2012年10月5日金曜日

「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く




■「コミュニケーション能力」という困惑する概念

肯定的な意味合いであれ、批判的な意味合いであれ、「コミュニケーション」あるいは「コミュニケーション能力」という用語を使わない英語教育関係者はいません。それでいて、それらが正確に何を意味するのかを明確に語れる者は多くありません。意味を問われれば多くの人は困惑するばかりです(あるいは「読み・書き・聞き・話す能力です」などと表面的な答えを出すだけです)。

私の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業では、「コミュニケーション能力」について検討し、その検討から英語教育という営みを根源的に考察します。2012年度は、実質上の最初の授業で「カントとチョムスキー」について講義・討論することにしました。「チョムスキーはともかく、なぜカントなの?」と思う方も多いかもしれませんが、私はカントについて概説することにより、チョムスキーの言語思想が理解しやすくなり、かつ「コミュニケーション能力」を含む応用言語学の様々な概念(後に導入する用語で言えば「理念」)の限界と効用が理解しやすくなると考え、カントについて講義・討論することにしました。

しかし私は他の多くの講義内容同様、カントの専門家ではありません ―というより、私は何の専門家なのだろう?―。私のカント理解はとりあえず「この記事」およびそれに続く記事などで示されているぐらいです。ですから私としてはカントについて誤解することを恐れながら慎重に今後ともにカントを読まなければならないと自戒しています。しかし他方で、非専門家として一種開き直り、専門家なら使わないような日本語でわかりやすくカントの哲学を語ってみようとも思っています。(専門家の方、もしひどい誤りなどありましたらぜひご指摘ください。私は内田樹先生が『街場の大学論』で述べるように、研究者の端くれとして、自らの賢さを披露するためでなく、自らのバカさかげんを公開して批判を仰ぐために、このようにブログや論文を書いています)。



これからの論述の見通しのために、結論を最初に簡潔に述べておきますと、こうなります。


特定のコミュニケーションが行われる具体的な諸要因をすべて捨象して一般化して想定しする「コミュニケーション能力」とは、その捨象ゆえ、私たちがいつか完全に実証できるような概念ではない。そのような意味での「コミュニケーション能力」は、私たちは到達することができない「超越論的な理念」 ―後で説明します― である。だが、そのような理念は、あたかも地上の民にとっての北極星のように、私たちがより「よき」実践を目指す時に役に立つことができる。私たちは、さまざまなコミュニケーション能力の理論やモデルをこれからも産出するだろうが、私たちはそれらを検討し批判し「コミュニケーション」や「コミュニケーション能力」について語り続けるだろう。語り続け、それに基づき試行錯誤を続け、よりよき暮らし・社会を目指すことが私たちの課題である。


ですから、この「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で紹介する各種のコミュニケーションの理論やモデルのどれも、「最終解答」ではありません。唯一絶対の正解に私たちはたどり着くことができないと自己抑制・自己批判を保ちながら、探求を続けることが私たちが取るべき態度だと私は考えています。


それではなぜ「コミュニケーション能力」について私たちは十分に実証も記述もできず、永遠に「正解」が得られないのでしょう。それについて理解するために、以下、カントの『純粋理性批判』を要約しながら考察してゆきます。私はこの本を大学時代から何度も通読しようと試みながら挫折し、入門書などを読み続けていましたが、この夏、はじめて中山元先生の新訳を読んだところ、思った以上に面白く読め、ようやく通読を果たしました。




この翻訳に下線を引いた箇所を、私はペンギン版の英訳で再読し、原典をチェックしました。




その理解の多くは、上でも述べた以下のブログ記事で書いている通りです。







この記事では、こういった理解に基づき、(カントの趣旨を損ねない程度に)できるだけわかりやすい日本語で『純粋理性批判』を、コミュニケーション能力について考えるために説明してゆきます。




■『純粋理性批判』の概要

『純粋理性批判』を私なりにまとめると次のようになります。私がカントの定訳以外の訳語を使用した用語の翻訳についての解説は(注)で述べますので、まずは概要だけを理解して下さい。

カントは人間の認知作用を三段階に分けて考えます。(1)感性、(2)知性、(3)理性です。人間はこれらの三段階を通じて、人間が認識できる限りの現象世界(注1)について感知し思考します。

ちなみに、人間がコウモリが聞いている超音波を認知できないことからも明らかなように、人間はこの宇宙のすべてを認知できるわけではありません。人間が認知できない領域も含めた宇宙全体のすべてをカントは「物自体」と呼んでいます。カント以前の哲学者は、物自体について考えようとし、現代の多くの自然科学者は物自体の真理を究めようとしているでしょうが、カント的な考え方からすれば、人間が経験的・実証的に知りうるのは(人間にとっての)現象世界だけで、物自体ではありません。この論点はいくらでも深入りが可能なのですが、コミュニケーション能力を考える上ではそれほど重要ではありませんので、ここではこれ以上は論考しません。


●感性

話を認知作用の三段階に戻します。(1)の感性の段階で、人間は対象を感知します。対象の例としては、目の前に見えるものでも、聞こえた音でも、皮膚で感じた何かでもかまいません。でももちろん、人間は宇宙のすべての動きを感性で受け取っているわけではありません。人間は、人間の生物学的能力の範囲で、しかも自ら意味あるものとして感じ取ったものだけを対象として感知します。(「感性」の原語は"Sinnlichkeit"です。つまり感性とは「"Sinn" = 『身体で感知する"sense"、さらにはそれよりもさらに意識的な意味での"meaning"』に関すること」と考えることができます)。第一段階の感性で、私たちは意味の原初的形態ともいえる感覚を覚えます。その感覚が対象を規定します(万人にとっての対象があるのではなく、人それぞれに感性の鋭敏さ・繊細さ・精妙さによって覚える感覚が異なり、そのそれぞれの感覚によってその人にとっての対象が定まると私は考えています)。対象といっても、まだ感性の段階では私たちはそれを知的に理解しているわけではありません。カントはこの対象をとらえる感覚を直感(注2)と呼びます。


●知性

認知作用の第二段階が知性(注3)です。感性の段階で、人間はさまざまな対象をそれぞれさまざまな直感として受け入れますが、それを「これは何か?」と考えて概念として自ずとまとめあげるのがこの知性の働きです。このように知性は感性と密接に結びついていますが、他方で知性は、感性の直感から離れて概念をどんどんまとめあげようともします。そうして私たちの現象世界の具体的な経験から離れてしまってまとめあげられた概念は、「純粋概念」あるいは「観念」と呼ばれます。この観念は、さらに次の理性の段階でさらに考えられます。この意味で知性はまさに感性と理性をつなぐ中間的な段階と言えます。


●理性

認知作用の第三のそして最終の段階である理性で私たちはさまざまな純粋概念(観念)をさらに思考してまとめあげ統一しようとします(これは知性が自発的にさまざまな直感を統一するのと同様、理性が自発的に行う働きだとカントは考えています)。理性は、知性の純粋概念(観念)だけを材料にするわけですから、感性でとらえた現象世界での経験とは切り離されています。そのようにさまざまな純粋概念(観念)を思考で統一されたものをカントは理念と呼びます。理念とは、現実の現象世界のさまざまな条件を一切捨象して考えられた無条件的な考え(=現実の諸条件には拘束されずになりたっている考え)です。―この意味で興味深いのが「理想」です。「理想」は理念の一種で、無条件的なのですが、具体的で個別的なイメージが与えられています。日常語での「理想像」と同じと考えていいかと思います。


●超越的、超越論的

このように現実の諸条件に拘束されていない理念(および理想)は、私たちが今・ここで見て概念化する対象をはるかに超えています。このように今・ここの具体的な諸条件から一切離れて成立することを「超越的」と呼びます。しかしなぜ私たちは、超越的な理念を考え、かつそれが一切経験されていないのに(=アプリオリに、a priori)正しいなどと判断してしまうのでしょうか。そのように超越的な理念を私たちがどのようにして抱くのかについての考察を「超越論的」と呼びます。カントの哲学は、超越的な理念についての超越論的な哲学であると言えます。


●アプリオリ

しかしアプリオリな判断とはどんなものでしょう。つまり経験以前に私たちが「あ、それは正しい」と確信する判断です(注4)。カントが挙げる例は、純粋数学や純粋な自然科学です。例えば「7+5=12」ということは、それまでにその計算の経験を一度も積んだこともなくとも、最初に計算した時に正しいと私たちは確信できます。あるいは「直線は二つの点を結ぶ最短距離である」というのは、特にどんな具体的な経験を想定しなくとも正しい知識であると私たちは思います。さらには物質の質量は保存されるといった法則です ―しかし、実をいいますと、私は数学や自然科学に疎いので、こういった例をカントが言うようにアプリオリ(かつ総合的)な判断とみなしていいかわかりません。ですが、ここではそのままカントの議論に即して議論を進めます

カントはさらに形而上学 ―つまりはphysicsを超えた (meta-) 対象についての考察― についても私たちはアプリオリに判断をすると言います。例えば「世界には始まりがある」などです(注5)。

しかし私たち言語教育関係者にとってアプリオリな判断の例として考えられることには、文法性判断があります。チョムスキー以降の生成文法でお馴染みの、ある文を提示して、その文が文法的か非文法的かを判断するテストです。私たちは(母語話者であるかぎり)、その文に今まで接した経験がある必要はありません。またその文法性判断の根拠となる文法規則をこれまで明示的に教えられた経験をもつ必要もありません。母語において、私たちは、その文に関するこれまでの経験なしに、それが文法的か非文法的かをアプリオリに判断します。


●知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない。

実は、チョムスキーの発想とカントの発想は非常に似ています。チョムスキーは、言語獲得は、外部からの入力だけで可能になるのではないとします(もし外部からの入力だけで言語獲得が可能になっているのだったら、3歳児ぐらいと同じ知能をもつと考えられるチンパンジーなども何らかの方法で言語獲得が可能なはずです。ですが人間と同じように育てられたチンパンジーなどが言語獲得をすることはありません ―細かな議論はいろいろあるでしょうが、ここではそうさせてください)。チンパンジーなどができない言語獲得が、人間にとって可能なのは、人間には「言語獲得装置」ともいうべき人間独特の神経機構が備わっているからです。明らかに人間の内部が言語獲得に関わっています。だからといって、外部からの言語入力が一切なければ人間は言語獲得しません。外部からの言語入力と共に言語獲得装置のスイッチ(「パラミター」)がいろいろと入り、言語獲得が進行するわけです。だからカントが言った「知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない」という考えは、チョムスキーの言語獲得観の根本の考えでもあります。


●超越論的幻想

さて、話の流れでチョムスキーの考えを入れましたが、ここからまたカントの議論に戻ります。超越的なことをアプリオリに判断することを超越論的と呼びましたが、感性の現象世界から切り離されて考えられた理性の理念の中には、私たちが正しいに違いないと思ってしまうものがあります。現実から切り離された考えですから、それについて私たちは少なくとも実証的に正しいと知ることはできないはずです。もちろんそれについていろいろと考えることはできます。ですがいろいろと考えることと、それが正しい(=間違っているはずはない)と知ることは別です。ですが、私たちは時にある理念をアプリオリに正しいと確信してしまいます。カントはそういった理念を、「超越論的幻想」(注6)と呼びます。

「理念として超越論的に考えられ、かつ正しいと判断される事柄は、現実世界でも見出されるはずである」と信じて、その超越論的理念の完全な実証を求める者は、超越論的幻想を追っているにすぎないことになります。何度も繰り返しますが、現実条件を一切排除して成立している理性上の理念は、私たちが感性で捉える現実の現象世界に見出だせません。超越論的理念の「一部」を見つけたと主張することは可能なようにも思えますが、一部にすぎない超越論的理念など、本来理念として成立するはずもない考えです。ですからこの世に超越論的理念が完全に現れることを待っている人、超越論的理念を完全に実証することを試みている人、あるいは超越論的理念の一部を実証した(後は残りを実証するだけだ)と考えている人は、みな幻想を追いかけているだけだとなります。



■カントとチョムスキー

●認識論的共通点

カントの「知識は経験と共に始まるが、経験から生じるのではない」という考えが、チョムスキーの言語獲得論にも見られることは、上に確認した通りです。カントとチョムスキーは認識論 ―いかにして私たちは正しい認識を可能にしているかという考察― において共通しています。


●チョムスキーがカントと袂を分かつ時

しかしチョムスキーは彼の言語獲得論を自然科学として追求する時点で、カントと袂を分かっていると私は考えます。チョムスキーは、人間の言語獲得の様子から、「人間は、地球上のどんな人間の言語でも獲得できる(はずなのだ)から、人間には、すべての言語に共通する『普遍文法』が備わっているに違いない」と主張します。

理性的に考える限り、つまり純粋な概念として考える限りにおいてこの考えは正しいようにも思えます。「普遍文法」というのは、確かにありえそうです。それならば、それが実証的にも確認できるかどうかを調査しようとするのは、自然科学としては一つの健全なあり方です。

しかし「超越論的理念として考えられるからには、それは実証的にも存在が確認されなければならない」、「確認できないはずはない」「存在しないわけがない」と確信してしまうことは別だと私は考えます(注7)。カントは、人が正しいと信じて疑わない超越論的理念を幻想としました。複数のあるいは多くの言語に共通する特性を実証することはきわめて科学的態度です。しかし、そういった実証から、「普遍文法」ー現在・過去・未来のいかなる人間言語にも無条件にあてはまる文法― の存在を確信すること、それを科学的真理として提唱することの間には飛躍があります。それを科学上の信念(あるいは信仰)と呼ぶことは可能ですが、そうでしたらそれを超越論的な幻想と呼ぶことも可能なはずです。


●統整的原理と構成的原理

カントは超越論的幻想を生み出してしまう理性の働きを批判的にとらえました。理性は、その働きから知性の諸概念を理念にまとめあげます。しかしその理念をアプリオリに正しいと超越論的に結論し、その理念の対象物を現実世界に見出そうとすること、あるいは作り出そうとしてしまうことは理性の暴走です。

カントによれば、理性は「統整的原理」にしたがって理念を扱うべきであり、「構成的原理」によって理念を現実に見いだせるもの・作り出せるものとして扱うべきではありません。私たちは統整的原理の導きにしたがって、「理念的に考えるならどうなるか」ということを考え続けることはできますが、構成的原理のささやきにしたがって、理念を「現実に構成されているもの・構成できるもの」と考えて、「理念を現実世界に見出す・作り出すことができる」と期待してはいけません。理念はあくまでも純粋理性の上での考えであり、現実に(物理的・生物的な)感覚で捉えることができる対象ではないからです。


●理性の善用


ですから、理念は、いわば私たちを導く北極星として扱うべきです。私たちが北に向かうなら、曇天の夜空にも北極星を見出し、見出だせないならこちらの方向だったはずだと推測しながら北に向かうべきです。ですが決して私たちが北極星に触ることができるなどと思っていはいけません。

いやこの北極星の比喩は、北極星が実在する恒星である以上、不適切でしょう。カントの「虚焦点」―発散光線があたかもそこから出ているように見えるが、実在しているわけではない焦点― の比喩の方が適切かもしれません。いずれにせよ、超越論的理念は実在しない理念(あるいは観念)として扱うことが必要です。

私たちが超越論的理念を現実世界に見出そうとすることは、理性の暴走です。理性を暴走させるのではなく、理性をうまく使う ―善用する― のは、さまざまな知性の概念から適切な理念をまとめあげ、さらにその理念を理性的に考え続けることで、私たちの思考を導くことです。その導きの中で、私たちは以前よりも的確に考えることができるでしょう。理性の的確な思考で、知性の概念は活性化されるでしょう。さらにそれらの概念は感性にも働きかけ、私たちはより鋭敏に対象を知覚するようになるでしょう。さらに ―と私は考えますが― 活性化された感性は、より知性を刺激するでしょう。より多彩な概念が生まれ、それが理性を刺激しより的確な理念統合が促されるでしょう。理性の理念(さらには理想)を、あくまでも理性の理念(あるいは理想)として扱い、理念(あるいは理想)を現実に見出そうとしたり作り出そうとしたりしないことが、理性の批判的使用であり、善用であると私はカントを読みます(注8)。



■改めて「コミュニケーション能力」について

以上の議論を踏まえて改めて「コミュニケーション能力」について考えましょう。私たちはしばしば、コミュニケーションが上手な(あるいは下手な)ある人を観察して「彼女のコミュニケーション能力は高い(あるいは低い)」と言います。もしくは、教育について「コミュニケーション能力」を高めなければならないと言います。いずれの場合の「コミュニケーション能力」も、特定の状況・特定の相手・特定の目的といった現実的諸条件を考えずに、無条件的に「とにかくあらゆる種類のコミュニケーションをうまく遂行できる能力」といったように考えます。

これは理性上の理念と言えるでしょう。この「コミュニケーション能力」という理念は、現実世界に結びついた知性での諸概念を統一的にまとめて考えられたものです。「ある人が、ある時ある場所で見事に交渉に成功した」、「別の時別の場所に、とても優雅な言動を示した」、「さらに別の時別の場所で雄弁だった」・・・などの具体的な概念から、私たちは「どうやらこれらを『コミュニケーション能力』とまとめることができるようだ」と概念を純粋化して、理性的な理念に仕立て上げます。

理念化された「コミュニケーション能力」は、さらに他の理念や純粋概念とともに考えられます。曰く、文法知識、ディスコースの知識、語用論的知識、社会言語学的知識、あるいはそれらを活用する力など(後に勉強するバックマンのコミュニケーション・モデルです)。もしくは、他人の心を読む力、身体・物体を操作する力、言語の知識(後に紹介する私の三次元的モデルです)。そうやって私たちは「ああでもない、こうでもない。いや、ここはこう考えた方がいい」と「コミュニケーション能力」という理念を考え続けます。私たちの生活が少しでも「よい」ものになるように考え続けます ―ちなみに「よい」というのも私たちが考え続けなければならない理念の一つです―。理念は考え続けるものです。私たちをよき方向に導くために。

理念として考え続けるには、もちろんいいかげんでなく、できるだけ理論的に考える必要があります。そして理論というのは、究極のところで現実世界の観察に基いているのですから、私たちは現実世界に忠実でなければなりません。ですが、現実世界の観察を概念化し、その概念を理論として純粋化し、純粋理性の理念とした時、その理念は現実世界の実在物でも、その実在物の表象でもなくなっています。私たちは理念と現実を混同してはいけません。理念は、私たちの現実生活をよくするために、よくする限りにおいて、考えられるべきです。

「考えられることはすべて徹底的に考え抜かねばならない」というのは理性の暴走であり、理性の批判的使用ではありません。「考えられることは、現実世界にも見いだせる・作り出せるものでなければならない」とアプリオリに決めてかかって、それに反するいかなる経験も否定するのも理性の暴走です。カントにせよウィトゲンシュタインにせよ、優れた哲学者は、哲学あるいは理性の暴走を批判し、暴走を止めようとしています(それは、優れた武術家が武術の暴走を批判し、暴走を止めようとしていることと似ています)。理性は、批判的に、注意深く使わねばなりません。

ですから「コミュニケーション能力が理論的、実証的に把握できない限り、いかなる研究もできない」と考えることは間違いです(こういった思い込みは若い研究者にしばしば見られます)。「コミュニケーション能力」が理念である以上、その考察に終わりはありません。その実証は不可能です。かといって「コミュニケーション能力なんて何でもいいんですよ。いいコミュニケーションを見つけたら、そこで『それがコミュニケーション能力の高さだ』と適当に言っておけばいいんですよ」というのは知性的・理性的な態度ではありません。私たちはほどよい程度に知性的に概念化を進め、その概念を理性的な理念としてまとめあげる必要があります。「ほどよい程度」というのは、私たちの暮らしの問題が解決するとか、私たちの暮らしがよりよくなるとかいった実際的な判断で決められます。

理念(あるいは理想)の一つに神があります。私たちは神という全知全能の存在(者)を理念(あるいは理想)として考えることができます ―その名を述べることも控えるべきエホバは理念、実際の人として現れたとされるイエスは理想と考えるべきでしょうか―。その神という理念を理性でうまく使う時、私たちは「神は何をお望みだろうか」などと考え、私たちの生活をよりよき方向に導くことができます。

しかし神を現実世界の存在者と錯誤すると悲劇が始まります。「私は神だ」と信じて疑わない者は、どんなにひどいことをしても反省することはないでしょう。「私(私たち)は神を知っている。神の声を私たちは直接に聞ける」と思い込んでいる人(人々)は、他の人々を否定することに躊躇しないでしょう。「あの人こそ、神に違いない」と次々に現実世界の人間に神を見出そうとする人は悲惨な目に会い続けるだけでしょう。しかし、「神はいない。少なくとも現実世界で実証的に出会うことはない」と理解しつつも神を求め続け、理性的理念としてそれを崇め、その理性的理念で考えようと努力する中で自らを統整的に律する人は幸福な人生を歩み続けることができるのではないでしょうか(注9)。

私たちは、理念としての「コミュニケーション能力」という用語と共に、これからいろいろと理性的に考え続けます。考える中で、さらに理論的に概念を分析しようと、知性を働かせます。知性を働かせる中で、それと連動的に感性もより働かせ、以前よりも鋭敏繊細に現実世界での直感を得てより多くの対象を見出します。そしてその対象を何とか理解しようとさらに分析的に思考し概念化します。そしてそうやって豊かになった概念群を理性で統一的にまとめあげようと理念を考え続けます。同時に理念を暴走させないように批判的に理性を使ってゆきます。このようなサイクルを、現実世界の必要に応じて続けて、理性的な理念が私たちを統整的に導くよう、用語、つまりはことばを使い続けてゆきます。

「コミュニケーション能力とは何か」というコミュニケーション(注10)を、私たちのよりよい暮らしのために続けることができるようなコミュニケーション能力を互いに育むことを、私は「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で目指します。「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導きます。





(注1)現象世界
原語は"Erscheinung"で、英訳は"appearance"。日本語では通常「現象」と訳されますが、ここではわかりやすさを狙い「現象世界」と訳しました。

(注2)直感
原語は"Anschauung"。"1) Überzeugung jds Meinung uber wichtige Dinge; 2) Auffassung jds Vorstellung von etw; 3) Erfahrung durch eigene Erlebnisse gewonnenes Wissen"などの定義からわかるように、"idea, view, conception, intuition"などとも英訳できる語ですが、ペンギン版では"intuition"の訳語が使われています。日本では「直観」が定訳ですが、ここでは"Sinn"→"sense" (「感覚」)の意味合いを活かすため「直感」としました。

(注3)知性
原語は"Verstand"で"verstehen"の名詞形。したがって英語では"understandig"と訳されます。日本語では従来「悟性」と訳されていました。これはよく考えられた訳語でしたが、残念ながらカント哲学学徒の範囲を超えて日本語として普及したとは言えませんのでここではわかりやすさを優先してこの「悟性」という訳語は使いません。直訳としては「理解」あるいは「理解力」であり、これを使おうかとも思いましたが、「感性-理解-理性」よりは「感性-知性-理性」の方が三つの段階の連続性がわかりやすいので、中山先生が使っている「知性」という訳語をここでも採択しました。また、この"Verstand"では直感が思考され概念となります。こういった分析力を私たちはしばしば「知性の働き」と呼びますので、"Verstand"を「知性」と訳すのは十分に合理的なことであると考えます。

(注4)アプリオリ
カントは「アプリオリ(経験以前に)-アポステリオリ(経験以後に)」だけでなく、「総合的に-分析的に」という区分も用いて議論をしていますが、後者の区分は現代ではカントが考えていたほどに自明なものではないことがわかっていますので、ここでは前者、特にアプリオリだけについて考えます。

(注5)「世界には始まりがある」
「世界には始まりがある」はアプリオリな判断の例として出されていますが、やっかいなことは、この命題の否定である「世界には始まりがない」もアプリオリな判断としてなりたちえます。前者を肯定することで後者を否定することも、前者を否定することで後者を肯定することも可能で、議論を聞いているとどちらも正しいようにも思えます。矛盾する二つの命題がどちらも正しいように思えることを二律背反(アンチノミー)と言います。カントは、二律背反は理性がいわば暴走して領域侵犯しまったから生じると考えます。

(注6)「幻想」
ここで私が「幻想」と訳していることばの原語は"Schein"で英訳は"illusion"。定訳では「仮象」であり、この「仮象」という訳語は、カントの"Erscheinung"-"Schein"の関係を、「現象」-「仮象」とうまく訳せるいい訳語ですが、「仮象」は日常的に使われることばではないのでここでは「幻想」としました。なおカントはどこかで仮象は「妄想」にすぎないと述べていますが(ごめんなさい今は引用ページを同定することができません)、この「幻想」は「妄想」と一文字重なっているので、このニュアンスは出せるのではないかとも思っています。

(注7)「存在しないわけがない」
こういった信念についての批判は、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』にも見られます。

(注8)「理性の善用」
ここで私たちは既にカントの『実践理性批判』の議論に入っています。『実践理性批判』は短い作品であることもあり、私は随分前に通読しましたが、最近再読していません。近いうちに再読して、このあたりのことをきちんと考えたいと思っています。

(注9)「理性的な信仰」
カントには『たんなる理性の限界内の宗教』という本があります(私はまだ通読に成功したことがありませんが 汗)。量義治先生という方も『宗教哲学としてのカント哲学』で、カント哲学における宗教の重要性を説いています。

(注10) 「コミュニケーション」についての抽象的定義を入れるつもりが忘れていたので、最後の最後で述べておきます。私の暫定的なコミュニケーションの抽象的定義は次のようなものです。

コミュニケーションとは、複数の個体が、お互いに他の個体の変化を契機として、それぞれに(自己組織的に)変化する相互作用が次々に生じている状態である。


この定義により、言語使用だけでなく、経済活動やスポーツなどもコミュニケーションとして扱うことができます。さらにはこういった定義は私と犬がコミュニケーションを行うことも概念的に認めます。ましてや、言語を使わないままの人と人の出会いも立派なコミュニケーションです。私は言語、特に第二言語としての言語を主な媒体としたコミュニケーションを、主な考察の対象としますが、狭義の言語コミュニケーション以外も、適切な範囲においてコミュニケーションとして考察の範囲に入れ、より現実的なコミュニケーション能力論を展開することを目指しています。


※上記のドイツ語説明およびドイツ語の英訳は以下の辞書サイトを参照しました。






追記

私は、「コミュニケーション能力」だけでなく、「アイデンティティ」や「モチベーション」、あるいは他の応用言語学の概念なども理性的な理念として考えるべきだと思っています。私たちを導くようにこれらは理性的に適切に考えられるべきであり、傍証はともかく、これらの完全な実証を追求することは賢明なことではないと私は考えます。理念を超越論的幻想に変えてしまうのは避けるべきです。ですが、これらの具体的な検討は別の機会に行いたいと思います(てか、もう深夜だし、疲れた 苦笑)



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