2010年2月14日日曜日

卒業生・修了生に贈る言葉 (学問と人生について)

以下は、本日 (2010/02/14) に開催された広大教英卒業生・修了生追い出しコンパで私がした挨拶です。卒業生・修了生のこれからの豊かな人生を心よりお祈りします。




卒業・修了予定の皆さん、本日はおめでとうございます。学部18生のチューターとしての挨拶ということですので、挨拶の冒頭は学部生を中心とした話し方をしますが、メッセージは大学院修了予定者にも向けられていることはいうまでもありません。

18生をもつ前、私は11生のチューターをしておりました。入学時に「よく学び、よく遊べ」と言いましたら、11生の短期記憶あるいはワーキングメモリーは極端に小さく、どうもその言葉の後半ばかりが印象に残ったようで、とても元気な学年に育ちました。卒業後、11生と飲み会をしましたら、みんな目をキラキラ輝かせて「先生、僕らは各県の教員としてみんなバカの道を突っ走っています。僕らはバカのサラブレッドです。これも全部先生のおかげです。ありがとうございました!」と感謝してくれました。私は、自分の教育の目的の少なくとも半分は達成されたのだなと思いました。

そういった経緯を経て今から四年前にこの18生のチューターとなりましたので、18生には事ある度に「本読め。新聞読め」と繰り返してきました。その結果、今では私が「本・・・」といっただけで多くの18生が小刻みに両耳に両手をぶつけながら「アワワワワ・・・」と唱えるまでになってくれました。継続は力なり。またもや私は自分の教育の目的の少なくとも一部が達成されたことを嬉しく思っております。


さて皆さんはこれから、大学院に「入院」する人を除いて、社会に出るわけです。学校と社会の違いの一つは、問いや答えが与えられるか与えられないかというものです。

小学校・中学校では問いも答えも先生から与えられることが少なくありません。みなさんが「わかりません」と言いますと先生がさらに解き方も教えてくれることもあります。このように問い・答え・解き方の三つすべてが先生から与えられるのが少なくないことが小学校・中学校という義務教育の傾向かといえますが、私にとっては驚くべきことにこの傾向は最近どんどんと大学・大学院という高等教育までも浸食しています。

ですが本来、高等教育というのは「答えのない問い・答えがまだ定まっていない問い」を扱うところです。教師はせいぜい、これまでの関連した問いとその問いに対して示された解き方のいくつかを提示し、学生に考えさせるだけです。教師は問いを与え、解き方はいくつか示しますが、答えは与えません。

さらに卒業論文・修士論文・博士論文となりますと、教師は問いすらも与えません。問いは学生が見つけ、解き方も答えも学生が見つけます。教師はそれを見守り、時折コメントをするだけです。

なぜ高等教育の教師は問いも答えも解き方も与えないのでしょうか。それは現実の人生で皆さんが遭遇する大きな課題は、たいていの場合、問いも答えも解き方もわからない状態でみなさんの身に降りかかってくるからです。

例えば人生では皆さんが苦しむ場合も出てくるでしょう。その際に皆さんはどのような問いを立てるでしょうか。

学校の成績だけがよかった人がしばしば犯す間違いは、極めて通俗的で凡庸な問いを立ててしまうことです。そういった人は「私がこのように苦しむのはあの人が (あるいは世間が) 悪いからだ。どうやってあの人に仕返ししてやろうか (あるいは、どうやって世間をあっと言わせてやろうか)」といった問いを立ててしまいます。そのような問いを立ててしまえば、解き方も答えもその問いによって定まってしまいます。そしてその問いに導かれて答えを出そうとすることがその人の人生になってしまいます。学校の成績だけがよかった人は、与えられた問いの定められた答えを出すのは得意でも、問いそのものを探すこと、そして探した問いを吟味することが非常に苦手なのです。彼/彼女は自らの問いに拘束されてしまいます。

しかし問いは別様にも立てられます。「この苦しみの正体は何なのか。この苦しみに意味があるとすればそれは何なのか。この苦しみはそもそも避けるべきものなのか。この苦しみから私は何を学べるのか・・・」などなど、様々に異なる問いを立てれば、それらの問いに従って、皆さんは答えを求めようとします。それが皆さんの人生を創り上げてゆきます。

また、もし皆さんが答えを出したと思っても、また新たな問いはやってきます。答えを出した頃には状況が変わっているからです。仮に状況が変わっていないにしても、皆さん自身が答えを出したことで変わってしまうのですから、その変化によって新たな問いというのは生じます。皆さんが苦しんでいても、楽しんでいても、不幸であれ幸福であれ、問いというものは生じてくるものです。

もちろん「どうやって蓄財をするか」とか「どうやって上司に媚びるか」といった通俗的な問いだけしか受け付けず、それ以上考えることを拒む人生も可能ですが、そういった人生は存外に幸福ではないこと、少なくとも意義深くないこと、は私たちも承知していることかと思います。

人間は問い続けます。問い続ける中で、問うことを学びます。これが「学問」 ―「問イヲ学ブ」― ことです。高等教育で皆さんは「学問」の初歩を学びました。どうぞこれからの現実社会の人生で「学問」―「問イヲ学ブ」―を続けて下さい。

ですから私からのメッセージは「よい学問を続けて下さい」ということです。そしてこれは「よい人生を創り出して下さい」と同義であることは、皆さんもご推察の通りです。

本日はおめでとうございました。






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