2013年12月23日月曜日

『17歳のカルテ』




生き物の課題とは環境に適応して生き延びることである。環境に応じて自分を変え、時に環境の方をも変える。だがもし、生き物と環境のギャップがはなはだしすぎるならば、適応は失敗し、生命力は損なわれる。

だが生き物は頑強なもので、休養をとり生命力を回復させ、やがて大なり小なり環境に適応する。生き物は、単純な機能固定的マシンではなく、様々な複合性が組み合わさったオートポイエーシス・システムであり、その自生的な対応能力は単純なマシンとは比べものにならない。

生き物の中でも人間は、器用な手を利用し様々な人工物を作り出し、さらには言語という媒体で「今ここ」の体験を、自分の過去・未来・仮想世界と、そして他人とに関連づけ、自分の世界を作り変える。生き物の世界の中で、おそらく人間の世界こそはもっとも複合性の高いものではないか。

人工物は、それが建築物だろうが、被服だろうが、食品だろうが、道具だろうが、芸術作品だろうが、人間が生きることを ―環境に適応することを― 少しは容易にしてくれる。言語は、それが脳内の思考表現であれ、他人との応答であれ、視覚媒体での読み書きであれ、人間が生きるという課題を少しは対処可能なものにしてくれる。

だが、人工物と言語は、人間の外なる環境と内なる意識 ―それは簡単には説明できないやり方で生理学的生命システムとカップリングされている―を、ある意味、極端に複合的にしてしまう。その高度な複合性ゆえに、人間が生きることの可能性は、当の人間が想像できないぐらいに広がった。だから人間は、自らをそして他人をさらには地球さえをも、信じられないぐらい素晴らしいものにすることができる。だが、その可能性は破壊にも開かれている。

人工物と言語を備えた人間が、自分を含む何かを破壊する流れに巻き込まれた時、その流れを止めることは、その複合性ゆえに必ずしも容易なことではない。単純な判断による単純な介入が必ずしもうまくいかないからだ(もちろん、何かを破壊しようとする人間を、介入者が破壊してしまうのだったら、単純な力の行使で流れは止められるが、それは緊急避難的手段である)。特にその人間がことさらに敏感な複合性をもっている場合、単純な介入は介入者の予想をまったく超えた災厄をもたらすことがある。


この映画(『17歳のカルテ』)の主人公のスザンナは、ベトナム戦争の60年台という社会環境 ―若者は実際にくじびきで徴兵され遠く彼方での殺し合いに参加させられた―と、大学教授の娘という一見幸福そうな立場でありながら、実は心理的な葛藤を抱えた母親に育てられたという家庭環境に適応しなければならなかった。

もちろん同じ社会環境と似たような(あるいはもっと過酷な)家庭環境を引き受けながらも、「問題なく」―これは問題を含んだ表現だが、今はそれについては触れない― 過ごす人間も多くいる。いやそれが社会のマジョリティ ―嫌なことばを使えば「普通の人」― なのだろう。だが、スザンナという少女にはそれが耐えられなかった。繊細な完成と鋭敏な知性により、極めて高度な複合性を有する彼女の心は、彼女が、彼女にとっての社会環境と家庭環境に適応しようと努力する中で、彼女自身が予想も制御もできないぐらいに変動し、それに即して彼女は自分の行動に翻弄される。

そして彼女は精神病棟に送られる。


映画ではこのスザンナ役のウィノナ・ライダーWinona Ryder)の演技がすばらしい。スザンナの、世間的な価値観からすれば「常識外れな」行動の「まともさ」が見る者に伝わってくる。そして、権力装置の中で彼女を一方的に判定し彼女を制御・支配しようとする人間の悲喜劇的な凡庸さがよくわかる。

私はこの映画を偶然スカパーで見て、その後でウィキペディアを調べてはじめて知ったのだが、ウィノナ・ライダーは、自らも境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴がある。そういった履歴もあり、彼女は原作(『思春期病棟の少女たち』)に惚れ込み映画化権を買い取って製作総指揮も兼任したそうだ。この映画の演技で注目され数々の賞を得たのは、もっぱらアンジェリーナ・ジョリーだったそうだが、そんな知識なしに映画を見ていた私にとって素晴らしかったのは、断然ウィノナ・ライダーの演技の方だった。彼女の微細な表情は、言語表現が困難なぐらいに微妙な感情を見事に伝えてくれていた。

映画はスザンナが退院するまでを描く。映画は、『カッコーの巣の上で』と同じように、繊細な感性と鋭敏な知性をもつ当事者が不安定になった時に、鈍重な感性と単純な知性によって設計・運営される権力システムが、善意や正義感に溢れながら、いかに追い込まれた当事者をさらに追い込んでしまうか(あるいは、追い込まざるをえないか、と言うべきだろうか)を描き出す。外からの単純な権力行使ではなく、当事者のうちからの回復を待つ ―「支援」ということばでさえもここでは控えるべきなのかもしれない― 環境を整備することが、まわりの人間のなすべきことなのだろうか。

私たちは、単純な善意と正義感に対する警戒感を失ってはいけない。もちろん単純な知性の単純な増幅に対しても。

 繊細な感性と鋭敏な知性を備えたオートポイエーシス・システムの可能性は、自己破壊にだけではなく、回復と自己再生にも開かれている。

私たちは生命の力を信じる。















2013年12月7日土曜日

記号づけ英語教育実践の講演会を聞いて考えたこと



地方大学の理系研究室で起きた奇跡 - 「はじめて英語がわかった」 -では、改めて英語教育の現実について色々考えることができました。はるばるお越しくださった板倉隆夫先生と大庭まゆみ先生に深く感謝します。

特に板倉先生からは、「現実を観察し、そこから仮説を理論化し、その仮説に基づき実験し、その実験結果からさらに考え、観察と仮説・理論化を深める」という自然科学の王道を、大学理系の英語教育に適用された事例を学ばせていただきました。

自然科学的な態度に欠けることが多い英語教育界では、上の

観察→仮説・理論化→実験→結果→省察・・・

ではなく、

ドグマ(=学説・教育政策・個人の経験など)
→ドグマの実行→結果
→ドグマの強化(=成功だったら「やはりそうだろう」とし、失敗だったら「ドグマをもっと実行しなければ」と結論する)

になることがしばしばありますから、板倉先生のアプローチは非常に啓発的でした。

今は時間がないので、この講演会で私が考えたことをメモ風に記するだけに留めておきます。以下の内容は、板倉先生と大庭先生のお話に触発されて私が考えたこととご理解ください。以下にもし少しでも見るべき点があればそれは板倉先生と大庭先生のお話のおかげであり、誤りや偏りがあればそれはすべて私に由来するものです。板倉先生と大庭先生のお話は、一つの実践現場での吟味された「現実解」であり、非常に説得力があるものでした。以下の私の文章は、その現実解を過小評価も過大評価もしないための、私なりの覚書と理解していただけたらと思います。






■ 外国語学習における言語とメタ言語の循環

「全体を理解するためには部分を理解しておかねばならないが、部分を理解するためには全体を理解しておかねばならない」というのが、解釈学的循環であるが、外国語学習にも同じような循環がある。

つまり、幼い頃から身につけたわけではない外国語という言語に習熟するためには、文法といったメタ言語が必要だが、メタ言語を理解するためには、当の外国語という言語に習熟していなければならない、ということである。

外国語学習においては、まずメタ言語を完全に理解してから言語を学ぶことはほとんどありえないし、メタ言語一切抜きに言語に習熟してしまってからメタ言語を学ぶこともまずない(あるとしたらそれは「外国語学習」というよりは幼少期からの「第二言語習得」と言うべきだろう)。

外国語学習で大切なことは、言語とメタ言語の矛盾する循環関係にとにかく入り込み、(他に適切な表現を思いつけないからこう書くけど)言語とメタ言語を弁証法的に発展させ、自覚的な外国語使用を少しずつ可能にしてゆくことである。

あるいはデューイ風に表現してみるなら、「経験」をすることで「思考・振り返り」を学び、「思考・振り返り」をすることで「経験」を(単なる試行錯誤ではないという意味での)「経験」にすると言えようか。

どちらにせよ、言語(経験)とメタ言語(思考・振り返り)を独立分離させて、別々に学ぶことは非現実的であると考えられる。



■ 母国語と外国語の違い

もし目標とする外国語が母国語と同じ語族に属し特性が似ているなら、母国語を題材にメタ言語に習熟でき、そのメタ言語をそのまま外国語の学習に転用することもできる。だが、例えば日本語と英語のように母国語と外国語が大きく違う場合、仮に母国語を題材にメタ言語を覚えたとしても、そのメタ言語をそのまま外国語学習に転用できるわけではない。

この意味で(板倉先生の主張なら)「他動詞」や「形容詞」、(三上章以来の問題意識なら)「主語」といったメタ言語には注意しなければならない。



■ 文法理解を側面から助ける物語

人間の営みを描いた物語は、ある程度予期できる共通理解基盤の中で少し驚くような事が生じるという展開をもつが、その予期と驚きのバランスの中で、文法関係の理解が促進される。つまり、もし文がまったく抽象的で予期しがたいなら、学習途中の文法を使ってその文を理解することははなはだ困難となるが、他方、もし文がまったくありきたりの定型句であれば文法を理解しなくてもその文の働きを理解することができるので文法関係の理解には役立たない。

物語は、予期と驚きの配置が巧みなことが多いので、文法学習のための素材としては適切であると言える。しかし、説明文は、よほど巧みに書かない限り、そのトピックを知らない者には驚きばかりの文が続くことになり、トピックを知っている者には予期できる文ばかりになりがちなので、文法関係の理解には適切でない場合がおおいにありうる。また、会話文は、たいていの場合凡庸すぎる展開で内容がほとんど予期できるので、これも文法関係の理解には適切ではないことが多い。



■ 「英語を英語で理解する」ことの視覚化としての記号づけ

教師が英文に記号づけをしてやることで、学習者は「英語を英語で理解する」支援(指導)を得ることができる。学習者に記号づけさせることにより、教師は学習者が「英語を英語で理解する」ことができたかを判定(評価)することができる。

一般にこの支援と判定は、「英文和訳」で行われているが、たとえば「僕は野球が好きだ」と"I like baseball"のように、二言語間の関係が単純でない英語教育の場合は、英文和訳は支援(指導)の手段としても判定(評価)の手段としても必ずしも適切ではない。(この点、いわゆる「中間日本語」や「意味順」のように「私は―好きです―野球を」といった人工的な日本語を教育手段として使うことには妥当性がある)。



■ 「英語を英語で理解する」ことの内実としての品詞感覚とオンライン処理

「英語を英語で理解する」ために、記号づけは不可欠ではない。「英語を英語で理解する」ということは、十分な「品詞感覚」(=文の中での品詞の働きに関する感覚的な理解)により、部分である語句が文全体の中で一定の働きを担っていることを速やかに理解しながら、語句を語順通りに次々に連結し文全体の意味を完成させるという「オンライン処理」(=文の前の部分に戻ることなく理解をして文の終わりと共に理解が完結する処理)をしていることと表現できる。つまり「品詞感覚」と「オンライン処理」が「英語を英語で理解する」ことの内実である(これは統語論中心の言い方であり、意味論や語用論への配慮は少ないが、話を短くするために、ここではこれ以上の精緻化は避ける)。

「品詞感覚」は記号づけのために必要でありながら、おそらく記号づけによって育成される理解であろう (あるいは日英語の違いにもかかわらず、日本語の品詞感覚で英語の品詞感覚も得られているのだろうか ―純粋な疑問)。「オンライン処理」は記号づけ指導が目標とする事態であるが、それができる頃には記号づけは必ずしも必要とされなくなる。記号づけを「オンライン処理」ができているかどうかの判定(評価)手段として使うことも可能だが、即時性はどうしても判定できないし、記号づけというメタ言語記号そのものに習熟していなければならないという問題もある。

(記号づけに限らず、文法(=メタ言語の表記)は、外国語習得のための手段でありながら、時にそれが自己目的化し、本来の目的である外国語習得が忘れ去られてしまうという問題をもつ。)



■ 学習者を外国語の自覚的な使い手にするという目的のためには、手段はすべからく折衷的・便宜的に使い分けるべき

記号づけは非常に有効な外国語教育の手段であるが、高1の教科書にあったという次の文(これは大学入試レベルだろう!)を記号づけして指導するのは、それほど容易ではない。"There are few things that are more rewarding than to watch young people recognize that they have the power to make their dreams come true."

もしこういった文を指導しなければならないとしたら、従来の記号づけをした上で、「節 (および意味上の主語・動詞関係)が開始される時には改行しインデントする」といった原則を加えて


There are few things
that are more rewarding than 
to watch young people recognize
that they have the power
to make their dreams come true.


とでも表記し(上では記号づけ表記をしていません。念のため)、行ごとに「チャンク訳」をしつつ、次に来る意味を予期させるといった、さまざまな手段を合わせて使う必要があるだろう。

一般に、ある手段だけで外国語学習がすべて行えるというのは単純すぎる主張であり、教師は複数の手段を知り、学習者の様子を注意深く観察しながら複数の手段を使い分け、組み合わせることが必要である。学習者を観察するためには、もちろん、少人数クラスである必要がある。



以上です。時間がないのですが、今、少しでもまとめておかないと板倉先生と大庭先生の貴重な話の教訓を忘れてしまいそうなので、文章をまとめてみました。おそまつ。




追記(2013/12/08)

院生のKR君が、講演会の感想を書いてくれたので、ここに本人の許可を得て掲載します。

本講演会での「見える化」とは、通常の英文和訳の過程では、日本語に埋もれてしまう「英語の解釈の明確化」を指しており、またこの意味での「見える化」をさらに言い換えるならば、解釈の明瞭化の過程で、学習者の解釈ができていない箇所をあぶ出されるという点で「学習者内のわからない部分の明瞭化」を指すのかな、と感じました。

個人的な体験談になるのですが、バイト先の塾で生徒の質問対応を行っていると、理系科目(数学・理科)に対して、文系科目(国語・英語)に関する質問が少ないことに気がつきます。数学や理科の宿題では、解答は明確な一つが用意されてあり、学習者はその解に辿りつけないことが、「わからない」という状態であるとみなされます。この解釈は非常にわかりやすく、「解答欄に解があるorない」が理解の指標となります(ここでは単なる計算ミス・あてずっぽうな論理展開は除きます)。一方で、英語の宿題の多くは教科書の英文和訳か、文法項目に関するドリルが中心です。特に前者の英文和訳に関して言えば、調べた単語の意味を機械的に組み合わせることで、本来の英文から離れた、日本語の組み合わせの解釈を引き起こしてしまう恐れがあります。この際、本来の英文の意味はわかっていないのに学習者の意識は英文そのものから離れてしまっているために、ひとまず完成した「何となくの訳」に対して、生徒の中では疑問が生まれないことが少なくないのではないでしょうか。従来の英文和訳という課題では、生徒は母語の表現の中に意識がいってしまい、本来の英語の解釈が見えない状態に陥っているために、「わからない」という状態すら実感できない可能性が考えられます。このことが質問に来ないという現状の原因となってしまっているのではないでしょうか。生徒が質問に来ない、ということ自体は問題がないのですが、この考え方でいくと英文和訳という課題そのものが英語学習という目的を果たしていない恐れがあります。すなわち、理系科目同様、英語科においても、目の前の英文に対して思考を明瞭化する必要があるのではないでしょうか。

学習に対して思考を明瞭化する際に、今回の「見える化」は非常に有効な手段であると感じました。学習者は目の前の長文に対して、解釈を進める際に規則的な記号を書き加えることで、自身の解釈を明瞭化することができます。このことにより、従来日本語に埋もれ曖昧とされてきた英文の解釈を、英文からかけ離れることなく行うことができるでしょう。さらに、解釈が曖昧な部分に対して学習者は記号を当てはめることができないことから、自身の解釈ができていない部分までもを明瞭化することができます。このことでわからない状態が実感でき、学習はより意識的に進められることが予想されます。従来の曖昧な点を残しがちだった授業は、記号という方法・規則に従うことで、明確にわかりやすく進められるでしょう。

一方で、この「見える化」には、規則としてある程度自立しているという点で、若干の危うさを感じました。というのも、本来この「見える化」というのは英文から離れることなく英文を解釈することを目的としていましたが、この「見える化」自体が明確な規則を確立しているために、解釈の過程の中で英文全体から離れ、規則を当てはめるだけの状態に陥る危うさを感じました。例えば、英語は本来広いコンテクストの中で使用され、短文のみを切り取って考えることは不自然な行為のように思われます。しかしながら、この「見える化」を徹底して行うことは目の前の英文に対して盲目的に記号を振ることに専念してしまう恐れがあるのではないでしょうか。その結果、目の前の短文に関しては、従来日本語によって曖昧にされてきた部分を明確にすることはできたものの、結局大きな文章の流れを考えることを忘却してしまう恐れがあります。「見える化」という行為が規則性を持ち、独立しうるために、英文に記号を振って解釈するという限定的な過程を目標化してしまう危うさを感じます。「見える」ということは、同様に「他のものを見えなくさせる」という危うさを持っていることを、少なくとも教師は認識する必要があるのかもしれません。

また、この「見える化」という手法自体がある程度自立しているという点で、学習者がこの手法そのものに関心を示さなければ成功しない、という危うさも感じられます。というのも、全く英語に関心のない生徒に対して、この手法をマスターさせること自体が困難なように思えます。個人的な感覚なのですが、この「見える化」という方法そのものは英語から少し離れた性質を持っているような気がします。それは数学の問題を解く上で複雑な公式を丸暗記する感覚に似ているように思えます。数学に関心のない生徒にとって公式を丸暗記することは困難なことであり、またこれを丸暗記したところでどのように使用すればいいのか理解できず、そもそも使用できない恐れがあります。関心のない生徒や、極めて初級の段階にいる生徒には、この「見える化」という手法そのものが、英文を解釈するという全体に対しどのような位置づけをもっているか把握できない危うさを感じます。この「位置づけがわからない」という点に関しては、生徒の関心に直接関わってくる問題であり、わからない故に教科から離れてしまう危険を考えなければならないでしょう。今回の講演での成功例はあくまで大学生や大学院生と、ある程度英語全体が把握できている学習者だったので成功したのかもしれませんが、これが初期学習者である場合には特別な配慮が求められるかもしれません。

しかしながら、この「見える化」を用いることは、学習者の思考・解釈を明確化することで、彼らの学習を一歩離れた位置から俯瞰するきっかけを与えるでしょう。自身の学習を俯瞰して見ることは、より効率的な学習の達成につながるように思われます。俯瞰した学習法を経験した生徒は、その学習の延長線上にある「英語の運用」という巨大な像を感じ取るようになり、主体的な学習が展開されていくことも十分に考えられます。また、この学習法が生み出す、「学習が進んでいる感覚」そのものが、学習者の動機になることも十分に考えられると思います。全ての面を完璧にカバーした究極の学習法は存在し得ないと考えているので、この「見える化」を盲信すれば良い、とは考えませんが、その一方で、この手法の弱みを補いつつ自分の指導法に取り入れることは非常に有益だと思います。




追記 (2013/12/17)

この記事に関して何人かの方から感想をいただきました。

受験産業に従事されているある方は、「学生たちが英語を人の言葉としてとらえていない。」という板倉先生のご指摘に深く共感なさっていました。

中学校で長く教えられた後、今はある高校で教鞭をとってらっしゃる方は次のようなメールを下さいました(許可を得たので転載します)。


12月7日のブログ拝見。自分の経験を説明していただいている感じで、その通り!と納得。

「物語と文法理解」
「品詞感覚の大切さ」など

思わずメモ取りました。

(中略)

高校1年生を教えてみて中学校でするべきことがされていないのに驚きました。

品詞を考えたこともなく単語の単純な意味だけ覚える学習習慣しか持たない生徒たちでした。

中高の英語教育をつないでいかないといけない、と思うのですが、中高連携が難しいですね。小中連携以上に難しいです。


文部科学省が12月13日に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」によって英語教育の現場は大幅に変動するでしょう。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/1342458.htm

そういう時は、平時にまして教師の目が「上」に向いて、「これは新しい方針にかなっていますか」と児童・生徒不在の授業になりがちです。

しかし、そういった流れ ―これは明らかに安倍政権が作り出している流れだと私は考えています― に自らを失ってしまうのではなく、学習者をよく観察し、教師一人ひとりがよく考えて実践を深めてゆきたいと思います。

2013年12月5日木曜日

Thinking in Education (Chapter 12 of Democracy and Education)





[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]





以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0012


なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。










第12章: 教育における思考
Chapter Twelve: Thinking in Education


■ 教示 (instruction)を、技能獲得、情報獲得、思考訓練に区分してしまうと、結果的にどれも不十分に終わってしまう。

The parceling out of instruction among various ends such as acquisition of skill (in reading, spelling, writing, drawing, reciting); acquiring information (in history and geography), and training of thinking is a measure of the ineffective way in which we accomplish all three. (p. 146)

⇒しかし、現実には、技能獲得はドリルで、情報獲得は丸暗記で、思考訓練は(例えば「クリティカル・シンキング」の時間で、と分けて特化して教えることがもっとも効果的と思われていないか(願わくば「クリティカル・シンキング」が、critical sinking となりませんように)。



■ 行為・自己・世界と結びついていない思考、思考と結びついていない技能、考えた上での行動と結びついていない情報は、知性を破壊する重荷となる。

Thinking which is not connected with increase of efficiency in action, and with learning more about ourselves and the world in which we live, has something the matter with it just as thought (See ante, p. 147). And skill obtained apart from thinking is not connected with any sense of the purposes for which it is to be used. It consequently leaves a man at the mercy of his routine habits and of the authoritative control of others, who know what they are about and who are not especially scrupulous as to their means of achievement. And information severed from thoughtful action is dead, a mind-crushing load. (p. 146)

⇒前の表現より一歩進んで、反知性的とまでデューイは表現していることに注意。(私たちにそういった認識はあるだろうか?)



■ 教育の方法の改善は、ひとえに思考にかかっている。

The sole direct path to enduring improvement in the methods of instruction and learning consists in centering upon the conditions which exact, promote, and test thinking. Thinking is the method of intelligent learning, of learning that employs and rewards mind. (pp. 146-147)

⇒最後の一文だけ翻訳:思考こそは、知的学びの方法であり、知性を使い知性に報いる学びの方法である。

⇒近年、英語教育界で流行した方法は、この原則とはずいぶんかけ離れてしまっているように思える。技能獲得と知識獲得を思考と連動させる方法について私たちは真剣に考えなければならないのではないか。







■ I: 思考は経験から始まる。(だが従来の哲学では、思考と経験は切り離されて考えられていた)

I. The initial stage of that developing experience which is called thinking is experience. This remark may sound like a silly truism. It ought to be one; but unfortunately it is not. On the contrary, thinking is often regarded both in philosophic theory and in educational practice as something cut off from experience, and capable of being cultivated in isolation. In fact, the inherent limitations of experience are often urged as the sufficient ground for attention to thinking. Experience is then thought to be confined to the senses and appetites; to a mere material world, while thinking proceeds from a higher faculty (of reason), and is occupied with spiritual or at least literary things. (p. 147)

⇒たしかに反知性的な態度と共に「君も、経験すればわかるよ」としか言わない人もいるが、このような人のいう「経験」は思考との結びつきが弱いようにも思わる。

逆に、「考えろ」と言われると妙にしゃちこばってしまい、本から覚えただけの学術用語を振り回す人もいるが、そのような人にも知性は感じられない。

「現場の経験から考える」ことができるという当たり前のことが、知性にとって重要なのだが、その当たり前のことを教員養成課程では十分に指導しているだろうか。


「考える」こと、特に「現場で考える」ことについては以下の三つのエッセイを読んでほしい。

栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/2012.html

実践者として現場で考えるための方法論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html

想像力と論理力の統合としての思考力について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_2.html


■ しかしもちろん経験も、最初は試行錯誤から始まる。

But the first stage of contact with any new material, at whatever age of maturity, must inevitably be of the trial and error sort. An individual must actually try, in play or work, to do something with material in carrying out his own impulsive activity, and then note the interaction of his energy and that of the material employed. This is what happens when a child at first begins to build with blocks, and it is equally what happens when a scientific man in his laboratory begins to experiment with unfamiliar objects. (pp. 147-148)

⇒私は「手で考える」という表現が好きだが、まずはモノを手にとって、いろいろといじくるうちに考え始めるというのは、確かに、遊びにおいても仕事においても、知性の始まりだろう。しかし、現在、そのような遊びは十分になされているだろうか。昔の徒弟制を無批判的に礼賛はしないが、仕事においても、マニュアルを与えて試行錯誤抜きにいきなり完成品を求めるようなやり方ばかりになっていないか。

以下の本は、私がもう20年近く魅了されている本で、いつかきちんとまとめようと思っているが、なかなかその時間がない。現場の知性(そして机上の学問の薄っぺらさ)を理解するためには素晴らしい本なので、ぜひ機会を作って読んで下さい。(ちなみに私は西岡常一さんの著作やDVDはおそらくすべて所有して心の糧にしています)。







■ 学校の勉強も、日常生活での思考や振り返りや行動と結びついてはじめて学びとなる。

To realize what an experience, or empirical situation, means, we have to call to mind the sort of situation that presents itself outside of school; the sort of occupations that interest and engage activity in ordinary life. And careful inspection of methods which are permanently successful in formal education, whether in arithmetic or learning to read, or studying geography, or learning physics or a foreign language, will reveal that they depend for their efficiency upon the fact that they go back to the type of the situation which causes reflection out of school in ordinary life. They give the pupils something to do, not something to learn; and the doing is of such a nature as to demand thinking, or the intentional noting of connections; learning naturally results. (p. 148)

⇒これまでの授業でも、どう英語科の授業内容を、学習者の日常生活と結びつけるかということを討議してきたが、これからも考え続けたい(英語が苦手な学習者にも、日常よく見かけるアルファベット標記やカタカナ英語から、英語授業を、学習者が生きることと結びつけることは可能だと私は考える)。


実践してみる場所・機会がないままに私が温めているアイデアで、なおかつ、ここの議論の流れと直結しているわけではないので恐縮なのだが、アルファベットが書けない学習者に対しても、上記のように生活の中にあるアルファベットや、下の図のように色彩やフォントの力を借りたアルファベットを使って、学習者の感性に訴えながら知性を育てる教育はできないものだろうか?






■ 単にいつもやっていることや、急に思いついたことでなく、学習者に新しさ(ということは不確実性と問題性)を提示するような状況を教師は提供しなければならない。

That the situation should be of such a nature as to arouse thinking means of course that it should suggest something to do which is not either routine or capricious -- something, in other words, presenting what is new (and hence uncertain or problematic) and yet sufficiently connected with existing habits to call out an effective response. An effective response means one which accomplishes a perceptible result, in distinction from a purely haphazard activity, where the consequences cannot be mentally connected with what is done. The most significant question which can be asked, accordingly, about any situation or experience proposed to induce learning is what quality of problem it involves. (p. 148)

⇒学習者が思わず「えっ、どうしたらいいんだろう」と考えてしまうような課題を作り出すことが教育の方法論の中核にある。そのためには、日頃から生徒の思考様式を観察しておくことが必要になるだろう。生徒を見ずに教育書ばかり読んでいてもよい教師にはなれない。

個人的には、問題の「質」 (quality of problem) という表現がやはり気にかかった。私たちはもっと、量に還元しがたく、身体ごと感じるしかない質(クオリティ)というものを大切にしないといけないのではないか。



■ 従来の教育方法でも、問題や課題をきちんと提示しているではないかと思うかもしれないが、生徒にとって真正な問題や課題と、擬似的な問題や課題を区別するために、以下に続く問いに即して考えてゆこう。

At first thought, it might seem as if usual school methods measured well up to the standard here set. The giving of problems, the putting of questions, the assigning of tasks, the magnifying of difficulties, is a large part of school work. But it is indispensable to discriminate between genuine and simulated or mock problems. The following questions may aid in making such discrimination. (p. 148)

⇒確かに一見、「問題」や「課題」に見えながらも、学習者の心身に何のワクワク感も目を覚ますような驚きや心地良い困惑も感じさせないものはある。



■ (a) それは実は問題ではないのではないか?教師が授業のためだけに作り上げた問題であり、日常生活では見当たらないようなものではないか?

(a) Is there anything but a problem? Does the question naturally suggest itself within some situation or personal experience? Or is it an aloof thing, a problem only for the purposes of conveying instruction in some school topic? Is it the sort of trying that would arouse observation and engage experimentation outside of school? (pp. 148-149)

⇒先日ある中学校の授業で、「比較級、最上級、同等比較を使って、英語の文章を書いてみよう」という「課題」が与えられたが、私はその課題に何のリアリティも感じられなかった。

私なら例えば、次のように指示を出すかもしれない。

「みんないろいろな自慢をしてみよう。一つ目の自慢は「絶対自慢」― あなたが絶対の自信をもって「これは、誰・何よりも○○や」と言える自慢 [=要は、最上級を使う表現]。二つ目の自慢は、「ドヤ顔自慢」 ―「これは、こいつよりは○○だぞ」という自慢 [=比較級]。そして最後は、「謙虚な自慢」 ― 「これは、少なくともこれと同じぐらいは○○だけど」 [=同等比較]。さあ、自慢したいものを考えて、それぞれの自慢の方法で表現してみて。表現したいけど知らないことばがあったら教えるから手を上げてね」


ほんのわずかの差かもしれないが、このように指示することによって、多少なりとも英語表現と日常生活の認識が噛み合わないだろうか。



■ (b) 本当に学習者にとっての問題であるか?教師が評価を提出しなくてはならないから出しているだけの問題ではないのか?言い換えるなら、学習者にとって内的な問題か、それとも外的な問題か?

(b) Is it the pupil's own problem, or is it the teacher's or textbook's problem, made a problem for the pupil only because he cannot get the required mark or be promoted or win the teacher's approval, unless he deals with it? Obviously, these two questions overlap. They are two ways of getting at the same point: Is the experience a personal thing of such a nature as inherently to stimulate and direct observation of the connections involved, and to lead to inference and its testing? Or is it imposed from without, and is the pupil's problem simply to meet the external requirement? (p. 149)

⇒これに関しては毎日新聞(2013年12月3日)に掲載された青木保氏(国立新美術館長、文化人類学者)のエッセイ「世界をタフに生き抜くために」の一部が印象的だったので、ここに引用する(引用部分は冒頭箇所で、エッセイはその後一捻りがあるのだが、それはまた別の話として)。

「成長の限界」が指摘されて久しい。それにもかかわらず「生産性第一」と「効率性第一」は21世紀のいまも人間の世界を支配し続ける。その様は生産性と効率性の暴虐と感じられることがある。

人がたとえ一時でも心や精神を慰め、日常の喧騒から解放され、人間存在の深さ、美しさに思いを凝らし、さらには何らかの創造的なヒントを得る契機ともなりうる文化の鑑賞やその施設の維持に対しても、生産性と効率性の暴虐が、「評価」「査定」という大義名分によって遺憾なく発揮されるのが現実なのだ。人間の精神や心を数量的基準によって「査定」する。この人間を退廃の極地に追い込もうとする「成長」の論理の限界は、もはや耐え切れないところまできているといってよいのではなかろうか。


英語教育で行われている「評価」のかなりの部分は、本当に学習者のための評価になっているのだろうかと私はかねがね疑問に思っている。多くの「評価」は、教師が行政者から命ぜられて、外向けに行われている「査定」に過ぎないのではないか。少し別の言い方をすると、そんな「評価」は、学習者にとって内的必然性がない(=学習者がその評価の必要性を感じていない)だけでなく、教師にとっても内的必然性がない(=教師も実はそんな評価は特にやる必要がないと思っている)ものではないか--この場合、もちろん、教師が査定という小権力行使を喜ぶ、他に楽しみのない俗悪な人間ではなく、純粋に学習者のことを考えているというのがここでの前提だけど。



■ 子どもは生来好奇心旺盛のはずだが、学校の中ではいつしか好奇心を失ってしまう。このことは、学校が、いかに自然と問題に出くわす経験を与えていないかということを示している。

No one has ever explained why children are so full of questions outside of the school (so that they pester grown-up persons if they get any encouragement), and the conspicuous absence of display of curiosity about the subject matter of school lessons. Reflection on this striking contrast will throw light upon the question of how far customary school conditions supply a context of experience in which problems naturally suggest themselves. No amount of improvement in the personal technique of the instructor will wholly remedy this state of things. There must be more actual material, more stuff, more appliances, and more opportunities for doing things, before the gap can be overcome. And where children are engaged in doing things and in discussing what arises in the course of their doing, it is found, even with comparatively indifferent modes of instruction, that children's inquiries are spontaneous and numerous, and the proposals of solution advanced, varied, and ingenious. (pp. 149-150)

⇒事態を改善させるためには、「もっと何かを行うための教材・教具・道具・機会がなくてはならない」(There must be more actual material, more stuff, more appliances, and more opportunities for doing things)としている。

最近の英語教育の方法論は、教師個人の力量ばかりに集中し、このように具体的な教材・教具・道具・機会が潤沢にあることを軽視していないか?(実際、優れた先生の授業を見学に行ったりすると、しばしば信頼と交渉で勝ち取った「英語教室」で、学習者を英語の学びに仕向ける潤沢な環境を整備していることが多い。この環境整備も、教育方法あるいは教師の力量の一部と言うべきではないか。(私たちは、能力をとかく個人の皮膚(あるいは頭蓋骨)の内だけに帰属させようとする傾向がある)。



■ 生徒にとっての「問題」は、教師の要求をみたすことだけになり、教師が何を求め、どうしたら教師を満足させることができるかだけを考えるようになる。知らない間に学習者の学びの対象は、学校システムの慣行や基準、そして権威となってしまう。

As a consequence of the absence of the materials and occupations which generate real problems, the pupil's problems are not his; or, rather, they are his only as a pupil, not as a human being. Hence the lamentable waste in carrying over such expertness as is achieved in dealing with them to the affairs of life beyond the schoolroom. A pupil has a problem, but it is the problem of meeting the peculiar requirements set by the teacher. His problem becomes that of finding out what the teacher wants, what will satisfy the teacher in recitation and examination and outward deportment. Relationship to subject matter is no longer direct. The occasions and material of thought are not found in the arithmetic or the history or geography itself, but in skillfully adapting that material to the teacher's requirements. The pupil studies, but unconsciously to himself the objects of his study are the conventions and standards of the school system and school authority, not the nominal "studies." The thinking thus evoked is artificially one-sided at the best. At its worst, the problem of the pupil is not how to meet the requirements of school life, but how to seem to meet them?or, how to come near enough to meeting them to slide along without an undue amount of friction. (p. 150)

⇒日本の学校でも、このような現状が多いと考えるが、実際のところどうだろう?このように育てられた「良い子」あるいは「学校秀才」は、人の目ばかりを気にして、その場で何が求められているかを察知することは得意だが、誰も答えがわからない(というより、何が問うべき問いであるかすらわからない)状況では、まったく役立たずであるというのが定番の批判だが、その批判はやはりあたっているのだろうか?

以下は、3.11の直後のある記事で私が引用した内田樹先生の文章の一部だが、この批判は上でデューイが述べているような教育で育てられた「学校秀才」なのだろうか?

 けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。(中略)  

 日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。
http://www.chuokoron.jp/2011/04/post_72_3.html








■ II: 自ずと生じた困難に対応するためには、データが必要だ。先進的な教育方法を提唱している教師の中には、あたかも子どもは自分の頭の中だけから解決法を見出すことができるかのように言う者もいるが、それは間違い。

II. There must be data at command to supply the considerations required in dealing with the specific difficulty which has presented itself. Teachers following a "developing" method sometimes tell children to think things out for themselves as if they could spin them out of their own heads. (p. 150)

⇒確かに、考える素材も何もないところで、「考えろ」と言われても困るだけ。



■ 考えるための材料は、経験。

The material of thinking is not thoughts, but actions, facts, events, and the relations of things. In other words, to think effectively one must have had, or now have, experiences which will furnish him resources for coping with the difficulty at hand. (pp. 150-151)

⇒全訳

考えるための材料は思考ではなく、行為、事実、出来事、物事の関係である。言い換えるなら、効果的に考えるためには、目の前にある困難に対応するための資源となる経験を過去に有しているか、現在有していなければならない。



■ 学校には学習者に与えられる情報が多すぎるとも言えるし、少なすぎるとも言える。

There is no inconsistency in saying that in schools there is usually both too much and too little information supplied by others. (p. 152)



■ 暗記課題や試験問題で再生されるべき情報はありすぎる。知識は、さらなる探究のために必要とされるものに過ぎないのに、学校ではしばしば知識自体が到達点だとみなされている。このように静的な知識観が、考えることを抑圧してしまう。

The accumulation and acquisition of information for purposes of reproduction in recitation and examination is made too much of. "Knowledge," in the sense of information, means the working capital, the indispensable resources, of further inquiry; of finding out, or learning, more things. Frequently it is treated as an end itself, and then the goal becomes to heap it up and display it when called for. This static, cold-storage ideal of knowledge is inimical to educative development. It not only lets occasions for thinking go unused, but it swamps thinking. No one could construct a house on ground cluttered with miscellaneous junk. Pupils who have stored their "minds" with all kinds of material which they have never put to intellectual uses are sure to be hampered when they try to think. They have no practice in selecting what is appropriate, and no criterion to go by; everything is on the same dead static level. (p. 152)

⇒デューイが100年前に言っているこの批判は、市井の人々ならおそらく誰でも頷くものだろうが、なぜこの批判を受けて学校教育が一向に変わろうとしないのか。

私たちには、学校教育のシステムについて(再)分析が必要ではないか。こういった批判が出る度に「いやぁ、まったくデューイ先生の言うとおりです。知識至上主義でなく、考えることを大切にする授業をしましょう」と言ってきた教師は、数多くいるはずだ。そんな反省の弁にもかかわらず、学校教育が変わっていないという事実を受けて、私たちは学校教育システムの何が、知識至上主義を維持し促進しているかもしれないことを考える必要があるのではないか。



■ 他方で、学習者が問題解決の経験のために使える情報が学校にふんだんにあるとは言い難い。

On the other hand, it is quite open to question whether, if information actually functioned in experience through use in application to the student's own purposes, there would not be need of more varied resources in books, pictures, and talks than are usually at command. (p. 152)

⇒情報革命で情報供給のあり方はどんどん変わっているが、学校はその変化をうまく使いこなしているだろうか?(先日、一年生の声を集めたら、中高の情報教育のほとんどは「ネットはあぶない」といった抑制的なものだったという声が多かった)。







■ III: 思考にはデータが必要だが、他方でアイデア(思いつき)が必要。既知のデータに加えて、未知への推論があってはじめて思考と言える。

III. The correlate in thinking of facts, data, knowledge already acquired, is suggestions, inferences, conjectured meanings, suppositions, tentative explanations: -- ideas, in short. Careful observation and recollection determine what is given, what is already there, and hence assured. They cannot furnish what is lacking. They define, clarify, and locate the question; they cannot supply its answer. Projection, invention, ingenuity, devising come in for that purpose. The data arouse suggestions, and only by reference to the specific data can we pass upon the appropriateness of the suggestions. But the suggestions run beyond what is, as yet, actually given in experience. They forecast possible results, things to do, not facts (things already done). Inference is always an invasion of the unknown, a leap from the known. (p. 152)

⇒"Idea"ということばは、これまでだいたい「観念」と訳してきたが、ここでは「アイデア(思いつき)」とした。



■ この意味で、考え(=物事が示唆しているが明示しているわけではないもの)は、創造的である。考えとは、新たなものへの侵入であり、独創を伴うものである。

In this sense, a thought (what a thing suggests but is not as it is presented) is creative,-- an incursion into the novel. It involves some inventiveness.

⇒"A thought"には不定冠詞がついているので「考え」と訳したが、この語は"an idea"と同意語だと考えられる。



■ ニュートンが重力の法則を考えた時に、彼は他の人が手にしていない新しいデータをもっていたわけではなかった。

When Newton thought of his theory of gravitation, the creative aspect of his thought was not found in its materials. They were familiar; many of them commonplaces -- sun, moon, planets, weight, distance, mass, square of numbers. These were not original ideas; they were established facts. His originality lay in the use to which these familiar acquaintances were put by introduction into an unfamiliar context. (p. 153)

⇒最後の一文を翻訳

ニュートンの独創性は、既知を、未知の背景に当てはめて使ってみるという、既知の使い方にあった。



■ 他の科学的発見も同じで、既知の事柄を、これまで誰も試したことがないやり方で考えるのが科学的発見につながる。

The same is true of every striking scientific discovery, every great invention, every admirable artistic production. Only silly folk identify creative originality with the extraordinary and fanciful; others recognize that its measure lies in putting everyday things to uses which had not occurred to others. The operation is novel, not the materials out of which it is constructed. (p. 153)

⇒最後の2文を翻訳。

愚か者だけが、創造的独創性とは、非凡や奇想であると考える。愚かでない者は、創造的独創性を生み出す手段とは、日常の事柄を、他の人が思いついたことのないやり方で使ってみることであることを認識している。頭の使い方(作動)は新たなものだが、その材料は新たなものではない。

⇒本当に頭がいい人は、誰もが見ている事柄から、誰もが気づかなかった原理・原則・法則を見出すことができる人。他人が知らない最新知識を誇らしげに語る人は、往々にして、思考力のない単なる知識の収集家。単なる知識の収集家は、知識を実生活でまともに活かすことが活かすことができないので、しばしば無学だけれど現実生活で鍛えられた人よりも頭が悪いようにしか見えない。



■ ここから生じる教育的な結論というのは、すべての思考は、これまで理解されていなかったことを新たな状況に投射するという点で、独創的であるということである。仮に、周りの者が既にその考えを知っていたとしても、考えている本人にとって、思考とは発見であり創造である。

The educational conclusion which follows is that all thinking is original in a projection of considerations which have not been previously apprehended. The child of three who discovers what can be done with blocks, or of six who finds out what he can make by putting five cents and five cents together, is really a discoverer, even though everybody else in the world knows it. There is a genuine increment of experience; not another item mechanically added on, but enrichment by a new quality. The charm which the spontaneity of little children has for sympathetic observers is due to perception of this intellectual originality. The joy which children themselves experience is the joy of intellectual constructiveness -- of creativeness, if the word may be used without misunderstanding. (p. 153)

⇒しかし実際には、「そんなこと、いちいち学習者に考えさせないで、早く答えを言えばいいだろう」と思う教師は多いし、そのような教師に教育を受けた学習者も、考えるという発見の喜びを知らないまま、使えない知識を蓄えることばかりを誇るようになる。



■ 思考とは、物のように人から人へと移送できるものではない。

It is that no thought, no idea, can possibly be conveyed as an idea from one person to another. When it is told, it is, to the one to whom it is told, another given fact, not an idea. (p. 153)

⇒全訳

どんな思考も、どんな思いつきも、ある人から他の人へと移送できるものではない。もしそれが語られたとしたら、それは語られた人につけ加えられた事実であり、思いつきではない。

⇒別の言い方を大胆に導入するなら、思考・考えること・思いつくことは、知性の作動 (operation) であり、知性にとっての対象物 (object) ではない。



■ コミュニケーションは人に思考を促進することも抑圧することもできるが、人に思考を直接与えることはできない。

The communication may stimulate the other person to realize the question for himself and to think out a like idea, or it may smother his intellectual interest and suppress his dawning effort at thought. But what he directly gets cannot be an idea. Only by wrestling with the conditions of the problem at first hand, seeking and finding his own way out, does he think. When the parent or teacher has provided the conditions which stimulate thinking and has taken a sympathetic attitude toward the activities of the learner by entering into a common or conjoint experience, all has been done which a second party can do to instigate learning. (pp. 153-154)

⇒教育者が学習者になしうることは、間接的なことでしかないことを述べるために重要な論点なので翻訳。

コミュニケーションによって、他人に問題を実感させ似たような考えを思いつかせることもできるし、その人の知的興味を削ぎ芽生え始めた思考を抑圧することもできる。しかし、その人が直接に得るのは決して思考ではない。自分でじかに問題の条件と格闘し自分なりの解決法を探し出してこそ、人は思考できるのだ。親や教師が、学習者に思考を促進する条件を与え、学習者と共同的・協働的に経験を共にしながら学習者の活動に対して共感的な態度を取ったなら、学びを開始させるために親や教師が第二者としてできることはすべてやり終えたのだ。

⇒しかし、現実は、教師は「第二者」という隣人としてでなく、むしろ、「第一者」である学習者当人が自分自身で経験し考え理解すべきことを、あれこれと当人に代わって行い説明し解説してしまっているのではないか。その結果、学習者は当座はそれなりに目標行動ができるようになっても、それが身についていないため、すぐにそれを忘れてしまっているのではないか。

デューイの考えなら、親や教師がなすべきことは、子どもが自ら問題に遭遇しそれに対処できるような適切な環境を整備し、そこで子どもが問題に取り組むことを共感的に見守ること(そして必要に応じて最小限の示唆を与えること)、となる。

だが、実はそのように環境を適切に整備し子どもを見守ることの方が、子どもに成り代わり何もかもやってしまうことより、はるかに困難。環境を適切に整備するためには、問題の性質を十二分に理解した上で、その時々の子どもの(知的・心理的)状態をわきまえていなければならないし、子どもを見守るためには子どもの僅かな変化を見落とさずに環境を微調整しつつ子どもの発達を待つ知的忍耐が必要。時には「あぁ、自分でやってみせた方が早い!」と思いつつ、「急がばまわれ」と自分に言い聞かせ、環境整備と子どもへの信頼だけに専念することが必要かもしれない。



■ 教師は子どもを観察し、子どもの事実に即して考え、教師として子どもから学ばなければならない。

The rest lies with the one directly concerned. If he cannot devise his own solution (not of course in isolation, but in correspondence with the teacher and other pupils) and find his own way out he will not learn, not even if he can recite some correct answer with one hundred per cent accuracy. We can and do supply ready-made "ideas" by the thousand; we do not usually take much pains to see that the one learning engages in significant situations where his own activities generate, support, and clinch ideas -- that is, perceived meanings or connections. This does not mean that the teacher is to stand off and look on; the alternative to furnishing ready-made subject matter and listening to the accuracy with which it is reproduced is not quiescence, but participation, sharing, in an activity. In such shared activity, the teacher is a learner, and the learner is, without knowing it, a teacher -- and upon the whole, the less consciousness there is, on either side, of either giving or receiving instruction, the better. (p. 154)

⇒前の箇所に続くところで、ここも全訳。

残りは、問題に直接関わっている学習者がすることだ。学習者が自分自身の解決法を生み出せず(といっても学習者は一人だけで解決法を生み出すのではなく、教師や他の学習者とのやり取りの中で生み出す)自分なりのやり方を見いだせなかったら、たとえ、学習者がある正答を100%の正確さで再生できても、学びは成立していない。私たちは何千もの既成の「アイデア」を子どもに与えることができるし、実際に与えてもいる。私たちは普通、意味ある状況で学びが成立しており、学習者自身の活動がアイデア ―つまりは知覚された意味やつながり― を生み出し、維持し、確かなものにしているかを苦労して見守ろうとしない。だからといって、教師は離れて立って傍観していればいいということではない。既成の教科内容を与えそれが再生される正確さをチェックすることの代わりにやることとは、不作為ではなく、活動への参加であり活動の共有である。共有された活動において、教師は学習者であり、学習者は、自分では気づかないが、教師である ― 概して言うなら、教師と学習者のどちらの側にも教示を与えているとか受けているとかいった意識がなければないほど、よい。

⇒教師は環境を整備し学習者を見守る時に、個々の学習者はいかに学ぶかということを個々の学習者に教えてもらっている(もちろん学習者の学びには、多くの学習者に共通することもあれば、一部の学習者だけに当てはまることも、個々人で違うこともあるだろう)。その意味で、教師は学習者であり、学習者は教師である。

教師が整備した環境で、学習者がいろいろと試行錯誤しながら考え、他人と協働している時は、特段、学習者が教師に、また教師が学習者に、何かを教えているようには思えないかもしれないが、そのように学習者が問題に集中している時、学習者はもっともよく学ぶし、教師も学習者からもっともよく学んでいる。

以下は、私が10年前にある雑誌のために書いたエッセイの一部です。その当時、尾道市土堂小学校に校長として勤務しておられた陰山英男先生の様子を見ていて考えたことを書きました。

だが雑誌『プレジデント』(2003年12月15日号)のインタビューに答えて陰山先生はこう言う。「"陰山メソッド"なんてマスコミは言うけど、私が考えだしたことなんか、一つもないってことを、もっと強調しなきゃあ。陰山メソッドさえやれば子どもが無条件に伸びるなんて、ほんと大きな誤解ですよ」。「要は、どれもこれも、私の中では単なる方法、単なる手法にすぎないんです。子どもたちが伸びるためなら、何でもする。面白そうな手法があれば、まずは試してみる。それを愚直に実践するだけなんです。百ますだって、私自身のやってきたことの中では、50分の1くらいの感覚なんです」。陰山先生に教育のあり方・ノウハウを教えているのは子どもたちだ、というわけである。

 この態度は、授業名人の英語教師にも見られる。富山県の中嶋洋一先生はこう言う。「授業がおもしろくなったのは私の力ではありません。緻密なのは私の性格ではありません。みな子どもたちが教えてくれたのです。私が今あるのはみな彼らのおかげです。本当に感謝しています」(『学習集団をエンパワーする30の技』明治図書)。島根県の田尻悟郎先生も同じようなことを言っていた。「目の前の生徒の疑問にどう答えるか、彼らの意欲をどう引き出し、社会でたくましく生きていける力をつけるかということばかり考えています」。なるほど、子どもの事実こそが教師の教師だったのだ。  



誰でも見ているはずの現象から、誰も考えつかなかった自然法則を見出したニュートンのように、優れた教師は、どんな教師の網膜にも映っているはずの子どもの姿に、凡人が思いもつかなかった結びつきを見い出す。やはり、感性と思考力が重要。







■ IV: アイデアとは、解決の予期であり、活動とその結果の予期である。アイデアに基づいて行動してみてアイデアは真価が試される。アイデアによって観察・想起・実験が導かれる。アイデアとは学びの中間点であり到達点である。

IV. Ideas, as we have seen, whether they be humble guesses or dignified theories, are anticipations of possible solutions. They are anticipations of some continuity or connection of an activity and a consequence which has not as yet shown itself. They are therefore tested by the operation of acting upon them. They are to guide and organize further observations, recollections, and experiments. They are intermediate in learning, not final. (p. 154)

⇒アイデアあるいは仮説は立てただけではなく、実際にアイデア・仮説に即して行動を起こして、その結果からアイデア・仮説を検証したり修正したり棄却できないと学んだことにはならない。

考えてみれば、マニュアルなどなかった昔は、人はほとんどの事柄において、このように現実経験に即して知性を高め行動力をつけていった。そんな市井の人々は、現実経験抜きの虚学で学歴を取り現実対応力のないままに威張り散らしている人よりもはるかに賢く、そのような人を「学問をした馬鹿」と呼んでいた。

いつもの安っぽい言い方になるけど、表面的な学習効率ばかりを考え、学習者を単なる既成の正答の再生マシーンにしたてるような教育方法の「進歩」は、私たちをますます愚かにしているのではないか。

幕末から明治の日本人に比べ、21世紀の日本人ははるかに多くの情報・既成の知識をもっているはずだが、果たして現在の私たちは、当時の日本人のように大胆に社会を変革し構築できるだけの知性をもっているのか。



■ 思考とは未完成で暫定的な示唆であり、今経験している状況に対応するための一つの立場・方法に過ぎない。思考は、実際の状況で試されてはじめて意味とリアリティをもつ。

As we have already seen, thoughts just as thoughts are incomplete. At best they are tentative; they are suggestions, indications. They are standpoints and methods for dealing with situations of experience. Till they are applied in these situations they lack full point and reality. Only application tests them, and only testing confers full meaning and a sense of their reality. (p. 150)

⇒「紺屋の白袴」や「医者の不養生」という表現もあるけど、私も含めて大学で偉そうに教育について語っている人間は、まずもってその語っていることを自ら実践し自ら試されなければならない。試してうまくいかずいろいろと試行錯誤し思案することは、かっこいいことではないかもしれないが、恥ずかしいことではない。逆に、試そうとせずに「いやぁ、私は理論を語っているだけですから」としらを切るのは卑劣で破廉恥(自戒を込めて)。

本当にすごい先生は、どこにでも行って出張授業をする。例えば田尻悟郎先生。「いやぁ、うちの高校では理想の授業なんて到底できませんよ」と授業改革を拒む教師がいれば、その人の高校に出かけてそこで、その教師が使っている教科書を使って素晴らしい出前授業をしてみせる(ちなみに田尻先生は中学校経験は長いけど、正式に高校で教えたことはないはず)。初対面の高校生ともすぐに良好な関係を作り、普段は英語嫌いな生徒も前を向く。

これはすごい。どうして日頃接していない高校生の実態に即した授業を展開することができるんだろう。この観察力と行動と結びついた思考力! ― もう、脱毛。・・・じゃなかった、脱帽(笑)。



■ 学校の教科内容には、それ特有の奇妙で人工的な「リアリティ」がまとわりついている。実生活で感じるようなリアリティではないが、暗記して試験問題を解かなくてはならないというリアリティを生徒は覚える。かといってこの学校的リアリティで、日常生活が豊かになるわけではない。それどころか、中途半端な理解のままに知識内容を扱うことに慣れてしまうと、生徒の考える力が弱まってしまう。

there can be no doubt that a peculiar artificiality attaches to much of what is learned in schools. It can hardly be said that many students consciously think of the subject matter as unreal; but it assuredly does not possess for them the kind of reality which the subject matter of their vital experiences possesses. They learn not to expect that sort of reality of it; they become habituated to treating it as having reality for the purposes of recitations, lessons, and examinations. That it should remain inert for the experiences of daily life is more or less a matter of course. The bad effects are twofold. Ordinary experience does not receive the enrichment which it should; it is not fertilized by school learning. And the attitudes which spring from getting used to and accepting half-understood and ill-digested material weaken vigor and efficiency of thought. (p. 155)

⇒繰り返すが、どうして100年も前に言われているこういった批判が、現代にも当てはまるのだろう(いや現代にこそますます当てはまっている、と言うべきだろうか)。教育学・教師教育・教員養成は、この100年間何をしていたのだろう?決してサボっていたわけではないだろう(少なくとも形式的には研究紀要論文は昔よりはるかに量産されている)。となれば、現代の私たちが「教育学・教師教育・教員養成」と思い込んでいる枠組みに、どこか根本的な誤りがあるのではないか(そして前にも述べたように、学校教育システム ―おそらくは試験制度― に根本的な歪みがあるのではないか)。



■ 教室での教示の三類型

Classroom instruction falls into three kinds. (p. 157)

■ 一番悪いのが、授業が、その科目の前後の授業とも、他の科目の授業ともつながりがないように進められるタイプの授業。

The least desirable treats each lesson as an independent whole. It does not put upon the student the responsibility of finding points of contact between it and other lessons in the same subject, or other subjects of study.

⇒前の授業内容とのつながりを簡単に述べる教師は多いが、上に書いているように、そのつながりを生徒に考えさせる教師は多くはないだろう。ましてや、他の科目の授業とのつながりを考えさせる教師は少ない(というより、他の教科内容に興味をもっている教師が少ない)。また、授業に慣れていない新人教師は、1時間の中の諸活動にもつながりがない授業をしてしまいがち。

参考記事:和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html



■ 少しマシなのは、授業の前後のつながりはわかるが、授業が学校教科としてしか認識されておらず、学習者の実生活に結びついておらず、学校教育を受けることで学習者が実生活を豊かに生きることまでは至っていない。

Wiser teachers see to it that the student is systematically led to utilize his earlier lessons to help understand the present one, and also to use the present to throw additional light upon what has already been acquired. Results are better, but school subject matter is still isolated. Save by accident, out-of-school experience is left in its crude and comparatively irreflective state. It is not subject to the refining and expanding influences of the more accurate and comprehensive material of direct instruction. The latter is not motivated and impregnated with a sense of reality by being intermingled with the realities of everyday life. (p. 157)

⇒「授業がうまい先生」も多くはこのレベルか?



■ もっともよい授業は、学校教科と実生活の結びつきに影響を与え、学習者が常に両者に共通する点を探そうとするようになる授業。

The best type of teaching bears in mind the desirability of affecting this interconnection. It puts the student in the habitual attitude of finding points of contact and mutual bearings. (p. 157)

⇒(決して、授業中に教科内容とは関係のない人生訓を脱線話としてよく語ってくれるという意味でなく)「○○先生には、△△(=教科名)を教えてもらっただけでなく、人生の生き方も教えてもらっています」と生徒に言われたり、「社会に出てから△△の知識を使う機会は実はまったくないないのですが、先生が教えてくださったことは、私の仕事や人生の隅々に生きています」と卒業生に言われたりする教師がこのレベルの授業をしているということか。さらに安っぽい言い方をすると、こういう教師は進路実績などの記録を残す以上に、生徒の人生に深い記憶を残す。







要約 (Summmary)

Processes of instruction are unified in the degree in which they center in the production of good habits of thinking. While we may speak, without error, of the method of thought, the important thing is that thinking is the method of an educative experience. The essentials of method are therefore identical with the essentials of reflection. They are first that the pupil have a genuine situation of experience -- that there be a continuous activity in which he is interested for its own sake; secondly, that a genuine problem develop within this situation as a stimulus to thought; third, that he possess the information and make the observations needed to deal with it; fourth, that suggested solutions occur to him which he shall be responsible for developing in an orderly way; fifth, that he have opportunity and occasion to test his ideas by application, to make their meaning clear and to discover for himself their validity. (p. 157)



⇒さらに短くまとめると次のようになる。

考えることが教育的経験 (educative experience) の方法であり、その本質は振り返り (reflection) と同じ。学習者は、(1) ある状況の中で純粋に興味のある活動を行う。 (2) 問題が生じ思考が刺激される。(3) 情報を集め観察をする。(4) 考えが浮かび、それを試してみようと思う。(5) 実際に自分の考えが意味あり妥当なものだったかを試す。







"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html








2013年11月26日火曜日

Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)





[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0011




なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。











第11章: 経験と思考
Chapter Eleven: Experience and Thinking




1. 経験の性質 (The Nature of Experience)



■ 経験には能動的 (active) な要素(試みること trying)と受動的 (passive) な要素(受け入れること undergoing)がある。

The nature of experience can be understood only by noting that it includes an active and a passive element peculiarly combined. On the active hand, experience is trying -- a meaning which is made explicit in the connected term experiment. On the passive, it is undergoing. When we experience something we act upon it, we do something with it; then we suffer or undergo the consequences. We do something to the thing and then it does something to us in return: such is the peculiar combination. (p. 133)

⇒デューイは、経験の性質を、能動的な「試み」 (to try) と受動的な「受け入れ」(to undergo)の「奇妙な組み合わせ」として捉える。



■ 単なる活動は経験ではない。何かを試み、その結果を受け入れて、意義が生まれる時に経験が成立し、経験が成立することで私達は学ぶ。

Mere activity does not constitute experience. It is dispersive, centrifugal, dissipating. Experience as trying involves change, but change is meaningless transition unless it is consciously connected with the return wave of consequences which flow from it. When an activity is continued into the undergoing of consequences, when the change made by action is reflected back into a change made in us, the mere flux is loaded with significance. We learn something. (pp. 133-134)

⇒「経験」および「学び」といった重要概念がある箇所なので全訳。

単に活動するだけでは経験にならない。単なる活動は、散らばり、内から離れ、ばらばらになりがちである。「試み」としての経験には変化が伴うが、変化から生じる見返りとしての一連の結果を意識的に変化と結び付けなければ、変化も無意味なままである。活動が結果を「受け入れ」るることにつながり、行為によって生じた変化が私たちに生じた変化に反映されると、単なる流れにも意義が生まれる。それが何かを学ぶということである。



■ 経験から学ぶとは、私たちの行為と結果の関係を世界から学ぶこと。

To "learn from experience" is to make a backward and forward connection between what we do to things and what we enjoy or suffer from things in consequence. Under such conditions, doing becomes a trying; an experiment with the world to find out what it is like; the undergoing becomes instruction -- discovery of the connection of things. (p. 134)

⇒「経験から学ぶ」の説明箇所なので全訳

「経験から学ぶ」ということは、私たちが物事に対して何かをなすことと、私たちがその物事の結果を楽しむあるいは苦しむことの間に、後ろ向き・前向きのつながりを築くことである。そのような条件においては、行いは試みとなり、世界がどのようなものであるかを見出すための実験となる。受け入れは教示、つまり、物事のつながりの発見となる。



■ 教育に関連する大切なこと。(1)経験とは第一に、能動的かつ受動的な事柄、(2)経験の価値は、その経験が何と関係し何とつながるかによって決まる。

Two conclusions important for education follow. (1) Experience is primarily an active-passive affair; it is not primarily cognitive. But (2) the measure of the value of an experience lies in the perception of relationships or continuities to which it leads up. (p. 134)



■ しばしば教示 (instruction) とは、理論的な傍観者である「心」に対して行われるものだと思われている。

In schools, those under instruction are too customarily looked upon as acquiring knowledge as theoretical spectators, minds which appropriate knowledge by direct energy of intellect. (p. 134)

⇒「教示」や「心」といった重要概念が出てくるので全訳。

学校では、教示を受ける者は、あまりにもしばしば、知識を獲得する理論的傍観者、つまりは知性の直接のエネルギーを用いて知識を換骨奪胎する「心」だと思われている。

⇒"Appropriate"という用語は、Alternative Approaches to Second Language AcquisitionThe Social Turn in Second Language Acquisitionなどの議論でも頻出する語で、「借用」や「占有」などとも訳されているが、先日から私はこれは「換骨奪胎」と訳してしまった方がいいのではないかと思い始めたので、ここではその訳語を使っている。(しばらくこの訳語を使い続けて、その翻訳的適性を検討したい)



■ 学校現場では、しばしば心や意識は、心身二元論的に物理的な世界や行為から切り離されている。

Something which is called mind or consciousness is severed from the physical organs of activity. The former is then thought to be purely intellectual and cognitive; the latter to be an irrelevant and intruding physical factor. The intimate union of activity and undergoing its consequences which leads to recognition of meaning is broken; instead we have two fragments: mere bodily action on one side, and meaning directly grasped by "spiritual" activity on the other. (pp. 134-135)

⇒デューイの心身二元論批判において重要な箇所なので全訳

心や意識と呼ばれているものが、活動をなす物理的器官から切り離されてしまう。心や意識は純粋に知的で認知的なものだと考えられる。物理的器官は、心や意識に関係がないのに介入してくる物理的要因とみなされる。活動が結果の受け入れと結びつき、意味が認識されるという統合が壊され、二つの断片だけが残る。一方には単に身体的な行為があり、他方に「精神的」な活動で直接に把握される意味があるとなる。



■ 心身二元論 (dualism of mind and body) の害悪は強調してもしすぎることはない。

It would be impossible to state adequately the evil results which have flowed from this dualism of mind and body, much less to exaggerate them. Some of the more striking effects, may, however, be enumerated. (p. 135)

⇒以下、デューイは心身二元論の害悪を、(a)から(c)の三点にまとめる。

■ 心身二元論の害悪(a): 身体的活動が心的活動の邪魔者だと思われるようになる

(a) In part bodily activity becomes an intruder. Having nothing, so it is thought, to do with mental activity, it becomes a distraction, an evil to be contended with. (p. 135)

⇒「勉強に身体など関係ない」といった臆見は、現代日本でも多く見られないか。身体の活動は、勉強の邪魔であり、教室では生徒はできるだけ身体を動かさないようにしつけられていないか。教室の机や椅子も、基本的に、生徒ができるだけ動きにくいように作られていないか。(「学ぶ環境の整備」という観点から、教室の物理的条件、教室で受けている身体の拘束について考えてみよう)。



■身体が抑圧されてしまうことにより生じる害悪

The nervous strain and fatigue which result with both teacher and pupil are a necessary consequence of the abnormality of the situation in which bodily activity is divorced from the perception of meaning. Callous indifference and explosions from strain alternate. The neglected body, having no organized fruitful channels of activity, breaks forth, without knowing why or how, into meaningless boisterousness, or settles into equally meaningless fooling -- both very different from the normal play of children. Physically active children become restless and unruly; the more quiescent, so-called conscientious ones spend what energy they have in the negative task of keeping their instincts and active tendencies suppressed, instead of in a positive one of constructive planning and execution; they are thus educated not into responsibility for the significant and graceful use of bodily powers, but into an enforced duty not to give them free play. (pp. 135-136)

⇒あまりにも現代日本の多くの教室に当てはまる記述だと私は思うので、全訳。

教師にも生徒にも生じてしまう神経の緊張と疲れは、身体の活動が意味の知覚から切り離されてしまっているという状況の異常性から生じている。頑なな無関心と、緊張からの爆発が交互に生じる。活動への実り豊かな経路が何ら用意されないままに身体は無視され、わけもわからないまま、身体は意味のない暴発を起こすか、同じように意味のないごまかしに落ち着いてしまう。だが、これらは共に、子どもの普通の遊びとはかなり異なっている。身体的に活発な子は、落ち着きがなく手に負えない子とされてしまう。より静かな子、いわゆるよい子は、自分のエネルギーを、建設的な計画と実行という肯定的な課題に費やすのではなく、本能と活動的な傾向を抑圧するという否定的な課題に費やす。かくして子どもは、身体的な力を意味深く優雅に使うように教育されず、身体的な力に自由を与えてはならないという強制的な義務を教育される。



■ 心身二元論の害悪(b): 授業でも身体的活動が必要だということがわからなくなってしまう。

(b) Even, however, with respect to the lessons which have to be learned by the application of "mind," some bodily activities have to be used. (p. 136)



■ 学ぶためには、感覚器官の使い方も覚えなければならない。

The obvious result is a mechanical use of the bodily activities which (in spite of the generally obtrusive and interfering character of the body in mental action) have to be employed more or less. For the senses and muscles are used not as organic participants in having an instructive experience, but as external inlets and outlets of mind. Before the child goes to school, he learns with his hand, eye, and ear, because they are organs of the process of doing something from which meaning results. The boy flying a kite has to keep his eye on the kite, and has to note the various pressures of the string on his hand. His senses are avenues of knowledge not because external facts are somehow "conveyed" to the brain, but because they are used in doing something with a purpose. The qualities of seen and touched things have a bearing on what is done, and are alertly perceived; they have a meaning. (p. 136)

⇒最後の二文だけを訳す。

子どもの感覚器官が知識の通路であるのは、外の事実がどうにか脳に「伝えられる」からではなく、感覚器官がある目的をもった行為をする中で用いられるからである。見られ、触られた物の質は、なされたことの中味をなし、際立って知覚される。感覚の質は意味をもつのである。

⇒何でもないことのように思えるかもしれないけれど、これは実は大切なこと。だが、感覚の「質」など日頃気にしておらず、事務的にデータばかり処理している人には、この大切さはわかりにくいのではないか。

ちなみに、知性の乏しい人に知的な理解を求めることより、感性の乏しい人に感性的な体得を求めることの方が、はるかに難しい。感性の乏しい人は、対象を概念にしか求めず、概念化しがたい直感を対象とみなさないので、感性豊かな人をしばしば、言語的知性に劣る愚かでかわいそうな人とみなす。皆さんの周りには、概念や観念を言葉巧みに振り回すが、感性が恐ろしく貧困な人はいませんか?

感性をますます貧困化し、身体をますます抑圧するような教育改革を進めるような人を説得するにはどうしたらいいのだろう?



■ 心や意味と分離されて訓練され自動化された身体に、心や意味を付け加えることは困難。

But when pupils are expected to use their eyes to note the form of words, irrespective of their meaning, in order to reproduce them in spelling or reading, the resulting training is simply of isolated sense organs and muscles. It is such isolation of an act from a purpose which makes it mechanical. It is customary for teachers to urge children to read with expression, so as to bring out the meaning. But if they originally learned the sensory-motor technique of reading -- the ability to identify forms and to reproduce the sounds they stand for -- by methods which did not call for attention to meaning, a mechanical habit was established which makes it difficult to read subsequently with intelligence. The vocal organs have been trained to go their own way automatically in isolation; and meaning cannot be tied on at will. Drawing, singing, and writing may be taught in the same mechanical way; for, we repeat, any way is mechanical which narrows down the bodily activity so that a separation of body from mind -- that is, from recognition of meaning -- is set up. Mathematics, even in its higher branches, when undue emphasis is put upon the technique of calculation, and science, when laboratory exercises are given for their own sake, suffer from the same evil. (pp. 136-137)

⇒日本の英語教育の一部の「トレーニング」では、このような状況が見られると思うので全訳。

生徒が、スペリングや音読のために、意味とは無関係に単語の形に注意するように目を使うように求められる時に生じる訓練は、単に感覚器官と筋肉が分離された訓練になってしまう。このように行為が目的から切り離されるから機械的な訓練になるのである。教師はしばしば、子どもに表情をつけて音読するように求めるが、もし子どもが最初に音読の感覚-運動技法(語の形を同定して音を再生すること)を、意味に注意を向けない方法で学んでしまったなら、機械的な習慣が確立してしまい、知的な音読をすることは困難になってしまう。音声器官は意味とは切り離されて自動的に使われるように訓練されている。意味をその後に任意に付け足すことはできない。絵を描くことも歌うことも文を書くことも同じように機械的なやり方で教えられているかもしれない。というのも、繰り返すことになるが、身体的活動を狭めて、身体を心(つまり意味の認識)から分離させてしまうやり方はすべて機械的であるからだ。より高度な分野においても、数学で計算の技法が強調されすぎたり、理科で実験技法がそれだけのために与えられたりしたら、同じ害を被ることになる。

⇒私はかつて「朗読を目指す」と銘打たれた研究授業で、さんざんと単語や文を機械的にリピートし、その(身体から切り離された)「意味」を教えこまれた後に、教師が「さあ、今度は気持ちを込めてこの英文を朗読してみましょう」と言った時に、激しい違和感を覚えた。(単に、授業のやり方という点でツッコむならば、「まずは教師が、少々細部がわからなくても全体的に意味が伝わってしまうような(=聞き手の身体と心がなぜかが動いてしまうような)朗読をしろよ」となる)。どうしてこんな感覚をもっている人が「朗読」を研究授業のテーマとして選ぶのだろう、と私は結構暗い気持ちになった。

また別の授業では、マーチン・ルーサー・キングのあの有名な"I have a dream"の演説を、フレーズごとにぶつ切りして、リピートさせる授業があったが、もうこれは見ていてやるせなかった(直後にコメントする機会が与えられたので、さすがに「お願いだからそんな授業はやめてくれ。せっかくの演説を、どうしてそんなにズタズタにしてしまうのだ」、と私は言った。

どうも現代の日本の英語教育は、機械的な自動化を「トレーニング」と称して、ありがたり過ぎていないか。大修館書店の『英語教育 増刊号』の2013年度「英語教育図書:今年の収穫・厳選12冊」の記事で、私はわざわざ選ばなかった本として、あるリーディング関係の本を挙げた。業界でいい顔をしておくためには、このような批判的な見解は書かないに越したことがないのだが(英語教育界は、知的なダイナミズムよりも、相互不可侵的な惰性を重んじている)、敢えてそのような挑発的な書き方をしたのは、その本があまりに機械的な自動化訓練を強調し過ぎていたからだ。おまけに、そのようなトレーニング方法をマスターすれば、新人教師も授業の達人になれるとまで書かれては、ちょっと黙ってはおれなかった。

と、私は、現代の日本の英語教育界は、あまりにも身体と、身体から生じて身体で感じる意味を無視し抑圧していると考えていますが、みなさんはどのようにお考えですか?

そもそも「身体のどこがそんなに重要なのよ」と思う人は、ぜひ山本玲子先生(大阪国際大学)の名著『子どもの心とからだを動かす英語の授業』を読んでほしい。やさしくて深い本です。







それから近江誠先生の古い著作は、まだ中古市場で出ているようですから、英語教育の身体的側面に少しでも興味がある人はぜひ在庫があるうちにお買い求めください。(絶版になったら、手がつけられないぐらい高くなりますよ)。



■ 心身二元論の害悪(c): 知覚や観念と、判断や思考を分離したものとして考えてしまう。

(c) On the intellectual side, the separation of "mind" from direct occupation with things throws emphasis on things at the expense of relations or connections. It is altogether too common to separate perceptions and even ideas from judgments. The latter are thought to come after the former in order to compare them. It is alleged that the mind perceives things apart from relations; that it forms ideas of them in isolation from their connections -- with what goes before and comes after. Then judgment or thought is called upon to combine the separated items of "knowledge" so that their resemblance or causal connection shall be brought out. As matter of fact, every perception and every idea is a sense of the bearings, use, and cause, of a thing. We do not really know a chair or have an idea of it by inventorying and enumerating its various isolated qualities, but only by bringing these qualities into connection with something else -- the purpose which makes it a chair and not a table; or its difference from the kind of chair we are accustomed to, or the "period" which it represents, and so on. (p. 137)

⇒認知を考える上で、重要なのだけれど、上で批判したような機械的な自動化訓練を強調する人たちが依拠している情報処理的心理学的な考え方をしていると、この重要さがわかりにくいので翻訳。

(c) 知的な面でいえば、「心」を物との直接的な関わりから分離してしまうと、物事の関係やつながりを無視して物だけを強調してしまうようになる。知覚ばかりか観念でさえも判断から切り離してしまうことは、あまりにもよく見られることである。判断は、知覚や観念の後に行われるものであり、知覚や観念を比べるものだと考えられている。心は関係性を抜きにして物を知覚するのだと主張されている。心は物が、その前後で何とつながっているかということとは無関係に物の観念を形成するとされている。物の類似性や因果的つながりを明らかにするために、切り離された「知識」の項目を組み合わせるために判断や思考が要求されるとされる。だが、実際のところは、どんな感覚もどんな観念も、物の中味・使用・因果を感知することなのだ。私たちが椅子を知り、その観念を得るのは、椅子の切り離されたさまざまな性質を一覧表に並べて残らず数え上げるからではない。椅子を知るのは、椅子の性質を他のこととつなげることによってである。つまり、ある椅子を椅子として使いテーブルとしては使わないという目的、もしくはその椅子がよく見る他の椅子とは異なっているという違い、さらにはその椅子が「どの時期」の椅子かということなどなどの事柄を、椅子の性質と結びつけることによって、私たちは椅子を知るのだ。

⇒これは言語の意味を言語使用から説明するデューイやウィトゲンシュタインの意味論の一つの側面だけれど、みなさんは納得できますか?



■ 単語リストで覚える「意味」は、いわば半死状態の意味(『スルメを見てイカがわかるか! 』

Words, the counters for ideas, are, however, easily taken for ideas. And in just the degree in which mental activity is separated from active concern with the world, from doing something and connecting the doing with what is undergone, words, symbols, come to take the place of ideas. The substitution is the more subtle because some meaning is recognized. But we are very easily trained to be content with a minimum of meaning, and to fail to note how restricted is our perception of the relations which confer significance. We get so thoroughly used to a kind of pseudo-idea, a half perception, that we are not aware how half-dead our mental action is, and how much keener and more extensive our observations and ideas would be if we formed them under conditions of a vital experience which required us to use judgment: to hunt for the connections of the thing dealt with. (p. 138)

⇒単語リストを暗記するだけで、「語の意味を知った」、「語彙獲得をした」と言う人が多いので、その人達の考えを揺さぶるためにここも全訳。

単語は観念の記号なのだが、簡単に観念そのものとして捉えられてしまう。心的活動が、世界との能動的な関わりと切り離され、何かを行うことおよび行ったことと受け入れられたことを結びつけることから切り離されるのと同じ度合いにおいて、単語や記号は観念の代替手段になってしまう。代替手段でもいくらかは意味が伝わるだけに、この代替は巧妙なものになっている。しかし、私達は簡単に最低限の意味だけで満足するように訓練され、意義を生み出す関係性を私たちが知覚することが、どれだけ限定的なものかということに気づかなくなってしまう。私たちは一種の擬似観念、中途半端な知覚にまったく慣れてしまい、私たちの心的行為がどれだけ半死状態なのかわからなくなってしまう。判断とは私たちが接する物事のつながりを求めることだが、もし私たちが判断が必要とされる生き生きとした経験において観察をし観念を抱くなら、それらはどれだけ鮮明で広範囲なものになるだろうかということもわからなくなってしまう。

⇒単語リストを暗記したり辞書を読んだりすることで「意味」(あるいは単語の観念)は十分にわかると信じて疑わない人に、そういった「意味」は、干からびたスルメのようなものだということを実感してもらうにはどうしたらいいのだろう。

■ 物事と人々の間の関係性を理解することが大切だということでは皆の意見は一致しているが、関係性の理解のために経験が必要なのかどうかというところでは意見が分かれる。

There is no difference of opinion as to the theory of the matter. All authorities agree that that discernment of relationships is the genuinely intellectual matter; hence, the educative matter. The failure arises in supposing that relationships can become perceptible without experience -- without that conjoint trying and undergoing of which we have spoken. It is assumed that "mind" can grasp them if it will only give attention, and that this attention may be given at will irrespective of the situation. (p. 138)

⇒デューイがこの章で説明している「試みることと受け入れることを結びつける」という意味での「経験」なしに、「心」は物事の関係性を直接に把握できると信じる人もいる。デューイは当然そういった考えではないが、あなたは実際どちらの考えに共感を覚えますか?



■ まさに「観念的」なだけで半死・未消化状態の「知識」

Hence the deluge of half-observations, of verbal ideas, and unassimilated "knowledge" which afflicts the world. An ounce of experience is better than a ton of theory simply because it is only in experience that any theory has vital and verifiable significance. An experience, a very humble experience, is capable of generating and carrying any amount of theory (or intellectual content), but a theory apart from an experience cannot be definitely grasped even as theory. It tends to become a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible. Because of our education we use words, thinking they are ideas, to dispose of questions, the disposal being in reality simply such an obscuring of perception as prevents us from seeing any longer the difficulty. (pp. 138-139)

⇒「観念」は、現実世界との交渉抜きに、ことばの上だけで得られると信じている人は多いだろうから、ここも全訳。

かくして中途半端な観察、ことばの上だけでの観念 ―世界を悩ませるだけの未消化の「知識」― という幻想が生まれる。わずかの経験の方が、たくさんの理論よりも有益なのは、理論が生き生きとして検証可能な意義をもてるようになるのは、経験においてのみだからである。経験は、たとえわずかなりのものでも、理論(もしくは知的内容)をいくらでも生み出し、保ちつづけることができる。だが、経験から切り離された理論は、確固たる理論として認識されることすらもない。思考や純粋な理論構築を、不要かつ不可能にするために使われる、単なることばの上での公式、流行語の寄せ集めにしてしまう。私たちは教育を受けることによって単語を使うようになり、単語こそが観念だと考え、単語を問題解決のために用いるが、その場合の問題解決は、実際には、私たちが困っていることから私たちの目を逸らしてしまうような、知覚のごまかしにすぎない。

⇒「思考や純粋な理論構築を、不要かつ不可能にするために使われる、単なることばの上での公式、流行語の寄せ集め」(a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible)というのは、日本の英語教育界、いや日本の言論界には多く存在しているのではないだろうか(私はそのように思えることばが乱発される空間にいると、退屈を通り越して怒りや悲しみを覚えてしまう ←自分のことを棚に上げての発言を繰り返すんじゃねぇ!)







2. 経験の中での振り返り(Reflection in Experience)

■ 思考や振り返りは、私たちが試みてみることとその結果との間の関係を理解することである。思考の要素抜きに意味ある経験がなされることはない。

Thought or reflection, as we have already seen virtually if not explicitly, is the discernment of the relation between what we try to do and what happens in consequence. No experience having a meaning is possible without some element of thought. (p. 139)

⇒「思考」、「振り返り」、「経験」を連携させながら定義している。



■ 経験は、振り返りがどのくらい含まれるかで、二種類に分けることができる。振り返りがあまり含まれないのは「試行錯誤」タイプである。

But we may contrast two types of experience according to the proportion of reflection found in them. All our experiences have a phase of "cut and try" in them -- what psychologists call the method of trial and error. We simply do something, and when it fails, we do something else, and keep on trying till we hit upon something which works, and then we adopt that method as a rule of thumb measure in subsequent procedure. Some experiences have very little else in them than this hit and miss or succeed process. We see that a certain way of acting and a certain consequence are connected, but we do not see how they are. We do not see the details of the connection; the links are missing. Our discernment is very gross. (p. 139)

⇒これは、とりあえずやってみたらうまくいった(あるいは失敗した)というだけの経験。



■ もう一つのタイプの経験は、よく観察・分析をし、原因と結果、活動と帰結の関係をよくよく理解することにより、より正確で広範囲な見通しを得る経験。

In other cases we push our observation farther. We analyze to see just what lies between so as to bind together cause and effect, activity and consequence. This extension of our insight makes foresight more accurate and comprehensive. The action which rests simply upon the trial and error method is at the mercy of circumstances; they may change so that the act performed does not operate in the way it was expected to. But if we know in detail upon what the result depends, we can look to see whether the required conditions are there. The method extends our practical control. For if some of the conditions are missing, we may, if we know what the needed antecedents for an effect are, set to work to supply them; or, if they are such as to produce undesirable effects as well, we may eliminate some of the superfluous causes and economize effort. (p. 139)

⇒この種の経験により、人は、うまくいきそうもない例をうまくいかせることができるし、うまくいっている例もより経済的に行うことができる。



■ 単なる試行錯誤の経験も、行いとその結果の結びつきを詳細に知ることにより、思考量は増え、経験の質も変わる。この種の経験を、振り返りの最上例と呼ぶこともできるだろう。

In discovery of the detailed connections of our activities and what happens in consequence, the thought implied in cut and try experience is made explicit. Its quantity increases so that its proportionate value is very different. Hence the quality of the experience changes; the change is so significant that we may call this type of experience reflective -- that is, reflective par excellence. (p. 139)

⇒「振り返り」とは、それまであまり思考を働かせることがなかった経験に対して思考を働かせ、諸関連を見極め、そのことによって経験の質を変化させること、と言えようか。



■ 振り返りにおける思考を涵養することにより、思考は独自の経験になる。

The deliberate cultivation of this phase of thought constitutes thinking as a distinctive experience. Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous. Their isolation, and consequently their purely arbitrary going together, is canceled; a unified developing situation takes its place. The occurrence is now understood; it is explained; it is reasonable, as we say, that the thing should happen as it does. (p. 140)

⇒「思考」について、さらに「振り返り」や「経験」との関連で説明をしている箇所なので全訳。

この段階の思考 [この部分は、前に引用した部分に続いている] を意図的に涵養することで思考は独自の経験となる。思考とは、言い換えるなら、私たちの行為ととその結果の間に具体的な結びつきを見つけるための意図的な努力であり、その努力の結果、行為と結果は連続するのである。行為と結果を切り離してしまい、それらがたまたま共起しているとする考え方は否定される。統一的に発展してゆく状況が、そういった考え方に取って代わる。物事が起こることが今や理解され説明される。私たちは、「物事はまさに起こるように起こる」と言うが、それは理にかなったこととなる。



■ 経験における思考により、到達点やねらいを定めることができる。

Thinking is thus equivalent to an explicit rendering of the intelligent element in our experience. It makes it possible to act with an end in view. It is the condition of our having aims. (p. 140)

⇒全訳

思考とは、したがって、私たちの経験の知的要素を明らかに示すことである。思考によって到達点を視野に入れて行為することが可能になる。思考は、私たちがねらいをもつために必要な条件である。

⇒しかしながら、現状では、本人の思考抜きに、到達目標 (end) が外から与えられることが多いのはご承知の通り。


■ 予期、判断、選択、関係の理解といった過程が子どもから大人まで共通している。

As soon as an infant begins to expect he begins to use something which is now going on as a sign of something to follow; he is, in however simple a fashion, judging. For he takes one thing as evidence of something else, and so recognizes a relationship. Any future development, however elaborate it may be, is only an extending and a refining of this simple act of inference. All that the wisest man can do is to observe what is going on more widely and more minutely and then select more carefully from what is noted just those factors which point to something to happen. (p. 140)

⇒最後の一文だけ翻訳

最も賢明な人がなしうることも、ただ単に、他の人よりも広範囲にかつ詳細に何が起こっているかを観察し、そこで気づいたことの中から、次に起こることにつながる要素をより注意深く選択するだけのことである。

⇒知性は、観察・理解・判断・選択のプロセスとも表現できるだろう。



■ 思慮深い行為の反対の極にあるのが、惰性的行動や気まぐれの行動。

The opposites, once more, to thoughtful action are routine and capricious behavior. The former accepts what has been customary as a full measure of possibility and omits to take into account the connections of the particular things done. The latter makes the momentary act a measure of value, and ignores the connections of our personal action with the energies of the environment. It says, virtually, "things are to be just as I happen to like them at this instant," as routine says in effect "let things continue just as I have found them in the past." Both refuse to acknowledge responsibility for the future consequences which flow from present action. Reflection is the acceptance of such responsibility. (p. 140)

⇒「振り返りとは、現在の行動から生じる未来の結果への責任を受け入れること」という表現からは、「振り返り」 (reflection) が、過去だけでなく未来も志向していることがうかがえる。この意味では、reflectionの訳語は「省察」の方がいいのかもしれない。



■ 思考は、未だ完全な形を示してはいない現状の観察から何がどのように起こるかを予期することから始まる。

The starting point of any process of thinking is something going on, something which just as it stands is incomplete or unfulfilled. Its point, its meaning lies literally in what it is going to be, in how it is going to turn out. (p. 140)

⇒一応全訳

思考のプロセスが始まる点とは、何かが起こっていること、今の時点では不完全で未完成でも何かが起こっていることである。この点、そしてこの点の意味は、文字通り、何が起こるか、どのように展開するか、にある。



■ 単なる情報通は、考えているわけではない。

To think upon the news as it comes to us is to attempt to see what is indicated as probable or possible regarding an outcome. To fill our heads, like a scrapbook, with this and that item as a finished and done-for thing, is not to think. It is to turn ourselves into a piece of registering apparatus. To consider the bearing of the occurrence upon what may be, but is not yet, is to think. (p. 141)

入ってくるニュースについて考えるということは、ありそう、もしくはありうる結果として何が示されているかを理解しようとすることである。もう終わって片付いたあれやこれやの項目で自分の頭をスクラップブックのように一杯にしてしまうことは考えることではない。そんなことは、私たちを登録器にしてしまうことだ。起こりうるかもしれないが、まだそうでなっていないことについて、出来事の中味を考えることが考えるということである。



■ 思考は現在進行中の不完全な状況に即してなされるものであり、その目的はとりあえずの結論を出すことである。

To say that thinking occurs with reference to situations which are still going on, and incomplete, is to say that thinking occurs when things are uncertain or doubtful or problematic. Only what is finished, completed, is wholly assured. Where there is reflection there is suspense. The object of thinking is to help reach a conclusion, to project a possible termination on the basis of what is already given. (p. 142)

⇒全訳

思考は現在進行中の不完全な状況に即してなされるものであるということは、思考は物事が不確実か疑わしくか問題である時になされるものであるということである。終結し完結したものだけが確実である。振り返りのあるところには、未定の事柄がある。思考の目的とは、結論に到達する一助となることであり、可能な終結点を既知のことに基づいて推定することである。

⇒ここでも、思考や振り返りは、完結した過去というよりは、未完の未来に向けられていることに注意。



■ 「知らないのなら、答えが出てもそれが答えだとわからないはずだし、答えがわかるのなら、最初から知っていたはずだ」というジレンマは、思考が仮説的 (hypothetical) で、とりあえずの (tentative) 結論に関わることであるということを考慮していないことから生じている。

The Greeks acutely raised the question: How can we learn? For either we know already what we are after, or else we do not know. In neither case is learning possible; on the first alternative because we know already; on the second, because we do not know what to look for, nor if, by chance, we find it can we tell that it is what we were after. The dilemma makes no provision for coming to know, for learning; it assumes either complete knowledge or complete ignorance. Nevertheless the twilight zone of inquiry, of thinking, exists. The possibility of hypothetical conclusions, of tentative results, is the fact which the Greek dilemma overlooked. (pp. 142-143)

⇒ここでも思考が、未完・不完全な状況でなされるものであることが強調されている。



■ 振り返りの経験についてのまとめ

So much for the general features of a reflective experience. They are (i) perplexity, confusion, doubt, due to the fact that one is implicated in an incomplete situation whose full character is not yet determined; (ii) a conjectural anticipation -- a tentative interpretation of the given elements, attributing to them a tendency to effect certain consequences; (iii) a careful survey (examination, inspection, exploration, analysis) of all attainable consideration which will define and clarify the problem in hand; (iv) a consequent elaboration of the tentative hypothesis to make it more precise and more consistent, because squaring with a wider range of facts; (v) taking one stand upon the projected hypothesis as a plan of action which is applied to the existing state of affairs: doing something overtly to bring about the anticipated result, and thereby testing the hypothesis. (pp. 144-145)

⇒全訳

振り返りの経験についての一般的な特徴については以上のとおりである。(i) 振り返りにおいては、すべての特徴がまだ定まっていない不完全な状況に巻き込まれているという事実から生じる、困惑・混乱・疑いがある。(ii) 憶測的に予測する --既知の要素をとりあえず解釈し、それらがある種の帰結を生じさせる傾向にあるのではないかと想定する。(iii) 手元にある問題を規定し解明するために入手できる限りのことを調査(検討・検査・探究・分析)する。(iv) より広範囲の事実と適合させるために、とりあえずの仮説をより正確かつより整合的にする。(v) 想定している仮説の上に一つの立場を定め、現状の事柄に適用すべき行動計画とする。予測される結果をもたらすために何も隠さず行動し、仮説を検証する。

⇒私なりに大胆に言い換えるなら、次のようになる(ちなみに(iv)のbecause以下の省略部分は私には特定しがたいものでしたので、おそらくこういう意味だろうと推測した上で書いています)。

振り返りとは、

(i') そもそも不完全で困惑・混乱・疑いに充ちたものである。
(ii') 現状に基づいてとりあえず未来を予測することである。
(iii') しかし、できるだけの調査・検討・検査・探究・分析を行う。
(iv') 立てた仮説に基づき行動計画とする。
(v') 行動して公明正大に仮説を検証する。


⇒これらの特徴と、現在、英語教育界で「アクション・リサーチ」とされているものを比べてみるとどんなことが言えるだろうか。

そもそも「アクション・リサーチ」と呼ばれているものには様々なものがあるので、以下は私なりの観察による考えに過ぎないが、日本の英語教育界での「アクション・リサーチ」は、そもそも(i') の不完全性と (ii')試行性のに関する洞察が薄く、いたずらに仮説の正しさと一般化可能性 ―言い換えるなら、仮説と行動の完全さと汎用性― を追求していないだろうか。他方、仮説がどこからか学術書での流行語や教育行政の方針、あるいは自らの思いつきから降りてきて思考の範囲を狭めてしまい、(iii') の具体的観察が不十分ではないだろうか。(皆さんの意見を歓迎します)。







要約 (Summary)

In determining the place of thinking in experience we first noted that experience involves a connection of doing or trying with something which is undergone in consequence. A separation of the active doing phase from the passive undergoing phase destroys the vital meaning of an experience. Thinking is the accurate and deliberate instituting of connections between what is done and its consequences. It notes not only that they are connected, but the details of the connection. It makes connecting links explicit in the form of relationships. The stimulus to thinking is found when we wish to determine the significance of some act, performed or to be performed. Then we anticipate consequences. This implies that the situation as it stands is, either in fact or to us, incomplete and hence indeterminate. The projection of consequences means a proposed or tentative solution. To perfect this hypothesis, existing conditions have to be carefully scrutinized and the implications of the hypothesis developed?an operation called reasoning. Then the suggested solution -- the idea or theory -- has to be tested by acting upon it. If it brings about certain consequences, certain determinate changes, in the world, it is accepted as valid. Otherwise it is modified, and another trial made. Thinking includes all of these steps,-- the sense of a problem, the observation of conditions, the formation and rational elaboration of a suggested conclusion, and the active experimental testing. While all thinking results in knowledge, ultimately the value of knowledge is subordinate to its use in thinking. For we live not in a settled and finished world, but in one which is going on, and where our main task is prospective, and where retrospect -- and all knowledge as distinct from thought is retrospect -- is of value in the solidity, security, and fertility it affords our dealings with the future. (pp. 145-146)



⇒最後の2文(While all thinking ...)は特に重要だと思うので、翻訳。

すべての思考は知識に至るが、知識の究極の価値は、それが思考に使われるかどうかにかかっている。というのも、私たちが住んでいる世界は定まり完成された世界ではなく、現在進行形の世界であり、そこでの私たちの主な課題は未来に向かうことであるからである。もちろん私たちが過去に向くこともある --そもそも知識を思考とは異なるものとして理解するならば、すべての知識は過去に向いている--が、そのことに価値があるのは、知識が提供してくれる堅実性・確実性・生産性が未来に対応するために役立つからである。

⇒極言するなら、デューイは過去に閉ざされた限りにおいて確実な「知識」よりも、未来に向かってできうる限りの推論をする「思考」に重きをおいていると言える。なぜなら、世界は流転してやまないからである。







"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html










2013年11月20日水曜日

小林雅一 (2013) 『クラウドからAIへ』 朝日新書

[この記事は、「英語教師のためのコンピュータ入門」の授業資料の一つとして書かれたものです]

AI (Artificial Intelligence 人工知能)という概念には、当初過大な期待が寄せられたので、その後の失望感が大きく、むしろ着実な技術的発展を遂げるIA (Intelligence amplification 知識増幅) のアプローチの方が優勢でした。しかし、最近はIAの方が伸び悩み、AIのアプローチの方が急速に(しかし一般大衆がそれとは気がつかない形で)進化していると本書の著者はまとめます(104ページ)

最近のAIの例として挙げられているのは、IBMのWatsonAppleのSiri、Googleのセマンティック検索ロボットカーなどですが、日本ではロボットは東大に入れるかのプロジェクトがあります。
















これらのAIの動きが、人間の歴史を大きく変えていることは、以下のTED動画でもよくわかります(この動画はNHKのスーパープレゼンテーションで知りましたが、どうぞ、ぜひ御覧ください)。ある意味で、恐怖を感じるような内容です。










そもそもこのように機械が人間を凌駕する可能性についてはシンギュラリティ(技術的特異点)singularity)として語られ続け、研究も続けられています。この概念を胡散臭いものとして批判する向きもありますが、現実は私たちの認識を超えつつあるのかもしれません。



本書で著者は次のようにまとめます。

今や最先端の科学技術は一般大衆の理解が遠く及ばない世界で展開し、科学者の知的探究心に駆られた研究開発は常に暴走の危険性を孕みながら、ごく一部の政治家や完了だけが、その手綱を握っています。しかし往々にして専門的な知識と真の洞察力を欠き、様々な利権と既得権にまみれた彼らが、本当に正しい決定を下してくれるのでしょうか。「むしろ並外れた知力と中立性を兼ね備えた、AIマシンに判断を仰いだ方がマシではないか」という意見が、悪い冗談では済まなくなってきています。

今、まさにこの時代にAIが本格的な実用化に入ったことは、それを示唆しているのでしょうか。あるいは、それは単なる偶然に過ぎず、私たち人類は自力で危機を回避できるのでしょうか。答えは私達自身が今後、科学技術とどう向き合っていくかにかかっています。 (247ページ)




人文系といえど科学技術の進展に注目をしなければなりません。いや、むしろ、これからはAIなどの発展により、「人間とは何か」、「人権とは何か」といった問題が、具体的な争点になるでしょうから、人文系こそ科学技術のあり方に広く関心をもたなければならないと言えるかもしれません。








追記 (2013/11/26)

NHKニュースは11/23に、人工知能が大手予備校のセンター試験模試を受験し、900満点中387点(偏差値45相当)を取ったことを報道しました。以下は、その一部です。

東京大学合格を目標に、国立情報学研究所などが中心となって開発を進めている人工知能「東ロボくん」が、大手予備校のセンター試験の模試を初めて受験し、全国およそ400の大学でA判定を獲得する成績を収めました。 「東ロボくん」は国立情報学研究所や大手電機メーカーなどが共同で開発を進めている人工知能で、9年後の2022年春までに、東京大学の入学試験を突破できる知能の開発が目標です。 23日は都内の大手予備校で東ロボくんが受けた初のセンター試験の模試の結果を講評するイベントが開かれ、900点満点中387点を獲得したことが発表されました。 この得点は偏差値で見ると45ですが、「数学I・数学A」と「世界史B」、「日本史B」の3科目では平均点を上回り、国公立の大学1校を含む全国404の大学で、8割以上の確率で合格できるA判定を獲得しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131123/k10013287631000.html






2013年11月10日日曜日

Interest and Discipline (Chapter 10 of Democracy and Education)





[この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからします
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)









なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。


■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。









追記 (2013/11/27)

院生のYK君から、ここの"discipline"は、「規律」ではなく、「自制」か「自律心」と訳すべきではないかという意見をもらいました。

確かに頷けることばかりですので、この"discipline"は「自制」と訳すことにし、以下の訳語も変更しました。。

以下は、YK君の意見です(ごく一部の字句を柳瀬が修正しています)。YK君の指摘に感謝します。ありがとうございました。



・“discipline”の訳出について

A person who is trained to consider his actions, to undertake them deliberately, is in so far forth disciplined. Add to this ability a power to endure in an intelligently chosen course in face of distraction, confusion, and difficulty, and you have the essence of discipline. (p.124)

 この部分にも示してあるように、デューイはdisciplineの本質を、人間が持つ“ability”や“power”としています。この言及から、ここでデューイの言う“discipline”とは、人間の「内なる」能力(力)がであると私は解釈しています。この“discipline”を「規律」と訳すと、私の印象ですが、「人を外から強制する、外的なキマリ」といったニュアンスが強調されてしまう気がしてなりません。  

 日本語大辞典第二版(1995: 講談社)には、「規律」の定義として、
①組織の運営や秩序を保つための定め・おきて。regulation
②行為の基準。rule
とあります。「規律」とは人間の内ではなく、外に存在するというニュアンスを持つ①の意味が先出していることからも、「規律」の持つ意味の中で主要なものは、「外的に人の行動を確立するもの」であることが伺えます(短絡的な解釈かもしれませんが)。

“discipline”のそもそもの意味を捉えるために、まずLongman Dictionary of Contemporary English Fifth Edition (2009)で“discipline”を引きました。すると意味の2つ目に
2 the ability to control your own behaviour, so that you do what you are expected to do
とあり、これがデューイの意味するdisciplineに近いと考えられます。

次に、プログレッシブ英和中辞典第5版 (2012: 小学館)でdisciplineを引き、ロングマン英英辞書で示された意味に該当すると思われる訳を探すと、意味の2つ目に、 2 (鍛錬のもととなる)規律、規則、しつけ、(学校・軍隊などの)風紀、戒律、自制、自律心
とあります。私は、この中の「自制」や「自律心」がデューイの言う “discipline”の訳として特にあてはまるのではないでしょうか。

従来、“discipline”の意味としてよく用いられる「外的な意味での規律」だけではなく「内的な意味での規律」の存在を、同じ「規律」という語を用いた対比によって強調するという意味で、デューイの言うdisciplineに「規律」という訳を使用することの意義があると思います。ですが、もし私なりにデューイの言うdisciplineの翻訳をするならば、デューイの言う “discipline”の本質をストレートに強調するために「自制」か「自律心」という語を当てはめたく思います。







第10章: 興味と自制 Chapter Ten: Interest and Discipline






1. 用語の意味 (The Meaning of the Terms)

■ 傍観者 (spectator) と行為主もしくは参加者 (agent or participant) の違い

We have already noticed the difference in the attitude of a spectator and of an agent or participant. The former is indifferent to what is going on; one result is just as good as another, since each is just something to look at. The latter is bound up with what is going on; its outcome makes a difference to him. His fortunes are more or less at stake in the issue of events. Consequently he does whatever he can to influence the direction present occurrences take. One is like a man in a prison cell watching the rain out of the window; it is all the same to him. The other is like a man who has planned an outing for the next day which continuing rain will frustrate. He cannot, to be sure, by his present reactions affect to-morrow's weather, but he may take some steps which will influence future happenings, if only to postpone the proposed picnic. If a man sees a carriage coming which may run over him, if he cannot stop its movement, he can at least get out of the way if he foresees the consequence in time. In many instances, he can intervene even more directly. The attitude of a participant in the course of affairs is thus a double one: there is solicitude, anxiety concerning future consequences, and a tendency to act to assure better, and avert worse, consequences. (pp. 119-120)

⇒傍観者と異なり、行為主・参加者は、これからの成り行きに懸念をもち、かつなしうることをなそうとする。



■ 関心 (concern) と興味 (interest)とは、行為主・参加者の態度

There are words which denote this attitude: concern, interest. These words suggest that a person is bound up with the possibilities inhering in objects; that he is accordingly on the lookout for what they are likely to do to him; and that, on the basis of his expectation or foresight, he is eager to act so as to give things one turn rather than another. (p. 120)

⇒関心と興味の概説をしている箇所なので、注目。ここの概説では、関心や興味とは、物事に注目しているだけでなく、その物事が自分にどんな関わりをもつかの期待や見通しをもち、それに応じてその物事の展開に対して働きかけようとする態度のこと。



■ 興味/ねらい (interest/aim)の関係と、関心/到達点 (concern/end)の関係は似ている。

Interest and aims, concern and purpose, are necessarily connected. Such words as aim, intent, end, emphasize the results which are wanted and striven for; they take for granted the personal attitude of solicitude and attentive eagerness. Such words as interest, affection, concern, motivation, emphasize the bearing of what is foreseen upon the individual's fortunes, and his active desire to act to secure a possible result. They take for granted the objective changes. (p. 120)

⇒ねらい (aim)・意図 (intent)・到達点 (end)などの語は、結果を強調しているが、興味 (interest)・気持ち (affection)・関心 (interest)・動機づけ (motivation)などの語は、予期や欲望などを強調している。ねらい・意図・到達点は、興味・気持ち・関心・動機づけの存在を前提としており、興味・気持ち・関心・動機づけは、ねらい・意図・到達点の存在を前提としている。



■ ねらい・意図・到達点は対象的 (objective)で非個人的 (impersonal)で知的 (intelectual)なものであるが、興味・気持ち・関心・動機づけは個人的 (personal)で情動的 (emotional)で意志的 (volitional)なものである。だが両者を切り離すことはできない。

But the difference is but one of emphasis; the meaning that is shaded in one set of words is illuminated in the other. What is anticipated is objective and impersonal; to-morrow's rain; the possibility of being run over. But for an active being, a being who partakes of the consequences instead of standing aloof from them, there is at the same time a personal response. The difference imaginatively foreseen makes a present difference, which finds expression in solicitude and effort. While such words as affection, concern, and motive indicate an attitude of personal preference, they are always attitudes toward objects -- toward what is foreseen. We may call the phase of objective foresight intellectual, and the phase of personal concern emotional and volitional, but there is no separation in the facts of the situation. (p. 120)

⇒ "Objective"は「対象的」と訳したが、もちろん「客観的」と訳してもよい(というより、そちらの方が普通よく見る翻訳)。

"Personal"については、マイケル・ポランニー (Michael Polanyi)の"personal knowledge"の議論などを参照されたい。

関連論文: インタビュー研究における技能と言語の関係について http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033696


 








■ 生きることは環境と不可分。対象的・非人格的領域と切り離された、純粋に個人的・主観的な領域を想定するのは誤り。

⇒全訳

生きることの活動がうまくいくのもいかないのも、すべては環境の変化との関係によっている。生きることの活動は、文字通り、環境の変化と結びついているのだ。私達の欲望・情動・気持ちは、私達の行動と、私達のまわりの事物や人々の変化・行いとの結びつきの表れの一つにすぎない。生きることの活動は、対象的・非人格的領域と切り離された、純粋に個人的・主観的な領域を画定することなく、そのように切り離された世界など存在しえないことを示している。生きることの活動は、事物の変化は自己の活動と無縁ではないこと、自己の来歴や繁栄は周りの人々や事物の動きと結びついていることに関する説得力ある証拠となっている。興味や関心は、自己と世界が共に発展してゆく状況の中でお互いに関連しあっていることを意味している。

Life activities flourish and fail only in connection with changes of the environment. They are literally bound up with these changes; our desires, emotions, and affections are but various ways in which our doings are tied up with the doings of things and persons about us. Instead of marking a purely personal or subjective realm, separated from the objective and impersonal, they indicate the non-existence of such a separate world. They afford convincing evidence that changes in things are not alien to the activities of a self, and that the career and welfare of the self are bound up with the movement of persons and things. Interest, concern, mean that self and world are engaged with each other in a developing situation. (pp. 120-121)

⇒デューイは、主客分離の二元論を徹底的に排している。



■ 「興味」の三つの意味:(i) 能動的な発展のすべての状態、(ii) 予期し望まれている対象としての結果、(iii) 個人的・情動的な傾向

The word interest, in its ordinary usage, expresses (i) the whole state of active development, (ii) the objective results that are foreseen and wanted, and (iii) the personal emotional inclination. (p. 121)

⇒「興味」という概念の混乱を避けるために、デューイはこうして予め「興味」の三つの意味を確認する。



■ 教育論で「興味」が否定的な意味で語られる時は、たいてい(ii)の意味だけで使われ、子どもを楽しさで釣ることとして語られる。

When the place of interest in education is spoken of in a depreciatory way, it will be found that the second of the meanings mentioned is first exaggerated and then isolated. Interest is taken to mean merely the effect of an object upon personal advantage or disadvantage, success or failure. Separated from any objective development of affairs, these are reduced to mere personal states of pleasure or pain. Educationally, it then follows that to attach importance to interest means to attach some feature of seductiveness to material otherwise indifferent; to secure attention and effort by offering a bribe of pleasure. This procedure is properly stigmatized as "soft" pedagogy; as a "soup-kitchen" theory of education. (pp. 121-122)

⇒近年の英語教育は、「活動」としばしば呼ばれるゲームや、珍しいICTなど、この(ii)の意味での「興味づけ」や「動機づけ」がたくさんある。もちろん、それらすべてが否定されるべきではないが、学習者の「興味」というものをあまりにも表面的に捉えていないか。

■ 浅薄な「興味づけ」が必要と教育者が思う時には、活動の力と目的が結びついていない。この結びつきを学習者に自覚させるのはよいことだが、外から人工的な誘導をして学習者を興味づけることは批判されるべき。

When material has to be made interesting, it signifies that as presented, it lacks connection with purposes and present power: or that if the connection be there, it is not perceived. To make it interesting by leading one to realize the connection that exists is simply good sense; to make it interesting by extraneous and artificial inducements deserves all the bad names which have been applied to the doctrine of interest in education. (pp. 122-123)





■ 自制 (discipline)とは、物事を始めてから終わるまでにであう様々なことに対して、よく考え、粘り強く取り組むこと。

So much for the meaning of the term interest. Now for that of discipline. Where an activity takes time, where many means and obstacles lie between its initiation and completion, deliberation and persistence are required. It is obvious that a very large part of the everyday meaning of will is precisely the deliberate or conscious disposition to persist and endure in a planned course of action in spite of difficulties and contrary solicitations. (p. 123)

⇒デューイは、自制を"deliberation and persistence"に関わるものとし、意志 (will)と重ねあわせて考えている。



■ 意志の二つの側面: (i) 結果の見通し、(ii)見通された結果がその人に対してもつ重み

Clearly there are two factors in will. One has to do with the foresight of results, the other with the depth of hold the foreseen outcome has upon the person. (p. 123)

⇒意志に関する、この(i)(ii)の区別は、前述の、ねらい・意図・到達点と、興味・気持ち・関心・動機づけの区別に対応しているように思える。デューイは以下、(i)(ii)の悪い例を出して、次によい例を出す。



■ 「頑張り」 (obstinacy) とは、「結果の見通し」を得ている「意志」ではない [(i)の悪い例]

(i) Obstinacy is persistence but it is not strength of volition. Obstinacy may be mere animal inertia and insensitiveness. A man keeps on doing a thing just because he has got started, not because of any clearly thought-out purpose. In fact, the obstinate man generally declines (although he may not be quite aware of his refusal) to make clear to himself what his proposed end is; he has a feeling that if he allowed himself to get a clear and full idea of it, it might not be worth while. Stubbornness shows itself even more in reluctance to criticize ends which present themselves than it does in persistence and energy in use of means to achieve the end. The really executive man is a man who ponders his ends, who makes his ideas of the results of his actions as clear and full as possible. (p. 123)

⇒「頑張る」とは、粘ってはいるものの、結果を見通した上での意志の力を発揮しているわけではない。最初に始めたことに居付いてしまっているとも、頑固とも意固地とも言える。(ちなみに、私は昔からどうも「頑張る」を連呼する人が好きになれないので、この"obstinacy"の訳語に「頑張り」を選んだ)。



■ 「意志が弱い」とは、「頑張りが足りない」のではなく、知的に結果を見通せていないということ [(i)の悪い例]

The people we called weak-willed or self-indulgent always deceive themselves as to the consequences of their acts. They pick out some feature which is agreeable and neglect all attendant circumstances. When they begin to act, the disagreeable results they ignored begin to show themselves. They are discouraged, or complain of being thwarted in their good purpose by a hard fate, and shift to some other line of action. That the primary difference between strong and feeble volition is intellectual, consisting in the degree of persistent firmness and fullness with which consequences are thought out, cannot be over-emphasized. (p. 123)

⇒要するに「頑張る」ことも「頑張れない」ことも、自らの行いに対する知的態度が欠如していること。この意味で「頑張れない」子どもを「頑張る」子どもにすることは、子どもを知的に成長させたのではなく、子どもを知的に鈍感にした上で意固地にしたとも言えるのではないか(具体例は適当に思い起こしてください)。

繰り返して恐縮だが、私は「頑張りが足りない」としか言わない指導者を見る度に、その指導者の知性の欠如が見えてくるようで、どうもそんな指導者を好きにはなれない。また、そんな指導者に囚えられたままになって、「頑張ります!」としか言わないようになる学習者(あるいは選手)を見る度に、とても悲しくなる。

参考記事:
知的仕事のABC: Analyze, Begin and Control!

ついでに話をさらに脱線させると、英語教育の世界にも「頑張る」ことが多すぎはしないか。「頑張って単語帳を覚える」とか、「頑張って問題集を仕上げる」とか、「頑張って音読する・シャドーイングする」などである。

単語を覚えることや英文を読むことが悪いと言うわけではないのだが、どうしてそれらの体験の質を問うことなく、「頑張って」当初立てた数値目標に意固地になってこだわることばかりするのだろう。

もちろん、現実世界では、いちいち考えることが面倒くさくなり、とりあえず「頑張る」目標を立てて、意地になってもそれをやり通すという方法はあるのだけれど、あまりにもそれしかやらない人(あるいはそれしか勧めない人)を見ていると、私はそういう人は、知性の向上ではなく緩慢な破壊に向かっているのではないかとすら思ってしまう。私達はもっと感覚の「質」や知的な分析を重んずるべきではないか。感覚的に鈍感で、知的な見通しを自ら立てられない博覧強記タイプの「偉い人」に、私はどうも知性を感じられない(というよりも接していて退屈なので辟易する)。



と、ここまで書いた所でBGMでもかけようかと思ってたまたま手にとったのが、バッハの「フーガの技法」。むちゃくちゃ上から目線の権威主義者みたいな嫌な言い方になるけれど、こういった曲を何度も聞くということは、少なくとも知的に音楽の見通しを得るということにつながると思う。やっぱりクラシック音楽を聞くことと知性を向上させることはつながっている(嫌な言い方でごめんなさい m(_ _)m)。

というより、このようなクラシック音楽につながる文化を西洋近代では知的としてきたのだろう。だから私達はバッハの対位法的な知性だけでなく、例えば武満徹のような遷移的な知性も知るべきなのだろう。さらに例をあげると、パット・メセニーとオーネット・コールマンらによるフリー・ジャズの力を損なわないままに、こういった音楽を見通せる知性も知るべきなのだろう(←いかにもスノッブな、嫌な言い方 by オルター・オイラw)。













■ 観念的・一面的に見通すだけで、その見通しの実質を把握できていない場合もある [(ii)の悪い例]

(ii) There is, of course, such a thing as a speculative tracing out of results. Ends are then foreseen, but they do not lay deep hold of a person. They are something to look at and for curiosity to play with rather than something to achieve. There is no such thing as over-intellectuality, but there is such a thing as a one-sided intellectuality. A person "takes it out" as we say in considering the consequences of proposed lines of action. A certain flabbiness of fiber prevents the contemplated object from gripping him and engaging him in action. And most persons are naturally diverted from a proposed course of action by unusual, unforeseen obstacles, or by presentation of inducements to an action that is directly more agreeable. (p. 124)

⇒過剰な知性はありえないが、一面的知性というのはありうる(There is no such thing as over-intellectuality, but there is such a thing as a one-sided intellectuality)というのはカッコいい台詞だなぁ (←典型的知的スノッブ by リフレクティブ・オイラーw)



■ 自制とは

⇒「自制」 (discipline)の定義部分なので全訳

自らの行為についてよく考え、意図的に行為をするように訓練された人を、これまで自制的な人としてきた。この能力に加えて、気をそらされたり、混乱させられたり、困難に遭遇したりしても知的に選んだ一連の行為を行い続ける力を付け足せば、それが自制の本質である。自制とは、自在に使える力であり、選んだ行為を実行し続けるために使える手段を使いこなすことである。自分がなすべきことを知り、それを必要な手段を使って迅速に行うことが自制であり、これは軍隊でも個人でも同じである。自制とは肯定的なものである。

A person who is trained to consider his actions, to undertake them deliberately, is in so far forth disciplined. Add to this ability a power to endure in an intelligently chosen course in face of distraction, confusion, and difficulty, and you have the essence of discipline. Discipline means power at command; mastery of the resources available for carrying through the action undertaken. To know what one is to do and to move to do it promptly and by use of the requisite means is to be disciplined, whether we are thinking of an army or a mind. Discipline is positive. (p. 124)

⇒"Discipline"と言えば、とかく外から強制されて確立するものであり、しばしば知性とは無縁とすら思われているが、デューイの"discipline"はそういった通念的な"discipline"とは異なる。



■ 興味と自制は、相反するものではなく、相互に結びついているものである。

It is hardly necessary to press the point that interest and discipline are connected, not opposed. (p. 124)

⇒ここから(i)(ii)のよい例が出てくる(といっても論旨はそれほど単純ではない)。



■ 自分がやっていることについて考えるためにも、興味が必要である。子どもの不注意をたしなめるという場合ですら、それは興味を喚起するためであり、やっていることと自分の成長の間のつながりの感覚をもたらすためである。子どもに、自分がやっていることの見通しを考えさせ、そのねらいを体得させなければならない。 [(i)のよい例]

(i) Even the more purely intellectual phase of trained power -- apprehension of what one is doing as exhibited in consequences -- is not possible without interest. Deliberation will be perfunctory and superficial where there is no interest. Parents and teachers often complain -- and correctly -- that children "do not want to hear, or want to understand." Their minds are not upon the subject precisely because it does not touch them; it does not enter into their concerns. This is a state of things that needs to be remedied, but the remedy is not in the use of methods which increase indifference and aversion. Even punishing a child for inattention is one way of trying to make him realize that the matter is not a thing of complete unconcern; it is one way of arousing "interest," or bringing about a sense of connection. In the long run, its value is measured by whether it supplies a mere physical excitation to act in the way desired by the adult or whether it leads the child "to think" -- that is, to reflect upon his acts and impregnate them with aims. (pp. 124-125)

⇒興味を"bringing about a sense of connection"と言っているところにも着目したい。



■ ねばり強さを続けるためには、興味が不可欠 [(ii)のよい例]

(ii) That interest is requisite for executive persistence is even more obvious. Employers do not advertise for workmen who are not interested in what they are doing. If one were engaging a lawyer or a doctor, it would never occur to one to reason that the person engaged would stick to his work more conscientiously if it was so uncongenial to him that he did it merely from a sense of obligation. Interest measures -- or rather is -- the depth of the grip which the foreseen end has upon one, moving one to act for its realization. (p. 125)

⇒ 「興味は、見通された到達点がどのくらい行為者を深くとらえ、その行為者を到達点に向かわせるかを査定している。いや、興味とは、行為者がとらえられ動かされてゆくことそのものだと言えるだろう」 (Interest measures -- or rather is -- the depth of the grip which the foreseen end has upon one, moving one to act for its realization.)という箇所も、興味も(他の概念同様)、外から来る・与えられるものではなく、内と外が統合されて生じるものだというデューイの主張が伺える箇所である。







2. 教育における興味概念の重要性 (The Importance of the Idea of Interest in Education)

■ 興味について考えてゆくと、子どもの個性に着目するようになる。

⇒全訳

興味は、目的のある経験において、対象を -- それが実際に知覚されたものであれ想像上のものであれ -- 動かす力を意味している。具体的に言うなら、興味概念の価値は、教育的発達において占める興味の動態的な役割を認識することによって子ども一人ひとりがもつそれぞれの総合力・必要性・好みを考えるようになる、ということにある。

Interest represents the moving force of objects -- whether perceived or presented in imagination -- in any experience having a purpose. In the concrete, the value of recognizing the dynamic place of interest in an educative development is that it leads to considering individual children in their specific capabilities, needs, and preferences. (p. 125)



■ 子どもの個性を考えない、一律的な興味づけというのはありえない。

⇒やや抽象的な記述なので、翻訳することにより理解を試みる。

興味の重要性を認識するなら、同じ教師と教科書で教えられた子どもの心はどれも同じように動くだろうなどとは思わなくなる。教材が訴えてくるものはその教材固有のものであり、それによって、教材を扱う態度・方法および反応は変わってくる。教材が訴えてくるもの自体も、生来の適性、過去の経験、将来の計画などの違いにより変わってくる。

One who recognizes the importance of interest will not assume that all minds work in the same way because they happen to have the same teacher and textbook. Attitudes and methods of approach and response vary with the specific appeal the same material makes, this appeal itself varying with difference of natural aptitude, of past experience, of plan of life, and so on. (p. 125)

⇒このことからすると、どんな教材(例、定型文、説明文、論証文、文学的文章など)でも、同じアプローチ(例、シャドーイング、和訳先渡し、"all in English"など)で教えなさいという英語教授法は、かなり胡散臭いことがわかる。

そもそも私にとって、教材・学習者・教師・時代背景などなどによっていかようにも変わりうるし、変わらなければならない教育方法を、「一般化」しなければならないとする量的研究の前提は首肯しがたいものである(だから、統計テクニックの洗練や、replicationの重要性や、メタ分析の道入などの「華々しい」研究方法の発展にも私は正直興味がもてない --というより批判的にならざるを得ない)。

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ちなみに私は、亘理陽一先生(静岡大学)による、下の、メタ分析研究に対する考えに賛同する。

[研究][SLA] ケンカの後始末,またはSpada & Tomita (2010)について。
[研究][ノート] 補足の補足でメタ分析について覚え書き(山田・井上(編), 2012. Ch.2)



■ ⇒デューイによる二元論批判の箇所として重要だと思われるので、全訳。

心は、あまりにもしばしば、知られるべき事物と事実の世界の上に措定されている。心は世界とは孤立して存在するものとしてみなされ、心的状態と心的作動も独立して存在しているとされている。そうなると知識とは、純粋に心的な存在を知られるべき事物に外的に適用したものとみなされる。もしくは、外の主題が心に与えた印象の結果とみなされるか、それら二つが組み合わされたものとみなされる。主題はそれ自身で完結したものとみなされる。主題は、心を自らそれに適用することによって、もしくは、それが心にあたえた印象によって、学ばれ知られるべきものとなる。

Too frequently mind is set over the world of things and facts to be known; it is regarded as something existing in isolation, with mental states and operations that exist independently. Knowledge is then regarded as an external application of purely mental existences to the things to be known, or else as a result of the impressions which this outside subject matter makes on mind, or as a combination of the two. Subject matter is then regarded as something complete in itself; it is just something to be learned or known, either by the voluntary application of mind to it or through the impressions it makes on mind. (pp. 125-126)

⇒"Subject matter"は、「主題」と訳したが、教育の文脈では「教科内容」と訳すことができるだろう。"Operation"はルーマンの英訳でも使われる語だが、ルーマン系の翻訳にしたがって「作動」と訳した。

上では、(a)対象、(b)心的状態、(c)心的作動の三つを独立して存在する通念が描かれているが、デューイはもちろんこれを批判する。いわゆる「二元論」は(b)と(c)を一緒に考えて「心」とした上で、(a)の対象を「物」として相互排他的に措定するものだが、デューイはここではそれより一歩進んで、(b)と(c)が独立して存在するものではないことを主張しようとしている。

ちなみに(a)と(b)と(c)が連動し、同時に成立するものだとしたら ―ルーマンはそのような考え方をしている― (a)の「対象」とは「心的対象」でもあり「物的対象」でもあるし、「主観的対象」でもあるし「客観的対象」でもある。そうなると「心と物」や「主観と客観」といった二元論は意味をなさなくなる。



■ 「興味」という概念から考えても、主客二元論はおかしいことがわかる。

⇒全訳

興味という事実から、上記の概念化 [ = 二元論] が神話にすぎないことが示される。経験において心は、今ここにある刺激に反応する能力として現れるが、その心とは未来に起こりうる帰結を予期することに基づき、起こるだろう帰結を制御することを目的としている。事物、つまり知られた主題とは、予期される一連の出来事を支援するにせよ阻害するにせよ、それらの出来事に関係するものである。

The facts of interest show that these conceptions are mythical. Mind appears in experience as ability to respond to present stimuli on the basis of anticipation of future possible consequences, and with a view to controlling the kind of consequences that are to take place. The things, the subject matter known, consist of whatever is recognized as having a bearing upon the anticipated course of events, whether assisting or retarding it. (p. 126)

⇒"Control"はここでは「制御」と訳した。"Mind appears"という表現も作動的な含意をもつものであり、"mind exists"といった素朴な存在を前提とする言い方ではないことにも注意。


■ 心は、一連の行為の中に現れるものであり、行為と孤立・独立して存在するモノではない。

⇒ここも重要なので全訳。

心とは、それ自体で完結している何かにつけられた名ではない。心は、知的に指導された一連の行為につけられた名である。知的に指導されるとは、ねらいや到達点が心の中に入り込み、さらなる到達点へ向かうために手段が選ばれることである。知性とは、人が所有する奇妙な所有物ではない。人が知的であるのは、その人が一役を担う活動に、上で述べた特質が見られる場合である。知的な関わり方であれそうでない関わり方であれ、人が関わる活動は、その人だけの特性であるわけではない。活動はその人が関わり参加するものである。他の事、他の事物や人物は、その人とは独立に変化するが、それらは活動と協力関係にあったり阻害関係にあったりする。個人の行いは一連の出来事の端緒となるかもしれないが、その成果は、その他の動因によって与えられるエネルギーと、それに対するその人の反応の相互作用によって定まる。心は、その他の要因と共に結果を生み出す一つの要因に過ぎないとは考えないならば、心は無意味なものになる。

mind is not a name for something complete by itself; it is a name for a course of action in so far as that is intelligently directed; in so far, that is to say, as aims, ends, enter into it, with selection of means to further the attainment of aims. Intelligence is not a peculiar possession which a person owns; but a person is intelligent in so far as the activities in which he plays a part have the qualities mentioned. Nor are the activities in which a person engages, whether intelligently or not, exclusive properties of himself; they are something in which he engages and partakes. Other things, the independent changes of other things and persons, cooperate and hinder. The individual's act may be initial in a course of events, but the outcome depends upon the interaction of his response with energies supplied by other agencies. Conceive mind as anything but one factor partaking along with others in the production of consequences, and it becomes meaningless. (p. 127)

⇒「心がある」ということはどういうことか、という存在論が語られている。また"Intelligence"という名詞と、"intelligent(ly)"という形容詞・副詞の使い分けにも注意。



■ 教示 (instruction)で大切なのは、一人ひとりの学習者が目的や興味を見出すことができるような教材を見出すこと。

かくして、教示における問題とは、ねらいや目的、重要性や興味がある、特定の活動に人を関わらせることができる教材を見出し、体操器具としてではなく到達点に達するための条件として事物を扱うこととなる。

The problem of instruction is thus that of finding material which will engage a person in specific activities having an aim or purpose, of moment or interest to him, and dealing with things not as gymnastic appliances but as conditions for the attainment of ends. (p. 127)

⇒Gutenbergにはpurposeの後のカンマがなかったので補った。"Moment"は、"importance or concequence: a decision of great moment" (http://dictionary.reference.com/browse/moment)の意味と解した。

"Dealing with things not as gymnastic appliances"の(おそらくは比喩的な)意味が、実はよくわからない。"Gymnastic appliance"の動画で出てきたのは、例えば下のような動画だが、これを見ても上の意味がよく会得できない。ひょっとしたら"Gymnastic appliance"とは「動きの見栄えをよくするが、動きにとっては本質的ではないもの」ぐらいの意味だろうか。わかった方がいらしたら、ぜひご教示ください。







■ よい教示とは、人が本気で関わらざるを得ないような活動のあり方を見出すこと

⇒全訳

遊びであれ、有益な仕事であれ、個々人が、その成果に重要性を見い出し、その活動について振り返り、何を観察し何を思い起こさなければならないかを選ぶために判断力を使わざるをえないような活動の典型的なあり方を見出すことが解決法である。

Discovery of typical modes of activity, whether play or useful occupations, in which individuals are concerned, in whose outcome they recognize they have something at stake, and which cannot be carried through without reflection and use of judgment to select material of observation and recollection, is the remedy. (pp. 127-128)



■ 心と事物が互いに影響を及ぼし合いながら進展することを考慮した上で、「心の訓練」についても考えなければならない。

短くまとめるなら、心の訓練の概念化において長く蔓延していた間違いの根幹にあるのは、事物が、人が他の人と共有する未来の結果へ、観察や想像力や記憶が向けられている方向へと動いていくということを考慮しなかったことである。間違いは、心をそれ自体で完結したものとみなして、それを目の前にある材料に直接的に適用すればよいと考えたことにある。

In short, the root of the error long prevalent in the conception of training of mind consists in leaving out of account movements of things to future results in which an individual shares, and in the direction of which observation, imagination, and memory are enlisted. It consists in regarding mind as complete in itself, ready to be directly applied to a present material. (p. 128)

⇒主客分離の二元論ではないが、主客融合・主客同一の一元論でもない。心は、人間などの生物において、この世界という環境に生きて活動することにより現れ、環境に影響を受けつつも環境に影響を与える、と考えるべきだろうか。



■ 教育の歴史において、一方では、「自制」と言うだけで、思考停止が起こり、問題が起こればそれはすべて「自制」が足りない学習者のせいであり、子どもにはさらなる「自制」(あるいは「我慢」)が必要だと誤解されてきた。

In historic practice the error has cut two ways. On one hand, it has screened and protected traditional studies and methods of teaching from intelligent criticism and needed revisions. To say that they are "disciplinary" has safeguarded them from all inquiry. It has not been enough to show that they were of no use in life or that they did not really contribute to the cultivation of the self. That they were "disciplinary" stifled every question, subdued every doubt, and removed the subject from the realm of rational discussion. By its nature, the allegation could not be checked up. Even when discipline did not accrue as matter of fact, when the pupil even grew in laxity of application and lost power of intelligent self-direction, the fault lay with him, not with the study or the methods of teaching. His failure was but proof that he needed more discipline, and thus afforded a reason for retaining the old methods. The responsibility was transferred from the educator to the pupil because the material did not have to meet specific tests; it did not have to be shown that it fulfilled any particular need or served any specific end. It was designed to discipline in general, and if it failed, it was because the individual was unwilling to be disciplined. (p. 128)

⇒こういった反知性的な「自制」概念(というより「我慢」と言った方がぴったりくるだろう)は、現代日本にもまだ残っている(というより、新自由主義に伴って台頭してきた新保守主義と共に、ますます力を増してきたのではないか)。

参考記事:
デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)『新自由主義』作品社

こういった半知性的な"discipline"概念の例はないか、身の回りを観察してほしい。



■ 他方、「自制」を目の前にある物事にだけ合わせることとして考え、「自制」を未来の目的達成に貢献する力と見出さない自制概念もあった。

In the other direction, the tendency was towards a negative conception of discipline, instead of an identification of it with growth in constructive power of achievement. As we have already seen, will means an attitude toward the future, toward the production of possible consequences, an attitude involving effort to foresee clearly and comprehensively the probable results of ways of acting, and an active identification with some anticipated consequences. Identification of will, or effort, with mere strain, results when a mind is set up, endowed with powers that are only to be applied to existing material. A person just either will or will not apply himself to the matter in hand. The more indifferent the subject matter, the less concern it has for the habits and preferences of the individual, the more demand there is for an effort to bring the mind to bear upon it -- and hence the more discipline of will. To attend to material because there is something to be done in which the person is concerned is not disciplinary in this view; not even if it results in a desirable increase of constructive power. Application just for the sake of application, for the sake of training, is alone disciplinary. This is more likely to occur if the subject matter presented is uncongenial, for then there is no motive (so it is supposed) except the acknowledgment of duty or the value of discipline. The logical result is expressed with literal truth in the words of an American humorist: "It makes no difference what you teach a boy so long as he doesn't like it." (pp. 128-129)

⇒これも反知性的な自制概念で、ここには想像力の働きが見られない。こういった自制概念も身の回りにないか例を探してほしい。



■ 心が活動から切り離されたように、教科内容 (subject matter)も生徒が生きることから切り離され、それだけで価値をもつように思われている。

The counterpart of the isolation of mind from activities dealing with objects to accomplish ends is isolation of the subject matter to be learned. In the traditional schemes of education, subject matter means so much material to be studied. Various branches of study represent so many independent branches, each having its principles of arrangement complete within itself. History is one such group of facts; algebra another; geography another, and so on till we have run through the entire curriculum. Having a ready-made existence on their own account, their relation to mind is exhausted in what they furnish it to acquire. (p. 129)

⇒というか、英語教育界などで見聞きできるカリキュラム論など、ほとんどここで批判されている類のものではないか?反例があったらぜひ教えて下さい。



■ 「指導要領・教科書にあるから教えます」ではなく、「これは、あなたたちが生きることに深く関わっているから教えます」と言えるぐらいに教材研究をする

数が勉強の対象であるのは、単に数が数学と呼ばれる学習の一部を構成しているからではなく、私達の行為が繰り広げられる世界の特質と関係を表しているからである。私達の目的達成に関わる要因だからである。生徒が関心をもっている活動の成就にどのように数的な真理が関わっているかを生徒が理解する度合いに応じて勉強は効果的なものになる。勉強の対象・トピックと、目的のある活動を促進することをつなぐことが、教育における興味に関する真正な理論の緒言であり結語である。

Numbers are not objects of study just because they are numbers already constituting a branch of learning called mathematics, but because they represent qualities and relations of the world in which our action goes on, because they are factors upon which the accomplishment of our purposes depends. ... Study is effectual in the degree in which the pupil realizes the place of the numerical truth he is dealing with in carrying to fruition activities in which he is concerned. This connection of an object and a topic with the promotion of an activity having a purpose is the first and the last word of a genuine theory of interest in education. (pp. 129-130)

⇒このように、教科内容が、生徒が生きていることとどういう関係かを示し、教科内容を活動に転化することこそが、教師の役割なのだろうが、現実の英語教育では、英語学習の意味を「グローバル社会への対応」といった紋切り型の文句で説明したことにし、活動も、見かけだけ華やかなものにするか、生徒が生きることではなく入試の得点に直結したものにしているように思える。

教育実習の際は、学力が足りないので仕方ないのかもしれないが、教師の「教材研究」は、教師がよくわかっていない単語を(教室で恥をかかないために)調べておくことや、入試問題での頻度から学習項目を整理することぐらいに終わっていないだろうか。

「自分が教えることが、生徒が生きることにどうつながるだろうか」と考え、「自分が担当するこの固有の歴史と未来をもった生徒がよりよく生きるために、自分は、『英語』という教科の枠組みで何ができるだろうか」と教材を自ら見い出し活動を自ら考案することこそ、本来の教材研究ではないだろうか?

「現実は忙しくて」とか「受験指導があって」とかいった言い訳には、もちろんそれなりの説得力があるが、そういった本来の教材研究を鮮明にイメージできなければ、私達は現状に惰性的に流されるだけではないだろうか。


追記 (2013/11/11)

日々の教材研究は、もちろん具体的な項目についてのものだけれど、時にそういった具体性から抽象レベルを少しあげて「そもそもなぜ英語を勉強しなくてはならないのだろう」と考えるのも有益かもしれない(そもそもそのような素朴な問いは、学習者の方が問いかけてくる。もっとも学習者が求めているのは、答えではなく、コミュニケーションである場合の方が多いとは思うが・・・)

「なんで英語なんか勉強するの?」という素朴な問いに対する教師なりの答えは、以下の特集に掲載されている。


[みんなで英語教育] 第5回「なんで英語なんか勉強するの?」まとめ
http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20131101/p1










3. 問いの社会的側面 (Some Social Aspects of the Question)

■ 興味の最上の例として、芸術がある

Men's fundamental attitudes toward the world are fixed by the scope and qualities of the activities in which they partake. The ideal of interest is exemplified in the artistic attitude. Art is neither merely internal nor merely external; merely mental nor merely physical. Like every mode of action, it brings about changes in the world. (p. 130)

⇒ね、だからおじさんは、いつも力説するのだよ。音楽・絵画・工作・文芸・武芸などの広い意味の芸術を大切にしなければ、知性はいつか力を失ってしまうのだよ。

ゲージツを切り捨てようとする「偉い人」には、おじさんはクリエーチブな方法で多種多様に抵抗するのだよ (←オイラー・アズ・ミリタント・アーチストwww)。



■ 「頭」と「手」を切り離して知性や教育を考えてはいけない。

それが遊びであれ仕事であれ、能動的な課題で事物と事実に対応することによって興味を広げ、知性を訓練してきた人は、学術的で現実離れした知識か、硬直し範囲の狭い「実用的」なだけの実践という二者択一から逃れることができることができるだろう。行為には、観察・情報収集・構成的想像力の行使が必要だということを理解しながら、行為をする際に人間生来の能動的な傾向が十分に発揮されるように教育を編成することが、社会的条件を改善するために、もっともなされなくてはならないことである。

Persons whose interests have been enlarged and intelligence trained by dealing with things and facts in active occupations having a purpose (whether in play or work) will be those most likely to escape the alternatives of an academic and aloof knowledge and a hard, narrow, and merely "practical" practice. To organize education so that natural active tendencies shall be fully enlisted in doing something, while seeing to it that the doing requires observation, the acquisition of information, and the use of a constructive imagination, is what most needs to be done to improve social conditions. (p. 132)

⇒社会改善のためには教育こそが重要だが、現状の日本の教育は、文理を問わず基礎学問や芸術を「学術的で現実離れ」したものとしてどんどん軽視し、学習者や教師をますます「硬直し範囲の狭い「実用的」なだけ」の存在に貶めようとしていないだろうか。学習者や教師は、今、学校で人間性らいの能動的な傾向を発揮しながら、それぞれに観察・情報収集・構成的想像力を行使しているだろうか。







要約 (Summary)

⇒特に印象的だった箇所を、勝手ながら斜字に変えた。

Interest and discipline are correlative aspects of activity having an aim. Interest means that one is identified with the objects which define the activity and which furnish the means and obstacles to its realization. Any activity with an aim implies a distinction between an earlier incomplete phase and later completing phase; it implies also intermediate steps. To have an interest is to take things as entering into such a continuously developing situation, instead of taking them in isolation. The time difference between the given incomplete state of affairs and the desired fulfillment exacts effort in transformation, it demands continuity of attention and endurance. This attitude is what is practically meant by will. Discipline or development of power of continuous attention is its fruit.

The significance of this doctrine for the theory of education is twofold. On the one hand it protects us from the notion that mind and mental states are something complete in themselves, which then happen to be applied to some ready-made objects and topics so that knowledge results. It shows that mind and intelligent or purposeful engagement in a course of action into which things enter are identical. Hence to develop and train mind is to provide an environment which induces such activity. On the other side, it protects us from the notion that subject matter on its side is something isolated and independent. It shows that subject matter of learning is identical with all the objects, ideas, and principles which enter as resources or obstacles into the continuous intentional pursuit of a course of action. The developing course of action, whose end and conditions are perceived, is the unity which holds together what are often divided into an independent mind on one side and an independent world of objects and facts on the other. (pp. 132-133)






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