2017年3月24日金曜日

希望をつなぐということ (教英卒業式・修了式挨拶)






以下は、昨日の教英卒業式・修了式で私が行った挨拶の元原稿です。

卒業生・修了生のご健康とご多幸を心からお祈りしております。折があれば、また大学に寄ってください。


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皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。

皆さんの多くは社会に出て、お金をかせぐ生活に入ります。

皆さんが皆さんであるという理由だけでお金をくれるのはおそらく親などの家族だけです。ですから、お金をかせぐということは家族や(お金が絡まない)友人とはまったく別の社会的関係に入ることです。これは大きな変化ですから、皆さんの中にも不安に思っている人もいるかもしれません。

最初に楽観的なことを言っておきますなら、大抵の人は何とかやっているのですから、皆さんも何とかなります。私のようにうつ病になったり、中高年になって三回もおたふく風邪を患ったり、髪の毛を失ったりしても何とかなります。

しかし悲観的なことを言うなら、仕事で疲れ果ててしまう人や倒れてしまう人もいます。逆に金銭や権力の亡者になってしまう人もいます。教師生活においても、学ぶ意欲にあふれた生徒と理解のある保護者ばかりというわけでは必ずしもありません。一般就職にしても、新自由主義の台頭と共に経済格差ひいては社会的格差がどんどん大きくなってきています。それに加えて、今後の人工知能の発展で格差がますます拡大し、ほとんどの中間層が没落するなどという予想も出てきています。未来予想というのはだいたいそのとおりにはならないものですが、このような現状に皆さんが不安を感じたとしても不思議はありません。


そう悲観的に考えるなら、どうやって希望をつなげばいいのか、と思うかもしれません。

私がしたり顔で言うべきことではありませんが、そんな時は皆さんが「ヒロシマ」という固有名詞がついた大学・大学院を卒業したということを思い出してください。







昨年末に映画化され有名になった作品に『この世界の片隅に』というものがあります(ちなみに原作者のこうの史代(ふみよ)さんは、広島大学の理学部を中退された方です)。私は彼女の作品を『夕凪の街 桜の国』(上の画像の作品です)で最初に知り、その表現力に驚嘆したものでしたが、『この世界の片隅に』というもう一つの名作も世間ではほとんど知られていない状況でした。

しかしその原作に惚れ込んだ片渕須直(かたぶちすなお)監督は映画化を決意します。しかし、お金がありません。そこで取った方法は「クラウドファンディング」、つまりインターネット経由で資金を調達することでした。最終的には全国47都道府県の3374人から3912万円あまりの支援金を得たそうです。単純な割り算をすれば一人一万円強の支援ですからものすごい金額の支援というわけではありません。

そこから長年の制作の苦労を経てようやく完成した映画ですが、最初は知名度が低いので、全国で63館しか映画上映されませんでした。さらに一説によりますと、主役の声優をしたのんさん(旧名 能年玲奈(のうねん・れな)さん)の芸能事務所との関係でテレビはNHKを除いてはほとんどこの映画のことを取り上げませんでした。だからなかなか話題になりませんでした。

それでもこの原作の良さを知る人、そして何より映画を見てよかったと思う人たちの口コミで少しずつこの映画は人々に認知されました。ロングランとなり、数々の映画賞ももらいました。いや、観客動員数や数多くの受賞といった権威でこの映画を語るべきではありません。私も含めた多くの人たちが、この映画を心からよいと思い、人生の宝としました。それがこの映画の語り方だと私は思います。


クラウドファンディングをした人、口コミでこの映画のことを語った人々は、皆、社会的に見れば無名の人々です。しかしその無名の人々の連鎖が大きな流れを作り出しました。その流れは海外にも伝わっています。


ですが、それ以上に大切なことは、この映画で描かれている物語が、人々が絶望的な状況でいかに希望をつないでいったかということです。


物語について詳しくは語りませんが、これは1945年前後の広島県呉市の市井の人々の物語です。戦争と原爆で人生を言語を絶するぐらいに滅茶苦茶にされた人々の物語です。

しかし登場人物は、戦争中も家族で冗談を言ったりします。困窮生活の中でも小さな喜びを大切にしたりします。原爆投下直後の地獄絵図のような状況でも無償の親切をしたりします。生命のはかなさを、そして人生の哀しみを知るからこそ、小さな喜びを大切にします。

本当は(映画挿入歌にもありますように)「悲しくてやりきれない」のです。しかし、人は自分の身体の心臓が動いている限りその生命を大切にします。温かいその身体を大切にします。そして心も温かくしようとします。

生き残った人には、人生の喜びをすべて奪われるような深刻な傷を負う人もいます。でもその人たちも、時に怒りを爆発させたり時に慟哭したりしながらも、自分の身体と心の温かさを保ち続けようとします。そして同じように体温をもつはかない存在である隣人を大切にしてゆきます。これこそは動物としての人間がもつ自然 -- human nature --なのかもしれません。

自分の体温を慈しむこと。そんな毎日を続けること。そして同じように体温をもつ他人をも慈しむこと。無理のない範囲で温かさを周りに伝えてゆくこと -- 希望というのはそうやってつながれるのではないかと思います。

実は最近の私にとっての、もう一つの映画の収穫であった『ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー』でも同じテーマが描かれていました。希望をつなぐのは、少数の英雄ではありません。一見、そう思えるとしても、それはその少数の人々を、圧倒的大多数の名も無き人々が支えているからです。名も無き人々の小さな行いの無数の連鎖こそが希望をつないでいるのです。英雄も名も無き数多くの人々がいなければ何もできません。


「絶望的な状況で何ができるのか?どうやったら希望をつなぐことができるのか?」


快刀乱麻の解決法はありません。

ひょっとしたらあなた一人では、希望をつなげないかもしれません。

かといって、どこかの英雄が、希望を与えてくれるのでもありません。

あなたは途方にくれるかもしれません。


でもその時には、自分の体温を感じて下さい。自分の呼吸を感じて下さい。自分の温かな生命を感じて下さい。神あるいは自然から与えられ、保護者や善意の人々によって育まれた自分の生命に宿る温かさを感じて下さい。

辛い時は、感性が損なわれがちです。だからこそ感性を大切にしてください。まずは身体の温かさを感じて下さい。そしてそれを大切にしてください。そして心のなかに温かさを灯して下さい。

希望がつながれるのは、私たちのような数多くの、社会全体からすれば「名も無き人々」の一人ひとりが、平凡な毎日を温かく暮らすからこそだと私は思っています。

その温かさが人から人へと伝わり、それが連鎖となって社会に広がるからこそ希望がつながれるのではないでしょうか。


皆さん、もし仕事に疲れたら、あるいは仕事によって人格が変わりそうになってしまったら、どうぞ自分の体温を感じてください。その温かさを大切にしてください。

あえて言うなら、炎のような情熱も要りません。マグマのような意志も必要ありません。

体温のような温かさ、いや、体温の温かさだけで十分です。


あなたの身体の温もりを大切にして下さい。そして心の温かさを失わないでください。かなうことなら、その温かさを小さな毎日の行為の中で周りに伝えていってください。


人類の偉大さは、そうやってこれまで生き延びてきたことにあると私は考えます。

皆さんも新しい環境で、数多くの名も無き人々の一人としてその偉大な人類の伝統を引き継いでいって下さい。

温かさを保ち、それを周りに伝えることが人間の偉大さだと私は考えます。


皆さんのご健康とご多幸を改めてお祈りします。




※ この原稿を作成するにあたり、細かな数字などはウィキペディアの「この世界の片隅に (映画)」のページを参照しました。










2017年3月22日水曜日

フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来



この記事は「広大教英ブログ」にも掲載されています。


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以下はフィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学した経験をもつ学部生のYK君が書いてくれたレポートです。フィリピンの言語教育の現状から、日本の英語教育(過剰な英語志向)について考えようとしたものです。

フィリピンでは、多くの人々にとっての「母語」(現地語)は学術活動や経済活動や政治活動などを担えるだけの「力」をもっていないので、「国語」としてフィリピン語が教えられると同時に「公用語」として英語が教えられています。ですが、言語のもつ「力」としては「国語」としてのフィリピン語よりも「公用語」としての英語の方が圧倒的に強いようです(あるいはそうならざるを得ないような歴史をフィリピンは有しているというべきでしょうか)。

そんなフィリピンの状況から今後の日本の英語教育がとりうるかもしれない一つの可能性について考えた文章です。「一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません」というのはYK君が言うとおりですが、英語教育熱について考えるための一つの視点を提供する文章として読めば面白いのではないでしょうか。

以下、「母語」(200近くの現地語、あるいは家庭内で使われている言語)、「国語」(フィリピン語)、「公用語」(英語)の違いを頭に入れた上でお読みいただければと思います。

なお、下の文章には趣旨を変えない微細な字句修正を私が若干していることを申し添えておきます。




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フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来


0. はじめに

 「コミュニケーション能力と英語教育」最終提出課題は,今までの授業で習ったことの総復習として行うのが主な目的であるが,今回は範囲を絞り,特に授業終盤で取り扱っていた母国語と英語教育の関係に焦点を当てていく。フィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学し,今の日本の英語教育の方向と過去のフィリピンで行われてきていた英語教育の趨勢との相似点がたくさん見られることに気づいた。そこで,この課題ではフィリピンで行われてきた言語教育について紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点などを踏まえて今後の英語教育はどうなっていくのかについて考察する。


1. フィリピンの言語教育

 フィリピンの歴史はそのほとんどが植民地支配の歴史といっても過言ではありません。今のフィリピンの中高生の歴史の授業では,なんと16世紀ごろから学び始めるとのことで,つまりそれはマゼラン率いるスペイン船団が最初にフィリピンを訪れてから始まったスペインによる植民地支配の時代からの歴史です。実際に,私がフィリピン教育についての授業を受け,グループごとにその当時の教育制度について発表するものがあったのですが,そこでは「植民地化以前」「スペイン統治時代」「アメリカ統治時代」「日本統治時代」「戦後」というふうな別れ方でした。(ちなみに,日本統治下時代が最悪だったとはっきりと言われてしまいました笑)

 さて,英語教育に話を戻すと,フィリピンで英語教育が本格的に始まったのは19世紀末からのアメリカによる植民地支配です。その時代から首都マニラで主に使われていたタガログを基礎とするフィリピン語を「国語」とし,英語は「公用語」であったのですが,200近くの言語が存在すると言われる国ですので,英語はおろか国語であるフィリピン語すらもまともに話せない国民がいました。その頃から行われていた言語教育は”BEP –Bilingual Education Policy-”と言われるものであり,国語であるフィリピン語と公用語の英語の習得を最大目標にした教育が行われていました。たとえ英語やフィリピン語が母語でなくとも,小学校に入れば学校で母語を使うことはほとんどなく,理系の授業は英語,文系の授業はフィリピン語というような使い分けをしながら全ての授業を母語以外で受けなければいけません。そのような環境での言語教育が長らく行われてきたために,現在のフィリピンでは多くの国民がフィリピン語と英語,そしてそれに加えて母語の3ヶ国語を話すことができます。特に多くの国民が英語を話せるというのは非常に大きな利益であり,多くの国民が英語教師やハウスキーピング,看護師として海外で働いています。驚くことに,海外で働くフィリピン人の家族への仕送りがGDPの約10%をもしめるということで,一見この国の言語教育は大成功を納めているようにも思えます。

 しかし,実情を見てみると,このBEPによって多くの若い学生たちが苦しむことになってしまっていることがわかりました。前述の通り,小学校から(早い所では幼稚園の時から)母語ではなく英語もしくはフィリピン語で授業を行なっているために,当然言語的な問題により授業についていけないという生徒が出てきます。私がフィリピンの教育に関する授業で見た「教育現場の実情を伝えたDVD」によると,小学生の約10パーセントが英語がわからないせいで授業を受けることが困難になっています。そして,35パーセントの生徒しか12歳で小学校課程を終えることができていないのです。日本でも「英語格差」という言葉は時々言われますが,この国で英語ができるかどうかは義務教育を終えることができるかというとても根本的なことにまで影響してしまうのです。英語格差は教育現場だけではありません。映画館ではフィリピン語による字幕や吹き替えの映画などは少なく,ハリウッド映画はそのまま字幕なしで見なければいけませんし,多くの書籍も海外からそのまま輸入しているので英語です。富裕層の間では子供に何よりも英語力をつけさせるために,家庭内言語は英語にし,幼い頃から英語のテレビ番組などしか見せていません。結果として,この国ではその地域で主に使われている現地語が母語である子供と,英語が(家庭内の)母語である子供というふうに分かれてしまいました。フィリピン国内では「英語ができるかどうか」ということが明確に社会的地位を分けてしまっています。

 もう一つ大きな問題があります。私が向こうの大学で出会った社会学専攻の学生がこのバイリンガル教育で何よりも悪影響があるとしていることは,「国語の衰退」でした。一度この授業の予習か振り返りで書いたことですが,彼らは国語で学問的な内容を取り扱うことができません。フィリピン大学という国内ナンバーワンの大学に在籍している学生たちであっても,90分の講義を全てフィリピン語(もしくは彼らの別の母語)で受講することができるかと問うと絶対にできないといいます。大学の教授に同じような質問をしても,やはり英語でほとんどの学問を修めてきたので国語で授業はできないそうです。論文を国語で書かなければいけない時があって,その時は一度英語で書いてしまってからそれをなんとかフィリピン語に直すというような手法をとっていました。明らかに私たちの国語である日本語と彼らの国語の立ち位置というものは全く違っています。私にとっては英語を習得させることに躍起になりすぎると不利益の方が大きくなってしまうように思われました。

 その言語教育もここ数年で変わろうとしていました。それが,”MTB-MLE -Mother Tongue Based Multilingual Education-”といわれるものです。「母語での学習を大事に」という目標を掲げたこの教育計画では,まず小学校2年生までは全ての授業を母語で行い,同時にフィリピン語と英語も母語で習い始めます。そして小学3年生からはこれまで通り理系は英語,文系の授業をフィリピン語で学習していきます。もちろんこれでも日本の教育と比べると国語の存在は薄いものですが,国語で書かれた教科書を用意するのに多大な努力を要すること,そもそもフィリピンの諸言語には学問的な語彙が不足していること(国語であるフィリピン語にも光合成という言葉は存在しません)などを踏まえると大きな改革であります。まずは母語で考える力をつけてから,第2,第3言語を習得していくというスタンスになってからまだ数年も経っていないので,どのような成果が上がるのかはわかりませんが,以上がフィリピンの言語教育の現状でした。


2. 日本の英語教育との相似点
 
  今まで書いてきたようなフィリピンの言語教育と日本の英語教育とで似通った箇所がいくつかあったように思います。

 まず,どちらも実用的な英語の習得を最大の目標としている点です。例えば,私たちが大学1年生の間に学んだ第2外国語の主な目的がその言語を使えるようになるためだったのかといえば決してそうではなかったはずです。どちらかというと教養として学んでおくべき,というような教養的側面が強かったように思います。それに対して,今の日本の英語教育の目標を見ると,多くの場面で「コミュニケーション能力」と言った言葉が使われており,教養的な側面よりも実用的な,「頼むからみんな英語が喋れるようになってくれ・・・!」というようなことが感じ取られます。これは前述の通りフィリピンでの言語教育でもそうで,「英語が話せる国民が増えること=海外で働ける人材の増加→国の収益の増加」という考えがあります。

 次に,外国語である英語を他教科の授業に取り入れる点です。フィリピンでは英語が外国語でなくなってからしばらく時間が経ちますが,日本でも他教科を英語で教える取り組みが行われようとしていることを考えると,両者の共通点とすることができます。


3. 日本の英語教育との相違点

 両者を比較してみる場合,いくつか留意しておかなければいけない相違点があります。

 第一に,両者の英語教育の始まりを見てみると,日本は長い鎖国の後に外国船との交流を通じて英語学習の必要性を感じ始めたのが始まりです。一方でフィリピンでは,スペインによる長い植民地支配が終わったかと思えば,今度はアメリカによる植民地支配が始まり,英語を話せなければいけない状況に陥ったことが英語学習の始まりです。「英語を話さなければいけない」という必要性に関して両者で全く異なります。

 また,日本は日本語話者が大多数を占めますが,フィリピンは多数の民族・言語から成り立つ多民族国家です。その点においても共通言語としての英語(またはフィリピン語)の必要性というものは日本とは変わってきます。


4. 今後の日本の英語教育についての考察

 フィリピンの言語教育について軽く紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点をいくつか挙げたことを踏まえて,今後の日本の英語教育がどういったものになっていくのかについて私が考えたことを書いていきます。

 留学中,フィリピンの言語教育を見てきてずっと頭の中に残っていたことは,「もしかすると日本はフィリピンの英語教育の道を辿り始めたのではないか」ということです。現在の日本では,生徒が英語を話せるようになることを最大の目標として掲げているように感じます。国際競争の中で英語が得意な国と苦手な国では大きな差が生まれてしまいますし,私自身も英語を話せるようになることはたくさんの利益があって素晴らしいことだと考えています。しかし,今の英語教育の方向性を見てみると,できるだけ学校現場で英語に触れる機会を多くすることに力が注がれているのではないでしょうか。早ければ幼稚園の段階から英語に触れさせる機会を作っていき,小学校では算数や理科などの教科も英語で教えられるようになり,とにかく英語を中心とした教育が望まれているとするならば,それは今までフィリピンで行われてきた言語教育に近いものになっていくような気がしてなりません。

 少し大げさなのかもしれませんが,このままではフィリピンのように英語で義務教育の全てを行い,英語ができる生徒がいわゆる「勝ち組」で,英語ができなければ数学など他の教科の授業すらも理解できないような事態になってしまうのではないでしょうか。また,英語は達者に話せるんだけれども,母国語であるはずの日本語でまともに読み書きができないような生徒が生まれてしまうかもしれません。この授業の最後に先生が「母国語ではない言語でなされる教育は,知的な格差を生み出してしまう。母国語で考え,学ぶことができなくなることは,英語を使うことができる生徒を生み出すことの利点以上に大きな損害をもたらしてしまう」というようなことをおっしゃっていましたが,私は留学中に実際にそのような状況に陥ってしまっているフィリピンの教育を見て,日本ではそうなってはいけないと考えてきていましたので,全身を使ってうなずきたくなるくらい同意しながら聞いていました。

 もちろんすでに書いた通り,日本とフィリピンという国は全く異なる文化的,歴史的背景を持っており,一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません。ですが,フィリピンという国での言語教育の経緯から,日本の英語教育が学ぶべきことはあるはずです。英語「で」教育をしていこうという取り組みから,母国語で思考することができる素地をまずは育てようという教育方針に変えた国があるのならば,今,強力な母国語を持っているこの国がその母国語の価値を薄めてまで英語を学ばせなければいけないのかというと,少し疑問があります。英語教師を目指すものとして,英語を教えるのだからこそ日本語という母語を大切にしなければいけないと強く感じました。





2017年3月15日水曜日

中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました



 本日、中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました。以下には、制限字数を超えた提出前の草稿を掲載しておきます。私の悪い癖で、短い文章に多くの論点を盛り込もうとしているので、これでもわかりにくい点があるかもしれませんが、一つの意見としてお読みいただけたら幸いです。



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 中学校学習指導要領の「外国語」は、浅い「英語力」ばかりを追求しており、学びの主体性・対話性・深さを奪うものとなるでしょう。またその「英語力」の成果も、やがては人工知能に駆逐されるようなものでしょう。今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画として適切ではないと考えます。以下、四点に分けて説明します。


(1) コミュニケーション観があまりに浅薄であり、学びの主体性・対話性・深さが追求できません。

 提案された学習指導要領を読みますと、コミュニケーションとは「簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりする」程度のものとしか理解されていないようです。しかしこれは「情報伝達」にすぎません。

 たしかにコミュニケーションには「情報伝達」という側面もありますが、それ以上にコミュニケーションとは、相手の心を読みながら、相手と自分との関係性から、もっとも自分に忠実でかつ相手に対して効果的な行為を行うことであり、その展開においてはしばしば自らが予想もしなかったり受け入れがたく思えたりする事態もしばしば生じる、複合的な相互作用です。

 このようなコミュニケーションを、優れた中学校英語教師は、日々の授業で実現させています。また入念な準備の末、英語でのスピーチを語り合うことでも実現しています。コミュニケーションにおいて重要なのは、参加者が主体性を発揮し、対話でそれぞれが発見をしながら、共に理解を深めてゆくことです。提案のコミュニケーション観があまりに浅薄なので、以下の(2)や(3)、ひいては(4)といった問題が生じています。

 付言しておきますと、「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」およびそれを「働かせ」ることという表現については、それが意味することを私はまったく理解できません。私は拙いながらもこれまでコミュニケーション(能力)について研究を続けてきましたが、これらの表現が具体的に何を指しているのいっこうに想像できません。これらの表現は、日常語としても学術語としても意味がよくわからない表現だと考えます。


(2)  日本国における公教育で日本語使用を排斥する教育的意義が理解できません。

 高校に引き続き中学校でも「授業は英語で行うことを基本とする」理由として、「生徒が英語に触れる機会を充実する」とともに、「授業を実際のコミュニケーションの場とする」ことが挙げられています。しかし、これは上述したように極めて浅いコミュニケーション理解に基づくものです。

 生徒と教師が充実したコミュニケーションを実感するのは、それぞれの主体性が発揮された対話で、自らとは異なる見解などが立ち現れながらも、それを共有して、それぞれの理解が深まることです。端的には「ああ」、「なるほど」といったことばが思わずもれるような言語経験です。

 こういった言語経験を行うには、少なくとも中学校段階では、中学生の知性と感性の根幹である日本語を適切に使用することが必要です。いたずらに「英語に触れる機会」と称して定型的で凡庸な英語表現ばかり教師が使っても、生徒も教師もコミュニケーションを実感できません(多くの教師が毎時間尋ねる曜日や天候についての英語質問という「英語に触れる機会」が、どれだけ学びの主体性・対話性・深さを促進(あるいは阻害)しているかについて想像してみてください)。

 促進すべきは、(上述した意味での)英語でのコミュニケーションであり、英語の機械的使用ではありません。


(3) 「読むこと」があまりに単純化され、主体性・対話性・深さを追求することができません。

 「読むこと」に関しては「内容を表現するような音読」などと評価できる記述もありますが、その根幹は、情報や概要や要点だけをとらえるものであり、内容(字義・明意)を正確に読み取ること、および正確な内容理解に伴う可能な解釈(含意・暗意)の理解を行うことという「読むこと」の本質が失われています。

 情報・概要・要点などを把握することを超えて、字義・明意を正確に把握すること、さらにはそこから生じる含意・暗意を解釈することは、中学英語でも可能です。例えば"I have brothers and sisters"から話者は最低五人兄弟であること(字義・明意)を把握し、その文およびその文脈から話者の暮らしぶりなど(含意・暗意)を解釈することにより、生徒が英語を主体的に読み解こうとし、対話を重ね、英語理解を深める実践などがあります。

 しかしこのように英語をきちんと「読むこと」には、中学校段階では日本語使用が欠かせません。日本語を適切に使ってこそ、英語が深く理解できます。そしてその深い英語理解が、英語使用の源となります。授業における英語使用の機械的な強制は、英語教育を極めて表層的なものにするもので言語教育として不適切です。


(4) これからの人工知能の台頭を考えた上での教育の方向性が必要です。

 表層的な情報を読み取り、それを出力することは、近い将来、人工知能によって実現するでしょう。現時点でも職業的翻訳家や理工系研究者の少なからずは、機械翻訳を部分的・補助的に使用していますが、人工知能の機械翻訳の精度はこれからますます向上するでしょう。定型的な外国語日常会話でしたらスマホでも実現できる日は遠くないでしょう。

 そうなった時に必要な力は、表層的・表面的な入出力を行う力ではなく、機械・人工知能では実現し難い深い思考力・判断力・表現力です。現在の職業翻訳家や理工系研究者が機械の粗訳を見ながらそれを修正しているような力がこれからは必要です。そしてやがては機械を借りずとも英語で深い思考力・判断力・表現力を外国語で発揮できることが望まれます。

 中学校レベルといえど、この方向性をもつ必要がありますが、提案された「外国語」はやがては人工知能で駆逐されるような英語力ばかりを追い求めているように思えます。

 以上の四点から、今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画としてはあまりにも浅薄なものだと私は考えます。




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小学校学習指導要領(外国語)についてのパブリックコメントを提出しました
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html