2018年3月29日木曜日

平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)





これは前の記事 (Introduction) に続いての私の「お勉強ノート」です。


Todd Rose (2017)
Penguin Books

Chapter 1

The Invention of the Average


 「平均的な脳」はない?

2002年にUC Santa Barbaraの神経科学者Michael Millerは言語記憶 (verbal memory) に関してfMRIを使った研究を行いました。ミラーは被検者の脳を丁寧に調べ、他の科学者がやるのと全く同じようにすべての画像を重ね合わせて言語記憶に関する平均的なfMRI画像を作りました。しかし彼は、他の科学者があまりやらないことを行いました。その平均的な画像を一人一人の画像と比べてみたのです。するとそれらは平均画像とはおよそ異なっていました。実際すべての画像はそれぞれが異なったものでした。

J Cogn Neurosci. 2002 Nov 15;14(8):1200-14.
Extensive individual differences in brain activations associated with episodic retrieval are reliable over time.
DOI: 10.1162/089892902760807203

ミラーは困惑します。なぜならば神経科学は、何らかの形で平均的な脳 (the Average Brain) というものがあると仮定しており、大抵の人の脳はその平均的なのに近いと想定しているからです。少なくともいくつかの脳は平均的な脳に近いはずです。しかし彼のデータは、すべての画像が平均的な画像とはかなり異なっていることを示していました。

ミラーは著者のローズにこう語ります。

「これで確信したのは、私たちが観察していた個々人のパターンは、ランダムノイズではなく、それぞれの個人が課題を遂行したやり方についてのなにか体系的なものだということだ。それぞれの人の記憶システムは、独特の神経パターンで構成されているということだ」
 “That convinced me that the individual patterns we were seeing was not random noise but something systematic about the way each individual performed the task, that each person’s memory system consisted of a unique neural pattern,”
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.287-288). Penguin Books Ltd. Kindle

しかし困惑するのは神経科学のミラーだけではないと本書の著者であるローズは考えています。

人間について研究するすべての学問分野は、長い間、同じ中核的な研究方法に依拠している。人間の集団を実験条件に置き、その条件への平均的反応を確定し、その平均を使ってあらゆる人々に関する一般的な結論を定式化する研究方法である。
Every discipline that studies human beings has long relied on the same core method of research: put a group of people into some experimental condition, determine their average response to the condition, then use this average to formulate a general conclusion about all people.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle
の位置No.304-307). Penguin Books Ltd. Kindle

このように、序論での20世紀中頃の二つの例に加えて、現代の科学での例を出して、平均を計算上産出することはできても、その平均を具現化している実例は必ずしも実在しないという論点をさらに明確にした後、ミラーは、私たちが平均を重視するようになった要因を作った二名の人物についてこの章で解説します。


 アドルフ・ケトレー(「平均こそは真の姿」)

一人目の重要人物はベルギー人のアドルフ・ケトレー (Adolphe Quetlet, 1796-1874) です。
彼は現在でも使われているBMI指数を考案した人でもありますが、彼は数学の学位を得たのち、社会科学におけるニュートンになろうと「社会物理学」(social physics) の構築を試みます。彼の方法の一つは平均の利用でした。天文学では観測データがなかなか一定しないことから、同じ観測を何度も繰り返しそのデータを合計して平均することによって、最も確からしいデータを得るという方法が使われていました。彼はこの「平均の方法」 (method of averages) を人間に適用することを思いつきました。

たただここで重要なことは、天文学の場合には同じ対象(たとえば土星)に対する観測を繰り返してそのデータを平均するのに対して、ケトレーが考えた社会物理学においては一人の人を何度も観測するのではなく多くの人を観測して平均を求めることです(たとえば、一人の身長を何度も測って平均を出すのではなく、1000人の身長を測って平均を出す)。この点の重要性については第3章で述べますので、今は詳しくは述べません。しかし大切なのはケトレーが平均という計算方法を見出したなどというのではなくて、ケトレーが平均が意味 (mean) することを定式化し、それがその後の社会科学の常識となってしまったということです。

ケトレーが定式化した平均の意味とは、たとえば人でいうなら、平均的な人とは真なる人間を表象している (the average person represented the true human being) のであり、平均的な人とは異なる個々人は誤差 (error) であるというものです。

今日、私たちは後に述べるゴルトンの影響で、平均を凡庸 (mediocre) とみなしていますが、ケトレーは平均人 はそれ自体が完璧である (the Average Man was perfection itself) という考え方を提示しました。

この考え方は多少形を変えた上で現在も残っています。

今日私たちは平均的な人間が完璧だとは考えないが、それでも平均的な人は、集団の典型的な代表、つまりは類型であるとは思っている。人間の心には、人々について考えるやり方を簡略化し、なにかの集団たとえば「弁護士」「ホームレス」「メキシコ人」のすべての成員はある共通の特徴をもちその特徴にしたがって行動すると想像してしまう強い傾向がある。ケトレーの研究は、この衝動に科学的正当性を与え、それが休息に社会科学の要石となってしまった。
Though today we don’t think an average person is perfection, we do presume that an average person is a prototypical representative of a group—a type. There is a powerful tendency in the human mind to simplify the way we think about people by imagining that all members of a group—such as “lawyers,” “the homeless,” or “Mexicans”—act according to a set of shared characteristics, and Quetelet’s research endowed this impulse with a scientific justification that quickly became a cornerstone of the social sciences.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.403-406). Penguin Books Ltd. Kindle

序論についてまとめた前の記事でも書きましたが、ここでも私なりに補足します。私たちは「平均」を重用し、それに特別な意味付けをしているようです。考えてみれば平均は代表値の一つに過ぎず、代表値にはその他にも中央値や最頻値もありますし、そもそも一つの代表値で考えるべきか、複数の(代表)値の配列状況つまりは行列で考えるべきかについては検討が必要なはずですが、私たちはすぐに平均値でもって事を済ませようとします。また、複数の異なる項目の値を合算して合計点を出し、それを決定的なデータと考えたりしますが、それも個々の項目の値の違いを一種、平均化して消去させるものだということも前に述べたとおりです。私たちは平均の考え方についてあまりにも無批判的なのかもしれません。

このように、同一対象への複数の観察結果を平均するという自然科学(天文学)の方法を、異なる対象への観察結果を平均するという形に変えて人間科学(社会物理学)に適用し、「平均」に特別な意味合いを与えたケトレーですが、彼の「平均」の考え方は、ゴルトンに継承され、そして変形されます。


 ゴルトン(「平均からの差で階層が定まる」)

フランシス・ゴルトン (1822-1911) は、イギリスの裕福な銀行家で生まれ、上層階級の優秀さという考えに取り憑かれていたようです。

彼はケトレーとまったく異なり、平均とは、凡庸さ、粗雑さ、平凡さ (mediocre, crude, and undistinguished) を示すものだと考えました。彼は平均的な人間を「凡庸」 (the Mediocre)、平均よりもはるかに高い値を示す人間を「高位」 (the Eminent) 、低い値を示す人間を「痴愚」 (the Imbecile)[差別語]と呼び、それらの人間はそれぞれの階級 (rank) をなしていると考えました。

簡単に言うなら、ゴルトンはケトレーの考え方のうち、「集団の平均的な成員は集団の類型を表している」という考え方は継承しつつ、「個人の平均からの偏差(違い)は誤差を表す」という考え方は拒絶したかったのだ。この明らかな矛盾をゴルトンはどうやって解決したのだろう。彼は道徳的・数学的な柔術を使った。彼は「誤差」を「階級」と再定義した。
Put simply, Galton wanted to preserve Quetelet’s idea that the average member of a group represented that group’s type, but reject Quetelet’s idea that an individual’s deviation from average represented error. How did he resolve this apparent paradox? Through an act of moral and mathematical jujitsu: he redefined “error” as “rank.”
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.467-472). Penguin Books Ltd. Kindle

こうしてみるとゴルトンはかなり偏った人間だったように思えますが、相関 (correlation) は彼がさまざまな特性と階級との関係を立証するために考案した方法です。彼は統計学者としては優秀でした。

ゴルトンは「平均からの偏差の法則」 (the law of deviation from the average) ―訳語はこれで適切なのかどうかわかりません。どなたかご教示をお願いします を彼の統計学の基礎としました。ある個人について重要なことは、その人が平均と比べてどれだけ良いか・悪いかというものです。(All of his statistical inventions were predicated on what Galton called the “law of deviation from the average”: the idea that what mattered most about an individual was how much better or worse they were than the average.) (Kindle の位置No.488-489).


 平均の時代

まとめてみますと、ケトレーの類型に関する考え方は1840年代にヨーロッパを席巻しました。ゴルトンの階級の考え方は1890年代に広がりました。そして1900年代初頭には、ゴルトンの考えであった「人々というものは能力によって低い者から高い者へと集団的に区分できる」という考え方がほとんどすべての社会科学・行動科学に浸透しました。

ここで私なりに補っておきますと、このケトレー-ゴルトンの考え方は、一次元つまり一本の数直線で人々を分類する考え方です。私はこのような考え方を「一元的客観性」や「数直線的客観性」と呼びますす。

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この種の考え方はあまりにも浸透しているので、これについて疑問を覚えない方も多くいるかもしれません。しかし一本の数直線で一元的に人間を評価する代わりに、多元的に評価することを考えてみてはどうでしょうか。一元的・数直線的な人間評価でしたら、「ああ、あの人は(偏差値が高い)○○大学出身だから大丈夫」といったものがあります。その数値(偏差値)だけで、その人に関するほとんどすべてがわかるといった含意さえもっているこのことばを日常生活で聞いたことがある人もめずらしくないと思います。これに対して人間を、たとえば、優しさ・我慢強さ・思慮深さ・行動力・記憶力・論理的推論力・言語的表現力・身体的表現力・社交性・創造性・・・・などのさまざまな観点から多元的に評価するなら、Aランク、Bランク・・・といったように単純な人間の分け方にはけっして同意できないでしょう。

たまたま昨日見た新聞記事に、中学校の道徳の教科書の検定に合格した8社の教科書のうち5社の教科書で、「思いやり」や「愛国心」などの項目について、生徒が自分自身を数値や記号を使って自己評価する欄を設けているということが報じられていました。(朝日新聞2018328日)。その記事によりますと、文科省はこの内容について否定的で「対話や授業の様子から見取るのが基本であり、教員が評価の参考にすることは想定していない」とのことですが、恐ろしいのは、多くの教科書会社が、自主的に、道徳性(あるいはその下位項目とされる「思いやり」や「愛国心」)といった多元的に評価されるべき理念を、5,4,3,2,1A,B,Cといった一次元の値(順序尺度)に収束しようとしていることです。教科書会社が「この方が売れる」と考えたのか、教科書を執筆した教育学者が「この方が生徒のためになる」と考えたのかわかりませんが、私からすれば恐ろしいことです。ケトレーとゴルトンの考え方が、本当に浸透している証拠と考えるべきでしょうか。

話を本のまとめに戻します。著者のRoseは、ケトレーのゴルトンの考えに導かれてできた「平均の時代」についてまとめます。

平均の時代―1840年代のケトレーによる社会物理学の発明から現在にいたる文化的時代区分は、社会のほとんどすべての者に無意識のうちに共有されている二つの前提によって特徴づけられる。ケトレーの平均人の考えとゴルトンの階級の考えである。私たちはケトレーのように、平均は正常性を示す信頼できる指標であると考えるようになった。それは特に心身の健康状態や性格や経済状況において顕著だ。私たちはまた、人がなすことの狭い範囲を測定することで決められた階級で人の才能は判断できるとも考えるようになった。これら二つの考えが、世界中で現在、教育システム、多くの雇用慣習、従業員業績評価を構成する原則となっている。
The Age of Average—a cultural era stretching from Quetelet’s invention of social physics in the 1840s until today—can be characterized by two assumptions unconsciously shared by almost every member of society: Quetelet’s idea of the average man and Galton’s idea of rank. We have all come to believe, like Quetelet, that the average is a reliable index of normality, particularly when it comes to physical health, mental health, personality, and economic status. We have also come to believe that an individual’s rank on narrow metrics of achievement can be used to judge their talent. These two ideas serve as the organizing principles behind our current system of education, the vast majority of hiring practices, and most employee performance evaluation systems worldwide.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle
の位置No.495-501). Penguin Books Ltd. Kindle .

つまりケトレーとゴルトンによって、「特定個人を理解できるのは、その人が属する集団との関係によってのみであり、それゆえ、新しい社会科学の観点からするならば、個人というものはほとんどまったく無関係なもの」 (any particular person could only be understood by comparison to the group, and therefore, from the perspective of the new social sciences, the individual was almost entirely irrelevant) (Kindle の位置No.509-511) という考えが広まったわけです。

もちろんこの考えに批判的な人もいました。たとえば1864年のエッセイでイギリスの詩人 William Cyples は、平均を巧みに使いこなすばかりの科学者や官僚を「平均主義者」 (averagarians) と呼んで批判しました。

しかし、個人を類型と階級に当てはめることで理解できるという考え方は現在も強く残っていることは何度も言うとおりです。著者は言います。

類型にあてはめることと階級にあてはめることは、まったく基本的で自然で正しいことのように思われるようになったので、私たちはもはや、そのような判断は常に判断される個人の個性を消去してしまっているという事実を意識しなくなった。ケトレーから一世紀半たった今、まさに19世紀の詩人や医者が恐れたように、私たちは皆、平均主義者となってしまったのだ。
Typing and ranking have come to seem so elementary, natural, and right that we are no longer conscious of the fact that every such judgment always erases the individuality of the person being judged. A century and a half after Quetelet—exactly as the poets and physicians of the nineteenth century feared—we have all become averagarians.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle
の位置No.541-543). Penguin Books Ltd. Kindle.

現代日本の私たちも「平均主義者」になってしまったことは、上の道徳教科書のエピソードだけでなく、これまた昨日私がたまたま読んだ内田樹先生のエッセイから読み取れます。

内田先生は、国語教育の重要な目的は、生徒が自分の「ヴォイス」(その人固有の「声」)を見つけることであると考え、次のように講演を締めくくっています。

そして、「ヴォイスの発見」は、査定したり、点数をつけたり、他人と比較して優劣を論じたりするような営みではありません。そんなことをすれば、むしろ深く傷つけられてしまう。これは、今の学校教育システムが成績査定と縁を切らない限りはどうしようもないのですが。でも、成績をつけることはとりあえず国語教育にとっては有害無益なことだと僕は思っています。仕方ないとはおもいますが、国語についてだけは、本当は成績をつけてほしくない。どうして子どもたちの知性や、想像力や、自分自身の限界を超えようという自己超越の努力に点数をつける必要があるんですか。そんなものは点数化して語るべきことではないんです。彼ら一人一人の問題なんですから。
http://blog.tatsuru.com/2018/03/28_1751.php

もし国語教育の目的が、学習者一人ひとりが自分の「ヴォイス」を見い出すことなのでしたら、確かに、学習者が平均からどれだけ離れているかといった集団との関係でで評定することなど有害無益でしょう。それぞれの学習者が一人ひとりで見出そうとしている、を「類型」や「階級」に入れてしまうことで、彼・彼女らが一人ひとりで見出そうとしている、他ならぬ自分に適した、声、語り方、ことばの選び方、ことばの組み合わせ方、論の進め方、記述対象との距離のとり方、相手との関わり方、言いよどみ方、などなどの細やかな側面を乱暴に切り捨ててしまうからです。

と、このような話をしますと、口を尖らせながら「そうは言っても、学校教育に評価は必要ではないですか」と反論、というより思考拒否の意を示してくる人がいますが、私が問いたいのは、「どのような場面で、なぜ、学校教育に評価正確に言うなら評定 (rating) や測定 (measurement) ―が必要なのですか?それを明らかにしたら、その他の不要でおそらくは有害無益な評定や測定を廃止しませんか?」ということです。

この本のまとめをこれからも続けることで、学校教育における評価(評定・測定)についても考え続けたいと思います。


追記
このまとめ記事は、翻訳書を参照する前に書いたものです。










 








Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)




Todd Rose (2017) The End of Average: How to Succeed in a World that Values Sameness. Penguin Booksは、平均(およびそれに準ずる数値)で人間を捉えようとする1840年代以降の知的枠組を根源的に批判した本です。著者は、Harvard Graduate School of Educationのthe Mind, Brain, & Education ProgramのdirectorであるTodd Rose氏です。





ここではいつものように私の理解を整理するための「お勉強ノート」を公開します。翻訳をした箇所には電子書籍の位置番号情報をつけましたたが、その他の箇所についてはそれを割愛しています。私の付随的な考えを挿入したところは、そのことが明らかになるように書いているつもりですが、それでも本書のまとめの中に私個人の考えが入ってしまっているところもあると思いますので、この本に興味をもった方は必ずご自身で原著をお読みください。

以下、章ごとにまとめの記事を作る予定です。本書は3部・9章で構成されていますが、できれば最初の2部6章まではまとめの記事を作りたいと思っています。

それではまずはIntroductionです。



Introduction


■ 「平均」は実在しないことを示す二つのエピソード

この本は二つの興味深いエピソードから始まります。

一つは1940年代のアメリカ空軍についてのエピソードです。その頃アメリカ空軍は、ジェット機を導入し始めたのですが、事故が相次ぎました。やがて空軍は、その原因は操縦席の設計にあるのではないかという仮説を検討し始めました。ジェット機の操縦は、それまでのプロペラ機の操縦に比べて非常に敏感ですから、操縦席の大きさなどのちょっとした違いがパイロットのパフォーマンスに影響を与えると考えられるからです。ジェット機の操縦席は1926年に調査した数百名のパイロットの身体のサイズの平均値に基づいて作られたものでした。ですが改めて、実際に空軍パイロット4063名以上の身長・胸囲・袖丈など、操縦にとってもっとも関連があると思われる10項目のサイズについて調査をしたところ意外なことがわかりました。

10項目でのサイズの中位30%以内に入ったパイロットを「平均的パイロット」(average pilot) として定義しても、10項目のうちの3項目でも「平均的パイロット」パイロットは全体の3.5%しかいませんでした。10項目すべてにおいて平均グループに入っていたパイロットは皆無でした。「平均的パイロット」は空軍に一人もいなかったわけです。操縦席は平均的なパイロットに合わせて作られましたが、それはどのパイロットにも合わない操縦席だったのです。

この調査から空軍は個々人に合わせた操縦席を作ることにしました。もちろんすべての操縦席をオーダーメイドで作ることはさすがに非現実的ですが、個々人に合わせた操縦席は、現在の車にもあるように、座席を前後させたり傾斜させたり、ハンドルの一を上下前後に調整したりといったさまざまな小さな工夫によって達成され、その結果、ジェット機による事故の確率もプロペラ機での確率程度に下げることができました。

もう一つのエピソードです。1945年にクリーブランドで、女性のさまざまなサイズの平均値を基にした女性の彫刻像が作られました。彫刻は「規範」 (Norma) と名付けられ、多くの人はその女性の姿こそが素晴らしい基準 (excellent standard) であり、若い女性はこのような外見を有するべきだ、これこそが理想の女性 (Ideal Girl) だと称賛しました。そしてこの女性像そっくりの女性を選ぶコンテストが行われました。しかしながら9の項目のサイズに基づいて作られたこの女性像にそっくりの女性は3864人の応募者の中に一人もいませんでした。9のうち5つの項目でこの女性像に合致している女性でさえも、40名しかいませんでした。

私たちは個々人 (individuals) を見る代わりに、平均 (the average) を前提としてものを考えてしまう癖をつけてしまっています。しかし、これら二つのエピソードは、平均的な人など実はいないことを示しています。私なりに例を補ってみますと、たとえば「世帯平均人数は2.47人」と言われても、そんな世帯はどこにも存在しませんから、このことは自明であるようにも思えます。しかし、平均を使用して人間について考えることは現在、社会の隅々にまで浸透しています。

しかし、個々人を測定するための基準として平均を使うという考え方は私たちの心に深く刻まれているので、私たちはその考え方について問い直すことをほとんどしない。時折、平均について文句を言うことはあっても、平均は人間に関する何らかの客観的実在を表しているのと思い込んでいる。
Yet the concept of average as a yardstick for measuring individuals has been so thoroughly ingrained in our minds that we rarely question it seriously. Despite our occasional discomfort with the average, we accept that it represents some kind of objective reality about people.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.165-167). Penguin Books Ltd. Kindle

そういった私たちの思い込みに対して、この本は「平均的な人などいない」 (no one is average) ということを説いてゆきます。

もちろん平均の考え方が全く役に立たないというわけではありません。平均の考え方は集団 (group) を対象にした場合は有効です。例えばアメリカ空軍のパイロットと日本の航空自衛隊のパイロットを比べたならば、どちらの平均身長の方が高いかといった問いは出せるでしょうし、その答えに間違いはありません。しかし私達が集団ではなく個人を考える場合には、平均という考え方はかえって邪魔になります。このアメリカパイロットのパフォーマンスを上げるにはどうしたらいいのか、この生徒に教えるにはどうしたらいいか、この応募者を採用すべきか、といった場合には、その人たちの個人的な特徴・個性を見なければなりません

個人についての決定をしなければならない場合になれば、それがいかなる場合であれ、平均は役に立たなくなる。いや、実際のところは、役に立たないというより有害であるというべきであろう。なぜなら平均を知ることによって、私たちはその個人について何らかのことを知っているという幻想を抱いてしまうからである。しかし実際には、平均によってその個人について非常に重要なことがわからなくなってしまう。
the moment you need to make a decision about any individual—the average is useless. Worse than useless, in fact, because it creates the illusion of knowledge, when in fact the average disguises what is most important about an individual.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.174-179). Penguin Books Ltd. Kindle


■ 大学入試の例で考える


ここで上の論点の重要性を示すため、架空の例を私なりに補ってみます。

たとえば、ある高校生がある大学のある学部のある講座に入学することを希望しているとしましょう(後の説明をわかりやすくするために、英語関係の講座ということにしておきます)。そういう場合、私たちがやるべきことは、その高校生が、どのような学びを大学に期待しているのか、どのような将来設計をもっているか、どのような知識をもっているか、どのような思考力をもっているか、どのような表現力をもっているか、どのような興味・関心をもっているか、そしてそういった特性は、編入希望の講座で活きるだろうか、といったことについて、書類や面接やテストなどのさまざまな方法で、詳しく具体的に検討することです。

しかし私たちはしばしば「センター試験と二次試験の合計点は何点ですか?それは学部・講座の平均点よりどのくらい上あるいは下ですか」といった平均の考え方に基づく一つの数値だけで、その高校生についてかなりのことが分かると思いこんでしまいます。

今、私は合計点を「平均の考え方に基づく一つの数値」といいましたが、それは、さまざまな項目の得点を足した合計点とは、さまざまな項目における点数の違いをいわば平均化した値であるからです。

センター試験と二次試験の合計点だけで合否を判断をしたがる人は、高校生が、センターの英語では何点取っていたか、二次試験の英語では何点だったか、センターと二次試験のそれぞれでの英語の長文問題の点数は何点だったか、一方、センターの国語や数学では何点だったのか、といったことすら考慮していません。とにかく合計点・平均点だけしか見ようとしません。

ここには「合計点・平均点こそは、もっとも有用なデータ」という前提・思い込みがあると考えられます。合計点・平均点こそは、もっとも妥当性が高く、公正なデータと思っている人は少なくないのではないでしょうか。

もちろん、受験生が多いのでじっくり検討する時間がないという現実的な理由もあります。しかし現在のコンピュータ技術からすれば、たとえば次のような選抜方法も不可能ではないはずです。(私は大学に勤めていますので、入試に関する内部事情をある程度は知っていますが、その知識はここでは使わずに、常識的な推論をします)。

(1) センター試験と二次試験の点数において、まず次の五つの条件をすべて充たしている受験者だけを選び出せ。
(1a) センターの英語(筆記)が○○点以上、
(1b)   センターの英語(リスニング)が□□点以上、
(1c)    二次試験の英語の第一問が△△点以上、
(1d) 二次試験の英語の第五番が◇◇点以上、
(1e) センターの国語が▽▽点以上。

(2) これらの条件をすべて充たしている者を、センター試験と二次試験のの合計点の順番で並べて、その上位X名を合格とせよ。

このやり方でしたら、(1a)以下の条件の項目設定と点数設定を工夫することによって、講座が求める受験生の個性を多少は見ることができます。年々、入学者の様子を観察し、工夫を重ねれば、講座が求める受験生を受け入れられる確率も上がってくるでしょう。

もちろんこのやり方でも、たとえばAO入試ほどには丁寧に受験生一人ひとりの個性を見ることはできません。しかし、それでも多少は、受験生の個人的特徴を尊重することができるでしょう。

しかしもし多くの人が、そんな選抜方法をわざわざ行う理由はないと考えているなら、そこには「平均は有用だ」、「合計点(各項目得点の平均化)は、各項目の得点分布状況よりも妥当なデータだ」、「平均・合計以上の、個人的特徴などをわざわざ調べる必要まではない」といった想定が根強くあるとは考えられませんでしょうか。

この本はそんな想定に挑戦します。

この本を読めば、平均的ボディサイズ、平均的才能、平均的知性、平均的性格といったものなどないということがわかるだろう。平均的な生徒も平均的な労働者も平均的な脳もない。こういった考え方に私たちは馴染んでいるが、これらはどれも科学的想像が誤って適用されてできた絵空事に過ぎない。
In this book, you will learn that just as there is no such thing as average body size, there is no such thing as average talent, average intelligence, or average character. Nor are there average students or average employees—or average brains, for that matter. Every one of these familiar notions is a figment of a misguided scientific imagination.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.179-182). Penguin Books Ltd. Kindle

続く記事で私もこの本の章をまとめることにより、「個性は重要」 (individuality matters) というこの本の主張について考えてゆきたいと思います。







追記

今、ネットを検索しましたらこの本にはすでに翻訳書が出ていることがわかりました。今後参照したいと思います。(翻訳書が皆さんの手に入りますので、今後のお勉強ノートは一般的なまとめを少なくし、私なりに考えさせられた点を中心に作成してゆこうと思っています)。