2017年11月8日水曜日

「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳




以下は、Michael Holquist (2002) Dialogism: Bakhtin and His World (Second Edition). Routledge. の第二章 Existence as Dialogue(対話としての存在)の抄訳です(一部は要約)。この本(の初版)には伊藤誓 (1994) 『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』法政大学出版局という優れた翻訳書があります。私はまず翻訳書を読んで原著(第二版)を読み、それからその原著の一部を翻訳しました。

ですから以下は(も)、いわゆる物語論を理解するための、私個人用の「お勉強ノート」となります。この本は決して平易に書かれた本ではないので、以下の翻訳も読みにくい・理解しにくいものが多いかと思います。しかし私としては一度翻訳した上で、それからその翻訳の日本語を自分なりの日本語にいわば再翻訳しないと、この本で書かれていることが自分のものにならないと考え、そのための過程として下に拙訳を掲載する次第です。いつものように、私の誤読・誤解などがありましたらご指摘いただけたら幸いです。

※ 以下のページ数は、 “Holquist, Michael. Dialogism: Bakhtin and His World (New Accents). Taylor and Francis. Kindle .” で示されたページ数です。




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■ 知識は一元的に生じるものではないからこそ、知の理論は対話の理論になる

翻訳:バフチンの思想は、いかにして私たちは知るのかについての論考である。これは対話に基づく論考 (a meditation) であるが、それは、他の多くの知の理論と異なる。バフチンが提示する知識の場所 (the site of knowledge) とは決して一元的 (unitary) なものではないからである。 (p.16).


■ 意識とは他者性、あるいは中心とそれ以外のすべてとの差異の関係

翻訳:対話性 (dialogism) の考えでは、意識をもつ能力そのもの (the very capacity to have consciousness) は他者性 (otherness) にもとづいている。この他者性とは、たんなる弁証法的疎外 (a dialectical alienation) ではない。弁証法的疎外は、止揚にいたる過程であり、やがては高次の意識における統一的同一性 (a unifying identity) を与えてくれるものである。だが対話性はそれとはまったく逆である。意識とは他者性なのだ。もう少し精確に述べるなら、意識とは、中心と中心以外のすべてとの差異の関係 (the differential relation between a center and all that is not that center) なのである。(p.17)

補説:
(1) 「他者」は一般には「自分以外の人間」として理解されているが、ここでの「他者」とは「自己以外のすべてのモノ(者・物)」を指すと解釈している。ちなみに、このように「者」を人間に限らずに使う用法は、「前者、後者」にも見られる。
(2) “Dialogism” の訳語としてここでは「対話性」を使用しているが、その他にも「応対性」、「対話的応対性」、「対話的呼応性」といった訳語も考えた。ここでいう「対話」とは、実際の人間の間での語り合いだけでなく、自己と他者が応対し相互に反応・呼応することも比喩的に意味していると考えられる。


■ 「中心」も「自己」も「他者」も絶対的ではなく相対的な概念である

要約:バフチンの「中心」 (center) とは絶対的な用語ではなく相対的な用語である (a relative rather than an absolute term)。「中心」は絶対的な特権 (absolute privilege) をもたず、ましてや超越的野心 (transcendent ambitions) ももたない。「自己」 (self) や「他者」(other) といったバフチンにとっての重要な用語もそのような特権をもつものではない。 (p.17)


■ 「自己」とは対話的であり、根源的な関係である

要約:「自己」とは対話的であり、関係である (self is dialogic, a relation)。「自己」は、およそ根源的な関係であるため、対話の考え方を使って、他の関係性がどう成立しているかを知ることができる。(p.18).


■ 自己/他者とは、同時並行性の関係であり、空間と時間における同一性と差異の割合である

翻訳:自己/他者 (self/ other) とは、なによりも、同時並行性 (simultaneity) の関係である。どのように考えられたとしても、同時並行性とは空間と時間における同一性と差異の割合 (ratios of same and different in space and time) に関わるものであることは間違いない。だからこそバフチンは常に空間/時間に関心をもっていたのである。(p.18).


■ 実在性とは、ある特定の位置から経験されるもの

翻訳:存在を対話的に概念化するならば (Conceiving being dialogically)、実在性 (reality) とは、常に、たんに知覚されるもの (perceived) ではなく、経験されるもの (experienced) となる。さらに言うなら、実在性とはある特定の位置 (a particular position) から経験されるものである。(p.20).


■ 構造をもった出来事としての自己

翻訳:さらに言うなら、自己とは構造をもった出来事である (an event with a structure) (p.20).


■ たとえば、二人が部屋の中にいるという同じ出来事にも、構造的な差異がある

翻訳:あなたには私の背後に何があるかが見えるが、私にはそれが見えない。私にはあなたの背後に何があるか見えるが、それはあなたの視野にはない。私たちは本質的には同じことをしているのだが、異なる場所からそれを行っているのである。私たちは同じ出来事の中にいるのだが、その出来事は二人にとって異なる。私たちの場所 (places) は異なるが、それは私たちの身体が外面、すなわち物理的空間において異なる地点 (positions) を占めているからだけでなく、私たちが世界およびお互いを認知的時間/空間の異なる中心から認識している (we regard the world and each other from different centers in cognitive time/ space) からである。 (p.20).


■ 「私」を画定する時空枠と、「他者」を画定するために私が設定する時空枠の間の対立によって知覚が成立する

翻訳:認知的時間/空間 (cognitive time/ space) とは何か?それはすべての知覚が展開する舞台である。対話性は、相対性理論と同じように、何かを知覚するためには、何か他の視点を背景にしなければならない (against the perspective of something else) ことを前提とする。対話性にとってもっとも大切な想定は、地なしの図はない (there is no figure without a ground) ということである。私たちの心 (the mind) は、世界をこの対比に応じて知覚するように構造化されている。もっと具体的に言うなら、対話的呼応をもとめる背景 (dialogizing background) から図を際立たせるのは、私の意識が自らの境界 (自分自身にとっての私 the I-for-myself) を模型的に設定する (to model) ために利用する時空と、私の意識が自分以外の人や物の境界 (私の中にある私ではないもの the not-I-in-me) を模型的に設定するために使うきわめて異なる時空範疇 (temporal and spatial categories) との間での対立 (opposition) なのだ。さらに(これが重要なのだが)その逆に、すなわち、私の以外のものの時空が図となる対立もある。 (pp.20-21).

訳注:この文章は "the self" を主題とする節 (THE TIME AND SPACE OF SELF AND OTHER)の中のものなので、文中の「対立」は、最初の対立が「私(自己)」を図とするもので、その逆の対立が他者を図とするものだと理解した。ともあれ、ここは難解な箇所の一つだったが看過できないと考え、ここに訳出した。


■ 私の時間は開かれ完結しない。私の空間は知覚の中心であり他者の意味を定める。しかし、私が他者を理解するために設定する時間は閉ざされ完結している。他者理解のための空間は意義を欠いた均質的な空間である

翻訳:知覚者にとっての自らの時間は常に開かれ完結しない (forever open and unfinished)。知覚者自らの空間は常に知覚の中心であり、物事はすべてその中心からの視野 (a horizon) の中に配置され、物事の意味はその視野の中の場所 (place) によって定められる。それとは対照的に、私たちが他者を模型的に設定するために使う時間は閉ざされ完結したものとして知覚される。さらに他者が見られる空間は、意義ある状況 (significance-charged surrounding) ではなく、中立の環境 (a neutral environment) 、つまりは、知覚者という自己以外であるという点で均質化された状況 (the homogenizing context of the rest of the world) である。自己の視点からするならば、他者は単に、すべての人や物と同じように世界に存在しているだけである。(p.21).

訳注:ここも難しい箇所で、特に "the homogenizing context of the rest of the world" などに関しては誤読を恐れる。また、そもそも、知覚者が他者を理解するために設定する他者の空間範疇(=他者にとっての認識装置)は "never a significance-charged surrounding" というのは少し言い過ぎではないかとも個人的には思った。もちろん、私自らの空間と比較してという相対的な表現としてならわかるが "never" という断定にはひっかかった。また "meaning" "significance" がほぼ同義の類語なのか、それとも異義語なのかについても定かではない。


■ 「私」という表現が、言説の基準を転移させる

翻訳:ヤコブソンの示唆にみちた表現を使うなら、「私」とは「転移表現」 (shifter) である。なぜなら「私」という表現が、ある発話主体 (one speaking subject) から別の発話主体へと言説の中心 (the center of discourse) を移動させるからである。「私」という表現は中身のないもの (emptiness) であり、それぞれの主体が「私」という表現を使うことですべての言語の賃貸権 (the lease they hold on all of language) を相互に交換するのである。ある人が「私」ということばを発する時、その人は、自己以外のすべての物事にとっての時空識別のための測定基準調整をすることによって (by providing the central point needed to calibrate all further time and space discriminations)、その「私」に意味を与える。「私」とは、言語における他のすべての指標にとっての目に見えない基盤 (the invisible ground) である。「私」は、すべての空間的操作 (spatial operations) が参照する水準基標 (the benchmark) であり、すべての時間的区別の測定基準調整が行われる (all its time distinctions are calibrated) グリニッジ標準時である。「私」は、「現在」と「現在でない時間(過去・未来)」の間の時点を示し、「ここ」と「ここでない場所」の間の地点を示す。(“I marks the point between now and then, as well as between “here” and “there”)  (pp.21-22).


■ 自己は「意味への衝動」に支配されている点で、あらゆる存在においても際立っている

翻訳:自己が状況の中にいざるを得ないということ (the situatedness of the self) は、多面的な現象である (a multiple phenomenon)。単に自己として存在することが自己に与えられた課題ではない。 (it has been given the task of not being merely given) 自己は存在において際立ったものでなくてはならない。なぜなら自己は「意味という動因」 (drive to meaning) に支配されている (dominated) からである。自己において、意味は、創造過程にあるもの (still in the process of creation)、すでに完成したものではなく未来に向かっているものとして理解される。(p.22)


異種ジャンル混交の世界を統一的に理解する一つの意味はない

翻訳:対話性における意味という動因は、未来の時点で達成される単一の高次の意識への欲望というヘーゲル的なものと混同されてなならない。バフチンにおいて、たった一つの意味だけが求められるということはない。世界は、互いに競い合う意味 (contesting meaning) の膨大な集積 (a vast congeries) であり、異種ジャンル混交性 (heteroglossia) である。世界で使われている言説のジャンルは多種多様であり、ある一つの用語によって、どんどん多様化する世界の生成力を統一することは不可能である。(a heteroglossia so varied that no single term capable of unifying its diversifying energies is possible)  (p.22).


■ 存在という出来事は、複数の場所から統一的に知覚されて意味をもつ

翻訳:しかしながら、存在という出来事は「統一」されている。存在という出来事が生じるのはそれぞれ独自の複数の場所 (in sites that are unique) においてであるが、これらの場所はそれら自体で完全なもの (complete) ではないからである。これらの場所は、ことばのいかなる意味においても孤立 (alone) してはいない。知覚の構造が要求する安定性 (the stability demanded by the structure of perception) を得るために、それぞれの場所は他の場所を必要とする。さもなければ存在という出来事が意味 (meaning) をもてない。存在という出来事が単なる偶然の事象 (a random happening) 以上であるためには、意味がなければならない。そのためには、存在という出来事は、その他すべての流動的で不確定な背景 (against the ground of the flux and indeterminacy of everything else) を後ろにして安定した図として知覚可能でなければならない。 (perceptible as a stable figure) (pp.24-25).


■ 「私」は、呼びかけ先として十分に具体的でなければならない

翻訳:もし自己と他者を絵画に喩えて表現するなら、自己とは形を欠いたもの、他者とは明確に形状が定まったものとなろう。しかし、私はなんとかして自分自身を、他者の特異性 (the particularity of the other) に類する何かをもつ主体として形成しなければならない。私が形成する「私」は、意味ある呼びかけ先 (a meaningful addressee) となるに十分な具体的な輪郭をもたなければならない。なぜならば、もし存在が共に認められているのに、その存在が呼びかけられることはないということはありえないからである。(for if existence is shared, it will manifest itself as the condition of being addressed)  (p.26).


■ 存在とは発話であり、対話的である

翻訳:存在とはたんに出来事であるだけではなく、発話 (an utterance) でもある。この意味で、存在という出来事 (the event of existence) は対話的性質 (the nature of dialogue) を有している。誰にも向けられていない語などない。(there is no word directed to no one) (p.26).


■ 他者は完成されたものとして認識されるが、私は常に未完のものとして認識される

他者は完成された領域 (the realm of completedness) の中にあるが、私は時間を開かれ絶えず未完のもの (as open and always as yet un-completed) として経験するし、私は常に空間の中心にいる。 (at the center of space)  (p.26).


■ 私は私自身を著述する

翻訳:私が私という自己を見ることができるのは、他者が私という自己をどのように見るかということを私なりに考えるからである (I see my self as I conceive others might see it)。自己 (a self) を造形 (forge) するためには、外部から造形しなければならない。言い換えるなら、私は私自身を著述するのである。 (I author myself) (p.27).


■ 中心と非中心と両者の関係性という自己の三元性

翻訳:自己とは、そうなると、本質的には三つの要素からなる多面的な現象 ( a multiple phenomenon of essentially three elements) とみなすことができるだろう。(自己は、少なくとも、三元的なもの (a triad) であり、二元的なもの (a duality) ではない)。中心と、中心ではないものと、それら二つの関係である。 (a center, a not-center, and the relation between them) (pp.27-28).


■ 関係とは二者の比率と均整であり、決して静的ではなく、常に生成・非生成の過程にある

翻訳:これまで私たちは最初の二つの要素だけについて論じてきた。つまり、中心(それ自身としての私 (I-for-itself) と、中心でないもの(私の中にある私でないもの (the-not-I-in-me))を、それぞれに応じた時間/空間範疇の観点から語ってきたのである。中心と中心でないものがお互いに有している関係という第三の項目を取り上げるにあたって、バフチンを理解するために重要な一つ、二つの用語を念頭におかねばならない。対話的応答性とは一種の構成学 (a form of architectonics)、つまり、部分を全体にどう配置するかという一般学問である (the general science of ordering parts into a whole)。言い換えるなら、構成学とは関係の学問である (the science of relations)。関係は常に比率と均整を含む (entails ratio and proportion)。加えて、バフチンは関係は決して静的 (static) ではなく、常に形成されるかされないかの過程 (in the process of being made or unmade) にあることを強調する。   (p.28).


■ 私たちは他の人間や世界からの呼びかけに反応する応答可能性を有する限りにおいて人間として生きている

翻訳:出来事としての存在を共有することが何よりも意味していることは、私たちは常に対話をしている―対話をしないという選択はない―ということである。この対話は、他の人間との対話だけでなはく、私たちが「世界」とまとめて表現している自然および文化の形態 (the natural and cultural configurations) との対話でもある。世界は私たちに呼びかけるが、私たちが生きて人間であるのは、私たちが応答可能 (answerable) である、つまり、私たちが呼びかけに反応する限り (to the degree that we can respond to addressivity) のことなのだ。(p.28).


■ 小説とは、著者が登場人物との関係をどのように構築するかという物語である

翻訳:小説の著者は異なるいくつかの筋書き (plot) を展開するかもしれない。しかしどれも、より包括的な話 (a more encompassing story) の一つの異型 (one version) にすぎない。それは、いかに著者が(対話的だが、心理的ではない自己として  (as a dialogic, non-psychological self) 主要登場人物 (heroes) (および他の登場人物)との関係を構築するかという物語 (narrative) である。  (p.29).


■ 著者と主要登場人物の間の関係が、他の関係の意味の基底となる

翻訳:著者は、自らの作品の内にも外にもいるといえる。文学作品においては、著者と主要登場人物の間の相互作用が、他の関係の意味の関係、とりわけ語り (a telling) の関係に、もっとも深い水準での連動性 (coherence) を与える。 (p.29).


何かをその外部から他者の時空枠でとらえない限り、それを一つのまとまりとして知覚することはできない

翻訳:一つの全体として、つまり何か完結したものとして知覚されるためには、人もしくは対象は他者の時間/空間範疇において形成されなければならない。これが可能なのは、その人や対象が外部性 (outsideness) の位置 (position) から知覚される時のみである。出来事が展開している内部から (from inside its own unfolding as an event) 出来事が全体として知られたり、見られたりすることはない。  (p.29)


どんな人間も生きている他人から完全超越することはできない

翻訳:他者にどんな価値 (values) が与えられるかを、それほどの具体性と完全性をもって定められる唯一の視点 (perspective) は、「外部性」 (outsideness) の位置である。第一の人間は、第二の人間を外部から知覚するのに必要な位置を得ることに成功するだろう。しかし、第一の人間は、第二の人間に対してバフチンが「完全超越」 (transgredience) とよぶ究極の外部性を得ることができるだろうか?完全超越 (transgradientsvo) は、他者のすべての存在が外部から見られた時に達成される。他の誰かに見られているともわからないどころか、そのように自分を見る他者がいることなど思いもしないような外部性からである。対話性の非常に重要な想定は、どの人間も高度に意識的であるだけでなく、その人間の認知的空間は、私の認知空間を構成するのと同じ「私/他者」の区別 (the same I/other distinctions) によって調整 (coordinate) されているということだ。「私」が他の生きた主体から完全超越してしまうことはありえないし、その他の主体が私から完全超越することもない。(p.31).


■ 偉大な芸術としての小説での記述

翻訳:その二つの違いは何だろう?[補注:二つとは、私たちが日常的にやっている著作と、ある一定の人々がある一定の時にして芸術 (art) と呼ばれる結果を生み出す著作、のこと] 違いは、芸術家は自らの作品の中で他の人間主体を完全超越の優越点から扱うことである。これは、自分が生きている経験の中で他人を著述するだけの私たち芸術家以外の人間が得ることができない特権である(また、芸術家も芸術活動していない時にはこの特権を得ることができない)。たとえば小説の著者は、他者を一人の他者として操作する (manipulate) だけでなく、自己 (a self) として操作することもできる。これこそがもっとも偉大な作家が常にやってきたことである。しかしその範型例はドストエフスキーの作品である。彼は登場人物に「私」という立場 (status) を与え、著者であるドストエフスキーという他者の主張を凌駕させることに成功したので、バフチンはそのことを記述するために「多声性」 (polyphony) という特殊な用語を作らなくてはならないとまで感じた。そこまでの技量をもたない作家は、登場人物を単なる他者として扱うが、その作家と登場人物の関係は、構成学の技巧 (craft) で作りだせるものであり、その達成のために芸術の美学的特権を必要とするものではない。そのように描くことは、私たちが誰でもやっていることである。作家の中にはさらに、登場人物を他者として扱うが、単なる者としての他者性しかもたず主体性 (subjectivity) をもたない他者としてしか扱わない者もいる。そういった作家は、科学者が実験用のネズミに対して完全超越しているように作品の登場人物に対して完全超越している。これは定型的な擬似芸術 (formulaic pseudo-art) であり、作品中のあらゆるすべての動き (initiative) が、作品成立前からある定型の犠牲となっている。(p.32).


■ 私に見えているものに、あなたの「視覚の余剰」を加えて、私は一つのまとまりとしての私を著述する

翻訳:あなたには見えるが私には見えない状況の側面 (aspect) を、バフチンは「視覚の余剰」 (surplus of seeing) と呼ぶ。私には見えるがあなたには見えないものが私にとっての「視覚の余剰」となる。私に余剰があることをあなたは知っているが、私もあなたに余剰があるとも知っている。あなたに「与えられた」 (given) 余剰を、私に「与えられた」余剰に加えることによって、私は私の全体像および私が見ることができない部屋の品々も含めた部屋の視覚像 (image) を作り上げる (build up) ことができる。言い換えるなら、私たちが共にいながらもそれぞれに異なる状況から一つの全体を (a whole) 「生み出す」 (conceive) あるいは構成 (construct) することができるのである。私は、私たち二人が相補的に存在 (our joint existence) しているという出来事の統一版 (a unified version) を著述するのであるが、それを私は、私独自の場所から (from my unique place)、あなたに見えているものとは異なって(追加的に)私に見えているものと、その違いとは異なって(追加的に)あなたに見えているものを組み合わせることによって行う。(p.35).


■ 「物語性」の原初的形態

翻訳:そのような組み合わせの行い[直前の引用を指す]が、「物語性」の原初的形態 (a rudimentary form of narrativity) であり、他人が行為していると私が思っている種の脚本の中に私自身を組み込む能力でもある。 (p.35).


■ 他者を見る時には始まりと終わりを定める

翻訳:過去とも未来とも切り離されたこの直接的な現在の瞬間に、他者を凍りついたものとして見ることはない。現在とは、静的な瞬間ではなく、過去と現在の関係のさまざまに異なる組み合わせの総体 (a mass of different combinations of past and present relations) である。私が他者を一つの全体として知覚するということは、私がその他者に会う前の始まりとそれに続く終わりを含んだ完全な物語の文脈 (within the context of a complete narrative having a beginning that precedes our encounter and an end that follows it) で、私が他者をその全人生において見るということである。私は他者を、始めから終わりまでの一代記の光の中 (in the light of their whole biography) で見る。(p.35).


■ 私の意識の中の「私」には始まりも終わりもない

翻訳:私の「それ自身としての私」にはそのように完結した一代記 (a consummated biography) がない。なぜなら、自己自身の時間は常に開かれており、そのような枠付 (framing limits) を拒むからである。私自身の意識の中では、私の「私」には始まりも終わりもない。(Within my own consciousness my “I” has no beginning and no end)  (p.35).


■ 今、生きている私は常に開かれている。私に始まりと終わりを与えるのは、私を他者として物語ることによってである

翻訳:常に可能性にみちた存在の場 (potential site of being) であり続けるためには、私の自己は純然たる将来性、純然たる生成の流れ (as sheer capability, a flux of sheer becoming) としての仕事を果たさなくてはならない。この生成力 (energy) に具体的な輪郭が与えられるなら、それは価値においてだけではなく、お話 (a story) において形成されなければならない。お話とは、価値を特定の状況と連動させる手段である。 (Stories are the means by which values are made coherent in particular situations) そして、この物語性 (narrativity) 、つまり、私の始まりと終わりを全人生として生み出す可能性は、常に他者の時間/空間において行われる。その中で私は私の死を目にするかもしれないが、それは私の「私」の範疇で見るわけではない。私の「私」にとって、死は他者にとってのみ起こることである。たとえその死が私自身の死であるにせよ。 (pp.35-36).


■ 対話性とは、社会理論を実行すること

翻訳:対話性とは、何よりも、社会理論の実行 (an exercise in social theory) である。 (p.36).


■ 発話・反応・両者の関係という対話の三元構成

翻訳:対話とは多重の現象であるが、図式的に表すため、対話を、最低限三つの要素をもつものとすることができる。これは、言語記号の三元構成とよく似ている。対話は、発話、反応、その両者の関係 (an utterance, a reply, and a relation between the two) から構成されている。この三つの中でもっとも重要なのは関係である。なぜなら関係抜きには、発話にも反応にも意味がなくなるからである。(p.36).


■ 社会的であることがすべてに先立つ

翻訳:対話的世界とは、私が私のあり方をけっして完成させることのない世界である。それゆえ、私は他者との―そして私自身との―絶えない相互作用の中に私自身を見い出す。まとめるなら、対話性は、社会的であることがすべてに先立つこと (the primacy of the social) を基盤としている。対話性が想定しているのは、すべての意味は競い合い (struggle) によって得られるということである。(p.38).









2017年11月1日水曜日

Hayden White (1980) The Value of Narrativity in the Representation of Realityの抄訳





この記事は以下の論文の抄訳です。


Hayden White
The Value of Narrativity in the Representation of Reality
(実在性の表象における語ることの価値)

In W.J.T. Mitchell (ed) (1980) On Narrative. The University of Chicago Press. (pp.1-23)



この論文は、Bruner Actual Minds, Possible Worldsの第二章Two modes of thoughtで重要な文献として言及され、同じく彼のActs of Meaningでの物語論の基礎の一部となったと考えられるものですので、自分自身のための「お勉強」としてその一部を翻訳してみました。ページ番号は原著のページ番号を指しています。※は私の蛇足コメントです。

翻訳を示す前に内容について簡単に書いておきますと、これは歴史記述における語りの重要性について書いたものです。歴史というのは、時に異なる歴史記述が人々の間に激しい議論を引き起こすことからもわかるように、人々に社会や人間の義について考えさせる基盤となるものです。歴史の記述は科学的記述と違って一義的で決定的な記述がなく、その語りの題材選択や語りの順番などの語り方によって記述はさまざまに異なります。だからといってどんな歴史の記述でもよいというわけではなく、人々はより妥当な歴史記述を求め続けます。それは歴史という語りこそが、私たちの社会、守るべき規範、大切にするべき人道性がいかに守られそしていかに踏みにじられたかを示すからではないでしょうか。歴史は私たちの社会、私たちの人生の意味を示します。そして意味は、科学の作法ではなく、語りの作法でなければ十全に示されないというのが、ブルーナーやアレントが言うことでもあります。

私は言語教育にたずさわる者でありますが、来年の夏にClassroom Research Revisited: Who are the practitioners?というテーマ(仮題)でのセミナーで90分の英語講演をさせていただくことにもなりましたので、今、少しずつではありますが語り (narrative) や話 (story) といったいわゆる物語論をまとめています。実践研究(実践を支援するための研究および実践者による研究)には語りが必要という主張をし、それはなぜなのかを論証しようと思っています。以下には、年代記、編年史、歴史という三種類の歴史記述が区別されていますが、この区別は、実践者の振り返り (reflection) のあり方を考えるためにも有効な区別ではないかとも今のところ考えています。

ともあれ以下が拙訳です。いつものようにおかしなところがあればご指摘いただけたら幸いです。



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■ 語りは汎文化的で人間の性質に基づく

語りの性質に関して問いをたてるということは、文化の性質そのものについて、あるいは人間らしさ (humanity) 自体についての省察を促すことである。語ろうとする衝動は非常に自然なものなので、実際に起こったことについて報告する際に語りの形式 (the form of narrative) を使うことは必然的である。ゆえに、語るということ (narrativity) が問題である (problematic) ように思えるのは、語りが欠如している文化においてのみのことである。いや、欠如というよりも、現代西洋の知的・芸術的文化の一部でそうであるように、体系的に拒否 (progmmatically refused) されている文化のみであると言うべきだろう。(p.1)

※ 現代の日本語圏でも英語圏で「主流」 (mainstream) と呼ばれている言語教育研究も、語りを拒否しているが、これは人間を考える上ではおかしな限定であることを私もきちんと示したい。



■ 語りを拒否することは、意味自体を拒否すること
 
このことから言えるのは、語りは、経験に意味を付与する (endowing experience with meaning) ために文化が活用できる多くの行動規範 (code) の一つであるというのではないということだ。語りはさまざまな行動規範の上に存在する行動規範 (a metacode) であり、人間にとっての普遍性である。語りという基盤があるからこそ、人々の間で共有された実在性の性質について文化を超えた伝達が可能になっている。バルトが言うように、語りは、私たちの世界経験 (our experience of the world) とその経験を言語で記述しようとする努力の間から生じるものであり、「絶え間なく意味を物語られた出来事の単純なコピーに変換して伝える」 (ceaselessly substitutes meaning for the straightforward copy of the events recounted) のである。この考え方に従うなら、語りの欠如もしくは語りの拒否とは、意味自体の欠如もしくは拒否である。 (p.2)

※ 実際、大きく異なる文化の間でも、科学のように特に訓練を受けることなしに語りが(翻訳を通じて)理解されるということは驚くべきことかもしれない。

※ アレントの「物語を語ることによって、私たちは意味を定義するという過ちを犯さずに意味を明らかにすることができる」ということばも思い出したい。

関連記事:アレント『暗い時代の人々』より -- 特に人格や意味や物語について--




■ 年代記、編年史、歴史という三種類の歴史表象

幸運なことに、歴史的実在性 (historical reality) の表象 (representations) で語りの形式を有しないもの (non-narrative in form) の例はたくさんある。実際のところ、現代の歴史学の制度が公に認めているのは、歴史表象 (historical representation) の基本種には三種類あり、そのうちの二つは、取り扱う出来事を十分に語ること (full narrativity) ができていないがゆえに「歴史性」 (historicality) が不完全であることが実証されている (evidenced) ということである。これら三つの種類とは、年代記 (the annals)、編年史 (the chronicle)、そして厳密な意味での歴史 (the history proper)である。 (p.5)

※ この論文で示されている年代記の例は、年号が一年ごとに行の左端に書かれ、もし何か出来事があればその右にその出来事が書かれ、特になければその右は空白のままであるような記述。




■ 年代記では語りの要素が欠落し、編年史は語ることを目指しているものの結びがない

年代記の形式では、言うまでもなくこの語りの要素 (component) が完全に欠落しており、編年体の順番 (chronological sequence) で並べられた出来事のリストでしかない。それに対して編年史は、話を語る (tell a story) ことを願っているようにも見え、語ることを目指していることもしばしばであるが、ほとんどの場合その試みに失敗している。もっと具体的に述べるなら、編年史の特徴とは、語りの結び (narrative closure) がないことである。編年史は結論に至る (conclude) というより、単に終わってしまう (terminate)。編年史では話を語り始めるが、物事の中途で (in medias res) 頓挫し編年史家の現在へと至る。物事を未解決 (unresolved) のままにしてしまう。いや、話に似たような形で物事を未解決のままにしてしまうと言うべきだろう。年代記は歴史的実在性をあたかも実在した出来事は話の形式を取らない (not display the form of story) ように提示するが、編年史は歴史的実在性をあたかも実在した出来事は未完成の (unfinished stories) として人間の意識に到来したかのように表象する。 (p.5)

※ ここでの編年史は特に結びがないままにただ記述が終わってしまう歴史記述を指している。




■ 話の形式がなければ厳密な意味での歴史とはいえない

歴史学が公に認めることは、歴史家が出来事を報告するのにどれだけ客観的 (objective) であっても、証拠を査定する判断がどれだけ優れて (judicious) いても、行われた事 (res gestae) がいつ行われたかについてどれだけ細か (punctilious) であっても、もしその歴史家が実在性に話の形式を与えることができなかったら、その歴史家の解明 (account) は、厳密な歴史とはいえないということである。(pp.5-6)

※ 歴史記述に語りの要素がなければ、たとえその記述の中のデータが正確であったりしても優れた歴史ではないというのは、言語教育でもよくよく考えるべきことではないか(同時に、なぜそうなのかということを丁寧に考えなければならないが)。




■ 年代記は人の行為の世界ではなく、人に何が降り掛かった世界を記録する

[年代記には]いたるところに混乱を生み出す力 (the forces of disorder) がある。それは自然によるものであったり人間によるものであったりするが、いずれにせよ暴力と破壊の力であり、それに私たちの注意が向けられる。年代記の解明は「 (qualities) を扱うが行為者 (agents) は扱わずに、人々が何かを行う (do) 世界ではなく、人々に対して物事が降りかかる (happen) 世界を形作ってゆく。 (p.10)

※ 年代記のような記述しかしない教師の実践記録はないだろうか(そしてその形式は時に上から命じられた形式ではないだろうか)。





■ 年代記での隠れた行為主は神である

[年代記では]起こったことはすべて神の意思 (the divine will) に従って起こったのだから、起こったことを単に、「神が運行する年」 (year of the Lord) の箇所に適切に記録するだけで十分だと考えられている。 (p.13)




■ 守られるべき法、大切にされるべき合法性、一般化するなら社会システムという畏敬の対象があってこそ、それらにまつわる出来事が歴史として記述される

そうなると一般的に語りというものは、民話から小説にいたるまで、あるいは年代記から十分に練り上げられた「歴史」 (fully realized “history”) にいたるまで、法 (law)、合法性 (legality)、もしくはもっと一般化するなら畏敬の対象 (authority) という話題に関係しているのではないかという疑問が生じる。実際、歴史的表象の進化において年代記の形式に続く段階、すなわち編年史のことを考えてみるとこの疑問の正しさが裏づけられる。歴史学のいかなる形式においても、歴史における書き手の自意識が高まれば高まるほど、書き手は社会システム (the social system) は何でありそれを支える法とは何かという問い、その法の畏敬性 (authority) とその正当化 (justification) 、そしてその法を脅かすもの、に対して注意を払うようになる。もしヘーゲルが示しているように、具体的に法で守られる者 (legal subject) を構成 (constitute) する法体系 (a system of law) の前提 (presupposition) がなければ、人間存在という独自の様式 (a distinct mode of human existence) は考えられないのならば、歴史的自己意識 (historical self-consciousness)、すなわち実在性を歴史として表象する必要性を想像することができる意識とは、法、合法性などなどとの関連においてのみ構想することができる (conceivable) のである。 (p.13)

※ このあたりはヘーゲルの歴史哲学も踏まえた議論で、きちんと考えるべきこと。 “Authority”を「権威」と訳してしまうととても(文字通り)権威主義的な議論に聞こえてしまうと判断し、ここでは「畏敬の対象」「畏敬性」という訳語を使った。守られるべきもの・大切にされるべきもの・畏敬すべきもの、あるいはそれらを生み出す社会システムがあるからこそ、それらを促進したり破壊したりする出来事が歴史として記述されるという論法は説得力があるように思える。




■ 歴史の語りは教訓や意義を与え出来事を人道化する

十分に練り上げられた話というよく見かけるが概念的にはとらえがたい対象 (that familiar but conceptually elusive entity) をどのように定義しようとも、そういった話がもし一種の寓話 (allegory) であり、教訓 (a moral) に向かうものであり、実在のものであろうが想像上のものであろうが出来事に対して、単なる事の順序 (a mere sequence) がもちえない意義 (a significance) を与えているのであれば、どの歴史の語りも、それが扱う出来事を人道化 (moralize) することが、潜在的もしくは顕在的 (latent or manifest) な目的であると結論することも可能であろう。 (pp.13-14)

“Moralize”には「道徳化」という訳語も考えられるが、これも権威主義的に聞こえてしまうし、何より昨今の小学校における道徳の教科化をめぐるきわめて国家主義的というか一面的な語り方は「道徳」ということばに特殊な含意を与えてしまったと個人的には考えているので、ここでは「道徳」といった訳語の使用を控えた。




■ 語るということは実在性を人道化しようとすることである

そうなると、語るということは、事実に基づいた話の運び (storytelling) はもちろんのことおそらくは創作における話の運びも、実在性を人道化しようとする衝動 (impulse) の関数でこそはないにせよ (if not a function of)、その衝動に密接に関係しているのかもしれない。ここでいう、実在性を人道化するとは、実在性を私たちが想像できるすべての人道性 (morality) の源である社会システムと同一視する (identify) ということである。  (p.14)

※ 私たちにとっての実在性 (reality) は、実は人の道にそったものとして成立するという議論も説得力があるように思える。もちろん人道に反した出来事の実在性は、その反人道性がゆえに実在性をもつ。

 “Reality” を「実在性」と訳すことについては下の記事の木村敏先生の語法に関する説明を参照のこと。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_24.html




■ 編年史には一連の出来事の意味を総括する結びがない

言説 (a discourse) の意味を組織する原理 (organizing principle) のもっとも中心的なものして働き、実在的 (realistic) でもあり構造的には語り (narrative) でもあるような存在の性質をもつことが、編年史として知られている歴史表象の様式には必要となってくる。歴史の書物を書く歴史家が同意していることは、編年史の形式は、歴史的概念化 (historical conceptualization) としても「高次」 (higher) の形式であり、年代記の形式よりも優れた歴史学的表象を提示するということである。編年史の優位性は、より広汎な包括性 (comprehensiveness)、「話題別、治世別」 (by topics and reigns) に題材を組織すること、語りとしての連動性 (coherency) からなるということについても歴史家は同意している。編年史には主題 (a central subject) もあるが、これは個人であったり町であったり地域であったり、戦争や改革運動 (crusade) といった大きな企てであったり、君主制や主教制や男子修道会といったある制度 (institution) であったりする。編年史が年代記とつながっているのは、言説を組織する際に編年体で行うこととみなされているが、この理由によって編年史は十分に練り上げられた「歴史」とはなりえないと言われている。さらに編年史は、年代記と同じように「結論にいたる」というよりはただたんに終わるだけであり、この点で歴史と異なる。典型的な編年史には結び (closure) 、つまり、扱った一連の出来事の「意味」 (meaning) を総括 (summing up) すること、が欠けている。しかし意味の総括は、私たちがよくできた話から普通に期待するものである。 (pp.15-16)

※ 話を結ぶとは、話された一連の出来事の意味を総括するということ、という規定にも私は説得力を感じる。言い換えれば “So what?” に答えることともなろうか。(関西人の多くは「で、オチは?」というがそれはそれとして 笑)。




■ 複数の語り方の競合がないならば、わざわざ語る必要はない

畏敬の対象という問題は、[編年史を書いた]Richerusのテクストにも存在するが、これはSaint Gallの年代記家によって書かれたテクストには見られないものである。年代記家にとって出来事を語るために畏敬の対象を打ち立てる (claim) 必要はない。なぜなら出来事としての地位 (status) には、実在性の現れ (manifestations) として争われている (contested) 問題などないからである。「争い」 (contest) がないのだから、語りにする (narrativize) ことなどないし、出来事が「自ら語りだす」 (speak themselves) 必要も、あたかも出来事が「自分自身の話を語る」 (tell their own story) ように表象される必要もないからである。年代記家にとって必要なことは気づいたことを順番通りに記録することだけだ。争いがないのだから、語るべき話はない (since there is no contest, there is no story to tell) (p.18)

※ 複数の語り方の間でどちらが妥当かという争いがなければ、語る必要はないという主張にも説得力を感じる。もちろん、語りとはまったく異なる科学規範の様式での論証では、論証法は究極的には一つに収斂する。




■ 複数の語り方があってこそ歴史家は真の解明を目指す

しかし、出来事の解明 (an account) が歴史の解明 (a historical account) としてみなされるには、出来事を元々起こった順番に記録するだけでは不十分である。出来事が、語りの秩序 (an order of narrative) において、編年体の秩序以外でも記録されうるという事実は、出来事の真正性 (authenticity) に疑いをもたらし、出来事が実在性を表す印 (tokens of reality) となっているかについても疑問が生じさせてしまう。「歴史的」とされるには (qualify as)、ある出来事はその生起について少なくとも二つの語り方 (at least two narrations of its occurrence) がなければならない。同じ一連の出来事について少なくとも二つの見解 (versions) が想像されないのであれば、自分が実際に何が起こったのかについての真の解明 (the true account of what really happened) について語る畏敬の対象 (authority) であることを歴史家が求める理由などなくなる。歴史の語りが畏敬の対象となるのは、実在性そのものが畏敬の対象となるからである。歴史の語りは、この実在性に形式を与え、そのことによって実在性を望ましいもの (desirable) とする。その過程において、歴史の語りは話だけが有する形式的な連動性 (the formal coherency) を実在性に課すのだ。 (p.19)

※ 複数の異なる語り方も、ただ声を大きくするのではなく、語りの連動性を大切にすることによって自らの妥当性を示そうとする。ただ、現実の世界では、歴史をめぐっていかに声を大きくするかということばかりが競われているようなのは、嘆かわしいことを通り越して怖いことである。




■ 一連の出来事は、人道的なドラマとしての意義をもつように記述される

こう考えると、歴史において結び (closure) が要求とされること (demand) の理由づけができるかもしれない。編年史の形式には結びがないから語りとして劣っている (deficient) と宣告される (adjudged) が、その結びが要求される理由である。歴史の話に結びが要求されるのは、私の考えでは、人道的な意味 (moral meaning) が要求されるからである。それは、実在の出来事の連なり (sequences of real events) は、人道的なドラマ (moral drama) の要素としての意義 (significance) という観点から査定されなければならないという要求である。 (p.20)

※ 歴史とは人の道が大切にされたり破られたりするドラマとして成立するという考え方にも説得力を感じる。私たちが複数の歴史記述の間に好悪を感じるとき、その好悪は実は、それらの歴史記述が基盤としている人道性の異なるあり方から来ているのかもしれない。




■ 歴史記述をするかしないかは、人道的な基準による

[歴史を書いた]Dinoは語りが十全であるという点で称賛されているのだが、その語りは、彼が実在の出来事のうち記録に値するものと値しないものを区別するのに使った人道的な基準 (the moral standard) を暗黙のうちに使わなかったとしたら達成することはできなかったであろう。その語りに現実に記録された出来事が「実在する」 (real) ように見えるとすれば、それはこれらの出来事が人道的存在 (moral existence) の秩序 (an order) に属している限りのことである。これらの出来事が意味を引き出す (derive meaning) のも、その秩序に位置している (placement) からである。記述された出来事が社会秩序の制度 (the establishment of social order) につながっている、あるいはつながっていないからこそ、これらの出来事は描き出す実在性 (their reality) を証する (attest) 語りとしての位置を得るのである。 (p.22)

※ 人道性を生み出すのは究極的には複数の人間が作り出す社会システム、ということはコミュニケーションである。




■ 歴史学が独自の科学として成熟したのは語りがあるからである

私がこれまで論じてきたことは、語ること (narrativity) 、特に歴史の言説 (historical discourse) が体現している実在性の表象、につけられた価値 (value) についての問いである。私はもっぱら中世の題材 (materials) をもちいることによって、自分の立論(人道化をめざす言説は人道化を目指す判断の目的に適うという立論 (that narrativizing discourse serves the purpose of moralizing judgments) に有利なように自分のカードを積んだと思われるかもしれない。そうしたのかもしれない。しかし、語りとしての十全さ (narrative fullness) を達成できるかできないかによって年代記と編年史と歴史の言説形式を区別しているのは近現代の歴史学者共同体である。その同じ学術的制度はしかしこれから、歴史学がいわゆる客観的学問 (objective discipline) へと変容した (transformed) まさにその時に、歴史学が科学--特殊な科学、しかしながら科学の一種--として成熟した兆候の一つとしてほめたたえられたのは、歴史の言説が語るということ (the narrativity of historical discourse) であったということを、同じ解明法によって解明しなければならない。他ならぬ歴史家こそが、語るということを、しゃべり方 (a manner of speaking) から、実在性自身が「実在的」な (realistic) 意識に示す形式規範 (a paradigm of form) へと変容させたのである。歴史家は語ることを一つの価値 (a value) にした。実在の出来事に関する言説に語りがあることによって客観性 (objectivity) も重大さ (seriousness) も実在論 (realism) も同時に示される。 (p.23)

※ 語りこそが歴史学の客観性や重要性や実在性を示し、歴史学を独自の科学としているという論点は、実践研究を考える点でも大切にしたい。




■ 語りと人道化は不可分

人道化を目指すことなしに語りを紡ごうとすることなどいったいできるのだろうか? (Could we ever narrativize without moralizing?)

※ ことさらに自分が人道的であるとかないとかいう問題ではなく、社会性を重視する動物としての人間にとって、人道的であるあるいは社会的であるというのは、根源的に重要な基盤となっているのかもしれない。