著者の見解は、コンピュータによる記録・保存・検索機能が飛躍的に向上し続けていることにより、私たちは「ある種の情報をある時間帯や場所で記録しないという意識的な決断(もしくは法規制)を必要とする世界」(22ページ)に入りつつあるのではないかというものです。"PC"はこれまで"Personal Computer"を意味していましたが、今後は"Personal Computer-ecosystem"に変わるだろうとも著者は予言します。個人が経験する情報の"Total Recall"により、私たちの生き方が根本的に変わるということです。
このように個人情報が記録・保存・検索される世界は「ビッグブラザー」の世界ではないかと私たちは恐れますが、著者は、すべての人が自ら個人情報を記録・保存・検索するなら、そこに訪れるのは「リトルブラザー」の世界だと言います。そこでは各人が言動を他人に記録・保存・検索されることを前提とするようになり、独裁的ではなく「民主主義的」な監視社会が生じます。これはもう既に、例えば駅や繁華街の監視カメラなどで行われていることですが、それが進行し、一人ひとりの市民が情報を記録・保存・検索するようになれば、幾多の法的・社会的問題は克服せざるに得ないにせよ、今までとは違った社会が現れると著者は考えます。
これまでのインターネット情報革命は、空間的距離の壁を打ち破りましたが、このように経時的な情報を蓄積し活用することは、時間的距離の壁を打ち破ることになるでしょう。これも既に部分的にはMac OS XのTime Machineで実現しているとも言えるかもしれませんが、Total Recallは、これを飛躍的に拡張しようとするものです。私たちはインターネットで空間的にどこへでも飛び、トータル・リコールで過去のどの時間へも飛んでゆくわけです。(ルーマンが生きていたら、この社会変化をどう分析したでしょうか)。
何度も言うようですが、このTotal Recallは既に部分的には現実になっています。MITのDeb Royの言語獲得研究は、自らの子どもが3歳になるまでの23万時間を家庭に設置されたさまざまなデジタル記録装置でデータ保存し、それを分析しようとするものです。
Deb Roy. (2009). New Horizons in the Study of Child Language Acquisition. Proceedings of Interspeech 2009. Brighton, England
もちろんこのような試みに倫理的、社会的に抵抗を感じる人も多いでしょう (あるいは生理的な反発感さえ覚える人もいらっしゃるでしょう)。しかしテクノロジーの進化は止めることができません。私たちはむしろ積極的にTotal Recallのもたらす社会について考え、必要な法整備や社会改革を行うべきではないかというのが著者のスタンスです。読んでいて本当に興奮するぐらい想像力をかき立てられた本でした。「そんな馬鹿な」とか「けしからん」と決めつけないでどうぞこの本をお読みください。
2009年に出版されたこのように革命的な本をこなれた翻訳で読めるのは、本当にありがたいです。わずか一ヶ月半で翻訳を完成させた翻訳者と彼女をサポートしたチームに拍手を送ります。
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【広告: 頑張って営業しています。出版社の皆様、柳瀬はまじめに商売しまっせw】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。
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