2012年2月1日水曜日

川崎剛 (2010) 『社会科学系のための「優秀論文」作成術 ― プロの学術論文から卒論まで』勁草書房




■博士号はもちろん修士号獲得のためにも必読・必携


博士課程はもちろん、修士課程にいる大学院生にとって必読であり、常にそばに置いて折々に参照すべき本として、この『社会科学系のための「優秀論文」作成術―プロの学術論文から卒論まで』をお薦めします。

博士課程の院生が、この本に書かれているような知恵をもっていないことは、莫大な時間とお金を浪費することにつながりかねませんから、博士課程在籍者および博士課程に進学を考えている人はぜひ読んで下さい。

特に博士号取得を考えていない修士課程の院生も、ここに書かれているようなことを理解しないと、指導教官の助言が理解できず、非生産的な日々をおくることになりかねませんから、やはり読むことをお薦めします。いや一、二度読むだけでなく、院生控室や自分の机の上に常に置いて、日々の研究活動の中で、この本を一つの物差しにして、より生産的な日々をおくるよう、この本を十二分に活用して下さい。

卒業論文を書く学部生も、個人的にはぜひ読んでほしく思います。「学術論文は何をするものか」ということがわからずに、やみくもに学術論文を読んでも要領を得ないからです。著者のたとえ(vページ)を借りますならば、たとえあなたが少年野球しかしなくても、プロ野球選手の試合や練習がどのようなものであるかを理解することは、非常に重要なことです。同じ時間だけ練習をするにしても、理解が違うと効果はまったく異なってきますから。

しかし、正直言いますと、最近の一部の学生さんの読解力は、英語だけでなく日本語でも非常に低下しています。ですから、今まであまり本を読んだことのない学部生は、『これからレポート・卒論を書く若者のために』などを先に読んで下さい(参考記事:「当たり前」だけどなかなかできない「思考のマネジメント」)などを先に読んで下さい。



■ここでいう「社会科学系」とは?

と、本書を薦めても、学生さんの中には「ボクは『エーゴキョーイクガク』をやるので、『社会科学系』の本など読むのはイヤです。もっとすぐに使える本を教えて下さい」などと言う人もいます。そのような学生さんには、軽いめまいを覚えつつも、そこは職業的責任感で抑えて、「いたずらに世界を狭くすることは、短期間的に考えれば良さそうに見えても、長期的には確実に自分を愚かにするから、そのような狭量は止めた方がいい」と助言します。

そもそも、ここでいう「社会科学系」というのは、広い意味で使われていて、おそらくは「複数の人間が関わる事象であり、かつ、結論が単純に白か黒と決まる事態がまずない事象に関する学術的探究」ぐらいの意味だと私は理解しています。

本書のある箇所で、著者も次のように言っています。


現代の進んだ社会科学のもとでは、とある社会現象に関して一方の学説が明らかに100%正しく、他方が100%間違っているという状況はまれである。したがって検証の結果、総合的判断として一方のほうが他方よりも説得力があるというような型の議論を展開することとなる。あるいは何らかの条件をつけて判定を下すこととなる。いずれにせよ、ていねいで正確な表現方法が必要となろう。 (99ページ)


ですから、本書は言語教育系の学生さんにも広く薦められるものです。

もっとも、一部の例は著者の専門である国際政治学から取られていますので、そのあたりは隔靴掻痒の思いをすることもあるかもしれません。その場合は、著者がこの例を通じてどのようなことを主張しているのかを読み取って下さい。



■しかし、そもそもなぜ論文などというウザイものを書かなければならないのか?

しかし、なぜ大学・大学院というのは、これほどに論文を書くことを重視するのでしょう。論文なんて学者仲間だけで書いて読んでいればいいだけなのに・・・と思う学生さんもいるかもしれません。しかし、著者も言うように(少なくとも)北米系の大学・大学院は次のような認識をもっています。



体系的に議論を書くことができる人材
= 自力で考えぬくことができる人材
= 問題を指摘し解決策を提示することによって組織や社会をリードできる人材


(111ページ)


つまり、現在のように複雑な社会で活躍できる人材を育てようと思うなら、知的側面においては論文を書かせることが非常にいい訓練になるわけです。実社会でも、論文あるいは論文に準ずるような文書(例えば企画書など)を読んだり自ら作成したりする機会はあります。文書を作成せずとも、文書を書くように丁寧に考えるべき機会はたくさんあります。(私も学内外の実務で、論文読解と執筆で培った分析力と統合力があってよかったと思うことが多々あります)。

大学(ひどい場合には大学院)で、単位や資格を取るためだけに勉強しても、そうやって得た肩書きは何の役にも立ちません。かえって「あれで大卒・修士号・博士号かよ」と陰で笑われるだけです。ここは一つ、覚悟を決めて、しっかりと卒論・修論・博論を書いて、自分を組織的に訓練して下さい。

著者の川崎剛先生(http://www.sfu.ca/~kawasaki/)は、カナダの大学で15年間教鞭をとり、大学院時代も含めれば北米の大学システムで25年間もの間、厳しい競争的環境の中で活躍されている方です。どうぞ信頼して本書をお読みください。






■この本の概要

以下は、アマゾンに掲載されてあったこの本の目次に、私なりの言葉を付け足したものです(コロン以下が私の付言です)。この本の内容をあまり紹介してしまっては、著作権に違反しますし、私としてはこのような良書を書いた著者と出版した出版社にはきちんとした金銭的報酬が行くべきだと思いますので、私の付言はわざと言葉足らずに書いています。また私の付言の中には、私独自の言葉遣いも含まれていますから、どうぞ皆さん、ぜひ実際にご自分でこの本を買って読んで下さい。



第I部 社会科学論文の「型」をマスターする:「型」に即していないと、言葉を尽くしても・・・

第1章 まずは3つのPを念頭におく: Project, Persuasion, and Problem-Solving


第2章 論文の骨格をつくる: 四つの要素のどれを欠かしても・・・

1 目的 (the purpose/character of the paper):「概念の検討・整理」「仮説検証」「仮説創設」「新事実の提示」

2 中心命題 (the central thesis): 反論可能な命題を一つ立証

3 「問題と解決」の枠組み (research design): 問題分析・解決方法・方法実施(参考記事:Research Questionの探究としての研究論文

4 中心命題が持つ含意 (implications):立証の波及効果

5 まとめ



第3章 論文の細部を仕上げる:論文の機能とは何か(参考記事:論文の構成要素とコミュニケーション的機能

1 中心命題の説得力を最大限にする: 証拠を増やすための論証法・反論を織り込む・方法論の妥当性を示す

2 表現法で説得力を増強する:序論・本論・結論の機能を考える (The Craft of Researchも読むこと)

3 まとめ



第II部 学位・卒業論文の攻略法:卒論の段階から博論について理解しておく

第4章 博士論文攻略法:はじめての本格的学術作品

1 博士論文の基本的性格: Project

2 研究計画書作成段階での注意点: 先行研究と問題解決の見通し

3 研究計画書執行段階での注意点:執筆と口頭試問

4 おわりに


第5章 修士論文攻略法: 研究プロセスの確実な達成

1 修士論文の基本的性格:問題の発見よりも解決

2 修士論文の基本タイプ: 「概念の検討・整理」か「仮説検証」

3 修士論文作成上の注意点:タイムマネジメント

4 おわりに


第6章 卒業論文攻略法:「おさらい論文」や「オレの熱い思い」などは決して書かない(『これからレポート・卒論を書く若者のために』も参照)

1 卒業論文の基本的性格:基礎的な学術スキルの獲得

2 「古い仮説・新しいデータ」型論文のすすめ:わずかだが確実な貢献

3 卒業論文の骨格:序論・背景・立証・結論

4 おわりに


第III部 学術雑誌攻略法:研究者として生き残るために

第7章 学問の「実戦」を理解する

1 論文草稿が学術雑誌に掲載されるまでの過程:審査員とのコミュニケーション(『これから論文を書く若者のために 』も参照せよ)

2 審査員が求めているもの:完成度と学問的貢献

3 まとめ


第8章 投稿してつぎに備える:"The show must go on."

1 学術雑誌を選び,投稿する: 「なにがなんでもトップ・ジャーナル」とは考えない

2 論文生産システムを構築する: 複線的マネジメント

3 おわりに――システム思考の大切さ


付録

1 研究計画書の作成術:提出する前のチェックリスト

2 主なる問題発見法の一覧表:考え方のヒント

3 論文用・研究計画書用のチェックリスト:ここだけでもコピーして机の前に貼っておく

4 参考文献ガイド




上記の目次を見てもわかるように、折々に「まとめ」や「おわりに」があり、非常にわかりやすい構成となっています。ぜひご活用ください。

また、私は論文執筆入門として、The Craft of Researchを広く薦めていますが、川崎先生もこのThe Craft of Researchをカナダの大学でも使っているそうです。Craftと本書の違いは、前者がより入門的、後者がより専門的となるかと思います。















関連ページ

柳瀬旧ホームページ「教育」
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html

柳瀬現ブログ「教育」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/%E6%95%99%E8%82%B2

卒論・修論・博論の書き方を解説したサイト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/10/blog-post.html






2012年1月24日火曜日

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から




研究社に提出する学習英文法の原稿に「言語の記号的理解と身体的理解」という表現を使ったので、それについてちょっと詳しく書いておこうと思っていたら、そのためには『論考』についてまとめておかねばならないと考え、先日「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」という記事を書きました。

本日はやや体調もよく、時間も少し取れそうなので、その記事を受けてようやく「言語の記号的理解と身体的理解」についてまとめようと構想を練り上げていましたら、やはりウィトゲンシュタインの『哲学的探究』をもう一度きちんと読み直さないといけないと思い始め、黒崎宏先生による『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』(1994年、産業図書)を読みウィトゲンシュタインの議論の流れを追いながら、注目すべき箇所のPhilosophical Investigationsで英訳とドイツ語原文をチェックし始めました。

黒崎先生の翻訳が親切なこともあり(注)、かなり引きこまれ ―ということは、かなり自分でも考えさせられながら― 読んでいくと、88節までで私が本日勉強できる時間がなくなりました。もともとは「言語の記号的理解と身体的理解」というタイトルで記事をまとめるための『探究』再読ですが、この小さな読解はそれなりに小さくここでまとめておくべきかとも思い始めました(てか、そうしないと来週の講義に間に合わない)。もちろん『探究』についてまとめるにせよ、本来なら、この翻訳に従って適宜英訳とドイツ語原文を参照しながら、せめて『探究』の第一部(693節まで)を全部読んでからまとめるべきでしょうが、まったくの自転車操業で勉強する時間がなかなか取れませんし、取れたら取れたで、その時には体力が果てていたりすることが多いので、ここでウィトゲンシュタイン後期代表作である『探究』の1-88節の部分を、特に『論考』との関連からまとめておくことにします。(←前置き長い。早く要点だけ述べろ!)

なお、『探究』からの引用に関しては、原文と英訳(上記本のAnscombe, Hacker & Schulteの もの)も掲載しましたので、日本語訳に関してはやや意訳気味に思い切って訳した拙訳を掲載しています。ただ67節などでは少々ドイツ語理解に自信が持てないところがあります。もし誤りが見つかればどうぞご指摘下さい。



***





■『論考』の意味論の確認

ウィトゲンシュタインは、『探究』の最初の節に、アウグスティヌスの言語観を引用することで、彼が『論考』で取っていた意味論を確認します(『論考』に関しては「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」の記事をご参照下さい)

「子どもは、周りの大人が「これが○○だ」と呼ぶのを聞いて言語を獲得するのだ」というアウグスティヌスの素朴な(そして誤った)考えを受けて、ウィトゲンシュタインは、自分がこの『探究』で乗り越えようとする『論考』の意味論を次のようにまとめます。



1.
[アウグスティヌスの]これらの言葉には、人間の言語の本質に関する一つの考えが表されているように私には思える。つまり「言語において、単語とは対象の名であり、文とはそのような名の結合である」という考えである。 言語についてのこの考えの中に、あなたは次の観念の根を認めるかもしれない。つまり「それぞれの単語には一つの意味がある。この意味は単語に連結している。この意味とは、その単語が表している対象である」という観念である。


1.
In diesen Worten erhalten wir, so scheint es mir, ein bestimmetes Bild von dem Wesen der menschlichen Sprache. Nämlich dieses: Die Wörter der Sprache benennen Genstände -- Sätze sind Verbindungen von solchen Benennungen. -- In diesem Bild von der Sprache finden wir dir Wurzeln der Idee: Jedes Wort hat eine Bedeutung. Diese Bedeutung ist dem Wort zugeordnet. Sie ist der Gegenstand, für welchen das Wort steht.


1.
These words, it seems to me, give us a particular picture of the essence of human language. It is this: the words in language name objects -- sentences are combinations of such names. -- In this picture of language we find the roots of the following idea: Every word has a meaning. This meaning is correlated with the word. It is the object for which the word stands.


この意味論にどう反駁し、これを越える意味論・言語論をどう展開するかが『探究』であると言っても過言ではないかと思います(やはり『論考』と『探究』は合わせて読まれるべき本なのでしょう。どちらも一筋縄ではゆかない本ですが。)




■単純な名指しだけで言葉を獲得するためには・・・

ウィトゲンシュタインの批判は、「これが○○だ」といった定義方法(「直示的定義」)で子どもは次々に着実に言葉を獲得することはない、というものです。なぜなら「これが○○だ」の「これ」が何のを指しているのか、そのどの側面を意味しているかは、一義的には決定されないからです。例えば二つのリンゴを指して「これが『2』だ」(=「コレガ『ニ』ダ」)と言っても、子どもはこの特定のリンゴを「2」(=『ニ』)と思うかもしれません。あるいはこの大人は今、果物のことを話していると思うかもしれません。あるいは「食べ物」のこと、あるいは「色」のこと、と思うかもしれません。

既に(少なくとも)第一言語を獲得している私たちには、このような懐疑はいかにもとってつけたもののように思えるかもしれません。しかしここでウィトゲンシュタインが行おうとしていることは、究極のレベルでの名指し ―『論考』で彼自身が「対象」と「名」の間に成立させようとした名指し― は、それだけでは成立せず、他の言語表現に既に習熟していることを必要としていることを、戯画的に示すことです。

誤解を避けるために、大人は他のミカンや本などを指しつつ「これも『2』だ」と言って、彼が意味しているのは「果物・食べ物」でも「色」のことでもないことを示そうとしながら、「この『数』が『2』である」と説明するかもしれません。これなら誤解のしようがないようですが、この直示的定義には「数」という語が導入されています。この直示的定義を理解するためには、子どもは子どもなりに「数」とは何かを既に理解しておかねばなりません。そして「数」を理解しておくためには、他の多くの言語概念を知っておかねければならないというのが、ウィトゲンシュタインが『論考』でわずかに示し(3.26およびその補助命題)、この『探究』で全面的に展開しようとする論点です。

さて、このように定義の中に別の(定義を必要とする)語を導入するというやり方で、なんとか理解ができることにしたとして(つまり、子どもは言語獲得の複合的循環性という矛盾を、なんとか周りの大人に支えられながら言語使用することで解決する、として)、それではどの語を定義に導入するか、「数」でいいのか、それとも他の語なのか、という問題が浮上するように思えるかもしれません。

しかしそのいわば「究極の説明語」とは何か、ということを脱文脈的に、一般論・抽象論として考えてしまっては出口を失ってしまいます。他の何も必要としない語(『論考』でいうところの、単純な「対象」、そしてその「名」)はないからです。

何をもって説明とするかは、その文脈およびその人次第です。説明がうまくいくか、いかずに誤解を受けるかは、予めはわかりません(もちろん、人は過去の多くの類例経験からある程度の推測をすることはできますが)。

単純に言い切ってしまえば、どんなに素晴らしい説明をしたと教師が思っても、生徒が実際にその説明された事を実践してみなければ、その生徒がきちんんとその事を理解し獲得したかどうかはわからないのです。

いや、それどころか、その生徒が教師の素晴らしい説明を丸暗記していたとしてもその生徒がきちんと理解し獲得しているかどうかはわかりません。なぜならその生徒は自分自身が暗記しているその説明の解釈や適用において誤るかもしれないからです。

具体的な文脈の中で、 他の言語使用者と共に言語使用を重ねることでしか、言語理解の適切さ、ひいては言語獲得はわかりません。人は言語獲得をしてその後に言語使用をするのではなく、言語使用の中で言語獲得をしてゆく(逆に言えば、言語獲得の試みの中で言語使用をしてゆく)のです。学習者の実際の言語使用抜きに、いくら教師の言語説明の良し悪しを語ってもそれは的を外しています。

ウィトゲンシュタインはこう言います。


29.
「2」を直示的に定義する時に「数」という言葉が必要になるかどうかは、その語がないと説明を受ける人が、あなたが思った定義とは違うように誤解するかどうかによって決まる。また、これは定義が与えられた状況次第でもあるし、誰が説明を受けるかどうか次第でもある。

説明を受ける人がどのように誤解するかは、その人が説明された語をどのように使用してゆくかに自ずと示される。

29.
Ob das Wort "Zahl" in der hinweisenden Definition der Zwei nötig ist, das hängt davon ab, ob er sie ohne dieses Wort anders auffaßt, als ich es wünsche. Und das wird wohl von dem Umsänden abhängen, unter welchen sie gegeben wird, und von dem Menschen, dem ich sie gebe.

Und wie er die Erklärung 'auffaßt', zeigt sich darin, wie er von dem erklärten Wort Gebrauch macht.


29.
Whether the word "number" is necessary in an ostensive definition of "two" depends on whether without this word the other person takes the definition otherwise than I wish. And that will depend on the circumstances under which it is given, and on the person I give it to.

And how he 'takes' the explanation shows itself in how he uses the word explained.


言語獲得や言語教育は、具体的文脈抜きの超越論的な一般論として語られるべきでなく、具体的な文脈の中の具体的な人間の問題として語られるべきというのが、ウィトゲンシュタイン的考えになろうかと思います。




■個人の言語獲得も、言語共同体での歴史的な問題

かくして第一言語を獲得しようとする子どもの周りの大人、および第二言語を学習しようとしている生徒の教師は、その子ども・生徒にわかりやすいような例でもって言葉の説明を行います。しかし誤解を避けるには、複数の例があった方がいいでしょう。大人・教師は、子ども・生徒の反応を見ながら次々に例を提示するかもしれません。

やがて子ども・生徒は「わかった!」と叫ぶかもしれません。そして実際、その子ども・生徒は、それ以降の使用でことごとく適切な言語理解をするかもしれません(もちろん現実には間違いもおかすでしょうが、ここでは議論を簡単にするために、その子ども・生徒はその後適切な言語使用をするようになったとさせてください)。

この時、私たちはその子ども・生徒が何か深遠なものを獲得したと考えたくもなります。その子ども・生徒が、未来の無数の言語使用においても常に通用するような真理か何かを会得したというわけです。

しかし、それは考え過ぎでしょう。後でも再び述べるつもりですが、言語の意味も使用もある面で拡張されたり(端的な例はメタファー)、ある面で衰退したりと、時間的に変遷しうるからです。また、前にも述べましたように、子ども・生徒は、自分の理解の解釈・適用において誤ることがありうるからです。その自らの理解に関する自らの誤りは、言語共同体の他の複数のメンバーの指摘を待つしかありません。

だからこの「わかった!」というのは、子ども・生徒が何か超時間的な真理を個人的に獲得したことを示しているのではなく、単にその子ども・生徒が、これからその言語共同体でうまくやってゆける自信を持ったことを示しているだけに過ぎません。その自信が適切なものなのかそれとも単なる過信なのかは、言語共同体の中で時間をかけながら一回一回と言語使用を重ねてゆくしかありません。言語獲得とは、言語共同体での歴史的な問題なのです。言語獲得は、個人的で瞬時に成立するものではありません。

だから、誰にでも一回与えればそれで済む完璧な説明などというものはありません。もちろん完璧な説明がないからといって、どんな説明も同じようなものだとか、説明などは一切いらないとはなりません。場面や人によってよりよい説明というのはあるでしょう。しかしここで確認しておきたいのは、大人・教師が、子ども・生徒に適したと考える例をいくつか出して、子ども・生徒に実際に言語を使わせてみて、その様子を観察するということは決して理に適わないことではないのです。むしろ、完璧な説明を求めて右往左往すること、あるいは完璧な説明を得たと思い込んで、それを子ども・生徒に詰め込もうとすることの方が無理筋と言えましょう。



71.
人はいくつか例を与え、そしてそれらの例がある意味で理解されることを望む。 -- しかしこう言ったからといって、それらの例を聞いた人が、私が何かの理由で表現できない共通要素を見て取るに違いないなどと私は言いたいのではない。そうではなく、例を聞いた人は、これらの例をあるやり方で使用するようになるだろう、と言っているのだ。この例示というものは、きちんとした説明ができないから、説明を間接的なやり方でやったとかいうものではない。なぜならば、どんな一般的な説明というものも、誤解されうるからである。私たちはまさにこのようにして(言語ゲームという)ゲームを行うのである。


71.
Man gibt Beispiele und will, daß sie in einem gewissen Sinne verstanden werden. -- Aber mit diesem Ausdruck meine ich nicht: er solle nun in diesen Beispielen das Gemainsame sehen, welches ich -- aus irgend einem Grunde -- nicht aussprechen konnte. Sondern: er solle diese Beispiele nun in bestimmter Weise verwenden. Das Exemplifizieren ist hier nicht ein indirektes Mittel der Erklärung, -- in Ermanglung eines Bessern. Denn, mißverstanden kann auch jede allgemeine Erklärung werden. So spielen wir eben das Spiel. (Ich meine das Sprachspiel mit dem Worte "Spiel".)


One gives examples and intends them to be taken in a particular way. -- I do not mean by this expression, however, that he is supposed to see in those examples that common feature which I -- for some reason -- was unable to formulate, but that he is now to employ those examples in a particular way. Here giving examples is not an indirect way of explaining -- in default of a better one. For any general explanation may be misunderstood too. This, after all, is how we play the game. (I mean the language-game with the word "game".)


と、上の引用では「言語ゲーム」という用語が登場してしまいました。次はこのウィトゲンシュタインの用語を簡単に解説します。




■『論考』の単一的な言語観から、『探究』の多様な言語観へ

前期の『論考』におけるウィトゲンシュタインは、世界を記述する論理的な言語をもっぱら考察し、その完璧の(あるいは究極の)説明や単位を求めていました。後期の『探究』は、ウィトゲンシュタインがその枠組から自らを解放し、言語のあり方、説明や単位のあり方の多様性を見るようになった作品とも言えるかと思います。

ウィトゲンシュタインは、『論考』時代の自分のような人物を『探究』に時折登場させ、その人と対話します。65節では、その登場人物に、言語の本質を明らかにしようとしないウィトゲンシュタインは「安易な道を歩んでいる」のだと批判させます。

以下はウィトゲンシュタインの返答です。


65.
実際その通りである。 -- 私達が言語と呼ぶものすべてに共通するものを提示する代わりに、私は、この言語と呼ばれる現象には、ある一つの共通要素があり、それにより私たちは等しく「言語」という言葉を使っているのではない、と言っているのだから。言語と呼ばれる現象は、互いに様々な方法で使用されているだけである。この使用 ― いや様々な使用というべきか ― ゆえに私たちはこれらの現象をすべて「言語」と呼んでいるのだ。


65.
Und das ist wahr. -- Statt etwas anzugeben, was allem, was wir Sprache nennen, gemeinsam ist, sage ich, es ist diesen Erscheinungen gar nicht Eines gemeinsam, weswegen wir für alle das gleich Wort verwenden, -- sondern sie sind mit einander in vielen verschiedenen Weisen verwandt. Und dieser Verwandtschaft, oder dieser Verwandtschaften wegen nennen wir sie alle "Sprachen".


65.
And this is true. -- Instead of pointing out something common to all that we call language, I'm saying that these phenomena have no one thing in common in virtue of which we use the same word for all -- but there are many different kinds of affinity between them. And on account of this affinity, or these affinities, we call them all "languages".


時間的な積み重なりと、言語共同体による承認を要する、歴史的で共同体的な言語使用において言語獲得を考えようとするウィトゲンシュタインの言語観は、決して超時間的・無時間的なものでも個人的なものでもありません。多くの近代言語学は「共時的」(synchronic)という前提で時間的推移を考えなかったり、時には言語獲得を瞬時に行われるものとするという仮定を導入したりもしました。さらには言語を「個人心理学」の問題ともしました。しかし、ウィトゲンシュタイン的に考えるなら、言語も言語獲得も言語教育も、言語使用に即した歴史的で共同体的なものとして考えるべきとなります。「真理」は、神のイメージに即するなら、神という個体が所有する超時間的・無時間的なもののように思えるかもしれませんが、人間の言語に関する事実は個人的なものでも超時間的・無時間的なものでもありません(参考記事:「アレントによる根源的な「個人心理学」批判」「「政治」とは何であり、何でないのか」)。たとえこれまでの人間の歴史を鳥瞰してその中に常に成立している「真理」が発見されたとしても、その「真理」が未来永劫続くかどうかはわからないというのが、進化論的考え方でもあるかと思いました。

話が大きくなりました。ウィトゲンシュタインに戻ります。次は「親族的類似性」という用語です。




■ある語は、必ずしも一つの共通要素ではなく、直接・間接の関連でつながる、と考えるべき


例えば「言語」という語が、様々に使用されながらも、その多様性にもかかわらず同じように「言語」と呼ばれる現象は、単純な集合論的な発想を取れば矛盾です。すなわち「言語」の集合に属する、言語の使用例(U1, U2, U3, ...Un)はすべて言語の集合に共通の要素をもっていなければならないと発想するからです。

しかしウィトゲンシュタインは、そのU1, U2, U3, ... Unは、いわば一つの親族(広い意味での家族)のメンバーみたいなものだと考えます。「○○家」と呼ばれる親族メンバーがいくつかの分家などを経験しながらも、まだ「○○家」としてのまとまりを失わずに、「○○家」という言葉が使われている時、その○○家の構成メンバーの全員がすべて同じ特徴をもっているわけでもないでしょう。

記号的に表現するなら、U1, U2, U3, ... Unにすべて同じ特徴Xが共有されているわけでは必ずしもなく、U1, U2, U3, ... Unの7割のメンバーが例えばAという特徴をもち、他のメンバーの組み合せで合計6割の○○家メンバーがBという特徴をもち、あるメンバー番号周辺にはCという特徴が固まっているかと思えば、Dという特徴はメンバー全体にまんべんなく散らばっているといったように、様々な特徴が重なりあい、離れあっているのが○○家の実態ではないでしょうか。

ウィトゲンシュタインは、もっと単純なメタファー(「糸」)を使い、「親族的類似性」を次のように説明します("Familienähnlichkeiten" ("family resemblances"))は通常「家族的類似性」と訳されていますが、ここで意味されているのはいわゆる大家族的な意味での家族だと思いますので、私はここでは「親族」と訳しています)。



67.
この類似性を表すのに、私は「親族的類似性」以上の言葉を思いつくことができない。というのも、多様な類似性は、一つの親族の異なるメンバーの間で重なりあい、離れあいながら成り立っているからである。例えば、体格、顔つき、眼の色、歩き方、気質などである。さらに私はこう言いたい。「ゲーム」も一つの親族を構成しているのだ。

同じように、例えば数の種類も、一つの親族を構成している。私たちはなぜあるものを「数」と呼ぶのだろう。それは「数」と呼ばれるものには、私達がこれまで数と呼んでいたもののいくつかと、ある直接の関連があったからである。このことによって、それには私達が数と呼んでいたもの他の数と間接的な関連があると言うこともできる。私たちが数の概念を拡張するのは、私たちが繊維と繊維をより合わせて糸を紡ぐやり方にも似ている。糸が強いのは、何か一本の繊維が糸の端から端まで貫いているからでなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているからである。


67.
Ich kan diese Ähnlichkeiten nicht besser characterisieren, als durch das Wort "Familienähnlichkeiten"; denn so übergreifen und kreuzen sich dier verschiedenn Älichkeiten, die zwischen den Gliedern einer Familie bestehen: Wuchs, Gesichtszüge, Augenfarbe, Gang, Temperament, etc. etc. -- Und ich werde sagen: die 'Spiele' bilden eine Familie.

Und ebenso bilden z. B. die Zahenarten eine Familie. Warum nennen wir etwas "Zal"? Nun etwa, weil es eine - direkte - Verwandtschaft mit manchem hat, was man bisher Zahl genannt hat; und dadurch, kann man sagen, erhält es eine indirekte Verwandtschaft zu anderem, was wir auch so nennen. Und wir dehnen unseren Begriff der Zahl aus, wie wir beim Spinnen eines Fadens Faser an Faser drehen. Und die Stärke des Fadens liegt nicht darin, daß irgend eine Faser duruch seine ganze Länge läft, sondern darin, daß viele Fasern einander übergreifen.


67.
I can think of no better expression to characterize these similarities than "family resemblances"; for the various resemblances between members of a family -- build, features, color of eyes, gait, temperament, and so on and so forth -- overlap and criss-cross in the same way. -- And I shall say: 'games' form a family.

And likewise the kinds of number, for example, form a familiy. Why do we call something a "number"? Well, perhaps because it has a - direct -affinity with several things that have hitherto been called "number"; and this can be said to give it an indirect affinity with other things that we also call "numbers". And we extend our concept of number, as in spinning a thread we twist fibre on fibre. And the strength of the thread resides not in the fact that some one fibre runs through its whole length, but in the overlapping of many fibres.





■様々な言語ゲームの変遷的集積としての言語

以上のような考えをもつ後期ウィトゲンシュタインは、言語を、多様な言語使用の集積と考えます。さまざまな面で、直接的・間接的に相互に関連している言語使用の集積です。さらには、時代によって流行り廃りなどの変遷を経て、閉じた集合を形成していない、未来の可能性に開かれた言語使用の集積です。

加えて、ウィトゲンシュタインは、言語使用を「言語ゲーム」と名づけることにより、言語使用とは、単に言語を形式的に操作することではなく、言語を使うことによって私たちが私たちの暮らしを豊かにするものだということを印象づけようとしています。

以下の23節には、ウィトゲンシュタインがあげた言語ゲームの例が本当は続くのですが、この引用ではそれらの例は省略しています。ウィトゲンシュタインに頼らずに、私たちの暮らしの中での言語使用の多様性を思い起こすことが、言語教育の充実のためにも重要かと思います。



23.
しかし文にはいくつ種類があるというのだろうか。平叙文、疑問文、命令文の三種類だろうか。いや数え切れないほど種類があるというべきだろう。私達が「記号」「単語」「文」と名づけるものすべてを考えるなら、そこには数えきれないほどのさまざまな種類の「記号」「単語」「文」の使われ方があるのだ。しかし、この種類の多さは、一度にすべてが与えられて定まったものではない。そうではなくて、新たな類の言語、新たな言語ゲームとでもいうべきものが現れ、他方で他の言語ゲームが古くなり忘れ去られるのだ。(この変遷は、数学の変遷に似ていないこともない)。

「言語ゲーム」という表現を使うのは、言語を話すということは、私たちの営み、暮らしの一部であるということを言いたいがためである。

言語ゲームの種類の多さを、以下の例、およびその他の例によってよく考えてほしい。


23.
Wieviele Arten der Sätze gibt es aber? Etwa Behauptung, Frage und Behehl? Es gibt unzählige solcher Arten: unzählige verschiedene Arten der Verwendung alles dessen, was wir "Zeichen", "Worte" "Sätze" nennen. Und diese Mannigfaltigkeit ist nichts Festes, ein für allemal Gegebenes; sondern neue Typen der Sprache, neue Sprachspiele, wie sagen können, entstehen und andre veralten und werden vergessden. (Ein ungefähres Bild davon können uns die Wandlungen der Mathematik geben.)

Das Wort "Sprachspiel" soll hier hervorheben, daß das SprechenSprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebensform.

Führe dir die Mannigfaltigkeit der Sprachespiele and diesen Beispielen, und andern, vor Augen:

23.
But how many kinds of sentence are there? Say assertion, question and command? -- There are countless kinds; contless different kinds of use of all the things we call "signs", "words", "sentences". And this diversity is not something fixed, given once for all; but new types of language, new language-games, as we may say, come into existence, and others become obsolete and get forgotten. (We can get a rough picture of this from the changes in mathemetics.)

The word "language-game" is used here to emphasize the fact that the speaking of language is part of an activity, or of a form of life.

Consider the variety of language-games in the following examples, and in others:



他の言語使用者と共に言語ゲームを覚え、さらに新しい言語ゲームを覚えて一つ一つ重ねながら、同時に、重なり合わないところを拡張する部分としながら、自らの言語を広げてゆく。どの時点でも自らの言語がそれなりに完結していながら、決して閉じられておらず、自分の言語が少しずつ広くなり変化もしてゆく。それと同時に自分にとっての言語共同体も少しずつ広くなり変化もしてゆく。そしてこれらの流れの中で質的な変化も生じてゆく -- うまく言えませんが、こんな歴史的で共同体的な言語観を、ウィトゲンシュタインに倣いながら、もう少し自分の中で熟成させたいと思います。








(注)

黒崎先生は、例えば『探究』の中でも最も引用される43節を「或る語の意味とは、言語ゲームに於けるその語の使用である」と翻訳しています。

この箇所の原文は、"Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache."ですしAnscombe, Hacker & Schulteの英訳でも"the meaning of a word is its use in the language."ですから、黒崎先生が「言語ゲーム」と翻訳されたところは直訳的にいうなら「言語」に過ぎません(藤本隆志訳でも「言語」となっています)。しかし、黒崎先生がおっしゃるように、ウィトゲンシュタインの議論からすればここはあくまでも「言語ゲーム」での使用について語っているのであり、ウィトゲンシュタインは例えば第7, 65, 116節などでも「言語ゲーム」と言うべきところを単に「言語」としか言っていないので(黒崎(1994)、34ページ)、ここも「言語ゲーム」と翻訳すべきかと思いました。


黒崎先生は、この『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』について次のように自ら説明しています。


本書は、そのような『探求』を、私が理解したと思うところに従って、(独断や偏見であるかもしれないという事を恐れずに、)言葉を補いながら徹底的に読解をし、解きほぐそうとしたものである。それ故、本書は、解説と言うには説明が少なすぎるが、翻訳と言うには挿入が多すぎるし、原文から離れすぎている。したがって本書は、普通の意味では、翻訳ではない。(3ページ)。


「普通の意味での翻訳ではない」と言うものも、気になる箇所は原文や英訳を参照すればいいわけですから、この黒崎先生の「読解」は、『探究』への一つのアプローチとして優れたものだと思います(現在、品切れ状態のようなのが残念です)。




追記

細かいことをついでに申し上げておきますと、私はこの"Philosophische Untersuchungen" ("philosophical investigation")を『哲学的探究』と通常訳しています。『探求』と訳さないのは、ウィトゲンシュタインはこの本の中で、物事を哲学的に「究」明しようとはしていても、何か(答えのようなものを)を「求」めてはいないだろうと考えるからです。さらに個人的にはウィトゲンシュタインを読み始めた頃に、柄谷行人の『探究 I』『探究 II』を何度も読んで影響を受けたので「探究」という語の方に親しみを感じているということがあります。










2012年1月21日土曜日

まとまった文書の作成法




以下の説明は、レポートや研究発表などのある程度まとまった文書を書く方法を、学部一年生に対して説明するためにまとめたものです。

いきなりワープロソフトを立ち上げて、まとまった文書を書こうとしてもまず失敗します。私もこの稼業についてある程度の年月を過ごしていますが、ある程度まとまった文章を書こうと思えば、必ず以下のような手順で、少しずつ自分の思考を段階的に視覚化してから書き始めます。結局はこのような手順を踏んだほうが早く、良い文章を書けるからです。

甘い先生でしたら、いきなりワープロに書きつけたような文章でも単位を出してくれるかもしれません。しかしそのような文書作成では、あなたの分析力は高まりませんし、思考力も深まりません。単位は得ることはできても、あなたの知的成長がないといしたら、私はその「勉強」は時間の無駄だと思います。

単位のためでなく、自分のために、以下のような手順を踏んで、丁寧に考え、丁寧に文書を作成することを教師としてはお勧めする次第です。



1 キーワード: キーワードを整理する

1.1 アンダーライン: これまでに読んだ資料や取ったノートのキーワードにアンダーラインを引く

1.2 キーワードを書き出す: アンダーラインを引いたキーワードの中でも特に今回の文章にとって重要なキーワードを、何か他の媒体に書き出す。

1.3 キーワードの分類を考える: 次の準備のために、それらのキーワードはどのようなグループに分けられるかを考えておく。


2構造的関係の二次元的表現: マインドマップなどの要領で、キーワードの構造的関係を、二次元平面で表現する

2.1 最重要キーワード: 今回、最重要だと思うキーワードを図の中央に書く

2.2 第二次キーワード: 最重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第二次重要キーワードとして選び、それらを最重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。

2.3 第三次キーワード: それぞれの第二次重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第三次重要キーワードとして選び、それらを第二次重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。

2.4 キーワードの追加: 以上の過程で、新たに必要なキーワードが見つかったら、たとえそのキーワードがこれまでに読んだ資料や取ったノートになくとも、そのキーワードを付け足してゆく。

2.5 必要に応じての再編成: 以上の過程で、最初に想定していたキーワードの親子関係(最重要-第二次重要-第三次重要)の間の結びつきよりも強い結び付きが、別の親子関係に属するはずのキーワードとの間にあまりにも多く見つかったら、それはそのマインドマップに改変の余地があることを示しているので、新しい媒体(紙やファイル)で2.2からさらに始める(ただし古い媒体も保存しておくこと。作業をするうちに古い媒体での表現の方がやはりよかったと思い直すことはたまにあるから)。

2.6 キーワードの順番づけ: 次の準備のために、この二次元平面で表現したキーワードの構造関係を、話して説明するという時間的順番で説明するとしたら、どういった順番になるかを考えておく。


3 構造的関係の時間的表現: 桁番号付きの命題で、キーワードの構造的関係を、説明する時間的順番で表現する。

3.1 文書全体のタイトルの決定: 最重要キーワードについて、結局何を言いたいのかを命題で表現する。つまり単に最重要キーワード「X」の語だけを書くのではなく、「XはYである」や「XはYをZする」などの文の形で表現する。これがあなたの文章のタイトルの原形となる。

3.2 一桁命題の作成: そのタイトル命題を、説明するいくつかの柱を、一桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの一桁命題を順番に語れば、あなたがタイトル命題で言いたかったことがよくわかるように、一桁命題を作り並べる(必要に応じて作り替え並び替える)。

3.3 二桁命題の作成: それぞれの一桁命題をもう少し詳しくするためのいくつかの柱を、二桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの二桁命題を順番に語れば、あなたが一桁命題で言いたかったことがよくわかるように、二桁命題を作り並べる(必要に応じて作り替え並び替える)。

3.4 必要に応じての桁数の追加: 必要に応じて三桁命題も同じように作る。だが、無理に作る必要はない。また四桁命題までつくると、文章の構造が複雑になりすぎるため、四桁命題は作らないことを原則とする(作ったとしても、他人に読ませる文章には必ずしも表示しない)。

3.5 口頭で語る: 書き上げた命題集を、一桁レベルの命題だけを使ってうまく口頭で説明できるか確かめる。次に二桁レベルまで語ってうまく口頭で説明できるか確かめる。三桁レベルまであれば、もちろん次に三桁レベルまで語って確かめてみる。


4 文書作成: 文章を書き始め、文書を完成させる。

4.1 命題文を段落文にする: できあがった桁番号付き命題を、文書の骨格(構造図)として、それぞれの命題を見出しにして、その見出しを説明する文章を段落で書く。段落は複数になってもかまわない。

4.2 段落内・段落間での整合性確認: 一度書き上げたら、書いた文章が、それぞれの命題内容を忠実に反映しているか、またその命題の他の命題との構造的関係を乱すものになっていないかをチェックし、必要に応じて書き直す(2と3の作業がいい加減だと、この段階で文書が破綻していることがわかるので、2と3の作業 (特に3.5) は丁寧にやっておくこと)。

4.3 細かな作業: 書き上げたら校正をして、脚注や参考文献などを加える。

4.4 さらに細かな作業: (コンピュータで書く場合)さらにフォントの種類や大きさなどを調整する(逆に言うなら、これまでの執筆では細かなことにあまり拘らずとにかく内容に集中して書く)。この意味で、4.2までの執筆はテクストエディターで行い、4.3から初めてワープロソフトを使う(テクストエディターの文章をコピー・アンド・ペーストする)ようにすることを勧める。


以上




なお、まとまった文書を作成する場合のテクストエディターとしては、私はWZ EDITORをお勧めします。アウトライン機能が非常に便利で上記の「3.1 - 4.2」を簡単にできるからです。(ちなみに私はWZ EDITOR 5の版のままですが、これでまったく問題は感じていません)。

また、最初の段階からワープロソフトを使うことを私が勧めないのは、現在、標準的ワープロソフトとして使われているMS Wordが、あまりにもお節介で不安定な使いにくいソフトだからです。罫線機能は時に分けのわからない動作をしますし、コメント機能や脚注機能などはよくフリーズさえします(私は基本的にこれらの機能を使わないのですが、他人からの文書を編集しなければならない時に苦労します)。

文書を作る時は、あまりMS Wordの機能に依存した文書を作らず、テクストエディターだけでも表現できるような基本的構造の簡潔さ、ひいては論理の明確さで、わかりやすい文書を作ることを目指すべきだと思います。



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