2018年10月20日土曜日

熊谷晋一郎 (2018) 『当事者研究と専門知 -- 生き延びるための知の再配置』(金剛出版)



 金剛出版の『臨床心理学増刊第10号』である『当事者研究と専門知 -- 生き延びるための知の再配置』は非常に読み応えある書籍でした。



■ 研究の共同創造
 この本は、「研究の共同創造 (co-production)」という視点で企画編集されました。共同創造とはもともと公的サービスの創出に市民が参画する実践だそうです。

Wikipedia: Co-production (public services)
https://en.wikipedia.org/wiki/Co-production_(public_services)
ウィキペディア:協働
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%83%8D

 公的サービスの共同創造では、市民はサービスの単なる受け手・消費者であるだけではなく、公的機関と共にサービスを企画・デザイン・運営・管理することにも参画します。

 私が関与している英語教育研究でいうなら、現在、学会で行われている研究のほとんどは研究者によって企画・実行・評価されています。英語教育研究を実践的な分野として考えるなら、英語教育の当事者である学習者や教師が切実に感じていることこそが研究のテーマになるべきですが、学会での研究はそういったニーズとはほぼ無関係に進められ、当事者は「自分たちが大切に思っていることがきちんと研究されればよいが・・・」と思いながらも、その思いは裏切られ続け、学会から興味をなくしています(当事者の中には、学会とは完全に独立して草の根で研究活動を始めているところもありますが、それはまた別の話として)。

 研究の共同創造の発想では、当事者が「このような研究がほしい」という企画を出し、研究者にそのテーマでの研究を依頼し(あるいは共に行い)、その研究を評価するという研究活動が推進されます。

 この本に話を戻しますと、この本はそういった共同創造の発想で、さまざまな困難を抱えた当事者がいわば "cross-disability"に当事者研究の課題を設定し、さまざまな研究者に原稿を依頼してできあがったものです。そしてその研究は編集責任者の熊谷氏によって総括されています。

 まずはこの共同創造という試みを知るだけでも、この本を読む価値はあると思います。

熊谷晋一郎「知の共同創造のための方法論」 (pp. 2-6)



■ 医学モデルの暴走

しかしもちろん当事者もこの本に貢献しています。その一つが、脳性まひという障害を共有する熊谷晋一郎氏(東京大学先端科学技術研究センター)と尾上浩二氏(Disabled People's International: DPI 日本支部)の対談です。


対談:継承すべき系譜1:運動 (pp. 28-38)

 ここでは「医学モデル」、つまり障害を疾病とみて、それを治し克服することに専念する考え方が暴走していた時代の恐怖が語られています。障害克服のためには、当事者は「生存権も人権も認められない医療の実験台のように扱われ」(尾上 p. 30)、「医療者だけでなく家族、当事者さえ医学モデルの内部でしか思考できなくなり、しかもそれが当事者を救おうとする善意の装いをまとっている」(尾上 p. 31)システムの恐ろしさです。
 暴走する医学モデルに対する障害者の抵抗の運動の長年の成果でもって、現在では障害者が医療実験台として自由を剥奪されるいわば「身体刑の時代」はほぼ終わりました。しかし今度は「生権力が作用する規律=訓練の時代」となり、当事者は「ほぼ自動的に自己反省を繰り返し、責任を一身に背負い、おのずと内向的になり、もはや怒りの声を上げる動因さえ根こそぎ奪われている」(熊谷 p. 31) とも言えます。

 科学と善意の名のもとに、どのようなことがなされてきたかが垣間見えるこの対談は、科学と善意を売り物にする職に就く者が一度は読むべきものかと思います。教育の世界においても、ここまでの程度ではないにせよ、当事者を軽視するような制度や慣習はあるはずです。障害者はいわば、社会の歪みをもっとも早くもっとも鋭敏に感じざるを得ない存在かと思います(それを是正するのが社会のあるべき姿なのですが、それはさておき)。障害者の経験から、いわゆる「健常者」が学ぶべきことは大きいと思います。



■ 医師による医療人類学・社会学的自己省察

もう一つ私が非常に興味深く読んだ論考は、精神科医が自らを語った物語です。

熊倉陽介「医療者の内なるスティグマ -- 知の再配置の試みから」 (pp. 83-92)
(東京大学大学院医学系研究科精神保健分野)

 医師による医療人類学・社会学的自己省察ともいうべきこの物語りで私たちには精神医療に関する洞察を一気に深めることができます。そこでは「精神科という得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から、聴診器を身につけることによって身を守っていた」著者が、「こころという得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から身を守るべく、精神症状を客観的に評価したり診断したりするという別の鎧を手に入れて」精神科医となり、その結果、「人のこころには出会っていなかったように思う」 (p. 88) という述懐があります。医療という権力を帯びた場で、医療者の無知や偏見から、当事者がさらに傷を深める不幸についても語られています (p. 89)。「専門知識や職業人として求められる規範について、それによって得るものと失うものが求められる」 (p. 89) というのが著者の結論の一つですが、この結論が強い説得力をもって響いてきます。

 上と同じような蛇足的なアナロジーを付け加えてしまいますが、学校教師も、人間の成長という得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から、学力を客観的に評価したり診断したりするというテストという別の鎧を手に入れて、その得点向上に邁進することで学習者のこころと出会うことなく、少なからずの学習者がそれぞれに抱えている傷を深めているのかもしれません。

 英語教育においても、「そもそも英語力なんてこの私に必要なの?」「テストで測られている力が実際のコミュニケーションとずいぶん異なっているように思える」「英語の授業ではどんどんコンプレックスが強くなってしまうだけ」「英語力をつけるための塾も留学もお金がなければ何にもならない」といった矛盾はさまざまにあるはずです。

 世間で流通している英語教育にまつわる言説は、そんな矛盾に蓋をして実に美しく語られます。しかし、それは何に奉仕し何を抑圧している言説なのでしょうか。英語教育においても、熊倉氏のこの文章のように深い語りが語られ始めることを願っています。いや、願っているなどという他力本願ではなく、私自身も学校英語教育の矛盾を言語化するべきでしょう。

 英語教育学習者や英語教師などは、障害を抱えた方々から見れば「マジョリティ」かもしれませんが、マジョリティにはマジョリティなりの葛藤があり、それをうまく言語化しておかないと、いつか大変なことにつながりかねないというのが私の懸念です。実際、日本でもアメリカでも今まで「マジョリティ」とされてきた人々の鬱積がどんどん圧力を高めてきているように私には思えます。

マジョリティの当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/blog-post.html

 共同研究者と「英語教師の当事者研究」というテーマで研究活動を行っている私ですが、ある種の「マジョリティの当事者研究」という意識をもって研究を進めてゆくべきかとも思い始めています。

 その意味で、この本の野口裕二氏と大嶋栄子氏の論考から学んだことは、別のブログ記事で「英語教師の当事者研究」に即してまとめてみたいと思います。

 この記事では、その他の論考についても一切述べることができませんでしたが、とりあえず私なりのまとめと感想を述べました。ご興味のある方にはぜひ一読をお薦めしたい本です。








関連記事(当事者研究関係)

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

マジョリティの当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/blog-post.html



國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)



 昨年から話題の國分功一郎先生の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院) (第16回 小林秀雄賞)は、やはりものすごい本でした。こういうのを「哲学」というのだなと思わされ、「英語教育の哲学的探究」などという看板を掲げている私は恥ずかしく、いたたまれなくなります。ですが、そういった自己憐憫には耽溺せずに自分の分野で自分がやれることをやるだけだと開き直るしかないとも思っています。

 私はまだ一読しただけですが、とりあえず現時点での「お勉強ノート」をまとめ、今後の再読解への仮設的理解にします。これから何度も読んで、私の思考法を刷新したいと思っています。

 以下のまとめのページ数は本書のページ数です。まとめには私の表現・誤解などがかなり入っていますので、この本の論点に興味をお持ちの方は必ずご自身でこの本を読んでください。※印以下の文は補足です。まとめでは敬称略となっていることを予めお詫び申し上げます。


*****



■ 能動態と中動態の対立 (バンヴェニスト)

 能動態では、動詞は主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す。これに対立する中動態では、動詞は主語が過程の内部にある過程を指し示す(バンヴェニスト (1966) による定義)。 (p. 81)   言い換えるなら、能動と中動の対立は、主語が過程の外にあるか内にあるかである。 (p. 88)

 ※『週刊読書人ウェブ』の特集での國分の説明はわかりやすいので、ここに引用する。

 たとえば「曲げる」というのはこの対立[=中動態と能動態の対立]で言うと、能動に対応します。「曲げる」という過程は主語の外で完結するからです。それに対し、たとえば「反省する」というのは主語の内で起こる過程ですね。「惚れる」とかもそうです。中動態は僕らが知っている能動/受動の対立ではうまく説明できない事態をうまく説明してくれます。「惚れる」というのは能動でも受動でもない。単に誰かを好きになってしまう過程あるいは出来事が主語の中で起こっているだけです。中動態はこういう事態を実にうまく説明してくれる。

 能動と受動の対立では、自分が自発的・積極的・主体的にやるのか、それとも単に事態を受け入れているのか、やらされているのか、そういうことが問題になります。つまり「する」と「される」の対立であって、そのどちらかでしかない。しかし「惚れる」は「する」ことでも「される」ことでもないのです。それはいわば「起こる」ことです。僕らの言葉はこれをうまく説明できない。しかし、かつては能動態と中動態の区別があったわけで、これを簡単に説明できたのです。

特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)
https://dokushojin.com/article.html?i=1581

 ※二枝 (2009) によるならば、中動態 (middle voice) を考察に入れることで、"be born, be excited" といった「行為を受ける」という概念と結びつきにくい受動態表現や、"enjoy oneself, improve oneself" などの他動性の高くない再帰構文や、 "The door opened easily"といった中間構文の理解も容易になる。ちなみに現代英語で中動態的な意味を表す表現の中心的なものは「身体などの手入れ」(wash, shave, bath, get dressed)、「位置変化を起こさない動作」 (bow, turn around)、「身体の姿勢の変化」 (sit down, stand up) などである。
 二枝美津子 (2009) 「中動態と他動性」『京都教育大学紀要』 No. 114, 2009. (pp. 105-119)
http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no114/bkue11409.pdf



■ 出来事を私有化する言語によって描かれる行為

 私の身体で「歩く」という過程が実現されるにせよ、実に多くの要素が協働しなければならない。ところが、能動と受動を対立させる言語は、もっぱらこの出来事を、<私の>行為として、<私に帰属するもの>として記述し、いわば<出来事を私有化>する。 (p. 176) 。

 ※例えば、私はカメラを首から下げて歩いている時、しばしば思いがけず、気がついたらカメラを握ってある花の方に歩み始めていることがある。この歩行はその行為に先立つ私の「意志」によって説明するより、たまたま視界に花が入ったこと、その花が思いがけず可憐だったこと、近くに車が通っていなく危険がなかったこと、そもそも私がその時カメラを持っていたこと、その日はそれほど時間に追われていなかったからカメラを手にしていたこと、数日前から仕事に疲れ美的経験を欲していたこと、などなどの諸要素の縁が結実して起きたことと考える方がいいのではないだろうか。もちろん私の身体内部での実に様々な部位の協働に対して私が意志および意識を持ち合わせていないことは言うまでもない。(自由)意志という意識による行為の説明は、仔細に検討すると多くの問題をはらんでいる。

 

■ 意志という概念の設定 (アレント)

 私たちは常に過去からの帰結である選択に常に迫られているが、行為に責任を問うためには、どこかで過去からのつながりを切り裂き、その行為の選択が新たに開始されたとする地点を設定しなければならない。そこで設定されたのが意志という概念であるとアレント(『精神の生活』)は主張する。 (p. 132) 

 だが、これは「無からの創造」を求めるような定義であり、この定義は定義対象の存在の可能性を自ら切り崩してしまっている。 (p. 138)

 ※ 「自由意志」に関しては、リベットの古典的な実験以来、神経科学の分野でも疑義がもたれていることは周知の通り。
関連記事
"MIND TIME" by Benjamin Libet (and some thoughts of mine)
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/08/mind-time-by-benjamin-libet-and-some.html

 アレントによる「意志」の定義は、意志の虚構性をうまく説明しているのかもしれない。とはいえ、この虚構は、近代社会ではーーあるいは能動態と受動態の対立で物事を考える言語社会ではーー社会的・法的にとても有用とされてきたものである。しかし、この本で國分が述べるように、依存症(およびそこからの回復)といった現象を考えると、この対立はむしろ有害かもしれず、私たちは中動態による思考を(も)復活させた方がよいのかもしれない。



■ 権力の関係を能動性と中動性の対立で定義する (フーコー)

  また、アレントの「意志」概念は、上司からの非暴力的なパワハラで、ある行為をやらざるを得なかった部下といった場合をうまく説明できない。例えば狡猾な圧力を受けた部下が、公的文書に虚偽の記載をするといった背任行為をした場合、それはあくまでも部下の意志による能動的行為であり、その行為の責任は部下にしかない、と糾弾するのはどこか直感的に受け入れがたい。かといって部下は、自分の意志をまったく奪われていたというような意味で受動的であるわけでもない。

 フーコーは次のように説明する。

 その人が本当はやりたくない行為を、暴力を使わずに不承不承やらせる非自発的同意をもたらす権力の行使、つまり少なくとも外見上はその人が自分の能動性を発揮してその行為をしたように見せることにおいて、その人は能動的でもあるし受動的でもある。逆に言うなら、能動的でもないし受動的でもない。

 この矛盾は、権力の関係を能動性と受動性の対立ではなく、能動性と中動性の対立によって定義すると解消される。つまり、権力の行使者は行為の過程の外におり能動的である。他方、権力を行使されて行為を行った者は行為の内におり中動的である。 (p. 151) 

 言い換えるなら、部下は虚偽記載の報告書を書きそれに署名したという点である行為を中動態的に行ったが、同時に、パワハラ上司も、巧みな行動誘導という行為で自分以外の対象(部下)にある結果をもたらしたという点で能動的な行為を行った。

 フーコーは「中動態」という用語なしで中動の様態を思考することができたといえる。 (p. 163)

 ちなみにこのフーコーの権力観はアレントの権力観と異なる。 (p. 154)

 ※パワハラに長けた権力者は、部下に何かを力ずくでさせることは決してしないが、部下が不承不承にあることをせざるを得ないような状況に部下を心理的に追い込むことを非常に得意とする。その巧みな権力行使が問題視されても、そういった権力者は、「私はそんなことをやれと言ったことは一つもない」と述べ、部下がその行為を権力に「やらされた」という受動性--つまりは陰の行為者は権力者自身であることーーを否定し、例えば「あくまでもあれは部下が勝手にやったことだ」と部下の能動性を主張する。たしかに部下は完全な受動性において行為を「やらされた」のではなく、中動性においてある行為を行った。だが私たちは、その行為にその部下の能動性を認めるべきではないだろう。能動的であったのは、その行為の外にいて心理的な圧力をかけ続けた権力者に求めるべきではないだろうか。
 


■ 自動詞表現と受動態はどちらも中動態に由来する(細江逸記)

 英文学者でありながら、フランス語・イタリア語・スペイン語・ロシア語・ロシア語・スカンジナビア諸語の現代ヨーロッパ語、および朝鮮語・アイヌ語・琉球語など日本語に比較的近い言語、さらにはサンスクリット語・ギリシャ語・ラテン語の知識をもった細江 (1928) は、インド=ヨーロッパ語においてはもともと受動態と能動態の対立はなく、受動態はあくまでも二次的に発展したことを示した。

 そこからみちびかれる結論は、自動詞表現と受動態はどちらも中動態に由来するもので両者は兄弟のような関係にあることである。 (pp. 178-179)  細江は能動態(「過向性能相」)を「動作が甲より出て乙に過向し、その乙を処分すること」、中動態(「不過向性能相」ないし「反照性能相」)を「動作が行為者を去らずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの」と定義した。これはバンヴェニストの30年以上も前に、細江がバンヴェニストの中動態の定義に到達していたことを示す。 (p. 180)

 細江はまた中動態の意味の根底には「自然の勢い」があるとも述べた。 (p. 186)

※ この細江の研究を國分は、「いまでも通用するというより、いまではもうほとんど見られなくなってしまった真の碩学が残した高密度の議論と言うべきであろう」 (p. 178) と評しているが、まったくそのとおり。「言語教育を研究しています」と述べながら、日本語以外には英語と(わずかばかりの)ドイツ語しか知らない私としては真剣に反省しなければならない。
 ちなみに國分はこの本を書くために、東京神田のアテネフランセでギリシャ語を学び始め、スピノザの『エチカ』のラテン語原文をノートに写しながらキーフレーズの暗記を始めたという(「あとがき」)。彼はこうも述べている。

ラテン語原文を何度も読むことで、それまでどうしてもうまく理解できなかった論点を突破することが可能になった。翻訳で読んでいたならば、ラテン語の動詞の態のことなど気づかなかっただろう。やはり、「読めよ。さらば救われん」こそが研究における真理である。 (p. 333)

 人文・社会系の人間の一人として、肝に銘じておきたいことばである。



■ ある仮説としての言語史(「動詞の憶測的期限」)

 名詞表現 
→名詞から発展した非人称動詞
→その動詞が中動態の意味を獲得 
→中動態は自らに対立する能動態をその派生体として生み出す
→中動態はさらに受動態という派生体も生み出す
→やがて中動態は受動態にその地位を奪われる
→中動態と能動態の対立は、能動態と受動態の対立にとってかわられる
→中動態はその存在すら忘れられるが、それが担っていた意味は分割され、自動詞、再帰表現、使役動詞などなどの諸表現に相続された。 (p. 191)

 動詞の原始的な形態は「起こる」こと(出来事)であり、「する」と「される」の対立とは無縁であった。 (p. 198)

 ※これは憶測に過ぎないと、國分は何度も述べているが、この仮説により見通しが一気に得られることは確か。ちなみに、私は英語話者をファシリテーターとした "Writing Group" にここ二年近く参加しているが、いつも思うのは「英語話者は、<Agent + Action> という図式で語るのが、本当に好きだなぁ」ということ。英語話者からすれば「海が見える」なんていう日本語表現は本当に奇妙なのだろうと思う。
   とりあえず「英語話者に受け入れられやすい英語を書く」ことを当座の目標としている私は、最近できるだけ<Agent + Action>という図式で英語を書くようにしているが、日本文学の英訳などでは、もっとこの図式から外れるが日本語の感覚に近い英語表現を多用するべきなのかもしれない。



■ スピノザによる中動態的な思考

 『ヘブライ語文法綱要』という文法書も執筆したスピノザは「言語を言語として意識していた」 (p. 235) 哲学者であるが、彼はヘブライ語の不定詞について、ヘブライ人たちは「行為する者と行為を受ける者が一つの同じ人物である場合」を新しい第七番目の種類の不定法としてつくる必要があると考えた、としている。 (p. 234) これは「内在原因」 (causa immanens) を表現するような不定法である。 (p. 235)

 スピノザは『エチカ』の第1部定理18において「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因ではない」 (Deus est omnium rerun causa immanens, non vero transiens.) と定義したが、ここでの "transiens" は「他動詞の」とも翻訳できる。つまり超越原因=他動詞的原因とはその作用が自分以外の他に及ぶ原因であり、「神=自然」というスピノザのテーゼに反する。このような神は内在原因として説明されなければならない。この超越原因=他動詞的原因と内在原因の対立は、能動態と中動態の対立を思い起こさせる。 (p. 237)

 スピノザは「中動態」という用語を用いたことはないが、彼の思想の中には中動態に通じる概念が明確に存在している。 (p. 236)

 ちなみにアガンペンは、ジル・ドゥルーズがスピノザ研究で論じた「表現」の概念に注目し、「内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろ、それが第二の要素のなかで自らを表現するということを含意している」と述べた。

※ 上には書かなかったが、國分はスピノザの「コナトゥス」 (conatus) 概念についても言及している。先日、ダマシオの最新刊のまとめを書いた時も、私はダマシオがこの概念について言及していたことをまとめから省いたが、この概念についてはやはりもう少し勉強したほうがいいのかもしれない。

ダマシオがスピノザのコナトゥス概念について述べている箇所は以下の通り。

The continuous attempt at achieving a state of positively regulated life is a defining part of our existence--the first reality of our existence, as Spinoza would say when he described the relentless endeavor of each being to preserve itself. A blend of striving, endeavor, and tendency comes close to rendering the Latin conatus, as used by Spinoza in propositions 6, 7, and 8 of the Ethics, part 3. In Spinoza’s own words, “Each thing, as far as it can be its own power, strives to persevere in its being,” and “The striving by which each thing strives to persevere in its being is nothing but the actual essence of the thing.” Interpreted with the advantage of current hindsight, Spinoza says that the living organism is constructed so as to maintain the coherence of its structures and functions, for as long as possible, against the odds that threaten it. It

Damasio, Antonio. The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures (Kindle の位置No.610-616). Knopf Doubleday Publishing Group. Kindle 版.

関連記事
Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
http://yosukeyanase.blogspot.com/2018/10/damasio-2018-strange-order-of-things.html
Wikipedia: Conatus in Spinoza
https://en.wikipedia.org/wiki/Conatus#In_Spinoza



■ スピノザにおける能動と受動

 スピノザによる能動と受動の概念は、私たちの現在の常識では少しわかりにくい。(少なくとも文法形式による能動態・受動態の区別で定義される能動と受動とは異なる)。

 スピノザによるならば、私たちの変状が私たちの本質を十分に表現しているとき、私たちは能動である。逆に、私たちの変状が外部からの刺激によって圧倒され私たちの本質を本質というよりも外部の刺激の本質を多く表現しているとき、私たちは受動である。  (pp. 256-257) (『エチカ』第3部定義2を参照せよ)

※ この論点を、きわめて安直に英語教育の現場に適用するなら、一見生徒が英語をたくさんしゃべっているクラスでも、生徒は(スピノザ的な意味で)能動的ではなく、受動的である--すなわち、教科書などの模範文や教師からの影響を受けて口を動かしているだけ--ことはしばしば観察される。

 ちなみに "speak English" と "speak in English" の違いは、単に形態的に能動性(他動詞的)と中動性の違いに対応しているだけでなく、意味的にも能動性と中動性の違いに対応しているのだろうか。つまり、"speak English" とは「とにかく何でもいいから、英語という言語形式を産出せよ(=自らの外に出せ)」ということを含意しかねないが、 "speak in English" はどちらかというならば、「ある者があることを英語で語り、自らの心理的・社会的状況を変化させた」といった含意をもつとはいえないだろうか(安直な発想による素朴な疑問)。

補記(2018/10/21)

 上の記述はあまりに雑なので、少し補っておきます。

 英語母語話者が教師として英語を教えている日本の教室を考えてみましょう。教師がある生徒に発言することを求めます。ですが、その生徒はもごもごと日本語で発言を始めました。教師は(笑顔であるいはしかめっ面で) "Speak English, please" と言うでしょう。しかしこの状況で "Speak in English, please" と言う可能性は前者の可能性よりも低いように私には思えます(私の直感なので間違っているかもしれませんが)。

 今度はその授業で、生徒が少グループごとに英語で話し合う場面があったとします。教師は教室の中を歩き回りながら、それぞれのグループでどのような英語での話し合いがなされているかを観察します。ところがあるグループでは日本語で話し合っていました。教師は "Speak English, please" と言うかもしれませんが、この場合は "Speak in English, please" とも言いそうです。少なくともこの状況におけるこの二種類の発言の許容度は同じぐらい高いのではないでしょうか。

 以上は私が想定した状況で私の直感に基づいた判断をしているだけなので、これをもとにきちんとした議論を組み立てることは本来できません。しかし、とりあえず話を進めるために、以上の想定・判断が正しいと仮定させてください。

 第一の事例は、一人の生徒が他のすべての人々(教師と残りの生徒)に対して語りかける行為でした。これは "speak" という動詞が「主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す」行為と思われます。この行為は、話者(指名された生徒)が、彼以外の他者(教師と他の生徒)に対して「英語」と認識される言語形式を聞かせること、です。だからこそ "Speak English, please" という(バンヴェニストが定義したような意味での)能動的な表現が好まれるとは考えられないでしょうか。

 これに対して第二の事例は、ある少グループの生徒が内部で語り合っている事例でした。ここで彼ら・彼女らに求められているのは、「自分たちが語って自分たちに影響を与える」という行為であり、ここでの動詞 "speak" は「主語が過程の内部にある過程を指し示す」とも捉えられるので中動態的な "Speak in English, please" も容認されるのではないでしょうか。もちろん、ここで求められている行為は、グループの生徒たちが、そのグループの外にいる教師に対して英語と認識される言語形式が聞こえるようにすること、とも捉えられます。ですから "Speak English, please" も容認されるように思えます。

 直感的判断に基づく生煮えの思考ですので、間違っているかもしれませんが、とりあえずは仮説を出して考えるという方略に基づき、ここに仮説を出してみる次第です。ご意見のある方は何らかの方法でお知らせくださったら幸いです(ただしこのブログのコメント欄は、ロボット投稿があまりに多いので閉鎖しています。私のメールアドレスは広島大学のホームページで検索していただけたら出てきます)。




■ スピノザにおける自由

 自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である。 (『エチカ』第1部定義7)。つまりスピノザの考えに従うなら、自由と対立するのは必然性ではなく強制である。 (p. 262)

※ とっぴな例に思えるが、合気道はこのスピノザ的な意味での自由を理想としているとは言えないだろうか。つまり本来の自分を表現することを理想とし、たとえ外敵に襲われ自分らしさを損なわれそうになったとしても、自分らしさ(具体的には自分がもっとも動きやすい姿勢・体勢)を保つ。さらには、相手を対象 (Object) として分離して考え他動詞的に制圧してしまうのではなく、自分が自分らしく立ち続ける中で(自分の行為を自分自身の内に働かせる中で)、結果的に相手の攻撃を無効にするということである。そしてそれは自己の表現であると同時に自分よりもはるかに大きなもの(スピノザ的に言うなら神)の表現である、という考え方である(これまた安直なアナロジー 笑)。



■ 中動態の世界を生きるということ

 「私たちは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。」 (pp. 293-294)

 だが、私たちはそのことになかなか気がつけない。法も中動態の世界を前提としていない。私たちは自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。 (p. 294)

 ※私たちの日常的な行為は、(学校文法的な意味での)能動態的に<私は+私の行為を+行う>という構図で捉えるよりも、中動態的に「いつのまにか(ついつい)ある行為をしているという出来事が私に生じていた>という構図で捉えた方がいいのではないだろうか。

 以前に書いたこのブログのある記事では、次のようにある論文の一部を翻訳した。

 私たちの言語の文法の基盤は、「行為者(主語)が何か(目的語)に対して行為する(動詞)」である。たとえば「ジャニーがリーディングの試験を落とした」である。 (The grammar of our language is built on a pattern of ACTOR (Subject) ACTS (VERB) on SOMETHING (Object) as in "Janie failed the reading test.") (p.77)

 社会文化状況的な見解によれば、上記の文法は誤っている。結果や成果は、複数の行為者の間での相互作用および相互作用の歴史の中から生じてくるのだ (flows from)。行為者が存在している状況。従事している活動。状況や活動およびそれらに含まれているすべての事柄についての解釈。その他の行為者による相互作用や参加。状況で利用された媒介的な手立て(対象物、道具、テクノロジー)。相互作用が生じた時間と空間。これらの混沌は「システム」と呼ぶことができる。「活動システム」 (activity system) や「行為者-行為体ネットワーク」 (actor-actant network) と呼ぶ者もいる。したがって私たちの教育研究と教育評価の文法は「行為者(主語)が何か(目的語)に対して行為する(動詞)」 (ACTOR ACTS on SOMETHING) ではなく、「結果XがシステムYから生じる」 (RESULT x FLOWED from SYSTEM) といったものであるべきだ。 (pp.77-78).

関連記事
On Qualitative and Quantitative Reasoning in Validity (質的研究と量的研究における妥当性の考え方)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/09/on-qualitative-and-quantitative.html


 しばしば「やる気」も、"How can I motivate my students?"と、教師が能動性を発揮し、他者化された学習者をどう教師が望むように学習させるか、という権力的な関係の話になってしまうが、元々、 "be motivated"とは中動態的な事態であり、誰か他の者の能動により受動的に引き起こされる事態ではないのではないだろうか?

 教師はよく "How can I motivate my students?" と能動態の文で考えるが、そもそも私が他人を "motivate" するということは自然なことなのだろうか?"motivation (motive)" や "motivate" あるいはそれらの訳語と考えられる「動機」や「動機づけ」という語を当たり前に使っている現代日本人は、「誰かが誰か他の人に動機を与える」や「誰かが誰か他の人を動機づける」といった表現を何の問題もなく受け入れるが、それらの表現は私たちをうまく表現しているだろうか?

 もし「動機」ということばをそれよりも昔から日本で使われてきたと思われる「やる気」に換えるなら、「誰かが誰か他の人にやる気を与える」や「誰かが誰か他の人にやる気づけられる」といった表現は奇異というか胡散臭くなるように私は思える(まるで妙な自己啓発セミナーに出席したみたいで)。私の個人的な感覚では「やる気」は自分の中に湧くか湧かないかのものであって、他人に制御されるものではない(というよりも自分でも制御できるものではない)。

 英語の表現に戻るなら、私は "to motivate someone else" だけでなく、 "to motivate oneself" という表現も私は不自然であるように思える。もちろん現在の英語では "be motivated" という表現があるから、それをもとにした「文法的創造性」で"motivate someone else" や "motivate oneself"  といった表現も生み出すことができる。だがこれらはいわば文法的創造性によるやや過剰な派生であり、私たちの心のあり方を逸脱した事態を表現しているとはいえないだろうか。そしてその表現が、やがては私たちの現実としてみなされてしまうようになっているのではないだろうか?

 少なくとも私は誰か他人を目的語(対象)にもつことができる「動機づけ(る)」という表現よりも、あくまで自分に生じるか生じないかの出来事の表現である「やる気が出る」の方がずっと自然に思える。だから私は某教育センターで学習意欲に関する研修講師として三年間関与しているが、そこで私は基本的には「動機(づけ)」ということばは使わず、「やる気(が出る・出ない)」ということばを使っている。

 ここで脱線して変な例を出すが、日本語を母語にしている私にとって「腹減った」(あえて直訳調に英語にするなら "The stomach is empty")というのは、とても即物的(客観的)であると同時に心理的(主観的)でもある便利な表現であるように思える。これが英語の "I am hungry"となると、屁理屈が好きな私は「なぜ<私>という抽象的な概念をここでわざわざ出す必要がるのだろうか」と思ってしまう。さらにドイツ語で "Ich habe Hunger" となると、私はそれを「<私>ナル存在者ハ、<空腹>ナル対象ヲ、<所有>スルトイフ行為ヲナス>」と翻訳してしまい、「このような言語を使っていたら、抽象的な哲学が好きになるはずだ」と苦笑してしまう。

 この話は笑い話にせよ、「動機づけ」という問題は教育において重要である。

私たちが教育を語ることばの文法についても、もっと自覚が必要なのではないか。

すくなくとも言語教育者であるならば。




追記

この本のどの章も面白いですが、メルヴィルの『ビリー・バット』を題材にした第9章は非常に具体的で英語教育関係の人間にも読みやすい章となっているかと思います。この章を題材に、英文学者、英語学者(言語学者)、哲学者を招いてシンポジウムが開けたら英語教育の学会も多少は面白くなるでしょう。


追追記

以下の『週刊読書人ウェブ』の記事は非常に読み応えがあります。

特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店)
https://dokushojin.com/article.html?i=1580
特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)
https://dokushojin.com/article.html?i=1581

また、以下の現代ビジネス所収のエッセイを読んだ上で新潮社サイトの動画を見ると、國分先生が中動態の議論を通じておっしゃりたいことがさらによくわかるように思えます。

現代ビジネス:私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348
新潮社:第16回 小林秀雄賞
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/kobayashisho/16/



 







2018年10月15日月曜日

マジョリティの当事者研究


たまたまツイッターで知った、岩永直子 (BuzzFeed News Editor, Japan)氏による熊谷晋一郎氏への連続インタビューは非常に面白いものでした。その第三回目で、熊谷氏は、杉田俊介氏のことばを引用しながら、「マジョリティの当事者研究」について語っています。


不要とされる不安が広がる日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)


詳しくは上のインタビュー記事を読んでほしいのですが、その趣旨を私なりにまとめますと、以下のようになります。


(1) マジョリティの言語的貧困:マジョリティである多数は男性は、社会的にあまりにも優遇されてきたので、自らを表現することばが貧しい。

(2) 身体には嘘はつけない:自分のことばを内省する場合は自意識の問題だからいくらでも言い訳が効く。だが、自分の身体の声を聞くのは怖い。

(3) 苦しさを表現できずに衰弱するマジョリティ:マジョリティ側の人間が「虐げられ傷ついている」「幸福ではない」といった言語化しにくい被害者意識をもったとき、彼ら・彼女らは、マジョリティであるがゆえに表面化することができず、自分が衰弱していくように感じる。

(4) マジョリティの自責・他責:日常言語でうまく言い表すことができない見えにくい困難をもつマジョリティは、自分を責めたり、暴力的で露悪的な言動を取るようになりかねない。ひいては排外的・排他的な集団に急速に取り込まれてしまう。

(5) 現在の対立軸:対立軸は「リベラルvs反リベラル」や「マイノリティvsマジョリティ」ではなく「見えやすい困難vs見えにくい困難」ではないか。

(6) マジョリティの困難:マジョリティも見えにくい困難を抱え込んでおり、罪悪感や被害者意識、見えやすいマイノリティ性への複雑な感情を募らせているのかもしれない。

(7) マジョリティの当事者研究:マジョリティにも自分たちの困難を正直に見つめことばにしてゆく当事者研究が必要なのかもしれない。


これらに、私の解釈(蛇足)を付け加えます。

(1) の「マジョリティの言語的貧困」とは、別段、マジョリティが知っている語彙が少ないということではありません。私見にすぎませんが、マジョリティの語彙はしばしば、形式的あるいは定型的に語られる「使い古されたことば」 (ハイデガーの "Gerede" ???) に過ぎず、聞いていてどこかしっくりきません。上滑りというか、キャンキャン騒ぎ立てられるだけで、聞こうとしている私の身にしみわたってきません。聞いていてどうも集中できませんーーもちろんこれには聞き手である私の問題も絡んでいるのでしょうが、そのことはここで割愛しますーー。

これに対して、たとえば先日の当事者研究全国交流集会名古屋大会での発話者ーーほとんどすべてがマイノリティーーが自らの困難を語ることばは豊かでした。力があり、中に血が通っている実感があります。ことばにその人の存在が込められています。ことばの意味とことばの息遣いにまったく齟齬がありません。ことばが迫ってきます。

関連記事
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

私が敬愛してやまないある中学校英語教師は、かつて「家庭などで苦しい思いをしている子どもこそ深いことばをもっている。私はそのことばを英語にする手伝いをしたい」とおっしゃっていましたが、この観察もこの (1) の論点につながるようにも思えます。

マジョリティのことばは貧しく、しかし、それが世間に流通しているだけに、マジョリティは時にそのような空々しいことばを過剰にわめきちらしてしまうのかもしれないーーちょうど、問題行動を引き起こして自分でもどう自分を表現すればよいかわからずに沈黙する子どもに対して滔々と説教する教師のようにーーという可能性について私たちはきちんと考えるべきかと思います。


(2) の「身体には嘘はつけない」については、身体を騙したり身体に無理強いをさせ続けた末に、症状の形で身体からの逆襲的なメッセージを受け取った人は納得できるのではないでしょうか(私も何度もそのように身体からの強烈なメッセージを受けました)。日頃から身体の声を聴き取って、その声にしたがって生きてゆけばいいのでしょうが、自分の身体を否定するような意識に絡め取られてしまった人は、身体の声を聞くのを怖がります。

熊谷氏はインタビュー (2) で、そのような人々を精神科医のローウェンの説を引きながら「仮面と現実の自分を区別することが難しく、身体を自分の意思の従属物とみなしており、『こうあるべき』という強靱な意志によって、みずからの身体的な感覚や感情さえもその仮面の下に抑えこむ傾向」をもつ「ナルシスト」と称しています。


 

ともあれ、身体の声を聞くことを拒み続けることによってかろうじてマジョリティに属している人々は少なくないように思います。マジョリティからマイノリティに「転落」した人々は、時に解放的な笑いで自分を表現しますが、その笑いの自然な響きをマジョリh地の人はすこし身体で感じるべきなのかしれません。


(3) の「苦しさを表現できずに衰弱するマジョリティ」の少なくとも一部は、そんなナルシストなのかもしれません。現代社会で暮らす自分に苦しさを覚えつつも、現代社会のタテマエからするとそれを「苦しさ」と認めることができずに、外面ではマジョリティを名乗りつつも、内面では苦しさを増大させ、自分は実は被害者なのではという思いを抑圧的に抱いてしまいます。


(4) の「マジョリティの自責・他責」は、そんなマジョリティが「こんな自分では駄目だ」と自分を責めたり、仕事とは関係のないところで思わず攻撃的になったり、あるいは鬱積する否定的な感情のはけ口をある一定の人々に見出し、排他的な集団に強烈に同調してしまいます。

トランプ大統領を支持したのは貧しい白人層、というのがこれまでの通説でしたが、最近は、実は収入や地位にかかわらず、息苦しさや停滞感を感じている白人がトランプを支持しているのではないかという論説も出始めました。

Charles M. Blow: White Male Victimization Anxiety
https://www.nytimes.com/2018/10/10/opinion/trump-white-male-victimization.html
Charles M. Blow: The Trump Circus
https://www.nytimes.com/2018/10/03/opinion/the-trump-circus.html
Paul Krugman: The Angry White Male Caucus
https://www.nytimes.com/2018/10/01/opinion/kavanaugh-white-male-privilege.html

私は、日本でも似たような現象が起こっているのではないかと思っています。もちろん政治を単一要因だけで分析するのは愚かなことでしょうが、「マジョリティの鬱積」という論点は今後重要になってくるのではないでしょうか。


(5) 「現在の対立軸」とは、そうなると「リベラルvs反リベラル」や「マイノリティvsマジョリティ」ではなく、「見えやすい困難vs見えにくい困難」つまり、自らの苦しさを表現できる人々と表現できない人々の間の対立ではないかという熊谷氏の指摘には私は大きくうなずきました。両者はそれぞれの、比較できないし、比較しても意味がない自分が所有する苦しみを負っているという点で共感し連帯もできるはずなのですが、見えやすい困難をもったマイノリティが自分の苦労を語るのを、見えにくい困難を内に秘めたマジョリティは、羨望の思いで見ているのかもしれません。さらにはその羨望を自分でも認めずに抑圧するがゆえに、それらのマジョリティの人々は自分でも制御できないぐらいの暗い情動を発現させてしまうのかもしれません。


それが、(6) の「マジョリティの困難」なのでしょう。ひょっとしたらマイノリティと共に現代社会の歪みや矛盾と戦うこともできるはずなのに、社会的タテマエから現代社会を肯定せざるをえない。仮に、そのタテマエから抜け出て、自分を語ろうとしても、現代社会に流通している語彙は、その苦しみを十分に表現できない。だから「使い古されたことば」で自分や仲間をごまかしたり、マイノリティを罵倒したりして、自らの苦しみに向き合えないーーこれがマジョリティの困難なのかもしれません。


そうなると (7) でいう「マジョリティの当事者研究」も必要なのかもしれません。先日の記事で、私は、英語教師志望学生を対象とした当事者研究で、今年は以下の原則を立ててみようかと考えているということを述べました。


(1) 身体のメッセージをもっと大切にしよう

語る人の表情や姿勢、聞く自分の身体の情動の様子をもっと観察しよう。それらが表現しようとしていることばにならない想いを大切にしよう。

(2) おざなりなことばを控えよう

沈黙を埋めるためにおざなりのことばを安直に発することなく、ことばが身体から湧き上がってくるのを待とう。頭の中だけで考えたような薄っぺらなことばで自分たちの真実をごまかさないようにしよう。

(3) 自らの表現を当事者研究の原則に照らし合わせよう

身体で表現してしまった自分の情動も、ついつい発してしまった自分のことばも、それが互いの可能性を豊かにするためになっているかどうかを、当事者研究の原則に照らし合わせてみよう。

関連記事(再掲)
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html


表面的に考えたら、これらの原則は学生さんの発言を少なくしてしまうのではないかとも思いますが、そうやって使い古されおざなりになったことばを捨てることが、「マジョリティ」の人々に必要なのかもしれません。そうして沈黙に耐え、自分の身体の情動が、それが身振りであれことばであれ、何かの形をとって現れてくるのを辛抱強く待つべきではないでしょうか。

関連記事
7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法(京都外国語大学)は予定通り開催します + 柳瀬の当日発表資料公開
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/715.html

7/22の公開研究集会「外国語教師の身体作法」での柳瀬発表の後の質疑応答
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/722_17.html


共同研究者とはまだ廊下で立ち話をしただけで、きちんと話し合っていませんが、いろいろと考えてゆきたいと思います。

ともあれ、非常に考えさせる熊谷氏のインタビューでした。


さまざまな弊害が指摘されるようになったSNSですが、このような出会いができるのは本当にありがたいです。




杉田水脈議員の言葉がもつ差別的効果 熊谷晋一郎氏インタビュー(1)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-1

「生産性」とは何か? 杉田議員の語ることと、障害者運動の求めてきたこと 熊谷晋一郎氏インタビュー(2)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-2

不要とされる不安が広がる日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-3

偏見を強める動きに抵抗するために 熊谷晋一郎氏インタビュー(4)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-4


追記
上の (2) のインタビューで、熊谷氏は、優生思想を以下のような理路で超克しようとしています。

・優生思想は、人が生産する財やサービスの価値で人間の価値を測ろうとする。

・しかし財やサービスに価値が宿るのは、そもそもそれらが人間に必要とされるからである。

・そうなれば、価値の源泉は人間が何かを必要とすることではないか。

・人間が何かを必要としているということには、無条件に価値が宿っているのではないか。

・優生思想は、その根源的な価値を見落としているのではないか。

この思想についてもしばらく考えたいと思います。私が専門とする(言語)教育も根源的には価値に基づくものですから。




関連記事(英語教育関係)

パネルディスカッション『今日叫ばれる"英語教育の危機"とは? ―そのとき教育現場は?―』 発題者:柳瀬陽介・樫葉みつ子・山本玲子 指定討論者:卯城祐司
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/blog-post_31.html

柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/12/2014-12-pp-14-28.html

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html


関連記事(当事者研究関係)

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html


関連記事(オープン・ダイアローグ関連)

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/poetics-of-open-dialogue.html

オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html

オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/love.html

当事者研究とオープン・ダイアローグにおけるコミュニケーション (学生さんの感想)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/blog-post_7.html

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/2016.html

比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2016.html