2010年1月29日金曜日

技術・哲学・物語

[以下は学部三年生の授業の最後のまとめで言うつもりだったのに、時間不足で言えなかったことです]

皆さんは、本日のDVD(6-way Street ライブ盤 蒔田守 「蒔田の授業改革:その手の内幕の内 ~生徒・実習生・同僚に耳を傾ける~」)を見て様々なことを感じ、考えたことと思います。本当はいつものようにグループとクラスで話しあって理解を深めたいのですが、今回は残念ながら時間がありませんので、私なりのまとめを提示するだけにします。


私のまとめの骨子は、英語教師の「技術」は、その教師の「哲学」に直結しており、さらにその哲学はその教師がもつ「物語」に根ざしているということです。

私が英語教師の教員養成に関わるようになってすぐに感じたことは、大学で「研究者」と称している人には、海外研究や文部(科学)省の動向以外の知識はあまりなく、実践にとって本当に大切な知恵は現職教師が持っているということでした。(少なくとも当時の私には実践の知恵はまったくといっていいほどありませんでした)。

以来、英語教育達人セミナー(メールマガジンで開催日程などを知ることができます)などの「自主セミナー」に積極的に参加したり、現職教師と話し合える会にはできるだけ足を運んだり、その他にもできるだけ現職教師の方々の生の声を聞くように努力してきました。

そんな私が最初に魅了されたのは、現職教師がもつ「技術」の素晴らしさでした。配慮が細やかで、緻密にデザインされ、効率的で効果的で、ユーモアがあって、知らない間に生徒が勉強しているような技術の数々に私はただただ驚き、私は旧ホームページを始めてからしばらくはそういった技術をできるだけ報告するようにしてきました。

しかし私だけでなく自主セミナーの参加者・講師共に次第に気がつき始めたのは、技術をそのまま真似するだけではうまくゆかないことが多いということです。講師と参加者のおかれた状況は時に大きく異なります。学習者の学力・意欲・態度・生活習慣・価値観等々。保護者や地域の経済的状況・社会的状況・文化的状況等々。学校の価値観・狙い・文化等々。教員集団の考え方・チームワーク状況等々。なにより教員自身のパーソナリティ・英語力・分析力・マネジメント力等々。リストはどんどん続くでしょう。

通常こういった要因を、各人は当たり前の前提としてしまって、分析しません。まあ、転勤などで大きく環境が変わったりした時に、必要に応じて半ば無自覚的に調整するぐらいのことでしょうか(時に環境が変わっても頑強に自らの前提を変えない人もいますが)。

複雑に絡み合う諸要因を整理することが必要です。自分あるいは所属する学校や地域がもっている諸要因を整理して言語化することを、ここでは仮に「哲学」と呼んでおきます。すぐれた講師は技術を紹介・提示しながら、自らの哲学を語ります。その哲学により参加者は技術の特性や限界などを理解し、技術を鵜呑みにせず調整し変化・進化させることができるようになります。また自主セミナーなどに参加しない実践者も、しばしば小手先の技術では教育実践は改善されないことを痛感した後、自らの諸前提を吟味し分析し、自らの状況にかなった哲学をつくりあげます。その新しい哲学は実践者に新しい見方・認識・理解をもたらし、学習者のことがよく理解できるようになります。目の前の学習者に即した教育方法を自ら考案することもできるようになります(「リフレクティブ・プラクティス」と呼んでいいでしょう)。

しかしその哲学が生成される間に、実は「物語」も育ってきます。哲学が冷静な分析の言語化だとしたら、物語は血の通った理解であり、その理解の表現です。実践者は、学習者や学校や地域の事情をより深く知るにつれ、さまざまなエピソードに接します。というより自らさまざまな事件に巻き込まれ、深く感じさせられ考えさせられ、自らエピソードを語り始めるようになります。哲学の整理が、そのようなエピソードにより肉付けされたものをここでは「物語」と呼んでいます。とはいえ、この物語は哲学の論点の単なる例証ではありません。物語は哲学に基づきながらも、より現実の多様性・複雑性に対して開かれていますから、複数の解釈を許したり、答えがないまま私たちを宙ぶらりんにさせたりもします。しかし私たちはそんな物語により、しばしば哲学に接するよりも深く感じさせられ考えさせられます。複雑な現実をより豊かに理解出きます。

「技術は哲学に基づき、さらに物語に根ざしている」ということで、私は上記のようなことを意味しています。逆に言うなら、哲学に基づいていない技術は、しばしばその場限りのものに過ぎず、状況が変わるとまったく役立たないものになります。物語に根ざしていない哲学は、しばしばその時代の知的流行や自分が偏愛する理論の焼き直しに過ぎず、人々の共感を得ません。実践者は、実践の当事者のさまざまな物語に耳を傾け、自らもいくつかの物語を紡ぎ出し、それらの物語を自らにも他人にも開いて、さらに深い感性的理解と知的理解を得られるようにすること―これこそが実は「技術」を改善し、教育実践を確かなものにするために必要なことではないかと私は最近強く思っています。「第二言語教師のナラティブ(語り)」というテーマで私は科研を頂いておりますが、こういった問題意識で研究を進め、わずかながらでも日本の英語教育の実践に貢献したいと考えています。

皆さんもいい実践に接したら、それをただ真似たりするのではなく、またただ「凄いなぁ、凄いなぁ」と憧れるだけでなく、実践を知的に整理し、自他の体験で肉付けして語ってみてください。そういった哲学や物語が皆さんの技術向上に役立つことと私は信じています。






というわけで『リフレクティブな英語教育をめざして』をぜひお読み下さい(笑)。図書室に置いています。さまざまな物語に接することができます。私もブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(爆)。












2010年1月27日水曜日

村井純 (2010)『インターネット新世代』 岩波新書

この本を読んで感じることは、もはや「インターネット」はネットワーク技術者だけの話題ではなく、携帯電話・スマートフォンやデジタルテレビ、はてまた家電製品の製造者とユーザー、ひいては国際政治関係者、その他多様な人々まで含んだ話題になったということです。

著者はインターネットについて次のように言います。

今までは、専門家が主導してきたと思いますが、これからは、分野を問わずプロとして仕事に携わっている人、自分の夢やビジョンを持っている人、こうした人たちすべてがインターネットの未来を構築する人になるのです。今後は、社会や個人が進める構想をどのようにしてインターネットやデジタル技術で支えていけるのか、利用する人と作る人の共同作業になるのです。この点がインターネットの未来を考えるうえで大きく違うところです。(221ページ)


参加者が増えれば増えるほど、その参加者間の相互作用は爆発的に増大します。量が爆発的に増大したら質に根源的な変化が生じるともよく言われることです。インターネット文化は今後爆発的に栄えるのでしょう。

もっともその繁栄が英語文化だけで起こり、日本語文化ではインターネットはそれほど隆盛しないという可能性も否定できないのが怖いところでもあるのですが・・・



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中田亨 (2010)『理系のための「即効!」卒業論文術』 講談社ブルーバックス

複雑な仕事に対する良い支援とは、やるべきことをマニュアルでノウハウも含めて具体的に教えてしまうのではなく、やるべきことは何なのかを抽象的な原理として提示して本人に考えさせ、そしてそれはどのようにしたら達成できるのかも考えさせることかと思います。

そういった意味で、この本は卒業論文を完成させるための原理がコンパクトにまとめられた本かと思います。文系の人は、自分たちの慣習と理系の慣習の違いに少し戸惑うかもしれませんが、その違いから研究に対するアプローチの違いも学べますし、卒業論文完成のためにはそのような違いを越えた文理共通の原理から多くを学べると思います。



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2010年1月26日火曜日

ゼミ開始にあたって読んでおくべき本・論文

柳瀬ゼミでは、ゼミ開始時期に以下の本を読み、レポート・論文を書くということはどういうことか、わかりやすく正確な日本語そして英語を書くということはどういうことかについて学びます。

新ゼミ生は、以下の本・論文を購入・ダウンロードして読み進めておいてください。




酒井聡樹 (2007) 『これからレポート・卒論を書く若者のために』 共立出版

本多勝一 (1982) 『日本語の作文技術』 朝日文庫

倉島保美 (2000) 『理系のための英語ライティング上達法』 講談社ブルーバックス

杉原厚吉 (1994) 『理科系のための英文作法』中公新書

George Gopen & Judith Swan (1990) "The Science of Scientific Writing" American Scientist



以上でリンクをはった、コラム「理系に学ぼう」では毎月、できるだけ良書を推薦するようにしています。「理系」とありますが、文系でも機能的で正確な文章を書こうとすれば「理系」と同じです。このコラムに紹介されている本もチェックしてください (たいていの本は教英図書室および院生控室に置いてあります)。


また、私の旧ホームページの「教育」にも論文の書き方などについて解説した文書がありますので、これも必ず読んでおいてください。


さらに次の本は、論文を英語で書き始める前に一読し、書きながら何度も参照してください。(ゼミ開始時期には読みませんが、英語で論文を書こうとしたらこの本で説明されているような知識は必要です)。




2010年1月25日月曜日

推測統計の考え方に関して、数式・数学的説明を省いた、まったく素人的で直感的な説明の試み(統計の専門家の皆様ごめんなさい)

学部二年生用に作った、推測統計学の考え方を直観的に理解するためのスライド(「推測統計の考え方に関して、数式・数学的説明を省いた、まったく素人的で直感的な説明の試み(統計の専門家の皆様ごめんなさい)」)をここでも公開します。

学部二年生には既に記述統計(代表値、ヒストグラム、分散・標準偏差、偏差値など)については簡単に教えてエクセルで作業できるようにしていますが、t検定を導入するにあたって、記述統計と推測統計の違いをきちんとわかってもらいたいと願いこのファイルを作りました。




スライドに誤解を招くような表現、あるいは端的な誤りがあることを怖れます。また本当は信頼区間についてもわかりやすい説明を加えたかったのですが、うまい説明法が見つからず割愛しました。もしスライドに対して修正や改善のご意見がありましたら、ぜひお知らせ下さい。私のメールアドレスは、yosukeの後に@hiroshima-u.ac.jpを付けたものです。




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指導要領を受け流し、骨抜きにするという戦略について

「授業は英語で行なうことを基本とする」について、組田幸一郎先生がブログ「英語教育にもの申す」で「反対するのであれば。正面から受け止めない方が、より戦略的です」と述べています。



なるほど、私も自分が高校教師だったらこの戦略をとるかもしれません。役所の言うことはまあ適当に受け流すというのが日本での知恵だからです。

私は、「制度の内と外の間でのコミュニケーション」で書いたような理由から、新学習指導要領推進者とその反対者が公開討論をする可能性は低いだろうと考えています。

もし開催されたとしても、反対者は批判の手を弛めてしまうかもしれません。社会的機能と個人的人格を峻別して、社会的機能に徹して議論をするという言語コミュニケーションは、日本文化では根付いていないからです。もっともどの国の文化でも個人の人格を尊重するということは大切に思われているでしょうが、日本では特に「人間関係を壊さない」ことが重視されていますから、反対者も相手の面子を配慮して自らの言動を抑制するかもしれません。あるいは徹底的な批判をした場合に自分に跳ね返ってくるかもしれない (暗黙の) 社会的制裁を怖れて言動を抑えるかもしれません。

しかしやはり学習指導要領は国レベルの公的文書です (注)。そのような規模での公的文書では文字通りの意味だけが通用します。菅先生や田尻先生などの業界内の有力者の言葉を引用して学習指導要領に解釈を加えようとしても業界以外の人には「何ですか、それは? それは私人の見解でしょう」と言われればそれまでです。国レベルの公的文書を、業界内の慣行で骨抜きにすることには無理が多いと思います。少なくとも英語教育界は、言語に関わる業界なのですから、きちんと言葉で理路を示さないと、業界外では不信感が増すだけですし、私たち自らも誇りを自分でも保てなくなりませんでしょうか。英語教育を業界内だけで考えることはもう止めにするべきでしょう。

また、私はある時、学習指導要領の英訳を手にしたヨーロッパ人から議論を吹きかけられたことがありました。応答の中で私は「学習指導要領は、曖昧な大綱にすぎず、現実世界ではかなり骨抜きにされている」といった説明もしましたが、そう言っていて何だか自国文化について情けない思いも感じてしまいました。日本の英語教育も、今は他国の研究者・実践者から観察されています(ちょうど私たちが他国の英語教育を観察するように)。もし英語が「グローバル」な言語だと言って英語教育を押し進めるなら、日本の英語教育関係者も、自国内だけで通用するような論理で英語教育を推進するのは止めるべきではないでしょうか


これまでの「日本的」なやり方でしたら、新学習指導要領も適当に受け流してしまうことが現場と英語教育関係者の現実的対応ということになるでしょう。「指導要領ではそう書いていますが、まあ現実は・・・・」といって文末を言い切らないで笑顔を示すのが日本での世間知というものでしょう。しかしそのような英語教育関係者の「ことばの教育」や「グローバリゼーション」あるいは「説明責任」という言葉からは、説得力が根源的に失われてしまうような気もします。

日本の英語教育関係者は、私も含めて、自らの仕事のもっとも大切なところにおいて、言語コミュニケーションが十分にできていないのかもしれません。




(注) 私はある時「皆さんは自分の感情や考えで赤信号を無視しますか? できませんよね、そんなこと。指導要領も同じです。従わなければならないんです」というレトリックを耳にしました。しかし指導要領は厳密な意味での法律ではありません。指導要領と道路交通法を同じものとして扱うレトリックは誤りであり、危険だと考えます。指導要領の法的性格については、(いわゆる「伝習館裁判」だけでなく)様々な判例などにも基づいたきちんとした法学的研究論文を読んで勉強したいと思います。どなたかそのような論文をご存知ありませんか。私は数年以上そんな論文を読みたいと思い続けています。






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2010年1月21日木曜日

凝縮した知識を処理する英語力

凝縮した知識は、精選した内容を稠密な文体で表現することにより処理される。他方、散漫な情報は、未整理な内容を冗長な文体で提示することにより処理される。

凝縮した知識の処理は、高いレベルの関連性 (Relevance) が保たれている。つまり読む労力 (effort) に相応しい読む成果 (effect) が得られるようになっている。語られ執筆される文章は、傾聴し熟読する価値があるものである。読めば多くの知識が得られるからだ。

他方、散漫な情報の処理は、関連性が保たれていない。多くの量を読まされるという労力を払っても、それに相応しい成果が得られない。話され書かれる文章は、聞く価値も読む価値もない。たいした内容がないからだ。

高度知識社会において言語力 ―近年は特に英語力― が必要であると言う場合、そこで意味されているのは凝縮した知識を処理する言語力である。散漫な情報を処理する言語力は言語力の発達過程で見られるにせよ、それは克服されるべきものであり、高度知識社会ではそれだけでは不十分だ。早い話が、下らぬことをクドクドと話す人や、短くまとめられるはずのことを要領を得ぬやり方でダラダラと書く人は、歓迎されない。言語が英語でも同じで、つまらないことをペラペラ話す人は英会話学校ではホストである教師に絶賛されるかもしれないが、現実社会では「うるさい。だまれ」と言われるだけである。とにかく英語を多く書くことは中・高の学習過程では推奨されても、現実社会で冗漫な文書を書けば突き返されるだけである。育てるべき言語力・英語力は、凝縮した知識を処理する言語力・英語力である。

ところが問題がある。凝縮した知識を処理する言語力・英語力を育てるためには、狭義の言語・英語の訓練だけでは不十分である。もちろん狭義の言語・英語訓練は必要不可欠で、漢字の読み書き、英語の音読・書き取り・シャドーイング・ディクテーションなどに学習者は多くの時間を費やし自らの心身に基礎的な言語・英語力を叩き込まなければならない。しかしその訓練は本当の基礎に過ぎない。

凝縮した知識というのは、多様な具体的現実をごくわずかの抽象的原理に結晶化したものである。凝縮した知識を処理するというのは、結晶化された抽象的原理を読んで、それを様々な具体的現実に翻訳できることである。「ああ、例えばこういうこと、あるいはああいうことか」と原理を現実に展開できることである。さらに多様な具体的現実を観察して、その多様性に惑わされず「なるほど、つまりはこういうことか」と具体的現実を抽象的原理に還元できることである。抽象から具体へ、具体から抽象へというこの往復運動が自在にできることが凝縮した知識を処理することだ。

この往復運動の射程が長ければ長いほど、知識処理効率は高い。高い抽象度の知識を操れるものは、その高みから一気に現実の大地へ降りることができる。大きな正三角形を想像して欲しい。頂点のたった一点からその人は長い底辺を俯瞰できる。逆に長い底辺も頂点のたった一点で統合することができる。他方、凝縮度の低い知識とは小さな正三角形である。頂点の一点が支配力を持つのは短い底辺に過ぎない。

凝縮度の高い知識を処理するということは、大きな正三角形の頂点を支配するということである。1の抽象的原理を理解することで100の具体的現実を理解できる。凝縮度の低い知識を処理するということは、小さな正三角形の頂点を支配することである。1の原理を理解しても、それで理解できるのは2に過ぎない。

そうなると「同じ量」の言語を処理するにせよ、凝縮度の高低で、言語処理の成果は大きく違ってくることがわかる。凝縮度の高い知識が表現された言語・英語を処理すれば、1の言語・英語処理で100の現実理解が得られる。凝縮度の低い知識の言語・英語処理なら1の言語・英語処理で2の現実理解しか得られない。となるともし課題が100の現実理解を得ることなら、凝縮度の高い知識を表現した文章を処理できる者なら1の時間でその課題を達成し、凝縮度の低い文章しか処理できない者は ―ここでの例で計算するなら― 50の時間をかけなければならない。

となれば高度知識社会における言語力・英語力の教育とは、基礎的な言語・英語訓練を基盤にして、高い凝縮度の知識を言語で処理できるようにすることとなる。抽象的な文章を理解してそれを「例えば・・・」と具体的な事例に当てはめる。逆に散乱する具体的現実は「つまり・・・」と抽象的な文章に昇華できる。さらにその抽象と具体の間の往復を、様々な距離で自在に行なう。時に思い切った抽象化もすれば、時に適度な抽象化で読者の具体的理解を促進する。時に適度な具体化もすれば、時に詳細な具体化で読者に抽象的理解の力の大きさを感得させる。言語・英語教育は、多くの具体性に根差した高い抽象性をもった文章の処理を目指さなければならない。

ひるがえって現在の日本の言語・英語教育はどうなっているだろうか。国語教育については私はほとんど知らないが、英語教育については、高等学校の新指導要領では「英語の授業はすべて英語で」というのが推奨されている。全国津々浦々の高校の研究授業で指導主事が教師に「できるだけ日本語は使わないように」と「指導」するのだろう。

だがこの方法ではたして高校生は、大学で論文が読めるぐらいの高度な英語力がつくのだろうか。愚にもつかない文章を読んで、その概要をまとめ、自分の意見を書くなどといった散漫な情報処理のための英語力ではない。凝縮した知識を処理できる英語力がつくのだろうか。日本の現状において日本語を禁止するような英語授業を強行すれば、それは結果的に口先も頭も「ペラペラ」の学習者だけしか育てられないような結果にはならないだろうか。

ひょっとしたら大量の入門レベルの英語を読み ―例えば100万語読解の実践を思い起こしてほしい― 順次英語のレベルを上げることにより、「英語だけ」の授業で高度な英語力もつくのかもしれない。だがその際の英語の量というのは、現在の教科書の分量とは比較にならない大量のものだろう。現実にそれだけの教材を全国的に提供できる手だては現在ない。またそのような大量の英語を扱う教育に関しては、私も含めてほとんどの英語教師が経験知をもっていない。教師が経験知をもっていない教育法を全国的に展開することはできない。それでは他の方法で、日本というEFL環境の中でも特に母国語の力が強い状況で「英語しか使わない英語授業で」凝縮した知識を処理できる英語力は育成できるのだろうか。繰り返していうが散漫な情報を処理する低いレベルの英語力ではない。高いレベルの英語力の話をしているのだ。私は寡聞にしていい方法を思いつけない。

だが日本では幕末以来、最近では悪くしか言われない「文法訳読式」で少なくとも少数の人間に ―といっても日本を繁栄させるには十分な数に― 凝縮した知識を処理できる高いレベルの英語力をつけさせてきた。これは事実である。知的凝縮度の高いいわゆる「名文」を前にして、自らの最良の理解媒体である日本語を駆使して、その英語の内容理解を明示化しようとする 。その理解の明示化を独自の読み物にしたのが「翻訳」であるが、翻訳作品をつくり出すまでにはいかないにしても、「母国語との格闘」 (渡部昇一) とも表せるような知的訓練を通して凝縮した知識を表現した英語を精確に理解することを学んだ。それは高いレベルの英語力を獲得すると同時に、おそらくは高いレベルの日本語力を身につける過程であった。日本におけるこの英語教育の伝統にはたとえ修正・改善されるべき点があったとしても、それは全面否定され破棄されるべきものではないだろう。

となれば、国レベルで大きな教育方針を提示するならば、この歴史的事実に基づきながら、伝統的教授法に必要な修正を加える程度のことが賢明というものだろう。日本語をうまく利用し、文法関係と解釈の機微の精密な説明を日本語で行ないながら、音読やシャドーイングなどの訓練を拡充する。その基盤の上で「コミュニケーション」を試みる。つまりは、経験的にうまくいっている方法を精選して時間を捻出し、そこにここ20年ぐらいで培ってきた訓練的な要素、コミュニケーション的な要素を付け足す ― それが現実的な態度ではないだろうか。

新しい指導要領の「英語だけでの英語授業」の強調は、高度な英語力の養成についてどういった見解を持っているのだろうか。まさか「オール・イングリッシュならいかにも英語の授業らしく見える」といった俗見に迎合したわけではあるまい。新指導要領の責任者は、どんな根拠で幕末以来の日本の英語教育の知見を全面否定しようとしているのだろうか。

あるいは私が気になっているのは、ある時に聞いた文部科学省関係者の発言だ。その人は「私も今でも毎日iPodでCNNニュースを聞いている。ペーパーバックで小説も電車の中で読んでいる。こういったものはぜんぶきちんとわからなくてもいいんです。ニュースは概要がわかればいい。小説はだいたい楽しめればいいんです」と自分の毎日の英語体験を力説していた。

たしかに私も自らの英語習得過程で、そのような訓練というか習慣も自らに課した。今でもそのように「だいたいの理解・とりあえずの娯楽」を求めるために英語に接する機会も多々ある。これはいわゆる「英語好き」がよくやることである。しかしそれだけが英語処理ではない。

日本でもっとも英語力を必要としているのは理系の人間とビジネスの人だろうが、彼/彼女らは精確に英語を処理しなければならない。実験手順を間違うわけにはいかない。取引の条件交渉をいいかげんにするわけにはいかない。彼/彼女らには凝縮した知識をきちんと (できれば高速に) 処理する英語力が必要なのだ。英語教育を英語好きの英語道楽的な発想だけでデザインすることは許されない。

真相はわからない。新指導要領起案者は「授業は英語で行なうことを基本とする」という宣言で何を狙ったのだろうか。しかしある意味、起案に関する裏事情などはもはや問題ではない。この文言は今や公的文書になったからだ ―しかし、断じて「法律」ではない!! 指導要領の「法的性格」についてはこれから成熟した議論が必要だろう―。

この「英語の授業はすべて英語で」という宣言 (あるいは布告) は日本の英語教育の現実をどう変えてゆくのだろう。日本の英語教育の現実はこれにどう影響されるのだろうか。それとも現実はまたも公的宣言を「タテマエ」として呑み込んでしまうのだろうか。これから高校・大学での英語教育方針を、英語教育関係者がどう見定めてゆくか。英語教育関係者の見識が問われている。





関連記事

知的訓練としての文法訳読 (2008/4/7)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_07.html

高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出 (2009/1/14)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.html

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店 (2009/10/2)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/2009.html

江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/20100114.html



追記
この記事を掲載した直後に目にしたコラムに次のような一節がありました。


John Hagel, the noted business writer and management consultant argues in his recently released “Shift Index” that we’re in the midst of “The Big Shift.” We are shifting from a world where the key source of strategic advantage was in protecting and extracting value from a given set of knowledge stocks — the sum total of what we know at any point in time, which is now depreciating at an accelerating pace — into a world in which the focus of value creation is effective participation in knowledge flows, which are constantly being renewed.

OP-ED COLUMNIST
Is China an Enron? (Part 2)
By THOMAS L. FRIEDMAN
Published: January 19, 2010
http://www.nytimes.com/2010/01/20/opinion/20friedman.html?ref=opinion


私が上で言う「凝縮した知識を処理する英語力」とは、stockよりもflowの状態でより重要になることは言うまでもありません。


【広告】 吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 (ひつじ書房) には凝縮した知識がいっぱいですよ (笑)






2010年1月20日水曜日

情報収集ではなく情報凝縮に対価を払う

久しぶりに開封した雑誌The New YorkerでJohn CassidyによるAfter The Blowupという記事を面白く読みました。かつてソ連が崩壊した時、私は日本論壇で次々にマルクス主義が凋落してゆくのをある種の驚きとともに眺めていましたが、今は経済学のシカゴ学派Chicago school of economics)の衰退をちょっとした感慨とともに眺めているような気がします。


この記事は、法学の立場からシカゴ学派の経済学的思考をサポートしてきたリチャード・ポズナーRichard A. Posner)のケインズ評価という「変節」を中心に、原理的なシカゴ学派(例にあげられているのが、FamaLucas)がもはや「引退」すべき潮時にあると示唆しています。共産主義の没落とともに、規制緩和と経済的インセンティブを主張し全世界的に浸透するにいたったシカゴ学派の思考法も、金融業界においてまで規制緩和が行き過ぎるに至り近年の金融危機を招き、もうこのままでは立ちゆかなくなっているのではないかと言うわけです。

しかしシカゴ学派は新しい流れとしてRichard Thalerらによるbehavioral economics行動経済学)も生み出しており、ソ連の解体後もマルクス主義が死に絶えず再生しようとしているように、この金融危機以後もシカゴ学派が死に絶えるわけではないことも示唆しているようです。

マルクス主義やシカゴ学派の経済学的思考というのは、時代ごとの一種のイデオロギーとして働くように思えます。イデオロギーはとにかく私たちを支配しますから、私たちはその正体を見極め、その長所と限界をよく自覚すべきかと思います。



しかしそれとは別に、久しぶりに雑誌を開封した(汗)私が強く思ったのは、情報入手についてです。

私はこの記事を読んでなるほどと思い、興味に駆られてThe New Yorkerのウェブサイトを訪れました。そこにはこの記事の著者のブログがあり、この記事でも取り上げられたシカゴ学派の経済学者へのインタビュー記事も多数掲載されていました。これは無料で誰でも読めるものです。


RATIONAL IRRATIONALITY: John Cassidy on economics, money, and more.


読み始めたら面白いのですが、とても読みきれないほどの情報量があります。ちょっと考えたらお金を出してThe New Yorkerを買わなくても、この無料ウェブ記事を読んでいればいいようにも思えます。

しかしThe New Yorker本誌の記事を読むほどには、このウェブ記事は面白く読めません。本誌の方が情報が凝縮され、文体も洗練しており、短時間で質の高い読書が経験できるからです。私がこれからもThe New Yorkerを購読するとしたら、私はお金を払う理由をこの情報の凝縮に対して見いだすでしょう。

Googleの普及以後、情報収集の価値は劇的に下がりました。特に英語で検索すれば、もう処理できない分量の情報が手に入ります。以前は情報は紙媒体で探すのが中心で、情報収集には時間がかかりましたから、情報は希少資源でした。だから情報を多く収集するために私たちは進んでお金を払っていました。

しかしGoogle普及以後、情報はもはや希少資源ではありません。ですから単に情報を収集するために私たちはお金を払う気持ちにはなれなくなってきています。今、お金を払うとしたら、それは多くの情報のためではなく、精選された情報のためでしょう。希少資源は今や情報でなく、私たちの時間です。これから私たちがお金を払う価値を認めるのは、情報収集に対してではなく情報凝縮に対してではないでしょうか。

私はこうしてブログに駄文をたくさん書く人間ですが、そういった私にも時折英語教育でお金を頂いて原稿を書く場合があります。その時に私が心がけているのは―当たり前のことですが―読者がお金を払う価値があると思える原稿を書くことです。そのような原稿を書くことは、情報の多さによっては達成できません。雑誌や本には分量制限が厳しく設定されていますから私は思うような情報量を掲載できません。ですから私はできるだけ推敲します。推敲して、読む価値の高い項目だけを精選します。文章もできるだけ読んで心地よいものになるよう何度も書きなおします。ブログなどは、とにかく自分が書きたいことだけを、誤字脱字訂正以外の推敲はせず、ほとんど自分の備忘録として(あるいは自分の欲求不満の解消として)書き付けますが、紙媒体への商業原稿では読者にとって最適に情報を凝縮しようとしています。

情報の紙媒体と電子媒体での棲み分けはこれから大きな課題となってきますし、両者の違いも曖昧になってくるかもしれませんが、私は紙媒体の強みの一つは情報の凝縮であるような気がします。凝縮した内容と洗練した文体をもった文章を掲載できない限り、紙媒体はどんどんと縮小してゆくだけかもしれません。

もっとも内容の凝縮と文体の洗練は電子媒体の編集でも言えること―つまりはどの媒体にも共通する当たり前のこと―なのかもしれませんが。




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2010年1月15日金曜日

原賀真紀子 (2009) 『「伝わる英語」習得術 ― 理系の巨匠に学ぶ』 朝日新書

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


英語習得の本質を語りながら、英語習得という狭い枠組みを超える圧倒的に面白いインタビュー集だ。なにしろ人選がすばらしい。フォーク・クルセイダーズのメンバーである精神科医 (きたやまおさむ先生)、ハイネの詩集と艶笑落語を愛するノーベル賞物理学者 (小柴昌俊先生)、「バカの壁」を天下に明らかにした解剖学者 (養老孟司先生)、たぐいまれなる人間通の医師 (日野原重明先生)、『チームバチスタの栄光』作家で病理医 (海堂尊先生)、そして「竹の家」の美的感覚で国際的評価を得る建築家 (隈研吾先生) ― これらの選ばれた「理系の巨匠」は専門分野での活躍もすごいが、文系的な素養がすばらしく豊かである。だから話の内容が「いかにもありそうな話」に決してならず、深い知恵が柔らかな言葉で語られる。インタビュアーの原賀真紀子氏、編集者の河野恵子氏の労を讃えたい。


これだけ多彩な識者が語る英語習得の本質は存外に単純だが、その本質から示されてくることは深く豊かだ。

英語習得の本質は、冒頭のきたやまおさむ氏が三点によくまとめていて、その後の登場人物もこれらの点を彼らなりに繰り返す。ごく単純にまとめるなら、英語を使うコツは、使うときの「態度」、話の「内容」、話す「方法」に尽きる。

第一の「態度」とは、直近の英語使用から一歩離れた、客観的でリラックスした自分を持つことである。それは「ユーモア精神」をもつことであり、若いうちに名文を身体に叩き込んで英語のリズムを「教養」として体得することであり、それぞれの文化がもつ「歴史」を学んでおくことである。「ユーモア精神」も「教養」も「歴史」も、昨今しきりに学校教育で強調される「すぐに役立つ」ものではない。しかしそういった直接には役立たないような素養が「態度」として身についていることが、外国語としての英語を使ってのコミュニケーションを根本基盤になっているとこの本の識者は口をそろえている。

第二の「内容」とは、英語をどう話すかといった以前に、どうしても伝えたいという信念と自信をもった話の中身をもつことである。これさえあれば、恥ずかしいとかいった余計な感情も消え、なんとか伝えようとする。また聞いている方も、話し方よりも何よりも、その人のメッセージを聞こうと前のめりになって聞いてくれる。学校英語教育は「英語」という教科の枠組みで行なわれるから、どうしても英語の話し方ばかりに注目がいくが、現場で大切なのはなんといっても話す内容である。「英語が上手になったから英語を使おう」というのは英語教師的な発想である。理系を始めとした英語使用の現場の発想は「とにかく使わなければならないから英語を使い、使っているうちに英語も上達する」である。英語教師も、英語学習者の「話し方」だけでなく「話」を育てなければならない。(そしてこれは既に優れた現場英語教師が実践していることである)

第三の「方法」とは、英語を話すときはとにかく具体的に、即物的に記述することを心がけることだ。「自分がその事物についてどう思っているか、どう感じているか」ではなく、誰でも納得せざるをえない事物の外観・構造・機能を説明することが英語によるコミュニケーションでの説得力と信頼性を高める。事物が目の前にないなら資料でもスライドでも何でも総動員して徹底的に具体的に話せと識者は語る。

このように英語を使うコツは、英語に捕らわれず、自分が納得している内容を、徹底的に具体的に語ること、とまとめられる。しかし、この本はそういった英語習得術だけにはとどまらない。英語習得の枠組みを超えて、日英での言語的コミュニケーションの考え方の違い、ひいては身体的コミュニケーション観の違いも語られる。

精神科医のきたやま先生は、生化学や解剖学といったはっきりと対象が見える理系分野では日本人も英語を使って活躍しやすいが、こころの問題を扱う分野では日本人の活躍はあまり見られていないことを報告する。「自分がない」や「私は自分を殺して生きています」といった日本語文化では当たり前の表現が、英語文化 (この本の識者は英米文化に限らず広く欧米文化を語っているが、ここでは便宜上「英語文化」という言葉を使う) ではある意味驚くべき発想の文化であり、それを英語で表現することは想像以上に困難なのだ (精神病理医で臨床哲学者の木村敏先生も数々の著作でこれと同じことを述べていることを評者としてはつけ加えておきたい)。

考えてみれば、自分の中に明確に意識されていない「無意識」なる領域があり、人間はしばしばその無意識に支配されているというフロイトの説は、19世紀から20世紀にかけての欧米ではスキャンダラスなぐらいの大発見として思想史上に残ったが、多くの日本人にとってそんな「無意識」など当たり前で特に言葉にすることのものでもないだろう。さらに「自分」という存在が刻々と変わる存在であるということは、20世紀末から21世紀にかけて欧米では「ポストモダン」という言葉などで大々的に語られたが、これも多くの日本人にとって驚くことでもなんでもない。

解剖学者の養老先生の対比を借りれば、「はじめに言葉ありき」の文化と「言葉にならない部分が最初にある」ことを当然とする文化の差であり、それは根源的な差と言ってもいいものかもしれない。

建築家の隈先生は、英語でのプレゼンテーションでは演劇的で思い切って「見得を切る」ことが重要だが、日本語でのプレゼンテーションでは「あ、この人って意外にいい人なんだ」と思ってもらうことが大切だと言う。つまり英語のプレゼンテーションは、プレゼンテーションの具体的な内容を説得的に説明するために行なわれるが、日本語でのプレゼンテーションは人間関係の潤滑油をつくり出すために行なわれるわけである。

この根本的な違いは身体作法にも色濃く出ている。英語を使い始めると急に身振り手振りが大きくなる日本語者はよく見られるが、言語習得とはボディーランゲージの変更を伴うものである。人間のコミュニケーションには「言葉でわかる」以上に「体でわかる」ところがあるから、外国語を習得しそれを母国語と使い分けるというグローバリゼーションの現実とはかなり大変なことなのだと養老先生も説く。

日本語は曖昧だともよく言われる。英語なら"I"だけで終わるのに、日本語では「私」「僕」「自分」「先生」「お父さん」などと使い分けなければならない。会話では「ほう」「あぁ」「なるほど」と言うが、必ずしも話の主張に同意しているわけでもない。「ノー」と言わずに「ちょっと難しい」と言い、「あの、そろそろ・・・」「やってみますけど・・・」といった最後まで言い切らない発言が多用される。

これらの曖昧さは、英語を話す際の大きな障壁になる。著者の原賀氏も述べるように、漠然と日本語的な感覚をそのまま英語に持ち込んで話そうとすると、しばしばその英語は通じないし、伝わらない。だから日本人は、英語を習得しようとするとき、実は日本語文化というものをきちんと自覚しておかなければならないのだ。

とはいえこの日本的曖昧さは、棄て去るべき悪いものではない。外国語として日本語を学ぶ者は、上述のような曖昧な日本語表現を他言語にはあまりない、便利で使い勝手のよい表現とも捉えることがある。曖昧でいてその場の状況にぴったりと合った表現を使い分ける日本語は「コミュニケーションのルールがとても明快だ」とは、日本語をマスターしたあるイギリス人の述懐だ。

英語文化においてもベトナム戦争以降、ポップスに "sorry" という言葉が頻繁に現れ始めたと精神科医 ―そしてフォーク・クルセーダーズ!― のきたやま氏は観察する。ましてや9.11以降、英米文化も強烈な自我を貫徹することが正義なのかということを深刻に疑い始めている。

きたやま氏はこう語る。


だからね、このごろ外国人と酒を飲んでしゃべっていても、なんだかほとんど日本人と変わらないなと思う。彼らも迷っているし、我々から学びたがっているし、神様も八百万じゃないけど、たくさんいたほうがいいと思っている。ようやく我々は、ほんとうの英語に出合えるというか、自分たちをわかってもらえる相手に出会えるようになってきたのだと思います。 (30ページ)


グローバリゼーションの中での英語習得とは、日本語・日本語文化の単純な廃棄でも反動的な礼賛でもない。「理系の巨匠」が呈しているこれらの問題に、人文系であるはずの英語教師はどのように応えるのだろうか。

皆さんもこの新書をお読みの上お考えください。




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2010年1月14日木曜日

HathiTrust Digital Library: ある本に、あるキーワードがどのくらい含まれているかを探すのに便利

HathiTrust Digital Libraryというのはアメリカの有力図書館の共同事業ですが、蔵書をデジタル化して、すべての蔵書についてその中に私たち利用者が指定したキーワードがどのページに入っているかをすぐに教えてくれます。


HathiTrust Digital Library




キーワードがどれだけ含まれているかはわかりますが、そのキーワードがどんなセンテンスにどのように使われているかはわかりません。つまり本文は見られないわけですが、これは著作権を守るための処置です。

使い方としては、まずこのHathiTrust Digital Libraryでキーワード検索をして、もしその本を読む価値があるようだったら図書館で借りるなり自分で購入するなりを決めるというものです。また自分で手元にその本を持っているとしても、このHathiTrust Digital Libraryがオンライン・インデックスになるからこれもまた便利です(特にもしその本にインデックスがなければこれは本当に便利な機能です)。

Google Books (http://books.google.com) よりも保守的、遵法的なアプローチかと思います。

本のデジタル化に関しては、猛烈な勢いで世の中が動いています。新たな公共性を模索しながらよい知識社会が構築されればと思います。



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江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―

本日付の江利川先生のブログ記事「懐かしの英語参考書(10)青木常雄の英文解釈書(その2)」の主張には非常に共感しましたので、このブログでもその記事をご紹介します。





私が特に共感した箇所は、記事末尾の以下の一節です。


1980年ごろから、日本の(特に高校の)英語教育は「退化の段階」に入ってしまった。
文科省(というか財界)の「コミュニケーション重視」(はっきり「会話重視」と言え!)によって。

英会話を必要としない日本国の英会話中心主義。
その「おかしさ」に気づくべき時期ではないか。
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/7172156.html


私の蛇足を加えます。


(1) 「退化」について:

日本の英語教育界には様々な流行の浮き沈みはあるかもしれないが、必ずしも進歩も進化もしていなく、むしろ退化している可能性が高いことをまずもって英語教育関係者が痛感しなければならない。

「退化している」という主張の論拠としては、大学生がきちんとした英語の文章 (論文) を読めなくなっていることが上げられる。文章 (論文) を「何となく」しか読まず (あるいは読めずに) に適当な解釈を自分の頭の中から引き出して、それで「英語を読んだ」と考える学生の出現は、英語科でも頻繁に見られる。英語を得意とするはずの英語科の学生でもこうなのだから、理系の学生が英語論文を英語力欠如ゆえに読めない事例はもっと多いはずである (私も直接間接にそのようなエピソードはよく聞く)。


(2) 俗的な「コミュニケーション=会話」観について:

江利川先生が「コミュニケーション重視」について、「はっきり「会話重視」と言え!」と述べているが、まさにその通りである。「コミュニケーション」は、社会学的にも哲学的にも非常に重要な概念である (注) のに、それをもっぱら「会話」「英会話」と等価とするのは教育関係者には許されないひどい誤解である。

この概念をきちんと掘り下げて考えることなく、「コミュニケーション」という言葉を、「会話」「英会話」といった俗受けする事象だけを意味するかの如く使用することは、英語教育をめぐる議論を迷走させている。

少なくとも高等教育 (大学・大学院) で第一に重要なのは書き言葉である。書き言葉で書かれた文書 (論文) を正確に読解し、書き言葉で語られた話 (講義) をきちんと聴解し、学会口頭発表でもできるだけ簡潔にして正確な書き言葉で話し、論文投稿ではもちろんのこと凝縮し洗練された書き言葉で書くことが大学 (特に理系) で求められていることである。

その求められる英語力が近年大幅に落ちているが、その英語教育の失敗を表面上誤魔化しているのが「コミュニケーション重視」というスローガン (あるいは思考停止したイデオロギー) ではないのか。


(3) 「英会話」はそれほど重要でない:

日本のようなEFL環境で、英語を使ってハンバーガーを買うような状況はないことは江利川先生も言っているとおりであるが、仮に日本人が英語圏に言っても、ハンバーガーを買うのに別段、流暢で正確な英語表現 (英会話) は必要でない。重要なのは笑顔といった、言語コミュニケーションを支える非言語的コミュニケーションの基盤である。忙しい店なら特に、言語表現を無理に使おうとするより、メニューを指さしたりする方がよほど便利で有効である。

非言語的な状況に大きく依存している「会話」においては言語表現の不備は他の様々な手段で補われる。言語表現が大切になってくるのは、状況の助けをあまり使えない「自律した」言語表現、すなわち書き言葉をつかったコミュニケーションである。少なくとも高等教育およびそれを目指す高校教育では、話し言葉でのコミュニケーション (=「英会話」) ではなく、書き言葉によるコミュニケーションに主眼を置くべきである。



まとめるなら、高等教育で第一に重要な英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化していると言うべきでしょう。もちろんこの退化には、一般的な学力・学ぶ意欲の低下といった要因もあるでしょうが、英語教育がそういった要因に抗していたとはとても言えず、むしろその低下傾向を助長していたと言うべきでしょう。この低下を外見的に誤魔化してきたのが「コミュニケーション重視」というスローガンあるいはイデオロギーです。これにより英語教育はもっぱら話し言葉中心になってしまいました。しかし少なくとも高等教育を目指す英語教育で重要なのは書き言葉としての英語使用です。英語教育関係者は現代社会における「コミュニケーション」の意味をもう一度考え直して、より深く豊かなコミュニケーション概念によって英語教育を再生するべきだと私は考えます。




と、私の蛇足はさておき、江利川先生はこのブログの中で多くの「懐かしの参考書」を紹介されていますが、それは単なる懐古趣味ではなく、以下のような信念があるからです。


日本語とは著しく言語的距離が離れている英語をどう理解するか。
この問題を解決するために、明治以来の先人たちが工夫し開発してきた技術が「英文解釈」法である。

コミュニケーション(というか英会話)中心の昨今は、旧式の「文法訳読式」とみなされ、すこぶる評判が悪い。
だが、日常英語ではなく、多少とも深い思索をへて書かれた英文を読む場合、「英文解釈」を抜きには理解に達しないだろう。

そうした英文解釈の参考書は明治30年(約100年前)ごろからたくさん出ている (後略)
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/6043647.html



英語教育関係者は、次から次に現れる流行ばかり追うのではなく、江利川先生のようにしっかりと身近な現実を見て考えるべきだと思います (半分は自戒の言葉です)。




追記
「自戒の言葉です」と表記しようとしたら「自壊の言葉です」とパソコンが日本語変換しちゃった。笑った、笑った。


追追記

もちろん80年代以来の英語教育がすべての面において退化したというのも単純化しすぎです。

例えば音読やシャドウイングなどの「集中的入出力訓練」によって言語習得の身体的訓練を進めたのは進歩だと考えます。しかし、これは私の便宜的な「言語コミュニケーション力の三次元的理解」の考え方でいうなら、「心を読む力」「言語を使う力」「身体・物体を使う力」の三つの次元の最後の次元での進歩に過ぎません。

近年の英語教育は、対象とする言語使用を言語自律的な書き言葉から状況依存的な話し言葉へと移行させすぎましたから、それに伴って言語を正確に使い分ける力と、状況にできるだけ依存せずに言語使用者の心を読む力が要求されなくなってしまいました。この点では退化したというべきでしょう。

今後の英語教育は、近年で得た身体的訓練を、書き言葉の使用(書き言葉を聞き、語り、読み、書くこと)においても重視するといった方向でバランスを取るべきだと私は考えます。




(注)

たとえば社会学者のルーマンによるなら「社会」を構成するのは、領土でも単なる人間でもなく、コミュニケーションである。現代社会を考えるためにはコミュニケーション概念のきちんとした理解が必要である。

哲学および倫理学ではたとえばレヴィナスに典型的なようにどう「他者」を理解するか、あるいは理解し得ないままにどう共に生きるかというのは重要な問題である。異文化の共存は現実世界での切実な課題である。

言語学・認知科学でも「関連性理論」や「心の理論」に見られるように、どう相手の心を読むかという問題が重要であり、これは「会話定型表現を覚える」といった言語学習観では対応できない問題である。この問題抜きに定型表現ばかり「ペラペラ」しゃべっても他者の信頼や尊敬を得ることはない。

コミュニケーション概念は、学術的にも現実的にも非常に重要なものであり、「コミュニケーション」という言葉を「会話」と置き換えるような知的怠惰は許されるべきではない。





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2010年1月13日水曜日

iPhoneでkindleを使う

アマゾンの電子出版kindleについては、気になるもののまだ買うにまで至っていませんでしたが、iPhoneにダウンロードできる無料アプリでkindleが使えるというので、早速先週買ったiPhoneにインストールしました(よく言われますように、iPhoneは携帯電話ではなく、携帯電話機能付きのコンピューターですね)。

Amazon.comの私のアカウントでとりあえず購入したのは

Wittgenstein: Tractatus Logico-Philosophicus [Kindle Edition] , Price: $4.99

Spinoza: Works of Benedict de Spinoza: Ethics, Improvement of the Understanding and A Theologico-Political Treatise (mobi) [Kindle Edition] , Price: $3.91

です。

iPhone上で読むわけですから鳥瞰的な読み方は不可能です。しかし細切れの時間などに、じっくり、ゆっくり読み進めてゆきたい本を読むには良好なメディアかとも思いました。英語でしたら詩集などを、暗誦するぐらいにゆっくり読むにはいいのではないでしょうか(しかし私は英文学の素養がないので、買いたい詩集が思い浮かびません)。

もしこのkinldeのサービスが日本語での出版物でも開始されたら、私は車中で読み飛ばすような時事的な新書、あるいは同じく疲れた旅行先で読む娯楽小説などはkindleで購入するかと思います。

いや、ひょっとしたらiPhoneと大小2種類のkinlde readerという機器の物理的な大きさで私の読書行動も決められるかもしれません。いつもポケットに入れているiPhoneには宝物のように私有しておきたい文章を入れ、旅行鞄に入れるようなkindle readerには読み飛ばすような時事・娯楽系の読み物を入れるかもしれません。

しかし研究用の本はおそらく紙で買い続けるかと思います。少なくとも私の場合は、研究用の本には書き込みをし付箋を貼って、あちこちを相互参照しながら読み、読み返し、読み直し、書き写しますから紙の本の方が便利です。研究用の本は、その内容の構造性を把握しなければなりませんから、頻繁に目次や重要箇所を参照します。その際にはやはり紙の本の方が圧倒的に便利でしょう。

ただし研究用の本も、PDFなどで供給されたら私はそちらを買うかもしれません。コンピュータの大型モニターならそれなりに通覧性も向上しますし、検索やコピー・アンド・ペーストが圧倒的に便利だからです。(それでも自分の血肉にしたい本当に大切な研究書はPDFでもましてやkindleでもなく紙で買うことでしょう)。

いずれにせよ情報革命は英語圏を中心に爆進中という気がします。 “If your business has anything to do with information, you're in deep trouble. ”というのは90年代中頃に既に言われていた言葉ですが、この予言のおそろしさがだんだんと体感されてきたように思います。消費者としてはどんどん便利になってゆき嬉しいばかりですが、知の生産者・加工者はこれらの技術革新に対応して、いやそれを超えて想像力を発揮し、新しい知のあり方をデザインしなければならないように思います。







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2010年1月12日火曜日

DropboxとiPhoneの導入による全情報のユビキタス(偏在)化

DropboxiPhoneを導入することにより、ストックであろうとフローであろうと、公開するものであれ非公開にしておくものであれ、デジタル化された情報のほぼすべてを「いつでもどこでも」処理することができる体制に近づくことができたように思います。デジタル生活がかなり便利かつ快適になりました。


オンラインストレージとしてのDropboxが優れていることは昨年の早い時期から聞き知っていましたが、ついつい導入しないままになっていました。ですがこのたび自宅のPCが壊れてしまい、PCを買い換えたのでこれを機会に導入しました。


私にとってのDropboxのメリットとは以下のようにまとめられます。

・自分のすべてのファイルが常時自動的にWeb上のサーバーにバックアップされる。ファイル保管についての心配から解放される。

・Dropboxを(無料)インストールしたPCなら、Webにつながるだけで、どこでもパスワードを入れることによって自分のファイルがすべて入手できる。かつそのPCで作業した内容は上記のように常時バックアップされる。

・つまり、WebにつながったPCさえあれば、そこがどこであろうと、いつの時間であろうと、自分にとっての最新で安心できる知的作業場になる。(仮にPCにマイクロソフト・オフィスがなくても、OpenOfficeを無料インストールすればたいていのファイルは扱える)




こうして自分のデジタル情報のユビキタス(偏在)化が進行すると、ファイルといったストックの情報だけでなく、GmailやGoogleカレンダーなどのフロー情報もユビキタス化したいと強く思い始めました。幸いiPhoneは今キャンペーンをしており、事実上無料で機器を入手できるので、これまた思い切ってiPhoneを導入しました。


私にとってのiPhoneのメリットは次のようにまとめられます。

・Gmail環境が常に同期された最新状態で使える。メールの受信送信も事実上どこでも可能になる。

・Googleカレンダー環境も常に同期された最新情報で使える。iPhone上で追加更新したスケジュールはGoogleカレンダーにアクセスできるどのようなPCやその他の機器でも同期追加更新される。もちろんPCでスケジュールを追加更新してもそれは常にiPhoneにも同期追加更新される。

・つまり手帳を持ち歩き、その情報とGoogleカレンダーの情報を付き合わせる必要がなくなる。これまで手帳はPCアクセスができない現場で情報を追加更新するため必要不可欠であり、PCでのGoogleカレンダーはその便利さから手放せないものであったが、両者を併用しなければならないのが短所であった。しかしiPhoneの導入により、iPhoneがPCと同期する手帳となったので、手帳を持ち運ぶ必要も、手帳の情報とPCの情報を相互転記する手間から解放された。

・これまでのWindows CEの携帯端末よりも操作性がいいため、webアクセスも文字入力も容易になり、web検索やメール送信がどこでもそれなりにできるようになった。特にWeb検索によりちょっとした情報ならiPhoneだけで入手できるようになった。さらに無料あるいは安価のアプリにより情報検索はもっと便利になる。

・自ら音声録音・写真撮影・動画録画することは現在特にしていないが、これを活用すれば現場でしか得られない情報をPC管理、さらにweb公開することが非常に容易になる。




私の場合をまとめますと、情報のユビキタス(偏在)化は、以下のように進行したことになります。

(1)公開するHTML化されたストック情報 (ホームページ・ブログ: PC)
(2)公開するすべての種類のストック情報 (Box: PC)
(3)公開するフロー情報 (Mixi, delicious: PC)
(4)非公開のフロー情報 (Gmail, Google Calender: PC + iPhone)
(5)非公開のストック情報 (Dropbox: PC + iPhone, iPod+iTunes)


誤解を避けるために付け加えておきますと、Boxでも(5)は不可能ではありません。しかしファイルはいちいちアップロードしなければなりませんから面倒くさくて事実上は困難かと思います。逆にDropboxでは(2)は十分に達成できます。しかし私はこれまで(2)にBoxを使っていましたし、万が一私の人為的ミスでDropboxの非公開情報を公開してしまった場合を恐れて(2)にはDropboxは敢えて使わないようにするつもりです。

こういったプロセスを学生さんへの説明のため、パワーポイントスライドにまとめました。


ご興味のある方はご覧下さい。



追記1
この記事あるいはこのブログで私が紹介するソフトなどのインストールおよびその後の使用はご自分の判断と責任で行ってください。インストールなどから生じるいかなるトラブルに対しても私は責任を取ることはできません。


追記2
フロー情報のユビキタス化という点で次に達成したいのは、日本語変換です。自分で教え込んだ日本語変換辞書をいつでもどこでも使えれば便利だと思います。この点ではATOK Sync の導入を考えています。

追記3 (2010/03/03)
関連記事
iPhoneですべてのフロー情報とストック情報をユビキタスに管理する
を加えました。
iPhone→Gmailでフロー情報の、iPhone+Dropboxアプリでストック情報のユビキタス化がさらに進行しました。




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人間、ハンナ・アレント

20世紀におけるハイデガー哲学の影響の大きさは否定しようがない。彼の哲学は、精神病理学や認知科学にも影響を与えた。哲学そのものにおける影響はもちろんのことはるかに大きなものであり、ハイデガーがいなければ私たちが知るデリダはいなかった。レヴィナスもいなかった。ガダマーも。そしてアレントも。

『アーレントとハイデガー』は二人の関係に焦点を当てる。二人はともに卓越した哲学者でありながら、人間的には哀れなほどの弱さと脆さを抱え、お互いを必要としながら離れざるを得ない関係にあった。


アレントは『人間の条件』の出版において、かつての彼女の師であったハイデガーに私信(1960年10月28日)で、この本のすべてほとんどは彼に負っていると述べている。彼女がこの本に献辞を掲載しなかったのは「私たちのあいだの」「不運なめぐりあわせ」ゆえに過ぎないと述べている。(152ページ)

アレントはハイデガーに対して「ハンナ」であった。そしてハイデガーは「マルティン」であった。ハンナは54歳の時に70歳のマルティンに対して結局は出せなかった私信で「私は誠実でありつづけるとともに不実でもありました、どちらも愛のゆえに」と述べている。(7ページ)

簡単に言うならハンナは18歳の時にマールブルク大学に入学してそこの教師ハイデガーに出会う。彼は『存在と時間』を完成させようとしていた35歳気鋭の哲学者であり、既婚者で二人の子どもを持つ男であった。しかしハンナとマルティンと強烈な恋愛関係・不倫関係に陥ってしまう。

情事がはじまってほぼ一年後の1926年にハンナはマルティンのいるマールブルクを離れる決意をする。「あなたの愛ゆえに、これ以上あなたにとってことをむずかしくしないために」というのが彼女の言葉であった。(32ページ)しかしマルティンの方はすでにこのころハンナとの関係が自分の社会生活に影響を与えると思っていたのか、彼女を遠ざけようとしていた。

1928年にも―アレントが下に述べる博士論文を完成させる一年前である―ハンナはここに引用するのが痛ましいぐらいのセンチメンタルな手紙をマルティンに送っている。(45-46ページ)

1929年にハンナは同じくハイデガー門下生であったギュンター・シュテルンと結婚する。周囲は二人をお似合いと祝福したが、1950年に書いたある私信でハンナはマルティンとの別れの後「だれでもかまわないとばかりに愛してもいない人と結婚してしまったのです」と告白している。(104) はたせるかなこの結婚生活は長くは続かず1937年に離婚にいたる。(だが二人は結婚中も結婚後も友好的な間柄でありつづけた)。

一方ハイデガーはナチスに入党し、1933年にフライブルク大学総長に就任し、ヒトラーへの忠誠を公言する。ユダヤ人を妻にもつヤスパースは同じく1933年に大学行政への参加から締め出され1937年には教授の地位を奪われそれ以降彼の著作はドイツでの発表を許されなくなる。ハイデガーはこれらすべてに沈黙をもって応えた。(71ページ)


ハイデガーは、彼の恩師にて友人、そして地位を引き継いだフッサールに対しても学部への立ち入りを禁じているが、これもフッサールがユダヤ人であったがゆえと推定されている。(92ページ)

このフッサールへの処置について1946年になってのハンナはヤスパースへの私信で「ハイデガーを潜在的殺人者とみなさざるを得ない」と書いている。(92-93ページ)この怒りはハンナ自身がユダヤ系ドイツ人で、ドイツから亡命しなければならなかったことを考えればもっともであろう。

しかし1950年にハンナはマルティンに会っている。ハンナはこのことをヤスパースに1951年の手紙で「おわかりでしょう。私は心に疚しいところがあるのです」と述べている。(94ページ)

ハンナは1940年にハインリッヒ・ブリュッヒャーとようやく「愛と自分のアイデンティティの両方を失わずにもっていられる」(61ページ)結婚をすることができていた。にもかかわらず1950年のマルティンとの再会では彼の姿を目にするや「突然、時間が止まってしまったかのようでした」と述懐している。(96ページ)

1955年、ハンナはすでに50歳に近づこうとしているがマルティンと再び会うことに心乱されてしまう。「要するに、私はいま30年まえにしたのとおなじことをしようとしていて、どういうわけかそれを変えられないのです。この話に見出しをつければ ― 《それ》が始まったときと同じ法則によって・・・」とハンナは告白している。マルティンの心をつなぎとめたいとする欲求は5歳の子どものようであった。(138-139ページ)

ハンナがマルティンと彼の妻に対して落ち着いた態度を取れるようになったのは、彼女の哲学的・学術的・知的卓越が誰が見てもゆるぎないものになった晩年になってといえるかもしれない。



後年の私たちからするなら、あれほど人間として下劣であったハイデガーに、あれほど人間に対する深い洞察を示したアレントがこれだけ執着し続けたということは理解に苦しむことである。

この本(『アーレントとハイデガー』)を執筆した文学研究者であるエルジビェータ・エティンガーは、次のように説明している。

ふたりの関係の全期間をつうじて、それぞれが相手に依存していたのだが、その依存の仕方にはふたりの生き方、必要、個性に差があるのと同様に、ちがいがあった。若いころのアーレントは、愛と、庇護と、導きを必要としていた。彼女が7歳のとき、父親は梅毒で死去。その少しまえには、彼女がひじょうになついていた父方の祖父もなくなっている。彼女が愛し慕った母親は、しばしば湯治や親戚への訪問にでかけてゆき、そのたびに幼い娘は、母親がもう帰ってこないのではないかと不安におびえた。マルタ・アーレントはハンナが13歳のときに再婚。この結婚はハンナの生活に深い混乱をひきおこした。(8ページ)

彼女は途方に暮れ、自分を無力で無防備に感じたが、それでも外向きにはつねに健気に胸を張っていた。「若いときから身に染みついたこのばかげた強迫」と、彼女は1945年に夫のハインリッヒ・ブリュッヒャーに書いている、「いつも世間の手まえでは・・・すべてが申し分なくいっているかのように虚勢を張る、これが私のエネルギーのじつに多くを食いつぶしてしまうのです」。卓越した学者となった成人してからのアーレントは、じっさい世間の目には自信にあふれた人、傲然とした人にさえ見えた。しかしハイデガーの目にそう映ったことはいちどもなかったのである。

大学一年生の彼女は、ハイデガーのなかに恋人、友、教師、そして庇護者を見いだした。彼は、彼女をとこしえに愛し、助け、導こうと約束した。彼の蠱惑的な愛の告白に陶然となって、彼女はそれまでいちども解いたことのない防衛の姿勢を棄てた。「影」(Die Schatten)と題された1925年の未公刊の告白録のなかで、彼女は彼に向けて自分の幼年期と少女期の恐怖感、自信のなさと傷つきやすさを描いている。(9ページ)


こういった人間、ハンナ・アレントをうまく説明する理論の一つがユング心理学である。以下ユング派のジョン・サンフォードによる『見えざる異性』に即して説明を試みよう。整理のために箇条書きにする。整理は本に基づいているが、時に思い切って私の言葉も補っているのできちんと理解したい人は必ず自分で本を参照してください。

●アニマとアニムス
アニマとは人格の中にある女性的要素、アニムスは人格の中にある男性的要素である。アニマは男性において、アニムスは女性において大きな働きをなす。アニマ・アニムスは私たちが人間関係を作り出し、また自らの全体像を求めて努力する時に必ず関与してくる「見えざる異性」(the invisible partner)だからである。(9ページ)

●外の人に投影されるアニマとアニムス
アニマとアニムスは、それぞれ男性と女性の潜在する心的要素であるが、それは通常外側に投影されたかたちで自覚される。投影は無意識の心的メカニズムであるから、通常人はアニマ・アニムスを自分自身のものとは考えずに、自分以外の他人に、自分の外にあるものとして眺める。(16ページ)

●完全には意識化できないアニマとアニムス
通常、投影はそれを意識化することにより消え去るが、アニマとアニムスに関する限り、それは人間の無意識の深い層にある「元型」なので、無意識的な投影がなくなるまで完全に意識化することは不可能である。(17ページ)

●アニマ・アニムスを投影された相手
投影された相手は過大評価されるか、過小評価されるかのどちらかである。(20ページ)

●アニマ・アニムスが否定的な影響力をふるう時
アニマが否定的な影響力をふるうのは、男性が自分自身の女性的な側面をないがしろにしている時である。同様に、アニムスが否定的な影響力をふるうのは、女性が自分自身の男性的側面に気づかず過小評価している時である。

●アニマ・アニムスに支配された時
男性がアニマの否定的な影響下にある時、しばしば彼は「女が腐ったよう」になり、暗く、不機嫌で、神経過敏、引っ込み思案になり、皮肉や当てこすりをして客観性を失う。女性がアニムスに支配された時、しばしば彼女は干からびた男のような理屈屋になり、凡庸な正論を野太くなってしまった声で述べ続け、周りを辟易させる。(58ページ)

●なぜアニマ・アニムスは否定的な支配力を行使するのか
自分らしい生き方、豊かな情緒や創造力を生かす余地をいっさい拒否され、耐え忍ぶことのみを強制された女性を想像してみよう。彼女はきっと不満をいだき、否定的な性格を帯びるだろう。それと同じことが、男性の人格のなかで抑圧され認められず、その男性と十分に人生を共有できずにいるアニマに言える。(59-60ページ)

●近代におけるアニマの抑圧
近代文化は男性的なものを過大評価し、女性的なものを過小評価する傾向があるので、男性がアニマに気づかないだけでなく、女性すらも自分自身のアニマを抑圧してしまう危険性がある (人間は男性であれ女性であれ両性具有であると考えられるので ―たとえばプラトンの寓話を想起せよ― 女性にもアニマはあり、男性にもアニムスはある。) (81ページ)

●アニマ・アニムスに気づくには
「人は自分自身の人格については常に無知である。己を知るためには、他人が必要である」というユングの言葉が示すように、私たちは自分が無意識で抑圧しているアニマ・アニムスを自覚するには、それを投影する異性の相手をしばしば必要とする。(90ページ)

●アニマ・アニムスの目的
アニマ・アニムスとは「集合的無意識」の擬人化であり、アニマ・アニムスの心理的な目的は、自我と集合的無意識を結びつける働きをすること、意識の世界と内なるイメージの世界との間に、橋を架ける働きをすることである。(110ページ)

●アニマ・アニムスとの結合
男性の自我とアニマの結合、女性の自我とアニムスの結合は、現実世界では異性との関係によって育まれるが、この対立物の結合は、男性性を演じ、女性性を演じている現実生身の男女のあいだで起こるのではなく、対立物が究極的に統合されるところ、つまり、ひとりの人間の心の内部で起こる。(198ページ)




こういった整理で理屈付けをするなら、次のようにも解釈できるかもしれない。

▲ハンナはハイデガーにアニムスを見いだした。

▲ハイデガーに投影されたアニムスは、不安定な子供時代を送ったハンナの無意識の投影であるため、非常に強力であったと考えられる。

▲ハンナ・アレントの生涯とは、ある意味、彼女がハイデガーに投影していたアニムスを、自らの著作のロゴスによって自分自身の中に統合しようとした過程と表現できるかもしれない。

▲ハンナ・アレントは、マルティン・ハイデガーとの現世では結ばれることのない関係に長年心理的に翻弄されながら、ハインリッヒとの幸福な結婚と旺盛な著作活動などを通じて彼女自身の人生を完成させようとしたとも解釈できるかもしれない。


このように解釈すると、ハンナ・アレントがまだマルティンとの深いが不毛な関係の最中にある23歳の時に書いた『アウグスティヌスの愛の概念』(Der Liebesbegriff bei Augustin)はとりわけ興味深い作品となる。実際この本の訳者である千葉眞先生も、この本の実践的・実存的脈略として、ハンナアレントがユダヤ人であったことと、マルティン・ハイデガーと恋愛関係にあったことをあげている。(240-246ページ)この本でアレントは「アウグスチヌスとの対論を通じて、自己と隣人と世界に対するムズからの魂の位置づけを探求しているとはいえないだろうか」(245ページ)というのも千葉先生の見立てである。


以下はそういった『アウグスティヌスの愛の概念』の私なりのまとめであるが、いつものように偏りや不備が多いに違いないものであるから、興味がある方は必ず実際にご自分で本を読んでください。

■この本の性質
これはハンナ・アレントが1929年に、23歳の時にカール・ヤスパースのもとで完成させ出版した博士論文である。

■この本の主要テーマ
「神の前で、現世に属するものすべてから孤立した人間が、そもそもどのようにして隣人への関心を保持することができるのか」 (11ページ)

■アウグスチヌスの「愛」 (amare) の定義
所有されていない「善きもの」 (bonum) を欲求 (appetitus) すること。だが、この「所有への欲求」 (appetitus bhabendi)は、「失うことへの恐れ」(metus anittendi)へ転化しうる。人間は「一時的なもの」(res temporales)を渇望するかぎり常に「失うことへの恐れ」と「所有への欲求」を持つ。 (13-15ページ)

■「善きもの」としての生
「愛」(amare)が追求する「善きもの」とは生そのものであり、恐れが回避しようとする「悪しきもの」とは死そのもの。「至福の生」とは失われることのない生であるが、地上に属する生は「生きながらえの死」(mors vitalis)ないしは「死ずべき生」(vita mortalis)に過ぎず、たえず「恐れ」に転化しかねない。 (16ページ)

■誤った愛(amare)としての「欲望」(cupiditas)
アウグスチヌスは、世界に固執する現世的な愛(amare)を、誤った愛とし、これを「欲望」(cupiditas)と呼んだ。だがこの「欲望」は人間をこの世界の住民となす。(24-25ページ)

■正しい愛(amare)としての「愛」(caritas)
アウグスチヌスによれば、永遠と絶対的未来を追求する愛(amare)が正しい愛であり、それは「愛」(caritas)と呼ばれる。この「愛」によって人間は彼岸世界の住民となる。(24-25ページ)

■神を見いだす
人間は神を見いだすことにより、自らに欠けているもの、自らがそうでない永遠なるものを見いだす。人間はこの「最高善」である神を愛することにより自分自身を正しく愛する。(32ページ)

■最高善の追求による現在と自己自身の忘却
「最高善」の追求と願望により、現在は忘れ去られ、とび超えられてしまう。現在の忘却とは、現在の生を未来の待望の生へと変える努力と表裏一体であり、それは同時に自己自身の忘却でもある。こうした忘却において人間は、その人自身であること、個人であることをやめる。かくして人間は神でも永遠でもあることなしに、死すべき存在としての自らの存在様式を失う。(34-35ページ)

■神学的な「隣人愛」
この神学的思考からするなら、隣人は、自分同様に神の前に立っているという関係でとらえられ、現世の具体的対応によって触れ合う人間ではなくなってしまう。(54ページ)

■「世界」の二重の意味
第一の意味は、神の「被造世界」(Schöpfung)である「天と地」(coelum et terra)であり、第二の意味は、人々がそこに「住み」(habitare)それを「愛すること」(diligere)によって構成する「人間世界」(Menschenwelt)である。

■人間世界の中の個人
人間世界では、個人はもはや自分自身の起源そのものに対して孤立した関係には立たず、他の人々とともに協力して構成してゆく「世界」(mundus)の中に生きる。ここで個人は、自分が何者であるかを、もはや「神に由来する良心」(conscientia ex Deo)を通じて聞くのではなく、むしろ「異質な言語」(aliena lingua)を通じて聞く。こうして人間は神に由来する者であるにとどまらず、世界の一人の住人となる。 (114ページ)

■神学的な「隣人愛」の問題
しかし上に述べた神学的な「隣人愛」の定義では、人間世界での[私たちがおそらくは自然に感じている]隣人への愛をうまく説明できない。(140ページ)

■人間の第二の起源
人間はアダムからという起源をもっている。アダム以降の人間は[神による直接の創造によってでなく]「出生」によって生まれてきた。私たちは死者たちに由来し、死者たちとともにある「社会」に存在する。私たちの共同体は歴史的である。 (150ページ)

■人間の二重の起源性
神に帰属するものでありながら、人類に帰属するものでもあるという人間の二重の起源性が私たちの「隣人愛」をうまく説明するのではないか。 人間は神の前にそれぞれ孤立しながら、歴史的な社会において人類に帰属してもいるという二重の意味において隣人を見いだす。(167-168ページ)

こういったこの本のまとめから、上記のユング的解釈 ―おそらくは擬似ユング的解釈― を試みれば次のようになるかと思います。


▲ハンナは、恋愛感情が実らない人間がしばしば行うように、実らない愛の欲求を神に求め、心理的な救いを得ようとした。

▲神学的な愛の概念は、現世的な愛を誤った愛とし、マルティンに執着せざるを得ないハンナを救う途をひらいた。

▲しかし神学的な愛は、個々人を孤立させるだけであり、人々が自らの救済だけを求め、隣人も具体的に捉えずにただ抽象的にしか捉えられないなら、ハンナが次第に気がつかざるをえなかったユダヤ人を巡る社会的問題は解決の途をとざされてしまう。

▲ハンナはアウグスチヌスの著作の中に、人間の二重の起源が記されていることを彼女自身と彼女の時代の救いとしようとした。つまり人間は神の被造物としてだけでなく、人間の社会の中に生まれ落ち人間の社会の中で生きてゆく者としても存在する。人間は孤立感に苦しみがらも連帯できるし、連帯しなくてはならない。それはハンナ・アレント自身の姿でもあった。


まあ、私の強引で単純すぎる解釈はともあれ、この本にはアレントが晩年力説した人間の複数性、そしてその根拠となる「聖書の第二創造神話」の萌芽が見られるかとも思います。また『人間の条件』で強調される「出生」などの概念もここで既に見られます。


しばしば人は最初の作品に、その人の全体を粗雑ながらに書き込もうともします。その意味でこの本を読むことはアレント理解にとっても重要なのかもしれません。

最近、人間にとっての物語―その人の人生という物語―の重要性を感じたりもしていますので、ことさらに面白く読みました。

おそまつ。


2010年1月8日金曜日

イデオロギーあるいは時代精神として考え直す「教育改革」

平成19-21年度大学院教育改革支援プログラム「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」主催国際シンポジウム「 先生の先生 」 になる ― 教職課程担当教員の組織的養成をめざして― (Becoming a Teacher for Teachers : Toward a Systematic Preparation for Teacher Education Faculty)に参加しました。

特に面白かったのが

アイヴァー・グッドソン 教授 ( ブライトン大学 )
Ivor Goodson ( University of Brighton )
“ Becoming a Teacher: Comparative Studiers in Western Countries of Teacher Education ”

でした。

ここではその感想を書いておきます。

グッドソン先生が強調したのは、彼が"Paradox of Performativity"と呼ぶ現象です。

England, Finland, Greece, Ireland, Portugal, Spain, Swedenの7カ国を比較研究した結果わかったことの一つは、教育改革 (restructuring of teaching) に政府がもっとも力を注いで教師の生産性を高めようとした国ほど、優秀な教員が離職しているということでした。また、教員が政府の教育改革方針をもっとも遵守した (compliant) 国であるイングランドは、PISA調査では西欧諸国では最低のレベルに位置し、政府が教育改革を押し付けるのではなく教員の判断を尊重し、ある意味、改革運動にもっとも逆らっていた (resistant) 国であるフィンランドがPISA調査では最高レベルに位置していたということです。

教師を追い込めば追い込むほど、教師の実践が悪くなっているというのがこのパラドックスです。

私がここで質問をしたのは、「なぜこれだけ自明な結果があるにもかかわらず、日本人も含めた多くの人が『教育改革』に引きつけられるのだろう」ということでした。

グッドソン先生の答えは、第一にまずこのパラドクスの現象を知っている人がそれほど多くはないのではないのかというものでした。しかし、その後の他の人も含めたやり取りで明らかになっていったことは、英国のような国では教師と市民・政治家の間の信頼がかなり失われているが、フィンランドなどの国では信頼が保たれているということでした。

私なりに敷衍しますと、教師と市民・政治家の間に信頼が保たれている場合は、教師の経験的な判断を市民・政治家が尊重し教師が実践家としての感覚を大切にした教育ができます。しかし信頼が失われた場合は、市民・政治家はその時代のしばしば独断的な考え (イデオロギーあるいはZeitgeist: 時代精神) を教師に押し付けると説明できないでしょうか。教育改革は、現代のイデオロギーあるいは時代精神に支配されたものだということが私の見立てです。

イデオロギーや時代精神は、その社会の支配的言説であり深い前提となっていますから、それに適うことは正しく、適わないことは誤りであると衆目は一致し、そのイデオロギー・時代精神自体を反省するとか問いただすということは通常なされません。



この意味で私がここ10年以上懸念しているのが、まずはカタカナ語として導入され続いて日本語に急速に取り込まれた概念です。例としてrestructuring, accountability, complianceがあります。

Restructuringはもともと90年代の経営学用語で、この言葉は「リストラクチャリング」というカタカナ語で日本に導入され、最初は「根本的な事業構造の改変」を意味していました。ですが、やがて「リストラ」と日本語化するにつれこの語は「人員整理・解雇」をもっぱら意味するようになり、「リストラ」は「仕方がないこと」と正当化されるようになりました。

Accountabilityはもともと会計学の用語で、お金を実際に預るという権力 (power) を握る人が暴走しないようにきちんとaccount (会計) を説明 (account) することを義務づけるといった意味で、非権力者による権力者のチェックといった意味でした。このaccountabilityという言葉は90年代の中頃にカレル・ヴァン・ウォルフレンが、responsibilityとの対比で日本でも積極的に使われるようになりました。『人間を幸福にしない日本というシステム』という本では、レスポンシビリティーとは権力者が個人の意識のなかで自覚している責任感であり、アカウンタビリティーとは権力者が組織外の一般人に自分たちの権力行使をきちんと説得的に説明できることとされていました。ですがやがてこのアカウンタビリティーが「説明責任」という訳語で定着する頃には、説明責任はしばしばより大きな権力を持つ者 (教育でいうなら教育委員会など) がより小さな権力しか持たない者 (例えば現場教師) を管理・支配するための膨大な数値データ・書類作成を意味するようになりました。このシステムを疑う現場教師には「説明責任は当然の義務です!」という叱責ばかりが返ってくるぐらいにこの用語・概念は正当化されるようになりました。


Complianceについては例えば郷原信郎氏の『「法令遵守」が日本を滅ぼす』新潮新書や『思考停止社会』講談社現代新書などをお読みいただきたいのですが、郷原氏によると、もともと「組織が社会的要請に適応すること」を意味していたcomplianceが「コンプライアンス」とカタカナ語として通用するようになると「葵の御紋」化し始め、さらに「法令遵守」という語で通用するようになると「規則や法令の機械的遵守」を意味するようになり、思考放棄が社会に蔓延し社会の柔軟性や創造性を奪っているのかもしれないのです (注)。「法令遵守」といういわば当たり前のことを踏まえていろいろと思考し判断するのが現実世界の人間かと私は考えますが、「法令遵守」と聞こえた瞬間「気をつけ!」を命じられたように直立不動になり思考放棄してしまうぐらい、この言葉は過剰に正当化されていませんでしょうか。


「リストラ」や「説明責任」そして「法令遵守」は私たちのイデオロギー・時代精神とは言えないでしょうか。これらの言葉を聞いた瞬間、私たちはその正当性や妥当性を疑うことを忘れ、その権威にひれ伏すことをあまりにも当然視していませんでしょうか。私たちはこれらの言葉に対してきちんと思考できなくなっているのではないでしょうか。あるいは生半可な思考で抗弁しようとしても、社会全体がそういった抗弁をすぐに抑圧するようになっていませんでしょうか。

現代日本の「教育改革」においても、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などがイデオロギー化した時代精神となり、必要以上に強調され、時に益より害をなすようになってしまっているのではないかと私は考えます。私たちは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などに代表されるような「教育改革」というイデオロギーの罠にかかってしまっている (trapped) のではないでしょうか。

それならば私たちの課題は、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」あるいは「教育改革」というイデオロギー・時代精神の正体を突き止めることになります。ここで気をつけなければならないのはイデオロギーや時代精神が生じるにはそれなりの要因があったに違いないわけですから、イデオロギーや時代精神の全面的な否定、それへの感情的な反発は逆効果になりうるということです。この意味で私たちは「反時代的考察」ではなく「脱-時代的考察」「脱-近代的考察」「ポスト近代的思考」を行なうべきと言えるのではないでしょうか。

私の取りあえずの考えは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などという用語・概念は、そもそも資本主義システムがより効率的・効果的に作動するために導入されたものなので、私たちがもっとも丁寧に概念分析しなければならないのは「資本主義」だということです。かなり昔から存在したはずの資本主義と現代の資本主義はどのように異なるのか。それは産業・工業化の徹底なのか、「貨幣」の非実在化・非等価交換性の進行なのか、消費の自己目的化なのか、人間と自然の搾取なのか・・・きちんと考えなければならないように思います。

資本主義の分析・批判といってもそれは安っぽい「反資本主義」のイデオロギーをかかげることではないことはもはや自明でしょう。私たちは資本主義のただ中にいながらそれを乗り越えなければならないということは、ホロウェイが『権力を取らずに世界を変える』で述べていることかと思います。



「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」のシンポがグッドソン先生の基調講演のように根源的な思考を伴うもので開始されたのは喜ぶべきことだったかと思います。さもないとこのようなシンポも「どのように我が大学院も生き残り予算と人員を獲得するか」といった(安っぽい) マーケティングのような話に終始しかねないからです。

教育関係者が「生徒・学生をカスタマーとして尊重する一方、外部に向けて積極的にマーケティングを展開していかなければならない」と信じて疑わないような社会の「教育改革」には危険を感じます。




(注) 似たような懸念を私は「個人情報保護」や「男女共同参画」にも感じているのだが、これについては私はまだよく勉強していないので即断は控える。






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2010年1月3日日曜日

C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房

ユングのこの自伝の翻訳にあたって、訳者は以下のような懸念を表明している。



[この本が] どの程度理解され、受け入れられるかについては、正直に言って、相当の危惧を抱いている。しかし、どれだけ多数の人が、ユングを理解してくれるかという点よりも、これによって少数でもユングの真の理解者が現れることの方を期待すべきであろう。(第1巻 289ページ)


私自身がユングを誤解している可能性をまず指摘した上で言うなら、自らの思考と観察をもって合理主義を得たのでなく、学校教育などで教条的に合理主義を受け入れただけの人はユングを拒否するだろう。他方で自らの思考と観察をもって合理主義を得るどころか、教条主義的な合理主義さえ受け入れる知的訓練すら経験していない人はユングを誤読し恣意奔放な教条に陥るかもしれない。要は ― 私はおそらく自分のことを述べているのだろう ― 頭の弱い人間はユングを誤解する。

いずれにせよこのユング自伝を適切に読解できるかどうかは、プロローグ冒頭の次の一節を適切に解釈できるかで判断できるだろう。この一節を感情的な拒絶または大げさな共感抜きに、冷静に理解できるならユング自伝は素晴らしい読み物となるだろう。以下は自然科学か人文学に進かを迷ったあげく医者として訓練を受け精神医学を選び、独自の途を切り開いたユングが自伝を開始する言葉である。


私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。私は、私自身のこの成長過程を科学の用語をもってすることはできない。というのは、私は自分自身を科学的な問題として知ることができないからである。

内的な見地からすると我々はいったい何であり、人はその本質的な性質において何のように思われるかを我々は神話を通してのみ語ることができる。神話はより個人的なものであり、科学よりももっと的確に一生を語る。科学は平均的な概念をもって研究するものであり、個人の一生の主観的な多様性を正当に扱うにはあまりにも一般的すぎる。

そこで今83歳になって私が企てたのは、私個人の神話を物語ることである。とはいえ私にできるのは、直接的な話をすること、つまりただ「物語る」だけである。物語が本当かどうかは問題ではない。私の話しているのが私の神話、私の真実であるかどうかだけが問題なのである。(第1巻 17ページ)


別の箇所でユングは次のようにも述べる。


すべての私の著作は私の内界から課せられたつとめであるとも考えられるだろう。つまり、それらの源泉は運命的な強迫である。私が書いたことは、私自身の内から襲ってきたことである。私は私に話させようとする精神 (スピリット) を許容した。私は自分の著作に対する強い反応や、強力な共鳴など当てにしたことはない。 (第2巻 30ページ)



ユングがこのような境地に立ったのは、彼が徹底的に臨床家として観察をし、観察を通じて直観を得て思考しなければならなかったからだ。彼は事実の人であった。

長年の臨床的事実に鍛えられたユングは「方法」について次のような見解を抱く。


心理療法と分析は人間一人一人と同じほど多様である。私は患者をすべてできるだけ個別的に扱う。なぜなら問題の解決はつねに個別的なものであるからである。普遍的な規則は控え目にしか仮定されない。(第1巻 191ページ)

もちろん医者はいわゆる「方法」に精通していなければならない。しかし彼は何か特殊な日常化された接近法におちこまないように用心しなければならない。一般に、人は理論的仮定に用心しないといけない。今日のところそれは妥当かもしれないが、明日は他の仮定が妥当だということになるかもしれない。私の分析では、理論的仮定は何の役割も演じはしない。私は故意にきわめて系統的でないのである。私の考えでは、個人を治療するさいには個別的な理解だけしかない。我々はあらゆる患者に対しちがった言葉を必要としているのである。ある分析では、私がアドラー派の対話を語っているのが聞かれるし、もう一方ではフロイト派のそれが聞かれることもあるのである。(第1巻 191-192ページ)


自らの内的なものを尊重するユングは当然にして他人の内的なものも尊重する。


私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何かの強制も行なわなかった。私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうるということである。私の治療のもとで、運命の命ずるままに、異教徒は異教徒に、クリスチャンはクリスチャンに、ユダヤ人はユダヤ人になるのである。(第1巻 201ページ)


ユングは、意味ある偶然 (=「共時性」 (英 synchronicity; 独 Synchronizität)) は信じても、機械的な偶然は信じなかったのかもしれない。少なくとも主体的に生きようとする人間にとっての「偶然」に関しては。


生き生きとした精神構造では、ただ機械的な仕方であらわれるものはなく、すべては全体と関連して、全体の理法に適合するものである。すなわち、すべてが目的をもち、意味があるということである。しかし意識は全体を見通していないので、ふつう意識はこの意味を理解することができない。(第2巻 66ページ)



ユングの生涯あるいは研究とは、彼が「無意識」と呼んだ領域に限りなく自分を開きながら、同時に意識 (およびその中心の自我) をおよそ明晰に保ち続けることだったとまとめられるかもしれない。だからこの自伝で散見されるのはおよそ強力な自我 (あるいはヨーロッパ人としての自覚) と臨床家としての徹底した現実感覚をもつユング像である。この強力な自我と現実感覚がなければユングは、ヘルダーリンニーチェのように自らの無意識に翻弄され狂気に陥っていたかもしれない。


心筋梗塞と妻の死を経験した後のユングは次のような心境を得ている。


病後にはじめて、私は自分の運命を肯定することがいかに大切かわかった。このようにして私は、どんなに不可解なことが起こっても、それを拒むことのない自我を鍛えた。つまりそれは、真実に耐える自我であって、それは世界や運命と比べても遜色がない。かくして、敗北をも勝利と体験する。内的にも外的にも、かき乱すものはないもない。それは自己の持続性が、生命や時間の流れに耐えているからである。しかしこれらはただ、運命の計らいに、出過ぎた干渉をしないときにのみ流れ去ってゆくのだ。 (第2巻 136ページ)


しかしこの耐える自我は、ユング自身から来るものでありながら、ユング自身を超えたものから来るものでもあったように思える。そういった「超人的」なるものについてユングは次のように言っている。


しかし、私には超人的な力があった。私がこれらの空想の中に経験しつつあることの意味を発見せねばならないということについて、最初から私の心の中には確信があった。無意識のこれらの襲撃に耐えてゆくとき、私は私よりもっと高い意志の力に従いつつあるのだという確固たる信念をもち、そのような感情は、私がその仕事を仕遂げるまで私を支え続けてくれたのであった。 (第1巻 253ページ)


こうして強力な自我と鋭敏な意識をもって、ユングは無意識に向かい合う。そして患者が、患者自身の自我と意識でもって自らの無意識に向かい合うことを支援する。この向かい合いから自我が経験する意識と無意識の統合は、まさに経験されるだけのものであり、それを「客観的」あるいは「科学的」に記述することはできない。それぞれの人格が強く絡む経験を、無人格的な言語で記述することは不可能あるいは不適切であるからだ。私たちは自分自身に対してあるいは他人に対して人格的であろうとするなら、自分自身や他人との出会いを人格的に生き抜くことができるだけであり、それをことさらに無人格化した科学の言葉で記述・説明してもそれは虚しいこと (あるいは退屈なこと) に過ぎない。


かつて無意識内容だったものを意識に統合する場合、その人自身の内部でなにが起こっているか、言葉で記述することはほとんどできない。それはただ経験されうるだけである。それが主観的出来事であることは論をまたない。われわれは自分自身について、自己の存在様式について、ある特有の感じを抱き、そしてこのことは疑うことのできない、疑ってみても意味のない、事実なのである。それと同様に、われわれは他者に対しても、独特の感じを抱き、そしてこのこともまた疑いえない事実である。われわれの知るかぎりでは、これらの印象と意見のすべての間にありうる不一致を排除できるような、より上位の権威は存在しない。変化が統合の結果として生じたのかどうか、その変化の特質がどのようなものであるかといったことは、相変わらず主観的確信の問題のままである。確かに、それは科学的に立証できる事実ではなく、したがって公認の世界像からはもれ落ちたものである。けれども、実践的には非常に重要な、成果のある事実であることには変わりがなく、現実的な心理療法家や、少なくとも、治療に関心のある心理学者にとって、この種の事実を見過ごすことはできないはずである。 (第2巻 121ページ)


医者として自然科学の訓練を受けながら、心の不可思議さに正面から向かい合い、その葛藤をくぐり抜けたユングにとって浅薄な合理主義は ― 自らを批判することを忘れた合理主義は ― 批判されるべきものであった。


合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。しかし、多くのことが未だ見出されるだろうに、それを、われわれの限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ。 (第2巻 138ページ)


かくしてユングは統合失調患者についても患者を切り捨てた態度を決して取ることなく、患者のそのような人生に意味を見出そうとする。(「べてるの家」によって統合失調症について最初に学んだ私のような人間にとってこの見解は (すくなくとも机上では) すぐに受け入れられるものであった)。


私は精神医学は最も広い意味で、病めるこころと正常と思われる医者のこころの間の対話であると主張した。それは、病める人格と治療者の人格との間に深いかかわりをもつようになることであり、両者ともに原則として等しく主観的なものである。私の狙いは妄想や幻覚が精神疾患に特異な症状ではなく、人間的な意味をも持っていることを示すことにあった。 (第1巻 164ページ)

我々は精神病者の中に何ら新しく、未知なものを発見しはしない。むしろ、我々は我々自身の性質の土台に出会うのである。 (第1巻 186ページ)



以上の私のまとめは、あまりにも量的研究方法に教条的に拘る日本の英語教育界に対する私の強い不満から主として「方法」に関したものだけになってしまった。だが伝記の面白さはもちろん具体的な記述にある。この自伝も数々のエピソードは圧倒的に面白い (私は特にユングの非ヨーロッパ圏への旅行の記述を非常に面白く読んだ)。もしユングに興味が出たら、ぜひこの本を、強力な批判意識と、その批判意識すら超える無意識の力の両方のバランスを保ちながらご自身でお読み下さい。

最後にユングが学生時代に見た象徴的な夢とユング自身によるその夢の解釈を引用してこの拙いまとめを終わります。


ほぼこのころに、私を驚かしまた勇気づけもした夢をみた。どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進を続けていた。深いもやがあたり一面にたちこめていた。私は手で今にも消えそうな小さなあかりのまわりをかこんでいた。すべては私がこの小さなあかりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きな黒い人影が私を追っかけてきた。しかし同時に私はこわいにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。目が覚めた時、私は直ちにあの人影は、「影入道」つまり私のもって歩いていたあかりで生じた、渦まくもやに映った私自身の影だとわかった。私はまた、この小さなあかりが私の意識であり、私のもっているただ一つのあかりであることもわかった。私の自分についての理解は私のもっている唯一の宝物であり、最も偉大なものである。暗闇のもっている力に比べると、きわめて小さくかつ弱いけれども、それはなおあかりであり、私だけのあかりである。

この夢は私には重大な啓示だった。その時私はNo1 [若きユングはいわゆる自我をこのように呼んでいた] が光の運搬人であり、No2 [これは若きユングがいわゆる無意識を指すために使っていた言葉である] はNo1に影のように従っていることがわかったのである。私の仕事はあかりを守り、透徹した生命力の方を振り返ってみないようにすることだった。 (第1巻 135ページ)



⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)』

⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)』





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C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房

1930年に当時60歳であったユングがロンドンでおよそ200人の医師たちを前にして行なった講義と討論を記録した本書は、ユング自身による最良のユング心理学入門書とも呼ばれています。

ここでは私がその本を読んでのまとめを書きます。著作権保護のため、できるだけ私の言葉に翻訳したまとめにしておりますので、ユング心理学に興味を持ち始めた方は必ずご自身で本書を読んでください。心理学の専門家でもない私の以下のまとめをユング心理学の知見として引用することは ― そんな人はいないと信じますが ― まったくお勧めできません。なおウィキペディアには既に分析心理学に関するページがありますので、ご興味がある方はそちらもご覧下さい。

■無意識を私たちは扱えるのか: 無意識とは臨床経験から仮定せざるを得ないものであり、しかも私たちはそこから出現するとさらに仮定されている意識的なものしか扱えない。 (19ページ)

■意識と無意識の関係: 意識から無意識が生じるのではなく、無意識から意識から生じる。意識だけを働かせ無意識を抑圧することは不自然な努力であり心的疲労を招く。(22ページ)

■意識と自我: 自我が無ければ何も意識されない。意識とは、心的諸事実と自我の関係である。(25ページ)

■自我とは何か: 自我の構成要素は、第一に自分の身体に対する認識であり、第二に自己の記憶データである。自我はこれら心的諸事実の複合 (complex) と呼ぶことができる。 (25ページ)

■自我と無意識、意識: 複合体としての自我は独特の誘引力をもち、無意識や外界から様々な内容を引き出し、それが意識となる。 (25ページ)

■外的な心的諸機能: 感覚・思考・感情・直観がある。 (26ページ)

■感覚 (sensation): 外的な物事の「存在」を教えてくれる機能。 (26-28ページ)

■思考 (thinking): 物事が「何」であるかを教えてくれる機能。 (27-28ページ)

■感情 (feeling): 物事の「価値」を教えてくれる機能。 (27-28ページ)

■直観 (intuition): 「時間を超えて」物事の全体像を教えてくれる機能。 (28-29ページ)

■四機能の構造: 以上の四機能は十字形の配置で捉えることができる。上に思考、下に感情、右に直観、左に感覚、上下左右の線が交差する中央に自我を考えよ。 (35ページ)

■優越機能と劣等機能: 人は上下のどちらかを優越機能、もう片方を劣等機能としてもち、左右についても一方を優越機能として、他方を劣等機能としてもつ。優越機能はより「分化されて」おり、劣等機能は「未分化」であると表現される。 通常、二つの優越機能ではどちらかの方がより優越であり、二つの劣等機能ではどちらかがより劣等である。(36ページ)

■未分化な劣等機能: 感情が劣等機能、すなわち未分化な人は、情動の塊のようなものに捉えられ翻弄される。(思考が未分化だと単純な考えに振り回されると言えるだろう)。劣等機能において私たちは太古の性格に連なっている。劣等機能には開いた傷口があり、そこからあらゆるものが侵入してくる可能性がある。 (36-40ページ)

■分化された優越機能: 優越機能において人間は比較的文明化された自由意志を持っているとされる。 (40ページ)

■内的な心的諸要素: 記憶・主観的構成要素・興奮・侵入がある。 (41ページ)

■記憶: 無意識的内容を再生する能力。 (42ページ)

■(意識の諸機能の) 主観的構成要素: 意識を働かせる際に伴う不正確か不適当な主観的反応。 (42-43ページ)

■興奮: これはもはや (主観的構成要素以上に) 機能とは呼べない。興奮とは情動 (emotion) と興奮 (affect) が入ってくるところであり、機能ではなく出来事である。 (44ページ)

■侵入 (invasion): 無意識(「影」)が意識に押し入ってくるほどの支配的な力をもっている領域。 (45ページ)

■二種類の無意識: 個人的無意識と普遍的無意識。 (63-65ページ)

■個人的無意識 (personal unconsciousness): 個人的起源をもつ意識下の精神 (subconscious mind)。 (63ページ)

■普遍的無意識 [しばしば「集合的無意識」とも訳される] (collective unconsciousness): 特定の人に由来しない (impersonal)、人類一般 (mankind in genral) に固有な型 (元型 archetypes)。 (64-65ページ)

■普遍的無意識の生物学的根拠の可能性: 人類が身体においては解剖学的構造を共有しているのなら、心においてもある普遍的な内容を共有していると考えることもできるだろう。 (70ページ)

■球体としての心: 心を球体として考える。その中央最深部には普遍的無意識があり、それを個人的無意識が囲む。個人的無意識の外部には内的な心の領域である侵入・興奮・主観的構成要素・記憶がその順番に内から外へと層になっている。さらにその外部には外的な心の領域があるが、そのもっとも内側には最も劣等な機能が来る。その最も劣等な機能の反対の機能が最も優越した機能として心の最外部に来る。最も劣等な機能と最も優越した機能の間にあるのが、二番目に劣等・優越である機能である (上下左右で説明した四機能のうち、例えば上下が最も優越・劣等となれば左右が二番目に優越・劣等となる)。 (73-74ページ)

■コンプレックス: 連想が凝縮したコンプレックスは自我のような意志力を持ち、統合失調症においては幻覚として、小説の創造では作者から離れた生命をもったキャラクターとして登場したりする。 (114-117ページ)

■ユングの夢分析: 夢分析において、ユングはコンプレックスの正体を解明したいのではなくて、夢 (無意識) がコンプレックス (自分自身) に何をしようとしているのかを解明したいと考えている。 (129ページ)

■夢分析の方法: 一部しか知らない言語で書かれたテクストを解釈する文献学者の方法と同じ。わかる一部との相似性を見つけて注意深く解釈する (「拡充」 (amplification))。 129-130ページ)

■「自然」としての夢: 自然はどのような過ちも犯さない。正誤は人間のカテゴリーであり、自然に馬鹿げたことはない。人間がただ理解できないだけである。夢に対する態度も、自然に対する態度と同じであるべきである。 (134ページ)

■人間は完全を期せないがそれを目指すべきである: 心の四機能(思考・感情・直観・感覚)がどれも等しく優れているということはありえない。私たちは優越機能によって人間として独立することが可能になるが、劣等機能によって無意識や本能あるいは人類と強く結びついている。ユングの原則は「完全を期そうなどと考えては駄目です。しかし、それがどんなことであっても、まっとうしようとは努めなさい」というもの。 (152ページ)

■古代の治療の意味: 古代の医学では、個人の病気を非個人的 (impersonal)な水準に高めれば治療効果が得られることが知られていた。神話や伝説で、ある人の病気が普遍性のある病気、さらには神の病気であることが示されると、その人は孤立しておらず人間・世界・神と結びつけられているという認識を得て、その認識が治療効果を生む。 (159-160ページ)

■古代の治療の現代的意義: 現代においても、精神的苦悩を個人的な失敗のせいにしてしまわず、人間共通の苦悩、時代の問題と了解することは、苦しむ者に人間性を取り戻す可能性を与える。 (161ページ)

■神話や元型の適用について: 夢分析を機械的に行なうことは危険である。夢はその人個人の心的組織が自己統御をしようとして示す自然な反応であるから、夢のイメージについてはまずその人自身がどのように感じるかを常に尋ねなければならない。 (172ページ)

■心理学的方法: 心理学においては、心が観察の対象 (object) であると同時に観察の主体 (subject)であり、手段 (means)でもあるという悪循環にあることを忘れてはならない。心理学において絶対に正しい人は一人もいない。私たちにできることは自らの方法・認識を謙虚に開示して、お互いの特徴を比較することである。 (18、206ページ)

■転移と投影: 転移とはもともとフロイトの造語であるが、転移をより一般的な投影の特殊形態と認識することは重要である。 (221ページ)

■投影: 投影とは対象に主観的な内容を付与することである。葉っぱを緑とするのも一種の投影である。なぜなら葉っぱと私たちが称しているものが発しているのは波動に過ぎず、私たちがそれに緑色という内容を付与しているからである。 (だがこの投影は人類でほぼ一致している投影である)。 (222ページ)

■転移: 転移とは、投影の中でも通常、特定の二人の人間の間で生じるものである。転移は概して情動的で強迫的であり、身体的でもある。 (223-224ページ)

■自体愛的な人間の転移の事例: 自体愛的 (auto-erotic) な人間は、自体愛的な孤立により自己を閉ざしているが、反面、人間的なふれあいを絶望的なまでに求めている。しかし自らは何一つしようとしないし、近づいてくるどんな人間も認めようとしない。ある優秀なアメリカ人女性精神分析家は、「非常に有能」であったが、ある男性患者が彼女に対して転移を起こし、「彼女は彼を愛しているが、それを決して認めようとしないだけだ」という投影をされて困り果てていた。ユングがその女性精神分析家に接すると、彼女は女性としての感情生活がほとんど未発達であることがわかった。ユングは、男性患者の転移は女性精神分析家が招いたとも考えられると解釈する。つまり、女性精神分析家の未発達な感情的側面が、同じように感情的に未発達な男性患者を引きつけ、女性精神分析家が女性であることをわからせようとすることが男性患者の使命だとその男性患者に本能的に思わせる「罠」として働いたとユングは見立てた。この転移はお互いに感情的に未発達な男女の無意識の間に起こったことだと解釈できる。 (238-239ページ)

■自らの未発達領域を引き受けること: ユングはその女性精神分析家を結局夢分析で治療したのだが、夢分析を通じて自分自身の無意識に少しずつ向かい合い始めた女性精神分析家は、自体愛的な防御の時期を経て感情の爆発的な発露を経験した。彼女は、ある日泣き崩れ、ユングに対してひざまずきユングに対する強烈な愛情を告白する。しかしこれは転移に過ぎず、それを予期していたユングの冷静な対応により彼女は時間をかけて自分を見出す。「あなたは自分の中に閉じこもっていて私に何も示してくれません。ですから、あなたが何かを表現しないかぎり、私には何もできないのです」という一般原則は彼女の場合も当てはまった。 (237-241ページ)

■治療者・分析家が自分自身を知ることの重要性: 女性精神分析家と男性患者、後にユング(治療者)とその女性精神分析家 (患者) の関係に見られるように、転移は相互無意識 (mutual unconsciousness) と混交 (contamination)によってしばしば生じるので、治療者・分析家が可能な限り自分自身について知ることが非常に重要である。 (242ページ)

■転移の治療の第一段階: 転移を扱う場合、患者に転移という投影を行なっていることを知らせること (客観的側面) だけでなく、この転移を引き起こしていると思われるイメージの主観的な価値 (subjective value) を認識させ、そのイメージを患者の心理に同化させなければならない。 (259ページ)

■転移の治療の第二段階: 転移という投影のうち、意識化によって解消されるべき個人的内容と、心の構成要素に属しているので削除することができない非個人的内容を識別させる。非個人的内容は人間が人間であるための重要な要素である。非個人的イメージを転移・投影する行為を解消させることは可能だが、その内容まで解消させるべきではないし、また内容を解消することは不可能である。 (260ページ)

■転移の治療の第三段階: 転移の対象への個人的な関係と、根源的な非個人的要因をはっきりと区別させる。非個人的要因を転移から抽出し、かつその重要性を理解した患者はしばしば宗教的・非宗教的イメージを受け入れ始める。 (266-267ページ)

■転移の治療の第四段階: 非個人的イメージを、転移の相手から引き離なさせ、それを何か他の形で対象化させ、かつその形象化された非個人的イメージを自らの中に取り込ませる。実は自分が切望していた非個人的要因は元々自分の中にあったことを認識させる。このイメージを「非自我の中心」 (non-ego centre) とすることにより、患者は何かへの依存状態から脱することができる。東西の宗教はどれもこの状態を目指しているといえる。 (269-270ページ)





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