ラベル 言葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 言葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年11月14日日曜日

桜井章一(2009)『負けない技術』講談社+α新書

ヒクソン・グレイシー氏の本を買ったのには、氏を桜井章一氏が高く評価しているということがありました。私は桜井先生を―以下私が私淑している方は先生と呼ばせていただきます―甲野善紀先生の著書から知りました(Twitterはここ)。私が内田樹先生を知ったのも甲野先生の書かれた文章からでした。私は甲野先生を除いて、これらの方々に直接お会いしたことはありませんが、この方々は私に自分の人生を律することを教えてくださる大切な方々です。



桜井先生のこの本もずいぶん前に読んでおいて気になっていたのですが、グレイシー先生の本を読んで気になり再読しましたら、やはり深さを感じましたので、ここでも若干紹介させていただきます。桜井先生の著書は、近代的な生活で歪んでしまった私たちの心身に回復力を与えてくれるものかと思います。自分に「生きる力」が不足していると感じる方(特に「ゆとり世代」の若い人―こんな言い方はあまり好きではありませんが、やはり多くの若者を見ているとこう言わざるを得ません―)はぜひお読みください。


「勝つこと」ではなく「負けないこと」

この本のタイトルは「負けない技術」ですが、「負けないこと」は「勝つこと」と大きく異なると桜井先生は説明します。「負けないこと」は、動物にとっては「食われないこと」(=捕食されないこと)、植物にとっては「枯れないこと」と言い換えられるかとも思いますが、生物の本能に根ざすことです。生物は生物である限り「負けないこと」を目指します。

しかし「勝つこと」は本能を超えた人間的な欲望です。生き残るためには「負けないこと」だけで十分だからです。それを「負けない」だけでなく、相手を叩きのめしてしまいたい、自分が優位であることを見せつけたい―「勝ちたい」―と思い始めると、その欲望に限度がなくなり、人間は汚いことやずるいことも平気でするようになります。必要のない能力や争いを求めるようにもなります。


この「勝ちたい」という欲望は、現代社会が持っている欲望にとてもよく似ている。
勝ったまま死んでいく人はこの世にひとりとしていない。ただ、負けないように死んでいくということはできるかもしれない。(13ページ)



それではどうすれば「負けない技術」を身につけられるのか。桜井先生は次のように説明します。


「勝ちたい」という思考は自然界の中には存在しない。
自然界の中にいる動植物たちには「本能で生きる」、つまり「負けない」という普遍のスタンスがあるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
人がこの「負けない」力をつけるには、自然界の中にいる動物たちのように変化に対する動きと完成を磨くことである。
世の中のあらゆることは動いている。さまざまなものごとが絶え間なく動き、変化することで世の中が成り立っている。流れが止まれば生き物はたちどころに死に絶え、この世はこの世でなくなる。
つまり「生きる」ことは動きや変化に対応し、順応するということ。そしてそれは、あらゆる世界に通じる真理でもある。(4ページ)


「負けない」人間を育てるには、「褒めて育てる」ことに疑いをもてとも桜井先生は言います。


そもそも、「褒めてもらおう」という人間関係は卑しいものだ。褒めてもらいたいがために、自分の好みではなくても無理に取り繕って、褒めてもらえそうな行動をしようというのだから。(95ページ)

今の社会で生きる人すべてにいえるのは、褒められることを求めている一方で、とめどなく人の悪口を言って生きている、ということだ。
褒められたい人間は、褒められなくなると文句ばかりつけるようになる。それで世の中はクレーマーだらけになっていく。だったら、褒めること、褒められることなどを求めず、人の悪口を言わないようにしていけばいい。(96ページ)


格別に褒めることや褒められることを求めることなく、日常生活の一瞬一瞬を大切にすることを桜井先生は「平常心」と呼びます。


「平常心とは、なにがあっても揺れない心」と多くの人が解釈していると思う。だが、私の平常心に対する解釈はちょっと違う。私の考える平常心とは、日常という「常」を大事にすること。日々の暮らしを大事にする、そんな当たり前の気持ちこそが平常心なのだ。(154ページ)



私たちが「教育」と呼んでいる試みの中でも、私たちは「勝ち組」になることばかり教えて、日々の暮らしをないがしろにし、他人に冷酷になり、現状の枠組みには順応できるけれども、新しい変化にはまったく対応できない人間を育てようとしているのではないかと思うと恐ろしくなります。

いや他人のことより、自分が「勝ちたい」という欲望にまみれた人間であるかどうかを心配する方が先でしょう。



⇒アマゾンへ










Go to Questia Online Library

【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

桜井章一(2010)『努力しない生き方』集英社新書

私は「大学」という「近代合理主義」を教える制度の中で生き、「学校教育」という「人間を近代化」する装置で働く教師を養成する仕事に従事しています。こういった状況で私は「近代合理主義」や「人間を近代化」することを当然の前提としてみなし始めます。

しかし同時に「近代合理主義」の限界や暴走も理解し始めます。「人間を近代化」することの胡散臭さや影の部分も感じ始めます。かといって前-近代に戻るわけにも行きません。どうにかして近代社会に住みながら近代社会の歪みを解体することを目指そうとします。「教育」を問い直しつつ「教育」を行なおうと考えています。

そういった意味で、桜井先生のこの本などは、私などがもっている近代的な世界観を根源的に揺さぶります。しかも桜井先生の言葉は、言葉をもてあそんでの詭弁でなく、自らの身体に基づいた言葉であるだけに、説得力があります。

私はいつものように、いくつかの文章を引用してこの本を紹介しようとしましたが、どの文章も抜き出したら、とたんにそれが本来もつ力を損ねてしまうような気がしてきました。

ぜひこの本は(いやこの本も)ご自身でお読みください。その読書の流れの中で、あなたの頑なな心が少しでも解されたら、この本が持つ大きな力があなたを根源的に揺さぶるでしょう。


以下は目次です。この本を読まずに目次を見る方は、逆説的な小賢しさや、現場を知らない無責任な放言といった通俗的なイメージでこの目次の言葉を捉えるかもしれません。そのような方こそ、ぜひこの本をお読みください。

逆にこの本を既に読まれた方、あるいは読書体験の有無を問わず、ここで桜井先生が語られている生き方を体得されている方はこの目次の言葉を目にしただけで微笑まれ、なすべき仕事・日々の暮らしにまた戻ってゆかれるでしょう。

くどいようですがぜひお読みください。




目次


第一章 「努力しない」から、いい結果になる

努力しない―力が入ったら疑え
持たない―持つほどに不自由になる
得ない―「得る」ことは「失う」ことである
恨まない―上手な諦め方は生きる力を生む
壁を越えない―壁は上に乗るといい
頑張らない―頑張ると柔らかさを失う
悟らない―悟らぬうちが花
苦しまない―期待しなければ苦しくならない
隠さない―賢く見せるのは賢くない


第二章 「何もない」から、満たされる

満たさない―「何もない状態」は豊かである
才能を磨かない―「生きる」という才能があれば十分だ
休まない―仕事が休みになる
相手を読まない―分析したらそこでおわりになる
「絶対」を求めない―アバウトなほうが的を射る
格好をつけない―「 」をつけないことが、格好いい
覚えない―知識は足すより引いてみる
急がない―ゆったりすると物事を鋭くつかめる
正さない―部分だけ正すと元に戻る
意味を求めない―意味のないところに可能性がある


第三章 「求めない」から、上手くいく

求めない―求めると願いはかなわない
目標を前に置かない―目標は横に置くといい
わからない―「わからない」ことをわからないままにする
メジャーを求めない―マイナー感覚があれば自分を見失わない
前だけに進まない―行く手ばかりを見るのは危ない
自由を求めない―自由はルールの中にある。
土から離れない―地面から離れるほど本能は衰える
我慢しない―「我慢すれば報われる」は錯覚である
愛さない―愛は本来不純なものである
熱くならない―熱血はあてにならない


第四章 「つくらない」から、いいものが生まれる

つくらない―つくると嘘が入る
「裏のない人間」にならない―表だけで生きるとおかしくなる
軸を一つにしない―360度回転する軸を持て
尊敬しない―尊敬は学びの機会を奪う
よいことをしない―よいことにとらわれると悪を生む
他人事にしない―他人事は自分事である
否定しない―嫌なものも自分の中を通してみる
健康を求めない―過度な健康志向は病である
安全・安心を求めない―安全な社会は生きる力を弱くする
貫かない―多様性を生きるとキャパも広がる


第五章「計算しない」から、負けない

計算しない―計算しないほうが勝つ
テクニックに頼らない―テクニックだけだと行き詰まる
エネルギーを抑えない―出せば出すほど湧いてくる
見ない―聞くことで相手が見えてくる
運を求めない―運を意識する人に運はこない
立ち止まらない―「休む」も「動き」の一つ
集中しない―集中は丸く広げていく
育てない―「育てない」から上手くいく
刺激を求めない―文明の刺激は感覚をおかしくする





⇒アマゾンへ









Go to Questia Online Library

【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

桜井章一先生の著作8冊

ついでですので、最近読んだ桜井章一先生の本をここで紹介しておきます。

『ツキの正体―運を引き寄せる技術』 (幻冬舎新書)

タイトルだけ見たら安っぽい本にも思えますが、もちろん深い本です。『努力しない生き方』 (集英社新書)というタイトルだけしか見ていない人は桜井先生は努力を一切否定していると短絡するかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。「正しい努力」について本書ではこう書かれています。


正しい努力、必要な努力とは、周囲の評価を求めないものです。
それは、自分という存在を磨くことや、自分に素直であろうとする心がけ、マニュアルを求めず、自分で何かを発見しようとする行動様式を指します。
あるいはまた、常に新しい自分に生まれ変わろうとして、前へ進み続けようとする姿勢です。どんなにつかなくても、正しい手順を追求しようとする生き方です。
それらに力を注ぐことを一口で表現すると「努力」になるのです。
私は、道場生にアドバイスするとき、正しい努力が足りない者には、
「今はもうちょっと努力したほうがいいかもしれない」
と話し、悪い努力でいっぱいいっぱいになっている者に対しては、
「努力なんかしなくていい」
と示唆します。間違った努力をしていると、頑張れば頑張るほど、あらぬ方向をさまよってしまうからです。自分を見失い、他人任せになり、さまざまな変化に鈍感になってしまう。その結果、新しい自分に変わっていく余地がなくなり、流れに間に合わなくなります。
悪い努力をしていると、場の流れに乗れなくなってしまうのです。
もし、いつでも誰にでも、判で押したように、
「もっと努力しろ。努力しないからダメなんだ。オレはものすごい努力をしてきたんだぞ」
などと自分の苦労話を得意げにする大人がいたら、信じないほうがいい。その人はおそらく、自分の中のコンプレックスをいつまでも消化できずにいるからです。
そして、何よりも、努力という言葉の意味をわかっていない可能性が高い。努力は誰かに認めてもらうものではなく、自分のために勝手にするものですから、自慢したり他人に共用しても意味がないのです。(74-75ページ)


私も自分の不全感から人に「悪い努力」を強要していないかと考えると恐ろしくなります。




『マイナー力(リョク) 「負け」が「勝ち」になる生き方』(竹書房)

現代の学校教育も「メジャー」を求め、「マイナー」であることを避けようとしています。教育の方法論でも、それがまったくの間違いであるわけではないのですが、「できる人」の話ばかりを聞き、「できない人」に目を向けようとしません。しかし教育の方法論を修得するとは、むしろ「できない学生・生徒・児童」から学ぶことを学ぶことなのかもしれません。


できる人に「どうしてできたんですか?」と聞くより、できない人を見ているほうが、よっぽどためになるのです。
たとえば、私自身が苦もなく最初からできることを、「なぜできるのか」なんて聞かれても、私の中からはきっと良い答えは導き出せないでしょう。「できる」という立場に安住して何かを伝えようとしても、一方的になるだけなのです。それでは上から目線の教育でしかない。

しかし、できない人をとことん観察して、または本気でできない者の身になって、「なぜできないのか」を追求していくと、だんだんとその理由が見えてくる。
そして、「こう指導すれば理解できるだろうな」という線が分かってくるのです。それは本当の指導になる。きっとこれは、できる人に何十回聞いても導き出せないアドバイスのはずです。
しかしながら、いまだ世間一般の「教え」というものは、全部先生側からしか発信していない、上から目線のものとなっています。(101-102ページ)


「できる人」ばかりを賞賛し、「できる生徒」を贔屓して、「できない生徒」を否定的な感情や(上から目線の)憐憫の感情をもってしか見ることができない教師―「できない人」を虚心坦懐に観察し、できない人と水平に立てない教師―は「教師」の名前に値しないのかもしれません(自戒の言葉です)。




『「育てない」から上手くいく』(講談社)

教員には通常、終身在職権が与えられていますから、時にとんでもなくいい加減な教師がいたりします。既得権益にあぐらをかいてしまう人です。そのように論外な教師を見ると「少しは熱心に教えろ」と言いたくなりますが、この「熱心さ」も、そのような例外的な状況は除くならば、注意を要する言葉です。


熱心はいいことだと思われていますが、私はそこに危なっかしさを感じます。なぜならひとつの思いや価値観にとらわれて、バランスを崩している状態を「熱心」と呼ぶこともできるからです。
私の経験からいって、「僕に任せてください」と張り切って言うような、やる気溢れる熱血漢ほどあてにならないものはありません。
そういう人は熱心であることがいいことだと思って、そういう像を演じているのです。でも、やる気をアピールする人間は自分の弱さをどこかでカバーしようとしてそうなっていることが少なくありません。
熱血や熱心はその意味でもろいものなのです。教育が熱すぎると子どもには無用なひずみを与えることになるし、最終的には嫌がって逃げてしまうものです。熱血はある機関は上手くいっても、そう長続きはしないものです。

子育てに熱心さは必要ありません。むしろ親や教師は自分が熱くなっているなと思ったら、熱さがはらんでいる怖さについて目配りしたほうがいいんじゃないかと思います。(39-40ページ)


というわけで、私は研究室の本棚の目立つところにこの本を置いています(笑)。





『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(竹書房)

要は、努力なしの人生は考えられないが努力も行き過ぎると歪むし、熱心さは重要な資質だがそれが加熱すると暴走するということ、つまりはバランスが大切―たとえて言うなら、「シーソーの真ん中に立つ」ことを学ぶべき―ということになりましょうか。

バランスは現在と非現在(過去・未来)の間でも必要かもしれません。過去のことをすっかり忘れ去り、未来のことも考えずに現在の享楽に走ることは論外ですが、かといって過去や未来に縛られて現在を生きることができないのも問題です。


「今度の仕事で、良い結果が出なかったらどうしよう」
「なんであの時、こうできなかったんだろう」
将来(後)のこと、過去(前)のことを考えている人は、結局「今」をおろそかにしているから悩んでしまうのです。
そういう人は、とにかく目の前のことを全力でやることです。それが別に仕事でなくてもかまいません。ご飯をたべること、気持よく寝ること、買い物に行くこと、散歩をすること、友達とおしゃべりをすること。今とは全く別のことを真剣にやってみるのも一つの手段です。とにかく何でもいいから一生懸命やってみる。
目の前のことや、今この瞬間に集中している時、人は決して悩んだりしないものです。(21-22ページ)





『突破力』 (講談社プラスアルファ文庫)

「今この瞬間に集中」する最適の方法は、日頃の自分の立ち居振る舞いの身体感覚を注意深く観察することかもしれません。私たちはロボットが立ったり歩いたりしたら驚きますが、それよりももっと精妙な私たちの身体の動きに驚くことを忘れてしまっています。身体を整え、鍛えるということは、特別なジムや道場に行かずとも、日常生活を丁寧に生きることによりできるのではないか、むしろその方がより効果的で有意義な鍛錬ではないかということを、私は最近甲野善紀先生の『甲野善紀の驚異のカラダ革命』(学研)を読んで強く思いました。例えば床からあるいは椅子から立ち上がる時に私たちはどのように立ち上がっているか。歩くときの重心や姿勢はどうなっているか―これらを観察しながら日常生活を送るだけで、かなりの静かな集中を得ることができます(ですが私はこれができていません)。昔の日本人はこれの静かな集中が「礼儀作法」という文化的な身体作法で修得されていたからこそ、明治維新や第二次大戦後の復興もやり遂げられたのではないかとすら思えます(そうすると身体作法を忘れた平成の私たちの未来に関しては楽観できません)。

桜井先生も姿勢の重要性を述べます。


背中は人間の軸です。背中を見れば、つまり姿勢を見れば、だいたいその人の人間としての力量はわかるものなのです。
特に勝負師の世界や職人の世界では、姿勢を大切にします。(63ページ)


私はなかなかできないと言いましたが、それでも常日頃から自分の姿勢や立ち居振る舞いをよく観察していたら、私も、余計なことを考えずに一つ一つの仕事に集中でき、少しはまともな人間になれるのかもしれません。

筋肉の量などは、歳を取るにつれ減ってゆきますが、人間の威厳というか風格―空威張りとは無関係の雰囲気―といったものは、こういった丁寧な日常生活の中から生み出され、ひょっとすると歳を重ねるごとに深いものになってゆくのかもしれません。年齢を重ねることについて桜井先生はこう言います。


私がいちばん恐れるのは、歳をとることによって現役「プレイヤー」でいられなくなることです。
老いを理由に、周囲から知恵や力を期待されなくなるのは、人として絶えられません。ただ生きているだけでなく、死ぬまで「プレイヤー」であり続けたいのです。
たとえば、電車内で理不尽な暴行事件のようなことに遭遇しても、
「自分のような腕力の衰えた年寄りが割って入っても、とておも止められないな」と諦めるような、そんな年寄りには、なりたくないのです。
昔は、おっかないお年寄りというのが、どこにでもいたものです。
体力や腕力という意味ではなく、つまり、叱り方に迫力があったのです。
いまは、怒っちゃいけない、張り倒しちゃいけない、という教育のなかで育った大人たちばかりなので、言葉そのものにも迫力がありません。
こういうことは長年培って身につくものですから、いきなり迫力を出せといっても無理な注文です。
昔の人には、気骨というものがありました。その気骨が言葉になって放出されたのです。だから、体力がなくなっても、死ぬまで「プレイヤー」でいられたのです。
歳をとっても、いざというときそんな迫力が出せる人間でいたいと願っています。(115ページ)


「気骨」など現在はほとんど死語扱いですが、このような言葉に表されるような文化を取り戻さない限りまともな社会は再生できないのかもしれません。



『人は八割方 悪である』(竹書房)

私は『大修館 英語授業ハンドブック 中学校編』の編者の一人ということもあって、何人もの高校の先生から「この本は中学校編ですが、高校教師の私にも役立つでしょうか」と尋ねられました。

私はその度に、無難な答えを出していたかと思いますが、正直な気持ちを申し上げますと、私はそのような問いに驚いていました。高校英語教師が中学校英語教育から学べないようなら、他の分野の本からはまったく学べないということになるでしょう。細分化された「専門」に自分を囲い込み、その狭い世界の中でマニュアルばかりを求めるような生き方は、私には正直想像もできません。「役に立つ」と保証された本だけしか読まないような生き方は、その人の知性と生きる力をどんどんと貧しいものにしてゆくと私は考えます。

この竹書房の新書シリーズは基本的に麻雀ファンのために書かれたものですが、もちろん一般読者も多くを学ぶことができます。

というより次のような予想もつかない文章に出会えるからこそ、自由な読書というのは楽しいのかと私は思います。


この世が完全であった時代には、誰も価値ある人間に注意を払うこともなく、能力ある人間を敬うこともなかった。
支配者とは木のてっぺんの枝にすぎず、人民は森の鹿のようだった。
彼らは誠実で正しかったが、自分たちが『義務を果たしている』という認識はなかった。
彼らは互いに愛しあい、しかもそれが『隣人愛』だとは知らなかった。
彼らは誰もだますことはなかったが、それでも自分たちが『信頼すべき人間だ』とは認識していなかった。
彼らは頼りになる人間だったが、それが『誠』だとは知らなかった。
彼らは与えたり受け取ったりしながら自由に生きていたが、自分たちが『寛大』だとは知らなかった。
それゆえに彼らの行為は語られたことがない。
彼らは歴史を作らなかった。

~詠み人知らず~(117-118ページ)







『瞬間力』(竹書房)

これも竹書房の新書シリーズの一冊です。桜井先生が読者からの質問に答える形の本です。「スピード」に関する次の指摘はまったくその通りで、私などは時に「スピードがあるように見える」だけで、無駄な動き・仕事ばかりしていることを自覚させられました。


本当のスピードというのは、無駄のないところから生まれてくるもんだんだよ。雀鬼流では牌が低空飛行で、直線的に最短距離を移動するから早いわけだよ。ところが無駄があってモーションが大きいと、素人目にスピードがあるように見える。(中略)
基本動作がしっかりしていると、自然に打ったって早いんだよ。そうすると大げさで威圧的な、やみくもに人を脅かすようなスピード感じゃなく、柔らかいスピードというのが生まれてくるんだ。
もちろんフォームを固めるには回数も反復練習も必要でしょう。でもその前に、本質的なとことに気づかないとね。そうでなけりゃ、いくら回数をうったって、10年経ってもよくはならないよ。(125-126ページ)


「しかし『スピード』と言われても、英語教育とは関係ないでしょう・・・」などと言う方がいらしたら―私は個人的にはそのような方とはあまり話をしたくありませんが―次の文章をお読みください。桜井先生の麻雀関連の用語を必要最小限に英語教育の用語に言い換えたものです。


まず言えるのは、オレの授業の見方は部分的ではないということだよ。総体的なものの見方、とらえ方をしているということだね。
けれど今までの授業論や大学の先生といわれる人たちは、指導順序をどうするとか学習指導要領をどう読むとか、そんなことばかりをやってきたわけだ。そんなのは授業の中の部分的なことでしかないでしょう。しかも書物からの情報頼みなんだね。こんなものは、オレからすれば部分的に過ぎる、なんの役にも立たない見方だよ。
授業というのは教師ひとりで行うものではない。教師の他にも生徒がたくさんいて、それから机についた生徒の動きの他に、教室全体の動き、学校の動きというものもある。人間がいくら泳ぎたいと思ったって、海が荒れていれば泳げないだろう。山の天気が荒れていれば登れないわけだよ。人の意志だけでは間に合わない要素もあるんだ。
(中略)
授業では、人だけでなく場も動いている。そしてそういうもの全部ひっくるめて総体的に見なくては決して間に合うことはない。思考だけで見ようとすると、部分的な情報に頼ることになる。あれこれ考えるということになる。そうなることで、授業の本質、教育の本質からはどんどん外れてしまうだけなんだ。
授業というのは、思考だけで行っているわけではないということだよ。授業の一つ一つの営みを行っているのは人間の肉体でしょう。授業は肉体が行わなければならない。そしてさらに心や気持ちでやらなければいけないものなんだ。
(113-114ページの記述を柳瀬が改変)





『賢い身体 バカな身体』(講談社)

最後に甲野善紀先生と桜井章一先生の対談本から、それぞれの先生の発言を一つずつ紹介します。

まずは甲野先生。人間の強さと弱さ、そして品格についてです。


弱さは駄目だと単純にいうわけではなくて、ひがんだり、いじけないで、その弱さを心得ていることが重要だということですね。どんなに強いといったって人は生き物ですから死ぬわけですし、そうした限界を含めて弱さを心得ることが大切なんだと思いますね。だから、弱さを隠して背伸びする行為というのはみっともないことですよ。幼い子が大人の真似をするのは微笑ましいですけれど、ある程度年齢のいった大人が背伸びするのは非常にみっともない。それこそ品がないと思う。
だから、品格ということでいうと、自分の弱さや限界を知る、つまり自分の部を知っているということが、まさに品ということにつながるんじゃないでしょうか。(44-45ページ)


よく「強さ」を求めるなどというと筋肉の量を誇るような「マッチョ」とか、狂犬のような目をしてこわばった身体を持つ人間などが想像されますが、人間的な強さとはそういったものとは無関係の、品のある強さです。自らの、そしてお互いの弱さを認めて、強くなりたいと願いたいものです。


桜井先生も、日常生活の一瞬一瞬を大切に生きることに「人間的な強さ」を見ているようです。


たしかに、現代はいろいろな意味で困難さに満ちた時代だと思います。途方もなく社会が複雑であるがゆえのさまざまな問題にしても、[甲野]先生がよくおっしゃるようにいつも加害者でありながら被害者でありうるという側面を持っている。つまりどんあ立場にいようとけっして無傷できれいな身でありえないということです。少なくともそのことは自覚して生きていきたい。
そして、「人が人として生きることは、それだけですごい」ということに気づけば、それは誰がなんと言おうと、この世界を見事に生きているんだと思います。
みんな、人より抜きんでよう、勝とうとして、華やかなほうにばかり気を取られて、足元の生活をおろそかにしている気がします。でも、あたり前の日常というのは奇跡のようなことなんですね。そこにこそ生きる根っこがある。それは根であるがゆえに深い。深いというより無限の長さを持っているかもしれない。そのことにいつも素直に驚き感動できれば、いい生き方をしていると思いますね。
そして深い呼吸とともに、この瞬間、自分が無数の多くの人や自然界の無数の生き物とともにあることを感じる。そんな心境で生きれば、何気ない日常も活き活きとしてくるし、本当の意味で心の自由さを保てるんじゃないでしょうか。そう、思います。(210-211ページ)



下手な学会論文など読むよりは、こういった本を読むほうがはるかに有意義だと私が思っていることについては、言わずもがなかと思います。


アマゾン:桜井章一先生の著作のページ










Go to Questia Online Library

【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2010年3月20日土曜日

二つの言語文化

どちらが良いとか悪いとか、即断・独断することなしに、下記の二つの言語文化について考えてみたい。


われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまいて、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するというのがわれわれにかせられた従来の慣習であり、また尊重せられる行き方であります。

(「東京裁判」で、なぜ個人的に反対していた国策に従い続けてきたのかと検察官に問われた小磯国昭元首相の発言)
丸山真男 (1964) 「超国家主義の論理と心理」『現代政治の思想と行動』未来社 20ページより。



Fear of serious injury cannot alone justify supression of free speech and assembly. Men feared witches and burnt women. It is the function of speech to free men from the bondage of irrational fears. ... Those who won our independence by revolution were not cowards. They did not fear political change. They did not exalt order at the cost of liberty. To courageous, self-reliant men, with confidence in the power of free and fearless reasoning applied through the process of popular government, no danger flowing from speech can be deemed clear and present unless the icidence of the evil apprehended is so imminent that it may befall before there is opportunity for full discussion. If there be time to expose through discussion the falsehood and fallacies, to avert the evil by the processes of education, the remedy to be applied is more speech, not enforced silence.

Louis Brandeis, in the Whitney v. California case in 1927. This opinion is sometimes regarded as the most eloquent American rhetoric of freedom.
Quoted from A hero of American Justice. By Anthony Lewis. The New York Review of Books. February 11, 2010. P. 32







【広告】 というわけで言語教育を振り返るには、『リフレクティブな英語教育をめざして』と『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい(笑)。






2010年3月12日金曜日

身体から始めて、それから考える

久田浩司 「日本をつなぐ 食と住は自分で賄う 独立独歩の人づくり」『Wedge 2010年3月号』51ページより

清水さんが大切にしている言葉がある。「お手は宝や!」。昔、近所のおばあさんが、日常会話の中で何気なく口にした言葉だそうだ。自分の手を動かせば、家も建つし、米もつくれる。何とか食っていける。それなにの今の日本人は、やる前に考えすぎてしまう。何か決め事がないと動けない。「(大工道具は)頭で握ろうと思っても掴めない。逆に、手で握ってはじめて理解できるものもある」のだ。



【広告】 というわけで、まずは身体を使って教えた後は『リフレクティブな英語教育をめざして』と『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。(笑)。






2009年11月4日水曜日

仏陀のことば

『ブレイクアウト!』とは、ハーバード・メディカル・スクール教授が人間のパフォーマンスに関して書いた科学的でもあり宗教的でもある本ですが、その中でヘルマン・ヘッセの『シッダールタ 』の一節が引用されていました。いい言葉だと思いますので、ここでも『ブレイクアウト!』の翻訳でその一節を紹介します。


何かを求めているとき・・・自分が求めているものだけを見るのは簡単である。自分が求めているものだけしか見ていないから、何かを見つけることも吸収することもできない。なぜなら彼は目標があるからである。なぜなら自分の目標にとりつかれているからである。求めることは、目標をもつことである。しかし、見つけることとは、自由になり、受動的になり、目標をもたないことである。あなたは、ああ、大切な人であるあなたは、自分の目標に向かって努力しているのかもしれない。だから、自分の身近にある多くのものが見えていないのである。(288ページ)



私は『知的仕事のABC』に見られるような分析的で直線的な方法論の有効性を確信していますが、同時にその限界も理解しているつもりです。「西洋的思考」と「東洋的思考」というのは乱暴な二分法なのかもしれませんが、いずれにせよ自分の思考法は複数もっておきたいと思います。










2009年9月5日土曜日

偶然を待つということ

私は20-30代の頃、河合隼雄先生の著作を読みあさりましたが、最近再読した本の中の一節も、非常に印象深かったので、ここでもご紹介します。村上春樹氏との対談の中の一節です。



河合: ぼくは何をしているのかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。ぼくは治そうなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。

村上: でも、偶然を待つというのはつらいですよね。

河合: そりゃつらいですよ。なんにもしないんだから。待っていて、うまいこと偶然が起こったら、そのときにはやっぱりパッパッとがんばらなくてはいけないんですけどもね。

『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』新潮文庫 148ページ


合理性の安易な肯定も否定もしないところに、河合先生の融通無碍さと深さを感じるように思います。





2009年7月21日火曜日

石川遼選手のタイガー・ウッズ選手評

毎日新聞 (2009年7月20日) 朝刊は、全英オープンに出場した石川遼選手(17)の、タイガー・ウッズ選手(33)についてのコメントを次のように報じています。


姿勢がきれいなのが印象的だった。
頭から腰まで一直線で、足だけが前へ進んでいく。
あんなに美しい歩き方をする人を見たことがない。


私もこれまで何人かの人の立ち居振る舞いに見ほれたことがあります。すっとした姿勢に、自分の心と頭まですっきりさせてもらったように思ったことがあります。その方達は、いずれもそれぞれの道を極めた人でした。

私はこういった観点を、高岡英夫氏の著作から学ばせていただきましたが、身体作法というのは本来、日本文化が誇ってきたものかと思います。せめてこれ以上、先達の文化を劣化させることのないよう、まずは自らの心身を整えなければと思いますが、それより先に研究室の掃除をしろ、オマエは(←自己ツッコミによる自爆)。





2008年11月20日木曜日

J.バトラーの言葉

「裁くな。裁かれんがためなり」という言葉や、「アダムとイブは知恵の木の実を食べたがゆえに楽園から追放された」というエピソードを子どもの時に知ったとき、私は「どうして?」と思ってしまいました。「裁くことのどこが悪いの?裁かないと世の中無茶苦茶になってしまうのではないの?」「知恵をもち正邪を知ることのどこが悪いの?」と疑問をもってしまいました。

そのような子どもは、大きくなっても、うぬぼれや自己に対する過信をなかなかぬぐい去ることができませんでした。彼は「決めつけ」を「判断」と呼び、「見切りをつける」ことを英断と呼んで、自らの正しさをなかなか疑おうとしませんでした。彼はことばの力を信じていました。「ことばで全てが語れる」とまでは思っていないにせよ、可能な限りことばで明晰に語ることを、万人に対して要求するほどにことばを操る自分を偏愛していました。

そのような子ども=大人にはジュディス・バトラーの次のような言葉を贈りましょう。


もし私たちが自分そのものであると言うところの同一性が、私たちを把握できないかもしれず、同一性のカテゴリーの外部にこぼれ落ちてしまうような剰余と不透明性を徴しづけているとすれば、「自分自身を説明する」ためのいかなる努力も、真理に近づこうとして失敗してしまうはずである。私たちが他者を知ろうと務める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生かすのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものだと考えられるからだ。もし他者を自由に生かすことが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすなら、こうした承認の説明は、知に基づくのではなく、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。

ある意味で倫理的姿勢とは、カヴァレロが示唆するように、「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。私がこう問いかける他者は、その問いを満足させるような答えによっては把握できないだろう。したがって、もし問いのなかに承認への欲望が存在するなら、この欲望はそれ自体を欲望として生かし続け、決してそれ自体を解消しないという義務を負っているだろう。「ああ、ようやく私はあなたが誰だかわかった」と言った瞬間、私はあなたに呼びかけることをやめ、あるいはあなたに呼びかけられることをやめてしまう。(81-82ページ)


非難は極めてしばしば、非難される者に「見切りをつける」行為であるだけでなく、「倫理」の名のもとに、非難される者に暴力を加える行為でもある。(87-88ページ)
以上、ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸,・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』月曜社より








Google




Search in WWW
Search in Yanase's current Japanese blog

(注:エンコードはUTF-8を使っています)


2008年6月12日木曜日

「当たり前の理屈が通らない」

私は内田樹先生のブログの愛読者ですが、この度の最新記事にも深く共感しますので、リンクをはり、一部抜粋します。
http://blog.tatsuru.com/2008/06/12_1100.php


(前略)

文科省が大学に提出を要求するペーパーの要求のうちいくつはもうほとんど「ものぐるひ」のレベルに達している。

そこには、「教育目的」と「教育方法」を記述し、そのプログラムがどのような「教育効果」をもたらしたかを数値を明らかにしたevidence based で述べよ、というようなことが平然と書かれている。

(中略)

教育のアウトカムのもっとも本質的な部分は数値的・外形的に表示することができない。

しかし、どうも官僚のみなさんにとって、数値的・外形的に表示できない教育的効果、あるいは「それが何を意味するのかを実定的な語法で語り得ない」教育効果は「存在しない」のと同義のようのである。

それと同じ事態は社会生活の全般に及んでいる。

(中略)

変化を計量するためには、座標軸のゼロに相当する「変化しない点」を想定しないといけない。相対的な変化量を確定するためには、「測定枠組み」そのものは変化してはならない。

だから、「スコア」や「タイム」が数値的に表示されるスポーツでは、「身体の使い方を根本的に変える」ということにつよい抵抗が働くのである。

身体運用OSそのものの「書き換え」に際しては、「何を測定してよいのかわからなくなる」ということが必ず起きる。

それまで自分が「能力」の指標だと理解していた度量衡が「無効になる」というのが、「ブレークスルー」ということだからである。

変化量を記号的・数値的に表示せよ、というルールは「ブレークスルー」というものがあることを想定していない。

価値評価の度量衡そのものが生成する「パラダイムシフト」を想定していない。
「ものさし」では重さも、光量も、音響も、手触りも、時間も量れない。

世界の厚み深みについて理解を深めようと思ったら、手持ちの「ものさし」ですべてを計測しようとする習慣を捨てなければならない。

そんな当たり前の理屈が通らない。

(後略) 


「当たり前の理屈が通らない」ことへの焦燥感は私も強く感じます。

ひょっとして文科省の人々も含めて日本の「知的エリート」は、知的な「ブレークスルー」あるいは「パラダイムシフト」をあまり経験したことがないのか。

それにしても現実世界に対応しようとすれば、ブレークスルーあるいはパラダイムシフトを続けなければならないのに、なぜ?

もし「単純で頑なな知性」が日本を席巻しようとしているのなら、私は怖い。

そんな知性の持ち主も怖いし、そんな知性を唯々諾々として受け入れる人たちも怖い。

2008年6月5日木曜日

名越康文先生の文章

友人が教えてくれた以下の名越康文先生の文章には非常に深いものがありました。私はこれからこの文章を何度も折ある事に読み返すことと思います。以下の引用の文章にピンとくるものを感じた方はぜひ下のURLをクリックして全文をお読み下さい。


生身の患者と仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -
名越康文(精神科医)

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02727_07



予測や予定がすべてご破算になった時こそ,人間は成長できるし,また真価を問われると思うのです。


「答えがないのに問わざるを得ない問い」


学生時代から今に至るまで,僕には「命を救う」というテーゼの意味がよくわからない。「命を救う」というテーゼが間違っているというわけではなく,文字通り,「わからない」。


そういう現実の他者とのコミュニケーションがあってはじめて,自分の脳内世界と物質世界の間での,自己の立ち位置を確認することができるわけです。


平穏な日常生活のなかに,少しずつ,他者から撤退していく動きが垣間見える。さらに,その動きが少しずつ加速している。傷つきたくない,自分の庵の中でひっそりと生き続けたい。社会に守られながらも,対人関係からゆっくりと撤退し,自己の居場所を少しずつ縮める,そういう生き方が広がっていることが,僕は少し恐ろしい。スピリチュアル・ブームは,そうした「自己完結を求める意識」が社会的に広がっていることとシンクロしているように思うのです。


 「自己完結を求める意識」は,スピリチュアル・ブームに限らず,ほうぼうに認められます。僕らは「他者から遠ざかる」というと,空間的に他者から遠ざかることを連想します。しかし,いま生じているのは,自己の境界線をどんどん自分の内面の,奥深くに持ってくるということです。つまり,満員電車でギュウギュウ詰めになって,どれほど身体レベルの接触があったとしても,自己の境界線は犯されないくらい,内側に「自分」をつくってしまう。こうなると,もう「他者」とコミュニケーションすることは致命的に困難になります。


これはEBMに限らずあらゆるムーヴメントに言えることです。あらゆるプログラムは完成度を高めれば高めるほど縮小再生産し,最終的には破綻する。だから,考えなければいけないのは常に「それが破綻した後のこと」なんです。古くからある宗教とか,職人文化のなかの学びを注意深く見ると,常に教条的なものを自ら破壊するようなシステムになっている。そういう「縮小再生産から免れようとする知恵」が盛り込まれている。
 そういう意味では,新しい研修制度が「ジェネラリストを育てよう」という題目で運営されているのはいいことかもしれませんね。なぜなら,「ジェネラリストとは何か」ということが,誰にとってもいまひとつ明確じゃないから。
今,研修を行っている皆さんはある意味で幸運です。システムが大きく変わる時期で,いまひとつ目的が明快じゃなくて,「今,自分は何を学 ぶべきなのか」について,自分自身でしっかりと考えなくてはいけない。それはもちろんたいへんなことなんですが,そうでなくては本当に大切なことって学べ ませんからね。


イチロー選手の振る舞いはすごく演劇的です。先のセリフにしたって,ものすごくパフォーマンスが見えますよね。しかもそのパフォーマンスは,外向けでもあるけれど,むしろ,イチローをイチローたらしめるための,内側に向けてのパフォーマンスだと思うんです。そのことは,イチローがテレビドラマに出たとき,すごくよくわかりましたよね。ドラマに出たイチローを見て,多くの人が本物のイチローよりもイチローらしいと感じた。それはとりもなおさず,イチローという存在自体が,ある種の「演技」によって成り立っていたということだと思うんです。


 別の言い方をすれば,医者をやっていれば1回1回,患者さんに対して,ビックリするなり,納得するなりという個別の体験があってもまっ たく不思議じゃないということですね。しかも,その1回の体験というのは,それまでの体験から培われてきたパラダイムを一気に突き崩してしまうことさえあ る。「エッ! そんな感じ方してたの? じゃあ,この患者さん以前の100人の患者さんに対して,僕はそんな思いをさせてきたの?」というようなことが, 医者になれば必ず起こる。そこから目を背けないのでほしいと思います。
 そういう体験を通じて「そうか!」という納得にいたる。そのときに一歩,人はバージョンアップするのです。でも,そのときの感覚に固執 しているとその経験は必ず陳腐化します。どれほど衝撃的な体験でも,100日も経てば日常に退屈してきて,自分が100日前に気づいたことを「冷静になる とつまんないな」と思うようになる。そういう体験を常に更新し続けることが,臨床家ではないかと僕は考えています。
 理屈からいっても,患者さんは日々変化しているし,医者も日々進化している。感度が上がれば上がるほど,「違うのが当たり前」なんで す。そういう「違い」が,「医者」というフィルターによって隠蔽されているということに,あまりに無自覚であってはいけないんじゃないか。立場性を忘れ, フィルターの存在を忘れてしまうと,患者と医者の間には壁などないかのように思えてしまう。しかし,壁の存在を常に意識しつつ,その感覚を更新していくと いうことこそが,臨床家が成長するプロセスなんですよ。


立場性は絶対に越えられない壁です。しかし,越えられないものを越えようと試みるという,矛盾した取り組みこそが臨床です。「絶対に越えられない」ということを頭で考えていても駄目で,越えようとしても越えられないという体験を繰り返さないと,実践家としてはやっていけません。越えようとしない人間に,「越えられないなあ」という実感は生じないし,「越えたい,コミュニケーションをとりたい」という強い欲求も生まれません。下手に「越えられないけど越えようとがんばるのがいいんだ」なんて考えても駄目ですね。このあたりは,言葉で書くと必ずといっていいほど誤解が広がる部分ではありますが,少なくとも頭で考えているだけでは,感性や意欲は徐々に失われていくでしょう。
 絶対に越えられないからこそ,越えようとする。それによって初めて,越えられないということ,越えたいということ,両方の実感が生じる。矛盾していて,わかりにくいと思いますが,人が成熟するプロセスにおいて,こういう「越えられないものを越えようとすること」というのは絶対,欠かせないんです。


「問うこと」「問い直すこと」「問い続けること」,これが,その人の中のほんとうのクリエイティブさというか,ほんとうにその人の人生を前に進ませていく根本なんじゃないかと思います。



2008年5月30日金曜日

中野好夫先生の警句

中野好夫先生の警句が、なぜか思い出されてきました。備忘のためにここに言葉を残しておきます。

「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」

「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の肝を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。」

2007年7月30日月曜日

英語教育への漱石の警句

江利川春雄先生による『近代日本の英語科教育史』(東信堂)は、日本の英語教育界が誇るべき学術書だと私は考えますが、その書は次の夏目漱石の言葉をもって終わります。

「英語を習って英書より受くるCultureを得るまでには読みこなせず、去りとて英書以外のカルチュアー(漢籍和書より来る)は毛頭なし。かかる人は善悪をも弁せず徳義の何物たるをも解せず、ただその道々にて器械的に国家の用に立つのみ。毫も国民の品位を高むるに足らざるのみか器械的に役立つと同時に一方には国家を打ち崩しつつあり」

夏目漱石「断片」、『漱石文明論集』pp.308-309

私たち英語教師とは現代という時代においてどのような存在足りえているのでしょうか。少なくとも私は非常に反省させられましたので、この言葉をここに引用する次第です。『近代日本の英語科教育史』もぜひお読みください。

2007年5月24日木曜日

教師の仕事

学生たちに「未知のもの」を経験させることが教師の仕事である。

2007年5月19日土曜日

「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏

*****

お知らせ

田尻先生に関するシンポが11/24(土曜)に広島大学で!

*****


私が佐藤優氏の『獄中記』を非常に面白く読んだのは以前に書いた通りですが、
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061228
この度、本屋で見かけて買った『国家と神とマルクス』太陽企画出版も非常に面白いもので、一気に読み終えてしまいました。


この本のなかで、佐藤氏はご自身を「自由主義的保守主義者」と称しておられます(この本のサブタイトルにも使われています)。私もこの「自由主義的保守主義者」という態度に非常に共鳴します(下のObama氏に関する記事でも私は“liberal conservative”という言葉を使いました)。

佐藤氏は「自由主義的保守主義」を次のように解説します。

一言で言えば、伝統を重視する。しかし、伝統というのは、一つではない。基本は保守主義なんです。保守主義とは、人知を超えるところの価値を尊重するということです。自分の好き嫌いは関係なしに、現にあるところの伝統を尊重する。自由主義的とは、自分の考えるところの保守主義に対して、違う保守主義や進歩主義の人がいても、自分に対して危害が加えられない限りは並存するという考え方なので、それを結びつけた自由主義的保守主義なんです。(40ページ)

佐藤氏は、大川周明の解釈による北畠親房の『神皇正統記』を解説しながら、「このような北畠親房の論理を敷衍するならば、唯一、日本で認めることができない言説は、自らの言説が絶対に正しく、他の言説を禁止すべきであるとする非寛容な自己絶対化に凝り固まった言説だけです。そういう他者を原理的に否定する言説以外のものはみんな共存、並存、共栄していくのです」(145ページとして)、彼の言う「自由主義的保守主義」は日本の文化に根ざした態度でもあることを示そうとします。

 頭でっかちの左翼的言説への反動で、保守主義が台頭してきたのはここ10-20年のことかと思います。私も伝統や文化を、自らの合理性で一掃しようなどとする設計主義的発想を非常に恐れますから、その意味での保守主義の復活を喜びます。しかし、昨今は、「とくに右派、国家主義陣営がなぜか最近煮詰まっていて、右派本来の寛容の原理を失」なっている(138ページ)ように思えます。

「小児的」という形容詞は、以前は左翼によくつけられていました。「小児的左翼」とは、自分の小さな正義をヒステリックに叫ぶだけ叫んで、現状をかき回すだけの人々を蔑称するために使われた表現かと思います。しかし私は、最近はこの「小児的」という言葉は「右翼」と適合することが多いように思います。浅薄で、感情的なだけで反省的思考を欠き、他者に非寛容に自説を声高に叫ぶだけの自称「右翼」は最近多くありませんでしょうか。私はそういった「小児的右翼」、「小児的ナショナリズム」の暴走を警戒します。「自由主義的保守主義」は右派、左派を問わず、現代の日本において尊重すべき態度ではないでしょうか。

 なお佐藤氏はクリスチャンでもありますが、宗教の危険性についても十分自覚的です。

一神教の世界でも、多神教の世界でも無茶苦茶な人はいます。一神教が偏狭になる場合、超越性の組み立てに問題があると思うんです。一神教世界におけるカトリック、プロテスタントに顕著に現れることが多い、極端に思いつめて、絶対に正しいものは一つしかないという危険な発想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のかかえる病理だと思います。絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います。

 唯一の神、絶対なる神という形で他の神々や価値観と競争できるような神は、キリスト教、ユダヤ教の言うところの神じゃないんですよね。そういう概念を超えている神ですから。(33ページ)

私は神学を勉強したことはありませんが、一人のクリスチャンとしてこの態度には賛同しています。また「絶対に正しいものはあるんですが、人間の側から見る限り、それは複数あると私は思います」というのは至言かと思います。

 『月刊日本』(http://www.gekkan-nippon.com/index.html)と『情況』(URL不詳)に掲載された文章が並存しているこの本は「思考する世論」のために書かれた良書かと思います。「自由主義的保守主義者」としての佐藤優氏に今後とも注目してゆきたいと思います。

2007年5月12日土曜日

Barack Obama、あるいは成熟について


未だ現実の試練をあまりくぐり抜けていない人間の過大評価は慎むべきですが、The New York Review of Booksに続いて(下の旧ブログ記事(1)参照)、The New Yorker, May 7, 2007. pp. 46-87もBarack Obama氏についての好意的な記事を掲載しました。Staff writerのLarissa MacFarquharによるThe Conciliatorという記事です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Obama

Obama氏は、旧来の政治家のように、自らの知識を誇るような態度は取らないし、安っぽい同情や怒りは示さないと書かれています。

He tends to underplay his knowledge, acting less informed than he is. He rarely accuses, preferring to talk about problems in the passive voice, as things that are amiss with us rather than as wrongs that have been perpetrated by them.. ... He comments in a neutral, detached way. He doesn’t express sympathy for sickness, or scorn for bureaucracy, or outrage at unfairness. He says that the system is broken and needs to be fixed, but conveys no particular urgency. (p. 49)

このようにクールな態度こそはが ‘professional’ ではないかと述べた後で、著者は、いや、 ‘medical’という比喩の方がふさわしいのではないかと述べます。

No, Obama’s detachment, his calm, in such small venues, is less professional than medical – like that of a doctor who, by listening to a patient’s story without emotional reaction, reassures the patient that the symptoms are familiar to him. It is also doctorly in the sense that Obama thinks about the body politic as a whole thing. If you are presenting a problem as something that they have perpetrated on us, then whipping up outrage is natural enough; but if you take unity seriously, as Obama does, then outrage does not make sense, any more than it would make sense for a doctor to express outrage that a patient’s kidney is causing pain in his back. (p. 49)

なるほど、(英語)教育界でも、どこかに不倶戴天の敵を見つけてきて(あるいは作り出して)、それをひたすら呪詛するパターンの言説は多くありますが、もし本当に(英語)教育界を良くしようとするのなら、怒りや罵倒ではなく、全体のバランスと相互作用を慎重に見極めながら、少しずつ事態全体を改善する必要がないでしょうか。関係者の話を辛抱強く聞き、全体の構造を理解し、あちらが立てばこちらが立たずのジレンマも受け入れながら、忍耐強くあちらもこちらも活かしてゆこうとする姿勢は大切なような気がします。

Obama氏は、このような態度を、主に、父母、祖父母を反面教師にすることで学んだようです。

Innocence, freedom, individualism, mobility – the belief that you can leave a constricting or violent history behind and remake yourself in a new form of your choosing – all are part of the American dream of moving west, first from the old country to America, then from the crowded cities of the East Coast to the open central plains and on to the Pacific. But this dream, to Obama, seems credulous and shallow, a destructive craving for weightlessness. (p. 51)

ですから、この意味で彼は「保守」であると言えます。

In his view of history, in his respect for tradition, in his skepticism that the world can be changed any way but very, very slowly, Obama is deeply conservative. (p. 52).

私も以前、西部邁氏の言葉をめぐって短文を書きましたが(下記の旧ブログ記事(2)を参照)、私もこのような意味では「保守」でありたいと強く願っています。

もちろんObama氏は民主党員ですが、旧来のイメージの民主党員ではないようです。以下はObama氏自身の言葉です。

“I’m a Democrat. I’m considered a progressive Democrat. But if a Republican or a Conservative or a libertarian or a free-marketer has a better idea, I am happy to steal ideas from anybody and in that sense I’m agnostic.” (p. 53)

ここにおいても私はとても深く同意します。自らがagnosticであることを深く自覚することが、「保守」であることの大切な資質の一つであると思います。自らの信条を大声で喧伝する自称「保守」には、私は常に抵抗を感じています。(ちなみに洋の東西を問わず自らをatheist/atheisticと語る人は現代では多いのですが、それはagnosticの間違いではないでしょうか。神の不在をあなたはどうやって「証明」するのでしょう(不在の証明は、存在の証明よりも一般に、はるかに困難なものです)。私は、神の存在について私はagnosticであると自覚した上で神の存在を信じて生きることを決めた ‘believer’です。自称atheistは、しばしば ‘believer’を軽蔑しますが、agnosticであるにもかかわらずatheistを僭称する彼/彼女らこそは、「神はいない」と信じたいだけの ‘believer’ではないでしょうか)。さらに脱線を重ねますとObama氏も成人後に神を信仰するようになっているそうです。

話を政治に戻しますと、Obama氏は、非現実的であることを嫌い、自由とは傲慢を避けることであり、自分は、知らないことを知っているとは決して言いたくないと語っています。

Even when he was very young, Obama was scornful of, as he puts it, “people who preferred the dream to the reality, impotence to compromise.” (p. 54)

“The spirit of liberty is the spirit which is not too sure that it is right.” (p. 54)

“I don’t want to make claims as if I had been in a position to articulate a clear position on it.” (p. 55)

私はこの記事に、過剰に自分の理想を仮託しているだけなのかもしれません。しかし現代は、あまりに「現実離れすることを誇るリベラル」や「自らの正しさを疑わない保守」が多すぎるのではないでしょうか。そうでなく「異見を容認するリベラル」と「自らの知識と知恵に対して謙虚な保守」がもっと必要ではないでしょうか。また、そうした時にリベラルと保守は通じ合うように思います。

私は下の記事(2)で、自らを「リベラルな保守」と称しました。それが「リベラルな保守」であれ「保守的なリベラル」であれ、この希望的宣言で私が述べたかったのは、成熟した社会を私は望み、そのためには私自身が少しでも成熟しなければならないということです。

Obama氏の動向にも今後注目したいと思います。もちろん保守的な感覚は、生ける人間に過剰な期待を持つことを警戒するのですが・・・

****以下は旧ブログの記事*****

(1)

Barack Obama

The Phenomenon by Michael Tomasky

Barack Obama
という今人気の政治家はレトリックに長けるようです。
以下は彼の演説の一部。

There's not a liberal
America and a conservative America; there's the United States of America. There's not a black America and a white America and a Latino America and an Asian America.
NYR
November 30, 2006. p. 14

なるほど、古典的ともいえるレトリックですね。

しかしもちろん彼は口先だけの人間ではなく、健全な判断力も持っているようです。

I believe it is in the interest of both Americans and Iraqis to begin a phased withdrawal of US troops by the end of 2006, although how quickly a complete withdrawal can be accomplished is a matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses.
NYR
November 30, 2006. p. 16

"A matter of imperfect judgment, based on a series of best guesses"
なんて覚えておきたい表現ですよね。ここを見誤ると大変なことになりますから。自他を制するこのような台詞は重要です。

彼は民主党ですが、いわゆる「リベラル」とは一線を画しているというのがこの著者の見解のようです。

He really is not a political warrior by temperament. He is not even, as the word is commonly understood, a liberal. He is in many respects a civic republican -- a believer in civic virture, and in the possibility of good outcomes negotiated in good faith.
NYR
November 30, 2006. p. 17

2008
年の大統領選挙に向けて、彼はどう出ますでしょうか。



(2)

「保守」とは何か

私という人間を形容する言葉は何だろう、と思っていたら"liberal conservative"という言葉が浮かんできました。(けっこう暇だね、私も)

私は、文化的・政治的には"liberal"、というより「ストライクゾーン広し!」のような人間かと思いますが、本質的なところでは、口語でいうところの「おそれ」です。

果ては全体主義的国家から、末は官僚主義まで、私は、人工的な計画の実施をけっこう「恐れ」ています。ハイエクのいう「設計的合理主義」--世界や人生を設計図どおりに作り変えようという知性--を警戒しています。そのような知性の驕慢にはしることにより、私たちが気づいていないかもしれない昔からの知恵が失われているかもしれないことを「怖れ」ています。

さらには、人間にはなかなか理解しがたいが、実は真にして義なることがあるのではないかと「畏れ」てもいたりします。ですからこの世俗的な日本の中の、「科学主義」がしばしば見られる中途半端な人文社会系の学界に属するにもかかわらず「神」などを信じたりしています。私は本質的なところで"conservative"なのではないかと最近思うようになってきました。

まあ、歳を取ってきただけのことかもしれませんが。

下は、西部邁氏の言葉です。

人間は合理的なことしか理解できないわけね、でも自分の理解を超えた不合理なことがある、だから信じるんだと。自分には保守すべきものが何であるか分かりやすく言うことが難しい。難しいからこそ、それがあるはずだと探し始める。ところが、世間の右翼や自称保守は、保守すべきものが「ここにある」と思ってる。そんなものがあれば苦労はないって。

西部邁「保守とは何かを考える」毎日新聞2007年4月24日

個人と文化


私たちは、文化とは昔からそこにあるもので、別段そこには個人の貢献などはないものだと思いがちです。もちろんそれで正しい場合も多いのでしょうが、アメリカのジャーナリズム文化にはある個人の貢献が大きかったようです。George Packerという人によるThe New Yorker (May 7, 2007, p. 29)の記事は次のように言います。

In 1963, the notion that a newspaper reporter might challenge the official story of generals and ambassadors in the middle of a war, essentially accusing them of lying, was so improbable that it could have occurred only to someone still in his twenties.

しかしながら、それをやってのけたのがDavid Halberstamです。

http://en.wikipedia.org/wiki/David_Halberstam

彼は、当時の将軍の不誠実な態度に憤りを感じ、徹底的な批判記事を書くだけでなく、大使館のパーティの席で、将軍との握手を拒否するまでのこともやりました。

Halberstam’s wartime work will last not just because of its quality and its importance but because it established a new mode of journalism, one with which Americans are now so familiar that it’s difficult to remember that someone had to invent it.

現代アメリカの良きジャーナリズム文化は、Halberstam個人の勇気と良心によって創られたのです。彼の代表作、 “The Best and the Brightest”について著者は次のように言います。

I read “The Best and the Brightest” in Iraq in the summer of 2004. By then, that war had gone badly, perhaps irretrievably, wrong, and Halberstam’s three-decade-old book seemed like front-page news.

私たちの業界においても社会においても、「こんなもんだから」「仕方ない」「難しいことをいわずに」などと諦めムードに流されず、ある個人の貢献を、その他の人々がそれぞれに評価し、良きものにはサポートを行い、悪しきもの(と思われるもの)には建設的な批判を行い、より良き文化を作り上げたく思います。

Zone of Proximal Development

子どもは周りの社会-文化的環境に助けられて言語も習得するというポイント(Zone of Proximal Development: ZDP)を印象的にするために、Leo van Lier (2004) The Ecology and Semiotics of Language Learning: A Sociocultural Perspective. Kluwer Academic Publishers: Bostonの37ページで使われた表現です。思わず笑ってしまったので、ここに掲載しておきます。

For example, if in response to the baby's "Goh!" above the adult had responded: "Notice, small fellow, that this particular canine, which you have somewhat amgiguously referred to as 'Goh,' -- presumably your immature approximation of the word 'dog' -- is of the sub-species 'mutt,' characterized by crooked paws and lopsided ears, found originally in the foothills of Neasden, and recently promoted to the status of domestic companion in the Bavarian hinterland," the baby might not have made much headway linguistically, cognitively or socially, in spite of the vastly superior level of information provided. The close connection between the learners' actions and the adults' rejoinder relates to the notion of the ZPD.


http://en.wikipedia.org/wiki/Zone_of_Proximal_Development

知識人の役割

以下は、ある官僚の方が、文系の研究者を前に行った講演の要旨です。旧ホームページを整理したら出てきたので、このブログでも再掲します。

世論のemotionalな暴走を牽制し、counterbalanceとしての長期的かつ抽象的思考を提供するのが「知識人」の役割である。現代日本では学者は自分の研究の蛸壷に逃げ込むか、大衆と同化し評論家になるかのどちらかに傾いていることが多く「知識人」としての役割を果たしていない。また日本にはquality paper等の知識人のforumもない。知的エリートが存在しない(もしくはその存在を認めない)のは、世界的な観点からすれば歴史的にも地域的にも極めて特殊なことである。実務家の一人としては、日本の学者----特に文系の学者----に頑張って欲しいと願わざるを得ない。しかし日本のアイロニーの一つとして、憲法で守られている分野の競争力が弱いということがある。皆さんの自浄作用を期待します。

この言葉からすると、私はとても知識人の役割を果たしていません。妙に世間に迎合した安直な言葉をウェブに垂れ流す評論家もどきになっているからです。「ウェブは基本的に自己顕示欲の巣窟」ということを私はこの10年余りのネット生活で感じるようになってきました。もっときちんとした学術的な仕事をしなければならないと思います。

ただ私はウェブも自己顕示欲も善用できると楽観もしています。ウェブという公共空間も、そこに集う各人の自己顕示欲も、うまく使いこなせば、良識ある知的共同体を日本の英語教育界に作り出すことに貢献できると信じています。ブログを続けている次第です。

「俺がこの世を変えてやる」の危うさ

研究とは時にあまりにもまどろっこしく、役に立たないもののようにも思えますが、クールな態度というのは堅持しなければならないものでしょう。身体運動の実践家の言葉です。

現在の私は、あくまでも縁のあった人達に、現代の常識として広まっているトレーニング法や稽古法を見直し、発想を転換してもらうことを促すために活動しているのであって、"正しい"稽古法を広めているわけではないのである。


 また、私のこうした立場の堅持は、かつて「これが正しい」とか「最高」と言って絶対化して人々に普及させようとした大小のカリスマ達が繰り返してきた結末の惨状が、あまりにも明確に目に浮かぶからかもしれない。


 「俺がこの世を変えてやる」という意気込みは、いつの間にか支配欲に呑み込まれ、名誉欲に転がされ、権力欲に乗っ取られ、"世の為""人の為"と言いな がら、そうした諸欲の泥沼から抜けられなくなって、周りを見回せば自分の顔色をうかがうイエスマンばかりに取り巻かれているという事になっていたりする。


甲野善紀 

http://www.shouseikan.com/zuikan0703.htm#4