2009年12月31日木曜日

2009年お勧めの本

2009年度も大修館書店『英語教育増刊号』に「年間書評: 厳選12冊」を書かせていただきました。以下の本は、そこで取り上げながらこのブログでは紹介しておらず、紹介しないままに2009年を終えたくない本です。本の基本情報と上述書評の私の一部を掲載し、紹介に代えさせていただきます。詳しくは『英語教育増刊号』をお読み下さい。


■ 松村昌紀『英語教育を知る58の鍵』大修館書店

英語教育を考えるための、基礎的な知識と観点に関する最新の知見が、わかりやすく、幅広く学べ、しかも低価格という良書。・・・学部生・大学院生から現役教師まで、この本で示された知見によって、英語教育実践をこれまでよりも多角的に、より細かく、より深く理解することができる。



■ 江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか』研究社

学術性と読みやすさを両立させ、かつユーモアにあふれた文章を書くことは、困難だが可能である。江川氏のこの本は、鋭敏な理論的問題意識に基づき、歴史的証拠を具体的に示しながら、日本人が英語をどのように学び、さらには近代日本の社会文化をどう形成したかを明らかにする。


■ 大塚謙二『成功する英語授業! 50の活動&お助けプリント』明治図書

本書は、中学英語教師にとって、かけがえのない実践の枠組み、そして実際的な支援の道具となるだろう。著者の大塚氏は、北海道で公立中学教師となるも、「最初の10年間は、困難校で苦労し、毎朝新聞の転職欄をながめる日々」だったという。



■ 瀧沢広人『生徒をひきつける授業の入り方・アイデア事典 』明治図書

新人教師が授業に悩む時、私は瀧沢氏の著作を薦めることが多い。瀧沢氏の著作は豊富な具体例を提示して、かつそれらの事例を通して読者に考えさせる。



■ 金谷憲(編著)『教科書だけで大学入試は突破できる』大修館書店

本書は「入試を気分的にのみとらえるのではなく、ちゃんと分析して、冷静に対策を立てるようにしよう」、「入試を言い訳に使うのはよそう」と訴える。そうして大学入試を文法、語彙、分量の観点からできるだけ客観的に分析しようとする。



■ 大井恭子編著、田畑光義・松井孝志著『パラグラフ・ライティング指導入門』大修館書店

この本は、パラグラフ・ライティングの指導が中学校一年生から始まることを具体的に示し、中学校・高校の各段階、諸側面におけるライティング指導例を明確にそして丁寧に提示している。さらに指導以前に必要となる教師自身のパラグラフ・ライティング理解を深めるために、ライティングの理論を極めて明解に説明している。




2010年も英語教育で良書が生まれますように。





【広告】 吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 ひつじ書房、買ってね (笑)






さようなら2009年 ―年末年始の御挨拶に代えて―

[読み返すと稚拙極まりない駄文ですが、私は愚か者で確実に失敗を自覚しないと前に進めませんのでここに敢えて駄文を掲載します。]




例えばAとBが関わるということは、AとBのそれぞれに反応が生じるということであり、その影響は例えばAが物理的に消えた後もBに残る。(関係性は特定の物理的基盤に依存しない)

Bが新たにCと関わるとき、CにはBからの反応が生じるが、それはその場にいないAからの影響を含むものである。

この論によるなら、AだけでなくBも消えたとしても、CがDと関わるときに、DにはCだけでなくAとBの影響が残っているということになる。

この論を延長するなら、Zには、もはや痕跡すら定かでないA,B,C・・・の影響が残っていることになる。それはもはや直接の反応ではないが、間接的な余波、あるいは余波の余波であることは間違いない。

今アルファベットで表現している個体は、人間だけでなく物も含む。また、Zまでの26文字は無限の個体を表現するぎこちない記号群である。つまりここでのアルファベットは、世界に存在するすべてのもの (者・物) を表現している。

すべては連なっている。(関係性は特定の物理的基盤に依存しない)


***


この世界に存在するもの (者・物) が何かと関わるとき、それは世界のこれまですべての反応の到達点であり、世界のこれからすべての反応の出発点である。「今・ここ」における。

世界は「今・ここ」において終結し、新生する。

世界とは ―世界のすべてとは― 「今・ここ」における終結と創造の時間的・空間的な総体である。

あなたもこの瞬間、あなたの行為により一つの世界を終結させ、一つの世界を創造している。 (人生とは「この瞬間」の連なりにすぎない)

私たち一人一人は、一瞬一瞬において世界の再生に責任を負っている。


私たちは常に世界のこれまですべてを引き受けている。
私たちは常に世界のこれからすべてを担っている。

「今・ここ」において


***


あなたが被った哀しみは、過去の誰かの哀しみの余波から引き起こされた哀しみかもしれない。
願わくば被った哀しみを、あなたが少しでも喜びの流れに変えることができますように。
変えられないならそれを細切れにして私たちに引き渡し、私たちがそれらを喜びに変えられますように。

あなたが感じた喜びは、過去の誰かの喜びの余波によって引き起こされた喜びかもしれない。
願わくば感じた喜びを、あなたが少しでも大きな喜びの流れに育てることができますように。
育てられた喜びを私たちにも分け与え、私たちがそれをさらに豊かに広げられますように。


一瞬一瞬の行為において、私たちが世界に連なる実感、世界という生命を感じられますように。
(これが「常に神を思え」ということなのだろうか)

生命とは個体を超えていることを実感できますように。
(これが「永遠の命」の意味することなのだろうか)



さようなら2009年




2010年が皆さんにとってよい年でありますように





2009年12月24日木曜日

メリー・クリスマス 2009

[人が文章を書くのは他人と世界に向けてであると同時に自分に向けてであり、自分に向けてであると同時に他人と世界に向けてである。

言葉は他人と世界のものであると同時に自分のものであり、自分のものであると同時に他人と世界のものである。

人は自らについて語らずに他人と世界について語ることはできず、他人と世界について語らずに自分について語ることはできない。

自分と他人と世界は不即不離であるが、一心同体ではない。だからあなたの言葉が他者に理解されずとも、あるいは他者の言葉があなたに理解できずとも、悲しむことはない。あなたと他者は、理解しようとしても理解できない言葉で既に結びつけられているのだから。]



********************


精神科医の斎藤環は2009年12月20日の毎日新聞のエッセイ「時代の風」で、「40代なかばを過ぎた『ひきこもり第1世代』の人々だけでも「少なく見積もっても10万人以上は存在する」としている。NHKは、「ひきこもり状態にある人は全国に50~100万人」「ひきこもりの子を持つ家庭は、控えめにみても、全国で約41万世帯」という推定を報告している。


平成21年度厚生労働白書は、独り者の世帯、つまり「単独世帯」は1980年に19.8%であったが2005年には29.5%に上昇し、2030年には37.4%になるとも推定している。そんなに遠い未来ではなくとも、2010年には単独世帯が家族類型 (夫婦のみ・夫婦と子・ひとり親と子・単独・その他) の中で最大の割合を占めるものになると推定されている。「家」の代表例は単独世帯となるのだ。


国立社会保障・人口問題研究所は「少子化情報ホームページ」で少子化要因として晩婚化・未婚化・結婚後の出生ペースの低下をあげ、次のように述べる。



結婚のし方や結婚後の子どもの生み方が変わったのは、社会・経済の変化全体が関係しています。経済変化による働き方や消費生活の変化、男女、家族など社会関係や価値観の変化・多様化、さらにそうした変化と従来の慣行、制度との齟齬(そご)が指摘されています。そして、このような出生率の低下は、おおむね先進国に共通した現象です。社会経済の変化にともなって、もし人々の間に結婚や出産を望んでいるのに、しにくい事情が生じているとすれば、これを取り除く必要があります。


望んでいる結婚や出産をしにくい状況を取り除く必要があると同研究所は述べる。だが結婚や出産を積極的に望まない・回避したい人々は増えているようにも思える。同研究所の「未婚化の進行」は、20歳代から30歳代の未婚化および生涯未婚率の増大傾向を伝える。


晩婚化の理由」としては、「独身生活の方が自由である」が男性の第1位・女性の第2位、「仕事をもつ女性が増えて、女性の経済力が向上した」が女性の第1位・男性の第3位、「結婚しないことに対する世間のこだわりが少なくなった」が男性の第2位・女性の第3位としてあげられている。


左様、私たちの社会はかつてないほどの自由と経済力を得た。世間のこだわりからもずいぶん解放された。しかしその自由と経済力は万人が満喫しているものではない。

上述の厚生労働白書によれば、非正規労働者の全雇用者(役員除く)に占める割合を見ると、1985(昭和60)年には16.4%であったが、1990年代後半から2000年代前半にかけて大きく上昇し、2003(平成15)年以来3割を超えて推移しており、2008年には34.1%まで上昇した。言うまでもなく非正規労働者の経済力は十分ではない。彼/彼女らのもつ「自由」は、むしろ簡単に解雇される自由である。

「世間のこだわりが少なくなった」にしても、それは「誰も他人のことをかまわなくなった」とも言い換えられるかもしれない。


近代社会が得た自由・経済力・解放とは何だったのだろう。一面的な解釈は控えなければならないが、1998年以来3万人を突破したままの自殺者数と、世界的に見ても極めて高い水準にある自殺率は、「自由・経済力・解放」に楽観的なだけのイメージをかつてのようには与えない。




***



一体なぜこうなったのだろう。


私たちはどこから来て、どこに向かおうとしているのか。私たち、つまり現代社会とは何なのか。



ウェブという無責任な媒体であることに甘えて、粗雑な論を展開しよう。以下の記述には、ネット上の安直な記述が多々そうであるようにウィキペディアの参照に基づく記述が少なくない。(だが誤解しないでほしい。私はウィキペディアの精神を信じている。その自己弁明的証拠として先ほど少額のお金を偽善的にウィキペディアに寄付した)。


Wikipedia Affiliate Button



***



狩猟採集社会の人間は自然の一部だった。生存に必要な量だけ自然の剰余物を狩猟・採取し暮らしていた。狩猟採取社会の人間はそれなりに余暇も持っていたという。

やがて農業革命が起こった。人間は自然を利用することを覚え始めた。種子・苗・球根などを人工的かつ組織的に植え、計画的な食物生産・貯蔵が可能になった。「文明」が芽生え始めた。

時代は大きく下って18世紀から19世紀に欧州で、工場制機械工業の導入による産業構造と社会構造の変革が生じた。産業革命・工業革命である。産業革命・工業革命は人間の生産力を飛躍的に高めたが、同時にこれは収奪・搾取をも蔓延させた。

収奪・搾取の一例は、産業革命・工業革命により加速した植民地支配に見られる。植民地支配とは、植民地の人間を自分たちと同等の人間とはみなさないことに基づいている。植民地は、工業的にも商業的にも (さらには宗教的そしておそらくは人間的にも) 劣る人々の住む場所であり、被植民者は保護され支配され指導されなければならないとされた。

被植民者は「私たち」とは異なる「他者」である。「他者」との取引が、同胞の人間との取引と異なり収奪や搾取のレベルに達したとしても不思議はない。「他者」は「私たち」ではないのだから。人間は、被植民者から収奪し被植民者を搾取することを覚えた。植民地支配は「他者」から収奪し「他者」を搾取する文化を世界に広めた。

しかし、収奪と搾取は、植民地の「他者」だけに留まらなかった。産業革命・工業革命により一層進展した資本主義は、資本の増大を原理とし自己増殖した。資本を預る資本家は資本の増大のために自国の賃金労働者を「他者」とした。

資本家は、賃金労働者を「他者」と考えることによって、賃金労働者の時間、つまりは人生を収奪し搾取した。(それが正当なものであるか、収奪・搾取といった言葉に相応しい深刻なものであるかどうかは、資本主義社会において生じた貧困の度合によって判断されるべきであろう ― ひょっとしたらそれは狩猟採集社会や農耕社会では見られなかった度合かもしれない ―)

資本主義は、異国の民だけでなく、賃金労働者という自国の同胞も対象として収奪・搾取する文化と習慣を近代社会に大規模に定着させた。


しかし行きすぎた植民地支配は帝国主義の暴走に至った。第二次大戦という暴走の終了と共に植民地主義は少なくとも政治的には解決されようとし始めた。だが、植民地支配が経済的・社会的に続いていることは多くの人が主張する通りである。他国民を収奪・搾取の対象とすることは政治的レベルでは禁忌とされているものの、収奪・搾取は経済的・社会的レベルに浸透している。

また、行きすぎた資本主義は社会主義革命によって止められようとした。社会主義に対抗するために資本主義社会は自らの原理を「修正」し賃金労働者を厚遇した。だが蜜月は長く続かず、輸送・通信技術の発展で進行し、社会主義国家の自壊で決定的になったグローバル資本主義は資本主義的競争を激化させ、「新自由主義」という生き方を私たちに教えた。「修正」されたはずの資本主義はむき出しの資本主義に先祖返りした。


市場原理主義を信奉する新自由主義は、地域共同体のみならず会社共同体まで市場原理で分断しようとした。

人々のつながりは、市場で交換されうる数量的価値に還元された合理性の限りにおいて正当化されるだけになった。例えば街の小商いは大規模店舗に駆逐されるべきだと人々は信じた。

さらに、それまでの資本主義は人々に地域共同体から抜け出して資本家の仲間入りをすることは勧めたが、会社は一種の共同体であった。会社で働く人々は運命共同体として共に働いた。だが新自由主義的な価値観は、会社共同体も分断化しようとした。人は会社の中の「勝ち組」となることを迫られた。さもなければ「負け組」になり会社共同体から「リストラ」されるからである。新自由主義において、人間は同僚を収奪と搾取の対象と見る文化を教えられた。

こうして収奪と搾取が正当化される「他者」は、他国民、自国民だけでなく、近隣住人、職場の同僚も含むまでになった。


さらに、収奪と搾取の対象は人間に限らない。産業革命・工業革命の発想に基づく「農業の工業化」がもはや自然の再生力さえも損ねようとしていることは、例えばジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋) が伝えている通りである。この本はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』と同等の重要性をもつ本だと説く識者も多い。


自然からの収奪と自然の搾取の萌芽は農業革命に既にあったのかもしれない。だがその芽を育てたのは産業革命・工業革命の発想を是とし、農という営みを工業化して資本主義に組み込んだ私たちである。私たちは自然から収奪し、自然を搾取している。自然を大きく損ねる程度まで。


***

改めて問う。「私たち」とは何だろう。


狩猟採集社会において「私たち」とは自然であった。自然そのものであった。「私たち」と自然は一体だった。

農耕社会の初期にあって「私たち」とは自然と共に生きる者となった。「私たち」は自分を少しだけ自然から距離をとった。

後年、農業が工業化されるに至って、「私たち」は、自然をもっぱら自分たちとは切り離された「対象」とみた。工業的な発想で可能な限り効率よく自然から収奪し、自然を搾取することを近代的農業だと考え始めた。「私たち」は自分を自然から切り離した。


他の人間との関係でいうならば、かつて「私たち」とは他の人間との運命共同体であり、人々が寄り添って生きることは当たり前だった。

やがて植民地主義により私たちは世界規模で他国の人間を「他者」として「私たち」から切り離した。「他者」とされた人間は収奪と搾取の対象となった。「私たち」は世界的規模で異邦人を切り離した。

その「他者」が「私たち」に近づくことができるとすれば、それは「他者」が自分の生き方を否定し「私たち」の生き方に同化することによってであった。被植民地の「エリート」とされた人間の少なからずはその道を選び、やがて昔の同胞を収奪と搾取の対象として見ることを学んだ。


さらに資本主義の徹底により私たちは自国の人間までも「他者」として「私たち」から切り離した。「私たち」とは資本家あるいは資本家に寄り添う者である。それ以外の賃金労働者 (プロレタリアート) はもはや「他者」であった。「私たち」は同胞の民を切り離そうとした。

「他者」とされた賃金労働者が近代社会における「私たち」になれるチャンスはしばしば近代的学校制度に求められた。近代的学校制度は、近代合理主義を教え、工業生産・資本主義・他者の支配を子どもに学ばせた。その学習に成功した者は「出世」し近代社会の中枢に陣取った。


新自由主義による資本主義の暴走により、私たちは同じ地域の住人や職場の同僚までも「他者」として「私たち」から切り離そうとした。

もはや「私たち」などいないのかもしれない。存在するのは ― 確かに存在するのは ― デカルトが想定したように外界から隔絶された「私」だけなのかもしれない。

デカルトはやはり近代の父であった。



***


「私」は解放された。自由になった。なぜならば切り離したからだ。

「私」は近代社会の枠組みにおいて支配する。収奪する。搾取する。

― 自然を、他国民を、自国民を、同僚を、隣人を ―

だがそんな近代社会は歪んでいないのだろうか。



「私」は ―近代社会の成功者である限りであるが― 人類史上に例のない自由と経済力を持つ。解放感を味わう。そうしてその自由と経済力、解放感を少しでも失うことを怖れる。例えば結婚をして家族関係を築くことへのためらいはその例証として解釈できないだろうか。


近代社会の頂点に立つ「私」は、自分を家族という生命のつながりからも切り離そうとしている。

「私」とは切り離された存在である。自然からも他の人々からも。
「私」とは大いなる生命の流れから切り離された存在である。
「私」は、切り離された解放感と自由、そして経済力を手放せない。

そんな「私」は近代社会を先導する。
次々に消費し、資本主義のエンジンを燃焼させることによって。

他方、近代社会の成功からこぼれ落ちた「私」にとっては (も) 、もはやこの世はあまり住み心地のよい場所ではない。一体化する自然はない。自国にも近隣にも会社にも連帯する仲間はいない。人類レベルの同胞意識など夢のまた夢である。

そんな「私」は近代社会を底で支える。
収奪され、搾取され、資本主義エンジンの燃料となることによって。



頂点の「私」も底部の「私」も幸福なのだろうか。



***




人間は失う力を失ってしまった。失うことを受け入れ、失うことを喜ぶ力を失ってしまった。



(資本主義的) 交換経済以前の贈与経済で、人間は他人に大切なものを与え (つまり失い)、そのことを大きな喜びとしていた。大切なものを与えられた他人は、それを自分で独り占めすることなく、贈与の循環を続けた。循環は直接の贈り返しかもしれないし、他の第三者への贈与かもしれない。だが第三者への贈与とて、贈与の循環の中でやがては最初の贈り主に何らかの形で返ってくることが当然とされた。当然とされたから、すぐに返ってこなくても、その人が死ぬまでに返ってこなくても問題とはされなかった。

贈与経済は現代にもある。家族の中の経済関係である。家族の支出に損得勘定はない。親は子に与える。与えることを喜びとする。何かの形で子どもがお返しをすればそれを望外の喜びとする。そしてお返しは親ではなく子 (つまりは孫) にしてほしいとも思う。家族とは計算を越えた運命共同体である。

思えばゲーリー・ベッカー (Gary Becker) が結婚を経済学的に分析した時に多くの人が感じた本能的な違和感を大切にしておくべきだった。


だが私たちは分析を道具に過ぎないものと思っていた。分析は分析、自分は自分、と思っていた。しかし道具でさえ、それを使う私たちのあり方を変える (車やコンピュータといった道具は私たちのあり方を大きく変えた)。ましてや分析という物の見方は、私たちの認識や考えを変える ― しばしば根本的に。

私たちが知識人ぶろうとして、経済学的分析に対する素朴な違和感を抑圧した時から私たちは変わってしまった。(私たちは損なわれてしまったのかもしれない。ノーベル経済学賞受賞者たちによって) 。



贈与関係は会社の中にもあるのだろう。誰の目にも触れず、誰も数量的に評価できない「一隅を照らす」営みこそが会社を支えているのだろうから。

まして社会は、資本主義的交換 (という名の収奪と搾取) を超えた贈与関係によって支えられている。「いや、誰かがやらなきゃいかんことでしょう」という言明、あるいはそのような言明以前の、当たり前に習慣化した態度 (=文化) によって。


贈与関係は無論のこと自然の中にあるだろう。人間は自然から与えられ、できるかぎりのものを自然に返す。

いや返すなどはおこがましい。人間は自然から与えられたものに感謝し、必要以上の欲を抑えて自然を損ねないように自然を畏敬することができるだけだ (それは自らの命を畏敬することでもある)。

スピノザが言うように、神とは自然のことである。


「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ記 / 1章 21節 新共同訳)

“ Naked I came from my mother’s womb,
And naked shall I return there.
The LORD gave, and the LORD has taken away;
Blessed be the name of the LORD.”
(Job 1:21 New King James Version)



***


人間が生まれたということは、自然・神からの恵みを受けたということだ。
この恵みを自ら育て、やがて他人に分け与えること。
同時に他人からの恵みを受け入れ、共に喜び合うこと。
恵みを循環させること。
― これこそが生きることであった。


だが多くの近代人は互恵ができなくなりつつある。

他人に恵みを与えることを資本主義的に損失と考える。他人から恵みを受けることを資本主義的に借財と考える。

互恵関係から離れ、損失を減らし借財をせずに、「他者」から ― 自分とは切り離された自然・人類・同胞・隣人から ― 資本主義社会的交換関係によってうまく収奪・搾取して快適な生活を作り出そうとする。「他者」から切り離された場所に自分を見出し、そこを自分一人にとって快適な場所にする。互恵関係が理解できない。共有関係も。頭でも身体でも。


私たちは進歩したのか。それとも損なわれたのか。


生きることを収支計算で考えてしまう。よく生きるとは、隔絶された「私」の空間を赤字にせず黒字にすることだ。

「私」以外の「私」とは「他者」にすぎない。
わかり合えず、つながり得ない「他者」にすぎない。
「私」の幸福は「他者」の犠牲を必要とする。「他者」の幸福は「私」の犠牲につながる。
だからできるだけ関わりをもたず、秘やかに生きよう。
― そうとしか考えられない。そうとしか生きられない。

私たちは、近代の社会の歪みの中に生まれ落ちた。私たちの多くは資本主義的上昇を人間の栄光として長時間労働をする父 (そして母) の家庭に生まれた。長時間労働で物質的な豊かさを受け取る家庭もあれば、長時間労働にもかかわらず物質的に苦しむ家庭もある。いずれの家庭においても鋭敏な子どもは家族関係の歪みに苦しみながら育った。

家庭の歪みを抑圧することができた子どもは今度は学校によって近代精神を叩き込まれた (これは学校の正当な役割なのだろうか、それとも歪みなのだろうか)。

私たちは卒業するや近代社会の論理で働かざるを得ない。新自由主義的価値観の下、私たちは賃借対照表・損益計算書以外の考え方・生き方に困難を覚え始める。あなたのプラスは私のマイナスであり、あなたのマイナスは私のプラスである。あなたと私はベクトルを180度異にし、帳簿の右と左できれいに区分けされている。


自分を孤立した「私」として考える限り、資本主義的交換関係以外で与えることは失うことであり、受け取ることは借財か窃盗である。資本主義的人間として「私」は与えることも受け取ることも極力拒む。

だが「私」が共同体的存在だとしたらどうだろう ― 共同体の生を離れて「私」の生はない。
人類的存在だとしたらどうだろう ― 人類の生を離れて「私」の生はない。
自然だとしたらどうだろう ― 自然の生を離れて「私」の生はない。

私から共同体・人類・自然に何かを与えること。
それはさらなる何かを循環させることである。

私が共同体・人類・自然から何かを受け取ること。
それはさらなる何かを循環させることである。

循環こそは命である。



***


私たちは恵まれた。生まれ、育てられたことで一方的に恵まれた。たとえそれが不十分な生まれであり、育ちであったと思えても、私たちは一方的に与えられた。恵まれた。

田口ランディがどこかで言っていたように、人間の赤ん坊とは丸一日でも放置されればたちまちに死んでしまう生き物に過ぎない。それなのに私たちが生きているということは、私たちは誰かに ―親でなくても誰かに― 一日たりとも欠かさずに世話を受けたということだ。この一方的な贈与は、たとえどんなに欠損したものであれ、私たちがこうして生きている限り、恵みではないのか。


ならば「私」も恵みを与えよう。受け取ろう。与え合い、受け取り合おう。分け合おう。

恵みに生きることこそが人間ではないのか。



***



私たちは近代的に損なわれた生しか生きていないのかもしれない。

あなたの生き方も私の生き方もそれぞれに壊れているのかもしれない。

私たちには歪んだ出会いしかできないのかもしれない。


だからこそ恵みを ― 与え合い、受け取り合い、分け合おう。

恵みこそは佳きこと。



***


近代社会の「成功者」も、「失敗者」も

奪う者も、奪われる者も


近代社会で幸せな家族も、形だけになってしまった家族も

ようやく巡り逢えた二人も、別れざるを得なかった二人も


自由な独り者も、孤独な独り者も

語る者も、沈黙する者も




メリー・クリスマス



神様は、自然は、あなたを愛しています。
本当は。本当に。



あなたは神様の一部であり自然の一部です。
あなたは受け取っています。与えています。
損なわれ、歪んだ形でかもしれませんが。
気づいていないかもしれないし、気づくことを拒んでいるかもしれませんが。

あなたは今この瞬間も受け取っています。与えています。
私たちは互いに受け取り合い、与え合っているのです。

あなたが生きているということは、損なわれた形であろうとなかろうと、恵みの中にいるということです。

信じてもらえないかもしれませんが、実は私たちは愛し合っているのです。あなたが望むような形ではないかもしれませんが。


あなたが望むような形で私があなたを愛せないにしても。
私が望むような形であなたが私を愛せないにしても。
あなたと私が会うことがなくても。
あなたと私がそれぞれにいくら愛を否定し拒もうとしても。
私たちは互いに愛し合っているのです。
― 人間であることにおいて。生きているということにおいて。

あなたが生きているという事実。
それだけであなたは愛されているのであり、私たちを愛してくれているのです。

私が生きているという事実。
それだけで私は愛されているのであり、あなたを愛しているのです。


私たちはつながっているのです。
本当は。本当に。






イエス・キリストの名を通して神と自然、そして人々の愛に感謝します。
愛が見えるものであれ、見えないものであれ。

メリー・クリスマス





















2009年12月17日木曜日

OneLook Dictionary Search

偶然にOneLook Dictionary Searchという便利な辞書サイトを見つけました。


OneLook Dictionary Search


このサイトは、General, Art, Business, Computing, Medicine, Miscellaneous, Religion, Science, Slang, Sports, Technologyなどの分野の辞書を一気に検索 (「串刺し検索」) することができます。

言語は英語以外にも、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、中国語があります。カスタマイズ機能により、どの分野の辞書を優先するか、どの言語を選択するかなどの設定が出来ます。先ほど確認しましたら合計1024の辞書が登録されていました。

一瞬で数多くの辞書にアクセスできるこの便利さは、紙辞書の時代ではまったく考えられなかったものです。これを無料に自由で使えるという時代の凄さ (そして怖ろしさ) を痛感します。 "Information wants to be free." とは言われますが、本当に情報革命はどこまで突き進むのだろう・・・


このサイトを含めた以下のサイトのブックマークをお勧めします。



英語などの総合的な辞書ならOneLook Dictionary Search
http://www.onelook.com/

代表的な英語辞書・辞典・百科事典ならDictionary.com
http://dictionary.reference.com/

英語の各種レファレンスならBartleby.com
http://www.bartleby.com/

英語ライティングの総合ガイドならTHE OWL AT PURDUE
http://owl.english.purdue.edu/owl/

Google+WIKIPEDIA+YouTube+GoogleBlogs+GoogleImagesを一気に同時検索するならkeyboardr
http://keyboardr.com/
英和・和英を総合的に調べるなら英辞郎
http://www.alc.co.jp/

英和・和英の専門辞書ならWeblio英和・和英
http://ejje.weblio.jp/
ある本に、あるキーワードがどのくらい含まれているかを探すのならHathiTrust Digital Libraryhttp://catalog.hathitrust.org/
本の検索ならGoogle Books

論文の検索ならGoogle Scholar


2009年12月16日水曜日

12/19 「慶應義塾大学 言語教育シンポジウム」が訴えてくるもの

2009/12/19 (土) に開催される



のハンドブックがウェブ公開されました。





このように資料が公開されることは、所用で参加できない私のような人間にとって本当にありがたいことです。シンポジウムを運営担当される大津由紀雄研究室および慶應義塾大学出版会、および主催のグローバルCOE プログラム「論理と感性の先端的教育研究拠点」、共催の(財)ラボ国際交流センターから慶應義塾大学言語文化研究所への委託研究 Project Language Teaching( PLT)・慶應義塾大学出版会、協賛の(財)ラボ国際交流センターの各位に心から感謝します。


ハンドブックで私の目を特にひいたのは


実践報告: 自分の声に耳を澄まそう 末岡敏明(東京学芸大学附属小金井中学校)

ワークショップ: 「母語」を耕す 森山卓郎 (京都教育大学)

ワークショップ: 日・英語の基本音韻単位が教えてくれること ― CD のボタンを押す前に ― 寺尾康(静岡県立大学)


です。これらがどれもしっかりとした学術的基盤をもっているからです。


思えばここ10年余りの「小学校英語教育騒動」の大部分は、世間迎合的で学術的根拠の薄い俗論や資本主義的競争にあまりにも無批判的な煽動に動かされてきたといえるかもしれません。

加えて「一端『お上』が決めてしまったことは仕方がない」といった長年の政治的無力感もあり、私も含めた英語教育関係者はとにかく上記の俗論や煽動への対応を、ある人は不承不承、ある人は喜々として、しかし誰もが受動的にやってきたと総括できないでしょうか。

斎藤兆史先生は、大津由紀雄 編著 (2009) 『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会の中で「日本の英語教育界に学問の良識を取り戻せ」と訴えていますが、今回のこのシンポジウムは、小学校英語教育という争点に学問の良識を取り戻す試みと理解することもできるかと思います。



学校教育というのは言うまでもなく複雑な問題です。その問題を打開するには、私も含めた風見鶏のような「英語教育学者」だけでなく、しっかりと冷静に学術的見地から教育を考える研究者が必要です。もちろん既成の学問の単なる「応用」として学校教育内容を設計しようとしてもうまくゆきません (ですから、各方面からの風を敏感に感じとる風見鶏が必要なのです)。とはいえ風見鶏ばかりが「学識経験者」として名を連ねると、教育は政治的迎合や経済的利得の発想に押し流されかねません。

今回のシンポジウムが、より多くの言語学者を英語教育に引き込むきっかけになればとも私は思っております。


同時に英語教育関係者も

森山卓郎 (2009) 『国語からはじめる外国語活動』 慶應義塾大学出版会


大津由紀雄 編著 (2009) 『はじめて学ぶ言語学―ことばの世界をさぐる17章』 ミネルヴァ出版

といった優れた著作に学ぶべきかとも思います。



2009年12月15日火曜日

John Kirkman著、 畠山雄二・秋田カオリ訳 『完璧!と言われる科学論文の書き方』 (2007年、丸善)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]

欧米各国・中東・香港などの、大学・大企業・研究所・政府機関などでコミュニケーション学を教えてきたJohn Kirkman氏が書いた"Good Style: Writing for science and technology. 2nd edition" (2005, Routledge)の翻訳書である。基本的に英語を母語とする科学者・技術者のために書かれた指南書だが、英語を第2言語とする私たちのためにも有益な情報を提供としている。もちろん第2言語としての英語使用者にとっての「入門書」「初級本」とはいえないが、別段に母語話者しかわからないようなことは書いていない。英語できちんとした文書を書こうとすれば、英語が母語であれ第2言語であれ、きちんと理解しておくべき文体論が豊富な例文で示された本だ。

英語の文体について書かれた本であるので、引用される例文自体は当然のことながら英語であるが、良い例として引用された例文には日本語翻訳が添えられている。引用以外の地の文はもちろん日本語翻訳であり、翻訳は「訳書であることを忘れてしまうぐらいにこなれた日本語になっている」ことを目指しただけあって読みやすい。私たちは英語の本を読めないわけではないのだが、このような翻訳書は、英語原著を読むより何倍も (あるいは何十倍以上も) 速く読了できるので、時間のない人間には本書のような翻訳書の刊行はありがたい。

本書は25の章から構成され、最初の15章が広義の文体 (style) を論じた章、残り10章が各論となっている。目次 (および内容の一部) は丸善のホームページで確認することができる。
http://pub.maruzen.co.jp/


「文体」といってももちろんこの本では個性や審美を表現するための文体を扱っているわけではない。ここでいう文体とは、「私たちが文をどう読んでいるかという認知的な側面と、どうやったら文を分りやすくすることができるのか」 (54ページ)という観点から文章を整理して書くことである。つまりは書き手が言いたいことを情報の正確性は犠牲にせず「読者が一度に処理できるだけの量」の情報 (5ページ)に減らして、読者にとっての情報「扱いやすさ」 (manageability) (11ページ) という観点から文章を自ら編集することだ。そのためには、 (i) 扱っているテーマ、 (ii) オーディエンス (聴衆)、 (iii) コンテクストの3つの要因を常に考えよと筆者は述べる (3ページ)。

だから文は単純に、長くては駄目というものではない。ぶつ切りのような短い文が羅列されると、話が細切れになり読んでいてイライラするからである (第2章) 。専門用語は必要に応じて使わなければならないが、「かっこいい」ように思えるからという理由だけで語彙選択をしていると思わぬ誤解を招くことがあることも気をつけなくてはならない (第5章)。「遠回し」な文体も何となく重厚な雰囲気を醸し出すと誤解されがちだが、実際は文を不必要に長くわかりにくいものにしているだけのことが多い。特に、抽象名詞にtake place, occur, perform, effect, achieve, accomplish, result, carry out, conduct, observe, find, be seenなどの「一般目的動詞」 (general-purpose verbs) (66ページ、86ページ)を組み合わせている時は要注意だ (第10、12章)。

注意深い読者は、上の「一般目的動詞」の英語がハイフン付の "general-purpose verbs" であることに気づかれたかもしれない。もちろんこれはハイフン無しの "general purpose verbs" でもOKなのだが、時にはハイフンの有無が、文理解の難易あるいは成立の決定的な要因になる。

例えば
"He observed that bacteria carrying dust particles decreased in concentration."
という例文 (107ページ) だが、このthat節の主語はbacteriaだろうか、それともparticlesだろうか。もしbacteriaではなく、particlesだったらどう書けばいいのだろう。 (答えはこのエッセイの末尾)。句読法は退屈な規則ではなく、文意を明確にするための有効な工夫なのである (第14章) 。

日本語を母語とする読者にとって特に興味深いのは、名詞の前に形容詞や形容詞的な働きをする名詞を置く「前位修飾」 (pre-modification) についての章 (第7-8章)。である。周知のように日本語では多くの修飾語を名詞の前に置いてもさほど問題ではないが、英語ではそのような過剰な前位修飾は文理解を妨げる。理解しにくいだけでなく、"is achieved by straightforward key operation"といった比較的簡単な構造でさえ、"straightforwad"なのは"key"なのか"operation"なのかが、背景知識のない読者には理解不能になる ("straightforwad"なのが"operation"なら"is achieved by straightforward operation of the key"と書くべきであろう)。

しかしながら、この本は「こうしなさい、ああしなさい」といった規則集ではない。むしろ著者は原則にすぎない傾向を「規則」として誤解して、さらにその規則を機械的に適用して悪文を作ってしまう例を再三指摘している。著者が勧めているのは、「多様性」と「柔軟性」 (4ページ) であり、「ドグマティック (教条主義的) にならない」(204ページ) ことである。

このような意味での「文体」という点から考えると、英語を書くということはただ「文法的」かどうかというのではない (2ページ) ことがよくわかる。この紹介記事では抽象的なことしか書いていないが、ぜひ本書を実際に手にとって、良い英文・良くない英文の実例を吟味しながら文体についての理解を深めていただければと思う。


本書の後半は具体的なテーマについての各論であるが、第16章ではコンピュータ業界の英語についてよくわかる。日本でもコンピュータ操作中に出てくるメッセージの不可解な言語表現がよく話題になり、しばしばそれは翻訳が悪いからだとされているが、本書を読んでいると、それはそもそもコンピュータ業界の人たちがずいぶん乱雑に英語を書いているからではないかと思えてくる。

第22-24章は、ノン・ネイティブを念頭に英語を書くことについての章である。私たちは自分自身がノン・ネイティブであるが、そんな私たちにとっても、自らの英語表現の到達目標を考える際に有益な章である。筆者は
"Production is to all intents and purposes static, tending if anything to decline."
という文を例にして、ノン・ネイティブ向けの文書ではこのような表現を使うのではなくあっさりと"Production is falling slightly."と書くべきではないかと示唆している。英語力自慢の読者なら小馬鹿にされたように思い憤然とするかもしれないが、私はこのような態度は一つの考えだと思う。少なくとも私たちノン・ネイティブは英語学習の目標設定をする場合、それは人文系のクリエイティブな表現なのかそれとも理工系のテクニカルな表現なのか、しかもそれぞれを理解できることだけを目指すのかそれとも自ら表現できることまで目指すのかを区分けして考えるべきだろう。


自ら英語論文を書く日本人読者にとっては、機能的な英語文体について速読で学べる良書かとも思います。





答え: bacteriaとcarryingの間にハイフンを入れて、He observed that bacteria-carrying dust particles decreased in concentration.とすればthat節内の主語はparticlesであることがすぐにわかる。


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2009年12月10日木曜日

片山洋次郎先生の著作

昨日の記事 (12/12-13 甲野先生と森田さん(および名越先生)のセミナー開催) は昼休みの慌ただしい中に書いたため、翌朝の始業前に追記を書くことになりましたが、後で見たらその追記にも修正が必要であることに気づきました。

馬鹿はことばを重ねる度に愚かさを露呈しますが、私の場合それだけでなくことばを弄するごとに馬鹿の坂を転げ落ちているようにも思います。断片的な時間で断片的な思考を断片的につづることで私のような人間はどんどん馬鹿になっているのでしょう。私はもっと沈思黙考する時間を持ち、沈黙を守る業を学ばなければならないのでしょう (と言いながらこのような駄文をつづっているところが「死ななきゃ治らない」と言われるゆえんです)。

と、自嘲はこのくらいにして、修正するべきことを書きますと、昨日引用した文章で森田真生さん言っていたことは、「相手の声 (という音と音色) を聴くこと」ではなく、「自分のことばが相手の中で響く音と音色に耳を澄ますことで相手と自分を知る」ということでした。


ことばというのは不思議なもので、私の発したことばが先生の中に受け入れられ、そのとき私のことばが先生のなかで響く「音」に私は耳を澄ませ、私はその音色に導かれるようにして、また次のことばを発するのです。

私は、私のことばが先生の中で生み出す音を通して先生を知り、またその音色を通して私自身のことばを知るのです。
http://www.shouseikan.com/zuikan0912.htm#1


ここで言われていることは、単に「対話の中の相手との関係性で純然たる自分とは異なる自分が生まれる」ということではありません。また「相手の声を身体的に同調しながら取り入れることが聴くことの根源である」ということでもありません。

そうではなく、「自らには明証と思われている自分も、実は自分の声が相手の心身にどう響くかということに耳を澄ますことによってわかるものであり、そうやって立ち現れた自分は自らの皮膚を越え、相手と状況の関係の中に立ち現れる。その自分を越えた自分こそがまた新たな自分を創り出す」といったことかと今の私は解釈します。


ここで私は自分の一知半解をごまかすようにして、また他人の著作を紹介します。しかし私の紹介の動機の不純さはともかく、紹介する方の著作は多くの人の共感を得るものかと思います。




今回紹介する方は、片山洋次郎先生です。


片山先生を音楽家の菊地成孔氏 (!) は次のように紹介します。


著作家としての片山の仕事は、我が国における「整体」という言葉(そして概念)の創始者であると同時に、近代身体論/療術道場運営の嚆矢として、没後三十年を経ても著作の出版/再版が留まる所を知らぬカリスマ、野口晴哉の仕事を批評的に継承し、尚かつ乗り越えた物である。と言うことが出来る。
菊地成孔 「解説」 片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、327ページ



私は学部3年生を対象に「言語コミュニケーション力論」に関する授業をもっていますが、そこでは5回の授業時間を使って英語教育界という業界で「標準的」とされている「言語コミュニケーション力論」を概説します。


その後で導入するのが業界ではあまり語られないが、業界を離れたところでは真剣に語られる「言語コミュニケーション力論」です。デイヴィドソン、アレント、ルーマン、内田樹を従来紹介していましたが、今年は思い切って「べてるの家」および片山洋次郎先生の実践から生み出された論を紹介しました。

学生さんに配布した資料の冒頭に、私は片山先生らの論を紹介する理由を書きました。

明治以来「近代的なるもの」はしばしば無批判的に受容・肯定されてきました。第二次大戦後は近代的なるものとしての「科学」が称揚され、その結果学校教育の影響を強く受けた者の中には近代的科学観で説明しにくい現象を言下に却下してしまう傾向さえ見られます。ですが近代的科学観が万全なものでない以上、無批判的な拒絶は合理的態度とは言えないはずです。ここでは近代的科学観からこぼれ落ちる日常的観察、そして近代を相対的に捉え直そうとする思考から謙虚にしかし批判的に学びたいと思います。

「近代的科学観で説明しにくい現象」とは例えば「気が合う・合わない」や「雰囲気がいい・悪い」です。私たちは日常生活で「気が合う」とか「いい雰囲気を感じる」という認識をしょっちゅうもちます。教師でしたら学習者と話をする時の気とか波長を敏感に感じますし、教室に入った瞬間に感じられる雰囲気を感知しながら授業の言動を決定することと思います。

このように生活に根差した現象 (あるいは現象の認識) も「近代科学」の枠組みに入れるととたんにうさんくさいものになります。「気が合う? それは脳内のどのような現象なのですか? 自分と相手の脳の間に何か特別な信号が伝達されているわけですか?」 「雰囲気などとあいまいなことばでごまかさないで下さい。明確に証拠として提示できる現象だけを扱ってください」などと言うわけです。

確かに「個人心理学」 (チョムスキー) の枠組みで考えると、人と人の「あいだ」に感じられる「気」や「雰囲気」などといったものは不可解なものに思えるでしょう。しかしだからといって私たちは「個人心理学」を代表例の一つとする近代的科学観を問い直さなくてもいいのでしょうか。あるいは相対化する必要はないのでしょうか。私は近代科学を否定することなく補完するために、言語学・応用言語学では「標準的」とされていない言説も敢えて取り上げることにしています。



片山先生の主張はある意味とても常識的で健全なものかと思います。

身体の響きは、内側だけでなく、実は外側にも漏れ出ていて、無意識にのうちに影響し合っているものです。 (中略) 身体がふわっとゆるんだ響きのいい状態になると、それはすぐに周りに伝わります。そばにいる人の身体も、響きに呼応するかのように、ゆるむのです。
(片山洋次郎 (2007) 『身体にきく』文藝春秋、25ページ)

そばにいるだけでこちらの身も心もゆったりなれる人がいれば、近寄られるだけでこちらの心身が緊張してしまう人がいることは私たちが日常生活で経験していることです。これは初対面の見知らぬ人でもしばしば経験することですから、このくつろぎと緊張の差は、相手が自分に対してもつ特定の権力関係など以外のこと ― おそらくは身体の響き ― によって引き起こされていると考えることができます。

片山先生は「気」を神秘化せず、また妙に近代科学的に説明しようともせず、「気」を情報の流れ、コミュニケーションとして捉えようとします。

気とは情報であるという考え方もある。このほうがもっと面白い。情報というよりは、コミュニケーションというほうがより良いかもしれない。ただし、普通コミュニケーションといえば、交互に情報をやり取りすることだが、気的コミュニケーションは交互ではなく同時であり、発信・受信の区別がない。決して一方通行ではない。

よく「気を送る」とか「気を通す」とかいうことがあるけれども、「送って」いる側も同時に受けているのであり、「受け」ている側も「送って」いるのである。だから、「 "共鳴" シテイル」といえば一番ぴったりくる。「送って」いる側は "共鳴" の対象や仕方(間合いのとり方)を調整しているのである。よく共鳴していれば「気が合う」とか「親しみがある」感じがするし、よく共鳴しなければ「気が合わない」か「冷たい」感じがする。
(片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、27ページ)

ここでいうコミュニケーションとは、コードモデルによる通信機器的な信号伝達ではなく、相互が同時に影響し合い「共鳴」していることです (この「共鳴」が比喩なのか、それとも物理現象なのかは今は問わずにいましょう)。


繰り返しになりますが「身体の共鳴」といった認識を「心」の説明に使うことは、近代科学あるいは個人心理学の枠組みではほぼタブーです。しかしそれはその枠組みのせいだと考えることはできませんでしょうか。

デカルトの「我思う、故に我あり」というのは高校のときに習った。近代科学と合理主義の基礎を切り開いたわけだから、今日でもあらゆるテクノロジーの基礎的思考法である。よく問題にされるのはその「心身二元論」だ。簡潔に言ってしまえば超越的視点から世界を見る方法ということになるだろう。そのために身体から思考を切り離す必要があったのだ。逆にいえば超越的な視点、「純粋客観的」な視点を獲得するためには、身体の影響をとりあえずどうしても排除したかったということだ。純粋な思考にとって身体の影響はノイズである。
(片山洋次郎 (2001) 『整体 楽になる技術』ちくま新書、118ページ)

デカルト以来、「心」 (mind) と「身体」 (body) は峻別されるべきとなりました。そして科学はもっぱら "body" (=「身体」および「物体」) を扱いました。近年はさらにその傾向が強まり「心」も「脳」という「物体」の現象として説明します。

そのように「心」を物体として説明する科学者の「心」あるいはその説明を聞く私たちの「心」は、まさにデカルトが想定したように無色透明どころか身体・物体から切り離された「純粋な思考」であると想定されて疑われることがありません。

しかし科学者の「心」は、彼/彼女自身の身体の影響を受けないものなのでしょうか。私たちは人間として何かを理解するときにも身体という媒体を通じてしか理解できません。私たちは身体に棲んでいます。身体という要因を勘案に入れない「心」の理解にはどこか構造的な欠損がないでしょうか。

理解も、言語使用も、コミュニケーションも、もっと身体の現象として ― といっても心から分離された身体ではなく、概念の便宜上分けることはできても実相においては心と不即不離な身体の現象として ― 考えるべきではないでしょうか。


私の悪い癖で話が乱暴なまでに大きくなりました (つける薬はありません)。しかし片山先生の次のことばなどは、冒頭の森田さんのことばと通じるところがあるかもしれないと思います。もちろんこの場合の身体とは他人の身体と周りの世界と響き合う身体です。


私という生はどこに向かおうとしているのか、何を求めているのか ― 答えはすべて身体が知っています。心静かに耳を傾けるとき、深い呼吸の中から自然に湧き上がってくるものなのです。

「聴く」ということは、受動的なようでいて、実は能動的です。それは響き合おうとする主体的な姿勢です。
(片山洋次郎 (2004/2009) 『骨盤にきく』文春文庫、216ページ)



片山先生の著作にご興味のある方はどうぞご自分でお読みになって吟味されて下さい。

私は今日はこれからしばらく黙って耳を澄ますことにします。



片山洋次郎 (1989/2006) 『整体から見る気と身体』ちくま文庫

片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫

片山洋次郎 (2001) 『整体 楽になる技術』ちくま新書

片山洋次郎 (2004/2009) 『骨盤にきく』文春文庫

片山洋次郎 (2007) 『身体にきく』文藝春秋

片山洋次郎 (2009) 『自分にやさしくする整体』 筑摩書房






2009年12月9日水曜日

12/12-13 甲野先生と森田さん(および名越先生)のセミナー開催

甲野善紀先生と森田真生さん (および名越康文先生) のセミナーの案内を再度します。


甲野先生が森田さんからのメールの一部を公開していますので、ここでもその一部を引用します。このセミナーで目指そうとしていることの一部がここからでもわかると思います。
http://www.shouseikan.com/zuikan0912.htm#1



最初の引用は「ことば・コミュニケーション・私」に関することです。


10月21日
甲野先生

今日の綾瀬までの車中の会話は非常に楽しく、本当にあっという間に時間が過ぎ去ってしまいました。

ことばというのは不思議なもので、私の発したことばが先生の中に受け入れられ、そのとき私のことばが先生のなかで響く「音」に私は耳を澄ませ、私はその音色に導かれるようにして、また次のことばを発するのです。

私は、私のことばが先生の中で生み出す音を通して先生を知り、またその音色を通して私自身のことばを知るのです。

ですから、今日の私が、先生でない別の方と、同じ時間同じ電車の中で、同じように会話をはじめたとしても、おそらくまったく違った展開になったでしょう。

そうしてみると、今日の対話の間、果たして「わたしがしゃべっていた」ということが正しいのかどうか分からなくなってしまいます。
(後略)


コミュニケーションに関して少しでも深く考えたことがある人なら、上記の森田さんの述懐は得心がゆくことでしょう。

孤立し隔絶した個体が、予め標準化された情報を符号化し、別の個体がその符号を解読するといった「通信機器的なコミュニケーション観」しかもたない人なら別ですが、ことばにより関係が拓かれ相互がそれぞれに自己を見出す豊かな対話を体感している人なら、上のコミュニケーション観はぴたりと理解できるはずです。



追記 (2009/12/10)

この記事は昨日の昼休みのほんのわずかの時間に書いた文章なので、森田さんが「音」について書いていたことについて言及することを忘れていました。

上の引用で森田さんはことばを、活字のように標準化された記号として捉えておらず、身体的に感じる「音」あるいは「音色」として取り入れています。この相手のことばの音もしくは音色の身体性こそが、森田さんの理解や思考や感情を引き起こしているわけです。さらに、そこで引き起こされた理解や思考や感情は、森田さんのものとも相手のものともつかない、頭蓋骨の中に孤立した「個人」を超えたものだと森田さんは言っています。

この見解は内田樹先生の最近のエッセイの一節を思い起こさせます。内田先生は、読むことと聴くことの身体性を強調し、「身体的体験の同調」を通して「内側から『生きる』こと」こそが読むこと・聴くことの根源であると述べています。そのように身体で読むこと・聴くこと人間の経験を広げ、その人に成熟をもたらすと書かれています。



教育の目的は子どもを成熟させることであり、成熟とは、「どうふるまっていいかについてのガイドラインがない状況にも対応できる能力」のことであるという「いつものお話し」をする。
それは対人関係においては「その人がなにを求めているのか」を言い当てることである。状況においては「その状況がどこからどこへ向かおうとしているのか」、文脈と趨勢を言い当てることである。

この能力を涵養するためには経験知を蓄積するだけでは足りない。

自分の経験にはおのずと限界があるからである。

他人の経験もまたおのれの経験知に取り込む必要がある。

自分の中には自生していない想念や感情、欲望や考想は「取り込む」必要がある。

「取り込む」というのは分類したり標本化したりすることではない。

それを内側から「生きる」ことである。

「感情移入」といってもいい。

物語を読むのも、他人の話を聴くのも、他人の人生を内側から生きるための好個の機会である。
「感情移入」という言い方をすると、私の「感情」だけが身体をするりと抜け出して、他人の身体に入り込み、その感情に同調する、というような風景を想像する人がいるかもしれないが、それは誤りである。

感情移入といったって、感情だけなんか取り出すことは人間にはできない。

あらゆる感情は身体経験を随伴している。

感情は眼に見えないし、手では触れられないが、身体経験の多くは眼で見えるし、手で触れることができる。

それゆえ「再演」することができる。

感情移入とはなによりもまず他人の内側で起きていることを身体的に再演することから始まる。
そこからしか始まらない。

場合によってはそこで終わる。

それでもよいと私は思っている。

書物を読むというのは理想的にはその書き手の思考や感情に同調することであるけれど、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そんなことは起きない。

私たちにできるのは、文字を読むことと音声を聴くことだけである。

書き手の脳内に何が起きたのかを知ることはきわめて困難であるけれど、書き手がその文字を書き記していたリアルタイムにおいて書き手が「その文字」を視認し、「その音声」を聴取していたことはまちがいない。

その文字を見つめ、音を聴く限り、読み手と書き手は「同じ経験」を共有している。

「作者は何が言いたいのか?」というようなメタレベルに移行した瞬間に、「同じ経験」の場から私たちは離脱してしまう。

あらゆる感情移入はまず身体的体験の同調から始まるべきだと私は思う。

そのためには「理解する」や「解釈する」や「批判する」より先に「見る」と「聴く」にリソースを集中すべきだと私は思っている。

たいせつなのは外部からの入力を自分の脳内に回収して、分類し、整序してしまうより前に、手つかずの外部入力「そのもの」に、「生」の入力情報に、身体的に同調してみることだと思う。

そのようにして経験知をゆっくり積み増ししてゆくことが教育の基本だろうと私は思っている。
成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。

そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。

子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。

生理的に快か不快か、それだけである。

それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。

現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。

それを空間的・時間的に拡大してゆく。

そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。

それが「だいぶ大人になった」ということである。

教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。

それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。

というような話をする(だいぶ違うけど)。

http://blog.tatsuru.com/2009/11/28_1003.php


言語コミュニケーションの身体性はもっと強調されるべきかと私も思います。

(以上で追記は終わり)

※この追記にもさらに追記が必要となりました。新しい記事をお読み下さい。おそまつ。



次の引用は、いわゆる「エリート」についてです。


10月22日
(前略)

このように考えてきますと、真のエリートとは「この先は行き止まり、の先」を描き出すような人物であるということが言えるように思えます。

現代社会において「エリート」と言ってもてはやされているのは「この先は栄光の道」をただ進むだけ、の人材であるようにも思われます。

しかし、「この先」が描かれている道を着実に進むというのであれば、真のエリートでなくてもできるはずです。

一方で、「この先」があるとはとても思えないような道の、先。

それを描き出すというのは、ものすごく困難な作業であり、極めて創造的な作業なのです。

私は数学を通じて「この先は行き止まり、の先」を次々に描き出して行きたいと思っています。

そうして、少しずつ私たちが暗黙のうちにかけられている様々な「暗示」を解いていきたいと思うのです。


これも名利のためでなく、深く感じられる「意味」のために創造的な仕事をしている人ならただちに同意するような見解ではないでしょうか。


最後の引用は数学と音楽についてです。


11月10日

先日の先生の「消す」という話しを伺って以来、わたしのなかでもいろいろと変化が起きつつあります。

私は最近「数学と音楽」ということについていろいろと考えを巡らせております。
そして近頃、沈黙こそが究極の音楽なのではないかという気がしています。
「沈黙」とここで言うのは、「音を出さない」という意味での消極的な沈黙ではなくて、なにかもっと積極的な意味での沈黙です。

音を出す(これには普通の意味での音楽の演奏、あるいはことばを発するという意味での「語り」ということも含まれますが)、という行為の極限には音のない沈黙があり、その極限たる沈黙こそが数学の目指すところであるように思えてならないのです。

つまり、数学は沈黙を演奏するのです。
(沈黙の中でこそ、人の聴覚はもっとも鋭く機能するのですよね。)



武術の「消す」や数学の「沈黙」については私は語り得ませんが、音楽についてなら、音楽を糧にしてこれまでの人生を何とかやり過ごしてきた私は少しは語れるでしょう。

音楽表現とは静寂を切り裂き沈黙を否定することです。音楽表現は音の生成により静寂を部分的に浸食し沈黙を破ります。しかし私たちは音楽において、生成された音と同時に、生成された音によって逆説的に示されるようになった音の不在 ― つまりは新たな静寂あるいは沈黙 ― を聴き取ります。音楽を聴くということは、ある意味、音の存在によって示される音の不在を聴くことです。

音の不在を聴いていることがよく自覚されるのは、乱れたリズムやテンポの音楽を耳にする時です (音楽の本質を損なわないで単純化するために、ドラムソロ演奏を考えて下さい)。リズムやテンポが不調な音楽演奏に接すると、私などはどうも身体の動きが乱されて不快になります。聴くべき静寂が聴けず沈黙の間が悪いからイライラします。

逆に優れたドラムソロを聴いていますと、演奏によって引き起こされた静寂・沈黙の時間は本当に楽しむことができます。そのような静寂・沈黙には独特の味わいがあります。ある意味、音以上に雄弁です。音楽とは音の存在と不在を楽しむことと言えるかと思います。

まあ、これは単なる音楽ファンの戯言ですが、「沈黙を聴く」といった言葉をキーワードに、音楽・武術・数学・コミュニケーションなどについて討議が深まれば、これは非常に面白い知的体験になるのではないでしょうか。いや身体で感じられる知の体験といった方がいいのかもしれません。


ご興味のある方はぜひセミナーにご参加下さい。



12/12(土) の福岡県福岡市でのセミナー


12/13 (日) の広島県福山市でのセミナー







2009年12月8日火曜日

エクセルできれいなヒストグラムを作るには

エクセルは慣れると大変に便利なソフトですが、ヒストグラム(度数分布表)を作るのは案外に面倒だったりします。 ヒストグラムは、平均値と標準偏差といった代表値だけではわかりにくいデータの特性を原始的で直観的な表示で示してくれるので、データ分析には重要です。

ここではエクセルに慣れない学生さんに向けてヒストグラムの作り方を解説した私のファイルを公開します。




しかしこのファイルの冒頭にも書いていますように、私はあまりに「親切」な手取り足取りの教示はかえって自ら学ぶ力を深いところで損ねてしまうのではないかとも思っています。どうぞ学生の皆さんは、「考え、調べ、尋ねる」態度を身につけることを優先させてください。





2009年12月5日土曜日

綾部保志先生のエッセイと本

「英語教育ニュース」に大修館書店『英語教育』2009年12月号掲載のエッセイ「教育の今を知りたい」が掲載されていましたのでここでもお知らせします。教育界、そして英語教育界の〈今〉を知り、〈明日〉すなわち未来を考える点で参考になる、比較的新しめの文献を以下に7冊紹介したエッセイです。
http://www.eigokyoikunews.com/columns/taishukan/2009/11/post_66.html

このエッセイの著者である綾部保志先生 (立教池袋中学校・高等学校教諭)は若き俊英で、

綾部保志・小山亘・榎本剛士著『言語人類学から見た英語教育』(2009、ひつじ書房)


の著者の一人でもあります。

この『言語人類学から見た英語教育』は、私が大修館書店『英語教育 増刊号』の年間書評厳選12冊で選んだ本の1冊ですが、個人的には一押しの本でした。小山亘氏を中心とした言語人類学と記号論を基にした理論的論考、綾部保志氏による戦後日本のマクロ社会的英語教育文化分析、榎本剛士氏による英語教科書題材の批判的談話分析(Critical Discourse Analysis, CDA)が掲載されています。この本もぜひお読み下さい。




現時点での英語教育の話題とすれば何と言っても「事業仕分け」による「英語教育改革総合プラン」と「学校ICT 活用推進事業」の廃止でしょう。
http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/pdf/nov11kekka/3-7.pdf

日頃は偉そうに言っている私ですが、こういう時には私は見解が定まりません。何日・何週間といった期間でなく、何年・何十年という広がりでこの件も考えたいのですが、どうも思考が定まりません。こういう時こそ私は歴史的かつ抽象的に思考したく思います。

現実的な態度決定の補助としても上記のエッセイや書物は役立つのではないでしょうか。




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「こころのリスク状態」について

精神疾患は珍しいものではありません。私もかつてはうつ病を患いました。皆さんも、友人・知人あるいはご自身が精神疾患で苦しんでいる例もあるかと思います。

ましてや教育機関でたくさんの若者に接している教育関係者には、精神疾患で苦しむ若者、あるいは精神疾患とも判定しかねるがとにかく苦しい状態にいる若者の例を知っている方は多いかと思います。

それにもかかわらず私を含めた教育関係者の精神疾患に関する知識は不十分であり、そこから偏見や起こらなくてもいい問題が生じているかと疑われます。


私は精神疾患の専門家でも何でもありませんが、今回たまたま良質なホームページをいくつか見つけましたのでここでご紹介します。


ただ気をつけなければいけないのは、私たちのような素人が簡単な情報だけを鵜呑みにして安易な判断をして決めつけてしまうことです。「生兵法は大怪我のもと」とも言いますが、中途半端な精神医学の知識を振り回して、自分や他人を精神病だと決めつけたりすることだけは避けなければなりません。下記のホームページはどれも信頼おける機関が作成したものですが、もし気にかかることがあれば自分で即断せず、必ず専門家に相談することをお勧めします。



まずは精神疾患一般について確認しておきます。国際的に定評のある『メルクマニュアル医学百科 家庭版』は「社会における精神疾患」の項目で、精神疾患は精神の健康な状態と連続的なものであり社会で広く見られるのに今なお偏見が強いことを述べています。


成人の約20%は、人生のいずれかの時点で何らかの精神疾患を経験します。実際、5歳以上の人にみられる能力障害の原因として最も多い10の病気や障害のうち、4つは精神障害で、うつ病はすべての原因中のトップとなっています。精神疾患になる人はこれほど多く存在するにもかかわらず、専門家の助力を求める人はその半数程度にとどまっているのは残念なことです。

精神疾患についての理解や治療法は驚くほど進歩しましたが、病気に対する偏見はあまり変わっていません。たとえば、精神疾患になったのは本人のせいだといわれたり、怠けている、無責任であるといった見方をされることがあります。精神疾患は体の病気に比べて実態がとらえにくく、本当に病気かどうかの確認が難しいため、国や保険会社はその治療に必要な医療費を保険の支払い対象としたがらないのが現状です。子供が精神疾患になると、親がそのために非難されます。また、一般社会には精神疾患の人を敬遠する傾向があり、近所に住んだり、同じ職場で働いたり、付き合いをすることを避けようとします。

精神疾患は現在、遺伝と環境的要因が複雑に相互作用して発症するものとして理解されています。また一部には、神経伝達物質と呼ばれる脳内の化学物質の障害が原因で起こるものもあるとみられています。多くの精神障害に遺伝的要因が関与していることが、研究によって示されています。遺伝的な脆弱(ぜいじゃく)性が、家族生活、社会生活、または職場における何らかのストレス要因と相互作用することにより、精神疾患の発作が引き起こされることがよくあります。

精神疾患による病的な状態は、正常な行動と必ずしも明確に区別できるとは限りません。たとえば、配偶者や子供など大切な人を亡くしたときは、死別によってもたらされる正常な悲しみとうつ病の状態とを区別するのは困難です。同様に、仕事に関する心配やストレスから来る不安は、大多数の人が経験することなので、それを不安障害と診断するかどうかの判断はやや恣意(しい)的になります。個人の性格的な特徴と人格障害との境界はあいまいです。したがって、精神の健康な状態と病気(精神疾患)になった状態は、連続的なものとして考えるのが適切です。
http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec07/ch098/ch098b.html




私たちは必要に応じて、苦しむ人が精神の健康な状態の範囲にいるのか、それとも病気(精神疾患)の状態に移行しつつあるのかを、専門家の助けを借りて見極めなければなりません (何度も言いますが、独りよがりの判断は危険です)。特に精神的に脆弱であると考えられる若者に接する場合は、慎重にアプローチする必要があるのではないでしょうか。



その点で注目されるのが「こころのリスク状態」 (at risk mental state アットリスク精神状態) かもしれません。「こころのリスク外来」 (東大病院精神神経科) は「こころのリスク状態」を次のように説明しています。



・ こころのリスク状態とは、こころの調子が崩れ、こころの病気の一つである精神病になる危険性が高くなっている状態です。
・ 10代から30代前半の思春期や青年期にある若い人たちに起こりやすいのが特徴です。
・ 英語ではat risk mental state(アットリスク精神状態)と呼ばれています。
・ こころのリスク状態の基準を満たした人のうち、およそ10~30%の人が、統合失調症などの精神病に発展していく可能性があると考えられています。
・ こころのリスク状態のすべての方が精神病になるわけではありません。専門家による早期の予防的なかかわりや治療によって,精神病を予防することができるといわれています。
http://plaza.umin.ac.jp/arms-ut/


このホームページには「こころのリスク状態」のタイプ記述が掲載されています。さらにこの記述が当てはまると思われた人のためにはより詳しいチェックリストが用意されています。
http://plaza.umin.ac.jp/arms-ut/



東北大学病院 SAFEメンタル・ヘルス・ユースセンターも「こころのリスク状態」について解説しています。
http://www.safe-youthcentre.jp/risk.html




さらに教育関係者にとって有益なのは、東邦大学医学部精神神経医学講座が、厚生労働省・平成19年度障害者保健福祉推進事業「精神障害者の早期発見、早期治療のための地域生活支援体制のあり方に関する調査及び機能分化したリハビリ施設の試行的事業」(東邦大学)の補助金により作成したホームページ「イル ボスコ」かもしれません。
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/index.html


「イル ボスコの概要」⇒「はじめに」では、若い人の精神疾患の早期発見の重要性が説かれます。



若い方の例では発症間もない時期に適切な援助がなされないと、社会的に孤立したり、時には自分を傷つけたり、体やこころの発達や社会生活に著しい影響が及ぶこともあります。そのためにも早い時期に援助することでこうした問題を少なくすることが大切です。
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/gaiyo/introduction.html



「こころの病について」 ⇒ 「ストレスについて」 ⇒ 「ストレスの対処方法」では、精神的に追い詰められた人を支援するには、生理学的アプローチ、心理的アプローチ、社会的アプローチの3種類が必要であると説いてあると私は理解しました。
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/mental/about_stress/action_method.html


これは私も自分自身のうつ病経験から感じたことです。私が経験・見聞した限り、日本の病院は精神疾患に対してほとんど薬の処方だけに終始する場合があります (これには病院経営といった経済的背景があるのかもしれませんが) 。薬の投与といった生理学的アプローチは身体に現れた状況を取り急ぎ緩和させるのには有効なことが多いですが、それだけでは精神疾患は克服しにくいのではないでしょうか。

生理学的アプローチに並んで必要な第2のアプローチは心理的アプローチだと思います。私の場合もそうでしたが、精神疾患に苦しむ人の中には「心の癖」というか特定の思考パターンをもっている人がいます。いくら薬で取りあえず身体症状を抑えても、その心の癖・思考パターンが変わっていなければ、またもや苦しい状況に自分を追い込んでしまうことになります。

しかし残念ながら心理的な支援をする制度はあまり整っていません。市中でカウンセリングに通えば (健康保険の対象外ということもあって) かなり高額ですし、宗教団体も必ずしも精神的な問題に対して準備ができていません (中には精神的に苦しむ者を搾取する悪質なエセ宗教団体もあります)。ですから私たちはどのように精神疾患に苦しむ人間 (あるいは自分自身) をどう心理的にサポートするかを正しい知識に基づいて考え、調べ、実際に支援しなければなりません。

第3のアプローチは社会的なアプローチです。いくら生理学的アプローチで身体的症状を抑え、心理的アプローチで個人の意識を変えようとも、周りの社会的環境が過酷なものだったら、精神疾患はぶり返してしまいます。個人の枠を越えて、周りの社会的環境を変える試みが必要です。日本では「精神保健福祉士」 がそういったソーシャルワーカー的な役割を果たしているのでしょうが、残念ですがあまりそのサービスは普及していないのではないでしょうか (これは私個人の感想です。間違っていたら訂正します)。


「こころの病について」 ⇒ 「多職種チームアプローチ」には「各専門職の役割」、「こころの病について」 ⇒ 「15歳からの精神科入門」には「保護者の方、学校での援助者の方々へ」というページがありますので、これもご興味があればお読み下さい。

http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/mental/team_approach/role.html
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/mental/seishinka_nyumon/nyumon_page10.html


精神疾患で苦しむ者の周りの人間としては、「こころの病について」 ⇒ 「ストレスについて」 ⇒ 「感情表出と再発率について」の項目が有益かもしれません。
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/mental/about_stress/expression_recurrence.html
周りの人間が、 (1) 批判的にならず、かつ (2) 当人をかばいすぎない、ようにして「程よい距離感」を保つことの重要性が説かれています。


「こころの病について」 ⇒ 「15歳からの精神科入門」は、統合失調症を中心とした精神疾患について教育関係者が常識として知っておきたいことがわかりやすくまとめられてあります。
http://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealth/mental/seishinka_nyumon/index.html



以上私が見つけたホームページを紹介しましたが、どうぞこれらのホームページを読んで独りよがりの即断をすることだけは避けてください。心配な場合は信頼おける専門家にご相談下さい。

一人では負えない重荷も二人でなら担げます。二人で担ぐのが少し辛い重荷も周りの助けがあれば苦もなく担ぎ続けることができます。そのうちに重荷自体が軽くなりやがては消え、かつて重荷で苦しんでいた人は、他の重荷で苦しむ人を助けることができる人になれるでしょう。

精神疾患に対する正しい知識と適切な理解で、よりよい社会をつくりたく思います。







2009年12月1日火曜日

吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 ひつじ書房

ひつじ書房社長の松本功さまの忍耐と編集の竹下乙羽さまの丁寧な仕事をはじめとした皆様のご支援のおかげで『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』を刊行することができました。この出版を可能にするための所縁をいただいたすべての皆さんに感謝しつつこのブログでも紹介させていただきます。

この本はひつじ書房のホームページにもありますように次のように要約することができます。



英語教師が成長するとはどういうことだろう。大学で習った教育方法を実行する。学説で聞いたことがある心理(言語)学の理論の枠組みで現実を理解する ― はたしてそんなに単純なことだろうか。現実の英語教師は、複雑な状況に投げ込まれ、現実を直視することもできずに、もがき苦しむ。その中で、次第に自分を見つめ直し、問題の整理を始める。その際に、共感的に理解できる第三者は大きな役割を果たす。本書はそういったダイナミックな英語教師の成長を描く。


タイトルと要約から得られるキーワードは「リフレクション」「語り (ナラティブ)」「教師の成長」です。このうち「成長」について吉田達弘 (兵庫教育大学) は次のように語ります。


「成長」という言葉は、一般的にポジティブな意味を持ちますが、教師が日々携わる教室では、必ずしもポジティブな出来事、成功やハッピーエンドばかりが起こるわけではありません。むしろ、学校や教室で何かことが起こると、教師はすぐに批判の対象となってしまいます。そうなると、教室での失敗やジレンマを抱え込み、「成長」とはほど遠い心境になってしまいます。しかし、児童・生徒たちが教室でつまずきながらも成長するように、教師も失敗や葛藤、そして、もちろん、成功体験を通して成長していることは間違いありません。私たちは教師の成長についてもっと語るべきですし、教師だけでなく、教育実践に関わる研究者の成長について議論できる土壌を作るべきです。 (1ページ)



この本には編者の論考だけでなく現職中高教員の論考も掲載されていますがその一つとしての坂本南美 (兵庫県立大学附属中学校) の論考は、「成長」を教室での教師のteachingとlearningの相互作用からくるものとして捉えて、それをもたらしたものが「語り」だと述べています。


今回の教室にteacher-researcherとして参加した授業を通して得た最も大きな気づきは、教室でのteachingとlearningには分かちがたい関係があるということです。教師のteachingとlearning。それらは、個々に独立した存在ではなく、相互的に作用しながら変容していくものでした。 (中略) 多面的な視点をもって教室を見たときに、私の目に飛び込んできたものは、多くの意味を含む教室での教師の学びでした。授業を通した教師の学びが、教室のより深い理解につながり、さらに生徒達の学びを支える関係を作り出していきました。つまり、私たちは、教室で教え、教室で学んでいたのです。教室の原点がそこにあるのだと私たちの「語り」が教えてくれました。 (41-42ページ)



同じく現職教員の津村正之 (神戸市立本山南中学校) は、「成長」の可能性をALTとの実践に見いだします。


私たち日本人教師がALTを「正統的な参加者 (legitimate participant)」であると認識し、英語の教室という「実践のコミュニティ」に積極的に招待するなら、日本人教師もALTもともに学びあい、「同僚教師として」ともに成長できるとも考えられます。 (72ページ)




横溝紳一郎 (佐賀大学) は教師の「成長」に関する数々の論点を的確に整理し、仮説-検証型アクション・リサーチと対比される課題探究的型アクション・リサーチを理論的にも方法論的にも明確に示します。横溝の明快なまとめは貴重です。



玉井健 (神戸市外国語大学) は多くの現職中高教師のメンターとして現職教師のリフレクションと語り (ナラティブ) を引き出します。

メンティーの一人である山本真理 (兵庫県立北須磨高等学校) はその体験、およびその体験がもたらした変化を次のように述懐します。



人間は成長するものだといわれるが、この年齢になってそんなに変化するとは予想していなかった。今は小さな出来事にも意味を見出し、生徒の力を以前よりずっと信じるようになり、自分の考え方に大きな変化を感じている。 (173ページ)



小関静枝 (兵庫県立明石南高等学校) は次のように表現します。



アクション・リサーチをやっていなければこのような生徒の気持ちにも気づかずに毎日を過ごしていたと思う。この姿勢が何によって作られたのか。いろいろと考えられるがインタビューをはじめとして自分の考えを言語化する作業によるところが大きいと思う。これはジャーナルをつけるという「書く」という作業と共通するところがあるだろう。 (中略) 自分の考えを言語化するというのは伝わるように言葉にするということだ。これまで何度か周囲に「変わった」「突き抜けた」「break throughが起こった」と言葉をかけてもらった覚えがある。実は自分の中では「私は特に変わっていないのに」と思うときもあった。よく考えてみるとその時は自分の中にあった考えが言語化できた時だった。つまり適切な言葉で適切に自己開示ができたとき周囲は私を「変わった」と感じるようだ。そして周囲との関係が変わり、自分の行動も変わってくる。そう考えるとこの過程は終わることがなくずっと続くものなのだ。大変であると同時に面白いことを始めたのだなという気持ちである。 (178ページ)



松野哲也 (兵庫県立姫路別所高等学校) はこうまとめます。



私自身が内省を進めていく上で最も大切であると感じていることは、「いつも心の窓が開いている」状態、すなわち「気づき」に導かれた「注意力」が様々な方向に、そして様々な強さで広がっている状態が維持されていることです。 (184ページ)



現職教員のこのような変化をもたらした触媒役の玉井はこう総括します。



ここで紹介した三人の実践者のうち、誰の実践を読んでもそれが決して平坦な道のりではなかったことは明白です。そして現在の授業が、いわゆる研究授業として見ばえのよい授業になっているかと言えば、三人とも素直に首を縦には振らないことでしょう。それは三人の実践者の目指すところが、もはやそこにあるのではないからとも言えます。
一方で、今も三人の観察と内省は深く鋭さを増しています。それとともに、私の拙い言葉の出番はもはやそこには無いかの如く、私が存在する意義は次第に小さく薄くなっていくのです。(中略) リフレクティブ・プラクティスにおけるメンターは、アドバイザーではありません。あくまで支援者でしかありません。 (中略) それは、存在していても、その存在を感じさせない影のようなファシリテーションの実践者です。そしてメンティーはいつしか自律した実践的研究者として自身の言葉を発見して、メンターから離れていきます。自らの足音に耳を澄ませつつ。一人の内省的実践家として。 (186-187ページ)



玉井のこの静かなまとめは、実は非常にラディカルなものです。「教師は見ばえのよい授業を目指さない」。「メンターは存在感を消しメンティーの自律を促す」。当たり前ではないかと反論する方もいらっしゃるかもしれませんが、現実世界ではこの「当たり前」がどれだけ行なわれているでしょう。公開される授業はどこか「見ばえ」を気にし、参加教師はそういった授業を目標とする。メンターは陰に陽にメンティーを支配し権力関係を保とうとする ― そんな姿は皆さんの周りにないでしょうか。玉井の発言はそんな傾向からきっぱりと袂を分かつものです。だから根源的であり、見ばえや権力支配を是とする人々からすれば過激です。


私 (柳瀬陽介)は、一部のブログ記事やすべての論文の文体とはうってかわって(笑)、できるだけ平明な言葉で、英語教師が誰からも強制されることもなしに、自主的に自分たちのために開催している「自主セミナー」についてまとめます。まとめはどのように自主セミナーで学び、その学びを深めるかについてです。

これは達セミなどの自主セミナーに対する私なりの恩返しです。


私は教育学部で教員養成を担当していますが、その中で「まとも」なことを言えるのは達セミなどで実践者のお話を聞く機会があるからだと思っています。

私は10年以上、自分の可能な範囲ではありますが自主セミナーに参加して本当に多くのことを学びました。

その学びはこれまでホームページやブログで折に触れてまとめてきましたが、今回の『リフレクティブな英語教育をめざして』では、具体的な学びの内容もさることながら、自主セミナーから学ぶにはどうしたらいいかを私なりに分析してまとめました。

以下は私が索引にあげた語句ですが、このリストから、私が実感のこもった体験を、平明な言葉と必要最小限の理論的用語によりわかりやすく説明しようと試みたことを察していただければ幸いです。



官製研修
英語教育達人セミナー(達セミ)
つかみ
生徒指導
チョムスキー
追っかけ
田尻悟郎
懇親会
事務局
言語化
構成概念化
アンテナ
フィールドワーク研究
既製服
注文服
「うまくゆくはず」
判断力
魔法の呪文
守・破・離
いいクラス
蒔田守
自己肯定感
想像力を解放
職場
メタ意識
教育実習生
フィードバック
リーダーシップ
久保野雅史
研究
大学院
「何でも学」
第二言語習得研究
キャラ
「家に帰って寝るだけ」
複雑な関係性と相互作用
単純な因果的考察
仮説検証
「他の条件が同じならば」
ショーン
スクラップ
事例研究
物語
ブルーナー
仮定法化
やり方(HOW)
あり方(BEING)



今井裕之 (兵庫教育大学) も今回の私たちの試みが「見ばえ」や「計量的変化」あるいは「問題解決」を狙ったものではないことを説明します。



この実践を通して、実感を持って確信したことは、アクション・リサーチの駆動力は問題解決ではないということです。問題解決型のアクション・リサーチが「Problem-Cause-Solution」のサイクルを採るのに対して、今回の実践は、「状況に埋め込まれた出来事-出来事の説明の企て-出来事の理解の更新」のサイクルになっていて、そのサイクルを経て得た更新された理解は、言葉によって語られるものであるのと同時に、教室での相互作用 (の変化) によって表現されるものであったということです。 (261ページ)



私たちはリフレクションにおける語り (ナラティブ) を重視しますが、その語りも実践世界の行為連関の中に埋め込まれていてはじめて意味をもつものです。時には語りによって語られたこと以上に語ろうとしても語り得ないことが重要なのです。その語り得ないことをどのように伝えるのか ― これは今後の課題 (というより古今東西に見られる永遠の課題) です。



吉田は自らの論考で、これもある意味非常に大胆に「指導助言者」としての居心地の悪さを述べます。実践の状況をほとんど知らない「専門家」が実践者に何を「指導」できるのだろうというのが吉田の問いかけであり、これもラディカルな問いだと思います。


最後に玉井は次のように述べて本書を終えます。



教師の成長のための研究は、大学などに籍を置く研究者の手から実践家の手に研究の主導権を移すものでもあります。実践家はもはや研究される対象ではなく、自らが実践を過程の中で分析し、よりよい理解を試み、それを自らの言葉で語り始めるのです。その向こうに、学習者に対するより豊かな貢献がある、それこそが実践家によるティーチャー・リサーチではないかと思います。 (333-334ページ)



これもラディカルで、権力関係からすれば「革命的」とも言えることをさらりとのべた文章だと思います。私もこれとまったく同じ思いを抱き、先日のナラティブ・シンポジウムも開催しました。いやこの10年以上で私はこの思いにだんだんと至ってきたと言えるかと思います。


厳密で正確かもしれないけど極めて限定的な知識と視野しかもたない人間が大学に籍を置く「研究者」というだけで実践者を「指導」することが当たり前になる。実践者は「ご指導をいただく」存在に成り下がってしまう。あるいは誰かが制度上メンターとなっただけで、メンティーを一方的にコントロールすることが是とされてしまう (これはメンターの原義から外れたことですが、日本ではこういった例は多いのではないでしょうか)。実践者は指示を待ち指示に従うだけの存在になり、自ら考え自らを改革してゆくことを忘れてしまう ― 私の思い過ごしならいいのですが、日本の英語教育界にはこういった慣行がまだ多く見られるように思います。

しかし私がこれまでの10年以上の観察で確信できたことは、実践家の思考と判断、対応力と創造性は、下手な研究者をはるかにしのぐことも多くあるということです。研究者として過去の知見の整理と新たな問題発見の取り組みを日々行なっている者は、自らの狭い考えを実践者に押し付けるのではなく、実践者自身の思考と判断と問題問題発見を支援する方がはるかに創造的で現実に豊かに対応できるということです。

この本が広くまた深く読まれ、多くの実践者が研究者としても飛躍することを願ってやみません。そうしてこそ研究者もより広くより深い研究を開拓できるというものでしょう。



なお上の引用はすべて抽象的な文言ですが、こういった本の良さは具体的な事実の詳細にあります。ぜひお手にとってじっくりお読み下さい。




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工藤信夫 (2000) 『心の病とキリスト者の関わり』いのちのことば社

「べてるの家」について知るにつれ、自分がこれまでほぼ無批判的に肯定していた近代的発想、進歩の思想、上昇志向、正しさの概念がどんどん揺さぶられてきます。

だからといってこれらの考えを全否定して、正反対のベクトルにのみ向かうような愚かなことは考えていません。ただ、人間は上へのベクトルと下へのベクトルの両方を知らなければならないということは最近よく考えています。


この本は私が所属する教会の貸出用本棚で見つけたものです。


一部の人は、宗教や信仰がすべての問題を解決するとか言いますが、私はそのよう考えには賛同できません。所詮人間が認識したにすぎない「問題」を「すべて」「解決」することが全知全能と形而上学的に規定される神の視点からの義にかなうことかは私にとって大変疑わしいことのように思えます。

いや、そのように難しい話をせずとも、心の病といった「問題」も、少なからずのの教会が扱いかねています。そもそも牧師や信仰者自身が心の病にかかることも決して珍しくはありません。

私の理解 (誤解) するキリスト教とは、人間に神という上へのベクトルを教えると共にその上には決して到達できないことを理解させ [=旧約聖書的な教え]、かつ神から離れるという下へのベクトルからも人間は離れられないがその下に向かうベクトルにさえも救いはあること [=新約聖書的な教え] を教えるものです。

なんだか難しい言い方になりましたが、私が言いたいのは、人間は上へのベクトルと下へのベクトルの両方に引き裂かれていて、そうして引き裂かれている限り ―つまりは上か下へのベクトルのどちらか一つだけに従わず、両方のベクトルに従い矛盾を抱え込んでいる限り― 救われるのではないかということです。神を知り神ならぬ自らを痛感し、それゆえに神を希求し神ならぬ自らと隣人を愛する限り、人間は救われているのではないかというものです。

うーん、ますますわかりにくくなりましたね (笑)。


それでは口直しに、同書に見られた素晴らしい言葉をお読み下さい。



この本の著者は、精神科医でありながら (あるいは良心的な精神科医であるがゆえに)、精神医学の治験としての診断が、そのまま患者を救うことにはつながらないことをユングの言葉を借りて述べます。患者には、いや人には、物語という「意味」が必要なのです。



臨床的診断はそれが医者に一定の方向を与えるので重要である。しかし、診断は患者の役には立たない。決定的なものは物語である。というのはそれだけが人間の背景と苦しみを示し、その点でだけ医者の治療が作用しはじめることができるからである。
(A・ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子共訳『ユング自伝 1』みすず書房、182頁)



その「意味」とは、必ずしも通俗的なわかりやすさをもったものではありません。理屈で割り切れるものでもありません。心身の深いところで感得され伝わるものなのでしょう。その「意味」を伝えるものは「正論」ではなく「愛」と呼ばれるものなのでしょう。



わかっていて止められないのです、浅ましいと思いながら執着するのです。どうでもよいことに意地をはるのです、この人間の愚かさ、弱さ。それに甘えてはなりません。しかし、道理の通った正論でこの弱さをさばかれてはたまらないのも事実です。正論とは、道理は通っているが人間に届いていないせっかちさです。道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛と言います。道理が通っていないという理由でこれを斥けてはなりません。人間の弱さに対する洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです。
(藤木正三著『灰色の断想』「正義と愛」ヨルダン社、37頁)



しかし「意味」とて「愛」とて、人間的な問題のすべてを解消することはないでしょう。宗教も医学もあるいは教育も、人間が苦しむ問題の減少は目指せても根絶は目指せません。いや目指すべきではないのかもしれません。宗教も医学も教育も、人間が人間を超えることを教えるのではなく、人間が人間であることを教えるのではないでしょうか。



心理療法の最後の目的は、患者を(人間に)あり得ない幸せな状況にすることではなく、彼に苦悩に耐えさせる強さを可能にさせることである。
(C・G・ユングのことば。本書295頁)



人間が人間であるということは、神から隔絶された存在であるということです。それにもかかわらず神を知っている (あるいは予感している) ことから人間的苦悩は始まります。しかしその苦悩を引き受けることこそが人間の救いではないでしょうか。



存在への勇気は、受容されるべきでないにもかかわらずなお受容されたものとして自己自身を受容する勇気である。 ・・・ 受容を受容する勇気をうる資格を与えられているのは善人でも賢者でも敬虔な人でもなくして、これらすべての資質に欠けていてみずから受容されるべきでないことを知っている人々である。
(ポール・ディリッヒ著、谷口美智雄訳『存在への勇気』新教出版社、221-222頁)



日本文化に親しむ者は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を思い出すでしょうが、キリスト教的にはやはり新約聖書『マタイによる福音書』5章3節を思い起こすところでしょう。



心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(新共同訳)

Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven. (King James Version)

God blesses those who are poor and realize their need for him, for the Kingdom of Heaven is theirs. (New Living Translation)

Selig sind, die da geistlich arm sind; denn das Himmelreich ist ihr. (Luther Bibel 1545)

Glucklich sind, die erkennen, wie arm sie vor Gott sind, denn ihnen gehort die neue Welt Gottes. (Hoffnung fur Alle) [ウムラウトが3カ所ないことをお許しください]




「心の貧しい人々」とは少し理解しにくい表現かもしれませんが、今のところ私は「神から離れていることを痛感し悲嘆にくれる者」といったように理解しています。自らが善人でも賢者でも敬虔な人でもなく、金持ちでも権力者でも才人でも麗人でもないこと、あるいは仮に自分がそれらしき者に見えたとしてもそれは虚妄に過ぎないことを熟知していること ― これこそが人間らしさではないでしょうか。