2010年2月27日土曜日

『バットマン ダークナイト』

3本買ったら1本1000円でDVDを購入。

どこかで噂を聞いていた『バットマン ダークナイト』を選び、見る。


すげえ。


ひさびさ面白い映画を見た。


脚本がよく書けている。俳優がいい。音楽がいい。映像と色彩の感覚もいい。

アメコミを題材にして、どんどん人間の影を描き出す。というより影と光の共存を描き出す。

登場人物のジョーカーが、まさにドラマの「ジョーカー」として次々にドラマにカオスをもたらす。

現代の寓話として非常に面白い。(かといって安直な類型化・教訓化は絶対にしたくないけど)



2時間半、ストーリーに飲み込まれてしまった。



「神話」のリアリティが失われてしまった現代、私たちの少なからずはSF仕立ての映画に名状しがたい人間の無意識の動きを語らせているのかなぁ。


設定や登場人物の荒唐無稽さというのは、短く大胆に人間を描き出すときに時に有効なのかもしれない。







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2010年2月22日月曜日

学生さんのレポートから (言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて)

学生さんに書いてもらったレポートの中で印象深い箇所をいくつか抜粋してここで紹介します。

まずは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」のレポートから。


3年生Mさん

授業で田尻悟郎先生の英語スピーチ授業を拝見したとき、最初に感じたのは単純に生徒の英語力の高さに対する驚きであった。私が中学生のときのことを思うと、教科書を音読することはよくしていたが自分の英語で話せと言われると途端に何も言えなくなっていた。なので、ビデオの中の生徒たちはよほど英語力が高いのだろうと思った。確かにそれもあるのだろうが、しかし彼らが活き活きと自分の英語を話していたのは何も英語力が高いからという理由だけではないのだと思い直した。彼らには話すことがあり、それを聞いている人に伝えたいというコミュニケーションの基本があった。


3年生 Y君

蒔田先生や田尻先生のビデオ視聴を通して、先生たちの実践を目の当たりにして多くのことを考えさせられた、それぞれ独自の良さがもちろんあるが、幾つかの共通点があるように感じた。

一つ目の共通点として、お二方の先生とも授業内での自分の見せ方をきっちりと意識的に定めて授業を行っているということだ。蒔田先生は自分を大きく見せないであったり、自分がまず楽しむであったり、先生が生徒の前でジタバタしているところを見せると言った考えからわかるように、自分をしっかり一度客体化して見ていることがわかる。田尻先生は、教師はエンターテイナーであると言っているが、この考えも蒔田先生と同じように自分がどう見えているか、見られているかということをしっかり意識していることが分かる。これは、お二方の先生とも言葉だけでなく、教室内の雰囲気や、それぞれの気分、教師の表情や、声の調子など様々なものがコミュニケーションに影響していることを理解しているからであると感じた。自分から生徒の前で身振り手振りを入れながら、やや大げさとも見えるくらいのリアクションをとる。先生がまずお手本として、コミュニケーションの仕方を見せているという印象を持った。先生が行うのを見ていた生徒は、やはりそれをみてコミュニケーションを学ぶ。このためか、お二方の先生の生徒たちは、ビデオの中でほとんど恥ずかしがることもなく、楽しそうに時に大げさに、感情をこめて音読や発表に取り組んでいた。これは、先生の姿を日ごろ見ながら少しずつ、コミュニケーションとは言葉だけでなく、身体を使って表現するものなのだということを学びとっていったからではないかと考える。


3年生 Mさん

 2.3 講義内でのフィードバック
  講義の中で先生方の授業実践のVTRを見たあとに、その内容について意見交換した際のフィードバックをまとめる。この協議のキーワードは「経験」「信頼関係」「自分のスタイル」であったように思う。

  2.3.1「経験」
   教師という仕事は理論やテクニックだけでは成り立たない仕事である。教師自身の失敗体験を含む、様々な経験を積み重ねることで教師としてのスキルを身につけることができる。しかしながら経験だけでよい教師になれるわけではない。経験したことをしっかり反省・分析し、その結果をきちんと整理して次に生かすことが重要なのである。経験・反省・分析・整理というサイクルを絶えず繰り返すことで教師の技量が向上し得る。

  2.3.2「信頼関係」
   生徒と信頼関係を気付くためには教師の働きかけが大きな意味を持つ。蒔田先生も、田尻先生も、生徒一人一人を見つめる視点を常に持っていると感じた。しっかり生徒と向き合い、相手に応じた方法でこつこつと信頼関係を築いていく。短時間でできるようなことではないが、生徒にとって適切なタイミングを見逃さず、最良の支援を行う。それを積み重ねていくことが重要なのである。授業の主体はあくまでも生徒であり、教師はその補助をする役割を担っているのだ。授業は教科指導だけを行うものではないということはすでに述べたが、授業を含め学校教育の中で生徒指導は中核をなすものと言える。この生徒指導を行うためには、生徒と教師の間でしっかりとした信頼関係があることが欠かせない。

  2.3.3「自分のスタイル」
   このように、経験を積まれて素晴らしい授業をする先生方の姿を見ると、誰しも「こんな授業がしてみたい!」と思うだろう。しかしながら、やみくもに模倣しても成功する可能性は低い。技術ばかりに目が行くが、技術の背景には多くの要素が存在することを忘れてはならない。その要素とは、教師自身のキャラクターや、生徒の実態、環境など様々である。先生方から学ぶべきことは、技術なのではなく、人間としてのかかわり方・人への思いやりなのではないだろうか。相手のことをよく考え、かつ自分に合った方法で指導することが最善なのである。


3年生Yさん

英語授業でのコミュニケーションを考えたとき、2009年7月の『新英語教育』に掲載されていた青森山田高校の小山美樹子先生の記事を思い出した。小山先生はリーディングの授業を例に挙げて、コミュニケーションという観点から、授業を英語のみで行うということについて疑問を投げかけていた。
以下に記事から引用する。

・・・「先生、あのさ、あのさ、なんて言ったらいいの。うーん、上手く言えないんだけどね。あーー」本当にもどかしそうに言葉を紡ごうと苦しんでいる。仲間と一緒に悩んでいる。中には自分の言いたいことを上手く言えないと「あー、わかんね」と短気を起こす子も出てくる。「わかんなくてもいいから、考えよう。わかんなくても考えるのと、わかんないからって考えるのをやめるのはとっても違うと思うよ」としか私は言えない。母語でさえこうなのだ。


英語の、特に高等学校の教科書には興味深い題材が多く用いられている。私たち大人が読んでも考えさせられるものはたくさんある。生徒たちがそこから内容を読み取り、それについて自分なりの考えや意見を持ち、それを何とか言葉で表現しようと葛藤する様は、まさに「べてるの家」で自分の考えを整理して何とか伝えようと考えて、言葉を見つけよう、選ぼうとしている様と限りなく近いといえるのではないだろうか。題材は間違いなく英語で書かれているのだから、そこから何か感じ取るには、まず内容を理解しなければならないし、その上で自分なりの意見を持てるような読み方をしなければならないからその意見を英語で表現できなくても立派にコミュニケーションをしている。というか、書かれている内容を自分の中で咀嚼し熟成させて、そこで生じた考えや思いを表現しようとすることは、私にとっては言語さえ超えたコミュニケーションのように思えてならない。そしてこのような読みを繰り返し行うことで「死ね」「むかつく」「すごい」「かわいい」といった言葉で多くの感情表現を済ませてしまうような子どもたちを少しでも減らすことにつながるのではないだろうか。


3年生 Wさん

先ほど述べた通り、感情と言葉は互いにコミュニケーションを取り合っています。コミュニケーションでは互いに相手に合わせていこう、歩み寄って心地よい関係を作っていこうとします。それはこの場合でも同じです。感情を上手に表す言葉が見つからない場合、言葉を感情に合わせるか、感情を言葉に合わせるかどちらかの方法で、感情と言葉はコミュニケーションをとっていきます。言葉を感情に合わせるということは、自分の複雑な気持ちや微妙なニュアンスを表す言葉を試行錯誤しながら探していくということです。言葉と感情のズレを解消するために、本を読んだり友人と話したり音楽を聞いたり古典を読んだり外国語に触れたり…このような活動を通して自分の感情をうまく言い表している言葉を積極的に探していきます。感情を言葉に合わせるというのは、違いのある複雑な感情を単純化してひとつにすることです。微妙な違いにとらわれるのではなく、感情を大まかに捉えることで、言葉と感情のズレを修正します。そのため自分の感情がどんどん単純化され貧しくなってしまいます。


3年生 Mさん

ここでは「自主セミナーを通じての成長」に沿って考えていきたいと思う。成功者の実践を「技」と呼び、「技」を取り入れるには大きく3つのポイントがあるのだと分かった。まず1つ目として、「技を言語化すること」2つ目「技の使いこなし方を会得すること」3つ目「技の前提を知ること」である。どれも私にとって「そうだったのか!」「どうして気付かなかったんだろう!」と刺激的で有益な情報であった。
(中略)
2つ目に「技の使いこなし方を会得すること」である。ここは自分でもなんとなく以前から思っていたことと近いことであった。「なんとなく」似ている、と感じたのは私がしっかりと言語化していなかったせいであろう。その技がうまく機能した状況と私が今いる状況とでは異なっているということ、少しずつ自分にあったものに改良していかねばならないことも承知していた。しかし、同じ技を工夫しながら使い続けること、技の先入観に支配されないことが私には欠けていたと思う。また「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」という教訓がとても印象的だった。一見矛盾しているような言葉だが、これまでのスポーツに置き換えると思い当たる節がある、そんな言葉であった。王老師の例はまさに私も経験したことのあるものだった。私は高校生のころかテニスをしていたが、始めたばかりのころ教わったフォームでやってみているはずなのに、その都度変わるアドバイスによく戸惑った。しかし練習を重ね経験を積むと、フォームはそのときの状況に合わせて最良の形に微調整するものだと気付いた。ボールが高く弾むと予測できたら、立ち位置をいつもより後ろにしたり、ボールを打つ位置を高めにしたり、という具合である。このように方法だけを言うのは簡単だが自分でその判断ができるようになるまでがなかなか簡単にはいかなかった。的確な判断をしたり、頭で考えた判断を実際行動に移したりすること、頭と身体のつながりを成立させるには回数をこなし経験を積むこと、ボールの跳ねる程度、自分の力がどのようにボールに反映されるかなどの癖を知り、予測できるようになる過程が必要であると思う。また自分自身の癖や傾向を知り、微調整することも必要ではないかと思う。このような経験があったので王老師の「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」というエピソードに共感できた。しかし私はこのことをテニスには経験的に当てはめることはできていたが、学習などのことには応用することができていないことに気付いた。どうしてか、と考えてみるがなかなか簡潔な答えは思い浮かばず、しかしやはり私は学習面に関しては「技」を絶対的なものと考えてしまっていたのではないかと思う。また自分の学習に関してその癖や特徴をとらえられていなかったと思う。これは見直すべき点だと思うのだが、自分の癖はともかく、英語や教育についての傾向や癖といったものは多様で、膨大なものだと思うのでこれに関しては、このトピックで学んだように状況に合わせた対応をしなければならないと感じた。


3年生 N君

以上三つの点を踏まえた上で、私が教師に求められると考えることを一つ挙げて、このレポートのまとめとする。現代のこの複雑な社会で、教師が子供たちと関わりを持つ際に心がけるべきこと、それは「ゆっくり聞き」・「ゆっくり話させる」ということである。情報・科学技術の発達に伴い何もかもが便利化すると共に、ますます高速化しているこの現代社会で、生徒たちはその波に流されてしまい、自分たちの意見をゆっくりと整理し、しっかりと考えながら人に伝える機会は少なくなってしまっているのではないだろうか。それは相手が教師であっても同じである。しかし先述したように、教師は子供たちが他との間にもつ「関係」とは異なる新たな「関係」を作り出す相手・対称になる可能性をもっている。まず「ゆっくり聞く」姿勢で充分なラポールを形成し、「ゆっくり話す」対象と時間を与えることにより、生徒は自らを生きた言葉で表現し、自らを成長させることができるのではないだろうか。

また、上で「話すこと」の対象である教師にとっても、「ゆっくり聞く」ということはその発言についてゆっくり考える時間を与えられることになり、それにより深い生徒理解に繋がる。もちろんその発言が聞き手である教師の成長に繋がることもあるであろうし、それが多くの教師が「教師でありながら生徒から学ぶことのほうが多い」と述べる所以ではないだろうか。


3年生 Kさん

子どもを馬鹿にするわけではないが、子どもの話は多くの場合他愛もなく、伝えたい「相手」がいるから、伝えたい「内容」が生まれてくるのではないかと思う。私はこの関係性はとても大切ではないかと思う。伝えたい相手がいれば、伝えたいことを「考える」ことができるようになる。子どもがその日の出来事などを親に伝えるという生活の一場面は、実は子どものコミュニケーション能力の育成において非常に大きな役割を果たしているのではないかと思う。子ども同士でもコミュニケーション能力は育めるが、周りの大人とのコミュニケーションは、伝えたい「相手」としての存在の大きさと、大人の持つコミュニケーション力を子どもに伝授できるという点から、非常に大事だと思う。忙しい大人たちにとって、子どもの話をゆっくり聞く時間はないかもしれないが、子どもたちは伝えたい「相手」としての大人を必要としている。子どもの話は無意味だったり、わかりづらかったりすることも多く、またなかなか表現が見つからず時間を要することもあるが、「灰色の男」に惑わされることなく、大人が辛抱強く聞くことが大事だと思う。そうすれば、子どもは伝えるために考えることをやめない。このことは、教師にとっても同じことだと思う。授業を先に進めなければという焦りに駆られず、子どもたちの話に耳を傾けることが大切だと思った。ただし、一方で授業はやはり先に進めなければならないものなので、その折り合いが難しいとは思った。


3年生 Mさん

さてここでもう一度話題を日本における外国語教育に戻したい。冒頭部分でも述べた「日本人が十分なコミュニケーション能力を習得できない原因は、文法などの知識を教えることを授業の中心として十分なコミュニケーション活動をさせていないことにある」という批判について、デイヴィドソンの理論を用いて考えてみる。言語についての知識を与えることは事前理論を大きくすることにつながるが、実際に事前理論を基にして意味交渉を行わなくては即時理論の共有はありえない。即時理論を共有させるという能動的な行為を練習する場が授業におけるコミュニケーション活動にあたるだろう。しかし、デイヴィドソンの立場に立って考えると、私はここに日本の外国語教育に対する考え方の矛盾が存在しているように思えてならない。というのも、コミュニケーションにおいて間違いとは切り離せないものであり(実際第一言語でも日常的に起こっている)、間違いがあっても聞き手の徹底的な解釈によってコミュニケーションは成立すると考えられているのにも関わらず、日本の外国語教育が指す「コミュニケーション活動」とは得た言語知識を正しく使用することに重きを置いており間違いがあまり許容されていないからだ。言いかえるならば、日本の外国語教育における「コミュニケーション活動」とは「事前理論を正しく発信するための練習の場」、または「事前理論を正しい形で定着させる場」のことであり、言語的な正しさを始めから求めてしまっている。そもそも授業における「コミュニケーション活動」とは既習の言語知識を使って行える範囲でのやりとりが大半を占めているのではないだろうか。生徒が徹底的な解釈、あるいは何とかして相手の意図を理解しよう・相手に意図を伝えようとする試みを必要とするような状況下に置かれる機会が一体どれほどあるのか疑問である。もちろん、そのような日本の英語教育における「コミュニケーション活動」の中で即時理論が全く作られない、とは言えない。しかし、多くがお互い共通に持つ事前理論の範囲内のやりとりで終わってしまうため、相手の意図の解釈は困難なくとても容易になされてしまう場合が多いということである。このように、「目標をコミュニケーション能力の育成」としながらも、コミュニケーション中心ではなく言語知識中心とした考え方が根を張る授業には大きな矛盾があると言えるのではないだろうか。


3年生 Kさん

「言語使用の面から見てのことばを獲得することは、同時に他者への関係性を獲得することである」というのはまさにその通りだと思った。自己表現のためのことばを獲得し、他者とコミュニケーションするなかで自己を発見することは、同時に自己を他者に対して開き、他者との関係性を獲得することができるのだ。べてるの家では話す場を設け、自分の思いをことばにする機会を何より大切にしていた。そして私は今まで「ことばを獲得」していく度に「怖い」と思っていた。普段から無感情であることを悩んでいたのだが、ことばをどんどん獲得していくことで自分の中に湧き上がってくるかもしれない感情を、感情論ではなく論理として分析してしまうのではないかと思って不安だった。「この気持ちはなんなんだろう」と、感情に素直に喜怒哀楽を体験してみたかった。確かに、ことばの獲得と感情は表裏一体である。しかし講義を受けて習得した言葉と、コミュニケーションの際に発することばの習得とは別であると学び、確かに学習上習得した語彙はすべて自分のことばになってはいないと痛感した。そこで自分の自己表現の弱さを認め、向き合っていかなければならないと思った。「弱さとは、強さが弱体化したものではなく、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある。」と向谷地生良が述べているように、葛藤する力や悩む力自体の価値を認め、それらを語りを通して発することでことばを獲得し、自己発見や他者との関係性を獲得していくこともできるのだ。そのための語りの場こそ我々に必要なのだ。


3年生 Yさん

ついでのさらについでなのですが、本レポートを書く上で参照した私なりの名言集(?)の中から今回の授業に多少なりとも関係ありそうなことばの一例をあげて終わろうと思います。

・完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね  村上春樹 「風の歌を聴け」
・話したいことは山程あるけど なかなか言葉になっちゃくれないよ 話せたとしても 伝えられるのは いつでも 本音の少し手前      BUMP OF CHICKEN 「ベル」

・目の前に、くっきり見えているものしか信じられなくなるのが、いちばんつまらないし、いちばん悲しい   いしいしんじ 「ポーの話」

・別の考えに触れたときの感じは、やっぱりいつでも衝撃的で、自分の世界が広がっていく気がするから     よしもとばなな 「ハゴロモ」

・あたりさわりのない答えは 大抵の場合において愚な答えである 夏目漱石 「虞美人草」
・完全に自己を告白することは何人にもできることではない。
 同時にまた自己を告白せずにはいかなる表現もできるものではない。 芥川龍之介 「侏儒の言葉」

・豊富な情報と、単調な生活から生まれてくるのは、短絡的な発想や憎悪だけだ 伊坂幸太郎 「魔王」

・だって知っている言葉はほんのちょっとで 感じれることは それよりも多くて  ポルノグラフィティ 「パレット」


なお、3年生S君のレポートは手堅くよくまとめてありますので、本人の許可を得てここから全文ダウンロードできるようにしました。




次に、Critical Applied Linguisticsについての大学院生向けの授業でのレポートから。


M1 Yさん

1997年1月,規制緩和の一環として当時の文部省は「通学区域制度の弾力的運用について」を市町村教育委員会に指導通知し,公立の小・中学校においても申請をすれば通学区域外にある小・中学校に通うことができる公立学校選択制が始まった。2000年に入り全国に拡大し,2006年5月現在,小学校で240自治体,中学校で185自治体が導入している。この制度の理念は学校の閉鎖性と画一性を改め,「特色ある学校づくり」や「個性ある教育課程の編成」を目指すところにある。(朝日新聞掲載「キーワード」 )この制度によって日本の公教育は向上するのであろうか。「特色ある学校づくり」というと聞こえが良いが,逆を言うと学校の特色を十分にアピールできないと,児童・生徒,そしてその親に選んでもらえないということになる。これは企業的,資本主義的な概念の学校への導入である。ここで,ジャーナリストの斎藤貴男氏が著書『教育改革と新自由主義』の冒頭で示した例え話を引用したい。

ある食堂には,五百円の定食が四種類あります。あるとき,店主は「お客さんのニーズは多様化している。もっとメニューを増やそう」と思い,一万円の定食を二種類,五千円のものを二種類,三千円のものを二種類つくりました。そして,五百円の定食は二種類に減らしました。店主は言います。
「メニューを四種類から八種類に増やしました。しかも,これまでより高級な食材を使ったものも用意し,選択の幅を広げました。どうぞ,お好きなものをお選びください。」 (斎藤, 2004, p. 10)


政府や自治体はと言います。「通学区域の制限を緩めました。しかも,学校同士が特色を出しているので,選択の幅が広くなっています。どうぞ,お好きな学校を選んでください。」しかし実際に「お好きな学校」を選ぶことのできる家庭はどの程度あるだろうか。幼児の小学校選択はその親の教育意識,情報収集力,子どもを区域外の遠い学校に通わせることができるか(この中には単に距離的・時間的な負担だけでなく,通学にかかる費用や親による送り迎えができるかといった観点も含む)にかっかっているであろう。そもそも子どもの適性を若干6歳で見定めることができるとも考え難い。戦後の日本は,誰もが等しく教育を受けることができるようにと単線的な義務教育の6・3制を築き上げたが,早期学校選択制はこの平等な教育の機会を奪いかねない。

斎藤氏は自由競争に組み込まれていく学校の中にいる教師に関する問題として,教師は「『悪い学校』へ飛ばされないよう教育内容の良し悪しよりも管理職の顔色をまず伺う」(p. 53)ようになり,管理職は「親の人気取りと教育委員会の意向に従うことのみを優先する」(p. 53)ようになると懸念している。そして「まがりなりにも公教育が生きているといえなくもないのは,良心的な教師が踏ん張っているから」(p. 151)であるとして,次のようなメッセージを記している。

教師は,自分の仕事に誇りを持ってください。そして,[資本主義化し,民間企業が公教育に参加して来る中で]「民間ではこうだ」「企業ではこうしている」と言われても,「教育ではそれは通じない」という部分だけは,しっかりと抱きしめていてほしいと思います。(pp. 154)

現在教師の身には,教科教育以外の仕事,課題や問題と抱え切れないほどの重荷がのしかかっている。教科や生徒だけを見つめているわけにはいかず,財政界や親からの要望・圧力ともうまく折り合いをつけなくてはならない。そんな中でも,教師としては現状に流されず,甘えず,生徒の未来を1番に守るべきものとして教壇に立てたら良いと思う。


M1 Tさん

日本は先進国の中で、国からの教育支援が最も少ない国である。国立大学の学費の高さからもわかるように、日本では、ある程度の経済力がなければ満足のいく教育を受けることができないのが現実である。アメリカとカナダを基盤にした「教育政策研究所」(Education Policy Institute, EPI)がまとめた「グローバル高等教育ランキング2005」(Global Higher Education Rankings 2005)(※3)のデータによると、GDPに占める高等教育費への公的財政支出の対GDP比では、先進国の15カ国中最下位であり、教育費用は個人で負担という考えが比較的強い。政府からの支援が少ないうえに、教育費用の高さも日本の親たちを苦しめている要因である。AIU保険がまとめた「現在子育て経済考」(※4)というデータによると、公立幼稚園から国立大学まで、最も安いコースを歩んだとしても、子ども一人当たりにかかる教育費は1,345万円で、食費や服代などを含む基本養育費1,640万円と合わせると、ひとり当たり最低で2,985万円はかかる。もっとも高いとされる、私立中高から私立理系コースになると、教育費は4,424万円。基本養育費との合計は6,064万円である。平均年収300万円以下の母子家庭には到底払うことのできない額である。
・ (※3)Global Higher Education Ranking (2005)
・ (※4)AIU保険現代子育て経済考

教師は時代に応じた教育をしていくとともに、その背景にあるdiscourseの問題点を批判的に把握して、これからの教育について議論し続けることが重要である。その際に、本稿で取りあげたフレイレの理論や、斉藤、岸本の教育実践から得た知見を今後の英語教育のありかたを考えていく上で重要な視点の一つとなることを願う。




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2010年2月14日日曜日

卒業生・修了生に贈る言葉 (学問と人生について)

以下は、本日 (2010/02/14) に開催された広大教英卒業生・修了生追い出しコンパで私がした挨拶です。卒業生・修了生のこれからの豊かな人生を心よりお祈りします。




卒業・修了予定の皆さん、本日はおめでとうございます。学部18生のチューターとしての挨拶ということですので、挨拶の冒頭は学部生を中心とした話し方をしますが、メッセージは大学院修了予定者にも向けられていることはいうまでもありません。

18生をもつ前、私は11生のチューターをしておりました。入学時に「よく学び、よく遊べ」と言いましたら、11生の短期記憶あるいはワーキングメモリーは極端に小さく、どうもその言葉の後半ばかりが印象に残ったようで、とても元気な学年に育ちました。卒業後、11生と飲み会をしましたら、みんな目をキラキラ輝かせて「先生、僕らは各県の教員としてみんなバカの道を突っ走っています。僕らはバカのサラブレッドです。これも全部先生のおかげです。ありがとうございました!」と感謝してくれました。私は、自分の教育の目的の少なくとも半分は達成されたのだなと思いました。

そういった経緯を経て今から四年前にこの18生のチューターとなりましたので、18生には事ある度に「本読め。新聞読め」と繰り返してきました。その結果、今では私が「本・・・」といっただけで多くの18生が小刻みに両耳に両手をぶつけながら「アワワワワ・・・」と唱えるまでになってくれました。継続は力なり。またもや私は自分の教育の目的の少なくとも一部が達成されたことを嬉しく思っております。


さて皆さんはこれから、大学院に「入院」する人を除いて、社会に出るわけです。学校と社会の違いの一つは、問いや答えが与えられるか与えられないかというものです。

小学校・中学校では問いも答えも先生から与えられることが少なくありません。みなさんが「わかりません」と言いますと先生がさらに解き方も教えてくれることもあります。このように問い・答え・解き方の三つすべてが先生から与えられるのが少なくないことが小学校・中学校という義務教育の傾向かといえますが、私にとっては驚くべきことにこの傾向は最近どんどんと大学・大学院という高等教育までも浸食しています。

ですが本来、高等教育というのは「答えのない問い・答えがまだ定まっていない問い」を扱うところです。教師はせいぜい、これまでの関連した問いとその問いに対して示された解き方のいくつかを提示し、学生に考えさせるだけです。教師は問いを与え、解き方はいくつか示しますが、答えは与えません。

さらに卒業論文・修士論文・博士論文となりますと、教師は問いすらも与えません。問いは学生が見つけ、解き方も答えも学生が見つけます。教師はそれを見守り、時折コメントをするだけです。

なぜ高等教育の教師は問いも答えも解き方も与えないのでしょうか。それは現実の人生で皆さんが遭遇する大きな課題は、たいていの場合、問いも答えも解き方もわからない状態でみなさんの身に降りかかってくるからです。

例えば人生では皆さんが苦しむ場合も出てくるでしょう。その際に皆さんはどのような問いを立てるでしょうか。

学校の成績だけがよかった人がしばしば犯す間違いは、極めて通俗的で凡庸な問いを立ててしまうことです。そういった人は「私がこのように苦しむのはあの人が (あるいは世間が) 悪いからだ。どうやってあの人に仕返ししてやろうか (あるいは、どうやって世間をあっと言わせてやろうか)」といった問いを立ててしまいます。そのような問いを立ててしまえば、解き方も答えもその問いによって定まってしまいます。そしてその問いに導かれて答えを出そうとすることがその人の人生になってしまいます。学校の成績だけがよかった人は、与えられた問いの定められた答えを出すのは得意でも、問いそのものを探すこと、そして探した問いを吟味することが非常に苦手なのです。彼/彼女は自らの問いに拘束されてしまいます。

しかし問いは別様にも立てられます。「この苦しみの正体は何なのか。この苦しみに意味があるとすればそれは何なのか。この苦しみはそもそも避けるべきものなのか。この苦しみから私は何を学べるのか・・・」などなど、様々に異なる問いを立てれば、それらの問いに従って、皆さんは答えを求めようとします。それが皆さんの人生を創り上げてゆきます。

また、もし皆さんが答えを出したと思っても、また新たな問いはやってきます。答えを出した頃には状況が変わっているからです。仮に状況が変わっていないにしても、皆さん自身が答えを出したことで変わってしまうのですから、その変化によって新たな問いというのは生じます。皆さんが苦しんでいても、楽しんでいても、不幸であれ幸福であれ、問いというものは生じてくるものです。

もちろん「どうやって蓄財をするか」とか「どうやって上司に媚びるか」といった通俗的な問いだけしか受け付けず、それ以上考えることを拒む人生も可能ですが、そういった人生は存外に幸福ではないこと、少なくとも意義深くないこと、は私たちも承知していることかと思います。

人間は問い続けます。問い続ける中で、問うことを学びます。これが「学問」 ―「問イヲ学ブ」― ことです。高等教育で皆さんは「学問」の初歩を学びました。どうぞこれからの現実社会の人生で「学問」―「問イヲ学ブ」―を続けて下さい。

ですから私からのメッセージは「よい学問を続けて下さい」ということです。そしてこれは「よい人生を創り出して下さい」と同義であることは、皆さんもご推察の通りです。

本日はおめでとうございました。






2010年2月13日土曜日

河本健 (編)(2007) 『ライフサイエンス論文作成のための英文法』羊土社

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


総合大学での公然の秘密の一つは、英語の先生には英語の使い手が世間が思うほど多くなく、理系の先生には英語の使い手が世間の予想以上に多いということだ。

理由は簡単だ。理系の先生には毎日英語と格闘している人が多い(というよりほぼ全員だろう)。他方、英語の先生は ―私が所属している「英語教育」の世界を筆頭に― 日本語中心で研究を進めている人が少なくない。だからである。(注)


ここに運転免許を取ったばかりのAさんとBさんがいるとしよう。Aさんは運動神経バツグンで免許試験も一回で合格する。他方Bさんは不器用なタイプで免許試験も数回落ちてやっと合格する。

Aさんは免許取得後すぐにスポーツカーを買い、月に一、二回はドライブを楽しむ。満員電車の通勤から解放されるたまのドライブはAさんにとってのなによりの贅沢だ。

他方Bさんは、どういう運命の巡り合わせか、宅配便会社に勤めることになる。毎日車の運転ばかりだ。会社のイメージのために安全運転は当然である。しかし安全運転だけでは不十分で、Bさんはいかに速く合理的に目的地に着くかという技術を日々向上させなければならない。だから地域の渋滞事情や運転手のマナー状況を熱心に学ぶ。仕事の成功は車の運転技術向上抜きにありえないからだ。

さて五年後、AさんとBさんのどちらの運転が上手になっているだろうか。あなたは助手席に座るとしたら、あるいはあなたの子どもを預けるとしたら、どちらが運転する車を選ぶだろうか。わからない? それなら十年後はどうだろう。私はもちろんBさんを選ぶ。

学校卒業時の成績など、キャリアスタート時の差を示しているだけである。高度知識社会においては、学校で学ぶ知識・技能と、学校を卒業してキャリアの中で学ぶ知識・技能を比べれば、後者の方がはるかに大きい。圧倒的に。決定的に。

理系教員の圧倒的多数は英語で論文を書くことを日常としている。このニーズを、論文を書く際はおろか読む際ですら日本語を使うことが多い(一部の)英語教員は実感できていない。

「いや、私は毎日英語に接している!」と息巻く英語教員も多いかもしれない。だがそう言う人の少なからずは、まさに英語に「接している」だけだ。見聞きしたい映画やニュースを見聞きし、読みたい雑誌記事・小説などを読み、自分で書きたいことだけを書き ― その人達にとって最も象徴的な行為として ― 自分で喋りたいことを会話でしゃべっている、それだけに過ぎない。

理系の英語使用は異なる。理系にとってまず大切なのは書き言葉としての英語であり、話し言葉ではない。もちろん学会発表での英語は書き言葉原稿を読み上げるだけのものではなく、話し言葉用に簡略化したものであるかもしれない。しかし理系英語の基盤は書き言葉である。学会口頭発表で伝えることも論文についてのことである。とにかく正確に論文が読み書きできなければならない。

正確に読み書きというのは、「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」ではない。論文に書かれているので正確に「読まなければならないことを読む」のであり、自らの理論と実験結果を正確に伝えるために「書かなければならないことを書く」のである。

「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」ことは、さきほどのAさんの時折のドライブに似ている。「読まなければならないことを読む」「書かなければならないことを書く」ことはBさんの業務運転に似ている。AさんよりBさんの方の運転技術が上がるように、私は「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」人より「読まなければならないことを読む」「書かなければならないことを書く」人の英語力の方が上がると信じている。

英語を正確(かつ大量)に読まなけければならない理系の中でも、ライフサイエンスはおそらく今もっとも進展が激しい分野だろう(ライフサイエンス系の発見は、一般の新聞でもほぼ毎日報道されている)。そういう背景もあってか、日本のライフサイエンスに従事する人々の英語使用=学習環境は非常に充実している。


ライフサイエンス辞書オンラインサービス


の無料辞書サービスは本当に感動的である。英和・和英の両方で使えることはもちろんのこと、音声や類義語もすぐにわかる。他の便利な検索サービス (Google Scholar, Entrez, Google, Wikipedia)もすぐに使えるようになっている。共起表現も非常に優れており、コーパスデータが一気に示される。ソートを変更したりもできるし、左端の番号をクリックするだけで原著論文にもすぐにアクセスできる。


このサービスを日常的に使おうと思えば各種のダウンロードをすればいい。

辞書ダウンロード

「ライフサイエンス辞書ツールバー」をダウンロードすればWebブラウザの上部にこの「ライフサイエンス辞書オンラインサービス」専用の検索窓が常設される。

さらに便利なのは「ライフサイエンス辞書ツール(Firefox 用マウスオーバー辞書)」であり、これをインストールすることで、Webブラウザ (Firefox) でカーソルを当てた場所の英語の和訳が、自動的に半透明の画面で表示されるようになる (この機能のオン・オフは簡単なので、必要な時だけオンにすればよい)。

また、EtoJ Vocabularyを使えば、短い英文なら、その英文の単語からすぐに「ライフサイエンス辞書」に飛ぶことができる。とにかく便利なことこのうえない。

EtoJ Vocabulary


百聞は一見に如かずで、このYouTube説明をどうぞ御覧下さい。



ライフサイエンス辞書を使い倒す2009〜オンライン辞書編

(なお、このプロジェクトに関する学術的報告は「アーカイブ」にある)

アーカイブ


このようにライフサイエンス系の語彙については、感動するばかりのサービスがオンラインで得られる。しかしここで欲しくなるのは文法に関する知識である。文法の知識というのは、語彙以上に何度も参照するものなので、できれば書籍の形で入手したい。

そのニーズを満たしているのが今回紹介する『ライフサイエンス論文作成のための英文法』だ。ライフサイエンスの一流国際誌に掲載された学術論文の膨大なデータベースを基にして、「日本人が英語論文を書く」という目的に特化した構成となっている。

第一章「論文でよく使われる品詞の種類と使い方」でも、第二章「論文らしい長い文の作り方」でも、第三章「論文によく用いられる重要表現」でも、一貫して、正確で論理的な英語論文を書くための説明と豊富な例文が掲載されてある。特に第一章の「8 意味の似た前置詞の使い分け」や第三章の「3 比較の表現」などの節は有益だ。

目次や内容見本は羊土社のホームページへ

また巻末のコラムも秀逸で、論文頻出語 "role" の冠詞・前置詞・動詞の共起関係に関する考察と検証、他の論文頻出語 (名詞) で定冠詞が多く不定冠詞が少ないパターン、"My friend came to me." や "What is your hobby?" といった英語の含意が生じさせかねない誤解、などに関するエッセイが面白く読める。

また「の」の英訳に関するエッセイもとても面白い。以下の「の」はどう英語に翻訳をすればいいのだろうか。前置詞というのは日本語話者にとって鬼門である。


「肺癌の患者」「腹痛の薬」「年齢の差異」「血圧の変化」「ウサギの実験」「新薬の実験」「化学の実験」「終末期の患者」「精神医学の本」「ラバとロバの違い」「カズオイシグロの小説」「京都 (出身) の人」「博物館の入り口」「肝移植施術の理由」「鴨川の橋」「京都のガイドブック」「SARSの懸念」「地球温暖化の解決策」「ダイアナ妃死因の調査」「成功の秘訣」 (答えは本書の261-262ページをご覧下さい)



ライフサイエンスに従事している人はもとより、理系一般の人、さらには理系のニーズに応えようとしている英語教育関係者にはぜひともお薦めしたい本だ。


ただ、英語教育界に所属する私としては二つほど気に懸かることがある。

一つは、このすばらしいプロジェクトが、ライフサイエンス研究者の研究・教育活動の一種の副産物として生じているということである。ここには英語教育関係者の関与はほとんどない もっとも『ライフサイエンス論文作成のための英文法』の監修者の一人は京都府立医科大学の外国語教室教授である大武博先生 (応用言語学・コーパス言語学) であるが、このプロジェクトが英語教育研究者というよりはライフサイエンス研究者主導でおこなわれていると解釈してもいいだろう (下記サイト参照)。

Life Science Dictionary (LSD) プロジェクトについて

日本人の英語使用や英語学習を支援するというのを英語教育研究の重要な特徴の一つとすれば、このライフサイエンス辞書プロジェクト以上の英語教育研究を見出すことは容易ではない。このプロジェクトが理系研究者主導でおこなわれているということを、英語教育研究者はどうとらえるべきなのだろうか。

二つめの懸念は、この本で使われている文法用語についてである。この本では伝統文法での用語が便利な説明概念として多用されているが、最近の学校英語教育を受けた若者はこれらの説明概念をきちんと理解し使いこなすことはできるのだろうか。私の狭い見聞では、最近の大学生は文法概念を必ずしもきちんと理解していない。理解している少数者は、熱心な塾や予備校の文法教育のおかげであると知ることも少なくない。新しい高校の学習指導要領は「英語の授業は英語でおこなうことを基本とする」と宣言している。これを表面的に解釈するなら、きちんとした (必要最小限の) 文法教育を日本語でおこなうことは、英語の授業では忌避されるべきとも読める。もしこの解釈が正しい (あるいは蔓延する) としたら、新学習指導要領はこれからの若者 ― 特に読まなければ「ならない」ことを読み、書かなければ「ならない」こと書く理系の若者 ― の英語力にどのような影響を与えるのだろうか。


このコラムで再三再四言っているように、英語教育関係者は理系に学ぶ必要があると私は考えている。




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(注) ただし、文系教員が日本語を基盤として研究をし、英語でそれほど論文を書かないというのは、文系教員の怠慢のせいばかりと言えないことは、先月紹介した原賀真紀子 (2009) 『「伝わる英語」習得術 ― 理系の巨匠に学ぶ』 朝日新書にも書かれている通りである。日本の言語や文化に依存した概念を英語に翻訳するのはそれほどに容易なことではない ― 少なくとも理系の学問と比較したら。あるいは、あり合わせの英語表現で日本的な概念を英訳できたと妥協するのでなければ ―。
私はむしろ英語教員は、これまで以上に英語と日本語の差、およびその差がもたらす影響といった、今は流行らなくなった対照言語学的考察を明示的に行い、「英文和訳」「和文英訳」といった「直訳」のレベルを越えた「翻訳」についてもっと丁寧に考えるべきだと考えている。日本のように「国語」が発達した国では、人文系の人間は外国語を使用して世界を広げる一方で、翻訳を通じて自国の「国語」の可能性を開拓し成熟させる責務をもつ (少なくとも幕末以来の日本の知識人はその責務を果たしていたからこそ、日本文化と日本語は現状の成熟に至っている)。これについては水村美苗 (2008) 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 筑摩書房 をご参照いただきたいし、私自身ももう少し考えを深めてゆきたい。





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大学教育学部へのケースメソッド導入についての批判的考察

学内の報告書で「大学教育学部へのケースメソッド導入についての批判的考察」という文章を作成しましたので、ここでも公開しておきます。

下記が報告書に掲載する「簡約版」です。

大学教育学部へのケースメソッド導入についての批判的考察
(簡約版)

柳瀬陽介 (英語文化教育学講座)
1 「ケースメソッド」とは

高木・竹内は、「ケースメソッド」を「参加者がケース教材をもとにした討議を重ねることで、実践に備え得る叡智を紡ぎ、困難に立ち向かう姿勢と態度を涵養するための教育方法」 (高木・竹内 2006: i) と定義する。高木・竹内によればこのケースメソッドは、アメリカ企業文化での「トップダウンによる仕事の分業(分化)」→「それぞれの部門での部分目標達成 (部分最適) 」→「部分最適の集積が必ずしも全体最適に至らない(合成の誤謬)」という<分化→部分最適→合成の誤謬>という経営問題に対応するもの (同上 3-4ページ) である。このケースメソッドで育成される力を、高木・竹内は「統合力」と命名し、それを(1) 自律的に職務を遂行する能力 (同上 49ページ)、(2) 人とつながる能力 (同上 74ページ)、(3) 人を束ね、方向づける能力 (同上 103ページ) の要素に分けて分析している。この高木・竹内の分析を受けて、報告者はケースメソッドを「従来の思考・設計・制度では対応しがたい複合的な問題を、ケース記述を基にした議論により、統合的かつ協調的に解決 (あるいは解消) してゆくことを教室で学ぶ方法」として理解した。

2 丸山実践

ビジネススクールにおけるケースメソッドを教育学部で展開しようとする丸山実践は、「多様性を理解する」、「書き言葉優先」、「授業での結論を定めながらもそれを討議で探り当てる」、「記述が豊かなケースを用いる」といった特徴をもっている。

3 報告者の実践

他方、報告者は「ケースメソッド」という自覚なしにそれと類似した教育実践を行なっていた。それは、学習者を精神的・身体的に解放するための便法の一環として簡略的に実行していたものだったが、その特徴は「多様性を理解する」、「話し言葉を重視」、「結論は決めていない『開かれた問い」を扱う」、「『神話的エピソード』で参加者の想像力・想起力を喚起する」といった特徴をもっている。

4 課題

高木・竹内実践、丸山実践、報告者の実践を比較検討するなかで、次の三つの理論的課題が浮かび上がってきた。(1) 古くて新しい概念を考え直すこと (「実践」「身体」「複合性」) 、 (2) 近代的概念を問い直すこと (「個人」) 、 (3) 実践現場での思考について考察を進めること (「統合的思考」「共同体的思考」「社会的思考」) 。

以上を報告書に掲載しますが、実は私の原稿は約16,000字 (原稿用紙40枚) に及ぶものです。報告書のページ数制限を知らずに書いてしまったその原稿は下からダウンロードできるようにしています。ご興味のある方はクリックしてください。






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2010年2月6日土曜日

西垣通 (2010) 『ネットとリアルのあいだ』ちくまプリマー新書

この本の問いは

21世紀情報社会のあるべき未来を考えていくとき、いちばん大切なことは何だろうか。(116ページ)


で、その答えは

それはネットをつかう「人間」の原型的なすがたを直視することだ。その実相を見誤ると、IT革命はとんでもない方向に暴走していくことになる。(116ページ)


です。

しかし第一章「ITが私を壊す」の冒頭は、正直いって凡庸で、ブログでも読める程度の文章のようにも思えてきます(プリマー新書だからでしょうか)。

ですが途中でジュリアン・ジェインズ (Julian Jaynes) の論が導入されるあたりから、いつもの西垣先生らしさが出始め、第二章「生きることは創りだすこと」では「フレーム問題」「クオリア」「サイバネティックス」「オートポイエーシス」などが新書に相応しくやさしく解説されます。そして第三章「未来のネット」の最後では

身体性とコミュニティの回復が、情報社会の未来をひらくのである。(157ページ)


と結論が出されます。


この結論も、上の引用だけで読むと凡庸に見えますが、第二章で提示・解説された問題群を通して考えると非常に豊かで深い主張であることが痛感されます。参考文献に提示された本はやはり読んでいなければならないと思わされるでしょう。

私がルーマンを約10年ぶりに読んだのは実は西垣先生の著作がきっかけでした。今回はこの本で、ジュリアン・ジェインズ (Julian Jaynes)の『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』をやはり読もうと決意しました。アントニオ・ダマシオ (Antonio Damasio) の著作もやはり読んでおかねばと思います。

ジャンルを問わず、目の前の現実をきちんと考えてゆこうとする人にはお薦めです。


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関連記事
『神々の沈黙』の評判
Language and Consciousness according to Julian Jaynes






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ジュリアン・ジェインズ の『沈黙する神々』の評価について

ジュリアン・ジェインズ (Julian Jaynes) の『沈黙する神々』 (The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind) の日本での評価を知るために、私が尊敬してやまない二人の読書家の論評の一部を紹介します。
しかし、こんな本はまったくなかった。にわかに信じがたい仮説に満ちていて、その大半が眉唾とも勇敢とも、説得力があるとも暴論とも見える。まるでイマニュエル・ヴェリコフスキーの『宇宙の衝突』を読まされたとも、いやいやジグムント・フロイトの『夢判断』を読まされたとも言えるのだ。

学界はいまなおどんな“認定証”も発行していない。では、みんなが気になっていないのかといえば、かつてのぼくがそうだったように、おそらくこっそり気にかけている。アメリカのメディアは「20世紀で最も印象にのこるだろう重要な著作」とか「ダーウィンかフロイトの再来に近い衝撃」といったセンセーショナルな扱いもした。公然と賛意を示した研究者たちもいる。認知科学者のダニエル・デネット(969夜)やアントニオ・ダマシオ、またジュディス・ワイスマンやトール・ノーレットランダーシュらはこの仮説の継承に乗り出した。が、他方では、「本書の独創的発想の重みは大きすぎて、人間の心はこれほどの重荷を担えるようには
できてはいないだろう」といった批評も多かった。

(・・・)

本書でも、すべての意識の立ち上がりを促したのは「比喩力」と「物語力」だったということを、何度となく
強調している。おそらく、これは当たっているだろう。ホメーロスの才能はその継承に役立った。

しかしもっと重要なことは、そのように比喩力や物語力によって意識が自立したにもかかわらず、この意識は自己意識の相貌をとりながら、たいそうノイズに満ちたものとなって、いつもぐらぐらして、たえず有為転変に巻きこまれそうなものだったということだ。つまり、意識はとても出来の悪いものだったということだ。

この出来の悪い意識こそ、その後の人類史をたいへんなものにしていった。たとえば人類は、バイキャメラル・マインド状態の縮退と崩壊で、それまで内側にいたはずの神を外在者にしてしまった。そのため、神の代替物や代替人やその制度に必要以上の「力」を付加してしまった。これは神聖政治の堕落であって、そうであるがゆえに、新たな宗教と哲学の登場を必要とさせた。

 紀元前6世紀前後に、ソクラテス、プラトン、ブッダ、孔子、荘子、ゾロアスターらが一斉に登場してきたのは、その対策だった。かれらが総じて考えたこと、それはまさしく「出来の悪い意識をどのようにほどよく遊ばせるか」ということだったのである。






橋本大也氏の論評



とても緻密に織り上げられた理論で、ひとつの物語として、読後の満足度は極めて高い本だった。無論、検証する方法がない事柄も多いので、この仮説が全面的に肯定されることはないだろうし、完全否定されることもないだろう。ただただ面白いのだ。

ちなみに訳者は名著「ユーザーイリュージョン」と同一人物で、二人の著者にも交流があり、ノーレット・ランダーシュはこの本を「途方もない重要性と独創性を持った著作」と評したらしい。

・ユーザーイリュージョンの書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html



関連記事



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NHKオンデマンドは使いにくいです

NHKプロフェッショナルの

定時制高校、明日への一歩
~高校教師・岡田倫代~

を見ようと思ったのですが、本放送の時は新幹線で移動中、再放送は深夜なので見ることができません(私はあまりテレビを真剣には見ないので録画機の類を持っていません)。

そこでNHKオンデマンドを契約しようとしたのですが、自宅のPCでも研究室のPCでもうまく見ることはできません。


原因はNHKオンデマンドが、MicrosoftのWindows Media Player 11 (およびInternet Explorer)にしか対応していからです。私のPCはどれもXPなのでWindows Media Playerバージョンアップが必要になるのですが、どうもそれがうまくゆきません(Microsoftの画面での指示は非常に悪いことは相変わらずです)。

私は


などで書いたように、Microsoftに対していい印象をもっていませんから、その偏りには気をつけなければなりませんが、それにしても、Microsoft社の環境だけでしかNHKオンデマンドが見られないということは、NHKが「公共放送」ということを考えると、ぜひとも是正すべきことかと思います。ブラウザーにしてもプレーヤにしても他の標準的で(しかも、もっと使い心地も性能もいい)ソフトウェアに対応すべきかと思います。

「テレビ録画機をもってないような珍しい人間は黙っていなさい!」という声も聞こえてきそうですが、メディアの中心はもうインターネットに移っていると私は認識していますから、敢えて言挙げします。






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2010年2月4日木曜日

松岡正剛氏の「千夜千冊」をデータベースとして使う

日本で読書好きでありながら松岡正剛氏のことを知らない人はいないでしょう。

知的な著作に関してインターネット検索していても、しばしば松岡正剛氏の「千夜千冊」のサイトにたどり着きます。



松岡正剛の千夜千冊 放埓篇・遊蕩篇 - 目次

松岡正剛の千夜千冊 連環編



現在の「連環編」には「本の検索」の欄がありますが、「現在使用できません」となっています。この「千夜千冊」をデータベースとして使えれば便利なのになあ、と思っていましたら、「あ、そうか、グーグル検索で十分できるじゃない」と思いつきました。

アイデアは簡単で"site:"と"OR"を組み合わせます。両サイトのURLの主要部は、"honza.jp"と"isis.ne.jp"ですから、


site:honza.jp OR isis.ne.jp


を検索語に加えるだけで、上記二つの「千夜千冊」の中だけからグーグル検索をすることができます。

"site:honza.jp OR isis.ne.jp"をいちいちタイプするのは面倒くさいと思われるかもしれませんが、これも簡単なことでこの"site:honza.jp OR isis.ne.jp"をあなたのコンピュータの日本語入力システムに辞書登録しておけばいいだけです。(私の場合は松岡氏に敬意を払って「まつおかせいごう」と入力して変換すると"site:honza.jp OR isis.ne.jp"が出るようにしました。ですからグーグルに検索語を入れて、私の場合でしたら「まつおかせいごう」で変換キーを押すと、自然と松岡氏の知的データベースの世界に入れるわけです。自分で言うのもなんだけど、これは便利だ。


それにしても「千夜千冊」は本当に面白いです。次から次に内部リンクに誘われてどんどん読んでしまいそうです(この欲望を抑えるのに私は必死でした 笑)。

使い古されすぎた表現だけれど、インターネットはすごいなぁ。





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2010年2月3日水曜日

「先生、その『評価』はどうやってやったらいいのですか?」

大学で授業をしていて、教育実践について触れるとよく学生に「先生、その『評価』はどうやってやったらいいのですか?」と聞かれます。学生が言いたいのは「その教育実践は大変に面白く意義深いのだが『客観的』に評価する方法が思いつけない。『客観的』に評価できない活動は、学校教育では扱いに困るからその教育実践は現実には実行困難だと思う。しかしこの教育実践は捨てがたい。だからどうしたらいいんでしょう。教えてください」といったことなのでしょうか。

このような質問をする学生はたいてい真面目な学生なので答えに困ります。私の正直な答えはしばしば「このような教育実践では『厳密で客観的な評価』は可能でも適切でも必要でもない。だから評価を求められたら断るか適当にやっておくべきではないか」というものです。でも「評価を断るとか適当にやる」とかいう対応は昨今の学生さん(特に真面目な学生さん)にとって法外のもののようです。ですから短い応答で学生さんを困惑させることもはばかられ、私は答えに困るわけです。

もう少し詳しく述べますと、私の考えは、「『厳密で客観的な評価』というが、それはそもそも可能なのか。あるいは適切なのか。さらには必要なのか。『厳密で客観的な評価』を行おうとすることで教育の営みそのものが歪んでしまうことはないのか。そういった吟味抜きに形式的に『厳密で客観的な評価』を行うことに私たちは警戒しなければならないのではないか」といったものです。

あわてて付け加えますと私は「厳密で客観的な評価」のすべてを否定しようとしているのではありません。よくできた資格試験などはそれぞれのテスト設計において「厳密で客観的な評価」でしょう。しかしその厳密性と客観性はそのテスト設計の理念にかなう限りのものです。テストがテスト本来の使い方を離れて使われる時に、テストの厳密性と客観性は誤用されます。

例えば北米大学への留学において奨学生選考をする場合TOEFLはその場合の「英語力」といった観点においては妥当な厳密性と客観性をもったものといえるでしょう。しかし(極論に聞こえるかもしれませんが)私は中学校英語教師にTOEFLの高得点は必要ないと思います。もちろん高得点が取れれば素晴らしいですが、それよりも中学英語教師にとって大切な「英語力」は、中学生にわかる語彙と文法の範囲ででゆっくりとわかりやすく英語を話す力であったり、生徒の想像力をかき立てることができるぐらいに英語での音読が豊かにできる力であったり、中学生にわかりやすく英語の知識項目を関連づけ整理したりする力等々であったりするからです。いかなる英語テストにせよ、そのテストが想定している理念を越えた「一般的な英語力」を測定するものはありません。「英語力」といった力は構成概念(construct)であり、それは私たちの概念構成が妥当である範囲においてのみ成立するものです。ですから「厳密で客観的な評価」というものは場所を選ぶものです。

というわけで、私は教育活動のすべての側面において「厳密で客観的な評価」が可能・適切・必要とは思いません。私からすれば「厳密で客観的な評価」を振りかざす人は、イデオロギーあるいは時代精神としての「教育改革」に振り回されている人、あるいは振り回されている状況を利用して小権力を得ようとしている人のようにすら思えます。(こういった人が多いというのがイデオロギー・時代精神の怖いところかと思います。いつものように異論・反論を歓迎します)。



こういった点で内田樹先生の記事「甲野先生の最後の授業」は大変面白いです。あの甲野善紀先生が大学の授業でどういった教育方法と教育評価を行ったか。以下は一部の抜粋ですが、どうぞリンクをたどってオリジナルの記事を最後までお読みください。


甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。
ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。
自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基本であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内側の出来事に感覚を集中させるというのが、おそらく甲野先生の方針なのであろう。
だから授業なのだが、点数はつけない。
もちろん教務的には成績をつけていただかないと困るのだが、甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。
遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。
ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」
おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。

[引用者注:「税金」というのは甲野先生の口癖で、その意味は「思いもかけない時に返済を求められる人生の上での借り。思わぬトラブルや災厄といった形を取ることも多い」といったぐらいの意味です。]
http://blog.tatsuru.com/2010/02/03_0942.php




甲野実践のラディカルな問い掛けにどう応えるかという点で私たちの知性の深浅が試されるのではないでしょうか。(浅い知性はたいていにおいて騒がしいものです)



追記

今思い出しましたが、中学校のある先生は中間テストは行うが最終的な評価には中間テストの得点は入れない実践をなさっていました。大切なのは学期・学年の最後についた力であって、中間テストはそこに至るまでの準備段階であり練習試合のようなものだからというのがその先生の考えでした。

その先生の言葉の意味を深く理解することなく、後年、私は、15週の授業のうちの第5週から非常に厳密な評価を始めてその合計点を最終評価にする授業を始めました。厳密で客観的な評価をすることが学生のためになると考えたからです。

ですが、学生の行動は、私が最終的につけて欲しいと願っている力をつけることから外れて、目の前の課題の得点を最大化するようになりました。いい評価が欲しい学生としては、「最終的につけてほしい力」などといった悠長なことを目指すよりも、目の前の課題を厳密な評価基準に即して得点を最大化することの方が「有利だ」と判断したのでしょう。私が教育現場のすべての側面で「厳密で客観的な評価」を実施することは必ずしも正しくないと思い始めた契機でした。




【しつこく広告】「厳密で客観的な評価」にこだわらない教育実践の改善(笑)には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、「厳密で客観的」ではなく「大まかだけど妥当な」言語コミュニケーション力の評価(笑々)のためには『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。






2010年2月2日火曜日

さよならWindows?

Techcrunchは、Don’t Think Chrome OS Will Compete With iPad? Watch This Video.という記事で、GoogleのChrome OSのありえる「かも」しれないあり方として、次のビデオを紹介しています。まあ、百聞は一見に如かず。42秒ですから、ご覧下さい。







ビデオのURLはこちら


すごいなぁ。

と語ると、すぐに「今のPCでも十分でしょう」とか「他にやるべきことはあるのでは」とか言い出す人がいるけど、私などは単純にワクワクする。私たちを本当に拘束しているのは、私たちの想像力だという言葉は(何度も言いますが)私は好きです。

特定企業の悪口になって悪いけど私は(ExcelとOneNoteを例外として)Windows製品を好きになったことがありません。使い勝手悪いし、よくフリーズするし、センス悪いし、高いし、アップグレードすればトラブル多発するし・・・となれば、私にとってWindowsのファンになるというのは極めて困難です。

早くWindowsを使わなくてもいいコンピュータ環境が到来して欲しい。GoogleとApple、お互いに競い合いながら協力していいコンピュータ・エコシステムを創り上げてね。私たちmultitudeというかcrowdは、それぞれの頭と身体で考え感じ行動しますから。





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2010年2月1日月曜日

ジェフ・ハウ著、中島由華訳 『クラウドソーシング』 ハヤカワ新書juice

"R" と "L" の発音識別は重要でないというのはやはり言い過ぎだ。識別しないと「クラウドソーシング」と「クラウドコンピューティング」の「クラウド」を同じものと勘違いしかねない。言うまでもなく"crowdsourcing"と"cloud computing"での「クラウド」は全く別物だ。「衆知互助」と「天網処理」とでも訳せば誤解はないかもしないが、そんな時代がかった訳語は普及するはずもない。私たちは「クラウドソーシング」と「クラウドコンピューティング」というカタカナを、それぞれ"crowdsourcing"と"cloud computing"と発音すればいいのだろうか。

このようにややこだわるのも、どうもこの"crowdsourcing"と"cloud computing"が新しい知性の形のように私には思えてならないからだ。"Web.2.0"と同じように流行語に過ぎないという意見もあるが、私はこの二つが知のあり方を世界的に変えているような気がする。iPhoneで様々のアプリを使い、Gmail, Google Calenderをあらゆる場所から活用し、各所のコンピュータをDropBoxで同期させ始めてから特にその思いが強くなっている。

というわけで半年前に読みっぱなしにしていた本書(『クラウドソーシング』)をこのブログでも紹介する。私なりに選んだ五つの言葉で、この本が言おうとしていること (の一部) を伝えてみようと思う。



クラウドソーシングはインターネットと密接にかかわっているが、その本質はテクノロジーには関係ない。(20ページ)


クラウドソーシングはコンピュータ技術者の関心事というよりは、「ニコ動」の参加者の関心事というべきかもしれない (「バーレーンの実況が日本語にしか聞こえない件」はご存知ですか?)。もちろんクラウドソーシングはこのようなおふざけだけにとどまらず、「オープンソース」の伝統 ― 10年は一昔である! ― につらなるものなのだろうけど。


「誰であろうと関係ない。頭のいい人びとのほとんどは他人のために働く」。(ビル・ジョイ サン マイクロシステムズ共同創立者) (19ページ)



この人間の社会性を喚起したところが、現代の知的大変動だと私は思う。もちろん人びとが協力するのは太古の昔からだが、インターネットはその協力関係に時空を越えさせた。


「多様性は能力に勝る」(スコット・ペイジ『「多様な意見」はなぜ正しいのか』) (184ページ)


これは少数の賢人が支配する社会よりも、独自に考える多数の個人が自由に相互作用を起こす社会の方が好ましいというハイエクの考えにもつながるのだろう。


作業の性質を単純にすることも重要だ。くりかえすが、これは群衆が愚鈍だからではなく、多様だからである。(400ページ)


だが人びとが連なれば自動的にいいことが起こるわけでもない。人びとが協力し連帯しやすいようなシステムをデザインすることが必要だ。


「私が知っている集団的知性の実例では、集団はかならず善意の個人によって導かれるか、鼓舞されていた。こういう個人は集団を集中させ、ある場合には、集団としての意識の機能不全を正していた」 (Jaron Lanier "DIGITAL MAOISM: The Hazards of the New Online Collectivism") (398ページ)


だから制度的権力に頼ってではなく、自発的に生じた活力によって現れるにいたった、少数の人びとが、活力=権力=powerの大きさを自覚しながら、魅力ある提案やデザインを提示することが重要なのだろう。



日本の英語教育界でも"crowdsourcing"はできないものか。

一つは、ウィキペディア記事の拡充。これは全国で20人ぐらいのボランティアがちょっと頑張れば、ウィキペディア上の英語教育関連の記事が質量ともにぐんとよくなるかもしれない。それにつられてボランティアも増えるかもしれない。最近の若い人は紙の本は読まずに、すぐにネットでググるのだから、このウィキペディアキャンペーンは日本の英語教育界の発展の大きな力となるのではないか。

もう一つは、中高生などによる「小ネタ」集め。単語の覚え方、間違いやすいスペリングの覚え方、文法理解のためのたとえ話等々、中高生は彼/彼女らなりに頭を使って、大人では思いつかないような面白い方法を考案している。生徒の声をよく拾う教師はそういった小ネタをよく知っているが、その小ネタは小規模の範囲でしか広がらない。うまくデザインされたウェブサイトを作ってそういった小ネタを投票し相互評価する文化を創り上げれば、英語学習はもっと楽しくなるのではないか。

難しい? しかし、こういう言葉もある。


It's simple. ... We either get used to thinking about the subtle processes of learning and sharing knowledge in dispersed, transient networks. Or we perish.




関連記事

ゴードン・ベル&ジム・ゲメル著、飯泉恵美子訳 (2010) 『ライフログのすすめ』 ハヤカワ新書juice

ある個人が目にし耳にするものを可能な限りデジタル化して記録・保存し、優れた検索システムでその情報を活用しようというゴードン・ベルGordon Bell)のMyLifeBits Projectという試みは、ちょっと正気の沙汰とも思えないぐらいです。しかしこの『ライフログ』(原題はTotal Recall―以下、こちらの用語を使います―)を読むならば、これは今やコンピュータと共生関係にある人類の新たな―革命的な―試みだと思えてきます。"Our imagination is the only limit to what we can hope to have in the future."というのは至言でしょう。


著者の見解は、コンピュータによる記録・保存・検索機能が飛躍的に向上し続けていることにより、私たちは「ある種の情報をある時間帯や場所で記録しないという意識的な決断(もしくは法規制)を必要とする世界」(22ページ)に入りつつあるのではないかというものです。"PC"はこれまで"Personal Computer"を意味していましたが、今後は"Personal Computer-ecosystem"に変わるだろうとも著者は予言します。個人が経験する情報の"Total Recall"により、私たちの生き方が根本的に変わるということです。

このように個人情報が記録・保存・検索される世界は「ビッグブラザー」の世界ではないかと私たちは恐れますが、著者は、すべての人が自ら個人情報を記録・保存・検索するなら、そこに訪れるのは「リトルブラザー」の世界だと言います。そこでは各人が言動を他人に記録・保存・検索されることを前提とするようになり、独裁的ではなく「民主主義的」な監視社会が生じます。これはもう既に、例えば駅や繁華街の監視カメラなどで行われていることですが、それが進行し、一人ひとりの市民が情報を記録・保存・検索するようになれば、幾多の法的・社会的問題は克服せざるに得ないにせよ、今までとは違った社会が現れると著者は考えます。

これまでのインターネット情報革命は、空間的距離の壁を打ち破りましたが、このように経時的な情報を蓄積し活用することは、時間的距離の壁を打ち破ることになるでしょう。これも既に部分的にはMac OS XのTime Machineで実現しているとも言えるかもしれませんが、Total Recallは、これを飛躍的に拡張しようとするものです。私たちはインターネットで空間的にどこへでも飛び、トータル・リコールで過去のどの時間へも飛んでゆくわけです。(ルーマンが生きていたら、この社会変化をどう分析したでしょうか)。

何度も言うようですが、このTotal Recallは既に部分的には現実になっています。MITのDeb Royの言語獲得研究は、自らの子どもが3歳になるまでの23万時間を家庭に設置されたさまざまなデジタル記録装置でデータ保存し、それを分析しようとするものです。

Deb Roy. (2009). New Horizons in the Study of Child Language Acquisition. Proceedings of Interspeech 2009. Brighton, England

もちろんこのような試みに倫理的、社会的に抵抗を感じる人も多いでしょう (あるいは生理的な反発感さえ覚える人もいらっしゃるでしょう)。しかしテクノロジーの進化は止めることができません。私たちはむしろ積極的にTotal Recallのもたらす社会について考え、必要な法整備や社会改革を行うべきではないかというのが著者のスタンスです。読んでいて本当に興奮するぐらい想像力をかき立てられた本でした。「そんな馬鹿な」とか「けしからん」と決めつけないでどうぞこの本をお読みください。

2009年に出版されたこのように革命的な本をこなれた翻訳で読めるのは、本当にありがたいです。わずか一ヶ月半で翻訳を完成させた翻訳者と彼女をサポートしたチームに拍手を送ります。


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「英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化している」という主張に対して寄せられた疑問について

江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―」の記事に関して、efさんという方が質問をしてくださいました。答えがある程度の長さになりそうなので、答えはここに掲載します。元々の記事およびefさんの質問の原文は、上記記事をクリックしてお読み下さい。

ここでは私なりにefさんの質問を簡単に再構成して、それに答えます。元々の記事の主張は「高等教育で第一に重要な英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化していると言うべきでしょう」というものです。


Question 1: 「大学生がきちんとした英語の文章 (論文) を読めなくなっている」の論拠は何ですか?

Response 1: 直接の学術的証拠はありませんので、間接的な学術的証拠、および関連するエピソードをあげます。

間接的な学術的証拠としては、山森光陽・荘島宏二郎(2006)『学力―いま、そしてこれから』ミネルヴァ書房などがあげられます。

この本の第五章 (「英語学力の経年変化」) で吉村宰先生は、1994-2004年のセンター試験第二問のデータを使って、学習指導要領が易化してからの1997年受験生から英語学力が大きく下がっていることを実証しています (詳しい研究方法論はこの本を読んでください。他の章もとても面白いです)。これは非常にしっかりとした研究ですが、直接的に論文を読んだりする英語学力を扱った研究ではないので私にとっては残念ながら「間接的」な学術的証拠としか言えません。

間接的な学術的証拠より、厳密な意味での証拠能力は下がるかもしれませんが、関連するエピソードとしては、例えば以前は受験英語の定番といわれていた伊藤和夫『英文解釈教室』 (研究社出版) や原仙作『英文標準問題精講』 (旺文社) が、現在では「難しすぎる」「今の大学入試にはここまで必要ない (だが本当に英語を読もうとするなら必要)」といった評価を受けていることをあげたいと思います。アマゾンレビューにはいろいろな人が書込み、極端な見解に対しては反論が加えられることが多いですから、それなりに信頼できると思います。どうぞお確かめください。(私は『「みんなの意見」は案外正しい』という見解に妥当性を感じています)。

また、元々の記事でも述べましたが、残念ながら私の勤務校でも英語を読み書きする力は落ちていると感じています。もちろんこの場合「昔は良かった」という見解の偏りや、自分のことは良く思い他人 (特に若者) のことは悪く思う中高年の偏見を注意深く排除する必要がありますが、それにしても昔なら読めていた英文が読めない (そもそも授業でも読まされることがほとんどない)ことや、英英辞典を使いこなせないことなどの事例からすれば、力は落ちたと言わざるをえません (勤務校の学生をこのように悪くいうことに対しては異論もあるかもしれませんが、私は必要最小限の思いやりを充たした後は、できるだけ事実を冷徹に提示する方が、お互いのためによいと信じていますのでこのような記述を敢えてしています)。

また理系の教員からも「最近の大学生は英語で論文が読めなくなった。物理学などがわからないからではなく、英語の構文の知識がないから読めない」という発言はしばしば聞かれます。(実際、私は進学校で、教員がペラペラ英語をしゃべるものの、生徒に尋ねているのは表面的な、見たらすぐにわかる文字通りの意味だけのような、いわゆる「オール・イングリッシュ」の授業を見る度に「この学校ではどうやって進学できる英語学力をつけているのだろう? 他の授業ではまったく違う授業をしているのだろうか。それとも生徒は塾や予備校で学力をつけているのだろうか」と思わざるをえません。)

以上の、間接的な学術研究、多くの人の自由な意見表明による経年変化の観察、大学・高校現場での個人的観察などから私は「英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化している」と主張しています。



Question 2: コミュニケーション重視を「会話重視」と読み違えているのは、教育指導要領を読み違えた教員の方々ではないでしょうか。

Response 2: 教員の方々にもコミュニケーションに関して極めて浅い理解しかしていないというのは事実だろうと思います。ここにおいて中高の教員は、大学教員や教育行政関係者と大差ないと思います。

(ここで思い出しました。金谷憲 (2009) 『英語教育熱 ― 過熱心理を常識で冷ます』研究社出版はぜひお読み下さい。この本の72-73ページなどの記述を読むと、「日本の教育行政はこんなにいい加減に決定されているのか」と驚きと怒りを感じられると思います。私はこの本のここの記述は非常に大切なものと考えていますので、これまでウェブではページ数などは述べても直接引用はしていません。まあ、読んでみてください。)

ちなみに言葉尻を捉えるわけではありませんが、「文科省」というのは統一した人格的存在ではありません。「文科相自身」が言っていることがあるとすればそれは学習指導要領のような公式文書に書かれていることだけです。文科省の関連の方々は様々なコメントをなさいますが、それぞれ大小様々な論点で異なることを述べていらっしゃることは多くの事情通が知っていることです。ですから「文科省」の見解や方針は公式文書で判断するしかありません。この意味で、新しい学習指導要領においても、コミュニケーションに関する記述が浅いと私は考えるというのは2009年1月14日の記事 (「高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出) でも書いた通りです。


新指導要領に関しては、とにかく寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店を読んでください。非常にきちんと書かれた本で、私は多いに啓発されました。



Question 3: 「言語使用者の心を読む力」も退化したとありますが、この力は語用論的能力でしょうか。

Response 3: いいえ、違います。いわゆる「語用論的能力」は、話し言葉中心で議論されていることだと私は理解しています。またBachman (1990, 1996) においても語用論的能力は組織的能力 (Organizational competence/knowledge = grammatical competence/knowledge + textual competence/knowledge) の基盤があって初めて存在するといった見解を示しています(いわゆる「コミュニケーション能力論」に関しては、拙著『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』をお読みいただければ幸いかと思います。最低、資料集としては使える本かとは思っています)。

私が記事で述べた「言語使用者の心を読む力」は、大津由紀雄編 (2009) 『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会で自分なりにわかりやすく説明した (つもりの) 「心を読む力」 (mindreading ability) を意味しています。ぜひ同書をお読み下さい。 (わかりにくい論述で良ければ、日本言語テスト学会で発表した原稿をお読み下さい。なおこれら二つの論文では若干用語が異なったりしています。私としては新しい『危機に立つ日本の英語教育』の所収論文を現時点での見解としています)。



以上を私からの回答といたします。

日本の英語教育には改善すべき点が多々あります。efさんのような若い方々が古い考えや変なしがらみから自由に、抜本的に英語教育について考え行動していただけたらと思います。ブログのプロフィール欄を拝見しますと心理学科に所属されているそうですね。私は英語教育界には、どんどん心理学、社会学、教育学、言語学、文学等々の様々な方々が参入してくださればと常に願っています。どうぞこれからもご研究を大成させてください。コメントありがとうございました。









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