2010年1月8日金曜日

イデオロギーあるいは時代精神として考え直す「教育改革」

平成19-21年度大学院教育改革支援プログラム「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」主催国際シンポジウム「 先生の先生 」 になる ― 教職課程担当教員の組織的養成をめざして― (Becoming a Teacher for Teachers : Toward a Systematic Preparation for Teacher Education Faculty)に参加しました。

特に面白かったのが

アイヴァー・グッドソン 教授 ( ブライトン大学 )
Ivor Goodson ( University of Brighton )
“ Becoming a Teacher: Comparative Studiers in Western Countries of Teacher Education ”

でした。

ここではその感想を書いておきます。

グッドソン先生が強調したのは、彼が"Paradox of Performativity"と呼ぶ現象です。

England, Finland, Greece, Ireland, Portugal, Spain, Swedenの7カ国を比較研究した結果わかったことの一つは、教育改革 (restructuring of teaching) に政府がもっとも力を注いで教師の生産性を高めようとした国ほど、優秀な教員が離職しているということでした。また、教員が政府の教育改革方針をもっとも遵守した (compliant) 国であるイングランドは、PISA調査では西欧諸国では最低のレベルに位置し、政府が教育改革を押し付けるのではなく教員の判断を尊重し、ある意味、改革運動にもっとも逆らっていた (resistant) 国であるフィンランドがPISA調査では最高レベルに位置していたということです。

教師を追い込めば追い込むほど、教師の実践が悪くなっているというのがこのパラドックスです。

私がここで質問をしたのは、「なぜこれだけ自明な結果があるにもかかわらず、日本人も含めた多くの人が『教育改革』に引きつけられるのだろう」ということでした。

グッドソン先生の答えは、第一にまずこのパラドクスの現象を知っている人がそれほど多くはないのではないのかというものでした。しかし、その後の他の人も含めたやり取りで明らかになっていったことは、英国のような国では教師と市民・政治家の間の信頼がかなり失われているが、フィンランドなどの国では信頼が保たれているということでした。

私なりに敷衍しますと、教師と市民・政治家の間に信頼が保たれている場合は、教師の経験的な判断を市民・政治家が尊重し教師が実践家としての感覚を大切にした教育ができます。しかし信頼が失われた場合は、市民・政治家はその時代のしばしば独断的な考え (イデオロギーあるいはZeitgeist: 時代精神) を教師に押し付けると説明できないでしょうか。教育改革は、現代のイデオロギーあるいは時代精神に支配されたものだということが私の見立てです。

イデオロギーや時代精神は、その社会の支配的言説であり深い前提となっていますから、それに適うことは正しく、適わないことは誤りであると衆目は一致し、そのイデオロギー・時代精神自体を反省するとか問いただすということは通常なされません。



この意味で私がここ10年以上懸念しているのが、まずはカタカナ語として導入され続いて日本語に急速に取り込まれた概念です。例としてrestructuring, accountability, complianceがあります。

Restructuringはもともと90年代の経営学用語で、この言葉は「リストラクチャリング」というカタカナ語で日本に導入され、最初は「根本的な事業構造の改変」を意味していました。ですが、やがて「リストラ」と日本語化するにつれこの語は「人員整理・解雇」をもっぱら意味するようになり、「リストラ」は「仕方がないこと」と正当化されるようになりました。

Accountabilityはもともと会計学の用語で、お金を実際に預るという権力 (power) を握る人が暴走しないようにきちんとaccount (会計) を説明 (account) することを義務づけるといった意味で、非権力者による権力者のチェックといった意味でした。このaccountabilityという言葉は90年代の中頃にカレル・ヴァン・ウォルフレンが、responsibilityとの対比で日本でも積極的に使われるようになりました。『人間を幸福にしない日本というシステム』という本では、レスポンシビリティーとは権力者が個人の意識のなかで自覚している責任感であり、アカウンタビリティーとは権力者が組織外の一般人に自分たちの権力行使をきちんと説得的に説明できることとされていました。ですがやがてこのアカウンタビリティーが「説明責任」という訳語で定着する頃には、説明責任はしばしばより大きな権力を持つ者 (教育でいうなら教育委員会など) がより小さな権力しか持たない者 (例えば現場教師) を管理・支配するための膨大な数値データ・書類作成を意味するようになりました。このシステムを疑う現場教師には「説明責任は当然の義務です!」という叱責ばかりが返ってくるぐらいにこの用語・概念は正当化されるようになりました。


Complianceについては例えば郷原信郎氏の『「法令遵守」が日本を滅ぼす』新潮新書や『思考停止社会』講談社現代新書などをお読みいただきたいのですが、郷原氏によると、もともと「組織が社会的要請に適応すること」を意味していたcomplianceが「コンプライアンス」とカタカナ語として通用するようになると「葵の御紋」化し始め、さらに「法令遵守」という語で通用するようになると「規則や法令の機械的遵守」を意味するようになり、思考放棄が社会に蔓延し社会の柔軟性や創造性を奪っているのかもしれないのです (注)。「法令遵守」といういわば当たり前のことを踏まえていろいろと思考し判断するのが現実世界の人間かと私は考えますが、「法令遵守」と聞こえた瞬間「気をつけ!」を命じられたように直立不動になり思考放棄してしまうぐらい、この言葉は過剰に正当化されていませんでしょうか。


「リストラ」や「説明責任」そして「法令遵守」は私たちのイデオロギー・時代精神とは言えないでしょうか。これらの言葉を聞いた瞬間、私たちはその正当性や妥当性を疑うことを忘れ、その権威にひれ伏すことをあまりにも当然視していませんでしょうか。私たちはこれらの言葉に対してきちんと思考できなくなっているのではないでしょうか。あるいは生半可な思考で抗弁しようとしても、社会全体がそういった抗弁をすぐに抑圧するようになっていませんでしょうか。

現代日本の「教育改革」においても、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などがイデオロギー化した時代精神となり、必要以上に強調され、時に益より害をなすようになってしまっているのではないかと私は考えます。私たちは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などに代表されるような「教育改革」というイデオロギーの罠にかかってしまっている (trapped) のではないでしょうか。

それならば私たちの課題は、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」あるいは「教育改革」というイデオロギー・時代精神の正体を突き止めることになります。ここで気をつけなければならないのはイデオロギーや時代精神が生じるにはそれなりの要因があったに違いないわけですから、イデオロギーや時代精神の全面的な否定、それへの感情的な反発は逆効果になりうるということです。この意味で私たちは「反時代的考察」ではなく「脱-時代的考察」「脱-近代的考察」「ポスト近代的思考」を行なうべきと言えるのではないでしょうか。

私の取りあえずの考えは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などという用語・概念は、そもそも資本主義システムがより効率的・効果的に作動するために導入されたものなので、私たちがもっとも丁寧に概念分析しなければならないのは「資本主義」だということです。かなり昔から存在したはずの資本主義と現代の資本主義はどのように異なるのか。それは産業・工業化の徹底なのか、「貨幣」の非実在化・非等価交換性の進行なのか、消費の自己目的化なのか、人間と自然の搾取なのか・・・きちんと考えなければならないように思います。

資本主義の分析・批判といってもそれは安っぽい「反資本主義」のイデオロギーをかかげることではないことはもはや自明でしょう。私たちは資本主義のただ中にいながらそれを乗り越えなければならないということは、ホロウェイが『権力を取らずに世界を変える』で述べていることかと思います。



「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」のシンポがグッドソン先生の基調講演のように根源的な思考を伴うもので開始されたのは喜ぶべきことだったかと思います。さもないとこのようなシンポも「どのように我が大学院も生き残り予算と人員を獲得するか」といった(安っぽい) マーケティングのような話に終始しかねないからです。

教育関係者が「生徒・学生をカスタマーとして尊重する一方、外部に向けて積極的にマーケティングを展開していかなければならない」と信じて疑わないような社会の「教育改革」には危険を感じます。




(注) 似たような懸念を私は「個人情報保護」や「男女共同参画」にも感じているのだが、これについては私はまだよく勉強していないので即断は控える。






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2 件のコメント:

ポッピーママ さんのコメント...

今晩は。
Paradox of Perfomativity
興味深く読ませていただきました。

 日本では、行政が思うように、財界からの要求通りの教育内容を進めて行くために、教職員組合を弱体化させたり、マスコミ報道を使ったりして、地域社会や一般国民と教職員や学校の間の信頼関係を壊してきました。
 ただ、自分の頭でものを考えないという点では、組合活動に熱心な教員も同じだったのではないかと、自分の若い頃を振り返って思います。
 

柳瀬陽介 さんのコメント...

ポッピーママさん、
貴重なコメントをありがとうございました。
おっしゃるように、自分の頭でモノを考えないというのが決定的な問題だと思います。
自分の思考や判断がないところでは、私たちはすぐにイデオロギーや時代精神に乗っとられてしまいますからね。自戒の言葉ともしたいと思います。
それでは!