5月から7月にかけての講演の一つとして、5月17日(日)に広島国際大学広島キャンパスで開催される日本児童英語教育学会中国四国支部研究会で90分の講演をさせていただきます。
主催者によるウェブ広報
http://www.jastec.info/2015meeting/20150517.pdf
http://www.jastec.info/2015meeting/20150517.pdf
その際のスライドをここでも公開しますので、ご興味のある方は御覧ください。
日本児童英語教育学会中国四国支部研究会講演(2015/05/17)
小学校からの英語教育をどうするか
―いくつもの分断を乗り越えるために―
小学校からの英語教育をどうするか
―いくつもの分断を乗り越えるために―
スライドでは、私がよく言及するダマシオやルーマンはおろか、カント、アレント、ユングのことばが引用され、さらには安倍晋三首相とハイエクの顔写真が(異なる考えの持ち主として!)連続登場しますので、「理屈はたくさんだ。もっと現場がどうすればよいか具体的な指示を出してくれ!」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私が『小学校からの英語教育をどうするか』でも、『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』でも、『成長する英語教師をめざして』でも、『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』でも、一貫して言い続けているのは、あまりにも多くの要因が絡む教育現場の問題が一つ(あるいは少数)の処方箋で解決することはないということです。(関連記事:教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ)
「複雑(複合的, complex)である」という意味での「現場」の人間ができることは、状況をできるだけ観察した上で明確な意図をもって実践を行い、その結果を観察しなおして言語化し、その言語化によって他者とコミュニケーションを図りながら、その言語化された観察を再観察(二次観察)して、自らの観察力と言語力を練り上げて新たに実践を試み、さらにその結果を観察して・・・といった「反省的実践」 (reflective practice) を繰り返すことです。
その経験の積み重ねを抜きにして、一気に実践者としての力量をあげよう・あげさせようとすると、いろいろな無理が生じてしまうということは、実践者が痛感していることかと思います。この論点が、教師を含めた実践者でない方はおろか、時には教育関係者の方々にすらも、なかなかわかってもらえないことはとても残念です。(古典的な作品でいえば、ドナルド・ショーンの著作やデューイの著作、あるいは西岡常一氏らの著作などをお読みいただけたらと思います)。
私がこの講演で訴えたいことの一つは、コミュニケーションを教えているはずの私たち英語教育関係者が、(小学校)英語教育に関してきちんとコミュニケーションをしているか、ということです。「東大話法」という命名でも明らかになったように、「立場」からのタテマエばかりが語られたり、自分の腑に落ちていないことばを使い続けていたりしないか、といったことです。そうやって、私たちのコミュニケーションについて考えなおすためには、ダマシオ、ルーマン、カント、アレント、ユングといった人々のことばが有効であると私は考えています。
回り道に見えても、万能薬的な処方箋を求めず、実践についてのコミュニケーションにおける私たちのことばを練り上げることが、実践を向上させるために取るべき方法だと私は考えています。なぜなら、ことばこそが反省的実践における重要なメディアだからです。
練り上げたことばと共に、多くの実践を深く、多面的に観察し、そこからことばをさらに練りあげて同僚とコミュニケーションを重ねてゆく ― この地道な反省的実践に多くの教師が参画すること(そして参画できるだけの余裕を教師に与えること)が、私たちが取るべき方策だと私は考えています。
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