2017年10月31日火曜日

J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳





以下は、Jerome Brunerが科学規範の様式 (the paradigmatic mode) と物語の様式 (narrative mode) の違いについて集中的に述べた章 (Chapter 2 Two modes of thought. In Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds. Harvard University Press) のまとめと抄訳です。自分自身のための「お勉強ノート」として作成しました。この本には『可能世界の心理』という翻訳本があるようですが、絶版で私は入手できなかったので参照できていません。いつものように私の誤解や誤訳があればご指摘いただけたら幸いです。

翻訳においては、いつものようにわかりやすさと原文への忠誠というしばしば両立不可能な二つの要素を意識しながら行いました。 “Story”, “narrative”は重要用語ですが、私は、重要用語はできるかぎり漢語か大和言葉で訳すべきという原則を大切にしていますので、それぞれを「ストーリー」「ナラティブ」などとすることなく、「話」、「物語」としました。「ストーリー」というカタカナ語はずいぶん普及しているので使ってもよいかとも思ったのですが、「ちょっと話がある」「あの人の話は・・・」といった日常的な用法での「話」の語義を大切にしたかったので「ストーリー」は使いませんでした。

追記 (2017/11/06  “Narrative”の訳語としてこの記事を最初に掲載した時には「語り」を使っていましたが、本日、下の関連記事にならってそれを「物語」に戻しました。

関連記事:Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ


ちなみに「話」と「物語」は似たようなことばです。両方ともに、話された・物語られた内容を指すこともあれば、話す・物語る行為を指すこともあり、両者がほぼ同義で使われることも多くあります。しかしもし区別をするなら、ブルーナーに倣って、「物語」を思考様式としての抽象的なものとして、「話」をその思考様式から生み出される具体的なものとして区別することが可能かと思います。
また、「話」も「物語」も本来口頭表現を意味することばであったと思われますが、印刷物などによる書記言語による義務教育を経た近代人にとっての言語使用は、口頭言語にも書記言語が入り込みまた書記言語にも口頭言語が入り込むといった混交状態にありますので、「話」も「物語」も、口頭で話され・聞かれるだけではなく、書面で書かれ・読まれるものでもあるという意味で使っています。

それではまずまとめを示した後に、抄訳を掲載します。



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「思考の二つの様式」のまとめ




 ( )内の数字は便宜的につけたものである


二つの思考様式

 (1) 思考には二つの様式がある。科学規範の様式 (paradigmatic mode)と物語の様式 (narrative mode)である。どちらか一方をもう一つに還元してしまうことはできない。これら二つは独立しているが相補的である。
(2) 科学規範の様式の論証 (argument) は形式的で実証的な証明 (formal and empirical proof)で真理 (truth) を検証 (verification)する。
(3) 物語の様式の話 (story) は、迫真性 (verisimilitude) によって生きるとはどういうことなのか (lifelikeness)を納得させる。


物語の様式(話)についての従来の考え方

(4) 科学規範の様式については多く知られているが、物語の様式についてはまだあまり知られていない。
(5) 話には、出来事と素材(stuff)と語る順番である筋書き (plot) がある。
(6) 話の素材には、設定 (settings) の中で意図もしくは目的 (goals) をもち手段 (means) を使いながら行為(actions) をする登場人物 (characters) という五つの要素があるとバーグは述べた。
(7) また、人生を感じさせる物語 (lifelike narrative) は、正しいもしくは「正統な」 定常状態 (a canonical or "legitimate" steady state) から始まり、その状態が破られ (breached)、危機 (crisis) が生じるが、それが修復(redress) され、循環 (the cycle) が再開し、開かれた可能性が取り戻されるという段階で進むともよく言われる。


物語の様式(話)についてのブルーナーの考え方

(8) しかし話の中の登場人物は、筋書きの中で単に行為を担うひと駒・人影 (figure) と違い、独自の性格(character) をもっているため非常に重要である。
(9) 話には、行為の景観 (landscape of action)と意識の景観 (landscape of consciousness)の二つの景観が記述されるが、この二つを見ることで読み手は主人公に共感してゆく。
(10) この二重の景観 (dual landscape) のことなどを考えると、話の素材は、登場人物 (characters) 、登場人物が陥る苦境 (plight)、登場人物の意識 (consciousness) の三つと考えた方がいいかもしれない。
(11) 話に統一をもたらすのは、苦境と登場人物と意識が相互作用して、始まり-発展-「終結の感覚」 (a start, a development, and a "sense of an ending") を有する構造を生み出すことである。あるいは、いかに苦境と登場人物と意識が統合されるかとも言える。
(12) 物語は人間の意図が遭遇する試練を扱う (Narrative deals with the vicissitudes of human intentions)ともまとめられる。


物語の様式(話)の言語的特徴

(13) 語の選択に関しては、科学的規範の様式では明らかで明確な指示をもつ語を選び、その語の文字通りの意味を重視するが、物語の様式では、複数の登場人物-観察者の視点から記述するための語が選ばれ、しばしば比喩が用いられる。そのため、物語の言語は喚起的な言語 (language of evocation)となる。
(14) 物語の喚起的な言語が生み出す空白によって、読み手は自らの想像力を使ってその空白を埋めるようになる。そうやって読み手は現実のテクスト (the actual text)に反応して自らの仮想的なテクスト (a virtual text) を書くようになる。
(15) 物語の純粋形態としての文芸的な物語の目的は、意味を確定することではなく、意味の可能な範囲を活性化させ、読者にその範囲をくまなく探査させた上で意味の探求を開始させることを導くことである。


物語の形式(話)において読み手は書き手になる

(16) そうなると、物語の言説は、書き手が自分自身の仮想テクストを「書く」ことを可能にするものでなくてはならない。
(17) このように読み手を書き手にするためには、想定の起動 (triggering of presupposition)、実在性の主観化(subjectification of reality)、複数の視点 (multiple perspective) の三つが重要になってくる。これら三つにより、仮定法的実在性 (a subjunctive reality) が成立する。
(18) うまい話の運び (storytelling) とは、読み手が利用できる人間的苦境で読み手に影響を与え、読み手が想像力を発揮して、話を自ら書き直すようにさせることである。話の素材は読み手の対応領域 (repertoire) で折り合いがつくものでなくてはならない。
(19) 読み手が作り出す仮想テクストは、それ自身として一つの話 (a story of its own) となり、それ自身の「実在性」が与えられる(存在論的前進)。
(20) 話を読み終えた読み手は、「これは何についての話なんだ?」 (What's it all about?) と自問する。しかしこの問いにおける「これ」とはもちろん、現実のテクスト (the actual text) のことではない。この「これ」とは、読み手が現実のテクストに影響を受けて構築した仮想のテクストである。
(21) バルトにならって言うなら、書き手が読み手に差し出しうる最高の贈り物 (gift) とは、読み手を書き手にすることだ。いや、バルトを超えた言い方をするなら、偉大な書き手からの読者への贈り物とは、読み手をよりよい書き手にすることである (the great writer's gift to a reader is to make him a better writer)


物語の様式(話)と現実世界の営み

(22) 実人生で他人を理解することは難しいことだが、話の中の登場人物を理解することは、まさに、他人との対処についての最初のそしておそらくもっとも重要な一歩となる。
(23) しかし、物語による解説 (a narrative account) は、読み手を「誤り」 (errors) に導きかねないものと私たちは思い込んでいる。
(24) だが、今日ビジネスや銀行業に携わっている者は(あらゆる時代の実務家と同じように)論理的-科学的でないお話によってしばしば判断をしている。
(25) たしかに経済学の理論家にとって物語とは最終手段にすぎないかもしれない。しかし、理論家が研究している行動を生み出している人々の人生を作り上げている素材(the life stuff)は物語なのだ。
(26) 歴史理解において、私たちは端的な年代記 (hard-core annalesに飾り付けをほどこし、それを編年史(chroniquesに変え、最後に歴史という物語 (narrative histoiresに変える。
(27) 最終的には、物語の様式と科学規範の様式は共存するようになる (live side by side)




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「思考の二つの様式」の抄訳



 の小見出しは便宜的につけたものである
 現時点ではどこかにあるはずの紙の本が見当たらないので、Kindleでのページ番号を掲載している。後日、紙の本が見つかったらそのページ数を記載する。
追記 (2017/11/06) 紙の本のページ数も記載しました。




 思考には二つの様式がある

認知機能 (cognitive functioning) には二つの様式 (modes) がある。それらは二つの思考様式 (modes of thought)であり、それぞれが独自のやり方で経験を秩序化し (ordering of experience)、実在性を構築している(constructing reality)。これら二つは(相補的 (complementary) ではあるものの)どちらか一つに還元することはできない (irreducible)。どちらか一つの様式を、他の様式に還元しようとしたり、他の様式を無視してしまったりすれば、必然的に思考の豊かな多様性 (rich diversity) をとらえそこなうことになる。 (p.11)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.148-150). Kindle .


 論証は真理について納得させ、話は人生について納得させる

さらに、この二つの知る方法 (the ways of knowing) にはそれぞれに作動の原理 (operating principles) および形式性の判断基準 (criteria of well-formedness) がある。これらは検証手続き (procedures for verification) において根本的に異なっている。よく練られた話 (a good story) と形式的に整った論証 (well-formed argument) は異なる自然種 (natural kinds) である。たしかにどちらも他人を納得させるための手段として使うことはできるが、それぞれが何納得させるのかについては根本的に異なっている。論証は他人に真理 (truth) を納得させるが、話は生きるとはどういうことなのか (lifelikeness) について納得させる。論証は、究極的には、形式的で実証的な証明 (formal and empirical proof) を確立する (establishing) 手続きに訴えることで検証を行う。話は、真理ではなく迫真性 (verisimilitude) を確立する。 (p.11)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.150-153). Kindle .

 これまででもBrunerthoughtcognitive functioning, knowingと言い換えている。
 Natural kindsについては下の解説を参照
 生きるとはどういうことなのか (lifelikeness) や迫真性 (verisimilitude) といった訳語には今後も検討が必要かもしれない。


科学的仮説は話や比喩から生まれるかもしれないが、検証可能性を得ることで科学として成熟する

多くの科学的もしくは数学的な仮説は、最初はちょっとした話や比喩から生命を得たのではあるが、それらの仮説は、形式的もしくは実証的な検証可能性 (verifiability) に転換する過程で科学的に成熟する (scientific maturity)。仮説が成熟したあかつきにもつ権力 (power) は、それがドラマのように生まれた (dramatic origin) から生じるのではない。 (p.12)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.162-164). Kindle .


 論理-科学的様式は形式的で数学的な体系の形成を目指す

二つの様式のうちの一つは科学規範的 (paradigmatic) もしくは論理-科学的 (logico-scientific) なものであるが、それは記述と説明の形式的で数学的な体系 (system) という理想 (ideal) を充たすことを目指している。論理-科学的様式でカテゴリー化もしくは概念化や操作が行われる時には、カテゴリーが確立され例示され理想化され、他のカテゴリーと関係づけられ体系を形成するように行われる。 (p.12)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.167-169). Kindle .


科学規範の様式では一般原因を扱い、実証的な検証を重んじ、整合性と無矛盾性を求める

全般的な水準において語るなら、論理-科学的様式(今後は科学規範の様式と呼ぶことにする)は、一般原因(general causes) を扱い、自らが科学規範の様式として確立する中で検証可能な指示 (reference) を確保し実証的真理 (empirical truth) をテストする手続きを活用する。科学規範の様式における言語は、整合性と無矛盾性(consistency and noncontradiction) を常に求めるように制限されている。 (p.13)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.170-172). Kindle .


 二つの様式における想像力の違い

しかし科学規範における「想像力」 (imagination) (もしくは直感 (intuition))は、小説家や詩人の想像力と同じではない。科学規範の様式での想像力は、形式的方法で証明する以前に可能な形式的つながりを予見する能力を意味している。これに対して物語の様式で想像力を働かせることは、よく練られた話、人を引きつけるドラマ、(必ずしも「真理」 (true) ではないかもないかもしれないが)信じられる歴史の解明 (believable historical accounts) へとつながる。物語の様式での想像力は、人間のあるいは人間らしい意図と行為 (intention and action)、 そしてそれらがたどる試練と結末 (vicissitudes and consequences) において発揮される。 (p.13)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.177-179). Kindle .


 物語は、人間であるための条件という問題意識に基づく

ポール・リクールの論ずるところによれば、物語は、人間であるための条件 (the human condition) ということに対する問題意識 (concern) の上に成立している。話の結末は悲しかったり喜劇的だったり馬鹿げたものだったりするが、理論的論証 (theoretical arguments) は単に結論が出るか出ないか (conclusive or inconclusive) である。私たちは科学的・論理的推論がどう進行するかについては多くの知識をもっているが、それにくらべるなら、どうすればよく練られた話を作ることについて私たちは形式的な意味ではほとんど知らない。 (pp.13-14)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.184-186). Kindle .


 物語が扱う二つの景観:行為の景観と意識の景観

このこと[=私たちはよく練られた話をどうやって作るかについて形式的にはほとんど知らないということ]の一つの理由として考えられるのは、話は二つの景観 (landscapes) を同時に構築 (construct) しなければならないということである。一つの景観は行為の景観 (landscape of action) である。行為の景観の構成要素(constituents) は行為を構成する項 (arguments) である。つまり、行為者 (agent)、意図もしくは目的 (goal)、状況 (situation)、方法 (instrument)といった「話の文法」 (story grammar) に対応する項である。もう一つの景観は意識の景観 (landscape of consciousness)、つまり、行為に関わる人々が何を知り考え感じたか、あるいは何を知り考え感じなかったかである。 (p.14)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.186-188). Kindle .


 科学規範の様式の解明では科学と数学を扱うように、物語の様式では文芸を扱う

物語を文芸作品 (an art form) に変える偉大な創作作品 (fiction) を扱うことによって、表現 (expression) における物語の様式の深層構造 (deep structure) を「純粋に」 (purely) 明らかにする (reveal) ことにもっとも近づくことができる。同じ主張は科学と数学についてもいえる。科学と数学が科学規範に基づいた思考の深層構造をもっとも端的に(そして純粋に)明らかにする。 (p.15)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.201-203). Kindle .


 物語は人間の意図が遭遇する試練を扱う

物語は人間の意図が遭遇する試練を扱う (Narrative deals with the vicissitudes of human intentions)。何万もの意図があり、それらが苦難 (trouble)に陥るのには数え切れないほどのやり方がある--少なくともそのようには思える--ことからすれば、話には無数の種類があるに違いないと思える。しかし驚くことにそうではなさそうである。ある見解によるなら、人生を感じさせる物語 (lifelike narrative) とは次のようなものである。正しいもしくは「正統な」 定常状態 (a canonical or "legitimate" steady state) から始まり、その状態が破られ(breached)、危機 (crisis) が生じるが、それが修復 (redress) され、循環 (the cycle) が再開し、開かれた可能性が取り戻される。 (p.16)

 原文では、 “the cycle an open possibility” となっていたが “an[d]”と理解して翻訳した。また、"the cycle"は、「定常状態-破綻-危機-修復」の循環と解釈している。

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.214-217). Kindle .


 話の素材と筋書き

もちろん[物語の]言説で用いられる言語は決定的に重要である。しかしそれ以前に筋書き (plot) 、筋書きとその構造がある。それがどんな媒体であれ--ことば、映画、抽象動画、演劇であれ--、私たちは 二つのものを区別することができる。一つは"fabula"と呼ばれる話の基本的な素材 (basic story stuff) 、つまり語られる出来事 (events to be related)であり、もう一つは"sjuzet"とも呼ばれる筋書き、つまり出来事を並べることによって語られた話である。筋書きは、何が起こったのかを読者がどのようにそしてどの順番で知るのかということである。「同じ」話も異なった順番 (sequence) で語ることができる。このことが意味しているのはもちろん、話に共通している基礎構造を、異なった順番で話しながらも意味が保たれるようにするある種の変形(transformation) があるに違いないということである。 (p.19)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.257-260). Kindle .


 ドラマとは、設定によって制限を受けている登場人物が筋書きの中で行為するありさま

ケネス・バーグによれば、「話の素材」 (story stuff) には、設定 (settings) の中で意図もしくは目的 (goals) をもち手段 (means) を使いながら行為 (actions) をする登場人物 (characters) という五つの要素がある。彼によればドラマが生まれるのは、これらの構成要素の「相互関係」 (ratio) に不均衡 (imbalance) が生じる時である。(中略)しかし、破綻-危機-修復もバーグの五要素不均衡も「話の素材」の十分な記述となっていない。なぜなら話には、行為と相互作用 (action and interaction) にではなく、登場人物自身に由来する要素があるからである。(中略)おそらくアリストテレスが『詩学』で悲劇について語ったように、ドラマとは、設定によって制限を受けている登場人物が筋書きの中で行為するありさまである (drama is a working out of character in action in a plot constrained by a setting) と説明することができるだろう。 (p.20)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.267-273). Kindle .


 意識の景観と行為の景観の二つを見ることによって主人公に共感してゆく

心理的な側面からすれば、いかに読者が主人公の人生と心に入ってゆけるかを説明するのに、「二重の景観」が見えるということ (the "dual landscape" view) は重要であるように思える。主人公の意識は共感を呼ぶ磁石である。さらに言うなら、「内的」な見通し ("inner" vision) と「外的」な実在性が適合するかどうか(matching) というのは、人間にとっての苦境の古典的な例である (a classic human plight) (pp.20-21)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.279-280). Kindle .


 いかに苦境と登場人物と意識が統合されるかで話に統一感が生じる

いずれにせよ、話の素材 (fabula)--時間を超越して存在する主題 (theme)--とは、少なくとも三つの構成要素を組み入れた統一 (a unity)であるように思える。話の素材には、登場人物 (characters) が陥った苦境 (plight) がある。それは、状況 (circumstances) か「登場人物の性格」 (character of characters) のどちらか、もしくはこちらの方が多いのだがそれら二つの相互作用によって登場人物の意図がおかしな方向に進んでしまった (go awry) ことによる。さらに話の素材には、苦境に関わる登場人物の意識 (consciousness) が不均等に配置されていること (an uneven distribution) が必要である。話に統一をもたらすのは、苦境と登場人物と意識が相互作用して、始まり-発展-「終結の感覚」 (a start, a development, and a "sense of an ending") を有する構造を生み出すことである。統一感のある話の構造の特徴を、定常状態 (steady state) - 破綻 (breach) - 危機 (crisis) - 修復 (redress) で十分に表せるかは難しいところである。しかしそのことについて判断することは必要ではない。なぜなら、人が話の構造に求めるのは、まさに、いかに苦境と登場人物と意識が統合されるか (how plight, character, and consciousness are integrated) だからである。この問題には結論を急がずに、開かれた心をもって問題にあたってゆく方がいいだろう。 (p.21)

 "consciousness"をイタリックにしたのは引用者。三要素を明確にするためにイタリックにした。

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.282-287). Kindle .


 科学規範的様式と物語の様式では、語の選択法も異なる

科学的もしくは論理的な文章、というよりも、科学的論証が要求することによって統率されている (governed) 文章は、明らかで確定的な指示と文字通りの意味 (clear and definite reference and literal sense) をもつことばを選択しがちであるということは事実といってさしつかえない。この選択は、この種の言語行為 (speech act) の適切性条件 (felicity condition) によって必要とされる。(中略)これに対して、話を語る場合の語の選択は、主人公-観察者 (a protagonist-beholder) の目からによる指示対象の表象をするという制限がかかる。これにより話が展開してゆく主観的な経験にふさわしいが、実際に生じている行為にも十分な配慮をしている視点(perspective) が得られる。 (p.22)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.300-303). Kindle .


 喚起的な言語は、比喩的な指示を使う

詩の言語--あるいは喚起的な言語 (the language of evocation) と言うべきだろうか--は、文の旧情報の部分にも新情報の部分にも比喩を充て、本来指示しているはずのものをやや曖昧 (somewhat ambiguous) にしてしまう。これらの用語が組み合わされて作られた旧情報-新情報の組み合わせは、通常の真理関数的な命題 (truth functional propositions) に変換することができなくなる。 (p.24)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.320-321). Kindle .


喚起的な言語が生み出す空白によって読み手は自分なりのテクストを書くようになる

したがって垂直的な語の選択においても水平的な語の組み合わせにおいても、詩や話の喚起的な言語は、平明な指示や検証可能な述部といった要求にかなっていない。文芸の長所をもつ話は、たしかに「実在の」 (real) 世界での出来事について語るが、その中で世界は新たに異化され (newly strange)、自明性 (obviousness) に陥らなくなる。喚起的な言語は、その新たな世界にさまざまな空白 (gaps) を作り出すが、その空白によって読み手はバルトが述べるような意味で書き手になる。読み手は、現実のテクストに反応して仮想的なテクストを書くようになる (to become a writer, a composer of a virtual text in response to the actual) (p.24)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.323-325). Kindle .


 文芸的な物語の目的は、可能な意味範囲をくまなく探査して意味を求めることを開始し導くこと

この「テクストの相対的不確定性」 (relative indeterminacy of a text) が「一定範囲の現実化を可能にする」(allows a spectrum of actualizations) のである。かくして「文芸的なテクストは、意味自体を現実のものとして定式化するというよりは、意味の「遂行」を開始する」 (literary texts initiate `performances' of meaning rather than actually formulating meanings themselves) ということになる。これこそが、言語行為としての文芸的な物語 (literary narrative) の中核にあることだ。発話やテクストの目的は、可能な意味範囲をくまなく探査して意味を求めることを開始し導くことである (an utterance or a text whose intention is to initiate and guide a search for meanings among a spectrum of possible meanings) (p.25)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.333-335). Kindle .


 物語の言説は、読み手が自分自身の仮想テクストを書くことを可能にするものでなくてはならない

イーザー (Iser) が物語の言語行為について語っていることが正しいのなら、物語の言説 (discourse) は、読み手の想像力を引き出す言説の形式に基づくものでなければならない。読み手に「テクストに導かれながら意味を遂行する」 (performance of meaning under the guidance of the text) を求める言説形式である。物語の言説は、書き手が自分自身の仮想テクストを「書く」ことを可能にするものでなくてはならない。読み手をこのように導く過程において決定的に重要な三つの特徴があるように私には思える。 (p.25)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.339-341). Kindle .


 読み手を書き手にするために重要な第一の特徴:想定の起動

第一の特徴は想定の起動 (the triggering of presupposition) である。明示的な意味ではなく、暗示的な意味を創造するのだ (the creation of implicit rather than explicit meanings)。というのも、明示性は解釈における読み手の自由を無くしてしまうからだ。 (p.25)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.341-342). Kindle .


 読み手を書き手にするために重要な第二の特徴:実在性の主観化

第二の特徴は、私が主観化 (subjectification) と呼ぶものである。実在性を、全知の目 (an omniscient eye) を通したように時間を超越した実在性 (a timeless reality) として描くのではなく、話の中の主人公 (protagonists) の意識のフィルターを通じた実在性として描くのである (the depiction of reality not through an omniscient eye that views a timeless reality, but through the filter of the consciousness of protagonists in the story)(p.25)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.344-345). Kindle .


 読み手を書き手にするために重要な第三の特徴:複数の視点

第三の特徴は複数の視点 (multiple perspective) である。世界を一義的に見るのではなく、同時にそれぞれに世界の一部をとらえている多くのプリズムを通じて見るのだ。 (beholding the world not univocally but simultaneously through a set of prisms each of which catches some part of it) p.26

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.347). Kindle .


三つの特徴により実在性の仮定法化が成立する

これら三つの特徴が合わされば実在性の仮定法化 (subjunctivising realityが成立する。これは、物語の言語行為という用語でイーザーが述べていることを私なりに言い換えた表現である。私のいう「仮定」 (subjunctive) は、オックスフォード英語辞典にある二番目の定義である「言語形式が行為や状態を想像されたもの(conceived) として(事実としてではなく)描くために使われ、それゆえに願望・命令・奨励や偶発的・仮説的・将来的に起こるかもしれない出来事 (a contingent, hypothetical, or prospective event) のために使われる言語学的な意味での法(ラテン語 modus subjunctivus)」の意味で使われている。そうなると、仮定法の中にいる(to be in the subjunctive mode) とは、人間の可能性を扱う (trafficking in human possibilities) ことであり、解決済みの確実性を扱うことではない。「達成された」もしくは「受け入れられた」(uptaken) 物語の言語行為とは、そうなると、仮定法的世界 (a subjunctive world) を生み出していることになる。私が仮定法化する(subjunctivize) という用語を使う時は、この意味で使っている。それならば、言説が「仮定法的実在性」 (a subjunctive reality) を描く方法について私たちは専門的に何が言えるのだろう、という疑問がわいてくる。というのも、これこそが偉大な創作の言説という論点の鍵だからである。 (p.26)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.350-355). Kindle .


 フロイトは想定の起動については考えていたかもしれないが、それ以上は語っていない

フロイトは、「外化された内的なドラマ」 (internal drama made external) によって読者は登場人物だけでなく、登場人物がその中に自分自身を見出している人間的苦境 (human plights) が何であるか (identify) することを助けられるということを考えていた。しかしこれ以上に精確なことを、話において主観的な景観と複数の視点を喚起する言語について言うことができるだろうか?というのもこれこそが私が問うている論点だからである。--どのようにして実在性は言語によって仮定法化されるのだろうか (how is reality rendered subjunctive by language) (p.29)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.386-388). Kindle .


 行為の表現に偶発性・仮定法性を加える六つの方法

トドロフ (Todorov) の提言は、動詞が意味する行為を既成事実 (a fait accompliから心理的に未完成(psychologically in process) のものに、ということは、私たちの用語では偶発的もしくは仮定的 (contingent or subjunctive) なものにする六つの簡単な変形 (transformations) があるというものである。それらは以下の通りである。 (p.29)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.391-392). Kindle .

 Tzvetan Todorov (1977). The Poetics of Prose (Ithaca: Cornell University Press).

 以下、その六つの変形については概要だけを書く。

(1) 叙法 (mode): "X might commit a crime"における法助動詞 (modal auxiliary)など。動詞が表している行為を主観化する。(p.29)
(2) 意図 (intention): "X plans to commit a crime"など。行為に意図を読み込む。 (p.29)
(3) 結果 (result): "X succeeds in commmiting a crime"など。行為の過程がどうであったかが空白であることを示す。 (p.29)
(4) 様態 (manner): "X is keen to commit a crime"など。行為への態度がどうであったかを読み込む。 (p.29)
(5)  (aspect): "X is beginning to commit a crime"など。時間把握を主観化する。 (p.30)
(6) 事態(status): "X is not commiting a crime."など。そうでなかった事態の可能性を明らかにする。 (p.30)


 話が提供してくる素材と、読み手がもつ対応領域の間で折り合いをつける

『行為としての読書』 (The Act of Readingの中でイーザーは、読み手はテクストに対して戦略 (strategy)  対応領域(repertoire) を関係させると述べている。この読み手の主要な戦略とは、話の「素材」と、読み手がもっている人間的苦境についての考え方への対応領域 (his repertoire of conceptions about human plights) --読み手が可能だと思っている話の素材 (fabulae) の集合 (collection)--との間に折り合いをつけようとする(reconcile) ことのようである。 (p.34)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.461-463). Kindle .


 うまい話の運び (storytelling) とは、読み手が利用できる人間的苦境を提示することで読み手に影響を与え、読み手が想像力を発揮して、話を自ら書き直すようにさせること

いずれにせよ、著者がある種類の物語をある形式で作り出すのは、標準的な反応 (a standard reaction) を喚起する (evoke) ためではなく、読み手の対応領域の中でそれがどんなものであれもっとも適切で情動的に生き生きとした (appropriate and emotionally lively)ものを引き出す (recruit) ためである。ゆえに「うまい」話の運び("great" storytelling) とは必然的に、読み手が「利用できる」 (accessible) 人間的苦境を提示することによって読み手に強い影響力を与えることである。しかし同時にその苦境は十分な仮定法性 (subjunctivity) と共に提示され、その苦境が読み手にとって書き直される (rewritten) ことができなければならない。書き直され、読み手の想像力が自由に発揮できる (allow play for the reader's imagination)ようにされなければならない。 (p.35)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.469-472). Kindle .


 書き手は読み手を書き手にする

読み手が作り出す仮想テクストは、それ自身として一つの話 (a story of its own) となる。その話が非常に見慣れないもの (its very strangeness) となるのは、その話が読み手の通常感覚 (sense of the ordinary) との対比によってのみ書かれているからだ。創作が生み出す景観に対して、最終的にはそれ自身の「実在性」が与えられる--これは存在論的前進である (the ontological step)。それから読み手は、解釈についての決定的に重要な問い(that crucial interpretive question) を尋ねる。「これは何についての話なんだ?」 (What's it all about?) しかしこの問いにおける「これ」とはもちろん、現実のテクスト (the actual text) のことではない--それがどんなに偉大な文芸的力 (literary power) にみちたテクストであろうとも。この「これ」とは、読み手が現実のテクストに影響を受けて構築した仮想のテクストである。だからこそ現実のテクストには、読み手が自分自身の世界を創造することを可能にするだけの仮定法性が必要なのだ。バルトにならって言うなら、書き手が読み手に差し出しうる最高の贈り物 (gift) とは、読み手を書き手にすることなのだ。 (p.37)

 この箇所の前には、クビライ・カーンがマルコ・ポーロから世界のさまざまな都市について説明を受けながらも、マルコ・ポーロの出身地であるヴェニスについて説明を受けていないことについて不平を述べたところ、マルコ・ポーロは「私はどんな都市を説明する時も、ヴェニスとの対比から語っていました。ですから、私は常にヴェニスについて語っていたのです」と述べるエピソードが紹介されている。

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.492-496). Kindle .


 偉大な書き手は、読み手をよりよい書き手にする

さて、もし私がこれまでの議論で、偶発性と仮定法 (the contingent and subjunctive) を話の運びの観点からよりも話の把握 (story comprehending) の観点から語ってきたとしたならば、それは物語の様式とは、真実世界内の確実性 (certainties in an aboriginal world) についてではなく、経験を把握するために構築されるさまざまな視点 (the varying perspectives) について結論を出すものであるからである。バルトを超えた言い方をするなら、偉大な書き手からの読者への贈り物とは、読み手をよりよい書き手にすることである (the great writer's gift to a reader is to make him a better writer) (p.37)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.496-498). Kindle .


 登場人物 (character) とは、筋書きの中のひと駒以上のもの

登場人物 (character) とは、非常にとらえにくい (elusive) 文芸上の観念 (literary idea) である。とらえにくいのは、その理由が文芸を超えたところにあるからであろう。というのも「実際の人生」 (real life) においてですら、ある人の行為が状況によるものなのか、それともその人の「持続的な傾向性」 (enduring disposition) --つまりは登場人物の性格 (character)--によるものなのかを判断することは常に議論を呼ぶからである (a moot question)。アリストテレスは『詩学』の中でうまく (conveniently) 「行為者(pratton) (agent) と「登場人物(ethos) (character) を区別した。行為者とは、ドラマの中で筋書きが要求するところにしたがって行為するだけの人影 (a figure) でありそれ以上のものではない。それに対して登場人物とは筋書きが要求する以上の特徴 (traits) をもっている。 (pp.37-38)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.504-507). Kindle .


 話の中の登場人物の理解は、実人生の中での人間理解のための重要な第一歩となる

実際のところ、他人がどのような人間かを理解すること (construing another person) は必然的に問題をはらむものだといえる。しかしそれにもかかわらず、他の理解よりもある理解をすることによって他人への対処に目に見える結果 (real consequence) が出てしまうことはほぼ常である。そうなると私たちが話の中の登場人物を理解することは、まさに、他人との対処についての最初のそしておそらくもっとも重要な一歩となる。だからこそ、それが創作の中であれ実人生の中であれ、人について解釈を加えること (interpreting) は必然的にドラマの要素をはらむ (dramatic)。この理由で、登場人物について語ることは (the narrative of character) は、民話や神話(the folktale or the myth) よりも仮定法的性格が強くなる (so much more subjunctive)(p.39)

 この節の後に、Amelie Rortyによるcharacters, figures, selves, individualsの区別も紹介されているがここでは省略する。

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.524-527). Kindle .


 物語は真実をとらえそこなうので、論理的-科学的な方法の方がよいという私たちの暗黙の想定

暗に想定されているのは、物語による解明 (a narrative account) は、読み手を「誤り」 (errors) に導きかねないものだということである。この場合の誤りとは、真実の実在性 (an aboriginal reality) から離れてしまうことであり、真実の実在性を認識するには、物語よりも体系的で「論理的-科学的」な方法の方が適していると想定されている。 (p.42)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.565-566). Kindle .


 人々は物語を素材として出来事も歴史も作り出している

ここで妙なことが生じている。今日ビジネスや銀行業に携わっている者は(あらゆる時代の実務家と同じように)、そのような話[=「日本人経営者が・・・」「スイスの『蛇のような奴ら』が・・・」「イングランド銀行の『決意』によって」といった、論理的-科学的でないお話]によって判断を下しているのだ。適用可能な理論 (a workable theory) がある時ですら話の方を頼りにしている。こういった物語がいったん生じると、それらが出来事を「作り」 ( “make” events) 、歴史も「作る」 (“make” history)。関係者のとらえる実在性にとって物語が重要な構成要素となる (They contribute to the reality of the participants)。たとえ、経済学の世界を形成しているのは「一般的経済要因」だからという理由であれ、経済学者(もしくは経済史学者)が物語を無視するのは、自ら目隠しをかけるようなものである。歴史は関係者の心で生じていることとは完全に独立しているということを、経験するまでもわかる真実として (a priori) 述べることができる者は果たしているのだろうか?たしかに経済学の理論家にとって物語とは最終手段にすぎないだろう。しかし、理論家が研究している行動を生み出している人々の人生を作り上げている素材 (the life stuff) はおそらくは物語なのだ。 (pp.42-43)

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.572-576). Kindle .



 年代記から編年史を経て歴史の物語へ。そして物語の様式は科学規範の様式と共存する

かくして私たちは端的な年代記 (hard-core annalesに飾り付けをほどこし、それを編年史 (chroniquesに変え、最後に歴史という物語 (narrative histoiresに変える(これらの用語はHayden Whiteによるものである)。このようにして私たちは歴史を作る関係者がその中で現実に生きている心理的・文化的実在性を構築する (we constitute the psychological and cultural reality in which the participants in history actually live)。そして最後には、物語の様式と科学規範の様式は共存するようになる (live side by side) (p.43)

 Hayden White (1981) "The value of narrativety in the representation of reality" In J.T. Mitchell (ed). On Narrative. The University of Chicago Press.

Jerome S. BRUNER. Actual Minds, Possible Worlds (The Jerusalem-Harvard Lectures) (Kindle の位置No.576-578). Kindle .




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