2008年10月31日金曜日

教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--

ここでは教育(education)と訓練(training)の違いを述べ、両者はつながっているものの、性格を異にするものであり、その違いを的確に認識しておくことが重要であることを述べます。とくに産業革命以降の資本主義が情報革命により競争激化した現在、産業や経済活動のメタファーがあまりに強くなり、私たちの認識を歪めているとも思える昨今、教育について考えることは非常に重要です。

Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Pressの第一章は、教育を考えるには非常に有益な章です。ここでのウィドウソンの議論を単純に整理すると、以下の二項対立的区別を理解し、それぞれの対立において両者共に重要であることが必要であるということになります。


ESP-- GPE
(English for Specific Purposes) -- (General Purpose English)

Objectives -- Aims
(within the period of the course) -- (after the period of the course)

Competence -- Capacity
(conventional, restricted) -- (creative, general)

Training -- Eduction
(trainer-trainee) -- (teacher-learner, not "teachee")


この本が出た当時、ESPが大流行で、GPEはやたらと批判されていました。しかしGPEの要素を全く欠いたESPはあり得ず、GPEも重要な概念であることを述べたのがウィドウソンのポイントかと思います。

上の図の左項では、すべてが対象を限定し、その限定した対象を目標として、その目標を一定期間内に達成するために徹底的に合理的に訓練をするといったのが共通した考えになっています。この「目標」をウィドウソンobjectiveと表現していますが、ニュアンスとしては(アレントが彼女の作品の英訳で使ったように)endの方がわかりやすいかと思います。左項では目標がendであり、endが達成されることが全てであり、達成されれば全てはendなのです。

しかしESPが想定する言語使用状況でも、全くの決まり文句だけでなく、言語使用者は、事前には予想されなかった状況で、創造的に言語を使用する必要が生じてきます。この時右項の考えが重要になってきます。

GPEでは「目標」(objective, end)ではなく「目的」(aim、しかしここでもアレントの英語のgoal, guideline, orientationといった表現の方がニュアンスを理解しやすいと思います)を目指します。「達成する」ことではなく、「目指す」わけです。といいますのも、この目指すものは、方向であって、限定された到達点でも対象でもないからです。「目的」はendではないのです。ですから目的は一定期間内での実現よりも、その教育期間が終わった後に学習者が適切な方向づけをもって育つことを目指します。これがウィドウソンの理解する教育です。

左項は訓練、右項は教育です。左項では訓練する者と訓練される者に対称的な関係が成立しています(trainer-trainee)。Traineeはtrainerがtrainしたものを習得するだけです。これに対して右項の教育では対称関係が成立していません。Teacher-teacheeという関係はありません。Teacherが教育するものは、learnerにおいてどのように開花するか、teacherは予測できません(これはベテラン教師が喜びの感情と共にしばしば証言することです)。教育の「結果」は、teacherにもlearnerにも予測できないのです。それが教育の素晴らしさです。教育の結果を完全に予測しようとすることこそは教育の本質を誤解していることなのでしょう。


ところが、現在は、近代の目標合理性(Zweckrationalität)(注1)の考えがあまりに強くなりすぎています。上の図で言えば左項の考え方です。この考え方は、産業の生産や経済の売り上げなどの管理に非常に適しているからです。近代の危険性の一つは、産業や経済ばかりを人間にとって重要だと考えてしまうことです。

ハーバマスは、例えば『イデオロギーとしての技術と科学』で、この目標合理性の考えが、伝統社会の批判を許さない体制正当化を考えを揺さぶるのに有効であったことを認めつつも、近代社会では資本主義的生産様式においてこの目標合理性が肥大化し、それが生産や経済の領域を超えて、学問・政治・教育・生活などにまで浸食していることを指摘します。さらに目標合理性は近代のイデオロギーとなり、これを疑うことを私たちに許さないようになりつつあるとも指摘します。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review.html#060222

アレントの言い方に倣うなら、人間の行動的生活(Vita Activa)は「労働」(die Arbeit, labor)、「制作(もしくは仕事)」(das Herstellen, work)(注2)、「活動」(das Handeln, action)から成り立っています。ここでアレントを説明していると長くなるので、ご興味のある方は、以下の拙文をお読み下さい。

「人間らしい生活」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html
「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418

ここでは拙文のポイントを非常に単純化して言いますと、生産物を作り出すという「制作(もしくは仕事)」が近代では肥大し、人間が人間らしくあるために、お互いを認め合い、お互いのために活力ある公共的な空間を創り上げる「活動」が抑圧されているということです。私は学校教育においても学習者に「制作(もしくは仕事)」に対応できるように訓練することの必要性は十二分に認めつつも、学校教育は「活動」する市民を育てる義務を忘れてはならないということを上の拙文では主張しています。


話を教育に戻します。学校での授業を「訓練」と「教育」の二分法で考えた場合、両方が必要です。最初に来るのは訓練でしょう。しかし学校の授業が訓練だけで終わってはならず、授業は教育の側面をだんだんと協調すべきです。

しかし現在は、妙に産業界に媚びを売るような人が教育の管理者となり、産業や経済の論理で教育を支配しようとしています。授業にも数々の数値目標をあてがい、その数値を管理することによって教育を良くできると信じて疑わないようです。

これは産業界や経済界の人々が教育界に提言しているだけでなく、教育界の中の人間までもが、そのような産業・経済的な思考で動くようになっています。教育界の一部の人々はそれを喜々として行ない出世をします。多くの人々はそれをしぶしぶ行ないます。そうしないと失職の怖れさえあるからです。そうして教育に対する情熱を失ってゆきます。考えることさえ放棄するようになります。そうでないととてもやってゆけないからです。

かくして教育者までもが考えることを止めます。その教育者に教えられる学習者も考えなくなることは十分に想像できることです。もしそうなるならこの国は、考えることを止めて、ひたすら生き残ろうとする人々、産業・経済的な目標合理主義だけで自らの人生だけでなく、他人の人生も、公共の社会も埋め尽くそうとする人々ばかりとなります。そのような国が、どのように怖ろしいものになるか--これは歴史が既に示していることでしょう。

イデオロギーは本当に怖い。ハーバマスも言うように、イデオロギーの怖さは、浸透してしまって、私たちがそれを自覚できなくなってしまうことです。それを当たり前のこととして疑わないどころか、疑う者を糾弾さえしてしまうことです。


こういった点で、今朝(2008/10/31)の毎日新聞に掲載されたノーベル賞関連談話は興味深いものでした。


自然科学研究は「問題」と「解答」から成り立つが、決定的に大切なことは、自らの問題設定能力である。(中略)
昨今の哲学無視、効率性重視の風土では、独自性ある課題の発掘は難しい。
近年の成果主義を機軸とする外形的な研究評価システムは、生産性の向上には役立っても、創造性と多様性を大きく損なう。周囲には競争を煽るよりも、寛容を望みたい。(野依良治 2001年ノーベル化学賞受賞者)


ノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、ぼくはゆがんでいると思う。それは、自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。だからぼくは日本に必要なのは、ノーベル賞受賞者そのものより、研究や業績を王立科学アカデミー並みの見識と主張をもって評価できる人や組織の育成じゃないかと思うのだ。(山形浩生 評論家)


「これらは『研究』の話だろう。『教育』の話ではない」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。しかし次世代の教師を育てる教育・研究機関にいる私としては--私が歪んだ見方をしているのでなければ--そういった機関までもが短期的で限定的な合理性ばかりに支配されいるような気がしてなりません。経営陣は産業・経済的な目標合理性による支配を管理の形で喜々として(あるいは汲々と)行ない、教師もそれを唯々諾々とし(あるいはせざるをえず)、学生もその支配と管理を当然のこととし、一部の学生はそういった支配と管理を善きこととして求めるようになっているような懸念を払拭することができません。そういった機関で育った若者が「優秀な教師」として社会に出ることに私は一抹の不安を感じざるを得ません(公正を期すために申しますと、学生さんの多くはまともな感性を持っています)。

教育を生産と混同することは止めましょう。なるほど授業にも訓練の要素があるのですから、目標合理性もその点では有効です。私もそういったことを認めるにはやぶさかではありませんし、むしろ自分自身も学生さんに勧めているぐらいです(旧ホームページの「教育」のページ)。しかし教育は訓練を超えるものです。教育を生産と等しいものと考えることは誤りです。生産の論理で教育を支配しようとすることは、教育を殺すことです。それは人間の創造性と多様性を否定することです。そんな社会は怖ろしい。

イデオロギーには別に「イデオロギー」というラベルがついて流通しているわけではありません。自ら考えること、つまりは哲学の文化が、現代日本ではこれまでになく必要なのではないでしょうか。



(注1)邦訳文献ではZweckは「目的」と訳されるのが慣例となっています。私も今まではその翻訳の慣例にしたがってZweck概念は「目的」と訳していましたが、日本語の通用法では、「目的」を抽象的・長期的概念として、「目標」を限定的・短期的概念として使い分けていることが多いので(例、「数値目標」)、私はこの文章でも、邦訳文献の慣例ではなく、日常的な日本語慣用に従って「目的」「目標」という言葉を使い分けています。

(注2)Das Herstellenは英訳のworkに引きずられてか、「仕事」と訳されることが多く、また私も「仕事」という訳語をこれまで使ってきましたが、アレントを読むにつれ、これは「制作」と訳した方がよいかと思い始めました(実際、「制作」という訳語を使う研究者も多くなっています)。






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人間らしい生活----英語学習と使用の喜び

以下は、以下の文章は、『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』のために私が書いて、没になった第二原稿です。先日第三没原稿も公開したので、毒食わば皿まで、で公開します。現在の私は、アレントの "das Herstellen / work"は「制作」と訳すべきだと思っていますが、この原稿を書いた当時は「仕事」と訳していました。下の文章はその「仕事」の訳語の語感を使って書いたものなので、ここでは修正をせずにそのまま公開します。

というわけで、『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』買ってね(笑)

******

人間らしい生活ってどんなものでしょう。この本の中嶋英語教育実践は、人間らしい生活とどうかかわっているのでしょう。ここではハンナ・アレントという哲学者が編み出した枠組みを踏まえて私なりに考えてみます。

世の中のほとんどの大人は働いています。「なぜ?」と尋ねられたら、一番正直な答えは「生き延びるために必要だから」ではないでしょうか。生き延びるためには食料が必要です。健康でいるためには、きちんと食事を作って後片付けをし、掃除・洗濯をしなければなりません。家族に小さな子どもや手足の不自由な方がいれば、その世話や介護も必要です。このように、人間が生き延びるために必要としている営みをアレントは<労働>(labor)と呼びました。

この<労働>にも、もちろん喜びはあります。一日汗をかいて働き終えた時の爽快感、食事の後片付けを終えた時の充実感、乱雑としていた部屋がきれいになった時の満足感、介護した人の笑顔に癒される充足感、こういった喜びは人間の生活にとって重要なものです。

でも、どうやら人間は<労働>だけでは満足できない存在みたいです。<労働>の特徴は、生き延びるための必要最小限の営みということで、その成果はすぐに消えてゆきます。<労働>とはある意味、自然との闘いです。自然は厳しいですから、人間は<労働>を繰り返さなければなりません。食料を収穫するためには毎日汗をかかなければなりません。手間隙かけて料理した食事はすぐに食べられてなくなります。きれいに片付けた部屋はすぐにまたちらかります。世話や介護に終わりはありません。生きてゆくために人間はこのように<労働>を延々と繰り返さなければなりません。人間が自然界に生まれてきて、死すべき運命を持つ生物である以上、人間にとって<労働>は不可欠のものです。私たちは<労働>を自分で行うか、誰か他人に行なってもらわないと生きてゆけません。でも、人間は何か成果を残したいのです。それが証拠に、少しでも生活に余裕ができたなら、人間の文化は、単なる生き残り以上の、自分たちの成果を残そうとします。それが人工物です。

たとえば家です。雨露をしのぐだけの居住空間なら、それはまだ<労働>の成果に過ぎず、人工物とは呼びがたいかもしれませんが、たいていの人は、そのような半自然状態の中に住むことには満足せず、家という人工物を作りあげたがります。生き延びるためだけのものではない工作物としての人工物です。人工物という言葉が先ほどから続いていますが、ここでの人工物とは、「財産」として残るために必要な耐久性を持ち、「財産」として他の人と交換する価値をもっている工作物・生産物のことです。人間の文化が人工物であふれていることからすると、こうした人工物を生産できることも人間にとって重要なことなのかもしれません。このように耐久性と交換価値を持つ人工物を作り出す営みをアレントは<仕事>(work)と呼びました。

自然との闘いである<労働>においては、人間は自然のペースに合わせて働かなくてはいけませんが、人工物を作り出す<仕事>において人間は自分のペースで<仕事>を始め、終えることができます。家を建てること、工芸品を作ること、商品を企画・制作・販売すること、などなどといった様々な<仕事>において、人間は自分の<仕事>の主人となれます。(もちろん、<仕事>とて、様々な締め切りにさらされていますが、それにしても自然に追われる<労働>と比較するなら、<仕事>における人間の自律性は高いものです)。

こうして人間は<労働>に加えて、<仕事>を行い、この地球上を様々な人工物で埋め尽くすにいたりました。物理的な工作物から、機能上の組織まで、世の中は人工物で一杯です。美しい地球の自然が素晴らしいことには異論はありませんが、一方で人間が作り出した人工物のおかげで、地球は人間にとってより快適な場所になったことは否定できません(もちろん<仕事>のやりすぎは環境破壊につながったりしますが、もう私たちは人工物無しの、<労働>だけの自然界には戻れないでしょう)。

この<仕事>は人間の思考法にも影響を与えました。<仕事>を行なうためには合理的に考え設計しなければなりません。<仕事>の目的である最終生産物とは何か。その目的を達成する手段には何があるか。その手段を採択するには何が必要か、などと人間は、合理的に計画することを学んできました。この合理性によって近代社会の生産性は飛躍的に高まりました。その高い生産性によって生産物は多く生み出され、それは「市場」と呼ばれる交換のための空間によって取引されます。その取引により、近代社会はますます多様に発展し、さらに発展を続けようとしているのです。<仕事>は近代の人間にとって欠くべからざる営みといえましょう。

さあ、それではこれで十分なのでしょうか。必要な<労働>を済ませ、<仕事>に従事していれば、それは人間らしい生活なのでしょうか。

一瞬、そのようにも思えます。家族と共に<労働>を行い、一人の人間としては<仕事>で生産物を生み出す。家族と共に生きることによって「私的領域」での憩いを得て、自分の作り出した生産物をお金と交換することによって市場という「公的領域」につながる。これはある意味、現代日本での標準的生活でもあるようにすら思えます。

でもアレントは、そのような生活は人間として十分な生活ではないと考えます。

古代ギリシャ・ローマでの人々の暮らしぶりから、アレントは、人間にとっては、家族以外の様々な人間と関わり合って、その関わり合いの中で、お互いがお互いを認め合うことが非常に重要だと考えたのです。アレントは、多種多様な人間がいるという多数性・複数性を「人間の条件」と考えました。彼女は、人間を、一人だけでは(あるいは家族といった限られた親密な関係の中だけでは)十分に人間的でありえない存在であると考えました。人間が人間らしい、人間的な生活を送るには、他の様々な人々との自由な連帯をもつ必要がある----様々な複数の人々の中で生きていることこそが人間なのだから----とアレントは考えました。

でもそんなに他人との関わりは重要なのでしょうか。アレントはそうだと言います。例えば、莫大な財産を持ち、<労働>も<仕事>もする必要がない人がいるとしましょうか。その人は、その理由だけで非人間的といえるでしょうか。ちょっとそれは言葉がきつすぎるのではないでしょうか。ではその人が、一人きりで部屋にこもっていたらどうでしょう。または家族の人としか話をせず、他の人々との関わりを一切絶ったらどうでしょう。それはちょっと非人間的とでも呼びたくなるような生活ではないでしょうか。ある人が、いくら他人が羨むような衣食住を得て、個室で自分の趣味を非常に洗練させていたとしても、もしその人が「引きこもり」の生活をしているとしたら、あなたはその人が十分に人間らしい生活をしていると考えますか?

あるいは<労働>や<仕事>に従事している人でも結構です。その人が<労働>や<仕事>に必要な限りでしか他人と関わらず、その他の事は一切の話題を他人と口にしないというならどうでしょう。もしそんな人が同僚なら、あなたは「どうしたの、あの人?」と不安になりませんでしょうか。もしそんな人があなたの家族なら「大丈夫?」と心配になりませんでしょうか。他人と共に生きることは人間的であるためには必要なことであるようです。

「そんなことをいったって、もう既に私たちは他人と共に生きているではないか。街では多くの人とすれ違っている」と反論する人もあるかもしれません。でもそれは大衆の中の孤独に過ぎません。「それなら<仕事>でのつながりはどうだ。<仕事>をする中で私は多くの人と関わっている」という反論もあるかもしれません。ですが<仕事>のつながりは、原則として、生産物の交換のためのつながりです。<仕事>の仲間は、原理的にいうなら、あなたという人格ではなく、生産物の製作者・販売者などとしての人間に興味を持っているのです。それが証拠に多くの人は定年退職と共に、職場のほとんどの人間関係を失ってしまいます。

それでは私たちは人間的には、どのように他人と関わるのでしょうか。それは<活動>(action)を通じてだ、とアレントは言います。彼女によれば、<活動>とは、人間が、他の人間との中で自分が「何者」("who")であるかを明らかにする営みです。もちろん人間は<労働>や<仕事>によってもその人らしさを表現できます。しかしその自己表現は、あくまでも<労働>や<仕事>の、間接的で限られた副産物でしかなく、営みの主目的ではありません。<活動>とは、他人の中での自己表現を主な目的とする営みです。

したがってこの<活動>には、語り(speech)が非常に重要です。自分が何者であるか、どのような人間であるか、という自己表現を行なうには、言語という人類が持つ素晴らしい思考媒体・表現手段を使うことが最適だからです。「自分のこだわりは何だろう。なぜそれにこだわるのだろう。このこだわりを理解してもらうためにはどうしたらいいのだろう」----こういった動機に基づく自己表現を、可能にしてくれるのは、多くの人間にとって言語です。言語による精妙で正確な語りこそは、その言語を共有する多くの人に、その表現者の理解を可能にしてくれます。語りによって、人間は自己表現という<活動>を行い、その<活動>を通じての理解で、人間は他人とつながるのです。

もちろん言語による語りは、<労働>でも<仕事>でも使われます。ただその場合の語りは、他の手段に容易に変わりうるものです。例えば身振りや矢印などの記号だけの方がはるかに効率的に<労働>がなされる場合はたくさんあるでしょう。コンピュータに定められた記号をインプットしてゆくことによって最も効率的になされる<仕事>もたくさんあるでしょう。しかし自己表現という<活動>に関しては、ほとんどの場合、語りを省くことができません。言葉によって自分自身と自分の行動を明らかにしなければ、私たちはおよそ原始的な自己表現----人間的というよりは動物的な自己表現----しかできないでしょう。

「ちょっと待って。自己表現は言語を使った語りでなくても、芸術作品制作でできるのでは?」という疑問を感じた人もいるかもしれません。確かに、天分に恵まれ訓練を重ねた芸術家は、言語ではなく、音楽や絵画によって複雑微妙な自己表現をできます。比喩にすぎませんが、芸術作品は(言葉なしで)「語る」ではないか、というわけです。でも、それは例外的な表現者と、例外的な鑑賞者の間での例外的な事例というべきです。そのような天才と玄人の間でなら、言語なしでの高度な表現-理解が可能かもしれません。

しかし、たいていの人間にとっては言語が必要です。絵や音楽に長けた人も、しばしば自分からその作品の解説を語ります。絵や音楽を鑑賞する人も、しばしば誰からも強いられないのに、作品の感想を語り合います。言語というのは、おそらく人間が持った最高の思考・伝達手段で、人間は言語を獲得し使用するように生まれてきた生物なのですから、語りのない人間の生活というのはどこか不完全なのです。たとえ言語を使わない芸術でも、人間は語りたがるのです。お互いがどのような人間であるかを表現し理解しあう<活動>には、言語による語りが不可欠です。

ちなみにアレントは芸術作品制作を<仕事>として考えています。作品は人工物であり、耐久性をもち、それはしばしば交換価値を持つからです。芸術作品制作は、芸術家が個室で行なう限り、<仕事>に過ぎません。芸術家は、自分がその作品製作の主人であるという喜びは味わうことができますが、それはまだその芸術家が人間的な喜びを完全に得ている状態ではありません。

芸術家は作品を他人に見せるでしょう。他人の感想を心待ちにするでしょう。感想には製作者としてのコメントを返し、語り合うことでしょう。芸術を鑑賞する方もそうです。一人で鑑賞してもそれなりに楽しいですが、その理解の喜びを誰かにわかってもらいたいと、だれか語りを聞いてくれる人を探すでしょう。この意味で面白いのは趣味です。趣味というのは元来、個人的なもので、一人だけで行なうものかもしれません。でも音楽鑑賞にせよ、何かの収集にせよ、個人の趣味も、それが高じると、私たちは仲間を探します。趣味が進むとサークルに入ったり、ホームページや掲示板で仲間を求めたりしますよね。おそらく他人と語り合うというのは、人間にとって欠かせない営みなのでしょう。芸術という<仕事>も、趣味という営みも、語り合うという<活動>が加わることで、より人間的な営みになるのです。

自己表現という<活動>は人間としての根源的な喜びの一つです。考えてみれば友達づきあいというのもそうではありませんか。友達とは自分をよく理解してくれる人です。また自分もその人をよく理解します。表現と理解によって相互に結ばれる絆こそが友達関係です。友達は、あなたと、<労働>や<仕事>で利してくれる存在としてのあなた(what you are)としてではなく、一人の人間としてのあなた(who you are)として付きあっているのです。

もちろん友達関係といっても色々な関係があります。一番浅い友達関係が、何かが同じという理由だけで結ばれている関係です。私たちは、出身地が同じ、趣味が同じ、職場が同じ、といった理由だけでもある程度は他人と仲良くなれます。ですがそのような関係はそれだけのものです。出身地や趣味以外のことはあまり語らないでしょう。職場が同じでなくなれば、自然と離れてゆくでしょう。ですが、本当の友達はそんなものではありません。出身地や趣味も違っていてかまいません。職場や住んでいる場所も違っていてもかまいません。たまに会うだけでもかまわないかもしれません。お互いの人格を、様々な語りと語りに伴う行動によって理解し合った友達は、たいていの浅い「友情」が死に絶えてしまうような条件でも続くのです。そのような友達を持つことは、私たちにとって説明しがたいような人生の喜びをもたらします。この根源的で人間的な喜びは、語りによる自己表現を通じて得ることができるのです。語りによる自己表現は、様々に「違う」条件にある他人ともあなたを結びつけうるのです。

もちろんそのように喜びが大きければ、危険性もあります。あなたの自己表現は、他人に受け入れられないかもしれません。笑われるかもしれません。馬鹿にされるかもしれません。家族や、「何かが同じ」という、浅いけれど安定した理由で結ばれた関係の中にとどまっていれば、そのような危険に遭うこともありません。自己表現をしなくともあなたは家族であり仲間であるからです。でも自己表現をしないということは、自分の可能性を探らないということです。自らの潜在的な可能性から顔をそむけ、限られた自分で満足してゆくということです。しかし人間とは多種多様な複数の存在です。あなたを理解しない人もいるなら、あなたを理解する人もいるでしょう。勇気を持って自己表現をするなら、人間は、他人に理解してもらうため、自らを深め、表現を豊かにしようと試みます。そういった自己表現の高まりこそが、個々人の人間的な成長を促し、私たちの住む社会全体の人間的な豊かさをもたらすのではないでしょうか。自己表現としての語りという<活動>は、人間らしい生活に必要な営みなのです。

*****

ここで中嶋英語教育実践の話をします。

中嶋実践の素晴らしいところは、英語学習を<活動>としているところだと思います。中嶋実践では、それぞれの生徒が、自分というものを深く見つめ直し、そのように発見した自分を、他の人にもわかってもらおうと、勇気を持って自己表現を行なっています。それを、中学三年間で学習した英語という言語を媒体にして行なっています。英語学習が自己表現という人間的な<活動>に昇華しているのです。

英語学習は、毎日の中で英語を使わなければならない人にとっては、<労働>とみなされています。企業人にしても「英語ができなければ生き残れない」と多くの人が肌で感じています。<労働>としての英語学習には、ひょっとしたら、それなりの楽しさや喜びはあるかもしれないけれど、実のところは必要悪とみなされているのかもしれません。企業人も、もしビジネスが日本語だけでできるのならそれに越したことはないと考えるでしょう。注文票に数字を記入するだけでビジネスが成立するのなら、そちらを選ぶでしょう。英語を使うことを<労働>としてしか考えないなら、英語を学ぶことなんてできれば無しですませたいというのが正直なところでしょう。

学校の生徒はそのあたりを直感的に感じているから、あまり英語学習に本気になれないのかもしれません。「英語なんか使わなければいいじゃん。それでも日本で暮らしていけるし」というわけです。それを聞いた、英語を使わなければならない大人は反論します。「私だってそう思っていたけど、金を稼ぐにはそう言っていられないんだ。英語を使わなくちゃいけないんだから、今勉強しときな」というわけです。

しかし学校の生徒とは、自己成長のために若い日々を費やすことを社会から期待された存在です。少なくとも日本では生徒は、社会制度的に<労働>を免除されています(この意味で、<労働>が免除されず、学校に行けない小さな子どもが多い社会は本当に不幸な社会だと思います)。ですから日本の生徒に、<労働>としての英語学習の必要性をいくら説いても、それはピンとこないものでしょう。だって生徒は現在、<労働>をしていないのですから。せいぜい一部の生徒が、英語を使うことが未来の自分の<労働>の一部となるだろうと考えて、英語を勉強しようかと思うぐらいでしょう。

それでは日本の学校ではどのように英語教育を行なっているのでしょうか。私がアレントの枠組みで考えますに、多くの教師は英語学習を生徒にとっての<仕事>としてしか認識していません。

多くの英語教育実践において、英語学習は、大学受験合格や資格試験の高得点といった「財産」を得るためのものとして捉えられています。大学受験合格や資格試験の高得点は、少なくとも当面は価値を失わない耐久性のあるものであり、それと引き替えに、高収入を得ることができる価値を持った財産であると信じられています。

また<仕事>の別の面でいいますと、英語学習は、多くの人にとって、合理的な計画に自らを従わせ、その結果、自分が自分の学習の主人になるための訓練としても捉えられています。そういった合理性こそは、より多くの財産の入手を可能にしてくれるのでしょうから、英語学習は合理的な人生設計の訓練として重要なものだと考えられています。

と、学校英語教育の話をしましたが、みなさんにとっての英語学習とはどんな営みでしょうか。<労働>でないとしたら、<仕事>ではありませんか?自分のキャリアアップのための「財産」として資格試験を目指して、英語学習をし、その学習のプロセスの中で自分をコントロールすることを学び、そこからの喜びを得ている----そういったところが皆さんにとっての英語学習ではありませんか?

あわてて言いますが、そんな認識が間違いだというのではありません。確かに英語力は「財産」となります。英語学習は合理的な人生設計のための訓練にもなります。英語学習を<仕事>と捉えることには、近代社会での意義があります。英語学習を<仕事>として確実に達成することはある意味必要だとさえいえるでしょう。これらのことを否定するのは大きな間違いです。私は何も英語使用を<労働>としている人や、英語学習を<仕事>と考えている人を非難しようというのではありません。

私が言いたいのは、英語の使用と学習には別の喜びもありますよ、ということです。

英語学習は<労働>や<仕事>でしかありえないのでしょうか。英語という言語を学ぶことの意義は、生き残りと経済競争に有利になることだけでしょうか。多くの人は、その通り、と疑問を感じません。多くの英語教師もこれらの問いに、口ごもってしまうだけです。

じゃあ、学校は<労働>と<仕事>のためだけに英語学習をみんなに強いているのでしょうか。人間は生きて、お金を稼がなければならないのだから、それもある程度は正当化できるのかもしれません。でも、そもそも学校とは子どもに人間らしい生活を教えるところではないのでしょうか。英語学習もどこかで人間らしい生活に結びついているべきではないのでしょうか。それが学校であり、教育であり、学習ではないのでしょうか。

このような状況の中、中嶋実践は、英語学習が<活動>でもあることを示しました。その結実がこの本で示した生徒の英語自己表現です。この表現は、皆さんに見せるための作品となっていますから、アレント流に言うなら、<仕事>の成果です。でもこの<仕事>には、多くの語りつまり<活動>が伴っています。

生徒の英詩は一日でできたのではありません。中嶋先生は、生徒に語りかけ、生徒一人一人が自分を深く見つめることを促します。生徒もぽつぽつと、語り始めます。自分を見つけ始めるのです。そして中嶋先生と生徒は語り合います。そうしていくうちに、生徒は語りを英語表現に結晶化してゆくのです。こうした日本語に始まり、英語に結実する語りは、人間的な楽しみであり喜びです。

こうして英語文集ができあがりました。生徒は自分の詩がどのように受け入れられるだろうとわくわくします。詩を読まれることも喜びなら、詩を読むことも喜びです。詩を読む友達は実際、詩に託されたその人らしさを感じ取り、感想を言い合います(後年の英語文集には、友達のコメントも掲載されていました)。こうしてクラスは、人間的な空間へと変容してゆきます。お互いが、成績といった「交換価値」によって判断されるのではなく、人格によって理解される、語り合いの場、<活動>の空間になるのです。

いや小難しい理屈で説明する必要もないのかもしれません。出町中学校のある男子生徒は、英語卒業文集についてこう言いました。


「思わずグレート!と叫びたくなる本だ。みんなの魂がこもっている。自分もその中に入っていると思うと、なんだか泣けてくる。うれしいやら何やらでもうぐちゃぐちゃだ。この本は僕がじじいになっても、くたばって骨だけになっていても、ずっと側に置いておこうと思う。そうすればいつでも出中の3年生に戻れるし、共に卒業したみんなに会える!辛くなったり、苦しくなったりしたら、この本を読もうと思う。みんなの思いに励ましてもらおう」


こんな言葉が生徒から聞けるだけでも素晴らしいと思いませんか。

もちろんこのように、英語表現を楽しみにするは、準備が必要です。その一つは英語理解を楽しむことです。中嶋先生は生徒に英語の歌をたくさん教えます。英語の歌を理解し、歌うことで、生徒は英語によって表現された世界、ひいては表現者の人格を理解する喜びを知ります。歌というのは聞いているだけで楽しいものですが、歌詞を理解し、それを表現者と同じように、心を込めて歌うこと、つまりはメロディーをつけて語ることはもっと楽しいことです。中嶋実践にはこのような側面もあるのです。

もう一つの準備は、英語の徹底的な訓練です。機械的といってもいいですし、<仕事>的な英語学習といってもいいかもしれません。中嶋先生は音読やシャドウイング(英語の音だけ聞いて、それをその場で再生すること)などの、再生練習(reproduction)も徹底してやっています。自由な自己表現というproductionを行なうにはreproductionの練習も必要なのです。

「それにしてもこのような実践は国語教育でやるべきであり、英語教育でやる必要はないのでは?」という声もあるかもしれません。もちろん、このような実践は国語教育でもやれるでしょう。でも国語教育の実践ではやりえないことを、英語教育での実践はやりえていると私は考えます。それは英語が外国語であり、第二言語であるからです。

外国語というのは馴れない言葉ということです。英語は外国語ですから、生徒にとって遠い言葉です。でもそのように遠い言葉を使うことによって、逆に表現しやすくなることってありますよね。例えばI love you.あるいはI'm proud of you. 日本語ではなかなか表現できない。せいぜい「好きだよ」ぐらいでしょうか。このような肯定的・積極的な表現は、日本語使用ではどこか照れくさくてやりにくいですよね。でも新しく習い覚えた外国語なら、逆にストレートに表現できる。日本語なら恥ずかしくてなかなか言えないことが、英語なら素直に言える----これは英語教育実践ならではのことではないでしょうか。

さらにいうなら英語は第二言語でもあります。ここでの第二言語という言い方は、人間が母語(第一言語)に次いで、二番目に学ぶ言語ということを強調したいから使っているものです。人間は第一言語をすらすらと習得できる能力をもっていますが、人間の脳は、第一言語に限らず、その他に、地球上のどんな言語でも学べるようにできています。もちろん、思春期からは、幼い時期(「臨界期」や「敏感期」と呼ばれます)ほどには簡単に言語獲得はできませんが、それでもできるということが、人間の素晴らしい潜在能力です。中嶋実践は、中学生が第二言語でも自己表現という<語り>を実現できるということを示している点でも素晴らしいと思います。

「地球上のどんな言語でもいいなら、別に英語でなくてもいいのでは?」という声も聞こえてきそうです。それはその通り。私たちの外国語・第二言語教育は、お隣の韓国語でもかまいませんし、最近ますます存在感を増している中国語でもかまいません。しかし私たちは、様々な歴史的・政治的・経済的理由から、国際的に最も普及していると考えられる英語を主な外国語・第二言語教育の言語として選びました。その選択の理由を批判的に考察することは重要ですし、英語の選択が完璧に正当化されるなどとは私も決して思いませんが、英語を選択するのは、現状ではそれほどおかしな選択ではないと思います。

英語を選び、英語を教えることによって、中嶋先生は生徒に、世界で最も通じやすい言語で自己表現をする能力を身につけさせました。皆さんも最初に英語が通じた時の喜びを覚えていると思います。英語で自分がどんな人間であるかを示し、英語で結ばれる世界に自分も加わることができる。英語を通じて、お互いが人間として理解しあい、尊重しあう。これって素晴らしいことではないでしょうか。英語を使ってビジネスができることも貴重なことです。でも英語を使って人間が人間としてつながることができる----これも素晴らしいことではありませんか。

<労働>と<仕事>の発想にますます支配され、人間が人間らしく生きるために不可欠な<活動>の喜びを忘れつつあるようにも思える現代日本において中嶋英語教育実践の持つ意義は大きいと思います。

******
というわけで

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2008年10月30日木曜日

詩は、実は金儲けにもつながるかもしんないという、俗耳受けを狙った私の企み

以下の文章は、『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』のために私が書いて、結局は没になった第三原稿です。本日、英語教育における文学の重要性についてゼミで話していたら、ふとこの原稿のことを思い出しました。ハードディスクの隅に置いたままにしておくとこの原稿も成仏してくれそうもないので、ここに掲載します。ナンマイダ。


******


詩を書く、ましてや英語で詩を書くなどというと、およそ役に立たないことのように思われている。それよりも「論理的な文章を書くべきだ」、「英語はビジネスのためにこそ必要」というのが世間の意見というものだろう。

なるほど。でも事はそんなに単純なのだろうか。

私はそうは思わない。人間の知性、そして言語というものは奥が深いからだ。

で、その奥の深さをこれから語ってゆこうと思う。だが退屈な話はしない。だからとても挑発的な形で結論を先に言ってしまおう(やたらと情報ばかりが行き交って、深い話ができない現代においては、話をするためにもいろいろな策略が必要なのだ)。

言い切ってしまうとこうなる。

詩がわからない奴はバカだ。そして、バカには金儲けはできない。

と、ここで話が終わってしまってはインターネットの2ちゃんねると大差なくなる。だから説明しよう。とりあえず「詩がわからない奴」から始める。

詩がわからない奴をイメージするために、そういった奴を「正確で論理的な文章しかわからない奴」と言い換えてみよう。だって詩なんて、およそ非論理的で曖昧な文章の代名詞みたいに考えられているからね(もちろん、それはけっこう正しい認識なんだけど)。「正確で論理的な文章しかわからない奴」って表現は長いから、ここから彼のことは(彼女でもいいんだけど)正くんと呼ぶことにしよう。

正くんは、実はとっても学校の成績はよかったりする。なんせ正くんは言われたことはすぐにやっちゃうから。でも正くんの弱点は、何から何まできちんと言われないと、行動に移すことができないということだ。そう、つまり「正確で論理的な文章」じゃないと受け付けないんだ。

だからいい加減な学校の先生が説明を「・・・と、まあこんな感じだね」と締めくくろうなら大変だ。正くんはくってかかる。「こんな感じとは、どんな感じですか。正確に言ってくれなければわかりません。ノートも取れません。覚えられません。そんないい加減な授業なんてしないでください」などともう大変だったりする。そこで先生は恐縮し、「こんな感じ」ということを、家に帰って大学卒業以来開くこともなかった学術書やら資料をひっぱりだして書き連ねてくる(ときには元指導教官に泣きついたりもする)。そうやって先生は「こんな感じ」に関するとびきり正確で論理的な文章を次の授業でプリントにしたりして渡すわけだ。

正くんは、まあとりあえずそのプリントで落ち着いたりするんだけど、当然クラスはしらけている。先生もうかつに物が言えないと萎縮したりしてしまう。あんまりハッピーな状況ではないんだけど、正くんの成績は抜群によかったりするもんだから、みんな何も言えないでいる。んでもって正くんはそのことに気づかないでいたりする。(なんせ彼は正しくて論理的なんだ!)

まあ当然、正くんは詩なんて嫌いだ。というより詩を読んだり書いたりすることを軽蔑したりしている。詩なんて頭の悪い奴が書くでたらめな文章ってわけだ。それどころか、正くんは小説も嫌いだ。ある時、現代国語の宿題である長編小説を読まされた正くんは、先生に「結局はこの小説は何を言いたいのですか!」と先生にくってかかった。かわいそうな新任のその先生は「いや、その、なんというか、・・・」とうろたえる。「結局テーマは『人生における愛の重要性』ですか。だったらそうと先に言ってください!『人間には愛が大切』と最初のページに書いておけば、この本は終わりじゃないですか。小説なんて紙の無駄です。私も小説なんて読んで数日を損しました!」とにべもない。

それなのに正くんにあこがれる女の子が出てきたりする。恋ってまったく不思議だ。んでもって正くんと彼女はデートしたりするんだけど、当然のことながらデートは楽しくない。正くんは遠目でみているにはよかったんだけど、なんせ会話がはずまないからね。だから彼女も次のデートの約束ははぐらかしてしまう。でも恋の魔法で、その女の子はなぜか正くんへの気持ちは断ち切れない。

でもそんな曖昧な状況が続くと正くんはおさまらない。「どういうことなのさ」と正くんは問い質す。「つきあうのかつきあわないのか、はっきりしろよ」。電話口で彼女は絞り出すように言う「そんなこといっても、わかんない」。

実はこのとき彼女はちょっと涙ぐんでいた。「そんなこといっても」の後には、一瞬のためらいがあった。「わかんない」の声には哀しみがこもっていた。彼女のことばの後には秒数に換算できない沈黙の長さがあった。

でもそれは正くんにはわからなかった。彼は彼女の言葉を聞くやいなや、すぐに明朝体の活字に変換していたに違いない。彼には言葉がどう語られるかなんて関心がない。何が言われたかだけが問題だ。正くんはその活字を文法解析した。そして出した結論。彼女の言ったことは曖昧すぎる。愚かだ。自分の気持ちがわからないなんて非論理的すぎる(「自分のことがわからない自分」なんて正くんには形容矛盾のようにしか思えない)。

かくして正くんの生涯一度の女の子とのつきあいは短く終わった。正くんはその後、勉強によりいっそう専念し、最高に偏差値が高い大学を優秀な成績で卒業し、最高に世評が高い会社に入社した。

さて、ここで問題。正くんはこの後どんな人生を送るのだろう。

幸せな結婚生活を送れるだろうかというのは、簡単すぎて面白くもなんともない。おそらく正くんは一生独身だろうし、結婚するとしてもせいぜい政略結婚で、あとは氷のように冷たい家庭内別居が待っているだけだろう。

考えてほしいのは、正くんが仕事で成功するだろうか、ということだ。

同僚や取引先とのコミュニケーションがうまくゆかないだろうというのは想像に難くない。だからそういうことも除外していい。彼はほぼ一人で仕事をするとしよう。彼は会社に、いや社会に必要とされるだろうか。金儲けができる人間となるだろうか。

むずかしいというのが僕の考えだ。

なぜって、それは簡単。彼の能力はすぐにお払い箱にされるからだ。彼のライバルはあまりにも多数で強力で、さらにもって毎年毎年増えるし力量を上げてくるからだ。

彼のライバルはコンピュータ。

「正確で論理的な事柄」の処理速度なら人間はコンピュータに勝てない。正くんの「正確で論理的な指示」を受けて行う仕事は、どんどん進歩するコンピュータに取って代わられた。

というより「正確で論理的な指示」に従うことなら、訓練されればどんな人間にだってできる。もちろん正くんの仕事の速さはたいていの人間より速いが、正くんはあまりに高給取りすぎる(安い労働力ならいくらでもいるというのがグローバリゼーションの現実なのだ)。正くんの存在価値は、コンピュータあるいは安価な労働力によって否定された。

ペーパーテストの成績とか言う意味ではなくて、本当に優れた知性というのは、つまり真に社会が求めている知性というのは、----さらには詩なんて役に立たないと思っている人を挑発するために言うと----、金儲けができる知性というのは、正くんのような知性ではない。曖昧な状況の中で出された、必ずしも正確でも論理的でもない言葉の中ででも、柔軟かつ適切に行動できるような知性こそが求められているのだ。

もちろん、そのような指示をより正確かつ論理的にすること、つまりは行動のマニュアルを作ることも次に求められる大切な仕事の一つなのだが、残念ながら現代社会はマニュアルで対応できるほど単純ではない。またマニュアルを作った頃には、その状況は終わっていたりもする。第一級の人材に求めてられているのは、曖昧な言葉を適切に理解できることだ、としてここでは話を進めよう。本当はこのあたり、いくらでも語りたいんだけどね。

このような曖昧な言葉の理解とはどういうことかを考えるためには、さきほどと同じように、逆の例を考えてみよう。曖昧でない言葉とは、もちろん正確で論理的な文章。そんな文章の例としてはマニュアルが考えられる。

マニュアルとは、誰でもその文章を読んだら、あることができるようになるようになっている文章だ。それは言語学的に言ったら、「文字通りの意味」(literal meaning)の理解だけで、行動に移せる文章と説明することができるだろう。

「文字通りの意味」の理解とは、辞書と文法書があれば可能な理解のことだ。英語の直訳を考えてもらえばわかる。わけのわかんない英文の単語一つ一つに、辞書に出てきた「意味」(ここでは訳語ってことだ)をつけて、それを英文法の本が教える通りの語順にならべた和文を書いて、テストでは丸をもらったことはないかい?

まあ上の説明は外国語理解のことだけど、日本語でも同じだ。「文字通りの意味」とは辞書と文法書通りの意味のこと。

この「文字通りの意味」というのは、言語を少しでも知っているものなら誰でも理解することができる。マニュアルというのは、文字通りの意味の理解だけですむように書かれた文章のことだ。

だからたとえば電子レンジのマニュアル(取り扱い説明書のことだね)なら、電子レンジのそれぞれの箇所やボタンに番号なんかがついたりして、「まず1に温めたいものを入れてドアを閉めます。次に2のボタンを押して加熱時間を決めます。そして3のボタンを押したらスタートです。ブザーがなったら温めたものを取り出してください。」なんて指示が書いてある。簡単だね。便利だね。

でもさあ、これはアメリカで本当にあった話らしいんだけど、そうすると電子レンジに猫を入れる人がいたらしいんだ。なんでも猫が濡れていて可愛そうだったんだって。で、猫を電子レンジで温めて、大騒ぎってわけだ(飼い猫の生活がこんなにハードになりうるって知ってた?)。

こんな悲劇を防ぐにはどうしたらいいんだろう。マニュアルを整備しようか。「ただし猫は入れてはいけません」。すると今度は濡れた小鳥を乾かそうとする奴が出てくるかもしれません。「猫と小鳥は入れてはいけません」。ハムスターは?「生き物は入れてはいけません」。すると真面目そうな奴がおそるおそるコールセンターに電話で問い合わせをしてくる。「あのお、エビ料理を作ろうと思うんですが、このエビ、まだピチピチして生きています。やっぱり電子レンジに入れてはいけないんですよね」。

ふう。ため息だ。

こんな時、日本語ではなんて言うんだろう。

そう。「バカにつける薬はない」だ。

このようにマニュアルでしか動けない奴のことを今後はバカと呼ぶことにしよう。(そう、実は正くんも偏差値が高いバカだったんだ)。

バカを直すには、マニュアルは実はあまりよい解決策でない。マニュアルはどんどん厚くなり、「こんなの読めません」あるいは「どこを読めばいいのか教えてください」となるに決まっているからだ(正くんは、処理能力が高いからマニュアルをどんどん作れば事態は解決すると思うかもしれないが、おいおい説いてゆくように、事態はそれほど単純ではない)。

バカを別様に定義するなら、バカとは文字通りの意味だけでコミュニケーションを取ろうとする奴と定義できる。彼(いや彼女だろうか)は、言葉には、文字通りの意味以外の「話者の意味」(speaker meaning)と呼ばれている意味があるということがわかっていない。

人はたいていの場合、自分の思いのすべてを言葉に込めることはできない。人が発した言葉は、まずもって文字通りの意味を持つけど、その文字通りの意味だけで、その人が意味していることがすべて表現されているなんてことは、実はとっても珍しいことなんだ。たとえばさっきの電子レンジの例。「温めたい物を入れてドアを閉めます」にせよ、当然マニュアルを書いた人は「温めたいと思っている食べ物あるいは飲み物を入れてよね。もちろんあんまりでかいものとか変なもの入れちゃ駄目だよ」ということのはずだ(まあ猫なんて予想もしていないだろうけど)。でもそこまで書くとめんどくさい。読む文章も長くなる。だから「温めたいものを入れて」とだけ書く。あとはわかってくれよ、というわけだ。

言語学の教科書(このような言葉の使い方に関する領域を言語学では語用論というのだけど、それはそれとして)では、よく「この部屋寒すぎませんか」などという文が使われたりする。僕はよく夏休みにいろんなところで講演をしたりするんだけど、時に冷房がきついことがある。そんな場合に「この部屋は寒すぎませんか」などと言うと、事務局の人はすぐに冷房のスイッチを調節してくれる。考えてみれば不思議だよね。僕の言葉の文字通りの意味は<この部屋の温度が下がりすぎているような気がするが、あなたはどう思うか>といったものだろう。だからその言葉の返事としては「そうですね。私もそう思います」か、「そうは思いません」が適切なような気もする。だがそんな返答をする人は、「気の利かない奴」と呼ばれるだろう。口の悪い奴は「バカ」と呼んでしまう。

こうすると

言葉の意味 = 文字通りの意味 + 話者の意味


とまとめられて、話はとっても簡単なような気にもなってくる。文字通りの意味は単語の意味と文法がわかっていれば、誰でもわかるのだから、後は話者の意味を正しく同定できればいいだけのような気がする。

確かに僕が講演中に「この部屋は寒すぎませんか」という時に、主に意味している話者の意味は「部屋の温度を調節してもらえませんか」といったものである。でも実はそれだけではない。「ひょっとして僕だけ寒がっているのなら、さっき脱いだ上着を着ますよ」といったことを意味している場合もあるし、場合によっては「ちょっとここの責任者は万事において配慮が足りないのではありませんか」であったりすることもありうる。僕は、僕でも正確には把握していない微妙な境界線をもった一連の範囲のことを意味している。

話者の意味とは、実はしばしばはっきりしていない。話者でさえ、自分の気持ちや言いたいことが常に完全にわかっているわけでない。「意味したいことを、とりあえず、この言葉に託してみる。そうしたら、当座のところはうまくいくんでないのかと僕は思っている」というのが話し手の実情というものだろう。いつもいつも、どんなバカにも誤解されないような言い方をしていたら、僕らは話す前から疲れ果ててしまってコミュニケーションどころではない。言葉の意味とはたいてい「ま、こんなところ」なんだ。その「こんなところ」を、良い加減で、適当にだいたい理解できるのが、言葉を操る人間の知性なのだ。コンピュータにはこれができない。バカにもこれができない。

だから正くんの彼女が「わかんない」といった時に、正くんは、彼女の言いたいことを、身体全体で理解するべきだったのだ。彼女の声色。言葉の緩急。言いよどみ方。なぜこんな言い方をするのか(あるいはなぜこんな言い方しかできないのか)。彼女の前の言葉はなんだったのか。どうして次の言葉が続かないのか。これまでの自分と彼女の関係はどうだったのか。彼女はどんな気持ちでいたのか。自分はそんな彼女のことをどう理解していたのか、などなど。そんな、言葉には正確には表現されないけれど、とりあえずはそう言うしかない話し手が託した意味を、その意味の広がりと深まりを、過剰解釈をすることも過小解釈をすることもなく、いい具合に理解すること、それが言葉を理解することなんだ。

もちろん、これは簡単なことではない。聞き手は、もっと理解しようと、問いかけをするだろう。それでいいんだ。それがコミュニケーションなんだ。

と、ここまでは聞き手のやるべきことを中心に語ってきた。聞き手は文字通りの意味を理解するだけでは駄目で、話し手が言いたい話者の意味を適切に理解しなければならないと言うことだ。

でも話し手も努力する必要がある。いつもいつもわずかな言葉しか言わなくて、「わかってくれないのはあなたが悪い」なんて言っている女性(あるいは男性)は、明らかに努力不足だ。話し手というのは、聞き手がちゃんと自分(話し手)が言いたいことをだいたい理解してもらえるように言葉を選ばなければならない。

こうすると言葉を使うとは、単語の意味と文法を知ってそれらを適用するだけのことではない。相手の心を読むことも言葉を使うことの一部なんだ。聞き手は相手(話し手)の心を読む。「この言葉で話し手はどんなことが言いたかったのだろう」。話し手も相手(聞き手)の心を読む。「聞き手にうまくわかってもらうための必要にして最小限の言い方はどんなものだろう」。

相手の心がわからない奴は、いくら言葉が正確で流暢でも、よいコミュニケーションをしているとは言わない。お偉い先生によくいるよね。正確なのかもしれないけれど、決して聞き手の理解を配慮することなくしゃべりつづける先生。その先生に言わせれば「わからない方が悪い」のかもしれないけど、僕に言わせれば悪いのはその先生だ。

現代社会というのは、単純なやり取りをするだけではなく、高度で複雑で微妙なことを的確に言葉にし、理解することが求められている。お金儲けしようとしたら、そんな言葉の使い方ができなければならない。辞書と文法書の暗記だけならコンピュータに任せな。近い将来、かなりの有用度で文字通りの意味を操つるコンピュータ(電子翻訳機)はできるだろう。でもその文字通りの意味に託された意味を的確に理解できる知性、広くて深いから自分でもうまく表現できないことを適切に言葉に託す知性はコンピュータにはできない。バカにもできない。そんな知性が大切なんだ。

で、ようやくここで詩を書くことに話題を戻す。

詩を書くということは、言葉を丁寧に選んで並べて、できるだけ少ない言葉で、読みようによってはどんどん深く広くなる世界のあり方に読み手を誘うことだ。

ここでは文字通りの意味が主役ではない。文字通りの意味を、慎重に重ねることによって、話者の意味を、ある時は強く、ある時はきわめて微妙に、ある時は書き手にも予想のつかないようなやり方で、しみじみと読み手の心に伝えてゆくのが詩を書くということだ。

さらに詩では文字通りの意味さえぐらつくことさえある。文字通りの意味とは、言葉を記号としてとらえたときに想定できる意味のことともいえる。記号においては、シンプルな鉄則がある。A=A。AはどこまでいってもAで変化することはないということだ。

ところが詩では言葉の同一性すら揺らぐことがある。ある言葉が、数行の他の言葉の連なりを経た後は、様相を変えて現れることも詩ではよくあることだ。

A=Aが成立しないのに、Aをどんどん理解してゆくということ。これは絶対にコンピュータはできない。高度な人間の知性こそができることだ。

もちろんそうだからといって、詩ではでたらめに言葉を選んで並べていいというわけではない。独りよがりで書いてはいけない。読み手を、ある一定の方向へ、しかしどこか広がりを持った形で導けるように書かなくてはならない。強引で有無を言わせないやり方でなく、繊細でまるで自然に導けるように書かなくてはいけない。

そう、詩を書くとはとてもデリケートな知性によることなんだ。

電卓の親玉ができるようなものではない。

さらに詩(あるいはそれに類した書き物)を書くことの特徴がある。

それは書き物が、記号から記号への変換(以後、記号変換と呼ぼう)ではないということだ。

コンピュータの言語処理とは、少なくとも今のところ、記号変換にすぎない。電子翻訳なら、英語を記号として入力して、記号としての日本語を出力する。これがコンピュータの知性だ。

正くんが得意なのも実はこの記号変換だ。英語が与えられればそれを記号としてとらえ、記号規則(文法だね)に従って別記号(訳語だね)にして和訳文を作り出す(英文和訳ってやつだ)。日本語が与えられれば、それを記号として別記号の英語に変える(英作文ってやつだ)。

これが受験英語の王道だ。

なんでこんなにつまんない記号変換が、受験で重宝されるかっていうと、それは採点しやすいから。記号変換で文字通りの意味だけを扱っていれば、文字通りの意味というのは、みんなにとってほぼ同じ幅の意味しか伝えないから、「正解」「客観的な答え」を決めやすい。採点しやすいわけだ。

詩のように話者の意味が微妙に広がり深まる書き物は、この点で受験では嫌われる。「受験生の個性が出てしまう」し、「採点者の個性が出てしまう」からだ。「客観的な採点ができない」ってわけね。

僕なんかに言わせれば、それは採点者にきちんとした人を選んだらいいだけで、それで個性を見ればいいと思うんだけど、四角四面な人はそんなことを嫌う(さらに最近は、四角四面な人が「説明責任」や「アカウンタビリティー」なんていう流行語を振り回すもんだから、僕のような奴はますます生きにくくなっている)。

話がそれてきた。話題を戻そう。詩を書くということは、記号変換ではないということだった。

僕が言いたいことわかるよね。詩を書く人の前にあるのは、記号ではない。記号になる以前の、書き手にもうまく把握できない世界だ。にわかには表現できない世界の相貌。自分でも測りかねる自分の心の動き。わかりそうでわかりえない彼女あるいは彼の振る舞い。さらにはそれらが渾然一体となって、簡単な言語化を拒んでいる、世界のあり方----自然があって、僕がいて、彼女がいて、他人がいて、それらが絡み合っている。だから、自然の見え方も、自分自身の捉え方も、彼女やほかの人との関係も、すべてのあり方が連動していて、自分でもよくわかんない。

そんな存在。世界のあり方。

それを言語で表現するのが詩なんだ。

これこそ人間だけに許された知性だ。

このような知性を持つ人間を私たちは求めている。なぜならそれはコンピュータやバカには不可能な知性だからだ。

コンピュータやバカでもできる仕事はしないこと。高度な知性を持つ人間でしかできないことをすること。それが金儲けの方法だと僕は思う。

わかってもらえただろうか。

詩がわからない奴はバカだ。そしてバカは金儲けができない。

英語で詩を書くなんて役に立たないという考えがいかに薄っぺらいということはわかってもらえただろうか。

そう願いながら、とりあえずここで僕はワープロを閉じる。

でもまた文章を続けるからね。だって、上の文章は、「金儲けをしたいなら詩をわかるようになれ」みたいな書き方になっちゃったからね。正くんと正くんの友達を説得するために僕はこんな書き方をしたけど、詩というのは、金儲けとはまったく独立して、すばらしいことだと僕は信じている。

次の文章ではそういったことを書く。

じゃ、それまでバイバイ。



*****
追記:この原稿は没になりましたので、「次の文章」は書きません(笑)。

でも『15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』は買ってね。

読まなくてもいいから、とりあえず一人五冊ということで(笑)。


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2008年10月28日火曜日

現代の「常識」を問い直そう

批判を許さない権威や権力に対して、理性的な「個人」がそれぞれに考え判断し、その意見をそれぞれの個人が自由に、しかし他の個人の意見に敬意を払いながら表現して、公共的空間を作り、その空間に--つまり誰か特定の個人や集団によって占められない、人々の間の空間に--権力(power)の正統性を見出すという民主主義の原理は、おそらく私たち人類の最大の文化遺産の一つと言っていいでしょう。

こういった民主主義において「個人主義」は大切です。しかしその個人主義とは、上にも書いたように、常に自らとは異なる他者を考慮に入れ、そういった異なる複数の人間が共生するという公共性を、その本質的な前提条件に含むような個人主義です。

しかし1980年代以降の新自由主義と市場原理主義の流行と跋扈により、この「個人主義」が暴走し、歪められているように思います。他者と共に生き連帯することができない孤立した個人は無力です。そして無慈悲で暴力的になりうる存在です。孤立した個人が社会的な紐帯なく存在する市場社会などは非人間的な想定です。なるほど一定の前提下では市場は、特定個人ではとても下せないような「賢い」判断を結果的に下すことができます(私はこういった意味でのハイエクの主張はきちんと評価すべきだと思います)。市場という理想的状況では、商品の生産・交換・消費は孤立した個々人の自己利益最大化行為によって、もっとも効果的に行なわれるはずでしょう。

しかし人間のすべての営みを、結局は金額というメディアに還元できる商品の生産・交換・消費の枠組みだけに還元して考えるのは知的倒錯か、怖ろしい想像力そして思考力の欠落です。

人間の多様な営みを、市場に商品を出荷する生産者、市場で商品を交換する商人、商品を購入する消費者のどれかとしてしか考えず、さらにはそれらの人々が、社会的な紐帯など考えず自己利益の最大化ばかりを考える(いや「神の見えざる手」が働くためにはそう考えるべき)孤立した個人だと考えることは、近代資本主義の進展の結果とはいえ、歴史的にはここ数十年に猛威をふるった非常に特殊で、非人間的で、反社会的で、政治を無化するイデオロギーと考えるべきではないでしょうか。

非人間的というのは、このイデオロギーが、人々のつながりを断つ反社会的なものだからです。反社会的というのは、このイデオロギーが、人々のつながりから生まれる活力を奪い、人々が連帯することによってより人間的な暮らしを創り出そうとする私たちの政治の営みを無化してしまうからです。

社会的な力と政治的な力を奪われた、孤立した個人など、繰り返しますが本当に無力なものです。しかし現代は、どんどんと人々をそのように孤立した個人として扱い、「個人の責任」を問おうとしています。ですが、それは社会的・政治的強者(「勝ち組」)のおためごかしではないのでしょうか。強者はしばしば自らの苦労を語り、人々にも自分のように奮闘することを要求します。しかしその強者ですら、社会的・政治的サポートがあったからこそここまでやってこれたはずです。さらには個人的な才能や健康や幸運などに恵まれたからこそ強者になれたはずです。なぜ一部の強者は、そういったことを完全に自らの意識から欠落させることができるのか。私は彼/彼女らの想像力の欠如が心底怖ろしいです。彼/彼女らは、強者となり、他のすべての人々も強者になるべきだと主張することによって、無慈悲で暴力的な存在になっているのではないでしょうか。

サッチャーは確かに70年代のイギリスの停滞に風穴を開けたかもしれません。その功績は認めるべきでしょう。しかし彼女の考えや行動は、時代や状況を超えた真理ではありません。"There is no such thing as society."とはまあ、すごいレトリックでした。しかしこのレトリックや彼女の言葉を金科玉条のように崇める人々が私は怖い。

内田樹先生の昨日のエッセイに続いて、本日のエッセイでも、こういったことを強く感じたので、10/26の小文と同じように、衝動的にこの小文をまとめました。一気呵成に書いたので、わかりにくい文章になっているかと思います。今後共に勉強を重ね、もう少しクールにまとめられるようにしたいと思います。お口直しに内田先生の本日のエッセイからの一節を引用します。





以前、品川区のある公立学校の校長が「保護者生徒はお客さまである。お客さまに選択される教育商品を揃えるのが教育の仕事だ」と豪語したことがある。

学校選択制はこのようなタイプの「ビジネスのワーディングでしか教育を語れない人間たち」を組織的に生み出すはずであるし、現にそうなりつつある。

このような人間たちの手によって学校教育はいま日々殺されているのである。

繰り返し言うが、教育はビジネスではない。

教育は資本主義が登場するより以前から存在する。

だから、教育の意味や価値を資本主義市場経済の用語で説明することはできない。

教育の目的はこどもたちを「成熟」させることにある。

子どもたちを成熟させるための装置として「学校」という制度は存在する。

それは株主に配当をもたらすために存在する株式会社という制度とは成り立ちも存在理由もまったく異なるのである。

子どもの成熟は「換金」できない。

「成熟すると、いくらもらえるんですか?」
というような問いをしているかぎり、ひとは成熟とは無縁である。

この当たり前の知見がいまだに共有されていない。

http://blog.tatsuru.com/2008/10/27_1055.php







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2008年10月26日日曜日

コンピュータと人間知性の共進化について

■はじめに

ここでは、「コンピュータは単なる清書機や計算機ではない」、「コンピュータは社会的に協調して合理的に仕事を進めるためのメディアである」という主張に基づき、私たちが現代社会で習熟しておくべき思考法・行動法について学びます。

コンピュータを単なる清書機や計算機としてしか使わないということは、コンピュータという知を扱うメディアによって人間は全く変化をせずに、ただ従来、鉛筆と紙で行なっていたことを、それよりも速く行なうだけだいった考えに基づいています。

しかしメディア、もう少しわかりやすい言い方をしますと道具は人間を変えます。早い話、車という道具を移動のために使い始めたら、あなたの認識も発想も行動も変わると思います。同じように、コンピュータという道具は、人間の知性のあり方を大きく変えます。その知性の変化に伴い、新たなコンピュータハードウェア・ソフトウェアも開発されます。こうしてコンピュータと人間は、いわば共進化しているのです。

ここではそういった共進化という観点から、コンピュータによって、私たちは社会的に協調して合理的に仕事を進めることができるようになったし、逆に言うと私たちの知性もそのような仕事の進め方に慣れた発想をしてゆかなければならないことを述べます。もちろん、そういった知性だけが人間の知性のあり方だけではありません。人間は完全にコンピュータと融合しろなどといった極端なことを私は言っているわけではありません(むしろ、これからの私たちにとって大切なことは、コンピュータではできないことに集中することです。そのために人間の可能性をもっと探究することです)。以下、いくつかの点に分けて、コンピュータと共存する私たちの知性について述べます。


■以前からの合理的な仕事のやり方

コンピュータが普及する前から、もちろん私たちは科学革命・産業革命・工業化時代を経ていたわけですから、合理的な仕事のやり方について考えをまとめてきました。古典的なのは、フレデリック・テイラーの「科学的管理法」(scientific management)です。

この科学的管理法の単純で無批判的な適用には問題が多いのですし、そのことはルーマンのシステム理論の観点からも語ることができますが、話は長くなるので本日はこの批判は省略します。ここでは、そういった本質的な批判にもかかわらず、こういった合理的発想法にはそれなりの有用性があるということだけを述べておきます。


現在、よく口にされているのは、Plan, Do, SeeあるいはPlan, Do, Check, Actionです。私は以前、このことについて「知的仕事のABC」という小文を書きましたので、後で読んでおいてください。

ただ、やはり批判というか留保を述べておかなければならないのは、人生は仕事ばかりではないということです。-URGENT, +IMPORTANTだけでなく、 -URGENT, -IMPORTANTの時間も重要だという、「『生きる』ためのタイムマネジメント」という小文も後で読んでおいてください。



■最近の仕事本による合理的な仕事のやり方

最近出版された仕事のやり方に関する本には、以前よりもはるかにコンピュータ的な発想が強く出ています。

芦屋広太さんの書かれた『ITエンジニアのための仕事を速くする9の基礎力と7のエクササイズ』という本は、別にITエンジニアに限らずとも、仕事一般について非常に有益なことが書かれています。



芦屋さんがまとめられている「仕事が速い人の9の特徴」を私なりに言い換えてみますと次のようになります。


(1)論理的思考力がある:常に他人の考え、自分の考えを第三者的に多面的にチェックすることができる。

(2)深い理解力がある:物事に通じているので、遺漏や勘違いが少ない。

(3)構造化できる力がある:物事の本質を理解し、物事を要素に分解し、関係を明らかにして、さらに要素を再編成することができる。

(4)目標達成型の行動力がある:Backward designで考えることができる(参考記事:Backward designはなぜ失敗しうるのか )。

(5)分かりやすく説明する力がある:誤解や感情のもつれを最小に抑えることができる。

(6)他人を説得できる力がある:合理的な計画で、他人の協力を得られるので、自分の何倍もの能力が出せる。

(7)うまく断る力がある:物事を合理的に理解できているので、無理な要求をスムーズに断ることができる。

(8)意見を通す力がある:論理性の高いプランをもっているので、他人の感情にも十分配慮する余裕があり、合意を得やすい。

(9)論理的で分かりやすい文章を書く:いちいち口頭で説明しなくても文書だけで安心して他人に仕事を任せられる。


また、最近マスコミで引っ張りだこの勝間和代さんは、『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』で、本質的なものに集中するためには、(1)簡略化、(2)階層化、(3)フレームワーク化が重要だと述べています。



(1)の簡略化とは、人間の情報処理能力の限界、特に聞き手・読み手の能力の限界を考えて、情報の本質以外を思い切って捨てることです。(2)の階層化とは、情報の重要性のレベルを階層化しておき、相手の興味次第で、簡略化されていた情報をどんどん展開してゆくことができるようにしておくことです。(3)のフレーム化とは、情報の一つ一つに様々な「タグ」(後述)をつけて、情報を再現性のある形で分解し、再構築ができるようにしておくことです。

ここではこの芦屋さんや勝間さんが重要だとしている能力は、コンピュータという情報処理機械の特性をよく理解して、その良さを最大限に活かすような発想に私たちが慣れることによって開発できるという仮説の基に、いくつかのコンピュータの概念を紹介してゆきます。


■仕事とは他人のために行なうこと

コンピュータとは、情報をデジタル化することによって、その伝達やコピーを従来とは比べものにできないぐらいに容易にした機械です(参考記事:「デジタル時代の英語教師」(1997年の古い書き物です) )。これによって、あなたの情報を他人が見て使用する機会が飛躍的に増えました。そうしますとあなたの情報は、他人が見やすく、他人が使用しやすい形になっていることがますます重要になってきます。

この点、「デザイン」について考え直すことは非常に面白い思考を私たちにもたらしてくれるかと思います。どうぞこれからのあなたのキーワードに「デザイン」という言葉も加えて下さい(参考記事:「研究論文とデザイン」 「金沢21世紀美術館+深澤直人『デザインの輪郭』TOTO出版」 )


■情報の組織化・構造化

さらにコンピュータは、情報の量も莫大なものにしてしまいました。そうしますと情報をまとめる際には、情報の全体構造をきちんと設計しておくことがとても重要になります。つまり情報の組織化(情報の収集・理解・整理・分類)と情報の構造化(分類・設計・再整理・構築)をきちんと行なう必要があります。(『ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン』)


ここでは情報の組織化と構造化にかかわる、ツリー、マトリックス、リゾーム、タグ、マインド・マップについて簡単にまとめましょう。

(1)ツリー:ツリー(tree)とは木(というよりも根)のように、高次のものが低次に行くにつれ、だんだんと分岐してゆく構造です。これはデカルトの明証・分析・総合・枚挙といった還元主義的な発想と親和性が高いものです。明証、分析、枚挙が確実ならば、単純化された要素から総合も問題なくできるはずです(ただ現実はそれほど単純なものではないのですが・・・)。コンピュータでいえば、ウィンドウズのフォルダの構造はこの階層構造になっています。ただフォルダ構造ではファイルをどこに分類したかわからなくなってしまうことがよくあります。そんなファイルを探すには、GoogleデスクトップかWindowsデスクトップで検索を使いますが、このような相補的処置は、ツリー構造には必要だといえるかもしれません。


(2)マトリックス:マトリックス(matrix)は多義的な言葉ですが、ここでは要素を縦横に配置した表を考えて下さい。早い話がエクセルの表です。縦と横に重要な要因を並べ、かつそれぞれの要因の要素をすべて縦と横に並べることができれば、その表が問題にとって重要な論理空間をすべて表しているはずです。そのセルを一つ一つしらみつぶしにチェックしてゆけば私たちは漏れのない思考ができるはずです(ただ現実は・・・以下省略)


(3)リゾーム:リゾーム(rhizome)とは、地下茎のことで、哲学者のドゥルーズおよびガタリが比喩的な用語として使い始めました。伝統的な形而上学では、ある絶対的な一つのものから展開してゆくツリーのモデルを前提としてきたが、物事の関係には、中心も始まりも終わりもなく、多方面に錯綜する地下茎のようなものもあるではないかというのが彼らのポイントです。早い話をしますと、各種リンクで、様々に結ぶつけられた世界中のウェブ・サイトを想像して下さい。Googleはこのリゾームのつながり(リンク)をもとに検索技術を開発しました。Googleによって私たちは、リゾーム的な秩序も扱うことができるようになったと言えるかもしれません。またこのリゾーム的な関係は、ツリー構造では抑圧されがちな連想(association)もそれなりに扱うことができます。

(4)タグ:コンピュータではファイルなどにタグ(tag)という目印を付けて、情報を整理することを行ないます(tagging)。ファイルの情報すべてを検索していては非常に手間がかかりますから、タグというファイル内の情報に関するいわばメタデータだけを使って高速の情報検索を可能にすることができます。タグが利用者によって自由に(というより勝手に)付けられた結果の分類をフォークソノミー(folksonomy)と呼ぶことがあります。検索技術においても、検索エンジンを強力にする方向ではなく、このようにメタデータを付けることにより検索をより高速かつ合理的に行なおうという方向の発想を「セマンティック・ウェブ」(semantic web)と呼びます。エクセルでしたら、例えば縦の列の要素のうち、横の行のある特性だけをもったもの(セルには例えば1と入力)だけを集め、その特性を持っていないもの(セルには0と入力)を排除して並べ替えることが、このタグ利用のイメージとなるかと思います(エクセルファイルでの例はここからダウンロードできます。ただしこのファイルはかなり原始的です)。タグは、ツリー分類に比べはるかに柔軟で、リゾームよりも効率的な分類であると言えるかと思います。またウィトゲンシュタインの用語で言うなら「家族的類似性」、あるいは他の用語でしたら「プロトタイプ理論」などで理解される柔軟なカテゴリー概念を表現するのにも適している方法かと思います。


(5)マインド・マップ:マインド・マップ(mind map)あるいはKJ法という方法は、コンピュータの普及以前からあったブレインストーミングの方法ですが、最近はこれらも容易にパソコンでできるようになりました(私は個人的にはMicrosoft OneNoteをよく使っています)。しかしこれをやるためには、別にパソコンは必要なく、適当なカードや付箋紙にアイデアを書き付けて、それらを並び替えて発想を展開してゆけばいいだけです(一枚の紙に様々なアイデアを書き付けてもいいですが、アイデアの「位置」を自由に動かしにくいので、やはりカードか付箋紙を使った方がいいかと思います)。


以上のような方法で、情報を収集・理解・整理・分類・設計・再整理・構築して、組織化と構造化を図ることが、莫大な情報を的確に相手に伝えるというデジタル時代に重要な知的習慣になるかと思います。


■時間という要素が入ると・・・

以上の情報の組織化と構造化には、実は時間という要素がほとんど入っていませんでした。ですが情報を、実際の行動のために組織化・構造化するとなると、時間という要素を入れる必要があります。

時間的な要因が入れられた情報の組織化・構造化の一例はフローチャートです。


フローチャートはまさにコンピュータ・プログラミングで使われます。仕事をフローチャート化してプログラムを組み、コンピュータにも実行できるようにしたならば、現実世界でも誰にでも実現できる仕事のマニュアル化に成功する可能性が高くなるかと思います(私はマニュアル的思考にはかなり批判的ですが、しかし一方で基本的な作業にはマニュアルは非常に重要だと思っています)。

このように一定の手続きに従えば、必ず仕事が完成する手続きをアルゴリズムと言います。

アルゴリズムの発想の基本は次のようなものです。
アルゴリズム - 直線型・分岐型
アルゴリズム - 繰返し型


このように仕事の過程を分析した後で、スケジュールの情報だけを単純化した工程表を作ろうとすれば、ウォーターフォールモデルが便利かもしれません。


私の教える留学生は、このようなスケジュール分析をしました。


ちなみに毎日、毎週、毎月のタスクを管理するためには、「エクセル(Excel)で行なうタスク管理」を読んで下さい(エクセルファイルがダウンロードできます)



■他人に加えて同僚という要素が入ると

これまではある特定の相手のために、自分がどのように仕事を分析するかという観点で語ってきましたが、現代の仕事はどんどん複合的になっているので、同じ組織の同僚や、他の組織の人間とも協働的に作業する機会がどんどん増えてきています。そういった場合、メンバー全員が一同に会して、仕事の隅から隅まで口頭で確認し合うことは非現実的ですから、文書によって明確に協働的な作業を定義し、かつその定義が現実世界に対応しているかをチェックする必要があります。現代社会で要求されている能力の一つは、このような文書を通じての高度なコミュニケーション能力です。

ずっと受けたかったソフトウェアエンジニアリングの授業(1)』はそのようなコミュニケーションを、(1)システム提案書、(2)開発計画書、(3)外部設計書で行なうことを提言しています。


(1)システム提案書:カスタマーのニーズを分析・把握し、システムをカスタマーに文書で提案する。[基本的には、開発責任者→カスタマーへの文書]

(2)開発計画書:提案し受け入れられたシステムを構築するための5W2H(When, What, Who, Why, Where, How, How much)を分析し文書化する。システム提案書と開発計画書をつきあわせてvalidation(妥当性検証)を行なう。[基本的には、開発責任者→開発チームへの文書]

(3)外部設計書:開発計画書が作ろうとするシステムが、実際にカスタマーのニーズを満たしているかというverification(正当性検証)を行なう。[基本的には、開発チーム→カスタマーへの文書]

こういった三種類の書類作成は、いかにも大げさにも思えるかもしれませんが、複雑な協働作業にはこういった文書は不可欠です。単に作業効率の面だけでなく、このような明確な文書によるコミュニケーションと合意がなければ、的外れなプロダクトが惰性的に作られてしまうだけです。また文書を作らないですむ単純な仕事にせよ、カスタマーの要求とこちらのできることが合致しているかをきちんとチェックする習慣はつけておくべきでしょう。慣例と惰性で仕事をするのでなく、目的合理性を高めて仕事をする習慣を私たちはつけておくべきです。

ちなみにこの『ずっと受けたかったソフトウェアエンジニアリングの授業(1)』の巻末付録の各種書類のサンプルは素晴らしいです。感動するぐらいわかりやすい文書となっています。エンジニアのリテラシー能力の高さに感服します。


以上、コンピュータ的な発想で思考し行動を計画することを簡単に学んできました。コンピュータ的思考と行動は、多くの人との合理的な作業を可能にします。こういった思考と行動のパターンも、人間の可能性の一つとして、私たちは身につけておくべきかと思います。上の思考法のうち、一つでも二つでも、あなたの実際の仕事の分析と実行に適用して、こういった発想法に習熟しておいてください。そういった根本的な学びは、表面的なコマンドの習得以上にはるかに重要なことです。

コンピュータに関する基本的な事柄は
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/computer.html
にまとめていますのでご参照下さい。








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日本社会の小役人化?

「小役人」という言葉は明らかな侮蔑語です。知性が、小学校の学級委員をやっていた頃から少しも深まらず、形式上の表面的なチェックばかりに血道を上げることが正しいことだと信じて疑わない(小)権力者を私はこの言葉で意味しています。

ですがこういった小役人は、ここ10年ぐらいでますます日本にはびこっているように思います。そういった小役人が権力の正当性を司るべきという考えがますます強くなり、この流れは現実社会の複合的で多面的で柔軟な展開を拘束し、私たち人間の営みをどんどん貧困なものにしているように思います。

内田樹先生のエッセイをどうぞお読み下さい。

http://blog.tatsuru.com/2008/10/26_1313.php



私にとってさらに怖いのは、こういった小役人の発想が、あるべき規範として若い人にも広がっているかもしれないということです。これは私が教育学部に所属しているからでしょうか。教育学部というのは、教員を派遣する初等教育・中等教育の発想にいやでも影響を受けますが、そのせいか、昨今では高等教育であるはずの--つまりは自由度や創造性が非常に高いはずの--大学や大学院の営みが、小学校の学級委員的告発によって次々に批判され、力を損なわれているようにさえも思えます(疲れている私の思い過ごしでしょうか)。

表面的で部分的には正しいのだけれど、深いところでの思考を放棄した小役人がどれだけ社会を損なうかという事例には事欠かないと思うのですが。

小役人ばかりの社会というのは、私は本当に怖ろしい。






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2008年10月23日木曜日

小学校英語教育に関する新しいパワーポイントスライド

小中学校英語教育セミナーin広島」(日時:2008年10月25日(土)13時~17時 会場:広島文教女子大学 大講義室)で使用するパワーポイントを新しく作りました。従来のPDFファイルよりも少し内容を深めたつもりです。


概要は以下の通りです。

タイトル:小学校英語教育--なぜ、なにを、どのように--

ポイント

■なぜ:グローバリゼーションの経済的影響、社会的影響を考えるとき、政治的判断が必要。その際に複言語主義は一つの指針になる。

■なにを:言語コミュニケーション力は(1)心を読む力、(2)身体力、(3)言語力の三次元のベクトル合成で把握できる

■どのように:Reflective Practitionerとして実践し、振り返り、語り合う

■「教科」として評価を導入すれば一層明示的な価値判断が必要になる。


この新しいパワーポイントスライドをダウンロードしたい方はここをクリックしてください。








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2008年10月20日月曜日

検索技術以前・以上の教養

あるクラスでウェブ検索技術の基本を教えています。そこでのポイントは


(1)Googleの使いこなし方の具体的な技術を学ぶ

(2)Google以外の、専門検索エンジンを使うことを学ぶ

ということです。

(1)だけでも、使いこなし方によっては検索結果は全く異なります。さらに英辞郎(http://www.alc.co.jp/)やハードディスクにインストールされたCollins Cobuild-resource Pack on CD-Romなどと共に、安藤進『ちょっと検索! 翻訳に役立つ Google表現検索テクニック』丸善株式会社といった本を参考にしてGoogleを使いこなせば英語を書くときにはずいぶん役立ちます。


(2)にしても、例えば
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/useful-online-resources-for-applied.html
に挙げられているものだけでも使いこなせれば、山ほど学術情報が得られます。


しかしこの(1)と(2)を教えるだけでは、学生さんは情報の洪水に巻き込まれるだけかとも思いました。学生さんは、


(a)具体的で正確な用語を(できれば英語でも)知らなければなりません。

(b)用語を相互に結びつける思考の枠組みを知らなければなりません。



(a)ですが、論文を書くことになった学生さんがGoogleに「英語教育」とだけ入力しても、その検索の旅が効果的になるとはとても思いません。学生は、正確な学術用語、研究者の名前などを入力しないと、(2)の専門検索エンジンでさえ、大量の情報にうろたえるだけでしょう。

(b)ですが、学生は系統立てて、あるいは体系的に思考をまとめる術をマスターしておかなければ、よくある「Aさんはこう言っています。Bさんはこう言っています。Cさんは・・・。結論は、いろんな人が、いろんなことを言っているということです」といった無惨な結果に終わるだけでしょう。概念を相互に関連づけるということはどういうことか。概念で「構造」を作るということはどういうことか。構造を他のデータに当てはめるということはどういうことか。構造の一部を修正して、構造を再構築するということはどういうことか。全く別の構造で考えるというのはどういうことか。同時に複数の構造で考えるということはどういうことか。かなり新しい構造を自分で仮説的に作り出してそれで考えるということはどういうことか・・・学生さんはこういった思考訓練を十二分に経験しておかなければなりません。

(a)さらに(b)は非常に習得に時間がかかることです。(a)は大量の良質の学術書を読まなければ身につきません。(b)は本を読みながら、あるいは他人と討論しながら、さらには自分で文章を書きながら、徹底的に考えなければ身につきません。しかしそのように時間のかかる知的能力こそが価値があるのです。

いくら(1)と(2)の検索技術について知っても、(a)と(b)が駄目なら、屑みたいなレポートや論文ができるだけです。逆に(a)と(b)がしっかりしていれば、その人は、この情報爆発のウェブ時代で、これまでには信じられなかったような知的生産をすることができるようになるでしょう。

検索技術以前・以上の「教養」こそが、ウェブ時代を泳ぎ切る鍵だと私は思います。







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2008年10月15日水曜日

Research Questionの探究としての研究論文

論文の「ストーリー」をリサーチ・クエスチョン(RQ)を中心にしてまとめる方法を図解してみました。ご興味のある方はダウンロードしてください。

PDFファイルのダウンロード


予めファイルを見たい方は
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#081015
をご覧下さい。







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2008年10月13日月曜日

ウォーラーステイン著、山下範久訳『入門・世界システム分析』(藤原書店)

「ウォーラーステインも読んでおいた方がいいよ」とは、これまで何人もの友人に勧められてきました。今回、ある必要があり、簡単にでもウォーラーステイン(Wallerstein)のことを学んでおく必要ができましたので、彼自身による入門書を読みました。以下はそのまとめです。いつものように、これは私個人の偏見や無理解に基づくまとめですので、読む際にはどうぞご注意下さい。

この本はスペインのメネンデス・ペラヨ国際大学での一週間の夏期集中講義をもとにしているだけに、明解な構成、平明な記述となっています。以下、各章ごとに(私が重要と思った)要点をまとめます。


第一章 世界システム分析の史的起源

■「二つの文化」の制度化
18世紀後半から哲学と科学が分離(あるいは「離婚」)し始めた。「科学」の立場を防衛しようとする者は、経験的観察からの帰納に立脚し、他の科学者によって再現・検証できる理論化こそが「真理」に至る唯一の方法だとし、自らを「哲学者」と呼ばれることを拒み始めた。(22ページ)

■近代的な大学の誕生
中世の大学は、神学、医学、法学、哲学の四学部から構成されていた。19世紀には哲学部は、諸「科学」を受け持つ学部と、他の「人文学」(あるいは「学芸」(arts)、「教養」(letters))を受け持つ学部の二つの別々の学部に分割された。(23ページ)

■社会科学の誕生
1789年のフランス革命以降、政治体制の変化が常態化し、「主権」は"people"(注)にあるという考えが広まった。これにより政治変化やpeopleに関する研究--後に「社会科学」と呼ばれるようになった研究が生まれ始めた。しかしこの新しい研究は、「純粋科学」と「人文学」の狭間にあり、次第に二方向へ分裂していった。(25-26ページ)
(注)翻訳書では"people"と"nation"に「国民」という訳語を与え、英語を付記していますが、混乱しやすいのでここでは「国民」という語は使いません。

■歴史学
歴史学はもちろん古くからある学問であるが、19世紀のランケ(Ranke)の影響により、歴史学は臆断や作り話を排した、より科学的なものとなることが目指され、出来事が起った時に書かれた文書を探すという方法を歴史学の新しい常識とした。そのような文書を公文書を備えている国であるフランス、イギリス、アメリカ合衆国、後にドイツとなる諸地域、そして同じくのちにイタリアとなる諸地域で歴史学は栄えたが、これはナショナリズム感情の強化にも役立ったため、歴史学は国家の支援を受けやすくなった。(26-30ページ)


■経済学・政治学・社会学
過去を対象とする社会科学(歴史学)だけでなく、現代を対象とする社会科学も要請され、おおきく三つの個別科学(discipline)が現れてきた。経済学、政治学、社会学である。この三分法は、19世紀の支配的なイデオロギーであるリベラリズムが、近代性を、市場と国家と市民社会との三つの社会的領域への分化と定義したことに基づいている。(30ページ)

■人類学と東洋学
しかし以上の社会科学は、「近代」の外部を扱い得なかった。したがって「未開」の「部族」を研究する人類学、ヨーロッパ外部の「高等文明」(中国、インド、ペルシア、アラブ世界など)を扱う東洋学が誕生した。(32-35ページ)。

■地域研究と個別科学の境界の溶解
1945年からアメリカ合衆国が覇権大国になると、「道教の古典を解読できる学者よりも中国共産党の勃興を分析できる学者」が求められるようになり、地域研究(area studies)が始まった。大学は拡大し、多くの博士号が出されるようになったが、個々の個別科学に属する研究者は、それまで他の個別科学に属していたテーマを、自らの研究対象として切り取ってくるようになり、次第にそれまでの個別科学の間での境界が溶解し始めた。東洋学者も歴史家になり、人類学者も自らの文化を対象にするようになった。(37-41ページ)。

■世界システム分析
1970年代から世界システム分析が明示的に語られはじめた。世界システム分析は、分析の単位をそれまでのように国民国家とするのではなく「世界システム」とした。(52-53ページ)
Wikipedia: World-systems approach


■世界システム
「世界システム」(world-system)は、サブカテゴリーとして「世界=経済」(world-economy)と「世界=帝国」(world-empire)を持つ。これらの表現にあるハイフンは、世界システム分析があつかっているのは世界全体ではなく、「それ自体が世界であるような(しかし、必ずしも地球全体を覆うものではなく、じっさいふつうはそうではない)システム」を扱っていることを強調している。(注)
(注)世界システム以前の「史的システム」としては「ミニシステム」がある。
ウィキペディア:世界システム論


■近代世界システム
近代世界システム("modern world-system")は「長い16世紀」から始まるものであるが、これは「世界=経済」の形態を取っている。「この近代の世界=経済は、史上最初の世界=経済ではないが、世界=経済として長期にわたって持続・繁栄した最初の世界=経済であり、その持続性は、完全に資本主義的な世界=経済となることによってはじめて得られたものであった」。(54ページ)

■史的社会科学
世界システム分析は、長期持続(ロング・デュレ)にわたるトータルな社会システムの分析を行なうものであり、個別科学(discipline)の境界を認めず、多学科協働的(multidisciplinary)を超えて、統一学科(unidisciplinary)である。(58ページ)


第二章 資本主義的世界=経済としての近代世界システム

■世界=経済の政治構造
世界=経済のひとつの規定的特徴は、それが単一の政治構造によって境界づけられていないことである。近代世界システムは国家間システム(interstatesystem)においてゆるやかに結び合わされている。(68ページ)

■無限の資本蓄積を優先するシステムとしての資本主義
資本主義のシステムとは、無限の資本蓄積を優先するシステムであり、この定義によるなら近代世界システムだけが資本主義的なシステムである。(69ページ)


第三章 国家システムの勃興

■近代国家
近代国家は主権的国家である。主権とは完全に自律的な国家権力ということであるが、実際の近代国家は国家間システムの中に存在している。主権は他国によって承認されなければほとんど意味を持たない。(109-113ページ)

■国民国家
国家がその権威を強くする一つの方法は、その住民を"nation"(「国民」)にすることである。「国民国家」(nation-state)は、すべての国家が目指しているものである。これは「他民族」国家を標榜している国家とて例外ではない。ソ連は多民族国家であることを主張しながら、同時に「ソヴィエト的」人民という考え方を喧伝したし、カナダやスイスについても同じようなことが言える。(136-137ページ)

■ナショナリズムを創り出す様式
国家がナショナリズムを創り出す様式は、主に、国家による学校システム、軍隊における勤務、公的儀式の三つである。(137ページ)

■世界=帝国の挫折
「世界=帝国は、システム全体が単一の政治的権威のもとにあるような構造をもつ世界システム」である。その第一の例は16世紀のカール五世(神聖ローマ皇帝)、第二の例は19世紀はじめのナポレオン、第三の例は20世紀半ばのヒトラーであったがいずれも挫折している。(143ページ)

■世界=経済での覇権の獲得
一方、以下の三国は、覇権(hegemony)を獲得したと考えられるが、これらの国は世界=帝国を目指したのではなくて、国家間システムの中で世界=経済を支配したものである。第一の例は17世紀半ばの連合州(United Provinces)(現代のオランダ)、第二の例は19世紀半ばの連合王国(United Kingdom)、第三の例は20世紀半ばのアメリカ合衆国(United States)である。(144ページ)

■世界=経済は世界=帝国に転換できない
なぜなら、世界=帝国には、無限の資本蓄積を優先する資本主義的行動を抑えつけることができる政治組織があるからである。(144-145ページ)

■覇権は永続しない
覇権大国は、基礎となる生産の効率性の優位を保たなければならないが、覇権国家としての政治的・軍事的役割はその国を疲弊させる。やがてその国が実際に軍事力を行使するようになると、それはその国の経済的・政治的な土台を掘り崩してしまう(145-146ページ)


第四章 ジオカルチュアの創造

■イデオロギー
イデオロギーとは、「社会的領域において、そこから具体的な政治的結論が引き出せるような一貫性のある戦略」である。イデオロギーは、単なる観念、理論、道徳的立場表明、世界観にはとどまらない。フランス革命以降、保守主義、自由主義、急進主義という三つのイデオロギーが現れた。(150ページ)

■保守主義
保守主義とは反革命であり、慣習や規則は、革命によって急激に変化するべきでなく、伝統的諸制度の権威を回復・維持したまま、そういった制度で責任ある人々によって慎重に変えるべきであるとした。(152-153ページ)

■自由主義
旧体制(アンシャン・レジーム)への回帰は望ましくないとした人々は、世界は「善き社会にむけて永遠に進歩する世界であるがゆえに、変化は単に常態であるというだけでなく、不可避である」と主張した。彼/彼女らは、「機会の平等」や「能力主義」といった考え方で、社会的流動性を高めようとした。(154ページ)。

■急進主義
1848年の「世界革命」以降、保守主義と自由主義という二項対立に、急進主義が加わった。(157ページ)

■「国民」(nation)の創出
「国民」(nation)は、ナショナリズムを説くことで創られるが、その過程で「他者」は市民権(citizenship)から排除される。(162ページ)

■単一の「国語」
「19世紀の初め、ヨーロッパにおいて、単一の国語を有する国は事実上ほとんどなかった。しかし19世紀末には、大半の国が単一の国語を有するようになった」。これはナショナリズム創出の三大装置(学校、軍隊、国民的祝典)のうちの学校(特に初等教育)の成果と見るべきであろう。(162ページ)


第五章 危機にある近代世界システム

■危機
危機とは、当該システムの枠組みのなかでは解決しえない困難である。われわれが生きている近代世界システム、つまり資本主義的な世界=経済は、現在危機にあり、これにより今後さらに25-50年ほどは様々な構造や過程の激しい動揺に直面するかもしれない。(184-185ページ)。


*****
以上が私なりのまとめです。英語教育研究を「個人心理学」にしてしまうのではなくて(cf「学会誌のあり方について」 )、大きな枠組みで総合的に考える営みにしようとすると、どうしても上のような考察が重要になってきます(さもないと、英語教育研究は、単なる床屋談義になってしまい、これなら個人心理学の方がまだましだったとなります)。

英語教育学というプロレス」という駄文をかつて私は書きましたが、そこで私が言いたかったのは、英語教育の研究をやる人間は「プロレス」ではなく「総合格闘技」を目指すべきだということです(格闘技ファンでない方、わかりにくく野蛮なメタファーをお許し下さい)。一知半解を怖れながら、また時には専門家にそのレベルの低さを笑われながらも、少しずつ勉強を重ねてゆきたいと思います。




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Exploratory Practiceの特質と「理解」概念

先日、恥ずかしながら

柳瀬陽介 (2008)
「Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察--アクション・リサーチを超えて」
『中国地区英語教育学会研究紀要』 No.38 pp. 71-80


という論文を公刊させていただきました。

簡単に内容紹介をしますと

キーワード:Exploratory Practice、実践(者)研究、アクション・リサーチ、ナラティブ(語り)、理解、ハイデガー、『存在と時間』

概要:この論文はExploratory Practice(EP)を、Scientific Research(SR)およびAction Research(AR)と対比しながら、その特徴を明らかにする。教師成長のためには、教師の「理解」の深化を促進するEPの優位性が説かれる。しかしこの場合の「理解」概念には注意が必要で、この論文では、「理解」概念をハイデガーの『存在と時間』の論考を援用することによって、「理解」が私たちの生活、ひいては存在に根ざしたものであることを示す。「何のため、誰のための研究か?」という問いかけはEPの重要性を浮き彫りにするだろう。


となっております。


恥の上塗りでここに公開しますので、ご興味ある方はここをクリックしてダウンロードしてください。


お詫びと訂正 (2009/01/06)

井上英晴先生のご指摘により、この論文の「世界内存在」に関する誤りが判明しました。本日、訂正版(本文修正済み・ファイルの末尾に正誤表を掲載)をアップロードしました。以前にこのファイルをダウンロードした方は、どうぞこの訂正版と差し替えて下さい。私の不明をお詫びし、井上英晴先生のご指摘に心より感謝します。





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2008年10月11日土曜日

読み、書き、考えよ -- 異なる複数の立場から!

以下は私の知人で会社を経営されている方が、ある媒体で書かれた文章です。ご本人の許可を得た上で、引用します


うちの会社では、数年前、ふたつの、超一流とはいえないものの、少なくとも私の時代の70年代の常識では明らかに一流であった国立大学卒の30代はじめの男性と女性をふたり、解雇しました。その1年半ほど前に中途で採用した人間たちです。

もちろん、労働基準法に則り、かれら二名の不足と思われる仕事の問題点を、まずある時点で指摘し、そのことを本人にも理解してもらった上で改善努力を要請し、しかし1年経過しても、うちの仕事で合格と私が判断するレベルには達しなかったので、一か月分給与の前渡し支給とともに、自主的に辞めてもらいました。

その解雇の理由が、文章力なのです。
この理由による解雇は、14年前の会社設立以来、初のことでした。
このふたりの文章は、恐るべきものでした。
クライアントに提出するあるレポートを書き上げても、その上司なり私なりが、ほとんど全行にわたって詳細にチェックし、修正しないと、とうていそのままでは外部に出せない水準でした。

だからこのふたりは、定型の伝票のような書類に何かを書き入れるという内容ならともかく、あるテーマでA4数枚以上の文章を作成するということが、最初から能力的に不可能なのです。
採用を決め、入社後そのことが分かったときの、私の絶望的な思いをお察し下さい。

衆に抜きん出たものを書けとか、名文を書けとか要求しているわけではないのです。ただのビジネス文なのですから、そんな要求をするわけがありません。主語と述語の繋がり、形容詞や副詞の位置、センテンス冒頭で挙げた事柄の行方不明、そもそもこのセンテンスは何をいいたいのか、等々の、ごくごく基本的な問題が、体を成していないのです。
70年代には一流であった国立大卒で、このありさまです。



私はこの二人の国立大卒の方を知りませんが、もちろん彼/彼女とて、基本的な漢字が書けないとかいうレベルで困っているのではないでしょう。しかし、「他人に向けた文章が書けない」ということでしたら、私にも心当たりはあります。とにかく文章は書いてくるのですが、とりあえず自分が思ったことを書き付けたような文章で、一貫して読者に何を伝え、何を訴えたいのかがわからない。仮に一文、一文がわかるとしても、パラグラフ全体で何を言いたいかわからない。あるパラグラフがわかったとしても、レポート・論文全体を通して何を言いたいかわからない----そういった事例には実は事欠きません。

自らとは異なる立場、しかも複数の立場から考える力、いや考える力以前の想像力に問題があるのではないかというのが私の取りあえずの見立てです。

マスメディアとしては、いわば「バカにでもわかる」ような形でしか提供されないテレビ番組や漫画ばかり見て、パーソナルなメディアとしては「ほぼツーカー」のような文脈でしか言葉を交わさないケータイや、「手取り足取り指示してもらっているから、あとはやるだけ」のような形「教えられて」いる授業ばかりにしか接していないのが若者の生活としたら、時空を共有する文脈を超えて思考を喚起する書き言葉は読めないし、ましてや書けないとしても不思議ではないと思います。

ちょっと前なら、そのような兆しを示す若者には「オイ、少しは本を読めよ」と言い、彼/彼女らが提出した物に対しては「オイ、その首の上についているものは何だい?少しは自分の頭で考えろ!」と言っていればよかったのかもしれませんが、今ではそうはいきません。前者の苦言でしたら「でも何を読んでいいかわかりません。とりあえずこれだけ読んでいれば大丈夫という一冊を教えて下さい」と言われますし、後者の罵倒はアカハラ(指導拒否)としてさえ捉えられるかもしれません。(私が「教育」というページに学生さんのための情報を蓄積しているのは、そういう懸念からです)。

もっと「読み、書き、考える」ということ、しかも異なる複数の立場からそうすることの重要性を学校は叩き込まないといけないのかもしれません。

「小学校から高校まで、日本の先生は親切で丁寧だから、善意で児童・生徒に、『最初に○○して、次に△△したら、□□と評価しますよ』と手取り足取りしてしまうのだよな。そんな一時間以内の短期的な合理性も、数年間という長期的な合理性にはつながらないのだよな」と日頃私は責任を小中高の先生方にかぶせるような考え方をしていました。

しかし先日、「エクセルによるタスク管理」でダウンロードするファイルを作っていると、「オイ、待て。私こそ大学生・大学院生相手にspoon feedしているじゃないか!」と気づきました。私としてはうつむき加減に「やってみたけどわかりませんでした」つぶやく学生さんとか、口を尖らせて「きちんと教えてくれないままに、『やれ』とだけ言われてもできません!」という学生さんの顔を想像してしまって、いちいち細かくファイルを作っていました。ここで学生にいい顔したいと思う自分の弱さを私は少し反省するべきなのかもしれません。

もちろん親切で具体的な指導という基本方針自体を否定するつもりなどありません。しかしどんな良いこともやり過ぎるなら逆効果になるというのも真実でしょう。

「こんなのじゃ、駄目。自分の頭で何がよくないのか考えなさい」という苦言を少しずつ若者に注入しておくことは、将来彼/彼女らが職場で「折れ」たり、離職したりすることを考えるなら、彼/彼女らのためになるように思えます。

折からも2008年10月9日の毎日新聞は、ノーベル賞受賞者の教育に関する次のような言葉を掲載しています。


今の研究者は、結果の出やすい目先の成果を追うことが多い。元気のない若い研究者が多く、もっと根本原理に迫る研究者が出てほしい。(下村脩氏 25面)

高校の物理の教科書を最近見る機会がありますが、問題を解くことにウエートが置かれているのですね。物理は全体のストーリー、全体のロジック(論理)、意味とかいう部分があまり強調されていない。教科書は大変コンパクトになっていて、肝心なことが一行、二行で書いてあり、書いてあるからいいんだ、という感じがしますね。教科書はもっとぶ厚くてもいいから、読本というようなアプローチが必要ではないかと感じます。(小林誠氏 16面)

科学者ですから言えるのは教育のこと[が私が今の社会に言いたいことです]。大変危機的な状況にあります。考えない子供を一生懸命製造している。大学受験の厳しさが非常に大きな影響を与えています。日本福祉大の先生が「教育汚染」という言葉を使っていますが、私も今の教育は(筋道を立てて考える力を奪うという意味で)、子供を汚染していると思います。(益川敏英氏 16面)


目の前に数値目標を立て、それに子供が到達するように、どうあっても間違いの無いように学習課題を指定して、後はお願いですから勉強して下さいと懇願する(あるいは強制する)----こういった、少なくとも短期的にはとても合理的な善意(あるいは管理)が、この国の文化を根底から損なってしまっているのではないかという懸念を私はぬぐい去ることができません。

異なる複数の立場から、じっくりと読んで、書いて、考える -- そういった文化を一層振興しなければ、日本は、とても表層的な合理性と善意(あるいは管理)によって駄目になってしまうのではないかとすら思えます。






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M・フーコー著、中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社

十年ぐらい前、ある飲み会でうっかり「私はまだフーコーを読んだことがない」と言いましたら、ある社会学者に罵倒されました。その後、私の不勉強はあまり改善されませんでしたが、さすがに最近少しずつ入門書や解説書を読み始めました(特に中山元氏のわかりやすい解説には非常に助けられました。「洋泉社新書」「ちくま新書」)


今回、『知の考古学』を読んでみました。以下は私自身のためのノートです。

ただ私にはフランス語がまったく読めないという致命的な欠陥があります。加えて、今回はまだ英訳も入手していませんので、私の今回の読解は、日本語訳だけに基づく、極めて不十分で偏ったものです。

個人的には読み進めながら、ソシュールらの構造主義に関する常識的理解、ルーマンのシステム理論に関するある程度の理解(社会システムとしてのテキストにとって、作者という心理システムは、直接に連結されていない外部(「環境」)である)、デリダに関する表層的な理解(差異に着目することの重要性)、あるいはレヴィナスに関する一知半解(「全体性」の批判)などが、このフーコー作品の読解を助けてくれたように思っていますが、これも誤解で、むしろ私はこれらの知識でフーコーをより誤読しているのかもしれません。

言い訳はこのくらいにして、まとめを始めましょう。


フーコーは「考古学」において、<言説>(ディスクール)の記述を目指します。これは「書物」でも「理論」でもなく、例えば「時間を貫いて医学というもの、経済学というもの、あるいは生物学というもの、として与えられている、身近でもあれば謎をも含んでいるさまざまな総体のこと(1ページ)」だとフーコーは述べます(ここで医学、経済学、生物学が例に挙げられているのは、この本が彼の『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』を方法論的に総括するものだからです)。

フーコーは彼の「考古学」の試みを、従来の「思考史」と対比させています。起源を求め、そこから伝統を再構成し、その起源から伝統への同一性を強調する「思考史」は、あたかも思考の中に<他者>を考えるのをおそれていたかのようであるとフーコーは「思考史」を批判します。


起源を求めること、無制限に先立つ系譜を遡ること、伝統を再構成すること、進化の曲線をたどること、目的論をうち出すこと、たえず生の隠喩に立ちかえること、などに慣れてしまったところでは、差異を考え、偏差や分散を記述し、同一なもの、心を静めてくれる形態を解体させることに、独特な嫌悪を感じていたがごとくである。あるいはいっそう正確にいえば、あたかも、閾、変動、独立したシステム、限られた系、などの諸概念--これらは実際には歴史家たちによって使われているのだが--から、容易に理論をつくりかね、一般的な帰結を引出したり、さらにはすべてのありうる内含を派生させたりしかねていたがごとくである。あたかも、われわれ自身の思考の時間のうちに、<他者>を考えるのをおそれていたかのごとくである。(23ページ)


フーコーの「考古学」の試みは、一般性を堅固に打ち立てようとする「思考史」とは異なり、「言表」(エノンセ)を緻密に、透徹するように読むことにより、その「言表」の特異性を明らかにしようとするもののように思えます。


重要なのは、その出来事の狭さと特異性のうちに、言表をとらえることである。その存在条件を決定し、限界をもっとも正当に定め、それに結びつきうる他の諸言表との相関関係をうち立て、それが他のいかなる言表形態を排除するかを示すことである。人々は決して、明白なものの下に、他の言説の半ば沈黙のつぶやきを探し求めることはしない。むしろ、なにゆえに、それが他のものではありえなかったのか、いかなる点でそれが他のすべてを排除しているのか、いかにしてそれが、他のもののなかで、また他のものとくらべて、他のいかなるものも占め得なかった場所を得ているのか、を示すべきなのである。このような分析にふさわしい問いは、次のように定式化されよう。一体、述べられていることのうちに現れてきて--他のいかなる場所にも現れない--この独自な存在は何なのか?(45-46ページ)


こうして言表の分析を目指す場合、以下のような問いも当然生じてきます。


(1) 誰が語るのか?語るすべての諸個人の総体のなかで、誰が、この種の言語を有する理由があるのか?誰がその有資格者なのか?誰がそれから自己の独自性、威信をうけとるのか?
(2) 言説がその正当な起源と適用の眼目を見出すような、さまざまな制度的<場所>は何なのか?
(3) 主体のさまざまな立場を規定する、主体がさまざまに異なった対象の分野やグループに関して占めうる位置とは何か? (79-81ページの記述を柳瀬が要約)


かくして、「考古学」は、言表の起源としての一個の主体の堅牢性を激しく問い直し、そういった意味での主体を解体しようとします。


こうした分析において、言表行為のさまざまに異なった様態は、総合というもの一個の主体の統一化機能というものに問題の解決を托す代わりに、主体の分散を明示する。さまざまに異なった規約において、さまざまに異なった場所において、主体が言説を述べるときに占めうる、あるいはうけいれうる、さまざまに異なった立場において。そこから主体が語る諸平面の非連続性において。そして、もしこれらの平面が諸関係の一システムによって結びつけられている場合には、そのシステムは、自己と同一の、無言の、あらゆる言葉に先立つ意識の綜合的活動によってではなく、言説=実践の特殊性によって、確立される。(84-85ページ)


あるいは言表の主体をフーコーは次のようにも説明します。


それゆえ、言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。実体的にも機能的にも、そうである。事実、言表の主体は、一つの文の書かれたあるいは口で述べられた分節化というこの現象の原因でも、起源でも、出発点でもない。それはまた、沈黙のうちにあって語を侵し、語に秩序を与えその直観の可視的な修正とする有意味な狙いではない。それは、さまざまな言表が順番に言説の表面において明示するようになる一連の活動の、恒常的で不動、かつ自己同一的な、中心ではない。それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--一つの場所である。だが、この場所は、決定的に規定され、一つのテキスト、一冊の書物、一つの作品の全体を通じて、かようなものとして規定される代わりに、変化する。--あるいはむしろ、それは、多くの文を通じて自己同一的なものでありつづけうるためにも、それぞれの文とともに変容しうるためにも、十分可変的なものである。それは、言表としてのすべての定式的表現を特徴づける一つの次元である。(144-145ページ)。


そうなると当然といいましょうか、言表の総体も、閉ざされた全体ではありません。


言表の一総体を、一つの意味作用の閉じた、過剰な全体性としてでなく、空隙をもち寸断された一つの形象として、記述すること。言表の一総体を、一つの意図、一つの思考、一つの主体の内在性との関連においてではなく、外在性の分散に応じて記述すること。言表の一総体を、そこに起源の瞬間あるいは痕跡を見出すためではなく、一つの累合の特殊的な諸形態を見出すために、記述すること。これはもちろん一つの解釈を明るみに出すことではなく、一つの基礎を発見することでも、構成的な諸行為を解放することでもない。これは、一つの合理性から決定することでも、一つの目的論をたどることでもない。(192ページ)


「述べられたことの領域」をフーコーは<集蔵体>(アルシーヴ)と呼びますが(II)、彼はその分析は、私たちの差異を明らかにするものだと述べます。差異の中の連続をフーコーは明らかにしたいのでしょうか。


だが、それ[=集蔵体]はわれわれを、われわれの連続性からひきはなし、歴史の切断を払いのけるためにわれわれが好んで自己自身を眺める場所たる時間的な同一性を霧散させる。それは、超越論的な目的論の糸を断ち切る。そして、人間学的思考が人間の存在(エートル)やその主体性を問う場面では、それは他者や外部をはっきり明示する。かような意味での診断は、区別の働きによって、われわれの同一性の確かさをうち立ててはくれない。それがうち立てるものは、われわれが差異であり、われわれの理性が言説の差異であり、われわれの歴史が時間の差異であり、われわれの自我がさまざまな顔の差異である、ということである。差異とは、忘れられ、再び蔽われた起源などでなく、われわれがそうであるところの、また、われわれがつくるところの分散である。(202ページ)


冒頭に述べましたように、私のこのまとめの正当性については保証できません。ご興味がある方はぜひオリジナルをお読み下さい。

参考:Wikipediaの記述


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2008年10月9日木曜日

エクセル(Excel)で行なうタスク管理

学生の皆さんも、そこに出席すれば基本的に終わる「スケジュール」のマネジメントは手帳などで行なっているでしょう。

ですが、完了するために数日から数週間、あるいは数ヶ月かかるような「タスク」(あるいは「プロジェクト」)の管理はおろそかになっている場合が多いように思います。

毎日毎日「スケジュール」に追われて、いつの間にか莫大な「タスク」に驚くといった経験はないでしょうか。毎日真面目にやっていれば、タスクもきちんと期日通りに完成するといいのですが、時にタスクを分析して見通しを得ていないと、とんでもないことになることがあります。

私たちがやることは「緊急」と「重要」という二次元で分析するべきかと思います。スケジュールは「緊急」なことですが、それは「重要」なものもあれば「重要でない」ものもあります。一方「タスク」は常に「重要」でありますが、たいていの場合「緊急ではない」ものです。私たちの最悪の仕事のやり方とは、「重要でない」が「緊急」なスケジュールに追われて、「緊急ではない」ものの「重要」なタスクができなくなってしまうということです。

私たちがやらなければならないことを「スケジュール」と「タスク」に分けて、さらにその「タスク」も適当に分割することによるマネジメントは覚えておけば重宝するのではないかと私は実感しています。

ここにエクセル(Excel)を使ったタスク管理(日単位)の例のファイルを公開します。

タスク管理(日単位)のダウンロードはここ (Sheet2で月単位のタスク管理ができるようにしました 2008/10/11)


架空のスケジュールを入れていますので、適宜変更してうまく使いこなしてください。

修論や卒論の提出を半年後に控えた院生・学生さん、あるいは多方面で活躍する院生は、このファイルのような一日ごとの管理が必要になると思います。


修論や卒論の提出あるいは就職試験などを一年後に控えた院生・学生さんは、一週間ごとの管理の方がいいかもしれません(あるいは半年後でも週単位の管理を好む人もいるかもしれません)。

タスク管理(週単位)のダウンロードはここ


あるいは皆さんが、まだ学部一年生か二年生もしくはM1であったとしても、例えばTOEFL受験や留学準備などの大きな目標を持っているなら、月ごとの管理はしておいた方がいいと思います。

タスク管理(月単位)のダウンロードはここ


スケジュールを忘れる人はあまりいません(忘れたら誰かが教えてくれます)。しかしタスクを忘れてしまう人は実に多いことをどうぞご注意下さい(あなたにとって大切なタスクを知っている人はあなたしかいません)。後で「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」と思っても後の祭りです。

学力あるいは仕事力の大切な部分は、こういったタスク管理にあるといっても過言ではないと私は思っています。




いずれにせよ、集中する時は集中し、休む時は休んで、貴重な学生生活を充実させてください。

追記(2008/10/11):
私自身は、インターネットさえあればどこでも使えるGoogleのドキュメントのスプレッドシートを使ってタスク管理しています(GoogleスプレッドシートはExcelほど使い勝手はよくありませんが、ネット環境があればどこからでもアクセスできるのは非常に便利です)。

私のブラウザは立ち上げると最も左(すなわちトップ)画面にタスク管理、次にGoogleカレンダー、次にGmail、次に私が管理している掲示板とSNSが現れるようにしています。

毎朝パソコンを立ち上げたら、タスク管理(日単位、月単位)で私の中長期の計画を確認した後、ファイロファックスの手書きの手帳に書かれたスケジュール(これが確定スケジュール)をGoogleカレンダーのスケジュールとチェックします。

わざわざGoogleカレンダーにもスケジュールを書くのは、一日の使い方を可視化し、またその予定が変更になったときも、Googleカレンダーで自由に予定を変更し、予定していた仕事がきちんと終わるように確認できるようにするためです。それからメールや掲示板、SNSの管理をします。最初にメールを見てしまうと、その返事などに追われるうちに次の仕事が入ったりして、その一日の最も効果的な使い方を確認しないままに一日が過ぎてしまうことがあります。タスク管理を毎日、一日の最初に行なうことは重要なことだと私は考えています。

追追記:
やはりGoogleスプレッドシートには機能上の不足を感じるようになりましたので、スケジュール管理はエクセルで行なうようにしました。そのエクセルシートはファイルサーバーにも上げて、どこからでもパスワードで開けるようにしています。





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2008年10月8日水曜日

Two Japanese and one Tokyo-born American

今朝BBCニュースを見ていましたら、ノーベル物理学賞は"Two Japanese and one Tokyo-born American"が受賞したと言っておりました。

一方、日本の新聞メディアは、以下に例を示すように、本文中では南部陽一郎氏の米国籍について言及しているものが多いものの、多くの新聞は「日本人3氏」を強調していました。

また、米国のThe New York Times、パリに基盤をおくInernational Herald Tribune、英国のThe Guardianは、やはりそれぞれの背景を反映したような見出しと記述になっていました。

「日本人」という言葉は、日常語ですから、ウィトゲンシュタインの家族的類似性が教えるように、多様な用法の間には、特段一本の本質的特徴が共有されているわけでは必ずしもなく、状況によってさまざまに使い分けられているわけなのでしょう。

ですからここで「日本人とは何か?」という日常語に関する議論を行なうつもりはありません。

ですが、日本語使用場面の多くで「日本人」と呼ばれている人物が、英語使用場面の多くで必ずそのまま"Japanese"となるわけではないことは事実として認識しておく必要があるでしょう。

また、ある人がまなじりを上げて「日本人は・・・!」と主張をする際、彼/彼女はいったい何を意味しているかを問い直す習慣もつけておくべきではないでしょうか。


ちなみに、皆さんは、以下の見出しと言及を比べて、どの新聞のスタイルがお好きですか?


朝日新聞
見出し:ノーベル物理学賞、素粒子研究の日本人3氏に
米国籍に関する言及:なし
http://www.asahi.com/special/08015/TKY200810070297.html

産経新聞
2008/10/08 9:12 時点では掲載無し
http://sankei.jp.msn.com/

東京新聞
見出し:日本人3氏ノーベル賞 素粒子研究で『物理学』独占
米国籍に関する言及:南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授(87)=東京都生まれ、米国籍=
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008100890071239.html

毎日新聞
見出し:ノーベル物理学賞:益川教授ら日本人3氏に授与
米国籍に関する言及:米シカゴ大の南部陽一郎名誉教授(87)=米国籍
http://mainichi.jp/select/today/news/20081008k0000m040062000c.html

読売新聞
見出し:ノーベル物理学賞に南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏
米国籍に関する言及:米国籍で日本人の南部陽一郎・シカゴ大学名誉教授(87)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081007-4686911/news/20081007-OYT1T00543.htm

The New York Times
見出し:Three Physicists Share Nobel Prize
米国籍に関する言及:An American and two Japanese physicists on Tuesday won the Nobel Prize in Physics ...
http://www.nytimes.com/2008/10/08/science/08nobel.html?_r=1&scp=4&sq=nobel&st=cse&oref=slogin

International Herald Tribune
見出し:2 Japanese, 1 American share Nobel in physics
米国籍に関する言及:The American, Yoichiro Nambu, 87, of the University of Chicago
http://www.iht.com/articles/ap/2008/10/07/europe/EU-Sweden-Nobel-Physics.php

The Guardian
見出し:Nobel prize for physics goes to work on fundamental laws of nature
米国籍に関する言及:Yoichiro Nambu, 87, at the Enrico Fermi Laboratory at the University of Chicago...
http://www.guardian.co.uk/science/2008/oct/07/nobel.physics








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2008年10月7日火曜日

週刊『東洋経済2008年5月17日号』の数字から

週刊『東洋経済2008年5月17日号』の特集「子ども格差 このままでは日本の未来が危ない」は読みごたえのあるものでしたが、その中で印象的だった数字を抜き書きしておきます。


■夫婦子一人世帯(有業者あり)の収入・支出と教育費

世帯の状況 / 月収 / 消費支出(月額) / 教育費(月額) / 保健医療費(月額)

最下層(第1・五十分位)/ 14万円 / 20.6万円 / 365円 / 4299円
下層(第1・十分位) / 22万円 / 21.6万円 / 742円 / 4015円
富裕層(第5・五分位) / 94万円 / 45.1万円 / 8116円 / 6004円

(出所)厚生労働省「生活扶助の基準に関する検討会(第一回)資料」(2007年10月19日)。原典は総務省「2004年全国消費実態調査特別集計」 (雑誌では38ページに掲載)


■公立高校の授業未納率
日本高等学校教職員組合(日高教)の調査によれば、公立高校の授業料未納率(07年度)は全日制5.7%、定時制22.4%、全体では7.4%。(雑誌では76ページに掲載)



⇒関連記事へ

⇒旧ホームページ「数字」へ







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10/25(土)「小中学校英語教育セミナーin広島」

「小中学校英語教育セミナーin広島」

日時:2008年10月25日(土)13時~17時
会場:広島文教女子大学 大講義室
広島市安佐南区可部東1-2-1
主催:(財)日本英語検定協会
後援:広島市教育委員会(予定)
協力:広島文教女子大学

【タイムスケジュール】
13:00~13:10 オープニング
13:10~14:00 講演Ⅰ 山田 雄一郎(広島修道大学教授)
         「英語はどのように学べばよいのか」
14:00~14:50 講演Ⅱ 柳瀬 陽介(広島大学准教授)
         「小学校英語」~なぜ、なにを、どのように~
14:50~15:50 休憩・文教女子大学プレゼンタイム
15:50~16:50 パネルディスカッション

□パネリスト□
山田 雄一郎(広島修道大学教授)
柳瀬 陽介(広島大学准教授)
堀部 秀雄(広島工業大学教授)
三熊 祥文(広島文教女子大学教授)
小林 美代子(神田外語大学教授)
総合司会:日本英語検定協会
17:00      クロージング

入場無料

お申し込み先、お問い合わせ先:
(財)日本英語検定協会 小学校英語課(浜田)
FAX03-3266-6590
メール m-hamada@eiken.or.jp

PDFファイルのダウンロードはここをクリック

2008年10月5日日曜日

私はなぜCritical Applied Linguisticsを教えるのか

今年度の後期の授業(大学院)より、私はAlstair Pennycook先生によるCritical Applied Linguistics: A critical introduciton (Lawrence Erlbaum Associates)を使った授業を始めます。いきなりテキストを読み始めても難しいかもしれないので、まずはウェブリソースを使ってキーワードを確認して、それからテキストを一章ずつ読んでゆきます。

ここではなぜ私がCritical Applied Linguisticsを教えることを決めたのかを簡単に説明します。


■日本の英語教育研究の現状

日本の英語教育研究では、量的心理学(対象は個人内認知)が主流になってしまっていることは前に述べた通りです(ちなみにこの記事に関しては「女教師ブログ」が面白い記事を書いています)。しかし対抗勢力も日本でも無いわけではなく、質的研究法に習熟し、「量的か質的か?」といった二項対立的な発想にとらわれず、両者をそれぞれの限界をわきまえながら使いこなす若手の研究者も少しずつ出始めました。またナラティブ研究に従事する吉田達弘さん(兵庫教育大学)などの優れた研究者もいます。


■海外での社会文化的アプローチ

上記のような新しい流れの背後には、社会文化的アプローチ(sociocultural approach)があり、例えばJames Lantolf先生、Claire Kramsch先生、Leo van Lier先生といった優れた研究者が、言語学習や言語教育を、個人内認知の枠組みにとらわれない形で研究しようとしています。

これらの流れに関する感受性は、日本では英語教育研究者よりも、むしろ日本語教育研究者の方が高く、その一端は、佐々木倫子、他編『変貌する言語教育』くろしお出版といった優れた本に見ることができます。

こういった社会文化的アプローチは、日本の英語教育界でももっと研究され、現実をより的確に捉えるためのパラダイムをものにする必要があります(言うまでもなく、これはそれほど簡単なことではありません cf. 「社会的構築主義による脱構築」)。

ですが、このアプローチの先には、社会や政治をより本格的に考察する必要が待ちかまえているように思えます。


■社会的・政治的研究の重要性

言うまでもなく、英語教育(特に学校英語教育)というのは、社会的な営みであり、それは政治的な流れの中で方向や制度が決定されています。さらにその政治的な動きの根底には、また経済的な考慮があることも、現代資本主義の社会で否定することはできないでしょう。英語教育研究も、個人認知の枠組みを超えて、学びの共同体に着目するだけでなく、「共同体」よりも大きな「社会」(あるいは「世界」)を考えなければ、現実を的確に捉える研究にはなりません。

もちろんそのようにいわば「マクロ」の視点を取る研究もこれまでなかった訳ではありません。量的(個人)心理学が80年代中頃から隆盛する以前の70年代の日本の英語教育研究では、英語教育制度の国際比較が活発に研究されてきました。90年代からの日本における津田幸男先生、中村敬先生、大石俊一先生らによる「英語帝国主義」の告発は、国際的に見ても重要な価値を持つものでした。さらに近年は、英語教育プロパー以外の研究者によるマクロな視点からの重要な著作も多く刊行されています(例えば「女教師ブログ」のまとめに従うならこれらの著作)。

最近で注目すべきは、江利川春雄先生の研究で、例えば先日行なわれた慶應義塾大学でのシンポジウムでも江利川先生の発表は、その政治的感覚の鋭敏さにおいて秀逸でした(PDFファイルはここ )。

さらにこれらの研究の全てをしのぐようなスケールの大きさと実行力で、独自の研究活動を続けていらっしゃるのが寺島隆吉先生(寺島研究室 および別館)であり、その知的スケールと実行力、そして教育の現実に根ざした実に地道な活動の組み合わせは、日本人研究者にはあまり見られないほどです(私には、日本の英語教育界の「本流」あるいは「本丸」は、寺島先生のこれらの多様な統一性を扱いかねているようにすら思えます)。

こういった研究の流れを見て、私は、このような研究をさらに社会変革のために有効なものとするには--学問が社会的に中立であるべきだというのは、最も狡猾なイデオロギーにすぎません。また変革を必要としない社会などありません--、「近代」をもう一度きちんと問い直すべきであり、さらに「批判的」であるということは、どういうことかという「批判的であることに関する批判的な考察」が必要であると考えるようになりました。以下、その二つの論点について簡単に説明します。


■近代の問い直しの必要性

近代の問い直しとは、もちろん80年代からの「ポスト・モダン」においてもテーマとなっていました。もちろんこのテーマは例えば戦前京都学派による「近代の超克論」でも扱われていたものであり、江戸から明治への急速な近代化を図り、それがいったん暴走した後、GHQにより再度の急速の近代化を迫られた日本にとっては未だに重要な問題です。

ところが現在の日本の英語教育界において「ポスト・モダン」と発言すれば、ほとんどの聴衆に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をされるだけでしょう(私がこの状況をある教育学者の友人に語った時の、彼の驚きの表情は忘れられません)。しかし現代の社会、経済、政治を分析しようとすれば、どうしてもスパンを大きく取り、(それが何を意味するものであれ)「近代」を再考察しなければならないと私には思えます。

私がそう強く思うようになったのは、今年の春にアレントの『人間の条件』を再読した時である。今春、私は今年限りの特別授業で、英語・国語・日本語の大学院生(M1)の一部と『人間の条件』を読んだ。その下調べの過程で痛感したのは、近代理解の重要さであり、またマルクスの著作を理解しておくことの重要さでした。英語教育において「人間」を考えるためにも、近代を批判的に理解しておくことは重要であると私は考えるようになりました。


■「批判的」研究の重要性

しかしこの「批判的」という言葉がくせ者です。古今東西、「批判的」と称する人が、最もイデオロギーに凝り固まった者であったり、最も自分に批判が向けられるのを嫌がる者であった例には枚挙に暇がありません。「批判的であることに関する批判的な態度」とは単なる畳語表現でなく、知的に非常に重要な態度です。

この点、Alstair Pennycook先生によるCritical Applied Linguistics: A critical introduciton (Lawrence Erlbaum Associates)を読みながら考えることは、近代を問い直し、批判的であるということはどういうことかも問い直す格好の機会になるかと思います。そうやってこそ、英語教育という営みの社会的、政治的分析も現実的な力を持つものと私は信じています。

以上が、私が大学院でCritical Applied Linguisticsを教える理由です。

⇒キーワード解説ページ(英語)へ







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Checks (and balances)

私が評議員をさせていただいているあるインターナショナル・スクールの会議では、しばしば"checks and balances"という言葉が聞かれる。実際、この概念は、さまざまな仕組みで実践されるように工夫されている。

だが私が目にする日本の官僚組織では"checks"という発想はあっても、"checks and balances"という発想はほとんど見られない。官僚組織(「お上」)が、「下々の者」をチェックして管理・指導する文化は制度化され、その傾向は近年ますます増大しているようにも思えるが、逆にその「お上」自体をチェックして管理する仕組みはほとんどない。

もちろんある官僚組織が、その上位の官僚組織にチェックされ管理されることはあるだろう。しかしそこでのチェックと管理の流れは上から下への一方向であり、"checks and balances"で言われるような、水平的で相互の、バランスを取るためのチェックと管理の体制にはなっていない。

「お上」とて迷走・暴走し、間違いを犯すというのは古今東西の事実であり、人間に間違いはつきものである以上、それはある意味仕方がないことである。だが日本の「お上」は、(本当に驚くべきことに)未だにもって無謬を是とする。自らの間違いはなかなか認めようとしない。自らの間違いや偏りを恒常的にチェックし、権力関係のバランスを保とうとする制度を作ろうとしない。作ったとしても、その制度に関与するメンバーを懐柔し、骨抜きにしようとする。

政治家という権力者とて、選挙という形でその権力行使のバランスが保たれる。しかし日本の官僚の権力にバランスを保つようチェックをかける強力な制度は存在しない。もちろんスキャンダルが起きればその権力にチェックが入るが、その騒ぎもしばしば「トカゲの尻尾切り」だけに終わる。75日も過ぎれば元の体制に戻っているのかもしれない。

私は官僚組織による管理やチェックを廃止しろというのではない。官僚組織の権力は保たれなければ、複雑な社会は動かない。ただ、官僚組織の権力をチェックする対抗権力は必要だ。それはマスコミやこのブログのような世論だけでは心許ない。できれば西洋の政治哲学が教えるように、公式の政治権力構造の中に、制度として複数の権力が"checks and balance"のために組み込まなければならない。そうしてこそ権力への信頼度は増し、ダイナミックな社会が生まれる。

一般論・抽象論として語っているが、現象としては、私は近年の教育界での管理とチェックの増加について懸念している。管理とチェックが必要で、かつそれらが効果的な学校も教員もいるだろう。ただ管理とチェックは過剰になろうとしてはいないか。管理がやたらと形式的になり、チェックがやたらと書類になり、教員が児童・生徒と向き合う時間を奪っていないか。教科指導のための自己研修をする時間を消し去ってはいないか。教師として生きる意味や気力を失わせていないか。教師をどんどんと事なかれ主義の人間に変えようとしていないか。教師をまともに考えず、感じることもない人間にしようとしてはいないか。管理とチェックを管理しチェックしている者はいるのか?管理とチェックにはバランスが保たれているのか?管理とチェックの体制は不必要に教師を抑圧し、それに対して声を出す者に不当な制裁を与えてはいないか。

これから近代化をしようとする黎明期の、秩序を欠く国家ならともかくも、「お上は間違いを犯さない」などという建前は、現代の日本には必要ない。むしろ害をなしていることは自明だろう。

互いが間違いを犯す人間に過ぎないことを認め合って、互いに厳しくも温かい社会を作り上げ、維持し、発展させることこそが私たちの課題ではないか。

チェックばかりして、自らのチェックは拒む権力には気をつけろ。


*****以下はWikipediaの記述*****

Checks and balances

To prevent one branch from becoming supreme, and to induce the branches to cooperate, governance systems that employ a separation of powers need a way to balance each of the branches. Typically this was accomplished through a system of "checks and balances", a term which, like separation of powers itself, is specifically credited to Montesquieu.
http://en.wikipedia.org/wiki/Separation_of_powers#Checks_and_balances

2008年10月4日土曜日

ある工場の話

ある工場があったとする。

小さな工場である。そこで働く者は、そこで作る製品に誇りを持っており、納入先との話し合いも熱心に行っている。すべてが完璧というわけではもちろんないが、懸命に毎日の仕事に励んでいる。

そこが工場見学・研究発表会を行うことになった。工場での仕事ぶりを公開し、なおかつ研究発表を行い、その会合でその工場が現在目指している課題を示す。

工場見学が終わり、日頃その工場から納品を受けている関係者は体育館のような会場で研究発表会が始まるのを待っていた。すると工場長が「ただ今より、来賓の方々がご入場なさいます。皆様、拍手でお迎え下さい」と指示をする。工場の人間は全員その瞬間から直立不動である。

先頭を切って入ってきたのは、明らかに日頃スーツを着慣れていないと思われる人物であった(後にこれは、技術顧問として外部から時々工場に来ている大学の研究者だということが判明したが、彼はこの報告ではまったく重要ではない。以後、彼の記述は省く)。続いて入ってきた集団は、きっちりとスーツを着こなした本社管理部門の一行であった。彼/彼女らの胸には紅白のリボンがつけられている。加えて彼/彼女は工場の規則でスリッパをはかさされているのは、彼/彼女らのスーツの立派さと対比すると滑稽でもあるのだが、彼/彼女らにはそのリボンやスリッパを問題にさせないぐらいの威厳をもって入場してきた。

彼/彼女らが着席すると、工場長が一層緊張した面持ちで彼/彼女らを紹介する。「ご来賓の方々をご紹介させていただきます。本社管理部門○○部○○長、○○○○様、○○部△△長、△△△△様、○○部□□代理□□□□様・・・」。フルネームでの紹介は厳かに続く。紹介された本社管理部門の面々は紹介される度に深々と礼をするが、その礼は会合に集まった人間への敬意を表すためというよりは、自らの威厳を示すためのように思えた(紹介が後になり、本社での階層が下がるにつれ、威厳の表現が少しずつ減ってゆくのを見るのも面白い光景であった)。

やがて工場研究開発チーム主任の発表が始まる。現場を知り尽くした者による興味深い発表であった。

やがて「ご来賓の方からのご講評をいただきたく存じます」と工場長が述べる。来賓席の末席にいる本社管理部門の人間が国旗と社旗に深々と礼をし--彼はお辞儀のやり方の模範を示しにきたのだろうか--講評を始める。

講評は「無難なスピーチ」の見本であった。短い講評であったが、そのポイントを後で尋ねられた者の多くは、「いや、そういえば何だったのだろう」と困ってしまうほど、人の心に届かないスピーチであった。(その後、大学の研究者が間抜けな講演をするが、彼については述べないことは先ほど言ったとおりである)。

会が終わり、工場長が工場関係者を一斉に立たせて声をまた少し張り上げる。「ご来賓の方々がご退場なさいます。皆様、拍手でお送り下さい」。先頭の大学人を除いての本社管理部門の態度が威厳あるものであったのは言うまでもなかろう。

こうして工場見学・研究発表会は終わった。

日頃からその工場で作られる製品を受け取り使用する関係者(いわば工場のカスタマー)は誰も一言も発言しなかった。というより発言する機会は与えられなかった。


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このような会が定期的に行われる工場の未来について、あなたはどう考えるだろうか。私には、このように本社管理部門がカスタマーよりも崇められるような工場に明るい未来はないと思う。工場員はカスタマーの声より本社管理部門の声を気にするようになる。やがて工場の製品は劣化し、カスタマーの期待に応えられなくなるかもしれない。そうなれば本社管理部門は一層の威厳を持って工場訪問をし、管理強化を行なうだろう。だが、カスタマーや現場よりも、本社管理部門の面々の表情を読む文化をしつけられた工場が簡単に再生できるとは私はあまり思えない。

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「そんな工場があるなら大変だ。ぜひ私がそこに行き、またその本社の管理部門にかけあって・・・」とご心配された方があれば、無駄をさせてしまった。実は上の話は工場での話ではない。実話を語ると差し障りがありそうなので、状況を工場に変えただけだ。

我が国の行く末を懸念されるなら、工場以外の場所で進行していることに目を向けていただきたい。