2016年9月15日木曜日

井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)



この記事は学部1年生向けの授業「英語教師のためのコンピュータ入門」の資料の一つとして作られました。以下、■印の文は私なりの本書のまとめで、○はそれに基づく愚見です。


■ 21世紀に入ってから、米国では労働生産性やGDPは上昇するものの、雇用者数や家計所得(中央値)が伸びないという状況が顕著になってきた(The Great Decopuling of the US Economy)。(p.33)


http://andrewmcafee.org/2012/12/the-great-decoupling-of-the-us-economy/ より転載)


このグラフを作成したAndrew McAfee氏は、上のサイトでこの乖離の重要な要因の一つとして技術の進歩  (technological progress) をあげている。

Our argument, in brief, is that digital technologies have been able to do routine work for a while now. This allows them to substitute for less-skilled and -educated workers, and puts a lot of downward pressure on the median wage. As computers and robots get more and more powerful while simultaneously getting cheaper and more widespread this phenomenon spreads, to the point where economically rational employers prefer buying more technology over hiring more workers. In other words, they prefer capital over labor. This preference affects both wages and job volumes. And the situation will only accelerate as robots and computers learn to do more and more, and to take over jobs that we currently think of not as ‘routine,’ but as requiring a lot of skill and/or education.
http://andrewmcafee.org/2012/12/the-great-decoupling-of-the-us-economy/

この分析からするなら、現在の雇用の多くがますます機械によって奪われると考えられる。

○ もちろんまだ日本の格差はアメリカの格差ほどではないが、このアメリカの傾向が今後日本でも見られるのではないだろうか(少なくともそれに反論する材料を私はもたない)。


■ オックスフォード大学のフレイとオズボーンの研究(「雇用の未来」)は、様々な職業がコンピュータによる自動化で消滅する確率を出している。(p.37) 日本版の結果は、野村総合研究所が公開している。

日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に

○ 「人工知能やロボット等による代替可能性が低い100種の職業」の中に、「小学校教員」は入っているが、中高大あるいは塾の(英語)教師はどうだろうか?機械に代わった方がいいと思えるような(英語)教師はいないだろうか?(そもそもサテライト授業は、ある程度の機械代替であると考えられる。また、教育のICT化も人間のコミュニケーションより情報伝達を主とするものも少なくないのではないだろうか?)


■ これからの仕事のコンピュータ化・機械化の中核は人工知能 (Artificial Intelligence: AI) であるが、AIは「特化型AI」と「汎用型AI」に分けられる。現在のAIはすべて特化型AIで、例えばSiriは音声でのiPhone操作に特化している。(p.77)  今年 (2016年)は、Alpha Goがプロ囲碁棋士を破り話題となったが、これも特化型AIである。

○ Siriはもちろん英語でも日本語でも実現されている。少なくとも機能を限定した特化型AIなら、携帯などによる機械翻訳も遠くない将来に実用化されると考えられる。つまり「旅行用英会話」などだけなら人間が習得する必要はない。そうなった時、英語教育(外国語教育)はどのように進化すべきだろうか(それとも絶滅するべきだろうか)。私には私なりの考えがあるが、まずは皆さん一人ひとりで考えてほしい。


■ ちなみに国立情報学研究所は、2016年度までに大学入試センター試験で高得点をマークすること、また2021年度に東京大学入試を突破することを目標に研究活動を進めている(Todai Robot Project)。2015年の結果では、AIはセンター試験(ベネッセ進研模試)で偏差値57.8(受験者総数44万人)を獲得している。(http://21robot.org/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF/)

○ 「やっぱり受験は大切」とは(一部の)高校教師の好きな台詞だが、そういった受験学力は、遠くない将来に簡単に機械で実現されるようなものになるだろう。そういう時代が来た時に、受験勉強しかできない人間の社会的価値はどうなるのだろうか。


■ 汎用型AIは、特定の機能だけに知性を働かせるのではなく、人間のようにさまざまな状況に応じて考えることができる。チェスもできれば、試験も解けるし、人間と会話を楽しむこともできる。(p.77)

■ 汎用型AIを実現するには、全脳アーキテクチャか全脳エミュレーションの方法が考えられる。全脳アーキテクチャは、脳の各部位の機能をプログラム(モジュール)として再現し、後で結合する方法である。全脳エミュレーションは、脳の神経系のネットワーク構造のすべてをスキャンするなどしてコンピュータ上で再現する方法である。(p.78)

■ 本書の「図3-1 経済システムと産業の変遷」によれば、人類史は以下の「革命」によって大転換をとげたし、とげるだろうと予想される。(p.103)


(i) 定住革命:紀元前1万年

(ii) 第一次産業革命(蒸気機関):1760年頃

(iii) 第二次産業革命(内燃機関・電気モータ):1870年頃

(iv) 第三次産業革命(パソコン・インターネット):1995年頃

(v) 第四次産業革命 (汎用AI・全脳アーキテクチャ):2030年頃

?? 全脳エミュレーション:2100年頃


○ 若い皆さんが技術革新に対してどのような思いをもっているかわからないが、私は大学に入ってコピー機に驚き、就職してファックスに驚いたと思ったら、続いてemailに仰天した。「ポケベル」が最高にイケていた時代はすぐに終わり、やがては携帯の時代が来たが、いつのまにかスマホが普及しかっこよかったはずの携帯は「ガラケー」と呼ばれ始めた。個人ブログやYouTubeの初期のウェブ上の発信者は限られていたが、SNSま瞬く間に普及した。これからどんな変化が来るのだろう?(参考:ムーアの法則


■ それぞれの革命は、「汎目的技術」(General Purpose Technology: GPT) によってもたらされた。(p.111)

■ 汎目的技術は、「技術的失業」 (technological unemployment) をもたらす。技術的失業は、「摩擦的失業」(労働者が新しい職につくまでに時間がかかるから生じる失業)と「需要不足による失業」(そもそも就く職がないことから生じる失業)がある。(pp.134-135)

○ 自分自身が、あるいはあなたが未来に教える生徒が「摩擦的失業」状態にいることを想像してみよう。「需要不足による失業」状態の想像はできるだろうか?


■ 近代社会の成果の一つとして、人間の労働には最低賃金が法律で認められているが、ロボットにはそのような法律がない。ロボットによる労働の値段が、人間の最低賃金以下になるならば、汎用AI・ロボットが生産活動に全面的に導入されるような経済(「純粋機械化経済」)が到来する可能性がある。(p.171)

■ ちなみにソフトバンクのロボットPepperのレンタル価格は一時間1500円(ただしPepperのサポート要員の給料などは考慮せず)であり、東京都の最低賃金900円との差は600円しかない。(p.171)

■ マルクスが描写したように、第二次産業革命の機械化により一部の労働者は失業し、資本家ばかりが反映する格差が増大したが、第四次産業革命では一部の労働者ではなく多くの労働者が失業するかもしれない。(p.198)(上記の「雇用の未来」と「需要不足による失業」を併せて考えよ)

○ 「ボクは英語を教えるセンセイになりたいのだから、マルクスなんて関係ない」などと無教養な台詞を得意気に語らないでほしい。もし現代日本の英語教師の多くが英語を一種の「商品」のようにみなして教えているのなら、「商品」についても考察してほしい。また、英語学力という商品の未来についても考えてほしい。

以下は、著者(経済学者)が、資本主義の特質を踏まえて、教育について述べたことである。経済学が教育学と関係などとは言わないでほしい。

そもそも、自分が必要とされているか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値店頭の産物です。しかも、価値店頭が起きたことすら意識できないくらいに、私たちは有用性を重んじるような世界に慣れ親しんでしまっています。有用性を極度に重視する近代的な価値観は資本主義の発展とともに育まれてきました。(p.239)

その観点 [=教育は人的資本に対する投資であるという考え方] からすれば、小学校に上がってから退職するまでの人生は、投資期間とその回収期間として位置づけられます。受験勉強のための塾通いは多くの場合まさにこの観点からなされています。子供の時間は未来の富のために捧げられているのです。
資本主義の発達にともなって、学術は真実を探求するもの、あるいは人間を自由にするものとしての価値を失ってきました。「知識は、それ自身だけで善いものとみられず、また一般的にいって、ひろくて情味豊かな人生観を生み出す方法としては考えられず、単なる技術の一要素とみなすようになって来ている
のです。 (p.240)

参考記事
マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/20121993.html


■ 著者は次のことばをもって本書を終えている。

「もしBI [= Basic Income:ベーシックインカム]のような社会保障制度がなければ大半の人々にとって、未来の経済は暗澹たるものになりかねません。BIなきAIはディストピアをもたらします。しかし、BIのあるAIはユートピアをもたらすことでしょう。」(p.235)


○ 私はこの主張に説得力を感じたが、皆さんはどうだろう。自分で読んで考えてほしい。(読むだけで考えなくては駄目だし、考えるばかりで読まないのもいけない)。

しかし、このような人工知能の発展を考えると、これからの教育には、人間の生物的感性に基づいた芸術的側面や、人間の複数性に基づいた社会的側面、そしてそれらを活用した創造性が大切であるように思える。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

また、人工知能の発展の経済的帰結を考えると、国民一人ひとりがきちんと社会科学的素養を身につけないならば、おそらくは資本家・権力者の巧みなメディアコントロールなどで、BIなどの制度の実現は阻まれるだろう。(もしう私が代々にわたっての資産家で強欲な人格なら、おそらくBIには反対するだろう)。

こうなると、後に懸命に否定しようとしたものの、かつて文部科学省までが言った「これからの大学には、人文社会系の学問はいらないのではないか」といった言説は、無知ゆえの妄言というより、陰謀的な言説ではないかとすら思える(いや、陰謀ほどに自覚的でない、権力者による直観的な自己防衛・自己増殖言説なのだろうか)。

大学時代には幅広く読書して思考力を身につけてほしい。教養も思考力もない教師に教えられる児童・生徒は不幸だからだ。




追記
  本日(2016/09/16)の毎日新聞の報道によりますと、みずほ銀行とソフトバンクは、利用者がスマートフォンで申し込むと、AIが審査し、利用者が将来稼ぐお金などを予測して貸し出す形の個人向け融資事業を始めると発表しました。
  こういったFin Tech (Financial technology) を利用すると、コストが抑えられ低金利での融資が可能とのこと。AIを活用した機器・システム全体の国内市場規模は現在の3.8兆円から2020年に23兆円に達するとの試算もあるそうです。
http://mainichi.jp/articles/20160916/ddm/008/020/118000c


2016年9月14日水曜日

振り返り方を振り返る -- ある教育センターでの研修実践から



先日、今年度に某教育センターで行われている教員研修に参画しました。私の役目は、小学校・中学校でさまざまな教科を(主)担当している合計11名の教員の合同研修を導くことです。

関連記事:「子どもの学習意欲を高めるための実践研究とは」(ある教育センターでの講演スライド)

その際の私の実践的基盤は、当事者研究、オープンダイアローグであり、理論的基盤はルーマンやアレントの認識論やボームの対話論です。

今回はまず、「振り返り方を振り返る -- 実践研究を深めるために」という講義を30分行ないました。参加者の理解を促すために最初はある参加者のレポートを例にして、次にほんの少しだけ理論的に多元的客観性や二次観察のことについて解説しました。




関連記事:8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド


その後、その講義で解説した二次観察およびこれまでの講義で解説した対話のやり方に基いて、二グループで約3時間の語り合い(対話)をしてもらいました(進行役は指導主事が行いました)。私は傍観者(研修中の教師)と共に、その二つのグループの対話を交互に観察しましたが、時折、語り合いの中に参加をすることもしました。

その後、私なりに語り合いから学んだことをまとめたのが二番目のスライドです。







今回の研修の最後ではこのスライドをもとに私が30分間講義をして、最後に参加者一人ひとりに感想を言ってもらって終わりました。

以下に報告しますように、さまざまな感触から、研修は概ね成功しているのではないかと思われます(このうえなく主観的な言い方ですが 苦笑)。もちろん課題も見えてきましたし、少なくとも一年間の研修期間が終わってみないとこの成否を安直に語るべきではありませんが、私としては今回の研修のおかげで、今まで私が学んできたこともずいぶん統合的にまとまってきたように思いましたし、何より参加者の皆さんがこういった語り合いの良さを実感してくださったことをとても嬉しく思いました。

こういったことは終わってからすぐに文章化しないと記憶が抜けてしまうので、本日も締め切りを過ぎた事務仕事がたくさんあるのですが、先日私が学んで語ったことを上の二番目のスライドに即してはなはだ不十分ながら(再)文章化してみます。

追記:と、書きながらも、文章は途中で力尽き、その晩に帰ってから電池切れのような状態となり、しばらく時間をおくことになりました。以下の文章は、その文章を後日書き足したものです。


 研究の本質(スライド2ページ)

研究の本質の一つは、思い込みから自由になることです。
私たちはしばしば、自分自身や世間の思い込みにとらわれてしまっています(そしてそのことに無自覚であったりもします)。研究はそういった先入観や偏った考え方から解放されることを目指します。
実践研究が対象とする現象(私たちの場合でしたら授業)は多面的で複合的なものです。そういった対象を一つの見方だけでとらえきれるわけがありません。
ですから本日の第一スライドで示した二次観察といった考え方で、私たちはより多面的な現実理解を試みます。

関連記事:ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitaet - was oder wie? より


 対話の原則(スライド3ページ)

対話の原則とは、「あたま」よりも「こころ」で、「こころ」よりも「からだ」でことばを聞き、ことばを語ることです。「あたま」の小理屈で小賢しく考えてことばを解釈したりひねり出したりするのではなく、自分の例えばゾワゾワするような「こころ」の想いや、想いよりも先に反応した「からだ」の実感を大切にして、ことばを聞き、語ってください。
本日の話し合いが深まりを示したのは、そのようにことばを使った場面だったように思います。

関連記事:オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)


 発表者について(スライド4ページ)

発表者(参加者)の皆さんを見ていて気づいた、以下の4点について語りたいと思います。


(1) 開き直りでない弱さの肯定

最初の講義で「弱さの情報公開」という当事者研究の原則を紹介しましたが、本日の発表でも、自分の苦しいところを、複雑な想いと共に語った方々が多くいました。その語りは「こんな状況だから仕方ないでしょ!」といった開き直りとは無縁のもので、無念さや悔しさや恥ずかしさ、あるいはそれらをいっそ笑いにしてしまおうとするような、人間らしい複雑な感情と共に語られたものでした。

そしてそのような弱さの肯定が行われた時は、例外なく他の参加者がそれを共感的に受け止めていました。このことが本日の研修を深める大きな要因になったと思います。

関連記事:浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)


(2) 自然なことばで語る

冒頭で私は「小賢しく小難しい用語で語るのはやめましょう」と申し上げましたが、それでも多くの方々は、最初は、社会的に無難な丁寧語で語っていました。別段丁寧語が悪いというわけではないのですが、次第に話が進むにつれ方言やタメ口が出るなど、皆さんのことばが、皆さんの感情・情動を表しやすい自然なことばになってゆきました(ある方は、こういったことばを「からだをつきぬけた自分のことばで語る」と表現していました)。

どのように表現してもいいでしょうし、それぞれの表現にはそれでしか表現できない含意や機微があるでしょうが、このように自然なことばで語ることもとても大切なことだったと思います。

関連記事:オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について


(3) 語ることにより、すっきり・安心・気づき・思考

ある参加者は発表冒頭で、「研修を受ければ受けるほど、さまざまなことが見えてきて、それだけ混乱してしまいます。正直、今はドツボの状態です。どうしていいかわかりません」と述べておられました(その参加者は、この痛切なメッセージをやや困惑した笑顔というメタメッセージと共に伝えていました。このメッセージとメタメッセージのコントラストは非常に興味深いものですが(cf ベイトソン)それはまた別の話として)。

それでもその方は語ってゆくなかで、だんだんと顔が明るくなり、言葉でも「すっきりしてきました」、「あ、なんだか安心してきました」と述べられるようになりました。さらには「あ、話しているうちに気づきました」、「今、思考がどんどん展開しています」と述べられるほどになりました。

自分では「ドツボ」と思っており語ることさえ難しいと思っていたことを、ことばにして、そのことばが他の参加者に受け入れられることで、その参加者は身体から強張りが抜けて「すっきり」しました。そうやって身体がいい具合に緩んだので「安心」を覚えたのかと思います。そうやって身体も心も緩んだので気づきも生まれ、その気づきに基づく「思考」もどんどんと展開したのでしょう。

関連記事:オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

実はその参加者は、研修後、特別に私にメールを下さり、研修直後の振り返りでは書ききれなかったことを文章化してくれました。

以下はその文章の一部です。


私が話をしていると、先生が深くうなずいてくださったり、アイコンタクトや、「そこをもう少し」と言ってくださったりしたことを思い出すと、自分が受け止めてもらっている安心感がうまれ、「もっと話したい。」「もっと聞いてもらいたい。」という思いがうまれました。

「あ!大人でこうだから、子どもだったらなおさらだ。」と気づきました。
自分が、実際にそれを体験して分かりました。
これが、実の学びなんだなと思いました。

また、何より、今日「上手に話さなくていい、自分の弱いところを語る、そういう場にしたい。」と仰られたことが、私は一番嬉しく思いました。

今まで、こういう研修等では、やはり年相応に、かっこいい言葉や小難しい言葉を選び、理路整然と話せないと、恥ずかしいと思っていました(実際にそういう雰囲気を感じたこともありました)。

でも、今日は、長嶋監督のように、自分の感情、素のままで話せたことがよかったです。



研究というともっぱら知的なものであるかのごとく思われがちですが、知性は感性の働きがあってこそ発揮されるものだという思いを強くしました。

関連記事:「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました


(4) ぜひ本日の経験を文章にするか、スマホに録音して送付してください。

これについては忙しい参加者のことを慮った指導主事の方が、研修を少し延長して振り返りの文章を書く機会を作ってくださいました。私はそのコピーを得て、感想をすべて読むことができました。

以下はそのごく一部です。


自分の授業の振り返りがあまりに苦しく、今日の振り返りの発表も気が重いまま迎えました。理由ははっきりしていて、ぼんやり感じていた授業の改善点がはっきりしたこと、共感してもらったとはいえたくさんの人に授業の恥ずかしいところをすべて見せた情けなさだったと思います。見つかった問題点はこれから解決を目指していくのですが、この研修で聞いてもらう、共感してもらうことで自分の計画や目指したいことがはっきりしました。解決、解消よりも理解と共感というところに安心し、授業の進行役として生徒もそう感じて授業の意欲につなげてくれるようやってみようと思いました。ありがとうございました。(ある参加者)



「振り返り方を振り返る」 -- このことばが心にずしんと入ってきました。何のために振り返るの?何を振り返るの?形式だけの振り返りをしてきた自分に気が付きました。

自分を知ることから授業改善は始まる -- ここに気づかせてくれるのが子どもの姿である -- このことが自分の中にストンと落ちました。

自分のことを知るのはちょっと怖いですし恥ずかしさもあります。しかし、しっかり自分のことを見なければ形式だけの授業しかできず子どもたちに本当の思いを伝えられないのではと思いました。

うまくいかないとき、どうしても他のこと、他の者、子どもたち、様々なところに目が行って自分をごまかそうとしてしまうのですが、つらいけれど、自分を知ることが光を見るチャンスになると感じました。(ある傍観者)


さらに上述したように研修後にメールを寄せてくれた参加者は次のように書いていました。


センターから帰って、さらに感じたこと、また、今、ひらめいたことがあり、不躾とは思いましたが、メールを書かせていただきました。

(中略)

最後になりますが、先生がお話されたように、やはりその日のうちに、記録しておかないと、この不思議な感覚は忘れてしまうのだということも、今、まさに実感しました。


私も、ほうぼうに不義理をしていることを心苦しく思いながらも、この記事を文章化しています。時に適った言語化の意義を強く感じます。


 進行役について(スライド5ページ)

進行役のお二人を見ていて感じたことを書きます。


(1) 明石家さんまに学ぶ -- リアクション・さらなる問いかけ・関連ある他の人に振る

多くの芸人さんが、「さんまさんの番組に出ると、自分の面白さを引き出してもらえるから本当にありがたい」と言っています。「踊るさんま御殿」といった番組を見ていてもわかるように、さんまさんは個々の参加者の良さを引き出しその場をすばらしいものにする名進行役です。

本日のような語り合いの進行役もさんまさんに学ぶべきだと思います(私がそう言った後、多くの参加者が、「授業中の教師もこういった意味での進行役であるべきだと思います」と言っていたことも付け加えておきます)。

進行役としてのさんまさんがやっていることは次の三つにまとめられるのではないでしょうか。

(1a) リアクション

参加者が何か面白いことを言うと、さんまさんは全身で面白がります。そうやって感情表現を解放することをさんまさんは自分に許し、また自分の仕事と心得ているのでしょう。そうやって全身でのリアクションを受けることによって、参加者はもっと発言しようと思うことは想像に難くありません。

(1b) さらなる問いかけ

さんまさんは大笑いした後、その参加者からさらにおもしろいことを引き出すため、非常に的確な問いかけ(あるいはツッコミ)をします。その問いかけはその参加者の個性や傾向を十分に把握したうえのことです。さらにさんまさんは参加者の発言が舌足らずだった場合は、適宜補足して他の参加者やテレビの視聴者が話についてゆけるようにしています。こういった配慮が、参加者個人の面白さを大きなものにしています。

(1c) 関連ある人に振る

加えてさんまさんは、その話に関連しそうな人(同じ傾向、あるいは真逆の傾向を持っている人など)に話を振ってゆきます。それはさんまさんが参加者についてこれまでに学習したことに基いていたり、その場で参加者が思わず示した身ぶり(視線や姿勢の変化など)に基いていたりします。参加者一人の面白さを、他の参加者の面白さにつなげるのが、さんまさんの芸の一つです。

対話や授業での進行役は、こういった点を自分の行動指針にしてみれば、そこから進行役としてのあり方について学べるのではないでしょうか。


(2) 問題の解決や解消よりも、理解と共感

これはオープンダイアローグが強調していることですが、こういった語り合いでは早急に結論を求めないことが大切です。私たちは実践論文でもついつい、「どのように問題を解決したのか」という結論ばかり求めます。あるいはその問題をどうやって解消させようかと躍起になったりします。ですが、そのように性急な態度は、かえって問題を悪化させかねません。それよりも大切なのは、参加者がもっている問題をより多面的により深く理解することです。

関連記事:オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について

参加者の語りを「ああそうなのね、大変ね」とおざなりに聞くのではなく、「いつ頃からそうなったの?」、「その時、○○の立場の人はどうしているの?」、「△△の面からするとどういう状況なの?」、「その後もかなりしんどくなかった?」などなどと、共感的に聞いてゆきます。そうして問題の実相がよりわかってくると、その場には共感が溢れてくるでしょう。そういった感情的な変化が知的な変化をもたらすことは上にも書いた通りです。


(3) 生物的信号としての感情の声に従う

何人かの参加者は、話しているうちに当初の論題から話が外れてしまい、後でしきりに「ごめんなさい。話をそらしてしまって」と謝っていましたが、私はその時も言ったように、謝る必要などなく、そういった場合は感情という「こころ」の声にしたがって話をするべきだと思っています。

といいますのも感情とは、生物が備える重要な生体信号であり、その生物が危機を回避し快適な状況に至ることを助けるために発せられるものだからです。語る中で、思わずそう語りたくなったことは、その流れに任せて語ってしまった方がいいし、思わず出てくる涙などの「からだ」の声にもしたがった方がと私は思います。実際、今回の語り合いでもそう実感した瞬間が何度もありました。

こう言いますと「感情的であることはよくないのでは」とおっしゃる方も多いかもしれませんが、私はそういった批判されるべき感情的な態度とは、自然な感情の微妙で豊かな発露ではなく、「あたま」の思い込みに支配された粗雑で単純な感情の爆発だと思っています。ユングの説に従うなら、思考に長けた人はしばしば感情面が貧困で、粗野な感情を爆発させたりします(ユングの言う意味で感情的な人とは、感情の知覚や表現に優れ、さまざまな感情を精妙に理解し外に表すことができる人です)。

関連記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房

ですからここでいう「感情の声」とは、「からだ」から発露され「こころ」で知覚されるような、自然な「からだ」と「こころ」のメッセージです。そういった感情の声にしたがっていると、小賢しい計算では辿りつけないし説明できないような深い知恵にたどりつけることは皆さんも経験したことはないでしょうか。


(4) 語り合いの流れをつくる指名

今回の語り合いは進行役を入れて6-7名程度のものでしたので、進行役は時折、報告者以外の参加者に指名をして語り合いを促進しようとしていました。多くの場合、私は傍観者として観察していましたが、何人かの身体の動きからその参加者たちが発言したがっているのがわかりました。ですが進行役はそういった素振りをほとんど示していない参加者に突然指名し、はたせるかなその参加者がまごまごしている場面がありました。

あるときには、私は語り合いの円座に加わりました。円座に加わったといっても、私は語り合い後の30分講演のために観察ノートをまとめながらの参加でしたが、ちょうど私が熱心に観察ノートをまとめていた時に私は進行役から指名されました。まずはこの瞬間に指名されたことにまごつき、私はその際は指名には直接関連することを述べることができませんでした。

後で指名の方針は何だったのかを進行役に聞きますと、「それまでの発言回数を考えて、発言していない人に指名していた」といった答えをいただきました。指名は、ボームが対話論の中で強調しているような感受性に基づいたものではなかったわけです。

関連記事:感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から

進行役のあるお一人は研修後にメールでこう書いておられました。


私なりのファシリテーターのイメージが,「参加者全てが協議に参画できるようにする」=「皆が同じくらいコメントを述べるようにする」というイメージでしたので,そのことに多くの意識がいき,特に,発表者の話を聞いている受講者の様子に意識を向けることが,十分ではありませんでした。


この反省に基づき、その方は次から「受講者の「自分の思いがあふれだそうとしている姿」を見逃さない」ことと、「聞き手の姿をしっかりと観察する」ことに注意したいとおっしゃっていました。

私たちは感受性によって参加者の微妙な端緒と感覚を注視し、感受性に従って指名をした方が語り合いの流れが出てくるのではないでしょうか。(もちろん、語り合いの流れが出てきたら、進行役からの指名など不要になるのですが)。

しかし、授業の進行役としての教師の指名を考えてみると、私たちは存外に懲罰的な指名をやったりしています。つまり、他所を向いていたり、ちょっと眠い様子をしていたりする子どもに指名することです。教師のねらいとしては、そういった子どもに注意喚起をすることでしょうが、授業の流れとしては明らかに悪くなってしまうのではないでしょうか。

指名についてはこれからも考えてゆきたいと思います。


 新たな疑問(スライド6ページ)

(1) 声が届く時、届かない時

本日の語り合いは一つの部屋を間仕切りで仕切って二つの語り合いが同時進行するという形でしたので、正直、隣の語り合いの声がどうしても耳に入ってくる状況でした。ある参加者は、正直に「さっきから、隣のグループの声とこのグループの声の両方が入り混じって、うまく語り合いに参加することができていません。クラスにも空調の音が気になって、教師の声に集中できないと言う子どもがいますが、それと同じなのかもしれません」と述べていました。後に、私が一つのグループの語り合いに参加した時も、ある瞬間からしばらく自分のグループの発言者の声以上に隣のグループの発言者の声が耳に入ってくることがありました(別に隣のグループで特段に面白そうな話が進行していたわけではありません)。

竹内敏晴が何度も言うことですが、物理的な音量とは違った次元で、声が届く時と届かない時があります。

関連記事:竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫

私に声が届かなかった時とはどんな時だったのか、私は振り返ることができませんでしたが、上述の参加者は研修後の振り返りで「同時に聞こえていた別グループの話し合いが、自分の発表が終わると、すっと聞こえなくなり、自分のグループの話し合いにすっと入れた」と書いていました。この場合は自分の不安や動揺によって他人の声が聞こえなくなっていたと推察できますが、もちろん声が届かないのはこの原因だけに限らず、聞き手の他の要因や話し手の要因に帰すべき場合もあるでしょう。今後の観察課題にしたいと思います。


(2) 「立つ」ことの象徴的意味(身体的位置関係)

私は基本的に傍観者として語り合いの席には座らずに立って観察をしていましたが、ある時には「これは立って話を聞いてはいけない」と直感的に思い、空いていた席に座りました。他の時には私は一時的な参加者として席に座っていましたが、立っていた進行役の先生の視線と自分の視線の位置関係が微妙に気になりました。

その身体的位置関係の影響について、最後の研修で、手近な場所にいた参加者を相手に簡単な実験 (というよりデモンストレーション)をしてみましたら、やはり位置関係は大きく心理的影響を与えることを被験者役の先生も語っていました(この立ち位置については、田尻悟郎先生が昔から言っていたことではありますが・・・)。

教師が立つべき時、身をかがめるべき時、子どもが座っておくべき時、立つべき時などなどについても観察と考察を続けてゆきたいと思います。


 実践研究は、実践上の知見以上に語り合う文化を伝える(スライド7ページ)

実践研究においては、しばしば「どんな方法を使えば教育効果が高まるのか」という知見を求めてのものになります。これまでも、それなりの実験研究的な体裁をとってさまざまな知見が出されてきましたが、どの知見も、それをそのまま実行してうまくゆくということはあまりありません。

関連図書:リフレクティブな英語教育をめざして教師の語りが拓く授業研究


そうなると、「実践研究は何のためにやるのか」ともなりそうですが、私は、実践研究は実践者(当事者)が語り合う文化を伝えるために行うという意義の方が実は具体的な知見の伝承という意義以上に大きいのではないかと考えています。

べてるの家での当事者研究でも、具体的な知見の集積は行われていますが、先日観察した時には、知見の集積は参考にする引き出し(レパートリー)みたいなもので、むしろ大切なのは当事者自身が語ることだと思えました。(以下は、当事者研究の理念についてのまとめです。観察報告については後日行います。今はとにかく時間がほしいです)。

関連記事:英語教師の当事者研究

教員研修で、このようにお互いが弱さも見せながら語り合うというのは非常に珍しいと思います。しかし、知見の伝達ではなく、実は語り合うことこそが教師に力 (power, Macht) を与えるのではないでしょうか。これは従来の教員研修や実践研究の発想とはかなり異なる発想ですが、べてるの家やオープンダイアローグの実践やアレントの哲学的洞察からしても、それほど間違ったことを言っているとは思えません。今後、この論点を深めたいと思います。

関連記事:1/9 (土) 小学校英語教育シンポジウム(広島大学)での投影スライドと印刷配布資料


 実践の知恵や実践への意欲は他人から伝達されるものではなく、個人での振り返りと仲間との語り合いなどを通じて自分自身の中から湧き出てくるもの(8ページ)

私は前回の講義(下の関連記事を参照)で、子どもの意欲とは、子どもの「からだ」から湧き出るものであり、教師などの他人が簡単に管理・制御できるものではないという基本理念を述べていました。

関連記事:「子どもの学習意欲を高めるための実践研究とは」(ある教育センターでの講演スライド)

今年度のこの研修のテーマは子どもの意欲を高めることについてですが、実は、参加教師自身がこの研修について最初から意欲が高かったかといえば必ずしもそうではありません。少なくともほとんどの参加者は自ら手を上げてこの研修に参加したのではなく、管理職などの命令によって参加したからです。「この忙しく厳しい状況で、研修どころじゃないよ」と思っていた参加者がいたとしても不思議ではありません。

そんな中、参加者の意欲も少しずつ高まってきたように思います。進行役の一人は、研修後にこう書いてくれました。


本日は4回目の研修でしたが,回を追う毎に受講者の先生方の真摯な姿勢が伝わってきます。

先生のお話の中の「弱さの情報公開」に当たる部分です。自分の授業ビデオを指導主事と見たり,振り返った問題点を文章化して発表したり,本当につらい作業を毎回お願いしています。

しかし,はじめは乗り気でないように感じられていた先生方が研修を重ねる毎に,個人差はあるものの発言が増え,発言に対する頷きが増えているのを感じます。
今日も,提出された計画書よりも実際のお話の方がうんと実態に応じて困り感のある発表でした。

そしてそれを受け止める側も共感の姿勢が感じられました。

少人数での研修を進めていく上で,このような認め合える雰囲気を作り出せることができたのは,もともとの研修内容に加えてさらに大きな成果だと思います。


もし参加者の研修意欲が高まったとすれば、その大半は、参加者一人ひとりが、少しずつ自分に真摯に向き合って振り返りをして、かつ、その振り返りが他の参加者という仲間に受け入れられたから、あるいは他の参加者も共感的に聞くことによって参加者全員に仲間意識が高まったから、とも思われます。

奇しくも「子どもの意欲を高める研修に参加する教師の意欲を高める」という話になってしまいましたが、意欲とは、外からの情報伝達や飴と鞭などだけで簡単に上がるものではないということは心に留めておきたいと思います(何よりも、それが一人ひとりの人間を尊重することにつながるかと思います)。



 今後の課題

(1) 語り合える仲間づくり

このように共感的理解の雰囲気の中で、二次観察を繰り返す語り合いをする文化に習熟するなら、職員室での語り合いが、即、(緩い意味での)実践研究、あるいは実践研究的な語り合いになるかと思います。私は、一つか二つの文書を全国津々浦々の英語教師が読んで英語教育を改善させようとするような社会よりも、あちこちの学校の職員室で、それぞれに教師が共感と二次観察を大切にしながら語り合うような社会の方が、柔軟に現実に対応できるし、何よりも民主的で活力ある社会だと考えています。

ですから、長い期間で考えるなら、こういった語り合いの文化を多くの教員に伝えることが重要だと私は考えています。

ある参加者もそのように考えています。


振り返りの視点を見直すことや見直そうと客観的に捉え直す思考が重要であると感じました。そのためにも,学年集団や職場の同僚と本音で語り合う中で,自分だけではなく,他者の見方を受け入れることで,さらに多様な振り返りとなる事も感じることができました。一人でも多く弱さを公開し合える仲間を作るとともに,後輩の悩みやつらさを共感的に聞ける存在となりたいと思います。(ある参加者)


しかし、それは容易なことではありません。先述の研修後にメールをくれた参加者は次のように書きました。


紙で書いていたときに、気付かなかった大きな点が一つありました。
それは、先生が「こういうことが、職員室で話せたら……。」と仰られたことと関係しています。

私が、今まで自分の気持ちを素直に話せていたのは、聞く人が、第三者的な方々だったからではないかと気付きました。それは、カウンセラーの立場とも一緒で、第三者だからこそ本音が話せるのではないでしょうか。

今日、集まった先生方とは、毎日会うのではなく、研修のときだけです。自分の弱さを出しても、次の日に会うことはありません。これが、自分の学校だったら、どうだろうと思いました。正直、怖いなと思いました。そして、きっと、そこまで本音では語れないのではないのだろうかと、自分でもその気付きに驚きました。

だからこそ、今まで自分の頭の中だけで、ぐるぐる考えて、負のスパイラルにはまっていたのではないか、私は、自分の学校で、何も語っていないのではないかと気付かされました。もっと言えば、センターのように本音や弱さは見せずに、「はったり」をしているのでは、いや、していると思いました。

やはり、センターに来て、違う学校の先生方と話す機会があるのは、ありがたいと思いました。しかし、それと同時に、先生が仰られていた「職員室で。」ができていません。

自分で思うに、そこに変なプライドがあったり、「この年でこんなことができていないのか!」「この年まで何をしてきたんだ!」と馬鹿にされるのではないかという恐れがいつも心の中にあります。

しかし、本当は、自分の学校で語れるようにならないと、研究が深まらないのだろうということに気が付きました。
それでも、柳瀬先生、私は、まだセンターのあの場でしか語れません。自校では、怖いです。
これは、乗り越えていかなければならないし、そこを乗り越えたときに、自分の本当の研究になるのだなとも思いました。(ある参加者)


しかし、人々が忌憚なく率直に語り合う文化こそは、古今東西の人々が望んできたものであるとするならば、私たちはその方向に粘り強く向かってゆくべきかとも思います。



(2) 研究としてどうまとめるか

このようにだんだんと意欲が高まり、語り合いにも身が入ってきた研修ですが、他方、これをどのような形で報告書にまとめるかという課題があります。進行役の一人はこう後で述懐していました。


先生方の姿勢に応えるべく,身の引き締まる思いなんて書くとかっこいいですが、正直な言葉で言うと,楽しく,そして相反して不安になってきました。
全ては,良い研修にしたい,受講者の先生方に「来て良かった,やって良かった」と感じてもらいたい。という思いですが,これをいかに形にしていくのか,いかに伝えていくのか私たちの課題は大きいですね。(ある進行役)


しかし、ここで卒論・修論・博論を支援する大学教員が少しは役に立てるのかもしれません。大学教員は常日頃、多くの情報の中で五里霧中になっている学生さんに見通しをもたせ、研究の「ストーリー」を見つける手伝いをしているからです。

関連記事:情報から知識へ論文のまとめ方についてのパワーポイントファイルと音声ファイル

従来はともすれば「大学教員が小中高の教員に指導法について一方的に指導する」という構図で物事が進んでいました。ですが、そもそも現場経験が少ない(あるいはない)大学教員が小中高の先生方にあれこれ言うのもおかしな話です(もちろん教材解釈の端的な間違いなどの指摘はできますが)。もし大学教員が小中高の現場経験の豊富な人でも、その人の経験した状況と当該学校の状況は異なるわけですから、やはり一方的な「指導」はどうなのかと私などは思ってしまいます。

ここは、大学教員(あるいは指導主事)は「指導者」よりも「支援者」であるという認識をもっと広めたほうがよいのではと私は考えています。


(3) 研修講師や進行役も二次観察を受ける

今回の語り合いのモデルとなっているオープンダイアローグや当事者研究では参加者全員の対等性が重んじられています。私のような研修講師も進行役をしている指導主事も「専門家」として権威や権力を振り回すのではなく、「(立場は)異なれど(人間としては)対等」という精神で語り合いに参加するべきです。

関連記事:柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12. pp. 14-28)

となれば研修講師や進行役も他の参加者からの二次観察の対象となるべきでしょう。もちろん「事後アンケート」といった形でそれはある程度制度化されていますが、「事後アンケート」は、記名アンケートなら気持ちのこもらない無難なこと、無記名アンケートなら(時に)とても面前では言えないようなキツイことばが書かれることがありえます。ここは、お互いの目を見ながら、共感的に語り合うことがやはり重要だと思います。

「教えることによって教えられているのは実は教師だ」とはよく言われることですが、それは研修講師や指導主事にも言えることかと思います。


以上を、取り急ぎのまとめとしておきます(といってもずいぶん遅くなりましたが)。
今後の観察と考察を深めるためのまとめでした。
おそまつ。



追記
この文章の公開許可を得るにあたりましては、関係者の皆さんに大変お世話になりました。心から感謝します。