2012年12月31日月曜日

吉田秀和さん、あるいは感性・知性・理性の調和について



昨日、たまたまNHK-FMをつけたら吉田秀和さんの声が流れてきた。今年5月22日に逝去された吉田さんの、とりわけNHK-FM番組「名曲のたのしみ」での40年余りの貢献に感謝しての特別番組だった。

懐かしかった。ちょっとかすれたあの声の質を、私がこれほど好きだったことに初めて気がついた(何かを失わないとその真価を理解できないのは凡人の常である)。声の質だけではない。語りのテンポ、その揺らし方がいい。抑揚の高低も、それに伴う強弱も節度があり、それでいながら吉田さんの心の動きがそのまま伝わってくる自由がある。ことばは慎重に練られたものだが ―吉田さんは放送の随分前から放送原稿を書き上げていた―、時折それに挿入される即興的な口語表現が、また滋味を感じさせた。

一言で言うなら、品があった。吉田秀和さんには品性というものがあった。それが率直に飾らずに出ているのが吉田秀和さんの人となりだった。

「名曲のたのしみ。吉田秀和」という、そっけない入り方から始まるのが「名曲のたのしみ」という番組だった。音楽家を、そして演奏家を、丁寧に理解しようとする時間だった。その中で私たちも思考を深め、感性を新たにできる番組だった。番組最後に「それじゃ、また」という吉田さんの声は、心なしか少しほっとしたような声で、その声もなんとも言えずよかった。

だが、私は必ずしもこの番組の熱心な聴取者ではなかった。今思うと悔やまれる限りである(私はどうしようもないほど凡人だ)。



24歳で父親を亡くして、その動揺からなんとか立ち直るのに半年ほどかかった私を助けてくれたのはクラシック音楽だった。最初は黒田恭一さんや砂川しげひささんの本を手助けに、膨大な量のクラシック音楽から私は自分が聞くべき音楽を定めていったが、やがて私は吉田秀和さんの本をもっぱら読むようになった。しかも繰り返し。私は吉田さんの本で、まだ聞いたことがない音楽の有様を想像し、そしてCDを購入しては私の想像と音楽の実感を比べたりしていた。そしてしばしば吉田さんの表現力に感嘆していた。

当時大学院生だった私は、生意気さも手伝って、人文系の大学人が「研究」と称している活動は、言語を他の言語に言い換えているだけの作業ように思っていた。もちろん、言い換えも、真剣な翻訳となれば、それは原作者に対する翻訳者の倫理的な行為だともいえるが(参考:『外国語学』)、生意気な私が選択的に目をとめていたのは、ある本の内容をいいかげんに要約した文章を小器用に多く並べたような「論文」だった。ことばをことばに小器用に(そして不誠実に)変換することはとてもつまらないことに思えた。

その点、吉田さんの文章は、音楽そして音楽の経験という、ことばでない現象を、ことばで表現していた。私はこの創造的な表現力に驚嘆していた。さらにはその文章自体が、音楽のような響き、流れ、うねり、抑揚をもっていることにも驚いていた。だから私は何度も吉田さんの文章を読んだ。一時期は古い時期の本も読むため、大学図書館の地下書庫にまで降りていったことを今でも覚えている。

私は最初にはもっぱら音楽について知りたくて吉田さんの本を読んでいたが、吉田さんの文章は音楽について語っていても、美術に文学にと、話は展開していった。時には政治についても社会についても話題が広がっていった。最初私はそういった広がりを、余計なことと考えていたが ―何しろ私は自らの心を鎮めてくれる音楽を切に求めていた―、そのうち、それらの展開や広がりは、音楽を語るために必要であることがわかってきた。

音楽とは、私たちの暮らしの中での営みである。暮らしの中の営みである以上、それは他の営みへと自然とつながる。暮らしの中で行われる以上、私たちの暮らしに影響を与える社会のあり方、暮らしを直接に左右する政治のあり方は、音楽と無関係ではない。

音楽も美術も文学も、社会も政治もそして経済も、すべて同根である。人の営みである。このつながりを失ったまま、「専門的」に語られる音楽は(専門的に語られる美術や音楽、あるいは社会や政治や政治と同様)、知的に見えて、浅薄だ。いや浅薄だけでなく、根本のところで冷酷である。「専門的知識」を共有しない人びとを排除し、自らの営みだけを特権化するからだ。むろんその特権意識的冷酷さは、社会を大きく動かす政治や経済において著しいが、芸術分野の特権意識的冷酷さもまた別種の残酷さをもっている。

吉田さんは、そんな冷酷さや残酷さとは無縁な人だった。それゆえの品性だったのだろうか。

吉田さんの知性は、音楽以外に開かれていただけでなく、感性と理性という人間の別種の働きに対しても開かれていた。日常生活の中でふと気がつくことの感性の動きは、音楽に関する吉田さんの知的な文章の中に流れ込んでいた。さまざまに異なる知性の主張は、吉田さんの理性によって大きく流れを整えられていたように思えた。吉田さんの文章、そしておそらくは生き方において、感性と知性と理性は調和していたように思えた ― この調和こそが美なのだろう。


ひるがえって、私たちに調和はあるか。ことに私たちの知性は、感性や理性から切断されていないか。

私の仕事は英語教育だが、教師や生徒がふと感じることを、「研究者」という人種は、自ら言うところの「知性」で否定していないか。「うーん、そういうことを言われても、実証的に立証もできないし数値化もできないんですよね」と語る研究者は少なくない。かくして教師も生徒も感じたことをそのままことばにしようとはしなくなる。それでも語り続けようとする者に、一部の研究者はこのように囁く。

「あのね、そんなことばかりにこだわっていちゃ、どうしようもないですよ。あなたの欲しいのは地位?それともお金?
地位なら研究者や行政者が好むような書き方・考え方をしなくっちゃ。とにかく数字にしてしまうこと。数字にしてしまえば、あとはいくらでもそれを学術論文ぽく見せることはできるんだから。
お金が欲しいなら、予算決定者の説明責任の代わりとなるような書類を書かなくっちゃ。予算決定者は馬鹿じゃないけど、すべてをわかっているわけじゃないし、わかろうとしているわけでもないのだから。予算決定者があなたに予算を配分する判断の責任を感じないで済むように、書類をコピーすればそのまま会議で通るように書類を書かなくっちゃ」。

あるいは「研究者」の「知性」は、理性とつながっているのだろうか。「こうすればTOEICの点数を上げられる」、「こうすれば学習者を動機づけられる」、「こうすれば留学希望者を増やせる」という「知的な」発見が次々に学会で報告されるが、こういった知性は、理性的に反省されているのだろうか。私たちはどこへ向かおうとしているのだろう。私たちは知性を何のために使おうとしているのだろう。

感性と理性から切り離された知性、というより感性と理性とのつながりを拒む知性が跋扈していないか。たまたまさきほど読んだブログ記事で知ったことだが、新たな「文部科学副大臣」がおそろしく貧困な教育観と伝統文化観を表明していた( 「怖くない先生」が「怖い」と感じていること)。私からすれば教育をおよそ歪曲化し、日本の伝統文化を侮辱しているようにすら思えるこの見解も、「文部科学副大臣」という地位から表明されれば、制度的権力をもつのだろう。

そんな見解に基づく「知的」な論文も今後、書かれるのかもしれない。「○○すれば(副大臣のおっしゃる通り)××になります」という主張の論文ならば、いかにも予算が獲得できそうではないか。シンポジウムのパネリストとして招待されそうではないか。だが、こういった知性とは、もちろん感性とも理性とも切り離された冷酷な知性に過ぎない。感性がささやいてくれること、理性が指示してくれることに、耳を閉ざし目をそむけることで成立している一面的な事象の報告に過ぎない。

もちろん悲観する材料ばかりではない。これも先ほど読んだブログ記事だが、内田樹さんの文章は味わい深かった。


新年のご挨拶がわり
http://blog.tatsuru.com/2012/12/31_1203.php



私たちは、浅薄な知性を ―本来は知性の名前に値しない一面的な主張を― 暴走させてはならない。知性を感性に根ざさせ、理性で導かねばならない。知性を感性と理性と調和させなければならない。その調和こそは美だ。美を知り、慈しむことが、私たちの暴走を防ぐとは言えないか。


そんな意味で、日本はまだまだ吉田秀和さんを必要としていた。

改めて、吉田秀和さん、安らかにお眠りください。


私たちは美を忘れませんので。

あなたが示してくれた品性を忘れませんので。

調和の感覚を忘れませんので。



吉田秀和さんがいなくても、日本が品位ある国でありますように。





1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ




■発表(投影)資料の公開

1/12(土)に慶應義塾大学で開催される「大津由紀雄慶応義塾大学教授 中締め講義 ―言語教育編―」(詳細は http://oyukio.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html)で、私は指定討論者の一人となる身に余る光栄を受けました。その際の発表資料(投映用と配布用)をようやく準備できましたので、このブログでも公開します(当日までに、細かな追加をさらに加えるかもしれませんが、大筋はこの版と同じものとなります)。ご興味ある方はダウンロードしてください。



大津言語教育論を斬る

「大津言語教育論における身体性について」


 投映資料
https://www.box.com/s/3ogllw3mdpogu9es8ie9

配布資料
https://www.box.com/s/j4bvj79kpks751gyhmb0






私の発表は、「大津言語教育論における身体性について」と題することにしました。主な論点は次の5つです。

1 「ことばへの気づき」概念の分析不足
2 Embodiment 概念の不全 
3 ことばの情感(情動と感情)の軽視
4 形式重視の近代言語学の限界
5 文法用語の統一が優先課題では


詳しくは資料をダウンロードしてご検討いただきたいのですが、ここで概略を述べることにします。

「1 「ことばへの気づき」概念の分析不足」では、大津言語教育論の中心概念の一つである「ことばへの気づき」概念は、さらに下位分析することが可能であることを、ダマシオの神経科学(神経哲学)用語を援用することにより示します。

「2 Embodiment 概念の不全」では、上記の下位分析は単なる用語の新設のためだけでなく、大津言語教育論に不足していると考えられる"embodiment"概念を強調するためであることを論じます。"Embodiment"概念については、通常は「身体化」と訳されていますが、私はレイコフとジョンソンの記事(下記参照)では「身体的形成」と訳しました。心といった通常は抽象的・機能的にのみ考えられがちなものが、実は身体に即して形成されていることを示すのがこの"embodiment"という用語だと私は考えていますので、私はこの語は「即身的形成」と訳した方がいいのかなとも思い始めました。まあ、訳語はともあれ、この"embodiment"概念について当日はできるだけわかりやすく語りますが、発表時間は限られていますので、ご参加予定の方は上記のダウンロード資料だけでなく、下記の関連記事もご一読願えれば幸いです。(今回は、私の悪癖である早口をできるだけ抑える予定です 笑)。

「3 ことばの情感(情動と感情)の軽視」では、"embodiment"概念をさらに展開し、近代言語学では周縁的・例外的事例としかみなされない擬態語などを考えることが、ことばについて考えなおすことにつながるのではないか(しかし大津言語教育論では擬態語などの現象を扱いにくいのではないか)ということを論じます。その中で、竹内敏晴、野口三千三、内田樹の論について言及し、宮沢賢治についても語ります。

「4 形式重視の近代言語学の限界」では、こういったことばの「身体性」を、その枠組を基本的に近代言語学においている大津言語教育論は、その性質上扱いにくいのではないかと主張します。時間がないので、ここの論証はきわめて短いものとなります。

「5 文法用語の統一が優先課題では」においては、上記の4の主張に基づき、大津言語教育論の優先課題としては、大津言語教育論が(身体論よりも)得意とする文法の分野で、学習文法用語の統一を選ぶべきではないかと提言します。ご承知のように、国語教育・日本語教育・英語教育の文法用語は統一されておらず、この不整合ゆえに統合的な「ことばの教育」が困難になっているのではないかと私は考えているからです。またこの提言の背後には、大津先生の余人を持って代えがたい学界・社会でのリーダーシップへの大きな期待があります。

上記ダウンロード資料から、仮にもっとも重要なスライドを3枚選ぶとすれば次の3つになるかと思います。(クリックすればスライドが拡大します)













繰り返しで恐縮ですが、ご興味をいだかれましたら、ぜひ資料をダウンロードしてください。





■大津先生への退職記念メッセージ

ようやくこの資料が準備できましたので、http://oyukio.blogspot.jp/2012/12/blog-post_2.htmlで受付されている大津先生へのメッセージも書くことができました。これからメッセージを投稿しますが、上記の発表とも関連していますので、ここにもその私のメッセージを掲載することにします。



大津先生、

ようやく先生の「中締め講義(言語教育編)」のためのスライドを完成させることができたので、遅ればせながらメッセージをお送りさせていただきます。

思えば先生と私の最初の出会いは、先生が私の旧ホームページ掲示板に、私のホームページ記事での生成文法などに関する私の錯誤・誤解を丁寧に指摘する投稿してくださったことから始まりました。それは1998年で、私はまだ広島修道大学で勤務していました。その当時私は先生の名前こそ存じていましたが、一度もお会いしたこともなかったので、「こんなどこの馬の骨ともしれない私の掲示板に、わざわざ有名大学の教授が丁寧にコメントを書くなんて・・・」と驚いていました。

その印象が強く、私はぜひ一度この先生に直接お会いしたいと思っていたところに、1998年4月25日の名古屋での英語教育達人セミナーで大津先生がお話をなされるとの情報を得て、思い切って出かけることにしました。

「どんな人かなぁ」とややドキドキしていた私の前に現れた大津先生は、今も変わらぬ穏やかな笑顔をたたえた紳士でしたが、私の眼をひいたのは先生のネクタイでした。なんとスヌーピーのネクタイ!私がそれについて言及すると、確か先生は「いやぁ、雰囲気を和らげようと思って」などとお答えになったかと記憶しています。私は単純な人間ですので、この出会いだけで「あっ、この人は信頼できる」と直観しました。その直観が正しかったという確信はその後ますます強くなるばかりです。

達人セミナーの先生の発表の後、私は質問をしました。先生は私の質問を「筋違い」と排除することなく、「あなたの仰る○○とはどんな意味ですか」、「その議論から、△△という結論を導き出すところが納得できないんですけど」と丁寧に私の論旨を検討されました。

私は私なりにできるだけ明確に私の用語の定義を述べ、論証の根拠を示しましたが、同時に私は先生の議論のマナーにとても驚いていました。

と言いますのも、その当時の私の周りの英語教育界では、自らの領域以外からの議論を一切受け付けないような研究者が多かったからです。同好の士からの細かな質問は受け付けるが、少しでも前提や背景を異にする者からの問題提起に対しては、慇懃無礼に議論を拒んだり、「アブラカタブラ」としか聞こえないようなことばを連ねた後に作為的な笑顔で「ご理解いただけましたでしょうか」とごまかす人が多かったからです。少なくとも私が知っていたその当時の英語教育界には、開かれた知性をもった人がほとんどいませんでした(今はどうなんでしょう)。

いや、それどころか、当時は学閥的な考えが強く、大学の系列や、学会の所属が異なっていると、なんだかあまり話をしてはいけないような雰囲気があったように私は記憶しています。年がら年中顔を合わせて、懇親会になると真っ先にビールを注ぎにくるようになって、初めて「うい奴」と認められるけれど、話の中に学術的な議論を出すととたんに鼻白まれてしまうような空気を私は感じていました(もっとも、今よりも性格が歪んでいた頃の私の記憶ですから、実情がどうであったのかは定かでありません)。

ところが私の目の前の、スヌーピーのネクタイをつけた人は、私の素性などに一切構わず、私の論点に集中して話してくれるのです。しかもきわめて穏やかに、理性的に。私の驚きはすぐさま大きな深い喜びに変わりました。議論の後、ある見知らぬ参加者の方が「ひさしぶりに大学の先生らしい議論を聞きました」と私にわざわざ語りかけてくれましたから、大津先生が誘導してくれた対話が、聴衆にもきわめてよい印象を与えていたのは間違いないと思います。

その後、社交性に乏しい私の無精にもかかわらず、大津先生は私にも時折声をかけてくださいまして、大津先生のシンポジウムにも登壇させていただいたり、編著にも執筆の機会を与えてくださいました。私を含めた多くの者にとって、大津先生に声をかけていただき、機会を与えていただくことが、どれほどに光栄なことかを大津先生は想像できますでしょうか。

ここで私はジャズのマイルス・デイヴィスのことを思い出します。まだ人種差別が強かった時代に、彼は自分のバンドに白人プレイヤーを入れました。「黒人バンドに白人を入れるな」という黒人仲間からの非難に、マイルスは「眼が赤かろうが、肌が緑色だろうが、あいつよりもうまいプレーヤーを見つけてこい。そうすれば俺はそいつを入れる。いなければ俺はあいつを入れる」と語ったと言われています(この話も含めてマイルスのエピソードに関して、私は今記憶だけを頼りに書いていますので、細部は異なるかもしれませんが、大筋は間違っていないはずです)。

これに限らず、マイルスは、若手プレーヤーの演奏に常に注目しており、これはと思うプレーヤーがいたらいきなり自分と一緒に演奏をしないかと声をかけていたそうです。ケイ赤城は確かいきなり電話でマイルスに呼ばれスタジオに行き、演奏しろと言われたそうです。ケイが最初はマイルスが好きそうなプレイをしたところ、マイルスは嫌そうな顔をしたので、それならばと思い、その当時自分が一番やりたかったプレイを思い切ってやったところ、マイルスは満面の笑みを浮かべたとも言います。

このようにマイルスが発掘し、共演することで大きく育ったプレイヤーは数多く、それらのプレーヤーは「マイルス・スクールの卒業生」とも呼ばれるようになりました。マイルス・スクールの卒業生抜きのジャズなんて考えられないし、考えたくもない程にマイルスは若手プレーヤーにそしてジャズ界さらには音楽界一般に多大な影響を与えました。またマイルスは「卒業生」を決して囲い込むことなく、彼らに自由に音楽をさせました。それは彼こそが音楽の自由を欲していたからかもしれません。

マイルスをクラシックでたとえますと、ハイドンが一身一生で、ベートーベン、シューベルトに変身し、さらにはワーグナー、ひいてはドビュッシーになってしまったぐらいの進化をマイルスは遂げました(わかりにくい比喩でごめんなさい)。この進化の重要な要因は、マイルスが絶えず優れた音楽を求め、そのためには人種が違おうが、年下だろうが、誰からでも優れた音楽の可能性を発掘したことにあると思います。

若手に注目するという点では、最近の日本のお笑い界ではビートたけしがそのような役割を担っているようにも思えます。しかしビートたけしは「あんちゃん、なかなか面白いね」と言って若手を鼓舞することはあっても、彼自ら新しい笑いを開拓する姿勢は残念ながら示していません。ここがマイルスとの決定的な違いです。
マイルスは生涯にわたって創造者でした。若手とのプレイも、それは若手の将来のためというより、自分のためでした(マイルスは「共演」というより「競演」していたのでしょう)。だからこそ若手もマイルスをリスペクトし、聴衆も常にマイルスに驚嘆し続けてきたのです。だからこそ死後も彼の音楽は古びません。マイルスは何よりも音楽家でした。貪欲なほどに創造的な。

ここでマイルスのイメージを私は大津先生に重ねます。大津先生は何よりも研究者です。もちろん若手、いやそれどころか学界、さらには小学校教育といった学界を超えた社会的な動きでのリーダーでもあります。さらには都はるみを好むカラオケおじさんでもあります(笑)。しかし根幹のところで、大津先生は研究者です(貪欲なほどに創造的な)。これからもそうあり続けてようとしています。だからこそ私も、多くの人も、大津先生を尊敬し、愛しているのです。

だって、「最終講義」なんて、90分間適当に回顧談をするぐらいでお茶を濁すのが普通でしょう!(笑)

それを「中締め講義」と呼び、さらには「認知科学編」と「言語教育編」の二回に分け、合計14時間(!)でもって自らの研究を総括し、かつその中で指定討論者に自らの批判をさせ、さらに自分の研究を発展させようとしているんですから。こんな知的体力と気力の持ち主、少なくとも私は聞いたことがありません。

というわけで言語教育編の指定討論者の一人として選ばれるという身に余る光栄を得た私としては、ガチで大津先生を「斬る」ことを試みます。それが若手(といっても既に私は結構おっさんですが)としての敬意の示し方だからです。私も以前に比べたら、不必要な尖り方はしなくなりましたが、それでも当日は、「一般常識」(とくに英語教育界のそれ)からすれば無礼に思えるような論争もしかけるかもしれません。しかし根底にあるのは、大津先生の学識、創造性、そして人間性に対する徹底的な信頼です。当日はどうぞよろしくお願いします。

実は私はこの文章を書きながら、私が最も好きなジャズバンドの一つである、アコースティック最後の時代のマイルス・バンドのライブ演奏CDを聞いていました。ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーターと共演(競演)していた、マイルス自身「偉大なバンド」と呼んだバンドの演奏です。自意識過剰をお笑いください。私は自分をウェイン・ショーターになぞらえようとしています(自らの実力を客観視できない中高年というのは滑稽ですね)。でも、そのように自分を鼓舞しないと、「大津言語教育論を斬る」ことを試みることはできません。マイルスがこれまでにプレイしたことがないような音楽をプレイしてマイルスに挑んだウェインのように、当日は大津先生に挑みます。

当日がいいライブになればと願っております。

2012/12/31 柳瀬陽介




大津言語教育論を批判することにより、英語教育論ひいては言語教育論が発展することを私も願っています。多くの皆さまが参加してくださればと思っています。





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2012年12月28日金曜日

井上ひさし『宮沢賢治に聞く』(文春文庫)





■科学と宗教、そして文学(あるいは芸術)



教育学が何よりも子どもたちの幸福と成長を願うものなら、人類知の最先端の一角としての科学を取り入れるべきことには異論もありようがない。だがその取り入れが高じて科学あるいは科学の体裁をまとった考察しか教育学として認めないとなると話は違う。

「いや、そんな極端なscientismを主張する者があろうか」と認めないむきもあるかもしれないが、ためしに英語教育学界で、科学の用語では語れない「倫理」ということばを発するがいい。「はぁ、リンリ?」と珍しい外来語でも聞いたような反応が返ってきてもおかしくはないと私は思っている。(かつて教育学には心理学と倫理学が不可欠とされていたが、そのような言説は最近とくと聞かない)

もとより倫理や道徳を語ることの危険は私も重々承知している。倫理や道徳を迷わず説教して回る人々が、どれほどに非道なことをなしうるか、どれほどにその枠からはみ出る者を排斥しうるかは、古今東西人々に知られている。どんな人間も倫理や道徳の完全なる代弁者たりえない(ましてや倫理や道徳の科学的証明などありえない)。だが、言語とテクノロジーで過剰に武装してしまった人間という動物には、倫理や道徳を問い続ける責務がある。問い続けのないところでは、言語やテクノロジーを巧みに操る者が、その他の者を抑圧し続けるだけだろう。私たちは慣習的な合意としての道徳、さらにその道徳を問いなおす倫理を必要とする。

いや、道徳や倫理を超えて宗教を必要とするのかもしれない。道徳や倫理の人為を超えて、この世は展開する。健やかに生まれる者がいれば、病とともに生まれる者もいる。愛情に包まれて育つ者がいれば、どこにも寄る辺を見出だせないままの者もいる。高い知性に恵まれた者がいれば、どうあっても頭の回りが悪い者もいる。金満に溢れる者もいれば、貧困にあえぐ者もいる。眉目秀麗もいれば、誰もが外見については多くを語らない者もいる。幸福な偶然に恵まれる者がいれば、悲運の連続にあえぐ者がいる。努力が実る者がいれば、努力しようにもそれすらできない者がいる ―― この世とはいったい何なのか。己が幸せであればそれでいいのか。それとも、己が世界の不幸を一身に背負ったような表情をしていればいいのか。神や仏がいるとすれば、それは何なのか。いないとすれば、私たちは何なのか・・・そんな根源的な問いは、毎日を仕事で忙しくし、たまの享楽でその憂さを晴らそうとしている私たちに、目を覚ませとばかりに浴びせられる冷水のようで、私たちの多くはそれを望まない。しかし、その覚醒を人は心のどこかで必要とはしないのだろうか。

いや、人をそう追い詰めてはならない。覚知したと思った次の瞬間、世事にとらわれ肉欲にそそられるのが私たちだからだ。善くあろうと欲しながら、悪事をしでかし、そのことを悔いながらも巧みに自己弁護して、とりあえず自分の食い物と寝床だけは確保しようとするのが人間だからだ。宗教をもつ私たちには文学がいる。科学も宗教も認めた上で、それらからはみ出てしまう人間を正直に描く文学がいる。

だからこう結論してしまおう。教育が、人間が人間を育てようとする、高貴で不遜な営みならば、私たちは科学と宗教と文学を必要とする。三つのどれもを肯定し、三つのどれをも排斥せず、相互に矛盾させながら私たちの中に共存させることを必要とする。

しかし科学と宗教と文学を、一身に共存させる人間はいたのか。科学は宗教の理想と文学の猥雑さの否定により成立するのではないのか。宗教は、科学の非情と文学の正直を捨て去ることを必要とするのではないのか。文学は、科学の合理と宗教の清明さを罵倒せずにはいられないのではないのか。生身の人間で科学と宗教と文学を我が身に共存させる者などいるのか。

いる。それはむしろ市井の人々の中にいる。肩書きはなくとも権勢はなくとも成熟とともに日々の暮らしを営む者の中にいる。私たちは世評の虚構に振り回されてそれらの人々を見出だせなくなっているだけだ。成熟した名も無き無数の人びとのおかげで、この世界は暴走から免れている。

無論、名のある人の中にも成熟した人はいる。科学の精神、宗教の魂、文学の心を、その生涯に活かし続けた有名人もいる。



宮沢賢治がその代表だ、と作家の井上ひさしは考える。

賢治は科学者でした。けれども科学が独走するとろくなことにはなりません。そのことはどなたもよくごぞんじです。科学がはしゃぎたてるのをだれかがいましめなければなりません。賢治のなかで、その役目をはたしたのは宗教者としての部分でした。
この関係は逆にしても成り立ちます。宗教だけにこりかたまると独善の権化のようになってしまいます。そこで宗教者としての部分を客観的にみて、かたよったところを改めるために科学的精神を活用するわけです。科学と宗教は、大雑把にいってしまえば、それぞれ反対の方角を目指しています。どちらへ行きすぎてもよくない結果がうまれます。ところが賢治のなかでは、このふたつのものがたがいのお目付け役をつとめていたように思われます。そしてこのふたつのものの中間に、文学がありました。
三者のこの関係を私は忘れないようにしたいと思います。 (3-4ページ)


井上は、賢治の作品世界を、科学・宗教・文学の三つの世界観が相争わずに一つに融合している世界と考える。文学をことばの芸術と考え、文学の代わりに芸術ということばを使って、井上は科学者であり宗教家であり芸術家であった賢治について次のように語る。

芸術家賢治の、熱に浮かされて独りよがりな部分を科学者賢治が冷静に批判する、冷たい理論だけを尊しとして暴走する科学者賢治を宗教家賢治がたしなめる、そして宗教家として教条的、独善的になるところを芸術家賢治の情熱と洞察力とが和らげる。三つの世界観が互いにせめぎ合い、かつ励まし合って出来たのが賢治の作品世界で、これはじつに予言的です。 (276ページ)


井上は、賢治を礼賛してしまうことを恐れながらも、彼をこれからのあるべき人間像の一つとして考える。

しかし、それではその賢治の文学作品とはどのようなものだったのか。



■宮沢賢治の言葉

生まれて初めて自分の意志で金を出して買った本が賢治の「どんぐりと山猫」であった井上は、賢治作品を読んだときの衝撃を次のようにまとめている。

わたしたちは日課のように裏山へ出かけてゆき、枝をわたる風の音や、草のそよぐ音や、滝の音を頭のどこかで聞きながら遊んでいました。ところがわたしたちはまだ幼くて、風が「どう」という音で吹き、草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、栗の実は「ぱらぱら」と落ち、きのこが「どつてこどつてこ」と生え並び、どんぐりのびっしりなっているさまを音にすれば、それは塩がはぜるときの「パチパチ」と共通である、とは知らなかったのです。それからわたしたちは、秋の晴れた日の山のすがたを、(なんともいえずいいものだ、とても気分がいいものだ)とは思っていましたけれど、その気分を「まはりの山は、みんなたつた今できたばかりのやうに、うるうるともりあがって、まつ青な空の下にならんでゐました」というように、しっかりと言葉でとらえることができると思っていませんでした。(なんともいえずいいもの)だからなんともいえない、つまり言葉ではつかまえられないのだ、と考えていたのです。しかし、ここに、わたしたちがなんといっていいかわからなかったものに、ちゃんと言葉を与えている人がいる! そのことに感心し、ぼうぜんとなったのです。むろん小学六年生のときに、はっきりこのように考えたわけではありません。あなたの『どんぐりと山猫』をはじめて読んだときの感動を、大人になったいま、整理して表現すればそんなことになるのではないでしょうか。 (21-22ページ)


「なんだ擬態語か。賢治文学の魅力は擬態語か。それは言語学からすれば本質から遠く離れた末端の些事ではないか」と思われる方々もいるかもしれない。然り。だが、言語学、しかも近代言語学だけが物事の見方ではない。物事は、いやことばだけですらも、近代言語学の枠組みだけで見てはならないというのが、良識というものだろう。実際、竹内敏晴野口三千三なら、いやひょっとするならダマシオレイコフとジョンソンですら、擬態語の身体性を、ことばにとっての根源として高く評価するかもしれない。繰り返すが、この世の物差しは一つではない(あるいは一つにしてはならない)。

詩人であり、宮沢賢治全集の校訂者でもある天沢退二郎は、賢治文学の魅力をその声に見出す。

私は、小学校二、三年の時までに、代表的な賢治童話のほとんどを読みましたが、その当時一体何に魅力を感じていたのかと考えなおしてみました。それは声の魅力です。実に魅力的な声が聞こえてくるわけです。濃い緑色の、なんか青黒いような世界の声で、これは他にはとりかえがきかない声だったような気がします。 (196ページ)


「声」というのも質的なもので、容易に標準化して記号や数字に還元できそうもない。業績に追われる科学者ならまずもって避けるトピックだろう。だが、私たちは科学者の中に宗教家と芸術家を同居させるべきだということを確認したばかりだった(少なくとも、その科学が教育にかかわるものならば)。だから私たちも天沢にならって、賢治文学から聞こえてくる声に耳を澄ますべきだろう。


宮澤賢治の詩や童話を読んでいるとまず多彩な声が聞こえてくる。しかも、大きな特徴は、読みはじめるとすぐに声が聞こえてくることです。だからこそ、我々はすぐ賢治の魅力にひきずりこまれてしまうのです。 (197ページ)


考えてみれば声というのも、英語教育で軽んじられていることだ。なるほど標準的な発音に拘る人はいる(拘らない人の方ががもっと多いのだが)。だが、その発音された英語が、その人の心と身体と状況に即したものか、そういった観点から英語の発声を大切にする人は少ない。だから教科書CDの朗読の多くはとんちんかんだし、教師はそれすらも自分の発音よりましだとして自ら発声することを厭う。これでことばが身につくものか。



■社会運動家としての宮沢賢治

しかし教師ばかりを悪く言うものではない。そもそもこれを書いている私が大学の教員養成の当事者で、教員養成が悪いから朗読のことを考えずましてやできもしない英語教師が世に出るのだ。教師の過酷な労働条件も問題だ。荒涼とした教室で生徒の信頼を取り戻すには、授業を面白くわかりやすくすることが一番と熟知しながらも、教師は数々の事務仕事や書類提出あるいは部活活動管理に追われ、自己研修はおろか授業準備もままならない。しばらくならば睡眠時間を削っても自らの学びを確保しようとするが、無理は続かない。やがては身体を病み、心を痛め、ひどい場合は教壇を去る。一時的に、あるいは永久に。

教師が、科学的でもあり、宗教的でもあり、芸術的でもある授業ができるよう、私たち教育関係者は務めなければならない。「金がない。人がいない」の断言に沈黙することなく、「金はいる。人もいる。時間はいる。私たちにまともな仕事をさせてくれ」と訴えなければならない。教育行政者に、政治家に、一般市民に(そして残念なことに一部のヤル気を失った同僚教員に)。教師の個人的努力が不可欠なことは言うまでもないが、それを超えて、私たちは社会的に努力する必要がある。

賢治は、農民の生活向上にも熱心だった。井上のこの本には、「賢治はモーツアルトにあまり関心がなく、ベートーベンを聴くのが大好きだったそうである。(186ページ)」とあり、賢治の童話からモーツアルトを、詩からドビュッシーを連想していた私はちょっと驚いてしまったが、考えてみれば、賢治には羅須地人協会で書いた「農民芸術概論綱要」という文章もある。これなど読むと、なるほど、賢治はベートーベンが(も)好きだったのだなとわかる。

以下、その「農民芸術概論綱要」の一部を抜粋する。「農民」を「教師」に読み替えて読み進めてほしい。

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか


多くの教師は、できのいい子だけを育ててよしとしない(と、私は思いたい)。「世界がぜんたい幸福に」とは大きな言い方だが、できるだけ多くの子に、いやすべての子に笑顔をもたらしたいと思うのが教師という種族である。すくなくとも教師が「明るく生き生きと生活をする」のは、そんな信念をもったときである。

だが、教師は、今や必ずしも教師の信念に即さない数値目標や書類作成に追われている(いや「振り回されている」のだと言う者も多い)。

授業には、芸術的とでも言いたいぐらいの創造の瞬間がある。生徒の思わぬ一言に、教室がおおっという声に包まれ、一斉に眼が輝き始めるときである。宗教的とでも言える瞬間もある。教室で、人が生きるということの奥深さがかいま見えるときである。

だがそういった授業の個性は、今や「科学的」という(実はうそ臭い)お墨付きをもらった標準的な教授法で放逐されない勢いだ。「この教授法には」とお役人は、あるいはお役人の先棒を担いで全国を旅回る研究者は言う、「統計で実証された効果があるのです。どこそこで行われた実験ではその効果が認められたのです。さらに重要なことには、この教授法は国の定めた方針でもあるのです。だから従いなさい、余計なことなど考えずに」。かくして教師の創意工夫の幅は大きく制限される。

「どうして私のこの現場を知らない人が、あんなに偉そうに断言できるのだろう」と少なからずの者が思う。「偉そうに振る舞えるのも一種の才能かしら。だったらその才能は自分にはないわ」とあなた。「俺もそうだし、ああはなりたくない」と同僚。「まあ、言われたようにやっていれば文句はないんでしょう」とあなたはつぶやく。それを聞きつけた教頭はすかさず「そうそう、そうやって前向きに考えなきゃ」と懐柔する。「前」とはどっちの方向なのかあなたにはよくわからないが、もう疲れて、考えることをやめる。

想像力の翼はもがれ、あなたは撒かれた餌の方向にヨチヨチ歩む。「前とは、餌が撒かれている方向さ」とあなたは自分に言い聞かせる(「鳥には最初から翼なんてなかったんだ」と思えばこんな暮らしも悪くない)。今・ここを超える宗教、精神の躍動である芸術などもういらない。私は「科学」に従うだけだ。えっ、「何をもって『科学』とあなたは判定するのか」だって?これ以上私に考えさせるのは止めてくれ。偉い人が仰ることが科学に決まっているじゃないか。

私の悪い癖で、またも表現は悲観的になってしまった。だが私には、なんだか世の中が、教育の個性、芸術性、宗教性をどんどんと否定していっているように思える。そうして芸術や宗教とのつながりを失ってしまった教育の「科学」は、どんどんと管理のためのテクノロジーになってきているようにすら思う。何のための・誰のための管理?もちろん時の権力者のために決まっているじゃありませんか、何をおっしゃっているんですか、あなたは、いまさら。

賢治はかつてこう言っていた。

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ


私たち教育関係者は、自らの仕事に美を見出しているのだろうか。
私たちが行うべきは「灰色の労働」なのだろうか(あの壇上でしゃべっているのが『モモ』の灰色の男なのだろうか)。

--いやいや、こんなブログの文章に心惑わされてはいけない。この作者は教育学部の大学教師だそうだが、こういった輩こそ科学を疎んじ、自ら宗教家・芸術家の振りをし、実は真善美を独占しようとする愚劣な人間ではないのか。--



あなたはあなたの美を創らねばならぬ。

そしてそれが美であるならば、それはあなたを超えて、他の人々にも光とならねばならぬ。それこそが美の創造である。

だが、私たちに美を求める心はまだ残っているのだろうか・・・



宮澤賢治に聞いてみよう。










関連記事

矢野智司 (2008) 『贈与と交換の教育学 』東京大学出版会
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/09/2008_27.html





追記

以下は、上記の井上氏の本に出ている詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の宮沢賢治観です。ついでながら引用しておきます。

私は、小学校二、三年の時までに、代表的な賢治童話のほとんどを読みましたが、その当時一体何に魅力を感じていたのかと考えなおしてみました。それは声の魅力です。実に魅力的な声が聞こえてくるわけです。濃い緑色の、なんか青黒いような世界の声で、これは他にはとりかえがきかない声だったような気がします。 (井上, 2002, p. 196)

宮澤賢治の詩や童話を読んでいるとまず多彩な声が聞こえてくる。しかも、大きな特徴は、読みはじめるとすぐに声が聞こえてくることです。だからこそ、我々はすぐ賢治の魅力にひきずりこまれてしまうのです。 (井上, 2002, p. 197)

2012年12月23日日曜日

小坂忠 (2010) 『グッド バイブレーション』、あるいはクリスマスの幸せについて



教会のクリスマス祝会で、ふと赤ん坊の表情に吸い込まれた。教会で小さな子どもは、しょっちゅう親以外の大人にも抱かれ、あやされるが、このときの赤ん坊もそのようにして親以外の他人に抱かれながらも、ぐずらずに周りを見るとはなく見ていた。

見るとはなく見ていたというより、その赤ん坊には、私たちがありふれたことばで把握する感情(例えば、嬉しさ、不快感)が認められなかった。赤ん坊は、しっとり・しっくりと大人の腕の中に落ち着いていた。明白な感情が認められないといって、赤ん坊に何の心の動きも認められないというのではない。その逆で、赤ん坊の表情には、確かな心の動きがあった。心の動きは赤ん坊の全身に現れていた。

赤ん坊は大きな動きを何らしていなかったが、身体には生命のさざ波があった。呼吸や心拍よりももっと微細で精妙な身体内の動きが無数にあり、それが一つの調和となっていた。その調和に、私の身体が同調した。私が忙しく仕事に追われていたら、こんな同調はできないだろう。だが教会という空間で、私は仕事の焦燥感から解放されていた。だから私の身体は赤ん坊の微かな調和の波動を感知できた。だから私の心は赤ん坊に惹きつけられた。

これは理屈抜き、あるいは理屈以前の心の働きである。私たちの心は、にわかには言語化できない身体内の変化により、その基調が決定される。



*****



神経科学のダマシオは、『感じる脳 -- 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』で、言語による明晰な意識は、前-言語的な思考でもある感情 (feeling) を基盤としていることを論じている。

その感情にも、より根底的な基盤があり、それをダマシオは情動 (emotion) と呼ぶ。情動には、喜びや悲しみなどの主要情動 (primary emotion)、共感や軽蔑といった社会的情動 (social emotion) があるが、それらよりはるかに微細で名状しがたいのが背景的情動 (background emotion)である (私たちは心を落ちつけたときに、この背景的情動を自らの身体の中に認めることができるが、意識的な仕事に忙殺されているときはその限りではない)。情動よりも根源的なのは、私たちが生命システムとして本能的に行なっているホメオスタシスなどの身体内の反応(つまりは動き)である。

「感情」も「情動」も同義語だとする日常的語法にあって、このダマシオの区別は、若干奇異に思えるかもしれない。しかし例えば綾屋紗月さんはこのダマシオの理論にリアリティを感じている。もっとも綾屋さんはダマシオの「感情」と「情動」を、それぞれ「心理的感覚」「身体的感覚」と呼び換えている (綾屋 2008, p. 18) ので、日本語としてはこちらの方が通りがいいのかもしれない。だがここではダマシオの用語法にしたがい、以下も論を進めることとする。

「心」といえば、それをはなから「身体」と対峙するものと考え、二者を相互排他的に考えてしまうのが多くの近代人の思考の癖(あるいは思考の慣性)だが、私がここでダマシオの理論的背景のもとに語っているのは、心とは身体の変化(およびその自覚)であるという考えである。心は感情、情動、そしてそれ以前の身体内の微細な動きに端を発する。意識とはその身体的な心の自覚に過ぎない。これは日本の多くの武術家や芸術家が古来有していた考えであり、デカルト的心身二元論を払拭する現代科学者が前提とする一元論でもある。

心とは、身体の変化、そしてその身体の変化を自覚することである。身体の変化としての心は、非意識的心 (nonconscious mind)、身体変化の自覚としての心は、感情を感知し思考を司る意識的心 (conscious mind)と呼べるだろう。言語使用も含めた私たちの営みの多くは非意識的心の働きであるが、意識的心はその働きに特有の介入をする。この非意識的心の働きと意識的心の働きの関係を知ることが、教育理論・学習理論の重要課題だと私は信じているが、理屈っぽい語り方はここでひとまず止めて、私が教会で感じた別のエピソードに話を移したい。



*****


この秋、私の教会にあるシンガーがギターを抱えてやってきた。私はそれ以前におたふく風邪に罹患し、その症状からの回復のためしばらく教会を休んでいたこともあり、そのシンガーのことについてほとんど知らなかった。

演奏が始まり、彼が歌い始めて仰天した。彼のことばは彼の音楽と共に私の心にそのまま入ってきた。

これは私にとっては驚くべきことだった。というのも私は音楽を聴くことだけは好きで、おそらく所有しているCDも500枚を下回るとはとても考えられず、自分の仕事である英語を聞いていた時間よりも、はるかに多くの時間、音楽を聴いているぐらいなのだがボーカル音楽だけは苦手だからだ。

ボーカル音楽、特に日本語や英語の歌声が入った音楽では、歌詞のことばがしばしば邪魔に感じられ、私はたいていの場合、歌声を言語として処理せずに、一種の音の響きとして聞こうとする。だからたいていの場合、歌詞の意味が伝わってこない。

とはいえ、言語は自動的に意味を喚起するから、歌詞の断片の意味は私にも想起される。だが残念ながら多くのボーカル音楽において、その想起される言語の意味が、音楽と調和していない(少なくとも私にはそう聞こえる)。だからおそらく私は歌詞を言語的に処理することを抑圧しているのだろう。そんな抑圧は、素直に音楽に身を委ねることの障害となることは間違いない。だから私はそんな葛藤を避けるべく、一般的にボーカル音楽を避けているのだろう。

だが、一部のボーカル音楽では、歌詞がそのまま私の心に入ってくる。そんなボーカルは音楽は(少なくとも私という人間にとって)、演奏者の身体と音楽そして歌詞が調和した一体となって経験されるものである。演奏者の身体のあり方と演奏される音楽の表情、そして歌詞の言語的意味の間に不調和がない。だから私の身体と心は、ボーカル音楽の複合的な調和をそのまま受け入れる。それは私の身体と心を微細かつ精妙に揺り動かす。なんだか偉そうな言い方になって恐縮だけど、私の教会にやってきたその歌手 ― 小坂忠さん ― は、私にとって数少ない、歌詞の意味をそのまま伝えてくれる音楽家だった。

教会の昼食時に小坂さんとお話させていただく機会を得た。牧師としてもすばらしい方だった。小坂さん(先生)の信仰の喜びが自然と私たちの教会にも伝播してきた。場を共にすることで、よい波動が伝わってくるようだった ― 「波動」というと、なんだかオカルトのようで嫌なのだが、他にいいことばがないのでこの語を使う。"Vibrations" の訳語とお考えいただいてほしい。小坂さんの、たたずまい、声、そしてもちろん話から、何かよきものが伝わってきた。その伝わりは私たちが身体のレベルでまずは感じるものだった(教会の友人も同じように語っていた)。

その日の午後の東広島市内のキリスト教教会が合同で行ったコンサートでも小坂さんの音楽を聞く機会を得た。すばらしかった。会場でCDを4枚買った(私はいい音楽に対しては思い切ってお金を使う)。帰宅して「小坂忠」とグーグル検索してみたら、すごい人だった。こんな人を知らなかったなんて、私はまだまだ音楽好きを名乗れない。しかし私にとって重要だったのは、小坂さんがいかにすごい経歴をもっているかでなく、小坂さんの身体と楽器演奏と歌声と歌詞のメッセージがいかに調和しているかということだ。私は小坂さんの演奏でボーカル音楽を心底楽しむことができた。

*****


音楽経験を、ダマシオの身体論・意識論で解釈してみよう。

音楽家は、まず身体の中に何らかの情動をもっていなければならない。それは情動の中でも、背景的情動のように、言語では表現しがたいほどの微妙なものである。よく「なぜクラシック音楽では『悲しみの交響曲』といった標題を付けないのか」と聞かれるが、それは音楽が、そんな単純な言語表現ではとても表現し尽くせないぐらいの精妙な情感の移行と展開を表現しているからだ。作曲家にせよ演奏家にせよ、音楽家の根本的な才能とは、自らの身体の情動を繊細に感知することができることだろうと私は考える。

もちろんそんな背景的情動が、主要情動や社会的情動のように、比較的言語に翻訳されやすい情動につながる場合もある。そういった情動はやがて感情という形でまとまり、表現者のテーマが定まってくる。詩人や作家なら、表現媒体として言語を選ぶ。だが、音楽家は音の振動(つまりは音楽)を選ぶ。

演奏家の仕事とは、楽譜から作曲者の感情や情動、つまりは身体内の微細な動きを感受し、それを自分の身体で共鳴させ、その共鳴を自らの情動・感情として増幅し、それによって身体を大きく動かし楽器を演奏し歌声を出すことだ。小坂さんのような楽器を抱えた歌手の場合は、身体の内の蠢きと、身体の外の身体奏法(楽器演奏や発声)、そして歌詞のことばを完璧に、と言っていいぐらい同調させることだ。そんな音楽は確実に他人の心に届く。

だが楽譜と歌詞から、表面的なことしか読み取れない拙い音楽家は、とりあえず通念的に歌詞を発声する。「このことばは、このぐらいの意味でしょう」というレベルで声を出す。楽器演奏もとりあえず標準的な身体操作をして、物理的な意味では外れてはいないが、心身で感知するという意味では外れてしまっている音を出す。「楽譜通りには弾いていますよね」といった演奏をする。だがそこから出てくる音楽は、身体の内と外そしてことばがバラバラのままだ。音楽を愛する人であれば、聞きたくない音楽だ。

音楽も、根本のところでは、身体の波動 (vibrations) である。身体の内の蠢きであり、身体の外の音波であり、両者の同調である。だから伝わる。他人の心身にも。



*****



教会の赤ん坊から私に伝わったものも、身体の波動なのだろう。快や不快といった明確な感情以前の、微細な情動、つまりは背景的情動だったのだろう。私は赤ん坊の身体の背景的情動を感知し、それに同調し、その波動を私の身心で共鳴させ増幅させた。だから書きたいと動機づけられた。そして実際今、こうして時間を取って文章を書いている。



人間にとって根源的で大切なものは、こうやって身体のレベルで伝わるのかもしれない。言語による理屈ででなく。



教師にしても、もし教師が若い世代に学ぶことを覚えてほしいと願うなら、教師が行うべきことは「学ぶとどんなに得か、学ばないとどれだけ損で苦しむか」ということを、計算と論理で補強して、明確な言語の理屈(説教)で表現することではないのだろう。

教師は自ら学びの喜びの波動を覚え、ただ学習者と共にいるべきだ。ただし、よい波動を出す身心を保ち続け、学習者の身心に共鳴を引き起こすことが教師には必要だ。また学習者の身心に生じた波動もそのままに感知し、それがよきものであれば、教師自身もその波動に共鳴し、それが悪しきものであれば、その波動を受けつつそれを自らの身心で少しでもよき波動へとゆるやかに転換してゆかねばならない。教師はまずもって身体のレベルでよき教師でなければならない。

だがメディアの発達は、ますます私たちのコミュニケーションの脱身体化を促進している。この話とて、本当は私は肉声で語りたい。肉声なら、私の身心の動きをもっと精確に伝えられるし、聞き手の身心のあり方を端的に感知できるからだ。だが「情報化社会」は、もっぱら脱身体化された情報ばかりを伝え、私たちはそんな情報を処理することばかりに追われる(無機的な事務書類による、意義を感じられない報告指示を想像してほしい)。

私たちは身体的なコミュニケーションのかけがえのなさを自覚しなければならない。さもなければ私たちはますます実感できないことばの情報にのみ込まれるばかりだろう。情報ばかりが交換され、私たちの心と身体はますますやせ細る。そんな情報交換の迅速さを、「コミュニケーション能力」ともてはやす人もいるかもしれない。だが、私にとってはそんな営みは、身体と心とことばがバラバラな歌を歌い続け聞き続けることのようだ。私の身体は、端的にそんな営みを受けつけない。身体的に形成された心 (embodied mind)を失った私たちは、資本主義的生産体制の末端で作動する、出来の悪いコンピュータに過ぎない。





こう言い切ってしまおう。




大切なことは、身体のあり方を通じてでしか伝わらない。






信仰というものも、身体のあり方で伝わることなのかもしれない。少なくとも理屈だけである人を ―それが他人であれ自分自身であれ― 信仰に導くことはできない。

信仰は神学理論によってでなく、信仰者の日々の身体のあり方 ― 具体的な行為以前の佇まいや、とりたてて何というわけでもない表情 ― によって伝えられてきたのだろう。

だからクリスチャンの拠り所とは、聖書の知識でも格別の善行でもなく、イエス・キリストに端を発し、人から人へと時代を超えて伝承され、自分の身体と心にも伝えられ共鳴を始めた生命のあり方 ― good vibrations ― なのかもしれない。



*****



クリスマスは言うまでもなく、このように世界の多くの人々に2000年以上の長きにわたってgood vibrationsを与え続ける元となったイエス・キリストの生誕のお祝いです。



ハッピー・クリスマス。クリスマスの幸せ。



あなたが今どこにいるのであれ、どんな状態でいるのであれ、あなたも身心の内にgood vibrationsを感じていますように。

感じられないのなら、あなたにもgood vibrationsが伝わりますように。感じているのなら、それがあなたの周りでも共鳴しますように。

クリスマスの幸せ。このブログという脱身体化されたメディアで、私は自分のgood vibrationsを伝えます。小坂さんや教会の赤ん坊やその他数えきれないほどの多くの人から伝えられたgood vibrationsを。イエス・キリストに端を発するgood vibrationsを。

ハッピー・クリスマス















2012年12月18日火曜日

綾屋紗月さんの世界



綾屋紗月さんは自らの半生を我が子に語る文章の中で、幼児期から自分が感じている感覚をこのように表現します。

植物やモノと話しているときには、うきうきした気分がします。春の雨あがりの地面にしゃがむと、あたたかくて湿気を含んだ土の匂いが立ち上ります。顔を近づけると枯れ草の中に小さくて潤んだ青い葉っぱがたくさん顔を出しています。「こんにちは! こんにちは!」「いい天気だね!」小さくてかわいい声が聞こえます。「ほんとね、今日はあったかいね」 お母さんもそれに応えます。(2009, 21)


共感する皆さんも多いのではないでしょうか。私もこのような感覚になるときがありますし、できればいつでもこんな感性を保っていたいとも思います。

綾屋さんは、我が子が生まれたときの様子を次のようにも描写します。

「生まれたての赤ちゃんなんて、ただ泣くだけできっと何もわかってないだろう」。そんな予想は見事にはずれました。生まれてすぐから赤ちゃんはとてもおしゃべりなのです。なんでもわかっていそうな潤んだきらきら光る目で、赤ちゃんはお母さんのことをじぃっと見つめます。興味津々であたりを見回します。おっぱいが飲みたいときには初めは口をとがらせて舌をすばやく動かしていますが、それでも気づいてもらえないと我慢できずに泣き始めます。機嫌がいいとひょこひょこと体全体を小刻みに揺らします。音楽を流すと動きをとめて聞き入り、やがて眠ります。機嫌が悪いときの泣き方は、初めは意味がわからなかったけれど、「あれかな、これかな」と試行錯誤しては泣きやむということを繰り返すうちに、「おなかが気持ちわるい」「苦しいから抱っこしろ」「ねむい」と、だんだんおたがいに通じる「鳴き声のそれぞれの意味」ができあがっていきました。 (2009, 77-78)


世の中の多くの人が、こんなふうに赤ちゃん、あるいはことばに不如意な人とコミュニケーションを取ることができたら、世界はどれだけ優しい場所になれるでしょう。私はこのような人に憧れます。尊敬しているといってもいいでしょう。

石川賢治さんの月光写真展を訪れたときの様子については、綾屋さんは次のように語ります。

暑い夏のギラつく日差しから一転、こぢんまりとした展示室内は涼しくて薄暗く、写真同様の青い世界に仕立ててあり、虫や波の音が静かに聞こえてくる。まるで一足早く秋の月夜を迎えたようで、胸の奥をぎゅっとつかまれるような、あの秋の夜長の寂寥感におそわれながら、私は大きなパネル写真の前で、どっぷりと自分の身体が月光の世界に溶け込んでいく感覚を味わった。 (2008, 178)


わかります。この感覚は私もわかります。私もできればこのような感覚を共有できる人と共にいたい。

この感覚の細やかさは、まさに繊細なものです。写真展での体験について綾屋さんは次のように続けます。

一巡した後、せっかくだから写真集を買おうと思い、展示室から販売コーナーへ移動する。しかし明るい蛍光灯の下に出てしまうと、それまで体をまとっていた安全で静寂な闇がはがれ、急に服を脱がされたかのように居心地が悪くなった。白い光のなかでいくらぱらぱらと写真集をめくってみても、あの展示室のなかで、全身であじわった写真との一体感を追体験することができない。こりゃあ、だめだ。 (2008, 178-179)


この体験に基づき、綾屋さんは自分の感覚を次のようにまとめます。

私は写真集の購入をあきらめ、もう一度展示室に戻った。いちばんのお気に入り写真の真ん前のベンチに腰かけて、再び写真のなかへ溶けていく。薄暗く青い光。虫の声。自分が森のなかで暮らす野生動物であるかのような気分になってくる。遠くで他の動物が歩き、カサカサと葉が擦れ、枯れ枝がパキッと折れる音も聞こえてきそうだ。全身が耳。あらゆる気配を耳で感受する。 「そうか。自分の感覚は月夜の森のような世界にちょうどいいのか」と、そのときふと思い至った。 (2008, 179)


月夜の森のような世界にちょうどいいような感覚をもった人 ― 私はそのような感覚を理解できます。しかし私は俗世にまみれ権勢に巻き込まれ、次々にそんな感覚を「常識」や「知識」、あるいは「正しいこと」や「善いこと」と俗世で呼ばれている鈍感な概念で否定していて、それが結構嫌だったりします。だから自分は、このような感覚をもった人に憧れます(こんな感覚をもった異性がいて、その人と一瞬でも波長がぴたりと同調したら、私はその人にたまらなく惹かれてしまうかもしれません)。


しかし綾屋さんは、この精妙な感覚によって、たまらない寂しさも感じています。植物やモノと親密な関係を結んでいた幼稚園時代は、同時にお友だちとガラスで隔てられていたように思える時代でした。綾屋さんは我が子に次のように説明します。

でも幼稚園のお友だちのおしゃべりというのは、どのあたりがおもしろくて何が楽しいか感じとれないのです。会話のやりとりも成立しません。お友だちの遊ぶようすと自分のあいだには、まるで大きな透明のガラスがあって隔てられているようでした。でもときどき、あるはずのガラスがふっとなくなって、ふいに触ってきたり話しかけてきたりすることがあるので、いつガラスがなくなってしまうのかがわからず、お母さんはいつも体をカチコチにしていました。 (2009, 22)


若い時代の綾屋さんは ―おそらく20歳前後の頃でしょうか―、しばしば「夕日が沈むのを見なくちゃ!」と急いで部屋を飛び出していました。次も我が子に自らの若い日々を語る文章です。

ああ・・・・・そうです。お母さんはただ、一日が終わってしまう身を斬られるようにせつないこの夕暮れどきに、いっしょにいてくれる心の通い合った人がほしいのです。そしたらこうやって焦って自転車をこいで夕日に会いに行かなくても、夜が来ることに怯えなくても、そのときにいるその場所で、ゆっくり安心してその人といっしょに夕日を見送り、夜を迎えることができるでしょう? (2009, 70)


この綾屋さんの感情を上では簡単に「寂しさ」と書きましたが、実は綾屋さんが味わっていたのは、それ以上の強烈な経験、そしてその連続でした。通常の人ならとても耐えられない、そして実際綾屋さんもしばしば耐えられなくなった経験の到来でした(詳しくは下に挙げてある本を読んで下さい)。

強烈な経験とまではいかずとも、綾屋さんは日常生活にもしばしば困難を覚えます。たとえば空腹ということ。綾屋さんは、空腹を感じどこかで何かを食べるということも、なかなか決定できません。鋭敏な感覚をもつ綾屋さんは、身体からのさまざまな感覚を等しく感受します。多くの人ならただ単に「おなかがすいた」としか感じないときに、綾屋さんは手足、頭皮、頭、頬、鼻、肩、背中、胸、胃、下腹部、足などなどのさまざまな部位に、さまざまに異なる身体感覚を覚えます。そのうちに「ボーっとする」「動けない」「血の気が失せる」「頭が重い」などの、ややまとまった身体感覚や、「イライラ」「悲しい」「気持ち悪い」といった観念性の高くなった心理感覚が大きくなってきます。

綾屋さんは、これは空腹だからではないかと推測しますが、しかし「風邪をひいたのか」「疲れているのか」「悩みでまいっているのか」「生理なのか」とも感じられて、空腹という判断がなかなかできません。

空腹という判断が仮についたとしても(あるいは「昼時だから、これらの感覚は空腹を指しているものだとしよう」と仮に決めたとしても)、綾屋さんはなかなか食べるものを決定することができません。体全体、舌、喉、腸、血液、はそれぞれに食べるとしたらどんなものを食べたい・食べたくないと様々なメッセージを送ってくるからです。(2008, 15-42)。

これらは身体内からのメッセージですが、綾屋さんは身体外部からもさまざまなメッセージを大量に受け取ります。綾屋さんはしばしばどうしていいかわからなくなります。

このような綾屋さんを時に他人は「感覚鈍麻」と呼びます。判断と行動が遅いからノロマだと思われているのでしょう。しかし綾屋さんからすれば、この状態は「細かくて大量である身体内外の感覚が、なかなか意味や行動としてまとめあがらない」(2008, 73)のです。感覚が鈍いなんてとんでもない。

あまりにも多種多様な感覚情報を大量に感受する綾屋さんは、ときにフリーズしてしまいます。「はやく決めて行動しなければならない」という社会的圧力を強く感じるときにはパニックにもなってしまいます。すると他人は綾屋さんを「感覚過敏」と呼びます。「なんでもないときに、大騒ぎして」と非難の目を向けます。しかし綾屋さんの自己観察・自己記述によれば、これは「多くの人が潜在化しがちな身体内外からの感覚を絞り込めず、そのまま拾ってしまい、それらをパニックなどのかたちで表出してしまう」(2008, 74)わけです。

綾屋さんは、自分という人間について観察し続け、それをパートナーに支えられながらことばで記述する過程を重ねて、次のように自分を総括します。

「いった私は何者なのだろう・・・・・」。その答えは、「人よりも身体の内外の感覚を細かく大量に感受する者」であったということができそうである。 (2008, 169)


精神科医はそんな綾屋さんを「アスペルガー症候群 (自閉症スペクトラム)」と診断します。「普通の人」とはおよそ異なる自分が何者であるかがわからず長年苦しんでいた綾屋さんは、この一種の「アイデンティティ」を得たことでしばらくは安定感を覚えますが、やがて「アスペルガー」として一括りにされることにも息苦しさを感じるようになります。綾屋さんが求めているのは、「同じでもなく違うでもなく、お互いの多様性を認めた上で、仲間としてつながり続ける」 (2010, 95) ことなのです(強調は柳瀬)

しかし「アスペルガー」という診断から、専門家そして専門家のことばをそのまま受け入れる一般人は、綾屋さんを含めたアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)と診断された人々を、「(1) 相互的社会関係能力の限界 (2) コミュニケーション能力の限界 (3) 想像力の限界」という三つ組の特徴だけでと捉えようとします (2010, 14)。私自身、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」でアスペルガーについて言及したことがありますが、口頭で説明するときには「私はアスペルガーについて詳しく知りませんので、多くは言えませんが」といいながらも、上記の説明を鵜呑みにしていました。

ですがこの見立ては、外側からのものにすぎません。綾屋さんは次のように言います。
しかしこれはのちにも述べるが(第三章)、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。世界のなかでモノや人がてんでバラバラに統一感なく発している情報を、いやそもそも自分の身体の内部において、身体の各部分が一致することなく蹴って気ままに発している情報も、自分にとって大事かどうか、必要かどうかという優先順位をつけにくく、等しく感じ取ってしまうのである。 (2010, 15)


対人コミュニケーションに関して、綾屋さんは他人の心が想像できないのではありません。逆にあまりに多種多様の情報を大量に感受し、それを基に多種多様で大量の推論を高速で行おうとするから、他人のように如才なくしゃべることができないだけです(実際、綾屋さんはワープロに向かえば比較的落ち着いて考えをことばにすることができます (2010, 38))。綾屋さんは他人とのコミュニケーションについて次のように述べます。

話している言葉は聞こえるし、言語としての意味もわかるのだが、人々の楽しさが伝わらないし、真意が見えない。なぜ彼や彼女がそのように動き、そのような話し方で、そのような言葉を話すのか、といった人びとの「意図」の可能性をあまりにもたくさん推測してしまうために、ひとつに決めきれず、「読めない」のである。(2008, 80)
だからもしコミュニケーションを綾屋さんのペースで行うことが許される場があれば、綾屋さんも他人とのコミュニケーションが少しは楽にできます。

「あなたは楽しんでいるように見えますが、ほんとうのところどうですか?」
「さっきのセリフには力強い意気込みが感じられましたが、じつは社交辞令ですか?」
「展開が早くてついていけなかったのですが、五つ前の話題に戻ってもいいですか?」
と、自分の判断が正しいかどうかをそのつど相手に聞いて確認できるのなら、そのやりとりがどれだけ私のバリアフリーに貢献し、ラクになるだろうと思う。しかし、私の周辺をとりまく常識的社交の枠がそれを許さず、確認することができないため、相手の意図や感情の高ぶりぐあいを把握できないことになる。 (2008, 140)


*****


「アスペルガー」だけでなく、私たちはしばしばさまざまな判定を下します。その判定が「専門家」によるものだと私たちはそれを「診断」や「決定」などと呼び、それを権威ある疑いのないものだと思い込みます。

さらに一般化しますと、「X」というカテゴリーは、自動的に「NOT X」というカテゴリーを生み出します。そうすると私たちは学校でならった集合論に導かれて「X」カテゴリーの成員すべてに当てはまる本質(あるいは必要十分条件)があり、「NOT X」の成員にはそれは一切ないと考えてしまいます。「考えるな、見よ!」とはウィトゲンシュタインの警句ですが、私たちはそう考え、考えた末の判断だからこの判断は正しいに違いないと思い込みます(このような思考法に対する批判の一例は、レイコフの『認知意味論』にも見ることができます)。

「X」という判断は、この世界を「X / NOT X」に裁断します。両者を分断し、その間の溝を決定的なものとします。これは区別ですが、容易に差別に転じます。

しかしウィトゲンシュタインの「親族的類似性」ということばを待つまでもなく、綾屋さんの述懐を読めば、「アスペルガー」とされる綾屋さんと、「アスペルガー」と診断されない私(そしておそらくはあなた) の間には決定的な溝はないことはわかります。私は綾屋さんとつながっています。私の感覚世界は綾屋さんの感覚世界は、さまざまにつながっており、そのつながりにおいて私はおそらく綾屋さんを理解できます(おそらくあなたもそうでしょう)。綾屋さんの世界は私の世界(そしてあなたの世界)とつながっています。



人間は、集合のベン図のように峻別はされません。仮に私たちがある人びとを「X」(あるいはNOT X」)と呼んでも、「X」と呼ばれる人びとは、「NOT X」と呼ばれる人びとと、決定的・本質的に異なっているわけではありません。





繰り返します。私たちは分断されていません。私たちはさまざまな点でゆるやかにつながっています。分断されていない私たちを、無理に分断するのは差別です。私たちのつながりを図で表現しようとすれば、むしろ下の図のようにになるでしょう。






しかし私には偉そうに語る資格はありません。私は、「X」というラベルをある人に付けることによって、そこで思考を中止していました。「X」という概念を自分が調べて知ったことを誇り、「あなたはXである。なぜならば・・・」と裁断し、それを知識の善用、知的な親切と思い込んでいました。私が行うべきことは、そういった我見の押し付けではなく、その人とただ時空を共有し、そこから生じる相手の自然な動きに、私なりの共感あるいは違和感を自然に表出し、その両者の動きの差異を互いの感覚で微細にすり合わせることだったのに。

私に限らず、「知的」と自負する人びとは、しばしば本質主義的カテゴリー観に基づく「X」という知的概念で、人びとや物事の間のつながりを切断します。その断定を自信をもって行えば行うほど自分を「知的」と錯誤します。そういった「知的」な人びとの知性は、身体内外からの多種多様な情報を繊細に受容する感性と切り離されています。だからそういう人が「理性的」に知性を発展させたと信じているとき、その考えはしばしばおぞましく非情なものです。

私たちは知性を感性に従属させなければなりません(所詮、私たちは動物なのですから)。同時に私たちは、感性に従属する知性を理性の導きに従わせねばなりません(私たちは、「善」や「正義」や「神」といった超越論的理念を思考できる動物なのですから)。感性と理性から離れてしまった知性は危険でしばしば残酷です。



*****




話を戻します。綾屋さんが自分を観察し記述し、他者に理解されることばは、綾屋さんの力となりました。それまで自分も世界も訳がわからなかったのに、他者と共有されることばにより、綾屋さんはこの世界の中の自分の位置を知ります。他者との近さと遠さ、共通点と相違点を知ります。自分という人間の輪郭が定まってきます。そのときの感情を綾屋さんは、



「わたしができた!」という快感と解放感と満足感 (2010, 39)



とも表現します。

綾屋さんのことばは、読者の一人である私の力ともなりました。綾屋さんのことばは、私の中にもするすると入ってきました。私は綾屋さんを理解することで、自分も理解できました。私という人間も、私という人間が暮らすこの世界も、より理解でき親しみがもてるようになりました。これがことばの力でしょう。

このように、トラブルの渦中にある人が、その人を理解しようとする人(決してその人に自分のカテゴリー的裁断を押し付けようとしない人)と共に、ことばを見出してゆく営みは「当事者研究」と呼ばれます。「べてるの家」の実践が有名で、綾屋さんもパートナーの熊谷さんと、このべてるの家の営みなどから学ぼうとしています(その部分の引用は上にはありません。綾屋さんと熊谷さんの当事者研究理解については、改めてまとめたいと考えています)。

私は、自分の研究活動の柱の一つとして、「英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること」を掲げてきました(このブログタイトル「英語教育の哲学的探究2」の下を御覧ください)。それは今後共続けてゆくつもりですが、今回、この文章を書いてみてはっきりと自覚できたことは、これまでの私の「言語化」とは、あくまでも私の言語化が中心だったということでした。私が実践者の実践に対して、解釈(下手をすれば断定)を下すものでした。しかし今後は私による言語化だけでなく、実践者自身が言語化を試み、自らと自らの実践に対して、他者に通じることばを見つけることの支援をもっと自覚的に行うべきかと思います(ちょうど脳性マヒをもつ熊谷さんが、アスペルガーをもつ綾屋さんの言語化を、互いの弱さを基盤として支援したように)。英語教育という営みにおける「当事者研究」の可能性を探りたく思っています。



今回の綾屋さんの語りにしても、「客観主義」者が嫌う主観性に満ちたものです。しかしフレイレレイコフとジョンソンらの論考を検討することで、これは確信に変わってきましたが、私たちが主観性を払拭した世界の客観主義的客観性を得ることなどできません。得ることができると主張するならそれは愚かな欺瞞か傲慢というべきでしょう。「客観性」のために私たちが行うべきことは、自らの理解を広く公にし、様々な主観性によって吟味されながらも保たれる理解を、できるだけ精確に表現することでしょう。

「客観主義」者ならさらに、綾屋さんの報告は「一つの事例に過ぎず、一般性がない」と批判するかもしれません。客観主義に基づく量的研究なら一般性のある知見が得られるのに、というわけです。しかし客観主義に基づく量的研究が一般性のある知見を得られるのは、少なくとも以下の条件を充たした場合です。

(1) 研究で使われる客観主義的カテゴリーが、現実世界を忠実に反映している。

(2) 実験は、客観的カテゴリーを有する成員の母集団からの、ランダムサンプリング(あるいはそれに準ずるサンプリング)によって抽出された標本を対象に行われている。

(3) 実験で使われる数量化は厳密なものである。


しかし、(1)について言えば、「日本人初級英語学習者」や「ESL学習者」なんてカテゴリーはいい加減なものに過ぎません。それらのカテゴリーの本質(あるいは必要十分条件)なんて、理論的にも操作的にも厳密に定義できません。これらのカテゴリーは、現実世界をきわめて粗雑に見ることによりのみ成立しています。それなのに、そんなカテゴリーを使った研究を根拠に、「日本のあなたの教室でも、英語だけの授業をしなさい。タスク中心です。ドリルはやってはいけません」などと現場教員に公的研修会などでお説教をするSLA研究者の神経が私には理解できません。そんな研究者の粗雑な知性の乱暴な推論よりは、現場教員の、クラスの一人ひとりの一日一日の違いをきめ細かく見ようとする、繊細な感性に基づく判断の方を私は信じます。

(2)にしても、きちんとランダムサンプリング(あるいはそれに準ずるサンプリング)法を用いている研究は、英語教育界ではほとんど見当たりません。たいていは、研究者が協力を要請しやすい集団を任意に選んでいるだけです。それが悪いというのではありませんが、そのようにきちんとサンプリングをしていないのに、きちんとしたサンプリングを前提としている推測統計学などを使うということが私には理解できません。前提を充たしていないのに、どうして「実験により、この教育方法の有効性は実証された」などと、どうして偽りの一般性の主張をするのでしょう。

(3)についても、例えば5件法の順序尺度を、間隔尺度扱いすることは日常茶飯事で、しかも尺度の基盤となる理論もいいかげんという研究も多くあります。数量化以降の計算はパソコンソフトで行った「正しい」ものだとしても、数字そのものがいい加減なわけですから、量的研究の主張を額面通り取るわけにはいきません。

少なくとも現在の英語教育界での多くの「量的研究」の知見の「一般性」はこのようにいい加減なのに、どうして質的研究をカテゴリカルに排斥するのでしょう。これは明らかな勉強不足、あるいは傲慢な学界権力専有だと私は考えます。

しかし一方、もし質的研究を、質的研究であるというだけの理由で排除されることが英語教育界からなくなったとしても、それはすばらしい質的研究が次々に生まれることは意味しないでしょう。

私たちはまだ実践を言語化することに慣れていない。主観性を、間主観的に広く共有してもらえるような表現法にまだ習熟していない。私たちは、実践者としてのことばを育てる必要があります。そして当事者研究をそのための一つの方法と考えたいと私は思っています。

綾屋さんの話から、またいつものように英語教育界の話になってしまいました。英語教育界の話はさておき、綾屋さんの文章はいいです。少なくとも私は好きです。私は力をもらえました。世俗で濁りきった権勢の力ではなく、私たちの生命とこの世界が根源的に有している力を。よかったらぜひご一読を。







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2012年12月10日月曜日

ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房



George LakoffとMark JohnsonによるPhilosophy In The Flesh (1999, Basic Books)の翻訳である本書『肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』で、まず題名の「肉中の」という語が気になるかもしれませんが、これはもちろん "in the flesh" (1. Alive; 2. In person; present) (http://www.thefreedictionary.com/in+the+flesh)の訳語です。この語を訳者自身が「あとがき」で述べるように「生身の」と素直に訳し本書は『生身の哲学』と訳しておけば、アマゾンのカスタマーレビューでの翻訳への酷評は避けることができたのではないかと思います。私自身はこの翻訳をそれほどに酷いものとは思いません (たしかに英語をそのままカタカナで表記した語が多すぎますが)。むしろまだ私は英語を読むスピードが遅いので、この翻訳でまず全体像を把握し、重要箇所だけを原著で参照するやり方で、長い間未読だった本書をようやく読み終えることができました。

ちなみに「翻訳書を読むのは邪道だ」という意見もあるかもしれませんが、私は翻訳書と原著を読み比べることで、日本語と原語(本書の場合は英語)について深く考えることができ、自分の日本語を鍛えることができるので、興味深い本の翻訳書がある場合は、まずは原著読解とは比較にもならないスピードで日本語翻訳で読み、それから重要箇所を(あるいはすべてを)原著で読むという方法は悪い方法だとは思っていません(「英語ヲ勉強シナケレバ!」という思いから、長年なかなかこのようには思えませんでしたが、最近はこう思っています ―翻訳文化についてはいろいろ語りたいのですが、閑話休題。

ここではこの本を私なりにまとめます。といっても原著で624ページ、翻訳書で701ページですから、このまとめは非常に限定的で恣意的なものです。ここで扱われているトピックに興味を持たれた方は、必ず原著・翻訳書をご自身でお読みください。また以下で使う日本語翻訳は私で訳した日本語ですから、翻訳書とは異なる箇所もあります。(私はいつものように、日本語としての読みやすさを優先し、一部ではかなり意訳しています。また重要用語である"embodiment"はあえて「身体的形成」と訳しました。「身体化」という現在の定訳ではどうもわかった気になれなかったからです。 ― 乞御批判)。引用の末尾にあるページ数は原著のページ数を指します。





1 はじめに

この本の主張は、冒頭に書かれているように、次の三つの論点にまとめることができます。

心は、そもそも身体的に形成されたものである。
思考は、そのほとんどが無意識的なものである。
抽象概念は、概してメタファーにより構成されている。

The mind is inherently embodied.
Thought is mostly unconcsious.
Abstract concepts are largely metaphorical. (p. 3)


したがって、このまとめでは、まず上の三つの論点を(少し順番は変えて)概括し(「1 心の身体性」、「2 概念のメタファー性」、「3 思考の無意識性」)、次にこの概括から認知科学と西洋哲学を再検討する(「5 認知科学の特徴づけ」、「6 西洋的哲学伝統の再検討」、「7 哲学とはどうあるべきか」)という形でこの本をまとめます。最後に蛇足で私の考えを述べます(「8 雑考」)。





2 心の身体性

"Embodied mind"(「身体的に形成された心」)とは、「心は身体に即して形成された」ということを意味する表現です。実は、日本語文化伝統ではこの主張はそれほど奇異に思えないものかと思いますが、西洋的な学問を受け、そもそも日本語ですら明治以降かなり西洋化されてしまっていることになかなか気づかない現代日本人にとっても、この"embodied mind"の考え方は以下述べる西洋的伝統を有する人々と同様に、やや受け入れがたい表現・考え方に思えるかもしれません。「心 (mind) とは、身体 (body) と異なるものであり、心、特に心の抽象的な側面を語る際には、身体のことについて考える必要などはない」という考え方は、例えば現在、心理言語学に従事する多くの人にも共有されている考え方かと思います。いやそんな小難しい言い方をしなくとも「運動ばかりせずに勉強しなさい」といった言い方で、心の発達と身体の発達を相互排他的あるいはゼロサムゲームのように考える心と身体の二元論は私たちに染み付いているようです。ですが、レイコフとジョンソン(以下、著者)は、たとえばカテゴリーといった心の側面でさえ、身体を基盤に形成されたものであると考えます。



2.1 カテゴリーの身体性

著者は、カテゴリー化 (categorization) とは、「私たちがどのように私たちの身体で形作られているか」(how we are embodied) ということの進化の帰結であると述べます (p. 18)。なぜなら著者は、カテゴリー化を、人間以外の、神経機構を備えた生物 (neural beings)でさえも行うことだとしているからです。

どんな生き物もカテゴリー化を行う。アメーバでさえも、出会う物に対して近づくか離れるかで、食べられる物か食べられられない物のどちらかにカテゴリー化する。アメーバにはカテゴリー化をするかしないかという選択は与えられていない。カテゴリー化とはせずにはいられないものである。同じことは、動物世界のどのレベルにおいても当てはまる。動物は、食物、捕食者、配偶者候補、同じ種の仲間、などをカテゴリー化する。動物のカテゴリー化は、それぞれの動物の感覚器官、運動能力、対象を操作する能力により決まってゆく。

Evey living being categorizes. Even the amoeba categorizes the things it encounters into food or nonfood, what it moves toward or moves away from. The amoeba cannot choose whether to categorize; it just does. The same is true at evey level of the animal world. Animals categorize food, predators, possible mates, members of their own species, and so on. How animals categorize depends upon their sensing apparatus and their ability to move themselves and to manipulate objectcs. (p. 17)
著者は続けてこう言います。

生き物はカテゴリー化せざるを得ない。我々は神経機構を備えた存在であり、私たちのカテゴリーの形成は、私たちがどのように身体化されているかによって決まる。このことが意味することは、私たちが形成するカテゴリーは、私たちの経験の一部であるということである。カテゴリーとは、私たちの経験を、認識可能な種類に差異化する構造である。したがってカテゴリー化とは、経験という事実の後で生じる、純粋に理知的なことでない。そうではなく、カテゴリーを形成し使用することは、経験そのものの素材なのである。カテゴリーの形成と使用には、私たちの身体と脳が常に関わっている。一部の瞑想的伝統文化は、私たちが自らのカテゴリーを「超越」し、カテゴリー化以前で概念化されていない純粋な経験を得ることができるとしているが、そんなことは私たちにはできない。神経機構を備えた存在にそのようなことはできない。

Living systems must categorize. Since we are neural beings, our categories are formed through our embodiment. What that means is that the categories we form are part of our experience! They are the structures that differentiate aspects of our experience into discernible kinds. Categorization is thus not a purely intellectual matter, occuring after the fact of experience. Rather, the formation and use of categories is the stuff of experience. It is part of what our bodies and brains are constantly engaged in. We cannot, as some meditative traditions suggest, "get beyond" our categories and have a purely uncategorized and unconceptualized experience. Neural beings cannot do that. (p. 19)


カテゴリー化とは、私たちの身体と脳が行なっていることの一部ですが、私たちの身体はこの世界で動きまわり、私たちの脳はその運動について表象するわけですから、身体によって形成されたカテゴリーとは、感覚運動的 (sensorimotor) なものと言えます。心を考える際に、私たちは私たちがいかにこの世界で動いているかということを考える必要があります。

身体により形成された概念は、神経機構の一つの構造であり、それは実際に私たちの脳の感覚運動システムの一部であるか、それを利用しているものである。したがって、概念的推論の多くは、感覚運動的推論なのである。

An embodied concept is a neural structure that is actually part of, or makes use of, the sensorimotor systems of our brains. Much of conceptual inference is, therefore, sensorimotor inference. (p. 20)
かくして私たちは、独自の身体を持ちそれを使う故にこの世界で形成されるカテゴリーを有しますが、そのうちのいくつかは「基本レベル・カテゴリー」 (basic level categories)と呼ばれます。(基本レベル・カテゴリーに関しては、レイコフ著『認知意味論』のまとめの「3.1 基本レベル (basic level) 」の項を御覧ください)。





2.2 身体的形成の三つのレベル

カテゴリーの例を通じて、私たちは、「心」や「カテゴリー」や「概念」や「推論」なども「身体的形成」 (embodiment) の帰結であることを見てきましたが、この身体的形成には、現象学的レベル、認知的無意識レベル、神経回路網の身体的形成レベルを認めることができます。著者はこの三つのレベルをどれも落とさずに、これらを相互連関のうちに研究することが必要だと考えています。

(1) 現象学的レベル (phenomenological level)

「現象学的レベル」とは、「意識的あるいは意識に到達できる」レベルのこと( The phenomelological level is conscious or accessible to conscious. p. 103)で、「クオリア」 (qualia) でもあります。たとえばフッサール (Edmund Husserl)やドレイファス(Hubert Dreyfus)は、もっぱらこのレベルを研究の対象とするべきだと主張しました(p. 108)

(2) 認知的無意識 (cognitive unconscious)

「認知的無意識」とは、言語理解・使用を含むすべての意識的経験を可能にしている心的作動であり、これらを仮定せず意識の働きだけで私たちは経験を説明することはできません。(It [= The cognitive unconscious] consists of all those mental operations that structure and make possible all conscious experience, including the understanding and use of language. ... That is, the cognitive unconscious is what has to be hypothesized to account for generalizations governing conscious behavior as well as a wide range of uncounscious behavior. p. 103) このレベルを研究のレベルとする代表例としてはチョムスキーやフォーダー (Jerry Fodor)がいます (p. 108)。

(3)神経回路網の身体的形成 (Neural embodiment)

神経回路網の身体的形成とは、概念や認知的作動の特性を、神経回路網のレベルで示す構造についてのことです。 (Neural embodiment concerns structures that characterize concepts and cognitive operations at the neural level. p. 102) チャーチランド夫妻 (Paul Churchland and Patricia Churchland) は、この神経科学レベルの科学以外は必要なく、その他の学問はやがて消去されるべきだと主張し、消去主義的物質主義者 (eliminative materialists)と呼ばれています。

著者は、これら三つのレベルはそれぞれに私たちの心の働きを説明するのに意義があるので、どれも欠かさずに、相互連関的に研究を進めるべきだとしています。現象学的レベルの研究、認知的無意識レベルの研究と神経回路網レベルの研究は相互否定するべきでなく、互いの知見を参照すべきなのです。著者は次の「概念のメタファー性」で、私たちが意識レベルで経験していることは、実はメタファー的性格という認知的無意識の構造によっていることを示します。そしてその認知的無意識の構造は、私たちの身体のあり方により神経回路網に物理的 (physical)に表現されていることは、これまでのまとめからもご理解いただけるかと思います。三つのレベルは連関しているのです。





3 概念のメタファー性

ここでは、本書冒頭の「抽象概念は、概してメタファーにより構成されている」 (Abstract concepts are largely metaphorical)についての記述をまとめます。抽象概念といった複雑な概念は、以下に説明する「原初的メタファー」が組み合わされたメタファーであるというのが著者の主張です。

3.1 原初的メタファー

それではその「原初的メタファー」(primary metaphor)とはどういうものでしょう。これらの代表例は、Table 4.1 Representative Primary Metaphors (pp. 50-54)に掲載されていますので、ここではその中から原初的メタファーの種類だけを抜き出してみることにしましょう(ここでは翻訳を省きます)。このように私たちは、概念(A)を、感覚運動領域 (sensorimotor domain)である(B)をメタファー(隠喩)にする形 (A is B)で理解しています。例文やその根拠は原著を見ていただければすぐわかりますが、それぞれに考えてみると面白いかとも思います。

Affection Is Warmth, Important Is Big, Happy Is Up, Intimacy Is Closeness, Bad Is Stinky, Difficulties Are Burdens, More Is Up, Categories Are Containers, Similarity Is Closeness, Linear Scales Are Paths, Organization Is Physical Structure, Help Is Support, Time Is Motion, States Are Locations, Change Is Motion, Actions Are Self-Propelled Motions, Purposes Are Destinations, Purposes Are Objects, Causes Are Physical Forces, Relationships Are Enclosures, Control Is Up, Knowing Is Seeing, Understanding Is Grasping, Seeing Is Touching. (pp. 50-54)


これらの原初的メタファーの働きに気づくと、感覚運動的領域の概念、あるいはそれらかと隠喩的に結合された主観的領域の概念なしには、私たちは抽象的概念についてほとんど語れないことがわかります。「愛」の概念について著者は次のように述べます。

物理的な意味での力を使わない愛の概念を想像してほしい。つまり、引力、電力、磁力といった概念を使わない愛である。さらに、結合、狂気、病、魔法、世話、旅、近接性、熱、自分自身を与えること、といった概念なしの愛の概念について想像してほしい。愛を概念化するこれらのメタファーの働きをすべて取り去ってしまうなら、そこにはほとんど何も残っていない。

Imagine a concept of love without physical force -- that is, without attraction, electricity, magnetism -- and without union, madness, illness, magic, nurturance, journeys, closeness, heat, or giving of oneself. Take away all those metaphorical ways of conceptualizing love, and there's not a whole lot left. (p. 82)




3.2 抽象概念をメタファーで分析すると

この本の面白いところは、愛だけでなく、もっと抽象的で基本的であり、私たちにとっては世界の根源的条件として信じて疑わないような概念までもがメタファーの働きにより形成されていることを説明しているところです。ここでは「時間」、「出来事と原因」、「心」についてごくごく短くまとめます。(「自己」、「道徳性」については割愛します)。本書は哲学書として、これらの抽象概念について丁寧に論じていますから、その論考を以下のようにそのごく一部に注目してまとめると誤解を招きかねませんの。ですから繰り返しますが同意なり疑問なり、この本の議論に興味をもった方は必ずこの本をご自身でじっくり読んで下さい。

(1) 時間 (time)

時間に関する概念から、運動や空間や物体などの時間以外の概念を取り除き、この世界での私たちの経験からまったく独立した物(あるいは事(?))として時間を考えることは極めて困難です。著者は次のように論考します。

存在論に関する古典的な問題について考えてみよう。時間は、私たちの心とは独立して存在しているのだろうか。もしそうなら、そのような時間の特性とはどのようなものだろうか。
私たちはこの問題に答えることを拒否する。これは答えようとすれば膠着状態にならざるを得ない問いである。「時間」ということばが名指しているのは、私たちがこの本で記述してきた人間的な概念 -- 出来事間の相関関係やメタファーによって特徴が形成されている概念である。出来事間の相関関係とメタファーが共に私たちの経験を構造化し、私たちは時間を経験する。その経験は、私たちの他の経験と同様に、私たちにとっての現実である。ゆえに、時間とは私たちの身体と脳により「作られた」ものであるが、同時に、その「作られた」時間が、私たちにとっての現実である経験を構造化する。この構造化が、私たちが私たちの世界そしてその世界の物理や歴史について理解をするためには重要なのである。

Consider the classic ontological question: Does time exist independent of minds, and if so, what are its properties?
We reject the question: It is a loaded question. The word time names a human concept of the sort we have described -- partly characterized via the correlation of events and partly characterized via mataphor. Both the correlation of events and the metaphor together structure our experience, giving us temporal experience. That experience, like our other experiences, is real. Thus time is something "created" via our bodies and brains, yet it structures our real experience and allows us an important understanding of our world, its physics, and its history. (p. 167)


(2) 出来事と原因 (events and causes) 出来事や原因などについては、「客観主義」 (objectivism) では不問不動の礎石として考えられています。(客観主義については、『認知意味論』のまとめ『心の中の身体』のまとめをご参照ください)。著者は出来事や原因などに関する「客観主義」的見解について次のようにまとめます。

・原因、作用、状態、そして変化に関する私たちの概念は、世界の客観的特徴を表している。これらの概念は、私たちの心とは独立した、実在についての構成物であり、これらが存在するものに関する基礎的存在論の一部をなしている。したがって、原因と結果、作用、状態、そしてに関する概念は、字義通りのものであり、メタファー的なものではない。
・世界の因果的な構造と私たちの因果的推論の特徴を適切に記述する因果関係の論理は、一つだけあり、それは一般的で字義的なものである。

・Our concepts of causes, actions, states, and changes represent objective features of the world; they are mind-independent constituents of reality -- part of the basic ontology of what exists. Hence, the concepts of causastion, action, state, and change are literal, not metaphorical.
・There is a single, general, literal logic of causation that adequately characterizes the causal structure of the world and all of our causal inferences. (p. 171)
しかしながら、西洋哲学は実際のところ、原因を以下のように考えてきました。

原因とは物質的な実体である。
原因とは形式である。
原因とは目的である。
原因とは力または「パワー」を適用することである。
原因とは必要条件である。
原因とは結果より時間的に先立つものである。
原因とは自然法則である。
原因とは自然の一義性である。
原因とは相関もしくは「定常的な共起」である。


Causes are material substance.
Causes are form.
Causes are purposes.
Causes are applications of force or "power".
Causes are necessary conditions.
Causes are temporally prior to effects.
Causes are laws of nature.
Causes are uniformities of nature.
Causes are correlations, or "constatnt conjunctions." (pp. 174-175)


厳密に哲学的に考えても、これだけ多様ですし、社会科学では実際、「道筋」 (causal path)、「ドミノ」 (the domino effect)、「閾値」 (thresholds) 、プレートテクトニクス (the plate tectonic theory of international relations) などを「原因」として記述しています(pp. 172-173)。このような事実からしますと、私たちが有している原因と結果という因果関係の概念については、以下のように総括することが妥当ではないでしょうか。

因果関係に関する私たちの概念そのものが多様である。概念はすべて放射状構造によって構成されており、その中心には人間の行為主体性があり、そこから多くが拡張されている。私たちが因果関係ということばで意味しているのは、これらすべての事例であり、各々の事例にはそれぞれの論理がある。人によってはあるタイプの因果関係を他の因果関係よりも好む場合があるかもしれないが、普通の人々の認知的無意識に関していうならば、どの事例も因果関係としてみなされている。

Our very concept of causation is multivalent: It consists of the entire radial structure, with human agency at the center and many extensions. What we mean by causation is all of those cases with all of their logics. What we take to be the central case is human agency. One might decide that one likes one type of causation better than another, but as far as the cognitive unconscious of ordinary peple is concerned, they all count as causation. (p. 224)


「因果関係」などという科学の礎石のような概念についても、それは人間と無関係に存在する抽象概念というよりは、私たちが人間としての身体をもち、この世界で生活する中で獲得していった原初的メタファーおよびその拡張や結合によって形成した概念と考えるべきではないでしょうか。大きく言ってしまえば、私たちは科学をするにせよ、人間としての科学しかできないわけで、神の目から見たような人間を超えた「真理」の視点からの科学はなしえないわけです(こうしてみるとカントの「物自体」(Ding an sich, thing-in-itselfの前提は妥当なものと思えてきます)。



(3) 心 (mind)

それでは認知科学や心理学の対象である「心」の概念はどうでしょう。これは客観主義的に解明できる概念なのでしょうか。それとも私たち人間の身体や生活といった要因 --客観主義の信奉者なら「主観的」として罵倒し拒絶する要因-- によって影響を受けている概念なのでしょうか。他の部分のまとめと同様、ここでも結論しか書くことができませんが、心についての私たちの概念を仔細に検討すると、これも多様なメタファーから構成されていることがわかります。以下、それらをリストにします。具体例は本書を参照するか、ご自身でお考えください。

Thinking Is Moving, Thinking Is Perceiving, Thinking Is Object Manipulation, Acquiring Ideas Is Eating, The Thought As Language Metaphor, The Thought As Matematical Calculation Metaphor, The Mind as Machine Metaphor. (pp. 236-247)


英米の分析哲学は、これらのメタファーを洗練化して、心に関して以下のような概念体系を作り出しています。

THE MIND AS BODY
1. Thoughts have a public, objective existence independent of any thinker.
2. Thoughts correspond to things in the world.
3. Rational thought is direct, deliberate, and step-by-step.


THOUGHT AS OBJECT MANIPULATION
4. Thinking is object manipulation.
5. Thoughts are objective. Hence, they are the same for everyone; that is, they are universal.
6. Communicating is sending.
7. The structure of a thought is the structure of an object.
8. Analyzing thoughts is taking apart objects.

THOUGHT AS LANGUAGE
9. Thought has the properties of language.
10. Thought is external and public.
11. The structure of thought is accurately representable as a linear sequence of written symbols of the sort that constitute a written language.
12. Every thought is expressible in language.

THOUGHT AS MATHEMATICAL CALCULATION
13. Just as numbers can be accurately represented by sequences of written symbols, so thoughts can be adequately represented by sequences of written symbols.
14. Just mathematical calculation is mechanical (i.e., algorithmic), so thought is also.
15. Just as there are systematic universal principles of mathematical calculation that work step-by-step, so there are systematic universal principles of reason that work step-by-step.
16. Just as numbers and mathematics are universal, so thoughts and reason are universal.

THE MIND AS MACHINE
17. Each complex thought has a structure imposed by mechanically putting together simple thoughts in a regular, describable, step-by-step fashion. (pp. 248-249)


そういえばジュリアン・ジェインズ (Julian Jaynes)も「意識」(といってもhigher-order consciousnessやextended consciousnessのレベルの意識)は、比喩・アナロジーによってわれわれがその実在を信じるに至ったものだと主張していました。私はかつて彼の意識論のまとめを書きましたが(Consciousness according to Julian Jaynes)、今度は比喩論として彼の著書である『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind)を読み直したいと思います(ゆっくり読み書きする時間がほしい・・・)。

ともあれ、「時間」にせよ「原因」にせよ「心」にせよ私たちは通常、抽象概念について問いなおすことをせず、それらを当然の前提としています(さもなければどうして哲学がこれほど多くの人から嫌われているのでしょう!)ですがが、このように哲学的な分析をすると、私たちが学問あるいは科学、すなわち真理・真実(の近似値)として信じて疑わないことにも、固有の特徴があることがわかります。学問・科学には哲学が必要でしょう。





4 思考の無意識性

ここでは「思考は、そのほとんどが無意識的なものである」という本書の主張を、メタファーの働きの説明と絡めながらまとめます。思考のほとんどが無意識であり、かつそれはメタファー的であるというのは、原初的メタファーの統合理論(The integrated theory of primary metaphors)により説明できます。統合理論は次の4つの部分を持ちます。

(1) ジョンソンの融合理論 (Johnson's theory of conflation): 子どもは、経験の主観的(非-感覚運動的)側面と感覚運動的側面を融合したまま経験し、それらを分離できないため、特定の主観と特定の感覚・運動の連想関係が、その後も続くこととなる (p. 46)。

(2) グレイディの原初的メタファー理論 (Grady's theory of primary metaphor): 原初的メタファーは原子であり、複雑なメタファーを分子として構成する (All complex metaphors are "molecular," made up of "atomic" metaphorical parts called primary metaphors. p. 46)。しかし付言しておきますと、この「複雑なメタファー/原初的メタファー = 分子/原子」というメタファー(ちょっとややこしいですね)には少し注意が必要です。「原初的メタファー」 (primary metaphors)は、レイコフの『認知意味論』でいうところの「原子記号」(primitives)ではありません。なぜなら原子記号は、客観主義により内部構造をもたないとされていますが、原初的メタファーには「非-感覚運動的経験が、感覚運動的経験である」という内部構造があるからです。もっとも物理学での「原子」(atom)も、古代ギリシャ哲学な意味に反して、原子核(陽子と中性子)と電子の内部構造をもっていますので、「原初的メタファーは原子」であるというメタファーに矛盾はないのですが・・・。

(3) ナラヤナンのメタファーの神経理論 (Narayanan's neural theory of metaphor): 非-感覚運動的経験と感覚運動的経験の「融合」あるいは連想関係は、神経回路網で実体化する。 (p. 46)

(4) フォコニエとターナーの概念ブレンディング理論 (Fouconnier and Turner's theory of conceptual blending: 異なる概念領域が共に活性化し、ある一定の条件下では、それらの領域間での結合が形成され、新しい推論がなされるようにもなる(Distinct conceptual domains can be coactivated, and under certain conditions connections across the domains can be formed, leading to new inferences. p. 47)。

これら四つの部分が統合されると以下のことが導き出されます。

四つの部分が一緒になった統合理論は、圧倒的な意味合いをもつ。私たちは幼少期から日常生活世界で普通に行動するだけで、自動的・無意識的にたくさんの原初的メタファー体系を獲得する。ここに選択の余地はない。融合の時期に形成された神経回路網の結合のあり方により、私たちは自然と何百もの原初的メタファーを使って考えるようになる。

The integrated theory -- the four parts together -- has an overwhelming implication: We acquire a large system of primary metaphors automatically and unconsciously simply by functioning in the most ordinary of ways in the everyday world from our earliest years. We have no choice in this. Because of the way neural connections are formed during the period of conflation, we all naturally think using hundreds of primary metaphors. (p. 47)


私たちの思考は、実は幼少期からの心と身体の融合した経験から生じた神経回路上の結合として実体化されたさまざまなメタファー構造の体系に大きな影響を受けており、私たちは通常はこのメタファー的性質を意識しないまま、自動的に思考を形成しているというわけです。だから私たちの思考のほとんどは無意識的であるが、無意識といっても混沌としたものではなく、多くのメタファー構造によって体系づけられているというわけです。





5 認知科学の特徴づけ

このように心の身体的形成 (embodiment) を強調する認知科学は、それまでの認知科学とは明らかに違います。なぜならそれまでの認知科学が前提としていたのは、心の機能だけに注目し心が構成されている媒体の特質は考慮しなくてよいとしていた「機能主義」(functionalism) 、知性を「記号操作」 (symbol manipulation)として考える計算主義 (Computationalism)、計算主義を支える心的表象 (mental representation) の考え方(「意味の表象理論」(representational theory of meaning))、人間の認知とは独立した世界の区分法という意味での「古典的カテゴリー」 (classical categories)、そしてメタファーを含まない「字義通りの意味」 (literal meaning)だからです (pp. 78-79)。著者はこのような特徴をもつこれまでの認知科学を「第一世代」(the first generation)、身体的形成 (embodiment) の考えに基づく認知科学を「第二世代」(the second generation)と呼び、区別します(参考:『身体化された心』The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience)この本も約20年ぶりに読み返したい!)

第二世代認知科学の特徴は以下のようにまとめられます。

・概念構造は私たちの感覚運動経験およびそれをもたらす神経回路網構造から生じる。私たちの概念システムにおける「構造」の概念そのものが、イメージ図式や運動図式といったものによって特徴づけられている。
・心の構造は、私たちの身体および身体的に形成された経験とつながっているという事実ゆえに本来的に意味を有している。意味を欠いた記号が心の構造を適切に特徴づけることはできない。
・概念には「基本レベル」と呼ばれるものがあるが、これが生じる少なくとも部分的な理由は、私たちの運動図式、ゲシュタルト知覚やイメージ形成の能力である。
・私たちの脳は、感覚運動野から高次の皮質野に活性化パターンを投射するように構造化されている。これらが私たちが原初的メタファーと呼んでいるものを構成している。この種の投射により、私たちは抽象的概念を、身体と直結した感覚運動過程で用いられる推論パターンに基いて概念化することができる。
・概念の構造には、様々なプロトタイプが含まれる:典型的事例、理想的事例、社会的ステレオタイプ、際立った範例、認知的基準点、段階的尺度の終点、悪夢のような事例、などなどである。これらのプロトタイプのそれぞれの種類ではそれぞれ独自の形式の推論が行われている。たいていの概念は、必要十分条件では特徴づけられていない。
・私たちの推論の基本形式が感覚運動的形式もしくはその他の身体に基礎づけられた形式から生じるという点で、理性とは身体的に形成されたものであると言える。
・メタファーによって身体的推論形式が推論の抽象的モードに対応づけられているという点で、理性は想像力に富んだものであると言える。
・概念システムは多元的であり、一元的ではない。典型的には、抽象概念は数多くの概念メタファーによって定義されており、またそれらの概念メタファーはしばしば互いに整合的な関係にはない。

・Conceputual structure arises from our sensorimotor experience and the neural structures that give rise to it. The very notion of "structure" in our conceptual system is characterized by such things as image schemas and motor schemas.
・Mental structures are intrinsically meaningful by virtue of their connection to our bodies and our embodied experience. They cannot be chatacterized adequately by meaningless symbols.
・There is a "basic level" of concepts that arises in part from our motor schemas and our capacities for gestalt perception and image formation.
・Our brains are structured so as to project activation patterns from sensorimotor areas to higher cortical areas. These constitute what we have called primary metaphors. Projections of this kind allow us to conceptualize abstract concepts on the basis of inferential patterns used in sensorimotor processes that are directly tied to the body.
・The structure of concepts includes prototypes of various sorts: typical cases, ideal cases, social stereotypes, salient exemplars, cognitive reference points, end points of graded scales, nightmare cases, and so on. Each type of prototype uses a distinct form of reasoning. Most concepts are not characterized by necessary and sufficient conditions.
・Reason is embodied in that our fundamental forms of inference arise from sensorimotor and other body-based forms of inference.
・Reason is imaginative in that bodily inference forms are mapped onto abstract modes of inference by metaphor. (p. 77) ・Conceptual systems are pluralistic, not monolithic. Typically, abstract concepts are defined by multiple conceptual metaphors, which are often inconsisitent with each other. (p. 78)


管見では、日本の英語教育学はおろか英米の応用言語学でも、「認知科学」あるいは「認知的」(cognitive)という用語を使う場合は、もっぱら第一世代の認知科学的な考えを示しているように思います。しかし、この本が出版されたのが1999年、前述の『身体化された心』にいたっては1991年ということを考えれば、私たちも認知における身体性をもっと理解すべきかと思います(ましてや私たちは日本という偉大な身体文化をもつ国に住んでいるのですから!)。





6 西洋的哲学伝統の再検討

こうして私たちの心あるいは認知を、身体の観点から分析してみると、この身体論的分析は西洋哲学、つまりは西洋的教養人の知的基盤そのものの再検討が可能であることがわかります。ここでは本書に扱われているギリシャ哲学、チョムスキー言語学、合理的行動の理論についてごく簡単にまとめます(プラトン、アリストテレス、デカルト、カントおよび分析哲学についてのまとめは割愛します)。

6.1 ギリシャ哲学

西洋文明を理解するには、やはりギリシャ哲学を理解しておく必要があります。ソクラテス以前のギリシャでは以下の様な素朴理論 (folk theory)が広く共有されていました。ギリシャ哲学およびそれ以降の西洋哲学もこの素朴理論の路線を多く継承していますので、ここではそれらを確認しておくことにしましょう。

・世界には体系的な意味があり、私たちはそれに関する知識を獲得することができる。
・特定のモノは、ある一種類のモノに属している。
・すべての存在物には「本質」もしくは「性質」がある。「本質」もしくは「性質」が、ある存在物がその存在であることを可能にし、その存在物の自然な振る舞いの原因ともなっている。
・複数の種類が存在し、それらは本質により規定されている。
・存在するすべてのモノを包括する一つのカテゴリーがある。
・The world makes systematic sense, and we can gain knowledge of it. ・Every particular thing is a kind of thing.
・Every entity has an "essence" or "nature," that is, a collection of properties that makes it the kind of thing it is and that is the causal source of its natural behavior. (p. 347)
・Kinds exist and are defined by essences. (p. 348)
・There is a category of all things that exist. (p. 349)


これら四つの素朴理論 --世界の理解可能性 (Intelligibility of the World)についてのの理論、本質(Essense)についての理論、種類が一般的であること(General Kinds)についての理論、すべてを包括するカテゴリー (All-Inclusive Category)についての理論 (p. 357)-- はそれ以降の西洋哲学とくに形而上学の伝統の基盤になったと著者は説きます。

たとえばピタゴラス学派The Pythagoreans)は、存在の本質を物質とする他の哲学者の考え方から一歩進んで、存在の本質は、形式、とりわけ数学的形式にあると考えました。

議論は次のように進む:存在の本質に関する私たちの知識は安定し不変なのもでなければならない。数学的知識こそは、唯一の安定し不変な知識である。ゆえに、存在の本質に関する唯一の知識は数学的知識でなければならない。数学的知識とは数に関する知識である。ゆえに、存在の本質は数である。

The argument goes as follows: Our knowledge of the Essence of Being must be stable and unchanging. Mathematical knowledge is the only stable, unchanging knowledge. Therefore, the only knowledge of the Essence of Being must be mathematical knowledge. Mathematical knowledge is knowledge about number. Therefore, The Essence Of Being Is Number. (p. 361)


私自身、ピタゴラス学派はおろか数学一般について不明ですので臆断は避けなければなりませんが、このような形而上学的信念が、たとえば「諸行無常」や「諸法無我」、あるいは「色即是空、空即是色」の形而上学的信念とまったく異なることは確かでしょう。後者の形而上学的文化に育ちながら、西洋哲学を学びそれを日本語に翻訳した明治の先達の知的理解力については驚くばかりですが、21世紀に生きる日本の私たちとしては、先達の遺産にあぐらをかいて西洋的形而上学について一知半解なままそれを不動の前提とすることなく、西洋以外の形而上学的伝統について学び直し、私たちの形而上学的理解を再発見するべきだと私は考えます。この本で著者が何度も言うように「好むと好まざるとにかかわらず、私たちは皆、形而上学者である」 (Whether we like it or not, we are all metaphysicians.) (p. 348)からです。

日本の英語教育学界には、欧米の応用言語学学界以上に「数的データを含まない研究は認めない」という頑なな量的研究の信奉者が多いように思います(少なくとも私は何度もそのような匿名査読者に何度も出会ってきましたし、驚くことに最近も出会いました)。そこまでに頑なな方でなくても、教育界においても「数値目標」や「エビデンス」で教育を規定しようとする勢いは非常に強いです。「数字に現れないものもあるんです」と抗弁しても、「まあ、そんなこともあるかもしれないけれど・・・」と、あたかもこの世の人間の営みは数量化できることが当たり前で、数量化できないことは知性の怠慢であるかのごとく語る方もいます(しかしそういった方が数量化に関してきちんと学んでいるかというとそうではない場合がほとんどではないでしょうか。私なりの拙い試みの一つとしては、「遠山啓『現代数学入門』ちくま学芸文庫」のまとめ記事、あるいは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」をご参照下さい)

いや、それよりも「数値目標」や「エビデンス」がないと予算を獲得できないし、うまく「説明責任」を果たせない(=A4で1枚の書類に結果をまとめられない)といったことが本音なのでしょうか。こうなると、背景要因として、標準化されたものの交換をコミュニケーションの基盤とする資本主義社会のあり方にも批判的考察をしなければならないのかもしれませんが(参考:モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房)、これ以上話を大きくせずに、話を戻しますと、「量的研究者」の信奉と、その他の種類の研究への不寛容の根源の一つは、こういった西洋的哲学伝統にあると言えるかもしれません(言うまでもなく、この西洋的哲学伝統から、さまざまな流派が出現し、そのうちの一つは論理実証主義 (logical positivism)であったりします)。

自らの知的枠組みを反省的に自覚し、上に述べた仏教的文化伝統に根ざしたこの国で、あたかも論理実証主義のように他のアプローチに対して不寛容な態度を敢えてとっているいるのでしたら、それは確信犯ですからまだわかりますし、批判的対話の道も残されています。ですが、そこを無自覚なままに、たかだかここ最近に流行した量的研究方法のみを金科玉条とし、自らの不勉強から、その他のアプローチを学界から排斥するのはやめていただきたく思います(私の経験では、哲学を嫌ったり拒んだりする人に限って、強力な形而上学的信念をもっていたりすることが多いです。そういった方々は自らを問いなおすことが怖いのでしょうか)。

愚痴になりました。再度、閑話休題。



6.2 チョムスキーの哲学

チョムスキーの言語学がデカルトの影響下にあることは、彼自身が著作『デカルト派言語学―合理主義思想の歴史の一章』Cartesian Linguistics: A Chapter in the History of Rationalist Thought)で説明する通りですが(参考:cartesian linguistics (Wikipedia))、レイコフとジョンソンは改めてデカルト哲学の影響を受けたチョムスキーの言語哲学の特徴を、1. Separation of Mind and Body. 2. Transcendent Autonomous Reason. 3. Essences. 4. Rationality Defines Human Nature. 5. Mathematics as Ideal Reason. 6. Reason as Formal. 7. Thought as Language. Innate Ideas. The Method of Introspectionの7つにまとめていますが(pp. 470-471)、ここではそのうち1と2と6を引用します。

1. 心と身体の分離。 デカルトは、理性、思考、言語の座である心は、身体と存在論的に異なる種類のものであると主張した。心の自律的な働きを説明するのに、身体を参照する必要はないし、また参照するべきでもない。
2. 理性の超越的自律性。 理性は心の活用力であり身体の活用力ではない。理性は自律的である。理性の働きは、理性自身の規則と原則によるものであり、感情、情動、想像力、知覚もしくは運動能力といった身体的なものとはまったく関係がない。
6. 理性の形式性。理性を行使する力とは、心的記号である表象を構造化し関係づける規則にしたがって操作する力である。論理は合理性の活用力の中核そして本質であり、数学こそは、デカルトの論じるところによると、純粋形式の科学なのであるから、思考の理想型である。

1. Seperation of Mind and Body. Descartes claimed that the mind -- the seat of reason, thought, and language -- is ontologically different in kind from the body. One need not, and should not, look to the body for an account of the autonomous workings of the mind.
2. Transcendent Autonomous Reason. Reason is a capacity of mind, not of the body. Reason is autonomous. It works by its own rules and principles, independent of anything bodily, such as feeling, emotion, imagination, perception, or motor capacities. (p. 470)
6. Reason as Formal. The ability to reason is the ability to manipulate representations according to formal rules for structuring and relating these mental symbols. Logic is the core and essence of this rational capacity, and mathematics, Descartes argued, is the ideal version of thought, because it is the science of pure form. (p. 471)


私たちの多くはチョムスキーに倣って、「言語の科学とはかくあるべき」という信念を育んできましたが、それを無批判的に受容あるいは拒絶せずに、哲学的に反省するべきかと思います。「それでは哲学とはどのような営みなのか」と問われるかもしれませんが、それについては後で述べます。

ついでながら述べておきますと、チョムスキーは"mind/brain"という表現を多用しますから、少なくとも脳という身体の一部を扱っていますが、脳はしばしば身体と対立的に考えられている身体の特殊な部位であることは周知のことかと思います。(書きながら思い出しましたが、チョムスキーの2000年の著書であるNew Horizons in the Study of Language and Mindの4章のNaturalism and dualism in the study of language and mindは自然主義と二元論に関するかなり説得力のある議論を呈していたように記憶しています。この章についてはまとめを書き残していませんし、今再読する時間はありませんので、この章・書についてはここに覚書として言及しておくにとどめておきます)。

さらにつけ加えておきますと、チョムスキー言語学の "Pure Meaningless Syntax: The symbols of a formal language, in themselves, are meaningless. A formal language needs to be interpreted to become meaningful." (p. 473) については、『認知意味論』のまとめの「2.3 客観主義の帰結」を御覧ください。

このようなチョムスキーの哲学が、認知言語学 (cognitive linguistics)とくに認知意味論 (cognitive semantics) の哲学と大きく異ることはもはや明らかでしょう。認知意味論に関して、著者は以下のように総括します。

・概念が生じ、理解されるのは、身体、脳、世界内の経験を通じてである。概念が意味を得るのは、身体的形成、特に知覚・運動の能力を通じてである。(略)
・概念が、心の想像的側面 --フレーム、メタファー、メトノミー、プロトタイプ、放射状カテゴリー、メンタルスペース、そして概念ブレンデンディング-- を使用していることは重要である。抽象概念は、それよりももっと直接的に身体的に形成された概念(例、知覚・運動概念)をメタファー投射することによりできあがる。(略)

・Concepts arise from, and are understood through, the body, the brain, and experience in the world. Concepts get their meaning through embodiment, especially via perceptual and motor capacities. ...
・Concepts crucially make use of imaginative aspects of mind: frames, metaphor, metonomy, prototypes, radial categories, mental spaces, and conceptual blinding. Abstract concepts arise via metaphorical projections from more directly embodied concepts (e.g., perceptual and motor concepts). ... (p. 497)


「身体、脳、世界内の経験」のつながりについては、最近翻訳書『現れる存在―脳と身体と世界の再統合』が出た、Andy ClarkBeing There: Putting Brain, Body, and World Together Againは、まさにこの話題を扱っています。私はこの本も長年本棚に置いたままにしていましたので、翻訳書が出たこの機会に読んでみようと思います(本当に、オイラは読むべき本を読んでいないなぁ、いやマジで)。

ともあれ、デカルト=チョムスキー的な考え方だけが唯一の考え方ではないこと、いや、身体ということをきちんと考えようとすれば、逆にデカルト=チョムスキー的な考え方の方が特殊であることがわかっていただけるかと思います。Andy Clarkの有名な共著論文に"The extended mind"がありますが(参考:Clark and Chalmers (1998) "The extended mind")、この有名なフレーズにツッコミを入れるなら、「もともとデカルトらが勝手にどこでもない場所に閉じ込めちゃった心を、今更、拡張するなんておたくら西洋人は忙しいねぇ。だいたい単に「お腹が空いた」と言っておけばいいところを、ドイツ語なら "Ich habe Hunger"[=「私」という主語が、「空腹」という対象物(目的語)を所有する]、英語なら"I am hungry" [=「私」という主語が、「空腹」という状態である] なんて表現するから、『"Ich/I"とはなんぞや』なんて問いが重要に思えてくるのさ!」とでもなりましょうか。

そういえばこの本の翻訳者も「心は肉体が生む、ふたつは分離できない、という書物をアメリカ人に書かれてしまったというくやしさみたいなものがある。この考え方はこの国から発信されてもよかった」(翻訳書680ページ)と「訳者あとがき」で述べています。偉大なる身体文化をもつ私たち日本語文化圏の人間は、もっと身体論をきちんと考えて、世界にその知見を発信するべきかと思います(自戒でもあります)。(参考:Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts), Do not let mind mind mind (Yes, deconstruction is what Zen is about), 3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫など)



6.3 合理的行動の理論 (The theory of rational action)

身体に関する考察も洞察も欠いた、西洋の標準的な形而上学は、哲学好きの閑談を超えて、現実世界にも影響を及ぼしています。それは特に「合理的行動」(rational action)とは何かを規定し、私たちの思考と行動を鋳型にはめてしまう社会科学です ―そう、それは「科学」と呼ばれています!

合理性に関する西洋の古典的見解を著者は以下のように総括します。

1. 合理的思考は字義通りである。
2. 合理的思考は論理的である(形式論理学で定義された専門な意味において)。
3. 合理的思考は意識的である。
4. 合理的思考は超越的、すなわち、脱身体的である。
5. 合理的思考は情熱とは無縁である。

1. Rational thought is literal.
2. Rational thought is logical (in the technical sense defined by formal logic).
3. Rational thought is conscious.
4. Rational thought is transcendent, that is, disembodied.
5. Rational thought is dispassionate.


このリストは、現在、英語教育界でもそのまま使えそうです。つまり「研究発表や実践報告では比喩的な表現はできるだけ避け、弁証法(参考:Dialectic, Marx's dialectics according to David Harveyなどもちいてはいけません。『直感にしたがって解釈した・行動した』などとは口が裂けても言わず、すべて証拠と根拠に基いて意識的に考え行動したと言いなさい。『身体で感じる』ことや『さまざまな主観』は述べてはいけません。それができないなら、あなたの居場所は学界にありません。学界での居場所が欲しければ、私たちの思考法と行動法にしたがいなさい」というわけです。

実際、社会「科学」を通じて、社会的諸制度は構築されます。「科学」の権威の下、一定の形而上学的信念を疑わずにそこからの思考を発展することを専門とした者は、「専門家」や「学識経験者」として、現行制度の改革を行政権力と共に着手したり、次世代の若者を育てたりします。社会制度は、人間と無関係の自然にもともと存在していたものではありません。私たち人間の考えによってデザインされるものです。「合理的な『現実』の構築」 (The Construction of "Rational" Realities) の節で、合理的選択モデルと市場を例にして著者はこう言います。

手短に言うなら、合理的選択モデルは、私たちの自然な行動の単なる記述ではない。それはむしろ、私たちの規範となり、市場はそのようなモデルがもっとも効果的に使えるように仕立てられている。その結果、多くの企業は合理的選択モデルを使うことで大金を稼ぐ。市場は、このことが可能になるような形で構造化され維持される。

In short, the rational-choice model is not just descriptive of natural behavior; rather, it has been made prescriptive, with markets tailored so that such models can be most effectively used. As a result, many cooperations make a great deal of money using models of rational choice. The market is structured and maintained so that this remains possible. (p. 531)


ある「正しい」とされた思考法と行動法が、学術的お墨付きを得て行政権力となり、その思考法と行動法を万人に強制し、さらには多くの人々がその思考法と行動法を取り入れることこそが賢明なことだと思い始め、人々の営みが大きく変わることは、現在の教育界でも起こっていることでしょう。

ある生活領域を「合理的選択」に合わせることは、私たちの暮らしを、良きにつけ悪しきにつけ、といっても悪い場合の方が圧倒的に多いのだが、ある特定のメタファー複合体の鋳型にはめ込むことを強制することである。その一例が、ビジネスのメタファーを通じて教育を概念化する趨勢、あるいは民営化によって教育を「合理的選択」により経営されるビジネスとしてしまう趨勢である。このメタファーにおいて、生徒は消費者であり、生徒が受ける教育は生産物であり、教師は労働資源である。そうなると知識は商品、すなわち教師から生徒に移譲される市場価値を有したモノとなる。テスト得点が生産物の質となる。よい学校とは、テスト得点が全般に高い学校である。生産力とは、投資金額あたりのテスト得点で測定される。合理的選択理論によって、生産力は最大化されなければならないとする費用対効果分析が必須のものとなる。消費者は、投資金額に対する「最高の教育」を受けるべきなのだ。
このメタファーは何よりも効率性と生産物の品質を強調する。そのことによって教育の現実が隠される。だが、教育はモノではない。活動なのだ。知識は教師から生徒へと文字通り移送されるものではなく、教育は単にある特定の知識の断片を獲得ことではない。教育を通じて、生徒は変わる。生徒が何になるかが重要なのだ。このメタファーは、生徒の役割を無視しているし、生徒の生育や文化全般も無視している。教育者が果たす、非常に手のかかる養育的役割も無視している。さらに、社会に対する多大な貢献に対して適切な報酬を受ける、現在維持されている教育専門職の階級を社会が必要としていることを全面的に無視している。

To bring an area of life into accord with "rational choice" is to force life into the mold of a specific complex of metaphors -- for better or worse, all too often for the worse. An example is the trend to conceptualize education metaphorically as a business, or through privatization to make education a business run by considerations of "rational choice." In this metaphor, students are consumers, their eduation is a product, and teachers are labor resources. Knowledge then becomes a commodity, a thing with market value that can be passed from teacher to student. Test scores measure the quality of the product. Better schools are the ones with higher overall test scores. Productivity is the measure of test scores per doller spent. Rational-choice theory imposes a cost-benefit analysis in which productivity is to be maximized. Consumers should be getting the "best education" for their doller.
This metaphor stresses efficiency and product quality above all else. In doing so, it hides the realities of education. Education is not a thing; it's an activity. Knoweldge is not litrally transmitted from teacher to student, and education is not merely the acquisition of particular bits of knowledge. Through education, students who work at it become something different. It is what they become that is important. This metaphor ignores the student's role, as well as the role of the student's upbringing and the culture at large. It ignores the nurturing role of educators, which often can only be very labor-intensive. And it ignores the overall social necessity for an ongoing, maintained class of education professionals who are apporpriately reimbursed for the immense amount they contribute to society. (p.532)


資本主義が、社会の下部構造を規定するだけでなく、私たちの意識という上部構造までも規定してしまっていることは、マルクスが指摘することですが(参考:マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ)、教育の世界でも資本主義の用語が基礎的な概念メタファーとして使われ、教育の概念を規定してしまっているようです。フレイレはかつて「預金概念でとらえる教育」(Banking concept of education) (参考:Paulo Freire (1970) Pedagogy of the Opressed)を批判しましたが、生徒を「消費者」扱いし、卒業時の「品質保証」をテスト得点で測定し「説明責任」を果たすという考え方と行動様式は、この日本でも今では堂々と正統なものとして蔓延し、教育管理職の一部はこれらのことばを誇らしげに使っています。

怖いのは多くの人がこういった考え方を「唯一無二の現実」、「科学的で正統な見解」と思い込んでいることです。これらの「現実」はあるメタファー体系を駆使して構築された概念に過ぎないのに。これはチョムスキーも言っていることですが、人間の言語使用の特徴は、条件反射的に状況に固定されていないことです。人間は、自分がどのようなことばを使うかを自己決定できます。私たちは新自由主義の波に巻き込まれ、おそらくは無自覚的に資本主義メタファーを教育の世界でも使い始め、やがてはそのメタファーにより制度となってしまった現実に喘いでいますが、私たちは教育を別様に語ることもできるのです。しかし、その別様の語り方を禁じ、構造的に排除しているのが「学界」だとしたら、それはおそろしく悲しいことですし、また大いなる社会的損失です。私は以前、田尻悟郎先生の語り方を観察していて、田尻先生は教育を工場での製品生産のようには語らず、むしろ自然に近い状態の庭を手入れしている庭師のように語っているのではないかと思い、短いエッセイを『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』に書きましたが、私はいつかきちんと各種の教育言説に含まれている比喩表現をきちんと比較分析したいと願っています。これは推測ですが、「科学的」とされている学術論文にも、「中立」とされている行政文書にも比喩は多く使われているはずです。なぜなら他人を心底納得させるには比喩の使用が効果的だからです。科学や行政の言語にも哲学的な反省と分析が必要です。





7 哲学とはどうあるべきなのか

それでは「哲学」とはどのような営みなのでしょう。「哲学的な反省と分析」など閑人の戯言ではないでしょうか。著者は、哲学とは言語的意識をもつ動物としての私たちが、良きにつけ悪しきにつけ、行ってしまうことであり、もしそうだとしたら、私たちはよりよく考え、よりよく行動し、よりよく生きるために哲学を行うべきだと考えているように思えます。

私たちは哲学的な動物である。私たちが知る限り、私たちは、なぜ物事がこのように起るのかについて問い、説明することすらできる唯一の動物である。私たちは、自らの存在の意味について深く考え、愛・性・仕事・死・道徳性について常に悩んでいる唯一の動物である。さらに、私たちは、自らの行動を変えるために、自らの生命に対して批判的に反省できる唯一の動物でもあるようだ。
したがって哲学が私たちにとって重要になるのは、第一にそれが私たちの人生の意味を理解させ、私たちがよりよい人生をおくる手助けとなるからである。やるだけの価値がある哲学とは、私たちが何者で、どのように私たちの世界を経験し、どのように生きるべきか、について深い洞察を与えてくれる哲学である。

We are philosophicalo animals. We are the only animals we know of who can ask, and sometimes even explain, why things happen the way they do. We are the only animals who ponder the meaning of their existence and who worry constantly about love, sex, work, death, and morality. And we appear to be the only animals who can reflect critically on their live in order to make changes in how they behave.
Philosophy matters to us, therefore, primarily because it helps us to make sense of our lives and to live better lives. A worthwhile philosophy will be one that gives us deep insight into who we are, how we experience our world, and how we ought to live. (p. 551)


私は本書は、「私たちが何者で、どのように私たちの世界を経験し、どのように生きるべきか、について深い洞察を与えてくれる」哲学の書であり、それが哲学であるがゆえに(認知)科学にもつながる書であると確信しています。このようにまとめを公開して、皆さんにこの本への関心をもってもらおうとする次第です。

科学と哲学の間の関係について著者は次のように述べます。

科学を正直なものにしたいと願うなら、私たちは哲学的洗練を必要とする。これまでの哲学や新たに加わろうとしている哲学をきちんと理解することなしに、科学が自己批判の姿勢を貫くことはできない。 (中略)
他方、哲学はもしそれが責任ある哲学であろうとするのなら、現在行われている関連する科学研究の莫大な成果にきちんと向かい合い理解することなしに、心や言語やその他の人間の生活に関する理論をただ紡ぎだすわけにはいかない。科学との接点がなければ、哲学とは単なるお話であり、人間の身体的形成と認知の現実に依拠していないでっち上げの語りにすぎない。

Philosophical sophistication is necessary if we are to keep science honest. Science cannot maintain a self-critical stance without a serious familiarity with philosophy and alternative philosophies. ...
On the other hand, philosophy, if it is to be responsible, cannot simply spin out theories of mind, language, and other aspects of human life witout seriously encoutering and understanding the massive body of relevant ongoing scientific research. Otherwise, philosophy is just storytelling, a fabrication of narratives ungrounded in the realities of human embodiment and cognition. (p. 552)
科学は哲学を必要とし、哲学は科学を必要とするわけです。しかし、科学や哲学の本の小さな分野のほんの小さな部門の進展についてゆくことさえ難しいのに、私たちが哲学的科学者、科学的哲学者、あるいは哲学者である科学者である人間になることなどできるのでしょうか?私たちは知的に誠実であろうとする限りにおいて、そうあることを目指さねばなりません。もちろんこれはいかなる個人も一人では達成できないことです。科学と哲学は、多種多様で莫大な学術的コミュニケーションを通じて、個々人というレベルではなく人類というレベルで推進するべきことなのでしょう。そして教育という営みに従事する実践者も、可能な限りその科学と哲学のコミュニケーションに耳を傾け、必要に応じてコミュニケーションに参加するべきでしょう。

以上で私のまとめを終わります。以下は蛇足として、私がこの本の読解を通じて考えたことです。





8 雑考

(1) 心を密室から解放する

これまで私たちは、心理言語学や認知科学の教義にしたがって、「心」(mind)を理解するために、心の機能を数量化し、その数字の関係でとらえることを学んできました。「心」は、頭蓋骨の内だけでなく、脳の認知機能の形式的表現(表象)に閉じ込められてきました。いきおい実験も、被験者を一定の認知機能だけに専念させてきました。しかしそれだけが「心」の解明ではないでしょう。「心」を表象から、頭蓋骨から、そして実験室から解放し、心が身体と世界とともに連動する、おそらくは「本来の」と言ってもいい心の姿に戻しましょう。そしてその心-身体-世界(あっさりと「世界内存在」(In-der-Welt-sein, Being-in-the-World)と呼んだ方がいいのでしょうか)、を他者と出会わせ、共に生活させましょう。それこそが私たちが(少なくとも教育者が)関心をいだく人間であり心でしょう(「スルメを見てイカがわかるか! !」)



(2) 身体経験の重要性

本書の論を信じるなら、私たちの心が「傷つく」という経験・言語表現は、身体的に「傷つく」こととメタファー投射を通じて神経回路網でつながっています。「手を差し伸べる」ことや「支えになる」ことも同様です。それならば「人の心を傷つけることをしてはいけません」という説諭を聞いても、それは身体的な負傷経験を数多くもつ子どもには、それがひょっとしたら文字通りの痛みさえ感じる説諭として聞こえても、身体経験をほとんどもたずに負傷をTVゲーム画面でしか経験したことがない子どもには、何の痛痒も感じない表現に聞こえるかもしれません。

あるいは、現実世界でさまざまな身体経験を積んだ子どもは、その経験に基づく原初的メタファーにより、複雑な抽象概念についてもさまざまに表現できる潜在力をもっていると言えるかもしれません。少なくとも抽象概念の説明のために使われたメタファーを、「腑に落ちる」ように「身体でわかる」度合いは、身体経験の少ない子どもより深いでしょう。また抽象概念の獲得も早いかもしれません。

私は以前、以下の渋沢栄一に関するエッセイを読んだ時、昔の人の頭の良さは、さまざまな手仕事の知恵を学問・読書と結びつけていたことにあるのかと思いましたが、本書の読書でも、「身体に蓄積された知恵」とでも言うべきものがあるのかと思いました。

渋沢はパリ万博の幕府使節随行員として渡欧していた。その間に大政奉還で幕府は倒れるが、一行はスイス、オランダ、イタリアなども回り、西洋文明の産物、利器を目の当たりにした。
 株式組織の産業振興。博物館、動植物園、遊園地、劇場といった文化施設、裁判所から浄水場、舗道に至る公共施設の見事な整備。鮮烈な知的ショックは後に生きる。
 実業から福祉、教育にわたる彼の指導、実践と業績は歴史教科書が教えるが、私は未知の状況をきちんと受け止め、発想を転換できる彼の強さに感嘆する。おそらく維新を推し進めた人材はそうした能力の持ち主だったのだ。
 現埼玉県の富農に生まれた渋沢は、論語を教わる(これは将来実業人として貫いた理念「道徳経済合一説」になる)一方、13歳から家業である藍玉(あいだま)の商取引を習得した。江戸後期、富農層には思想学問や経済活動が盛んだった。明治維新は下級武士などとともにこうした力が突き上げた。
 一時彼は過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)派になる。城乗っ取りや、異人館焼き打ちもたくらんだ。断念して仕官したのが1864年。その3年後には欧州で先進文明と制度に驚嘆し、発想の大転換をする。この早さ。
 可能にしたのは23歳まで小さな村で家業、学問、読書から身につけた「自家製教養」だと私は考える。勉強は学校でとなった明治以降、実生活にしっかり根を生やした自生型の教養というものを、社会はあまり知らなくなった。
国を開く自家製教養=玉木研二
毎日新聞 2010年10月19日




(3) 「知識」のメタファー性の自覚

「科学的」で「無色透明」のように思える「知識」も、実は存外私たちの身体経験に根ざしたものだったということから、私たちは知識に対して批判的であることを学べるかと思います。先ほど、教育の工場メタファーと庭園メタファーについて語りましたが、私たちはある言説が力をもった時など、「その言説に特徴的なメタファーは何か」、「そのメタファーを採択することにより、物事のどんな側面が強調され、どんな側面が隠されるのか」、「他にはどんなメタファーで語ることが可能か」、「その別のメタファーを使えば、今度はどんな側面が見えてくるか」、と問い、実際に批判的言説分析 (Critical Discourse Analysis)を行うことができます。その批判により、私たちは少なくともその言説に呪縛されることからは免れるでしょう。そして対抗メタファーを使うことにより、物事を多様に見ることを他の人々にも促すことができるでしょう。「知識」はしばしば支配と管理のために使われます。私たちはそういった力に対して自覚的でなければなりません。さもなければことばを操る者により、抵抗もできないまま支配し管理されるだけでしょう。ことばの自覚的な理解と使用により、私たちは力をもつことができます。



(4) 文学的表現の重要性

他人に理解してもらえる多様なメタファーを使いこなせるということは、物事を多元的に捉え、物事の間の諸関連を巧みに見出すということができるということです。こういったメタファーの創造的使用が私たちの力となるということも、上で確認したことでした。こうなりますと、「字義的表現だけを使いなさい」といった(実は実行できない)制約とは無縁の文学的表現 ―もちろん典型的には文学作品に多く見られるが、実はその他の言語使用にも広く見られる、表現に対して自覚的な表現 (参考:ヤーコブソン関連記事)― 習熟することは、私たちの生きる力につながることがわかります。

「文学なんて非実用的なことを学校で教える必要はない」と言う人が時にいますが、私はこういった人の「実用性」について疑問をもっています。「文学は非実用的」というのは、「工場生産といったそれこそ文字通りの意味のコミュニケーションだけですむ単純作業には要らない」ぐらいの意味であり、工場生産でも単純作業を越え、業務改善や新たな工夫を考案したりする場合には、メタファーを多用したりして、私たちが「文学的表現」と呼ぶ表現を使い始めるのではないでしょうか。あるいは工場の労働条件の改善を求める場合には、経営者とさまざまな形で対話する能力が必要です。ここでも多くのメタファーなどが使われるでしょう。「文学は非実用的であり、学校で教える必要などない」という人は、たとえ自分自身で意識していなくても、学校の役割を、「最小限の読み書きだけできる単純作業労働者の生産である」と主張していることにはならないでしょうか。さらには「単純作業を超えて、労働条件の改善交渉ができるような知性まで教える必要はない」、と言っていることにならないでしょうか。文学的表現は、私たちに世界の新しい可能性を教えてくれます(参考:野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫))。世間一般に「文学作品」として認定されている言語使用だけに限定する必要はありませんが、私たちは文学的な表現について学ぶことの意義を再検討するべきではないでしょうか。



(5) 外国語教育での機械的直訳主義の批判

英単語とその訳語を対にして丸暗記する学習法は昔から盛んですが、私はそのように単純で機械的な対連合学習は、使用領域が極めて限定された一部の専門用語を除いて、一般的な言語学習としては避けるべきではないかと昔から考えています。少なくとも私が英文の意味を尋ねた時に、学生さんが頓珍漢なことをいう場合の多くで、学生さんが「バ○の一つ覚え」のように唱えている直訳語が、英文理解の邪魔となっていることがあります。または学生さんが英語を話せない時も多くの場合、学生さんはとりあえず思いついた日本語の英訳語が浮かばないことで思考が止まってしまっていたりします。

機械的に訳語を覚えて、そればかりを振り回して外国語を理解・使用しようとすることをここで仮に「機械的直訳主義」と呼ぶことにしますと、機械的直訳主義では、外国語を外国語に即して考えることが阻害されますから、その外国語表現に存在しているメタファーなども、直訳によってしばしば失われ、外国語のメタファー体系を学ぶことができなくなってしまいます。機械的直訳主義は、外国語習得にとって逆効果でないかと私は思っています。

しかし機械的直訳を否定するからといって、私は「翻訳」までも否定しているわけではありません。「オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ」でも書きましたが、機械的直訳(あるいは「作業としての機械的英文和訳」と「忠実な英文読解に基づいた創造的日本語表現としての翻訳」はまったく異なるものです。私は機械的直訳主義は排すべきですが、「翻訳」は高度な言語教育として外国語教育の一部に組み込むべきだと考えています。(参考:山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別



(6) 研究の多元主義

英語教育界の(少なくとも一部の人の)狭量と不寛容そして学界権力の専有については、上で愚痴を言いましたが、量的研究しか英語教育研究として認めないという一元主義による独裁的体制は、その狭量は人々の既得権益のためにはなっても、社会一般のためにはまったくならない行いだと私は考えます。本書が明らかにしているように(どうぞ、上の簡単なまとめだけを本書の内容と勘違いなさらないように!)、私たちは思考において様々なメタファーを使っています。どのメタファーを重要な概念メタファーとして使うかによって、論考は大きく異なってきます。「真理」を「数的に表現できる形式」とする考え方も、一つの考え方、メタファーにすぎません。もちろん多くを厳密に数量化する方法はテクノロジーに最適で、人間はこの思考法で多くの近代的技術を発達させることができましたが、「近代の技術的発想が人間をそのまま幸福にするものか」、あるいは「人間は他の人間を単なる技術的操作の対象とだけ考えていいのか」、については慎重に考えなければなりません(カント(『道徳形而上学の基礎づけ』)なら後者の問いに否と答えるでしょう)。数量化による技術的発想には明らかな限界があります。ですから量的研究を「教育」研究の唯一の研究法とし、他のアプローチを排斥するのは明らかに間違っています。

それならば"Anything goes"(何でもあり)の相対主義でいいのかとなれば、明らかにそうではいけません。相互無関心で、社会に対して無責任な相対主義(「まあ、これが私の研究ですから口出ししないでくれますか。私もあなたの研究に口出ししませんから)がよい研究体制だとは誰も思わないと思います(しかし過度の専門化が進行した学界は、それぞれの蛸壺の中では競争があっても、蛸壺の間では、この悪しき相対主義となりかねません)。悪しき相対主義は避けなければなりません。

ここはやはり多元主義 (pluralism)、つまりは自らの立論に対しての哲学的反省を含んだ研究が多種多様に現れ、研究者が自分の物差しだけでは判断できない他者の研究を相互に読み合い、その読解と反応のコミュニケーションの中から、学界の構成員がそれぞれ判断力を向上させてゆくような体制です。ここでは一つの物差しを機械的に適用するだけで論文の査読ができるようなことにはなりませんが、そもそも研究とは、とくに教育といった人間に関する研究は、機械的で単純なものであるべきではないでしょう。(参考:Critical Applied Linguistics, Alternative Approaches to Second Language Acquisition, The Social Turn in Second Language Acquisition)



(7) 「実証性」と「数量化」はそのまま重なるわけではない

上の論点に重なりますが、私たちは研究において「実証的」(empirical)であることは重視するべきですが、その態度はそのまま「数量化」(quantification)と重ならないことに注意すべきでしょう。"Empirical"の一般的理解として、Merriam-Websterの定義を引用します。

1: originating in or based on observation or experience [empirical data]
2: relying on experience or observation alone often without due regard for system and theory [an empirical basis for the theory]
3: capable of being verified or disproved by observation or experiment [empirical laws]
4: of or relating to empiricism

どの意味でも概して観察(observation)と経験(experience)が"empirical"であるための条件として掲げられています(3では実験、4では哲学上の経験主義(empiricism)への言及がありますが、基本は観察と経験です)。確かに実験では数量化がしばしば使われますが、観察と経験において数量化は必須ではありません。数量化だけが客観性を担保する方法ではありません。このことは次の主張につながってきます。



(8) 「客観主義的客観性」だけが客観性ではない

本書が明らかにしたように、私たちがしばしば唯一の科学的態度として誤解してしまう「客観主義」(objectivism)は、西洋的哲学的伝統の一つの帰結に過ぎず、人間がもちうる(あるいはもつべき)唯一の思考形態ではありません。ましてや量的研究至上主義は、「客観主義」の特殊形態であり、私たちがあまねく認めるべき「客観性」としてはふさわしくありません。

「客観性」(objectivity)は、公的に共有された理解 (publicly shared understanding)に基いて考えることができるというのが、マーク・ジョンソンの『心の中の身体』での理解でした。この理解は、客観主義や数量化そのものを否定しませんが、それらが時に含意する狭量さを否定するより広い客観性概念です。

あるいは『認知意味論』の301ページで著者は客観性について次のように総括していました。『認知意味論』のまとめから日本語翻訳だけを再掲します。
第一に、自分の視点から離れ、状況を他の視点から、しかもできるだけ多くの視点から見ること。
第二に、直接的に有意味なもの --基本レベルとイメージ・スキーマ概念-- と、間接的に有意味な概念の区別ができること。
したがって客観的であるためには以下のことが必要である。
- 人にはそれぞれの視点があり、それは単なる信念の集合ではなく、信念が形成される特有の概念システムであることを知ること。
- 人の視点が何であるかを知り、その概念システムがどのようなものであるかも知ること。
- 他の関連性のある視点を複数知り、それらの視点を形成するそれぞれの概念システムを使うことができること。

- 状況を、複数の他の視点から、それぞれの概念システムを使いながら評価できること。
- 生命体としての人間および私たちの環境の一般的性質からして比較的に安定し明確に定義されている概念(例、基本レベルとイメージ・スキーマ概念)を、人間の目的と間接的な理解の仕方によって変化する概念から区別できること。


またフレイレは、同じ様に"objectivism"を批判し、"objectvity"を"subjectivity"との弁証法的関係の中に見出そうとしています。この場合の"objectvity"と"subjectivity"はそれぞれ「客体性」と「主体性」と訳すべきでしょうか。私たちの主体性抜きの客観的世界はありえず("objectivism"の批判)、だからといってこの世界の客体性抜きにそれぞれが勝手に好き勝手を言っていいということにもならず("subjectivism)の批判)、私たちはそれぞれがそれぞれの主体性をもってこの世界という客体性と関係をもっており、その主体性と客体性の両者相伴って初めて成立する弁証法的関係の中に、私たちは客観性(=客体性=objectivity) (および主体性)を見出すことができるというのが彼の主張とまとめられるかもしれません(Paulo Freire (1970) Pedagogy of the Opressed)。



残念ながら議論は単純ではありません。しかし世界が複合的で、私たちの人生はさらに複合的であるとしたら、どうして私たちの人生に関する教育研究だけが単純でありえましょうか。私たちはobscurantismは避けますが、過度の単純化は避けます。それは反知性的態度だからです。教育研究が反知性的であるというのは私には根本矛盾のように思えます。

以上で本稿を終えますが、私たちはできるだけ多面的に観察し、そして深く考え、そしてその知見をできるだけ明確に語るべきかと思います。繰り返しますが、過度の単純化は、過度の曖昧化同様、知性的態度ではありません。と言いつつ、本稿が本書を過度に単純化してしまったかもしれない可能性を私は恐れます。いつもながら、おそまつ。

















関連記事
ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html


身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html