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2019年1月25日金曜日

「想い」がなければことばは生まれない -- ワークショップの感想から



先日、某所で小学校と中学校の英語担当の先生方のためのワークショップを開催しました。

理論を説明してからワークショップに入るのではなく、ワークショップを最初にやったからか、あるいは少人数のいい雰囲気の中でやったからか、いつも以上によい反応をいただきました。ありがたい限りです。

ワークショップでは中学1年生用のある英語教科書のユニットを音読することをしました。音読の際には、「活字の背後にありありと映像が描けるぐらいに英語をきちんと読もう。教科書の英文が曖昧なら、どんどん突っ込んで英文を改善しよう」といった趣旨で行いました。具体的には冠詞の違い、動詞の選択、可能な意味範囲の特定などについて徹底的に英語に即して考えることを試みました。

以下は主催者の方に送ってもらったすべての感想です。

 『生きた英語』、『使える英語』とよく言われるけれど、自分の生活、感情、意識にどこかで紐づけられた表現を教えるにはどうするか、学び方の一つの手段として子どもたちに上手に提供したいなと思います。想いをのせたことばを(英語を)使うことを意識します。(中学校)

 「あたま」だけを使って「わかった」ことを「わかった」としてしまうことの危険性をひしひしと感じました。英語教育だけではなく、人間教育、人の幸福とは?にかかわる問題であり、教育者のみならず学習者も、その他の人々とも分かち合いたいです。(外国語支援員)

 英語を初めて習う子どもたちは、わかりたくてうずうずしているが、いざ文章が長くなり、書く必要が出てきて、難しいと感じ、コツコツ勉強しないとついていけないことが分かると「どうせ将来、英語なんか使わへんし」と言い訳するようになる。でも、自分の興味のある分野であればしんどいことも頑張れるようになるはずなので、そこに近づけるような授業を考える必要があると思いました。(中学校)

 今まで授業での音読活動で今日ほど意識して読んだことがなかったのでとても新鮮で勉強になりました。自分の生活に引き寄せて音読をしたり、たまに深く読んでみたりしながら、子どもたちが興味を持ちながら授業を受けることができるようにしたいなぁと思いました。今日はありがとうございました。(中学校)

 ありがとうございます。しみ~っとさせられました。「しなくてはならないこと」「やりたいこと」のバランス大切にしたいです。「想い」。。。ことば。。。いっぱい学びました。
Readingの「練習」ってゆったらダメな時もありますね・・・。(中学校)

 教科書の「朗読」がこんなにも奥深いとは・・・。単語ひとつでどんどん深く考えられるなと勉強になりました。次から少しずつ実践してみたいです。
英語を使って自分を表現できるように(生徒が)するのが私の目標です。そこに感情をのせられるように日々しかけを考えていきたいです。ありがとうございました。
(つっこみは大好きです)(中学校)

 今回の講演を聴いて、理論上では分かりますが実際に実践していくとなるとなかなか難しい部分もあると思うので、少しずつ取り入れていけたらと思いました。本日はありがとうございました。(中学校)

 言語形式で終わらせず、ことばまでつなげていける授業をしていこうと改めて思いました。文と発話の違いをすごくわかりやすく教えていただき、そして想いがないと言葉がうまれないということはすごく納得できました。ありがとうございました。(中学校)

 奥の深い教科書の読み方の例を示していただきました。ついつい教科書をそのまま教えてしまいがちになっている自分に反省しました。「教科書がすべて正しい」のではなく、突っ込みどころを探していけたらと思います。
(中学校)

 “「想い」がないとことばは生まれない”
相手の状況(表情)が見えるような言語(ことば)の活動を大切にしていきたい。今、子どもたちは人以外の“もの”と対応したり、”会話“したりすることが多いように思われる(ゲームやその他の機器)。生身の相手を意識しながらコミュニケーションをとることが大切だと思いました。ありがとうございました。(小学校 校長)

 「ことば」は想いを他人が認識できる形式に翻訳したもの。「ことば」は体あってのもの。文字は「ことば」を視覚的に再現できるようにしたもの。どの言葉も「なるほど!そうか!」と納得しながら拝聴しました。広島平和記念公園で平和についてのメッセージを子どもたちがもらうために行ったインタビュー活動では、英語という言葉を介していろんな国の人たちと小学生が平和への熱い思いを共有しました。その文字を通して、実際にその人たちと会っていない中三生がその熱い思いを感じとることができました。(中三が外国の人たちのメッセージを訳してくれました。)ことばって想いを伝えるものなんだ、それが英語を学び始めて日が浅い小学生にも実感できました。「なんとかして伝えようとしたら伝わるものやねんなぁ」「俺らの英語が通じたんやで」「なんで英語を勉強しなあかんかがめっちゃ分かった」「話すって楽しいなぁ」「世界中の人が私たちと同じように考えているのが分かってうれしい」・・・前のめりでほっぺたを赤くして嬉しそうに話す子どもたちを見ていると「からだ」「こころ」「あたま」だ!と実感しました。私たち小学校教員は「言語形式の教育」というよりも「ことばの教育」をしていかないと!と改めて強く強く思いました。(小学校)

 ジェスチャーの話がとても印象に残っています。指導をしていきたいと思うので、心から生まれるものということを大切にしていきたいです。
 すべては心や伝えたい気持ちを大切にして、いきいきと言語活動を楽しむ子どもたちを育てたいです。
 今日は貴重な話をありがとうございました。(中学校)

 本日はありがとうございました。
 途中からの参加になってしまい、前半部分は分からないのですが、、、面白かったのですが難しかったです。
 本当にからだやこころから楽しめる興味のある授業をしたいですが、時間との戦いだなーと思います。(中学校)

 自分の授業ではなかなか内容の表層を触るのみで、内容について深く考えさせることはできていないので、内容を感情で理解し[以下なし](中学校)

 今回のお話を聞いて「想い」があるからこそ言葉が生まれるということを改めて感じました。実際の現場でテスト範囲などにおわれ時間に制限がかかることで、なかなかその「想い」から言葉を引き出す授業展開ができず、悩んでいるところがあります。しかし、その「想い」があって言葉を話すというのは、非常に大切であり、教育にとって必要な部分であるので、今後バランスをとりながら考えていこうと思います。ありがとうございました。(中学校)

 今日のお話を聞いて、教科書をもっと研究したいと思いました。重要な文法、教えるべきポイントのみにこだわらず、文章全体を、英語を関連づけて考えたいです。お話ありがとうございました。(中学校)

 人間の言葉の大切さを教えていただきました。AIにとってかわるかもしれない語学にならないように、本質の言葉を教えることができる小学校英語を作ることができたらと思います。(小学校)

 講義を聞きながら、自分の授業と比べていました。ただ単にRepeatをさせて、ペアReadingを交えて、“棒読み”になってしまう傾向があるように思いました。生徒が思わず体を使いたくなるような方法にするために、英語の奥にキャラクターを深く設定したり、実生活とリンクしながら実践していこうと思いました。生徒に“想い”をことばにする事ができるように努力、挑戦していきます!(中学校)

 教科書を深掘りするのが楽しかったです。普段から授業で取り入れたいです。もっともっと自分自身が英語を勉強しなければと感じました。(中学校)

 自分の授業が『言語形式』にまだまだベースを置いていることを改めて感じさせられました。『ことば』として英語を使えるようにさせていく工夫がまだまだ足りないので、今日聞いたことを参考に授業改善をしていきたいと思いました。また、後半のことばについての哲学的なお話も言語を扱う人間として大事なことを再認識させられました。(中学校)

 学生時代に、おもしろい例文を考えてほしくて実際にありえないけど考えるとおもしろい英文を作ってみると、とても叱られました。その日以来、おおげさに面白くなりそうな場面を英語にすることをやめたのですが、今日は勇気を頂いた気分になりました。また自分の本心から、自分の体から湧いた想いを英文に載せて伝えたいと思います。まずは自分から『ことば』を目の前の子どもに伝えようと思いました。(小学校)

 ご講演ありがとうご合いました。教科書の本文を取り扱うたびに、悩まされます。どうしたら興味を持ってもらえるだろう。楽しんでもらえるだろう。意欲を持たせられるだろうと考えます。今回のUNIT11-1だけでも、自分では全く気付くことができなかったポイントがどんどん出てきて、今までの自分の教材研究の甘さを感じました。(中学校)

 心でキャッチできないからだもあると思うのですが、それも知りたいなあと思いました。言葉を教える仕事にすごい大きな意欲と誇りがあることに「はた!」と気づかされました。(外国語支援員)

 子どもたちが英語に興味を持つには、どのようにすればよいか授業のたびに考えております。今日の先生のお話を伺い、ヒントをいただきました。すぐに授業に生かせるよう、頑張ります。小学生の子供たちが、英語に興味を持ち中学校英語に進んでいけるよう授業の方法を練り考えます。(小学校)

 感情をこめて読む、読ませる意識が低かったと今日のお話を聞かせていただき、気が付きました。aとthe、単語のニュアンス違い等こそを感じるのが英語の楽しみの一つだと思っています。テストで、文法問題などをひたすら解くことではないと思っています。おもしろおかしい英文を作ることから試していきたいと思います。本日はありがとうございました。(中学校)

 私は、英語教育と音楽教育は根っこの部分では全く同じだと感じ、明日からの授業にそれぞれの発想をどんどん生かし合っていけばより素晴らしいものになると、大きな気づきをいただきました。ありがとうございました。(中学校)

 学問とはそもそも必要だから習得するもの。学校で習うから、試験があるからといった目先のことにとらわれ過ぎていたなと思いました。コミュニケーションツールとしての英語を大切にして授業に臨みたいと思いました。(小学校)

 以下は、当日使ったスライドです。ご覧いただければわかりますように、これまで私がいろいろなところで使ったものをまとめなおしたものですが、ジェスチャーに関する図解などは新しくしております。

 

早いもので下の本を出版させていただいてからもう少しで4年になりますが、内容は古びていない、いや、ますます進行する英語学習の形骸化でむしろ重要性は増しているのではないかとも思っています(←親バカ的身びいき 笑)。もしまだお読みでない方がいらっしゃいましたら、ぜひご一読をお願いします。



 



2019年1月7日月曜日

当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --



前の記事(当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省)でも書いたことですが、「たとえ善意からでも、周りの人間は、あることで苦しむ当事者の苦労を奪ってしまってはいけない」という命題は、私にとって重い問いかけとなりました。そうやって考えているうちに、直観的に「ユングを再読してみればいいのでは」と思い、英語で書かれ、かつ入門書的な本であるという二重の意味でユングには珍しい『分析心理学入門』 (Analytical Psychology) を再読しました。

関連記事:C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

ここではその再読から学んだことを、(1) 弱さや苦労の意味、 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない、(3) 改めて当事者研究について考える、の三点からまとめてみたいと思います。ちなみに再読は、まず翻訳書を読み、重要な箇所に線を引き直し、線を引いた箇所を原著でも読むという方法を取りました。このように翻訳書には大変お世話になりましたが、以下の訳出は私が訳したものです。なお原著は、ドイツ語話者のユングが講演で語った英語をそのまま書き起こしたものなので、完全に母語話者が言うような文法文になっていない箇所もあることをお断りしておきます。


(1) 弱さや苦労の意味

ユングは、人間の心がもつ態度を、自分の関心が自分の外の出来事に向かう「外向型」と内の出来事に向かう「内向型」の二つのタイプに大別しましたが、心がもつ機能については思考・感情・感覚・直観の四つに分けました。私なりに簡単にまとめるなら、「思考」は法則に即して体系的に推論を進めること、「感情」はあることの価値 (value) を認識すること、「感覚」とは実在物の様子を知ること、「直観」とは物事の全体的な見通しを瞬時に得ることと言えましょうか。

さらにこの四つの機能は、法則や価値で「割り切れる」という意味で思考と感情が「合理的」であり、ただ実在したり一気に直覚したりできるだけであり法則や価値では「割り切れない」という意味で感覚と直観が「非合理的」(あるいは合理外的)であるとも言われます。

人間はしばしば四つの機能のどれか一つを自ら得意とする主要機能としますが、そのことによって、その機能ではない同種の機能が不得手な機能になります。例えば思考機能に長けた人は、それと同種の合理的機能である感情機能が劣ることが多く、抽象的な理屈をどんどん展開することができても、物事の価値を細やかに認識することを苦手としたりします。

主要機能とは別種の機能にも得手不得手はしばしばあり、例えば上記の人は、(思考ほどではないにせよ)直観に優れる一方感覚に劣り、突然に物事の見通しを得たりするものの、物事の実情には無頓着なままであったりします。この場合は、直観が補助機能となります。

参考記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html

ユング自身はおそらく内向型で直観や思考を得意とする人だったと思われますが、ユング自身はそれらのタイプを人間の多様性としてとらえ、それら自身に優越を見出していません。ただ、ある特定の個人においては、ある態度や機能において心がよく働き、その逆の態度や機能において心が不器用にしか動かないというだけです。ですからその劣位機能がその人の弱さとなり苦労のもととなります。

拙訳:
私が四つの機能[思考・感情・感覚・直観]のうちのどれかに重きをおいているという印象を与えていたのでなければよいがと思っています。ある個人の中で支配的な機能というのは常に、もっとも分化した[=細かく使い分けられている]機能であり、どの機能でも支配的な機能になりうるのです。機能の特性だけから、この機能やあの機能こそがもっとも優れたものであるなどと言える基準などありません。私たちが言えるのは、ある個人の中でもっとも分化した機能が、その人が人生に適応するための最上の機能であり、その優位機能によってもっとも排除された機能が、ないがしろにされているという意味で劣位機能であるということだけです。

原文:
I hope I did not give you the impression that I was giving a preference to any of the functions. The dominating function in a given individual is always the most differentiated function, and that can by any function. We have absolutely no criterion by which we can say this or that function in itself is the best. We can only say that the differentiated function in the individual is the best for adapting, and that the one that is most excluded by the superior function is inferior on account of being neglected. (p. 62)


一般に人間の成長は劣位の態度や機能をも発達させることだと考えられますが(ストー (1992) 『人格の成熟』岩波書店)、ユングは人間がすべての面において完璧になり劣位の態度や機能をもたなくなることはないと考えます。

さらに重要なのは、人間は劣位の機能 -- 下でユングは態度のことについては語ってはいません -- という弱さをもち、それによって苦労することによって無意識とつながることができることです。人間は、強みである優位な機能を意識的に使いこなして人生に適応しますが、他方で弱みである劣位機能に振り回されて -- たとえば感情が劣位機能である人は、ある価値を突然狂信したりします -- 辛労を重ね、自らがまだ意識化していない無意識の力にさらされます。ユングにしたがえば、人間の無意識には個人的無意識と普遍的(集団的)無意識がありますから、劣位機能で苦労をするということは、その人の無自覚な側面だけでなく人間一般とつながることになります。

拙訳:
四つの機能をすべて同じように分化させて細かに使い分けるというのは人間には不可能だと私は考えています。もしそんなことができるとしたら私たちは神のように完璧な存在ということになるでしょう。そんなことはできるわけありません。どんな水晶にも必ず傷があるものです。私たちが完璧になることはありません。さらに、もし私たちが四つの機能を同等に分化させることが仮にできたとしても、それは私たちが四つの機能を意識的に操作できる機能にしたということにすぎません。しかし、そうなってしまえば、私たちは、必ず自分たちの弱点となっている劣位機能を通じて無意識とつながることができるという貴重な結びつきを失ってしまうことになります。弱々しさや能力不足を通じてのみ私たちは無意識とつながることができます。それは本能という[意識からすれば]低次の世界とつながることでもありますし、私たちの仲間とつながるということでもあります。私たちの強みは、私たちを独立した存在にするだけです。独立した私たちは他人を必要としなくなり、私たちは王様になります。しかし私たちは劣位機能によって本能の世界だけでなく人間一般と結びつくのです。

原文:
 I do not believe that it is humanly possible to differentiate all four functions alike, otherwise we would be perfect like God, and that surely will not happen. There will always be a flaw in the crystal. We can never reach perfection. Moreover, if we could differentiate the four functions equally we should only make them into consciously disposable functions. Then we would lose the most precious connection with the unconscious through the inferior function, which is invariably the weakest; only through our feebleness and incapacity are we linked up with the unconscious, with the lower world of the instincts and with our fellow beings. Our virtues only enable us to be independent. There we do not need anybody, there we are kings; but in our inferiority we are linked up with mankind as well as with the world of our instincts. (p. 109)


劣位機能を通じての無意識の力は、周りからすれば奇異な言動だけではなく、夜に見る夢や、はなはだしい場合は神経症といった形で出現するとユングは考えます。そうなると神経症といった苦労も、実はそれまでその人によって疎んじられていた無意識が発現しようとする自己実現の試みの一部、あるいは少なくとも、主要機能ばかりが使われることに対する補償の試みであると考えられます。これこそがユング的解釈による「弱さや苦労の意味」とは言えませんでしょうか?

拙訳:
ヘンリー・ディックス博士
ユング教授、それならばあなたは、神経症の発症は自己治癒の試みであり、劣位機能を前面に出すことによって[人間の全体性を]補償していると考えていると、私たちは考えてよろしいのでしょうか?

ユング教授
まったくその通りです。

ディックス博士
そうなりますと、神経症という病が発症することは、人間の成長からすれば、好ましいことであるとなりますが、この理解で正しいですか?

ユング教授
そうです。あなたがその考えを出してくれたことを私はありがたく思っています。それこそが私の考え方なのです。私は神経症について全面的に悲観しているのではありません。多くの場合、私たちは「神に感謝だ。彼は神経症になる決断をしてくれた」と言わなければならないほどです。神経症はまさに自己治癒の試みなのです。これは身体の病気が少なくともその一部において自己治癒の試みであることとまったく同じです。(中略)神経症は自己制御的な心的システムがバランスを回復する試みなのです。神経症は夢の機能となんら異なるものではありません--ただ神経症の方が夢よりも強力で過激なだけです。

原文:

Dr Henry V. Dicks: 
I think we can assume then, Professor Jung, that you regard the outbreak of a neurosis as an attempt at self-cure, as an attempt at compensation by bringing out the inferior function?

Professor Jung:
Absolutely.

Dr Dick:
I understand, then, that the outbreak of a neurotic illness, from the point of view of man's development, is something favourable?

Professor Jung:
That is so, and I am glad you bring up that idea. That is really my point of view. I am not altogether pessimistic about neurosis. In many cases we have to say: 'Thank heaven he could make up his mind to be neurotic'. Neurosis is really an attempt at self-cure, just as any physical disease is partly an attempt at self-cure. (p. 189) ... It [=neurosis] is an attempt of the self-regulating psychic system to restore the balance, in no way different from the function of dreams -- only rather more forceful and drastic. (190)


 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない

もし自分の弱さを通じて苦労することが、その人の自己治癒 -- さらに拡張して言うならホメオスタシスやオートポイエーシス -- の営みであるとするなら、その苦労の当事者はその苦労を徹底的に経験して自分の弱さを自覚することが必要であるとなるでしょう。もちろん、命を落としかねないような状況には直接的介入が必要です。しかしそれほどの目に見えての危険性がないのなら、周りの人間は、その当事者の自己治癒の試みを注意深く見守るべきなのかもしれません。周りの者がたとえ善意からとはいえ、当事者の苦労を一方的に取り上げてしまうように解決・解消してしまうことは、長期的に見ればその当事者の可能性を奪ってしまうことになるかもしれないという自覚が必要なのかもしれません。

拙訳:
当然のことながら、私は患者のために最善を尽くします。しかし心理学[精神医学]において非常に重要なことは、医者はなんとしてでも患者を治そうとするべきではないということなのです。自分の意志や革新を患者に押し付けないように細心の注意を払わなければなりません。患者にはある程度の自由を与えなければなりません。人をその人の運命から引き離してしまうことなどできません。これは今死すべきと自然が定めた患者を医者が治療することができないのと同じことです。時にこれは、あなたには、患者がさらに成長するためにくぐり抜けなければならない運命から患者をすくい上げることが許されているのかという問いになります。ある種の人々の気質の中にひどく馬鹿げたことが刻み込まれている場合、それらの人々がその馬鹿げたことを犯してしまうことを止めることはできません。もし私がその馬鹿げたことをそれらの人々から取り上げてしまったら、それらの人々には長所がなくなってしまいます。ありのままの自分を受け入れ、私たちに委託された人生を真剣に生きることによってのみ、私たちは自らの長所を獲得し心理的に成長することができます。私たちの罪、過ち、間違いは私たちにとって必要なものなのです。これらがなければ私たちは成長へのもっとも貴重なきっかけを失ってしまいます。

原文:
I naturally try to do my best for my patients, but in psychology it is very important that the doctor should not strive to heal at all costs. One has to be exceedingly careful not to impose one's own will and conviction on the patient. We have to give him a certain amount of freedom. You can't wrest people away from their fate, just as in medicine you cannot cure a patient if nature means him to die. Sometimes it is really a question whether you  are allowed to rescue a man from the fate he must undergo for the sake of his further development. You cannot save certain people from committing terrible nonsense because it is in their grain. If I take it away they have no merit. We only gain merit and psychological development by accepting ourselves as we are and by being serious enough to live the lives we are trusted with. Our sins and errors and mistakes are necessary to us, otherwise we are deprived of the most precious incentives to development. (p. 147)


こういったユングの方針は、冷たくも思えます。しかし、周りの者(特に権力者)が当事者の意思にお構いなくいわば父権主義的に当事者を自分の苦労から引き離してしまうことこそが、実は当事者にとっては冷たい自己満足的な行為なのかもしれません。一知半解のユング読解から単純な結論を引き出すことは危険ですが、治療者や教育者が自らの「善意」に対する懐疑をもつこと、そして当事者の人生に対する敬意を忘れないことは、重要なことではないかと私は考え始めました。

拙訳:
どんな人の中にも、自分にとって正しいものを選ぶことを手助けしてくれる意志があるのだと私は信じています。ある人を治療している時、私はその人を私の見解や私の性格で打ちのめしてしまわないように細心の注意を払わなければなりません。なぜならその人はその人の生涯を通じて一人で戦い続けなければならないからです。ひょっとしたら、その人の鎧は不完全きわまりなく、目的も欠点だらけかもしれません。私がそこで「それは駄目だ。もっといいものにしなければ」と言ってしまえば、私はその人から勇気を奪ってしまうことになります。その人は自分の畑を耕すのに、ひょっとしたら駄目な鍬しかもっていないのかもしれません。私の鍬の方がよいものなのかもしれません。しかしその人にとってそれが何だというのでしょう?その人は私の鍬をもっているわけではないのです。それをもっているのは私であり、その人は私の鍬を借りることはできないのです。その人はその人自身のおそらくは不完全きわまりない道具を使わなければならず、それがどんなものであれ自分が受け継いだ才能でもって働かなければならないのです。もちろん私は手助けします。例えば私はこう言うかもしれません。「あなたの考え方はまったくもってよいものです。でもひょっとすれば別の観点からすれば、あなたにはまだ進歩の余地があるのかもしれません」。しかしもしその人がこのことばに耳を傾けようとしないなら、私はこの助言にこだわりません。その人が自分の運命から逸れてゆくことを私は望まないからです。

原文:
I trust that there is a will to live in everybody which will help them to choose the thing that is right for them. When I am treating a man I must be exceedingly careful not to knock him down with my views or my personality, because he has to fight his lonely fight through life and he must be able to trust in his perhaps very incomplete armour and in his own perhaps very imperfect aim. When I say, 'That is not good and should be better', I deprive him of courage. He must plough his field with a plough that is not good perhaps; mine may be better, but what good is it to him? He has not got my plough, I have it and he cannot borrow it; he must use his own perhaps very incomplete tools and has to work with his own inherited capacities, whatever they are. I help him of course, I may say for instance: 'Your thinking is perfectly good, but perhaps in another respect you could improve'. If he does not want to hear it, I shall not insist because I do not want to make him deviate. (p. 148)


(3) 改めて当事者研究について考える

今回のユング『分析心理学』再読が、自分が当事者研究のファシリテーターをしてからの反省に端を発するものであることは冒頭で述べたとおりですが、今回の読書を通じて、当事者研究の15の原則のうち、「自分自身で、共に」、「"治す"よりも"活かす"」、「初心対等」、「主観・反転・"非"常識」などについて考え直す機会を得たと思っています。

特に「自分自身で、共に」については、当事者自身の人生について、当事者自身(狭義の当事者)が主体性を保ち、周囲の者(広義の当事者)がその人生への敬意を忘れないことが大切であるように思います。

「"治す"よりも"活かす"」については、人間の「正常化」 (normalization) よりも、「個性化」 (individuation) を大切にすることに重きを置く価値観について考えさせられました。ひょっとすると教育や治療といった営みは、人間の「正常化」と「個性化」という対立軸で考えると面白いかもしれません。

ただ「正常化」も「個性化」も大きな概念です。「正常化」についてはフーコーや(ノート作成が途中で止まってしまっている)ローズの論考を参考に考えてゆきたいですし、「個性化」についてはそれこそユングの重要概念ですから、これからよく勉強せねばなりません。

Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

「初心対等」については経験を積んだものが謙虚になる意識的な努力の重要性、「主観・反転・"非"常識」については支配的な世間の価値観に呑み込まれてしまわないことの重要性について考えさせられました。


追記
以下のユングのことばは、内向型直観-思考タイプの私にとって非常に共感できるものですので、ここに引用しておきます(笑)。

拙訳:
しかしどうなったら私が神経症的になってしまうかについては私はよくわかっています。自分自身に基づかないことを語ったり信じたりすると私は神経症的になってしまうのです。私は自分で見て理解したことを語ります。誰かがそれに同意してくれれば嬉しく思いますが、もし誰もそれに同意しなくても別にかまいません。

原文:
But I know exactly how I could make myself neurotic: if I said or believed something that is not myself. I say what I see, and if somebody agrees with me it pleases me and if nobody agrees it is indifferent to me. (p. 141)


同じようなことばは、以前、ジャズミュージシャンのパット・メセニーが言っていたことも思い出します。

こういった傾向は、内向型の特徴の一つでしょうから、私としてもこういった自分の傾向を自覚した上で、外向型の態度を少しずつ学ばねばと思います。






関連記事(ユング関連)

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
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C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
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C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
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C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
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C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
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小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
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河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
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村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
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小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
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当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
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熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
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熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
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樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html
8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
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当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
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2018年12月19日水曜日

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省



 英語教師志望者による当事者研究を促進するため、先日私は、ファシリテーターとして当事者研究に参加し、その様子を学生さんに見てもらいました。当事者研究のあり方を具体的に理解してもらうことが目的でした。ですが、自分自身で振り返ってみたり、学生さんからのフィードバックを受けてみたりすると、今回はあるべき当事者研究の姿から少し離れた当事者研究になっていたように思えます。昨年度の私は問題を抱える当事者として当事者研究に参加しましたが、その経験と比較すると、私にとってはファシリテーターである方が、自分の弱みを公開するよりもはるかに難しいことでした。

 以下、このような失敗を繰り返さないために、研究・当事者の主体性・物理的条件・パフォーマンス・エゴ・複数性という6つの視点から分析的に反省したいと思います。


(1) 研究

 私が今回ファシリテーターとして参加するにあたって、一番気にしていたのが、語り合いを「研究」にしなければならない、ということでした。私はこれまで学生さんとの個人面談をおそらく数百回行い、実際、先日も当事者研究を行う前にある人との個人面談を行っていました。特にその個人面談では、問題が大きかったため、私はその問題の様子を共感的に聞くことがほとんどでした。一つ二つは、「もし問題が悪化した場合は○○の方法を取ることも考えた方がよいかもしれない」といった助言はしましたが、基本的には共感的傾聴を行い、それが他の個人面談でも原則となっていると私は考えています。(ここでは詳細は割愛しますが、私も以前は助言が多かったのですが、ある時期を境に聞くことの方が多くなりました)。

 ですから私は個人面談についてはある程度の経験をもっています。しかし、私の認識では、個人面談と(当事者)研究は異なります。今書きながら洞察を得たのですが、研究に関する私の信念は、「ある明確な理解を得なければならない」、「そのためにはさまざまな仮説を次々に出して、それを一つ一つ検討することが有効である」といったもののようです。そのため、私は今回の当事者研究でファシリテーターとして次々に「それはこういうことだろうか?」、「一般的にはこのようなケースがよくあるが、それが当てはまるとは言えないだろうか?」、「この解釈はどうだろうか」といった仮説を提示しました。

 最終的にはそのように私が仮説的に提示した「病名」が問題を抱える当事者にもそれなりに受け入れられましたが、後の振り返りでは、当事者から「あまりに多くの仮説を出されて、それが外れていると、『この人は自分の話を聞いてくれていないのではないか』とすら思えてきた」という指摘がありました。これは今回の私の試みでもっとも反省すべき点だと思います。

 当事者研究は「研究」とはいえ、合理的に仮説生成・検証を繰り返すばかりの営みではないでしょう。当事者研究において重要なのは、ファシリテーターや聞き手が「仲間」になること、つまり、当事者の主観をしっかりと受け入れて、自分が本来は無力であるという謙虚な態度になることだと考えます。

 これは私が前の週に説明しただけでなく、先日の当事者研究の直前にも述べていたことでしたが、私は今回それを十分に体現できていなかったことになります。

 言い訳めいたことを述べるなら、私が日頃一人で行っている「研究」の習慣が、無意識のうちに当事者研究にも過剰に入り込んでいたのかもしれません。しかし当事者研究は、何らかの苦しみを抱えている「当事者」と共に行う営みですから、私は当事者の苦しみや気持ちにもっとよりそうべきだったのかもしれません。

 実は、当事者研究の最初に、当事者からの問題が提示されたとき、私の中では、(a) 当事者の「苦しい」というのはどのような状況であるかをもっと聞き出そうかという選択肢と、(b) 当事者のこの問題と類比的(アナロジカル)であるはずの別の問題との対比から考えてみるという選択肢の二つが私の心の中に去来していました。私は主知的に (b) を選びましたが、それが今回の当事者研究の流れを大きく決めてしまったのかもしれません。もっと情感的な (a) を選んでいたら多少は流れも変わっていたのかもしれません。

 ここで改めて向谷地生良先生による当事者研究のまとめを読み直すと、私の「研究」の理解が原因追求の方に傾き、問題への対処の方に向いていないことに気づきました。


当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)


 これを読み返してみると、当事者研究とは「ジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉える」ものであり「自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじ」、当事者が「「苦労の主人公」になること」を大切にしているといった表現が改めて目に入ってきます。どんな当事者も「自分の専門家」であるから、他の人間はむやみにその人から苦労を奪ってしまってはいけない(それはその人からその人の人生を奪うことなのかもしれない)とも思えてきます。向谷地先生は、当事者研究の最大のポイントは「当事者自身が、自らのかかえるさまざまな生きづらさに対して、周囲の過剰な保護や管理から脱して、自律的、研究的に担い、対処をしていこうとする前向きな動機を育て、持ち続けることにある」とも言います。

 そんな向谷地先生は、当事者研究の進め方を5段階にまとめています。私なりに言い換えますと次のようになります。


(a) 「問題」の理解:繰り返し生じる出来事のパターンを記述し、そこで起きている「問題」の意味(そのことが示しているかもしれない可能性)を探る。

(b) 従来の対処法の確認:これまで自分がその「問題」にどのように対処してきたかを確認する。

(c) 従来の対処法の評価:従来の対処法に満足しているかを確かめ、満足していなければ次のステップに進む。

(d) 新たな対処法の創造:新たな対処法を具体的に考案し、必要な場合はその練習をしてみる。

(e) 新たな対処法の検討:新たな対処法にも満足ゆかなければ、(a) に戻る。


図示したら次のようになりましょうか。



 こうしてまとめてみると、当事者研究とはきわめて実際的な研究であり、根本原因の究明などよりも、まずは自分をどうやって助けるかを考案する実務的な研究であるように思えます。ある意味、ブッダの「毒矢のたとえ」を思い起こさせます。


 例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。

あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/cula-malunkyaputta-sutta/


 かといって、当事者研究は、単なる問題解決だけを目指しているわけでもありません。(a) における「問題」の意味の理解が重要です。すなわち、世間的には「困った」とされる「問題」が当事者に提示しているかもしれない潜在的な可能性を探究することが当事者研究を、他の問題解決モデルとは異なるものにしていると思われます。

 ずいぶん長くなりました。次のポイントに移りましょう。


(2) 当事者の主体性

 上には私が自分の個人研究スタイルを当事者研究に持ち込んでしまったことについて書きましたが、さらに私が反省すべきことを新たに第二点としてまとめますなら、私は、次々に仮説を出すことで、当事者の主体性を奪ってしまっていたのかもしれません。(内容は少し上とかぶってしまうところもありますが、そこはご容赦ください)。

 当事者研究において大切なことは、to think "with" the person in focusであり、to think "for" the person in focusではありません。当事者と「共に」 考えるのであって、当事者の「代わりに」考えてしまってはいけません。

 もちろん当事者は自分自身の苦労の中で困惑して様々なものが見えにくくなっているわけですから、仲間が助け舟を出すことは重要です。しかしそれも程度問題で、やはり基本的な原則は、「当事者の苦労は当事者のものであり、他人がその苦労の解決を横取りしてはならない」というものではないでしょうか。

 この点で、仲間は当事者に代わって考えてしまうことに対しては抑制的であるべきかとも思えます。当事者の主体性が伸長するような環境を皆でつくりあげることが当事者研究の基盤であるように思えます。

 ここで当事者研究を超えて、教育指導について話を脱線させてしまうことをお許しください。私は個人で研究をしている以外に、学生さんの論文執筆についての教育指導をしています。論文はもちろん、学生さんが書くものですが、論文執筆に慣れない学生さんはしばしば(というよりほとんどの場合)どのようなストーリーで論文をまとめるかという筋道を見つけることがなかなかできません。

 私は学生さんの論文構想を聞きながらコメントをします。大人数での指導(大学院で「特研」と呼ばれる合同ゼミ)では個別の疑問点や一般的指針を述べるぐらいのコメントにとどまりますが、一対一の個人指導では、私はしばしば学生さんの代わりにストーリーを考えます。学生さんはそれを吟味し納得したら、それを学生さんが自分の論文のストーリーとして論文を執筆することがしばしばあります。

 研究の着想(ストーリー)を指導教官が示すことは、研究倫理上は問題ないと考えています。研究として大切なのは着想の後の論証であり実証であるからです。しかし学生さんの底力を上げるには、この方法はよくないとは実は私は長年自覚はしています。私は自らのストーリーを一切提示することなく、学生さんに大いに苦しんでもらうことの方が実は学生さんに対して親切なのではないかとも思っています。とはいえ、修学年数は限られていますし、留年するコストは非常に高いわけですから、私は締切優先で、自らのストーリーを学生さんに提示してしまっています。ですが、この私のやり方についても再検討が必要なのかもしれません。ストーリーの考案については、「すべてを学生さん(当事者)に委ねる」ぐらいに考えた方がいいのかもしれません。

 ただ、「すべてを委ねる」というのを理想化してもいけないと思います。武術の例で考えることをお許しください。武術において天才的な開祖は、弟子にほとんど何も教えず模範演技を示すだけのことが多くあります。しかしそれでは多くの人間が技を体得できないままになりますので、しばしば二代目は技を体系化したり言語化したりして教えます。そうでなければ、開祖の見事な技は継承されず、下手をすれば似て非なる猿真似ばかりが蔓延するからです。

 二代目による技の体系化・言語化により少なくとも一定数の弟子は開祖の技をそれなりに継承できます。ところが三代目・四代目・・・と、その「教える」文化が進むと、弟子はその体系化・言語化された内容を受け身で学ぶだけになります。そうなるとそれなりの技術は多くの人に習得されるようになるのですが、天才が出なくなります。技の革新がなくなり武術全体が停滞してしまいます。こうなるとやはり「教える」こと、すなわち弟子(当事者)が苦しんで考えながら発見する代わりに効率よくヒントや答えを与えてしまうことの弊害が出てくるように思えます。

 教師からの教示と学習者の自得のバランスには再考が必要だと思います。

 別の例で考えます。既に長くなりすぎたので、短くしか述べませんが、一見したら「教えない」授業をしている福島哲也先生も、実は実に細かく学習者に即した課題の開発と提示を行っています。実際、福島先生が生徒を観察しながらずっと行っているのは、生徒の思考などの分析とそれに基づく教材観察です。「教えない」ようでいて、学習者を放任してしまうのではなく、仲間との『学び合い』の力の中に巻き込むことで、個々の学習者の力を伸ばしています。(福島先生の実践については、これから少しずつ私なりに考察を進めてゆきたいと思っています)。

 また西岡常一氏に代表されるような宮大工の徒弟制度でも、師匠は模範を示すだけで、後は「自分でやれ」と突き放し、一切教えることはしません。しかし、その背後では、弟子の生活を保証する、まずは徹底的に「見習い」をさせて弟子の意欲(「師匠のようになりたい」という想い)を育む、弟子一人ひとりの個性を見極める、やらせる課題にも配慮がある、などなどの工夫があります。

 教師・師匠はすべてを教え込んでしまってはいけませんが、ただ何もしなくていいわけではありません。一見何もしないでいるようでいて、実は教師・弟子が行っていることの解明が重要だと思います。

 再び当事者研究の話に戻しますなら、当事者の代わりに仲間が解決案を考えてしまうような当事者研究は、当事者に一時的な問題対処の方法は与えても、当事者の潜在的な力を長期的には伸ばし損ねる怖れがあります。極端なことをいうなら、当事者を解決策を示してくれる仲間に依存させてしまう恐れすらあります。やはり当事者の主体性を最優先することを忘れてはならないでしょう。それでは当事者の主体性を育むためにはどうするべきか、というのが次の点につながります。


(3) エゴ

 「当事者の主体性を尊重する」と口で言うのは簡単ですが、当事者の独自の可能性に対する畏怖がなければ、このことを実行するのは容易ではないように思えます。もしファシリテーターや仲間に、少しでも「苦しんでいない私には、苦しんでいる当事者よりも当事者のことがよく見えているはずだ」、「当事者も私が示唆するような方法を取れば多少は苦しみから逃れられるだろう」といった思いがあれば、それは当事者が、当事者自身も含めて誰も予知できなかったような独自の個性的な発展をする可能性を否定してしまうことになります。当事者が、苦しみも喜びもすべて経験することによって自らの人生を開花させる主体性を奪ってしまうことになります。

 当事者の主体性を尊重するためには、ファシリテーターや仲間がエゴをできるだけ捨て去ることが重要であるように思えます。(これは私がエゴが強いから特に感じていることかもしれません)。エゴを捨て去ることは、当事者研究の15の原則(注)から言いますと、「前向きな無力さ」や「初心対等」などで示されているように私は理解しています。

 エゴ(自己中心性、過剰な自意識、自負、うぬぼれ)というのはやっかいなもので、私などは下手に研究職にいるものですから「自分は分析ができる!」と思い込み、上に述べたように、当事者の声にもっと寄り添い、ペースに合わせ、聞き出すよりも聞き入ることが疎かになってしまいました。反省です。

 また少し脱線になりますが、上でも少し述べた『学び合い』の福島先生のお話を聞いたりワークショップに参加したりして強く感じたことは、福島先生が授業からエゴをできるだけ消そうとしていることです。それは福島先生の「指導の軸足を自分ではなく、生徒におく」ということばからもうかがえますし、先生が生徒の「学びに向かう力」を喚起するのに必要な「人間(的な)関係」として上げている以下の4つの原則からもうかがうことができます。

i)    「コントロールしない」(子どもを思い通りに動かせる対象とは考えない)
ii)   「対等な関係」(子どもも教師も人間としては平等であるから互いに敬意を払い、悪かったら素直に謝る)
iii)  「疑わない」(「この子はどうせ○○なのではないか」と予断をもって裁かない)。
iv)  「多様性を認める」(教師が思い込んでいる人間のあり方以外にもいろんな人間のあり方があることを積極的に受け入れる)。


福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」


 この4つの原則を見ていると、これらはすべて当事者研究においてもファシリテーターや仲間が心得ておくべき大切な原則であるように思えます。

 あるいは先日たまたま見たツイートも思い起こされます。



 もしくは「対話」において重要なことの一つは「決めつけないこと」 (to suspend) であるとしたボームの対話論も想起されます。


感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から


 安直な一般化には気をつけるべきかもしれませんが、当事者研究も授業も技芸伝承も対話もすべてコミュニケーションだとしてまとめるなら、そこで大切なことの一つは、各人が互いを尊重し合うために、それぞれのエゴの暴走を抑制することなのかもしれません。

 しかしそのように「コミュニケーション」を総括してしまうと、なんだか砂糖でまぶされた、単なる「いい話」になってしまいそうです。二度目の脱線はここで終えて、私がファシリテーターとして参加した当事者研究の具体的な反省に戻りましょう。


(4) 物理的条件

 当事者研究のデモンストレーションの前に、私はその日の朝たまたま読んだ新聞記事から次の一節を紹介して、当事者研究のように対話を活かした実践が世界各地にあることを示しました。



These Men Are Waiting to Share Some Feelings With You. NYT. Dec.8, 2018

 そこには "sitting and listening intently"とありますが、私が参加したデモンストレーションは立ったまま行うものでした。これは教室全体に声を届けるにはよい方法だったのかもしれませんが、そのことにより傾聴することが少しおろそかになったのかもしれません。あるいは声を張る様式では伝えられないこともあるとも言うべきでしょうか。マイクを使ってささやいたりつぶやいたりすることも容易にして、対話を座って行ったとしたら、少しは落ち着いた雰囲気で当事者研究ができたのかもしれません。

 また当日は黒板に話の流れを書き込む係も一名入れたのですが、当事者とファシリテーターはほぼ常に黒板と書き込み係を背にしていたので、うまく黒板を使うことができなかったのも失敗でした。

 当事者研究の物理的な環境が「こうでなくてはならない」とまで厳格に定められる必要はないと思いますし、当事者研究を立って行うことも「あり」だとは思いますが--実際、私が浦河で見学した当事者研究では当事者とファシリテーターは立っていました--、心身ともに無駄な力を抜いて行えるような配慮は必要だと反省しました(少なくともマイクの利用は積極的に考えた方がいいのかもしれません)。


(5) パフォーマンス

 物理的環境以上に反省すべきは、今回の当事者研究が具体例提示ということもあり、必要以上に「パフォーマンス」になってしまったのではないかということです。当事者と話し合うこと以上に、話し合いの成果を示すことに力点がおかれてしまったことです。
 
 最初の失敗は、上の立ち方とも絡みますが、当事者が最初にファシリテーターである私の方ではなく、オーディエンスである学生さんの方を向いて話を始めたことを、ファシリテーターである私がそのままにしてしまったことかと思います。今回の当事者は教師であるため、自然といつものように学生さんの方を向いて語り始めたのかもしれません。もちろん、当事者とファシリテーターの時折のアイコンタクトはありましたが、下手をすると私ですら当事者ではなくオーディエンスの方を向いて発言していたかもしれません(特に、自らの仮説を開陳する時など)。

 くわしいことはビデオ録画を見てみないとわかりませんが、今、書きながらも、私は自らが語っている内容に関してオーディエンスの同意を求めるためにオーディエンスとアイコンタクトを取っていたことを思い出します。これには、「当事者研究の効果を学生さんにも実感してもらわなければならない」といった焦りが背後にあったと思います。

 焦りという点では、「この時間内に、何らか結論めいたものを示さなければならない」という焦りもありました。私が当事者の人となりと知的能力をよく知っていたというのもありましたが、私が短時間の間にさまざまな仮説や解釈を当事者に投げかけてしまった一端にはこの焦りがあったはずです。


(6) 複数性

 最後にこれは最初からわかっていたことではありますが、今回の当事者研究デモンストレーションは、当事者・ファシリテーター・書き込み係が一名ずつという体制でやってしまい、複数の聞き手(「仲間」)という存在を欠いてしまったということも反省すべき点です。

 もし複数の「仲間」が参加していたら、それぞれがそれぞれの見解を表明することで、認識の多様性も自然と担保されるでしょうし、特定の一人(今回はファシリテーター)が張り切りすぎることも防げたかと思います。

 私が昨年度の英語教師志望学生への当事者研究実践から学んだことの一つは、学生さんは複数の聞き手がいる当事者研究では、私との個人面談とは異なる顔を見せるということでした。昨年度の学生さんは私がチューターをしていたため、私は彼ら・彼女らをそれなりに理解していると自負していたのですが、複数の聞き手が関わる当事者研究では私の知らない学生さんの姿が何度も出てきました。これには、「聞き手が教師でなく学生である」ということも関連しているでしょうが、それ以上に、「当事者が、複数の人間による多様な認識枠組みで捉えられている」ということが大きかったのではないかと私は考えています。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より



 以上が私の反省です。別の角度から私の反省をまとめて学生さんに伝えたスライドのPDFもついでながら掲載しておきます。



 当事者研究についてわかっていたようで、実はわかっていなかったことが今回の収穫でした。これからも当事者研究について学んでゆこうと思います。


(注)当事者研究の15の原則

1: 「弱さ」の情報公開
2: 「自分自身で、ともに」
3: 経験は宝
4: "治す"よりも"活かす"
5: 「笑い」の力 -- ユーモアの大切さ
6: いつでも、どこでも、いつまでも
7: 自分の苦労をみんなの苦労に
8: 前向きな無力さ
9: 「見つめる」から「眺める」へ
10: 言葉を帰る、振る舞いを変える
11: 研究は頭でしない、身体でする
12: 自分を助ける、仲間を助ける
13: 初心対等
14: 主観・反転・"非"常識
15: 「人」と「こと(問題)」をわける

関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html 

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html 

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html






2018年11月16日金曜日

言語テスト問題の政治性に関する一連のツイート



私はネット・ユーザーの中でもおそらく古い世代に入るのか、SNSはあまり好きではありません。それでも以下のツイートには反応しました。私はSNSでの「ギロン」は嫌いで原則行わないのですが、今回は私が尊敬する研究者の方でしたので、例外的に疑問を呈しました。


*****


KIT Speakee Project @KITspeakee  Nov 14
CEFRができたそもそもの目的は,ヨーロッパ地域の労働力の流動性を高めること。人は「〜ができる」材に過ぎない。人生を深めたり楽しんだり,異文化を理解して助け合ったり,そういう目的のために外国語を学ぶことは視野に入っていない。
https://twitter.com/KITspeakee/status/1062689392093888513

Yosuke YANASE (柳瀬陽介) @yosukeyanase
Replying to @KITspeakee
先生の常日頃のツイート活動に心からの敬意を表します。しかし、CEFRについてのこのツイート(「CEFRができたそもそもの目的は,ヨーロッパ地域の労働力の流動性を高めること」)は断言が過ぎるのではないでしょうか。
 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html#060616
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/06/common-european-framework-of-reference.html
https://twitter.com/yosukeyanase/status/1062856193855504385


*****


この私の疑問に対して以下のようなお返事をいただきました。

*****

KIT Speakee Project @KITspeakee  Nov 15
Replying to @yosukeyanase
率直なご指摘に心から感謝します。色々な考え方があると思います。しかし,1970年代に動きが始まり,2001年にCEFRが発表されるまでの経緯を知る者にはそう見えます。既にオープンにものが言えなくなってしまっているのが残念ですが,同様の見方をしている研究者は少なくありません。
https://twitter.com/KITspeakee/status/1062863105233838080



*****


そのご教示を受けて出したのが以下の一連のツイートです。参照の便のためにこのブログにも掲載しておきます。ツイートの個別URL掲載は省略します。


*****


1/18 先生のご教示 https://goo.gl/y16Hh1 のおかげで、McNAMARA, T. (2011), Managing learning: Authority and language assessment. Language Teaching 4,4: 500-515の存在を知り、論文を読むことができました。感謝申し上げます。

2/18 この論文の趣旨はAbstract https://goo.gl/aA3tGx に書かれているとおりで、特にCEFR成立についての論文ではないものの、論証の過程 (p. 502) で、CEFRは、人権や民主的統治システムの推進よりも、labor mobilityの方に傾斜しているという主張 がされているということを確認しました。

3/18 私は現在 http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html#060616 などにまとめた以上の知識をもっていませんので、この主張に対して先生がこのツイート https://goo.gl/y16Hh1 でおっしゃったことは納得できました。ありがとうございます。

4/18 ついでながらこの  https://goo.gl/aA3tGx  の論文で面白いと思った箇所を何箇所か引用します。

5/18 引用1:Cambridge itself is unclear about the correct calibration. ... So what is C1 on IELTS? 6? 6.5? 7? 8? (p. 505)  https://goo.gl/aA3tGx

6/18 引用2:the limiting of the goals and meaning of language learning to functional, communicative objectives ignores the role of language learning in the subjective experience of the learner as an individual with a history, both personal and cultural. (p. 506)  https://goo.gl/aA3tGx

7/18 引用3: Managers love the CEFR and other standards-based frameworks all over the world because they make available a certain kind of quantitative accountability in a way that was not possible before. (続く)  https://goo.gl/aA3tGx

8/18 引用4:But this all-too-ready surface translatability denies the untranslatable, the part of language and language learning which gives the enterprise value beyond labour force mobility. (p. 505)    https://goo.gl/aA3tGx

9/18 引用5:The arguments of applied linguists are unlikely to be persuasive in themselves -- policy statements need policy action to alter them. (p. 512)  https://goo.gl/aA3tGx

10/18 引用6: what globalization itself demands is flexibility, and flexibility is precisely what is lacking in the universalizing outcome statements such as the CEFR, which are the lever of control of education systems and social policies involving language throughout the world. (p. 513)   https://goo.gl/aA3tGx

11/18 引用7: Applied linguists may not be at the forefront of this kind of work, but we can at least supply the arguments and the understanding to support the activity of those who are in a position to force the policy change that is clearly needed.  (p. 513)  https://goo.gl/aA3tGx

12/18 個人的感想1:McNamara氏のようなテスティングの専門家の認識では、既に2011年時点ですらも国際的に、言語テストは政治的な問題になっている。言語テストについては、学術的な議論だけでは解決がつかない問題になっているのかもしれない。 https://goo.gl/aA3tGx

13/18 個人的感想2:政治的な問題になっているにせよ、応用言語学者や言語教育関係者、とりわけ(言語)テスティングの専門家は、その専門的知見をわかりやすくまとめて、政策決定に関係する人々および言語テストに影響を受ける人々に伝える責務をもつ。  https://goo.gl/aA3tGx

14/18 個人的感想3:言語テストが政治的な問題になってしまっているなら、民主主義政体の市民は、それぞれがそれぞれの立場でこの問題について発言し、互いの発言を聞きあって、世論を成熟させる責務をもつ。  https://goo.gl/aA3tGx

15/18 個人的感想4:私自身の自分勝手な願いを述べれば、言語テストの問題については、とりわけ、テスティングの専門家、および言語テストに直接影響を受ける生徒の代弁者となりうる現職教師(小中高大・民間)の方々のより多くの人数が意見表明をしてほしい(もちろん私もするべき)。  https://goo.gl/aA3tGx

16/18 個人的感想5:さまざまな方々が意見表明をするということが民主主義の成熟のためには重要であって、一部のオピニンオン・メーカーだけに頼ることなく、特に受験生をもつ高校の先生方には身近な実感を語ってほしい。RTをするだけでも沈黙を守るよりはいい。  https://goo.gl/aA3tGx

17/18 個人的感想6:社会的に重要な案件について発言することは勇気がいることだが、沈黙によって保身をしているだけなら、「間違いを恐れず(英語で)発言しよう!」などと教室で語るべきではない。 https://goo.gl/aA3tGx

18/18 個人的感想7:政治的な案件におけることばの怖さを私たちは理解しているが、それだからこそ、とりわけ言語教師は、そういった案件でことばを使い、自他のことばを成熟させることを自らの課題とするべきではないか。  https://goo.gl/aA3tGx

*****

私たちは今、まさに誰も正解を知らない時代に生きているのだなということを、私は最近毎日感じています。もちろん、そうでなかった時代などないわけですが、現代はまさにそのことを自覚して行動しなければと思っています。

そんな時の指針の一つは、以下のような書物に見られるのかもしれませんが、もちろん、これとて一つの見解に過ぎません。

伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017)
『9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/01/2017-9.html

数多くの試行錯誤を重ねて、それを省察することによって、日々学んでゆきたいと思います。