます。

(3)うまく動かない時にはどうぞ焦らないで。パニックになったりイライラしないで、試行錯誤したり検索したり人に尋ねたりしてください。

(4)すべてを理解しようとしないでもいいです。使っているうちに、少しずつわかったり発見したりしてゆくものですから。「とりあえず使える」状態になればあとは雪だるま式に習熟できます。

(5)授業外でのコンピュータ使用を前提としています。授業時間だけのコンピュータ使用では習熟できませんから、空き時間を使ってどんどんコンピュータを使って慣れてください。

(6)でもどうしても慣れないなら使いやすい参考書を本屋で見つけて買ってください。私も何度も経験しましたが、自分に合った参考書は多くの時間を節約してくれます。2000円以下で多くの時間が買えるのですから、これはいい投資です。

(7)特に単純作業をやったりしているときは、自分の注意資源の数パーセントを常に「どうしたらこの作業をより効率的に行えるだろうか」という問いに向けてください。コンピュータには便利な小技がたくさん隠されています。右クリックはしばしば行い、「ツール」「オプション」などはどんどん変更して、あなたのコンピュータを"personal"なものにしてください。

(8)授業への要望などは積極的に知らせてください。お互いのコミュニケーションを密にすることでよい授業を創り上げてゆこうと思っています。


■評価

(1) 参加(出席、および振り返りのWebCT提出)⇒30%

(2) 英語課題(毎週一つ面白い英語記事を見つけ、その面白さを説明) ⇒30%

(3) 統計レポート (詳細は後日。締切は授業最終日) ⇒30%

(4) タイピングと検索技術のテスト⇒ 10%

(5) 任意課題。(5a)か(5b)のどちらか⇒AをSに、BをAに、CをBにする。ただしDをCにすることはしない。

(5a)本を読んで書評。本の読みどころを見出して、それを的確に説明する。6000字以上のもののみを受け付ける。

(5b)なにか知的に面白いことWeb活動を開始し、最低一ヶ月以上継続する。

詳しくは、S(秀)判定に関する下の記事を読んでください。



■テキスト

相沢裕介(2010)『統計処理に使うExcel2010活用法―データ分析に使えるExcel実践テクニック 』カットシステム(11月に大学生協に入荷)



■必要なもの

・学生証(K208教室でのコンピュータ使用のため)

・USBフラッシュメモリ(1G以上が適当)。ただしDropboxなどのオンラインストレージを使うなら不要。



■遅刻・欠席・参加に関する方針

・遅刻は認めません。最初の点呼の時にいなかったら欠席扱いにします。欠席3回以上で、評価を一段階下げます。欠席5回以上は単位認定をしないことを原則とします。やむを得ない理由があった場合は申し出てください。

・私語や居眠りなどは許しません。注意しても止めないようでしたら教室から出ていってもらいます。楽しい学習環境を保つために、最低限のケジメだけはつけます。

・今年度はカリキュラム変更の過渡期のため、1年生用の授業と2年生用の授業の両方を開講します。内容は同じですから、やむを得ず欠席した場合、違う学年の授業に出ることによって出席に代えることはできます。



■課題提出の仕方

WebCTシステムで提出します。振り返りと英語課題はDiscussions、統計レポートはAssignmentの機能を使います。詳しくは教室で指示します。



■授業内容

第1回 10/5火 10/6水

★最初に

・「ゆとり」学生諸君、目を覚ませ!
http://news.livedoor.com/article/detail/5033539/

・日本の学生の就職「超」氷河期は永久に続く
http://news.livedoor.com/article/detail/4997809/

・クローズアップ現代「奨学金が返せない」
http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/53331dcfa486873ab62101d629fff229

・何が日本の若者を俯かせてしまうのか
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100924/216349/?P=1

・大学院生から大学一年生へのアドバイス
http://news.livedoor.com/article/detail/5033462/




★Associate, Explore and Communicate!
http://www.box.net/shared/static/qjlcjs460r.ppt


★ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/blog-post_31.html


★梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010.html




★コンピュータを使うときの注意事項

・ファイル共有ソフトウェアは使用しない。著作権侵害は犯罪
参考:飢えて死にます――「黒執事」作者、ファンからの「海外動画サイトで見た」メールに苦言
・OSとソフトウェアの更新を忘れない。Windows Updateを確認せよ。
http://support.microsoft.com/kb/884100/ja

・ウィルス対策を必ず行う。広島大学ではウィルス対策ソフトを構成員に対して無償提供しています。(またOffice 2010も一人一セットダウンロードできます。二台目にもインストールしたいときは、Office 2003までの機能を実質上有している無料のOpenOffice (2010年9月よりLibreOffice)のダウンロードをお薦めします。もしくは廉価のKINGSOFTを購入してもいいでしょう。いずれにせよOffice 2007/2010を使う人はファイルの保存を97-2003形式で保存してください。ファイルは他の人が使いやすいように作成することが原則です。)。


パスワードはわかりにくいものにして、かつ定期的に変更する。

・匿名で変な書き込みをしない。悪意や邪気は必ず自分に戻ってきます。また匿名はいつかばれるものです。
参考記事:正義が「呪い」に転ずるとき ―あるいはネット上での発言についての注意―

・インターネットだけでしかコミュニケーションできないような事態は避ける
片田珠美(2010)『一億総ガキ社会 ―「成熟拒否」という病』光文社新書

★ネット資源を早速利用する。以下のどれか一つについて来週の授業が始まる前までに “review” (面白さを他人に説明する文章)をWebCTに書くこと。

Clay Shirky: How cognitive surplus will change the world
Amazon founder and CEO Jeff Bezos delivers graduation speech at Princeton University
http://yosukeyanase-video.blogspot.com/2010/07/amazon-founder-and-ceo-jeff-bezos.html




第2回 10/12火 10/13水

★現代のコンピュータ文化について学ぼう
・学部生・大学院生にお薦めのウェブサイト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/blog-post.html

★Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/google-reader-twitter-evernote-chrome.html


参考記事

情報収集ではなく情報凝縮に対価を払う

凝縮した知識を処理する英語力

なぜ書くことが人の知性を発展させるのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html



第3回 10/19火 10/20水

★Google検索について学ぼう

・安藤進(2007)『ちょっと検索!翻訳に役立つGoogle表現検索テクニック』丸善株式会社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/09/google.html

・遠田和子(2009)『Google英文ライティング』講談社インターナショナル
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/2009google.html

・Google 検索の基本: 基本的な検索のヘルプ
http://www.google.co.jp/support/websearch/bin/answer.py?answer=134479

・Google 検索の基本: 便利な検索オプション
http://www.google.co.jp/support/websearch/bin/answer.py?hl=jp&answer=35890&rd=1

・Google 検索の基本: 検索をさらに便利に使うコツ
http://www.google.com/intl/ja/help/features.html

・Google 検索の基本: 検索の履歴と設定: 表示設定
http://www.google.com/support/websearch/bin/answer.py?hl=ja&answer=35892&rd=1



★Googleの他の サービスもチェックしよう

・Googleサービス一覧
・Gmail, Calender, ReaderはPCでもスマートフォンでも同期して使えるので非常に便利。

・Google accountを作っておくと、Gmail, Calender, Readerだけでなく、Document, Reader, Bloggerなども使える。

・Scholar, Books, Translate, YouTube, Alertなどは情報検索にとても便利(自動的に情報収集しようとするならなんといってもReader。もちろんTwitterも情報収集には便利)。

※ただしGoogleも単なる私企業に過ぎない。すでに莫大な力をもってしまったGoogleが暴走しないように私たちは常にGoogleに対して批判的な姿勢を崩さないようにしておく必要がある。

★覚えておくと操作が飛躍的に速くなる小技

・右クリックとショートカットキー
・周辺部キーの打指固定とショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/06/blog-post_4134.html



第4回 10/26火 10/27水この回は総合科学部K201教室で授業を行ないます!

★音声・映像ファイルなどについて(1)



第5回 11/2火 11/10水 (←11/3は文化の日でお休みです)この回は総合科学部K201教室で授業を行ないます!

★音声・映像ファイルなどについて(2)



第6回 11/9火 11/17水

★メディア論と社会分化論から英語とコンピュータの使用について考える

書き言葉が私たち近代人をつくった: Walter Ongの議論から
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/walter-ongorality-and-literacy.html

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/html.html


第7回 11/16火 11/24水

★情報と知識を構造的に考える(1)

・コンピュータと人間知性の共進化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_7852.html



第8回 11/30火 12/1水

★情報と知識を構造的に考える(2)

・コンピュータ上で「思考」をするために
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html

・思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_496.html



第9回 12/7火 12/8水

★エクセル入門
・エクセルで行うタスク管理
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_09.html

・Microsoft Office Onlineトレーニング
http://office.microsoft.com/ja-jp/training/



第9回 12/14火 12/15水

★基礎統計とエクセル操作(その1)

以下、相沢裕介(2010)『統計処理に使うExcel2010活用法―データ分析に使えるExcel実践テクニック 』カットシステムを教科書として使います。ですが、エクセル操作が得意な人は、以下の説明・ファイル・記事だけで理解できるかもしれませんので、購入は自分の判断で行って下さい。

■エクセルの使いこなしについて

Office 2010については、Microsoft社がある程度のオンライントレーニングを提供しています。
http://www.microsoft.com/japan/office/2010/business/training/default.mspx


■『日経PC21』の薦め/エクセルの使いこなし

しかし仕事でよく使うエクセルの使いこなしについては『日経PC21』がよくまとめています。以下の記事を読み、特にそこにある15の技と5つの使いこなしは必ずマスターしておいてください。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/pc21.html


■分析ツール

各種統計分析は「分析ツール」を使えば非常に簡単に実行できます。しかし「分析ツール」は最初はエクセルに入っていないので「アドイン」する必要があります。
Excel 2010でしたら、「分析ツール」をアドインするためには、次の操作を行って下さい。「ファイル」のタブから「オプション」を選択→「アドイン」を選択→「アクティブでないアプリケーション アドイン」から「分析ツール」を選択→「選択」アイコンをクリック→エクセル画面に出てきたダイアログボックスから「分析ツール」にチェック印を入れてOKをクリック。
以上で完了です。エクセル画面の「データ」タブを選択すると右上に「データ分析」が出ているはずです。そこをクリックすればデータ分析のアドインが使えます。


■計算結果に出るEという記号

しばしばエクセルでは計算結果の中にEが出ますが、これは演算の都合で自動的に指数表示になってしまったものです。この表示では何のことかよくわからないので、この場合は、そのセルを、「書式→セル→表示形式→数値」のように選択し、「小数点以下の桁数」を適当に定義することによって、常識的な数値表示にすることができます。



■<課題作成用データ>

このデータファイルは、あなたが英語教師として担当した1年1組と1年2組の、校内実力テストの点数(100点満点の素点)です。1年は10組までありますが、あなたは担当していないクラスのデータはもっていません。第一回目のテストは5月に、第二回目のテストは10月に行われました。問題作成者は第一回目と第二回目で異なっています(当然問題も異なっています)。

あなたはクラス担当教員として、これらテストの結果を英語科主任と各々の生徒に対して報告する義務があります。エクセルを使って必要な分析を行い、報告書を作成しなさい。なお報告書は英語科主任に対して提出するものとし、そこには、(a)1組と2組の違いに関するクラス全体の分析と、(b)それぞれの生徒個人に対しての報告の基になる分析の最低二種類の分析が含まれているものとします。

また、本来なら報告書には統計分析の進める際の考え方などは書かずに、結果だけを分かりやすく示せばいいのでしょうが、この報告書は授業の評価のためのものですから、どうして示されている分析をするのか、またその結果はどんな意味を持つのかを分かりやすく説明するようにしてください。

なお提出に関しては、今回はA4に(カラー)印刷して提出してください。電子媒体では受け付けません。印刷してきちんと表示されるファイルを作ることが課題の一つの要素です。
A4 で印刷したらまともに読めないようなファイルは採点の対象としません。電子的にはうまくできていても、印刷するとフォーマットが乱れることはよくあることです。職場では印刷してファイルを提示することが多いのでこの要求を出します。結構時間がかかりますので、きちんと計画的に課題を完成させてください。


■解説ファイル・記事

その1

エクセルできれいなヒストグラムを作るには


標本調査と全数調査についての簡単なまとめ

その4




第10回 12/21火 12/23水


★基礎統計とエクセル操作(その2)



第11回 1/11火 1/12水

★基礎統計とエクセル操作(その3)



第12回 1/18火 1/19水

★基礎統計とエクセル操作(その4)



第13回 1/25火 1/26水

★基礎統計とエクセル操作(その5)



第14回 2/1火 2/3水

★基礎統計とエクセル操作(その6)



第15回 2/8火 2/9水

★まとめ




2010年9月20日月曜日

近藤真(2010)『中学生のことばの授業』太郎次郎社

■「生きること」と「意味」

自然は斉一だと物理学者は言う。世界は誰が観察しても同じものだというわけだ。

世界は観察者によって別様に立ち現れると人文系の人間は言う。世界は人により文化により異なるというわけだ。

おそらく「世界」という言葉で意味することが異なっているのだろう。「世界」という言葉で、自然科学者は対象としての「自然」(nature)を考え、人文系の人間は自分自身の「人生・生活・暮らし・生きること」(life)の総体を考える。人文系および市井の人々にとって「この世界」とは自らがその中を生きている現象の総体である。

私たちが生きることは、自然の諸条件により大きく左右される。早い話が食べるものがなければ私たちの生きることは成り立たない。しかし自然の諸条件だけが私たちが生きることを規定しているのではない。自然科学の対象である自然にはまったく現れない(と断言していいのだろうか?)「意味」が私たちが生きることには必要だ。人間は食物的飢餓に苦しむが、意味の飢餓にも苦しむ。意味を見い出せない人生、否定的な意味しか見い出せない人生は辛い。

それでは私たちは「意味」をどのように見出しているのだろうか。本格的な議論をする準備も力量も私は今持ちあわせていないが、「意味」を担う最大の媒体の一つが言語であることは間違いあるまい(「身体」も重要な媒体だろうが、ここでは議論から割愛する)。


■自己観察の言語化としての自己記述

私たちは暮らしの中で、ぼんやりと自分を観察している。それは明確な自覚以前の「気分」なのかもしれない。だがその気分といった自己観察も、時には言語による自己記述によってより明確な輪郭を与えられる。「ああ、すっきりした」といった単純な言葉ですら、発せられるや否や、自らは ―あるいは自らが生きている世界の総体は― そのようなものとして意味づけられる。自己観察は自己記述により一層の意味づけがされる。自己観察とは自己が経験している世界の観察であり、自己記述とは自己が経験している世界の記述なのだから、世界観察は世界記述により明確な意味を与えられると言っていいのかもしれない。だが表現の煩雑さを避けるため、これからは自己観察と自己記述に、それぞれ世界観察と世界記述の意味も込めることとする。

「明確な意味」といったが、それは「同じ言語を使うものに共感してもらいやすい」という機能を指しており、言語による自己記述が、常に自己観察の的確な反映であるとは言い切れない。例えば「うーん、驚いたというか、戸惑ったというか・・・」と言葉を重ねる人は、自己記述が自己観察を捕えきれていないという思いに駆られている。どんな言語化でもすればいいというわけではない。

だがその自己記述への不全感も、自己観察を言語化し、対象化したからこそ覚知できたことだろう。「自己観察→自己記述」と進み言語化がなされるが、言語化は「『自己観察→自己記述』の自己観察」を促す。「自己観察→自己記述」が言語により形式を与えられ、観察しやすい対象となったからである。自己記述はさらなる自己観察を促す。言語使用により私たちはより的確に自己を ―そして世界を― 記述しさらに的確に観察することができる。


■どんなことばを自分に贈るか

自己記述は自分に対する贈り物である。自己記述は自らを(取り敢えずとはいえ)規定する。自己記述とは自らの生に意味を与えることである。それだけに自己記述は重要である。単純で否定的なことばしか見い出せない者は、単純で否定的な人生を送ることとなる。そんな人は単純で否定的な人生を自らに対して贈っているのだろう。

もちろんすべては自らが見い出し自らに贈ることばによって決まるなどという暴論を述べているわけではない。ある種の物理的現象は、どう言葉を弄しても否定しがたい。だが、極端な例を出すなら、アウシュビッツという極限状況でさえ、人が自分自身にどういうことばを贈ることができたかで、人生がさまざまに変わっていったというのは、フランクルが証言する通りだ(わかりやすい本なら『それでも人生にイエスと言う』、有名な本なら『夜と霧』)。私たちは権力者やずる賢い者によるごまかしに悪用されないように気をつけながらも、自分が自分に対して贈ることばの重要性を認識すべきだろう。


■どんなことばを他者に贈るか

もちろんことばは他者にも贈る。佳きことばは、まさに他者への恵みである。どんなことばを他者に贈るかで私たちの人生は、世界は創られてゆく。

とはいえすべてのことばが贈り主の意図通りに受け入れられるわけではない。時に贈り主の込めた意味は理解されない。時に理解されても受け取りは拒まれる。だがそのことばは、発せられた形式を与えられた限りにおいての永続性を得る。その時に意図された理解や反応が得られずとも、どこか残像として贈り主にも宛先人にも残り、それらの人々の人生と世界の縁を紡ぐ。私たちの人生とは、いかにことばを贈り贈られたということなのかもしれない。もちろん人間は言語的な存在だけではないのだから、上に述べたように身体といった他の側面を考えなければならないのだけれど・・・


■言語教育の根幹

私たちは日頃、どんなことばを自分に、そして他者に贈っているのだろう。この言語使用こそは、人生を築く重要な基盤である。言語教育の根幹は、どのようなことばを自分と他者に贈るか、そして贈るためにどのようにしてことばを見い出すか、さらには見い出すためにどのようにして多くのことばに出会うかということにあるだろう。



■近藤真先生の実践

前置きが長くなりすぎた。私は近藤真先生の『中学生のことばの授業 詩を書く・詩を読む』の紹介をしたいのだった。私は以前、敬愛する友人に薦められて『コンピューター綴り方教室』を読んだ。滅法面白かったのでホームページに感想を書いた。短く粗雑な感想だったが、近藤先生はそれを覚えていてくださったのか、今回出版社を通じて私にこの『中学生のことばの授業 詩を書く・詩を読む』贈ってくださった。

すばらしいことばの贈り物だった。

何より著者の、そして引用される中学生のことばがすばらしい。高度に機能的な学術論文(あるいはそのできそこない)ばかり読んでいると、このようなことばが慈雨のように感じられる。誤解しないでほしい私は技術的な言語教育の推進において人後に落ちるつもりはない(少なくとも細々とだが「英語教師は理系に学ぼう」といった企画も続けている)。だが言語教育は、技術的言語の教育だけには終わらない。創造的言語 ―自らを創り出す言語― の教育は言語教育の欠くべからざる要素だ。いや基盤といってもいいだろう。創造的な言語使用こそが私たちの人生と世界を創り上げるのだから。

谷川俊太郎の詩を使っての主体性の発見は、生徒一人ひとりの「森」(=他人がみだりに踏み込んではならない禁忌の領域。あるいは他者にはわからない、もしかしたら自分自身すらわからない神秘の空間)への気づきにもつながる(50ページ)。七・五調の定型が「言葉に立ち止まる力」 ―「情報リテラシー」の一側面― を育む(86ページ)。連句が教室を、表面的でない深いコミュニケーションの場に変える(107ページ)。詩のことばが、自分の内面をひらき自分を語るための、つまりは自己表出のための「触媒」になる(218ページ)。俳句で、ことばを「理解」できないにせよ、それと「和解」することを教える(235ページ)。これらの実践のことばの力はそのまま生徒の生きる力につながっている。


英語教育は、特に最近は技術的言語の教育として捉えられている。私もそれに異論はない。言語はある意味徹底的に技術的に教えられるべきだろう。

だがそれが言語教育のすべてではない。言語教育の根底には創造的言語の教育がある。言語を見出し、言語を贈る力が言語使用の基盤である。

いかに言語を見出し、それを自分自身にそして他者に贈ることができるか ―この基盤が貧しかったり歪んでいたりするところに、技術的言語使用ばかりが向上したら、どこか恐ろしいところに私たちは導かれてしまうような気がする。


進学高で未来のエリートたる若者に技術的指導ばかりしている先生方、教育困難校で技術的言語教育のさまざまな意味での限界を感じている先生方、中堅校でどこにも焦点が絞られない授業で困っている先生方、ぜひこの本を読んでください。いやビジネス書ばかり読んで、文学を読むことを忘れてしまった大人の皆さま、ぜひ読んでください。

近藤先生、素晴らしいことばの贈り物をありがとうございます。



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【広告】というわけで『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること かつて15歳だった全ての大人たちへ』も買ってね(笑)。



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「翻訳通信」100号記念関西 セミナーに参加して

「翻訳通信」の100号記念関西 セミナー(9月18日(土)西宮市大学交流センター)に参加しました。期待以上に高い内容で大変に勉強になりました。

山岡洋一先生のお話は、これまた翻訳家の岩坂彰先生(注)がインタビュー記事にまとめられている内容((上) (下)もまじえたものでしたが、広い視野に基づいた高い見識のお話を、妙に高尚ぶることなく、ひたすら具体的な現実に基づきながら語る様子が非常に印象的でした。

私もお話を伺っていろいろと考えさせられたのですが、そのことをまだ私はうまくまとめられませんので、ここでは山岡先生のお話の一つだけ書いておきます。出版についてです。

山岡先生は ―個人的にお話させていただくと「私は『先生』なんかじゃありませんよ」と苦笑されておりましたが、ここでは私からの敬意を示すためこの敬称を使います― 、本というのは、考えたこともないこと、経験したこともないことを伝える媒体であるべきだといった趣旨のことをおっしゃっていました。現状の出版市場はどんどん新刊出版点数は増えているが、市場全体の売上は落ちている状況だといいます。そういった状況で多くの出版社は、「読みやすくわかりやすい」本の出版を目指そうとしていますが、山岡先生は「読者は本物を求めている。もっと本格的な本を出版するべき」と訴えます。

私もこれには賛成です。これだけウェブで大量の文章が無料で読めるようになると、わざわざお金を出して本棚のスペースを占める書籍を買うにはそれなりの理由が必要です。

私自身にしても、情報はできるだけ電子で貯蔵するようにしています。電子書籍に関しては、機器としてのiPadやKindleはまだ買っていませんが ―私はChrome OSの機器の発売を待っています!― 通常のパソコンで使えるKindle for PCは使っています。本棚のことを考えると本はできるだけ電子で買いたいと思ってもいます。

しかし一部の本は、Kindle for PC(電子書籍)と紙媒体の選択肢が与えられても紙媒体で購入します。紙媒体の方が少々高くても、また本の置き場に困ってもです。

紙媒体で買う本は、内容が充実しており何度も読み直し、何度も参照する本です。現在のKindle機器は読みやすさではずいぶん優れていると聞きますが、まだまだ紙媒体の読みやすさにはかなわないのではないでしょうか。さらに私は本にどんどん線を引く読者ですが、線を引いた箇所を一気にパラパラと通覧するのは本の方が圧倒的に早いです。つまり自分の思考の糧になってくれるような優れた内容については、電子媒体よりも紙媒体の書籍を私は選んでいます。

それでは優れた内容の本をどう選ぶか。私はしばしばそれを翻訳に求めています。翻訳される本というのは、古典でしたら時の試練に、近年の英語圏ベストセラーでしたら日本語書籍よりもはるかに大きな市場での過酷な競争の試練に勝ち残ってきた本ですから、内容のハズレが少ないです(もっとも日本語翻訳の質が低ければ困りものですが・・・)

また翻訳書はとにかく速く読めることがありがたい限りです。私は例えば『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』が優れた本であることを複数の敬愛する方から聞いたので、せっかくならば原著で読もうと"Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies"を購入しました。読んでみると優れた本の常としてきわめて平明に書いてあるので、楽に読めるのですが、いかんせん私の英語力は限られているので、読みきってしまおうと思っているのになかなか読み進めません。もうこれなら「お金で時間を買おう」と翻訳書を買ってみると、まあもう笑ってしまうぐらいに速く読めました。自分の教養の裾野を広げるためには翻訳書というのは本当にありがたい限りです。

山岡先生は、「『私はこの本を翻訳するために生まれてきた』と思える本を探してきて翻訳しよう」ともおっしゃっていました。この言葉が山岡先生の口から発せられると本当に重みがあります。山岡先生は、「翻訳通信」第一期の頃からの地道な努力で、産業翻訳だけでなく出版翻訳にも取り組めるように自らの発信力を高め、各種の名著を出版翻訳されるようになった翻訳家だからです。さらには、古典中の古典とも言えるアダム・スミスの『国富論』の新訳までもご自身の提案で新訳を出版し、しかもそれが自分自身や出版社の予想を越えた売上をしているわけですから、これは本当に重みのある言葉です。

セミナーおよび懇親会でいろいろな方々とお話させていただきましたが、それらの方々が口々におっしゃっていたのが、山岡先生が常に翻訳業界ひいては日本の翻訳文化・出版文化のことを考え発言し、行動していることの偉大さでした。翻訳家というのは時に舞台裏の仕事、黒子の仕事とすら思われてしまいますが、日本の文化の重要な一翼を担う仕事です。今回はその第一人者の方のお話を聞くことができて大変勉強になりました。翻訳家の方々の発言にはこれからも耳を傾けてゆきたいと思います。





(注)懇親会で楽しくお話をさせていただいたお一人が翻訳家の岩坂彰先生です。岩坂先生の見識の一貫はWEBマガジン翻訳出版:岩坂彰の部屋で読むことができます。また、お話を聞いているうちにわかったことは岩坂先生は、あの伝説的なユングの『赤の書』の翻訳者のお一人であることでした。私も前から気になりながら、高額なので買いそびれていたこの稀代の名著(それとも奇書?)ですが、今回これを機縁に思い切って注文しました(大学生協の店員さん、驚かないでねw)。










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2010年9月16日木曜日

J. Matthews and R. Matthews著、畠山雄二・秋田カオリ訳 (2009) 『成功する科学論文 ライティング・投稿編』丸善株式会社

[ この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


科学論文というのは高度に機能的な書き物だ。科学の最先端の発見を、正確かつ迅速に伝えなければならない。複雑なことも明確に、誤解されないように書かなければならない。論文が読みにくかったり、誤読されたりするようなら学術誌には掲載されない。科学者としての生き残りにもかかわる。だから「ことばは、数字と同じように、サイエンスのツール」なのだ(viページ)。

科学論文はエッセイと異なる。興に任せて書いてはいけない。書き手が意図した意味と、読み手が読み取るだろう意味を一致させるように吟味しなければならない。意図的な多義性などもってのほかで、意図せぬ多義性が隠れていないか細心の注意を払わなければならない。冗長な表現は短くし、短すぎてかえって読みにくい文は読みやすいように長くする。何度も原稿を書き直すのはそれらのためである(1ページ)。もちろん何度も書き直さなくて済むように、最初から明晰な文章を書くように心がけるべきだ。だからこのような優れた参考書が必要となる。

だが私の経験では、このような文章の指南書を学生に読ませても、多くの学生は「当たり前のことです」といわんがばかりの反応を示す。「こんな原則を守れずに文章を書く人がいるなんて信じられませんよ」と豪語する猛者もいた。

それならばと、ある授業で、文法的には間違っていないのだが、科学論文の書き方の原則にことごとく反した英文を作って学生に提示した。「添削してごらん」と指示すると存外に苦労している。もちろん時間をかければどの学生も同じような英語にするから、学生は原則を理解している。だが、原則をただわかったと思うことと、原則を身につけることは大いに異なるという、いわば当たり前の教育の原則を改めて痛感した(こんなことを改めて思うのは筆者の教師としての力量不足の現れに他ならないのだがそれはさておく)。

というわけでここでも練習問題。以下の英文はどのような点で改善が求められるでしょう。正解はこの文章の一番下に掲載しますから、少し考えてみてください。


(1) The cause of the degenerative changes is unknown but possibly one cause may be infection by a presumed parasite. (p.17)

(2) There is a cure available. It consists of ... (p. 19)

(3) Hard-driving veterinarians in private practice should take more time for their wives and children. (p. 48)

(4) Inadequate training in PCR techniques resulted in incomplete date. This has been our most pervasive problem. (p. 71)

(5) Being in poor condition, we were unable to save the animal. (p. 72)

(6) These results were in general agreement with others who found increased mortality. (p. 80)




と、この本の例文から練習問題を作ってみたが、実はそんなことをせずともこの本には具体的な文章推敲の練習問題が豊富に用意されている。この練習問題をやってみることが文章上達の有効な手段であることは間違いないだろう。「科学論文の書き方なんてどの本が言っていることも同じだよね」と思われる方こそ、この本を読んで練習問題にチャレンジするべきだろう。

以上が「ライティング編」だが、この本の後半の「投稿編」も親切だ。投稿論文に添えるカバーレターには、なぜ投稿先のジャーナルに論文を投稿しようと思ったのかを(熱く語らない程度に)書いておこう(140ページ)とか、査読者が誤読して間違ったコメントを送ってきても、誤読されるところは議論や分析あるいは書き方の良くない箇所であることが多いのだからキレてはいけない(144ページ)などと、親切だ。前回紹介した 『成功する科学論文 構成・プレゼン編』と併せて読めば ―これら二冊は元々一冊の本を分冊にして翻訳したものである― いい科学英語の訓練になるだろう。もちろん原著を読んでもいいのだが、速読できる翻訳書は忙しい人にはありがたい限りだ。

最後に再びライティング編で、著者が掲げる「研究者のための笑える12ヶの文法規則」のいくつかを下に掲載する。笑う箇所を示すなどという野暮はしませんから、どうぞ笑って楽しんでください。



It is recommended by the authors that the passive voice be avoided.

If you reread your writing, you will find that a great many very repetitious statements can be identified by rereading and identifying them.

Avoid using "quotation" marks "incorrectly" and where they serve no "useful" purpose.

In science writing, and otherwise, avoid commas, that are, really, unnecessary.

Subjects and their verbs whenever you notice and can do so should be placed close.





答え

(1) 言質を与えない表現を使いすぎ。断定しすぎはよくないが、あまりに「保険」をかけすぎた表現を多用すると文に力がなくなってしまう。

(2) しゃっくりのように文の流れを不必要に断ち切ってしまっている。"The available cure consists of ..."と書けばいいだけのこと。

(3) 日本のある男性研究者(なんと専門は英語教育!)は、ある国際学会のレセプションでこういった挨拶をしてしまい、後に登壇した他国の女性研究者に皮肉られたが、その皮肉の意味すらわからなかったという。男性諸氏、ご注意あれ。

(4) 二番目の文の"This"が"inadequate training"を指しているのか、それとも"incomplete data"を指しているのかが曖昧。

(5) 文法通りに解釈すれば、状態が悪かったのは「私たち」であるが、しばしば誤用される懸垂修飾(dangling modifier)が使われているとしたら、状態が悪かったのは「動物」ということになる。意味解釈に戸惑ってしまう。

(6) "Results"と"others"は意味的には平行関係にないのに、統語的にはあたかもそうであるかのように書かれている。




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ニクラス・ルーマン著、ディルク・ベッカー編、土方透監訳(2009)『社会理論入門 ニクラス・ルーマン講義録2』新泉社

ルーマンはブルックナーに似ているとも思います。両者ともにとても複雑なことをやっているようですが、実はいくつかの主要なテーマを回帰的に繰り返しているだけで、そのテーマを理解できれば彼らの言いたいことはずいぶんわかりやすくなるように思えます。しかし、彼らは複数の主要テーマを、フラクタルのように次々に展開していますから、その展開ばかりに目を奪われると、彼ら作品の基本構造を見失ってしまい、彼らが何を言いたいのかわからなくなってしまいます。ですがその多彩な細部の奥にある彼らの核さえ抽象的に理解できれば、細部の複雑さはなんとか理解できるのではないかと思います。

と、いきなり与太話で始まりましたが、以下はいつものように私の読書ノートです。私なりの誤解・曲解に基づき、私自身の言い換えもずいぶん入れていますので、少しでもルーマンに興味をもった人は実際にご自分で本を読んでください。(またもしルーマンの専門家の方で、私の以下の記述にあまりにひどい誤解・曲解などがあることを発見された方はお知らせいただければ幸いです。私としても自らの誤解・曲解の可能性に開き直って居座るつもりはありませんので)



***

I 社会システムとしての社会


■システム理論はある理想を追求するものではない

システム理論は、観察されたもの、記述されたものが、どのようにしてそうあるのか、他のようにはありえないのかを考える。ある事態を肯定するとか否定するとかいうのはフランクフルト学派の表現方法である。(18ページ)


■ルーマンの社会学が依拠しない三つの社会概念

(1)社会を人間の集合としてとらえ、一人ひとりの人間を(それ以上分割することのできない)社会の構成単位として考えること。(42ページ)

(2)社会を地域(地理的な広がり)の集合としてとらえ、一つ一つの地域を(それ以上分割することのできない)社会の構成単位として考えること。(43ページ)

(3)社会科学が社会の外部に存在し、社会科学はどの認識者にとっても同一な客観的世界を扱うものであり、主観性を消去しなければならないということ。(44-46ページ)


■社会とは何か、ではなく、社会はいかにして産出されるのか、という問い

社会とは社会を産出するものであるというオートポイエーシス的理解からすれば、社会に関する本質的仮定を排除し、社会が自身を産出する作動を記述することの方が重要である。ちなみにこのトートロジー的なオートポイエーシス概念は、「法とは法が語ることであり法であるところのもの」「政治とは政治が生じさせるもの」(あるいは「応用言語学とは応用言語学が応用言語学として認めるもの」(笑 ―「応用言語学」を「英語教育学」に換えるともっと笑える)といった理解にもみられるものである。(62-63ページ)



II コミュニケーション・メディア

■コミュニケーションは社会的な作動である

コミュニケーションは社会的な作動として考えられるべきであるし、おそらく唯一の社会的な作動であろう。この作動が社会を生産・再生産し、(社会にとっての外部である)環境に対する環境を画定する。(102ページ)


■三種類のコミュニケーション・メディア

(1) 言語

(2) テクノロジー(文字、印刷、エレクトロニクスなど)

(3) シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア(貨幣や権力など) (102-103ページ)


■メディアと形式の区別

メディアとは膨大に現存し、相互に結合している一つの潜勢力である。メディアが「タイトなカップリング」を受けることにより形式になる。例えば音はメディアであり、そのメディアを使いこなすことにより音声言語という形式が生まれる。だがこのメディア/形式の関係は、重層的であり、音声言語はメディアとして使いこなされることにより、ある発話という形式を生み出す。いずれにせよ観察が可能(あるいは容易)なのは形式であり、メディアは観察が不可能(あるいは困難)である。 (112-114ページ)


■言語というコミュニケーション・メディアの空間的・時間的・社会的拡張

言語を口頭でしか使わない場合、互いによく了解している状況で言語を使うので人は自らの考えを精確に述べる必要はあまりなかった。(142ページ)

かろうじて文字に残っている古い時代の民衆叙事詩などの場合、特定の言語形式を繰り返し使用し、口述や想起、感情に対して周知性や確実性をもたらしてメディアの広汎性を広めた。(143ページ)

文字を記す媒体(粘土板や紙)が手工業や工業生産により普及し、加えて活版印刷が開始されると言語によるコミュニケーションは広範囲に流布するようになった。(143ページ)


■文字は当初は記憶補助のためでありコミュニケーションのためには使われなかった

進化は、それに先行する機能を利用しながら進行するものであり、現在からすると支配的・最終的に見える機能も当初は獲得されていなかった場合が多い。文字も当初は使節がメッセージを伝える際に持ち運んでいた粘土板に刻み込まれていただけであり、その粘土板が直接相手に渡されることはなく、メッセージはあくまでも使節が口頭で伝えていた。文字を直接的なコミュニケーション手段として使うことはその後次第に普及していった。(149ページ)


■文字の普及がコミュニケーションに与える影響

文字は直接対面している相互作用状況から離れて人々がコミュニケーションをとることを可能にした。だがこの新たな状況でのコミュニケーションには、目の前にいる相手のようにコミュニケーションを強く要求する人間が不在なので、メッセージを受ける人間は、読む・読まない、イエス・ノーを言う選択においてより自由になった。また二度、三度再読してはじめて解明できるような難解なテクストも生み出されるようになった。(159ページ)


■印刷術と市場

中国や朝鮮においてはヨーロッパより早く印刷術が発明されていたが、これらの地域では市場が発達しておらず、印刷術はもっぱら官僚機構が諸指令を周知されるために用いられた。(168ページ)テクノロジーだけが文明を進化させるのではない。


■印刷術と標準語

印刷出版は標準語成立と大きくかかわった。出版市場は広範囲に通用する語を求めるし、出版された印刷物はその広範囲で使用される語を普及させる。ドイツでは低地ドイツ語でなく高地ドイツ語がドイツ語の標準語化のために使われた。フランスではいわば学術的に標準化が行われラテン語の起源などがしばしば参照された。だがイタリアではダンテやペトラルカが書いていたフィレンツェの言語形式が印刷術より以前から普及していた。(169-170ページ)


■印刷物が促進した体系性

「体系」(システム)という言葉が多用されるようになったのは17世紀のはじめである。これには、目次や見出しなどで論理的な構造を秩序づけて提示できる印刷物の普及が大きく関わっている。その後、体系性は方法論化された。(171ページ)


■印刷物が促進した科学技術文献や新聞

詳細な情報を正確に伝えられる印刷物は科学技術文献を普及させた。目の前の人間を超えてコミュニケーションを図れる印刷物はまた、社会全体に対して提供される政治的パンフレットや新聞を登場させた。(172-173ページ)


■シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア

シンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディア(例、貨幣・権力・真理・芸術)とは、かなりの確率で起こりうるノーをイエスに変換することに役立つ仕組みである。例えば貨幣は交換の成立可能性を高める。権力は秩序形成の可能性を高める。真理は学術的テキスト生成を促進する。芸術は美の生成を促進する。(181ページ)


■多数のシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアが宗教の力を弱める

宗教はかつてすべての頂点に立つ意味論(ゼマンティク)であった。しかしシンボリックに一般化されたコミュニケーション・メディアが複数台頭し、それぞれがそれぞれの観点でコミュニケーションを促進するようになると、社会つまりコミュニケーションの総体は宗教では統一できないことが明らかになっていった。(199ページ)


■メディアの二分コード

メディアはしばしば二分(バイナリー)コードをもつ。コミュニケーションをアナログ的にではなくデジタル的に促進する[例えば貨幣なら支払う/支払わない、権力なら従う/従わない、真理なら真/偽、芸術なら美/美でない、だろうか]。このコミュニケーション過程の単純化により、コミュニケーションが促進され、さらにコミュニケーションを容易にする仕組み(プログラム)が発達する。(212ページ)



III 進化

■進化理論は段階説をとらない

進化理論は(聖書的な)創造説と異なるだけでなく、変化の明確な転換点を求める段階論とも異なる。歴史学でも、古代、中世、近代の間の明確な転換点をもつ普遍的過程という観念を放棄した。例えば近代は、一つの明確な転換点 ―アメリカ発見、書籍印刷、フランス革命、ロマン主義文学、など― をもって開始されたと断定することはできない。(243ページ)


■一般的な形式の進化理論

進化理論は一般的な形式性を備えたものとしてとらえるなら、生命システム、社会システム、心理システムなどにおいても適用され、それぞれに応じて違った実現の仕方をする。(247ページ)


■進化理論の三概念

(1)変異:何かが別様になる。

(2)選択:変異に対する肯定的ないし否定的な介入

(3)(再)固定化:選択の結果の受容あるいは拒否


■偶然と進化、そしてシステム理論

変異・選択・再固定化において偶然は大きな役割を果たす。これをシステム理論で言い直せば、進化はシステムに即して生じるが、同時に[システムを包含する]環境の中でも生じる。環境は、システムが支配も組み込みもできない外部であるから、この外部からの影響は偶然とみなされる。(249-250ページ)


■進化理論は非計画的な構造変動を説明する。

人工的で意図的な計画は、進化の中の一要因に過ぎない。計画はもちろん計画通りの結果ももたらすが、同時に予見されない未調整の効果つまり偶然効果をもたらし進化に作用する。人は計画を好むが、その人が何かを達成するかどうかは別の問題であり、その人が計画を貫徹するときでさえなお進化が起こる。進化理論は計画より幅の広い理論である。計画がなされたときでも非計画的な構造変動がありうる。(250-251ページ)


■進化には飛躍的な変化、相対的停滞、後退もある。

進化は必ずしも漸次的な変化ではない。(258-259ページ)


■偶発性の必然性もしくは必然性の偶発性

進化理論の特徴を説明するのには、神学的概念である「偶発性の必然性もしくは必然性の偶発性」が適切かもしれない。(260ページ)


■進化的普遍態

ある進化の獲得物は、いったん効力をもち使用されるようになると大きな射程で使われるようになり別の形式を駆逐してしまう。これを民俗学では「支配的な類型」(dominant types)と呼ぶが、パーソンズは「進化的普遍態」と呼んだ。貨幣、文字、政治的官職、複式簿記、組織の技術、機械などが例としてあげられる。これらが普及した後、以前の形式に戻ることはまずない。(277-278ページ)




IV 分化

■環節的社会

環節的社会が形成されるために必要とされる前提は、土地に人が住めること、人々が再生産できることぐらいである。(319ページ)環節的社会では、互酬性原則・感謝・扶助を通して安定している。(329ページ)


■中心/周辺分化

複数の環節的社会が何らかの形で接触し始め、それらの間の不平等が大きなものになったら、中心/周辺分化が生じる。都市と村落という形に分かれるが、中心である都市には、改めて別の分化が生じるだけの蓄積がなされる。(319ページ)


■階層分化

社会が、貴族といった上流階層とそれ以外の下流階層に分化する場合がある。ヨーロッパでは中心/周辺分化よりも階層分化の方が多く見られたが、これはヨーロッパの地理的・言語的多様性が関係していたのかもしれない。(321ページ)


■機能分化

社会がさらに複雑になると、経済や政治などの機能でも社会が分化されるようになる。機能分化したそれぞれのシステムは「非同等なシステムの同等性」を有している。つまり機能システムの間の互換関係は非同等性により妨げられているが、他方機能システムはどれも他の機能システムに対する社会優位を要求することができないという点で同等なシステムである。(322-324ページ)政治システムが経済システムを制御できないという考え方は社会主義の崩壊がそれほど昔のことでないことからすれば無条件に自明なことではないかもしれないが。(342ページ)


■機能分化と近代社会

機能分化の観点からすると、近代(モダン)社会と脱近代(ポストモダン)社会の間に断絶を認める必要はない。近代社会の実現から200年かそれ以上たった今日、私たちは何位巻き込まれたのか、私たちに何が起こっているのか、いくらかよく見通せるようになっただけである。(332ページ)


■機能主義理論を目的概念ではなくシステム概念で理解する

機能システムが目標達成のために存在していると考えるなら、目標が達成されたあとのシステムの存続が説明しにくくなる。他方、機能システムをオートポイエティック・システムの理論に転換すると、システムは二分(バイナリー)コードおよび二分コードのプラスマイナスの決定する基準であるプログラムにより作動するものと説明できる(プラスは作動をより簡単にし、マイナスは作動に対して再帰的・反省的な態度をとることを促す)。(332-336ページ)



V 自己記述

■自己記述と自己観察

自己記述とは、あるシステムが自分自身の作動によって自分自身の記述を行うことである。記述は観察と異なり、テクストといった繰り返し適用できる同一性を生み出す。システムは自己記述により、自らを説明し、環境から継続的に区別する。(360ページ)


■自己記述は循環的であり、終結しない

システムが自己記述を行うなら、その自己記述するシステムは自己記述される前のシステムと異なる。その自己記述を含んだシステムを自己記述しようとするなら、さらに自己記述がなされなければならない。システムと自己記述は循環している。この循環は終結しない。(361ページ)

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2010年9月15日水曜日

『英語教育2010年10月増刊号』




英語教育2010年10月増刊号の目次が大修館のホームページでも公開されたので、ここでも紹介します。ここをクリックしてください。

ご覧になったらお分かりのように、今年の増刊号の特集Iは「英語教育キーワード」です。キーワードというのは時代を動かす力になりますが、案外に理解されていなかったり誤解されていたりします。浅薄な理解あるいは端的な誤解は、キーワードを旧来の思考の癖に変容させ、世の中をしばしば反動的にしたりしますから、キーワードの的確な理解は必要です。どうぞこの特集をお読みください。

特集IIの一環として私は「英語教育図書:今年の収穫・厳選12冊」を書かせていただきました。ただ12冊を選ぶだけでなく、それらの本が現時点において書かれることの意味合い、読む際の視点などを提示して、読者の皆さんにいろいろと考えていただく書評にしたつもりです。原稿料をいただいて書いた文章ですから、このブログの文章と違ってw、わかりやすさや文体にも気をつけて書いたつもりです(もちろん私の能力の範囲内においてですが)。これらの12冊を読んだことのない方はもとより、読んだ方にも楽しんでいただけるような文章を目指しましたので、どうぞ読んでやってください。

ちなみに紹介した12冊は以下のとおりです。世の中には万人向きの本というものはないわけですから、できれば私の書評やアマゾンなどの書評なども読んで、書籍の意味合いを理解した上でお買い求めください。



靜哲人『英語授業の心・技・体』研究社

江利川春雄『英語教育のポリティクス』三友社出版

寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』明石書店

笹島茂/サイモン・ボーグ『言語教師認知の研究』開拓社

藤本一勇『外国語学』岩波書店

黒田龍之助『ぼくたちの英語』三修社

森山卓郎『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会

森住衛・神保尚武・岡田伸夫・寺内一『大学英語教育学』大修館書店

福井希一・野口ジュディー・渡辺紀子編著『ESP的バイリンガルを目指して』大阪大学出版会

和泉伸一『「フォーカス・オン・フォーム」を取り入れた新しい英語教育』大修館書店

新英語教育研究会『新しい英語教育の創造』三友社出版

田尻悟郎『(英語)授業改革論』教育出版




番外編として書名だけ言及したのが下の5冊です。


卯城祐司『英語リーディングの科学』研究社

田中武夫・田中知聡『英語教師の発問テクニック』大修館書店

大塚謙二『教師のためのICT簡単面白活用術55』明治図書

横溝紳一郎編著『生徒の心に火をつける』教育出版

吉田達弘他編『リフレクティブな英語教育をめざして』ひつじ書房




なお今回の書評で私が靜哲人先生の『英語授業の心・技・体』に対して書いたことを、江利川春雄先生が面白がってくださり、靜先生は靜先生で反論を書いてくださったことは、以前の記事でお知らせした通りです。

この靜先生の立論と私のコメントは、私が接する狭い世間の範囲内ではそれなりの反響を呼んだようです。

以前の記事で私は、

私としては、この靜先生のコメントが私の書評(増刊号に掲載)と共に読まれるならば、特に付け足して言うことはありません。


と書きました。この表現を書いたときに、誤解されることを防ぐためにもう少し文を足そうかとも思ったものの、足すのも野暮だと思い上のような表現としましたが、やはり不必要な誤解を避けるために若干付け足しておきます。

私が上に「特に付け足して言うことはありません」と書いたのは、私は必要な論点は増刊号書評で書いたと思っているからです。靜先生のブログ記事は、ぜひその記事が基盤としている私の書評を読んでくださればと思います。両方を比べれば、靜先生が私の書評のどの部分を引用し、どの部分を引用せずに論じているかがわかります。また引用している箇所もどのように引用しているかにご注意いただければと思います。

私がこのブログの直前の記事で言いたかったことは、人が何を取り上げ何を取り上げないかを観察することで、その人の考え方がわかるということです。そうやって(自分も含めた)多くの人の考え方を観察するなら私たちの思考も多少は現実的なものになるでしょう。一面的で固陋な思考は現実に対応できませんからね。

私が一番避けたいのは、観察をほとんどせずにどんどん自説を肯定し、異説を否定することです。そのような断言は勇ましく、その他にすることがない一部のウェブ読者を喜ばせたりしますが、私は現実生活を改善するにはそのような断言合戦は有効でないと考えますので、距離を取りたいというのは前から申し上げている通りです。

靜先生のブログ記事は私の書評記事と併せて読んでください、とお願いしましたが、このお願いは自動的に、私の書評記事が靜先生の『英語授業の心・技・体』と共に読まれるべきことを含意します。共に読みますと私が靜先生の本のどこを引用し、どこを引用していないか、また引用するにせよどのような引用をしているかを観察できます。

もちろん私の書評は原稿分量という制約、靜先生のブログ記事は忙しい毎日という制約のもとで書かれたものです。また制約がほとんどないような文章でも、書き手はその思いを過不足なく書く事はほとんど不可能であり、読み手が書き手の思いを過不足なく読み取ることもはなはだ難しいものです。ですから表現の細部について必要以上に騒ぎ立てることはあまり意味ある行為ではないでしょう。

しかし、そういったことを勘案した上で冷静にお互いを観察してゆけば、その観察から私たちの思考の癖も顕になるでしょう。それぞれの癖を理解した上で、それぞれの癖を多様性と捉えて使い分けてゆけば、多少は私たちの思考も行動も柔軟になるでしょう。あまりにひどい癖はたしなめる必要がありますが、私たちは(完全な)合意を求めてコミュニケーションをするより、差異を必要な前提そして当然の結末としてコミュニケーションを続ける方が実りが多いと考えますので、私はこのように訴える次第です。(よかったらこの論文も読んでやってください)。


まあ、私の書評はともかく、今年の増刊号は(もw)充実していますから、お買い上げの上、どうぞ皆様の思考と行動の糧にしてください。活字出版とウェブ表現の棲み分けは、電子書籍の台頭でますます混迷の色を深めてきましたが、活字出版のこれまでの伝統とノウハウを活用することなしにウェブ文化が発展することはないことだけは確かでしょう。このブログを読んでくださるのはありがたいのですが、本や雑誌の活字出版も買って読んでねw

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