2016年8月18日木曜日

8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド



獨協大学で開催される第42回全国英語教育学会埼玉研究大会で個人口頭発表(8月20日(土)10:00-10;30 第25室(519))をさせていただく「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライドをここに掲載します。なお、この要旨は当日に配布される予稿集の原稿を一部修正したものであることを予めお断りしておきます。



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要旨


英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて

柳瀬陽介(広島大学)



キーワード:二次観察,複合性,自己参照性



1 序論:認識論的考察の必要性

日本の英語教育界ではリフレクションや質的研究が少しずつ市民権を認められつつあるものの、英語教育実践研究(=実践者の判断や意思決定を支援することを目的とする研究)にも客観性や再現性が当然のごとく求められている。そういった中、メタ分析などは今後の研究の進むべき方向としてほぼ無批判的に推奨されるものの、そもそも客観性や再現性とは何なのか、また、それらを求めることは何を意味するのかについての根源的な認識論的考察がない。本発表は、哲学的概念(特にアレントやルーマンらが使用する概念)の分析を通じて、客観性と再現性の概念、およびそれらを英語教育実践支援研究に求めることの意味について解明することを目的とする。こういった解明は、今後の研究が進むべき方向性を明らかにし、限られた研究資源の有効活用を目指せるという意義を有する。


2 第一概念分析:客観性について

 日常語として使用される「客観的」という表現には「(1) 主観または主体を離れて独立に存在するさま、(2) 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」(『大辞泉』)といった定義が与えられているが、これら二つの定義はそれぞれ「一元的客観性」と「多元的客観性」として説明できる。
2.1 一元的客観性:人間あるいは私といった主観性とは対極の認識として措定されるのが、超越的客観性と一元的客観性である。

2.1.1 超越的客観性: 西洋近代における客観性は、神の視点という宗教的な理念を、観察・実験といった実証に数学で理念化された無限を適用することにより獲得されるはずという理念として措定された(フッサール)。無限適用により「今・ここ」の私を超越した客観性を獲得する科学知の所有者は、情動や記憶(歴史)を欠いた “No-body”となる。だが、科学知も少なくとも人間の営みであるという制約を有さざるを得ない以上、こういった無-身体的な超越的客観性は、現実的概念とは言えない。

2.1.2数直線的客観性: 宗教的伝統に基づく超越的客観性に代わって現代に流布しているのは、資本主義社会という近代的性質を反映した数直線的客観性であろう。資本主義社会を支える基礎媒体である貨幣は、あらゆる商品の質を捨象し、すべての商品を貨幣量(価格)という一本の数直線上に配置する。あらゆる企業の活動は、貨幣量により黒字/赤字という二値的コードに還元できるため、貨幣量という数値は資本主義社会の客観的指標としてあまねく使用されているが、その考え方は教育界にも伝播し、教育の成果は数値(学力テストの得点)で客観的に測定されるべしという数直線的客観性が、時代の思潮となっていることは文科省の公式文書などからもうかがえる。一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されている。

2.2 多元的客観性: 超越的客観性や一元的客観性は(理念的・概念的に)厳密ではあるものの、現実世界で私たちが求める客観性としては狭すぎる。アレントやルーマンらが使用する客観性に関する概念は、社会構成主義に基づき、私たちが社会的に(=複数の視点と観点が共存する状況で)とらえる客観性を表現している。

2.2.1 現実: アレントのいう現実 (Wirklichkeit) とは、言語によりさまざまな視点と観点を取りうる人間が共存せざるしている複数性 (Pluralität, plularity) において私たちが認めるものである。私たちが「同じ」と認める対象が、さまざまに異なるように立ち現れるということが、私たちの共存と語り合いによって明らかになる時に、私たちは「現実」あるいは「現実性」 (Aktualität, actuality) ひいては「実在性」 (Realität, reality)を認めると彼女は説く。私たちが日常語で「それが現実ってもんでしょう」などと述べる時の「現実」はこのような認識であろう。

2.2.2 二次観察: 同じ対象の異なる立ち現われについて私たちが語り合う時、私たちはしばしば二次観察 (Beobachtung zweiter Ordnung, second-order observation) を行う。二次観察とはルーマンが使用する概念であり、ある観察(一次観察)が、何 (was, what) を観察したかはさておき、それをいかに (wie, how) 観察したかを観察する。二次観察は特権的でも超越的でもないが、一次観察の盲点を指摘しうるという利点をもつ。ある二次観察がさらに別の二次観察をされて・・・というのが、同じ対象について私たちが語りあうということであろう。私たちは日常において、一元的客観性よりも、語りあい(二次観察)において「客観的」な認識を得ていると考えられる(ルーマンにならって私たちは「客観的」という表現の使用を止めてもかまわないのだが・・・)。


3 第一考察: 英語教育界における客観性

 現代日本の英語教育では、本来はそれぞれの技能での能力の多様性を認めていたCEFRが、得点合算により技能間の能力差を捨象する各種資格試験得点の共通尺度として使われたり、各種資格試験がそれぞれの特徴(異なる質)ではなく得点換算表などで数直線的に表現できることが強調されたりするなど、一元的客観性が強くなり権力化しているように思われる。


4 第二概念分析: 再現性

4.1 単一要因の操作による再現:英語教育研究では、未だに単一要因の操作による結果の違いを求める比較対照実験が「主流」 (mainstream) とされている。だが、無作為抽出や二重盲検法を実施することは現実的に困難あるいは無理である。メタ分析にも技術的批判が加えられているが、そもそも実践は、複数の要因にさまざまな順番で働きかける試行錯誤による改善からなることから考えると、単一要因の操作により同じ結果の再現を求めるという根本的考え方自体が非現実的であるように思われる。

4.2 複合性の中での自己参照的な行為:私たちは過去の自分を参照しながら自分に可能な限りのことをできるにすぎず (自己参照性, Selbstreferenz,  self-reference)、現実世界の予測ができないという複合性 (Komplexität, complexity) の中では、事象の単独の制作者としてではなく、各種の相互作用の中で結果を知り得ないままに行為している (handeln, act) にすぎない。単一要因の斉一的な操作ではなく、行為と語りあいを重ねながらよい結果を求めているのが現実世界の私たちであろう。


5 第二考察: 英語教育界における再現性

 現在主流の英語教育研究が想定しているのは、どんな文脈でも同じ方法を適用してよい結果を出そうとする執行者であり、文脈に応じてさまざまなやり方を使い分けよい結果を出す現実世界の実践者ではない。あるいは、学習者などの当事者と語りあう必要を特に認めない業務遂行者であり、当事者との関わりこそが大切だとする実践者ではない。


6 結論: 研究者が求めるべき権力

 日本の英語教育が現在主流としている研究は、教師や学習者という当事者にとっての現実を直視しない認識論に基づいている。そういった研究は「真理の体制」(フーコー)を形成し、さまざまな当事者を斉一的に管理しようとする為政者が欲する権力に奉仕することを意味するのではないだろうか。そのような研究は、さまざまな人々が共存する社会の公教育において、当事者の民主主義的に正当な活力(=権力)を高めることに役立ちがたい。もし英語教育実践支援研究が、当事者を管理や支配するためではなく、当事者が成長するためになされるものだとしたら、英語教育実践支援研究は、一元的客観性ではなく二次観察によってさまざまな様相を示す現実を基盤とし、単一要因の操作による再現ではなく複合性の中での自己参照的な行為についての理解を深め、より多くの実践者を当事者として研究の営みに誘う研究を志向すべきである。英語教育研究の認識論は根本的に刷新されなければならない。



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当日投影スライドのダウンロードURL







2016年8月13日土曜日

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)

この度(といっても発刊は少し前のことなのですが)、特定非営利活動法人「英語運用能力評価協会(ELPA)」(http://npo-elpa.org/)の広報誌 ELPA Vision No.02に「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という短い文章を掲載させていただきました。


ELPA Vision No.02


事務局の許可を得て、上の広報誌のうち、私の文章だけを以下に転載させていただきます。

私の文章は以下の通りですが、この広報誌には私のも含めると5つのテストに関する小論が掲載されています。

それに加えて、英語運用能力評価協会(ELPA)事務局が作成した「高大接続改革における英語4技能テスト(外部テスト)の行方と課題」は昨今の動向をうまくまとめてありますし、文部科学省が発表した一連の文書のURLリストは非常に便利です(文科省のサイトから文書を的確に探すのは必ずしも容易な作業ではありませんからね)。また、ELPA編集部による「英語の4技能を測定する外部試験の比較表」も便利なものです。

ぜひ上からダウンロードして、御覧ください。

それでは拙論です。



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「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」

柳瀬陽介(広島大学)


紙幅が限られているので、抽象的な表現となってしまうことを最初にお詫びしておく。今後の英語教育界は以下のような論理で動いていくように私には思える。

(1) テストで四技能を評価することにより英語コミュニケーション能力がほぼ十全に評価できるようになる。

(2) そういった四技能テストは複数ありうるが、それらの得点は定式化された相互換算表により標準化・一元化された数値やレベルで表現できる。

(3) 標準化・一元化された数値やレベルこそが、英語教育の価値を客観的(あるいは科学的に)表す尺度となる。

(4) 学習者個人が受験校合格や奨学金など、学習者を育てる組織(学校や学級)が予算・人員や賞賛などの権力を獲得できるかどうかは、その尺度での達成度によって決定されるべきであり、その他の客観的・科学的でない方法で決定されるべきではない。


しかしこれらの論理には疑義が加えられる。
(1)’ 四技能テストが評価できるのは、私たちが想定する英語コミュニケーション能力の一部にすぎない。なぜなら、リーディングとリスニングが一つの正解しか認めない多肢選択方式で問われるなら、現実世界でしばしば争点になる含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができなくなるからであり、スピーキングやライティングのテストで評価できるのも「よくある話」を適当に産出できるかのみだからだ。自分に忠実でありながら、特定の時空で特定の相手に対して何をどのように言うかという現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストでのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。

(2)’ 複合的な社会の変化に対応するためには、人々が均一化するのではなく、個々人が個性を発揮しながら社会全体として多様性を活かすことが必要である。評価もできるだけ多元的であり多様であるべきだ。しかし、標準化・一元化の推進はそれとは反対方向にある。標準化・一元化の動向は学習者の学びのためというより学習者と教師の管理のためではないか。

(3)’ ここで「客観的」とされるのは、過去のデータから推測される点数の相互換算関係だけだ。そもそも「客観的」な得点は、学習者が自らの心身で感じる喜びという価値 (worth=真価) を示したものではない。それどころか、自分の学びの価値を、もっぱら外から定められる「客観的」な得点だけに見出そうとするなら、それは学びにおいて主体性を喪失する疎外へとつながりかねない。世評への隷属ともいえるだろう。

(4)’ いかなるテストにも高得点獲得のための対策を行うことが可能であろうが、テストの権力性が高まれば高まるほど(high-stakesになればなるほど)テスト対策がはびこり、教育の営みが歪められる。


以上、観念的に聞こえたかもしれないが、これらの疑義はきわめて常識的な感覚であると筆者は考えている(紙幅があればもっと平易に説明したいのだが)。もしこれらの疑義にもかかわらず、(1) ~ (4) の論理がやたら推進されるとすれば、次の疑問はこれだ。「英語四技能テスト推進言説の背後にあるのは何か?そこには何らかの権力奪取・増強の狙いがないか?その陰で本来もつべき権力を奪われる者は誰か?」




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テスト推進のための文章を書く人ならいくらでもいるのに、私のようにテスト推進に対して批判的な --ある出版社いわく「癖の強い」w-- 人間の論考を敢えて掲載してくださったELPA様には感謝します。

これまた「癖の強い」人間の妄言と思ってくださって結構ですが、昨今の日本の英語教育界は、学界も出版界も「長いものには巻かれろ」、「流れには逆らうな」といった傾向にどんどんと流れているような気がします(もっとも下のような骨太の本の刊行もありますから、一概には言えませんが)。


 


研究や教育という公務に携わる人間としては、それぞれの頭で考えたことをお互いに率直に語り合い、批判すべき点は批判し、推進すべき点は推進するという是々非々の文化を大切にしたいと思います(やっぱり癖が強いなぁwww)。



関連記事
「リスト化・数値化の危険性」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/08/blog-post_31.html





2016年8月12日金曜日

研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える



『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)は、「心理学の再現可能性:我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」を特集し、『心理学評論』始まって以来の試みとして電子版をオープンアクセスにて公開しました。


『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)

特集「心理学の再現可能性:
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」




「今回取り上げたトピックが,心理学界全体にとってそれだけ重要な問題であるという証左だろう。多くの人々に読んでいただきたい」という編者の思いが「巻頭言」でも語られています。

奇しくも私は、全国英語教育学会埼玉大会で「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」という口頭発表を行います(8月20日(土)10:00-10:30 第25室)。ですからその準備も兼ねて、ここにこの『心理学評論』を私なりにまとめておきます。なお、この号はオープンアクセスなので、引用に関する著作権上の制限は少ないと判断し、以下では多くの引用をしていますことをお断りしておきます。



■ 心理学研究論文の再現可能性は40%?

まず、巻頭言で、友永雅己・三浦麻子・針生悦子(「心理学の再現可能性:我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(pp.1-2))(http://team1mile.com/sjpr59-1/preface/)は、過去の心理学の研究論文について追試を行ったところ、結果が統計的に再現されたものは追試実験全体のうちの 40% に満たないという衝撃的な論文が2015年にScience 誌に掲載された(Open Science Collaboration, 2015)(http://science.sciencemag.org/content/349/6251/aac4716)ことを述べ、再現可能性(reproducibility)について考えることの重要性を説いています。

ここでいう「再現可能性」の一般的理解は、科学研究の根幹をなす特徴のひとつであり、諸条件を人為的に統制・操作し従属変数を測定する際に、およそ同一の統制や操作がなされたとき一致した測定結果が得られる程度、といったものでしょう。(大久保街亜(「帰無仮説検定と再現可能性」(pp.57-67)(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/okubo.pdf)のp.57の記述より)

ですが、その再現可能性が思うほど高くないというのが、ここでの問題提起です。特集号では、研究の再現可能性を高めるための具体的提言もなされていますが、ここでの私のまとめは、「そもそも再現可能性を求めることが何を意味するか」といった関心からなされたものです。



■ PLACE: Proprietary,Local, Authoritarian, Commissioned, Expert workが科学の実態?

実は研究結果の再現性が高くないことは、心理学だけでなく、医学や生命科学でも問題になっています。この背景にある事情について、佐倉統(「科学的方法の多元性を擁護する」(pp.137-141))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/sakura.pdf)は、科学の駆動原理が"CUDOS"から"PLACE"へと変容してしまったことを指摘しています。(p.138)

"CUDOS"とは科学社会学者の Merton (1973)が提唱した概念で、科学者はCommunalism (知識の公共性),Universalism(普遍性), Disinterestedness (利害への無関心), Organized Skepticism (組織的懐疑主義)に基づき研究活動を行っているというものです。しかし現在ではこれは理想的主義すぎて科学の実態をうまく表現できないとも考えられています。

そこで提唱されたのが物理学者で科学技術社会論者でもある Ziman(2000)による"PLACE"概念です。すなわち、科学者を実際に突き動かしているのは、Proprietary (知識の独占), Local (局所性), Authoritarian(権威主義), Commissioned (権力からの委託),Expert work (専門家主義)であるという考え方です。これは産学の融合が高くなったことが原因で、だからこそ産学融合が著しい医学や生命科学で、再現性が低い研究が量産されているという共通理解が成立していると佐倉はまとめています。(p. 138)

心理学は、医学や生命科学ほどには金銭的な利益に直結していませんが、それでも社会的関心は高く、何より "publish or perish"の圧力はますます強くなっていますから、再現性が低い研究でもとにかく出版するという傾向が芽生え始めているのかもしれません。(英語教育研究においても、昨今は一部の研究がそれなりに"PLACE"によって進められているようにも思えますが、それについてはここではこれ以上述べません)。



■ 決して容易ではない研究結果の再現

しかし、もちろんほとんどすべての心理学者は良心的であり、故意や悪意で再現性のない研究を公刊しているわけではありません。そもそも心理学で研究の再現可能性を確保することは、容易なことではありません。心理学の中でも、動物を対象とするため侵襲的研究手法も使えるため再現可能性を担保しやすいとも思われるシステム神経科学でも、「動物の扱い方や飼育状況,訓練履歴,報酬として与える飼料や飲料,電極の刺入速度,安定させる時間,活動電位を単離する方法など,多くのパラメータや方法のわずかな違いが存在し,それら全てを論文に書くことはできないことが多い」と鮫島和行は述べています。(「システム神経科学における再現可能性」 (pp.39-45))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/samejima.pdf)のpp.40-41)



■ 観察研究やフィールド研究を行う心理学者の見解

また、現在の心理学では主流ではないかもしれませんが、自然場面での人間を対象とする観察研究では、「直接的な追試を行える可能性はかなり低く,仮に無理をしてオリジナル研究の観察条件に近づけようとすると,自然観察がモットーとする生態学的な妥当性(Bronfenbrenner, 1979/1996)が損なわれ,研究自体が成り立たなくなる可能性すらある」と小島康生は述べています。(「人間の観察研究における再現可能性の問題」(pp.108-113))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/kojima.pdf)のp.111)。

さらに小島は、「現在の再現可能性の議論は,一部の,しかも実験系の研究テーマでの議論に大きく偏っており,心理学全体を包括するようなものには進展していない」(p.112)ことを指摘し、そもそもエスノグラフィーや参与観察では「他者による追試という発想自体が存在しない」し、そういった考え方は「本特集号で多くの執筆者が述べていることからすると、180 度発想の違う考え方だが、心理学の世界ではそういった視点もあることをぜひとも頭に留めておいていただきたい。」(p.112)と訴えています。

また、松田一希(「フィールド研究の再現性とは何か?」(pp.114-117))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/matsuda.pdf)は、少なくとも論文冒頭では、「野生霊長類を対象に研究をしている私には,「研究結果の再現性」とは,ピンと来ない言葉である。それほど問題ととらえる機会がないからだ。」(p.114)と述懐しています。



■ 実践支援研究で再現可能性を高めるために

私は英語教育(言語教育)で、実践支援研究を行うには、研究の認識論はどうあるべきかという関心をもっています。

関連記事:比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

その関心からすると、この特集号で網羅された心理学研究の種類の中で、英語教育などでの実践支援研究の形にもっとも近いと思われるのは、平井啓(「心理学研究におけるリサーチデザインの理想」(pp.118-122))(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/hirai.pdf)が報告している研究でしょう。平井は、厚生労働省科学研究費のプロジェクトとして,認知行動療法の一つである問題解決療法のプログラムを日本人のがん患者向けにアレンジしたものを開発し,その有効性を前後比較研究により検証する研究に責任研究者として関わった経験をもっています。(p.118) そのプログラムでは「プロトコール」と呼ばれる研究計画書が決定的に大切です。

平井は次のように報告しています。

そのプロトコールでは,「どんな人を対象に,どんな介入を行い,何と比較し,どのようなアウトカムをどのくらい改善するのか」,すなわち Patients, Exposure,Comparison, & Outcomes: PECO (福原, 2008)と呼ばれる研究テーマ(リサーチ・クエスチョン)を構造化するための定式に従って,それらを事前に設定しなければならなかった。加えて介入で使用する教材や介入者の訓練も含めてプログラムの開発を行いながら,「班会議」と呼ばれる 3 ヶ月~6 ヶ月毎に開催されるリサーチミーティングでプレゼンテーションとディスカッションを行い,研究を実施するために必要なことについて,PECOを満たすように決めていった。ここで求められていたことは,プロトコールが完成する段階で研究の知的作業のうち 8 割が終わっているということであり,あらゆる可能性を考えることが研究班の研究者たちから容赦なく求められた。最終的には,無作為化比較試験をするのか,単純な前後比較試験をするのかという狭い意味での研究デザイン,さらにデザインにもとづくサンプルサイズを計算し,データ取得後の統計解析方法,研究組織と役割分担,データの管理方法を含む倫理的配慮の内容についても詳細に記載することが求められた。(pp.118-119)

この報告を受けて、「英語教育界でもこういった研究を行うべきだ」と考える人もいるかもしれません。しかし、ここからは完全な私見ですが、直接生命に関わる医学研究と比べると、英語教育研究といった研究は、研究予算も研究者数も圧倒的に乏しいものです。私の感覚では、上のようなプロトコールを定めた実践支援研究を英語教育界で行うことを期待するのはあまりにも非現実的です。

もちろん科研などで高額予算を獲得したら、こういった研究も不可能ではないでしょうが、私は上述の「比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察」でも述べたように、そういった研究方法で得られる知見は少なく、投入された研究予算と人的資源にみあったものにはならないと思っています。

それよりも私は、現場の教員を当事者として巻き込み、日本の英語教育界の実態にかなった研究の方法を確立する方がはるかに現実的であり、効果的だと考えています。とはいえ、この話をし始めると長くなるので、ここでは『心理学評論』のまとめに戻ります。



■ 再現可能性を「目的」にしてはいけない

私自身がこの特集号から学んだことは、以下に引用する二つの見解で総括することができます。

一つ目の見解は渡邊芳之(「心理学のデータと再現可能性」(pp.98-107)(http://team1mile.com/sjpr59-1/wp-content/uploads/2016/07/watanabe.pdf)によって示されています。心理学が対象とする現象の複合性を考えると、いたずらに再現可能性を高めることを研究の目的にしてしまうと、そもそも心理学としての妥当性を失ってしまうのではないかというものです。少し長くなりますが、引用します。


自分たちが研究対象にしている現象について,どのくらいの再現性が求められ,かつ可能であるのかについての理論的・方法論的な検討をさらに進めて,問題ごとに必要な再現可能性をあきらかにして,その実現を目指すことが求められるだろう。

その上で,再現可能性を「目的」にしないことが重要である。データや研究成果の再現性はしばしば「科学であること」の条件とされているために,再現性は高ければ高いほど望ましく,それによって心理学も科学の仲間入りができるというような考えが起きやすい。しかし,先にも述べたようにわれわれ心理学者が扱う現象には非常に多くの変数が関わっていて,そのわずかな変動によっても心理現象は大きく変動するし,そうした変数のうちかなりの部分は今後も潜在変数のままで残る。それだけでなく,対象とする現象自体の生起確率が低い可能性も常に残る。

必要な再現性の大きさは研究対象や研究の目的,方法によって異なるはずだし,低い再現性が検出されることのほうが現象を妥当に反映している可能性もある。データの再現可能性はあくまでもわれわれが研究対象とする現象を正しくとらえるために参考にできるさまざまな指標の一つに過ぎない。再現可能性のために他の重要なことを犠牲にする必要はなく,自分たちの研究や対象や研究目的に応じて,現象を正しくとらえるための他の基準とうまくバランスをとりながら,適切な再現性のレベルを決めて実現すればよい。(p.105)


■ 研究の多元性を大切に

佐倉(上掲)もこの渡邊の見解に同意しています。


渡邊(2016)が述べているように,比較的単純な系や,変数の制御が容易な系を対象として洗練されてきた手法(再現性確保もそのひとつ)を金科玉条のように唱えて最優先事項とすることは,場合によっては,本来その学問領域や研究者が共有していた問題群を置き去りにしてしまう可能性がある。動物行動学や文化人類学などのフィールドワークが,直接観察や質的研究法を採用してきたのは,定量性や再現性だけを強調することの不利益を認識していたからである(Dawkins, 2007;Flick, 1998/2009)。(p.140)

再現可能性を高めることだけが科学的方法でもないし,心理学において最重要な選択肢とも限らないはずである。科学的方法は,合理性を担保していさえすれば,多元であってよい。むしろ多元性を積極的に許容する方が,科学的に興味深い現象をすくい上げることができるであろうことは,上で述べたとおりである。(p.140)


もちろん、このように述べると、今度は「合理性とは何か?」という認識論的問題が出てきますが、それは実践者の共感的理解を得られる研究の実現のために試行錯誤する中で考えればいいわけです。私は、英語教育界も、もっと積極的に研究の多元性を認めるべきだと考えています。


これまで日本の英語教育研究は、心理学の古典的な(そしてこの特集号を読む限り、今でも主流の)実験研究を追いかけることが研究の進歩であると思い込んでいた節があります。人的資源が少ないところでそのような思い込みが強かったものですから、1990年代頃から心理学の中でも台頭してきた質的アプローチを研究する研究者も少なく、英語教育界の多くの研究者はそういった新しい研究のあり方を長い間排除してきました(「そんなのは研究ではない!」という(実は勉強不足からきている)を私も何度も何度も聞きました)。

昨今は英語教育界でも流石に質的研究なども認め始めましたが、研究者が先行分野の真似をすることで研究者としての優位性を保とうとすることからすれば、英語教育界でも今後ますます再現可能性・再現性を追求してゆくようになるでしょう(既にその兆しはあります)。

そういった方向で研究を推進している人を敵にまわすような言い方になりますが、私はそのような方向は、英語教育の研究と実践の実態を考えるととても非現実的で、ますます研究者と実践者の間の溝を深くすると思います。

英語教育界に与えられている課題の大きさと、英語教育界が有する限られた資源の両方を天秤にかけて考えると、私は先程も簡単に述べましたように、研究をますます象牙の塔にこもらせる方向ではなく、より多くの実践者を研究に誘う方向で、英語教育における研究のあり方を考え、新たな研究の実践を創造すべきだと考えます。

上に「敵にまわすような」と言いましたが、反面、私は英語教育界の若い世代の力と誠実さを信じてもいます。次の全国英語教育学会埼玉大会でも、衆知を合わせて英語教育を活性化できるような語り合いができればと願っています。