2010年11月14日日曜日

桜井章一(2009)『負けない技術』講談社+α新書

ヒクソン・グレイシー氏の本を買ったのには、氏を桜井章一氏が高く評価しているということがありました。私は桜井先生を―以下私が私淑している方は先生と呼ばせていただきます―甲野善紀先生の著書から知りました(Twitterはここ)。私が内田樹先生を知ったのも甲野先生の書かれた文章からでした。私は甲野先生を除いて、これらの方々に直接お会いしたことはありませんが、この方々は私に自分の人生を律することを教えてくださる大切な方々です。



桜井先生のこの本もずいぶん前に読んでおいて気になっていたのですが、グレイシー先生の本を読んで気になり再読しましたら、やはり深さを感じましたので、ここでも若干紹介させていただきます。桜井先生の著書は、近代的な生活で歪んでしまった私たちの心身に回復力を与えてくれるものかと思います。自分に「生きる力」が不足していると感じる方(特に「ゆとり世代」の若い人―こんな言い方はあまり好きではありませんが、やはり多くの若者を見ているとこう言わざるを得ません―)はぜひお読みください。


「勝つこと」ではなく「負けないこと」

この本のタイトルは「負けない技術」ですが、「負けないこと」は「勝つこと」と大きく異なると桜井先生は説明します。「負けないこと」は、動物にとっては「食われないこと」(=捕食されないこと)、植物にとっては「枯れないこと」と言い換えられるかとも思いますが、生物の本能に根ざすことです。生物は生物である限り「負けないこと」を目指します。

しかし「勝つこと」は本能を超えた人間的な欲望です。生き残るためには「負けないこと」だけで十分だからです。それを「負けない」だけでなく、相手を叩きのめしてしまいたい、自分が優位であることを見せつけたい―「勝ちたい」―と思い始めると、その欲望に限度がなくなり、人間は汚いことやずるいことも平気でするようになります。必要のない能力や争いを求めるようにもなります。


この「勝ちたい」という欲望は、現代社会が持っている欲望にとてもよく似ている。
勝ったまま死んでいく人はこの世にひとりとしていない。ただ、負けないように死んでいくということはできるかもしれない。(13ページ)



それではどうすれば「負けない技術」を身につけられるのか。桜井先生は次のように説明します。


「勝ちたい」という思考は自然界の中には存在しない。
自然界の中にいる動植物たちには「本能で生きる」、つまり「負けない」という普遍のスタンスがあるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
人がこの「負けない」力をつけるには、自然界の中にいる動物たちのように変化に対する動きと完成を磨くことである。
世の中のあらゆることは動いている。さまざまなものごとが絶え間なく動き、変化することで世の中が成り立っている。流れが止まれば生き物はたちどころに死に絶え、この世はこの世でなくなる。
つまり「生きる」ことは動きや変化に対応し、順応するということ。そしてそれは、あらゆる世界に通じる真理でもある。(4ページ)


「負けない」人間を育てるには、「褒めて育てる」ことに疑いをもてとも桜井先生は言います。


そもそも、「褒めてもらおう」という人間関係は卑しいものだ。褒めてもらいたいがために、自分の好みではなくても無理に取り繕って、褒めてもらえそうな行動をしようというのだから。(95ページ)

今の社会で生きる人すべてにいえるのは、褒められることを求めている一方で、とめどなく人の悪口を言って生きている、ということだ。
褒められたい人間は、褒められなくなると文句ばかりつけるようになる。それで世の中はクレーマーだらけになっていく。だったら、褒めること、褒められることなどを求めず、人の悪口を言わないようにしていけばいい。(96ページ)


格別に褒めることや褒められることを求めることなく、日常生活の一瞬一瞬を大切にすることを桜井先生は「平常心」と呼びます。


「平常心とは、なにがあっても揺れない心」と多くの人が解釈していると思う。だが、私の平常心に対する解釈はちょっと違う。私の考える平常心とは、日常という「常」を大事にすること。日々の暮らしを大事にする、そんな当たり前の気持ちこそが平常心なのだ。(154ページ)



私たちが「教育」と呼んでいる試みの中でも、私たちは「勝ち組」になることばかり教えて、日々の暮らしをないがしろにし、他人に冷酷になり、現状の枠組みには順応できるけれども、新しい変化にはまったく対応できない人間を育てようとしているのではないかと思うと恐ろしくなります。

いや他人のことより、自分が「勝ちたい」という欲望にまみれた人間であるかどうかを心配する方が先でしょう。



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桜井章一(2010)『努力しない生き方』集英社新書

私は「大学」という「近代合理主義」を教える制度の中で生き、「学校教育」という「人間を近代化」する装置で働く教師を養成する仕事に従事しています。こういった状況で私は「近代合理主義」や「人間を近代化」することを当然の前提としてみなし始めます。

しかし同時に「近代合理主義」の限界や暴走も理解し始めます。「人間を近代化」することの胡散臭さや影の部分も感じ始めます。かといって前-近代に戻るわけにも行きません。どうにかして近代社会に住みながら近代社会の歪みを解体することを目指そうとします。「教育」を問い直しつつ「教育」を行なおうと考えています。

そういった意味で、桜井先生のこの本などは、私などがもっている近代的な世界観を根源的に揺さぶります。しかも桜井先生の言葉は、言葉をもてあそんでの詭弁でなく、自らの身体に基づいた言葉であるだけに、説得力があります。

私はいつものように、いくつかの文章を引用してこの本を紹介しようとしましたが、どの文章も抜き出したら、とたんにそれが本来もつ力を損ねてしまうような気がしてきました。

ぜひこの本は(いやこの本も)ご自身でお読みください。その読書の流れの中で、あなたの頑なな心が少しでも解されたら、この本が持つ大きな力があなたを根源的に揺さぶるでしょう。


以下は目次です。この本を読まずに目次を見る方は、逆説的な小賢しさや、現場を知らない無責任な放言といった通俗的なイメージでこの目次の言葉を捉えるかもしれません。そのような方こそ、ぜひこの本をお読みください。

逆にこの本を既に読まれた方、あるいは読書体験の有無を問わず、ここで桜井先生が語られている生き方を体得されている方はこの目次の言葉を目にしただけで微笑まれ、なすべき仕事・日々の暮らしにまた戻ってゆかれるでしょう。

くどいようですがぜひお読みください。




目次


第一章 「努力しない」から、いい結果になる

努力しない―力が入ったら疑え
持たない―持つほどに不自由になる
得ない―「得る」ことは「失う」ことである
恨まない―上手な諦め方は生きる力を生む
壁を越えない―壁は上に乗るといい
頑張らない―頑張ると柔らかさを失う
悟らない―悟らぬうちが花
苦しまない―期待しなければ苦しくならない
隠さない―賢く見せるのは賢くない


第二章 「何もない」から、満たされる

満たさない―「何もない状態」は豊かである
才能を磨かない―「生きる」という才能があれば十分だ
休まない―仕事が休みになる
相手を読まない―分析したらそこでおわりになる
「絶対」を求めない―アバウトなほうが的を射る
格好をつけない―「 」をつけないことが、格好いい
覚えない―知識は足すより引いてみる
急がない―ゆったりすると物事を鋭くつかめる
正さない―部分だけ正すと元に戻る
意味を求めない―意味のないところに可能性がある


第三章 「求めない」から、上手くいく

求めない―求めると願いはかなわない
目標を前に置かない―目標は横に置くといい
わからない―「わからない」ことをわからないままにする
メジャーを求めない―マイナー感覚があれば自分を見失わない
前だけに進まない―行く手ばかりを見るのは危ない
自由を求めない―自由はルールの中にある。
土から離れない―地面から離れるほど本能は衰える
我慢しない―「我慢すれば報われる」は錯覚である
愛さない―愛は本来不純なものである
熱くならない―熱血はあてにならない


第四章 「つくらない」から、いいものが生まれる

つくらない―つくると嘘が入る
「裏のない人間」にならない―表だけで生きるとおかしくなる
軸を一つにしない―360度回転する軸を持て
尊敬しない―尊敬は学びの機会を奪う
よいことをしない―よいことにとらわれると悪を生む
他人事にしない―他人事は自分事である
否定しない―嫌なものも自分の中を通してみる
健康を求めない―過度な健康志向は病である
安全・安心を求めない―安全な社会は生きる力を弱くする
貫かない―多様性を生きるとキャパも広がる


第五章「計算しない」から、負けない

計算しない―計算しないほうが勝つ
テクニックに頼らない―テクニックだけだと行き詰まる
エネルギーを抑えない―出せば出すほど湧いてくる
見ない―聞くことで相手が見えてくる
運を求めない―運を意識する人に運はこない
立ち止まらない―「休む」も「動き」の一つ
集中しない―集中は丸く広げていく
育てない―「育てない」から上手くいく
刺激を求めない―文明の刺激は感覚をおかしくする





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桜井章一先生の著作8冊

ついでですので、最近読んだ桜井章一先生の本をここで紹介しておきます。

『ツキの正体―運を引き寄せる技術』 (幻冬舎新書)

タイトルだけ見たら安っぽい本にも思えますが、もちろん深い本です。『努力しない生き方』 (集英社新書)というタイトルだけしか見ていない人は桜井先生は努力を一切否定していると短絡するかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。「正しい努力」について本書ではこう書かれています。


正しい努力、必要な努力とは、周囲の評価を求めないものです。
それは、自分という存在を磨くことや、自分に素直であろうとする心がけ、マニュアルを求めず、自分で何かを発見しようとする行動様式を指します。
あるいはまた、常に新しい自分に生まれ変わろうとして、前へ進み続けようとする姿勢です。どんなにつかなくても、正しい手順を追求しようとする生き方です。
それらに力を注ぐことを一口で表現すると「努力」になるのです。
私は、道場生にアドバイスするとき、正しい努力が足りない者には、
「今はもうちょっと努力したほうがいいかもしれない」
と話し、悪い努力でいっぱいいっぱいになっている者に対しては、
「努力なんかしなくていい」
と示唆します。間違った努力をしていると、頑張れば頑張るほど、あらぬ方向をさまよってしまうからです。自分を見失い、他人任せになり、さまざまな変化に鈍感になってしまう。その結果、新しい自分に変わっていく余地がなくなり、流れに間に合わなくなります。
悪い努力をしていると、場の流れに乗れなくなってしまうのです。
もし、いつでも誰にでも、判で押したように、
「もっと努力しろ。努力しないからダメなんだ。オレはものすごい努力をしてきたんだぞ」
などと自分の苦労話を得意げにする大人がいたら、信じないほうがいい。その人はおそらく、自分の中のコンプレックスをいつまでも消化できずにいるからです。
そして、何よりも、努力という言葉の意味をわかっていない可能性が高い。努力は誰かに認めてもらうものではなく、自分のために勝手にするものですから、自慢したり他人に共用しても意味がないのです。(74-75ページ)


私も自分の不全感から人に「悪い努力」を強要していないかと考えると恐ろしくなります。




『マイナー力(リョク) 「負け」が「勝ち」になる生き方』(竹書房)

現代の学校教育も「メジャー」を求め、「マイナー」であることを避けようとしています。教育の方法論でも、それがまったくの間違いであるわけではないのですが、「できる人」の話ばかりを聞き、「できない人」に目を向けようとしません。しかし教育の方法論を修得するとは、むしろ「できない学生・生徒・児童」から学ぶことを学ぶことなのかもしれません。


できる人に「どうしてできたんですか?」と聞くより、できない人を見ているほうが、よっぽどためになるのです。
たとえば、私自身が苦もなく最初からできることを、「なぜできるのか」なんて聞かれても、私の中からはきっと良い答えは導き出せないでしょう。「できる」という立場に安住して何かを伝えようとしても、一方的になるだけなのです。それでは上から目線の教育でしかない。

しかし、できない人をとことん観察して、または本気でできない者の身になって、「なぜできないのか」を追求していくと、だんだんとその理由が見えてくる。
そして、「こう指導すれば理解できるだろうな」という線が分かってくるのです。それは本当の指導になる。きっとこれは、できる人に何十回聞いても導き出せないアドバイスのはずです。
しかしながら、いまだ世間一般の「教え」というものは、全部先生側からしか発信していない、上から目線のものとなっています。(101-102ページ)


「できる人」ばかりを賞賛し、「できる生徒」を贔屓して、「できない生徒」を否定的な感情や(上から目線の)憐憫の感情をもってしか見ることができない教師―「できない人」を虚心坦懐に観察し、できない人と水平に立てない教師―は「教師」の名前に値しないのかもしれません(自戒の言葉です)。




『「育てない」から上手くいく』(講談社)

教員には通常、終身在職権が与えられていますから、時にとんでもなくいい加減な教師がいたりします。既得権益にあぐらをかいてしまう人です。そのように論外な教師を見ると「少しは熱心に教えろ」と言いたくなりますが、この「熱心さ」も、そのような例外的な状況は除くならば、注意を要する言葉です。


熱心はいいことだと思われていますが、私はそこに危なっかしさを感じます。なぜならひとつの思いや価値観にとらわれて、バランスを崩している状態を「熱心」と呼ぶこともできるからです。
私の経験からいって、「僕に任せてください」と張り切って言うような、やる気溢れる熱血漢ほどあてにならないものはありません。
そういう人は熱心であることがいいことだと思って、そういう像を演じているのです。でも、やる気をアピールする人間は自分の弱さをどこかでカバーしようとしてそうなっていることが少なくありません。
熱血や熱心はその意味でもろいものなのです。教育が熱すぎると子どもには無用なひずみを与えることになるし、最終的には嫌がって逃げてしまうものです。熱血はある機関は上手くいっても、そう長続きはしないものです。

子育てに熱心さは必要ありません。むしろ親や教師は自分が熱くなっているなと思ったら、熱さがはらんでいる怖さについて目配りしたほうがいいんじゃないかと思います。(39-40ページ)


というわけで、私は研究室の本棚の目立つところにこの本を置いています(笑)。





『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(竹書房)

要は、努力なしの人生は考えられないが努力も行き過ぎると歪むし、熱心さは重要な資質だがそれが加熱すると暴走するということ、つまりはバランスが大切―たとえて言うなら、「シーソーの真ん中に立つ」ことを学ぶべき―ということになりましょうか。

バランスは現在と非現在(過去・未来)の間でも必要かもしれません。過去のことをすっかり忘れ去り、未来のことも考えずに現在の享楽に走ることは論外ですが、かといって過去や未来に縛られて現在を生きることができないのも問題です。


「今度の仕事で、良い結果が出なかったらどうしよう」
「なんであの時、こうできなかったんだろう」
将来(後)のこと、過去(前)のことを考えている人は、結局「今」をおろそかにしているから悩んでしまうのです。
そういう人は、とにかく目の前のことを全力でやることです。それが別に仕事でなくてもかまいません。ご飯をたべること、気持よく寝ること、買い物に行くこと、散歩をすること、友達とおしゃべりをすること。今とは全く別のことを真剣にやってみるのも一つの手段です。とにかく何でもいいから一生懸命やってみる。
目の前のことや、今この瞬間に集中している時、人は決して悩んだりしないものです。(21-22ページ)





『突破力』 (講談社プラスアルファ文庫)

「今この瞬間に集中」する最適の方法は、日頃の自分の立ち居振る舞いの身体感覚を注意深く観察することかもしれません。私たちはロボットが立ったり歩いたりしたら驚きますが、それよりももっと精妙な私たちの身体の動きに驚くことを忘れてしまっています。身体を整え、鍛えるということは、特別なジムや道場に行かずとも、日常生活を丁寧に生きることによりできるのではないか、むしろその方がより効果的で有意義な鍛錬ではないかということを、私は最近甲野善紀先生の『甲野善紀の驚異のカラダ革命』(学研)を読んで強く思いました。例えば床からあるいは椅子から立ち上がる時に私たちはどのように立ち上がっているか。歩くときの重心や姿勢はどうなっているか―これらを観察しながら日常生活を送るだけで、かなりの静かな集中を得ることができます(ですが私はこれができていません)。昔の日本人はこれの静かな集中が「礼儀作法」という文化的な身体作法で修得されていたからこそ、明治維新や第二次大戦後の復興もやり遂げられたのではないかとすら思えます(そうすると身体作法を忘れた平成の私たちの未来に関しては楽観できません)。

桜井先生も姿勢の重要性を述べます。


背中は人間の軸です。背中を見れば、つまり姿勢を見れば、だいたいその人の人間としての力量はわかるものなのです。
特に勝負師の世界や職人の世界では、姿勢を大切にします。(63ページ)


私はなかなかできないと言いましたが、それでも常日頃から自分の姿勢や立ち居振る舞いをよく観察していたら、私も、余計なことを考えずに一つ一つの仕事に集中でき、少しはまともな人間になれるのかもしれません。

筋肉の量などは、歳を取るにつれ減ってゆきますが、人間の威厳というか風格―空威張りとは無関係の雰囲気―といったものは、こういった丁寧な日常生活の中から生み出され、ひょっとすると歳を重ねるごとに深いものになってゆくのかもしれません。年齢を重ねることについて桜井先生はこう言います。


私がいちばん恐れるのは、歳をとることによって現役「プレイヤー」でいられなくなることです。
老いを理由に、周囲から知恵や力を期待されなくなるのは、人として絶えられません。ただ生きているだけでなく、死ぬまで「プレイヤー」であり続けたいのです。
たとえば、電車内で理不尽な暴行事件のようなことに遭遇しても、
「自分のような腕力の衰えた年寄りが割って入っても、とておも止められないな」と諦めるような、そんな年寄りには、なりたくないのです。
昔は、おっかないお年寄りというのが、どこにでもいたものです。
体力や腕力という意味ではなく、つまり、叱り方に迫力があったのです。
いまは、怒っちゃいけない、張り倒しちゃいけない、という教育のなかで育った大人たちばかりなので、言葉そのものにも迫力がありません。
こういうことは長年培って身につくものですから、いきなり迫力を出せといっても無理な注文です。
昔の人には、気骨というものがありました。その気骨が言葉になって放出されたのです。だから、体力がなくなっても、死ぬまで「プレイヤー」でいられたのです。
歳をとっても、いざというときそんな迫力が出せる人間でいたいと願っています。(115ページ)


「気骨」など現在はほとんど死語扱いですが、このような言葉に表されるような文化を取り戻さない限りまともな社会は再生できないのかもしれません。



『人は八割方 悪である』(竹書房)

私は『大修館 英語授業ハンドブック 中学校編』の編者の一人ということもあって、何人もの高校の先生から「この本は中学校編ですが、高校教師の私にも役立つでしょうか」と尋ねられました。

私はその度に、無難な答えを出していたかと思いますが、正直な気持ちを申し上げますと、私はそのような問いに驚いていました。高校英語教師が中学校英語教育から学べないようなら、他の分野の本からはまったく学べないということになるでしょう。細分化された「専門」に自分を囲い込み、その狭い世界の中でマニュアルばかりを求めるような生き方は、私には正直想像もできません。「役に立つ」と保証された本だけしか読まないような生き方は、その人の知性と生きる力をどんどんと貧しいものにしてゆくと私は考えます。

この竹書房の新書シリーズは基本的に麻雀ファンのために書かれたものですが、もちろん一般読者も多くを学ぶことができます。

というより次のような予想もつかない文章に出会えるからこそ、自由な読書というのは楽しいのかと私は思います。


この世が完全であった時代には、誰も価値ある人間に注意を払うこともなく、能力ある人間を敬うこともなかった。
支配者とは木のてっぺんの枝にすぎず、人民は森の鹿のようだった。
彼らは誠実で正しかったが、自分たちが『義務を果たしている』という認識はなかった。
彼らは互いに愛しあい、しかもそれが『隣人愛』だとは知らなかった。
彼らは誰もだますことはなかったが、それでも自分たちが『信頼すべき人間だ』とは認識していなかった。
彼らは頼りになる人間だったが、それが『誠』だとは知らなかった。
彼らは与えたり受け取ったりしながら自由に生きていたが、自分たちが『寛大』だとは知らなかった。
それゆえに彼らの行為は語られたことがない。
彼らは歴史を作らなかった。

~詠み人知らず~(117-118ページ)







『瞬間力』(竹書房)

これも竹書房の新書シリーズの一冊です。桜井先生が読者からの質問に答える形の本です。「スピード」に関する次の指摘はまったくその通りで、私などは時に「スピードがあるように見える」だけで、無駄な動き・仕事ばかりしていることを自覚させられました。


本当のスピードというのは、無駄のないところから生まれてくるもんだんだよ。雀鬼流では牌が低空飛行で、直線的に最短距離を移動するから早いわけだよ。ところが無駄があってモーションが大きいと、素人目にスピードがあるように見える。(中略)
基本動作がしっかりしていると、自然に打ったって早いんだよ。そうすると大げさで威圧的な、やみくもに人を脅かすようなスピード感じゃなく、柔らかいスピードというのが生まれてくるんだ。
もちろんフォームを固めるには回数も反復練習も必要でしょう。でもその前に、本質的なとことに気づかないとね。そうでなけりゃ、いくら回数をうったって、10年経ってもよくはならないよ。(125-126ページ)


「しかし『スピード』と言われても、英語教育とは関係ないでしょう・・・」などと言う方がいらしたら―私は個人的にはそのような方とはあまり話をしたくありませんが―次の文章をお読みください。桜井先生の麻雀関連の用語を必要最小限に英語教育の用語に言い換えたものです。


まず言えるのは、オレの授業の見方は部分的ではないということだよ。総体的なものの見方、とらえ方をしているということだね。
けれど今までの授業論や大学の先生といわれる人たちは、指導順序をどうするとか学習指導要領をどう読むとか、そんなことばかりをやってきたわけだ。そんなのは授業の中の部分的なことでしかないでしょう。しかも書物からの情報頼みなんだね。こんなものは、オレからすれば部分的に過ぎる、なんの役にも立たない見方だよ。
授業というのは教師ひとりで行うものではない。教師の他にも生徒がたくさんいて、それから机についた生徒の動きの他に、教室全体の動き、学校の動きというものもある。人間がいくら泳ぎたいと思ったって、海が荒れていれば泳げないだろう。山の天気が荒れていれば登れないわけだよ。人の意志だけでは間に合わない要素もあるんだ。
(中略)
授業では、人だけでなく場も動いている。そしてそういうもの全部ひっくるめて総体的に見なくては決して間に合うことはない。思考だけで見ようとすると、部分的な情報に頼ることになる。あれこれ考えるということになる。そうなることで、授業の本質、教育の本質からはどんどん外れてしまうだけなんだ。
授業というのは、思考だけで行っているわけではないということだよ。授業の一つ一つの営みを行っているのは人間の肉体でしょう。授業は肉体が行わなければならない。そしてさらに心や気持ちでやらなければいけないものなんだ。
(113-114ページの記述を柳瀬が改変)





『賢い身体 バカな身体』(講談社)

最後に甲野善紀先生と桜井章一先生の対談本から、それぞれの先生の発言を一つずつ紹介します。

まずは甲野先生。人間の強さと弱さ、そして品格についてです。


弱さは駄目だと単純にいうわけではなくて、ひがんだり、いじけないで、その弱さを心得ていることが重要だということですね。どんなに強いといったって人は生き物ですから死ぬわけですし、そうした限界を含めて弱さを心得ることが大切なんだと思いますね。だから、弱さを隠して背伸びする行為というのはみっともないことですよ。幼い子が大人の真似をするのは微笑ましいですけれど、ある程度年齢のいった大人が背伸びするのは非常にみっともない。それこそ品がないと思う。
だから、品格ということでいうと、自分の弱さや限界を知る、つまり自分の部を知っているということが、まさに品ということにつながるんじゃないでしょうか。(44-45ページ)


よく「強さ」を求めるなどというと筋肉の量を誇るような「マッチョ」とか、狂犬のような目をしてこわばった身体を持つ人間などが想像されますが、人間的な強さとはそういったものとは無関係の、品のある強さです。自らの、そしてお互いの弱さを認めて、強くなりたいと願いたいものです。


桜井先生も、日常生活の一瞬一瞬を大切に生きることに「人間的な強さ」を見ているようです。


たしかに、現代はいろいろな意味で困難さに満ちた時代だと思います。途方もなく社会が複雑であるがゆえのさまざまな問題にしても、[甲野]先生がよくおっしゃるようにいつも加害者でありながら被害者でありうるという側面を持っている。つまりどんあ立場にいようとけっして無傷できれいな身でありえないということです。少なくともそのことは自覚して生きていきたい。
そして、「人が人として生きることは、それだけですごい」ということに気づけば、それは誰がなんと言おうと、この世界を見事に生きているんだと思います。
みんな、人より抜きんでよう、勝とうとして、華やかなほうにばかり気を取られて、足元の生活をおろそかにしている気がします。でも、あたり前の日常というのは奇跡のようなことなんですね。そこにこそ生きる根っこがある。それは根であるがゆえに深い。深いというより無限の長さを持っているかもしれない。そのことにいつも素直に驚き感動できれば、いい生き方をしていると思いますね。
そして深い呼吸とともに、この瞬間、自分が無数の多くの人や自然界の無数の生き物とともにあることを感じる。そんな心境で生きれば、何気ない日常も活き活きとしてくるし、本当の意味で心の自由さを保てるんじゃないでしょうか。そう、思います。(210-211ページ)



下手な学会論文など読むよりは、こういった本を読むほうがはるかに有意義だと私が思っていることについては、言わずもがなかと思います。


アマゾン:桜井章一先生の著作のページ










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証し

以下は、私が本日(2010/11/14)東広島めぐみ教会でおこなった「証し」(=神様と自分の関係に関する告白)です。


約6年前、それまで教会にはほとんど足を踏み入れたことのない私はおそるおそる、しかし藁にもすがりたい気持ちでこの教会の今日のような特別伝道集会に参加しました。私は離婚の痛手と少しずつ悪化するうつ病で追い詰められていました。苦しむ自分を受け止め肯定してくれるものを探し求めていました。

しかしその一方で私は自らを直視していませんでした。今から思えば離婚もうつ病も、私の中に巣食っていた「自己中心的な偽りの正義」から生じたものと考えられます。

大学に職を求め博士号も取得した私は、世間的には向上心を備えた仕事熱心な社会人でした。しかし内面的には、若い頃から自分の中に充たされない虚空―虚ろな空間―を抱え、それを世間からの評価で埋めてしまおうとあがいていました。

以前の私は、世間からの評価を求め、その移ろいやすい世評で自らを「正しい」と必死に証明したがっている者でした。それほどに自らの正しさを求めたのには、心の中でどこか自分が正しくないことを知っていたからでしょう。しかし私は、自分の不完全さ・過ち・愚かさ・弱さ―「神様の御心から離れている」というキリスト教的な意味での「罪」―を認めず、ごまかし、それが誰であれ相手を批判し否定することによって自らの偽り「正しさ」を誇示しようとしていました。いやおそらく今の私も、依然としてそのような者であるかもしれません。

世間の人の中にはそれを本当の「正しさ」とか「強さ」と勘違いする方もいらっしゃいます。しかし私の偽りの「正しさ」と「強さ」に真っ先に痛めつけられたのは、私の高慢な自我の最も身近なところにいた元妻と私の心身でした。妻の苦しみは離婚という形に、私の心身の苦しみはうつ病という形に結実しました。離婚とうつ病は私の罪を知らせるメッセージでした。

しかしそのメッセージを受けても私は自分の「罪」を認めず、自分を肯定してくれるものばかりを求め続けました。うつ病に関する本も、医者による客観的な記述は「この人達はわかっていない」とはねのけ、数々の本の中から自分の都合のよい記述だけを抜き出し、自分がうつ病になったのは「誠実で繊細で優しい、いい人」だからだと言い聞かせていました。それほどに心身ともに力を失い弱くなっていたのでしょう。

この教会に来たのも、うつ病の症状が重くなっても病院の薬が増えるばかりで、打つ手をなくしていたからでした。『マタイによる福音書11章28節』の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」の言葉に惹かれて教会に来ました。

実際、教会は私の重荷を少しずつ降ろしてくれました。何よりも人々が集い、静かに祈る姿が私を理屈抜きに救ってくれました。イエス・キリストは、私のような人間に、自らの罪深さを諭し悔い改めさせるためにこの世に降り立ち、それでもぬぐい去れない私たちの罪―原罪―を贖い、父なる神からの赦しを得るために十字架にかかったのだということが、これも理屈抜きに実感できるようになりました。

アダムとイブの末裔として、いや、他ならぬ私のこれまでの人生を生きていた私自身として、私は罪深く醜い存在です。しかしそのような私でさえイエス・キリストは愛し、諭し、悔い改めを促してくださいます。私は恥ずかしい人間です。しかし私は愛されています。少なくともイエス・キリストに。私はようやく自分の不完全さ・過ち・愚かさ・弱さを少しずつですが受け入れられるようになってきました。そうやって少しずつ偽りでない強さも身につけることができるようになりました。少なくともうつ病の再発はなくなりました。離婚の苦しみからも少しずつ解放され、自らを悔い改めようとする心を得ることができました。今ようやく私は自分が良き夫でなかったことを心から認めることができます。私は償いようのない過ちを数々犯してきた人間です。私はその罪を認めます。そしてその罪を悔い、イエス・キリストが示された道を一歩でも歩もうとすることに私の人生の可能性と希望を見出しています。

『コリントの信徒への手紙一 1章19-20節』にはこう書いてあります。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」

私は世間的には教師であり「学者」「論客」かもしれません。しかし神様はそれを打ち砕いてくださいました。そして同時に救ってくださいました。この恵みが私の人生です。一切に感謝します。アーメン。









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2010年11月9日火曜日

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

前の記事でBachman and Palmerが「技能」(skill)というのを言語教育の構成概念として使うのを止めようと提案していることを報告しました。ウィトゲンシュタイン的な考えならもっともだと思います。「技能」という言葉に因われてしまって、「スピーキング」と呼ばれる言語使用にはすべて共通の要素があるはずだ、などと主張するのは賢明ではありません。そのような主張をする人の知性は空回りしています。

以下、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の新訳(Philosophical Investigations)とドイツ語原文を添えて正確を期した上で、私なりの(かなりの意訳的な)翻訳を提示し、この問題について考えみたいと思います。



11節
語られた言葉を聞き、手書きあるいは活版印刷された言葉を見るときに、それらの言葉がどの場合も同じ形式を持っているように思えるところにこそ私たちの混乱の源があります。形式が同じに思えることによって、一つ一つの場合の言語使用の違いがわからなくなってしまうからです。これは私たちが下手に考える時に起こることですからご注意を!

Of course, what confuses us is the uniform appearance of words when we hear them in speech, or see them written or in print. For their use is not that obvious. Especially when we are doing philosophy!

Freilich, was uns verwirrt is t die Gleichförmmighkeit ihrer Erscheinung wenn die Wörter uns gesprochen, oder in der Schrift und im Druck entgegentreten. Denn ihre Verwendung steht nicht so deutlich vor uns. Besonders nicht, wenn wir philosophieren!


「スピーキング」という名前が与えられると、私たちは「会話」だろうが「対話」だろうが、「討論」だろうが「交渉」だろうが、「学会発表」だろうが「朗読」だろうが、「演説」だろうが「ひとりごと」だろうが、それらは「スピーキング」なのだから、同じ枠組みの中で考えられるべきだと思始めます。しかし「スピーキング」という一つの名前が適用されているからといって、それぞれの活動の違いを捉えることを怠ってはいけません。むしろ下手に「スピーキング」として考えるのではなく、それぞれの言語ゲーム(生活様式)を具体的に思い起こすべきです(そしてそもそも想起できないなら、よく観察するべきです)。


ウィトゲンシュタインは、このように同じ言葉が適用されても、それぞれの事物は様々に異なる例として、道具箱の中に入れられた道具を出します。ウィトゲンシュタインは、架空の相手を登場させて思考します。


14節
誰かがやってきてこう告げたとしましょう。「道具というものはどれも何かを変える [という本質的特徴を持っている]。金槌は釘の位置を変え、ノコギリは板の形を変えるではないか」 ― それでは定規、膠(にかわ)を温めておく容器、釘といった道具は何を変えるというのでしょう? ― 「物の長さに関する知識、膠の温度、箱の強度を変えると言えよう」 ― そのように強引な言い含めをして、何かいいことがあるのですか?

Suppose someone said, "All tools serve to modify something. So, a hammer modifies the position of a nail, a saw the shape of a board, and so on." -- And what is modified by a rule, a glue-pot and nails? -- "Our knowledge of a thing's length, the temperature of the glue, and the solidity of a box." -- Would anything be gained by this assimilation of expressions?

Denke dir, jemand sagte: "Alle Werkzeuge dienen dazu, etwas zu modifizieren. So, der Hammer die Lage des Nagels, die Säge dir Form des Bretts, etc." -- Und was modifiziert der Maßstab, der Leimtopf, die Nägel? --"Unser Wissen um die Länge eines Dings, die Temperatur des Leim, unde die Festigkeit der Kiste." --Wäre mit dieser Assimilation des Ausdrucks etwas gewonnen?--


もちろん何か複数の事物に、明らかな共通要素がある場合もあるでしょう。しかし、もしそれが見当たらなかったら、下手な屁理屈で言葉を捻って無理矢理に共通要素をひねり出すようなことはやめて、虚心坦懐に事物を観察し記述するべきです。強引な用語法で共通要素を定義する人にはこう言いましょう。「そんなことして楽しいの?」


次は有名なゲームについての箇所です。ここでウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれる様々な営みの共通要素は、それらがすべて「ゲーム」と呼ばれる以上、なくてはならないと決め付けるのではなくて、一つ一つのゲームをよく観察しようと言っています。下手に考えず、丁寧に観察することが大切なのです。


66節
例えば私たちが「ゲーム」と呼ぶ様々な活動について丁寧に考えてみましょう。[将棋やチェスのように] 盤を使うゲームや [トランプやカルタのような] カードゲーム、[野球やサッカーのように] ボールを使うゲーム、あるいは [陸上競技のような] 競技ゲームです。さてこれらのゲームに共通するものはあるでしょうか? ―ここで「共通要素はなくてはならない。さもないとこれらを『ゲーム』と呼ぶことができないではないか」などと言わないでください。 ― そんなことを言わずに、これらすべてに共通しているものがあるかをよく観察してください。と言いますのも、よく見たら、すべてに共通するものはないことに気づくからです。これらにあるのは、類似性や親近性であり、これらはその類似性や親近性で連なり重なっているだけなのです。繰り返して申し上げます。下手に考えるのは止めて、よく観察してください。

Consider, for example, the activities that we call "games". I mean board-games, card-games, ball-games, athletic games, and so on. What is common to them all? -- Don't say: "They must have something in common, or they would not be called 'games'" -- but look and see whether there is anything common to all. For if you look at them, you won't see something that is common to all, but similarities, affinities, and a whole series of them at that. To repeat: don't think, but look!

Betrachte z. B. einmal die Vorgänge, die wir "Spiele" nennen. Ich meine Brettspiele, Kartenspiele, Ballspiele, Kampfspiele, u. s. w. Was ist allen diesen gemeinsam? -- Sag nicht: "Es muß ihnenn etwas gemeinsam sein, sonst hießen sie nicht 'Spiele'" -- sondern schau, ob ihnen allen etwas gemeinsam ist. -- Denn, wenn du sie auschaust, wirst du zwar nicht etwas sehen, was allen gemeinsam wäre, aber du wirst Ähnlichkeiten, Verwandtschaften, sehen, und zwar eine ganze Reihe. Wie gesagt: denk nicht, sondern schau!


もちろんここの箇所だけ見ると、ウィトゲンシュタインが挙げた「ゲーム」には、「複数の人間が予め定められた規則に従って勝敗を決しようとする営み」といった共通的特徴を見出すこともできます(注)。ですが、彼が言いたいのは、そのような共通的特徴を見出すことが有効な場合と、有効でない場合を見極めることが大切だということ、と考えられます。例えば将棋、チェス、ポーカー、百人一首、野球、サッカー、ハンマー投げ、マラソンなどを考える際に、これらを「複数の人間が予め定められた規則に従って勝敗を決しようとする営み」として考える方が有効か、それともそれぞれの特徴を個別に考えることの方が有効かということです。(ご興味があれば「空虚概念としての「オリンピック能力」あるいは「コミュニケーション能力」(1999/7/13)」および「言語ゲームの集合体としての英語教育(1999/7/4)」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay99b.htmlの中程にあり)をお読みください。

ですから「言語使用も『スピーキング』『ライティング』『リスニング』『リーディング』に分けられるのだから、そう分けるのが正しい。「スピーキング」と呼ばれる活動はすべて「スピーキング」なのだから「スピーキング」の枠組みで教えなくてはならない」などと決めつけずに、私たちが関心をもっている言語使用の営みを思い起こし、あるいは観察し、それぞれの特徴を丁寧に記述した方がよくないか立ち止まって考えましょう。そして具体的な観察が望ましいのなら、その具体的な言語使用記述を、言語教育あるいは言語使用の促進を主目的とする言語教育の構成概念(construct)として構築(construct)してゆきましょう、となります。(これは最近genreを強調するESPの流れでもあるかと思います)。

もちろん「四技能」の分け方が有効な場合もあるでしょう。完全否定までしません。しかし英語教育を考える際に、自動的に「四技能」を前提としたら、少し時間をおいて、もっと丁寧に具体的に英語教育を考えることはできないか自省するべきでしょう。


哲学って役立つのよ(笑)




(注)
「ゲーム」とはドイツ語の"Spiele"で、英語なら"game"とも"play"とも訳せるものです。ウィトゲンシュタインは別の箇所で、子ども同士がボールなどで適当に、ルールもなしに遊んでいる例も"Spiele"として使っています。このような例も含めるなら上記の「・・・勝敗を決する」といった特徴も共通のものとは言えなくなるでしょう。


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関連記事:鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html


追記

下のコメント欄で説明した趣旨で上のように訳しましたが、もちろんウィトゲンシュタインは、もし日本語を話したとしても、あまり「ですます調」で語るような人ではないでしょう。下は、ウィトゲンシュタイン「らしい」ような文体で訳出してみたものです。

11節
語られた言葉、手書きの言葉、印刷された言葉、これらの現れが同じ形式を有することが私たちを混乱させる。これらの言葉がどのように使用されるかが明瞭に現れないからだ。特に哲学を行う時には!

14節
ある者がこう告げる「すべての道具は、何かを変えるためのものである。金槌は釘の位置を、鋸は板の形状を変えるといったように」。 ―ならば定規、膠壺、釘は何を変えるというのだ― 「物の長さに関する知識、膠の温度、箱の強度を変える」― 言語表現をそのように同じように変えて何の益があるというのだ?―

66節
例えば私たちが「ゲーム」と称する営みについて考えるがよい。盤ゲーム、カードゲーム、球技ゲーム、競技ゲームなどである。「何か共通なるものがなくてはならない。さもなければ『ゲーム』と称することができないではないか」などと口走るな。見よ。そしてすべてに共通しているものがあるか確かめよ。よく見るならばすべてに共通するものではなく、類似性と親近性を見出すだろう。それが一つの全体をなす連なりなのだ。もう一度言う。考えるな、見よ!



追追記

悪ノリして、読書をしない平成の学生さんにも親しんでもらえる文体で訳してみました(笑)。

11節
まじ~、言葉ってぇ~、話してもぉ書いてもぉ本で読んでもぉ、カタチって同じじゃん。だからぁ、えっ、これって全部使い方が違うん?ってなるよねぇ。テツガクっぽく考えたりしてたらもう最悪。

14節
なんかワケわからん人が来てぇ、「道具ってぜ~んぶ物を変えるって知ってた?トンカチは釘の位置を変えて、ノコギリは板の形を変えるじゃん」とか言うわけ。私、カチンときて「じゃあモノサシとか、釘とかはどうなの?」って言ってやったの。そしたらぁ、すました顔でぇ「長さについての知識が変わるしぃ、箱の強さが変るじゃん」とか言うわけぇ。アタマにきてさ、私「そんなんして、何が楽しいん?」って言ってやったわ。

66節
「ゲーム」っていろいろあるじゃん。それについて考えてみたわけぇ。ボードの上でやるやつとか、カード使うやつとか、ボール使うやつとか、マジでやるやつとかいろいろあるじゃん、そんなやつよ。でさ、そのゲームがみ~んなもってるものってな~んだ? あっ「そりゃ何かあるさ、だってみんなゲームだろ」って言いそうになったよね。ハズレ~(笑)。見て、ホントにそんなのあるか確かめてよね。ちゃんと見たらさ、み~んなにあるのなんてないってわかるからさ。なんかお互いビミョーに似てるだけなんだよね。それでいて「ゲーム」ってみんな言っちゃうんだから、何かなぁって感じ。いい、見るのよ。考えちゃダメ!



追追追記
さらに悪ノリした大阪弁バージョンです。とはいえ、私の母語は大阪弁ではないので、間違いがあったら教えてください(笑)。

「ど~も~、ウィトゲンで~す」「シュタインでおます」「兄さん、ボク最近ことばについて考えてますねん」「なんや、キミえらい賢いなぁ」「ことばいいますのは、しゃべっても、書いても、本で読んでも、一緒に思えますやろ」「ま、同じことばやからなぁ」「でもでんな、一緒や思うから、使い方がえろう違うことに気づけませんねん」「なるほどなぁ」「兄さん、下手に考えたらあきまへんで」

「それでもキミ、『道具』はみんな物を変えよるさかいに、一緒とちゃうんか。トンカチでスコーン打ちよったら釘はびっくりして引っ込みよるし、ノコギリギーギー言わせたら板はサクーンと切れよるがな」「それなら兄さん、定規や釘はどないでんのん。定規や釘が何か変えまっか」「アホ、定規使うたら長さわかって賢うなりよるし、釘打ったら箱は『何でも来~い』になりよるがな」「うわ~、兄さん、その言い方エゲツないわぁ。兄さん、そんなんやって楽しいんでっか?」

「ええでっか、兄さん、ほな『ゲーム』で行きましょ。坂田三吉の将棋とか兄さんの好きな花札とか」「放っときぃな」「阪神タイガースの野球とか四年に一度のオリンピックとか、これみ~んな『ゲーム』って言いまんのや」「言われてもうたらそうかもしれへんなぁ」「ほしたら兄さん、ここで問題です。こいつらのゲームで一緒のものって何でしょ~う」「うん、こら難しいなぁ。でも何かあるわなぁ。ないと『ゲーム』言われへんよってなぁ」「ブーッ。不正解です~ぅ。兄さん、よう見なはれや。ぜんぶ一緒なもんてあらしまへんで。あっちゃこっちゃが似たり寄ったり。『ゲーム』なんてそんなもんでっせ」「そうかいなぁ」「そうかいなぁ、やあらしまへんが。昔から言うてますやろ。『下手な考え休むに似たり』」「そうかぁ。ほな、休ませてもらうわ」(礼・退場・拍手)










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Bachman and Palmer (2010) 'Describing language use and language ability' in "Language Assessment in Practice" (OUP)







ここではBachman and Palmer (2010) Language Assessment in Practice: Developing Language Assessments and Justifying Their Use in the Real World (Oxford Applied Linguistics)の第三章である'Describing language use and language ability'について気がついたこと、特にFundamental Considerations in Language Testing(1990)やLanguage Testing in Practice(1996)と異なるところを書き残しておきます。



■基本的な考えは1990年から変わらず、Language Ability = Language Knowledge x Strategic Competence

この本での「言語力」(language ability)の基本的な考えは、Language Testing in Practice(1996)と同じと言ってもいいかと思います。

その1996年の考えも、基本的にはFundamental Considerations in Language Testing(1990)と一緒で、それはLanguage Ability = Language Knowledge x Strategic Competence つまり「言語力とは言語知識をうまく活用することにより生じる」とまとめられるかと思います。

この考えはWiddowson (1983) Learning Purpose and Language Useで展開した"capacity"(私は「活用力」と訳しています。詳しくは拙論「コミュニケーション能力論における「能力」関連諸概念」をお読みください)の考えに基づきます。Bachmanがいう"strategic competence"はCanaleやSwainなどが使う"communication strategies"の意味と違い、Widdowsonの"capacity"概念を発展したものだと考えられます。

ともあれこの本での「言語力」(language ability)―私は1990年のように「コミュニケーション的言語力」(communicative language ability)と呼んだ方がすっきりすると思うのですがそれはさておき―は次のように説明されています。



In this chapter we describe language ability as a capacity that enables language users to create and interpret discourse. We define language ability as consisting of two components: language knowledge and strategic competence. Other attributes of language users or test takers that we also need to consider are personal attributes, topical knowledge, affective schemata, and cognitive strategies. (p.33)


つまり「言語力」(language ability)の本質的要因は「言語知識(language knowledge)と「方略的能力」(strategic competence)だが、その他の要因として「個人的特性」(personal attributes)、「トピックに関する知識」(topical knowledge)、「感情の組成」(affective schemata)、「認知ストラテジー」(cognitive strategies)があるというわけです。



■2種類のinteraction

このように言語力には本質的要因として二つ、その他の個人的要因として四つがあります。これら六つは相互作用をおこしながら言語力となります。さらにその言語力は、言語使用の課題と状況(language use task and situation)―この中にはコミュニケーションの相手も含まれます―という外部要因とも相互作用をおこします。BachmanとPalmerは前者の個人内での相互作用と、後者の個人外での相互作用を区別します。


Language use, as we have defined it, involves two kinds of interactions: (1) those among the attributes of the individual language users, and (2) those between the language user and the characteristics of the language use situation, including other language users. (p. 34)


個人内でおきる相互作用は「内的に相互作用的」(internally interactive)、個人外でおきる相互作用は「外的に相互作用的」(externally interactive)と呼ばれます。後者のうち、複数の言語使用者が関わっている状態は「互変的言語使用」(reciprocal language use)、一人の言語使用者しか関わっていない場合は「非-互変的言語使用」(non-reciprocal language use)と呼ばれます。(p.34) この本の38ページには「互変的言語使用」が、36ページには「非-互変的言語使用」がそれぞれ図で表現されています。








■Cognitive strategiesの新設

言語力の個人内要因の非本質的要因に「認知ストラテジー」(cognitive strategies)があげられていますが、これは1990年の本にも1996年の本にも出ていなかった概念です。説明は以下の通りです。


Cognitive strategies are what language users employ when they execute plans, so as to realize these in language use, either in comprehending information in the discourse, or in co-constructing discourse with another interlocutor. (p,. 43)


これに続く本文でも、57ページの注3でも、この概念に関する本格的な議論はこの本の手に余るので、以下の本を参照されたしとあるだけで、きちんとした説明はこの本ではなされていません。

Bialystok, E. 1990. Communicative strategies. Cambridige, MA: Basil Blackwell.

Cohen, A.D. 1998. Strategies in Learning and Using a Second Language. New York: Addison-Wesley.

Oxford, R. 1996. Language Learning Strategies Around the World: Cross-Cultural Perspectives




■Strategic competenceは1990年以来の考え

もう一つの言語力の個人内要因の非本質的要因である「方略的能力」(strategic competence)は従来と同じ規定です。


Strategic competence can be thought of as higher-order metacognitive strategies that provide a management function in language use, as well as in other congitive activities. We view strategic competence as a set of metacognitive strategies. (p. 48)


具体的には次の三つの機能を果たすとされています。


Goal setting (deciding what one is going to do)
Appraising (taking stock of what is needed, what one has to work with, and how well one has done)
Planning (deciding how to use what one has) (p. 49)


つまり、「方略的能力」は、目的設定・見積り・計画の観点から、自らの言語知識(文法的知識(grammatical knowledge)とテクスト的知識(textual knowledge)からなる構成的知識(organizational knowledge)と、機能的知識(functional knowledge)と社会言語学的知識(sociolinguistic knowledge)からなる語用論的知識(pragmatic knowledge)をうまく活用し、他の認知的活動(たとえば認知的ストラテジー)とも協働させる、知のマネジメントであるというわけです(彼らはここで「メタ認知的ストラテジー」という用語を使っています)。「方略的能力」が言語内的資産である「言語知識」と言語外的資産である「認知的ストラテジー」を統合的に活用するという考えかと思われます。



■「四技能」(four skills)の枠組みを使い続けるのは思考の怠惰と惰性


この本のもう一つの特徴は、読む・書く・聞く・話すの「四技能」(four skills)を言語使用を考える際の理論的枠組として考えるのは止めようと提案するものです。これは遅すぎる提案と言えるぐらいで、私も正直、英語教育といえば四技能と言うのは、思考の怠惰であり惰性であると言えるかとも思います。

BachmanとPalmerが「技能」を理論枠組として使うことに反対する理由は、第一に「一つの技能」として一括りされる言語使用には大きな差があること(例、メモを取ることも論文を執筆することも「書くこと」である)、第二に同じように見える言語使用課題(例えば一人で本を黙読する)でも、そのトピックや読書の目的などにより様々に異なるというものです。(55ページ)これら二つの理由を受けて彼らは次のように主張します。


We would thus conceptualize "language skills" as the contextualized realizations of the capacity for language use in the performance of specific language use tasks. We would therefore argue that it is not useful to think in terms of "skills," but rather to think in terms of specific activities or tasks in which language is used purposefully. Thus, rather than attempting to define "speaking" as an abstract skill, it is more useful to identifiy a specific language use task that involves the activity of speaking, and describe it in terms of its task characteristics and the areas of language ability it engages. We would thus argue that the concept that has been called "skill" can be much more usefully seen as a specific combination of language ability and task characteristics. (p. 56)


「技能」とは特定の状況下で成立しているものであり、「技能」を抽象的に考えるのは有効ではないというわけです。

以上を第三章の簡単な報告とします。


関連記事:「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

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2010年11月2日火曜日

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性 (HTML版)

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性





広島大学 柳瀬陽介






1 序論


1.1 背景

 学校教育の「英語」に関する議論の特徴の一つは、それが世間の耳目を引く大きく単純な言い方で語られることである。小学校英語教育も、狙いや詳細が不明瞭なまま導入という基本路線だけが決定された(大津 2004, 2005, 2006, 2009)。2008年12月に公示された高等学校新指導要領でも「授業は英語で行なうことを基本とする」という文言はマスコミの注目するところとなり、多くの全国紙がこれを第一面で報道した。しかしこの指示が、高校英語教育の様々な状況を軽視した短兵急なものであることは多くの関係者に最初から認識されていたことであり(寺島 2009) 文部科学省も翌年の解説でトーンダウンした表現をとった。単純で一気呵成的な英語教育言説は研究者からも提示される。その一例として、英語支配を告発し批判する「言語帝国主義」(linguistic imperialism)批判言説(Phillipson 1992, 2010) がある(批判の対象はもっぱら英語支配なので、以下は「英語帝国主義批判言説」と呼ぶことにする)。英語帝国主義批判言説の論旨は明快で批判の舌鋒は鋭い。だがその反面、その批判を受けての現実的改革になると、言説が登場して約20年がたつ現在でも具体案は現れない。
 
 
1.2 目的

 あまりに単純な言説は極論から極論への振り子現象を招く(大谷 2007)。振り子現象は現実的な教育実践者の徒労感を招き、有効な現実改革をかえって遠ざける。言説の過度の単純化は阻止されるべきである。
 
 本稿は単純化がもたらされる要因の一つとして、言語使用に関する分析不足を仮説として掲げる。近代言語学は、言語体系の形式的分析に長足の進歩をとげたが、言語使用に関する分析は語用論や談話分析だけではまだ十分だとはいえない。言語使用をより大きな「コミュニケーション」や「社会」といった観点から分析したメディア論や社会学理論は英語教育研究にまだ統合されていない。本稿は、メディア論と社会学理論(社会分化論)を言語使用の分析概念として検討し、近年の英語教育言説の単純性を明らかにすることを目的とする。本稿の論証により、この目的が(部分的にせよ)達成されたなら、仮説として掲げた言語使用のコミュニケーション・社会的分析の妥当性が確認され、英語教育言説の現実化に貢献できる。
 
 これまでの研究では、Pennycook(2001)が、旧来の批判理論(Critical Theory)の教条性を指摘し、批判理論に対して批判的になる論考(いわば「批判的批判理論」)の必要性を説いている。本稿はPennycookに基づきながら―すなわち自らの立論に対する批判性を保ちながら―も、言語使用を従来よりも長い歴史的射程(メディア論)と広い理論的包括性(社会分化論)で検討する点で独自性をもつ。



2 分析枠組

2.1 メディア論

 メディア論は、「メディア」(=ある形式を伝達するための媒体)が変わることが、伝達の速度や分量といった量的側面だけでなく、伝達内容といった質的側面、ひいては人間の能力面にも大きな変革をもたらすということを歴史的に明らかにしている。新しいメディアは新しい文化を創出し、それまでの文化を再編成する。以下、ルーマン(1993/95, 柳瀬ホームページ記事, 2009 柳瀬ブログ記事12)、Ong(2002翻訳書))、大黒(2006)、Jaynes (1975/2000), Strate (2009)などに基づきながら、大きな時間枠組で言語コミュニケーション・メディアの変遷を総括し、6つの類型を提示する。
 
 
(1) 原初的音声活用力(Primary Orality)

 約10万年から5万年前に人類は音声を一定の形式に従って使用するコミュニケーションを行うようになった。「言語」の始原は一元的に規定できないが(ジャッケンドフ2006)、この頃に人類は原初的なやり方で音声言語をうまく使用する力を獲得しはじめたといえる。この力を原初的音声活用力(Ong (2002)の用語である"primary orality"の訳語)と呼ぶこととする(注)。原初的音声活用力は、現在の私たちの音声言語によるコミュニケーション力とは異なる。この時代、音声言語は行動に補助的に伴うのみであった。現代の言語は書記言語によって可能になった莫大な数の語彙と複雑な構文を使い、過去・現在・未来、現実・仮想世界などの事柄を自由に表現できるが、原初的な音声言語は身振り手振りだけのコミュニケーションによる意味のゆらぎを低減できた程度であった。
 
 
(2)原初的書記活用力(Proto-writing Literacy)

絵文字(pictogram)や表意文字(ideogram)の使用が新石器時代(7000 BC頃)から始まり、言語コミュニケーションに視覚メディアが加わった。ただしこの書記活用力も、現代の書記言語活用力とは異なる。原初的書記活用力ではせいぜい記憶補助としての文字使用に限られており、原初的音声活用力を部分的に補強しただけであった。


(3)筆記活用力(Manuscript Literacy)

 シュメール人の楔形文字(3500BC頃)やエジプト人の象形文字(3200BC頃)が、本格的な文字使用の始まりである。当初は収支の記録などに使われ、名前、数字、計量単位、可算名詞、いくつかの形容詞などしか表現できず、今でいう電報調の表現しかできなかった。しかしこれらの文字は、粘土板やパピルスといった可搬可能なメディアに書かれることにより、言語が「今・ここ」の制約から離れることを可能にした。とはいえコミュニケーション文化が一気に変わることはなく、この時代の使者は、遠隔地への伝達の際に文字の書かれたメディアを持ち運んでもそれを補助的に参照するだけで、伝達はあくまでも口頭でおこなわれた。だが、ことばを書き残すという選択肢が普及すると、ある事柄を「書き残す」か「書き残さないか」という社会的決定が生じるようになった。わざわざ書き残された事項は社会的に重要なもの(例えば法典)となり、古代帝国成立にも寄与した。
 
 文字は表意文字から表音文字に進化するにつれ、文字数が少なくなり、文字の普及が進んだ。文字普及に決定的だったのは、それまでの子音だけの表記に母音表記まで加えたギリシャ・アルファベットの創出であった。読解の容易さが、ギリシャ・アルファベットの普及を促進した。
 
 筆記活用力は個人のあり方も変えた。語られるやいなや消え去る音声言語と異なり、書かれた言語は残り、対象化され、反省(reflection)を促す。「意識」を、「知覚」(awareness)するといった「原初的意識」(primary consciousness)ではなく、「知覚していることを知覚している」(awareness of awareness)といった「高次の意識」 (higher-order consciousness) として捉えるなら(Edelman 2005)、「自己意識」(self-consciousness)という高次の意識は、筆記活用力により本格的使用により誕生したものと考えられる。
 
 文字の台頭が人々の思考様式を特に揺さぶったのが古代ギリシャ(800 BC - 146 BC)であり、プラトン(428/427 BC - 348/347 BC)はその一例である。プラトンは、定型表現や繰り返しの多い朗誦(音声言語)で人々の心を動かす詩人を批判する一方、「文字は問いかけに答えることもない非人間的なものであり文字の使用は人びとの記憶力の低下につながる」と書記言語も批判している。もちろん古代ギリシャは音声言語によるレトリック文化を誕生させたわけであり、音声言語は文字により駆逐されたわけではない。音声言語は変容した。レトリックが"speech art"として確立していったのは、音声言語を一旦文字で表記して対象化することによって、言語使用を長時間観察し吟味し考察できたことによる。つまり文字言語で対象化されることにより、音声言語は考えぬかれた技巧として使われるという新たな役割を獲得した。

  
(4)活字活用力(Print Lieteracy)

 活字活用力は、グーテンベルクが1455年に最初の活字印刷書籍(ラテン語聖書)を完成したことに端を発する。活字による正確で大量の本の出版は、人間のあり方をまた大きく変えた。ヨーロッパでは市場の成熟に助けられ自由な出版活動が盛んになった。筆写では難しかった詳細なデータや図表の複製も活字印刷では容易であり、これが科学と技術の発展へとつながった。活字印刷書籍が市場により広まったため、出版人はより広い読者層に読まれる言語を望み、読者も強力な言語を習得することを望んだ。この市場と個人の私的共軛関係に重なったのが、国家と学校の公的共軛関係である。治世を安定させようとする国家は「標準語」の普及を求め学校設置を促進し、学校は「標準語」を教えることによって国家権力の強化に貢献した。かくして同じ「国語」を共有する「国民」という「想像の共同体」の感覚が作り上げられ、国民国家(nation-state)という大規模政体の礎となった。
 
 国民国家言語による書籍が普及することにより、文化は広範囲・高密度で発展した。それまでラテン語でしか表現できなかった知的内容(例えば神学や哲学)も表現できるようになった。加えて国民国家言語は、それまで宗教が総括的に担っていた役割が分化されて生じた新しい文化である政治・経済・科学・文学なども表現する力を獲得し、これらの新しい文化が一層進化することを促した。
 
 文学のジャンルとしての小説はきわめて近代的な文化である。小説は、古代の叙事詩が大きな出来事の記述を主にしていたのとは対照的に、個人の意識を詳細に描出する。自意識の存在と役割が大きくなった一つの理由は、小説という「新しい語り」(novel)の登場に求められるだろう。小説においては、執筆者が個人の意識を延々と書き連ねる文化を発展させ、また読者も、連帯感を強く覚える音声言語共有と異なる、黙読という個人的な知的活動を体得した。個人主義の台頭は小説文化と無関係ではないことは、それまで共同体的経験であった死者の弔いがフロイトにより私的で個人的な経験であると記述されるようになった時期が、小説の隆盛期と重なっていることからも推測できる(O'Rourke 2010)。
 
 自然科学の書き物は、知的に高度で複雑な内容を書き手と時空を共有しない読み手に理解させることを要求し、書記言語は一層高度化した。書き手は、言語の文字通りの意味だけで、整合的で無矛盾であり因果性を的確に表現するという、これまでにない言語使用を学ぶようになった。社会科学の書き物は、複雑極まりない世界の有り様を、複数の見地からそれぞれに整合的・無矛盾的に描き出すという文化をもたらした。この多元的な記述により、世界を多様に見る文化が広まった。
 
 
(5)電子マスメディア活用力(Secondary Orality)

 語られるやいなや消えざるをえなかった音声言語を記録・伝達できる電子マスメディアである20世紀前半のラジオ・映画の普及は、学校制度の普及だけでは困難であった国民国家言語の音声的普及を促進した。また、ラジオや映画によるニュース配信という新しい文化は、活字活用力で開拓された高度な表現を、音声コミュニケーションでも可能にする新しい音声活用力である電子マスメディア活用力(“secondary orality” Ong 2002)を進化させた。20世紀後半にテレビが普及すると、音声だけでなく視覚をも共有する「国民」の連帯意識はさらに強くなった。また音声言語による説明を不要とする映像の配信は、国境を超えて伝えられ、マクルーハンの「地球村」(Global Village)ということばまで生み出した。しかしこれらはあくまでもマスメディアであり、メッセージの作り手・送り手はごく一部の職業人に限られた。多くの人々はメッセージの受け手に留まらざるをえなかった。
 
 
(6)マルチチュードメディア活用力(Multitude-media literacy)

90年代に普及し、着々と通信環境が向上しているインターネットという基盤構造は私たちのあり方を大きく変えている。情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化が可能になり、知識の構造化・偏在化が進行している。どんな情報もデジタル化されたならば、高密度と大容量で電子保存(そして複製)される。さらにGoogleに代表される検索技術は、情報の大海を瞬時に検索語によるヘテラルキー(heterarchy)あるいはリゾーム(rhizome)に変える。ブログやミニブログ(Twitter)はこれらの連結を人力でさらに有意味化している。これからのSemantic Web技術はこの連結化を自動化しさらに大量の情報が活用されるだろう。情報活用の進化は知識の進化につながり、知識は構造化され偏在化する。高価な紙媒体であった百科事典は、90年代中頃からのCD-ROM化を経て、現在はWikipediaにより無料でどこからもインターネットアクセスできるものとなった。専門機関・専門家のサイトも含めるならば、少なくとも英語では、信頼できる知識がどこからでもアクセスできる。とてつもない変化への"The Big Switch"(カー 2008)が入ったと言えるだろう。

 インターネットは「マス」(mass = 一塊として捉えられた大衆)のメディアではない。ICT (Information Communication Technology)の進展により情報発信の技術的・金銭的障壁は非常に低くなり、これまでには考えられなかったほどの多くの人々が情報の発信を始めた。活字・電子マスメディアでは情報の受け手にしかなれなかった人々が情報の発信を始めた。マスメディアでは伝達の対象とならかなった特化した情報も流通し始めた。情報は「マス」ではなく、特異な差異をもつと同時に他の人々と多種多様なやり方で接続している人―つまりは「マルチチュード」(multitude)(Hardt and Negri 2005 柳瀬のブログ記事)―によって発信され、受信されている。インターネットでのコミュニケーションは、すべてがネットで結ばれているという点で「一つ」であるが、その中は高度に分化し複合化しているという点で「多」である。「一にして多、多にして一」とはマルチチュードの規定であるが、その意味でインターネットはまさにマルチチュードメディアである。進化の要素を、変異・選択・再固定化とするなら、インターネットはこれまでは不可能だった「変異」を知識の生態系にもたらし、さらにはその変異によって生じた有効な可能性を「選択」し「再固定化」して、知識の進化を促進している。促進される進化は、自己触媒化し、さらに進化が加速する 。
 
 既に私たちの社会認識も大きく変わっている。「知らしむべからず。由らしむべし」だった権力構造が、説明責任や可視化などの「開かれていること=公共性」 (Öffentlichkeit)へと動いている。私たちの社会は次々に開かれ、コミュニケーションの連鎖は果てなく続き、社会は一つの「世界社会」となった。しかしこの世界社会は共同意識・均質性・単一性とはかけ離れた、極大化した複合性(Komplexitat/complexity)をもつ、マルチチュードの社会である。そしてその社会の動力は、マルチチュードメディア活用力 (Multitude-media Literacy) である。 
 
 
2.2 社会分化論

 以上、言語コミュニケーション・メディアの変化の観点から、人間はどのような力を進化させてきたかを概括した。今度は社会の観点から、人間と社会のあり方の変化を概括する。メディアの観点からの分析に重ねて、社会の変遷を歴史的に分析することで、私たちは現在人類が到達した社会のあり方をより的確に理解できる。その的確な社会理解こそは現実的な英語教育を考察する際の基礎となるだろう。以下、ルーマン(2009)の社会学理論に基づきながらダイアモンドの分析(2000)なども補いつつ、社会がどのように内部に差異を抱きながら全体として統一性保っているかを、四つの「分化」(differenzierung/differentiation)類型を通じて考察する。
 
 
 (a)環節分化
 
 社会が環節分化(segmentaere Differenzierung/Segmentary Differentiation)されている状態とは、端的には相互の行き来がほとんどない原始的な部族社会であり、それぞれの部族社会は内部で互酬性原則・感謝・扶助などを通して安定している。部族社会は家柄や階級による身分差がない平等な社会である。労働の分化もほとんど進んでおらず、専門的技芸はあまり育たない。一つ一つの部族社会は数百人の成員を上限とする。成員がそれ以上になると、単なる環節分化では内部の複合性に対応できなくなる。成員増加により複合的に悪化する葛藤は制御困難であるし、社会的な意思決定そのものすらも難しくなる。かくして環節分化は何らか別のより複雑な分化へと進むか、単に分裂し、再び環節分化に適した少人数に落ち着く。(参考:環節分化の部族社会の暮らしぶり、およびそういった部族社会と近代西洋文明の出会いについてはぜひ「ダンス・ウィズ・ウルブス [DVD]」を見てください。「コミュニケーション」についていろいろと学べます)。

 
 (b)中心/周辺分化
 
 中心/周辺分化(Zentrum/Peripherie Differenzierung/Center-Periphery Differentiation)した社会は、コミュニケーションの可能性が拡張されたことの副産物であり、水平的分化である。中心には人口や権力が集まり、その中心からのコミュニケーションが届く縁が周辺とされる。規模としては数千人の「首長社会」から数万~数十万人に至る古代帝国までがこれに含まれる。ただ中心が大規模になると、階層化が、古いタイプの小社会よりもはるかに可能となり、階層分化をもたらす要因となる。  
 
 
 (c)階層分化 
 
階層分化(stratifikatorische Differenzierung/Stratifactory Differentiation)した社会では、社会が垂直分化している。社会が位階秩序として確立されるようになり、位階の差異抜きに秩序を表象することができなくなる。人々は集権化された政治的支配や聖職者によって司られる宗教支配を受け入れる。階層化は人々の間に生じる不平等を、エリート階級による武力および法権力の掌握、イデオロギーや宗教によるエリート階級の正統化、富の再分配システムの確立などにより制御する。しかし階層分化社会が発展するにつれ、次の分化を招く要因が芽生え始める。例えば経済は、価格や利子といった経済システム固有の手段を用いて、経済の作動を再発生させてゆき、エリート階層とは別の権力を持ち始める。経済はますます、階層を通して掌握される資産源から独立していく。こうしてエリート階層が社会をあまねく統括することが困難になり、社会はさまざまな機能をもったシステムをシステムの中に分出(Ausdifferenzierung)し始める。


 (d)機能分化
 
 機能分化(funktionale Differenzierung/Functional Differentiation)した社会では、政治、経済、宗教、学術、教育などのそれぞれ異なる機能をもつ複数のシステムによって社会が多次元的に分化される。機能分化した諸システムは相互に独立を保ちながらも、観察において相互依存関係にある(ルーマンの用語なら、諸システムは「オートポイエーシス・システム」であると説明される)。例えば政治システムは、経済システムに多大な関心をよせ租税や関税を変更するかもしれないが、経済システムを直接に動かしているのは経済システムの中の動き(支払いというコミュニケーション)だけである。あるいは政治システムに統治の危機が生じた場合には、学術システムは学術的言説を生み出すが、その言説が実際の政治権力に取って代わるわけではない。教育システムに対しても、他の機能システムは影響を与えようとし、政治システムは教育立法や教育予算決定、学術システムは科学的知見の提示など、それぞれのシステムを作動させるが、根本のところで教育システムのあり方を定めているのは教育システムの自己再生産である。
 
 このように、あるシステムは他のシステムに対して間接的な影響を与える経路(ルーマンの用語なら「構造的カップリング」)はもっていても、システムはオートポイエーシス・システムとして自己の作動で自己を再生産するだけである。諸システムは相互依存的に相互観察しているが、作動においては自律的である。複数のこのような機能システムに分化した社会では、システムの自律的な動きは機能特化で高速化する。さらにシステム間の間接的影響関係は直接的な因果関係では把握できない。加えてそれぞれのシステムは機能が高まるにつれ内部に子システムを分出する。機能システムが多次元的に存在しているこういった社会全体の複合性はきわめて高くなり、社会全体に対する予測は極度に困難になる。機能分化社会とは、高度に機能的でありながら、全体を通しての計画がきわめて立てにくい社会である。
 
 機能システムは自らの機能が働く限りにおいての広がりを持つ。したがって言語や国境の壁は機能システムを必ずしも分断しない。支払いというコミュニケーションで成立する経済システムは言語や国境の壁を超える。真理の探究というコミュニケーションを行う学術システムには言語によってある程度の障壁ができてしまうが、文書の翻訳によりこれらの障壁は乗り越えられているのは古代からのことである。各国の施策や立法という政治システムの作動はしばしば言語や国境を越えた反応(すなわちコミュニケーション)を引き起こす。宗教や芸術のコミュニケーションも言語や国境の壁を容易に越える。教育システムも、そもそも教育内容が多くの場合他の地域や国から伝播されたものであり、言語や国の枠に縛られているわけではない。さらに近年は、高等教育では国境を越えた就学が増加し、初等・中等教育でもPISAなどの国際的な評価システムにより言語や国境の壁を越えてますます結びついている。現代社会は、言語や国を越える諸システムの機能により多元的かつ複合的につながり世界社会となった。
 
 世界社会は、あまりに多数で多様なものがひとつに結びついている社会で、その結びつきはコントロール不可能な複合性を有する。これは脱中心的・脱領土的なグローバルなネットワークであり、支配的な国民国家、巨大多国籍資本、超国家的諸制度、その他のグローバルな諸権力も、ネットワーク内部の結節点にすぎない。Hardt and Negri (2000)は、ルーマンフーコーなどに基づき、この世界的なネットワークを<帝国>(Empire)と呼び、これを主権の新しい形だと考えた。この主権的ネットワークには、すべてを支配する単一者はいない。世界でのコミュニケーションの総体があまりに複合的なので、単純な支配が不可能だからだ。この世界的なネットワークは、多様な社会的行為者が各々の差異を表明しながら、システム全体の均衡をコミュニケーションによって創出している自己組織システムである。多様な社会的行為者は、一括した塊として捉えられる「大衆」(mass)でもなく、国家により統合される「国民」(people)でもなく、かといってつながりなく雑居する「烏合の衆」(crowd)でもない。お互いの間に多様な差異を持ち、さらに自らの内部にも(複数の機能システムに属することによって)様々な差異をもつマルチチュードである。
 
 このマルチチュードによる<帝国>は、近代に発展した帝国主義国家とは根本的に異なる。近代帝国主義は支配的な国民国家の主権を基礎とし、外国の領土に国民国家的主権を拡張した。しかしどの近代的帝国主義国家も世界の一部を支配できたにすぎない。だが多数の世界的な機能分化のコミュニケーションにより、領土に縛られず単一の中心ももたないままにつながっている新たな<帝国>はあまねく地球を覆おうとしている。私たちは今や世界社会というコミュニケーションの複合の中に生きている。この新たな<帝国>にすべてを支配する権力者である王は存在せず、すべてを統括する原理である宗教もない。<帝国>はコミュニケーションの複合によって自己を再生産するだけである。<帝国>は「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」をもった「多数多様性」である一つの全体である。世界社会は、その機能分化された複合性ゆえに、単一的に支配もされないし、どのような単一者もそれを支配できない。「私たち」は単一の支配者なしの支配構造に支配されている。しかし「私たち」はかつてないほどに開かれ、多種多様であり、複合的につながっている。「私たち」は、予測不可能な複合性を経ての「私たち」の支配者である。それは想像できないほどに間接的な自己回帰的支配であるが、「私たち」は各種のコミュニケーションを担い続ける限りにおいてマルチチュードとしての主権者である。



3 考察


3.1 現代日本が必要としている英語使用

 以上の概念を使い、現代日本が必要としている英語使用について考えてみよう。メディア論からは、現代の言語使用は活字活用力を基盤としていることが確認できた。音声言語を使用するにせよ、その音声言語は原初的な音声活用と異なり、書記言語(特に活字)が開拓した表現を取り込んだものである。活字活用力の表現とは、個人意識を基にして構成され、「今・ここ」を離れたコミュニケーションを可能にし、さらに整合性・無矛盾・因果性を重視するものであり、さらに事象の多元性も許容するものである。さらに電子的マスメディアの発達を経てインターネットというマルチチュードメディアを得た現代人は、より広い範囲の人々を理解し、その人々にも理解される発信を、インターネットが可能にしているさまざまな様態(電子メールや(ミニ)ブログの小文、PDFやホームページでの本格的な文章、音声や図表や動画、およびそれらを編集総合した表現)で行うことが求められている。外国語という学習と使用のコストの高い言語においては、特にこういった言語使用の現代的性格(活字活用力を基盤にしながら、電子マスメディア活用力で洗練された言語使用を、個人で行うマルチチュードメディア活用力)を自覚して言語を学習し使用することが求められる。
 
 社会分化論からは、言語使用が特化された機能システムでコミュニケーションできるものでなければならないことが確認された。地球上に数千あると呼ばれる言語の中で、英語は確かに英語を母語とする内円(inner circle) という中心から英語を第二言語とする 外円(outer circle)そして外国語とする拡大円(expanding circle)という周辺に広がろうとしている最上層に属する言語ともいえるかもしれない(Kachruの論)。英語は中心/周辺分化でも階層分化でも捉えることができるかもしれない。しかし中心・上層にある英語の使用は一枚岩ではない。英語使用が必要とされている主な機能システムだけでも、学術システム、経済システム、政治システムなどに分化している。さらに学術システムでも、内部でさらに分出し、理系/文系の分出から、科学/工学の分出、さらには生命科学/物質科学の分出、基礎医学/臨床医学の分出などがある。さらにそれらの分化・分出した機能システムの中でもコミュニケーションの様態はさまざまにありうる。一口に「実用的に英語が使える」といっても、それはFAXで発注業務ができることから、エンジニアとして工場員に口頭で説明ができる、さらには生理学の論文が書ける、あるいは尊厳死についてのシンポジウムで討議できるなどと、その実態は千差万別である。私たちは英語教育を考える際にも、このように機能分化した現代社会でのコミュニケーションの実態を考慮しておかなければならない。
 
 
3.2 英語帝国主義批判言説の批判

 上に英語は中心/周辺分化でも階層分化でも捉えることができるかもしれないとしたが、英語帝国主義批判言説のようにあまりにも中心/周辺と階層を強調することは危険である。多極化した現代において「米帝」が世界の中心であるという認識はもはや時代錯誤である。仮に「米帝」に支配力があるにせよ、米国の英語話者が、英語を母語とするだけで世界を支配しているわけではない。この意味で、成層分化を強調することは危険である。例えば近代以前の王侯・貴族であるなら、成層分化の上層として、その一握の人々が権力を統括的に掌握していたであろう。しかし人は英語を母語とするだけで(近代以降に分化した)政治・経済・宗教・学術・教育などの諸システムの権力を統合的に獲得するのではない。権力の獲得は一つ一つの機能システムのコミュニケーションに参画することによりはじめて可能になるものであり、英語の母語話者が、英語を母語とするだけで自動的に様々に分化した世界社会での強い権力者となっているという認識は、外国語としての英語使用者の被害妄想と無力感を助長するだけになりかねない。むしろ「下層」にいるはずの英語を第二言語あるいは外国語とする者の方が、属する機能システムでの働きのゆえに単なる英語母語話者より強大な権力を獲得することは多々ある。英語は重要な知的資源であるが、その知的資源もただ母語として―例えば原初的音声活用力として―使えるだけでは強力な権力とはならない。英語を母語とすることが人を世界に君臨する王(あるいはその臣民)にするわけではない。英語を話すという文化は世界を統括する宗教ではない。<帝国>には絶対的な王も宗教も存在しない。
 
 また、英語帝国主義批判論者は、英語という言語を、かつての植民地宗主国になぞらえている。植民地宗主国には国民国家として制度化された統一性があった。しかし現在の英語には国民国家的統一性がない。複数の国家が英語を母語としているのに加えて、さまざまな第二言語話者と外国語話者がそれぞれの機能システムにおいてそれぞれに英語を使っている。現在の英語使用に統一性ということばを適用するにせよ、それは単純性ではなく複合性で捉えられる統一性である。現代の英語使用は<帝国的>であっても「帝国主義的」ではない。英語帝国主義批判言説は、英語母語話者を一枚岩の存在として考え、それを世界の単一的支配者と考えることから生じているように思える。少なくともPhillipson (2010)の、英語を「万能薬か疫病か」(panacea or pandemic)と問いかける枠組みは、たとえ世間の耳目を引くにせよ、英語使用をあまりに単純に二律背反的に捉えすぎており、学術的にも現実的にも妥当とはいえない
 
 
3.3 結語

本稿はメディア論と社会分化論により、現代の英語使用の多元性と複合性を明らかにした。他の複合的な現象と同様、言語教育も単純にしか語らないことは非生産的である。21世紀の英語教育を考察するにあたっては進化の速度を増すメディアと複合性を増す社会に対する理論的基盤が重要である。学術言説としての英語教育の論考は、単純すぎる語り方を避けなければならない。

今後の課題としては、本稿のような原理的考察を、具体的記述・分析によって補完することが求められる。例えば、ライティングでは、自己意識・個人・一般的他者・現実の多元性といった観念の理解、さらにはテクストの整合性・無矛盾性・因果性へ向けての推敲などが具体的に指導されるべきだろう。あるいは現代デジタル表現文化で私たちが多種多様であり、開かれて複合的につながっていることを実感させ、世界社会の市民として英語を使用するよう指導することも具体化されるべきだろう。





"Literacy"ということばは元々「読み書き能力」を意味するが、近年では概念が拡張され「活用力」を意味するようになった(例、computer literacy, media literacy)。そのためここではメディア論での"literacy"(およびその類概念の"orality")を基本的に「活用力」と翻訳することにする。


参考文献

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(ネグリ、A.・ハート、M.著、水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳(2003)『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社.)

Hardt, M. and A. Negri (2005). Multitude: War and Democracy in the Age of Empire. London: Peunguin.(ネグリ、A.・ハート、M.著、幾島幸子訳(2005<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)).『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 上・下』NHK出版.)

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Pennycook, A. (2001). Critical Applied Linguistics. London: Routledge.(柳瀬ブログでのまとめ

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大谷泰照(2007).『日本人にとって英語とは何か』東京:大修館書店.

大津由紀雄(編著)(2004).『小学校での英語教育は必要か』東京:慶応義塾大学出版会.

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ルーマン, N.著、佐藤勉監訳 (1993/95).『社会システム論 上・下』 東京:恒星社厚生閣.

ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.











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