2016年10月25日火曜日

アレントの言語論に通じるル=グヴィンの言語論

※ 2016/10/26に内容の一部を変更しました。

*****



 現在、「行為」 (Handeln) に関するアレントの見解をまとめたノートを作成中なのですが、ドイツ語を解釈し翻訳しなくてはならないので作業が遅々として進みません。そんな中、私のツイッターリスト (essentials) で流れてきたル=グヴィン(私も大好きな『ゲド戦記』の作家として有名です)の言語論が、アレントの言語論と驚くほど似ていたので、ここに簡単にまとめておくことにしました(英語ですと解釈も翻訳も楽です)。

このページに引用されている=グヴィンのことばは、以下のサイトから転載したものです。


Telling Is Listening:
Ursula K. Le Guin
on the Magic of Real Human Conversation



以下、見出し(■印)に続いて、「原文」「拙訳」「解釈」「訳注」の四項目で=グヴィンの言語論をまとめますが、その前に私がなぜこのような言語論に興味をもつのかを、簡単な二つの日常事例で説明しておきます。

一つは、「この件はメールではどうかと思いますので電話でお話します」、「いや電話ではなくぜひ直接お会いしてお話しましょう」といった私たちの日常事例です。これだけメディアが発達した現在でも私たちは、文字列を読むだけよりは相手の肉声を聞くことを好んだり、ただ肉声を聞くだけではなく面と向かって表情を見たい(また自分の肉声と表情も示したい)と思ったりすることは多々あります。もし要件が結論を得ることだけでしたら、電話や直接面談は一件無駄のように思えます。また、どんな媒体で伝えられた言語も、とりあえず同じ言語のサンプルとして考える言語学の標準的作法ではこの違いを説明できません。

もう一つは、相談にのってもらった人などが「話を聴いてもらって力が湧きました」などと言う日常事例です。聴き手はなんら助言をせずに、頷いたり簡単な相槌をうったりしただけの場合でもこのような述懐はしばしば聞かれます。もし聴き手の役割が単に受動的な受信者であるのなら、話し手はなぜ聴き手の有無によって(あるいは聴き手や聴き方の違いによって)力を得たり得なかったりするのでしょうか。また、聴いてもらって得られたとする「力」とはどんな力なのでしょうか。原則として話し手や聴き手といった人間ではなく、そこで使われた言語という抽象化され理念化された記号体系を研究対象とする言語学の標準的作法では、この事例も説明しがたいままです。


しかし、アレントやル=グヴィンの言語論、あるいはボームやオープンダイアローグや当事者研究の対話論に依拠してこういった事例を考えると、すっきりと理解できるように思えます(もちろん、それは言語学が目指す科学的説明とはかけ離れた説明による理解ですが)。

私としては言語学の方法論あるいは自然科学の方法論への忠誠より、教育やその他の現場の困惑に対処することの方を重んじていますので、こういった非-言語学的な方法を躊躇なく採択しています。

こういった問題意識については、1126日(土)に明海大学で行われる「第19回応用言語セミナー」での一時間の発表でも語る予定です。


19回応用言語セミナー
応用言語学を考える
20161126日(土) 13:00-17:30
明海大学浦安キャンパス
講義棟12102教室


ここではその発表のための準備も兼ねて、以下にル=グヴィンの言語論を簡単にまとめておく次第です。



■ 相互主観性とは、参加者が共に主体としてお互いに働きかけると同時に働きかけられ、そのことによって共に変化を続けることによって参加者それぞれに経験される主観性である。

・原文
Live, face-to-face human communication is intersubjective. Intersubjectivity involves a great deal more than the machine-mediated type of stimulus-response currently called “interactive.” It is not stimulus-response at all, not a mechanical alternation of precoded sending and receiving. Intersubjectivity is mutual. It is a continuous interchange between two consciousnesses. Instead of an alternation of roles between box A and box B, between active subject and passive object, it is a continuous intersubjectivity that goes both ways all the time.

・拙訳
顔と顔を合わせての生のコミュニケーションは、相互主観的なものだ。相互主観性は、現在「インタラクティブ」と呼ばれている機械を通じての刺激と反応のやりとりをはるかに超えている。相互主観性は、そもそも刺激-反応の関係ではない。予め符号化されている送信と受信を機械的に交代させることではない。相互主観性とはお互いに生じるものである。二つの意識の間で相互変化が生じ続けることである。Aの箱とBの箱の間の役割、能動的な主体と受動的な客体の間の役割が交代するのではなく、常に連続して双方から働きかけるのが相互主観性である。

・解釈
 相互主観性とは、特定の参加者だけに帰することのできない、参加者全員に関わる特性である。参加者が自分たちの間に成立していると感じる主観性であり、それは参加者それぞれが他の参加者に対して働きかけまた同時に働きかけられることにより成立する。
 こう書くと、相互主観性とは摩訶不思議なもののように思えてくるかもしれないが、相互主観性は私たちがしばしば経験しているものである。精神医学・臨床哲学の木村敏氏がよくあげる例が弦楽四重奏の演奏であるが、四人の演奏者はそれぞれの演奏を(自分を含めた)すべての演奏者に向けて行うが、その演奏は同時に(自分を含めた)すべての演奏者の演奏を受けての演奏である。弦楽四重奏においては、特定の誰か(例えば第一バイオリン)が演奏全体を導くことはできても、演奏全体を支配してしまうことはできない。弦楽四重奏全体はお互いに影響を与え続け与えられ続けている四人の演奏者の連動によって作られるものである(ジャズグループの即興演奏なら、この連動性はもっと強いだろう)。それぞれの演奏者は、それぞれに自分だけの主観性(あるいは後述するように主体性)を超えた、この集団によって構成されている主観性・主体性を自覚するだろうが、それを相互主観性と呼べると私は考える。
 日常会話でも、どちらか一方ではなく両方が作り出す会話の喜びはある。それぞれが思いもよらなかった展開が生じ、相手のことだけでなく自分のことにも新たな発見がありそれぞれが上気する。「私たち、馬が合うね」(注)という「私たち」の意識も芽生える。これも相互主観性の一例ではないだろうか。
 このように考えると相互主観性は日常生活で私たちが経験している「現実」 (Wirklichkeit) の一部といえるだろう。

関連記事:真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より

(注)
慣用表現の「馬が合う」とは、乗馬において騎手と馬の息が合うことの重要性に由来する表現のようですが、武術家の甲野善紀先生とホースクリニシャンの宮田朋典氏の出会いには奥の深いものがあります。ご興味のある方はお読みください。





・訳注
Subjectivity”と objectivity”は、「主観性」と「客観性」と訳すこともできるが、そもそも object”は「対象」あるいは「客体」と訳すことの方が多く、 subject”も「主体」と訳すことができることからすれば、“Subjectivity”と objectivity を「主体性」と「客体性」と訳すことは正当であろう(注)。そうなると “intersubjectivity”を「相互主観性」ではなく「相互主体性」と訳すことも可能であるが、ここではより多く使われている「相互主観性」という訳語を採択した。

(注)
一歩進んで「自象性」と「対象性」と訳すことも極めて可能である。前者は「自(みずから)ら象(かたち)をなすこと」と読めばそれほど奇異な造語とも思えない。



■ 人間はお互いに自分を相手に同調あるいは同期させることがある。

・原文
Like the two pendulums, though through more complex processes, two people together can mutually phase-lock. Successful human relationship involves entrainment — getting in sync. If it doesn’t, the relationship is either uncomfortable or disastrous.

・拙訳
二つの振り子のように、しかし振り子よりもはるかに複合的な過程を経て、二人の人間は同時にお互いに位相を合わせるにいたる。うまくいっている人間関係には同調、つまりは同期化がある。同調や同期化のない人間関係は不快か悲惨なものである。

・解釈
 “Entrainment” (「同調」「引き込み」「エントレインメント」)は、生物学や物理学や工学や気象学などでも見られる現象(注)であることからすれば、たとえ比喩的にであれ、この概念を人間の言語使用について使うことは有益なのかもしれない。
(注) Wikipedia: Entrainment
 ちなみにオープンダイアローグの「情動共鳴」 (emotional attunement) やボーム対話論の 「一つの身体・一つの心」 (one body, one mind) の考え方もこの「同調」の考え方(あるいは比喩)と似ているといえるでしょう。
オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
感受性、真理、決めつけないこと ボームの対話論から
 ジェスチャー研究を専門になさっている方々はこういった領域についての研究成果を多くご存知でしょうが、私は残念ながら不勉強でここでそのような知見を紹介することができません。

・訳注
 特になし。



■ 聴くことと話すことは不可分で表裏一体の行為である。聴き手と話し手は会話という相互的で協働的な行為でつながっている。

・原文
Listening is not a reaction, it is a connection. Listening to a conversation or a story, we don’t so much respond as join in — become part of the action.

・拙訳
聴くことは反応ではない。聴くことはつながることである。会話や物語を聴くとき、私たちは反応しているというより参加している。行為の一部になるのだ。

・解釈
 聴くことは、話し手の発信という刺激を受信してそれに反応することではない。聴きながら私たちは話し手とつながり、話し手に影響を与えると共に話し手から影響を受けている。そういった相互性を込めた意味で言うなら、誰かの話を聴くことは誰かに話をすることと同時に成立する(そして同時にしか成立しない)「行為」である。顔と顔を合わせての会話では、一人がまず話をして、その後にもう一人が聴くということはなく、二人は話し-聴くという相互的で協働的な行為に参加する。話し手と聴き手は常につながっている。

・訳注
 ここでは “action”がアレントの英訳と同じように、参加者の相互性や協働性、あるいはもっと一般的に言うなら人間の複数性を基盤とした語として使われていることに注意したい。詳しくは後日のアレントに関する記事で述べるが、「行為」と訳されることが多いアレントのドイツ語 “Handeln” は「商売する」や「交渉する」といった意味で使われることも多い動詞である “handeln”を名詞化した表現であり、「行為」は一人では完結できない行いとして解釈されるべきである。だが、英語の“action” にも日本語の「行為」にも、必ずしもそのような複数性を前提とする含意はないので注意が必要。
この点、“reaction”や訳しにくいことばであった。 上述の「行為」の含意はここにはないと考えて、「刺激-反応」の “response”と同じように「反応」と訳した。



■ 参加者の心身の同調・同期で共同体の絆が強くなる。心身の同調・同期をもたらす語りこそが共同体を形成する権力である。

・原文
When you can and do entrain, you are synchronising with the people you’re talking with, physically getting in time and tune with them. No wonder speech is so strong a bond, so powerful in forming community.

・拙訳
あなたが実際に同調するとき、あなたは話をしている人たちと同期し、時と動きを身体的に同じくする。だからこそ語り合いが強い絆となり、共同体を形成する権力となる。

・解釈
  話し合いによって共同体の絆は強まり深まるが、これは話し合われた結論の命題がもつ力だけでなく、おそらくそれ以上に、話し合いの過程で、参加者が身体の動きで同調・同期し、それに応じて心の動きでも相分に同調・同期したからであろう。
 参加者それぞれの個性を保ったままに、参加者の心身の同調・同期をもたらす話し合い・語り合いこそが共同体を形成する権力 --共同体を形成する権利をもつ正当な力-- である。権力は、共同体一般、ということは小集団から国家といった大規模共同体までも含むさまざまな共同体を形成する正当な力である。「権力」ということばは、一般には「国家が専有し国民に対して行使する強制力」といった意味合いで使われることが多いが、アレントはそういった権力観に真っ向から反対した。ル=グヴィンもそのアレントとほぼ同じ意味で “power”およびその派生語を使用しているように思える。

・訳注
 上で述べたことと少し重なるが、“powerful” “power” をここでは敢えて愚直に「権力」と訳した。日本語での「権力」には、「為政者が専有する強制力」や「制度的な圧力」といった否定的な含意があるので、そういった含意から離れるため私は “power, Macht” をこれまで「活力」や「語り合う力」などと訳してきた。

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
1/9 (土) 小学校英語教育シンポジウム(広島大学)での投影スライドと印刷配布資料

しかし、アレントの狙いは、“power, Macht” は人間の複数性を否定する独裁者や独裁的な統治を好む人々が有することができないもので、「異なるが対等」な複数の人間の共存を積極的に肯定し活用しようとする民主主義的な人間が有するものだということを訴えることだと考えると、上記のような伝統的な含意に挑戦し続けて、「権力」ということばをアレント的に(あるいは民主主義的に)使い続けるべきかとも思えてきたので、今回は「権力」という訳語を使った(とはいえ、今後も文脈に応じて「語り合う力」という訳語は使うかもしれないが)。



■ 聴き手がいてこそ話し手は存在する。語りは出来事を共有する相互主観的でお互いに作り上げる行為である。

・原文
When you speak a word to a listener, the speaking is an act. And it is a mutual act: the listener’s listening enables the speaker’s speaking. It is a shared event, intersubjective: the listener and speaker entrain with each other.

・拙訳
あなたがあることばをある聴き手に語りかけるとき、その語りは行為となる。それはお互いが作り上げる行為である。語り手が語ることができるのは聴き手が聴くからこそである。語りは出来事の共有であり、相互主観的である。聴き手と語り手は互いを同調させる。

・解釈
 ル=グヴィンとアレントの言語観の類似性がもっともよく表れている箇所の一つといえるだろう。
 また「出来事」 (event) という概念にも注目しておきたい。「出来事」とは一瞬一瞬に移りゆく過程であり、固定して保存することができないものである(注)。だから、あるすばらしい語り合いを録音してそれを文字起こししたとしても、その文字がその語り合いそのものであると主張することはできない。ここでいう「語り合い」とは、参加者が相互に協働的に同期・同調する(あるいはし損ねる)経験の過程である。語り合いで使われたことばの総記録も語り合いで得られた結論も「語り合い」の本質を表現していない。
(注)
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ

・訳注
 特になし。



■ 人々を同調・同期させる声が、時空の中に親密な領域を作り上げる。

・原文
The voice creates a sphere around it, which includes all its hearers: an intimate sphere or area, limited in both space and time.

・拙訳
声はその周りに領域を作り上げる。すべての聴き手はその領域に含まれる。それは時空を限って形成される親密な領域もしくは場所である。

・解釈
声は、言語の音声的表現ではあるが、物理的・身体的な振動でもあり、心の同調・同期をもたらす媒体でもある。声を言語伝達手段としてだけではなく、参加者の心身を連動させる身体的であると同時に心的でもある現象として考えることがこれからますます重要になってゆくだろう。

・訳注
 “Spehre”は、 “a solid geometric figure generated by the revolution of a semicircle about its diameter” という幾何学的意味(http://www.dictionary.com/browse/sphere)で理解するとよくわかった気がした。



■ 語り手は聴き手によってよりいっそうの権力を得る。語りとは権力を充たす行為である。

・原文
Sound is dynamic. Speech is dynamic — it is action. To act is to take power, to have power, to be powerful. Mutual communication between speakers and listeners is a powerful act. The power of each speaker is amplified, augmented, by the entrainment of the listeners. The strength of a community is amplified, augmented by its mutual entrainment in speech.

・拙訳
音は動きに充ちている。語りも動きに充ちている。語りは行為である。行為によって権力が獲得され所有される。行為は権力に充ちている。語り手と聴き手がお互いにコミュニケーションをすることは権力を充たす行為である。聴き手によって同調されることによって、それぞれの語り手の権力が増幅され拡張される。語りにおけるお互いの同調によって共同体の強度も増幅され拡張される。

・解釈
 語り手は自分なりに語る権利をもっているが、聴き手が頷きや表情の変化で自分と同調・同期してくれることによって「自分はこう語ってもいいんだ。間違っていなかったんだ」と、話し手の権力をより強く感じることができる。「だよね。僕もそう思っていたんだ」という共同体内での同調や同期によって、共同体も強くなり、またその共同体での語りの権力もいっそう大きなものになる。語りという行為は、権力を充たす行為である。

・訳注
 ここでも “power” を愚直に「権力」と訳し続けたので、奇異な訳に見えるかもしれないが、これがアレント的解釈による私の翻訳です(乞うご批判)。



■ ことばには本来、権力が秘められている。

・原文
This is why utterance is magic. Words do have power. Names have power. Words are events, they do things, change things. They transform both speaker and hearer; they feed energy back and forth and amplify it. They feed understanding or emotion back and forth and amplify it.

・拙訳
だからこそ発話は魔法なのだ。ことばには権力が秘められている。名前には権力が秘められている。ことばは出来事であり、物事を行い、物事を変える。ことばは語り手と聴き手を変容させる。ことばは語り手と聴き手の間にエネルギーのやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。語り手と聴き手の間に理解や情動のやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。

・解釈
 ことばはおそらく複数の人間の間でのコミュニケーションから発生してきた(異論もあるだろうが、ここではそう仮定しておく)。そのことばはやがて辞書に配列され、人間のコミュニケーションの文脈から引き離された独自の体系的記号として研究されるようにもなったが、ことばの生息地は人々の間である。だから、たとえ辞書の中にあることばでも、それが生息地で息づけばそれは、それが本来有している力(権力)を取り戻す。ことばは辞書の中ではおとなしく陳列されるがままになっているが、本来それは人々の間で出来事を引き起こし、物事を変え、語り手と聴き手のそれぞれを同時に変えるものである。ことばには権力が秘められており、それがエネルギーとなり人々の理解や情動を増幅する。

・訳注
 ここでも敢えて「権力」という訳語を使い続けた。





 




2016年10月19日水曜日

ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、およびそこでの私の講演スライド





先日(2016/10/08)、メルパルク長野大ホールでラボ・パーティ(http://www.labo-party.jp/50周年記念イベントで、「現代社会にことばを取り戻す」という講演をさせていただきました。

このラボ・パーティとは、私は『佐藤学 内田伸子 大津由紀雄が語る ことばの学び、英語の学びで知り、その活動で使われている英語の自然さに驚き書評を書いたことから縁が始まりました。

その書評の一部をここに転載します。


ラボは、「テーマ活動」という、グループの仲間とともに物語をことば(英語などの外国語と日本語)と身体で表現する教育プログラムを中心に据え、「物語」と「子どもどうしの対話、交流」を学びの柱にしている。原点にしているのは「ことばは人間の心の表現」という認識だ (pp. 82-83)。これらが絵空事でないことは、そのテーマ活動で使われている『古事記』の英語翻訳表現からも推察できる。音に躍動があり勢いがある。自ずと朗読したくなる英語だ。統語的に統制をかけた英語教科書では見られない文体だが、こちらの方が実は自然だ。実践者の熊井氏も深い洞察を示し、「私が教えようとすればするほど、子どもは遠ざかっていく」 (p. 97) こと、「人間として生まれたならば本来もっている問いかけに、遠い祖先が答えてくれるお話」が、「日本語の類まれな美しさ、それから、英語のすばらしい響き」 (p. 103) をもって作品化されていること、などに活動成功の要因を見出している。これらが関係者の自己満足ではないことは、発表までもう3週間ぐらいのとき、全部セリフは言えている小学生が、「なんだか伝わらない」と非常に質的な述懐をしていることからでも推察できる。

  多方面に自由に伸びようとする感性を抑圧して、自分のからだを動物か機械のように扱い、「言語を体に叩きこむ訓練」があまりに浸透してしまったような英語教育界は、この書を理解できるだろうか。読書の意義の一つは、日常の惰性的な思考と感性を揺さぶることにある。ぜひ本書を静かに読み、深さを感じ取ってほしい。



この書評を読んだラボのスタッフから私は連絡を受けました。以来、スタッフの方々が私の講演を聞きにきてくださったり、私も時折のメールでスタッフの方々と意見交換をさせていただいたりしておりましたが、昨年、このラボの50周年記念行事に私に登壇してほしいとの依頼を受け、ラボについて新たに学ばねばと強く思いました。

それはもちろん、ラボについて上記の本で非常に興味をもっていたからでしたが、もう一つの理由は、ラボの25周年行事ではあの鶴見俊輔氏が講演されていたからです。鶴見俊輔氏は20代の私にもっとも深い影響を与えてくださった方ですので、仮にもその鶴見氏が登壇した場に私も立つというのは、私にとって正直怖れ多いことでした。しかし、その25周年記念講演を読ませていただいたりしているうちに、鶴見氏 --私は生前にお会いする機会を一度ももつことができませんでした-- なら、きっと「人は一人ひとり異なる運命と個性を担って生きているのだから、あなたはあなたなりの話をすればいいのではないですか」と諭されているような感覚になり、50周年記念講演を引き受けることにしました。

今年度に入ってからですが、私は3回(総計約10時間)にわたって広島地区でのさまざまな教室の活動を観察したり、テューター(後述)へのインタビューも行った上で、講演にのぞみました(この約10時間観察とインタビューからの学びについては、まとめたいと思いながら諸事に追われ未だにできないでいます。上記の鶴見氏の文章についてもまとめる時間を見つけていません)。

この記事では、私がそのラボの記念行事で学んだことと、私が行った講演のスライドを掲載します。私はせっかくの機会ですので、講演だけしてとんぼ返りするのではなく、時間の許す限り講演の当日と翌日のラボの皆さんの活動を見学させていただいたので、以下の文章の前半はその見学から学んだことのまとめになります。ラボの皆さんが私を温かく受け入れてくれたことに関しては改めてここで感謝します。

なお、誤解のないように予め申し上げますが、私はその講演に対して常識の範囲内の謝金・交通費・宿泊費をいただきましたが、それ以上・以外の経済的(あるいは他の面での)受益は得てておりませんし、これからも得るつもりはありません。以下、私はラボの活動に対して肯定的な評価でもって書くことが多いかと思いますが、それは私が日頃から形成している言語観・言語教育観によるものであることは、このブログの長年の読者あるいは拙著『小学校からの英語教育をどうするかをきちんとお読みくださった方であればわかってくださることと思います。私は国立大学に勤務する者として、今後とも、特定の団体等からの常識以上の謝金や経費は受け取らないことをここに改めて宣言しておきます。




I ラボの行事に参加して学んだこと


ここでは、A 「テューターが集まってのテーマ活動を観察して学んだことば」、B 「テューター歴45年のKさんによる実践リポートの研修会から学んだこと」、C 「ラボの様子全体から学んだこと」の三点から私が今回ラボで学んだことをまとめます。

なお、ラボ・パーティの活動については、独自の用語がありますので、それらについては※印で解説を加えています。



A テューターが集まってのテーマ活動を観察して学んだことば

※ 「テューター」とは、ラボの活動を行う教室でのいわゆる先生役のことですが、学校の先生とは異なり、驚くほど教えないし、一律に規律を守らせようとしません(学校教師がラボでのテューターの働きを見ると驚いてしまうでしょう。私も最初は驚きました)。私見では、ラボのテューターは、異年齢のさまざまな子どもの集団をよく観察して、子どもが楽しく遊びながら学べるように仕向けている使命感を帯びた近所のお姉さん・おばさんのような感じです(ラボでは原則テューターは女性のみです)。
「テューター」に関するラボによる説明は下記URLを参照。

※ 「テーマ活動」とは、「英語と日本語が流れる物語のCDを聞き、その物語をテーマに、子どもどうしで話し合い、協力して英語のセリフを覚え表現を考え、最後にみんなで英語劇を演じるグループ活動」のことで「豊かな母語と生きた英語、自主性や表現力を同時に育むこと」を目指している、とされています。通常のテーマ活動は、テューターが見守る中、子どもたちが行うものですが、今回の記念行事では全国各地からのテューターが集まったため、テューター自身が登場人物になってテーマ活動が行われました。
「テーマ活動」に関するラボによる説明は下記URLを参照。


以下、印象的なことばを (1), (2) といった番号をつけて列挙します。「 」内の表現は、ラボの方々が使った表現の直接引用ですが、それ以外の表現は私なりにまとめなおしたものです。→は私の解釈です。


(1) 活動をやる前には「心を開いておく」必要がある

今回は同じ仲間ということですぐにうちとけることができたが、それでもまずは心を開いておくことが必要。通常の活動ではSongbirdと呼ばれる英語の歌と踊りを最初に行うことが多いが、こういったことは重要だと再認識した。


(2) 「言いたくなることば」がたくさんあることは大切

台詞は本来何度も繰り返されることばなのだが、言う度に新鮮に感じられることばがライブラリーにはある。ライブラリーの制作に携わったメンバーによると、今回取り組んだ『ハムレット』のライブラリーにはラテン語やぞんざいな日本語も敢えて入れてもらったとのこと。「本物のことば」の方が子どもにも伝わるとも語っていた。

※ 「ライブラリー」とは、「ラボ・ライブラリー」として発刊されているCD付きの絵本教材。絵本とCDの試読・試聴はこちらから


(3) 「イメージを共有」している相手が大切

同じライブラリーを聴き込んで、それなりにイメージを共有している相手がいるのは嬉しい。


(4) 動いてみてはじめてわかることがある

テーマ活動で実際に語りながら動くと、語り合う「空間」を感じることができた。これはCDや絵本だけでは感じがたいから、動いてみてはじめてわかることがあると思った。


(5) 「呼応する相手」がいてはじめてことばのやり取りが生まれる

テーマ活動を試行的にやってみる上で、自分の台詞に呼応してくれる相手がいたから楽しかった。こういった相手がいるからこそ、よく言われる「会話のキャッチボール」が成立したと思う。

→ライブラリーのCDを「こころ」で感じてイメージをもち、ライブラリーの本を「あたま」で読んでさらにイメージを膨らませ、「からだ」で動いて、呼応する相手と時空を共有することにより、そこにいる仲間が(ボームが言うような意味で)「一つの身体」(one body) となり、複数の人間が連動することが、社会的動物としての人間の根源的な喜びとして感じられたのではないか。



B テューター歴45年のKさんによる実践リポートの研修会から学んだこと

以下はテューター歴45年のKさんの印象的なことばです。


(1) 物語の流れを切らない

Kさんは、テーマ活動を行う場合でも、一つの物語を分割せずに最初から最後まで通すことを原則にしている。

(2) 子どもに敢えていろんな役をやらせることで物語全体を感じさせる

ライブラリーに親しみテーマ活動が進むにつれ、子どもの中には自分がやりたい役が自然と出てくるが、Kさんはすぐにその役をその子に割り当てることなく、いろんな役をやらせてみる。異なる役をやらせることにより子どもは物語全体がわかってくるとのこと。

→アレントはかつて「物語を語ることによって、私たちは意味を定義するという過ちを侵さずに意味を明らかにすることができる」 (It is true that storytelling reveals meaning without committing the error of defining it) と述べたが、「意味」を物語から文、文から語へと細分化して字義確認をすることによって理解するという考え方ではなく、「意味」とは、物語が全体として --つまりは、物語中のさまざまな語り手の多様な語りの連動の中で-- 経験されることによって明らかにされるものだという意味概念は非常に興味深い。個人的には後者の意味観は、学校英語教育であまりにも強くなりすぎた前者の意味観を是正・修正・相補するため重要だと考えている。

関連記事:アレント『暗い時代の人々』より -- 特に人格や意味や物語について--


(3) 物語についてすぐに話し合いをさせない

テーマ活動では、誰がどの役をやり、どのような動きをして、などの話し合いを行わなければならないのだが、Kさんはその話し合いを急がず、子どもたちの中に話したいという気持ちがふくらむまでは話し合いをさせない。イメージを共有したいという気持ちが強くなり、それが自然な身体の表現になって現れてくるようになってから話し合いをさせることによって、話し合いが単にことばだけのものに終わらなくなる。

→この点、最近の学校の授業は「エビデンスづくり」のためか、何か活動をするとすぐにそれに対しての満足度などを五段階得点で示させたり、自由記述をさせたりしているが、私が知る限り、そういった「評価」から子どもの深い感想などが聞けたことはない。現代の学校教育は「エビデンス」や「評価」によって矮小化されているというのが私の意見。


(4) 動きながら考えるようになる子ども

イメージが共有されそれが思わず身体に現れるぐらいの段階になると、子どもたちは動きながら考えるようになる。


(5) 他人のことばを借用するうちに、それを自分のことばとしてしまう子ども

テーマ活動の話し合いが深まってくると、子どもは話し合いの中でライブラリーのことばを引用することが多くなる。また、年少者は年長者のことばを少し背伸びして借用しながら使うことがあるが、その年少者はいつのまにか年長者のことばを使って「自分の意見」を組み立てるようにもなる。

→ここですぐに思い起こされるのはヴィゴツキー派の "appropriation"概念と「発達の最近接領域」概念でしょう。

'Appropriation'については、兵庫教育大学の吉田達弘先生の「社会文化的アプローチによる英語教育研究の再検討 「獲得」から「アプロプリエーション」へ」をご参照ください。

なお、以前、私なりに"appropriation"についてまとめた英文ブログ記事もあります。
該当部分は、この記事の下の(注)にコピーしておきました。

「発達の最近接領域」に関しては青山学院大学の佐伯胖先生の以下の記事をご参照ください。
最近読んだ「目からウロコ」論文-その1(佐伯胖)
最近読んだ「目からウロコ」論文-その2(佐伯胖)
最近読んだ「目からウロコ」論文―その3(佐伯胖)

その3の中の次の記述は特に興味深かったので、引用しておきます。

Chaiklinによると、ヴィゴツキーの「主観的ZPD」を構成しているのは、「模倣(imitation)」だという。言い換えると、「主観的ZPD」で子どもが求めているのは自ら「模倣したい(模倣したくなる)」と同時に「模倣できる」対象なのである。ただし、ヴィゴツキーはこの場合の「模倣」は表面的な物まね(ミミッキング)ではないとのことである。あくまで、その子どもにとって背後の「意味」あるいは「理由(わけ)」がわかっての模倣だというのである。「どうしてそうやるのか、そうやるとどういう意味になるのか」がおよそ「わかる」範囲での模倣だというのである。
(中略)
考えてみると、ヴィゴツキーが「模倣」に焦点を当てるのは、発達を「子ども全体(whole child)」の問題だとすることから当然の帰着でもある。なぜなら、「模倣」というのは、個々の動作を「写し取る」というようなものではなく、相手に「なってみる」ことで初めてできることなのである。つまり、「多様な精神機能の統一体」としての「全人格(whole person)」に「なってみる」ことでしかできない。「五木ひろし」のマネをするタレントのコロッケは、五木ひろしの声だけでなく、表情、仕草、語り口など、ありとあらゆる様態のすべてを「まるごと」(全人格的に)真似ているのである。精神機能の発達はすべて「子ども全体(whole child)」のレベルで生起するとしたヴィゴツキーが、発達の生み出す原動力は「模倣」であるとしたことは、当然と言えば当然であろう。

(6) 社会的対話としてのテーマ活動と自己内対話としてのノート活動

Kさんは、異年齢の他人という社会関係を通じてのテーマ活動で子どもが考えたこと・感じたこと・学んだことなどを個々人のノートに書かせることを「ノート活動」として続けている。このノート活動も、ラボ全体の活動方針と同じで、「強制しないが、テューターとしては続けさせたい」と願っているものだが、ノート活動を継続した子どもは、中学校に入って学校英語といういわば別種の英語にもよく対応できると言う --ラボの英語が自然な人間環境の中で使われる英語であるのに対して、学校英語は理想化された書きことばを人工的な状況で学習・再生されるものと対比できるかもしれない--

だが、逆に言うと、テーマ活動は好きだがノート活動はあまりやらなかったという子どもは、ラボの英語と中学校の英語の違いに戸惑う子もいると言う。多くの人はこれを「ラボの限界」と考えるかもしれないが、ラボの子どもは国際交流行事で驚くほどあっけなく英語でコミュニケーションをとっていることから考えると、私は逆にこの問題を「学校英語の限界」を考えるための一つのきっかけにするべきではないかと思っている。
※ラボの交流プログラムについては下記URLを参照



C ラボの様子全体から学んだこと

ここではラボの記念大会に二日間参加して、全般的に感じたことを書きます。


(1) 対等な関係での話し合い

 ラボの教室で幼児から高校生や大学生にわたる異年齢の集団を見ていても、今回のように全国からテューターが集まる様子を見ていても、ラボで特徴的なのは、全員が対等な立場で、どちらが上でどちらが下とかいう権威・権力関係抜きに話し合いが進んでいるということです。今回の合宿中でも、テューターはお互いをニックネームで呼び合ったり、長年のテューターに対して自然な敬意が払われることはあっても制度的な称揚は避けたりと、さまざまな工夫でお互い率直に話ができるようにされていました。普段は学校教師の研修会に出ることが多く、良い意味でも悪い意味でも権威的・権力的な式次第で進められる会になれている私にとって、このように対等で誰もが好奇心いっぱいに振る舞うことができるラボの会合はとても快適でした。また、ラボ・パーティ全体の運営を決める全国組織も、できるだけ「フラットな合議制」をとっているとも聞きました。要は、民主主義を体現した組織というのでしょうか。これはラボの歴史的な財産であり、今後の革新を生み出す母体でもあると私には思えました。


(2) 日常語を使っての深め合い

 英語教育の生半可な研修会や学会でしたら、お互いにきちんと理解していない流行の学術用語や行政用語ばかりが飛び交い、聞いていて虚しい気持ちになることが少なくありません。日常語で語ればなんでもないことを、わざわざ難しく聞こえる学術用語(もどき)を連発するため話が一向に深まらないし、行政用語ははじめからそれにしたがうことが求められているためそれが多用されると話し合いの意味が最初から無効化されているようで、いいことはありません。

 ですが、このラボの集まりでは、ほぼ全員がそのような学術的な虚栄や行政的な欺瞞に汚染されていなかったので(苦笑)、日常語を使って話し合いが進められました。もちろん日常語の話し合いは、下手をすると意味が曖昧なままだったり拡散してしまったりするという危うさをもちますが --だからこそ学術用語を正確に使うことが重要なわけです-- 今回私が参加した話し合いでは、皆さん、中途半端に納得したふりをすることなく、「それどういうこと?」、「今ひとつしっくりこないんだけど」などと話をどんどん深め合っていました。その深め合いの基準は、お互いがことばに覚える実感(あるいは拙著での言い方なら「身体実感」)だったのではないかと思います。お互いが腑に落ちることばを求めての話し合いだったように思います。

 考えてみますと、当事者研究でもオープンダイアローグでもボームの対話でも、いたずらに専門用語を使用することは求められていません(というより、参加者の間に亀裂を生じさせるような権威的な用語の使用は抑制することがむしろ勧められています)。英語教育の世界でも、学術用語や行政用語をふりまわすことなく、もっとお互いが身体で実感できることばを探りながら話し合いを深めることが必要だと私は強く思っています。


(3) 「本物の英語」は、与えられるものではなく、自分たちで見つけるもの

 冒頭に書きましたように、私とラボの最初の出会いは、教材(ライブラリー)の英語の自然さでしたので、ラボは「本物の英語」 --ここでは「身体で実感を覚えることができることば」と定義しておきましょう-- が使われているところ、といった認識をもっていましたが、今回のラボ活動の観察で、それは事態の半分しかとらえていないと思わされていました。
 たしかにラボのライブラリーは周到な準備と丁寧な製作過程を経て形になったものであり、ラボのテューターはそれを信頼しています。しかしその信頼は無思考的なものではなく、さまざまな話し合いの中で、テューターたちはライブラリーのことばの意味あるいは実感をさまざまな方法で求めていました。それは上に書いた、物語をぶつ切りにしなかったり、さまざまな役をこなしてみたり、実際に動きながらことばを発してみたり、おおまかにイメージを共有している仲間と演じながら共感と違和感を共有したり、演じ終えて絵本(今回の場合は脚本)を読み直したり、互いの解釈を語り合ったりといったさまざまな方法で試みられます。

 そういった過程を非常に大切にし、また非常に楽しんでいるテューターにとって、「本物の英語」とは与えられるものではなく、「本物の英語」とは自ら探し求め、見つけて実感するものだと思わされました。

 ささいなようですが、これは非常に重要な違いだと私は感じます。

 テューターにせよ学校教師にせよ、仲間の力を借りながらも、究極的には自らの身体の実感を頼りに「本物のことば」を見つけることが決定的に重要だと思えます。その感性がすべての始まりですし、それを失った時に言語教育は根底から崩壊するような気すらします。




II 講演スライド

以下は、当日に使ったスライドです。内容はこれまで各地で私が話をしてきたことをまとめ直したものですが、図解の方法を変えたり、最近学校で観察したエピソードを入れたりと、内容がマンネリにならならないように気をつけています。ご興味のある方は御覧ください。







 印刷配布レジメはこちらからダウンロード

私の専門領域は学校での英語教育ですが、それを革新するためには、それを相対化することが必要です。そのためにも、ラボ・パーティの活動にはこれからも積極的な関心をはらってゆこうと思っています。








(注) APPROPRIATION についてのまとめ(柳瀬の英語ブログより)



5.8 APPROPRIATION 

Appropriation is succinctly explained in Bakhtin and Hypertext (
http://www.technorhetoric.net/1.2/features/eyman/bakhtin.html). 


Appropriation, for Bakhtin, is an integral component of dialogue: in order to engage in dialogue, one must be able to apprehend, internalize, and recreate the utterances of others (which is the same "intertextual" activity that Kristeva argues occurs in the context of reading). I do not use the term appropriation to be indicative of an absorption and subsequent conformity to the dominant discourse in a given discourse community; rather, appropriation is the theft of language (either that of the dominant discourse or of the "other) which is then reinterpreted and used to further the discourse of the self.

Obtained from http://www.technorhetoric.net/1.2/features/eyman/bakhtin.html on August 21, 2012.

As you can see in the above explanation, you need to understand dialogue when you want to understand appropriation

Once again, let's take a look at a concise explanation offered by Bakhtin and Hypertext (
http://www.technorhetoric.net/1.2/features/eyman/bakhtin.html). 


As an abstract concept, Bakhtinian dialogue is the dialectical relationship between self and other where "self" occupies a relative center, and thus requires the other for existence. Dialogue as I refer to it in this essay is the use of language which allows voices of the "other" to emerge in dialogue with the voice of the individual, as opposed to "monologic" speech, or the use of language which seeks to suppress the voice of the "other."

Obtained from http://www.technorhetoric.net/1.2/features/eyman/bakhtin.html on August 21, 2012.


We're here led to the concept of dialectics. To understand more about this concept, please go to one of my blog articles: 





As Block says, appropriation is "not just the passing of the external to the internal; it is the meeting of the external and the internal to form a synthesized new state." (Block 2003; 103) 

However, Block hastes to add that this synthesis "should not be taken as a completely harmonious affair, the achievement of what Rommerveit has termed 'Habermas's promised land of "pure intersubjectivity" (Block 2003; 103). 

Block mentions Wells (1999) 
Dialogic Inquiry: Towards a Socio-cultural Practice and Theory of Education and states that 'appropriation is to be seen more as a transformational ongoing process." (Block 2003; 103) 



If you still find it difficult to understand appropriation, it may help if you compare the acquisition metaphor and the participation metaphor



On Two Metaphors for Learning and the Dangers of Choosing Just One

Anna Sfard

doi: 10.3102/0013189X027002004
EDUCATIONAL RESEARCHER March 1998 vol. 27 no. 2 4-13



Abstract
This article is a sequel to the conversation on learning initiated by the editors of Educational Researcher in volume 25, number 4. The author’s first aim is to elicit the metaphors for learning that guide our work as learners, teachers, and researchers. Two such metaphors are identified: the acquisition metaphor and the participation metaphor. Subsequently, their entailments are discussed and evaluated. Although some of the implications are deemed desirable and others are regarded as harmful, the article neither speaks against a particular metaphor nor tries to make a case for the other. Rather, these interpretations and applications of the metaphors undergo critical evaluation. In the end, the question of theoretical unification of the research on learning is addressed, wherein the purpose is to show how too great a devotion to one particular metaphor can lead to theoretical distortions and to undesirable practices.

http://edr.sagepub.com/content/27/2/4.abstract




Related to the concept of participation is the concept of 
community of practice. So is the concept of Legitimate peripheral participation (LPP).

Please note that if you're obsessed with the information processing view, you may well forget these dimensions of our live that children know very much.