2013年5月22日水曜日

尾崎俊介(2013)『S先生のこと』新宿書房





この本に描かれている「S先生」こと須山静夫先生のことは、以前恩人の方に教えられて若干の間接的な知識をもっておりましたが、それ以降記憶の隅の方にいってしまい、5/12(日)毎日新聞の書評欄(執筆は堀江敏幸先生)でこの本の発刊を知るにいたって、ようやく記憶が蘇ってきました。

5月26日にはじめて日本英文学会シンポで発表させていただく(というより英文学関係の学会に初めて参加)機縁もあり、発表前に読めたらと思い、書店に注文をかけておりました。

先週末から月曜にかけてそのシンポの準備やたまっている仕事などで特に根を詰めて働き、昨日火曜日にいつものように連続3コマ講義をしましたらさすがに疲れて、山のようにたまっている仕事をする体力も気力もなくなり、早めに帰宅しました。

夕食を済ませたら少しは気力も蘇り、そういえば書店から『S先生のこと』が届いていたと思い出し、少し読み始めましたら、もう一気に読んでしまいました。



よかった。この本を読んでおいてよかった。私は再度「文学」という営みに対する敬意(というより畏敬)を新たにすることができました。

私は上記の学会シンポでは、英文学研究者ではない部外者としてトリックスター的な役割を果たそうと考えていますが、トリックスターには、それが対抗する本流の文化に対する洞察が必要です。その洞察をこの本を通じて少しでも得られたことは大変に幸運なことでした。

いや、この本はそのような偶発的な意味を超えて、文学という営みについて深く、深く感じさせる本です。いや「文学」を超えて、「人が生きること」と言うべきでしょう。



「人が生きるということ」を志向しない文学も文学研究もありえないし、同じことは英語教育にも英語教育研究についてもいえると思います。

「はっ、これまた人文系趣味ですな」と揶揄される方もいらっしゃるかもしれませんが、私は自然科学に敬意を払うからこそ、表面だけ自然科学的手法を真似ただけの研究に対して批判的であり、人間を扱う教育学というのは人文系の素養を忘れてはいけないと思っています。

一人の人間が運命に翻弄されながらも生きるということ、そして生き続けるということ、さらに人間を扱う学問を行うということについて考え感じたいなら、この本は深い印象を残すと思います。

ここで「S先生」のエピソードのいくつかでも紹介すればいいのかもしれませんが、紹介し始めると終わりそうもありません。ここではご興味を抱いた方にご一読を勧めるにとどめておきたいと思います。

この本を上梓して下さった著者の尾崎俊介先生、およびこの本にふさわしい表紙カバーや写真を掲載して下さった関係者の皆様に深く感謝します。





















田地野先生(京都大学)による「あたらしい英語の教科書」、およびJACET国際大会(8/30-9/1)





私が研究者そして教育者としてもっとも敬愛する一人であり、また冗談をお互いに競い合うように言い合うお笑い仲間でもある田地野彰先生(京都大学)が、NHKラジオ基礎英語1の今年度テキストで「あたらしい英語の教科書」を連載しています。

下に掲載した本でも有名になった「意味順」を基盤とした英語入門です。

こうして改めて見ると、「意味順」というのは、単に語順を教えるのでなく、日本語話者に英語の「意味の枠組み」と「思考回路」を身につけさせる方法だとも思えてきます。

通常の会話だと「スポーツ好き?」「うん、野球が好き」と、英語のような主語を使わない日本語構造(注) に慣れきった日本語話者にとって、"Do you like sports?" "Yes. I like baseball."と、わざわざ"you"や"I"などの主語を入れること、さらに「野球が」は英語にとっての主語には通常ならないことなどを体得することはそれほど簡単でないように私は思います(英語を習得してしまった人間にとってこの困難を想起あるいは推測することは容易ではないかもしれませんが)。

この意味で、「意味順」は、英語とはかなり異なる日本語しか知らない学習者に、英語では何を重要な「意味の枠組み」の要素とし(例えば「主語」「動詞」「目的語」など)、さらにそれらの要素をどのような順番で並べて思考を紡いでいくのかという「思考回路」を明示的に示して生徒に英語の意味枠組みと思考回路を体得させる方法かと思えてきました。

「意味順」は、コロンブスの卵のようなあっけなさをもっていますが、実は深いですし、教育実践としてどんどんと発展できる考え方ではないかと思います。



(注) 私は三上章が言うように、西洋言語のような統語的に強力な「主語」は、日本語にはないと考える方が合理的だと思っています。(参考:文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―



関連記事
田地野彰先生と田尻悟郎先生それぞれによる学習英文法書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/07/blog-post_16.html

































追記

田地野先生がらみでもう一つだけ書いておきますと、8月30日(金)から9月1日(日)に開かれるJACET国際大会(会場:京都大学)は面白そうです。

テーマは「英語教育の連携と相対化」で、文学研究のProfessor Susan Bassnett (The University of Warwick)、ライティング研究のProfessor Ken Hyland (The University of Hong Kong)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』でも有名な飯吉透教授といった、日本の英語教育の学会ではあまり呼ばないような研究者を全体講演者として招き、まさに「英語教育の連携と相対化」を考える学会となるようです。田地野先生はこういった人選や招聘にも深く関わっていると聞きました。私はJACET会員ではありませんが、この大会には参加しようと思っています。





2013年5月19日日曜日

ジョン・ホロウェイ(著)高祖岩三郎・篠原雅武(訳) (2011) 『革命 -- 資本主義に亀裂をいれる』河出書房新社





■旧来の「革命」ではなく

この著者の前著である 『権力を取らずに世界を変える』に引き続き、この本が翻訳されて日本語で読めることに対して、私は心から感謝していますが、この本をCrack Capitalismという原題を『革命』という邦題にしてしまい(「資本主義に亀裂をいれる」というのは副題にしてしまっています)、なおかつ下記のような表紙デザインにしてしまったことに対しては、大いに不満です。これではまるで旧態依然の左翼本にしか見えない。この本は、硬直化してしまった革命観を一新する本であると私は理解していますから、この邦題と表紙デザインを選んだ判断には賛成できません。











著者であるジョン・ホロウェイ (John Holloway)は、旧来の「新しい社会は資本主義システムを転覆させた時にのみ成就する」といった主張に対して、以下のように反対します。

The argument here is that, on the contrary, the revolutionary replacement of one system by another is both impossible and undesirable. The only way to think of changing the world radically is as a multiplicity of interstitial movements running from the particular. (p. 11)
以下、いつものように拙訳です。
この本の議論はまさに逆で、あるシステムを別のシステムに革命的手段で入れ替えてしまうことは、不可能でありまた望ましくもないというものだ。世界を根本的に変えることを考える唯一の方法は、多種多様の個別のものから亀裂が広がるように考えることである。


著者が考えている社会変革の構想は、整然とした一本道のようなものでもなく、詳細な設計図に基づくものではありません。(一本道や設計図を誰かが知っていると信じた時に社会に起こる災厄については、私たちは20世紀で十分に学んだはずです)。



■自らの理想化や固定化に抗して

ですから、著者は、社会変革の担い手としての私たちを決して理想化しません。私たちは資本主義の中に生まれ暮らしながら、資本主義に亀裂を入れようとする自己矛盾を遂行しようとするわけですから。

Our cracks are not pure cracks, our dignities are not pure dignities. We try to break with capitalist society, but our break still bears its birthmarks. However much we try to do something different, the contradictions of capitalism reproduce themselves within our revolt. We are not pure subjects, however rebellious we might be. The cracks, both as spaces of liberation and as painful ruptures, run inside us too.

These problems are probably inevitable. The purpose of the cracks is not to create a community of saints but to establish a different form of relations between people. The cannot be based on purity, or on Puritanism. (p. 64)
私たちの亀裂は純粋な亀裂ではないし、私たちの尊厳も純粋な尊厳ではない。私たちは資本主義社会から離脱しようとしているが、その離脱から資本主義の刻印が抜けることはない。私たちがいかに異なることをなそうと試みても、資本主義の矛盾は私たちの反乱の中に再生産されるだけである。いかに反逆的であれ、私たちは純粋な主体ではない。亀裂とは、解放の空間であると同時に痛みを伴う断裂であり、資本主義システムだけでなく私たちの中にも走っている。
これらの問題を避けることはおそらくできない。亀裂をつくることの目的は、聖人の共同体をつくることではなく、人びとの間にこれまでとは異なる形態の関係性を構築することだ。 


私たちは自ら尊厳をもつ者として自己規定し不当な支配を拒絶しますが、その尊厳とて、完全なものもなければ、固定化され自己賛美されるものではありません。

Dignity is the unfolding of the power of NO. Our refusal confronts us with the opportunity, necessity and responsibility of developing our own capacities. ... The assumption of responsibility for our own lives is in itself a break with the logic of domination. This does not mean that everything will turn out to be perfect. The dignity is a breaking, a negating, a moving, and exploring. We must be careful not to convert it into a positive concept that might give it a deadening fixity. (p. 19)
尊厳とは否定の力を開花させることである。何かを拒むとき、私たちは自らの対応力を発展させる機会、必要、そして責任に直面する。自分の人生に責任を担うことは、それ自体が、支配の論理から離脱することである。だからといって、すべてがうまくいくわけではない。尊厳とは、離脱であり、否定であり、動きであり、探究である。尊厳を疑いようのない概念に変えてしまい、死に至る固定性に至らないように私たちは注意しなければならない。






■資本主義批判

しかしそれにしてもなぜ資本主義に亀裂を入れなければならないのでしょう。

それは一つには、資本主義が私たちの社会的な結びつきを、すべて商品化し数量化・抽象化してしまうからです。商品でもなければ数量化されたり抽象化されるものでもない、個別の質的で具体的な結びつきを資本主義が次々に商品化・数量化・抽象化しようとするからです(参考記事:モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房)。

新自由主義は、電気や交通といった公共事業はもちろん、年金・医療・教育・研究といった、本来は社会で広く共有すべき豊かさまでも商品化・数量化・抽象化しようとしていますが、資本主義でもっとも根源的なのは、私たちの労働力の商品化・数量化・抽象化でしょう。そこから資本主義が、私たちの暮らしの営みへ侵食し始めます。

It is when labour power becomes a commodity and capitalist production is born that there is a general commodification of social relations. Everything in society tends to be transformed into a commodity and the connection between the different processes of work is a purely quantitative connection, measured in money. The connection is established through abstracting from the particularities of each activity. The transformation of our doing into labour is at the centre of a new complex of socialisation. (p. 104)
労働力が商品となり資本主義的生産が始まる時に、社会的関係の全般的な商品化が始まる。社会のすべてが商品へと変えられ、仕事により異なる過程の間の結びつきは、貨幣で測られる純粋に量的結びつきとなる。結びつきができるのは、個々の活動の個別性が抽象化されてのことである。新たな社会化の網の目の中心にあるのは、私たちの行いが [資本主義的な]労働へと変えられることなのだ。




資本主義的な社会的結びつきを、やがて私たちは唯一の結びつき、それ以外はありえない必然の人間の結びつきと考えるようになります。資本主義社会の「価値」(正確には「商品価値」参考記事:マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ)こそが、私たちが追求すべき価値であり、国家が追求すべき価値だと信じ込みます。



It is not the state that creates the social synthesis that surrounds us, although it often presents itself as doing so. The state repressed or co-opted into something other than the state. The real force of cohesion stands behind the state: it is the movement of money. Money makes the world go round, as the saying has it. More precisely, the social synthesis is established through that which is expressed in money: value.

Value is what holds society together under capitalism. It is a force that nobody controls. Capitalism is composed of a huge number of independent units which produce commodities that they sell on the market. The social interconnection between people's activities is established through the sale and purchase of commodities or, in other words, through the value of the commodities, expressed through money. Value (manifested in commodities, expressed through money. Value (manifested in money) constitutes the social synthesis in capitalist society that which holds together the many different, uncoordinated activities. The state presents itself as being the focal point of social cohesion, but in fact the state is dependent on money and can do little to influence its movement. (pp. 65-66)
国家は、しばしば国家こそが私たちを社会的に統合しているようなふりをするが、私たちの社会的統合を創り出しているのは国家ではない。国家は自らを抑圧し、国家以外のものに自らを接合させてしまった。社会をまとめている現実の力は、国家の背後にある貨幣の運動である。よく言われるようにお金が世界を動かしているのだ。もう少し正確に言うなら、社会的統合は、貨幣によって表現されているもの、すなわち [商品]価値によって達成されている。

[商品]価値とは、資本主義のもとにある社会をまとめるものである。それは誰も制御できない力である。資本主義は、市場で売られる商品を作る多数の独立した単位によって構成されている。人びとのさまざまな活動の間の社会的な相互の結びつきは、商品の売買、言い換えるなら、貨幣によって表現された商品価値、によって成立している。(貨幣によって姿をあらわす) [商品]価値によって資本主義社会の社会的統合が達成されているのだが、この統合によって、本来はばらばらの多くの異なる活動がまとめられる。社会的まとまりの焦点にあるのは国家であるという自画像を国家は提示するが、実際のところは、国家は貨幣に従属しているのであり、貨幣の運動に対してほとんど何も影響を与えることはできない。




資本主義の社会の結びつきは、(資本家ではなく)資本そのものがもつ「自動的な主体」としての力によってますます強化されます。

Capital, although it is created by humans, acquires a force independent of any human volition. It is not controlled by capitalists: capitalists are capitalists only to the extent that they succeed in obeying the logic of capital. Capital (the object of our creation) is an 'automatic subject' (as Marx called it), the Subject of capitalist society. It is the story of Frankenstein, the story of sorcerer's apprentice. By constituting capitalism, we create a system that we do not control, a system with its own laws of development. We create capitalism and thrust ourselves into a terrifying world. (p. 146)
資本は、人間によって創り出されたものでありながら、いかなる人間の意思からも独立した力を獲得する。資本家が資本を管理しているのではない。資本家が資本家でありえるのは、資本の論理に従っている限りのことなのだ。(私たちが創出した客体であった)資本は、(マルクスが言うように)「自動的な主体」、資本主義社会の大文字Sの主体(Subject)となっている。これは [自ら造り出した人造人間に苛まされる] フランケンシュタインの物語であり、[自らかけた魔法を制御できなくなる]魔法使いの見習いの物語である。資本主義を構成することにより、私たちは自ら管理できないシステム、それ独自の発展法則をもつシステムを創出する。資本主義を創出し私たちは自らを恐るべき世界に追い込む。




私たちは自らが創りだした資本主義的生産体制の中に絡め取られ、(資本主義)社会の主体から客体へと転落してしまいましたが、同時に、私たち自身が資本主義社会を構成しているという事実は残っています。貨幣に媒介された関係が私たちの社会的関係となってしまいましたが、この社会的関係を創り出したのも、日々再創出しているのも私たちです。私たちは捉えられていながらも何かができるはずです(これが私たちの矛盾であり希望です)。



When we say that money is a form of social relations, we say, then, that it is a form that we create and re-create, a form that depends not just on our initial creation but on our constant re-creation. The same can be said of the state or capital. (p. 231)
貨幣が社会的関係の形態だと言うとき、私たちが同時に言っているのは、その形態は私たちが創出し再創出している形態、つまり、私たちの最初の創出だけでなく、私たちのたえまない再創出に依存している形態だということである。同じ事は国家や資本についても言える。




ですから身近な言い方をすれば、こうなります。

The challenge is always to see to what extent we can use money without being used by it, without allowing our activities and our relations to be determined by it. (p. 69)
私たちが挑まなければならないのは、どの程度まで私たちはお金に使われることなくお金を使いこなすことができるのかを知ることだ。つまり、いかにお金を使いながらも、お金に寄って私たちの活動や関係のあり方をお金によって決定されないかを知ることだ。






■問いながら歩き、行動へ

かくして私たちは矛盾した試みに挑みます。私たちの社会を構成するものを全面否定も完全破壊もすることなく、それに亀裂を入れ、私たちの尊厳と自由を取り戻す試みです。

Our task is to learn the new language of struggle and, by learning, to participate in its formation. ... The learning of a new language is a hesitant process, an asking-we-walk, an attempt to create open question-concepts rather than to lay down a paradigm for the understanding of the present stage of capitalism. (pp. 12-13)
私たちの課題は、抵抗の新しい言語を学ぶこと、そしてその学びそのものによって新しい言語を形成することだ。新しい言語の学びの過程は、定まっていない。いわば、問いながら歩くこと、つまり資本主義の現段階を理解するための枠組みを確定してしまおうとするのではなく、開かれた問いの概念を創り出そうとする試みである。




例えばローザ・パークスが、バス席の移動を拒んだとき、彼女は未来がどうなるかわかっていませんでした。しかし彼女は、他の公民権運動者と共に、問い続けながら歩き続けました。資本主義社会の諸問題を看過できないと感じる私たちは、問い続けながら歩きます。歩くということは、資本主義が用意した道を拒み、それ以外の道を見出すということです。

本書の第一章は次のように始まっています。



Break. We want to break. ...

We want to create a different world. ...

We protest and we do more. We do and we must. If we only protest, we allow the powerful to set the agenda. If all we do is oppose what they are trying to do, then we simply follow in their footsteps. Breaking means that we do more than that, that we seize the initiative, that we set the agenda. We negate, but out of our negation grows a creation, an other-doing, an activity that is not determined by money, an activity that is not shaped by the rules of power. (p. 3)
壊したい。私たちは壊したい。

私たちは違う世界を創造したい。

私たちは反対するが、それ以上のこともする。そうするしそうしなくてはならない。もし私たちが反対をするだけなら、権力者が行動計画を決めるだけだ。もし私たちが権力者が計画していることに反対するだけなら、私たちは単に権力者の後をたどるだけだ。壊すとは、反対以上のことをするということである。私たちが主導権を取り、私たちが行動計画を決めるのだ。私たちは否定するが、その否定から創造が生まれる。「違うことをなす」こと、つまり、貨幣によって決定されず権力の規則によって定められない活動の創造である。




かといって、私たちは既に正解を知っているわけではないことは、再三述べた通りです。さらに言うなら、正解を知らないということで、私たちがバラバラにならざるを得ないということではありません。



There is no single correct answer, but this does not mean that all these struggles are atomized. There is a resonance between them, a mutual recognition as being part of a moving against-and-beyond, a constant sharing of ideas and information. (p. 257)
唯一の正解などない。だからといって、私たちの抵抗がバラバラに孤立しているというわけではない。私たちの抵抗の間には共鳴があり、「抵抗し乗り越えよう」という動きの一部であるとお互いが認め合っており、たえず考えや情報が共有されている。




そういった流れが、マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ著、幾島幸子・古賀祥子訳、水嶋一憲監修 (2012) 『コモンウェルス (上)(下)』 NHK出版にも出てきた、これまでとは異なる近代性 (altermodernity)でしょうし、またホロウェイが言及する「これまでとは異なるグローバリゼーション」 (alter-globalisation)でしょう。



The development of our power-to-do must not be understood as a rejection of socialisation. The challenge, rather, is to construct through the cracks a different socialisation, a socialisation more loosely woven than the social synthesis of capitalism and based on the full recognition of the particularities of our individual and collective activities and of their thrust towards self-determination. There are already many initiatives in this direction. The insistence of the so-called anti-globalisation movement that it is not opposed to globalisation but favours a different sort of globalisation and is therefore an alter-globalisation movement makes precisely the point that the struggle is not for a romantic return to isolated units but for a different sort of social interconnection. Horizontality, dignity, alternative economy, commons: all these terms relate to explorations in the construction of a different form of socialisation. (p. 248)
私たちの「行動する力」を育てることを、社会化の拒否だと理解してはならない。私たちが挑むべきことはむしろ、亀裂を通じて、これまでとは異なる社会化を目指すことである。資本主義の社会的統合より緩やかで、私たちの個々人でのおよび共同での活動の個別性をよく理解し、またそれらの活動は自己決定を求めているということもよく理解している社会化なのだ。既にこの方向に多くの動きが始まっている。ちまたで「反グローバリゼーション」と呼ばれている運動は、実はグローバリゼーションに反対しているのではなく、これまでとは違った種類のグローバリゼーション、つまり「これまでとは異なるグローバリゼーション(オルターグローバリゼーション)」を目指しているのだという主張は、まさに、抵抗はバラバラの単位へのロマン的回帰ではなく、これまでとは異なる社会的な相互の結びつきを目指しているということを明らかにしている。水平性、尊厳、これまでとは異なった経済、共有 -- これらの用語はすべてこれまでとは異なる形態の社会化を作り出そうとする探究に関連している。




となると悲観的になる必要もありません。私たちは、それぞれに人間らしくあろうとし、必要ならばこの資本主義社会で慣習とされていることとは違うことを行うことを選び、それぞれに人びとと結びつきあってゆけば、新しい世界は創り出せるはずです。

どこかの前衛集団の一斉指示による革命でなく、多種多様のあまたの人々が、それぞれの暮らしの中で、より人間らしくあろうとしたとき、そしてその試みが共鳴し新たな生命を得ること -- これが新たな意味での「革命」ではないでしょうか。



There is no single correct answer to the desperate (and time-honoured) question of what is to be done. Perhaps the best answer that can be given is: 'Think for yourself and yourselves, use your imagination, follow your inclinations and do whatever you consider necessary or enjoyable, always with the motto of against-and-beyond capital.' (p. 256)
「何をなすべきか?」という火急の(そして古くからの)問いに対して、唯一の正解などない。おそらくもっともよい答えとはこうなのかもしれない。「自分(たち)自身で考えよ。想像力を使え。気持ちに従い、自分が必要あるいは楽しいと思うことを行え。常に『資本に抗し、資本を乗り越えろ』というモットーと共に」。






この本は、決して翻訳書のタイトルや表紙が示唆するような教条的な本ではありません。いや、そういった硬直した思考から私たちを解放し、新たな行動へといざなう本と言えましょう。ぜひご一読を。

























マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ著、幾島幸子・古賀祥子訳、水嶋一憲監修 (2012) 『コモンウェルス (上)(下)』 NHK出版





哲学とは浮世離れした無駄口ではなく、この世を生き抜くために私たちの前提を問い直す営みです。

この『コモンウェルス』は、『<帝国>』と『マルチチュード』に続く作品で、これらは三部作とされていますが、訳者も言いますように、この本だけを読んでも十分に理解できる書き方になっているかと思います(ただしある程度の哲学的前提知識は必要です)。

ここではこの本を通じて私なりに問いなおすことができた概念である「共有」、「生政治」、「相異性」、「近代」、「知識人」、「自由と平等」についてまとめておきます。翻訳は非常に読みやすいものでしたが、以下の引用は私なりに翻訳しました。いつものように直訳を避け、できるだけ日本語としての読みやすさを優先しています。ですが翻訳の出来は、この翻訳書の方がはるかにいいです。この本にご興味をお持ちになった方は、ぜひこの翻訳書および原書を手にとってお読みください。なお、以下の引用ページ数は、原書のページ数です。



■共有 (the common)

この本の題名は、『コモンウェルス』で、原題のCommonwealthをカタカナにしたものですが、カタカナ語というのはどうもわかったようで分からないものです。私としては「共有する豊かさ」と翻訳したく思います。

「豊かさ」について最初に述べますと、"wealth"は「富」と訳されることが多いようですが、私にとっては、「富」という日本語にはどうも生活実感が伴いません。実際、この本の著者がこのことばで意味しているものは、空気や水、知識や言語や規約などです(後述)。これらがふんだんにある状態を、私は「富んでいる(=富がある)」よりも「豊かである」と表現する方が日本語として自然だと考えます。ですからここでは、マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめと同じように、"wealth"を「豊かさ」と訳すことにします。

もう一つの部分である "common"ですが、その名詞形である "the common"をこの本の翻訳者は「<共>」としています。しかしこの「<共>」という表記はいかにも人工的で、もっぱら書きことばの中でしか生命を保てないと私は考えます。「<共>」ということばを、私たちは話しことばでどのように発音すればいいのでしょう(< >を見ぶりで表現する?)。私は重要なことばは、話しことばでの討論でも容易に使えるようにするべきだと考えています。また、そもそもこの"the common"は、翻訳者も言うように、「共有のもの」「共同のもの」「共通のもの」などを意味するものです(下、297ページ)。ですから私は"the common"を「共有」と訳すことにしました。

著者は、"the common"を、互いに異なりながらも多様な形でつながっている人びと(=「マルチチュード」)の民主政体(民主主義)にとって不可欠なものとして、次のように説明しています。

A democracy of the multitude is imaginable and possible only because we all share and participate in the common. By "the common" we mean, first of all, the common wealth of the material world -- the air, the water, the fruits of the soil, and all nature's bounty -- which in classic European political texts is often claimed to be the inheritance of humanity as a whole, to be shared together. We consider the common also and more significantly those results of social production that are necessary for social interaction and further production, such as knowledges, languages, codes, information, affects, and so forth. This notion of the common does not position humanity separate from nature, as either its exploiter or its custodian, but focuses rather on the practices of interaction, care, and cohabitation in a common world, promoting the beneficial and limiting the detrimental forms of the common. In the era of globalization, issues of the maintenance, production, and distribution of the common in both these senses and in both ecological and socioeconomic frameworks become increasingly central. (viii)
拙訳です。

マルチチュードの民主政体を想像し実行可能だと考えることができるのも、ひとえに私たちが共有するものをもち、共有する営みに参加しているからである。「共有」ということばで私たちが意味しているのは、第一に、物質的な意味での世界で私たちが共有している豊かさ --空気・水・大地の実り・あらゆる自然からの恵み-- のことであり、ヨーロッパの古典的政治学文献は、これらをしばしば人類すべてにとっての恵みであり、共に分かち合うべきものとしている。さらに私たちは、共有のより重要な意味として、社会的に生み出されたものであり、社会的な相互作用とさらなる社会的な生産のために必要とされるものを加える。この共有の例としては、知識・言語・コード(規約)・情報・情感などがあげられる。共有をこのように考えると、人類を自然の搾取者だとか管理人だとかいったように、人類を自然と切り離されたものとしてはみなくなる。共有についてのこの考え方で私たちが注目するのは、共有する世界で私たちが作用し合い、配慮し合い、共に生きて、共有の長所を伸ばし短所を抑えている実践である。グローバリゼーションの時代において、これら二つの意味での共有を、生態学的意味でも社会経済的意味でも、維持し生産し分配することは、ますます中心的課題となっている。


このように共有の概念は、ますます多極化し複合性を高めもはや無極化しながらも、すべてが何らかの形でつながっている私たち(=「マルチチュード」)が民主主義を実践するために必要不可欠なものですが、共有の概念は経済学者や政治家に等閑視されていました。彼・彼女らは、世界は私有化するか公有化するかのどちらかしかないと考えているようだからです(そして新自由主義の流れで世界の私有化がますます進行していることは周知の通りです)。ですが、経済学者は「外部性」(あるいは外部経済)という形で、私たちが共有しているものを概念化していました。その経済学概念を転用していうなら、これまでは経済活動の外部にあるとみなされていたものを、いかに経済活動の内部において非常に大切なものとしてとらえるかという考え方の転換が必要です。

It seems that economists and politicians can only see the world as divided between private and public, either owned by capitalists or controlled by the state, as if the common did not exist. Economists do recognize the common, in fact, but cast it generally outside of properly economic relations, as "external economies" or simply "externalities." In order to understand biopolitical production, however, we need to invert this perspective and internalize the productive externalities, bringing the common to the center of economic life. The standpoint of the common reveals how, increasingly in the course of the present transition, the process of economic valorization becomes ever more internal to the structures of social life. (p. 280)
経済学者と政治家は、世界を、私有されるか公有されるか、つまり資本家により所有されるか国家によって管理されるか、という目でしか見ていず、共有などあたかも存在しないように思っているようである。しかし経済学者は実際には共有を認識している。だが経済学者は共有を、厳密な意味での経済的関係の外におき、「外部経済」や単に「外部性」として認識しているにすぎない。生政治的な生産を理解するためには、私たちはこの視座を転換し、生産的な外部性を内部化し、共有を経済的営みの中心におかなければならない。共有の観点によって明らかになってくることは、移行期の現在において、経済的価値増殖過程がますます社会的営みの構造の内部に移っていることである。


しかしながら現状では、新自由主義の跋扈もあり、特に知的財産を中心に世界の私有化の流れが強くなっています。それではそれを公有化(国有化)すればいいのかといえば、それは独占的管理者を私人・私企業から官僚・国家に移行させるだけに終わりそうです。今必要なのは、私有化か公有化かという二項対立を超えて、人類で共有するべきものは何かと発想を変えることです。

現在、知的財産として特許化され私有化されている知識も、その大半の基盤は人類共通の財産である科学の知識から構成されているはずです。これまで、科学知識は私有でも公有(国有)でもなく、広く市民社会で共有されてきたからこそ、人類は科学をさらに発展させ技術を進展させてきました。もちろん、私有や国有を一切認めないといった教条的態度は非現実的であり破壊的であるとすらいえましょう。しかし私たちは、もっと共有を大切にする時期に来ているように思えます。

私たちは、私有と共有、国有と共有の違いを吟味し、「私有か国有か」という次元を超えた共有の発想をもっと具体化するべきでしょう。

The conflict of the common with private property is most often the focus of attention: patents and copyrights are the two mechanisms for making knowledge into private property that have played the most prominent roles in recent years. The relationship of the common to the public equally significant but often obscured. It is important to keep conceptually separate the common -- such as common knowledge and culture -- and the public, institutional arrangements that attempt to regulate access to it. It is thus tempting to think of the relationships among the private, the public, and the common as triangular, but that too easily gives the impression that the three could constitute a closed system with the common between the other two. Instead the common exists on a different plane from the private and the public, and is fundamentally autonomous from both. (p. 282)
共有と私有財産の対立はもっとも注目されている。特許と著作権は、近年もっとも顕著な役割を果たしてきた、知識を私有財産に変える仕組みである。共有と公有の関係も同じように重要なのだが、この関係はしばしば曖昧にされてきた。分かち合っている知識や文化といった共有と、共有へのアクセスを規制しようとする公的・制度的な取り決めを、概念上は区別しておくことが重要である。そうなると、私有と公有と共有の関係を三角の形で考えたくなるかもしれない。だがこの三角形の考え方では、私有と公有と共有が閉鎖系を構成しているような印象が生じてしまう。そうではなく、共有は、私有と公有とは別の次元で、それらから基本的に自律して存在しているのである。


以上で説明されている私有・公有・共有の関係を直感的に図示したのが下の図です。




しかし、公有(国有)と共有の違いは、まだわかりにくいかもしれません。ですが、インターネットの世界を考えるとこの違いがわかりやすくなります。インターネットを可能にしさらに発展させているさまざまな知識は、公有(国有)されると技術革新が停滞するので私有化されなければならないと、これまでしばしば考えられてきました。ですが、知識をある企業が私有化しても技術革新は停滞します。技術革新は、公有(国有)でも私有でもなく、広く市民で共有される時にもっとも起こります(古典的な例としてリナックス、近年の例として初音ミクを考えてもらってもいいかと思います。関連記事:『ウィキノミクス』『クラウドソーシング』『フリー』『コモンズ』『Free Culture』『CODE VERSION 2.0』)。

In the realm of the information economy and knowledge production it is quite clear that freedom of the common is essential for production. As Internet and software practitioners and scholars often point out, access to the common in the network environment -- common knowledge, common codes, common communications circuits -- is essential for creativity and growth. The privatization of knowledge and code through intellectual property rights, they argue, thwarts production and innovation by destroying the freedom of the common. It is important to see that from the standpoint of the common, the standard narrative of economic freedom is completely inverted. According to that narrative, private property is the locus of freedom (as well as efficiency, discipline, and innovation) that stands against public control. Now instead the common is the locus of freedom and innovation -- free access, free use, free expression, free interaction -- that stands against private control, that is, the control exerted by private property, its legal structures, and its market forces. Freedom in this context can only be freedom of the common. (p. 282)
情報経済と知識生産の領域においては、共有の自由が生産のためには不可欠であるということは明白である。インターネットとソフトウェアの専門家や研究者がしばしば指摘するように、ネットワーク環境での共有 ーー知識・コード・コミュニケーション回路の共有-- にアクセスできることは、創造と成長のために不可欠である。知的所有権により知識とコードを私有化すれば、共有の自由が損なわれ、生産とイノベーションが阻害されると、専門家と研究者は主張している。共有の観点からすれば、経済的自由に関する通説はまったく転倒している。その通説によれば、私有財産こそが自由(そして効率、規律、イノベーション)の核であり、それは公的な管理と敵対していることになる。しかし実は、共有こそが自由とイノベーションの核である。アクセス・使用・表現・相互作用の自由が敵対しているのは、私的な規制、つまりは私有財産および私有財産を強化するための法律体系・市場の力である。この背景での自由とは、共有の自由でしかありえない。


今や、共有は、私有か公有(国有)の外部にあるわけのわからない領域として考えられるのではなく、私たちの活力を生み出す中心にあるとみなされるべきでしょう。これはNHKのニッポンのジレンマでも非常に印象的な宇野常寛さんが、PLANETS vol.8で述べる、これまで「夜の世界」としかみなされていなかった自由な領域こそに私たちは日本の再生を期待できるのであり、制度化され停滞してしまった日本の「昼の世界」にはもはやほとんど期待できないといった主張と重なるのかもしれません。







ともあれ、発想の大転換が必要であるように思えます。

In the age of biopolitical production, the common, which previously was cast as external, is becoming completely "internalized." The common, in other words, in both its natural and artificial forms, is becoming the central and essential element in all sectors of economic production. Rather than seeing the common in the form of externalities as "missing markets" or "market failures," then, we should instead see private property in terms of the "missing common" and "common failures." (p. 283)
生政治的生産の時代においては、かつては外部に追いやられていた共有が、いまやまったく「内部化」されようとしている。言い換えるなら、共有は、それが自然の共有であれ人工物の共有であれ、経済的生産のすべての部門において中心的で必須の要素となりつつあると言える。共有を「失われた市場」や「市場の失敗」といった外部性の点でとらえるのではなく、私たちは私有財産の方こそを「失われた共有」や「共有の失敗」としてとらえるべきである。






■生政治 (biopolitics)

上の引用で何度か「生政治」 (biopolitics)という用語が出てきましたが、これには若干の説明が必要でしょう。

「生政治」 (biopolitics)という用語を、著者はフーコーの「生権力」(biopower)との関連で定義しています。著者によれば、フーコーの「生権力」(biopower)という用語には二つの意味が込められていました。



He [=Foucault] devotes most of his attention to disciplinary regimes, architectures of power, and the application of power through distributed and capillary networks, a power that does not so much repress as produce subjects. Throughout these books [= Discipline and Punish and the first volume of The History of Sexuality], however, sometimes in what seem like asides or marginal notes, Foucault also constantly theorizes an other to power (or even an other power), for which he seems unable to find an adequate name. ... In our view, the other to power that runs through these books is best defined as an alternative production of subjectivity, which not only resists power but also seeks autonomy from it. (p. 56)
フーコーがもっぱら関心を向けていたのは、規律を作り出す体制、権力の構造であり、はりめぐらされた毛細血管状のネットワークを通じて権力を適用することであった。そこでの権力とは、国民(臣民的主体)を抑圧するのではなく生産するものであった。しかしフーコーは、これらの本[=『監獄の誕生―監視と処罰』『知への意志 (性の歴史)』のいたるところで、時には余談や脚注のような形で、「権力にとっての他者」(もしくは、「別の権力」とさえ言えるもの)を常に理論化しようとしていた。だが彼はそれに対して適切な名前を見出すことができなかった。 (中略) 私たちの考えでは、これらの本に見え隠れしている、この「権力にとっての他者」は、主体性の新たな創出として定義するのがもっとも適切である。この主体性の創出は権力に抵抗するだけでなく、権力からの自律を目指している。


フーコーのこの二つの概念を両方ともに「権力」と呼ぶことにすると、一つは、国民(臣民的主体)を生産する規律的な権力であり、もう一つは、規律的権力に抵抗しそこから自律しようとする新たに主体性を創出する権力となります。著者は、規律的な権力を「生権力」と呼び、新たな主体性創出の権力を「生政治」と呼んで両者を区別することを提案します。別の言い方をすれば、「生権力」に抵抗し主体性を創出することが「生政治」だと著者は提言します。

The perspective of resistance makes clear the difference between these two powers: the biopower against which we struggle is not comparable in its nature or form to the power of life by which we defend and seek our freedom. To mark this difference between the two "powers of life," we adopt a terminological distinction, suggested by Foucault's writings but not used consistently by him, between biopower and biopolitics, whereby the former could be defined (rather crudely) as the power over life and the latter as the power of life to resist and determine an alternative production of subjectivity. (p. 57)
抵抗という観点から、この二種類の権力の違いが明確になる。生権力とは、私たちが抵抗しているものであり、その性質からいっても形態からいっても、この生権力を、私たちが自由を守り追求するために用いる生の権力と同じものとするわけにはいかない。この二つの「生の権力」を区別するために、私たちはフーコーの作品で見られる用語法に準拠し、生権力と生政治の間の用語的区別を採択することにする。生権力の(やや粗い)定義は、生に対する権力であり、生政治の定義は、抵抗し新たな主体性の創出を確固たるものにする生の権力である。


これまでの引用では、「生政治的な生産を理解するためには、これまで外部経済とされてきたものを、共有として内部化し、共有を経済的営みの中心にしなければならない」といった主張がなされてきましたが、上記の生政治の定義を受けて、この主張を言い換えるなら、「共有を中心とした生産は、主体性を新たに創出する形での生産である」となりましょうか。私有や公有(国有)が、生権力的に一人ひとりの人間を規律化する社会であったのに対抗して、共有は一人ひとりの人間に主体性を立ち上がらせながら生産活動をする社会を目指す、と言えるかもしれません。

このように生政治を定義すると、「生政治的理性」 (biopolitical reason) というのも明らかになってきます。生政治的理性を、著者は、(1)生への奉仕のための合理性、(2)生態学的に必要なことをなすための技術、(3)共有に奉仕するための豊かさの蓄積、に求めます。

We are now in the position to offer provisionally three characteristics that a biopolitical reason would have to fulfill: it would have to put rationality at the service of life; technique at the service of ecological needs, where by ecological we mean not simply the preservation of nature but the development and reproduction of "social" relations, as Viveiros de Castro says, between humans and nonhumans; and the accumulation of wealth at the service of the common. That makes it clear (to move now through the same three items in inverse order) that economic valorization is no longer possible except on the basis of the social appropriation of common goods; that the reproduction of the lifeworld and its physical environment is no longer possible except when technologies are directly controlled by the project of the common; and that rationality can no longer function except as an instrument of the common freedom of the multitude, as a mechanism for the institution of the common. (p. 125)
ここで私たちは、生政治的理性がもたなくてはならない三つの特徴を暫定的にでも提示することができる。生政治的理性は、第一に、合理性を生のために使わなければならない。第二に、技術を生態学的に必要なことのために使わなければならない(ここでいう生態学的とは、単に自然の保全だけでなく、ヴィヴェイロス・デ・カストロが言うように、人間と人間以外の存在との間の「社会的」関係を発展させ再生することも意味している)。第三に、豊かさの蓄積を共有のために使わなければならない。このことから明らかになることを(先ほどとは逆の順番で)述べるなら、第三点から言えることは、経済的価値増殖は、共有財を使用しない限り、もはや不可能であるということ、第二点から言えることは、生活世界とその物理的環境の再生は、共有の試みによって技術を直接に管理しない限り、もはや不可能であるということ、そして第一点から言えることは、合理性は、マルチチュードの共有の自由のための道具として、つまり共有の制度のメカニズムとしてでない限りは、もはや機能しないということである。


ここで改めて明らかになっていることは、共有とは単に経済学的な関係ではなく、政治学的な関係であり、共有の促進により科学技術も自然との関係も変革してゆくということです。





■相異性 (singularity)

さてここまでマルチチュードということばが何度も出てきましたが、マルチチュードは、しばしば「一人ひとりは異なった存在でありながらも、多種多様な形で他と結びつき合った、『多にして一、一にして多』の人びとの集まり」と説明されます。そういったマルチチュードの一人ひとりを表現するには、"identity" (アイデンティティ)よりも "singularity" (相異性)の方が適切であると著者は主張します。



With respect to identity, the concept of singularity is defined by three primary characteristics, all of which link it intrinsically with multiplicity. First of all, every singularity points toward and is defined by a multiplicity outside of itself. No singularity can exist or be conceived on its own, but instead both its existence and definition necessarily derive from its relations with the other singularities that constitute society. Second, every singularity points toward a mulitiplicity within itself. The innumerable divisions that cut through each singularity do not undermine but actually constitute its definition. Third, singularity is always engaged in a process of becoming different -- a temporal multiplicity. This characteristic really follows from the first two insofar as the relations with other singularities that constitute the social multiplicity and the internal composition of the multiplicity within each singularity are constantly in flux. (pp. 338-339)
アイデンティティと比較すると、相異性概念の定義は以下の三つの特徴をもち、そのどれもが多数性と関係している。第一に、あらゆる相異性は、自分以外の多数性を志向して定義されている。どんな相異性とて、自分自身だけで存在し概念化されることはない。相異性の存在と定義は、社会を構成している他の相異性との関係に由来している。第二に、あらゆる相異性は、自分自身の内の多数性をも志向している。個々の相異性には数え切れないほど多くの区分によって切り分けられているが、相異性はそれらの区分によって損なわれるどころか、それらによってこそ定義されている。第三に、相異性は常に、何か他のものに成る過程に関わっている。つまり、相異性とは時間的な多数性である。この第三の特徴は、第一の特徴であった社会的多数性を構成する他の相異性との関係、および第二の特徴であった個々の相異性内の多数性からなる内部構成が常に流動的ならば、自動的に生じるものである。


つまり、アイデンティティとの違いをやや強調してまとめると、相異性とは、他者との多数の違い、自己内で多数くの違い、時間経過による多数の違いの三つの違いを主な特徴とする個別性と言えるかと思います。これらの違いはどれも相対的なもので、これらの対的ななり具合が様々に変化しながら個別性が現れているのが "singularity" であると私は理解しましたので、あえて翻訳書の「特異性」という訳語を使わず、「相異性」と訳しました。マルチチュードを構成する一人ひとりの人間は、固定的な意味でのアイデンティティではなく、流転・変転する相異性によって規定されるべきかと思います。

もちろん最近の「アイデンティティ」論は、「自我同一性」という訳語を充てることが不適切に思えるぐらいに、「アイデンティティ」の複数性や変容性を語っていますので(例 B. Norton & C. McKinney (2011) An Identity Approach to Second Language Acquisition)、「アイデンティティ」(identity)の代わりに「相異性」(singularity)という用語を導入しなくてもいいのかもしれませんが、これまで「アイデンティティ」ということばに染み付いてしまった含意を払拭するためには、新語導入も許されるのかもしれません(もっとも、著者はこの語をドゥンス・スコトゥスからスピノザ、ニーチェそしてドゥルーズへといたる長い歴史をもつ語だとしています (p. 388))。





■これまでとは異なる近代性 (altermodernity)

「アイデンティティ」だけでなく、「ポスト近代」(postmodernity, postmodern)という用語もこの本では問い直されます。「ポスト近代」(翻訳書では「後近代」と訳されています)は、近代の行き詰まりを指摘した点では重要であっても、そこに終始してしまい、未来への展望が示されていないというわけです。

The term "postmodernity," however, is conceptually ambiguous since it is primarily a negative designation, focusing on what has ended. In fact many authors who affirm the concept of postmodernity can be linked to the tradition of "negative thought" and/or philosophies of Krisis. They focus on the destructive destiny of Enlightenment and the powerlessness of reason in the face of the new figures of power; but despite their strong protest and denunciation of the incapacity of reason to react to the crisis, they have no recognition of the capacities of existing subjectivities to resist this power and strive for liberation. (p. 114)
しかしながら、「ポスト近代」という用語は、主に否定的な表現であり、終わったもの [=近代] に焦点を当てているために、概念的に曖昧になってしまっている。実際のところ、ポスト近代の概念を推し進める論者の多くは、「否定の思考」の伝統か「危機 (Krisis)」の哲学の、どちらかあるいは両方に結びついている。これらの論者は、啓蒙の破壊的な宿命と新たな権力の形に対しての理性の無力さに対しては注目し、この危機に対して何の反応もできないという理性の無力さに対して激しく抗議し非難もするが、今ある主体性にはこの権力に対して抵抗し解放を目指す力があることにはまったく注目しない。


ハートとネグリは、「超近代性」(hypermodernity)にも批判的見解をいだいています。「近代」を完成させようとする「超近代性」の考え方では、私たちの営みが資本に包摂されてしまいそうになっている現在の資本主義的生産体制に対して抵抗できないとみるからです。

By "hypermodernity" we mean to group together all those concepts, such as second modernity and reflexive modernity articulated by authors such as Ulrich Beck and Jürgen Habermas, that propose in the contemporary world no break with the principles of modernity but rather a transformation of some of modernity's major institutions. These perspectives do recognize well many of the structural changes of the nation-state, the deployments and regulations of labor and capitalist production, the biopolitical organization of society, the nuclear family, and so forth, but none of this implies for them a break with modernity, and indeed they do not see that as a desirable outcome. Rather they envision modernizing modernity and perfecting it by applying its principles in a reflexive way to its own institutions. This hypermodernity, however, in our view, simply continues the hierarchies that are central to modernity, putting its faith in reform, not resistance, and thus does not challenge capitalist rule, even when recognizing the new forms of the "real subsumption" of society within capital. (p.113)
「超近代性」という用語で、私たちは、ウルリッヒ・ベックユルゲン・ハーバマスらによって提唱された第二の近代性や再帰的近代性などの概念を一括して意味している。これらの論は、現代社会は近代の諸原則と断絶しているわけではなく、近代の主要な制度のいくつかが変容しているだけだと説く。これらの立場は、国民国家、労働と資本主義的生産の広がりと規制、社会の生政治的組織化、核家族などの構造的変化をきちんと認めはしているものの、これらの変化が近代との断絶を意味しているとはみなさない。というよりこれらの変化を望ましい帰結だとはみなしていない。これらの論者は、近代性の原理を近代な制度に再帰的に適用して、近代性を近代化し近代化を完成させるという未来を構想している。しかしながら、私たちの見るところ、この超近代性は、近代性の中核にある階層構造そのものであり、抵抗ではなく改革を信じ、社会が資本の中に「実質的包摂」されるという新しい形態をたとえ語ることがあっても、資本主義的支配に対して挑もうとはしていない。






■知識人

「知識人」の概念も、現在の資本主義的生産体制に対して抵抗できるものと変容するべきだとハートとネグリは考えます。知識人は、論評だけしかしない傍観者でもなく、人びとを導く前衛でもなく、人びとと共に未来を切り拓くための具体的構想を提示者となります。

This passage from anti-to altermodernity illuminates some aspects of the contemporary role of the intellectual. First, although critique -- of normative structures, social hierarchies, exploitation, and so forth -- remains necessary, it is not a sufficient basis for intellectual activity. The intellectual must be able also to create new theoretical and social arrangements, translating the practices and desires of the struggles into norms and institutions, proposing new modes of social organization. The critical vocation, in other words, must be pushed forward to move continually from rupture with the past toward charting a new future. Second, there is no place for vanguards here or even intellectuals organic to the forces of progress in the Gramscian sense. The intellectual is and can only be a militant, engaged as a singularity among others, embarked on the project of co-research aimed at making the multitude. The intellectual is thus not "out in front" to determine the movements of history or "on the sidelines" to critique them but rather completely "inside." (p.118)
「反近代」から「これまでとは異なる近代」へのこの移行によって、知識人の現代的役割の諸側面が明らかになってくる。第一に、批判というものは、それが規範構造や社会階層構造や搾取などへの批判にせよ、相変わらず必要なものであるが、それだけで知識人の活動としてはもはや十分ではない。知識人は、新たな理論的・社会的編成を創造し、闘争の実践や欲望を規範や制度に転換し、どのように社会を組織化するかについて新たな様式を定期できなくてはならない。言い換えるなら、批判を天職とする者が、過去との断絶ばかりを強調する者から、新しい未来のための海図を描く者へと変わるように、人びとは努力しなければならない。第二に、もはや前衛のための場所はないし、グラムシ的な意味での進歩の力と結びついた知識人のための場所もない。知識人はもはや闘士であり、また闘士以外ではありえない。知識人はとりわけ自らの相異性をもって闘争に加わり、マルチチュードを創出するという共同研究のプロジェクトに加わるのだ。したがって知識人は、歴史の動きを決定する「前衛」ではないし、歴史の動きを論評するだけの「傍観者」でもない。知識人は完全に歴史の動きの中にいるのである。






■自由と平等

「近代」が問い直される以上、近代の理念である「自由」と「平等」も問い直されます。ハートとネグリは、「自由」をもっぱら個人が享受するものとは考えません。なぜなら、そのような単なる個人的自由は、共有につながらないからです。

The freedom necessary here is clearly not an individualist freedom because the common can only be produced socially, through communication and cooperation, by a multitude of singularities. ... An individual can never produce the common, no more than an individual can generate a new idea without relying on the foundation of common ideas and intellectual communication with others. Only a multitude can produce the common. (p. 303)
ここで必要とされる自由は、明らかに個人主義的自由ではない。なぜなら共有は社会的に、つまり、相異性のマルチチュードによるコミュニケーションと協力によってしか創り出されないからだ。(中略) 一人の人間が共有を創り出すことはできない。これは、一人の人間が、共有されている考えや他者との知的コミュニケーションなしに新たな考えを生み出すことができないとまったく同じことである。共有を創り出すことができるのはマルチチュードだけである。




「共有」のための自由、すなわち多種多様な人びとの間のコミュニケーションと協力の自由を得るためには、「政治的平等」が必要です。「政治的平等」とは、ハンナ・アレントも言うように、人びとの違いを無視することではなく、違う者が政治という社会を創りあげるための権力決定においては同じ権利をもつべきだということです。「政治的平等」とは、(それが何を意味するものであれ)「経済的平等」とは異なります。(アレントは、政治的な意味での平等を"gleich/equal"、経済的な意味での平等を"gleichartig/same"と呼び区別しました)。

Equality, it is worth repeating, does not imply sameness, homogeneity, or unity; on the contrary. Production is also restricted when differences configure hierarchies and, for instance, only "experts" speak and others listen. In the biopolitical domain the production of the common is more efficient the more people participate freely, with their different talents and abilities, in the productive network. Participation, furthermore, is a kind of pedagogy that expands productive forces since all those included become through their participation more capable. (p. 304)
何度も言っておく必要があるが、平等とは同一性や均質性や統一性を含意するものではない。まったく逆である。差異により階層構造が創りだされて、例えば「専門家」だけが発言し他の者は聞くだけとなったならば、創出は制限されてしまう。生政治の領域では、多くの人々がさまざまな才能や能力を持ち寄り、創出のためのネットワークに自由に参加すればするほど、共有の創出がより効率的になる。さらに言うなら、参加とは、創出のための力を超えた一種の教育でもある。なぜなら参加することにより参加した人々はより能力を開花するからである。


単に個人的な意味での自由でなく、共有のための自由を促進し、相異性を否認する平等ではなく、相違性を活用する平等が、ハートとネグリが追求する自由と平等です。

私たちの身の回りを見回しても、国有も私有もされていない、共有 --さまざな人々が活用し大切に思っている共有財産-- が、私たちの暮らしを豊かにしていることに気づきます。ウェブはその好例でしょうが、ウェブも一部の者の情報発信から、Web2.0を経て、TwitterやFacebookなどのSNSへと進化し、私たちがより多様に情報を共有し活用できるようになっています。

もし社会のあり方が既に大きく変わっているとしたら、私たちの哲学も大きく変わる必要ああります。現代を生き抜くために、こういった本を読み続けたいと私は思っています。























2013年5月8日水曜日

三木谷浩史(2012)『たかが英語!』講談社



自民党教育再生本部が大学入試などをTOEFLにするべしとの提言を出しましたが、その背後には経済同友会の提言があると言われています(「大学入試にTOEFL」の黒幕は経済同友会(江利川研究室ブログ))。



実用的な英語力を問う大学入試の実現を
~初等・中等教育の英語教育改革との接続と国際標準化~

2012年度 教育改革による国際競争力強化PT
委員長 三木谷 浩史 (楽天 取締役会長兼社長)

http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2013/130422a.html



この記事では、日本英文学学会シンポジウム・「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのかの一環として、上記提言のプロジェクト・チーム委員長である三木谷浩史氏の著書である『たかが英語!』に見られる氏の考え方を私なりにまとめてみます。





■楽天の社内公用語英語化とは?

楽天が社内の公用語を英語にした過程については同書に詳しく述べられていますが、ここでは下記の特徴を取り上げます。


・社内での英語使用を昇進や降格と結びつける

三木谷氏が社内公用語英語化の方針をはじめて社員に明らかにしたのは2010年の年頭スピーチだったそうですが(1ページ)、その頃はその方針の実施に対して社員も半信半疑だったそうです。そんな社員の「尻に火がついた」のが4ヶ月後に明らかにされた、「2年以内に、役職ごとに設定されたスコアをクリアしなければ(中略)、昇進できないどころか降格する可能性」すらあることが正式に発表されてからのことだったそうです(2ページ)。楽天での英語使用(そしてそのための英語学習)は、まさに「生き残り」のためです。


・徹底した数値管理

楽天はこれまでも組織運営の方法論として、 Key Performance Indicators (KPI -重要業績評価指標)を取り入れてきたそうですが、社内での英語公用化においてもこのKPIを駆使し、進捗状況を徹底して「見える化」しました(52ページ)。KPIにはさまざまなものが使われましたが、その主なものはTOEICスコアです。


・競争原理の導入

三木谷氏が取ったTOEICのスコア・アップのための二大戦略の一つは競争原理の導入です。三木谷氏は進化論を引き合いに出し、次のように述べます。

他の種と競い合い、勝利した種が生き残る。それによって生物は進化してきたが、この生物界の掟は、企業にもあてはまる。社員同士の競い合いが企業を進化させるのだ。(58ページ)


しかしこういった適者生存・優勝劣敗の発想で強者の論理となりがちな発想は生物学的な進化論ではなく、生物学的進化論をヒントにつくられた社会観である「社会進化論」とみるべきです。生物学的な進化論は「適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称」であり、進化とは「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」ウィキペディア(汗w):進化論だと考えられているからです。生物の進化は価値観を伴った勝利や優等化いうより、価値感を伴わない単なる適応や変化と考えるべきでしょう。(そういえば映画『ウォール街』でもマイケル・ダグラス演ずる主人公のゲッコーが社会進化論をぶちまけていたなぁ。あのゲッコーのキャラクターは強烈だった。"If you need a friend, get a dog."なんてすごい台詞だった)。

しかし、三木谷氏が促進した「社員同士の競い合い」とは、社員単位の競い合いではなく、事業部単位の競い合いであることは覚えておくべきでしょう。「チームとして課題に取り組むとき、人は大きな力を発揮できる。そのことを僕はこれまで何度も経験してきたからだ。また、ゲーム性を持たせて楽しみながら英語化を進めるという意図もある」(58-59ページ)と三木谷氏は説明します。ただ、後日三木谷氏が知るように、社員(特に多忙なエンジニア)には不満と困惑があった(69ページ)わけですから、いくら「事業部単位の競い合い」とはいえ、最終的には圧力は個々人にもくることは確かでしょう。


・情報の共有

もう一つの戦略は、情報の共有(楽天での言い方なら「ヨコテン」(=横展開))です。TOEIC得点を劇的に上げた社員の成功例をヒアリングし整理した上で、社員間で共有したそうです (p. 60)。


・仕事としての英語学習 

三木谷氏は、最初は英語学習を社員の自主性にまかすべきだと考えていました。実際、自分で時間と機会を必死の努力で捻出した社員もいましたが、やはりそれは例外的な存在です。やがて三木谷氏は英語学習(というよりTOEIC対策)を「仕事の一部であることを示さねばならない」(78ページ)と考え、基準点を達成できなかった新人社員を英語学習に集中させたりもしました。Eラーニング教材なども導入しました。その他の手段も整備しました。

しかし、この英語学習はあくまでも「仕事」です。ですからビジネス的な分析手法を使い、TOEIC得点を上昇させるためのウィークポイントが語彙力であると結論づけます。そこで英語化プロジェクトチームが導入したのは「TOEIC最頻出英単語の暗記テスト」です(79ページ)。

私は上述の日本英文学会シンポの記事で、新自由主義的な発想(まあ「新自由主義」ということばを出さずとも、近代的競争の考え方と言ってもいいのかもしれませんが、それはさておき)の典型として、以下のような思考回路をあげました。

1 数値目標の設定

2 その目標への最短路の確定

3 その最短路での一斉競争

4 一元的な「勝ち組」と「負け組」の決定



この楽天の試みも、この思考回路で整理できます。

1 重要業績評価指標(KPI)をTOEICにする。

2 ウィークポイント対策として最頻出英単語の暗記テストを実施。

3 進捗状況を「見える化」して競わせる。

4 テストの成績順に席替えをし、基準点を満たしたものから職場に配置する。


ある時、ビジネスマン向けの英語トレーナーが、中学教師と初めて対談し、次のようにしみじみと語りました。「いやぁ、勉強になりました。中学校の先生というのは、ボトム [=もっともできない生徒] を伸ばそうとするんですね。ビジネスの現場ではボトムは切りますから、今日は発見でした」。楽天促進する英語学習法は、まさにビジネスの手法だと、教育サイドの私としては思わざるをえません。





■三木谷氏の英語観

本書のタイトルは「たかが英語!」ですが、三木谷氏は以下のような英語観を本書で表明しています。


・英語は単なるツール

今や「読み・書き・そろばん」は「読み・パソコン・英語」に置き換わっている。(110ページ)

ツールという意味では、英語とパソコンの間に、たいしてちがいはない。経営者が社員全員に「今後、業務にパソコンが必須なので、パソコンの操作を覚えてください」と通達するのと、「今後、業務に英語が必須なので、英語を使えるようにしましょう」と通達するのはまったく同じレベルの話なのだ。(131ページ)



もちろん、三木谷氏は他所で、日本語で「私は賛成しません」とは言いにくいが、英語では "I don't agree..."とは言いやすい(130ページ)などと述べており、英語をまったく「透明な」 [=人間の認識や行動を変えることがない] ツールとみなしているわけではありません。しかし、次の主張からしても、三木谷氏が英語をきわめて単純な仕事の手段とみなしていることは明らかでしょう。


・英語の会話のニュアンスは邪魔

三木谷氏は、外交交渉や恋愛といった目的のためには「非常に高度で複雑な言語能力が必要になるだろう」(34ページ)と述べた後、次のようにビジネス目的の英語について語ります。

しかし、ビジネスは別だ。会話の中の微妙なニュアンスは、むしろ邪魔になると僕は考えている。

企業対企業のハイレベルな交渉においては、外交交渉と同じように、曖昧さを残した交渉もあり得るため、高度な英語力を有するしかるべき人間があたることになるが、[楽天のように] 一つの企業の中で、曖昧さを残すようなコミュニケーションは必要がない。むしろ、あってはならない。 (34-35ページ)




・英語化を推進すると、「英語屋さん」が目立たなくなる

このように英語を徹底的にビジネスのための道具とみなし、英語化を進めてきた三木谷氏は、英語化プロジェクトを進めるうちにわかってきたこととして、「それまで英語が得意で目立っていた人も、周囲に埋もれて目立たなくなってしまう」(109ページ)ことをあげます。英語力が特殊能力でなくなってくるので、英語だけを売り物にしていたいわゆる「英語屋さん」の価値が急落するわけです。

英語コミュニケーション能力のおかげで、うわべをつくろってきた人は、英語ができる人ばかりの環境では、通用しなくなるだろう。うわべははがされ、仕事の実力によって評価されるようになる。(109-110ページ)


三木谷氏にとって、大切なのはあくまでもビジネスであり、英語ではないこと(英語は、パソコンと同じようなビジネスのための一手段にすぎないこと)がこの引用からもうかがえます。





■三木谷氏の英語学習・英語教育観

そんな三木谷氏は、英語学習や英語教育について以下のような考え方をしています。


・翻訳をするな

三木谷氏は、自身の留学前のリスニング学習経験も踏まえながら、「とにかく訳さない」こと、「耳に入ってくる英語を、キーボードでパソコンに入力するように、頭の中で英単語をただひたすら並べていく」ことが、英語を英語のまま理解できるようになるために必要であることを強調します(168ページ)。

実際、リスニング、いやそれだけでなく英語使用全般において、英語を英語のまま使用することの重要性は誰も否定できないでしょう。

しかし、英語を英語のまま使用することに加えて、英語を母国語に翻訳すること(およびその逆)も重要だと考える人もいます(私もその一人です)。そんな翻訳に対して三木谷氏は次のように言います。

翻訳文化の発達のおかげで、日本はこれまで世界中の知識を取り込んできた。しかし、翻訳には一定の時間がかかる。最先端の情報にいち早くアクセスできなければ、競争力を失ってしまう現在のビジネス環境では、翻訳による時間的ギャップは致命的だ。(169ページ)


ここでもあくまでも三木谷氏にとっての英語は、ビジネス、特に資本主義がほぼ地球上を覆い、かつ世界各地が高度な輸送力と瞬時の情報伝達力によって結び付けられたグローバルなビジネスにとってのものであることがわかります。三木谷氏の英語学習論や英語教育論は、あくまでもグローバルなビジネスのためのものであるといえましょう。


・受験英語をTOEFLに

大学をビジネス人材の供給所と考えているのか、三木谷氏は以下のように述べます。

しかしそれ [=大学の秋入学] よりも前にすべきことがある。大学受験英語の改革だ。受験英語をTOEFL、あるいはTOEFLそのものでないにせよ、それになるべく近い形の試験にすべきだ。(174ページ)


これが、経済同友会および自民党教育再生本部の主張につながっていると思われます。

・英語を話せない英語教師はクビに

三木谷氏は日本の英語教育について次のように語ります。

日本の英語教育の根本的な誤りとは何か。その一つは、英語教師が英語をしゃべれないことだ。

少なくとも中学校、高校の英語教師はすべて、外国人か、英語がペラペラの日本人と入れ替える必要がある。それだけで日本の英語教育は劇的に良くなる。

授業では、日本語は一切使わず、英語だけを使うべきだ。最初はぎこちないやりとりになるかもしれない。しかし、ジェスチャーを交えて、言いたい内容を伝えることはじゅうぶんできる。(165-166ページ)


ここでは三木谷氏が、「日本の英語教育」を語る際に、ほぼいわゆる「英会話」のことだけを話題にしているのが気になります。いわゆる英会話の技術は大切ですが、そこから例えばTOEFL受験に例示されるような学術的な文章を理解すること(ましてや産出すること)には大きな差があるからです。しかし、三木谷氏の力点はあくまでも「日本語モードから英語モードへ切り替える」(166ページ)のようです。

さらに念の為につけくわえておきますと、「外国人か、英語がペラペラの日本人と入れ替えるだけで日本の英語教育は劇的に良くなる」というのは、「楽天」的発言以上の誇張表現というべきでしょう。「外国人か、英語がペラペラの日本人」による授業で、失敗している例や表面はなんとかうまくいっているように見えるが、実は英会話力も学力もついていない例はたくさんあります。

しかし、次のことばは、やはり英語教育関係者はかみしめるべきでしょう。厳しいビジネス界で生き抜いている人からすれば当然の主張です。

英語の話せない英語教師には別の科目に移ってもらったほうがいいだろう。彼らを教育し直すのは時間と金のムダだ。

いや、本当は、英語の話せない教師は即刻クビにすべきなのだ。雇用保障があるから解雇は現実には難しいのだろうが、率直に言って、日本の将来を担う子供たちを任された英語教師が、英語をしゃべれなくてもクビにされないなんて、僕には納得できない。(167-168ページ)


ただ、現在の若い世代の英語教師で露骨に英語をしゃべれない者はほとんどいないはずです(少なくとも私の知る範囲では)。ただ「英語をしゃべれる」といっても、その質には大きな差があります。英語教師に求められることはただ単に「英語をしゃべる」ことでなく、「質の高い英語を使って、学習者の意欲を育み学びを支援する」ことでしょう。声のトーンから語りの間、表現の選択幅の広さから最適の表現を選べる鑑識眼など、もはや英語教師の英語は「質」が問われるべきです。仮に世間の焦点がまだ「英語教師が英語を話せるのか」であっても、英語教育関係者の焦点は、学びを育む教師としての英語の「質」であるべきです。





■三木谷氏の世界認識

このように楽天で社内公用語を英語にし、積極的に英語教育に発言する三木谷氏はもちろん英語ができることが現在の「私たち」に不可欠と考えているからです。

三木谷氏が本書第一章冒頭であげる数字はゴールドマン・サックス・グループ経済調査部の"More Than An Acronym (2007)から出たもので、そこでは日本のGDP比率が2006年で世界の約12%だったものの、2020年には8%、2035年には5%、2050年には3%に落ちるだろうという推計でした(15ページ)。

三木谷氏は2035年の推計である5%を取り上げ、「世界のマーケット規模の20分の1ということは、逆に考えれば、世界には日本の20倍の市場が存在することになる」(18ページ)と述べます。

楽天は、衰退していく日本の中で、それなりに強いプレーヤーとしての地位に甘んじるのか、それとも真のグローバル企業となるのか。それが、楽天に突きつけられた問いだった。(19ページ)


こういった思いから、日本の英語教育改革にまで言及をする三木谷氏ですが、その場合の「私たち」(あるいは他の主語)とは、あくまでも資本主義という成長(=資本の増加)を定められた世界の、しかも徹底的な拡大志向をもったグローバル企業の話であるように思えます。しかし永久に「成長」するという資本主義の前提が今問われているのも事実です。内田樹氏もしばしば言いますように、グローバル企業と国民国家の論理は異なります(例えば「朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿」を参照)。グローバル企業の論理はグローバル企業の論理であるにせよ、それが他の営みにも侵食していいのかについては問いなおす必要があります。

また、三木谷氏の「英語は不可欠」という認識には、楽天の主要業務であるインターネット・コンピュータサイエンスの領域では圧倒的に英語が強く、「コンピュータサイエンスの専門書が『英語以外』で読めるのは、恐らく日本だけ」(まつもとゆきひろ 『日経ビジネス』2010年9月13日号)という状況が、日本のIT技術にとって足かせとなりかねないという懸念もあるようです。(121ページ)





■三木谷氏の人生観

三木谷氏の人生観は、以下のような箇所に表現されています。

ハードルの高い目標が、社員の個々の潜在能力を最大限引き出す。できない言い訳を考えるのではなく、できる方策を考え、チャレンジすること。それによって人は高みに上ることができるのだ。生ぬるい目標を掲げていては、人も組織も育たない。(86ページ)



かくして三木谷氏は以下を「究極のゴール」とします。

グローバル化した楽天が世界で成功を収めること。日本人の意識が変わり、日本の英語教育が変わること。そうして日本人の競争力が上がり、日本が繁栄すること。

それが、僕の究極のゴールだ。 (183ページ)


大学入試などへのTOEFL導入に賛成するか反対するかも、この競争力と繁栄という「究極のゴール」に、まったく疑いをもたずに賛成するか、それともこれが耐久年数に近づいた価値観ではないのかと感じるかによって異なるのかもしれません。

教育が、グローバル企業を中心とした財界(そして財界の意向をくむ政界)によって左右されている以上、教育関係者はグローバルビジネスに携わる人びとの意見、そして、さらに重要なことですが、その意見に潜んでいる論理や前提を明らかに理解しておく必要があります。その理解なしに教育関係者がいくら反論しても、その反論は財界人の耳に届かないでしょう。そしてもしマスメディアも企業として財界人的な世界観に親和的で、一般市民の多くもそのマスメディアが提供する世界観に深く影響を受けているとすれば、そんな市民の耳にも届かないでしょう。