2012年10月27日土曜日

ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店



ここではレイコフの『認知意味論』(Women, Fire and Dangerous Things)の11-14章と17章を中心にまとめます。これらの章は同書の第二部「哲学的な意味合い」(Philosophical Implications)の中にあります。15-16章はパトナムの哲学に関する章ですが、パトナムの論考は重要だと思いますので、パトナムの書を読んでから別稿でまとめることにします。以下に原著からの引用をしますが、ページ数は原著のページ数であり、その翻訳は基本的に私がおこなったものです(ただし翻訳書からは莫大な恩恵を受けています)。





1 客観主義と経験基盤主義の対比

この本の目的は、理性に関する伝統的な見解と新しい見解を対比し、後者の優位性を立証するものです。ただし、前者の全面否定は意図していません。著者は、古典的カテゴリー (classical categories)などの伝統的見解を、人間の精神の所産 (a product of the human mind) として高く評価しています (p. 160)。著者のねらいは、身体とそれに基づく想像力の役割をほとんど認めない伝統的見解を批判し、新しい見解を提示することにより、より十全な人間理解を行うものだと私は読みました。


著者は伝統的見解と新しい見解を対比します。

伝統的見解では、理性は抽象的で身体から抜け出たものだとされている。新しい見解では、理性には身体的基盤がある。伝統的見解は、理性を主として、客観的に真か偽のどちらかである命題に関する字義的なものとみなす。新しい見解は、メタファー、メトノミー、メンタル・イメージといった理性の想像的な側面を、理性にとって中心的なものとしてとりあげ、[伝統的見解のように] 字義性にとって周縁的で取るに足らない付け足しのようには考えない。

On the traditional view, reason is abstract and disembodied. On the new view, reason has a bodily basis. The traditonal view sees reason as litral, as primarily about propositions that can be objectively either true or false. The new view takes imaginative aspects of reason -- metaphor, metonymy, and mental imagery -- as central to reason, rather than as a peripheral and inconsequential adjunct to the literal. (xi)


しかし両者はまったく異なるものではなく、両者は例えば「基礎的実在論」 (Basic Realism) を共有しています。基礎的実在論とは次のような特徴を含む考え方です。

- 人間の外部にありながらも人間の経験の現実をも含んだ現実世界の存在を大切にすること 
- 概念システムと現実の他の側面の間のなんらかのつながり 
- 真理を、[人間の心の中の] 内的な整合性にのみ基づいているわけではないものとして概念化すること - 外的世界に関する安定した知識の存在を大切にすること 
- 「なんでもあり」、つまりはどんな概念システムも同じように優れているとする見解を拒むこと

- a commitment to the existence of a real world, both external to human beings and including the reality of human experience 
- a link of some sort between conceptual systems and other aspects of reality 
- a conception of truth that is not merely based on internal coherence 
- a commitment to the existence of stable knowledge of the external world 
- a rejection of the view that "anything goes" -- that any conceptual system is as good as any other (p. 158)


それでは以下、伝統的見解である客観主義 (objectivism) と、新しい見解である経験基盤主義 (experientialism) をまとめます。





2 客観主義 (objectivism)

客観主義のパラダイムは、形而上学と認識論の二つに分けて説明することができます (p. 159)。


2.1 客観主義者的形而上学

客観主義者の形而上学は、次のように説明されています。

客観主義者的形而上学: 現実のすべてはモノから構成されており、モノは常に一定の特性と関係性を有している。

OBJECTIVIST METAPHYSICS: All of reality consists of entities, which have fixed properties and relations holding among them at any instant. (p. 160)


客観主義者的形而上学は、本質主義 (essentialism) と重なる考えですが、それらから生まれてくるのが、古典的カテゴリー化 (classical categorization) の考え方であり、それはさらに、以下の考え方につながります。

客観的カテゴリー説: 世界にあるモノは、それぞれの客観的特性に基づいた、客観的に存在するカテゴリーを形成する。

THE DOCTRINE OF OBJECTIVE CATEGORIES: The entities in the world form objectively existing categories based on their shared objective properties. (p. 161)


さらに、これらの特性は、究極的にはそれ以上分割できない単純で原子的なものに分析できます。

現実世界の原子論: すべての特性は、原子的であるか、もしくは原子的特性が論理的に結合された特性である。

REAL-WORLD ATOMISM: All properties either are atomic or consist of logical combinations of atomic properties. (p. 162)


それぞれ固有の特性を客観的なカテゴリーとしている「モノ」は、お互いに客観的で論理的に関係しあっています。

客観主義者的論理: 世界にあるすべてのカテゴリーの間には論理的な関係が客観的に存在している。

OBJECTIVIST LOGIC: Logical relations exist objectively among the categories of the world. (p. 162)


このような考え方は東洋の私たちにはずいぶん奇異な考え方のように思えますが、西洋近代では非常に強力な考え方です。実は「原子的な特性とは何か」を具体的に考えるとこれは非常な難問(というより具体的には答えられない特性  ―カントなら「超越論的幻想」と言うでしょうか―)であるのですが、その課題はひとまず置いておいて原子的特性をもったモノの間の論理的な関係を考えようとするアプローチは、ヒルベルト (Hilbert, 1862-1943) による、数学を形式化し、数学全体の完全性と無矛盾性を示そうとするヒルベルト・プログラムをに見られます。ヒルベルト・プログラムは、それ以降の西洋の学問に多大な影響を与えました。

近代言語学の統語論と意味論の考え方も、ヒルベルトの記号論理学(数理論理学、mathematical logic) に由来します。

記号論理学(数理論理学)において、ヒルベルトの公理的方法は、論理それ自体に適用されている。演繹的論理システムは、複数の未解釈の記号、未解釈記号を結合し適格な式を作り出す形成規則、および、ある記号列が別の記号列と置き換えられることを容認する変形規則から成り立っている。有限個の適格な式が公理とされる。定理は変形規則により公理から導き出される。証明は記号列の並びに過ぎない。このような演繹的システムにおける記号とは、専門的観点からするなら、まったく意味を有しない。形成規則と変形規則のそのようなシステムが形式「統語論」と呼ばれる。
「意味論」とは、「統語論」の未解釈記号に「意味を与える」専門的な方法である。

In mathematical logic, Hilbert's version of the axiomatic method is applied to logic itself. A deductive logical system consists of a collection of uninterpreted symbols, formation rules that combine these into well-formed formulas, and transformation rules that permit certain strings of symbols to be substituted for other strings of symbols. A finite number of well-formed formulas are taken as axioms. Theorems are derived from axioms by transformation rules. A proof is just a sequence of strings of symbols. The symbols in such a deductive systems are, technically, completely meaningless. Such a system of formation rules and rules of transformation is called a formal "syntax."
"Semantics" is a technical way to "give meaning" to the uninterpreted symbols of the "syntax." (p. 222)


以上の説明は、そのままチョムスキーの言語学の考え方に当てはまります。

生成言語学が定義する言語とは、適切に制限された産出規則により生成された未解釈記号列の集合である (チョムスキー 1957を参照せよ)。 したがって、生成言語学での統語論規則は、定義上、意味論からは独立している。意味論は、これも定義上、解釈的なものであり、意味論が統語論の未解釈記号に意味を与えるのである。

Generative linguistics defines a language as a set of strings of uniterpreted symbols, generated by some appropriately restricted version of production rules (see Chomsky 1957). Rules of syntax within generative linguistics are thus, by definition, independent of semantics. Semantics is, by definition, interpretive; that is, it gives meaning to the uninterpreted symbols of the syntax. (p. 227)


しかしここでレイコフが注意を喚起するのは、このように記号論理学(数理論理学)の考え方を自然言語に適用することは、記号論理学(数理論理学)が引き起こしている帰結 (consequence) ではなく、近代言語学者が適用することにした一つのメタファーにすぎないということです。

これまで見てきたように、文法を一種の産出規則システムと「定義」し、言語をそのシステムによって生成される記号列の集合と「定義」することは、記号論理学(数理論理学)が引き起こしている帰結ではない。この定義は、単に価値自由的に数学を自然言語に適用したものではない。この定義が示しているのは、自然言語をこのようなシステムによって理解しようという決意である。統語論は意味論から独立しているという、統語論の自律性は、このメタファーが引き起こしている考え方である。もしあなたがこのメタファーを受け入れるなら、自然言語の統語論は意味論から独立しているが意味論は統語論から独立しているわけではないということが、定義上、真となる。だがそれはメタファー的な定義にすぎない!

As we have seen, such a "definition" of grammar as a kind of system of production rules and a language as a set of strings of symbols generated by that system is not a consequence of mathematical logic. It is not merely a value-free application of mathematics to natural language. It is the imposition of a metaphor -- a metaphor based on objectivist philosophy. It characterizes a commitment to try to understand natural language in terms of such systems. The autonomy of syntax -- the independence of sysntax from semantics -- is a consequence of that metaphor. If you accept the metaphor, then it is true by definition (metaphorical definition!) that natural language syntax is independent of semantics, but not conversely. (pp. 227-228)


ちなみにこのような客観主義者の形而上学の典型はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に見出すことができます(参考:野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫))。形而上学の適切な展開についてはカントも論じていたことでした(参考:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)。数学的発想の簡単なまとめについては「遠山啓『現代数学入門』ちくま学芸文庫」)をご参照ください。



2.2 客観主義者の認識論

上記のような形而上学に基づき、客観主義者は以下のような認識論 (epistemology) を妥当とします。

客観主義者的認知: 思考とは抽象記号の操作である。記号は、世界のモノとカテゴリーに対応することにより意味を得る。このようにして、心は外的現実を表象することができ、「自然の鏡」であるとされる。

客観的概念: 概念は記号であり、それは、(a)概念システムの他の概念と関係し、(b)現実世界(もしくは可能世界)のモノとカテゴリーに対応する。

OBJECTIVIST COGNITION: Thought is the manipulation of abstract symbols. Symbols get their meaning via correspondences to entities and categories in the world. In this way, the mind can represent external reality and be said to "mirror nature."

OBJECTIVE CONCEPTS: Concepts are symbols that (a) stand in a relation to other concepts in a conceptual system and (b) stand in correspondence to entities and categories in the real world (or possible worlds). (p. 163)


こういった認識論に基づくと、合理性 (rationality) とは以下のように規定されます。

客観主義者的合理性: 人間の理性が正しいのは、それが客観主義者的論理に適うときである。つまり思考で使われた記号が世界のモノとカテゴリーに正しく対応し、心が世界のモノとカテゴリーの間に存在する論理的な関係を再生するときである。

OBJECTIVIST RATIONALITY: Human reason is accurate when it matches objectivist logic, that is, when the symbols used in thought correctly correspond to entities and categories in the world and when the mind reproduces the logical relations that exist objectively among the entities and categories of entities in the world. (p. 163)


こういった考え方では、「事実」とは、いかなる人間のあり方・営みとも独立に存在しているものであると想定されます。

独立性の想定:存在と事実は、人間の信念、知識、知覚、理解の様態、およびその他すべての認知的能力から独立している。真なる事実が、人間の信念、知識、概念化、およびその他すべての認知に依拠していることはあってはならない。存在はいかなる点においても人間の認知には依拠していない。

THE INDEPENDENCE ASSUMPTION: Existence and fact are independent of belief, knowledge, perception, modes of understanding, and every other aspect of human cognitvie capacities. No true fact can depend upon people's believing it, on their knoweldge of it, on their conceptualization of it, or on any other aspect of cogntion. Existence cannot depend in any way on human cognition. (p.164)


これは一神教的な「神」の視点からの認識論ですが、一神教の信仰をもたない日本人の中にも、たとえば量的研究方法を信奉し、質的研究法を一切認めない研究者などにこのような認識論は見出すことができます。ちなみにパウロ・フレイレは、いかなる主体性 (subjectivity) も否定する客観主義 (objectivism)と、いかなる客体性 (objectivity) も否定する主観主義 (subjectivism) は同根のともに批判されるべきものと主張し、現実世界の主体性と客体性の弁証法的関係 (dialectical relationship) を強調しました。これについては"Paulo Freire (1970) Pedagogy of the Opressed"をご覧いただければ幸いです。

こういった認識論からは、次のような意味論が生じます。ことばが「意味をもつ」ことは、もっぱら次のような考え方に基づくです。

客観主義者的意味論: 言語表現は、現実世界もしくは可能世界と対応することもしくは対応し損なうことによってのみ、意味を得ることができる。つまり、名詞句の場合は正しい指示ができていること、文の場合は真か偽であることによって、意味が得られるのである。

OBJECTIVIST SEMANTICS: Linguistic expressions get their meaning only via their capacity to correspond, or failure to correspond, to the real world or some possible world; that is, they are capable of referring correctly (say, in the case of noun phrases) or of being true or false (in the case of sentences). (p. 167)






2.3 客観主義の帰結

客観主義は、「統語論は意味論から独立している」としましたが、それはさらに「意味論は語用論から独立している」という考えを生み出します。かくして、統語論-意味論-語用論という序列関係が成立します。

文がどのように使われ、話者が自分のことばで何を意味しているのかという研究は、
「語用論」として隔離される。意味論は定義上語用論から独立している。というのも意味論的な意味は、いかなる話者の文使用からも独立した、一定の真理条件の観点から定義されるからである。
意味論と語用論の区別により、きわめて重要な価値群が導入される。意味論は言語と客観世界の結びつきを定めるので、意味論には中心的な役割が与えられる。語用論は客観的現実と関わりなく「単に」人間のコミュニケーションに関わっているだけであるから、語用論は周縁的なものとされ二次的な興味しか与えられない。

The study of how senteces are used and what speakers mean by what they say is segregated off as "pragmatics." Semantics is by definition independent of pragmatics, since semantic meaning is defined in terms of fixed truth conditions independent of the use of a sentence by any speaker.

The semantics-pragmatics distincition introduces an all-important set of values into the study of maning. Semantics is given a central role, because it specifies connections between language and the objective world. Pragmatics is taken to be peripheral, and of secondary interest, since it is not concerned with anything having to do with objective reality, but "mearely" with human communication. (p. 171)

チョムスキーの言語学は、統語論を意味論と語用論より優先させるだけでなく、言語能力(language faculty) が、一般的認知的能力から独立したものであると、言語能力の自律性をしますが、レイコフによるなら、そのような価値観は、チョムスキーの言語学が成立するために必要とされています。

チョムスキーの流れをくむ生成言語学では、一般的認知能力をまったく使用しない自律的な言語能力が存在することを当然のこととして想定している。この想定は、生成言語学にとってどうでもいい想定ではない。これは生成言語学が依拠している基本メタファー(「文法は形式システムである」)を維持するために必要な想定である。形式システムとは、アルゴリズム計算と同じような書き換え規則の集合体である。生成言語学の理論は、数学的な特徴を備えているが、それは意味にかかわらずに記号を操作するアルゴリズムシステムの観点から特徴づけられているのである。定義上、アルゴリズムシステムは、記号がどのように意味論的解釈を受けるかにまったく影響を受けない。もし生成文法がそのようなシステムであれば、それは定義上、記号の解釈を必要としない。文法のいかなる規則においても意味、記号の理解は必要とされない。もし記号の解釈が行われるなら、それは生成言語学をの理論を放棄することを意味してしまう。つまり、「文法は厳密な意味で形式システムである」という基本メタファーを捨て去ってしまうことになる。

Generative linguistics (in the Chomskyan tradition) takes for granted that there is an autonomous language faculty that makes no use at all of general cognitive capacities. This is not an idle assumption on the part of generative linguistics. It is an assumption that is necessary in order to maintain the basic metaphor on which generative linguistics is based, namely, A GRAMMAR IS A FORMAL SYSTEM. A formal system is a collection of rewriting rules that can mimic an algorithmic computation. The theory of generative linguistics is mathematically characterized in terms of such algorithmic systems, which manipulate symbols without regard to their meaning. By definition, an algorithmic system is one in which no algorithm can be sensitive to the way a symbol is semantically interpreted. If a generative grammar is such a system, then it is by definition required that no interpretation of the symbols -- no meaning, no understanding of them -- can be made use of in any rule of grammar. To do so would be to abandon the theory of generative linguistics -- to give up on the basic metaphor that a grammar is a formal system in the technical sense. (pp. 181-182)


しかしそもそも客観主義そのものは正しい信条なのでしょうか。レイコフは客観主義は、考えることはできるが、完全に正しい信条ではないと判断します。

たとえば生物種は、しばしば上に述べた「自然種」の典型例とされますが、生物学的に仔細に検討すると次のようなことが判明し、客観主義は完全には正しくないことがわかります。

生物種は、均質な内部構造をもたない。

生物種は、他の生物群集 [= 同じ区域に生息する生物種全体] との関連で定義される。

生物種は、個体の特性だけで定義できない。

生物種は、明確な境界線をもっていない。

生物種は、推移的ではない [= 「a = b でかつ b = c であれば、a = c が成り立つ」といった推移関係が必ずしも成立しない]

生物種は、必要条件をもたない。

生物種は、地勢に依存している。

- It [= the biological species] does not have a homogeneous internal structure.

- It is defined relative to other groups.

- It is not defined solely with respect to properties of individuals.

- It does not have clear boundaries.

- It is not transitive.

- It does not have necessary conditons.

- It is dependent on geograpy. (p. 235)


別の例を取るなら、「色」というカテゴリーは、人間とは独立に客観的に存在しているわけではありません。

光の波長は人間の外部の世界に存在するが、色のカテゴリーはそうではない。私たちが異なる波長を同じ色カテゴリーに属すると判断することには、人間の生理学、つまり網膜の錐体と目と脳の間の神経経路が、部分的に関与している。色は私たちが世界と相互作用することから生じている。色は私たちの外部に存在しているわけではない。色のカテゴリー化には、文化的慣習が部分的に関与している。文化が異なれば、基本色カテゴリーにも異なる境界線が与えられるからである。色のカテゴリー化には認知機構も関与している。オレンジ色のような、原色ではないが焦点色である色の存在を説明するのに人間の認知機構を考えることが必要だからである。したがって、色は心のカテゴリーであり、見る存在者を排除した世界に客観的に存在しているわけではない。

Wavelengths of light exist in a world external to human beings; color categories do not. The fact that we categorize different wavelengths as being in the same color category partly depends on human physiology -- on the cones in the retina and the neural pathways between the eye and the brain. Colors arise from our interaction with th world; they do not exist outside of us. Color categorization is also partly a matter of cultural convention since different cultures have different boundaries for basic color categories. Color categorization also involves cognitive mechanisms, which are needed to account for the existence of focal nonprimary colors, like orange. Thus colors are categories of mind that do not exist objectively in the world exclusive of seeing beings. (p. 198)


また、新聞によって「事実」として報道される内容にも、人間の認知が入っています。例えば1984年11月14日のSan Francisco Chronicleは、"Employees across the nation this year will steal $150 billion worth of time from their jobs"や"The study showed that the average weekly time theft figure per employee amounted to four hours and 22 minutes." (pp. 209-210)などと報道しましたたが、これらを「事実」とするためには、TIME IS MONEYという特定のメタファーを受け入れなければなりません。私たちがしばしば「事実」と認定している事象にも、特定の人間的な関与があります。私たちは厳密な客観主義によって暮らしてはいません。







3 経験基盤主義 (experientialism)

このように西洋近代で好まれて想定されてきた客観主義は、少なくとも部分的には破綻していますし、むしろ人間的な事象を扱うには適切ではないと考えられるわけですから、私たちには新しい見方が必要になります。レイコフによるならそれが経験基盤主義 (experientialsim)です。

経験基盤主義によれば、私たちの概念システムは「基本レベル」(basic level)と「イメージ・スキーマ的概念」(image-schematic concepts)の二重の基盤をもっています(p. 279)。以下、基本レベルとイメージ・スキーマ的概念をまとめ、これらを基盤とする経験基盤主義の意味するところについて述べることにします。



3.1 基本レベル (basic level)

「動物」-「犬」-「レトリーバ犬」や、「家具」-「椅子」-「ロッカー」といった単語を聞いたとき、私たちは2番目の語をもっとも基本的な語ととして認識します。これら3つの語は、「上位レベル」(superordinate)-「基本レベル」(basic level)-「下位レベル」(subordinate)の語の例としてみることができます(p. 46)。

基本レベルのカテゴリーは以下の特徴をもちます。

知覚:全体的な形状としてに知覚される形である。単一のメンタル・イメージである。すぐに同定できる。

機能:身体的相互作用を行う一般的なレベルである。

コミュニケーション:語として、最も短く、好んで使われ、かつ文脈的には中立的だとされる。子どもは最初にこれらの語を習得し、語彙として定着する。

知識構成:カテゴリーのほとんどの属性はこのレベルでの知識として所蔵される。

Perception: Overall perceived shape; single mental image; fast identification.

Function: General motor program.

Communication: Shortest, most commonly used and contextually neutral words, first learned by children and first enter the lexicon.

Knowledge Organizaition: Most attributes of category members are stored at this level.


これらの基本レベルの概念そして語は、人間の営みに密接に関連しています。すなわち私たちの身体、習慣・慣習、価値などの特性によってこれらが定まっています。これは厳密な客観主義では想定できないレベルです。



3.2 イメージ・スキーマ概念 (image-schematic concepts)

イメージ・スキーマ概念 (image-schematic concepts)について、レイコフは、ジョンソンのThe Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reasonの議論を次のように集約してまとめます。

- イメージ・スキーマが、私たちの経験を、概念形成に先立って構造化する。

- イメージ・スキーマに対応するイメージ・スキーマ概念が存在する。

- イメージ・スキーマの基本的論理をたもったまま、イメージ・スキーマを抽象的領域に写像するメタファーが存在する。

- それらのメタファーは恣意的ではなく、私たちの日常的な身体的経験によって導かれている。

- Image schemas structure our experience preconceptually.

- Corresponding image-schematic concepts exist.

- There are metaphors mapping image schemas into abstract domains, preserving their basic logic.

- The metaphors are not arbitrary but are themselves motivated by structures inhering in everyday bodily experience. (p. 275)


このイメージ・スキーマ(あるいは運動感覚的イメージ・スキーマ (kinethetic image schemas) (p. 271) の例としてあげられているのは、「容器スキーマ」 (The CONTAINER Schema)(p. 272)、「部分-全体スキーマ」 (The PART-WHOLE Schema) (p. 273)、「連結スキーマ」 (The LINK Schema) (p. 274)、「中心-周縁スキーマ」 (The CENTER-PERIPHERY Schema) (p. 274)、「起点-経路-到達点スキーマ」 (The SOURCE-PATH-GOAL Schema) (p. 275)、「上下スキーマ」(UP-DOWN Schema)(p. 275)、「前後スキーマ」(FRONT-BACK Schema)(p. 275)、「線形順序スキーマ」(LINEAR ORDER)(p. 275)などですが、これらはまだ研究途上のものであるとしています(p. 275)。



3.3 経験基盤主義の帰結

基本レベルとイメージ・スキーマ概念は二重の基盤(dual foundation)として、私たちにとって「直接的に有意味」(directly meaningful) ですが、この私たちの概念システム (conceptual system)には、客観主義が想定している「原子記号」(primitives)は存在しません。(p. 279) なぜなら原子記号は、客観主義により内部構造をもたない(The concepts with no internal structure are primitive. p. 279) とされていますが、基本レベルとイメージ・スキーマ概念にはそれぞれ内部構造があるからです。

経験基盤主義により「意味」は新たな定義を得ます。

意味とはモノではない。意味は私たちにとって有意味だということに伴っている。それ自身で有意味なものは何もない。有意味性は、ある種類の存在者がある種類の環境の中で機能するという経験の中から生じる。

Meaning is not a thing; it involves what is meaningful to us. Nothing is meaningful in itself. Meaningfulness derives from the experience of functioning as a being of a certain sort in an environment of a certain sort. (p. 292)


「真理」についても刷新され、私たちの暮らしに根ざしたものになります。

ある状況でのある言明を私たちが「真」とするのは、その言明に関する私たちの理解が、私たちの目的に沿ったその状況の理解にふさわしい場合である。

これが経験基盤者による真理の説明の基盤である。これは絶対的な、神の視点からの真理ではない。だがこれを私たちは日常的に真とみなしているのである。

We understand a statement as being true in a given situation if our understanding of the statement fits our understanding of the situation closely enough for our purposes.

That is the basis of an experiantialist account of truth. It is not absolute, God's eye view of truth. But it is what we ordinarily take truth to be. (p. 294)

かくして「客観性」の概念も新たにされます。これこそが私たちが日々使いながら洗練させていこうとしている客観性概念ではないでしょうか。

客観主義者の伝統の中で、客観性は、モノをできるだけ客観的な神の視点から見るために、いかなる主観的な側面も消去することを意味していた。しかし神の視点を得ることが人間には不可能だということは、客観性が不可能だとか望ましくないとかいうことを意味しない。客観性とは次の2点から構成される。

第一に、自分の視点から離れ、状況を他の視点から、しかもできるだけ多くの視点から見ること。

第二に、直接的に有意味なもの --基本レベルとイメージ・スキーマ概念-- と、間接的に有意味な概念の区別ができること。

したがって客観的であるためには以下のことが必要である。

- 人にはそれぞれの視点があり、それは単なる信念の集合ではなく、信念が形成される特有の概念システムであることを知ること。

- 人の視点が何であるかを知り、その概念システムがどのようなものであるかも知ること。

- 他の関連性のある視点を複数知り、それらの視点を形成するそれぞれの概念システムを使うことができること。

- 状況を、複数の他の視点から、それぞれの概念システムを使いながら評価できること。

- 生命体としての人間および私たちの環境の一般的性質からして比較的に安定し明確に定義されている概念(例、基本レベルとイメージ・スキーマ概念)を、人間の目的と間接的な理解の仕方によって変化する概念から区別できること。




Within the objectivist tradition, objectivity meant eliminating any aspects of the subjective so as to better see things from an objective, God's eye point of view. But the fact that a God's eye view is not possible does not mean that objectivity is impossible or any less a virtue. Objectivity consists in two things:

First, putting aside one's own point of view and looking at a situation from other points of view -- as many others as possible.

Second, being able to distinguish what is directly meaningful -- basic level and image-schematic concepts -- from concetps that are indirectly meaningful.

Being objective therefore requires:

- knowing that one has a point of view, not merely a set of beliefs but a specific conceptual system in which beliefs are framed

- knowieng what one's point of view is, including what one's conceptual system is like

- knowing other relevant points of view and being able to use the conceptual systems in which they are framed

- being able to assess a situation from other points of view, using other conceptual systems

- being able to distinguish concepts that are relatively stable and well-defined, given the gneral nature of the human organisim and our environment (e.g., basic-level and image-schema concepts), from those concepts that vary with human purposes and modes of indirect understanding (p. 301)


これらの論考により、私たちはまた「西洋近代」の特徴をより「客観的」に理解できるのではないでしょうか。私たちは西洋近代の発想に拘束されることなく、また逆にそれを拒絶することなく、物事を考えてゆきたいと思います。









関連記事
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html


身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html






2012年10月26日金曜日

遠山啓『現代数学入門』ちくま学芸文庫




独立研究者の森田真生先生 (@orionis23) の講演・ワークショップは、数学により私たちの心をかき回します。しばらくは、めまいにも似た知性の混乱を覚えることすらありますが、時間がたち、心が静まってくると、以前よりはっきりと物事が考えられるようになっていることに気づきます。その時間とは数十秒や数分であることもあれば、数ヶ月であることもあるのですが・・・。

私は参加したとき、できるだけノートを取るようにしているのですが、いかんせん私の手(というより知性そのもの)が間に合いません。結果残るのは極めて不完全なノートです。

私はこれまでの経験・習慣からか、書きことばを使って理解し考えることを自分のスタイルとしています。つまり自分の時間配分で書きことばを見つめ、反芻し、下線を引いたり書き込みをしたりしながら、最後は自分のことばで理解を再構成することで、ようやくなんとか新しい考えを理解する(あるいはした気持ちになる)ことができるわけです。

残念ながら森田先生にはまだ本格的な著作物がありませんので、私は森田先生から学んだ数学の喜びをまだほとんど自分の身につけていません(特に森田先生が特に興味をもっている圏論の考えなど)。しかし書店で、遠山啓先生のこの本を見かけた時、「そうだ、遠山先生の本なら!」と思い、購入しました。私は教育学部を卒業し、教育学部に勤務しながら、今まで恥ずかしながら遠山先生の著作を一冊も読んだことがなかったのですが、昨晩、仕事に疲れてもう何もする気になれなかったので、ふと読み始めたら面白く、一気に読み通しました(とはいえ、後半部分にはきちんと理解できない箇所も多々ありました)。

数学的発想について理解をしておくと、それだけ自分の思考が整理されるような気がします。以前には見えてこなかったつながりが見えてきたりします。というわけで、以下は、この遠山先生の本の前半部分(以前は『数学は変貌する』(1971年、国土社)として出版)のまとめです。私家版のまとめとして書きました。

私の言葉をかなり入れたので、いちいち引用頁数を入れることはしませんでした。桁数による構造化も私によるものです。間違いもあるかと思います(というより、私は高校1年生で数学に落ちこぼれて以来、テストでまともな点を取ったことがありません)。あまりにひどい間違いはご指摘いただければすぐに訂正しますが、もしご興味をもたれた方は、どうぞ以下のまとめはあまり信頼せず、必ず原著もしくは信頼できる類書をご参照下さい。



1 古代の数学

1.1 実用目的

古代の数学は、特にエジプトと中国で発展した。数学は主に税金取り立て、治水工事、建築物構築などの実用的目的であった。

1.2 タレスによる証明の誕生

古代数学は、古代ギリシャによって次の段階に進む切っかけがつくられた。特にタレス(紀元前640-546)は、古代にはなかった証明を考えだした(例「二角と夾辺が同じ三角形は合同である」)。



2 中世の数学

2.1 ピタゴラスによる証明の重視

ピタゴラス(紀元前582-497)はタレスの考え方を受け継ぎ「ピタゴラスの定理」などを証明した。

2.2 証明と自由な議論文化

この証明重視の背後には、ギリシャ市民が自由な議論を行うという文化があったのかもしれない。専制国家では弁論術、修辞学あるいは論理学は発展しなかっただろう。

2.3 ユークリッドの静的な数学

ユークリッド『原論』は、証明の思考法に基づき一般法則から特殊な事実を導き出す演繹的なものであったが、もう一つの特徴は静的であったことである。運動が退けられ動的なことはあまり考えられなかった。

2.4 アルキメデスとアラビア文化 アルキメデス(紀元前287-212)は、すでに今日の微分積分学の入口のところまでいった天才であったが、その後継者は宗教的権威が強かった中世のヨーロッパにはほとんど現われず、彼の数学はアラビアに伝えられ、後にヨーロッパに逆輸入された。



3 近代の数学

3.1 デカルトの『方法序説』

数学の近代的考え方が明瞭に生まれたのはデカルト(1596-1650)からであるが、彼の『幾何学』は『方法序説 』の付録として書かれたものであった。

3.1.1 デカルトの4つの研究法
彼の(1)明証、(2)分析、(3)総合、(4)枚挙、の原則は近代に大きな影響を与えた。

3.1.2 座標の発明
デカルトの座標 (coordinate) の考え方は幾何学を一変した。平面上の点は、x座標とy座標の二つの数の組になり、代数で幾何ができるようになった(解析幾何学 analytic geometry)。

3.2 動的な数学の発展

解析幾何学により運動や変化といった動的な性質が数学で扱えるようになった。これはニュートン力学の誕生にもつながった。

3.3 微分と積分

微分 (differentiation, differential, derivation) はデカルトの「分析」、積分 (integration) は「総合」を数学的に行なっていると考えられる。

3.3.1 微分法則と積分法則
ニュートンの法則は微分法則と呼ばれるが、それは例えば加速度を考える際に、無限に小さな時間と無限に小さな距離を考えたからである。一方、ケプラーの法則は、惑星が回る時間全体を考慮することによって成立するものであり、積分法則と言える。

3.3.2 微分方程式
ニュートン力学の予測能力は当時にとって衝撃的であり、未来はすべて微分方程式でわかるのではないかといった数学万能の考え方すら生まれた。

3.4 関数

対応関係という機能で物事をとらえる関数 (function)も近代の数学の重要な特徴である。このy=f(x)という定式化は、しばしば「結果=f(原因)」という思考法につながり、科学に影響を与えた。

3.5 統計

微分積分や関数は精密性を重んじたが、同時に近代数学は「半精密的」ともいえる学問を生み出した。確率論および統計学である。



4 現代数学

4.1 数学の発展と幾何学

古代数学から中世数学への移行のきっかけとなったのがユークリッドの『原論』であり、中世数学から近代数学への移行のきっかけとなったがデカルトの『幾何学』であった。同じように、近代数学から現代数学へ移るのには、ヒルベルトの『幾何学の基礎』が大きな影響を与えた。幾何学は、私たちの住んでいる世界とのつながりが特に強いため、私たちの根本的な思考転換を促しやすいのかもしれない。

4.2 ヒルベルトの「無定義語」

ヒルベルト(1862-1943)の『幾何学の基礎』の最初の目標は、ユークリッド幾何学の正しい基礎づけをすることであった。ユークリッドは、例えば点を「部分をもたない」、直線を「まっすぐである」と定義したが、ヒルベルトはそれらの重要語に定義を与えずに、相互関係をはっきり決めておくだけで公理を成立させたつまり、。無定義語の間の相互関係を規定したものを公理として展開したわけである。この考え方は「構造」(structure)につながってゆく。

4.3 カントールと無限集合

19世紀前半まで集合論は有限集合について扱い、記号論理学とつながったり、対応と写像の考え方を発展させたりしていたが、カントール(1845-1918)は、無限集合も含む集合論を発展させた。

4.3.1 原子論的
カントールの集合論の第一の特徴は原子論的であるということである。これは古代ギリシャ以来の、最小の単位まで物事を分解しようとする衝動を発展させたものと言える。これにより例えば直線は点の集合となったが、同時にそれは点の無限集合でなければならないとなった。

4.3.2 空間的
カントールの集合論の第二の特徴は、それが時間的というよりは空間的であるということである。もともと無限は「可能性の無限」として考えられ、例えば「1, 2, 3, 4, ・・・」といつまでも数え続けられると時間的に考えられていた。これに対してカントールは「実無限」を考え、例えば直線を点の(無限)集合と考える場合も、それは数える手続きからは独立して、現実的に存在しているとした。実無限は時間的というよりは空間的であり、閉じていると考えた。(ちなみにこれと似た発想は、アウグスティヌス(354-430)の、全知全能の神による「永遠の今」、あるいは順序数とは異なる集合数の考え方に見られる)。

4.3.3 「部分が全体と等しい」
AとBが二つの無限集合で、その要素のあいだに1対1対応がつけられるとき、「AとBは同値である」あるいは「同じ濃度をもつ」と言い、「A~B」と表記される。ここでAを自然数全体の集合、Bを偶数全体の集合とすると、Bは明らかにAの部分集合のように思える。しかしAの各要素に、BのなかのAの要素の二倍の偶数を対応させると、これらは無限集合である以上、AとBの間には1対1対応が成立し、両者は同値となる。つまり「部分が全体に等しい」となる。さらにカントールは「直線上の点の集合と平面上の点の集合とが同じである」と証明したが、これは彼にとっても信じられないような証明であった。だが、ここで注目すべきは、ここでは、二つの集合の内部構造がまるで無視されており、それぞれの集合のもつ「構造」を捨象して、いっさいのものが原子にまで分解されていることである。



4.4 構造

構造は集合との関連で考えると理解しやすい。集合は単なる要素の集まりにすぎず、要素相互の関係は考えていない。構造は各要素間の相互関係を規定したものである。構造の例としては、7日で一巡する月・火・水・木・金・土・日の構造、じゃんけん(グー・チョキ・パー)の三すくみ構造、血液型の輸血可能性(O→A, O→B, A→AB, B→AB)の構造がある。ちなみに、俗説の「ヘビ・カエル・ナメクジ」や「庄屋・鉄砲・狐」の三すくみ構造はじゃんけんの構造と「同型」(=相互関係のパターンが同じ)であり、6の約数関係(1→2, 1→3, 2→6, 3→6)の構造は輸血可能性の構造と同型である(図示するとわかりやすい)。また、作曲家は音の構造をつくり、碁の名人は碁石の構造をつくっているとすら言える。構造は主に、位相的構造、代数的構造、順序構造の三種類で考えられる。

4.4.1 位相的構造
位相的構造の代表例は、私たちの住んでいる空間である。この空間は、距離関係で表されることがたいていであるが、移動時間や交通費などの観点から表現することもできる。

4.4.2 代数的構造
代数的構造とは、例えば任意の二つに、演算(算法)や作用をほどこすと第三のものが決定されるといった相互関係である。記号論理学も代数的構造をもつ。記号論理学の代数的構造はコンピュータで利用されている。

4.4.3 順序構造
整数の大小関係は順序構造の代表例であるが、さきほどの輸血可能性も順序構造をもつ。

4.5 構成

構造を作り出し、構成的であるという点で、現代数学の重要な特徴の一つは構成的であるといえる。数学の特徴を対比的にまとめるなら、(1)古代数学は経験的で帰納的、(2)中世数学は演繹的で静的、(3)近代数学は動的、(4)現代数学は構成的、となる。

4.5.1 構成的方法と現代社会
構成の典型例は建築であろうが、化学によるこれまでに自然に存在しなかった物質の合成、工学による人工衛星の製作も構成的方法の利用によるものである。またピカソの芸術作品なども、現実のある側面を極端に誇張したものを創造した点で現代数学的な構成的方法と通底しているのかもしれない。さらに、構造の考え方は、心理学や言語学や文化人類学などに根源的な影響を与えた。

4.6 動的体系

構造という概念の一つの限界は、静的であり、動的ではないということである。しかし生物の身体などは、構造をもちながら、かつその構造が常に変化している。構造を空間的ではあるが時間的ではないとしか考えないと、現実世界の物事の構造の時間性を見失いがちである。

4.7 群論

19世紀のはじめからガロア(1811-1832)によって発展された概念である「」(group)の考え方は、動的な側面をある程度扱うことができる。群は、何かの操作(あるいは手続き)の集まりと考えることもできる。[群論に関する解説は、この本の後半に展開されていますが、私はとてもきちんと理解しているとは言えないので、ここでは省略し、以下の遠山先生の比喩についてだけまとめます。]

4.7.1 「打診法」

スイカが熟しているかを知るのに、実際にスイカを割ってみる(=解剖法)のではなく、スイカを叩いてその音を聞くという方法がある。これは何らかの構造を知るために、ある操作でそれを変化させて、その変化を見て構造を知るという方法であり、これを打診法と呼ぶことにする。医者の聴診も打診法と呼ぶことができる。ガロアはこの方法を代数方程式を解くのに適用した。この方法は後年、幾何学の研究に使われるようになり、図形を変化させて図形の性質を知るようになった。さらに物理学でも群論は使われている。模様の理解にも群論は使える。

以上









2012年10月23日火曜日

モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房




アマゾンの書評などでも好評なこの本を、とある大型書店で手にとってみたら面白く、また上下に段組で24ページにわたる訳者解説が非常に啓発的で、もうその場でアンダーラインを引きたい衝動にかられましたので、やや高価な本でしたがその場で購入しました。その後読み進めたらやはり面白かった。これはきちんと理解したいと思い、原著のTime, Labor, and Social Domination: A Reinterpretation of Marx's Critical Theoryも購入し、翻訳でアンダーラインを引いた箇所およびその前後を原著で読みました(英語は平易です。翻訳の日本語も良訳だと思いますが、それ以上に英語は読みやすいです←なら、全部英語で読め!←すんません。時間がありません。 m(_ _)m )。

そのまとめは取り急ぎ私の英語ブログの記事(Moishe Postone (1993) Time, Labor, and Social Domination (Cambridge University Press))にしましたので、この日本語記事では、私の理解を思い切って自分なりに納得できる日本語にした上で、この本の主張を解釈してみます。下記の記事は、私の英語記事を基にしたもので、そこにある原著からの引用などを私なりに翻訳したものです(ですから下で示されるページ数は原著のページ数です)。私は自ら翻訳をすることにより理解をするのが好きなのでこのようなやり方で記事を書いています。私の翻訳は、自分にとってできるだけ納得ができる日本語を作り出すことにありますから、かなり「意訳」になっている箇所もあります。原著の信頼できる翻訳としてはこの『時間・労働・支配: マルクス理論の新地平』を参照して下さい。また、この記事では以前の「マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ」や、Marx's dialectics according to David Harveyで行ったまとめを基にしてますので、必要に応じてそれらの記事も参照していただければ幸いです。



■この本の概要

この本は、「伝統的マルクス主義」とは異なる作者なりのマルクス解釈を展開し、資本主義の生産体制が、私たちの思考や行動に根底的な影響を与えており、資本主義社会では歴史の主体が、人間というよりは資本 ―次から次に剰余価値を求め増殖する貨幣の運動―になっていると説きます。「伝統的マルクス主義」は、階級、私有、市場などの働きを重視し、労働者階級は資本家階級により支配され搾取されているとしますが、本書のマルクス解釈は、現代の社会的支配 (social domination)(注1)は、そのような支配ではなく、もっと抽象的 (abstract) ・無人格的 (impersonal) ・客体的 (objective) な支配だとするものです。



■哲学的意義

マルクスは「経済学」の批判を行いましたが、その批判は19世紀以降加速度的に専門化(あるいは分断化)された狭義の「経済学」の批判を越え、資本主義体制の近代のあり方を根底的に解明するものだったと考えるべきでしょう。この根底的解明は、私たちが当然視してまるで疑わない前提を明らかにするものです。この意味でマルクスの批判は、カントの批判と通底しますが、マルクスの場合、私たちの前提を、カントのように理性一般から生じるものとせず、近代の資本主義社会のあり方からくる歴史・社会的なものとしています。ですからカントがアプリオリな形而上学概念を認識論として分析したとすれば、マルクスはそれを社会的認識論として分析したと言えるかと思います。

このアプローチでは、カントが知識の超越論的アプリオリな条件として解釈していた構造化された知識以前のレベルが、社会的に構成されたものとして暗黙のうちに扱われている。この知識以前のものは、意識以前の意識の構造であり、社会的に形成されるものであるが、普遍的で超越論的アプリオリであるとも、いわゆる絶対知であるともされてはいない。この解釈によれば、認識論は、マルクスの理論では、根底的に社会的認識論となるのである。

this approach implicitly treats as socially constituted the level of structured preknowledge that Kant interprets as a transcendental a priori condition of knowledge. ... It grasps this preknowledge as a preconscious structure of consciousness which is socially formed, and neither posits it as a universal, transcendental a priori nor bases it on an assumed absolute knowledge. ... This interpretation suggests that epistemology becomes, in Marx's theory, radical as social epistemology. (pp. 218-219)




■「価値」

そのように資本主義社会によって形成された、私たちが日頃意識しない前提の重要な一つが「価値」(value/Wert)です。資本主義的な意味での価値 ―マルクスは『資本論』で、これをただたんに「価値」と呼び、時に「商品価値」(commodity value/Warenwert)と呼びます― の社会・歴史的特異性を理解するため、資本主義社会以外の社会での「価値」 ― これは17世紀の英語ではしばしば「真価」(worth)と呼ばれていました ― を検討することにしましょう。下の図は、マルクスが「単純・個別・偶然的な価値形態」と呼んだ価値概念での交換を私なりに図示したものです。




例えばあなたは自分の畑で野菜や米を育てているとしましょう。あなたは自然の力を借りて、自分の役に立つ労働(有用労働, useful labor, nützliche Arbeit、あるいは具体的労働, concrete labor) を行なっています。この労働もこの労働に費やされる時間も自分(および自分が大切にする人)のための時間と感じられます。これをここでは人格的時間 (personal time) と呼ぶことにします(注2)。あなたは自分の人格的時間を費やし、自然との協同による役に立つ労働で、豊かさ (注3)を生み出します。あなたはその自然との関係の中の労働時間で生み出された豊かさに「使えるという価値・使用価値」(use value, Gebrauch wert)を見出します(これは「真価」(worth)と言ってもいいかもしれません)。

あなたはやがてみずから生み出した豊かさを他人(あるいは他部族)に贈る(贈与する)かもしれません。贈与された方は、その感謝の印として(あるいはあなたと敵対的でない関係を築くために)贈与を返してくれるかもしれません。そういった相互贈与関係(互酬)で、資本主義が普及浸透する以前の社会の人々は生きていたのかもしれません。(この意味で、つくり話でありますが、映画『ダンス・ウィズ・ウルブス』で描かれているエピソードは非常に例示的です)。







■もっぱら貨幣が価値を表現する媒体になる時

やがて交換関係が頻繁になり、交換が単純・個別・偶然的なものから、市場での一般的なものになると、貨幣 (money, Geld)が汎用の交換媒体として独占的な役割を果たすようになります。あなたが何か欲しい物を手に入れるために、あなたは自らが作り出した「豊かさ」を「商品」 (commodity, Ware) として市場に出し(例えば野菜「商品1」)、それを売ることで貨幣を手にします。その貨幣であなたは欲しい物(例えば魚「商品2」)を購入します。その交換関係は次のとおりです。

商品1 - 貨幣 - 商品2


ここで大切なのは、商品1と商品2は本来まったく質の異なるものであり、それぞれの生産者がそれぞれの時間で作り出したものなのですが、貨幣という共通尺度が導入されたことで、貨幣が表現する価値の点で同じ価値(商品価値)をもつものとされることです。ここであなたが作り出した「豊かさ」は「商品」に転じます。

あなたが作り出した「豊かさ」(野菜)は、「具体的な豊かさ」 (material wealth) (注4)であり、「使えるという価値・使用価値」(use value, Gebrauch wert)をもっていました。しかしこれが「商品」となると、それは一定の貨幣量で交換され、その結果、他のあらゆる商品とも交換される存在になります。この意味で「商品」はもはや「使用価値」をもつ単なる「具体的な豊かさ」だけでなく、「交換のための価値・交換価値」(exchange value, Tauchwert)をももつ存在となります。使用価値の点についてもう少し詳しく言うと、生産者は自分が作り出す商品にはあまり使用価値を認めません(商品は通常自分では使えないぐらいの量で生産するものだからです)。商品の使用価値は購入者が認めるものであり、生産者は自らが作り出す商品の交換価値の方に注目します)。

さて具体的な豊かさ(モノ)を生み出した時間は、人格的時間でしたが、具体的な豊かさ(モノ)が商品になり、交換価値をももつようになり、さらにその交換価値は貨幣によって共通の尺度でその大小を測られるようになった以上、人格的時間も、交換価値に基いて別様の時間として測られるようになります。

交換価値に基いて測られる時間をマルクスは「社会的に決定される必要労働時間」(Socially necessary labour-time, Gesellschafaftlich notwendige Arbeitszeit)(注5)と呼びます。この「社会的に決定される必要労働時間」とは、ある商品を作り出すために、その時代にその社会で通常必要される標準的・平均的な時間です。もちろんある人や工場は、他の人や工場より少ない時間である商品を作り出すことができるでしょう。ある人や向上は遅くしか商品生産ができないでしょう。しかしその時代・社会に普及している技術や生産力も、おそらくは平均値を中心として正規分布(に近い形)で分布しているはずですから、ある商品を作るのに必要な労働時間を、その時代・社会の平均値で定めることは不合理なことではありません。

こうして商品に交換価値が生じ、貨幣価値で測られれ始めた以上、私たちは「社会的に決定される必要労働時間」の価値も想定できます。ある商品にある交換価値(貨幣量)が与えられた場合、そこから人間の労働力以外のコストを差し引いた残りの貨幣量が「社会的に決定される必要労働時間」の価値となります。もちろん、この場合、労働者は、その時代・社会で標準的と思われる範囲内の生産力をもち、またその範囲内の真面目さで働くことが前提とされています(ですから雇用者はしばしば「そんなに仕事ができないならクビだぞ」とか「給料分はきちんと働けよ」と労働者に言います)。このように、時代・社会で標準的と見なされている労働を、マルクスは「抽象化された労働」(human labour in the abstract, abstract menschliche Arbeit) (注6)と呼びます。

この抽象化された労働は、その時代・社会に普及しているテクノロジーによって可能になっています。こうしてテクノロジーと共に抽象化された形でなされる労働に費やされる時間をポストンにならって、「抽象的時間」(abstract time)と呼ぶことにしましょう。

今まで説明してきた、非-資本主義社会での概念・用語と、資本主義社会で優先される概念・用語を対比的にまとめると下のようになります。(誤解のないようにつけ加えておきますと、資本主義社会では、非-資本主義社会での概念・用語が死に絶えているわけではありません。資本主義社会では下の左項と右項目が弁証法的関係にあります)。




非-資本主義社会 - 資本主義社会

具体的な豊かさ - 商品

使用価値 - 交換価値、商品価値、価値

役にたつ労働、具体的労働 - 抽象化された労働

自然 - テクノロジー

人格的時間 - 抽象的時間




資本主義社会で私たちが「価値」と信じて疑わないものは、「社会的な標準」として社会的に決められた基準であり、同時に私たちはその社会的基準にしたがって、所定の抽象化された時間、期待されている抽象的労働を行うことで、資本主義社会に組み込まれているということです。

非-資本主義社会で、私たちは自然との生態学的な関係の中で具体的な豊かさを生み出します。自らの労働を役に立つ価値があると自ら実感し、自らの時間を自らの人格的なものと感じていたはずです。しかし(やや誇張した表現かもしれませんが)資本主義社会では、私たちは(時に身体の自然のリズムに反してまで)時代・社会のテクノロジーの要求にしたがって働き、もっぱら交換価値のためであり自分のための使用価値ではないの商品ばかりを生産します。資本主義社会では自らの労働を社会に定められた「抽象的労働」と感じざるを得ず、労働時間は、自ら決定できるものではなく、社会的に要求される抽象的なものとなります。自分の時間、そして自分がその時間でなしうることの価値が、自らの心身で直接に感じることができずに、抽象的な社会的基準で測られるのみという点で、資本主義社会の私たちは疎外されていると言えるかもしません。特に皮肉なのは、私たちの社会は全体で見るなら、私たちが暮らしてゆくだけに十分な具体的な豊かさを生み出す力があるのに、私たちが自らの人生をまごうことなき自分のものとして実感できていないことです。

ポストンは言います。(注7)

資本主義における豊かさの主要形態としての価値の決められ方は、具体的な豊かの決められ方とはずいぶん異なる。価値が特異なのは、確かにそれは豊かさの一形態ではあるものの、人間と自然の関係ではなく、労働によってつながれている人々の関係を直接的に表現しているからである。したがって、マルクスによるならば、価値の構成において、自然は直接には貢献していない。価値は、社会をつなげるものとして、(抽象的)労働によってのみ構成されいる。価値とは、歴史的に特有な資本主義での労働の社会的次元が、社会をつなぐ活動として、あるいは疎外された関係の「実質」として、客体化されたものである。そうなると、価値の大きさは、作られた生産物やその際に使われた自然の力の量を直接的に表現しているものではないことになる。価値の大きさとは、抽象的労働時間の単なる関数である。言い換えるなら、生産力が向上すれば具体的な豊かさは増大しても、単位時間あたりの価値が増大することはない。社会的関係の携帯でもある豊かさの一形態として、価値はこれまで人間が獲得してきた生産力を直接に表現しているわけではない。

The determinations of value, the dominant form of wealth in capitalism, are very different from those of material wealth. Value is peculiar in that, though a form of wealth, it does not express directly the relation of humans to nature but the relations among people as mediated by labor. Hence, according to Marx, nature does not enter directly into value's constitution at all. As a social mediation, value is constituted by (abstract) labor alone: it is an objectification of the historically specific social dimension of labor in capitalism as a socially mediating activity, as the "substance" of alienated relations. Its magnitude is, then, not a direct expression of the quantity of products created or of the power of natural forces harnessed; it is, rather, a function only of abstract labor time. In other words, although increased productivity does result in more material wealth, it does not result in more value per unit of time. As a form of wealth that is also a form of social relations, value does not express directly the acquired productive abilities of humanity. (p. 195)




■資本という主体

さてここで貨幣を価値形態とした交換関係の話に戻りましょう。大変に重要な変化が起こるのは、貨幣を自分の生活を満たす以上の量所有し、その貨幣を使って交換をしようとする人たち(=資本家)が登場する時です。資本家は、自分お金(「貨幣1」)を出してある商品 ―典型的には、自活手段を欠き、他人に雇用してもらって賃金をもらうしかない人々(=プロレタリアート)の労働力(「商品3)」― を買い、その労働力という商品で生産した生産物 ―少しややこしいけどこれも商品(「商品4」)です― を売ってお金(「貨幣2」)を得ます。この関係は以下のように図示できます。


貨幣1 - 商品3・商品4 - 貨幣2


ここでは貨幣の交換関係に注目したいので、「商品3・商品4」はまとめて「商品」と表記すると次のようになります。

貨幣1 - 商品 - 貨幣2


さてここで大切なのが貨幣1と貨幣2の関係です。先ほどの商品1と商品2は質的にまったく異なるものであり、本来は共通の尺度で量的に比較することができないものでした。商品1と商品2を等価とか等価でないとか判断するようになったのは貨幣が導入され普及してからです。現在の私たちも、純粋な気持ちから贈り物をした時に、相手がその贈り物の商品価格を調べて、その価格の商品券を送ってきたら、なんだか嫌な気持ちがすると思います。純粋な気持ちで贈り物をした場合は、そもそもその見返りを求めていませんが、見返りの贈り物を受け入れるにせよ、その人なりの気持がこもった贈り物をもらうことを求めると思います。もっとも汚れきった大人である私たちは、お歳暮・お中元をもっぱら(相手との権力関係を考慮した)計算によって交換していますが・・・(苦笑)。

ところが貨幣1と貨幣2は質的にはまったく同じものです。これは量的に表現できるだけです。モノの交換でしたら、自分が手に入れられないモノを、自分が潤沢にもっているモノと交換できて、それで自分が満足ならそれで終わりですが、資本家にとって貨幣1と貨幣2が同じ量なら、それは慈善事業に過ぎず、まったく意味がありません。資本家にとっては貨幣2は貨幣1より多額のものでなければなりません。言い換えるなら、貨幣2は、貨幣1に剰余価値 (surplus value, Mehrwert) が加わったものでなくてはなりません。剰余価値が加わった貨幣を簡単に「貨幣’」と表現すると、上の関係は下のように表現できます。



貨幣 - 商品 - 貨幣’


このように自己増殖することを定められたお金(貨幣)を資本 (capital, Kapitel)と呼びます。資本はどんどん展開し自己増殖してゆきます。それを図示したのが下の図です。(下の図では、英語表記に従い、Cが商品(commodity)を、Mがお金(貨幣)(money)を示しています)。






貨幣そして資本の量的で抽象的な性質は強調されるべきでしょう。貨幣が価値の一般的表現形態となり、かつその貨幣が資本として自己増加することが必須となった資本主義社会では、貨幣・資本の性質がそのまま社会つまりは私たちのあり方に浸透していると考えられます。過度の単純化を恐れつつも、非-資本主義社会と資本主義社会での私たちのあり方を対比すると、左項と右項がそれぞれの社会では優位な性質であるように思えます。




非-資本主義社会 - 資本主義社会

個人的 - 社会的

質的 - 量的

具体的 - 抽象的

個別的 - 標準的

感覚的 - 形式的

自然 - テクノロジー

生態学的 - 工学的

循環的 - 直線的





このような資本主義社会で、私たちは、暮らしに役立つ労働というよりは抽象的労働に従事し、自然に関わるよりもテクノロジーに依拠し、人格的というより抽象的な時間を過ごし、必ずしも具体的豊かさとは限らない商品を生産します。私たちが感じるのは、自分たちが生み出す具体的な豊かさが、暮らしのために役立つという価値というより、市場で交換価値をもつという(商品)価値です。言い換えるなら、私たちは非-資本主義社会から資本主義社会に自らの基盤を移すにつれ、下図の上の行の連関から、下の行の連関を主にするあり方を所与としていると言えましょう。


非-資本主義社会: 自然 - 役立つ労働 - 人格的時間 - 具体的な豊かさ - 使えるという価値

資本主義的社会: テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値



さらにこの「テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値」は、資本の自己増殖運動により、さらに強化されてゆきます。これらの関係を図示したのが下の図です。






■資本主義社会での「トレッドミル効果」

資本主義社会では、「テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値」連関は、強化の一方向にしか進みません。これが「歴史の流れ」(a flow of history) あるいは「歴史的時間」(historical time) と思われてしまうのが資本主義社会の怖いところかとも思います。

さらにこの強化は、人間が労働から解放され、より多くの自由時間を満喫することを許しません。ほとんどすべての者が自ら自活する術をもたないプロレタリアートであり、残りの少数のほとんども資本主義競争に生き残ることを至上命題としている資本家である以上、私たちのほとんどは労働強化の流れに巻き込まれてしまいます。

資本主義競争に勝つため、企業は新しいテクノロジーを導入します。その企業が優位に立つのも束の間、テクノロジーは普及します。例えば誰もが今までの半分の時間である商品を生産できるようになったとしましょう。これまでと同じ時間働けば二倍の量の商品を生産できます。しかしそれを市場に出せば、(需要-供給の関係で考えてもいいのですが)それはこれまでの半分の抽象的労働時間しか必要としない商品、つまりは半分の交換価値しかない商品となり、生産者はこれまでの半分の貨幣しかもらえません。仮にこれまで通りの資本主義的購買生活を維持しようとすれば、生産者はこれまでの二倍働かなければなりません。つまりは、具体的な豊かさは二倍になっても、私たちの労働と時間の価値は同じ様に二倍になるどころか、半分になり、私たちはまたもや以前と同じ時間、しかし以前よりも高い生産性で働かなければなりません。神話的イメージで言えば「シーシュポスの岩」あるいは「賽の河原」でしょうか。







ポストンはこれを資本主義の「トレッドミル効果」 (treadmill effect) と呼びます。下に私なりに図示してみました。







■抽象的労働による人間の抽象的支配

かくして資本主義社会では、本来人間が暮らしてゆくためであった労働が、抽象労働・交換/商品価値・貨幣・資本に転化し、どんどん自己増殖して、人間そして自然を疎外してゆきます。ポストンは言います。(注8)



マルクスの [理論による資本主義社会での] 価値の決定および価値の創造過程が意味していることは、労働は、もともと労働の過程においては目的ある行為であり人間と自然の相互作用を制御し管理するものであったのに、[資本主義的] 価値創造の過程の中で、その目的から切り離されてしまったということである。労働力の行使の目的が、もはや労働の具体的性質との必然的なつながりによって限定されることがなくなっている。むしろ目的は、そうは見えないかもしれないが、行使される労働の質的性質とは関係なくなってしまっている ― [今や] 労働の目的とは、労働時間の客体化である。つまり、労働力の行使が、ある目的のための手段でなく、自分自身が目的である手段になってしまった。この目的は、まさに(抽象的)労働によって構成された疎外の構造によって与えられている。目的としてこれは一義的である。この目的は、[労働の多義性をもたらす] (具体的)労働の具体性から離れており、また社会の行為者の意思からも無関係に定位されている。

Marx's determinations of value and the process of its creation imply that labor, which in the labor process is defined as purposeful action that regulates and directs human interaction with nature, is separated from its purpose in the process of creating value. The goal of the expenditure of labor power no longer is bound intrinsically to the specific nature of that labor; rather, this goal, despite appearances, is independent of the qualitative character of the labor expended -- it is the objectification of labor time itself. That is to say, the expenditure of labor power is not a means to another end, but, as a means, has itself become an "end." This goal is given by the alienated structures constituted by (abstract) labor itself. As a goal, it is very singular; it is not only extrinsic to the specificity of (concrete) labor but also is posited independently of the social actors' will. (p. 281)




労働が、私たち自身のための行為というより、資本主義社会というつながり(あるいは束縛)を維持するための行動になっているように思えます。一人ひとりが思い思いに労働をして社会を形成しているのではなく、一人ひとりは資本主義労働の全体性の中の器官に過ぎないようです。もはや私たちは資本主義社会に取り込まれたのかもしれません。


労働が社会的関係をつなぎ構成する時、労働は個々人を支配する全体性の中心的要素となってしまう ― しかしながら、個々人は特定の個人によって支配されているわけではない。「このように労働が時間によって測られるなら、労働とは一人ひとり異なる主体の労働には見えない。いや逆に、異なる労働者が労働の単なる器官であるように見える」。
(中略)マルクスの分析によれば、個々人が抽象的で客体的な構造に包摂されてしまうことは、資本というカテゴリーを理解した上で把握される社会的形態がもつ一つの特徴である。

When labor mediates and constitutes social relations, it becomes the central element of a totality that dominates individuals -- who, nevertheless, are free from relations of personal domination: " Labour, which is thus measured by time, does not seem, indeed, to be the labour of different subjects, but on the contrary the different working individuals seem to be mere organs of the labour."
... Marx analyzes the subsumption of individuals under abstract objective structures as a feature of the social form grasped by the category of capital. (p. 192)



資本主義社会の支配とは、「客体的」なものです。

資本主義の定義の基本となっている社会的関係は「客体的」な性質ものであり、「システム」を構成している。なぜならば資本主義社会での社会的関係は、歴史的に特異な社会的つながりを生む活動としての労働によって構成されているのであり、この活動は抽象体として同質的であり、私たちの実践を客体化した形態だからである。

The social relations that fundamentally define capitalism are "objective" in character and constitute a "system," because they are constituted by labor as a historically specific socially mediating activity, that is, by an abstract, homogeneous, and objectifying form of practice. (p. 158)

ポストンはこうも言います。


このような抽象的で社会的な強制を最初に決定づけるのは、個々人が生き残るために商品を生産し交換しなければならないということである。この行使される強制は、例えば奴隷や農奴の労働のように直接の社会的支配関係ではない。これはむしろ「抽象的」で「客体的」な社会構造の関係であり、抽象的で無人格的な支配を表している。この強制は、究極のところでは、特定の個人や階級や機関によって基礎づけられているものではない。この支配の究極の中心は、社会的実践を固定的な形態にしてしまうことによって構成される、資本主義者の社会が、社会をあまねく構造化しようとする形態に求められる。

The initial determination of such abstract social compulsion is that individuals are compelled to produce and exchange commodities in order to survive. This compulsion exerted is not a function of direct social domination, as is the case, for example, with slave or serf labor; it is, rather a function of "abstract" and "objective" social structures, and represents a form of abstract, impersonal domination. Ultimately, this form of domination is not grounded in any person, class or institution; its ultimate locus is the pervasive structuring social forms of capitalist society that are constituted by determinate forms of social practice. (p. 159)




この資本主義支配の「抽象的」で「客体的」な性質が、もしかすると科学という抽象的な文化ととテクノロジーという客体的な文化を促進し、かつ、資本主義的活動を超えて私たちの暮らしや営みをも科学とテクノロジーで形式的に管理しようという現代の傾向を強化しているのかもしれません。


社会一般で、知識と実践が、科学的、技術的、組織的なモードに転換していくことは資本主義の発展と共に生じたことであるが、これは抽象的、同質的、量的な社会的次元によって定められ、それゆえに生産性と効率を高め続けるよう方向づけられた社会的背景によって歴史的に構成されたものである。労働の使用価値の次元のさまざまな側面が、価値によって与えられた目標に奉仕するように発展させられ利用されているだけでなく、使用価値のさまざまな側面は、この価値の枠組みを強化し再構成するような形で構造的に機能している。つまり資本の属性として機能しているのだ。したがって、価値次元による使用価値次元の横領と私が読んでいる現象は、価値次元から生じている一種の形式的合理性によって構造化されていると言える。この結果が、ウェーバーが私たちの生活のあらゆる領域で進行する(形式的)合理化と呼び、またホルクハイマーが世界の道具化という観点から発言した、近代生活の傾向である。この過程は労働と社会的生活の実質的次元をますます巻き込み、ポスト自由主義の生産と社会・政治的側面の制度の管理的合理化に結実しているだけに、ホルクハイマーは、この原因を労働そのものに求めた。しかしながら、この実質的進展の究極の基礎は、労働の具体的次元にあるのではなく、むしろ、価値の次元にある。

The socially general mode of scientific, technical, and organizational knowledge and practice that emerge in the course of capitalist development are constituted historically in a social context that is determined by an abstract, homogeneous, quantitative social dimension and, hence, is geared toward ongoing increases in productivity and efficiency. Not only are the various aspects of labor's use value dimension developed and utilized in order to serve the ends given by the value-determined framework, but they also function structurally to reinforce and reconstitute this framework -- that is, they function as attributes of capital. ...
What I have called the "appropriation" of the use value dimension by that of value thus can be seen as a process in which the use value dimension is structured by means of the sort of formal rationality whose source is the value dimension. The result is the tendency in modern life which Weber described in terms of the growing (formal) rationalization of all spheres of life, and which Horkheimer sought to articulate in terms of the growing instrumentalization of the world. Because this process increasingly involves the substantive dimension of labor and social life -- that is, the administrative rationalization of both production and the institutions of social and political life in postliberal capitalism -- Horkheimer located its source in labor per se. However, the ultimate ground of this substantive development is not the concrete dimension of labor but, rather, its value dimension. (p. 354)



■自然と人間のために、資本主義を制御する

このますます加速するようにすら見える資本主義の流れは、自然と人間を酷使することによって動力を得ています。資本主義は「高度な焼畑農業」("slash-and-burn agriculture on a 'higher' level", p. 383)とすら言えるでしょう。自然と人間がその生命力を著しく損なってしまう前に、私たちはこの資本主義の荒々しい動きを制御することを覚えなければなりません。資本主義を構成しているのが、私たちの労働であり時間である以上、私たちは資本主義のあり方に何らかの影響を与えることはできます。私たちはJohn Hollowayが言うように、"Crack Capitalism" ― 資本主義にひびを入れること ― を行うべきでしょう。それが資本主義社会の全廃といったユートピアの幻想を克服した21世紀の「革命」なのかもしれません。








(1)
翻訳書のタイトルは簡潔に『時間・労働・支配』となっていますが、原著のタイトルはTime, labor, and social dominationです。この本で"social"は、しばしば"abstract"で"objective"で"impersonal"であり、"personal"なあり方・関係を抑圧するという意味をもつことばとして使われています。ただし、"social" (あるいは"society") が常に否定的な含意で語られているわけではありませんが、

(2)
ポストンは、この時間を「抽象的時間」(abstract time) との対比から「具体的時間」(concrete time) と呼んでいます。しかし私にとって「具体的時間」ということばはどうもピンときません。ポストンおよびマルクスの言う「抽象的」とは、「資本主義的生産体制の構造によって定められ、個人や特定集団の力を超えた」といった意味だと私は理解していますので、その意味での「抽象的」 (abstract) の対句として「人格的」 (personal)ということばをもちいることにしました。(言うまでもありませんが、ここでの「人格的」には道徳的含意はありません)。


追記(2012/10/27)
上では "concrete time"という原語を"personal time"に変換して「人格的時間」としましたが、"concrete"の"pertaining to or concerned with realities or actual instances rather than abstractions; particular ( opposed to general)"の意味(Dictionary.com)を考えますと、特に原語を変えなくとも、そのまま"concrete time"を「個別的時間」と訳してもいいのかなとも思い始めましたことを付け加えておきます。


(3)
ここでの「豊かさ」は"wealth, Reichtum"の訳語として使っています。経済学では「富」が定訳になっているようですが、どうも私の感覚では「富」という日本語はしっくりこないため「豊かさ」としています。ですから私は『資本論』の冒頭の有名な一文も、「富」ということばを使わず、「資本主義的生産体制が支配的な社会では、社会の豊かさとは「商品が満ち溢れていること」であるように見える。これらの社会では一つひとつの商品が、社会の基礎的な形態であるように見える」と訳したく思っています。(参考:「マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ」)。

(4)
ここでは"material"の"being of a physical or worldly nature"の意味(Merriam-Webster)の意味を強調して、この語を「物質的」ではなく「具体的」と訳しました。

(5)
定訳は「社会的必要労働時間」ですが、ここでもわかりやすさを優先してあえて「社会的に決定される必要労働時間」と意訳しました。

(6)
定訳は「抽象的人間労働」です。なおポストンは、ほとんどの場合において"abstract labor"という表現を使っています。

(7)
私が翻訳に苦労するもう一つの表現は"to mediate"や"mediation"です。定訳は「媒介する」や「媒介・媒体」なのでしょうが、これでは今ひとつ腑に落ちないので、ここでは思い切って「つなぐ」や「つながり」としました。

(8)
ここの翻訳では、"purpose", "goal", "end"という本来訳し分けるべき語を、不本意ながらすべて「目的」と訳しています。私の理解では、"purpose"は人間の主体性が含意された表現、"goal"とは遥かかなたに望む表現(「目的」)、"end"とは文字通り終結点が明示されている表現(「目標」 ― 例えば「数値目標」のように)です。関連記事として、「現代社会における英語教育の人間形成について ― 社会哲学的考察」をお読みいただければ幸いです)。














2012年10月19日金曜日

佐藤学×秋田喜代美 「これからの学び」を考える




知性と感性に優れた二人の研究者が、教室という統制不可能な状況で複合的な問題に対応する教師という人間に真正面から向きあい、近代的な学問のあり方を問い直しながら、教育学そして心理学を再構築してきたこれまでを語り合った90分間の対話。

二人ともに、典型的な近代学問の論文量産体制に従事していれば、莫大な業績を生み出していただろう近代的知性をもちながらも、それに違和感を覚える感性を兼ね備えており、かつ、その違和感を抑圧することなく大学で研究活動を続けているだけに、発言の一つひとつが深い。

二人は、相互信頼関係にもとづいて、時におどろくほど率直かつ大胆、そして納得できる発言をする。書籍などではなかなか語られない内輪話も、二人の語りのトーンと共に知ることができることもありがたい。


軽やかに語る二人のこの対談の重さを受け止めることを回避する教育学研究者、そもそも感じられない心理学者などを、私は信頼したくない。二人が提起する論点の一つには身体論もあるが、それも含めた論点を、研究上必須のものとして理解できない英語教育学者ばかりが集まる学会などに私は参加したくない。

というより、私は、教育現場で奮闘している現場教師に届くことばを語れる研究者(のはしくれ)でありたい。いやそれ以上に、現場教師のつぶやきを聴き取り、つぶやき以前の仕草を感知し、現場教師から学べる研究者でありたい。そして現場教師と共に、児童・生徒・学生という若い世代と協調しよりよい社会を作れる人間でありたい。



というわけで、教育を研究しようとする皆さん、ぜひ、以下の動画をご覧いただければと思います。もちろんこの「皆さん」とは、大学という制度で守られた研究者だけではなく、現場で奮闘しながら自らの実践を少しでも振り返り理解しようとする現場教師、および学部生・大学院生も含んだ表現です。

いや、むしろ既存の研究体制にまだあまり取り込まれていない方々の方が、この動画の意味合いをよく理解できるのではないかと思います。小中高の先生方、この動画を見るなどして教育言説に対する批評眼を高め、どんどん大学教員にプレッシャーを与えて下さいね(笑)。学生の皆さん、「査読に通る論文書き」の文化に取り込まれる前にこんな動画を見てね(笑)。


教育学、教育心理学、英語教育学などの学問も、いかなる学問と同様、未完の試み、いや構築し始めたばかりの試みであり、部分的自己破壊と自己再構築を必要としています。この動画はそのための一つの重要なきっかけとなるかと思います。





この対談は、秋田喜代美先生の新刊『学びの心理学 授業をデザインする』の出版を記念して行われたもののようですが、私は、これに先立つ佐藤学先生の『教育の方法』を久しぶりに読み返してから、この秋田先生の新刊を読みたいと思います。













2012年10月9日火曜日

組田幸一郎先生の英語教育講演会(無料) 11/1(木)18時より広島大学教育学部(K108教室)で




以下の要領で講演会を開催いたします。去年も大好評でした。ぜひご参加下さい。




組田幸一郎先生 講演会

「高校生のリメディアル英語授業、そして英語教師としての幸せ」






■趣旨説明

組田先生に昨年お話していただいた「リメディアルの英語教育の実践について」は、大きな反響を呼びました。基本的に英語が得意で大学進学し教師になった英語教師は、英語ができないまま進学した生徒の気持も実態もなかなか理解できません。ですから英語教師が自分の期待や理想を押し付けて、生徒をさらに追い込んでしまうことさえあります。組田先生は、ご自身の失敗も率直に語りながら、リメディアル英語教育の実情についてとても具体的に語っていただきました。

本年度、組田先生は、このリメディアル英語教育についてさらにバージョンアップしたお話されます。と共に、「英語教師としての幸せ」についても語ってくださるそうです。「幸せ」といっても、まだ若い方にはピンとこないかもしれませんが、教職という仕事も思い通りにいくこともなく、また仮に思い通りにいったとしても必ずしもそれが幸せなことではなかったりします。

教育が究極のところで他人を幸せにする試みなら、教師自身が幸せでなければ教育はできません。しかし「英語教師としての幸せ」とは何でしょう。ますます忙しくなり、生徒の「学力低下」にも面しながら、「数字で結果を出せ!」と圧力をかけられている英語教師は、どう幸せな職業人生を歩めるというのでしょう。

英語教師としての幸せを具体的に語りながら、組田先生は「文学=人生」という軸で、英語教師の幸福論を展開される予定だと聞いています。組田先生のバックグラウンドは文学であり臨床心理学ですから、道徳的お説教とは対極の、滋味あふれ、しみじみと豊かに広がる話が聞けるのではないかと楽しみにしています。

圧倒的に具体的なエピソードを語りながら、その中から多くの人が共感する英語教育論を展開するのが組田先生のお話の特徴です。どうぞ今年もご期待ください。

参考記事:組田幸一郎先生の講演を聞いて(2011/11/22)



■日時
2012(平成24)年11月1日(木)18時から20時まで



■場所
広島大学教育学部K棟108教室
http://www.hiroshima-u.ac.jp/add_html/access/ja/saijyo3.html



■参加形態
一般公開(基本は英語教育に関心をもつ広島大学生を対象としていますが、お近くの英語教師の方なども大歓迎します。講演会は無料です。大きな会場を用意したので、事前の申込は不要です)



■講師
組田幸一郎先生 (千葉県立成田国際高等学校)
著書に『高校入試短文で覚える英単語1700』、『高校入試フレーズで覚える英単語1400』、『高校これでわかる基礎英語』、『高校入試スーパーゼミ英語』(文英堂)など(アマゾン一覧)。
共編著書に『成長する英語教師をめざして?新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』(ひつじ書房)。





ブログは「英語教育にもの申す」http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/ 





2012年10月5日金曜日

「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く




■「コミュニケーション能力」という困惑する概念

肯定的な意味合いであれ、批判的な意味合いであれ、「コミュニケーション」あるいは「コミュニケーション能力」という用語を使わない英語教育関係者はいません。それでいて、それらが正確に何を意味するのかを明確に語れる者は多くありません。意味を問われれば多くの人は困惑するばかりです(あるいは「読み・書き・聞き・話す能力です」などと表面的な答えを出すだけです)。

私の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業では、「コミュニケーション能力」について検討し、その検討から英語教育という営みを根源的に考察します。2012年度は、実質上の最初の授業で「カントとチョムスキー」について講義・討論することにしました。「チョムスキーはともかく、なぜカントなの?」と思う方も多いかもしれませんが、私はカントについて概説することにより、チョムスキーの言語思想が理解しやすくなり、かつ「コミュニケーション能力」を含む応用言語学の様々な概念(後に導入する用語で言えば「理念」)の限界と効用が理解しやすくなると考え、カントについて講義・討論することにしました。

しかし私は他の多くの講義内容同様、カントの専門家ではありません ―というより、私は何の専門家なのだろう?―。私のカント理解はとりあえず「この記事」およびそれに続く記事などで示されているぐらいです。ですから私としてはカントについて誤解することを恐れながら慎重に今後ともにカントを読まなければならないと自戒しています。しかし他方で、非専門家として一種開き直り、専門家なら使わないような日本語でわかりやすくカントの哲学を語ってみようとも思っています。(専門家の方、もしひどい誤りなどありましたらぜひご指摘ください。私は内田樹先生が『街場の大学論』で述べるように、研究者の端くれとして、自らの賢さを披露するためでなく、自らのバカさかげんを公開して批判を仰ぐために、このようにブログや論文を書いています)。



これからの論述の見通しのために、結論を最初に簡潔に述べておきますと、こうなります。


特定のコミュニケーションが行われる具体的な諸要因をすべて捨象して一般化して想定しする「コミュニケーション能力」とは、その捨象ゆえ、私たちがいつか完全に実証できるような概念ではない。そのような意味での「コミュニケーション能力」は、私たちは到達することができない「超越論的な理念」 ―後で説明します― である。だが、そのような理念は、あたかも地上の民にとっての北極星のように、私たちがより「よき」実践を目指す時に役に立つことができる。私たちは、さまざまなコミュニケーション能力の理論やモデルをこれからも産出するだろうが、私たちはそれらを検討し批判し「コミュニケーション」や「コミュニケーション能力」について語り続けるだろう。語り続け、それに基づき試行錯誤を続け、よりよき暮らし・社会を目指すことが私たちの課題である。


ですから、この「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で紹介する各種のコミュニケーションの理論やモデルのどれも、「最終解答」ではありません。唯一絶対の正解に私たちはたどり着くことができないと自己抑制・自己批判を保ちながら、探求を続けることが私たちが取るべき態度だと私は考えています。


それではなぜ「コミュニケーション能力」について私たちは十分に実証も記述もできず、永遠に「正解」が得られないのでしょう。それについて理解するために、以下、カントの『純粋理性批判』を要約しながら考察してゆきます。私はこの本を大学時代から何度も通読しようと試みながら挫折し、入門書などを読み続けていましたが、この夏、はじめて中山元先生の新訳を読んだところ、思った以上に面白く読め、ようやく通読を果たしました。




この翻訳に下線を引いた箇所を、私はペンギン版の英訳で再読し、原典をチェックしました。




その理解の多くは、上でも述べた以下のブログ記事で書いている通りです。







この記事では、こういった理解に基づき、(カントの趣旨を損ねない程度に)できるだけわかりやすい日本語で『純粋理性批判』を、コミュニケーション能力について考えるために説明してゆきます。




■『純粋理性批判』の概要

『純粋理性批判』を私なりにまとめると次のようになります。私がカントの定訳以外の訳語を使用した用語の翻訳についての解説は(注)で述べますので、まずは概要だけを理解して下さい。

カントは人間の認知作用を三段階に分けて考えます。(1)感性、(2)知性、(3)理性です。人間はこれらの三段階を通じて、人間が認識できる限りの現象世界(注1)について感知し思考します。

ちなみに、人間がコウモリが聞いている超音波を認知できないことからも明らかなように、人間はこの宇宙のすべてを認知できるわけではありません。人間が認知できない領域も含めた宇宙全体のすべてをカントは「物自体」と呼んでいます。カント以前の哲学者は、物自体について考えようとし、現代の多くの自然科学者は物自体の真理を究めようとしているでしょうが、カント的な考え方からすれば、人間が経験的・実証的に知りうるのは(人間にとっての)現象世界だけで、物自体ではありません。この論点はいくらでも深入りが可能なのですが、コミュニケーション能力を考える上ではそれほど重要ではありませんので、ここではこれ以上は論考しません。


●感性

話を認知作用の三段階に戻します。(1)の感性の段階で、人間は対象を感知します。対象の例としては、目の前に見えるものでも、聞こえた音でも、皮膚で感じた何かでもかまいません。でももちろん、人間は宇宙のすべての動きを感性で受け取っているわけではありません。人間は、人間の生物学的能力の範囲で、しかも自ら意味あるものとして感じ取ったものだけを対象として感知します。(「感性」の原語は"Sinnlichkeit"です。つまり感性とは「"Sinn" = 『身体で感知する"sense"、さらにはそれよりもさらに意識的な意味での"meaning"』に関すること」と考えることができます)。第一段階の感性で、私たちは意味の原初的形態ともいえる感覚を覚えます。その感覚が対象を規定します(万人にとっての対象があるのではなく、人それぞれに感性の鋭敏さ・繊細さ・精妙さによって覚える感覚が異なり、そのそれぞれの感覚によってその人にとっての対象が定まると私は考えています)。対象といっても、まだ感性の段階では私たちはそれを知的に理解しているわけではありません。カントはこの対象をとらえる感覚を直感(注2)と呼びます。


●知性

認知作用の第二段階が知性(注3)です。感性の段階で、人間はさまざまな対象をそれぞれさまざまな直感として受け入れますが、それを「これは何か?」と考えて概念として自ずとまとめあげるのがこの知性の働きです。このように知性は感性と密接に結びついていますが、他方で知性は、感性の直感から離れて概念をどんどんまとめあげようともします。そうして私たちの現象世界の具体的な経験から離れてしまってまとめあげられた概念は、「純粋概念」あるいは「観念」と呼ばれます。この観念は、さらに次の理性の段階でさらに考えられます。この意味で知性はまさに感性と理性をつなぐ中間的な段階と言えます。


●理性

認知作用の第三のそして最終の段階である理性で私たちはさまざまな純粋概念(観念)をさらに思考してまとめあげ統一しようとします(これは知性が自発的にさまざまな直感を統一するのと同様、理性が自発的に行う働きだとカントは考えています)。理性は、知性の純粋概念(観念)だけを材料にするわけですから、感性でとらえた現象世界での経験とは切り離されています。そのようにさまざまな純粋概念(観念)を思考で統一されたものをカントは理念と呼びます。理念とは、現実の現象世界のさまざまな条件を一切捨象して考えられた無条件的な考え(=現実の諸条件には拘束されずになりたっている考え)です。―この意味で興味深いのが「理想」です。「理想」は理念の一種で、無条件的なのですが、具体的で個別的なイメージが与えられています。日常語での「理想像」と同じと考えていいかと思います。


●超越的、超越論的

このように現実の諸条件に拘束されていない理念(および理想)は、私たちが今・ここで見て概念化する対象をはるかに超えています。このように今・ここの具体的な諸条件から一切離れて成立することを「超越的」と呼びます。しかしなぜ私たちは、超越的な理念を考え、かつそれが一切経験されていないのに(=アプリオリに、a priori)正しいなどと判断してしまうのでしょうか。そのように超越的な理念を私たちがどのようにして抱くのかについての考察を「超越論的」と呼びます。カントの哲学は、超越的な理念についての超越論的な哲学であると言えます。


●アプリオリ

しかしアプリオリな判断とはどんなものでしょう。つまり経験以前に私たちが「あ、それは正しい」と確信する判断です(注4)。カントが挙げる例は、純粋数学や純粋な自然科学です。例えば「7+5=12」ということは、それまでにその計算の経験を一度も積んだこともなくとも、最初に計算した時に正しいと私たちは確信できます。あるいは「直線は二つの点を結ぶ最短距離である」というのは、特にどんな具体的な経験を想定しなくとも正しい知識であると私たちは思います。さらには物質の質量は保存されるといった法則です ―しかし、実をいいますと、私は数学や自然科学に疎いので、こういった例をカントが言うようにアプリオリ(かつ総合的)な判断とみなしていいかわかりません。ですが、ここではそのままカントの議論に即して議論を進めます

カントはさらに形而上学 ―つまりはphysicsを超えた (meta-) 対象についての考察― についても私たちはアプリオリに判断をすると言います。例えば「世界には始まりがある」などです(注5)。

しかし私たち言語教育関係者にとってアプリオリな判断の例として考えられることには、文法性判断があります。チョムスキー以降の生成文法でお馴染みの、ある文を提示して、その文が文法的か非文法的かを判断するテストです。私たちは(母語話者であるかぎり)、その文に今まで接した経験がある必要はありません。またその文法性判断の根拠となる文法規則をこれまで明示的に教えられた経験をもつ必要もありません。母語において、私たちは、その文に関するこれまでの経験なしに、それが文法的か非文法的かをアプリオリに判断します。


●知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない。

実は、チョムスキーの発想とカントの発想は非常に似ています。チョムスキーは、言語獲得は、外部からの入力だけで可能になるのではないとします(もし外部からの入力だけで言語獲得が可能になっているのだったら、3歳児ぐらいと同じ知能をもつと考えられるチンパンジーなども何らかの方法で言語獲得が可能なはずです。ですが人間と同じように育てられたチンパンジーなどが言語獲得をすることはありません ―細かな議論はいろいろあるでしょうが、ここではそうさせてください)。チンパンジーなどができない言語獲得が、人間にとって可能なのは、人間には「言語獲得装置」ともいうべき人間独特の神経機構が備わっているからです。明らかに人間の内部が言語獲得に関わっています。だからといって、外部からの言語入力が一切なければ人間は言語獲得しません。外部からの言語入力と共に言語獲得装置のスイッチ(「パラミター」)がいろいろと入り、言語獲得が進行するわけです。だからカントが言った「知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない」という考えは、チョムスキーの言語獲得観の根本の考えでもあります。


●超越論的幻想

さて、話の流れでチョムスキーの考えを入れましたが、ここからまたカントの議論に戻ります。超越的なことをアプリオリに判断することを超越論的と呼びましたが、感性の現象世界から切り離されて考えられた理性の理念の中には、私たちが正しいに違いないと思ってしまうものがあります。現実から切り離された考えですから、それについて私たちは少なくとも実証的に正しいと知ることはできないはずです。もちろんそれについていろいろと考えることはできます。ですがいろいろと考えることと、それが正しい(=間違っているはずはない)と知ることは別です。ですが、私たちは時にある理念をアプリオリに正しいと確信してしまいます。カントはそういった理念を、「超越論的幻想」(注6)と呼びます。

「理念として超越論的に考えられ、かつ正しいと判断される事柄は、現実世界でも見出されるはずである」と信じて、その超越論的理念の完全な実証を求める者は、超越論的幻想を追っているにすぎないことになります。何度も繰り返しますが、現実条件を一切排除して成立している理性上の理念は、私たちが感性で捉える現実の現象世界に見出だせません。超越論的理念の「一部」を見つけたと主張することは可能なようにも思えますが、一部にすぎない超越論的理念など、本来理念として成立するはずもない考えです。ですからこの世に超越論的理念が完全に現れることを待っている人、超越論的理念を完全に実証することを試みている人、あるいは超越論的理念の一部を実証した(後は残りを実証するだけだ)と考えている人は、みな幻想を追いかけているだけだとなります。



■カントとチョムスキー

●認識論的共通点

カントの「知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない」という考えが、チョムスキーの言語獲得論にも見られることは、上に確認した通りです。カントとチョムスキーは認識論 ―いかにして私たちは正しい認識を可能にしているかという考察― において共通しています。


●チョムスキーがカントと袂を分かつ時

しかしチョムスキーは彼の言語獲得論を自然科学として追求する時点で、カントと袂を分かっていると私は考えます。チョムスキーは、人間の言語獲得の様子から、「人間は、地球上のどんな人間の言語でも獲得できる(はずなのだ)から、人間には、すべての言語に共通する『普遍文法』が備わっているに違いない」と主張します。

理性的に考える限り、つまり純粋な概念として考える限りにおいてこの考えは正しいようにも思えます。「普遍文法」というのは、確かにありえそうです。それならば、それが実証的にも確認できるかどうかを調査しようとするのは、自然科学としては一つの健全なあり方です。

しかし「超越論的理念として考えられるからには、それは実証的にも存在が確認されなければならない」、「確認できないはずはない」「存在しないわけがない」と確信してしまうことは別だと私は考えます(注7)。カントは、人が正しいと信じて疑わない超越論的理念を幻想としました。複数のあるいは多くの言語に共通する特性を実証することはきわめて科学的態度です。しかし、そういった実証から、「普遍文法」ー現在・過去・未来のいかなる人間言語にも無条件にあてはまる文法― の存在を確信すること、それを科学的真理として提唱することの間には飛躍があります。それを科学上の信念(あるいは信仰)と呼ぶことは可能ですが、そうでしたらそれを超越論的な幻想と呼ぶことも可能なはずです。


●統整的原理と構成的原理

カントは超越論的幻想を生み出してしまう理性の働きを批判的にとらえました。理性は、その働きから知性の諸概念を理念にまとめあげます。しかしその理念をアプリオリに正しいと超越論的に結論し、その理念の対象物を現実世界に見出そうとすること、あるいは作り出そうとしてしまうことは理性の暴走です。

カントによれば、理性は「統整的原理」にしたがって理念を扱うべきであり、「構成的原理」によって理念を現実に見いだせるもの・作り出せるものとして扱うべきではありません。私たちは統整的原理の導きにしたがって、「理念的に考えるならどうなるか」ということを考え続けることはできますが、構成的原理のささやきにしたがって、理念を「現実に構成されているもの・構成できるもの」と考えて、「理念を現実世界に見出す・作り出すことができる」と期待してはいけません。理念はあくまでも純粋理性の上での考えであり、現実に(物理的・生物的な)感覚で捉えることができる対象ではないからです。


●理性の善用


ですから、理念は、いわば私たちを導く北極星として扱うべきです。私たちが北に向かうなら、曇天の夜空にも北極星を見出し、見出だせないならこちらの方向だったはずだと推測しながら北に向かうべきです。ですが決して私たちが北極星に触ることができるなどと思っていはいけません。

いやこの北極星の比喩は、北極星が実在する恒星である以上、不適切でしょう。カントの「虚焦点」―発散光線があたかもそこから出ているように見えるが、実在しているわけではない焦点― の比喩の方が適切かもしれません。いずれにせよ、超越論的理念は実在しない理念(あるいは観念)として扱うことが必要です。

私たちが超越論的理念を現実世界に見出そうとすることは、理性の暴走です。理性を暴走させるのではなく、理性をうまく使う ―善用する― のは、さまざまな知性の概念から適切な理念をまとめあげ、さらにその理念を理性的に考え続けることで、私たちの思考を導くことです。その導きの中で、私たちは以前よりも的確に考えることができるでしょう。理性の的確な思考で、知性の概念は活性化されるでしょう。さらにそれらの概念は感性にも働きかけ、私たちはより鋭敏に対象を知覚するようになるでしょう。さらに ―と私は考えますが― 活性化された感性は、より知性を刺激するでしょう。より多彩な概念が生まれ、それが理性を刺激しより的確な理念統合が促されるでしょう。理性の理念(さらには理想)を、あくまでも理性の理念(あるいは理想)として扱い、理念(あるいは理想)を現実に見出そうとしたり作り出そうとしたりしないことが、理性の批判的使用であり、善用であると私はカントを読みます(注8)。



■改めて「コミュニケーション能力」について

以上の議論を踏まえて改めて「コミュニケーション能力」について考えましょう。私たちはしばしば、コミュニケーションが上手な(あるいは下手な)ある人を観察して「彼女のコミュニケーション能力は高い(あるいは低い)」と言います。もしくは、教育について「コミュニケーション能力」を高めなければならないと言います。いずれの場合の「コミュニケーション能力」も、特定の状況・特定の相手・特定の目的といった現実的諸条件を考えずに、無条件的に「とにかくあらゆる種類のコミュニケーションをうまく遂行できる能力」といったように考えます。

これは理性上の理念と言えるでしょう。この「コミュニケーション能力」という理念は、現実世界に結びついた知性での諸概念を統一的にまとめて考えられたものです。「ある人が、ある時ある場所で見事に交渉に成功した」、「別の時別の場所に、とても優雅な言動を示した」、「さらに別の時別の場所で雄弁だった」・・・などの具体的な概念から、私たちは「どうやらこれらを『コミュニケーション能力』とまとめることができるようだ」と概念を純粋化して、理性的な理念に仕立て上げます。

理念化された「コミュニケーション能力」は、さらに他の理念や純粋概念とともに考えられます。曰く、文法知識、ディスコースの知識、語用論的知識、社会言語学的知識、あるいはそれらを活用する力など(後に勉強するバックマンのコミュニケーション・モデルです)。もしくは、他人の心を読む力、身体・物体を操作する力、言語の知識(後に紹介する私の三次元的モデルです)。そうやって私たちは「ああでもない、こうでもない。いや、ここはこう考えた方がいい」と「コミュニケーション能力」という理念を考え続けます。私たちの生活が少しでも「よい」ものになるように考え続けます ―ちなみに「よい」というのも私たちが考え続けなければならない理念の一つです―。理念は考え続けるものです。私たちをよき方向に導くために。

理念として考え続けるには、もちろんいいかげんでなく、できるだけ理論的に考える必要があります。そして理論というのは、究極のところで現実世界の観察に基いているのですから、私たちは現実世界に忠実でなければなりません。ですが、現実世界の観察を概念化し、その概念を理論として純粋化し、純粋理性の理念とした時、その理念は現実世界の実在物でも、その実在物の表象でもなくなっています。私たちは理念と現実を混同してはいけません。理念は、私たちの現実生活をよくするために、よくする限りにおいて、考えられるべきです。

「考えられることはすべて徹底的に考え抜かねばならない」というのは理性の暴走であり、理性の批判的使用ではありません。「考えられることは、現実世界にも見いだせる・作り出せるものでなければならない」とアプリオリに決めてかかって、それに反するいかなる経験も否定するのも理性の暴走です。カントにせよウィトゲンシュタインにせよ、優れた哲学者は、哲学あるいは理性の暴走を批判し、暴走を止めようとしています(それは、優れた武術家が武術の暴走を批判し、暴走を止めようとしていることと似ています)。理性は、批判的に、注意深く使わねばなりません。

ですから「コミュニケーション能力が理論的、実証的に把握できない限り、いかなる研究もできない」と考えることは間違いです(こういった思い込みは若い研究者にしばしば見られます)。「コミュニケーション能力」が理念である以上、その考察に終わりはありません。その実証は不可能です。かといって「コミュニケーション能力なんて何でもいいんですよ。いいコミュニケーションを見つけたら、そこで『それがコミュニケーション能力の高さだ』と適当に言っておけばいいんですよ」というのは知性的・理性的な態度ではありません。私たちはほどよい程度に知性的に概念化を進め、その概念を理性的な理念としてまとめあげる必要があります。「ほどよい程度」というのは、私たちの暮らしの問題が解決するとか、私たちの暮らしがよりよくなるとかいった実際的な判断で決められます。

理念(あるいは理想)の一つに神があります。私たちは神という全知全能の存在(者)を理念(あるいは理想)として考えることができます ―その名を述べることも控えるべきエホバは理念、実際の人として現れたとされるイエスは理想と考えるべきでしょうか―。その神という理念を理性でうまく使う時、私たちは「神は何をお望みだろうか」などと考え、私たちの生活をよりよき方向に導くことができます。

しかし神を現実世界の存在者と錯誤すると悲劇が始まります。「私は神だ」と信じて疑わない者は、どんなにひどいことをしても反省することはないでしょう。「私(私たち)は神を知っている。神の声を私たちは直接に聞ける」と思い込んでいる人(人々)は、他の人々を否定することに躊躇しないでしょう。「あの人こそ、神に違いない」と次々に現実世界の人間に神を見出そうとする人は悲惨な目に会い続けるだけでしょう。しかし、「神はいない。少なくとも現実世界で実証的に出会うことはない」と理解しつつも神を求め続け、理性的理念としてそれを崇め、その理性的理念で考えようと努力する中で自らを統整的に律する人は幸福な人生を歩み続けることができるのではないでしょうか(注9)。

私たちは、理念としての「コミュニケーション能力」という用語と共に、これからいろいろと理性的に考え続けます。考える中で、さらに理論的に概念を分析しようと、知性を働かせます。知性を働かせる中で、それと連動的に感性もより働かせ、以前よりも鋭敏繊細に現実世界での直感を得てより多くの対象を見出します。そしてその対象を何とか理解しようとさらに分析的に思考し概念化します。そしてそうやって豊かになった概念群を理性で統一的にまとめあげようと理念を考え続けます。同時に理念を暴走させないように批判的に理性を使ってゆきます。このようなサイクルを、現実世界の必要に応じて続けて、理性的な理念が私たちを統整的に導くよう、用語、つまりはことばを使い続けてゆきます。

「コミュニケーション能力とは何か」というコミュニケーション(注10)を、私たちのよりよい暮らしのために続けることができるようなコミュニケーション能力を互いに育むことを、私は「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で目指します。「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導きます。





(注1)現象世界
原語は"Erscheinung"で、英訳は"appearance"。日本語では通常「現象」と訳されますが、ここではわかりやすさを狙い「現象世界」と訳しました。

(注2)直感
原語は"Anschauung"。"1) Überzeugung jds Meinung uber wichtige Dinge; 2) Auffassung jds Vorstellung von etw; 3) Erfahrung durch eigene Erlebnisse gewonnenes Wissen"などの定義からわかるように、"idea, view, conception, intuition"などとも英訳できる語ですが、ペンギン版では"intuition"の訳語が使われています。日本では「直観」が定訳ですが、ここでは"Sinn"→"sense" (「感覚」)の意味合いを活かすため「直感」としました。

(注3)知性
原語は"Verstand"で"verstehen"の名詞形。したがって英語では"understandig"と訳されます。日本語では従来「悟性」と訳されていました。これはよく考えられた訳語でしたが、残念ながらカント哲学学徒の範囲を超えて日本語として普及したとは言えませんのでここではわかりやすさを優先してこの「悟性」という訳語は使いません。直訳としては「理解」あるいは「理解力」であり、これを使おうかとも思いましたが、「感性-理解-理性」よりは「感性-知性-理性」の方が三つの段階の連続性がわかりやすいので、中山先生が使っている「知性」という訳語をここでも採択しました。また、この"Verstand"では直感が思考され概念となります。こういった分析力を私たちはしばしば「知性の働き」と呼びますので、"Verstand"を「知性」と訳すのは十分に合理的なことであると考えます。

(注4)アプリオリ
カントは「アプリオリ(経験以前に)-アポステリオリ(経験以後に)」だけでなく、「総合的に-分析的に」という区分も用いて議論をしていますが、後者の区分は現代ではカントが考えていたほどに自明なものではないことがわかっていますので、ここでは前者、特にアプリオリだけについて考えます。

(注5)「世界には始まりがある」
「世界には始まりがある」はアプリオリな判断の例として出されていますが、やっかいなことは、この命題の否定である「世界には始まりがない」もアプリオリな判断としてなりたちえます。前者を肯定することで後者を否定することも、前者を否定することで後者を肯定することも可能で、議論を聞いているとどちらも正しいようにも思えます。矛盾する二つの命題がどちらも正しいように思えることを二律背反(アンチノミー)と言います。カントは、二律背反は理性がいわば暴走して領域侵犯しまったから生じると考えます。

(注6)「幻想」
ここで私が「幻想」と訳していることばの原語は"Schein"で英訳は"illusion"。定訳では「仮象」であり、この「仮象」という訳語は、カントの"Erscheinung"-"Schein"の関係を、「現象」-「仮象」とうまく訳せるいい訳語ですが、「仮象」は日常的に使われることばではないのでここでは「幻想」としました。なおカントはどこかで仮象は「妄想」にすぎないと述べていますが(ごめんなさい今は引用ページを同定することができません)、この「幻想」は「妄想」と一文字重なっているので、このニュアンスは出せるのではないかとも思っています。

(注7)「存在しないわけがない」
こういった信念についての批判は、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』にも見られます。

(注8)「理性の善用」
ここで私たちは既にカントの『実践理性批判』の議論に入っています。『実践理性批判』は短い作品であることもあり、私は随分前に通読しましたが、最近再読していません。近いうちに再読して、このあたりのことをきちんと考えたいと思っています。

(注9)「理性的な信仰」
カントには『たんなる理性の限界内の宗教』という本があります(私はまだ通読に成功したことがありませんが 汗)。量義治先生という方も『宗教哲学としてのカント哲学』で、カント哲学における宗教の重要性を説いています。

(注10) 「コミュニケーション」についての抽象的定義を入れるつもりが忘れていたので、最後の最後で述べておきます。私の暫定的なコミュニケーションの抽象的定義は次のようなものです。

コミュニケーションとは、複数の個体が、お互いに他の個体の変化を契機として、それぞれに(自己組織的に)変化する相互作用が次々に生じている状態である。


この定義により、言語使用だけでなく、経済活動やスポーツなどもコミュニケーションとして扱うことができます。さらにはこういった定義は私と犬がコミュニケーションを行うことも概念的に認めます。ましてや、言語を使わないままの人と人の出会いも立派なコミュニケーションです。私は言語、特に第二言語としての言語を主な媒体としたコミュニケーションを、主な考察の対象としますが、狭義の言語コミュニケーション以外も、適切な範囲においてコミュニケーションとして考察の範囲に入れ、より現実的なコミュニケーション能力論を展開することを目指しています。


※上記のドイツ語説明およびドイツ語の英訳は以下の辞書サイトを参照しました。






追記

私は、「コミュニケーション能力」だけでなく、「アイデンティティ」や「モチベーション」、あるいは他の応用言語学の概念なども理性的な理念として考えるべきだと思っています。私たちを導くようにこれらは理性的に適切に考えられるべきであり、傍証はともかく、これらの完全な実証を追求することは賢明なことではないと私は考えます。理念を超越論的幻想に変えてしまうのは避けるべきです。ですが、これらの具体的な検討は別の機会に行いたいと思います(てか、もう深夜だし、疲れた 苦笑)