2010年1月14日木曜日

江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―

本日付の江利川先生のブログ記事「懐かしの英語参考書(10)青木常雄の英文解釈書(その2)」の主張には非常に共感しましたので、このブログでもその記事をご紹介します。





私が特に共感した箇所は、記事末尾の以下の一節です。


1980年ごろから、日本の(特に高校の)英語教育は「退化の段階」に入ってしまった。
文科省(というか財界)の「コミュニケーション重視」(はっきり「会話重視」と言え!)によって。

英会話を必要としない日本国の英会話中心主義。
その「おかしさ」に気づくべき時期ではないか。
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/7172156.html


私の蛇足を加えます。


(1) 「退化」について:

日本の英語教育界には様々な流行の浮き沈みはあるかもしれないが、必ずしも進歩も進化もしていなく、むしろ退化している可能性が高いことをまずもって英語教育関係者が痛感しなければならない。

「退化している」という主張の論拠としては、大学生がきちんとした英語の文章 (論文) を読めなくなっていることが上げられる。文章 (論文) を「何となく」しか読まず (あるいは読めずに) に適当な解釈を自分の頭の中から引き出して、それで「英語を読んだ」と考える学生の出現は、英語科でも頻繁に見られる。英語を得意とするはずの英語科の学生でもこうなのだから、理系の学生が英語論文を英語力欠如ゆえに読めない事例はもっと多いはずである (私も直接間接にそのようなエピソードはよく聞く)。


(2) 俗的な「コミュニケーション=会話」観について:

江利川先生が「コミュニケーション重視」について、「はっきり「会話重視」と言え!」と述べているが、まさにその通りである。「コミュニケーション」は、社会学的にも哲学的にも非常に重要な概念である (注) のに、それをもっぱら「会話」「英会話」と等価とするのは教育関係者には許されないひどい誤解である。

この概念をきちんと掘り下げて考えることなく、「コミュニケーション」という言葉を、「会話」「英会話」といった俗受けする事象だけを意味するかの如く使用することは、英語教育をめぐる議論を迷走させている。

少なくとも高等教育 (大学・大学院) で第一に重要なのは書き言葉である。書き言葉で書かれた文書 (論文) を正確に読解し、書き言葉で語られた話 (講義) をきちんと聴解し、学会口頭発表でもできるだけ簡潔にして正確な書き言葉で話し、論文投稿ではもちろんのこと凝縮し洗練された書き言葉で書くことが大学 (特に理系) で求められていることである。

その求められる英語力が近年大幅に落ちているが、その英語教育の失敗を表面上誤魔化しているのが「コミュニケーション重視」というスローガン (あるいは思考停止したイデオロギー) ではないのか。


(3) 「英会話」はそれほど重要でない:

日本のようなEFL環境で、英語を使ってハンバーガーを買うような状況はないことは江利川先生も言っているとおりであるが、仮に日本人が英語圏に言っても、ハンバーガーを買うのに別段、流暢で正確な英語表現 (英会話) は必要でない。重要なのは笑顔といった、言語コミュニケーションを支える非言語的コミュニケーションの基盤である。忙しい店なら特に、言語表現を無理に使おうとするより、メニューを指さしたりする方がよほど便利で有効である。

非言語的な状況に大きく依存している「会話」においては言語表現の不備は他の様々な手段で補われる。言語表現が大切になってくるのは、状況の助けをあまり使えない「自律した」言語表現、すなわち書き言葉をつかったコミュニケーションである。少なくとも高等教育およびそれを目指す高校教育では、話し言葉でのコミュニケーション (=「英会話」) ではなく、書き言葉によるコミュニケーションに主眼を置くべきである。



まとめるなら、高等教育で第一に重要な英語の書き言葉使用において、日本の英語教育は退化していると言うべきでしょう。もちろんこの退化には、一般的な学力・学ぶ意欲の低下といった要因もあるでしょうが、英語教育がそういった要因に抗していたとはとても言えず、むしろその低下傾向を助長していたと言うべきでしょう。この低下を外見的に誤魔化してきたのが「コミュニケーション重視」というスローガンあるいはイデオロギーです。これにより英語教育はもっぱら話し言葉中心になってしまいました。しかし少なくとも高等教育を目指す英語教育で重要なのは書き言葉としての英語使用です。英語教育関係者は現代社会における「コミュニケーション」の意味をもう一度考え直して、より深く豊かなコミュニケーション概念によって英語教育を再生するべきだと私は考えます。




と、私の蛇足はさておき、江利川先生はこのブログの中で多くの「懐かしの参考書」を紹介されていますが、それは単なる懐古趣味ではなく、以下のような信念があるからです。


日本語とは著しく言語的距離が離れている英語をどう理解するか。
この問題を解決するために、明治以来の先人たちが工夫し開発してきた技術が「英文解釈」法である。

コミュニケーション(というか英会話)中心の昨今は、旧式の「文法訳読式」とみなされ、すこぶる評判が悪い。
だが、日常英語ではなく、多少とも深い思索をへて書かれた英文を読む場合、「英文解釈」を抜きには理解に達しないだろう。

そうした英文解釈の参考書は明治30年(約100年前)ごろからたくさん出ている (後略)
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/6043647.html



英語教育関係者は、次から次に現れる流行ばかり追うのではなく、江利川先生のようにしっかりと身近な現実を見て考えるべきだと思います (半分は自戒の言葉です)。




追記
「自戒の言葉です」と表記しようとしたら「自壊の言葉です」とパソコンが日本語変換しちゃった。笑った、笑った。


追追記

もちろん80年代以来の英語教育がすべての面において退化したというのも単純化しすぎです。

例えば音読やシャドウイングなどの「集中的入出力訓練」によって言語習得の身体的訓練を進めたのは進歩だと考えます。しかし、これは私の便宜的な「言語コミュニケーション力の三次元的理解」の考え方でいうなら、「心を読む力」「言語を使う力」「身体・物体を使う力」の三つの次元の最後の次元での進歩に過ぎません。

近年の英語教育は、対象とする言語使用を言語自律的な書き言葉から状況依存的な話し言葉へと移行させすぎましたから、それに伴って言語を正確に使い分ける力と、状況にできるだけ依存せずに言語使用者の心を読む力が要求されなくなってしまいました。この点では退化したというべきでしょう。

今後の英語教育は、近年で得た身体的訓練を、書き言葉の使用(書き言葉を聞き、語り、読み、書くこと)においても重視するといった方向でバランスを取るべきだと私は考えます。




(注)

たとえば社会学者のルーマンによるなら「社会」を構成するのは、領土でも単なる人間でもなく、コミュニケーションである。現代社会を考えるためにはコミュニケーション概念のきちんとした理解が必要である。

哲学および倫理学ではたとえばレヴィナスに典型的なようにどう「他者」を理解するか、あるいは理解し得ないままにどう共に生きるかというのは重要な問題である。異文化の共存は現実世界での切実な課題である。

言語学・認知科学でも「関連性理論」や「心の理論」に見られるように、どう相手の心を読むかという問題が重要であり、これは「会話定型表現を覚える」といった言語学習観では対応できない問題である。この問題抜きに定型表現ばかり「ペラペラ」しゃべっても他者の信頼や尊敬を得ることはない。

コミュニケーション概念は、学術的にも現実的にも非常に重要なものであり、「コミュニケーション」という言葉を「会話」と置き換えるような知的怠惰は許されるべきではない。





【広告】 吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 ひつじ書房は、現場教師による切実なコミュニケーションを扱った本です。買ってね (笑)







6 件のコメント:

よしやす さんのコメント...

ご本人からのご紹介がないので、私が代わって…。

現在発売中の『英語教育』2月号(大修館書店)に
柳瀬陽介さんの上と同趣旨のコラムが掲載されています。

ご一読あれ!

柳瀬陽介 さんのコメント...

よしやすさん、

ご紹介ありがとうございます。

『英語教育』2月号(大修館書店)の記事は、お金をいただいて書いた原稿なので、このブログ記事よりも、もっと丁寧にきちんと、しかもインパクトをもった形で書きました。皆様も、よければどうぞお読みください。

えりっち さんのコメント...

柳瀬先生、私の短い文章を学問的に膨らませてくださり、また「懐かしの英語参考書」を紹介してくださり、ありがとうございました。

先生のご意見に、深く共感しました。
とりわけ、「英語力が近年大幅に落ちているが、その英語教育の失敗を表面上誤魔化しているのが『コミュニケーション重視』というスローガン (あるいは思考停止したイデオロギー) ではないのか。」という一文に感激です。

そうなんです。日本社会では必要ない「英会話」を「コミュニケーション」と勝手に言い換え、ついには高校の科目から「リーディング」と「ライティング」を廃止してしまった歴史的愚行は、文科省の数ある犯罪史のなかでも特筆大書きされるでしょう。

英語教育でメシを食う人間が、この事態を黙視するならば、それは「共犯」でしょう。
そうしないために、声を上げ続けましょう。
・・・なんだか、どんどんカゲキになっていく自分が恐いです。(^_^;) でも、温厚な僕らをカゲキにさせているのは、アホな政策のせいですよね。ファイト!

(追伸)大修館『英語教育』2月号掲載の柳瀬先生のコラム「大学英語教育の見識」にも深く共感しました。よくぞ言ってくださいました! (江利川)

柳瀬陽介 さんのコメント...

江利川先生、

コメントをありがとうございます。

お互いの意見に共感できて、当人同士はとても感激で、
周りの反応はどうなのかとも思えてきますが(笑)、
冗談はさておき、私は上の記事に引用された江利川先生
の文章を読んだ瞬間「あ、そうそう。私はこういうことが
言いたかったんだ」と思えました。お互いに触発されて
考えることができるというのは楽しいですね。

それにしてもこれほど「コミュニケーション」という
概念を通俗化・浅薄化しようという動きというか欲望は
どこから生じてきているのでしょうね。このあたりを
クールに分析できればいいのですが。

『英語教育』2月号掲載のコラムを読んでくださいまして
これまたありがとうございます。あれは、実は大学で
英語を教えている方々から反発をくらうだろうなと
思いながら推敲して書いたエッセイです。原稿料を
いただいて書く以上、少なくとも気迫だけは込めて
書こうと思いました。

それではまたどこかでお目にかかれることを心から
楽しみにしております。

柳瀬陽介

ef さんのコメント...

柳瀬先生、

はじめまして。いつもブログを拝読し勉強させていただいております。
私は某大学で言語教育・習得を学んでいる学部生で、efと申します。詳しいプロフィールは是非私のブログをご参照下さい。

今回、当エントリに関して質問等ございましてコメントさせていただいた次第です。
私自身、このコメント全体の構想を考えてから、実際に投稿をするまで2週間以上悩みました。
柳瀬先生は自分にとってとんでもなく雲の上の存在であることは理解していますし、またこれは私のような一学部生が書くには余りに生意気で、無知すぎる内容ではないかと思ってしまったからです。
ですが自身の成長のためにも、恥を忍んで書かせて頂きます。

(1) 「退化」について:

>「退化している」という主張の論拠としては、大学生がきちんとした英語の文章 (論文) を読めなくなっていることが上げられる。

とありますが、その論拠の出所というのはどのようなものでしょうか。
確かにその様な類の話はたまに耳にしますが、それを実証した研究などありましたらご紹介頂ければ、と思います。というのは、関連する文献を読んだ感覚としては、大した進歩も進化もしていないにしろ、全体的な英語力は平行線もしくは「(超)微増」といった印象ですが如何でしょうか。

(2) 俗的な「コミュニケーション=会話」観について:

>江利川先生が「コミュニケーション重視」について、「はっきり「会話重視」と言え!」と述べているが、まさにその通りである。
>「コミュニケーション」は、社会学的にも哲学的にも非常に重要な概念である (注) のに、それをもっぱら「会話」「英会話」と等価とするのは教育関係者には許されないひどい誤解である。

この点ですが、コミュニケーション重視を「会話重視」と読み違えているのは、教育指導要領を読み違えた教員の方々ではないかと思うのですが、如何でしょうか。
少なくとも私の読んできた研究論文(海外のものが多いですが)では、コミュニケーション=会話という構図は見当たりません。日本の教員向け「テクニック本」みたいなものには散見されますが。
文部科学省お抱えの研究者の方を私はあまり存じ上げないのですが、例えば上智の吉田先生などがそのような提言に関わっているとするならば、問題は「指導要領の書き方(コミュニケーションの定義など)」であり、コミュニケーションを重視する文科省の方針自体の問題では無いように思えます。本当に文科省自身はコミュニケーションの意味をはきちがえているのですか?いえ、というのは私がその辺は単純に知らないのです。ただ、「コミュニケーション重視反対派」の方々の意見の中には、わら人形を叩くように、コミュニケーション=会話だと恣意的に読み替えて批判している方が多いような気がしてならないのです。

最後に、
>近年の英語教育は、対象とする言語使用を言語自律的な書き言葉から状況依存的な話し言葉へと移行させすぎましたから、
>それに伴って言語を正確に使い分ける力と、状況にできるだけ依存せずに言語使用者の心を読む力が要求されなくなってしまいました。
>この点では退化したというべきでしょう。

ということですが、最初の部分と重なりますが、これらの能力(語用論的能力でしょうか)が落ちつつあるというのは本当なのでしょうか。
中間言語語用論の第二言語習得への応用の研究を見る限りでは、コミュニカティブな言語教育(会話中心、という意味ではなくて)自体が、語用論的能力に好影響を与えこそすれ悪影響を与えるとはあまり考えられないのですが。

以上の件ですが、先生のご意見が伺えるとありがたいです。
私のような者がその知識の浅さ故に、ともすれば他人を不快にさせてしまいそうなコメントを付けてしまうことを危惧しますが、どうかよろしくお願いします。

柳瀬陽介 さんのコメント...

efさん、コメントをありがとうございました。
お返事は長くなりましたので、
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/blog-post.html
に掲載しました。お読みください。