2007年9月30日日曜日

ピーター・ゴールズベリ先生謝恩会のお知らせ

ゴールズベリ先生にお世話になった皆様へ

皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。昭和57年に広島大学教育学部(英語教育)に入学しました柳瀬陽介と申します。

さて広島大学総合科学部に長年勤務なさっていますピーター・ゴールズベリ(Peter Goldsbury)先生が、今年度(2008年3月)で定年退職となります。ゴールズベリ先生は、学生と真正面に向き合ってくださり、先生からたくさんのことを学んだ方も多いと思います。その学恩に報いるため、有志一同で、プライベートな謝恩会を下記の要領で行いたいと思います。皆様お忙しい毎日をお過ごしのことと思いますが、懐かしいゴールズベリ先生、そして学友に会えるまたとないチャンスです。ぜひご参加くださるようお願い申し上げます。

なお日程などこちらで勝手に決めてしまったことをお許しください。当日来られないが、謝意を表したい方は、幹事の柳瀬までご相談ください。メッセージを読み上げるなり、プレゼントをお渡ししたりすることができると思います。

またこのお知らせは、お知り合いの方などにどんどん転送していただければ幸いです。幹事はゴールズベリ先生に学んだ卒業生のメールアドレスを持っておりませんので、皆さんがネズミ算式に知り合いに(重複を恐れず)このお知らせを転送していただければ旧交も温められるかと思います。ゴールズベリ先生に個人的な親しみを感じている人であればどなたにお知らせくださってもかまいません。


日時:2007年12月1日(土曜) 18:00 – 20:00 (予定)
場所:広島市内のレストラン(参加人数が確定してからお知らせします)
費用:8000円程度(プレゼント代も含む)
申込:幹事(柳瀬)にメールで知らせる(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)。
申込締切:10月31日(水曜)

この件に関する問い合わせ先
柳瀬陽介
739-8524東広島市鏡山1-1-1広島大学教育学研究科
電話 082-424-6794
メール yosuke@hiroshima-u.ac.jp

以上です。

2007年9月29日土曜日

質的研究のあり方に関する報告1/10

以下は、私が一年半ぐらい前に某所に提出した報告書です。凡庸なレポートにすぎませんが、ひょっとして少しでもどなたかのお役にたてばと思い、ここに公開する次第です。


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質的研究のあり方に関する報告

柳瀬陽介 (広島大学)


1 はじめに

 この報告の目的は、英語教育研究においての質的研究のあり方についての関係者の理解を深めることにある。英語教育研究においては、従前のエッセイ的な論証が恣意に流れかねないとの反省から、1980年代頃より量的研究が盛んになり、2000年代では高度な統計手法を駆使した研究も珍しくなくなった。しかしその研究の量的厳密性は、現場教師の問題意識と乖離しがちであり、英語教育研究が「研究者のための研究」と一部では評される状態を招いた。私たちは量的研究の成果を踏まえつつも、英語教育研究をより実践的(かつ客観的なもの)にする努力を行なわなければならない。

 一方、1990年代の関連分野においては、英語教育研究に先んじて、深刻な方法論的反省が行なわれていた。平山(1997: I-V)も述べるように、1990年代中頃に、日本教育方法学会、日本教育工学会、教育心理学会などは方法論上の論争が激しく行なわれ、以来、質的研究は、量的研究とならんで、教育研究の一つの柱となった。

 このような現状を鑑み、私たちは英語教育研究にも質的研究の適切な導入が必要と考える。以下、質的研究方法論の大まかな特徴を述べ(2 方法論の決定とは、3 質的研究の位置づけ、4 質的研究の特徴)、続き質的研究方法の代表例に関して簡単にまとめ(5 ケース研究について、6 インタビュー研究について、7 ライフストーリー研究について、8 フォーカス・グループ研究について)、最後に質的研究における分析と記述について概括する(9 質的研究における分析、10 質的研究の記述と報告)こととする。従来の量的研究法に加えて、質的研究法が新たに英語教育関係者に普及し、英語教育研究がより実り豊かなものになることが私たちの願いである。

質的研究のあり方に関する報告2/10

2 方法論の決定とは

 「質的研究の導入」といえば、ついつい「量的研究か、質的研究か」という二律背反の図式で語りがちになるが、言うまでもなく、それは不毛な論争に過ぎない。教育研究に長年関わりあった研究者として佐伯は次のように語る(秋田他、2005:13)。

初学者から「メソドロジー」に関する質問を受けることは多いし、かなり経験を積んだ自立した研究者からも「メソドロジー」の妥当性に関する質問を投げかけられることは少なくない。この問いに答えるのは至難である。なぜなら、これらの問いを発する人のほとんどは、研究主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンとは無関係にフィールドワークやアクション・リサーチの「メソドロジー」が存在するものと想定している。これらの人びとの質問は、その方向を転換する必要がある。この問いを発する人びとは自らの研究の意図や主題や研究対象やリサーチ・クエスチョンの曖昧さを問い直すべきなのである。フィールドワークもアクション・リサーチも方法論は多様であり複雑である。研究テーマにより研究対象により研究方法は千編自在に変化し、ひとつの研究を行うごとに最も説得力のある方法を研究者自身が自ら創造しなければならない。その創意のなかに研究の価値が内包されているというのが、私の25年間の経験から導きだされる結論である。


本報告は質的研究の導入を目指すものであるが、「質的研究しか認めない」というのも「量的研究しか認めない」というのと同様、不毛な見解であろう。私たちにとって最も重要なのは英語教育という研究対象であり、方法論においては適切な限りにおいて量的方法と質的方法の両方を臨機応変に使い分けることが必要である。そのためにも現時点での私たちは質的研究に関して過小評価も過剰評価もすることなく適切に理解しなければならない。

 だが質的研究というのは、それを選択することを決定したとしても、量的研究ほどには整備されたものではない。量的研究の場合においては、実験計画法や統計分析について予め学んでおけば、あとはその研究方法を適用すればよいという傾向が強いが、質的研究においては、研究の対象と内容によって、その都度研究方法を考え・編み出し・改善してゆくといった傾向さえ見られる。このあたりをウィリグ(2005: 2)は次のようにまとめる。

 研究のプロセスを一種の冒険と考えてみよう。大学生だった頃、私は「研究方法」を料理のレシピのように思っていた。研究は、正しい材料(代表的なサンプル、標準化された測定道具、正しい統計的検定)を選んで、これを正しい順序で調理すること(「手続」)だった。結果を出すために全力を尽くすたびに、固唾を飲んで、実験が「うまくいく」ことを願った。まるで、完璧に焼けた料理がオーブンから出てくるのを待って、台所をうろうろするように。
 今、私は研究をもっと違う目で見ている。「研究方法」は、問いに答えるための方法になった。研究方法は、答えが正しいかどうかを判断する方法でもある(これは、研究方法と認識論の接点でもある。これは後で述べる)。どちらにしても、研究というものは、私にとって、機械的なもの(適切な技法を問題に適用する方法)から創造的なもの(どうやったらわかるようになるのか?)へと変化したのだ。研究のプロセスの中で、研究方法はレシピだというメタファーを、研究プロセスは冒険だという見方に置き換えたのである。


この「冒険」のメタファーは読者によっては詩的過ぎるように聞こえるかもしれないが、ウィリグのポイントは、既成の方法論に依拠することだけを研究のあり方とするのではなく、方法論を必要な場合には新たに作り出し、そのたびごとに研究の信頼性と妥当性を問い直しながら、研究を進めてゆくことである。これは実は量的研究の最先端でも行なわれていることであり、研究のあり方としては、実は、非常にまっとうなことを述べていると考えられる。上のメタファーが奇抜に感じられるとしたら、私たちが関連研究領域の「お下がり」の量的研究法を無批判的に正しいものと前提し、それに沿うことを学問性のあり方だと混同しているからである。私たちは量的研究法と質的研究法の両方をそれぞれに的確に理解して、それらを使い分けなければならない。量的研究(実験心理学)から研究者生活を始め、次第に質的研究に移行したやまだは次のように述べる(秋田他、2005: 61-62)。

 実際にやってみると、実験心理学はその範囲ではおもしろかった。問題の焦点をきりきりと焦点づけてクリアーにし、論理的につめていく探究のしかたはすっきり気持ちがよかった。実験的な方法では、純粋な条件に統制した実験室で少数の要因に仮説をしぼりこんで、仮説演繹的に実験を積み重ねて、結果を数量化し、できるだけ単純にクリアーにだしていく。これは、現在の私が行っているフィールド研究や質的方法とは対極にある方法である。
 しかし、いまから思えば、「純粋な少数要因にしぼりこむ」実験法を学び、それを対極として常に意識せざるをえなかったことで、逆に「複雑なフィールドの多要因の相互連関」を大事にするフィールド研究の重要性がわかるようになった。また、現象をただ記述するだけではなく数量化してはじめて見えてくるものがあり、その逆に、現象を質的に意味づけてとらえなければ見えてこないものがあることも実感できた。現象を、量としてとらえる、そして質としてとらえる、その両方のアプローチがあり、両者は相互補完的であるが、ただ折衷的に両方やればよいというものではなく、両者の長所を最大限に生かした組み合わせを考える必要があることも、しだいに鮮明になってきた。すっきりと論理を組み立てる実験のおもしろさもわかるので、「いろいろあれもこれもと欲ばって、でも最終的に何がわかったかはっきりしない」というゴチャゴチャ・タイプのフィールド研究に出会うたびに、その弱点もよく自覚できるようになったと思う。(やまだようこ:61-62ページ)


量的研究法は英語教育界において一定の理解が達成されていると考えられる以上、この報告書では以下、質的研究の理解を試みることとする。

質的研究のあり方に関する報告3/10

3 質的研究の位置づけ

 これまで質的研究は量的研究と対比して語られてきた。だが、この位置づけはやや単純すぎるかもしれない。メリアム(2004: 5-6)は、おそらくハーバマス(2000)に従って、研究を実証主義的(positivist)、解釈的(interpretive)、批判的(critical)の三種類に分ける。研究の実証主義的方法においては、科学的で実験主義的な調査をとおして、定量的な知識を得ることを目的とする。この観点からの教育の「日常世界(リアリティ)」は、静的で、観察・測定可能なものである。次に、解釈的方法においては、教育はひとつのプロセスとみなされ、学校は生きられた経験の場となる。こうしたプロセスや経験の意味の理解が、演繹的というよりは帰納的で、仮説または理論の検証ではなく生成を目指すモードによって研究が進む。多元的な日常世界が、人びとによって社会的に構成されることを前提とし、「唯一の真理」の決定は求めない。第三の方向性である批判的方法においては、教育は、社会的・文化的な再生産・変革のためのひとつの社会制度だとみなされ、教育実践の領域における権力や特権、抑圧へのイデオロギー的批判を目指す。

 質的研究は、このうち、二番目の解釈的な方向性を強く持つものである。フィールドワークにより、実践者の生きる世界をできるだけ再構成するような記述を第一に目指し、既存の理論との整合性よりも、現実との整合性を重要視するのが質的研究といえよう。質的研究はそのため、新たな記述法や研究方法の開発も厭わないのである。

 一方、量的研究は上のまとめならば、実証主義的なものである。自然科学を範とする実証主義は人類の知的遺産であり、英語教育研究においてもその精神が有効である場合においては実証主義的研究方法を採択すべきことは言うまでもない。

 他方、質的研究と量的研究の二元的対比からこぼれおちがちなのが、上のまとめの三番目の批判的研究である。もとよりイデオロギー批判の形を借りた、それ自身がイデオロギー的な言説を生成することは、私たちは研究者として断じて許してはならないが、教育が社会的制度であり、社会的制度は価値に基づいたものである以上、教育を語る際には、その価値についても語らざるを得ない場合がある。古今東西、どんな時代・場所においても、現存の制度(そして価値)が完璧だった例はない。そのことからすると英語教育研究も場合によっては、現存の英語教育制度の依拠する価値について語らなければならない場合も生じるかもしれない。その語りは、価値に関する語りであるがゆえ、必ずしも実証に寄らない、「批判的」な語りにならざるを得ないかもしれない。それを禁ずることは、教育研究としては不適切であろう。以下、私たちは、批判的研究を積極的には目指さないものの、質的・解釈的研究の探究が進むにつれ、批判的言説が必要となれば、それを無闇に否定はしないものとする。

質的研究のあり方に関する報告4/10

4 質的研究の特徴

 このように解釈的(そして場合によっては批判的)な色彩を帯びた質的研究をさらに具体的に特徴付けるとしたら、以下の波平・道信(2005: 2-3)のまとめが有益であろう。彼女らはA:研究方法の複数性、B:研究方法の選択性、C:研究対象の日常性、D:研究対象の文脈性を「質的研究についての多様な定義」の「共通点」として捉える。

A:人間の生き方は多様である。したがって、人間の生き方の具体性と多様性を明らかにするための研究方法は、多様にならざるをえない。

B:質的研究は既存の理論や方法論の有効性を確認したり検証することを目的としない。あくまでも研究対象とすることを目的とする。したがって、研究対象の特性に応じて研究方法が選択される。

C:質的研究においては何よりもまず、対象となる人びとが自らを取り巻く世界を、また自分たちの生活をどのように見ているのかに注目する。すなわち、研究対象者(研究される人々)の視点を明らかにすることにつとめる。そして、研究対象になる人々が多様な立場にあること、その多様な立場から日常生活を見ていることを、研究調査の前提とする。

D:質的研究の特徴は、研究対象となる事象を、できるだけそれが生じている社会的、文化的、歴史的文脈においてとらえ、理解しようとすることである。(2-3ページ)


したがって私たちが質的な英語教育研究を行なう際も、A:その研究対象事象に対しての一つの解明を行なっているのであって、決して唯一絶対の解明を行なっているのではないこと、B:(海外からの輸入された)既存理論を証明するために研究を行なっているわけではないこと、C:現場の教師や学習者の日常的な物の見方・考え方を解明すること、D:英語教育現象が生じる社会的、文化的、歴史的背景を重視することを心がけなければならない。

 また平山(1997: 27)は、エスノグラフィー(エスノ法)を質的研究の典型例とした上で、上述のまとめよりもさらに詳しく、研究者と研究対象者の関係について、量的・行動科学的研究との対比の中でまとめている。

データ収集の対象者への扱いが異なる:量的研究法は対象者を仮説検証という見地に立って被験者に接し、彼らに研究者の意図を知らせないようにする。一方、エスノ法は対象者が情報提供者であるので、研究者の意図や重要と思っている内容を彼らに知らせるようにする。

インタビューでも両者の扱いは違ってくる:量的方法は、被験者を回答者としてみなし、質問紙やインタビューで扱う内容と表現を標準化して客観的なデータを採集しようとする。一方、エスノ法は、情報提供者が普段仲間内で使う日常語あるいは符丁を重視し、それらを使いながら、彼らの本音をとらえようとする。

観察場面と対象に対する見方も違ってくる
:量的・行動科学的方法は統制された場面で事象を変数としてとらえ、それを量的データに変換して相関、因果関係を説明する。したがって、ある現実を代表するサンプルサイズ、説明変数あるいは基準変数による事象の割当て、その変数間の関係を表現するための統計的処理方法の選択とその解釈が重要な意味をもってくる。

一方、エスノ法は、自然生態的見方あるいは質的現象的見方を重視する。自然生態的あるいは質的現象的見方とは、自然の場が人間行動に影響を与えるという立場から、社会組織の一部をなす伝統、価値観、役割、規範が人間の観念にどのように規定するかを解釈することをさしている。(29ページ)


こうしてみると質的研究では、研究者は量的研究とかなり違うことなる態度を取らなければならないことがわかる。研究対象者は「被験者」(subject=支配下に置かれている者)ではなく、相互協力者であり、彼/彼女らの日常言語は専門用語によって徒に否定されてはならず、自然な状況での観察と理解を重視しなければならない。このことは、質的研究を行なう場合は、量的研究を行なう場合以上に、研究倫理を重視することを意味する。ウィリグ(2003: 26)は質的研究の倫理について以下のように述べる。

まとめると、研究参加者を損害や喪失から守らなければならない。また、研究参加者の心理的な満足や尊厳をいつでも維持するよう目指すべきである。多くの質的研究者は、これらの基本的な倫理的ガイドライン以上に気を使っている。単に研究参加者を損害や喪失から守るだけではなく、研究参加者に肯定的な利益をもたらすことも目指す。たとえばアクションリサーチは、よりよい方向にプロセスやシステムを変化させることによって、そのプロセスやシステムに関する知識を生み出すようにデザインされている。ここではどのような行為も「研究に参加した人々にとって最大の利益になること」でなければならない。同様に、批判的な言説分析は社会的な不平等、偏見や力関係に挑戦することを目的としている。


要は質的研究においては、研究者は、量的研究以上に、研究対象者(英語教育研究でいえば、教師や学習者)の立場に立つことを鮮明にし、その努力を惜しまないということである。英語教育研究という実践性の高い研究においては、質的研究の重要性は強調されるべきであろう。

 それではこのような質的研究にはどのようなパターンがあるのだろうか。質的研究は上にも示唆されていたように多彩であり、簡単な要約はここでは困難であるので、その包括的な説明は他書に任せ、以下では、私たちの計画するモティベーション研究に関連するケース研究、インタビュー研究、ライフストーリー研究、フォーカス・グループ研究について概括しよう。

質的研究のあり方に関する報告5/10

5 ケース研究について

 ウィリグ(2003)のまとめによるなら、ケース研究(Case Studies)は、定義的な特徴として、次の五つを持つ。

(1)個性記述的視点:研究者は、一般的なことより特定の具体的なことに関心がある。その目的は、個別のケースを、その特殊性から理解することである。これは、法則定立アプローチとは対比的である。

(2)文脈的データへの注目:全体論的アプローチをとり、ケースを文脈の中で考える。

(3)トライアンギュレーション:さまざまな情報源からの情報を統合する。

(4)時間的要素:時間経過にともなうプロセスに関心をはらう。

(5)理論への関心:理論の生成を促す。

 
 だが、ケース研究はさらに下位区分される。引き続きウィリグ(2003)のまとめを借りるなら、ケース研究は次のような観点で区分される。

(1)固有 対 道具的ケース研究:固有ケース研究(intrinsic case study)が扱うのは、そのケース以外の何者でもない。反対に、道具的ケース研究(intrumental case study)では、ケースはより一般的な現象の例である。

(2)単一 対 多元的ケース研究:単一ケース研究(single-case study)は単一のケースを詳細に探求し、研究者個人の関心事がわかったり、既存の理論を現実のデータへ適用する可能性を検証したりすることができる。反対に、多元的ケース研究(multiple-case study)デザインは、新しい理論を作り出す機会となる。このデザインでは、ケースを比較分析することで、理論を発展させ、修正する。

(3)記述的 対 説明的ケース研究:記述的ケース研究(descriptive case study)は、その文脈の中での現象の詳細な記述を目的とする。反対に、説明的ケース研究(explanatory case study)は、関心下の出来事を説明することが目的である。

 

質的研究のあり方に関する報告6/10

6 インタビュー研究について

 インタビューの手法は、メリアム(2004)によるなら、「高度に構造化/標準化」されたもの、「半構造化」されたもの、「非構造化/インフォーマル」なものに大別することができる。私たちは、「学習者の予想外のモティベーション変動」を共通の出発点とし、それから語りを発展させることを狙うので、半構造化インタビューを行なうものとなる。

 しかし語りを発展させるといっても、それはもちろん単に面白く話を続けるというわけではない。インタビューとは「目的をもった会話」である。メリアム(2004: 105)は次のように言う。

われわれがインタビューをするのは、直接観察できないことがらを相手から引き出すためである。・・・感情、思考、意図といったものは、観察することができない。過去の行動も観察できない。観察者が立ち入ることができない状況も観察できない。人びとがまわりの世界をどのように体系化し、そこで起こっていることにどのような意味づけを行っているかも観察できない。そのようなことがらについて知るためには、我々は、人びとに質問しなければならないのである。それゆえ、インタビューの目的は、他者のものの見方のなかに分け入っていくこととなる。


私たちは、こういったインタビューの原則を徹底し、話の表面的な面白さではなく、話の中に垣間見える本質的なポイントの解明を目指さなければならない。その際の、質問の方法としては、引き続きメリアム(2004)のまとめによるなら、「もし・・・だったら」といった仮説的(hypothetical)な質問、「あえて反論しますが・・・」といった故意の反対の立場からの質問(devil's advocate)、「理想的にはどうしたいですか・・・」といった理想的(ideal)な質問、「・・・についてはどうお考えですか」といった解釈的(interpretive)質問などの、「良い質問のタイプ」を重視する。他方、同時に複数のことを尋ねる多重質問(multiple questions)、誘導質問(leading questions)、対話が深まりにくいYes-No questionsなどを避けるべき質問のタイプと基本的に考える。また、いずれにせよ、質問の答えが返ってきたら、それにさらにさぐりを入れ(probe)て、対話を深めることが大切である。

質的研究のあり方に関する報告7/10

7 ライフストーリー研究について

 私たちが計画するインタビューにおいては、教師は、予想外だった学習者のモティベーション変動について語るわけであるが、その語りは一種の「物語」であるといえよう。「物語」に関してやまだ(2000: 20)はBruner (1986)の「論理実証モード」と「物語モード」の区別から、物語を規定する。

論理実証モードは、心理学者が用いてきた科学的パラダイムです。「ある出来事についての陳述が、真か偽か?」と問い、そこから、真か偽を明らかにする条件設定がなされ、実証によってどちらかの答えがみちびかれます。物語モードでは、「二つ以上の出来事が、どのように関係づけられて陳述されるか?」が問われ、出来事がどのような意味関連でむすびつけられるかが問われます。どれが正しいかを決定することが問題ではないので、物語論では、複数の答えが両立しえます。(20ページ)


やまだのいう「ライフストーリー研究」とは、インタビュイーが語る「物語」を解明する研究である。(ちなみに「ライフストーリー」に、研究者が近現代の社会史と照合し位置づけ、注記を沿えて構成したものが「ライフヒストリー」と呼ばれる(やまだ 2000: 15))。やまだ(2000: 1-2)のまとめるライフストーリー研究の意義を報告者なりに敷衍すると次のようになる。
(1)人生の経験を「物語」としてとらえることができる。「物語」とは「二つ以上の出来事を結びつけて筋立てる行為」であり、ライフストーリー(人生の物語)とは、「その人が生きている経験を有機的に組織し、意味づける行為」であり、「たえざる生成・変化のプロセス」である。「物語」として語ることにより、自然科学では捉えられない生活者・実践者の意味関連が解明される
(2)物語の語り手と聞き手によって共同生成されるダイナミックなプロセスとして物語を語り直すことによって人生に新しい意味を生成することができる。経験されてもあまり語られることのなかった過去の体験が、「物語」として、聞き手との協働解明の中で新たに語られる・語られ直すことにより、語り手も新たな気づきを得ることができる。
(3)人生の物語を語ることが、個人の物語を超えて、現世代から、次の世代や未来世代へのコミュニケーションとして、世代と世代、時代と時代をつなぐ働きを担う。「物語モード」は私たちが生活者・実践者として慣れ親しんでいるモードであり、このモードでの語りによって、他者の経験はより深く聞き手・読み手に伝えることが可能になる。

質的研究のあり方に関する報告8/10

8 フォーカス・グループ研究について

 さてそういったインタビュー研究においては、話の深まりが重要である。したがってあるインタビュイーに複数回話を聞き、インタビュアーはその度ごとに分析や解釈を試みながら、語りをより信頼性があり、妥当性のあるものにしてゆく方が、一回だけのインタビューで終わるよりも好ましい。しかし他方で、特定単独のインタビュイーだけを選定し単一ケース研究を行なう特別の理由もない以上、私たちはより妥当性のある洞察を得るために、複数のインタビュイーに対してインタビューを行なうべきだとも考えられる。そうなると複数のインタビュイーに対して、複数回のインタビューを行なうこととなる。だがそうなれば、例えば6人のインタビュイーにそれぞれ5回の単独インタビューを行なうとなると、合計30回ものインタビューが必要となる。これは明らかに非現実的である。またインタビュアーの恣意的すぎる分析・解釈を防ぐためには複数のインタビュアーがいるべきだとも考えられるが、一人のインタビュイーに対して複数のインタビュアーがいれば、インタビュイーによっては非常に圧迫感を感じてしまう怖れがある。

 こういった諸問題を解決するのがフォーカス・グループによるインタビューである。ウィリグ(2003)のまとめによると、フォーカス・グループという形式では、研究者はグループのメンバーをお互いに紹介し、グループのフォーカス(例:質問、広告・写真などの刺激)を紹介し、ディスカッションを静かに進める議長の役割を果たす。このように進めることでグループの本来のフォーカスを定期的に呼び戻し、グループのメンバーが生み出す論点にお互いに回答するように促す。本研究でも、研究担当者の一名を「議長」とし、その他の研究担当者をインタビュアーとして、複数のインタビュイーに同時に、一種の座談会形式でインタビューを行なうことを複数回繰り返すこととする。だがフォーカス・グループ・インタビューが単なる「座談会」にならないようにするためには、私たちは引き続きフォーカス・グループ・インタビューの方法論に関して学ぶ必要はあるであろう。

質的研究のあり方に関する報告9/10

9 質的研究における分析

 さて、今まで述べてきたような学界背景、質的研究法の位置づけ、各種質的研究方法の特徴の考察から、私たちはフォーカス・グループ・インタビューを行なうことを決定したのだが、インタビューの形式以上に重要かもしれないのが、研究の分析である。この分析に関しても、質的研究においては、量的研究と異なった配慮、というより認識論が必要なので、この節では鯨岡(2005)を基にしながら、質的研究における分析についてまとめておきたい。

 質的インタビューにおいては、インタビュイーが「感じたこと」、その語りを聞いてインタビュアーが「感じたこと」、あるいは両者で共感的に理解することを重視する。だが、このような感性重視の方法は、従来の量的研究の思考法からすれば、なんとも主観的で情緒的すぎるもののように思えるかもしれない。鯨岡(2005: 17)は次のように述べる。

関わり手に感じられる相手の「思い」やそのような「生き生き感」や「息遣い」は、関わる相手の生のありように結びつき、その人の存在のありようを告げるものです。ところが、これまでの行動科学の枠組みではそれを捉えることができません。そればかりか、むしろそれを排除しなければならないと考えてきました。なぜなら、それらは客観主義の立場では観察可能なものではなく(目に見えるものではなく)、常に描き出す「私」の主観を潜り抜ける中でしか捉えられないもの(「私」の身体が感じられるとしかいいようのないもの)だからです。そのことは、観察する人(記述する人)が無関与的な透明な存在であることを前提とする従来の客観主義の枠組みとは確かに相容れません。


たしかに従来の量的研究(行動科学)の枠組みでは、主観的(あるいは参加者が共に感じるという意味の哲学用語である「間主観的」)である「感じ」あるいは「思い」、「生き生き感」、「息遣い」などは捉えることができないだけでなく、むしろ積極的に排斥するべきものである。だが、現実世界に生きる人間にとってはそのような主観性および間主観性を否定することはできない。そういった量的研究から抜け落ちてしまう事象を取り扱うのが、質的研究であり、質的研究の分析は、そういった事象の扱いにひとしお注意を払わなければならない。

 それにしても上の引用で「客観主義」という言葉が批判されたので、驚いた読者もいるかもしれない。客観性こそは学問の要諦だからである。しかしここで鯨岡が「客観主義」として批判するのは「実証主義」のことであり、実証主義(だけ)を客観的態度と考えるのは、偏った考えであると鯨岡は彼の現象学の素養を背景に主張しているわけである。「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(山岡 2005: 20)として、彼は次のように述べる(山岡 2005: 23)。

生の実相のあるがままに迫るためには、その生の実相を関わり手である自分をも含めて客観的に見る見方と、その生の実相に伴われる「人の思い」や「生き生き感」など関わり手の身体に間主観的に感じられてくるものを捉える見方が同時に必要になります。後者を重視することが、あたかも客観的な見方が必要でないと主張しているかのように誤解されたり(自分の中に生まれた考えや観念をただ述べればよいと誤解されたり)、客観的な見方も必要であると主張することが、あたかも客観主義=実証主義を肯定したかのように誤解されたり、といったことが生じるのは、おそらく、この「客観主義の立場」と「客観的な見方」との混同に起因しているように思われます。


 私たち英語教育関係者もこの高次の意味での「客観的な見方」を理解するべきであろう。すなわち観察・記述とは、対象の問題だけではなく、観察・記述者の問題でもあるということを自覚するわけである。対象と観察・記述者の両者を、観察・記述者は、自分を対象化するという困難にも挑みながら、「客観的に」捉えることを試み、かつ、その場で経験される間主観的な感じも大切にすること、これが高次の意味での「客観的な見方」といえるだろう。観察・記述者の存在を無化し、見えるものだけを取り上げ感じられるものを無視することは、低次の「客観主義」にすぎないともいえるだろう(もちろんその逆に自らの主観性ばかりに耽溺するのは学問ではないが)。しかし観察・記述者の問題や間主観性に関して言及したり考察したりする事例研究などは、「これまでの学問動向の中ではその内容よりもその手続きのところで門前払いしてしまう動きがあったこと」(山岡 2005: 40)は、英語教育研究においても事実であろう。こういった問題は克服されなければならない。

 しかし、質的研究のエピソード記述には、しばしば「これは一つの事例に過ぎず、一般性・普遍性を欠くものである」といった批判が浴びせられることがある。しかし鯨岡はこの批判は、「すでに行動科学の土俵の上での議論だといわねばなりません」(山岡 2005: 45)と述べる。彼の反論の根拠は、人間は一般・普遍からだけでなく、特殊・個別からも学ぶことができることにある。人間は想像力を持ち判断をすることができる存在である。鯨岡(2005: 45)は次のように述べる。

一つのエピソードを一つの事実として提示するとき、前項でみたように、もしもそれが読み手に自分の身にも起こりうることとして理解されるなら、つまり過去に同じような経験をもったかどうかに必ずしもこだわることなく、それはありうることとして理解されるなら、それはエピソード記述に固有の事実の提示の仕方として認められるべきだということです。これは、私たち一人ひとりが自分の経験世界に閉じられていないこと、他者の経験世界に可能的に拓かれていることに拠っています。つまり、身体的には類的同型性をもち、それゆえ感受する世界はかなりの程度同型的であることを基礎に、幾多の類似した経験をもつ私たち人間は、絶対の個であると同時に類の一員であり、それゆえ大勢の他の中の一人でもあります。しかも、豊かな表象能力を付与されている人間は、その想像力によって、他者に起こったことはそのようなかたちで我が身にも起こる可能性があると理解することができるのです。(45ページ)。


このことは人間存在が想像力と判断力を持つことの再確認だけにとどまらない。「いかにして私たちは真を知るか」という学問の基礎である認識論の拡充を求めるものでもある。量的研究は実証主義的な認識論だけを採用していたが、質的研究におけるエピソードの記述は、実証主義を超えて想像力と判断力による認識論を提示しているとさえもいえるかもしれない。次は山岡(2005: 47)の言葉である。

ともあれ、いま議論しておきたいのは、私たちが可能的に他者の世界に開かれていること、それゆえ、他者の一つの体験の提示が、我が身にも起こり得る可能的真実であると受け止めることができること、逆に、エピソード記述はその読み手の開かれた可能性に訴えかけるものであることを認めることです。これによって、従来の再現可能性や検証可能性、あるいは信頼性といった、行動科学の枠組み内の認識論とは違う、エピソード記述の方法論に固有の認識論を構えることができます。(47ページ)


この鯨岡の見解を私なりに敷衍したい。従来の量的な英語教育研究は、実践者(教師)をあたかも機械のようにしか捉えていないのではないだろうか。「教師には、誰でも当てはまる一般的なルールを教える。そうすれば実践は良くなるはずだ」というわけである。なるほど、それはその通りであろう。しかし「誰でも当てはまる一般的ルール」は、たいていの場合、とても常識的なことにすぎない。だが、教師は一般的ルールが当てはまらない特殊・個別な状況にも対応しなければならない。多くの教師はこの対応を、自らの経験から学ぶだけでなく、他人の経験(つまりは他人が語るエピソード)からも学ぶ。それは教師には、全ての人間がそうであるように、想像力というものがあり、その働きにより、様々な判断力が養われ、新しい場合にも、その判断力を活かして対応ができるからである。そもそも私たちはそうやって歴史や小説を読み「教養」をつけているのではないだろうか?極言をすれば、想像力・判断力・教養といった存在を、量的研究は、はなから当てにしていないことを存在基盤としているようにも思える。量的研究の専横は現代の浅薄さの表れといえば話が大きくなりすぎだろうか。だがいずれにせよ、量的研究が扱いきれないところを、質的研究が異なる認識論的前提に基づきながら細心の注意を持って遂行されることにより、英語教育研究もさらに現実的に、そして客観的になるということは言えるのではあるまいか。

質的研究のあり方に関する報告10/10

10 質的研究の記述と報告

 こうして分析を進めれば後は記述と報告となる。記述に関しては、鯨岡(2005)は(エピソード)記述の基本構造を、(1)背景の提示、(2)エピソードの本体の提示、(3)(第一次・第二次)メタ観察の提示、としている。

 (1)の背景の提示に関して、質的研究は、量的研究以上に、研究対象者の背景の記述を厚くしなければならない。背景文脈の重視こそが質的研究の条件だからである。(2)のエピソードの提示に関しては、エスノ(グラフィー)に重なるところが多い。志水は次のように述べる(秋田他 2005: 143)

エスノの基本的性格については、佐藤郁哉の「文学と科学にまたがる性格をもつ文章」(佐藤、1992: 45)という知られた定式化がある。これは私自身の実感に近い。エスノの作成には、みたものを的確に、かつ印象的に読者に伝えるための文学的センスがやはり不可欠である。しかしながら、他方、私たちは論文としてエスノを作成するかぎりにおいて、各種の科学的な基準や体裁と無縁ではありえない。いきおい私たちが書くエスノは、文学と科学の性質をあわせもつハイブリッドな書きものとならざるをえない。(志水宏吉:143ページ)


私たちも文学の細心性と科学の明晰性の両方を忘れない記述を目指さなければならない。

 (3)のメタ観察とは、エピソードの記述が終わってから、再度それを読んでの研究者の考察である。こここそは研究の「考える」部分であり、「深い洞察」が期待されるならここの思考こそが十全でなければならない。思考の結果は第一次メタ観察として他の研究者との討議にかかり、そうして私たちは第二次メタ観察へと至り、研究報告書の執筆へと至ることとなる。

 研究報告書執筆のプロセスは、(メリアム2004)のまとめによるなら、(1)読み手・聴衆の想起、(2)報告書の焦点を絞ること、(3)報告書のアウトラインを先に作ること、(4)実際の執筆を開始すること、である。私たちは、この研究報告により最も益するであろう英語教師(および英語教師をサポートする英語教育研究者)を常に想像しながら(1)、漫然とした報告にならないように記述の要点を明確にし(2)、予め十分に計画を立ててから(3)、十分な時間をとって執筆を行なう必要があるといえよう(4)。
 

参考文献

秋田喜代美、恒吉遼子、佐藤学(編)(2005)『教育研究のメソドロジー----学校参加型マインドへのいざない』 東京大学出版会
ウィリグ, C.著、上淵寿・大家まゆみ・小松孝至 共訳(2003)『心理学のための質的研究法入門』 培風館
鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門  実践と質的研究のために』 東京大学出版会
ハーバマス, J (1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』 平凡社ライブラリー
佐藤郁哉フィールド(1992)『フィールドワーク―書を持って街へ出よう』 新曜社
波平恵美子・道信良子(2005)『質的研究 Step by Step』 医学書院 
平山満義(編著)(1997)『質的研究法による授業研究 教育学・教育工学・心理学からのアプローチ』 北大路書房  
メリアム, S.B.著、堀薫夫、久保真人、成島美弥訳(2004)『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』 ミネルヴァ書房
やまだようこ編著(2000)『人生を物語る --生成のライフストーリー』 ミネルヴァ書房
Bruner, J.S. (1986) Actual minds, possible worlds. Harvard University Press. 田中一郎(訳)(1998) 『可能世界の心理』 みすず書房

2007年9月25日火曜日

10/1より「田尻科研」シンポの受付開始!

☆☆この文書は各種媒体に転載自由です。広くお知らせいただければ幸いです☆☆

下記のシンポジウムの受付を、10/1(木)より、専用メールアドレスで受け付けます。
tajiri071124@hotmail.co.jp
お名前(ふりがな)・ご所属を書いて、上の専用メールアドレスにお申し込みください。会場の都合で、満員になりましたら締め切らせていただきます。上記のメールアドレスから、受付番号付きの確認メールが来て、受付は完了します。


*****以下、シンポジウムの案内*****


科研シンポジウム「田尻悟郎氏英語教育実践の解明」のお知らせ


趣旨:「プロフェッショナル」「わくわく授業」「ブロードキャスター」等のテレビ番組でも取り上げられた、田尻悟郎氏の英語教育実践は、これまでの英語教育の理論や制度をはるかに超えた優れた実践です。しかし、この田尻氏による「現場の知」を、単なる「名人芸」や「天才の技」といった安易な言葉で片付けてしまえば、私たちが田尻実践から学べることは大きく限定されてしまいます。その成り立ちやメカニズムにメスを入れ解体し、詳しく分析することで、田尻実践を日本の言語教育の改善そして教師の支援へとつなげることを、本シンポジウムはめざします。

日時:2007年11月24日(土曜日)[三連休の中日です]

場所:広島大学(東広島キャンパス)総合科学部 L102教室(教育学部ではありません!)
http://www.hiroshima-u.ac.jp/category_view.php?folder_name=access&lang=ja

対象:現役英語教師、指導主事などの英語教育関係者、英語教師を目指す学生、英語教育研究者、日本語教育関係者、その他。

参加費:無料(ただし事前登録が必要

スケジュール(予定)
第一部
13:00-13:10 開会の辞:シンポジウムの趣旨説明(柳瀬陽介:広島大学大学院)
13:10-13:30 田尻実践を教員研修にどう活かすのか?(横溝紳一郎:佐賀大学)
13:30-13:50 田尻実践における文法の扱い方を斬る!(大津由紀雄:慶應義塾大学)
13:50-14:10 田尻実践における「コミュニケーション」(柳瀬陽介)
(休憩 20分)
第二部
14:30-14:50 英語教師田尻悟郎のライフヒストリー(横溝紳一郎)
14:50-15:50 田尻実践を体験してみよう!(田尻悟郎)
(休憩 20分)
第三部
16:10-17:00 対談:田尻実践とは何なのか(田尻悟郎・春原憲一郎:海外技術者研修協会)
17:00-17:20 質疑応答(田尻悟郎)
17:20-17:30 閉会の辞(横溝・大津・春原・田尻・柳瀬)

申込方法
10/1(木)より、tajiri071124@hotmail.co.jp に名前(ふりがな)・所属を書いたメールを送り、受付番号のついた確認メールをもらう(会場の都合により人数制限あり)

この件に関するお問合せ先:柳瀬陽介 082-424-6794  tajiri071124@hotmail.co.jp

安藤進『ちょっと検索! 翻訳に役立つ Google表現検索テクニック』丸善株式会社

もはやGoogleを抜きにした知的生活など、少なくとも私には想像しがたいものになっています。全世界のウェブページを、コンマ数秒で検索できるというこの技術は、未だに信じられないほどの偉業だと思います。

この検索エンジン(および英語のWikipedia)を使いこなすことで、私たち英語非母語話者が、英語を書く際に大いに助けられることはもはや周知のことですが、http://www.googleguide.com/に整理されているような検索テクニックを私たちは案外知らなかったりします。

そのような検索テクニックをわかりやすく日本語で解説し、またGoogleの検索結果をうのみにしないようにするための解説をしたのがこの本です。著者の翻訳家としての経験が、この本の記述を具体的で平明なものにしています。英語を書く機会が多い人はきっとこの本の情報を重宝すると思います。

この本、あるいは『Google活用最強の裏ワザ・隠しワザ―こんな頭のいい使い方があったのか!』といった本の購入は、知的投資としては非常に価値の高いものではないでしょうか。(少なくとも私自身、知ったつもりで知らなかったことがたくさんありました)。




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2007年9月21日金曜日

英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊

大修館書店『英語教育増刊号』に今年も「英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊」という長めの書評記事を書かせていただきました。選んだのは以下の書です。どのような興味を持つ読者が、どのように読めば面白いかを私なりに考えて記事は書いたつもりです。

この書評だけでなく増刊号は、毎年「総括と展望」として「英語教育日誌」、「2007年度入試の特徴とその対策」、「英語教育関係刊行図書一覧」、「英語教育関係学会・研究会案内」などを掲載しており、資料価値が高いものになっています。

また今年の特集「声に出して読みたい英語」は、英語の名文とその解説で、ぜひ手元に置いておきたいものです。どうぞ皆様、お買い上げのうえお楽しみください。

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田邉祐司・松畑熙一・服部孝彦・坂本万里・Charles Browne編著『がんばろう!イングリッシュ・ティーチャーズ!』三省堂

杉本義美『中学校英語授業指導と評価の実際』大修館書店

樋口忠彦・緑川日出子・高橋一幸編著『すぐれた英語授業実践』大修館書店

門田修平・池村大一郎編著『英語語彙指導ハンドブック』大修館書店

阿原成光『お祭り英語楽習入門—いじめは授業でなくす』三友社

瀧口優『「特区」に見る小学校英語』三友社

松川禮子・大下邦幸編著『小学校英語と中学校英語を結ぶ』高陵社書店

田中慎也『国家戦略としての「大学英語」教育』三修社

江利川春雄『近代日本の英語科教育史』東信堂

金谷憲・英語診断テスト開発グループ著『英語診断テスト開発への道』英語運用能力評価協会

廣森友人『外国語学習者の動機づけを高める理論と実践』多賀出版

ゾルタン・ドルニェイ著、八島智子/竹内理監訳『外国語教育学のための質問紙調査入門』松柏社

2007年9月17日月曜日

英語教育研究のメジャーリーグ化?

「ポストモダン」という言葉は、日本語の文脈ではどこか空疎に聞こえます。80年代の流行語に過ぎないようです。「グローバル」という言葉も、日本の英語教育界では掛け声だけのようにも聞こえます。これまた80年代の「国際化」と同じような語られ方をしているに過ぎないことが多いからです。

しかし私が今回参加したSymposium on Second Language Writing(名古屋学院大学)のような国際会議に出ると、"postmodern", "global"という言葉はまさに現実を表現する言葉であることを実感します。"Modern"の枠組みで作られてきた世界が、全地球化しようとし、その結果、西洋発祥の"modern"を超えた世界のあり方が、逆流するように(元)西洋に、乱流するように(元)東洋に浸透している現実が"global"に現れつつあるということです。

もちろん「グローバル化」とは「アメリカ化」に過ぎないという意見もあります。しかしそのアメリカ自体が異種混交化をさらに加速しているとすればどうでしょうか。今回の学会の基調講演者のLourdes Ortegaさん(University of Hawai'i)、Jun Liuさん(University of Arizona)、Miyuki Sasakiさん(名古屋学院大学)、あるいは実行委員長のPaul K. Matsudaさん(Arizona State University)にしても、少なくとも大学教育まではそれぞれ祖国で祖国の言葉で過ごした人たちです(Matsudaさんは高校まで)。その後、彼女/彼らは、アメリカに知的活動の拠点を置き、 TESOL(Teachers of English to Speakers of Other Languages)を代表する人物として活躍しています。関係者の話によると、このシンポジウムは、アメリカで行われていたTESOL関係の学会が、アメリカ以外に進出したものとして評価されているそうです。そしてこのシンポジウムで聞かれた発表は、日本以上にESLではなくEFL、つまり英語が「外国語」としてしか使われていないアジア諸国の社会文化状況を捉えようとしたものでした。もはやこのような学会は、20年前に私が感じていたようにアメリカのESLだけに関する学会でなく、グローバルにESLとEFLを語る学会になっているといえるのかもしれません。ほとんど日本にしかいない私が、アメリカ発の学会での環太平洋圏各国の研究者からの発表に、日本の英語教育学会の日本人による発表以上のリアリティを感じたのは不思議な感覚でした。英語での言説は、グローバル化し、世界のさまざまな社会文化を取り込みうる懐の深いものになりつつあるのかもしれません。

なんだかメジャーリーグを思い起こすような話です。以前は白人だけだったメジャーリーグも、最初はアメリカ国内の黒人を取り込み、そして現在、急速に世界各国からのプレーヤーを取り込んでいます。取り込むだけではなく、メジャーリーグも積極的にアメリカ国外に出ようとしています。好むと好まざるにかかわらず、日本の野球ももはやメジャーリーグを無視しては語れません。「助っ人」としてメジャーリーガーに頼るだけではなく、優秀な日本人選手はメジャーリーグでプレーすることを選び、その何人かはもはや「日本人選手」としてというよりは「メジャーリーガー」として認知され尊敬を受けています。日本のテレビも時に日本のプロ野球以上にメジャーリーグを特集したりします。メジャーリーグはグローバル化しようとし、アメリカ発のメジャーリーグが、世界各地のプレーヤーとファンを取り込み、そして同時に彼らに取り込まれています。昔の枠組みなら「異種」に過ぎなかったものが混交し、それが新しい現実を作り上げているようです。その新しい現実は、これまでの枠組みでの「現実」よりも、より私たちの日常感覚に近づき始めているとは言えませんでしょうか。

私はこれまで日本の英語教育の現実を捉えるためには、日本語で書かれた英語教育の文献を読んでいたほうがいいと思っていました。「輸入学問」で、日本の現実を無理やり外国の枠組みで捉えることに強い警戒感をもっていました。しかし、もはや日本の英語教育を考えるためにも、英語での文献をこれまで以上に読むべきなのかもしれません。これまで以上に、自分も英語での言説に参加し、「異種混交」のプロセスに身をおく必要があるのかもしれません。「メジャーリーグと日本野球」、「英米の英語教育研究と日本の英語教育研究」などというこれまでの二項対立を、相互排他ではなく、相互浸透の関係で捉えることが必要なのでしょう。

2007年9月11日火曜日

大津由紀雄『英語学習7つの誤解』NHK出版(生活人新書)

英語学習は、ダイエットと似ています。どちらもブームで、多くの人が無関心ではいられません。ともに魅惑的な宣伝文句が並びます。「○○するだけでよい!」「△△は必要ない!」「悪いのは□□だった!」。これまで成功しなかった私たちを慰め、夢を与えてくれるような文句が好まれます。

しかし英語学習もダイエットもそんな単純なものではありません。専門家の役割は、そんな一般人のコンプレックスにつけこんだような商売に便乗することではなく、英語学習やダイエットの原理をわかりやすく解説することでしょう。そこでは厳密な科学者の目と、健全な常識人の感覚の両方が必要です。そしてその両者を兼ね備えた人はなかなかいません。

ですが、英語学習においてはこの良書があります。認知科学者でありながら、なみの英語教育の専門家とは比べ物にならないほど大きく、英語教育(特に小学校英語教育)に対して啓発的な活動を行っている大津由紀雄さん(慶應義塾大学)です。

この読みやすくコンパクトな新書は「しっかりとした英語を身につけたいと思っている方々、そして、将来のためにお子さんに英語を身につけさせたいと考えている方々を念頭において」(4ページ)書かれたものです。話の流れは、英語学習について、ダイエットと同じようにはびこっている誤解を、丁寧に解き明かすというものです。

その誤解とは

(1) 英語学習に英文法は不要である
(2) 英語学習は早く始めるほどよい
(3) 留学すれば英語は確実に身につく
(4) 英語学習は母語を身につけるのと同じ手順で進めるのが効果的である
(5) 英語はネイティブから習うのが効果的である
(6) 英語は外国語の中でもとくに習得しやすい言語である
(7) 英語学習には理想的な、万人に通用する科学的方法がある


の7つです。どれもどこかで聞いたことのあるような見解ではないでしょうか。それらを大津さんは、認知科学の知見を引用したり、健全な常識を働かせたりして、これらの誤解に挑みます。

 といってもこれは英語学習に関する知的探究だけに終わっている本ではありません。付録2では英語辞書と英文法書の親切なガイドがあります。付録1は、英語学習の根底にあることばの深さをわかりやすく語った名エッセイです。

「英語ってどうやったら身につくの?」この単純な疑問を持つ方、あるいはこの疑問をぶつけられる方はぜひ本書をお読みください。

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