2009年12月10日木曜日

片山洋次郎先生の著作

昨日の記事 (12/12-13 甲野先生と森田さん(および名越先生)のセミナー開催) は昼休みの慌ただしい中に書いたため、翌朝の始業前に追記を書くことになりましたが、後で見たらその追記にも修正が必要であることに気づきました。

馬鹿はことばを重ねる度に愚かさを露呈しますが、私の場合それだけでなくことばを弄するごとに馬鹿の坂を転げ落ちているようにも思います。断片的な時間で断片的な思考を断片的につづることで私のような人間はどんどん馬鹿になっているのでしょう。私はもっと沈思黙考する時間を持ち、沈黙を守る業を学ばなければならないのでしょう (と言いながらこのような駄文をつづっているところが「死ななきゃ治らない」と言われるゆえんです)。

と、自嘲はこのくらいにして、修正するべきことを書きますと、昨日引用した文章で森田真生さん言っていたことは、「相手の声 (という音と音色) を聴くこと」ではなく、「自分のことばが相手の中で響く音と音色に耳を澄ますことで相手と自分を知る」ということでした。


ことばというのは不思議なもので、私の発したことばが先生の中に受け入れられ、そのとき私のことばが先生のなかで響く「音」に私は耳を澄ませ、私はその音色に導かれるようにして、また次のことばを発するのです。

私は、私のことばが先生の中で生み出す音を通して先生を知り、またその音色を通して私自身のことばを知るのです。
http://www.shouseikan.com/zuikan0912.htm#1


ここで言われていることは、単に「対話の中の相手との関係性で純然たる自分とは異なる自分が生まれる」ということではありません。また「相手の声を身体的に同調しながら取り入れることが聴くことの根源である」ということでもありません。

そうではなく、「自らには明証と思われている自分も、実は自分の声が相手の心身にどう響くかということに耳を澄ますことによってわかるものであり、そうやって立ち現れた自分は自らの皮膚を越え、相手と状況の関係の中に立ち現れる。その自分を越えた自分こそがまた新たな自分を創り出す」といったことかと今の私は解釈します。


ここで私は自分の一知半解をごまかすようにして、また他人の著作を紹介します。しかし私の紹介の動機の不純さはともかく、紹介する方の著作は多くの人の共感を得るものかと思います。




今回紹介する方は、片山洋次郎先生です。


片山先生を音楽家の菊地成孔氏 (!) は次のように紹介します。


著作家としての片山の仕事は、我が国における「整体」という言葉(そして概念)の創始者であると同時に、近代身体論/療術道場運営の嚆矢として、没後三十年を経ても著作の出版/再版が留まる所を知らぬカリスマ、野口晴哉の仕事を批評的に継承し、尚かつ乗り越えた物である。と言うことが出来る。
菊地成孔 「解説」 片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、327ページ



私は学部3年生を対象に「言語コミュニケーション力論」に関する授業をもっていますが、そこでは5回の授業時間を使って英語教育界という業界で「標準的」とされている「言語コミュニケーション力論」を概説します。


その後で導入するのが業界ではあまり語られないが、業界を離れたところでは真剣に語られる「言語コミュニケーション力論」です。デイヴィドソン、アレント、ルーマン、内田樹を従来紹介していましたが、今年は思い切って「べてるの家」および片山洋次郎先生の実践から生み出された論を紹介しました。

学生さんに配布した資料の冒頭に、私は片山先生らの論を紹介する理由を書きました。

明治以来「近代的なるもの」はしばしば無批判的に受容・肯定されてきました。第二次大戦後は近代的なるものとしての「科学」が称揚され、その結果学校教育の影響を強く受けた者の中には近代的科学観で説明しにくい現象を言下に却下してしまう傾向さえ見られます。ですが近代的科学観が万全なものでない以上、無批判的な拒絶は合理的態度とは言えないはずです。ここでは近代的科学観からこぼれ落ちる日常的観察、そして近代を相対的に捉え直そうとする思考から謙虚にしかし批判的に学びたいと思います。

「近代的科学観で説明しにくい現象」とは例えば「気が合う・合わない」や「雰囲気がいい・悪い」です。私たちは日常生活で「気が合う」とか「いい雰囲気を感じる」という認識をしょっちゅうもちます。教師でしたら学習者と話をする時の気とか波長を敏感に感じますし、教室に入った瞬間に感じられる雰囲気を感知しながら授業の言動を決定することと思います。

このように生活に根差した現象 (あるいは現象の認識) も「近代科学」の枠組みに入れるととたんにうさんくさいものになります。「気が合う? それは脳内のどのような現象なのですか? 自分と相手の脳の間に何か特別な信号が伝達されているわけですか?」 「雰囲気などとあいまいなことばでごまかさないで下さい。明確に証拠として提示できる現象だけを扱ってください」などと言うわけです。

確かに「個人心理学」 (チョムスキー) の枠組みで考えると、人と人の「あいだ」に感じられる「気」や「雰囲気」などといったものは不可解なものに思えるでしょう。しかしだからといって私たちは「個人心理学」を代表例の一つとする近代的科学観を問い直さなくてもいいのでしょうか。あるいは相対化する必要はないのでしょうか。私は近代科学を否定することなく補完するために、言語学・応用言語学では「標準的」とされていない言説も敢えて取り上げることにしています。



片山先生の主張はある意味とても常識的で健全なものかと思います。

身体の響きは、内側だけでなく、実は外側にも漏れ出ていて、無意識にのうちに影響し合っているものです。 (中略) 身体がふわっとゆるんだ響きのいい状態になると、それはすぐに周りに伝わります。そばにいる人の身体も、響きに呼応するかのように、ゆるむのです。
(片山洋次郎 (2007) 『身体にきく』文藝春秋、25ページ)

そばにいるだけでこちらの身も心もゆったりなれる人がいれば、近寄られるだけでこちらの心身が緊張してしまう人がいることは私たちが日常生活で経験していることです。これは初対面の見知らぬ人でもしばしば経験することですから、このくつろぎと緊張の差は、相手が自分に対してもつ特定の権力関係など以外のこと ― おそらくは身体の響き ― によって引き起こされていると考えることができます。

片山先生は「気」を神秘化せず、また妙に近代科学的に説明しようともせず、「気」を情報の流れ、コミュニケーションとして捉えようとします。

気とは情報であるという考え方もある。このほうがもっと面白い。情報というよりは、コミュニケーションというほうがより良いかもしれない。ただし、普通コミュニケーションといえば、交互に情報をやり取りすることだが、気的コミュニケーションは交互ではなく同時であり、発信・受信の区別がない。決して一方通行ではない。

よく「気を送る」とか「気を通す」とかいうことがあるけれども、「送って」いる側も同時に受けているのであり、「受け」ている側も「送って」いるのである。だから、「 "共鳴" シテイル」といえば一番ぴったりくる。「送って」いる側は "共鳴" の対象や仕方(間合いのとり方)を調整しているのである。よく共鳴していれば「気が合う」とか「親しみがある」感じがするし、よく共鳴しなければ「気が合わない」か「冷たい」感じがする。
(片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫、27ページ)

ここでいうコミュニケーションとは、コードモデルによる通信機器的な信号伝達ではなく、相互が同時に影響し合い「共鳴」していることです (この「共鳴」が比喩なのか、それとも物理現象なのかは今は問わずにいましょう)。


繰り返しになりますが「身体の共鳴」といった認識を「心」の説明に使うことは、近代科学あるいは個人心理学の枠組みではほぼタブーです。しかしそれはその枠組みのせいだと考えることはできませんでしょうか。

デカルトの「我思う、故に我あり」というのは高校のときに習った。近代科学と合理主義の基礎を切り開いたわけだから、今日でもあらゆるテクノロジーの基礎的思考法である。よく問題にされるのはその「心身二元論」だ。簡潔に言ってしまえば超越的視点から世界を見る方法ということになるだろう。そのために身体から思考を切り離す必要があったのだ。逆にいえば超越的な視点、「純粋客観的」な視点を獲得するためには、身体の影響をとりあえずどうしても排除したかったということだ。純粋な思考にとって身体の影響はノイズである。
(片山洋次郎 (2001) 『整体 楽になる技術』ちくま新書、118ページ)

デカルト以来、「心」 (mind) と「身体」 (body) は峻別されるべきとなりました。そして科学はもっぱら "body" (=「身体」および「物体」) を扱いました。近年はさらにその傾向が強まり「心」も「脳」という「物体」の現象として説明します。

そのように「心」を物体として説明する科学者の「心」あるいはその説明を聞く私たちの「心」は、まさにデカルトが想定したように無色透明どころか身体・物体から切り離された「純粋な思考」であると想定されて疑われることがありません。

しかし科学者の「心」は、彼/彼女自身の身体の影響を受けないものなのでしょうか。私たちは人間として何かを理解するときにも身体という媒体を通じてしか理解できません。私たちは身体に棲んでいます。身体という要因を勘案に入れない「心」の理解にはどこか構造的な欠損がないでしょうか。

理解も、言語使用も、コミュニケーションも、もっと身体の現象として ― といっても心から分離された身体ではなく、概念の便宜上分けることはできても実相においては心と不即不離な身体の現象として ― 考えるべきではないでしょうか。


私の悪い癖で話が乱暴なまでに大きくなりました (つける薬はありません)。しかし片山先生の次のことばなどは、冒頭の森田さんのことばと通じるところがあるかもしれないと思います。もちろんこの場合の身体とは他人の身体と周りの世界と響き合う身体です。


私という生はどこに向かおうとしているのか、何を求めているのか ― 答えはすべて身体が知っています。心静かに耳を傾けるとき、深い呼吸の中から自然に湧き上がってくるものなのです。

「聴く」ということは、受動的なようでいて、実は能動的です。それは響き合おうとする主体的な姿勢です。
(片山洋次郎 (2004/2009) 『骨盤にきく』文春文庫、216ページ)



片山先生の著作にご興味のある方はどうぞご自分でお読みになって吟味されて下さい。

私は今日はこれからしばらく黙って耳を澄ますことにします。



片山洋次郎 (1989/2006) 『整体から見る気と身体』ちくま文庫

片山洋次郎 (1994/2007) 『整体。共鳴から始まる』ちくま文庫

片山洋次郎 (2001) 『整体 楽になる技術』ちくま新書

片山洋次郎 (2004/2009) 『骨盤にきく』文春文庫

片山洋次郎 (2007) 『身体にきく』文藝春秋

片山洋次郎 (2009) 『自分にやさしくする整体』 筑摩書房






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