2009年12月31日木曜日

さようなら2009年 ―年末年始の御挨拶に代えて―

[読み返すと稚拙極まりない駄文ですが、私は愚か者で確実に失敗を自覚しないと前に進めませんのでここに敢えて駄文を掲載します。]




例えばAとBが関わるということは、AとBのそれぞれに反応が生じるということであり、その影響は例えばAが物理的に消えた後もBに残る。(関係性は特定の物理的基盤に依存しない)

Bが新たにCと関わるとき、CにはBからの反応が生じるが、それはその場にいないAからの影響を含むものである。

この論によるなら、AだけでなくBも消えたとしても、CがDと関わるときに、DにはCだけでなくAとBの影響が残っているということになる。

この論を延長するなら、Zには、もはや痕跡すら定かでないA,B,C・・・の影響が残っていることになる。それはもはや直接の反応ではないが、間接的な余波、あるいは余波の余波であることは間違いない。

今アルファベットで表現している個体は、人間だけでなく物も含む。また、Zまでの26文字は無限の個体を表現するぎこちない記号群である。つまりここでのアルファベットは、世界に存在するすべてのもの (者・物) を表現している。

すべては連なっている。(関係性は特定の物理的基盤に依存しない)


***


この世界に存在するもの (者・物) が何かと関わるとき、それは世界のこれまですべての反応の到達点であり、世界のこれからすべての反応の出発点である。「今・ここ」における。

世界は「今・ここ」において終結し、新生する。

世界とは ―世界のすべてとは― 「今・ここ」における終結と創造の時間的・空間的な総体である。

あなたもこの瞬間、あなたの行為により一つの世界を終結させ、一つの世界を創造している。 (人生とは「この瞬間」の連なりにすぎない)

私たち一人一人は、一瞬一瞬において世界の再生に責任を負っている。


私たちは常に世界のこれまですべてを引き受けている。
私たちは常に世界のこれからすべてを担っている。

「今・ここ」において


***


あなたが被った哀しみは、過去の誰かの哀しみの余波から引き起こされた哀しみかもしれない。
願わくば被った哀しみを、あなたが少しでも喜びの流れに変えることができますように。
変えられないならそれを細切れにして私たちに引き渡し、私たちがそれらを喜びに変えられますように。

あなたが感じた喜びは、過去の誰かの喜びの余波によって引き起こされた喜びかもしれない。
願わくば感じた喜びを、あなたが少しでも大きな喜びの流れに育てることができますように。
育てられた喜びを私たちにも分け与え、私たちがそれをさらに豊かに広げられますように。


一瞬一瞬の行為において、私たちが世界に連なる実感、世界という生命を感じられますように。
(これが「常に神を思え」ということなのだろうか)

生命とは個体を超えていることを実感できますように。
(これが「永遠の命」の意味することなのだろうか)



さようなら2009年




2010年が皆さんにとってよい年でありますように





10 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

こんにちは。将来は院で哲学科に進もうと思っている哲学者(※哲学研究者ではなくて)志望の医学生です。英語教育にも興味があります(日本の受験英語教育になじめず、中2次から高3次まで通訳学校「インタースクール」に通っていました)。先生のように哲学的なレベルで英語教育を論じている人にはじめて会いました。

>願わくば感じた喜びを、あなたが少しでも大きな喜びの流れに育てることができますように。
育てられた喜びを私たちにも分け与え、私たちがそれをさらに豊かに広げられますように。


>一瞬一瞬の行為において、私たちが世界に連なる実感、世界という生命を感じられますように。
(これが「常に神を思え」ということなのだろうか)

>生命とは個体を超えていることを実感できますように。
(これが「永遠の命」の意味することなのだろうか)

柳瀬先生がただのすごい哲学者・研究者ではなくて、とても暖かい人なんだな、というのがこの日記から感じられ、感動してしまい、今更こんなコメントを寄せている次第です。生命=世界=神(西洋的な文脈での”唯一神”とは違って)という感覚は、僕にもとてもよくわかります。

あと、先生が別の日記で<「英語はできるようになろう」と思ったら、遠回りにみえても、最初はしっかりと日本語で読書して下さい。みずみずしい感性と嬉々とした意欲に充ちた生きた教養こそは、これからの高度知識社会でもっとも重要なものだと私は考えます。>と書いておられるのにも非常に共感しました。外国語力は母国語力の部分集合なのに、母国語を疎かにして英語にだけ力を注いでいる高校生って多いんですよね。

<どんな人間になってもいいけど、自分が常に最高・最良の判断をしている人間だと信じて疑わないような人間にはならないでね。自らの正しさを少しだけ疑う回路を自分の中に組み込んでね(疑いすぎても駄目だけどね)。そのためには、自分の判断をひとまず停止させて、わかるまで古典と格闘するという訓練は大切なことよ。>

古典ってやはりなかなか重くて手がでない、というのが正直なところだったので、耳の痛い話しです。古典を読むのは自分の正しさを疑う回路を組み込むため、というのは新しい観点で、勉強になりました。古典、毛嫌いせずに、読んでみようと思います。

なんだかとても感動しました。また来ます。ありがとうございました。感激のあまり、長文になってしまい、ごめんなさい。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、

はじめまして。過分のコメントをありがとうございます。

私は本業でもきちんとした仕事ができていませんし、
ましてや哲学は自己流でやっているだけです。
でも哲学―というより考えること―は、あらゆる学問の
基礎ですから、哲学をすることは大切なことだと思っています。

Tomoさんは医学部生なんですね。
哲学科に進学希望とのことですが、医者をしながら哲学してゆく
ということでしょうか。

「正式な」哲学教育を受けていない私がこのようなことを言うのは、
本当に顰蹙なのでしょうが、私は職業化された講壇哲学より、
何かの現場で実践をしながら哲学する方が面白いのかなとも思ってしまいます。

特に最近はneuroscienceの発達がめざましく、多くの哲学者が
その発展についていっていないようにも思えますので(←顰蹙発言)、
医学をやりながら哲学するというのが面白いのかなとも思えます。

ごめんなさい。頼まれてもいないのに余計な進言をしてしまう
のが私の悪い癖です。

Tomoさんのこれからの人生が豊かなものになりますように。

Tomo さんのコメント...

すみません、先ほどは熱に浮かされて書いたような文章を読ませてしまいました。

>でも哲学―というより考えること―は、あらゆる学問の基礎ですから、哲学をすることは大切なことだと思っています。
>「正式な」哲学教育を受けていない私がこのようなことを言うのは、
本当に顰蹙なのでしょうが、私は職業化された講壇哲学より、何かの現場で実践をしながら哲学する方が面白いのかなとも思ってしまいます。

仰ることはよくわかります。別に「哲学」のアカデミズムの訓練を受けたからといって哲学が「できる」ようになるわけではないし、訓練を受けていなくても他の分野で(先生のように)哲学をされている方はおられる。ただ、僕個人は敢えてアカデミズムの要求する形式性・制約(そしておそらくはその退屈さ)の只中に身を置くことによって、「守破離」というのですか、自分を訓練してみたいというのがあるのです。まあ実際哲学科に行ってみたらてんで期待はずれだったということもあるかもしれませんが。

>特に最近はneuroscienceの発達がめざましく、多くの哲学者がその発展についていっていないようにも思えますので(←顰蹙発言)、医学をやりながら哲学するというのが面白いのかなとも思えます。

neuroscienceの発展は目覚ましいですが、結局のところ、重要な哲学の問題はscienceでは解けない(と医者の卵でしかない僕が偉そうに言うのはかなり顰蹙ですが、こっそりここで言ってしまいます)と個人的には思っています(scientificな手法で解けない問題などそもそも問題ですらない、と実証主義の人には怒られそうですが)。

これからの哲学ができるひとつのことは、neuroscienceの立っている基盤(e.g.知覚の因果説)の問い直し、ではないかと個人的には、素人考えですが、考えております。ただし、人間の身体性について知るというのはとても大事なことだと思うので、そういう意味では医学をやりながら哲学をするということは重要かなと思っています。とくに僕は身体性をいささかなおざりにして生きてきてしまった感があるので。

Tomo さんのコメント...

また、知覚の因果説の問い直しは、自我の問題に直結しています。

我田引水ですが、先生が別の日記に書かれていた、

>「私」は解放された。自由になった。なぜならば切り離したからだ。
>「私」は近代社会の枠組みにおいて支配する。収奪する。搾取する。
>― 自然を、他国民を、自国民を、同僚を、隣人を ―
>だがそんな近代社会は歪んでいないのだろうか。

そうした世界(客観的世界)と私(主観)の「切り離」された構図のひとつが、まさに現代の科学ではないかと(浅はかにも)思うのです(先生が仰る通り、資本主義もまたその構図の一つでしょう)。もともとそれはひとつに繋がっていたのではないか(すべてがひとつ、と言っても決して全体主義的な意味ではないです)。そういう形而上学的直観が僕にはあります。それをこの先追及してゆきたいんです。ですから、wholisticな東洋医学なども僕の学びの射程に入っています(今のところ何もできていませんが)。

>ごめんなさい。頼まれてもいないのに余計な進言をしてしまうのが私の悪い癖です。

いえ、そんなことないです、若造のへんてこなコメントにこれだけアドヴァイスしてくださり、ありがとうございます。

別の日記ですがw

>で、イエスは三日後に「よっ!」と帰ってきたのですが、弟子達ですら最初はそれを信じられませんでした。

イエスむっちゃ気さくですやんw不覚にも笑いましたw神も関西弁やしwもしやあれですかね、バベルの塔崩壊以前はみんな関西弁喋ってたんでしょうかねw

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、
またまたコメントをありがとうございます。
なるほど一度は哲学の「訓練」を受けてみたいというわけですね。
私のアメリカ人の友人(シカゴ大で哲学・ハーバード大で法学教育を受ける)は、
哲学をやるなら、おそらく科学がどんなに発達しても哲学として残るような
古典的な問題をやった方がいいと言っていました。

もし人生の数年間、哲学をガンガン勉強できたら面白いでしょうね。
ここで妄想しますと、私なら

(1)ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語などガンガン
勉強して、哲学の古典を自力で読めるようにする。

(2)ルーマンを理解するため、システム理論あるいはsecond-order cybernetics
をきちんと勉強して数学的にも理解できるようにする
ようなことをするでしょうか。

つまりは言語と数学をきっちりやるという古典的な勉強です
(でもシンドそうw)

あるいは

(3)サンスクリットを勉強して哲学としての仏教を勉強するw

というのもありでしょうね。いや、実際、仏教は世界的にはまだまだ過小評価されている人類遺産だと思いますし、仏教を勉強するなら、日本はまあいい場所だと思いますし・・・


因果については、最近ノーベル生理学賞のEdelmanのSecond natureを読みましたが、
意識の因果性についていろいろ考えさせられました。狭義の科学では解きにくく、
いったんは哲学で考えなければならない問題でしょうが、最後はまた科学に戻らなければ
ならないようにも思えました。

まあ、考えてみたら科学と哲学が分離してしまったように思えるのも19世紀に哲学が講壇哲学として専門職業化して以来のことでしょうから、今またそれが揺り戻され、科学と哲学の間の垣根が低くなっている(あるいはならねばならない)のかもしれません。

あ、それからバベルの塔崩壊以前はみんな関西弁喋ってたと私はてっきり思っていましたw


それでは!

柳瀬陽介 さんのコメント...

妄想の追伸w

(4)米国かどこかでneuroscienceもやっているような哲学科のdiploma/MAに入ってみる

というのも面白いかもしれませんね。

現実的には、英語がガンガンにできるようになっておくと(つまり英語がきちんと書けるようになっておくと--私はまだそこまでいっていない 泣)、一生の財産になりますからね。


すみません、すべて妄想ですので、適当に読み流してくださいね。

Tomo さんのコメント...

読み流してくださいといわれたのにレスしてしまいごめんなさい。お忙しい中、とても暖かく丁寧な返信をいただきありがとうございます。

そして、いろいろと楽しい妄想を書いていただきありがとうございました。学部の勉強そっちのけで(コラ)そういう将来についての妄想をいつもしているので、ちょっとまずいんですが(^^;)

そうです、「アカデミズムの訓練」を受けたいということなんです。知的に脆弱な僕がはたして耐えられるかどうかわかりませんけれども(苦笑)

(3)について。仏教的世界観、とくには「空」と「縁起」の思想には非常に興味があります。手はだせておりませんが。ですから、先生のアドヴァイスのとおり、東洋哲学のほうに行ってみたい気分もあったりはするのです。

(2)について。とりあえず数学が苦手だったもので、形式論理学と離散数学の初歩だけは学部在学中に自分で独学しておこうと(思ったり)しています。離散数学はコンピュータサイエンスとも繋がってますし、論理学のすぐ外側が”数論”だということですし。いやー数学と哲学のつながりって(一般的に知られているより)深いですものね。うへー(笑)

Tomo さんのコメント...

(4)も考えていたのですが、先生のお友達の仰るように「おそらく科学がどんなに発達しても哲学として残るような古典的な問題をやった方がいい」かなと考えて、最近は考え直し中です。それに、アメリカの哲学の有名大学院はおそろしく倍率高いですしねぇ(^^;)UCSDとかインディアナ大学ブルーミントン校とかは哲学と認知科学を両方学べるプログラムがあるそうなのですが。とりあえず修士は東大の野矢茂樹先生につきたい!なんて思ってます。まだ先の夢ですが。でも、英語のライティングってなかなか意識的に訓練しないと難しいですよね。日本国内で訓練するには、やはり良い文章をお手本にまねっこして書きつづけるしかないのでしょうか?専門家の柳瀬先生からその点についてアドヴァイス頂ければ、幸いです!

>あ、それからバベルの塔崩壊以前はみんな関西弁喋ってたと私はてっきり思っていましたw

僕は大阪人なのですが、それはバベルむしろ崩壊してよかったのかもしれませんね、世界の平和のために(笑)関西弁はなかなか楽しい言語ですが(大阪ってオバチャンの原色ファッションとか人々のノリとか、ちょっとイタリアっぽくないですか。関西弁も日本語にしては抑揚があって、イタリア語っぽいし。ちなみに京都はちょっとフランスっぽくないですか・笑)、世の中の人がみんなあれを喋っていたら、ちょっとそれはそれでアレかもしれないですしねぇ(爆)もしや創世期の”混沌”もあれ実は大阪のことなんじゃないでしょうね、大阪ほんとカオスですからねえ(爆)

えーと、なんだか先生のブログに私事ばかりつらつら(しかも長文!)書いてしまい、申し訳ございません~。読んでいただき本当にありがとうございます。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、

ライティングについては、およばずながら私は

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html
のいくつかの記事で指針を書いています。

また
http://www.eigokyoikunews.com/columns/y_yanase/2009/04/post_2.html
ではいくつかの本を紹介しています。

にしても、今から勉強できるなんて、若いっていいなぁ。
ハイ、私も遅ればせながら勉強します。

それでは!

Tomo さんのコメント...

高度な一般的英語力を目指すために(2006/5/13)

私も「英語力は日本語力の部分集合に過ぎない、だから日本語力の鍛錬を疎かにして英語だけできるようになろうなんて無理、たとえばカラオケ日本語で歌ったら音痴なヒトに洋楽歌わせたらむっちゃ巧いなんてありえへんでしょ」とつねづね主張しているのですが、柳瀬先生のこの記事を読んで、ああやはり私の主張は間違っていなかったと勇気づけられました。まさに仰る通りだな、と。このピラミッド、本当に大事ですよね。このピラミッドのどこの階層が欠けても、いけない。このことを強調する先生方が高校とかにもうちょっと増えたらよいのにな、と思います。他の記事もゆっくりと楽しく読ませていただこうと思います!

また、先生は下のページで科学における英語教育の本をいくつも紹介されておりますが、特に私の場合は科学の中でも医学における英語教育に興味があります。医学英語には、医師-医師間で使われるムズカシイ医学英語e.g."otitis media", "abdomen"と、医師-患者間で使われるヤサシイ医学英語(医学英会話)e.g."ear infection", "tummy"がありますが、一般的に日本のお医者さんは後者がとても苦手だということです(なぜならば後者を大学で習うことは殆どないからです、日本大学医学部は例外ですが。押味貴之という医師・医療通訳士・言語学修士の先生が6年間一貫の英語教育をされています)。これから日本が国際化してゆくなかで、英語話者の患者様も増えるでしょうから、医学英会話というのはますます重要になってくるのではないかと考えております。

楽しい時間をありがとうございました。素敵なご縁に、感謝です。また勉強につまづいたときなどはぜひ柳瀬先生に相談させていただきたく思います(押しかけみたいですみません^^;)!またちょくちょくブログ読みに伺いますので今後ともよろしくお願い致します~!! o(^-^)o