2015年5月15日金曜日

柳瀬・山本・樫葉 (2015) 「英語教育の 「危機」 と教育現場」 (草稿)


以下は、『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2015, 45号 pp.31-40)に掲載された論文の草稿(査読コメントに基づく修正が反映されていない原稿)です。掲載された正式の論文は、いずれ「広島大学 学術情報リポジトリ」などで閲覧できるようになるはずですが、その前にこの論文について言及する便をはかるため、ここに草稿を掲載する次第です。




英語教育の「危機」と教育現場


広島大学     柳瀬  陽介
大阪国際大学 山本  玲子
広島大学     樫葉 みつ子



1 背景

  教師の仕事の加速する忙しさは、教育委員会や学校からの依頼を受けて学校を訪れる筆者らも実感している。生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。実際、2013年度版のOECD国際教員指導環境調査(The OECD Teaching and Learning International Survey: TALIS)においても、日本の教師の平均勤務時間は一週間53.9時間で、調査国の中で最長となっている(平均は38.3時間)。それ以外にも、教師一人あたりの生徒数、クラスサイズ、事務仕事の時間数、クラブ活動指導時間数などでOECD平均を大きく上回っている。また看過しがたいのが教師観で、「社会全般が教師に敬意を払っていると思うか」では日本がアジア圏で唯一OECD平均を下回り、教師自身の満足度でも日本は調査国の下から二番目である(OECD, 2014)。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、違和感を覚えるものであるだろう。

  そういった中、英語科においては他教科にもまして、改革が矢継ぎ早に要求されている。最近の英語教育改革をめぐる動きの中から教師に直接関係するものを挙げてみても、まず、平成23年に「外国語能力の向上に関する検討会」から出された「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的な施策」がある。平成28年度までの達成を目指す具体策の一つが「学習到達目標をCAN-DOリストの形で設定すること」であり、現在、中・高等学校には、学校ごとにCAN-DOリストを作成することが求められている。また、この時点で地域ごとに指定された拠点校には、英語教育改善への積極的な取り組みが求められた。

  続いて平成25年に出された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には、「中・高等学校における指導体制強化」の内容として、「中・高等学校英語教育推進リーダーの養成」「中・高等学校英語科教員の指導力向上」「外部検定試験を活用し・県等ごとの教員の英語力の達成状況を定期的に検証」が盛り込まれている。これを受けて、平成26年度からは、自治体主催の研修が開催され、「英語教育強化地域拠点事業・教育課程特例校」においては、新たな英語教育が先取りで実施されている。小学校においては高学年で教科化、さらに中学年にも外国語活動を下ろすなど、14万4千人に対する研修が必要となる大改革となる。

  だが、近年の、このような「新たな英語教育」実現への動きは、本来は生徒や教師のためのはずであるが、実際に生徒や教師を育てることに結びついているのだろうか。これが筆者らの懸念である。


2 英語教育改革の特徴

  現在の英語教育改革は、経済・工業・政治の論理に深く影響されているように思える。「経済成長が至上命題であり私たちはグローバル競争を勝ち抜かねばならない」として経済成長を英語教育の目標とする考え方、「そのために英語ができる学習者(そして教師)を短期間で計画的・合理的に養成せねばならない」として学習者・教師を工業製品のように短期間に大量生産できるかのようにみなす考え方、「国威発揚できる東京オリンピックまでに英語教育改革を完遂する一方、『日本人としてのアイデンティ』を育成しなければならない」として政治的に国家意識を強調することを英語教育の柱とする考え方が、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には組み込まれている。これがはたして公教育の改革案としてふさわしいかについては既に批判も出されている(江利川・斎藤・鳥飼・大津、2014)。

  この改革案は、新自由主義と新保守主義の複合体とも捉えることができる。個人間競争を強く奨励する新自由主義は、その競争に疲弊する人々を集団的に束ねる新保守主義的な愛国心としばしば表裏一体となるというのはハーヴェイ(2007)の指摘だが、今回の英語教育改革案も、経済と工業の論理で、英語学習者と英語教師を目標に向かって駆り立てる一方で、『日本人としてのアイデンティ』という単純な括り(1)で人々をまとめあげようとする複合体となっているように思える。この複合体は表側で資本主義という近代的教理により正当化され―英語教育における資本主義的発想の影響については、柳瀬(2014)を参照されたい―、裏側で国家主義という近代的教条に裏づけられて、意識面での合理性が保証された「正論」として通っている。英語教育改革案に対して疑義を唱えたりする者は、反動的守旧派として捉えられがちであり、だからこそ英語教育改革批判も「迫り来る破綻」といった強いことばを使わざるを得ないのかもしれない(大津・江利川・斎藤・鳥飼、2013)。


3 正論の暴走という危険性

  仮に改革論が「正論」として異論を許さない言説となり、それを批判しようとする言説が過激な言葉を使うようになっているとしたら、それは英語教育界全体に抑圧的な空気をもたらしかねない。「正論」は声高に語られながらも、その提唱者・代弁者が現場の声にほとんど耳を傾けようとせず「とにかく国が言うからやるしかないのです」と眼尻を上げ、肩を怒らせる様子からは、人々の無意識が抑圧されていることが推測できる。論の正しさに心身の深いところから来る静かな確信をもつ者はからだを強張らせないからだ。また「正論」を「仕方ない」として受け入れる教師の抑うつ的な様子からは、無意識が抑圧され、その人の生命力が損なわれていることが伺える。

  人間は合理的(rational=割り切れる)側面と、合理外的(irrational=割り切れない―ここでは「非合理的」という訳語の否定的含意を避けるため敢えて「合理外的」と訳している―)側面をもつ生き物であり、社会もその両面をもつ。それにもかかわらず、ある特定の割り切り方(=合理的教条)が「正論」としてあまりにも権力をもちすぎ、それに対するためらいや批判を一切認めないイデオロギーになってしまうと、それは絶対的な価値を付与されたように感じられ始め、感情的複合体(コンプレックス)となる。感情的複合体は、人々に憑依し熱狂を産み出すと同時に、その論理では割り切れない人間の側面を抑圧してしまう。

  ある国・時代が強烈な感情的複合体に憑依され熱狂が生じることの危険を指摘したのは、無意識がもつ「内なる世界」の重要さを知る深層心理学者として、第一次大戦後から第二次大戦にいたるドイツの悲劇を隣国スイスで目にしていたユングであった。彼は1934年の時点で、「人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています」、と当時の社会の傾向を指摘する。為政者が政治や経済の大事ばかり語り、それにつられて人々が日々の暮らしの小事への気遣いを忘れ始める時、社会は暴走へと近づいてゆく。その上でユングは、「私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだということを信じて疑わない少数の人々」に対して語りかける。「大きなところが歪んでくるとしたら、それはなによりも一人一人が、私自身がおかしくなっているからにほかなりません。それなら何よりもまず、私自身を正すのが理性に適った道でしょう」―かくしてユングは危機的な状況でこそ「人間のこころというものの永遠不変の事実の上に、自らの基礎を築くしかありません」と述べる(ユング、1996)。大言壮語的な議論が社会で横行する時にこそ、私たちは日々の暮らしの細やかな営みのあり方を大切にし、それらがいつのまにか荒廃してしまわないように配慮しなければならない。

  熱狂的で頑迷な立論に対して、同じように熱狂的な糾弾や頑迷な反対運動で対抗しても、それは立論のイデオロギー性によりナンセンスと決めつけられるだけかもしれない。あるいはせいぜい、感情的複合体性により感情的な嵐の中に引き込まれてしまうだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、私たちは、感情的複合体となった時代のイデオロギーが抑圧し隠蔽している私たちの無意識的な側面に静かに向き合うことを試み、その静穏に基づき新たな立論を構築するべきではないだろうか。

  時代の「正論」に私たちが熱狂する時(あるいはそれを力なく是認する時)、私たちはその理屈で私たちが抑圧している無意識からのメッセージに耳を傾けるべきだろう。無意識からのメッセージは「こころ」のざわめきや「からだ」の違和感といった形をしばしば取る。私たちはその違和感を言語化するべきだろう。私たちがそのメッセージを無視しつづければ、「正しい理屈」に憑依した熱狂は、暴走と破滅に至りかねないというのは、歴史上さまざまな個人や社会の歴史が語ることだ。
  それでは、学校において、英語という教科指導を第一責務としながら、子どもの成長支援という社会的役割を担う英語教師は、この状況において、何をし、何をするべきでないのか―筆者らは今後敢えて「学習者」という呼称を避け、まだ「大人」でないがゆえに配慮を必要とする「子ども」という呼び方をする―。

  ユングの見立てにしたがえば、私たち英語教師は、まず自らの歪みを正し、人間の「こころ」にまっすぐ向き合わなければならない。強行される改革への直接抗議が不要だというのではない。だが、それ以上に、私たちは、命令体系の末端でYesかNoを言うだけの存在としてではなく、自ら息づく「こころ」と「からだ」をもった一人の人間として、現場で感じる実感を基に、子どもの「こころ」と「からだ」に向き合うべきだろう。

  経済と工業の論理で補強された政治の論理にYesかNoを言うというだけのコミュニケーションでは、結局は現状の制度的権力を有する政治の論理に絡め取られてしまう。英語教師は、経済・工業・政治の論理に基づくコミュニケーションよりも、教育の論理によるコミュニケーションを始めるべきではないか。若き生命を育むという教育の論理を、経済・工業・政治の論理に絡め取られてしまった人々に提示して理解と共感を得ながら、教育の論理に基づく営みを正々堂々と学校で行うべきだろう。教育に政治の力が必要だとしても、それは教育の論理を私たちが教師としての営みで明らかにして、教育の営みがどのようなものであるかを一般市民に行動と言説で広く知らせてから、政治的な力の獲得に向かうべきではないのか。英語教師は、政治のゲームに深入りする前に、まずは自らの「からだ」と「こころ」の実感、そして子どもの「からだ」と「こころ」の様子を世間に伝えるべきではないのか。

  英語教師として日々子どもに向き合う私たちの「こころ」は、何を感じているだろうか。私たちの「からだ」は何を伝えようとしているだろうか。そして、何よりも子どもの「こころ」は何を感じているのだろうか。それを知るためには、十分に「こころ」の表現を成し得ない子どもの「からだ」の表情・動き―身体性―を共感的に理解する必要があるだろう。


4 「からだ」と「こころ」

  「身体性」をごく簡単に定義するなら、それは「からだ」の動きと、それが直結する「こころ」の動きである。手が震えているから恐怖を感じるのか、恐怖を感じているから手が震えるのかを問うことが無意味であるように、「からだ」はすべての意味づけを行っており、我々は「からだ」を抜きにして他者とかかわることはできない。人は「からだ」を通して他者と「こころ」の交流をする。

  もう少し詳しく述べるなら、ここでいう「こころ」とは、無意識的な「からだ」が生み出す情動(emotion)―身体の生理学的・生化学的反応―が、感知され自覚された上で生じる感情(feeling)の意識を基本的に意味している。私たちのいわゆる「知的」(intelligent)な認知活動―思考や言語使用―はすべて、「からだ」の情動に起因する「こころ」の感情の意識を基盤としている(Damasio, 2012)。

  この定義に基づいて言い直すなら、英語教師の重要課題とは、子どもから英語や日本語の発話を要求する以前に、子どもの「こころ」の中で感じられているはずの感情を感知することである。子どもの、いわばことば以前のメッセージである「こころ」の感情を教師が的確に感知しないままに、英語にせよ日本語にせよ子どもに発話を強要するなら、子どもは予め定められた「正解」を自らの実感とは無縁に口にするか、そのような一種の儀式に意義を見いだせず口を閉ざすだけだろう。教師が、ことば以前の子どもの「こころ」の感情を感知するためには、子どもの「からだ」が自由に情動を生み出せるように、子どもの存在が―子どもが有しているかもしれない種々の問題にもかかわらず―肯定的に受容されていなければならない。存在を肯定された子どもは、身体内に多様な情動を生み出し、それは子どもの「こころ」の中では豊かな感情として立ち現れ、身体外でも微細な表情、時には大きな動きを生み出す。子どもはその感情に促されて、思考や言語使用へと向かう。周りの人はその子どもの表情や動きに促されて、その子どもの思考や言語使用を支援しようとする。

  逆に言うなら、子どもから内発する情動と感情を否定・無視して、子どもを外から支配し操作しようとしても、その効力は一時的なものに過ぎず(Dewey, 2004)、そこで「学習」されたはずの行動は、子どもの「身につかない」。「心ここにあらず」だったからである。だが教師は、時に子どもをいかに支配し操作するかという発想に取り憑かれてしまっている(2)―それはそもそも教師自身が、自らの情動と感情を否定され、外側から支配し操作されてしまっているからかもしれない―。教師は自分と子どもの情動と感情を再発見しなければならない。

  そもそも母語習得では、親も教師も自然に「からだ」を通して子どもとかかわり、同時に子どもと「こころ」の交流をしている。ところがなぜか英語教育になると身体性という概念がすっぽりと抜け落ち、ルールや語彙や型通りの表現を注入することだけが中心になってしまう(山本、2013)。身体性という概念なしには、たとえば、「英語で授業」はなぜ望ましいのかの答えが出せない。リスニング力をつけるだけならCDを流しっぱなしにしてもいいはずだ。実際には、TVをずっと見せられていた幼児と、親と「からだ」と「こころ」の交流をしていた幼児(幼児は親の動きを真似したり、親の発話に合わせてからだを動かしたりする)では、母語習得が著しいのは後者である。それと同じで、一方通行の「英語で授業」では意味がない。そのような定義づけがなされないまま「英語で授業」が独り歩きした場合、教師の一方的な発話をぼんやり聞いている中高生たち、という授業風景が予想される。

  理想的な「英語で授業」とは、教師の英語がたどたどしくても、少ない語彙であっても、子どもの「からだ」と「こころ」が教員の「からだ」と「こころ」に添っている授業である。筆者の一人は、ほとんど英語を知らないはずの小学生相手の授業でそれを体験したことがある。単語をゆっくり並べただけの教師の発話やジェスチャーに子どもが呼応し、教師の伝えたい内容を全身で受け止め、呼吸のタイミングさえ一致するほどであった。まさに、それは子どもの「こころ」が、教師の「こころ」と交流できている状態である。またそのような教室では、子どもと教師の「波動」のようなものが互いに共鳴し増幅していく。教師として最高の幸福感を感じる瞬間である。そういう英語授業の中で子どもは、相手の「こころ」を理解する方法は英語でも日本語でも同じだと感じ、「からだ」で英語に浸るすべを身につけることができる。逆に、こちらがどんなに流暢な英語で授業をしても、どんなに子どもが行儀よく座っていたとしても、何かがちぐはぐで子どもの「からだ」がこちらのタイミングに合ってこず、「こころ」が動いてくれない時もある。どうにも居心地が悪く、気持ちが悪く、授業に「乗れ」ない、授業経験のない第三者には分かり難い感覚である。

  身体の微細な動きが他者と合っていく状態、つまり身体的同調があって初めて他者との同調(Synchrony)が生まれる。その同調が促進するのは、他者の情動を自らの情動として感じることで他者を真に理解する、認知的かつ言語的な能力である(Richardson et al., 2012)。つまり、英語教師は、子どもに伝わる「からだ」と「こころ」の動きを自らが生み出せる身体性を身につけなければならない。英語に限らずあらゆる教科で言えることであろう。しかし、この身体性がもっともその威力を発揮する教科は、コミュニケーション能力を育てることを目標とする英語に他ならない。

  PISAのアンケート結果が話題になるよりも先に、教育現場では子どもの変容に実感があったと筆者らは考えている。「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育と直接的には関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた教員は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると感じているだろう。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。逆に言えば、英語教育の復活は教育の復活に貢献するのではないか。身体性に着目することで、英語教育は、教育の再生に先鞭をつけることができるのかもしれない。

  外からは観察しがたい情動と感情という「内なる世界」が、子どもにおいても教師においても守られなければならない。次世代の「内なる世界」が、新自由主義と新保守主義によって強化されたグローバル資本主義社会という「外なる世界」に塗りつぶされてしまうなら、それは社会の未来の可能性を損なうことではないのか。英語教育改革を無視することも全面否定することもできない。だがグローバル資本主義的な憑依的熱狂に現場教師もが取り憑かれてしまい、子どもと教師自身の「からだ」と「こころ」を置き去りにしてしまうなら、それこそが英語教育の「危機」ではないのか。
英語教育の危機とは、近代社会が必要とする資本主義と国家に基づくがゆえに全面否定できない新自由主義と新保守主義が英語教育に侵入していることであることではなく、その侵入に煽られて、教師が本来の使命である子どもの「からだ」と「こころ」に配慮することを忘れてしまうこと、そして、自らの「からだ」と「こころ」のあり方にも気を配らなくなることではないか(外的に来襲した危機が、致命的になるのは、それが私たちの内面を蝕んだ時である)。

グローバル資本主義を一掃することなど誰もできないし、誰も望むべきではないだろう―それが20世紀の壮大な社会実験で私たちが学んだことかもしれない―。だが、グローバル資本主義が私たちの、そして子どもの「からだ」と「こころ」の自然を一掃してしまうことは避けなければなるまい。教師は、子どもと自分の「からだ」と「こころ」を守ることを本務としなければならないのではないか。


5 現状で何ができるのか?

  しかし、現状はどうか。英語教師は、子どもが生きているということを、数値(例えば、観点別評価の評定、標準テストの得点、CAN-DOリストの達成状況など)にひたすらに還元することを強いられていないか。また教育行政者・教師教育者も、教師が教師として生きているということを、数値(例えば、子どもが獲得したテスト得点、教師自身のCAN-DOリストの達成状況など)だけで管理しようとしていないか。子ども、そして教師の、数値に還元しがたい「こころ」と「からだ」―「内なる世界」―のメッセージは無視されていないか。それどころか「こころ」と「からだ」のメッセージは、数値目標達成の邪魔になる「問題」あるいはせいぜい「ノイズ」としてしか認識されていないだろうか。子どもや教師のためではない、管理のための管理ばかりが横行していないだろうか。まじめな現場教師ほど、国策の「正論」と現場の実態の乖離と矛盾を感じながら、板挟みになったまま、自分の「こころ」と「からだ」を苦しめているのではないだろうか。

それでは英語教育学という学術的言説権力は、抑圧されがちな教師そして子どもを守り、彼・彼女らに力を与えるために行使されているだろうか。ここでも楽観視はできない。数値目標達成のために子どもと教師を操作・管理することが「科学」としての英語教育学と少なからずの研究者に思われているようにも感じられるからである。英語教育学は、制度的権力の維持と強化の道具となっていないだろうか。英語教育学は子どもと教師の「からだ」と「こころ」を十分にとらえているだろうか。
Foucault(1980)も言うように、学術的言説は「真理の体制」として君臨することにより、それから外れる人々や事象を抑圧する道具となる。現在主流の「英語教育学」は、これまであまり語られていなかった「からだ」と「こころ」のトピックを抑圧する言説権力となっていないだろうか―そもそも本稿のような批判的言説が、「科学的でない」として学会誌から排除されることはないだろうか―。

メリアム(2004)は、研究を、おそらくはハーバマスにしたがって、実証主義的(positivist)、解釈的(interpretive)、批判的(critical)の三種類に分けたが、日本の英語教育学においては、1980年代半ば頃から実証主義的研究(量的研究)が台頭し主流となり、positivismという特定の哲学的見解が「研究」を定めるものと思い込まれた。やがて「質的研究」の名の下、日本の英語教育学においても解釈的研究の妥当性を認めることを求める要求が2000年代ぐらいからなされはじめてきたが、本稿のような批判的研究の存在はまだあまり認められていない(例えば、JACET SLA研究会による『第二言語習得と英語科教育法』は、SLAと英語教育の関係を包括的に扱おうとした力作であるが、そこには批判的研究はほとんど取り上げられていない)。現在の批判的研究(応用言語学では、例えばPennycook(2001)やBlockら(2012)などが例に上がるだろう)は、一時代前の、「権力を否定することが正義である」といった小児的思い込みを超克することを前提としている。だが、批判的研究は、それ以外の研究と異なり、権力の存在を正面から捉えようとする。その際に、批判的研究の言説を書く者も、それを読む者も、そしてそれを査読する者も自ら権力関係の網目に絡まれているため、批判的研究は、とりわけ自己の客体化・客観化を要求される。したがって書く者は自らの正しさを信じたいとする心を、読む者は自らの価値観を、それぞれが問い直さねばならない。そして、査読する者は、「評価できない」「評価したくない」という思考と判断の放棄への頽落を避け、自ら考え判断しその結果を公的に示すという責任を負わなければならない。自らの主体性・主観性とは乖離・独立した客観性でなく、自らの主体性・主観性が組み込まれた客観性の探究を引き受けなければならない―これは西洋哲学の伝統を真正面から受け止めたフッサールが引き受けた人間を主題とする学問の課題でもあった―。日本の英語教育界は、そういった重荷を背負うことはできるだろうか。


6 結語

これまで私達は、世界でも有数に忙しい日本の教員の現状、そしてとりわけ改革の波にもまれる英語教員の様子を概観し、改革が、(英語)教育の論理というよりも、経済・工業・政治の論理によって動かされているのかもしれないことについて論述してきた。さらにこの経済・工業・政治の論理は、資本主義と国家制度という近代の基盤に立脚しつつもそれらを加速的に相互強化しようとしている新自由主義と新保守主義の複合体により駆動されているかもしれないと説いた。多くの英語教育関係者が、グローバル資本主義競争での勝利を英語教育の目的として受け入れ、その目的から規定される英語力を東京オリンピックまでに「日本人としてのアイデンティティ」と共に獲得させ、そのために必要な英語教員(特に小学校)を大規模に短期的に養成するという英語教育改革は、もはや異論を許さない「正論」として推進者の肩を怒らせ、反対者の表現を先鋭化させ、同意できない者の違和感を抑圧する言説権力となりつつあるのかもしれない。「教育の成果は、短期間のうちに得られる数値化されたエビデンスで示されなければならない」と至るところで言われるのを私達は聞くが、そう言う者に「それはなぜか。誰がそう言っているのか」と尋ねても明確な答えは出てこない。この意味で、経済・工業・政治の論理で(英語)教育のあり方を決めようとする近年の改革論は、それ以外の考え方・感じ方を許さないイデオロギーとなっているのかもしれない(ハーバマスは20世紀中頃から、科学技術の形式的合理性が、工業はもちろん経済や政治といった人々の営みに侵食しイデオロギー化していることを指摘していたが、そのイデオロギーは今や新自由主義と新保守主義の鎧をまとって一層強化されているのかもしれない)。

  このように私達の思考が硬直化し、世の中がある一定方向だけに突き進もうとする時にこそ、私達は自らの「こころ」に注目しなければならないと警告していたのはユングだった。「こころ」の感情と意識は「からだ」の情動から生み出されるという神経科学の知見も得て、私達は「こころ」と「からだ」のあり方に耳を澄まさなければならない。本来、英語教育ということばの教育は、外国語という異質なことばとの邂逅を通じて、子どもの「こころ」と「からだ」に深く訴える力をもちうる教育である。しかし近年の英語教育学言説を見る限り、感情・情動や身体性は正面から取り扱われておらず、むしろそれらを否定した上で成立できる議論のみが「科学的」として妥当化されているようにも思える。とはいえ熟練した現場教師は、子どもと自分自身の「こころ」と「からだ」のあり方に対して鋭敏な感性的直感を有している。その感性をいかにして知性的な概念にするか、そしてその知性的概念をもっていかにして英語教育の目的という理性的な理念にするかが英語教育学関係者の課題となろう(3)。

  しかしそういった知性的概念と理性的理念を生み出す「真理の体制」である英語教育学会誌も、その他のあらゆる言説と同様、権力の網の目の中に組み込まれている。その網の目には、政治権力、教育行政権力、反体制的権力などがあり、私達が「真理」と称する現象もそれらの権力関係の影響を不可避的に受けながら生成される。特定の大きな権力およびその権力が好む「真理の体制」に無批判的に追従することは容易であり、しばしば大きな利権の獲得にもつながるが、権力の網目に絡まれながらもその権力関係性を自覚し、そこから少しでも覚めた眼で英語教育の現象を記述し分析、その上で「こころ」と「からだ」のあり様の解明をすることこそが英語教育学の課題であろう。もしそのような試みを放棄したり嘲弄したりするようなことがあれば、それは英語教育の深刻な危機であろう。




(1) 平成22(2011)年度の厚生労働省・人口動態統計の「第2表 夫妻の国籍別にみた婚姻件数の年次推移」によると、日本の婚姻総数のうち、いわゆる「国際結婚」(=夫妻の一方が外国籍)が占める割合を、1970年から2010年まで5年ごとにあげると、0.54%, 0.64%, 0.94%, 1.66%, 3.55%, 3.50%, 4.54%, 5.71%, 4.31%と推移し、2000年代からは5%前後となっている。こういった多様性から考えても、また価値観の多様化から考えても、アイデンティティの問題を、「日本人としてのアイデンティティ」として一本化することは妥当かどうかには議論が分かれるところであろう。

  (2) 辻本(2012)によれば、日本の教育観は明治以前と以後、つまり西洋的教育学の輸入以前と以後で根底的に変容した。多数の生徒に対して大量の知識を、一定の合理的なカリキュラムやプログラムにしたがって「教え込む」教育観は、子ども(そして教える者)の個性・能動性・内発性を尊重する江戸時代の教育観と大きく異なる。無論、この違いには制度の問題があり、いたずらに明治以降の近代的教育観を否定するつもりもないが、近代の歪みがさまざまな点で指摘されているポスト・モダンの現代において、私達が当然視している近代的思考法を相対化して考え直すことは必要であろう。

  (3) 感性(直感)・知性(概念)・理性(理念)の三分法はカント(特に中山元による新訳を参照されたい)に基づいている。


参考文献

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Pennycook, A. (2001). Critical applied linguistics: A critical introduction. New York: Routledge.

Richardson, M. J., Garcia, R. L., Frank, T. D., Gergor, M., Marsh, K. L. (2012). Measuring group synchrony: A cluster-phase method for analyzing multivariate movement time-series. Frontiers in Physiology, 405(3), 1-10.

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カント,I.(著)・中山元(訳).(2010).『純粋理性批判(1)~(7)』東京:光文社.

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メリアム,S.B.(著)・堀薫夫・久保真人・成島美弥(訳).(2004).『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』京都:ミネルヴァ書房.

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ユング,C.G.(著)・松代洋一(訳).(1996).『創造する無意識―ユングの文芸論』東京:平凡社.

追記:本研究は、第45回中国地区英語教育学会で行われたシンポジウム「今日叫ばれる“英語教育の危機”とは?―そのとき教育現場は?―」の発表を再構成したものである。なお、この発表は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 



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