2017年5月30日火曜日

英語教育小論文コンテスト(締切6/23)の提出形式について



先日お知らせしました英語教育小論文コンテスト「10代・20代が創る未来の英語教育」の応募を引き続きお待ちしております。締切は6/23(金)です。応募された小論文はすべて丁寧に読みます。若い知恵をぜひ私たちに知らせてください。





その小論文の提出形式について先日メールで質問がありました。質問には既にお答えしましたが、同様の疑問をお持ちの方もいるかと思い、ここにその質問を再構成してお答えします。

Q1:ワープロ原稿をメール添付で送る場合、その原稿の形式(字数・行数・余白幅・フォントの大きさ)などについてはどうすればいいでしょう?

A1:常識的な形式でしたら、どんなものでも結構です。横書きでも縦書きでもかまいません。


Q2:ワープロ原稿のソフトは何を使ってもいいですか?

A2:ソフトは特に問いませんが、保存形式に気をつけてください。保存形式はMicrosoft Word形式 (docxもしくはdoc) で保存されたものを使っていただくとありがたいですが、テクストファイル形式 (txt) やリッチテクストファイル形式 (RTF) でも受け付けます。審査過程において原稿の一部をコピーして比較検討する場合もありますので、できればPDF形式は避けてください。


Q3:原稿の分量(字数)は厳密なものですか?原稿には、何文字書いたかを明記する必要がありますか?

A3:分量(字数)については、大まかな目安と考えて下さい。少々字数が足りなくても、多すぎても、それだけの理由で審査対象から外すことなどはしません。大切なのは文章の質です。また、自分の書いた文字数を明記する必要もありません。


Q4:紙原稿を作成し郵送する場合、原稿用紙を使わなくてはなりませんか?

A4:応募者が書きやすく、審査員が読みやすいものであればどんな用紙でも結構です。ただ、審査作業の点からすれば、電子媒体原稿で提出してもらった方がありがたいです。とはいえ、電子媒体で提出したか、紙媒体で提出したかという理由だけで、審査に影響が出ることはありません。


その他にも質問があれば、どうぞとりあえずは下記のURLページにある連絡・送付先に問い合わせてください。


英語教育小論文コンテスト
「10代・20代が創る未来の英語教育」


応募締切は6/23(金)です。一人でも多くの応募をお待ちしております!













(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り



この記事では以前の記事に引き続き、下記のワークショップ・シンポジウムに参加して、感想をわざわざ私にメールでお送りくださった方の文章を掲載しています(必要最小限の技術的修正は加えましたが、文章の趣旨は一切変えていません)。


5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による
英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。


それぞれの文章の中に、思わず「はっ」とする表現があったりします。これからも小口真澄先生が示してくださった英語教育の可能性を語る的確な表現を探してゆきたいと思います。

お忙しい中感想をお寄せくださった方々に改めて御礼を申し上げます。




■ 英語教師のFHさん

 小口先生のワークショップは,私にとって”未体験ゾーン”でした。実は,演劇の世界には,個人的に密かな興味を持っていましたので,貴重な体験でした。

 ワークショップ後に改めて考えたのは,「役になりきる」「演技する」「その場の状況に応じてふるまう」というのは,実は教師が日常的に行っていることだなあ,ということです。

 改めて,教師には「演技する力」が必要なのではないか,と感じさせられました。

 ただ,そのためには,自分を客観視する力も,強く求められるのではないか,とも思いました。

 そのように考えると,教師という職は,本当に「高度な専門職だな」と改めてしみじみ思った次第です。

 
 是非また体験してみたいです。といっても,初体験の時の気持ちと,二度目以降の気持ちでは,大きく異なるのかも知れませんが。



■ 研究者のTKさん

小口先生のワークショップを通してとても興味深い経験をしました。当日もお話ししましたが、最初は自意識が勝っていて、皆と合わせてウォーム・アップするのさえ躊躇われていたのが、段階を追ってワークショップが進むにつれて、意識の部分が段々弱まっていき、身体が動き始めていきました。ドラマのグループ内での自己が育ち始めた感じです。

それでも歌が苦手なもので、歌えないし体もぎこちない感じでしたが、目をつぶって動く経験の中で、それが吹っ切れる感覚がありました。つまり自己を客観的に見る意識がどんどん低くなり、もう一つのドラマ内自己が仲間の音を探して反応しつつ動いていたように思われました。このドラマ内自己はメロディーに揺さぶられ、演技しつつ涙を流す自己で、ある意味でドラマを生きる自己であったように感じました。

非身体的・意識的な自己と身体的・情意的自己が小口先生の指導の中で入れ替わっていった(?)のかもしれません。ちょっと分裂的であったかもしれません。

いずれにせよ、考えていた以上に揺さぶられ、戸惑い、また考えさせられたワークショップでした。貴重な体験をさせていただきありがとうございました。同じグループだったK先生のしっかりした歌声がまだ耳の奥で鳴っています。



■ 大学院生のHNさん

 小口先生のワークショップを受けて、「自分もこんな英語の授業を受けたかったな」と思ったのと同時に、「自分は公立小学校の子供たちにこんな英語の授業をしたい」と思ったのが一番の感想です。

 私は、学習開発学専攻カリキュラム開発専修の博士課程前期の1年生です。MN先生のゼミ所属し、小学校の英語教育を専門に研究を行っています。なぜ、私が小学校の教科の中で英語(外国語)を専門に選んだのかというと、英語が大の苦手科目だからです。そのため、ワークショップが始まった時、小口先生は英語を話し、参加者の人も英語に堪能な方ばかりで、私のような英語ができない者が来るべきところではなかったと感じ、「帰った方がいいのかな」とさえ思いました。そして、英語を話す場面が回ってくる度に大きな不安を感じていました。本当は演劇が好きなので、もっと積極的に参加したいという気持ちはあったけれど、英語力や発音に自信がないので、小さな声でしか発言ができず、心から楽しむことができませんでした。

しかし、気付けば不安な気持ちはなくなり、大きな声で歌を歌い、思いっきり役になりきっている自分がいました。そして心から楽しいと感じ、チームのみんなのことが大好きになって、今日この会に参加することができて本当によかったと思いました。そして、この感動を早く誰かに伝えたいと思い、家族や友達に話しましたが、やはり百聞は一見に如かずで、実際に体験した私の感動を相手に伝え理解してもらうことは難しかったです。(私の語彙力、表現力不足がその最たる原因ではありますが。)

ほんの数時間の間に起こった急激な気持ちの変化を自分なりに分析してみた結果、気持ちが変化したきっかけは3つあったと思います。1つ目は、小口先生の「すべて言わなくていい。わかるところだけで大丈夫。大切なのはあなたの感じたことを、相手に届けようとする気持ちだ。」という言葉。2つ目は、暗闇の活動の後、歌ではなくストーリーを演じる場面をチームで行ったこと。3つ目は、小口先生の「どんなことがあっても最後までやり通してください。出来ても、出来なくても一発勝負です。」という言葉で、良い意味での緊張感と責任感を感じた瞬間です。

 私のように英語が苦手な人は、1つ目のきっかけで正確に英語を話さなければならないという不安が少し軽減されます。2つ目のきっかけで「今、この空間ならば英語を話しても大丈夫だ。話してみようかな」という気持ちになります。つまり、安心して英語を話せる集団だと思うことで、不安な気持ちがまた少し軽減されます。そして、3つ目のきっかけで英語ができないということはもはや関係なく、「今日集まったこの仲間と悔いなく最後までやり遂げたい」という気持ちしかなくなりました。そして最後には、感動して涙ぐむ仲間をみて感動したり、グループの人とお互いに今日の演技を褒め合いながら帰ったりと、心から充実した時間を過ごすことができました。

 今回のワークショップ並びにシンポジウムを通して、私自身大きく心が動かされ、たくさんのことを考えました。そして、「今日のような授業を公立の小学校で行うにはどうしたらいいのか」と考えたとき、今日のような授業の存在を伝えるだけでは不十分だと思いました。

 私の少ない経験則の範囲による考えですが、実習やボランティア先で聞いた先生方の声や、私の大学時代の先輩や同級生(現職の小学校教諭)から聞いた話からすると、小学校での英語教育について真剣に深く考え、教材や授業、指導法等について研究しようと言い出すことすらできないように感じます。私が知っている小学校では、英語の授業はALTまたはLTE等の外部講師にすべてを任せ、担任は授業の時に外部講師から今日やることを聞いて、インタラクションの見本をやってみせたり、ALTが英語で説明したものを即座に日本語で訳したり、というような授業がほとんどでした。でも、現場の先生にとっては英語に自信がないので、英語に堪能な外部講師にやってもらったほうが子供にとってもいいと思っている人も少なくありません。また、英語教育を専門に勉強したり、大学で英語教育に関する卒論を書いたわけでもない先生にとっては、英語教育のスペシャリストの先生がどれだけ素晴らしい実践を紹介したり、指導法を提案したとしても、週に1コマ程度の英語の授業に(なおかつ苦手な英語に)他の教科と同じだけの力を注ぐことは、物理的にも気持ち的にも難しいことだと思いました。

 でも、私としては、何もかもが不十分なままの小学校英語教育のスタートだとしても、今までは裕福な家庭の子しか英会話スクールに行けなかったところが、公立の小学校ですべての子供たちが英語を学べるチャンスだと捉えて、この機会を絶対に無駄にしたくないと思っています。私たち指導する側(教師)にとっては、教科化や早期化のスタート時期だからうまくいかなくても仕方がない、という考えもあるかもしれないけれど、子供たちにとっては一生に一度しかない大切な1コマの授業を、なんとなくやりこなす授業にしてはいけないと思います。

 「どうしたら子供たちにとって、また教師にとってもよりよい英語教育になるのか」

 今回の小口先生のワークショップを受けて、自分が目指したい英語教育像のようなものを知ることができたので、この疑問に立ち向かっていく原動力をいただいたように思います。そして、まずは自分自身の英語力を上げることが急務だということも痛感させていただきました。この度は、大変貴重な学びの場をいただき、本当にありがとうございました。


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5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。先着50名で締切は5/12。申込みはお早めに!
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「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
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(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
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(続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。






また、このコンテストの授賞式
最優秀論文に基づく対話の集い
7/23(日)
公開企画として開催します。
ぜひお越しください!











2017年5月24日水曜日

Measurement and Its Discontentsの翻訳



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下の翻訳と英文を読みくらべると少しは理解が深まるかもしれません。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。



Measurement and Its Discontents
ROBERT P. CREASE
OCT. 22, 2011



現在の英語教育界は、評価測定による管理体制が隅々にまで強化されようとしています。しかしそれが教育的な営みなのか、立ち止まって考えてみませんか?




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測定およびそれに対する不満


先週、55カ国からの代表が夢を実現させるためにパリの郊外に集まった。それは何世紀にもわたる夢、世界の測定体系を完璧なものにしようという夢である。この歴史的な出来事といえる第24回度量衡一般会議は、秒やメートルや(これまで検討が不十分であった)キログラムといった測定の基本的単位について、最新の定義を完成させた。フランスの保管室に保存された金属の棒や塊によってメートルやキログラムを定義する時代は終わった。今や私たちは、光速や他の科学的定数といったハイテクの基準を使って定義している。

しかしこのように測定体系がほとんど完成されているというのに、どうして測定に関する論争がいまだに沸き起こるのだろう。どうして私たちは、知能や学校や福祉や幸福などを測定しようとする際に行き詰まりを感じているのだろう。

問題なのは、それらを測定するために十分に正確な道具をまだもちえていないということではない。問題は、二種類のまったく異なる測定があるということなのだ。

一つ目の測定は、物がどれぐらい大きいか小さいかを物差しで測る時のものだ。始点と単位が定められ、あるものはxフィートの長さがあるとか、yポンドの重さがあるとか、z秒の時間がかかるなどと測定される。哲学者が実在する対象や特性に対して用いる語をここでも使うなら、この測定は「存在物」の測定と呼ぶことができる。

しかし、測定対象に棒や物差しをあてがわない別種の測定がある。この種の測定はプラトンによるなら「適っているかどうか」の測定である。この測定は単に行える行為というよりも経験に根ざしたものである。私たちは、あるものが、ありうる状態という「測定基準」に適っていないと察することがある。私たちにこの種の測定ができるようになるのは、良い例を知ることによってである。例えばアリストテレスは、本当に道徳的な人は「測定基準」になると言っている。そのような人に出会うことによって私たちに何が欠けているかがわかるからである。何かがいかに存在するかを語る際に哲学者が使う用語である「存在論的」という用語を用いるなら、このような測定を「存在論的」な測定と呼ぶことができるかもしれない。

これら二つの測定の区別はしばしばおろそかにされているが、その結果として時にひどい結末に陥ることがある。スティーブン・ジェイ・グールドは著書『人間の測りまちがい』で、人間の知性を、IQや脳の大きさといった一つの量で測定しようとする的外れの試みが、どれだけ社会と人類の知識に対して害をなしたかということを詳らかにしている。知性を複合的な理念ではなく、単体で取り出すことができる一つの対象として考えると、知性は根本的に誤解されてしまう。教師の能力を生徒のテスト得点だけで測定しても同じように教師の能力は根本的に誤解されてしまう。

二種類の測定を混同してしまうことは、近代生活の一つの特徴のように思える。近代世界が存在物を測定する方法を完成するにつれて、私たちが自分自身を存在論的に測定する能力は低下しているように思える。私たちは測定の対象や測定の目的から目をそらし、測定すること自体ばかりに注目している。存在物の測定の方法によってすべての意味を求められると考えるように仕向けられている。しかし私たちが、綿密に計測された細かな結果を見て、そうではないと不満を抱きうんざりしてしまうことは予想に難くない。

人気のウェブサイト「計量化された自分」は、自己改善のために、毎日の生活のあらゆる側面についてのデータを収集するツールを提供している。睡眠、食事、性交、心配、コーヒー摂取などのデータである。サイトの創業者であるゲイリー・ウルフは、「『計量化された自分』に多くの人が魅力を感じていることの背後には、私たちが抱える多くの問題は単に、自分とは何かを理解するための道具がないことから生じているのではないかという考え方があります」とニューヨーク・タイムズの雑誌版で説明している。存在物の測定が自らを知ることの鍵としてみなされている。

しかし、測定の道具を選定しその測定結果を解釈する際に、私たちがいかに賢明で思慮深いかをどうやって測定すればいいのだろうか?近代文学には、測定が人間的な側面を剥奪することを描いたものが多くある。ディケンズの『ハード・タイムズ』の登場人物であるトマス・グラドグラインドがその好例である。彼は、事実ばかりを重んじる合理主義者で、「人間性のいかなる側面もすぐに測定し、その結果を正確に伝える」ことができる。しかし自分自身の人生は見失ってしまう。

どうすれば存在物の測定と存在論的測定の違いに目を向け、片方が他方に介入することを防ぐことができるだろうか?

一つの方法は、測定によって何が失われているかを自問自答することである。学校で実施されているテストは、生徒の頭を良くしその才能を開花させているのだろうか?それとも私たちに、自分たちは教育評価の方法については知っていると思い込ませているだけではないだろうか?毒素を微量なレベルで測定することによって私たちはより安全な暮らしをおくっているのだろうか?それとも私たちは毒素を一掃するための大量のお金を無駄遣いし、その結果、自分たちはより安全になったと感じているだけではないだろうか?

私たちの世界はますます計量化されているが、私たちはどこでどのようにして測定が失敗するかをきちんと知らなければならない。キログラムを絶対的に普遍的な基準で定義することができた今、私たちはそもそもどんな人間的な目的のためにキログラムという概念を創り出したのかを思い起こす必要がある。そしてキログラムが人間に奉仕しているのであり、人間がキログラムに奉仕しているのではないことを確認する必要がある。

フランスでの会議の参加者はまことに称賛に値する。グローバルな測定体系を完成させようとして、彼ら・彼女らは科学を尊び、政治的な企みなどとは無縁に、これまで集積された良きものを世界中の未来の世代のためにさらに良きものにしようとした。

これらの参加者を「測定基準」とするならば、私たちは何をするべきなのだろうか?





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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。






また、このコンテストの授賞式
最優秀論文に基づく対話の集い
7/23(日)
公開企画として開催します。
ぜひお越しください!









2017年5月22日月曜日

「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り



5/20(土)に小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負しています。(注)当初は50名を上限としていましたが、参加希望が多かったので上限を上げました)。


5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による
英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。


主催した側としては、この企画の知見を少しでも言語化し分析しなければと思いますが、言語化はいわゆる「研究者」の専権事項ではありません。参加者の皆さんにも「よかったら言語化して、それを共有させてください」とお願いしたところ、本日時点で3名の方が文章をお寄せいただきましたので、ここで共有させていただきます(書きたいと思っているがまだ書いていない方があれば、遠慮なく柳瀬にお送りください)。






さて、最初に紹介する文章は学部4年のTK君のものです。彼はメールで「久しぶりに振り返りを言語化しましたが、やはり言葉にしないとわからないことがありますね。言語化することの重要性を再認識しました」と書いてくれていましたが、たしかにその通りで、感性のレベルで経験したことを基に、それを逆に損ねてしまうことなく、丁寧に言語化することは、文章を書く本人にとっても、文章を読む読者にとってもとても貴重なことだと思います(特に、感性レベルの経験は月日が立つと文章化しにくくなることが多いのでまさに「貴重」だと思います)。



■ 学部生のTK君

 私は今回、広島大学で開催された小口先生のWSに参加させていただきました。それを通して感じたのは、小口先生は「人を育てる先生」だということです。

 WSで行われたのは、劇を通して英語を使いながら、みんなで一つの物語を完成させるという形式の活動です。2時間という長い時間、初対面の人たちと何か一つのものを作っていくというのは簡単なことではないはずですし、小口先生の手法がそれを簡単にしてくれる、魔法のような手法というわけでもないと思っています。「体と心を同時にアクティブにする」。明言されたわけではありませんが、これが小口先生の行う授業の目的であり、効果なのではないでしょうか。

 参加したのは大学生から現職の先生方まで、幅広い背景と年齢層の方々でした。行われた活動は、初対面の人と手をつなぎ、体を動かし、動きを考え、最終的に一つの劇を作るというものです。正直なことを申し上げますと、最初は恥じらいを感じ、早く終わってほしいと思ってしまいました。きっとそう感じていた人は少なかったと思います。しかし、そんなことお構いなしに小口先生のWSは進んでいきます。そして最後までやりきったときに気づきました。楽しくなっていたと。最初に感じていた恥じらい、不安などはなくなっていました。これはなぜなのだろうとWS後に考え、辿り着いた結論は、「小口先生によって、自然に心を開かれていった」ということです。気が付けば恥じらいはなくなり、不安も消え去り、終わった後に残るのは爽快感と達成感。少しずつ周りの人への信頼感が高まり、協力できるような関係になっていくのを感じました。

 私は小口先生の手法の神髄や、理論について深く理解できているわけではありませんが、これだけは言えるのは、「頑張って、一生懸命なことが恥ずかしくないと気づかせてくれ、そしてそれが当たり前となる環境を作る」ことが、この手法、そして小口先生の素晴らしい力だということです。

 「発言できない生徒へのアプローチ」。これは私が教育実習を通して感じた、学校の授業における大きな困難点の一つです。発言ができない生徒が当たりまえのように教室にいるなかで、先生はどう接すればいいのでしょうか。発言できないのにはいくつか理由があると思いますが、その中でも「間違えたら恥ずかしい」というのは大きな理由の一つです。これは先生に対してよりも、自分以外の生徒に対するものだと思います。誰かが「そんなこと思わなくてもいいよ。自信を持って!」と口で伝えて解決できるものではないというのは、私でもなんとなく理解できることです。しかしそうなると、どうやって解決したらいいのか。この疑問に対する答えを示してくださったのが、まさしく小口先生です。小口先生は、自分がとにかく情熱を示し、芯のある声で話し、一生懸命に私たちと接する姿勢を貫いていらっしゃいました。その姿勢、そして接し方に、気づけば影響を受け、私たちは初めて会った人達と一緒に劇をやりきることができました。

 シンポジウムでお話があったように、このやり方をすぐに普及させ、学校教育に浸透させていくことは簡単ではありません。なぜなら、経験者がほとんどいないから。しかし、逆に言えば経験した人なら、この手法の凄さに気づき、自分なりの解釈の上で実践につなげていけるのではないでしょうか。もちろん、小口先生のやり方をそのままコピーして他の人が実践しても成功はしません。ですがその本質を理解し、先生自身が体と心をアクティブにすることができれば、子どもたちもついてきてくれることでしょう。そして子供たちを成長させていくことができるのではないかと思います。

 この度はこのような貴重な経験をさせていただきありがとうございました。



次は、以前に小口先生のワークショップを経験した高校英語教師のMMさんによる文章です。「役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう」といった認識から、「良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。(中略) 生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか」といった考察を経て読む最終段落は非常に重要な提言をしていると私は思います。丁寧な分析と考察に感謝します。


■ 高校英語教員のMMさん


 最初にこのような機会を作ってくださった柳瀬教授を始めとする科研の先生方に心から感謝をしたい。

 私が小口真澄先生(以下真澄先生)に出会ったのは10年以上も前である。出産をきっかけに学校という職場を離れ、子育てをきっかけに児童英語の世界に足を踏み入れたばかりの頃だった。真澄先生のレッスンを拝見し、英語ではない「何か」に惹かれて我が子を先生に託した。世の中を席巻している「英語ができる子になってもらいたい」という抽象的な欲求や、「自己主張ができる子に」などの欲求でもなかった。どちらかといえば、私自身が教師として、このような指導者の元で子どもがどのように成長するのかに興味を持ち、実験台として送り込んだと言う方がスッキリくるように思う。

 真澄先生ご自身が表現者としても一流である。役者として数々の舞台も経験されている。役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう。今回のワークショップ中も、真澄先生はディレクターであり、役者であった。私たち観客は笑い、聞き入り、説得された。

 さて、我々教師を振り返った時、自分は生徒という観客の前に立つ演者だという自覚がある教師はどれくらいいるだろうか。教師の仕事の大部分は「語り」である。しかしそれができる教師は少ないように思う。「思わず聞いてしまう」説得力のある「語り」は、教員養成の過程においてもあまり重要視されていないように思う。

 真澄先生が長きに渡り全国各地で指導者へのワークショップをされながらも、同等の指導者が生まれていない要因は複数あると考える。

 まず受講者の演劇に関する知識・技術・経験が圧倒的に少ないこと。教育に携わる人で、同時にドラマや演劇を専攻した人は少ない。学生時代演劇部に所属した経験があるとしても、本格的に学んだ人は希少である。元々演者としての才能を持つ者もおり、それが学校という場で開花することもあるが、それでも技術や知識がなければ、相手の感情を引き出すことや心を動かすことは難しい。しかし学校行事において、舞台発表は欠かせないものである。そこに「ドラマメソッド」が活かされれば良いが、それができる教師は少ない。その点においては、幼稚園保育園の先生方の方が、長けている方が多いように思う。

 次に、ディレクターとしての勘と経験値の少なさがある。真澄先生は、経験的にも本能的にも、感情感覚のどこが絡まっているのかが分かり、それを解く天才である。ワークショップの中で何度も人が変化していく様を目の当たりにし、私自身も変化してきたのだが、何度見ても自分が習得できるものではないように感じる。真澄先生が言語化できるのであれば私たちも学ぶことができるのだろうが、その人その人に合わせてその場で感じるものを元に指示されているので、本人が言語化できるものではないだろう。教員や英語講師達が生徒を通して発表する舞台は、保護者や関係者という非常に守られた空間である。観客は知っている子どもを見ることが目的であり、「観客として楽しむ」ことが目的ではない。しかし真澄先生が関わってきた舞台は違う。料金も発生しており、観客はそれに見合うエンターテイメントを求めてくる。厳しい条件の元、多くの感動を作り出してきた真澄先生とは、経験値が違いすぎるのだ。


 さて、本題に戻る。我々英語教員、英語講師は舞台人を育てようとしているかといえば否である。私たちはあくまで「生徒が英語をより円滑に習得できるためには何が大切か」を考えている。言葉の特性上、感情を無視するわけにはいかないので、 真澄先生のように感情を伴った「言葉」を教えられれば、もっと子どもたちは本質的に英語を習得するのでは、と考える。しかし現状は「文字情報」を伝えることで精一杯。演者としての技術もないため、その英文が持つ「ドラマ性」を伝えることも難しい。感情を持って「言葉」を教えることは、感性を鍛えなければならないことが多すぎて、教員自身がよほどの熱心さを持っていなければ手をつけられる部分ではない。「受験に合格させる」ことが仕事であり、知識が重要で、感情や心は点数にならないので重要視しない。教科指導の観点で捉え、英語という文字情報を押し付けることに努力する。

 だが、教室は舞台である。教師という役者と、生徒という観客で成り立つ。外からの介入を受けない独立した舞台で、観客の心を捉える教師が生徒と共に感動する場所である。心が動かなければ、意欲が生まれない。感動は葛藤の解消から生まれる。日々の授業に葛藤の解消があれば、新たな意欲が生まれてくるのではないか。

 我々が体験したワークショップの中にも、幾つもの葛藤があった。「暗闇のワーク」では、条件の厳しさが葛藤を生み、それを解消することで心が動いた。心が動くことで信頼や安心が生まれ、体が緩んだため、歌声が大きくなったように思う。心が動きにくい場合は、あのような非日常的な場面設定を演出することも大切なのではないか。これは役者を養成する分野で多くあるワークであり、このような手法をより多く教師が持つことで、生徒の心をより動かすことができるのではないかと考える。

 良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。例えば、今回のワークの中で真澄先生から何度となく「表現」を求められた。しかし私たちのほとんどは固まってしまい、何をしていいのか分からなくなった。カメラを構えた時の「ピースサイン」のように、ガッツポーズや手を広げるなどのありきたりのポーズで答えてしまう。これは自分たちが本来自由である発想を縛ってしまっているからだと考える。生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか。

 英語DEドラマのようなワークを体験することで、発想の柔軟さを鍛え、役者として自分を解放することを訓練する。このことがまず、教師という人前に立つ仕事に必要なことだと考える。そのまた一歩先として、ディレクターとしての視点で生徒の心を意図的に動かすこと、感情のもつれを解くことを技術として身につけていくことが、これからの教師に大切になってくるのではないだろうか。教師としてそのような基礎を持っておけば、英語だろうが社会だろうが教科に関わらず教室には感動が生まれると思う。

 「文化」が生活から遠くなり、スマートフォンの普及で生活体験が減り、静かな時間が奪われ、心が動きにくい世の中になった。だからこそ、教育者は心を動かす存在でなくてはならない。そのためには技術が必要で、自身も表現者として自分を高める必要がある。ICTなど舞台道具は増えても、教室という舞台で感動を生むことができる表現者は教師であると考える。




次は、ラボ・パーティで指導をしているKRさんの感想です。ラボ・パーティの実践については、私は非常に興味をもち、その縁で以下のような講演もさせていただきました。


ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、
およびそこでの私の講演スライド



KRさんは、上記のようなラボの活動を日頃指導しているテューターとして小口実践について振り返りました。

以下のようなことばは私にとってはとても印象的でした。

「文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です」。

「とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています」。

今回の企画で参加者が経験したことは、「小口実践」や「ラボ実践」という個別の枠組みを超えて、「英語教育の身体性」あるいはそれに類する一般的な枠組みで考え、学校英語教育の改善に貢献したいと私は考えてます。


■ ラボ・テューターのKRさん

 お世話になります。昨日参加させて頂いた ラボ・テューターの梶山と申します。

 これからの世界に羽ばたく子どもたちを育てるには、子どもたちも、子どもの教育に関わる大人(教師、大人、コミュニティ)も、人間としての基礎、土台として、しっかり心を耕す体験を積む必要があるということを、改めて確認し、また、それを、参加者の方々と共有できたことが、励みになりました。ありがとうございました。

 昨日、受講したような演劇教育や物語で心を動かす体験は、自分の心や頭の中で感じている感情や気持ちを引き出す、人と関わりながら考え、他人の考えというエッセンスを受け入れることで、自分自身の中の気持ちを掘り起こすことができる、人が人として生きていくうえで大事な力を養う活動だと考えます。

 特に幼いうちからこのような体験ができる環境にある子どもたちは、自己肯定観を高め、心が豊かになり、自分自信も深みのある人間として成長し、その結果、相手も受け入れられる人になるでしょう。

 一方で、まだ多くの保護者(特に我が子への教育に熱心な人ほど)は、幼少期より英語検定で高いレベルの合格を目指すために、PCなどで単語やフレーズを叩き込ませたり、結果がすべてですからと、上記のような心を耕す活動に寛容になれない現状もあります。実際、我が子が私立進学高校に通っておりますが、国公立大学に進学のために、一日7時間授業の中で毎週テストに追われ、〇進ハイスクールでは、1800個の英単語を、入学したての高1の子たちに1カ月で暗記するまでテスト。センター試験対策には、単語を覚えることで長文のわからない箇所がクリアになるので、これが一番の近道ですと保護者を集めて指導されていました。

 文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です。中3の次男もやむを得ず塾に入れました。小学校でも、宿題がどんどん増えているそうです。全国学力到達テストなどが始まり、管理が厳しくなっているからだと思います。

 そんな現実があっても、私が信じているのは、その子どもたちが家庭やそれまでの教育の中で心を耕した経験がしっかり土台にあるかということです。この体験がその子の伸びしろの支えになっているということです。

 とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています。

 子育てをしながら、ラボ・テューターという活動を通じて、試行錯誤の毎日ですが、やはり、ラボ教育活動が大事にしているのは、心の土台を育てる部分だと実感しています。そこに英語力が結びつくということを、もっと、ラボ教育センターも理論的に言葉にできなければいけないし、活動自体も研究していきたいと思っていますので、今後ともこのような機会にぜひ、参加させて頂き学ばせて頂ければと存じます。よろしくお願いいたします。



 お忙しい中、振り返りを共有してくださった上の三名の方、そしてもちろん、本当にお忙しい中、科研予算・大学規定での交通費・宿泊費・薄謝しか出せなかったのにこのような企画にご協力いただけました小口先生に厚く御礼を申し上げます。

 私としては今回の経験をできるだけ分析・言語化することで、小口先生からのご厚意に応えたいと思います。他の参加者の皆さんも、よかったら感想をお寄せください。





追記(2017/05/24)

大学院生のA君からも感想が寄せられましたので、ここに掲載します。いろいろな話し合いの中で、「感情を込めろ!」という命令は「やる気を出せ!」という命令と同じように無用で無効だということを私たちは確認しあいましたが、A君もそういった点について触れています。


 これまでに演劇的手法を取り入れた英語の授業を受けたことはなく,新しい気付き・学びが多い時間になりました。

 英語教育と感情についての話の中で,「感情が沸き起こるまで待つ」という言葉に非常に感銘を受けました。私自身には英会話学校で教えているくらいの乏しい指導経験しかありませんが,その中でさえも,「学習者が気づくまで待つ」ということは難しいことのように感じています。この「待つ」ことの難しさから,教師があらかじめ意味や用法を教えてからそれに取り組ませる形式の授業構成が多くなるように,自己の反省も踏まえて感じました。特に今回のような感情を表現する活動においては,英語そのものの理解だけではなく,感情をうまく表現することにも練習が必要な場合があります。「待つ」ことができなければ,教師が思う「正解」を提示し,それを学習者が消化不十分の状態で取り組むことになるように感じました。

 ここでこの「待つ」ことに関して,私は以下の3つの段階があるように感じたのでここで述べていこうと思います。それは,インプット型の言語面の理解を待つ段階,アウトプット型の表現面での表出を待つ段階,最後に動機づけなどにおける,学習者の準備ができるのを待つ段階の3つです。これは段階的に達成できるわけではなく,演劇的な学習を効果的に成功に導くにはすべてが必要なもののように考えています。

 土曜日のシンポジウムでは,言語と学習者について,学習内容との関連から,具体的な指導方法についてまで議論が深まりました。一方で,表現面に関して,実践してみての感想は出たものの,具体的な指導方法は議題に上がらなかったように感じました。これは今回のワークショップに参加した多くの人が英語教育に関わりがあり,前者2つについては指導方法の具体的なイメージまで浮かびやすかったものの,後者の表現に関してはあまりイメージがわきにくかったためと思います。私は今回のワークショップにとても感銘を受けて,是非とも自分の授業でも将来実践してみたいですが,残念ながらこの表現面の指導について自信がなくて実践できるようには感じられませんでした。今回のような素晴らしいワークショップを受けて・見て,憧れを抱いても,それを指導できるようになるまでにはギャップが存在します。そのギャップを埋めていくことが実践を普及するためには必要のように感じました。

 その実践方法・指導方法に興味をもって,日曜日の昼食会では質問をさせていただきました。限られた時間であったため具体的な1事例1事例についてお聞きすることはできませんでしたが,まずは実践してみる,子どもを過小評価しないことと(信じること),変えてもよい設定と変えてはいけない設定を明確にすること,を学びました。拙い理解と技能になりますが,将来的には自身も実践をしてみたいと感じるとともに,指導方法も知っていきたいと感じました。

 この度は貴重な機会をいただいて,本当にありがとうございました。






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5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。先着50名で締切は5/12。申込みはお早めに!
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http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/05/blog-post_22.html

(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/05/blog-post_30.html
 
(続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_18.html




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2017年5月16日火曜日

ジョージ・オーウェル『1984年』での言語(ニュースピーク)に関する部分の解説

以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。


今回はジョージ・オーウェルの小説『1984年』の、言語について書かれた部分を題材とします。

この小説は、昨年、トランプ氏が大統領に選出されてからアメリカでベストセラーになりました。

トランプ政権と「1984」 独裁国家描いた暗黒小説が今、売れるわけ
http://mainichi.jp/articles/20170215/dde/012/030/010000c
Why ‘1984’ Is a 2017 Must-Read
https://www.nytimes.com/2017/01/26/books/why-1984-is-a-2017-must-read.html
Reading the Classic Novel That Predicted Trump
https://www.nytimes.com/2017/01/17/books/review/classic-novel-that-predicted-trump-sinclar-lewis-it-cant-happen-here.html


簡単にまとめますと、トランプ氏の政治姿勢が、全体主義的であるので、全体主義国家のあり方を克明に描いたこの小説に再度光があたったわけですが、最近の日本でも以下のようなことが起こっていますし、この記事を書いている時点では、少なくとも一部の識者からは戦前の治安維持法のように暴走しかねないと深刻な懸念が表明されている「共謀罪」が(事実上の)強行採決へと向かおうとしていますので、この本は日本でももっときちんと読まれるべきではないでしょうか。

道徳教科書、事細かに注文 パン屋を和菓子屋に… (日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HGS_V20C17A3CR0000/
<記者の目>道徳教科書 初の検定(毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20170510/org/00m/070/004000c
「そもそも」用法、政府が答弁書で正当化
https://mainichi.jp/articles/20170512/k00/00e/040/296000c
<政府答弁書>「そもそも」は基本的に 文法的にどだい無理
https://mainichi.jp/articles/20170513/ddm/041/010/133000c


上記の「和菓子屋」や「そもそも」の問題(特に後者)などは、一見、細かいどうでもいいことのように思えますが、ことばの意味をおろそかにすること、ひいてはことばから意味を奪うことの恐ろしさについて、下の『1984年』からの抜粋を読んでよく考えてもらいたいと思います(また、刑法の体系を根本的に変えかねない「共謀罪」を「テロ等準備罪」と与党が呼び替えることについてもよくよく考えて下さい)。


自由や権利について語り合うこと、すなわち政治的な事柄について話し合い行動することは、憲法第12条(この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ)にありますように、私たち市民の義務ですが、政治について語る時も、しばしば「反日」や「パヨク」あるいは「極右」や「ネウヨ」といった呼称で罵り合うだけになっているのも日本の現状です。こういった、短くて連呼しやすく強烈な感情を喚起しながらも、よくよく考えてみればその意味する範囲が具体的ではない語についても下を読んで考えて下さい。

教育界でも、文科省が「スーパー・グローバル」、「アクティブ・ラーニング」、「キャンドゥー・リスト」などというカタカナ語を使い始めると、誰に聞いてもその意味がよくわかっていないのに急に多くの関係者が使い始めます。そしてそのカタカナ語が現場に大きな影響を与えます。

"Critical thinking"という教育用語も、たとえば「吟味しながら考える」などと翻訳されずに、「クリティカル・シンキング」とカタカナ化され、しまいには「クリシン」と呼ばれ教育現場で普及しています。ですが、私個人としては、「クリティカル・シンキング」ということばが語られる度に "critical sinking" と聞こえてしまいますし、「クリシン」といった省略・短縮表現を多用する人々が、果たしてそのことばが本来意図していた思考法を実践しているのか疑わしく思っています。

私は通常は、まさにこの小説にに書かれているような理由で、カタカナ語(とくにそれを使った短縮・省略表現)を自分の訳にはできるだけ使わないようにしているのですが、ここではこの本に書かれた言語使用の実感をつかんでいただくため、わざとカタカナ語による翻訳表現を多用しています。

下の英文は、すべてWikiLivresから引用したものです。(1)といった番号は参照の便につけたものです。

Nineteen Eighty-Four


最初に、本の巻末にある「付録:ニュースピークの原則」からの抜粋を読みます。「ニュースピーク」 (Newspeak) とは、この物語世界で展開されている全体主義的イデオロギー(イングソック (Ingsoc) :もともとはEnglish Socialism)に基づくオセアニア国 (Oceanic) で使われている言語のことです。オセアニア国の政権は革命によって樹立されましたが、その後、敵国との戦争や国内での裏切り勢力が続いているという設定になっています。



Appendix - The Principles of Newspeak



(1) ニュースピークを作り出し、普及させることの目的

ニュースピークの目的とは、イングソックに忠誠を誓う住民にとって適切な世界観と精神的習慣を表現する方法を与えると共に、それ以外の思考を不可能にすることだ。これは新語の発明によっても達成されるが、主な手段は、イングソックにとって望ましくないことばを排除すること、それが不可能なら、それらのことばから望ましくない意味も二次的な意味も剥奪してしまうことである。

The purpose of Newspeak was not only to provide a medium of expression for the world-view and mental habits proper to the devotees of Ingsoc, but to make all other modes of thought impossible. It was intended that when Newspeak had been adopted once and for all and Oldspeak forgotten, a heretical thought--that is, a thought diverging from the principles of Ingsoc--should be literally unthinkable, at least so far as thought is dependent on words. Its vocabulary was so constructed as to give exact and often very subtle expression to every meaning that a Party member could properly wish to express, while excluding all other meanings and also the possibility of arriving at them by indirect methods. This was done partly by the invention of new words, but chiefly by eliminating undesirable words and by stripping such words as remained of unorthodox meanings, and so far as possible of all secondary meanings whatever.


(2)   語の意味や語そのものを剥奪する理由

意味の剥奪の例は"free"である。ニュースピークにもこの語は存在するが、それは「不在」という意味でしか使われない(例、 'This dog is free from lice' or 'This field is free from weeds'.)。ニュースピークには「政治的自由」や「知的自由」といった意味は、概念としてすらないので、その意味を表す語はなくなってしまった。また、ニュースピークでは思考の範囲を広げることではなく「狭める」ことが目的とされている。

To give a single example. The word FREE still existed in Newspeak, but it could only be used in such statements as 'This dog is free from lice' or 'This field is free from weeds'. It could not be used in its old sense of 'politically free' or 'intellectually free' since political and intellectual freedom no longer existed even as concepts, and were therefore of necessity nameless. Quite apart from the suppression of definitely heretical words, reduction of vocabulary was regarded as an end in itself, and no word that could be dispensed with was allowed to survive. Newspeak was designed not to extend but to DIMINISH the range of thought, and this purpose was indirectly assisted by cutting the choice of words down to a minimum.


(3) ニュースピークの構成

ニュースピークは現在の英語に基づいているが、新語抜きのニュースピークの文章を今の英語話者が理解できることはないだろう。ニュースピークは、語彙Aと語彙Bと語彙Cから構成される。

Newspeak was founded on the English language as we now know it, though many Newspeak sentences, even when not containing newly-created words, would be barely intelligible to an English-speaker of our own day. Newspeak words were divided into three distinct classes, known as the A vocabulary, the B vocabulary (also called compound words), and the C vocabulary. 


(4) 語彙A 

語彙Aは衣食住などの日常生活の記述に必要とされる語の集合である。現代英語に由来するものも多いが、現代英語の語より数ははるかに少なく、意味は一つの明確な意味しかもたないようになっている。現代英語のように、日常的な語に比喩的な意味を込めて文学や政治や哲学において語彙Aを利用することはできない。明確でイングソックの考え方に合致した思考だけを語彙Aは表すのであり、大抵の場合、その思考は具体物や物理的行動を指し示すだけである。

THE A VOCABULARY. The A vocabulary consisted of the words needed for the business of everyday life--for such things as eating, drinking, working, putting on one's clothes, going up and down stairs, riding in vehicles, gardening, cooking, and the like. It was composed almost entirely of words that we already possess words like HIT, RUN, DOG, TREE, SUGAR, HOUSE, FIELD--but in comparison with the present-day English vocabulary their number was extremely small, while their meanings were far more rigidly defined. All ambiguities and shades of meaning had been purged out of them. So far as it could be achieved, a Newspeak word of this class was simply a staccato sound expressing ONE clearly understood concept. It would have been quite impossible to use the A vocabulary for literary purposes or for political or philosophical discussion. It was intended only to express simple, purposive thoughts, usually involving concrete objects or physical actions.


(5) 語彙B 

語彙Bは明らかに政治目的のために作られた語の集合である。どの語にも政治的含意が含まれており、その語を使う人々に望ましい精神的態度を強制するようにできている。イングソックの原則を十分に理解しない限り、これらの語を正確に使うことは困難である。語彙Bの語を、オールドスピーク [=ニュースピーク以前の言語]や語彙Bの語に翻訳することは不可能ではないが、その翻訳は長ったらしいものとなりニュアンスも失われてしまう。語彙Bの語は、一種の省略記号といえる。イングソックの一連の政治思想を短い語に集約しており、その意味はこれまでの日常言語よりも正確で強力になっている。

THE B VOCABULARY. The B vocabulary consisted of words which had been deliberately constructed for political purposes: words, that is to say, which not only had in every case a political implication, but were intended to impose a desirable mental attitude upon the person using them. Without a full understanding of the principles of Ingsoc it was difficult to use these words correctly. In some cases they could be translated into Oldspeak, or even into words taken from the A vocabulary, but this usually demanded a long paraphrase and always involved the loss of certain overtones. The B words were a sort of verbal shorthand, often packing whole ranges of ideas into a few syllables, and at the same time more accurate and forcible than ordinary language.


(6) 意味の範囲がやたらと広い語を使う理由 (1)

「オールドシンク」といったニュースピークの一部の語の特殊目的は、意味の表現ではなく破壊である。これら少数の語はあまりに多くの語を包括的に意味するがゆえに、これらの語を多用することによって、もともと意味されていた多くの語の意味が無効化したり忘れ去られたりする。

But the special function of certain Newspeak words, of which OLDTHINK was one, was not so much to express meanings as to destroy them. These words, necessarily few in number, had had their meanings extended until they contained within themselves whole batteries of words which, as they were sufficiently covered by a single comprehensive term, could now be scrapped and forgotten.


(7) 意味の範囲がやたらと広い語を使う理由 (2)

「名誉」、「正義」、「道徳性」、「国際協調主義」、「民主主義」、「科学」、「宗教」といった語はもはや存在しなくなった。今やこれらを意味するのはごく少数の語だけであり、そういった語が非常に少ないがゆえに、もともとの語の意味は失われてしまった。例えば、自由や平等といった概念に関する語はすべて「犯罪思想」と呼ばれている。客観性や合理主義に関する語はすべて「オールドシンク」と呼ばれている。より精確な意味を求めることは危険である。党のメンバーに求められているのは、よくわかっていないのに「とにかく外国の人間は邪神を信じているのだ」と信じ込んでいた古代の人々と同じように振る舞うことである。

 Countless other words such as HONOUR, JUSTICE, MORALITY, INTERNATIONALISM, DEMOCRACY, SCIENCE, and RELIGION had simply ceased to exist. A few blanket words covered them, and, in covering them, abolished them. All words grouping themselves round the concepts of liberty and equality, for instance, were contained in the single word CRIMETHINK, while all words grouping themselves round the concepts of objectivity and rationalism were contained in the single word OLDTHINK. Greater precision would have been dangerous. What was required in a Party member was an outlook similar to that of the ancient Hebrew who knew, without knowing much else, that all nations other than his own worshipped 'false gods'.


(8) 省略・短縮表現を多用する理由

政治的な組織、人々、信条、などの表現は、もともとの意味をかろうじてたもつが極力短くされ発音されやすいようになった。たとえば「真理省」 [=旧来のことばでなら「宣伝省」とでも呼ばれたような政治組織] の「記録局」は「キキョ」、「創作局」は「ソキョ」などと呼ばれた [漢字は表意文字であるためここではわざとカタカナ訳にした]。この短縮化を時間の節約のためだけのものと考えてはならない。20世紀初等の全体主義国家においては、この種の省略表現を多用していた。例えば、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (National Socialist German Workers' Party, 国家社会主義ドイツ労働者党)は、NSDAPといった短縮表現を通り越してNazi(Nationalsozialistから由来)という呼び方で呼ばれた。20世紀の全体主義国家は直感的に短縮表現を好んでいただけだったが、ニュースピークでははっきりと意図的に短縮されていた。短縮表現をすると、もともとの表現に伴っていた連想を切り離すことができるので、意味を狭くしてかつ巧妙に歪曲できることがわかっていたからである。

The name of every organization, or body of people, or doctrine, or country, or institution, or public building, was invariably cut down into the familiar shape; that is, a single easily pronounced word with the smallest number of syllables that would preserve the original derivation. In the Ministry of Truth, for example, the Records Department, in which Winston Smith worked, was called RECDEP, the Fiction Department was called FICDEP, the Teleprogrammes Department was called TELEDEP, and so on. This was not done solely with the object of saving time. Even in the early decades of the twentieth century, telescoped words and phrases had been one of the characteristic features of political language; and it had been noticed that the tendency to use abbreviations of this kind was most marked in totalitarian countries and totalitarian organizations. Examples were such words as NAZI, GESTAPO, COMINTERN, INPRECORR, AGITPROP. In the beginning the practice had been adopted as it were instinctively, but in Newspeak it was used with a conscious purpose. It was perceived that in thus abbreviating a name one narrowed and subtly altered its meaning, by cutting out most of the associations that would otherwise cling to it.


(9) 言いやすい表現を重視する理由 (1)

ニュースピークで大切なのは意味が限定されている限りにおいては、言いやすさが何よりも大切であるとされた。必要なら文法が損なわれてもよかった。なぜなら、誰も間違えることがない短い語句こそは、何度も繰り返されて使われ、かつそれを使う人の心の中に余計なことはほとんど想起させないという点で、政治目的のためにはぴったりだったからである。

In Newspeak, euphony outweighed every consideration other than exactitude of meaning. Regularity of grammar was always sacrificed to it when it seemed necessary. And rightly so, since what was required, above all for political purposes, was short clipped words of unmistakable meaning which could be uttered rapidly and which roused the minimum of echoes in the speaker's mind.


(10) 言いやすい表現を重視する理由 (2)

この言語政策の意図は、いかなる話(とりわけイデオロギー的に中立とはいえない話)をする時にでも、その人の意識とは無関係にその話ができるようにすることであった。日常生活では時に話す前に考えることが必要かもしれないが、政治的・倫理的判断を迫られた党のメンバーは、正しい意見をマシンガン速射のように放出することができなければならないからだ。

The intention was to make speech, and especially speech on any subject not ideologically neutral, as nearly as possible independent of consciousness. For the purposes of everyday life it was no doubt necessary, or sometimes necessary, to reflect before speaking, but a Party member called upon to make a political or ethical judgement should be able to spray forth the correct opinions as automatically as a machine gun spraying forth bullets.


(11) 語彙を減らす理由

ニュースピークは私たちの言語よりも語彙が少ないが、語彙をさらに少なくするための方法は常に考案されている。ニュースピークは、語彙が増加するのではなく減少するという点で他の言語とは異なっている。しかし語彙の減少は進歩である。なぜなら、選択する語彙が少なくなればなるほど、考えてみようとする誘惑は少なくなるからだ。

Relative to our own, the Newspeak vocabulary was tiny, and new ways of reducing it were constantly being devised. Newspeak, indeed, differed from most all other languages in that its vocabulary grew smaller instead of larger every year. Each reduction was a gain, since the smaller the area of choice, the smaller the temptation to take thought. Ultimately it was hoped to make articulate speech issue from the larynx without involving the higher brain centres at all.


(12) 語彙C 

語彙Cは、語彙Aと語彙Bを補完するものであり、そのほとんどは科学か技術の用語である。これらの語は現在の英語と似ているが、語彙Aや語彙Bと同様に、意味は厳格に定義され、望ましくない意味はきれいに剥奪されている。語彙Cの語で、日常生活や政治生活のために用いられるものはほとんどない。科学者や技術者は自分の専門分野に必要な語は語彙Cのリストの中に見つけることはできるが、他の分野の語に興味をもつことはほとんどない。すべての分野に共通した語は非常に少なく、考え方もしくは思考の方法としての「科学」を表現する語は存在しない。そういった意味での「科学」に少しでも関連したような意味は、すべて「イングソック」という語で包括的に表現されている。

THE C VOCABULARY. The C vocabulary was supplementary to the others and consisted entirely of scientific and technical terms. These resembled the scientific terms in use today, and were constructed from the same roots, but the usual care was taken to define them rigidly and strip them of undesirable meanings. They followed the same grammatical rules as the words in the other two vocabularies. Very few of the C words had any currency either in everyday speech or in political speech. Any scientific worker or technician could find all the words he needed in the list devoted to his own speciality, but he seldom had more than a smattering of the words occurring in the other lists. Only a very few words were common to all lists, and there was no vocabulary expressing the function of Science as a habit of mind, or a method of thought, irrespective of its particular branches. There was, indeed, no word for 'Science', any meaning that it could possibly bear being already sufficiently covered by the word INGSOC.




以下、本文からの抜粋を読みます。本文では、上記で解説されたニュースピークの普及が推進されているオセアニア国の様子、そしてその中での主人公の受難が語られます。



本文

Part I

Chapter I


(13) 真理省(シンショウ)、平和省(ヘイショウ)、愛情省 (アイショウ)

全体主義国家における「真理省」、「平和省」、「愛情省」の説明とその略称

The Ministry of Truth, which concerned itself with news, entertainment, education, and the fine arts. The Ministry of Peace, which concerned itself with war. The Ministry of Love, which maintained law and order. And the Ministry of Plenty, which was responsible for economic affairs. Their names, in Newspeak: Minitrue, Minipax, Miniluv, and Miniplenty.


(14) 全体的で抽象的な「二分間ヘイト」

「二分間ヘイト」は、参加せざるを得ない全体的な怒りの爆発であり、個々人それぞれの役割などない。怒り対象は抽象的であり、その対象はこちらからあちらへと変えられることがある。

The horrible thing about the Two Minutes Hate was not that one was obliged to act a part, but, on the contrary, that it was impossible to avoid joining in. Within thirty seconds any pretence was always unnecessary. A hideous ecstasy of fear and vindictiveness, a desire to kill, to torture, to smash faces in with a sledge-hammer, seemed to flow through the whole group of people like an electric current, turning one even against one’s will into a grimacing, screaming lunatic. And yet the rage that one felt was an abstract, undirected emotion which could be switched from one object to another like the flame of a blowlamp.


(15) 自己催眠としてのスローガン

ビッグ・ブラザー (Big Brother オセアニア国の指導者) を称えるために時折「ビブ!ビブ!(「B-B!...B-B!」)という連呼が始まるが、連呼は自己睡眠であり、リズムにのった絶叫によって意識を眠らせることを国家は狙っている。

At this moment the entire group of people broke into a deep, slow, rhythmical chant of ‘B-B!...B-B!’— over and over again, very slowly, with a long pause between the first ‘B’ and the second — a heavy, murmurous sound, somehow curiously savage, in the background of which one seemed to hear the stamp of naked feet and the throbbing of tom-toms. For perhaps as much as thirty seconds they kept it up.  It was a refrain that was often heard in moments of overwhelming emotion. Partly it was a sort of hymn to the wisdom and majesty of Big Brother, but still more it was an act of self-hypnosis, a deliberate drowning of consciousness by means of rhythmic noise.



Chapter 3


(16)  ダブルシンク

イングソックで推奨されているダブルシンクとは、知っていながら知っておらず、語っている嘘が真実であることを意識し、互いに相矛盾し両立し得ない二つの意見を同時にもち、論理的に論理を崩し、自らは道徳的でないのに道徳を主張し、ありえない民主主義を政権政党 (the Party) が守っていると信じ、忘れるべきことは忘れながらも必要が生じると突然思い出して再び忘れ、さらには、この自己催眠についての自覚をなくすことである。「ダブルシンク」ということばを理解するためにも、ダブルシンクが必要である。

Winston sank his arms to his sides and slowly refilled his lungs with air. His mind slid away into the labyrinthine world of doublethink. To know and not to know, to be conscious of complete truthfulness while telling carefully constructed lies, to hold simultaneously two opinions which cancelled out, knowing them to be contradictory and believing in both of them, to use logic against logic, to repudiate morality while laying claim to it, to believe that democracy was impossible and that the Party was the guardian of democracy, to forget whatever it was necessary to forget, then to draw it back into memory again at the moment when it was needed, and then promptly to forget it again: and above all, to apply the same process to the process itself. That was the ultimate subtlety: consciously to induce unconsciousness, and then, once again, to become unconscious of the act of hypnosis you had just performed. Even to understand the word 'doublethink' involved the use of doublethink.


(17) 「いいね」という語とその論理的な派生語

「いいね」 (good) という語さえあれば「優秀な」や「立派な」などなどの曖昧な関連語は不必要となる。強めの表現としては「超いいね」、「超々いいね」、反対表現としては「反いいね」 (ungood)、「超反いいね」、「超々反いいね」があれば済む。

Take "good", for instance. If you have a word like "good", what need is there for a word like "bad"? "Ungood" will do just as well--better, because it's an exact opposite, which the other is not.  Or again, if you want a stronger version of "good", what sense is there in having a whole string of vague useless words like "excellent" and "splendid" and all the rest of them? "Plusgood" covers the meaning, or "doubleplusgood" if you want something stronger still. Of course we use those forms already. but in the final version of Newspeak there'll be nothing else. In the end the whole notion of goodness and badness will be covered by only six words--in reality, only one word. Don't you see the beauty of that, Winston? It was B.B.'s idea originally, of course,' he added as an afterthought.


(18) 完璧な言語と共に革命は完了する

ニュースピークはすべてにおいて思考の幅を狭め、イングソックにとって好ましくない「思想犯罪」を根絶することを目的としている。必要な概念は一語のみで厳密に表現され、関連語は根絶される。年々語彙は少なくなり、意識の幅も狭くなる。現在、思想犯罪をさせないようにするには、市民に自制を求め政権政党がリアリティ・コントロールをする必要があるが、最後にはそんなことすら必要なくなるだろう。それほどにニュースピークが完璧になった時に、イングソック革命は完了する。ニュースピークこそはイングソックであり、イングソックこそはニュースピークなのだ。

'Don't you see that the whole aim of Newspeak is to narrow the range of thought? In the end we shall make thoughtcrime literally impossible, because there will be no words in which to express it. Every concept that can ever be needed, will be expressed by exactly one word, with its meaning rigidly defined and all its subsidiary meanings rubbed out and forgotten. Already, in the Eleventh Edition, we're not far from that point. But the process will still be continuing long after you and I are dead. Every year fewer and fewer words, and the range of consciousness always a little smaller. Even now, of course, there's no reason or excuse for committing thoughtcrime. It's merely a question of self-discipline, reality-control. But in the end there won't be any need even for that. The Revolution will be complete when the language is perfect. Newspeak is Ingsoc and Ingsoc is Newspeak,' he added with a sort of mystical satisfaction. 'Has it ever occurred to you, Winston, that by the year 2050, at the very latest, not a single human being will be alive who could understand such a conversation as we are having now?'



Part II

Chapter 3


(19)  若い女主人公の信条

政権政党への組織的反対運動は必ず失敗するものであり、愚かなことである。賢いことは、政権政党が命ずる規則を破りつつも生き続けることである。イングソック革命以後の若者は、政権政党は大空のように変わることのないものであり、その権威に楯突くことなど考えない。ただウサギが犬から逃れるように政権政党の権威から逃れるだけである。

Any kind of organized revolt against the Party, which was bound to be a failure, struck her as stupid. The clever thing was to break the rules and stay alive all the same. He wondered vaguely how many others like her there might be in the younger generation people who had grown up in the world of the Revolution, knowing nothing else, accepting the Party as something unalterable, like the sky, not rebelling against its authority but simply evading it, as a rabbit dodges a dog.


Chapter 5


(20) 理解しようとしない人々

政権政党の世界観は、理解する知性のない人々にこそ浸透した。そんな人々は現実からの著しい否定ですらも、それが意味することの全体像を理解しないので、唯々諾々と受け入れたし、公共的な出来事にも興味を抱かず、何が起こっているかも知らなかった。理解を欠如させることで、イングソックの世界でも正気を保ったのである。すべてを呑み込むように受け入れたが、受け入れたもので具合を悪くすることもしなかった。まるで種が消化されないまま鳥の身体から出てしまうように、理解しない人々の中には何も残らなかったのである。

In a way, the world-view of the Party imposed itself most successfully on people incapable of understanding it. They could be made to accept the most flagrant violations of reality, because they never fully grasped the enormity of what was demanded of them, and were not sufficiently interested in public events to notice what was happening. By lack of understanding they remained sane. They simply swallowed everything, and what they swallowed did them no harm, because it left no residue behind, just as a grain of corn will pass undigested through the body of a bird.


Chapter 9



(21)  政権政党としての存続

政権政党は世襲的階級ではない。少数独裁制 (oligarchy) で大切なのは、先行する世代から課された特定の世界観と生活様式を守り続けることである。支配グループは後継者を指名し続ける限り支配グループであり得る。政権政党は、生物学的な血筋ではなく、政権政党の存在自体を永続させることにこだわっている。階級組織の構造が同じであるなら、誰が権力を行使するかは大した問題ではない。

The Party is not a class in the old sense of the word. It does not aim at transmitting power to its own children, as such; and if there were no other way of keeping the ablest people at the top, it would be perfectly prepared to recruit an entire new generation from the ranks of the proletariat. In the crucial years, the fact that the Party was not a hereditary body did a great deal to neutralize opposition. The older kind of Socialist, who had been trained to fight against something called 'class privilege' assumed that what is not hereditary cannot be permanent. He did not see that the continuity of an oligarchy need not be physical, nor did he pause to reflect that hereditary aristocracies have always been shortlived, whereas adoptive organizations such as the Catholic Church have sometimes lasted for hundreds or thousands of years. The essence of oligarchical rule is not father-to-son inheritance, but the persistence of a certain world-view and a certain way of life, imposed by the dead upon the living. A ruling group is a ruling group so long as it can nominate its successors. The Party is not concerned with perpetuating its blood but with perpetuating itself. WHO wields power is not important, provided that the hierarchical structure remains always the same.


(22) 思想警察はすべてを監視する

 政権政党のメンバーは、生まれてから死ぬまで思想警察 (thought police) の監視下におかれる。一人でいるときも安心できない。どこにいようが、寝ていようが起きていようが、仕事をしていようが休んでいようが、風呂に入っていようが床についていようが、メンバーは警告なしに、あるいは調べられているという自覚なしに思想警察によって調べられる。思想警察に無関係なものなどなにもない。友人づきあい、余暇の活動、家族とのやり取り、一人でいる時の表情、寝言、身体の癖などあらゆることが思想警察によって徹底的に調べられる。実際の軽犯罪だけではなく、どんな小さな奇行も、生活習慣の変更も、内心の葛藤の兆候とみなされうる癖も、すべてが思想警察によって発見される。どの方面に関しても選択の自由などというものはない。

A Party member lives from birth to death under the eye of the Thought Police. Even when he is alone he can never be sure that he is alone. Wherever he may be, asleep or awake, working or resting, in his bath or in bed, he can be inspected without warning and without knowing that he is being inspected. Nothing that he does is indifferent. His friendships, his relaxations, his behaviour towards his wife and children, the expression of his face when he is alone, the words he mutters in sleep, even the characteristic movements of his body, are all jealously scrutinized. Not only any actual misdemeanour, but any eccentricity, however small, any change of habits, any nervous mannerism that could possibly be the symptom of an inner struggle, is certain to be detected. He has no freedom of choice in any direction whatever.


(23) 犯罪が起こす可能性を持つ者に対して、正式な法律や規則なしに粛清や逮捕や拷問や投獄や誘拐を行う

その反面、加える法律も規則も具体的な行為に対して制限を加えているわけではない。オセアニア [物語の舞台となっている全体主義国家] に法律はない。見つかれば即死刑となる思想も行為も、正式に禁じられているわけではない。粛清や逮捕や拷問や投獄や誘拐は引きも切らないが、それらは実際に行われた犯罪に対する懲罰ではなく、将来のある辞典でひょっとしたら犯罪を犯すかもしれない者をきれいさっぱりと消してしまうことにすぎない。政権政党のメンバーは正しい意見だけでなく、正しい本能をもつことが要求されている。政権政党メンバーに求められる信念や態度が明確に述べられることはない(もし述べられたらイングソック内部にある矛盾を露わにしてしまうだろう)。ある人がもし生まれついての正しい人間なら(ニュースピークでは「いいねシンカー」と呼ばれる)、その人はいかなる状況でも、まったく考えることなしに、どの信念が正しく、どの情動的行動が正しいかを知ることができる。

On the other hand his actions are not regulated by law or by any clearly formulated code of behaviour. In Oceania there is no law. Thoughts and actions which, when detected, mean certain death are not formally forbidden, and the endless purges, arrests, tortures, imprisonments, and vaporizations are not inflicted as punishment for crimes which have actually been committed, but are merely the wiping-out of persons who might perhaps commit a crime at some time in the future. A Party member is required to have not only the right opinions, but the right instincts. Many of the beliefs and attitudes demanded of him are never plainly stated, and could not be stated without laying bare the contradictions inherent in Ingsoc. If he is a person naturally orthodox (in Newspeak a GOODTHINKER), he will in all circumstances know, without taking thought, what is the true belief or the desirable emotion.


(24) 犯罪予防

政権政党メンバーに個人的感情など許されないし、政権政党が望む熱狂から逃れる術もない。国外の敵と国内の裏切り者を熱狂的に憎み、勝利に歓喜し、政権政党の権力と知恵の前にひざまづき続ける人生を送らなければならない。実生活での不満は、二分間ヘイトなどで計画的に発散させられるし、政権政党への疑いや反抗につながりかねない考えは学習した内的自制で事前に消される。この自制の最初のもっとも簡単な段階はニュースピークでは犯罪予防と呼ばれている。犯罪予防とは、まるで本能的に危険な思想に近づく寸前でストップできる能力を意味する。犯罪予防には、連想的に新しいことを考えない能力、論理的誤りを見つけない能力、イングソックにとって危険な論証は誤解する能力、異端の方向に進みかねない思考を重ねることには退屈や嫌気を覚える能力が含まれる。簡単にいえば、犯罪予防とは、身を守るための愚かさである。

A Party member is expected to have no private emotions and no respites from enthusiasm. He is supposed to live in a continuous frenzy of hatred of foreign enemies and internal traitors, triumph over victories, and self-abasement before the power and wisdom of the Party. The discontents produced by his bare, unsatisfying life are deliberately turned outwards and dissipated by such devices as the Two Minutes Hate, and the speculations which might possibly induce a sceptical or rebellious attitude are killed in advance by his early acquired inner discipline. The first and simplest stage in the discipline, which can be taught even to young children, is called, in Newspeak, CRIMESTOP. CRIMESTOP means the faculty of stopping short, as though by instinct, at the threshold of any dangerous thought. It includes the power of not grasping analogies, of failing to perceive logical errors, of misunderstanding the simplest arguments if they are inimical to Ingsoc, and of being bored or repelled by any train of thought which is capable of leading in a heretical direction. CRIMESTOP, in short, means protective stupidity.


(25) 政権政党にとって都合がよいように事実をどう扱うかという忖度が常に求められている

しかし愚かさだけでは十分でない。というより、完全な意味での正しさとは、身体を自由に曲げる曲芸士が身体に対してもっているような完全なまでのコントロールを自らの心の動きに対してもつことなのである。オセアニア社会は、究極のところで、ビッグ・ブラザーは万能で、政権政党は間違わないという信念に基いている。しかし実際にはビッグ・ブラザーも万能ではないし、政権政党も間違いうるのだから、ビッグ・ブラザーと政権政党に都合が良いように事実をどう扱うかという点において、絶えず忖度をすることが必要となっている。

But stupidity is not enough. On the contrary, orthodoxy in the full sense demands a control over one's own mental processes as complete as that of a contortionist over his body. Oceanic society rests ultimately on the belief that Big Brother is omnipotent and that the Party is infallible. But since in reality Big Brother is not omnipotent and the party is not infallible, there is need for an unwearying, moment-to-moment flexibility in the treatment of facts.


(26) 「白は黒」

ここでのキーワードは「白は黒」である。他の多くのニュースピーク語と同じように、この語には二つの相矛盾する意味がある。敵に向けて使われる時は、「白は黒」は、明白な事実とは反対のことを言うことを意味する。しかしこれが政権政党のメンバーに向けて使われれば、それは政権政党の規律上必要ならばあえて事実とは異なることも喜んで言うという忠誠の印という意味になる。これはまた、白は黒と「信じる」だけでなく、白は黒であるいう「知識」を得て、かつては逆のことを信じていたことなどきれいさっぱりと忘れる能力をも意味する。このためには、過去を絶えず書き換えながらもその他のことはそのままにしておく体系的な思考が必要だが、それはニュースピークでは「ダブルシンク」と呼ばれている。

The keyword here is BLACKWHITE. Like so many Newspeak words, this word has two mutually contradictory meanings. Applied to an opponent, it means the habit of impudently claiming that black is white, in contradiction of the plain facts. Applied to a Party member, it means a loyal willingness to say that black is white when Party discipline demands this. But it means also the ability to BELIEVE that black is white, and more, to KNOW that black is white, and to forget that one has ever believed the contrary. This demands a continuous alteration of the past, made possible by the system of thought which really embraces all the rest, and which is known in Newspeak as DOUBLETHINK.


(27) 現実をごまかしているが現実は損なわれていない

ダブルシンクとは、二つの相矛盾する信念を同時に受け入れる能力を意味する。政権政党の知識人は、どの方向に自分の記憶を変えなくてはならないかがわかっている。だから自分は現実をごまかしていることを自覚しているのだが、ダブルシンクによって、現実は損なわれていないと信じ込むことができる。これは意識的に行われる。さもないと精確な記憶変更ができないからだ。しかし同時にこれは無意識的に行われなければならない。さもないと虚偽の感覚、ひいては罪の感覚に苛まされてしまうからだ。

DOUBLETHINK means the power of holding two contradictory beliefs in one's mind simultaneously, and accepting both of them. The Party intellectual knows in which direction his memories must be altered; he therefore knows that he is playing tricks with reality; but by the exercise of DOUBLETHINK he also satisfies himself that reality is not violated. The process has to be conscious, or it would not be carried out with sufficient precision, but it also has to be unconscious, or it would bring with it a feeling of falsity and hence of guilt.


(28) 私は人を騙しているが正直者で、現実を歪めているが現実は損なわれていない。

ダブルシンクこそはイングソックの基盤である。なぜなら、政権政党にとっての必須の行いとは、自分はまったく正直だという感覚を保ちながら、意識的に人々をだますという目的を遂行し続けることだからだ。明らかな嘘を本当だと信じ込むこと、不都合な事実を忘れること、しかしその事実が必要になってきたら必要になった期間だけそれを忘却の底から思い出すこと、客観的な現実の存在を否定しながら、その現実についての対応をすることなどのことがすべて必要である。ダブルシンクということばを使うためにもダブルシンクを実践する必要がある。そのことばを使うことによって、その人は自分が現実を歪めているという認識を認めている。しかしそれにさらにダブルシンクを重ねて、その認識を消し去ってしまう。これを永遠に繰り返し、最後には嘘が常に真実の一歩前にいる状態になる。

DOUBLETHINK lies at the very heart of Ingsoc, since the essential act of the Party is to use conscious deception while retaining the firmness of purpose that goes with complete honesty. To tell deliberate lies while genuinely believing in them, to forget any fact that has become inconvenient, and then, when it becomes necessary again, to draw it back from oblivion for just so long as it is needed, to deny the existence of objective reality and all the while to take account of the reality which one denies--all this is indispensably necessary. Even in using the word DOUBLETHINK it is necessary to exercise DOUBLETHINK. For by using the word one admits that one is tampering with reality; by a fresh act of DOUBLETHINK one erases this knowledge; and so on indefinitely, with the lie always one leap ahead of the truth.



Part III

Chapter 3


(29)  全体主義者の権力観

政権政党は権力のために権力を求めている。人々の幸福のためや、富や驕奢や長生きなどではなく、権力、純粋なる権力に興味があるのだ。我々は過去の少数独裁制、たとえばナチス・ドイツやソビエト共産党とは異なる。それらは、自らの動機を正面から見据える勇気をもたない弱虫であり偽善者であった。権力を握るのは一時的なことで、それは人間が自由で平等な天国を地上にもたらすためだというふりをした(あるいは本当にそう信じていたのかもしれない)。我々はそうでない。我々は、奪取した権力を放棄することを考えている者など一人もいないことを熟知している。権力とは手段でなく目的である。革命を成功させるために独裁制を確立する者などいない。独裁制を確立するために革命を起こすのだ。迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力なのだ。

'Now I will tell you the answer to my question. It is this. The Party seeks power entirely for its own sake. We are not interested in the good of others; we are interested solely in power. Not wealth or luxury or long life or happiness: only power, pure power. What pure power means you will understand presently. We are different from all the oligarchies of the past, in that we know what we are doing. All the others, even those who resembled ourselves, were cowards and hypocrites. The German Nazis and the Russian Communists came very close to us in their methods, but they never had the courage to recognize their own motives. They pretended, perhaps they even believed, that they had seized power unwillingly and for a limited time, and that just round the corner there lay a paradise where human beings would be free and equal. We are not like that. We know that no one ever seizes power with the intention of relinquishing it. Power is not a means, it is an end. One does not establish a dictatorship in order to safeguard a revolution; one makes the revolution in order to establish the dictatorship. The object of persecution is persecution. The object of torture is torture. The object of power is power. Now do you begin to understand me?'









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2017年5月9日火曜日

Why We Believe Obvious Untruthsの解説記事



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。

 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。

Sunday Review, The New York Times
Why We Believe Obvious Untruths
MARCH 3, 2017
By PHILIP FERNBACH and STEVEN SLOMAN


最近は、SNSの隆盛のせいか、自分が見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じる傾向が強まり、その結果、明らかに虚偽とわかっていることを信じてしまう(そして主張し続けてしまう)ことが少なくないようです。昨年、オックスフォード大学出版局が「2016年のことば」として選んだ "post-truth" もその傾向を表現することばです。


そういった中、学校教育が未来の市民に、何が事実・真実で、何が虚偽で、何が現時点ではどちらとも判定できないかを忍耐強く知的に判断することを学ばせることはとても重要になってきていると思います(とりわけ、理数系の科目はその点で重要かと思います)。

他方、この複合的な世界を個人がすべて理解できることなど不可能ですから、私たちはいかに他人の知識を信頼・評価するか(あるいはしないか)、そしていかに知識を共有していくかというコミュニケーションの作法を学ぶ必要があります(これは3.11以降の日本で痛感されたことですが)。


以下の記事は、認知科学者によって書かれたものですが、これを読んで、私たち人間の知性のあり方や社会性の重要性について反省的考察を加えておきましょう。その考察に基いて、学校教育を、より現代社会の必要性に適うものにすることが学校教育関係者の義務の一つかとも思います。






*****


■ 6
多くの人々が、明らかに虚偽であることを信じるようになってきている。


■ 8-9
しかし集団妄想 (collective delusion) は昔からあることで、しかも政治的右派に限った話ではない。リベラルな左派も、非科学的なほどにGenetically Modified Organism: GMO (遺伝子組換え生物)には毒性があるとか、自閉症の原因はワクチンだといった説を信じている。


■ 12-14
この状況を解決するのは簡単なようにみえるだけに、面倒である。きちんと見れば、真実は明らかだと思えるからだ。しかし、そう考えてしまうと、集団妄想は、騙されやすい大衆 (hoodwinked masses) が抱くものだという説明になるが、それは「あいつらは馬鹿だ」「あいつらはモンスターだ」といった罵倒とほとんど変わらなくなる。


■ 16-18
「騙されやすい大衆」という説明をもちだすと、自分たちは違う、と思いたくなる。しかしそれは誤解であり単純すぎるけんかいだ。そういった説明は、知識を人間の脳内にあるものとしかみなさない誤解に基づいている。


■ 18-20
謙虚に受け入れなければならない真実とは、個々人は、一人ひとりでは事実 (fact) と虚構 (fiction) をうまく峻別できないし、これからもできないだろうということである。私たちにとって自然な状態とは無知 (ignorance) である。私たちの心の働きから無知が生まれるのだ。


■ 22-23
人間と他の動物を分けているのは、人間の個体がすぐれた心的能力 (mental capacity) をもっていることではない。人間が他の動物以上に繁栄することができたのは、私たちが認知的作業 (cognitive labor) を分業することで、複合性の高い目的 (complex goals) を相補的に (jointly) 追求する能力をもっているからだ。

補注:
ちなみに、"joint"という形容詞は、しばしば "common" や "shared" と同義として扱われるが、jointの定義のひとつである "undertaken or produced by two or more in conjunction or in common" (http://www.dictionary.com/browse/joint) をみると、"in common" (「すべてに共有されて」)とは少し異なる "in conjunction" (「相補的に足し合って」)といった意味が見られる。つまり、例えば5人のメンバーがいる場合、そのメンバー全員がAとBとCを共有しているのではなく、メンバー1と3がAを、メンバー2と5がBを、メンバー4がCを有しており、メンバー全体としてAとBとCを有しているという状況である。

この意味でのjoint概念は注目すべき概念だと私は個人的に思っています。

以下の記事にある "joint understanding"は、今私が区別しているような意味での "common understanding" (consensus)  とは区別される概念かと思います。

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
(特に "joint understanding"の箇所)。


■ 26-27
個体としての人間は、ほんのわずかなことしか知らない。しかし社会集団を組むことで、人間は離れ業をやってのけることができる。


■ 29
知識は私の頭の中にあるとか、あなたの頭の中にあるとかいうものではない。知識は共有されているのだ。


■ 34-36
あなたが「知っている」ことのほとんどは、あなたの頭の中ではなく、どこかの教科書や専門家の頭の中にある情報の記号 (a placeholder) にすぎない。


■ 38-39
知識が分散している (knowledge is distributed) ということから生じるのは、人間は知識共同体 (a community of knowledge) に所属することによって、自分が理解していないことも理解していると思い込んでしまうことだ。


■ 48-49
この理解の感覚は伝染性のあるものだ。他の人が理解していること、あるいは理解していると主張していることによって、私たちは自分がより賢くなったと思い込んでしまう。


■ 54-57
ここで大切なことは、人間は非合理的 (irrational) だということではない。人間の非合理性は、非常に合理的な場所(例えば科学者が書いた本)から生じているのだ。人間はしばしば、自分が知っていることと、他の人々が知っていることの区別ができないのだが、それは自分の頭の中にある知識とその他の場所にある知識の間に明確な境界線を引くことがしばしば不可能だからだ。


■ 59-61
このことは世の中を分断するような政治問題 (divisive political issues) においてよく当てはまる。政治問題の多くについて、私たちは十分に詳細な知識を学び記憶しておくことができない。私たちは自分が属する共同体に頼らざるを得ない。しかし、もし私たちが自分は他人の知識におんぶされているだけだ (piggybacking on the knowledge of others) ということを自覚しないなら、傲慢 (hubris) に至ってしまう。


■ 76-78
このような集団幻想から、私たち人間の思考には偉大な力と深い落とし穴があることがわかる。ほとんどの人が必要な知識をもっていないのに、集団としては共通の信念にもとづいて多くの人間が合体 (coalesce) できるとは考えてみればすごいことだ。


■ 83-87
個人としては無知であることが私たちの自然な状態であるということは、呑み込むには苦すぎる薬である。しかしこの薬は私たちに力を与える。単に反対するだけの浅薄な分析 (a reactive and superficial analysis) を招くような問いと、きちんとした調査 (real investigation) を必要とする問いの間の区別ができるようになるからだ。さらには、指導者から専門的知識と繊細な分析 (expertise and nuanced analysis) を要求することも始められるようになるだろう。それこそが有効な政策を決定する唯一の確かで正しい方法である。個々人の頭の中にはたいした知識はないのだという自覚は良薬である。



 




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対話について学び続けています



以下は、学部4年生向けの授業「現代社会の英語使用」の受講者の感想の一部です。この授業では英語使用に関する話題を題材にして、スピーチと対話を実践し、それらの技術を高めようとしています。

この授業で身につけた技術が、将来に職場や日常生活で活きることを願っています。







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■ 「完璧な発言を続けていくことが目標ではない。」授業の最後に先生がおっしゃったことが今回の対話の反省を端的に表しています。

対話とは全員の意見をすり合わせていきながら一つの真実・目標に向かっていくものであるならば,いきなり一人の人がその真実に最も近づいたことを言うのは極めて稀であるはずです。ある人の発言に対して補ってあげたり,違う視点を与えたりすることが大切で,それが続いて初めて対話が成り立つわけです。なので,「完璧な発言をすることは目標どころかほとんど不可能に近い」という考え方をするべきではないでしょうか。

そして,その考えを持った上でとにかく発言をする。例えその発言に訂正すべき点が多くあったとしても,他の人がその意見を補ってくれるんだという気持ちを持っておくことが大事です。それをするために,いくつか注意しなければいけないことがあると考えます。


■ 小さな確認が重要であるように感じた。対話においては、他の人との意味がまったく同じではなくても、意味が類似すればいい。その意味の差異を見出しそれについて考えることで新たな発見が生まれる。しかし、確認なしに進む小さな認識のずれが、対話が進むにつれて大きなものになってしまうように感じた。

自分自身を振り返ってみると、歳を重ねるにつれて、「わからない」ということを「わからない」、と言う、大切で当たり前のことを欠いてしまっているように思う。わかったふりや、なんとなくわかった気になっていることはとても恐ろしいことである。自分が発話することについても、ときどき言葉を発するのが怖いと感じる。論点がずれ、話があちこちに飛び、筋道をたてて話すということが十分にできていない。しかし怖がってばかりいては何もできないし上達もしない。教師になって失敗するより学生であるいまのうちに多くの失敗と経験および反省とそれに基づいた実践をしていきたい。

今回の談話をする中で考えたことは、子どもたちに知識とそれに基づく思考力を、多くの失敗と挑戦を、と思う一方で、私自身はそれをできているのか、ということである。いまの思った通りにできないもどかしい気持ちを忘れずに、学生ではなく教師としての意識を持ち、子どもたちと接する準備を急ぎたい。


■ 今回はまるで反省文になりそうだ。はじめからそう思うとなんだか書くのも憂鬱なものであるがそんな回があってもいいだろう、成長のきっかけにすべくしっかり反省したいと思う。

 教師だって、人間だから失敗もするだろうし子どもの前に立つからと言って完璧であるわけもない。お手本であるべき必要性もあるが、それは完成した間違いのない形ではなく、むしろ完璧でない人間の姿としてのお手本であるべきなのだと思う。弱さだけじゃない、それと向き合う強さを見せるのであって強さだけじゃない、誰もがもつ人間の弱さをさらけ出して、かっこつけず、反省して成長していく姿というのも、お手本としての一側面なのではないかと思ったりもするこの頃である。

 さて、まずスピーチについて振り返っていこう。すべての反省点は、これまでずっと、“自己中”であったことに依拠するだろう。対人コミュニケーションに及んで私が私がと、自分の話しかしていないということに言われるまで気付かないとはなんとも恥ずかしいことである。自分が聞いてほしい話であることは大前提としていいだろうが、同時にそれが相手の聞きたい話でなければならない。それなのに、いつまでも自分本位に喋っているばかりではただの自己満足に終わってしまうのである。優しい相手は、にこにこして聞いてくれるのかもしれないが不毛な時間であるうちはスピーチとは言えないだろう。自分にとって、よりも相手にとって重要かどうか、必要であるかどうかということを念頭に置く必要がある。考えてみれば、いや考えなくとも相手本位の姿勢がコミュニケーションの基本だということは誰にでもわかる当たり前のことであるはずだ。

 スピーチをする際には、その原稿を考える。が、その構成の組み立て方についてもまた、自己中であったがために間違った考え方をしていたように思う。大切にしなければならなかったのは単なる起承転結的順番なのではなく、論理的とはいっても、相手の論理を組んだものにするのがスピーチであるということを知った。そしてそれは、相手の思考の流れを考えることであって、まるで子どもたちの思考の流れに沿った授業づくりをするのと同じではないかという気がした。

 対話も同じで、自分の意見をふりかざすのではいけない。しかし、こちらはチームプレイである。個人がそれぞれの役目を果たさなければ、もちろん集団として成り立たない。そういう意味で、私たちはまだ集団になりきれていない。一番の問題は何かといえば、間違いなく皆が黙り込む時間がそれを語っているだろう。あの静かな時間は必要な間、ではなく必要以上の沈黙であったといえる。本当であれば、小さな間が流れている時間も含め対話は進んでいるのであるが、沈黙の多い場合は時が止まってしまっている。まるで一つしかないマイクを順番に回して、次は誰の手に渡るものかと伺っているような空気であった。その間、それぞれが自分の中で次なる最善の発言を考えている。考え過ぎだ、という先生からのお言葉は図星だった。そうじゃなくて、もっと、今独りで考えていることを皆で考えることがしたい。自分の答えを言い合うだけではなくて、その途中を共有できたらいいと思う。他人に聞こえないように押さえ込んでいる心の声を、外に出せるような雰囲気が私たちには必要だった。


■  集団討論ではチームプレイの中での個人の活躍を見ている。日本人は定義を曖昧にしたまま話すのが得意であり、私はその典型であると感じた。わからなくても話の流れに逆らうよりは合わせる方を選択してしまっていた。わからないことや、疑問に思うことを、話の流れを遮ってまで聞いたり確認したりすることは、自分はグループの他のメンバーより劣っていると示しているようなものだと思っていた。しかしグループ内での再確認、共有という立場でうまく質問をすれば、これはチームプレイの一つになる。大切なのはタイミングと言い方で、話がわからないまま流れに従うことの方が自分を最終的には追い込むことになることを学んだ。話の流れを止めることになるため発言するとき、勇気のいる行動であるが身につけたい技術の一つである。努力したい。

 今回、グループのメンバー全員が黙ってしまうことが多く見られた。その時、自分は笑って、他のメンバーと顔を見合わすばかりだった。難しい内容なら「難しいですね」。これだけでいいのにどうして口に出せないのか。誰かが話を進めてくれるだろうと考えているのである。また、ある程度話を回している人が存在していたときどうしてもその人に期待を寄せてしまう自分がいる。そこでこそチームプレイの中の個人の活躍の見せ所だと思った。

 反省ばかりではない。対話中相手の表情を見る余裕が取れるようになってきた。今までは自分は話に参加できていることを示すため少し大げさに頷いたりしていた。相手が話しやすいようにという意識もあったが、自分は対話に参加していることを示すことが目的だった。回数を重ねると対話の仕方が少しずつ身についてきたのか、当たり前のように頷いたりすることができるようになり、その分意識して周りを見ることができるようになってきた。そうすると、対話中の相手の表情からある程度流れの予測がついてくる。同じような意見を持っているのだな、とか、何か疑問に思っているのかな、など次の展開が読める。おかげで随分と楽になる。自分が発言している時も一緒で、相手にどれだけ理解されているのか、表現の仕方は適切か、など表情から自分の発言を振り返ることができるようになった。(少しずつ)

 そして、以前は内容を受けてそれを踏まえての自分の意見を瞬時に発することができなかった。今までは「自分はこう思う。」という意見を述べるに過ぎなかった部分が多かったが、「あなたの意見のこの部分が自分の意見と似ていて」など相手の意見を踏まえた内容を話せるようになってきた。 

 もしこれが教員採用試験での集団討論なら、それは試験であり、合否が決まる場であるけれど、自分を他のメンバーよりも良く見せようというより、このメンバーで今から「いい対話」をしよう、と考えることも自分の余裕につながるのかな、などと思った。(そんな余裕が持てるまで努力したい)





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