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2019年3月4日月曜日

バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society




以下は、言語文化教育研究学会第5回年次大会 (http://alce.jp/annual/2018/) での口頭発表(共同研究)に向けて作った「お勉強」ノートです。Zygmunt Bauman (2001) The individualized society. Cambridge, UK: Polity Press の 「語られた人生と生きられたストーリー:序曲」 (Lives told and stories lived: an overture) の一部を翻訳したものです。翻訳にあたっては刊行されている翻訳書(澤井敦・菅野博史・鈴木智之(訳) (2008)『個人化社会』青弓社)を参照しましたが下の翻訳は私によるものです。

なお「個人化」 (individualization) とはユングの「個性化」 (individuation / Individuation) とはまったく異なる概念ですが、 ‘customization’ とほぼ同じような意味をもつ ‘personalization’ とも異なります。ここでは ‘customization / personalization’ をとりあえず「個別化」として、「個人化」と「個性化」と「個別化」は(字面では似ているものの)異なる概念であることを述べておきます。(ユングの「個性化」についてはいずれ勉強して「お勉強ノート」を作らねばと思っています)。

それでは以下、私にとって印象的であった箇所の要旨と拙訳と訳注を掲載しておきます。



■ 個人化された人々は、個人ではどうしようもない社会の矛盾に対して徒手空拳で挑むことを求められている

要旨
本来は社会全体で取り組むべき問題を「自己責任」の問題とすることで、社会に対する不満を表面的に隠すことはできるかもしれない。だが、個人化された社会に住む人々は、集団で公的に働きかけるすべを失ってしまう。そして「自己責任」を押しつけられた個人は自責・自罰にはしることもある。

拙訳
一方で、人は自分自身に責任をもたされる。しかし他方で、人は自分のまったく手の届かない(そして多くの場合自分がまったく知らない)ところにある条件に左右されている。そのような条件下では、「生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって」しまう。制度に向けられるべき非難を自分自身の不備に向けることによって、現在の社会を破壊しかねない怒りをなだめることはできるかもしれない。しかしそのことは、その怒りを人々の自己非難や自己否定に変えてしまうかもしれないし、その人自身の身体に対する暴力や拷問に変容させてしまうかもしれない。

 「社会による救済などない」という戒律を繰り返して、それを常識的な処世訓とすることは、現代を生きる中でしばしば見られることであるが、そのことによって物事は「底よりも下にある底」においやられてしまう。個人の限界を超える集団的で公的な手段は否定され、ほとんどの場合一人で解決するための資源を持ち合わせていない課題に孤独に取り組む個人が打ち捨てられる。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.5-6). Wiley. Kindle 版.

訳注
・生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって: ‘how one lives becomes the biographical solution of systemic contradictions.’”
・個人の限界を超える集団的で公的な手段: collective, public vehicles of transcendence



■ 個人ではどうしようもない社会が課してくる「条件」と、個人が行いえることの「物語」の間の境界線をどこに引くか

要旨
本来は社会的なものである「条件」も、ある個人に一方的に降り掛かってくるものと理解されるし、「物語」もある個人が何をしたかというものになっている。しかし社会学的に重要なのは、本来は社会の問題である「条件」を克服することが、個人の「物語」として語られてしまったいないかを吟味することである。

拙訳
条件と物語は同じように容赦のない個人化の過程の中にある。とはいえ、それぞれの過程の中身は異なっている。「条件」は、とにもかくにも、個人に降り掛かってくる事柄であり、頼まれもしないのにやってきて、去ってほしいと個人がいくら望んでも去ることがないものである。他方、「生きることについての物語」とは、人々が自ら行ったこと・行わなかったことから紡ぎ出すストーリーを意味している。両者が言説化された場合、その違いは個人が当然と思うものと、「なぜ」「どのように」と問いかけるものの違いとなる。これらはいわば二つの用語の意味論的な違いである。しかし社会学との関連からすればもっとも重要な点は、どのようにこれら二つの用語がストーリーを形成する際に使われるかということである。つまり、個人が行ったことと、個人が行ったこと(あるいは定義的に述べるなら、個人がそうせざるをえなかったこと)の条件の間の境界線が、物語を語る中でどこに引かれるかということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.6-7). Wiley. Kindle 版.

訳注
・個人化: indivudalization
・条件: conditions
・生きることについての物語: life narratives



■ 人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない

要旨
マルクスの悲観を受け継ぐなら、個々人が選べない「条件」と個々人がなしうる行為の「物語」は分離したままになっている。だが大切なのは、両者の範囲を問い直すことである。

拙訳
マルクスの有名なことばに、人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、というものがある。この命題を、「ライフ・ポリティクス」の時代の要求にしたがって改訂するなら、人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、となるだろう。しかしどちらにおいても、この命題が含意しているのは、選択の余地のない条件の領域と目的や計算や決定を受け入れる行為の領域は分離しているし分離したままであるということであろう。つまりこれら二つが絡み合うところでは問題が生じるかもしれないが、両者を分かつ境界線は問題にならない--客観的で交渉の余地がない--ということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle 版.

訳注
・人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない: people make history but not under conditions of their choice
・ライフ・ポリティクス: life politics
・人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない:people make their lives but not under conditions of their choice 



■ 「この条件は受け入れるしかない」と語ることによって、物語で語りうることの範囲が狭められる。

要旨
仮定はそれが仮定として扱われることが長くなればやがて真実となる。私たちが「条件」とは所与のものであり私たちが何もなしえないものであると考えることによって、それは「条件」として固定化される。 私たちは一見所与にしか見えない「条件」についても共に・公的に何かなしうるという「私たちの物語」をみ出すべきだろう。さもないと私たちは「個人化された物語」の範囲でしか実人生を送ることができなくなってしまう。

拙訳
しかしながら、境界線は「与えられるだけ」であるという仮定は、それ自身が、「条件」を「条件」とする大きな、おそらくは決定的な要因である。「条件」は、それらが人間の選択を超えたものであると宣言されて受け入れられることによって、目的と手段という枠組みの生きてゆくため行為とは別のものとされ、その結果、人間の選択の幅は狭まってしまう。W. I. Thomasが言ったように、人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである)。人々が「X以外に選択肢はない」と言うなら、そのXは行為の領域から抜け出し、行為の「条件」の領域に入ってしまう。人々が「もう何もできない」と言うなら、本当に何もできることがないのだ。個人化の過程は、「条件」と生きることについての物語の両方に影響を与えているが、それが進行するためには二本の脚を必要とする。一方で、選択の範囲を設定して夢物語と現実的な選択を区別する力が「条件」の分野ではしっかりと設定されなければならない。他方、生きることについての物語は提供されている選択肢の中で行ったり来たりしていることだけに限定されなければならない。

 こういうわけで、生きられた人生と語られた人生は互いに結びつき相互依存している。矛盾めいた言い方をするなら、人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉するのである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle 版.

訳注
・人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである): something that people assume to be true tends to become true as a consequence (more precisely, as a cumulative consequence of their actions)
・生きられた人生と語られた人生: Lives lived and lives told 
・人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉する: the stories told of lives interfere with the lives lived before the lives have been lived to be told



■ 個人化された社会の中で、人々は社会全体の仕組みが生み出している「条件」について語ることを抑圧されている。

要旨
個人化された社会では、人々が語る「物語」から、社会から押しつけられる「条件」について人々が疑問をもったり異議申し立てをする可能性が排除されている。私たちは一人でも共にでも「条件」の変革についての「物語」を語る可能性を取り戻すべきだ。

拙訳
あらゆる言説化は、ある可能性を開くとともに、他の可能性を閉ざす。現代において語られるストーリーの決定的な特徴は、それらのストーリーは個々人が生きていることを言説化する際に、個々人の宿命を社会全体の仕組みに結びつける可能性を除外したり抑圧(言説化を抑止)したりしているということだ。もっと重要なことは、社会の仕組みについて疑問を呈することを不可能にしていることだ。社会の仕組みを、きちんと精査しないままに個々人が生きるために従事していることの背景に追いやってしまい、ストーリーを語る者が、一人でも仲間とともにでも集団ででも、それなについて異議申し立てしたり交渉したりすることもできない「生の事実」とすることによって社会の仕組みへの疑問が封じられている。個人を超えた要因が、個人が生きることの軌跡を形成しているということを見えなくし考えさせなくすることによって、「力を合わせ」て「手を取り合って立ち上がる」ことの付加価値が見えにくくなり、人間が生きている条件や人間が共有している苦境について取り組むことが力を失うか存在しないものとなってしまっている(批判的に取り組むことについてはとりわけそうである)。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.9). Wiley. Kindle 版.

訳注
・社会全体の仕組み: the ways and means by which society as a whole operates
・個人を超えた要因: the supra-individual factors



■ ますます個人化される人々が生きる意味や目的を見出せる物語を支援することが社会学の課題

拙訳
現在の変わりつつある人間が生きる条件の下で、「ますます個人化される個人」は生きる中に意味と目的を見出そうとしている。それこそは私が『液状化する社会』の中で描こうとした現在の状況であるのだが、そういった変わりつつある人間が生きる条件を再言説化しようとする現在進行中の試みに密接に取り組むことこそが、社会学のもっとも重要な課題であると私は信じている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle 版.

訳注
・ますます個人化される個人: increasingly individualized individuals
・生きる中に意味と目的を見出そうとしている: invest sense and purpose in their lives



■ 社会学というストーリーは、私たちにはもっと多くのストーリーの語り方があることを教える。

拙訳
社会学はそれ自身が一つのストーリーである。しかしこの社会学というストーリーのメッセージは、私たちが日頃ストーリーを語る際に想像しているよりも多くのストーリーの語り方があるのだということである。私たち一人ひとりが語って信じ込み、これしかないように思えているストーリーが示している以外の生き方も多くあるということを社会学は伝えている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle 版.



■ (消費生活的な)私的関心に植民地化された公的領域を脱植民地化する

拙訳
背景に追いやられライフ・ストーリーによって精査されないままに放置されている領域をもう一度見直すことによって言説化の範囲を拡張しようとする試みの重要な効果は、政治的課題を抜本的に広く捉えることに現れている。今や私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまったが、こういった私的関心によって公的領域が密かにしかし着実に植民地化されている限りにおいて、この政治的課題を広げる効果は、公的領域の脱植民地化と呼ぶこともできるだろう。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.13-14). Wiley. Kindle 版.

・政治的課題を抜本的に広く捉えること: the radical widening of the political agenda
・私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまった: private concerns [that are] trimmed, peeled and cleaned of their public connections and ready for (private) consumption but hardly for the production of (social) bonds
・公的領域の脱植民地化: a decolonization of the public sphere



関連記事
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html



 











2019年1月16日水曜日

ユングが感情 (feeling) を「合理的機能」 (rational function) と見なしていることについて


前の記事(当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --)を作成する際に、ユングによる「感情」および「情動」という用語法についても気になったので、以下、そのことについて書き残しておきます。


■ 価値を細やかに認識できる感情機能は合理的なものである。

ユングが感情を「合理的」であると講義で述べたことは、何人かの参加者にとって少し不可解なことであったらしく討議の時間に質問が出ました。以下は、その質問に対する答えです。

拙訳:
私が「感情」を価値づけをする機能だと説明したことを覚えていらっしゃるでしょう。[ですが]私はその説明で、感情に特別な重要性があることを示しているわけではありません。もし感情が分化して細やかな価値認識が可能ならば、その限りにおいて感情は合理的機能だと申し上げているだけなのです。

原文:
You will remember I explained 'feeling' as a function of valuing, and I do not attach any particular significance to feeling. I hold that feeling is a rational function if it is differentiated. (p. 25)

訳注:
原文の 'differentiate'は「分化」とだけ訳すのが普通だが、上では少しことばを補った。


■ 感情機能が発達しておらず、価値を細やかに認識できない場合、感情機能は非理性的なものとなる。

以下の英文は上の英文に続くものですが、もし感情機能が劣等機能で、細やかな価値認識ができなかったら、感情の発生は非文明的なもの、非理性的なものとなることをユングは認めています。思考機能が優勢で感情機能の発達が遅れている人は、時折、おそろしく単純な価値に賛同したり反発したりして周りを驚かせたりしますが、そういった例が、未発達の感情機能により非理性的態度が生じた例となるでしょう。

拙訳:
 感情が分化されていない場合、感情はただ生じるだけです[きわめて大雑把な価値認識しかしません]。その際、感情は原始的な特質をもち「理性的ではない」とも言えるでしょう。しかし意識化された感情は、価値を区別する合理的な機能なのです。

原文:
When it is not differentiated it just happens, and then it has all the archaic qualities which can be summed up by the word 'unreasonable.' But conscious feeling is a rational function of discriminating values.  (p. 26)

訳注:
原文の "it just happens"の翻訳は翻訳書とは異なる私の解釈に基づき、ことばを補いました。

補注:
「感情」をあくまでも意識的なものとするのは、「感情」を「中核意識」 (core consciousness) と同義とするダマシオの用語法とも合致します。


■ 情動は内情変化(生理学的な神経興奮)を伴う現象

上で、感情が未発達な場合それは理性的とは言えないことを認めたユングは、続いて関連概念である「情動」 (emotion) について語り始めます。ユングのまとめに従えば、情動とは身体内に起こる変化であり、それは生理学的に測定できます。

訳文:
情動について研究すると、「情動的である」ということばは、生理学的神経興奮によって特徴づけられる状態に関連して必ず使われていることにお気づきになると思います。ですから情動を測定することはできます。しかしその測定は心的側面ではなく生理学的側面についての測定なのです。内情変化についてのジェームス-ランゲ説についてみなさんもご存知でしょう。私は情動を内情変化とみなしています。「何かがあなたに内なる変化を与えた」というのと同じ意味です。情動はあなたに対して何かをする -- あなたに干渉するわけです。(中略)ですから違いをこのように説明することができます。感情は身体的には示されませんし生理学的にも感知できません。しかし情動は生理学的状況の変化なのです。

原文:
If you study emotions you will invariably find that you apply the word 'emotional' when it concerns a condition that is characterized by physiological innervations. Therefore you can measure emotions to a certain extent, not their psychic part but the physiological part. You know the James-Lange theory of affect. I take emotion as affect, it is the same as 'something affects you.' It does something to you -- it interferes with you. ... So the difference would be this: feeling has no physical or tangible physiological manifestations, while emotion is characterized by an altered physiological condition.  (p. 26)

訳注:
'Affect' という用語の翻訳にはいつも困ります。翻訳書では生理学的な意味を重んじてか「興奮」となっています。ですがこの語がもつ日常的含意は、この用語の理解を歪めてしまうようにも思います。スピノザの『エチカ』の英訳(Spinoza: Ethics: Proved in Geometrical Order (Cambridge Texts in the History of Philosophy))でもこの 'affect' は重要な用語として使われていますが、その意味、および上で述べられている意味からすると思い切って「内情変化」と訳してみました。力技ですが、「身体の『内』にある『情』動の変化」という意味を込めた訳語です。

ただ、ダマシオはこの 'affect' を基本的に「情動」 (emotion) と 「感情」 (feeling) を総称する用語としていると私は理解していましたので、これら二つの訳語の頭文字を合わせて私は「情感」と訳していました。 'Affect' をどのように日本語にしてゆくかについては、今後も考え続けようと思います。

関連サイト:
ジェームス-ランゲ説


関連記事
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html

Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
http://yosukeyanase.blogspot.com/2018/10/damasio-2018-strange-order-of-things.html


■ 強い価値認識である感情は情動を帯びる

しかし感情を身体的・生理学的な変化としては観察できないというのは少し言い過ぎのようです。聴衆からも質問がでます。

訳文:
ヘンリー・ディック博士
前の質問に関連してのお尋ねなのですが、内情変化と感情の間の関係についてあなたはどのようにお考えなのですか?

ユング教授
程度の問題です。もしある価値があなたにとって圧倒的に強烈なものであれば、その価値[を認識する感情]はある時点で情動となるでしょう。つまり、あまりに強力なので生理学的興奮を引き起こすということです。おそらく、どんな心の過程にもわずかばかりの生理学的変化があるのでしょう。しかしそれらはあまりに小さなものなので私たちは[現時点では]それを証拠立てる手段がないのです。

原文:
Dr Henry V. Dicks:
May I ask, in continuation of that question, what is the relation in your view between affects and feelings?

Professor Jung:
It is a question of degree. If you have a value which is overwhelming strong for you it will become an emotion at a certain point, namely, when it reaches such an intensity as to cause a physiological innervation. All mental processes probably cause slight physiological disturbances which are so small that we have not the means to demonstrate them. (p. 27)


■ 情動は欲動的なものであり、感情は認識的なものである

拙訳:
エリック・グラハム・ハウ博士
情動を欲動、感情を認識とみなしてもいいものでしょうか?感情は認識に相当し、情動は欲動的であるということです。

ユング博士
はい。哲学的用語としてそのように言うことは可能だと思います。異論はありません。

原文:
Dr Eric Graham Howe:
Could we equate emotion and feeling with conation and cognition respectively? Whereas feeling corresponds to cognition, emotion is conative.

Professor Jung:
Yes, one could say that in philosophical terminology. I have no objection. (p. 28)

訳注:
'Conation' も翻訳に困ることばです。Oxford Dictionaries は、[Psychology Philosophy] The mental faculty of purpose, desire, or will to perform an action; volition.と定義していますが「意欲」と訳すほどにこの用語は日常的な英語ではないので、ここは翻訳書のとおり「欲動」と訳しておきました。

関連記事
Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/06/jakobson-1960-linguistics-and-poetics.html


総じて言いますなら、ユングは長年の臨床観察を哲学的というか理論的にまとめあげたタイプ論にしたがい、感情を思考と同様の合理的機能として考えていますが、医学博士でもある彼は、その感情と生理学的な情動の関連性もきちんと視野に入れているとまとめられるでしょうか。この用語法はダマシオの用語法とも基本的に合致しています。

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html



関連記事(ユング関連)

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
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C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
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C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
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C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
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C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
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小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3321.html
河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
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村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
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小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
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J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
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柳瀬・山本・樫葉 (2015) 「英語教育の 「危機」 と教育現場」 (草稿)
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当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
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2018年11月6日火曜日

加藤敏・八木剛平 (2009) 『レジリアンス--現代精神医学の新しいパラダイム』(金原出版)



この本については、べてるの家が出しているメールマガジン(ウェブマガジン)『ホップステップだうん!』 (Vol.159) で知りました。

そこでは向谷地生良先生がウンガー氏の講演を取り上げながら、レジリアンスをもっぱら「心理的なモデル」として扱うのではなく、「人と環境」を重視するソーシャルワークの視点で考えることの重要性を説いていました。(下の動画は、私の研究仲間が教えてくれたものです)。





以下は、この本のいくつかの章について作ったお勉強ノートです。 「(p. 5) 」といった表記は、はこの本のページ数を表しています。 →以下の記述は、本書のまとめや引用を受けての私の蛇足です。

いつも以上に、私の誤解・誤読を怖れます。また、以下のまとめや引用が元々の文脈を離れて別の意味合いで理解されてしまうことも怖れます。以下の話題に興味がある方は必ずご自分で原著をご参照ください。

なお「レジリアンス」は「レジリエンス」ともしばしば表記されます。前者はフランス語の発音に、後者は英語の発音に由来するようで、本書では日本語の発音のしやすさから前者が用いられています。ですからこのまとめでも前者の表記を使うことにします。



加藤敏
「現代精神医学におけるレジリアンス概念の意義」 
 (pp.1-23)

■ DSM批判

Andresasen (2007) によれば、DSMの問題点としては、(1)診断クライテリアが限られた症状しか含んでいない、(2)患者の病歴や生活史を聞くことがなされなくなり、患者に対して非人間化作用 (dehumanizing effect) を及ぼしている、(3)信頼性 (reliability) を達成するために妥当性 (validity) が犠牲にされていること、があげられる。

DSM and the Death of Phenomenology in America: An Example of Unintended Consequences
Nancy C. Andreasen
Schizophrenia Bulletin, Volume 33, Issue 1, 1 January 2007, Pages 108-112, https://doi.org/10.1093/schbul/sbl054

この批判は、生物学的(医学)還元モデルの行き過ぎに対する反省に根ざしていると考えられるが、レジリアンスは、患者の生物学的身体における自己修復(あるいは自己組織化)と捉えられる。さらには言語をもちいる文化的身体における実存的主体としての自己再構成(あるいは自己組織化)と把握できる。この点でレジリアンスは時宣を得ている。(p.5)

→個人的には、一見もっとも無害に思える (3) の影響が大きいと考える。私の分野(英語教育)で言うなら、言語テストでも、「客観テスト」であることを標榜するあまり、(3) から (1) を生み出し、その結果、(2) といった人間的側面を扱うことを忘れつつあるように思う。


■ 現在の日本の精神科医療批判

「極端なことを承知で敢えて言えば、 現在の日本の精神科医療は精神科患者に対する過剰な「障害化」と「脱主体化」の方向に進んでいる観をぬぐえない。(中略)前向きの治療を進めていくうえでは、「障害化」をできるだけ防ぐべく、レジリアンスを踏まえて、主体化、ひいては責任化 (responsibilisation) を促す治療指針が肝要である。」 (p. 20)

→たとえば以下の論文では、"responsibilisation"という概念は批判的・否定的に扱われているが、上の引用は、あまりにも「脱主体化」されてしまった患者の人間性を取り戻すための概念として使われている。この "responsibilisation" は当事者研究の「苦労を取り戻す」につながる概念だと私は解釈している。

Neo-Liberalism and Responsibilisation in the Discourse of Social Service Workers
Linda Liebenberg  Michael Ungar  Janice Ikeda
The British Journal of Social Work, Volume 45, Issue 3, 1 April 2015, Pages 1006-1021,
https://doi.org/10.1093/bjsw/bct172




田辺英
「医学哲学からみた発病モデルと回復(レジリアンス)モデル」 
(pp.51-74)


■ 二つのモデル

臨床医学での病気・治療に対する味方には、「発病過程」を重視する立場(発病モデル)と、「回復過程」を重視する立場(回復モデル)がある。 (p. 52)


■ 発病モデル

現代医学は、「根本原因を措定し、それを発見し、その原因を消滅(解消)すること」をほとんどの疾病に対する治療戦略の中心としている点において、発病モデルに基づいているといえる。このモデルでは、病気や症状は身体の「故障」とみなされることが多い。 (p. 53)

→教育界でも、教師からすれば思うように学ばない子に対して、教師はしばしば「なにが悪いのだろう」「どこがおかしいのだろう」と考え、その原因とみなされる要因を除去・修繕することで解決を図ろうとすることはしばしばある。


■ 回復モデル

回復モデルは、「歴史的には以下のような主張から混成されることが多い。つまり、1.症状は生体の適応形態の一つである、2.生体には自然治癒力が存在する、3.回復は発病の逆過程ではない、4.生体には環境に適応する能力が存在する、5.治療は病因を排除することでなく生体の適応能力を適切に導くことである、などの主張群である。」。この回復モデルを「レジリアンスモデル」と呼ぶこともできるだろう。 (p. 53)

→武術オタクである私(苦笑)は、1-5の主張をごくごく当たり前のこととみなしているが、西洋医学ではこれらの考え方は主流ではない。

→教育に適用して(やや安直に)語るなら、1は「問題行動には意味がある」、2は「どんな子どもも自らの成長を欲している」、3は「問題を引き起こしたと思われる要因を取り除いても事態は必ずしも改善しない」、4は「子どもにも思わぬ適応能力がある」、5は「教育とは環境を整えることによって子どもの成長を促すこと」(デューイ)ぐらいに読み替えることができるだろうか。

→1980年代に読んだアメリカの大衆小説--今、タイトルを思い出せない--の中では、アメリカ式経営と日本式経営が極端な対比で描かれ後者が絶賛されていた。それによると、組織で問題が起こった場合、アメリカでは "Who fucked up?" と問われ、日本では "What went wrong?"と問われるそうだ(あくまでもその小説の登場人物の見解です。品のない表現をお許しください)。

もしかすると前者の問いは発病モデルにつながるのかもしれない。後者の問いを好意的に解釈するなら、単純な原因も快刀乱麻の解決法もないことを自覚しながら複合的なシステムの中での出来事を観察し、あちこちを操作しながら全体的になんとかなるように調整するやり方といえるだろうか。

学習指導要領などの教育言説でも「問題解決」といったことばがしばしば用いられるが、その「問題解決」のための思考やコミュニケーションは、「原因の特定とその根絶」といった発病モデル的な前提に立っていることが多いのではないだろうか。

経営コンサルティングにおいても、論理的な分析に基づくさまざまなモデルや理論を駆使して結局会社の経営をおかしくしてしまうことが多いことを知る、ある(元)コンサルタントは、要は、当事者・関係者の連携とコミュニケーションを促進することが一番大切と述懐している。

関連記事
カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014) 『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/2014.html

考えてみればカウンセリングも、問題に対して直接的な介入はしないままにその問題について直接的・間接的に語り続けるコミュニケーションを取り続けているうちに、いつのまにか新しい解釈や意味の確認が生じ、人格が再統合され、問題が解決とは言わないまでも解消あるいは後退してゆく歩みと言えるだろう。

関連記事
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/2009_25.html

今一度、言語教育関係者が想定している「コミュニケーション」のあり方を問い直してみたい。それは犯人(原因)探しのコミュニケーションになっていないだろうか。もっと私たちは、複合的な事態を受け入れその現実と共に生きるためのコミュニケーションのあり方について考えるべきではないだろうか。


■ 回復モデルの系譜

自然治癒力を想定する回復モデルの考え方は、古くはヒポクラテス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)、ガレノス (129年頃-200年頃)、近代ではシュタール (1659年-1734年)がある。 (pp. 57-62)。


■ 発病モデルの系譜

発病モデルは、「原子論的・機械論的自然観」に立ち、合目的性を徹底的に否定したアスクレピアデス(紀元前124年-60年)にたどることができる。彼は「自然は目的を持たず、自然治癒力現象はあったとしても単なる偶然であるという立場」に立っていたが、これは「驚くほど現代の医学思想と共通」している。(p. 58)

その後、近代となり、機械論的な説明原理が優勢となるにつれ、ボイル (1627年-1691年)も機械的な身体観を提示した。やがてモルガーニ(1682年-1771年)の器官病理学、ビシャ(1771年-1802年)の組織病理学、ウィルヒョウ(1821年-1902年)の細胞病理学と医学が発展するにつれ、病は、人間全体が病むものから、臓器・組織・細胞が病むものとみなされるようになった。  


→目的論に関する安直な復習
コトバンク:目的論
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E8%AB%96-142248
ウィキペディア:目的論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E8%AB%96
Wikipedia: Teloology
https://en.wikipedia.org/wiki/Teleology
→教育とは、明らかに目的をもった行為であり、関係者はその目的の意味の理解に応じてさまざまな行為をとる。もし安直に、自然科学を目的論を否定した機械論に基づく営みと考えるなら、自然科学的な「教育の科学」とはどのようなものとなるのだろう。その科学では人間がもつ目的はどのように扱われるのだろう(今、きちんと考えるには疲れているので、とりあえずここに疑問として書き出しておく)。




M.E.M. Haugland et al. (2007) 
Psychological resilience factors: 
Attitudes and behaviors that can help maintain well-being during stress

この本のp. 82には、以下の論文のp. 910にあるTable 3. Psychological resilience factors: Attitudes and behaviors that can help maintain well-being during stressの全訳が掲載されている。

Development and  Psychopathology. 2007 Summer;19(3):889-920.
Psychobiological mechanisms of resilience: relevance to prevention and treatment of stress-related psychopathology.
Haglund ME, Nestadt PS, Cooper NS, Southwick SM, Charney DS.
DOI: 10.1017/S0954579407000430

ここでは、その表の6つの要因のタイトルだけを原語で引用しておく。

1. Positive attitude: optimism and sense of humor
2. Active coping: seeking solutions, managing emotions
3. Cognitive flexibility / cognitive reappraisal: finding meaning or value in adversity
4. Moral compass: embrace a set of core beliefs that few things can shatter
5. Physical exercise: engage in regular physical activity
6. Social support and role models or mentors

→すぐに気づくように、"psychological resilience factors"とはいえ、6のように一人の心の問題としては扱えない要因も入っている。この社会的要因をもっと重視するべきという方向で、コミュニケーションのあり方について再考できないかと思い、このお勉強ノートを作った次第。おそまつ。



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  金原出版:『レジリアンス --現代精神医学の新しいパラダイム』






2018年11月1日木曜日

「身体から考える『学びに向かう力』」(第6回こども英語教育研究大会講演)のスライド


11/3(土)に兵庫県尼崎市の百合学院中学高等学校で開催されます第6回こども英語教育研究大会で行います講演のスライドを以下でダウンロードできるようにしました。

何の権威の後ろ盾もない草の根運動的な会ですが、優れた実践者のワークショップを体験し、参加者が対等な立場で率直な意見交換をできるのがこの会の良さです。今回は、スタッフを含めると150名程度の参加者になるとのことです。その会を少しでも盛り上げるために、今回の講演も引き受けさせていただきました。

実践者が多いこの大会での講演ですから、できるだけ平明なことばを使うようにしました。とはいえ、簡単に書こうとするあまり、基盤となっている理論を裏切ってはいけませんから、自分としてはそれなりに注意深くことばを選んだつもりです(乞うご批判)。

内容は、小泉清裕先生との共著『小学校からの英語教育をどうするか』で導入した「からだ」「こころ」「あたま」の考え方を、ダマシオの最新刊であるThe Strange order of things: Life, feeling, and the making of culturesや、ダマシオが再三引用するスピノザの論や、私がここ数年大学院生と一緒に読んでいるデューイの論で補い、「学びに向かう力」という概念を私なりに身体論的にまとめたものです。

ご興味のある方はダウンロードしてください。


「身体から考える『学びに向かう力』」のスライド(PPTファイル)


「身体から考える『学びに向かう力』」のスライド(PDFファイル)


「身体から考える『学びに向かう力』」の配布資料(PDFファイル)




関連記事

第6回 こども英語教育研究会(11/3土 百合学院中学高等学校(兵庫県尼崎市))へぜひお越しください!
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/6113.html

Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
http://yosukeyanase.blogspot.com/2018/10/damasio-2018-strange-order-of-things.html


追伸
現時点(2018/11/01 19:33)ではまだ空席がありますので、ご興味のある方はぜひお申込みください。ただし山田先生のセッションは満席、西山先生と山下先生は満席間近です。

第6回こども英語教育研究大会





2018年7月19日木曜日

いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる



この記事は、8/9(木)の外国語メディア学会(LET)第58回全国研究大会パネルディスカッションの準備の一環です。

*****

Donald T. Campbell
Assessing the impact of planned social change
Evaluation and Program Planning, Vol. 2, pp. 67-90, 1979



この論文は、今や、量的指標が社会に対してもちうる否定的な効果を語る上で古典扱いされている論文かと言ってもいいかと思います。

関連記事:
Wikipedia: Campbell's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Campbell%27s_law
What is Campbell's Law. Diane Ravich's Blog. May 25, 2012.
https://dianeravitch.net/2012/05/25/what-is-campbells-law/
Wikipedia: Goodhart's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Goodhart%27s_law


著者のCampbell氏は社会心理学あるいは応用社会科学 (applied social science) (p. 68) を専門としながら、各種のプログラム評価 (program evaluation) に携わってきました。彼はその経験から、各種指標によって人間を管理することについてやや悲観的な見解をこの論文で表明しています ( "I am, however ambivalently, to present an honestly pessimistic picture of the problems." (p. 68) )。

現在もよく引用され続け、"Campbell's Law" として知られている箇所は論文の最後の方の「量的指標がもたらす腐敗的な効果」 (Corrupting effect of quantitative indicators) の節にあります。著者は、米国では評価研究 (evaluation research) が社会的な意思決定 (social decision-making) の道具として認められ、いわば政治における投票数のように扱われているが (p. 84) 、専門家としてその実態を見ていると次のような悲観的な法則 (pessimistic laws) を提唱せざるをえないと述べます。

The more any quantitative social indicator is used for social decision-making, the more subject it will be to corruption pressures and the more apt it will be to distort and corrupt the social processes it is intended to monitor.  (p. 85)

拙訳:いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる。

著者がこの法則の例として挙げているものなかには警察が、科学的管理法 (scientific management) や説明責任 (accountability) や効用計算運用法 (Planning, Programming, and Budgeting System: PPBS) などの影響を受けて、「事件解決率」("clearance rates") の量的指標で評価された事例があります。この指標で評価されるようになると、警察は市民の訴えをそもそも事件としてなかなか記録しなかったり、記録するにせよ解決されてからはじめて記録するようになりました。あるいは司法取引 (plea-bargain) の制度を濫用し、犯罪者に自分が本当にはやっていない犯罪をも告白させ事件解決率を上げ、犯罪者はその取引で罪を軽くしてもらうといった腐敗が起こりました。 (p. 85)

参考
ウィキペディア:ロバート・マクナマラ>PPBS
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%A9#PPBS
Wikipedia: Output budgeting
https://en.wikipedia.org/wiki/Output_budgeting

ちなみに、「ベスト・アンド・ブライテスト」とも称されたマクナマラが、ベトナム戦争に関して語ったインタビュー映画「フォッグ・オブ・ウォー」は私のお気に入り映画です。戦争といったきわめて複合的な現象においては計算通りにはいかないという、いわば市井の人々なら誰でも知っていることを、エリート中のエリートであるマクナマラが認めたという点が非常に興味深いです。




話を論文に戻します。

行政の例では、職業安定所 (employment office) が「生産性基準」 (productivity standards) を評価基準にして扱ったケースの数を評価基準とすると、スタッフはすぐに終わるが実は有効ではない面談や職紹介をするようになりました。職紹介だけを評価基準にすると、簡単なケースだけを扱い、もっとも行政の助けを必要としているすぐには仕事が見つからないケースを扱わないようになりました。 (p. 85)

教育の世界でも、学力不振の子どもに「契約指導者」(contractors) をつける制度を導入したものの、その契約指導者の報酬は子どもの学力テスト得点向上 (achievement test score gains) で定められるようになると、契約指導者がテスト問題の答えを予め子どもに教えるなどといった腐敗が生じてしまいました。 (p. 85)

Campbellはテストについては次のように述べ、テストがもちうる破壊的な力について警鐘を鳴らしています。

From my own point of view, achievement tests may well be valuable indicators of general school achievement under conditions of normal teaching aimed at general competence. But when test scores become the goal of the teaching process, they both lose their value as indicators of educational status and distort the educational process in undesirable ways. (Similar biases of course surround the use of objective tests in courses or as entrance examinations.)

拙訳:個人的には、学力テストは、一般的な能力向上のために行う通常の授業がなされている限りにおいては、一般的な学校の成果を測る指標としては貴重なものとなると考えている。しかしテスト得点が授業の営みの目標となってしまったら、テスト得点は教育の状態を示す指標としての価値を失い、教育の営みを望ましくない方向に歪めてしまう。(同じような歪みは客観式テストを科目や入試の評価指標として使う場合にももちろん生じる)。

Campbellはこのような腐敗が米国に限った話ではないことを示すために、(当時の)ソ連の例を出します。ソ連の工場でいくつかの量的指標が統計的な記述目的のためだけに使われていた時には問題はなかったのですが、それらの指標を目標値として設定して、その目標達成の具合でそれぞれの工場を評価しはじめると工場生産がおかしくなりました。例えば生産製品の価格で評価すると、工場は同じ製品ばかりを生産し多様な製品の供給が困難になりました。生産製品の重量で評価すると重い製品ばかり生産し、生産した製品の個数で評価すると簡単に生産できる製品ばかり作るようになりました。 (p. 86)


*****

ここからは私(柳瀬)の意見となります。上記の論文は1979年に出版されたものですが、同じようなこと、つまり「ある限られた観点からの量的指標だけを組織の目標とすることにより組織の営みが歪んでしまうこと」は、現代の経営コンサルタントや実務家や経営学者も認めています。

カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014)
『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です 
コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房

時代の風:「人をつくる」管理職=元世界銀行副総裁・西水美恵子

ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳
『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP


人間の営みに数値目標を押し付けることの危険性は哲学者・科学史家のクリース氏も述べています。

Measurement and Its Discontentsの翻訳

Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳

Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳


そもそもこの問題は、人間は石ころと違って、測定されることを自覚し、その自覚からさまざまな行動を取りうるという一般的な問題として考えるべきなのかもしれません。

Wikipedia: Reflexivity (social theory)
https://en.wikipedia.org/wiki/Reflexivity_(social_theory)


あるいは、西欧近代の文化的傾向が新自由主義で加速しているという視点で考えるべきなのかもしれません。

アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)
『数量化革命』(紀伊国屋書店)

ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)
『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー)

デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、
森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)
『新自由主義』作品社


そういった広い観点から考えた拙稿の一つが下です。

「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿

しかし数値目標による管理はますます進行し、私の大学でも導入されています。その際に具申したのが以下の文章です。

「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文


また、美術と音楽の先生と評価について語った知見は以下の報告書にまとめました。

創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない


2020年度から始まる英語入試改革でも、テストが教育を歪める可能性があります(そもそもこれは昔から指摘されていたことです)。

Shohamy (2001) The Power of Tests のPart Iのまとめ

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」
(ELPA Vision No.02よりの転載)


制度は固定化すると改革が困難になります。またその制度しか知らない若い世代が想像力を発揮しないまま教員となり、教育がますます硬直化する可能性も恐ろしいものです。

英語入試改革について、英語教育関係者は専門家としてもっと考え行動すべきだと私は思います。

小泉利恵 (2018) 『英語4技能テストの選び方と使い方』(アルク)の大修館書店『英語教育』(2018年8月号)の書評末尾に書いたように、私たち英語教育関係者は今、時代にテストされている、つまり試されているのだと思います。



2018年7月18日水曜日

Diane Larsen-Freeman (2017) Complexity Theory: The lessons continueのまとめ



これは今年の8/20-22に京都府立大学で開催される下記のセミナーでの講演のための準備の一環として作成した「お勉強ノート」です。

The 1st JACET Summer (45th) and English Education (6th) Joint Seminar (Kyoto, 2018)
Theme: Classroom research revisited: Who are the ‘practitioners’?



*****

Diane Larsen-Freeman (2017) 
Complexity Theory: The lessons continue

In Lourdes Ortega and ZhaoHong Han (eds.) 
Complexity Theory and Langauge Development. 
(pp. 11-50). Amsterdan: John Benjamins Publishing Company


■ Complexity Theory (CT) は "a metatheory"

以前、 応用言語学の世界にComplexity Theory (CT) --複合性理論と訳します-- が導入された時、この理論は比喩 (metaphor) としてとらえるべきではないかという論もあったが、著者はこれをメタ理論 (metatheory) と見るべきという見解をこの章で打ち出している。

■ Overton (2007, p. 154) によるメタ理論の定義

Larsen-FreemanはOverton (2007, p. 154) を直接引用してメタ理論を定義しているが、その引用を読んでもどこか気持ち悪いので、原典を参照したところ、Larsen-Freemanが省略記号抜きに原典の一部を取り除いた引用をしていることが判明した。ここでは原典を正確に引用し、その翻訳を提示する。

原典: A metatheory is a coherent set of interlocking principles that both describes and prescribes what is meaningful and meaningless, acceptable and unacceptable, central and peripheral, as theory - the means of conceptual exploration - and as method - the means of observational exploration - in a scientific discipline. In other words, a metatheory entails standards of judgment and evaluation. Scientific metatheories transcend (i.e., "meta") theories and methods in the sense that they define the context in which theoretical and methodological concepts are constructed. Theories and methods refer directly to the empirical world, while metatheories refer to the theories and methods themselves. (Overton, 2007, p. 154)

翻訳:メタ理論とは、互いに組合い連動する原則の集合であり、これにより何に意味がある・ない、何が認められる・認められない・何が中心的・周縁的であるかが記述され規範化される。これは科学の分野における理論(概念的探究の方法)でもあり、方法(観察的探究の手段)でもある。別の言い方をするなら、メタ理論は判断と評価の基準を有するものである。科学的なメタ理論は理論や方法を超越し(ゆえに「メタ」と呼ばれる)、理論的概念と方法的概念が構築される文脈を定義する。理論と方法が直接に参照しているのは経験的に実証できる世界であるが、メタ理論が参照しているのは理論と方法自体である。

原典
A Coherent Metatheory for Dynamic Systems: Relational Organicism-Contextualism
Overton W.F.
Human Development 2007;50:154–159
https://doi.org/10.1159/000100944
関連文献
Overton (2015) Taking Conceptual Analyses Seriously
doi:10.1080/15427609.2015.1069158


■ 複合性理論が克服している考え方

(1) 還元主義、(2) 単純な因果 (simple-causal links)、(3) 決定論 (determinism) (pp. 22-23)


■ 複合性理論は、単一因果要因を特定しようとする脱文脈的実験を疑う

翻訳:実際のところ、複合性理論の研究者は、第二言語発達 (second language development: SLD) の決定的な因果要因 (the causal factor) を特定しようとした脱文脈的実験 (decontextualized experiment) そのものに疑いをかけた。そのような研究方法はしばしばガウス(分布)の統計学を利用し、母集団を一つの固まり (a whole) として扱い、ばらつき (variability) をノイズや測定誤差として片付けてしまうか「外れ値」 (outliers) してしまった。かくしてこういった研究法は、第二言語発達の過程における個々人の行為主体的な役割 (the individual's agentive role) を捉えそこねてしまった。 (pp. 18-19)

関連記事
ウィキペディア:正規分布(ガウス分布)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E5%88%86%E5%B8%83


■ 応用言語学で複合性理論を取り入れている研究のリスト

このpp. 24-25のリストはとても便利


■ 30の格言 (aphorisms)

Larsen-Freemanは、複合性理論が含意するところを、言語、言語学習者・使用者、言語学習、言語教育について30の格言で表現しているが、ここでは私にとって印象的だったものだけを翻訳する。(番号は格言につけられた番号)

これらが応用言語学における「新しい普通」 ("the new normal) (p. 28) となるとLarsen-Freemanは考えている(私もそうなるべきだと思う)。

8 言語学習者・使用者は特定の文脈で相互作用を行い、共に適応する過程 (a process of co-adaptation) 、つまりは対話者 (each interlocutor) が何度も相手に合わせる (adjust) 反復的で対話的な過程 (an iterative and dialogic process) の中で、頻度が高く、偶発的だが信頼のおける「形式-意味-使用」の構文 (frequent and reliably contingent form-meaning-use constructions) に出会う。 (p. 26)
※ ここでは "constructions" を「構文」と理解したが、この理解でいいのか今ひとつ自信がないので、識者の方のご教示をお待ちします。

9 学習者・使用者が文脈に適応するにつれ、文脈も変化する。うまくいく適応行動 (successful adaptive behavior) には、学習者・使用者が意味を伝え自分が意図していたように自らを位置づける (position themselves) 能力が必然的に含まれる (entail)。 (p. 26)

11 学習者は、他の言語の知識も含めて自分が知っていることの上に知識を形成 (build on) する。しかしこれは転移 (transfer) としてではなく、変容 (transformation) として考えられるべきだ。転移とは決して正確な表現ではない。「転移される」ものは、新しい文脈に叶う (suit) よう、再び働きかけれれる (reworked) のだ。 (p. 26)

13 学習者・使用者の言語的資源 (language resources) は、単なる過去の経験の記録ではない。言語の学習者・使用者は、自分自身のパターンを創り上げて (create their own patterns) 所与の言語記号論的可能性を拡張する (expand the semiotic potential) 活用力 (capacity) をもっており、ただ単に既成の体系 (a ready-made system) に合わせる (conform) のではない。 (p. 27)

14 発達には学習者の個人内と個人間でかなりのばらつきがある (intra- and inter-learner variability) 。それぞれの発達の軌跡 (developmental trajectory) は唯一 (unique) のものである。ゆえに、私たちは集団 (a group) の水準で主張をすることができたとしても、その主張が個々人に当てはまることを仮定することはできない。(しかしながら、個々の学習者から距離を置くことによって、さまざまな学習者特性 (learner profiles) を作り上げることは可能なのかもしれない)。  (p. 27)

15 さらに言うなら、いわゆる個人差 (individual differences) は固定的で一枚板の特性 (stable and monolithic traits) ではない。 (p. 27)

 21 さまざまな対話者との相互作用の歴史が経験の集積 (collections of experiences) となり、それが言語的・認知的・情感的・イデオロギー的な資源 (language, cognitive, affective, and ideological resources) になり、人はその資源を使用する。 (p. 27)

22 これらの資源の中には、身体的 (physical) (例えば身振りの使用)な資源もあれば、象徴的で複数の様態に関わる (symbolic and multimodal) 資源もある。 (p. 27)

 23 複合的なシステムにおいて重要なのは、そのシステムを構成する要素の相互依存的な関係 (interdependent relationship) である。そのような関係に注目することにより、効率的な因果性という単一存在的概念 (single-entity notions of efficient causality) は必然的に拒否される。 (p. 27)





追記 (2018/07/18)
上記のOverton  (2007) について若干の情報を補足しておきます。

■ メタ理論の特徴[要旨]
メタ理論はどの理論や方法に対しても存在する (ubiquitous) ものであり、モデル (models) やパラダイム (paradigms) とも呼ばれる。メタ理論にはいくつかの階層があるが、そのもっとも高次なものは世界観 (world view) と通常呼ばれる。 (p. 154)

■ メタ理論[翻訳]
いかなる分野においても、論理的一貫性と概念的連動性は体系化された実証的知識(すなわち科学的知識)の本体の根本的な特徴である。メタ理論はこの一貫性と連動性の源となるが、それはメタ理論が分野のもっとも基礎的なカテゴリーや構成概念を制定するからである。したがって、作動しているメタ理論を正確に解明することが、いかなる分野においても重要である。
In any field, logical consistency and conceptual coherence are fundamental features of the body of systematized empirical knowledge that is scientific knowledge. Metatheories are the source [of] this consistency and coherence because they establish the field's most basic categories and constructs. Consequently, a precise clarification of the metatheories operating within any field is critical.  (p. 155)