大修館書店『英語教育』(2015年6月号)に拙著(『小学校からの英語教育をどうするか』、以下「本書」))が掲載されましたが、この書評は著者の一人として大変ありがたいものでした。
「ありがたい」といっても、それは肯定的評価をしてもらったから、といった単純な理由ではありません。確か武術家の甲野善紀先生のことばだったかと思いますが、「理解されていない相手からの褒めことばには困惑するだけだし、それが大げさなものであれば、とても愉快には思えない」といったものがありました。
この大修館書評は、本書を正確に理解した上で、その問題点(足りないところ)を的確に指摘してくださっているので、正確な読解に基づかないままのコメントが少なくない昨今においてはまさに「有り難い」ものとして感謝している次第です。
また、この書評は、先日私がたまたま読んだ、現在、自然科学者を含めた一般読者からもっとも信頼され尊敬されている哲学者の一人であるダニエル・デネット (Daniel Dennett) による生産的な批判的コメントの出し方とも合致しているように思えました。ですから、ここではこれを機会に、生産的あるいは建設的な論争を行うために必要なことを本書への評を題材にしながら確認し、最後にネットと出版や学会活動についての愚考を加えたいと思います。
■ 生産的・建設的な論争をするために必要なこと
デネットの "How to compose a successful critical commentary" については、学術や芸術について良質な記事を提供してくれているBrain Pickingsから知りました。このサイトは有益なものと思いますので、ご興味のある方はぜひ適切な手段でご購読ください(無料ですが、寄付を歓迎しています)。
How to Criticize with Kindness:
Philosopher Daniel Dennett on the Four Steps to Arguing Intelligently
Brain Pickings
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以下が、その記事の主要部分です。
How to compose a successful critical commentary:
1. You should attempt to re-express your target’s position so clearly, vividly, and fairly that your target says, “Thanks, I wish I’d thought of putting it that way.
2. You should list any points of agreement (especially if they are not matters of general or widespread agreement).
3. You should mention anything you have learned from your target.
4. Only then are you permitted to say so much as a word of rebuttal or criticism.
念の為に読みやすさを優先させた拙訳を提示しておきます。
1 批判しようとする相手から「ありがとう。そう言いたかったんです」と言ってもらえるぐらいに、相手の立論を明晰に、活き活きと、そして公正に言い直せるように努力せよ。
2 批判しようとする相手と同意できる論点を列挙よ(それが一般的に、あるいは、広い範囲の人々の同意を得ていないようなことである場合には、特に)。(注)
3 批判しようとする相手から学ぶことができたことをすべて述べよ。
4 反論や批判のことばを一言でも発する資格が得られるのは、以上の三つを終えてからである。
(注) この2の( )の部分の翻訳は、ブログ記事の下のコメント欄にあるRoof様のご指摘を受けて本日訂正しました。Roof様の親切なご指摘に感謝します。(2015/06/02記)
もちろん現実世界では、批判を展開する際にも時間や紙幅の限界がありますから、上記の1~3を十二分に行うことなどできません(十二分に行おうとすれば批判対象の文章以上の分量の文章を書かねばならない(!)とすらいえるかもしれません)。
しかし、デネットが言いたいことは、「批判の前にまずは正確な理解が必要」ということでしょう。彼は、アメリカでは激烈・過激になりがちな進化論などの論争を経て、なおかつ一般読者の信頼と尊敬を得てきた人ですから説得力があります。
■ 大修館書店書評について
この点、今回の大修館書店『英語教育』の書評は、本当に「有り難い」ものでした。まず、書評者は(ここではウェブ上での不要の騒ぎを避けるため、念のため名前を伏せてX先生としておきます。知りたい方は同誌をごらんください)、元文部科学省官僚で現在はとある大学で英語教育の研究活動をおこなっていらっしゃる方です(私は10年ぐらい前に一、二度お会いしたことがあります)。
文科省で以前勤務なさっていたという履歴からするなら、X先生が、とにかく文科省の政策に安直な反対や批判を続ける書を評価することは決してないでしょう。同時に、X先生は現在は文科省を離れていますので、現役で文科省に在籍している時よりは「立場」(関連記事:安冨歩 (2012) 『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』 明石書店 )から自由に発言ができるでしょう。この二つの意味で、文科省の政策に対して批判的な本書を書評するには、X先生はまさに適任だったといえるかもしれません。
実際、私は本書を書く際に「文科省や政権与党の人にさえにも読んで考えてもらえるような批判を書こう」という目標を立てていました。ですから、今回のような書評者の人選をしていただいた大修館書店『英語教育』編集部には感謝しています。
そのX先生は、本書全体に対して「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」と評してくださいました。理論編である第1・2章に対しては「出色なのは、理論に裏付けられた説得力」であるとし、実践編である第3章に対しては「小学校英語教育の現状に失望を覚えた読者も、第3章で紹介される実践例に救われる思いを抱くだろう」と肯定的に評価していただきました。著者としては嬉しい限りです。
しかし冒頭に述べたように、私としては肯定的に評価されたから喜んでいるのではありません。X先生が本書を丁寧に読み、かつこの書評を丁寧に書かれていることが、書評のはしばしから伺え、かつ最後に本書の問題点・限界を提示してくださっているから私としては嬉しく思っています。つまり、デネットの1~3の点(「批判対象を正確に読解していることを的確な表現で伝える」、「同意できる点を伝える」、「学べた点を伝える」)をきちんとなさってくださった上で、問題点を指摘してくださったので「有り難く」思ったわけです。
ちなみにX先生が指摘する本書の問題点とは、本書が「反省的実践」の重要性を訴えるわりには、小学校英語教育における反省的実践をどのように行うべきかの具体的提言が少ない、というものです。これは、書評を読んだ瞬間、私も「あっ、そうだった」と反省させられました。
これが「具体的なノウハウが少なすぎる」といったよくある批判(あるいはざっくりとした表現)でしたら、「研修会で学んできた授業をそのまま実行しても、まずうまくいきません」(本書21ページ)、つまり言い換えるなら、「あまりにも多くの要因が絡む教育現場の問題が一つ(あるいは少数)の処方箋で解決することはない」(関連記事:5/17講演のスライド、および、「処方箋が与えられることでなく、反省的実践を積み重ねることこそが必要だ」)という主張を本書でも展開している私としては、「いや、具体的なノウハウを教師に与えることが必要だとして、教師を受け身の存在にしすぎていること自体が問題だと本書で主張しているのです」と反論したくなります。
しかし今回のX先生の書評は、「本書が言うように、反省的実践の繰り返しこそが小学校英語教員を育てるのであれば」と本書の主張を(必ずしも完全肯定ではないにせよ)仮説的に認めてくださり、「現職教員研修は「小技」を伝授する場でなく」とまさに著者が「ありがとうございます。そう言いたかったんです!」と感謝したくなる言い換えをされた上で、それならば「その面での提案がもう少し具体的になされてほしかった」と注文を出しています。そうなると、上記のようなざっくりとした表現による批判は予期していた私も、「あ、そうだ。そこまで踏まえた上での提言はしていなかった」と反省させられました(この反省点は今後の課題にします)。
■ 生産的・建設的な論争のための出版や学会などについて
それにしてもデネットが言うような丁寧な作法で批判を行うことは容易ではありません。ネット文化は誰もが発言をすることを可能にしましたが、匿名や短文が好まれがちな現状では、批判対象を痛罵することが流行っているようにも思えます。また、ネットでは論争は果てしなく続くこともありますが、猪子寿之氏の「ネットはしつこい方が勝つ」という言葉(確か今年元旦の『ニッポンのジレンマ』での発言だったと思います)が正しいとすれば、ネット上での論争は、瑣末な論点に拘ったものになりがちで、生産的・建設的な論争を行うことが(不可能とまでは言わないものの)困難なのかもしれません。
そこで再評価されるべきは、今では古いメディアと思われがちな出版や学会といった制度ではないでしょうか。
出版では、原則として匿名は認められず、原稿は編集者(たいていは複数)によって注意深くチェックされます。そのチェックに基づき著者は何度も書き直しを行います。出版社としては、変な原稿を出してしまえば自社の経営上の問題につながりますから、チェックは丁寧に行われます(もちろん、訴訟沙汰もいとわず爆弾発言をウリにしているような出版社があれば別でしょうが、まあ、それは例外です)。
経営と言いましたが、お金が関わるということも近代社会では重要なことだと思います。出版社で働く方々は、その出版活動で生活をしているわけですから、出版される書物・雑誌に書かれる文章に対しては真剣にならざるをえません。著者は、文筆活動だけで生計を立てている方はもとより、他の本業があって執筆している人も、原稿料という形で金銭の授受がある以上、それ相応の責任を感じざるをえません。それがたとえ巨額でなくわずかのお金であろうとも、近代社会ではお金が関わることによりそれだけ責任が大きくなります。このことのプラスの面は忘れるべきではないかと思います。
もちろんプラスがあればマイナスもあるわけで、出版はお金が絡むだけに、執筆への参入障壁が大きくなってしまいます。その点、自分が書いた文章を広範囲の人々に読んでもらうことを可能にした自由なネットというメディアは、私たちの文化を豊かにしたと言えるでしょう。
しかし自由で無料のネットがあるから有料の出版物は要らなくなるだろうというのは短絡でしょう。「お金を出して読むだけの価値がある文章」を出版することは、文化の質の担保と向上のためには必要なことと考えられるからです。
逆に言うなら、もし出版社が、ネットの文章をそのまま印刷するような安直な本ばかり出すようになれば、出版は必ず衰退するでしょうし、またそのような「出版」なら衰退すべきとも考えられます。
さらに金銭の授受はほとんどないものの、個々人が実名で自分の名誉をかけて発言・執筆し、学会は学会の名誉をかけてその発言・執筆の場を整備する学会における言論活動というのも、文化の質を向上させるには、やはり重要かと思います。学会には学会のさまざまな問題がありますが、やはり学会というメディアは重要なものかと考えます。
と、話が大きくなりすぎましたが、ネット文化の創成期であった1990年代後半ならともかく、出版や学会などを一概に「古い」と切って捨てることは、そのこと自体が「古い」ことかと思い、この文章を書きました。
自由なネット、金銭授受がある出版、名誉をかけた学会活動といったさまざまなメディアがこれからうまく共進化していくよう、私たち一人ひとりが努力すべきかと思います。
関連記事
『小学校からの英語教育をどうするか』に関するウェブ上のコメントについて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html
柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/03/2015.html
4 件のコメント:
初めてコメントいたします。長年楽しく記事を読ませていただいております。海外の大学で日本語教育に従事している者です。何のための、何を目指した言語教育を自分はやっているのか/目指したいのか、という問いを常に反芻しており、そのことを考える上で、柳瀬先生のブログからいつもたくさんの情報と刺激をいただいております。印象に残っているキーワードで今すぐに思い浮かぶのは「教授者の内省」「言語教育における量的研究の限界」「身体知」「ナラティブの可能性」などですが、ほかにもまだまだ数え切れないほどのことを教えていただきました。このようにブログで、貴重な記事を公開してくださり、本当にありがとうございます。
さて、今回の記事中でも、ご著書についての書評に反応するに際して、印象や直感によりかかるのではなく、読者と判断基準を共有した上で、それに準拠してものを言おうという柳瀬先生の誠実さと、議論の土台作りへの情熱が強く伝わりました。しかも、紹介されているデネットによる建設的な批判のための4か条も、コメンテーターたるもの、かくありたいと思う素晴らしいもので、深く感心いたしました。
実は、その日本語の翻訳についてちょっとうかがいたいことがあるのですが、第3条の括弧内「especially if they are not matters of general or widespread agreement」は、柳瀬先生が訳されたように相手の立論における「general or widespread」のことではなく、世の中で一般的にそうだと思われていることを指していると解釈することはできないでしょうか。つまり、「特に、それが一般的に、あるいは、広い範囲の人々の同意を得ていないようなことである場合に」というような訳の提案です。そのほうが、批判される側の相手の主張を、それに対する世間(あるいは業界)の「常識」というコンテクストをふまえて批判者が理解しているということになり、デネットの主張全体と、より整合するように思います(逆に、現行の訳ですと、要するに立論の枝葉に関わることを特に列挙せよ、ということになって、ちょっと不自然に感じます)。
記事のメインの内容ではなく、議論の前段階のステップの、それも翻訳の細かい点について、しかも専門家である先生に僭越なコメントをしてしまうことになるのを躊躇しましたが、私自身の英語の勉強のために、ぜひお伺いしたいと思い、思い切って初コメントさせていただきました。併せて、こういう機会でもないと発言できない臆病さをどうかお許しください。これからも先生のブログを楽しみにしております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Roof様、
大変に丁寧なコメントをありがとうございました。私が一人で勝手にやっているブログ活動に対してRoofさんのような理解者がいてくださることを知って力を得た思いです。
さて拙訳に対するご指摘をありがとうございます。明らかにRoofさんの解釈・翻訳の方が正しいと思います。と言いますより、Roofさんの翻訳を読んだ瞬間、私は「あっ、そうか。そうだよな」と直観的にRoofさんの解釈・翻訳の方が適確であることを自覚しました。Roofさんの翻訳・解釈の方がいかにもデネットが言いそうなことだからです。(実は、私は該当箇所を訳す際に、うまく説明できない違和感を覚えていましたが、今はその違和感が解消された思いです)。
本来ならこの時点で(いや元々の記事を書く時点で)、デネットの原本を参照して翻訳の正しさをきちんと確認するべきです(でした)が、今はBrain Pickingsの記事以上の資料をもちませんのでそれができません。しかし、まずRoofさんの解釈・翻訳の方が正しいと思います(デネットの"Intuition Pumps and Other Tools for Thinking"は今、注文しました)。ブログ記事にはRoofさんの翻訳を掲載させていただきます。
私は翻訳を提示する際は、(著作権上可能な限り)できるだけ原文を併記したり、参照元のURLを明示したりしています。その習慣に加えてRoofさんのような親切な方がいらっしゃってくれたので、今回は早めに私の誤りを正すことができました。心から感謝申し上げます。
話のついでで申し上げますと、海外の新聞(ウェブ版)やある程度しっかりしたブログでは、参照元のURLを明示したりリンクをはったりすることが当たり前の作法として普及していると思います。ところが日本の新聞(ウェブ版)や私が敬愛するブロガーのブログなどでも、その作法がなされていません。ですから、私は気になった時は自力で検索して原文を参照したりしますが、時に原文が見つからない時もあり、困ることがあります。考えてみれば参照元・引用文献を明示するのは、学術作法の基本の一つですから、この作法が日本語のウェブ圏でも当たり前になることを願っています。
ともあれ、ご指摘をありがとうございました。いつも翻訳の際は気をつけているつもりですが、今後は一層注意して、自分が感じる違和感に丁寧に付き合いたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。万が一お会いできる機会がございましたら、どうぞお気軽にお声をおかけください。
柳瀬先生、大変お忙しいのに、さっそく、そしてとても丁寧なリアクションをくださり、ありがとうございます。コメント欄とは言え、先生と直接やりとりさせていただけて、うれしい気持ちでいっぱいです。拙案が誤解ではなかったことが分かり、また、先生のお気を悪くしてしまうこともなかったようで安心すると同時に、ブログの記事に取り入れてくださったことで、今さらですが、緊張しています。
デネットの本、私もぜひいずれ読んでみたいと思っています。建設的な批判をすることは、批判者じしんの知的能力をも高め、視野を広げることにもつながるので、質が高い批判であればあるほど、立論者・批判者の双方が得るところのある、理想的なコミュニケーションだという気がします。
そういうコミュニケーションによって作られるコミュニティが、一人一人の生活のどこかに、いつもあるような世界であればいいな、自分の仕事や研究、日常生活を通して、その一助となりたいなと思っています。……すみません、最後は話が膨らみすぎました。いつか、直接お目にかかって話せそうな機会があれば、お言葉に甘えて、ぜひお声かけさせていただきます。これからもよろしくお願いいたします。取り急ぎお礼まで。
Roof様、
コメントに気づくのが遅れ、掲載が先ほどになってしまったことをお詫び申し上げます。嬉しい気持ちは私も同じです。
私は「2ちゃんねる」が最初に登場した時には、究極の民主的メディアが生まれたかと大きく期待しましたが、そこで多く見られる短見や罵詈雑言にその期待はすぐに失せました。TwitterやFacebookはまだ続けていますが、時に、そこで展開される非生産的で破壊的であるように思える言説に失望し、今は一部のものを除きあまり見なくなっています。
英語であれ日本語であれ何語であれ、言語教育は生産的で建設的なコミュニケーションを促進するべきものだと考えます。そのためには言語形式の教授だけでは無理で、言語使用についても適切な指導が必要です。
まずは言語教師が言語使用の範を示すべきと思いますが、なかなかうまく行かないのが現状です。
これからもどうぞよろしくお願いします。
2015/06/05
柳瀬陽介
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