2014年1月27日月曜日

レイコフとジョンソンによる「客観主義」と「経験基盤主義」に関して寄せられた学部生コメント





学部3年生対象の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、先日、下のサイトやスライドを参照しながら、彼らのいうところの「客観主義」 (objectivism) と「経験基盤主義」 (experientialism)について講義し互いに意見交換をしました。



■ 身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

■ ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

■ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

■ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html






口頭での意見交換だけでなく、(いつものように)授業用のWebCTにもたくさん面白い意見が書かれました。以下は、そのごく一部で、私の個人的ツボに特にはまったものです。明らかな誤植の校正以外はすべて学生さんの文章です。

授業の準備は決して楽ではありませんが、毎回私も授業をすることで学ばせていただいております。





HS君

客観主義に基づく科学と、その科学を神に位置づける人々がいることについて少し考えてみました。

科学が基づくものはすべて、合理的思考のもとに産み出されたものです。身体に発生する特徴的な兆候や感情といった一時的かつ合理的でないものに対して、科学がそこに真実を求めるようなことは決してありません。合理的・理性的に導かれた科学における帰結はその意味で、真理をつかさどる絶対的な”神”として位置づけられるのだろうと思います。

一方で、科学を神と位置づけることは図らずも自らの立場を明らかにすることであるとも言えます。先日映画「天使と悪魔」を観たのですが、そこでは「科学は神」と謳う秘密組織イルミナティと、本来の神であるべきイエスを崇めるヴァチカン協会の思惑渦巻く緻密な内部抗争が精彩に描かれていました。何に対して神の存在を感じるか、ということは人が何を信じ、何を生きる意味とするかに大きく関わってくるものですが、映画のようなスケールでその神を巡る争いが描かれると、客観主義がその果てに行き着くものはなんなのだろうかとも思えました。

一部の人が言うように、教育に科学の考え方を応用すること自体は画期的ですしそれによって成果の得られることも少なくないのだと、私も思います。教育が目指すものは、しかしながら、身体やこころを排除して扱う「科学的」な視点とは相反するものであり、決まり通りに考えれば100を解決できるなどといった合理的で短絡的な世界ではありません。

教育をするのはひとであり、神ではありません。教育とは人と人の間に生まれる愛情であり、迷いであり、喜びなのです。人ならば、時に感情的にもなりますし同じ体をもつ人など誰一人としていません。「世界を人を一元的にとらえることで、全員が同じように成績を上げられるようになる。神のように人々を思いのままに教育できる」と思っているような人には感情ひとつ動かされることはありません。そこに残るのは、最も人間らしくない支配や脅威といったものばかりです。多くの進展を支えてきた科学の客観的思考を教育に持ち込むことを否定しているのではありませんが、教育者として、教室で一番最初に起こるのは授業法に基づいて用意してきた完璧な授業ではなく、人と人の関わり合い、だということを肝に銘じておきたいものです。





ASさん

客観主義と経験基盤主義について、特に客観性のとらえ方について気になりました。客観主義は自らの視点やそれにつながりかねないものを毛嫌いし、より神の視点から物事を見ることを目指しています。それに対し経験基盤主義では、自らの視点はあるもののそこから一旦離れて、物事をできるだけ多面的に見ようとしています。客観主義のように神の視点という一つの視点のみにとらわれてそれに近づこうとしていると、やがては客観主義自体が破綻すると批判しました。私にとってはこの「神の視点」の定義や、何をもって「神の視点」に到達したとみなすのかという点を疑問に思います。

まず、神の視点に近づいたと判断するのは誰なのでしょうか。誰かが神の視点というものを何らかの形で神から直伝され、それを民衆に体得させようとするのでしょうか。

(中略)

やはり客観主義では最終的に無理が生じてくるのではと思いました。神の視点というものを意識しすぎず、人間としての多面的な視点を大事にするという経験基盤主義に納得しました。





HS君

新しい見解における「真理」、「科学と哲学」についての考察です。

「真理」とは、簡潔に言えば、「真」と思う、或いは思わされているもののことである。 初めから極端な話ですが、1500年頃の開拓時代には生まれてすぐ奴隷として働くことをしいられたり、身体的な罰を日常的に受けたりすることが「真」となることが珍しくない世界もありました。そのような世界で、しかしながら、自分たちの住む世界の外を訪れ、それらの「真」が絶対的なものではなく少数の人間によって押し付けられていたものだったのだと知った人々は抵抗し、変化を望み、改革を起こしました。政治、市場、国家、これらすべてに変革がもたらされたのは、そのように人々の間で「真」とされるものが移り変わってきたからに他なりません。

非常に短絡的ですが、このことから人々が思う「真理」に客観性を持たせることがとても不安定なことであり、また、まずはその「真理」を打破することこそが新しい発明や想像を超えたアイデアをうみだすきっかけでもあると思えます。

「科学と哲学」は「WhatとWhy=実践と信念」、と私は考えます。

その点で、「科学との接点がなければ哲学とは単なるお話」(予習用スライドから引用)という言葉は、「What=やっていることとWhy=思っていることが一致していなければ、思っても無駄」となり、つまるところ、科学と哲学どちらか一方だけではなく両の絡み合いが必須、ということを示唆するものと言えます。ただ、必須とはいいつつも、両方を均等に保つのはむずかしいことです。そんな場合、個人的に私はWhyを優先させます。なぜか。漫然と何かをこなすより、どんなに小さなことをやるときでも自分の信念=なぜそれをやるのかに応えられることが生きることそのものだと思うからです。Simon Sinekは、こう言っていました、「人々はWhatに動かされるのではなく、Whyに動かされるのだ。」(TED talks) "Energy motivates but Charisma inspires" そしてCharismaはWhyから生まれる、と。科学なしに哲学をかたれば、ただのきれいごと。一方で、哲学のない科学には到達点もなく発展につながる糸口もない。その二つを峻別するのは不毛なことかもしれませんがやはり、何をするかよりなぜするかを考えることが、動物と一線を画し人間として生きることの「らしさ」と言えるような気がします。「科学と哲学」どちらも必須ですが、優先順位をつけるならば哲学をその上位に持っていきたく思います。

「真理」と「科学と哲学」について、でした。





TD君

客観主義における客観性は「物事を神の視点からよりよく見るために主観的、身体的な側面の全てを排除すること」を意味するとありましたが、つまり客観主義者にとって「身体」とは、物事を視る上で障害にしかならないいわば仕切りのようなものである、という捉え方をしていると解釈しました。それに対して経験基盤主義では、一つは客観主義とは逆に身体の中から世界を見る、つまり身体を物事を視る上での障害ではなく物事をみる媒体として捉えており、かつ他の視点から視ることを客観性として捉えています。

(中略)

ここで客観性の話に戻ると、客観主義にとっての客観性とは現実世界に対応することができているか、できていないかを神に近い視点から見ることであり、経験基盤主義にとっての客観性とは自分の理解している世界を他の視点から視なおしたり、基本的な概念とそこから派生した概念を区別し、基本的な概念に戻って派生した概念を視直すこと、と考えました。

(中略)

客観主義的な立場に立つならば、言語とは最初から最後まですべて制御されたプログラムのようなものであり、僕たちはそのプログラム上でのやりとりを通して生活をしている、というようなイメージが浮かびました。しかし、僕にとって言語とはとてもプログラムで制御、あるいはプログラムとして書き出せるような範疇のものではなく、つねに世界に影響を与え、つねに世界の影響を受け、日々変化していく生物のようなものにも思えます。





SS君の修士論文構想発表:日英語母語話者の身体意識の違い-バドミントンにおける身体意識の記述・説明の違いを通して-





修士課程一年生の論文構想発表が先日終わりましたが、その中でも荒削りですがとても面白いと私が個人的に思える発表がありましたので、当人の許可を得てそのSS君の修士論文構想をここに掲載します。

私は以前、「卒論・修論のテーマの決め方: 表の方法と裏のやり方」という文章を書きましたが、そこの中の表現を使うと、この論文は「裏」のやり方で書こうとしています。ですから、時流などとは無関係ですが、執筆者当人にとってはもっとも面白さを実感・体感(参考:Educational Values (Chapter 18 of Democracy and Education by Dewey)

その文章にも書きましたが「裏」のやり方には、たくさんの落とし穴があります。しかし何よりも、当人が納得できるテーマが見つかった時、その人はもっとも豊かに自分の可能性を開花させると私は信じていますので、彼の今後の研究を見守りたいと思います。

だから、「こんな研究は『英語教育学』と言えるのだろうか?」などとしか言わないおじさん達は、黙っていてねwww。世の中にはおじさん達の学問政治ごっこよりも、もっと大切なことがたくさんあるのだから。





日英語母語話者の身体意識の違い
-バドミントンにおける身体意識の記述・説明の違いを通して-
(理論基盤と研究方法)




1 はじめに

近年、日本人の身体意識は低下している(齋藤, 2000)。身体意識はあらゆる人間の認識活動の源泉であり(高岡, 1990)、その低下は問題視されるべきである。身体意識を高めるには言葉による身体理解が重要であり、言葉によって我々の身体は意味ある単位に分節され、体系構造をもったものとなる(尼ヶ崎, 1990)。しかしながら、こうした身体意識を高めるための言語教育が、日本の英語教育で盛んに取り上げられているとは言い難い。英語教育が日本人の身体意識の向上に貢献する一つの方法として、母語の違いによる身体意識の違いの追究が考えられる。しかし、そういった身体意識の違いに注目した研究は少ない 。今後、身体意識の違いが徐々に解明されていけば、今問題視されている日本人の身体意識の低下を改善するための指導にも応用でき、また、異文化理解研究や指導の幅も広がるだろう。

本研究の目的は、日本語・英語母語話者の身体意識の違いを分析・考察することである。その手法として、日英語のさまざまな文献や、筆者が日本語・英語母語話者に行うインタビューを用いる。本研究では、身体意識の違いの分析・考察を、バドミントンの技術の記述・説明の違いを元に行う。バドミントンという競技を選択したのは筆者が長年その競技に従事してきたためであるが、その有効性については後ほど議論したいと思う。現在身体意識に関する文献を読む中で、筆者は「わざ言語」と「暗黙知」という理論基盤を得た。それらの概念を導入することは、技術がいかに記述・説明されうるかの理解、すなわち、技術と言語の関係性の理論的理解につながる。その理論的理解は、文献や選手自身による技術の記述・説明が中心となる本研究において、重要なことである。よって本研究の構想発表を行うにあたり、技術と言語の関係性の説明を、「わざ言語」と「暗黙知」というキーワードを元に行う。

しかし、そもそも技術の記述・説明は身体意識の違いを表しうるのだろうか。その議論は、技術と言語の関係性を説明した後に行うのが適切である。その後、研究方法と研究手順を記す。続いて、選手をインタビューする際にインタビュアーとして留意しておくべき点を、先行研究から確認する。この確認は、本研究の分析材料となるような技術の記述・説明を選手から得るために、重要なものとなる。最後に、現在の進捗状況と今後の展望を述べることとする。



2 技術と言語の関係性

 バドミントンの技術に関する文献の記述やインタビューを適切に理解するためには、予め技術と言語の関係について理解しておく必要がある。はたして、(1)技術を「知っている」とは何を表すのか、(2)技術を「伝える」とはどのようなことなのか。この章ではこれら2つの問題について、Polanyi(1966)の「暗黙知」論、生田(2011)の「わざ言語」論を通じて答えを探求していく。

2.1 技術を「知っている」とは

我々はしばしば技術を「持っている」や技術が「ある」、技術を「身につけている」といった言い方をする。ここではそれらの表現を含めて、技術を「知っている」という言い方で議論を進めていくことにする。「知っている」という言い方をすることによって、我々はmind(「心」あるいは「知性」)と関連をもたせた議論を行うことができるからである。技術論をmindと関連させた理論として、G・ライルのknowing how理論がある。彼は、「技術」概念を新たな「知識」の形態として位置づけている。ライルは、人間のmindとは何かを問う中で、人間の知識はknowing that(知識の所有)だけではなく、knowing how(技術)をも含んでいると考えた。彼は、mindと身体は分離したもので別世界にあるという「2世界説」を否定し、身体が中軸に置かれる技術を、人間のmindの一つの表れとしてみなすのである。

本研究では、技術というときに、ただ行為の処理や手続きの知識をもっているだけでなく、それをいかに行うかを知っている状態を示す。すなわち、技術とは、体のどの筋肉がどのように動くことで行為が達成されるのかを科学的に述べること(knowing that)でなく、実際にやり方を知っていること(knowing how)を表す。例えば、バドミントン選手がスマッシュを打つ際の筋肉の動きや体の働き方を科学的にのべることでなく(それはバドミントン未経験者でもできることである)、実際にスマッシュを打てる状態をもって技術を「知っている」という。

 ここから、技術を「知っている」という状態の定義をさらに明確にしていくと、技術を「知っている」ということは、技術を言葉にして表現できることを含んではいない。すなわち、言葉では表現できない身体感覚も含めて、技術を「知っている」と言える。例えば、多くの人はボールを投げる技術を持っているが、彼らに「どうやって投げているか」と問うたところで、「投げる」という行為とその際の身体感覚を言葉で明確に表現できる者はなかなかいないだろう。しかし、彼らがボールを投げることができる事実は明白であり、これは当然技術を「知っている」ということができるだろう。このことをPolanyi(1966)は、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」と表現している。続いて、技術を「知っている」ということをさらに理解していくために、Polanyiの「暗黙知」の論がどういったものかを詳しくみていく。

 Polanyi(1966)によれば、暗黙知とは「我々が語ることができるよりも多くのことを知る」事態である。暗黙知には2つの項、すなわち、近接項と遠隔項がある。この2つの項を、ボールを投げる例を用いて説明する。我々は、ボールを投げるという行為を達成するために、さまざまな筋肉を動かしている。さまざまな筋肉の動きが近接項で、ボールを投げる行為の達成が遠隔項である。近接項に関して、我々は動員されるさまざまな筋肉の諸活動を確認することができない。また、投球者がそれらの活動を語ることもできない。しかし、確認することも語ることもできないこの筋肉の諸活動は、確かに起こっている。こう言い切れる理由は、実際にボールを飛ばすことができたからである。  

 ここから暗黙知における一つの重要な論が導かれる。すなわち、我々は、要素的な諸活動(筋肉の諸活動)を、それら諸活動が共通して奉仕している目標の実現の中(ボールが飛んでいくこと)にみるのである。言い換えるならば、我々は近接項を、遠隔項との関連において感知しているのである。我々は諸細目をそれ自体としては注目していないし、できないのである。よって、我々はそれを明瞭に語ることができない。「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」とは、諸細目、つまり近接項についての知識を十分に語れないことを意味している。以上が、技術を「知っている」という表現で表される事態である。

2.2 技術を「伝える」とは

 ここまで、技術を「知っている」ということがどういった事態を指すのかを、Polanyi(1966)の「暗黙知」の論を用いて詳細にみてきた。以後、「知っている」技術をどのように「伝える」のか、あるいは、「伝える」というのはどういった事態を指すのかをみていきたい。

2.2.1 聞き手の知的協力の必要性

 Polanyi(1966)は「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」と述べたが、言い換えれば、我々は「言葉で語れない部分を多く残している」と言うことができる。それを先ほどボールを投げる例によって説明してきた。しかし、ボールを投げる行為は、人から人へ教えることができるものである。このことは、我々がその行為についての知識を語ることができることを証明しているのではないだろうか。  

 この疑問に対して、Polanyi(1966)を参考に、以下のようにして答えることができる。指導者がボールの投げ方を学習者に教えることができるのは、学習者が、指導者の語りの意味を汲み取ろうという知的協力をしている場合のみである。なぜならば、指導者はボールを投げるという行為を言葉や提示によって表現しなければならないが、その言葉や提示と実際の行為には当然ギャップが存在するからである。すなわち、その避けられないギャップを埋める知的努力が学習者によって為されなければ、行為は伝えきれないのである。さらに、Polanyi(1966)は以下のように続ける:  

言葉を用いたとしても、我々には語ることのできないなにものかがあとにとりのこされてしまう。それが相手に受け取られるか否かは、言葉によってつたえることができずにのこされてしまうものを、相手が発見するか否かにかかっているのである。 (p.17[邦訳])


つまり、近接項(ボールを投げる際の身体の使い方)を語ろうとするときには、どうしても語れない部分があり、それを教わる方が知的協力によって発見しなければならないのである。それが、「語る」こと、あるいは「教える」ことを果たす際に必要なことなのだ。このことは後ほど、本研究において筆者の経験のある競技(=バドミントン)を用いる有効性を述べる際に、必要な論となる。

2.2.2 伝えることができる部分をいかに伝えるか

 では、我々は語ることができる部分を、どのようにして相手に伝えるのか。それを、生田(2011)のわざ言語の論を用いてみていく。

 わざ言語とは、様々な「わざ」の世界でその伝承の折に頻用されている、科学言語や記述言語とは異なる独特な言語表現を指示している。わざ言語は、科学言語のようにある事柄を正確に記述・説明することを目的とするのではなく、相手に関連ある感覚や行動を生じさせたり、現に行われている活動の改善を促したりするときに用いられる言語である。ここで、わざ言語の一例を挙げてみる。民族芸能の伝承場面において扇の見せ方を指導する際、「天から舞い降りてくる雪を受けるように」という感覚的な表現を用いることがある。こういったわざ言語を用いることで、指導者の扇を用いたわざの感覚、すなわち身体感覚を表現するのである。今みたような「~のように」といった直喩的な表現ばかりでなく、例えば「張って言って」や「たっぷりやって」、「芝居して、芝居して」といったように、意味が完全に文脈に依存するような表現の仕方もされる。こういったわざ言語を用いることによって、指導者の身体感覚を学習者と共有するのである。  

 わざ言語には、大きく分けて2つの役割 がある。2つを概観した後、本研究において利用する「わざ言語」概念を定義していくこととする。1つ目の役割は、活動における具体的な動きや行為を指示することである。例えば、太鼓の指導場面においては「へそを真下に落とすように打て」や「バチの先に糸がついていて天井から吊るされている」という身体感覚を促す言葉が用いられている。わざ言語の2つ目の役割は、学習者への直接的な動きの指示ではなく、学習者を指導者と同じような身体感覚へと促すために用いられるものである。例えば、スポーツにおけるフロー体験などの語りを通して伝えようとする際に用いられる言葉のことである。創作和太鼓の佐藤三昭氏は、フロー体験として「私がなくなるような感覚、打っている太鼓がメロディを弾き始めたような感覚に至るとき、世界が深まるのです」(北村, 2011)と述べている。このように、具体的に伝えることはできないことは認めつつも、語りつくせない身体感覚を言葉によって表現しようとする際に用いることが、わざ言語の2つ目の役割である。

 これら2つのわざ言語の役割のうち、本研究における「わざ言語」概念は、1つ目の役割のみを指示することとする。すなわち、わざ言語とは、活動における具体的な動きや行為を指示する際に用いられる言語を指示する。2つ目の役割を含意しないのは、フロー体験などの身体感覚は、個人によって大きく異なることが推測されるからである。本研究は異言語母語話者の身体感覚の違いを解明していこうとするものであり、個人間の違いをみるものではない。よって、本研究において記述・説明を行う際に用いられるわざ言語は、1つ目の役割のものに絞ることとする。



3 本研究におけるバドミントン競技の有効性

以上のことを踏まえて、本研究における身体意識の語りにおいて、なぜバドミントンという競技を用いることが研究手法として有効であるのかを、2つの観点から述べたい。

1点目は、知的協力という観点である。2.2.1章では、語られた技術や身体感覚を理解するには、実践者の語りの意味を汲み取ろうとする、聞き手の知的協力が必要であることを述べた。聞き手は実践者が言葉で表現しきれなかったものを発見することで、協力しなければならない。そこで、聞き手が知的協力を行うには、聞き手はある程度実践者と技術や身体感覚を共有していなければならない。また、柳瀬(2007)では、よき聞き手としてのインタビュアーの条件として、以下のように述べている:

とりあえず実践者の語り…(中略)…しか聞くことができないインタビュアーは、その言語化された表現から、言語化されていない実践者の従属的気づきを想像しなければならない。基本的にその想像は、インタビュー中に行われるから、インタビュアーはインタビューの瞬間ごとに実践者の実践を想像してゆかなければならない。このためには、可能な限り、インタビュアーは実践者の技能を自ら実践している必要がある。最低限、インタビュアーはその技能に関して、長年の良き観察者であり、実践者の実践感覚が、推測的にでも想像できるぐらいの実践理解をしていなければならない。(p.117)


筆者の場合、10年以上バドミントンという競技に従事してきた。よって、バドミントンの実践者の言葉を聞いたり読んだりする際、実践者の語りに知的協力ができ、感覚を実践理解することが可能である。

2点目に、本研究におけるバドミントンという競技そのものの有効性を述べたい。以下に、バドミントンが対人競技である点と、動きがパターン化しているという点の2点から、競技の有効性を挙げる。まずは、対人競技としての利点である。バドミントンでは、基本的にコート内において自分の動きが何者かによって阻害されることがない。よって、サッカーやバスケットのように、相手の動きに合わせた動きの練習を行う必要がないため、自らの動きに専念できる。バドミントンの練習を行う目的を端的にいえば、バドミントンにおける身体運動の感覚を養成していくことであるといえる。練習では常にバドミントンの動きの感覚を身体に覚えこませ、また、指導する際にもその感覚を言葉によって学習者に伝える場面が多い。これらは、本研究において適した競技特性であるといえる。次に、動きがパターン化しているという利点である。バドミントンは狭いコートで行われる競技といっても、もちろんさまざまな動きがある。しかし、基本的には6方向への動き(フットワークと呼ばれる)で説明できる。ありふれた一般的な練習においてフットワークといえば6点フットワーク(右前・右横・右後・左前・左横・左後)を指し、もっとも基本的な動きであり、かつもっとも大切な動きでもある。上のレベルの選手ほど、この6点の基本的な動きに関しては幾度となく指導者から教わり、考え、変容させ、あるいは、学習者に教えてきたと思われる。本研究では、この6点の動きにセンターポジションでの構えを含んだ7点を、バドミントンの動きの研究対象とする。



4 技術の記述・説明が身体意識の違いを表すのか

 では、バドミントンの動きの記述・説明は身体意識の差を表すのだろうか。これについては、先ほどのわざ言語の論を用いて答えたい。わざ言語の1つ目の役割として、活動における具体的な動きや行為を指示することがあった。その一例として、太鼓の指導場面で用いられる「へそを真下に落とすように打て」という表現を紹介した。指導者が学習者に太鼓の叩き方を教える際、こういった表現の仕方をした(できた)のは、その指導者が「へそを真下に落とすように打つ」身体感覚を持っているからに他ならない。その表現は指導者がどうにか自分の身体感覚を学習者に伝えようとして捻り出した表現である。このように、我々が指導者(実践者)の身体感覚を垣間見られるようになるのは、それが言葉によって表現されたときである。  

 以下に、筆者が現段階で得た文献の記述を元にして、日英語母語話者の身体意識の違いが表れている記述の一例を挙げる。バドミントンにおけるセンターポジションでの構えの身体感覚として、日本語の文献では「腰を落として前傾姿勢をとる」(池田, 2011)などと書かれている。一方、英語の文献では「腰」にあたる’hips’や’waist’という言葉は用いられずに、”Your weight is on the balls of your feet”(Badminton: step to success, p3)というように身体感覚が表記されている。すなわち、日本語母語話者はセンターポジションにおいて「腰」を意識するが、英語母語話者は”balls”、つまり母指球を意識することが重要視されているのである。この事実から、バドミントンの構えにおいても日本人は「腰」意識が強いことが見られ、英語母語話者にはそれが見られないことがわかる。そういった身体意識の差はなぜ生じるのかについては、今後文献を元に考察していきたい。



5 研究課題

 以上を踏まえ、以下の研究課題を設定する。

1 日本語母語話者と英語母語話者のバドミントン選手に、バドミントン動作における身体意識の違いはあるのか。  

2 身体意識の違いがあるのであれば、それはどのように異なり、なぜ違いが生じるのか。






6 研究方法

6.1 研究の概要

 ・実験参加者  : 英語母語話者と日本語母語話者で、バドミントンの上級者(各同数)  

・実験対象の文献: 英語母語話者によって書かれたバドミントンの理論書と、日本語母語話者によって書かれた理論書(入手できる限り)

 ・分析対象となる記述・説明: センターポジションでの構えと基本移動の6点の、計7点に関する記述・説明  

 ・研究手順:以下の手順で研究を行う。  

① 日英の文献を比較し、分析対象となる記述を得る。
② 日英語母語話者のインタビューを行い、その様子を録画・録音・観察する。
③ ②の談話を書き起こし、生田(2011)やPolanyi(1966)の論を用いて分析を行う。必要であれば、George LackoffやMark Johnsonのメタファー論や、竹内敏晴、尼ヶ崎彬、斉藤孝などの身体論を用いて分析を行う。
④ ①~③で得たものを元に、身体意識の違いに関する考察を行う。




6.2 インタビュアーとしての留意点

 本研究において、英語母語話者と日本語母語話者のバドミントン選手の身体意識を探る際に行うインタビューは、非常に重要な位置をしめる。よってインタビューを行う前に筆者がもっておくべき留意点を、柳瀬(2007)を参考に2点まとめておく。1点目に、聞き手であるインタビュアーも、インタビュー中の気づきを言語化するように努めることである。すなわち、実践者の語りを聞いている際、言葉を瞬時に解釈し、実践者の語りの従属的気づきをすぐに言語化することで、語りに協力しなければならない。こういった言語化は、実践者の近接項の言語化の手助けになるだろう。2点目としては、本研究においてインタビュアーの際に、筆者が避けなければならない点である。インタビュアーは、インタビューで実践者から引き出した言葉を、凡庸な常套句理解、言葉へと変形させてはならない。インタビュー内容は忠実に文字化するべきであり、また実践者の語りの様子を参照できるように映像で残しておくことも可能な限り行うべきである。語られ方を無視し、言葉を凡庸に改変してしまうことは必ず避けなければならない。



7 今後の展望

 以下に今後の研究計画を述べる。1、2月中に日英の文献を探すとともに、分析材料となりうる記述を集め、3月にインタビューの準備、4月下旬までにインタビューを終え、5月からそれらの分析・考察を行っていき、8月から徐々に書き始めることが研究手順の理想である。まずは今月中に文献を探し、それらを読み、また、インタビューのアポイントメントを取りたい。現時点では、英語の文献やインタビューを通してどのような表現が得られるかがあまり見積もれていないため、研究がどう進むかの展望を明確に持ててない。固まった思考に陥らず、文献やインタビューで得た材料に忠実に、柔軟に対応しながら今後研究を進めていきたいと思う。  

 

主要参考文献
Grice. T. (2008). Badminton: step to success. Human Kinetics, inc.
Polanyi, M. (1966) The Tacit Dimension. Routledge & Kegan Paul Ltd., London.
尼ヶ崎彬(1990).『ことばと身体』 勁草書房
生田久美子(2011).『わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ―』. 慶応義塾大学出版会.
池田信太郎(2011). 『池田信太郎のいちばんやさしいバドミントンの基本レッスン』. 新星出版社. 東京.
斎藤孝(2000).『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生―』NHKブックス
高岡英夫(1992).『ハラをなくした日本人』.恵雅堂出版. 東京
柳瀬陽介(2007). 中国地区英語教育学会研究紀要: CASELE research bulletin no. 37 page. 111-120 (2007-04-01).







Educational Values (Chapter 18 of Democracy and Education)





[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページは http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html です。]



以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0018




なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。







第18章: 教育の価値
Chapter Eighteen: Educational Values




■ 一般的には教育の価値は、ねらい、効用、文化、情報、社会に出る準備、自制心、力、等などとして考えられている。

The specific values usually discussed in educational theories coincide with aims which are usually urged. They are such things as utility, culture, information, preparation for social efficiency, mental discipline or power, and so on. (p. 221)



■ こういった「ねらい」を、デューイはこれまで「興味」や「関心」として扱ってきた。

The aspect of these aims in virtue of which they are valuable has been treated in our analysis of the nature of interest, and there is no difference between speaking of art as an interest or concern and referring to it as a value



■ この章では、教育の価値を考えることにより、これまでのねらいと興味、そして、カリキュラムの議論を統合して考えたい。

An explicit discussion of educational values thus affords an opportunity for reviewing the prior discussion of aims and interests on one hand and of the curriculum on the other, by bringing them into connection with one another. (p. 222)







1. 実感もしくは体感の特質 (The Nature of Realization or Appreciation)

⇒ "Realization"は「実感」とし、"appreciation"は思い切って「体感」と訳してみた。

■ 私たちの経験の大半は間接的なものであり、言語を通じて媒介される。

Much of our experience is indirect; it is dependent upon signs which intervene between the things and ourselves, signs which stand for or represent the former. It is one thing to have been engaged in war, to have shared its dangers and hardships; it is another thing to hear or read about it. All language, all symbols, are implements of an indirect experience; in technical language the experience which is procured by their means is "mediated." It stands in contrast with an immediate, direct experience, something in which we take part vitally and at first hand, instead of through the intervention of representative media. (p. 222)

■ しかしながら、言語が現在の経験に何かを吹き込むことなく、言語がそれ自体で目的になってしまう危険があることは、これまでも再三再四述べてきた。

At the same time (as we have also had repeated occasion to see) there is always a danger that symbols will not be truly representative; danger that instead of really calling up the absent and remote in a way to make it enter a present experience, the linguistic media of representation will become an end in themselves. (p. 222)



■ 直接体験は、「実感がわく」 (realizing sense)、「心で実感する」 (mental realzation)、「体感」 (appreciation)、「身近に感じる」 (coming home to one)、「呑み込む」 (really taking it in) といった口語表現ぐらいで表すしかない。直接経験の意味を体感するには、直接にその経験を有するしかないからだ。

In colloquial speech, the phrase a "realizing sense" is used to express the urgency, warmth, and intimacy of a direct experience in contrast with the remote, pallid, and coldly detached quality of a representative experience. The terms "mental realization" and "appreciation" (or genuine appreciation) are more elaborate names for the realizing sense of a thing. It is not possible to define these ideas except by synonyms, like "coming home to one" "really taking it in," etc., for the only way to appreciate what is meant by a direct experience of a thing is by having it. (p. 223)

⇒少し余談になるが、人間的な感動というのは、直接体験するしかない。あることの深い意味を実感し体感した人は、しばしばことばすら失ってしまう。しかし、昨今の風潮は、そんな総身的経験を信じず、身体的感動を議論から切り捨て、さらに心の感動も、記号化できないかぎり切り捨てる。加えて、記号化された感動(上記の例で言うなら、言語による表現)も、「客観的」な数字で表現しないと「エビデンス」として扱えないと言う。

人間の深い意味理解から、身体と心を捨て去り、言語ですらも信じず、数値化されたエビデンスだけしか信じないというのは、大げさな言い方をするなら、メフィストフェレスに幻惑されたファウスト博士のようなものではないか。

効率的な処理がそれほど大切なのなら、いっそ自分の身体も感情も売り払い、自分の脳もコンピュータと取り替えるといい。(←と、いつもにもまして毒づくおじさんw)。

関連記事
Doing and being http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/08/doing-and-being.html







■ 絵の解説を読むことと絵を見ることの違い、あるいは絵を見ることとそれに感動することの違い、さらには光に関する方程式を学ぶことと霞がかった風景のもつ特有の輝きの違いを考えれば、間接経験と直接経験の違いがわかるだろう。

But it is the difference between reading a technical description of a picture, and seeing it; or between just seeing it and being moved by it; between learning mathematical equations about light and being carried away by some peculiarly glorious illumination of a misty landscape. (p. 223)

⇒だが、身体的直接経験をほとんど知らない人は、これでもわからず「エビデンス、エビデンス」と言う。そういう人に限って、権力体制の上層部にいたりするから、要注意。

てか、現代日本の学校教育について言うならば、「関心・意欲・態度」の「客観的評価」ってどうやってるの?子どもの関心や意欲や態度などが高まったのは、子どもと時空を共にしていたら、人は実感し体感できるもの。しかし、それをそんなsubjective (主観的・主体的)な理解ではだめで、objective (客観的・客体的・対象的)なエビデンスにしろ、と言われると、途方にくれるのが(私から言わせれば)まともな人の反応だろう。

そんなまともな人の困惑につけこんで、したり顔で「これが客観的な『関心・意欲・態度』の客観的評価方法です」などと言う人を私は信頼できない。

とはいえ学校教育の制度で、教師はそういった評価をせざるを得ない。ならば「適当にやる」が私は正解だと思う。子どもと経験を共にしてゆきながら、お互いに納得できる評価をすればいいだけで、そこを妙に「エビデンス」を出すという疑似科学的仕組みにとらわれて、子どもと教師の心身がすり減ってしまうなら、それは反教育的な営みではないか。

(私は、美術の先生までが、この関心・意欲・評価の客観的評価法に苦悩していることを知った時、肝を冷やしてしまった。)



■ 記号が、実感・体感に取って代わってしまいつつあるという危機

We are thus met by the danger of the tendency of technique and other purely representative forms to encroach upon the sphere of direct appreciations; in other words, the tendency to assume that pupils have a foundation of direct realization of situations sufficient for the superstructure of representative experience erected by formulated school studies. (p. 223)

⇒翻訳

今ある危機とは、技術的で単に記号にすぎない形式が、直接経験の領域に侵入する傾向である。言い換えるなら、定式化された学校教科によって打ち立てられた記号的経験の超構造に十分なだけの直接的体感の基礎を生徒は状況に対して既に有していると思い込む前提である。

⇒「外国語」という教科は、もともと「よそよそしい」 (foreign)な教科だが、その教科の教育内容を実感・体感させようとするのではなく、資格試験対策にしてしまってますますよそよそしく点数比較による優越感や劣等感だけしか実感・体感できないような教科にしているのが、昨今の「教育改革」なのではないか。



■ ことばで教育内容を伝える前に、何かを学んでいると実感・体感できる経験を。

Before teaching can safely enter upon conveying facts and ideas through the media of signs, schooling must provide genuine situations in which personal participation brings home the import of the material and the problems which it conveys. From the standpoint of the pupil, the resulting experiences are worth while on their own account; from the standpoint of the teacher they are also means of supplying subject matter required for understanding instruction involving signs, and of evoking attitudes of open-mindedness and concern as to the material symbolically conveyed. (p. 223)

⇒翻訳

記号という媒体を通じて安心して事実や観念を教えることができるようになる前に、学校教育は、題材の中味と題材が含んでいる諸問題を身近に感じることができるような人格的参加が与えられる本物の状況を提供しなければならない。生徒の立場からするなら、教育で得る経験の真価とは経験そのものにあるのだ。教師の立場からするなら、教育で与える経験とは記号を使った指示を理解させるための題材を提供する手段であり、記号で伝えられた題材に関して開かれた心と関心をもつという態度を喚起するための手段である。

⇒だから、「関心・意欲・態度」の評価について熟練教師がよく言うように、その評価が低いということは、生徒に問題があるというのではなく、教師の教え方に問題があるということ(もっとも、教師の手に負えない家庭や社会の闇に苦しむ生徒もいるから、教師を一概に責めることは公正さを欠く行いなのだけれど)。



■ これまでの教育内容の理論のあらましで、実感や体感という背景は、典型的な状況を体現する遊びや能動的な集中によって与えられることが述べられた。

In the outline given of the theory of educative subject matter, the demand for this background of realization or appreciation is met by the provision made for play and active occupations embodying typical situations. (pp. 223-224)

⇒遊ぶように能動的に集中してしまう (play and active occupation) ような授業をどうやって作るか。学習者を教師による支配とコントロールの対象(客体)にしてしまうのではなく、学習者がいかに主体的に興味と関心をもち、その中から自制心を芽生えさせ、主体的な目的や目標をもてるようにするというのがデューイの教育観。

こうして考えると、デューイが過去の教育学者とはとても思えない。

村上春樹は、エルサレム賞受賞スピーチで以下のように述べ、「システム」の暴走に警鐘を鳴らしたが、教師も、学校教育制度のただ中にいて、教育が「システム」として暴走する可能性そして現実を誰よりも知っている者として、学習者を主体として認めず、もっぱら客体として操作するような「システム」、そしてそのような「システム」に疑問をもたずにそれを追認・強化ばかりする「教育学」という学問(ある種の人々は「科学」と呼ぶことを好む)の暴走に対して、声を上げるべきではないのか。

たとえわずかな声でも、それが同時多発的に、そして絶えることなくあがれば、それこそが革命である。

関連記事:
ジョン・ホロウェイ(著)高祖岩三郎・篠原雅武(訳) (2011) 『革命 -- 資本主義に亀裂をいれる』河出書房新社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/05/2011.html

以下にある「卵」とは、壊れやすい生命の象徴だと私は読んだ。皆さんはどう読まれるでしょうか。



Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.



 どうか、極めて個人的なひとつのメッセージをお伝えすることを許してほしいと思います。それは、僕が小説を書くときにいつも頭の中に置いていることです。僕はそれを紙に書いたことはないし、壁に貼ったこともありません。そうではなく、それは僕の心の壁に彫ってあることで、それはこういうものです。  

「高く固い壁と、壁に向かって体当たりをして割れてしまう卵があるなら、僕はいつでも卵の側に立つ」

 そう、たとえ、壁がどんなに正しくて、卵がどんなに間違っているとしても、僕は卵の側に立つでしょう。何が正しくて何が間違っているかは、誰か別の人が決めるべきでしょうから。たぶん時間や歴史が。それがたとえどんな理由であったとしても、壁の側に立つ作品を作る小説家がいるとすれば、そんな作品にどんな価値があるというのでしょうか?  

 この喩えは何を意味しているのでしょうか?いくつかの場合では、それは極めて単純で明快です。爆撃機と戦車とロケット弾と白燐弾が、高く固い壁です。卵は、それらに押しつぶされ、焼き尽くされ、撃たれてしまう非武装市民です。これが喩えのひとつの解釈です。  

 けれども、これが解釈のすべてではありません。そこにより深い意味を見ることもできます。こんなふうに考えてみてください。僕たちは誰もが―多かれ少なかれ―卵なのです。僕たちは誰もが壊れやすい殻に包まれた、特別でかけがえのない魂です。これは僕にとっても当てはまりますし、みなさん一人ひとりにとっても同じことが言えます。そして、僕たちの誰もが―程度の差はあっても―高くて固い壁に向き合っています。壁には名前があります。それはシステムです。システムは僕たちを守ってくれるものだと思われていますが、ときにはそれが一人歩きして、僕たちを殺したり、僕たちが―冷酷に、効率的に、組織的に―人殺しをするように仕向け始めます。  

 僕が小説を書く理由はたった一つだけで、それは個人の魂の尊厳を引き出して、それに光を当てることです。物語の意図は、システムが僕たちの魂をその触手で絡め取り、僕たちの魂を貶めるのを防ぐために、警鐘を鳴らし、システムを監視し続けることです。僕は、物語―生と死の物語、愛の物語、人々が泣いたり、恐怖に震えたり、笑いをかかえたりする物語―を書くことで、個々人の魂のかけがえのなさを讃えようとし続けることが、小説家の仕事であると心から信じています。これが、小説家が来る日も来る日も大真面目に小説をでっち上げている理由です。  

 今日、僕がみなさんにお伝えできればよいと思うことが一つだけあります。僕たちはみんな人間です。国籍や民族、宗教にかかわらず、誰もがシステムと呼ばれる固い壁に向き合う壊れやすい卵です。どう見ても僕たちには勝ち目はないように見えます。壁はあまりにも高く、あまりにも強く、そしてあまりにも冷酷です。もしも僕たちに何かしらの勝利の希望があるとすれば、それは、僕たち自身の、そして他者の魂の絶対的な特別さとかけがえのなさを信じることと、僕たちの魂を合わせることによって得られる温もりを拠り所にする以外にないでしょう。  

 どうかこのことを考えてみてください。僕たちは誰もが確かに感じることのできる生きた魂を持っています。システムにはそんなものはありません。システムが僕たちを利用することを許すべきではありません。システムが一人歩きすることを許すべきではありません。システムが僕たちを作ったのではありません。僕たちがシステムを作ったのです。  

http://d.hatena.ne.jp/m_debugger/20090218/1234917019より



■ 高校や大学の実験室での学びは、事実や問題を「感じ」させること。一般化した内容に到達しそのことに関するテストを受けるのは、体感に比べると、二次的なものにすぎない。

The first and basic function of laboratory work, for example, in a high school or college in a new field, is to familiarize the student at first hand with a certain range of facts and problems --to give him a "feeling" for them. Getting command of technique and of methods of reaching and testing generalizations is at first secondary to getting appreciation. (p. 224)



■ デューイによる小学校の活動の目的

As regards the primary school activities, it is to be borne in mind that the fundamental intent is not to amuse nor to convey information with a minimum of vexation nor yet to acquire skill, -- though these results may accrue as by-products, -- but to enlarge and enrich the scope of experience, and to keep alert and effective the interest in intellectual progress.

小学校の活動の基本的な目的とは、気晴らしでもなく、できるだけ楽しく情報を伝えることでもなく、ましてや技能獲得でもない -- とはいえ、情報や技能は副産物として結果的に獲得されるのだが --。小学校の活動の目的とは、経験の幅を広げ豊かにし、知的進歩の興味を磨き活発にすることである。

⇒この観点から、過去10年以上かけて築き上げられてきた現在の小学校での「外国語活動」には、賞賛されるものもあれば、批判されるものもあるだろう。その検証は丁寧に行うべきだろうが、文部科学省は、「外国語活動」が正式に全国で開始されて二年も立たないうちに「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を発表し、小学校5・6年生での「外国語活動」の廃止を掲げ、「教科型」の授業に転換するといっている。

この急転換が、教育的配慮からなされたとは思いがたい。文部科学省は、「システム」の側に立っているのか、それとも子ども(そして教師)という「壊れやすい卵」の側に立っているのか --実際、少なからずの子どもと教師が、学校制度の中で壊れている。

大学で偉そうに講釈を垂れる(私を含めた)研究者は、どちらの側に立つと態度決定をするのか。



■ 体感を考える中で出てきた三つの原則をこれから考える。一つ目は、(ただ名目上だけのものではない)効果的で現実的な価値基準の特質について。二つ目は、体感的に実感する際の想像力の位置づけ。三つ目は指導要領における芸術作品の位置づけ。

The rubric of appreciation supplies an appropriate head for bringing out three further principles: the nature of effective or real (as distinct from nominal) standards of value; the place of the imagination in appreciative realizations; and the place of the fine arts in the course of study. (p. 224)




1 価値基準の特質 (The nature of standards of valuation)



■ 大人は、さまざまな経験から得た真価 (worth) の基準を若者に直接的に教えようとする。

Every adult has acquired, in the course of his prior experience and education, certain measures of the worth of various sorts of experience. He has learned to look upon qualities like honesty, amiability, perseverance, loyalty, as moral goods; upon certain classics of literature, painting, music, as aesthetic values, and so on. Not only this, but he has learned certain rules for these values -- the golden rule in morals; harmony, balance, etc., proportionate distribution in aesthetic goods; definition, clarity, system in intellectual accomplishments. These principles are so important as standards of judging the worth of new experiences that parents and instructors are always tending to teach them directly to the young. (p. 224)

⇒道徳教育の教科化に対しても、この点からの批判的吟味が重要。

参考ページ:
文部科学省:道徳教育充実のための改善策について-新たな枠組みによる教科化を中心に-
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/096/shiryo/attach/1340545.htm



■ 価値基準を直接的に教えることの危険性

They overlook the danger that standards so taught will be merely symbolic; that is, largely conventional and verbal. In reality, working as distinct from professed standards depend upon what an individual has himself specifically appreciated to be deeply significant in concrete situations. (p. 224) ⇒翻訳

彼らは、そのように [=直接的に] 教えられる基準が単に記号上のもの --ほとんど慣習的でことばの上だけのもの-- になってしまうという危険性を見過ごしている。実際には、教えられた基準が口先だけのものではないものとして運用されるには、一人ひとりが自分自身できちんと体感したことが、具体的な状況の中で深い意味を持たなければならない。



■ 親切の価値も、実生活で活き活きと体感しながら身につかねば、それは単なる口先だけの「知識」に過ぎない。

A youth who has had repeated experience of the full meaning of the value of kindliness toward others built into his disposition has a measure of the worth of generous treatment of others. Without this vital appreciation, the duty and virtue of unselfishness impressed upon him by others as a standard remains purely a matter of symbols which he cannot adequately translate into realities. His "knowledge" is second-handed; it is only a knowledge that others prize unselfishness as an excellence, and esteem him in the degree in which he exhibits it. Thus there grows up a split between a person's professed standards and his actual ones. (p. 225)



■ 明晰さや定義や分析の大切さも、身近に感じ体感していなければ、口先で唱えるだけの丸暗記用語だけに終わる。

In similar fashion, a pupil who has worked through some confused intellectual situation and fought his way to clearing up obscurities in a definite outcome, appreciates the value of clarity and definition. He has a standard which can be depended upon. He may be trained externally to go through certain motions of analysis and division of subject matter and may acquire information about the value of these processes as standard logical functions, but unless it somehow comes home to him at some point as an appreciation of his own, the significance of the logical norms -- so-called -- remains as much an external piece of information as, say, the names of rivers in China. He may be able to recite, but the recital is a mechanical rehearsal. (p. 225)

⇒自戒を込めて言うけど、大学や大学院で教えられていることも、実生活で使えなければ、それは口先だけのものにほぼ等しい。

この間、ある学会の紀要編集委員会に提言をしたけど、主張に対する理由や根拠の大切さを説いているはずの論文査読者が、自らの査読コメントに具体的な理由や根拠をほとんど掲載していないのは自己矛盾もはなはだしい。

と、怒りを外に向けたが、それを少し自らに反照させると、次々に私の自己偽善が浮かび上がってきた。気をつけよう(←おじさん、テンション ダウンw)。



■ 体感は教育のすべてにおいて覚えられるべきものである

It is, then, a serious mistake to regard appreciation as if it were confined to such things as literature and pictures and music. Its scope is as comprehensive as the work of education itself. The formation of habits is a purely mechanical thing unless habits are also tastes --habitual modes of preference and esteem, an effective sense of excellence. There are adequate grounds for asserting that the premium so often put in schools upon external "discipline," and upon marks and rewards, upon promotion and keeping back, are the obverse of the lack of attention given to life situations in which the meaning of facts, ideas, principles, and problems is vitally brought home. (p. 226)

⇒翻訳

こうしてみると、体感を文学や絵画や音楽などだけに限られるかのごとくに考えるのは重大な誤りであることがわかる。体感の範囲というのは、教育の営みを包括するものである。習慣形成が単に機械的なものではなくなるのは、習慣に趣きが出てきてから --選定と評定が常に、うまく働く卓越した判断になってからである。学校では、外面的な「規律」や、点数・賞罰や、進級・落第などに重きがおかれているが、そのことは、事実・観念・原則・問題の意味が生き生きと身近に感じられる生きた状況に注意が向けられていないことの反映であると主張することには十分根拠がある。







2 体感的実感 (appreciative realization) と象徴的・記号的経験 (symbolic or representative experiences)



■ 体感 (appreciation) における想像力の重要性

Appreciative realizations are to be distinguished from symbolic or representative experiences. They are not to be distinguished from the work of the intellect or understanding. Only a personal response involving imagination can possibly procure realization even of pure "facts." The imagination is the medium of appreciation in every field. The engagement of the imagination is the only thing that makes any activity more than mechanical. (p. 226)

⇒翻訳

体感的実感は、象徴的・記号的経験と分けて考えるべきである。しかし、体感的実感を、知性や理解の働きと分けて考えてはならない。純粋な「事実」の実感でさえ、想像力を伴う個人的な反応によって得られるものである。想像力は、どの分野においても体感をもたらす媒体となる。想像力が行使されることこそで、活動は機械的なもの以上のものになる。



■ 想像力とは、空想力ではなく、状況の統合的な取り込みである。

Unfortunately, it is too customary to identify the imaginative with the imaginary, rather than with a warm and intimate taking in of the full scope of a situation. (p. 226)

⇒翻訳

残念なことに、私たちは一般的に、想像力に富むということを、空想的であることと同じだと考えてしまい、状況を統合的に温かく詳しく取り込むことであるとは考えない。



⇒想像力の重要性については、ジョンソンがカントを引用しながら説いている。ちなみに、前にも書いたように私はレイコフとジョンソンが何度もデューイを引用するから、デューイを読んでみた(そしてそれが大正解であったのはご覧のとおり)。

関連記事
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

■ 想像力を空想にばかり結びつけるので、教示が想像力を伴わない営みだと誤解される。

This leads to an exaggerated estimate of fairy tales, myths, fanciful symbols, verse, and something labeled "Fine Art," as agencies for developing imagination and appreciation; and, by neglecting imaginative vision in other matters, leads to methods which reduce much instruction to an unimaginative acquiring of specialized skill and amassing of a load of information. (p. 226)



■ 直接身体に訴えかけてくるもの以外を実感するためには、想像力が不可欠。

An adequate recognition of the play of imagination as the medium of realization of every kind of thing which lies beyond the scope of direct physical response is the sole way of escape from mechanical methods in teaching. (p. 227)

⇒翻訳

直接的な身体反応の範囲を超えたところにあるあらゆる種類の事物を実感するための媒体となるのが想像力の働きであることを適切に認識しなければ機械的な教授方法から逃れることはできない。



■ 想像力は、筋肉運動と同じように、活動に必須

The emphasis put in this book, in accord with many tendencies in contemporary education, upon activity, will be misleading if it is not recognized that the imagination is as much a normal and integral part of human activity as is muscular movement. (p. 227) ⇒翻訳

現代教育の傾向にしたがいながら、この本では活動を重視しているが、もし想像力が、筋肉運動と同じように、人間の活動の当たり前で中核的な部分であるということが認識されていなければ、活動重視ということも誤解を招いてしまうだろう。



■ 学校内での諸活動は、人工空間の中ではあるが意味を感じる営みとして、演劇にたとえられる。

The educative value of manual activities and of laboratory exercises, as well as of play, depends upon the extent in which they aid in bringing about a sensing of the meaning of what is going on. In effect, if not in name, they are dramatizations. (p. 227) ⇒翻訳

手を使った活動や実験室演習の教育的価値は、遊びの価値と同様に、それらによって起こっていることの意味をどれだけ感じることができるかによって高められれもすれば低められれもする。名目上ではなく、効果の上では、それらは演劇なのである。

⇒"Dramatization"を「演劇」と訳したが、要は、手を使った活動や実験室演習では、学校の中という現実世界ではない空間の中ではありながらも人がそれらの意味を感じることができるという点で、劇場という人工的な空間の中で意味を感じることができる演劇と似ているということだ、と解釈した。



■ 体感から想像力を経て広範囲な記号的知識へ

Their utilitarian value in forming habits of skill to be used for tangible results is important, but not when isolated from the appreciative side. Were it not for the accompanying play of imagination, there would be no road from a direct activity to representative knowledge; for it is by imagination that symbols are translated over into a direct meaning and integrated with a narrower activity so as to expand and enrich it. (p. 227)

⇒翻訳

目に見える結果のために使う技能の習慣形成についての功利的価値はなるほど重要なものであるが、習慣形成を体感という側面から切り離して考えてはいけない。習慣形成に伴うべき想像力の働きがなければ、直接的な活動から記号的な知識へと至ることはないだろう。記号が直接的な意味へと翻訳され、その意味を拡張し豊かにするために、[記号が由来する]小さな活動と統合されるのも、想像力によってだからである。

⇒正直 "a narrower activity"が具体的に何を指すのか今一つ自身がないままに、上の[ ]を補った解釈をした。もし解釈に自信がある方がいらっしゃいましたらご教示下さい。







3 芸術作品 (fine arts)について

■ 観賞用の芸術と実用的な民芸も、情動と想像力を伴うという点で同じである。社会的な利用が重視されれば民芸あるいは工芸となるし、趣きに訴える質の体感が重視されれば芸術作品となる。

As engaging the emotions and the imagination, they [= fine arts and useful arts] have the qualities which give the fine arts their quality. As demanding method or skill, the adaptation of tools to materials with constantly increasing perfection, they involve the element of technique indispensable to artistic production. From the standpoint of product, or the work of art, they are naturally defective, though even in this respect when they comprise genuine appreciation they often have a rudimentary charm. As experiences they have both an artistic and an esthetic quality. When they emerge into activities which are tested by their product and when the socially serviceable value of the product is emphasized, they pass into useful or industrial arts. When they develop in the direction of an enhanced appreciation of the immediate qualities which appeal to taste, they grow into fine arts. (pp. 227-228)

⇒"Useful arts"を「民芸」と訳したが、このことばは柳宗悦が作ったもの。

関連記事: 柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/09/blog-post_23.html



ちなみにこの本は面白いです。私たちはもっと多面的に、明治以降の英語教育も旗振り役を担ってきた「西洋近代」について再検討するべきかと思います。







■ 文学・音楽・絵画などは体感の代表例

In one of its meanings, appreciation is opposed to depreciation. It denotes an enlarged, an intensified prizing, not merely a prizing, much less --like depreciation-- a lowered and degraded prizing. This enhancement of the qualities which make any ordinary experience appealing, appropriable -- capable of full assimilation -- and enjoyable, constitutes the prime function of literature, music, drawing, painting, etc., in education. They are not the exclusive agencies of appreciation in the most general sense of that word; but they are the chief agencies of an intensified, enhanced appreciation. (p. 228)

⇒翻訳

体感のある一つの意味においては、体感と軽視は対立している。体感とは、拡張され強められた評価であり、単なる評価でもなければ、ましてや軽視のように、低く落として評価することではない。このようにして質を拡大し、普通の経験を、十二分に自分のものにしたいと思わせる魅力ある楽しみにすることが、教育における文学・音楽・絵画等などの第一の機能である。文学・音楽・絵画などが、ことばのもっとも広い意味での体感を独り占めしている担い手なわけではない。だが、文学・音楽・絵画等は強められ拡大された体感の主な担い手なのである。



■ 芸術作品は、趣きの基準となる。

As such, they are not only intrinsically and directly enjoyable, but they serve a purpose beyond themselves. They have the office, in increased degree, of all appreciation in fixing taste, in forming standards for the worth of later experiences. They arouse discontent with conditions which fall below their measure; they create a demand for surroundings coming up to their own level. They reveal a depth and range of meaning in experiences which otherwise might be mediocre and trivial. They supply, that is, organs of vision. Moreover, in their fullness they represent the concentration and consummation of elements of good which are otherwise scattered and incomplete. They select and focus the elements of enjoyable worth which make any experience directly enjoyable. They are not luxuries of education, but emphatic expressions of that which makes any education worth while. (p. 229)



⇒最後の一文だけを翻訳

芸術とは、教育における贅沢品ではなく、教育に価値を与えるものを強く表現したものなのである。

⇒何かを体感 (appreciate) することが、教育を教育たらしめている。

⇒何度も言って恐縮だけど、私は以下の様な信念をもっている。身体の感性を育てることこそが、現代学校教育の一番の責務だと考えている。

私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思います。この世界の中の身体を基盤とした直観知の発達を抜きに、ペーパーテストの点数だけ上げても、そんな「エリート」は現実世界で役に立たない(時に現実世界の障害になる)からです。










2 教科の価値付け (The Valuation of Studies)

■ 内在的価値 (intrinsic value) と 道具的価値 (instrumental value)

Intrinsic values are not objects of judgment, they cannot (as intrinsic) be compared, or regarded as greater and less, better or worse. They are invaluable; and if a thing is invaluable, it is neither more nor less so than any other invaluable. But occasions present themselves when it is necessary to choose, when we must let one thing go in order to take another. This establishes an order of preference, a greater and less, better and worse. Things judged or passed upon have to be estimated in relation to some third thing, some further end. With respect to that, they are means, or instrumental values. (p. 229)

⇒定義部分なので翻訳

内在的価値は評価を下す対象物ではない。内在的である以上、内在的価値は比較することができず、他のものより大きいとか小さいとか、良いとか悪いとか言えないものである。内在的価値の価値は計り知れない。あるものの価値が計り知れないのなら、その他の計り知れない価値をもつものとの比較もできない。しかし時に、私たちには選択をしてあるものを他のものよりも優先させなければならない場合がある。評価や判決を下されたものはある他のもの、さらなる対象物との関係で見積もられる。この観点からすると、それらは手段、もしくは道具的価値である。

⇒言語教育の動機づけ理論では、統合的動機づけ (integrative motivation)と道具的動機づけ (instrumental motivation) が古典的(Wikipedia: motivation in second language learning)。しかし近年は内在的動機づけ (intrinsic motivation) と外在的動機づけ (extrinsic motivation) の対立で語ることの方が多いように思う (Wikipedia: Motivation ― ちなみにこれら二つのウィキペディア記事の分量を比較して見てください―)。

デューイの議論はもちろん動機づけについてではなく、価値についてだけど、適宜重ねあわせながら考えてゆきたい。



■ 内在的価値は、私たちが生きるということに内在している。

We may imagine a man who at one time thoroughly enjoys converse with his friends, at another the hearing of a symphony; at another the eating of his meals; at another the reading of a book; at another the earning of money, and so on. As an appreciative realization, each of these is an intrinsic value. It occupies a particular place in life; it serves its own end, which cannot be supplied by a substitute. There is no question of comparative value, and hence none of valuation. Each is the specific good which it is, and that is all that can be said. In its own place, none is a means to anything beyond itself. (p. 229)

⇒翻訳

ある人がある時は友人との会話を、別の時には交響曲を聞くことを、他の時には食事を、違う時には読書を、さらに異なる時にはお金を稼ぐこと、などなどをとことん楽しむことを私たちは想像することができる。体感的実感として、これら一つ一つは内在的価値をもつものである。それぞれが生きることにおいて特有の位置を占めている。それぞれは独自の目標を達成し、それが他のものによって取り替えることはできない。価値比較といった問題はなく、ゆえに価値づけもない。一つ一つがそれ自身として特有の良さをもつものであるとしか言いようがない。それぞれの位置において、どれもそれ以外の何ものに対しても手段とはなっていない。

⇒"It occupies a particular place in life"という文が私には印象的だった。「内在的」といっても、それは例えば脳内に内在しているのではなく、私たちがこの世界で生きることに内在しているという意味であると理解するべきだろう。

"Intrinsic value" (内在的価値)を"embodied value" (身体化された価値)と呼び替えるのはやり過ぎだろうか?



■ しかし状況によっては選択を迫られることがある。ある特定の状況では、ある特定の価値が内在的価値をもつものであり、他のものはそれを達成させるための手段となる。

But there may arise a situation in which they compete or conflict, in which a choice has to be made. Now comparison comes in. Since a choice has to be made, we want to know the respective claims of each competitor. What is to be said for it -- What does it offer in comparison with, as balanced over against, some other possibility -- Raising these questions means that a particular good is no longer an end in itself, an intrinsic good. For if it were, its claims would be incomparable, imperative. The question is now as to its status as a means of realizing something else, which is then the invaluable of that situation. If a man has just eaten, or if he is well fed generally and the opportunity to hear music is a rarity, he will probably prefer the music to eating. In the given situation that will render the greater contribution. If he is starving, or if he is satiated with music for the time being, he will naturally judge food to have the greater worth. (p. 229)



■ 価値にはそもそも程度も順序もない

In the abstract or at large, apart from the needs of a particular situation in which choice has to be made, there is no such thing as degrees or order of value. (pp. 229-230)

⇒抽象論や一般論として述べるなら、選択が行われなければならないある特定の状況での必要性を除いて考えると、価値に程度や順序などというものはない。

⇒デューイはん、ええことおっしゃりはりますなぁ(合掌)。というわけで禅語(http://www14.plala.or.jp/hirolin2003/zengo.htm)を引用しながら、エセ文化人的にまとめると、「一行三昧」(いちぎょうざんまい)で今ここで自分がやっていることに心を込め、人に接するときも「一期一会」(いちごいちえ)で会い、善をも思わず悪をも思わず「非思量」(ひしりょう)で「莫妄想」(まくもうそう)で暮らしておりますと、一瞬一瞬が計り知れない価値をもつようになりますのじゃ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏(笑)。



■ 教育は生きることのための手段ではなく、実りありそれ自体で意義のある人生を生きるという営みである以上、考えられる唯一の究極の価値とは生きているということそれ自体である

Certain conclusions follow with respect to educational values. We cannot establish a hierarchy of values among studies. It is futile to attempt to arrange them in an order, beginning with one having least worth and going on to that of maximum value. In so far as any study has a unique or irreplaceable function in experience, in so far as it marks a characteristic enrichment of life, its worth is intrinsic or incomparable. Since education is not a means to living, but is identical with the operation of living a life which is fruitful and inherently significant, the only ultimate value which can be set up is just the process of living itself. And this is not an end to which studies and activities are subordinate means; it is the whole of which they are ingredients. (p. 230)

⇒デューイはん、またええことおっしゃってはりますので、はりきってワテも翻訳しまっせ!長いブログ記事を書くのは疲れますが、デューイはんの心意気にワテは打たれました。ナニワのど根性でやったりまひょ!

ここで教育的価値についての結論が導き出される。教科間に価値のピラミッド体系を作り上げることはできない。真価がもっとも少ない教科に始まり真価がもっとも大きい教科に終わる順序に教科を当てはめようとすることは不毛なことである。それぞれの教科が、経験の中で独特の他をもって替えがたい機能をもち、生きることを独自のやり方で豊かにする限りにおいて、教科の真価は内在的で比較不可能なものだ。教育は生きることのための手段ではなく、実りありそれ自体で意義のある人生を生きるという営みである以上、考えられる唯一の究極の価値とは生きているということそれ自体である。そして生きているということに対して教科や活動が従属的な手段になっているわけでもない。生きているということは、一つの全体であり、教科や活動はその構成要素である。

⇒人生とは、生きているこということは、つまりlifeとは、それだけで実りあるものである意義深いものである。






Come in, babe
Across these purple fields
The sun has sunk behind you
Across these purple fields
That idiot-boy in the corner Is speaking deviated truths

Come on, admit it, babe
It's a wonderful life
If you can find it
If you can find it
If you can find it
It's a wonderful life that you bring
Ooh it's a wonderful thing


(私はNick Caveを映画『ベルリン天使の詩』ではじめて知りましたが、存在感が素晴らしいです。私は上の曲を、語学教育エキスポ2013のシンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」で使うつもりです)。









⇒そして学校とは、子どもや若者が昼間の大半の時間において生きている場所である。しかし、子どもや若者は学校で、自分が生きていることを実感できているだろうか。

むしろ学校に行く度に、授業に出る度に生きる実感を次々にむしり取られていっていないだろうか。

そして教師や大人はそれを当たり前のことと思っていないだろうか。

学校にいる子どもたちは「今・ここ」を生きていないのかもしれない。

そういえば学校教育を描いた映画に『いまを生きる』というのがあった。私は主演のロビン・ウィリアムスのファンなのだが、昔この映画を見た時、この映画で彼が演じている教師の行動は少々やりすぎなのではと私は思ってしまったが、今、この映画を見直すとしたら、私はどう感じるのだろう。













■ 「この教科の価値はこれ」などと特定するのも的はずれである。例えば、科学も、どんな状況で何のために使われるかによって、さまざまな価値をとりうる。

It also follows that the attempt to distribute distinct sorts of value among different studies is a misguided one, in spite of the amount of time recently devoted to the undertaking. Science for example may have any kind of value, depending upon the situation into which it enters as a means. To some the value of science may be military; it may be an instrument in strengthening means of offense or defense; it may be technological, a tool for engineering; or it may be commercial --an aid in the successful conduct of business; under other conditions, its worth may be philanthropic --the service it renders in relieving human suffering; or again it may be quite conventional-- of value in establishing one's social status as an "educated" person. (pp. 230-231)

⇒ここでも教科を、暮らしなどの文脈から分離させないデューイの姿勢が伺われる。



■ 教科は「体感的価値」をもち、それ自身が価値をもつものとして教えられるべきである。

As matter of fact, science serves all these purposes, and it would be an arbitrary task to try to fix upon one of them as its "real" end. All that we can be sure of educationally is that science should be taught so as to be an end in itself in the lives of students -- something worth while on account of its own unique intrinsic contribution to the experience of life. Primarily it must have "appreciation value." (p. 231)

⇒翻訳

実際のところ、科学はこれらすべての目的のために役立つのであり、目的の一つを選んで、それだけが「本当の」目的だと固定的に考えるのは恣意的である。教育的観点から確かなことは、生徒が生きる中で、科学そのものが目的になるように教えられるべきであるということである。生きる経験に独自の内在的な貢献をするという点で真価があるものとして教えられるべきである。まずもって「体感的価値」がなければならない。

⇒「体感的価値」 (appreciation value)という用語が出てきた。



■ 詩も、余暇の楽しみのために教えられるのではなく、それ自身が生きることの糧として教えられるべきである(ホメロスは、ギリシャ人にとっての聖書・道徳書・歴史書・国民文学であった)。

If we take something which seems to be at the opposite pole, like poetry, the same sort of statement applies. It may be that, at the present time, its chief value is the contribution it makes to the enjoyment of leisure. But that may represent a degenerate condition rather than anything necessary. Poetry has historically been allied with religion and morals; it has served the purpose of penetrating the mysterious depths of things. It has had an enormous patriotic value. Homer to the Greeks was a Bible, a textbook of morals, a history, and a national inspiration. In any case, it may be said that an education which does not succeed in making poetry a resource in the business of life as well as in its leisure, has something the matter with it -- or else the poetry is artificial poetry. (p. 231)

⇒こうしてみると「実用英語」や「受験英語」という教材観は、教材そのものが学習者に対して持ちうる「体感的価値」を無視して、学習者にとっての「今・ここ」以外の時空のための教材を、学習者にどう想像力を行使させるかをほとんど考えずに、編纂する考え方だと思われる。もちろん学習者の「今・ここ」を超える時空についての教材は必要である。しかし、それは想像力の行使を通じて、学習者の「今・ここ」の経験につながり、学習者が「体感的価値」を感じるようなものにするべきであろう。



■ 教科は、生徒の「今・ここ」の人生と、「いつかやってみたい」人生の両方を豊かにするものであるべき。

Those responsible for planning and teaching the course of study should have grounds for thinking that the studies and topics included furnish both direct increments to the enriching of lives of the pupils and also materials which they can put to use in other concerns of direct interest. (p. 231)

⇒翻訳

学習指導要領を起案しそれについて教える責任をもつ者は、そこに含まれている教科とトピックが、生徒が生きることを豊かにする直接的な内容と、生徒にとって直接的興味がある他の関心事にも利用できる題材の両方を与えるものであると考えられるだけの根拠をもつべきである。



■ カリキュラムには、教育以外の影響が蓄積しがちなので常に検討・批判・改訂が必要である。

Since the curriculum is always getting loaded down with purely inherited traditional matter and with subjects which represent mainly the energy of some influential person or group of persons in behalf of something dear to them, it requires constant inspection, criticism, and revision to make sure it is accomplishing its purpose. (p. 231)

⇒翻訳。特に昨今は、教育内容が、教育以外の論理によって決定されることが多いから、こういった見解は重要。

カリキュラムは常に、単に伝統的に継承されてきた内容と、影響力のある人や集団が大切と思う内容のエネルギーを示すような教科によって満杯になりがちなので、カリキュラムが本来の目的を果たすようにするために、絶えず検討・批判・改定しなければならない。



■ だからといって生徒が常に、(それが内在的であれ、道具的であれ)教育の価値を自覚していなければならないというわけではない。

But these considerations do not mean that for a subject to have motivating value to a pupil (whether intrinsic or instrumental) is the same thing as for him to be aware of the value, or to be able to tell what the study is good for. (p. 232)

■ 教育内容が生徒に直接的に訴えている時には、それには内在的価値がある。道具的価値はそうではないかもしれないが、道具的価値も「何のため」という連鎖をたどってゆくと、どこかで内在的価値に到達する。

In the first place, as long as any topic makes an immediate appeal, it is not necessary to ask what it is good for. This is a question which can be asked only about instrumental values. Some goods are not good for anything; they are just goods. Any other notion leads to an absurdity. For we cannot stop asking the question about an instrumental good, one whose value lies in its being good for something, unless there is at some point something intrinsically good, good for itself. (p. 232)



■ 腹を空かした子どもに対して食物の価値を問う必要などない。

To a hungry, healthy child, food is a good of the situation; we do not have to bring him to consciousness of the ends subserved by food in order to supply a motive to eat. The food in connection with his appetite is a motive. (p. 232)



■ 子どもが教材に対して自発的な反応をすることこそが、教育内容の価値を示している。

The same thing holds of mentally eager pupils with respect to many topics. Neither they nor the teacher could possibly foretell with any exactness the purposes learning is to accomplish in the future; nor as long as the eagerness continues is it advisable to try to specify particular goods which are to come of it. The proof of a good is found in the fact that the pupil responds; his response is use. His response to the material shows that the subject functions in his life. (p. 232)

⇒翻訳

同じことは、心の成長に熱心な生徒にとっての多くのトピックでも言える。生徒も教師も、学びが将来結実する目的を正確に予告することはできない。また、熱心さが続く限り、どんないいことが学びから生じるかを特定しようとすることも賢明ではない。何かがよいものであることは、生徒が反応するという事実に見出される。生徒の反応こそが使用価値なのである。生徒が題材に対して示す反応によって、その教科が生徒の人生の中で機能していることを示している。

⇒"Use"をここでは「使用価値」と意訳した。「使用価値」とは、もちろんマルクスの用語でもある。

マルクスの用語に私なりの改訂を加えた独自の用語法で言うなら―私の用語は太字で示すこととする―、あるものが端的によいこと(デューイの用語なら「内在的価値」や「体感的価値」をもっていること)は、「真価」 (worth)をもつとも言われているが、これは「個人的使用価値」(Personal Use Value)をもつとも表現できる。その個人にとって「使いで」があるからである。例えば、ある人が趣味で何かをするとき、その対象には内在的価値・体感的価値・真価・個人的使用価値がある。

やがてその「個人的使用価値」に汎用性が加わり、他の人にとっても「使いで」があるものとなると、それは「一般的使用価値」 (General Use Value)をもつようになる。例えば趣味で作っていたアクセサリーが他の人も欲しがるものとなることがその例だろう。あるいはアーチストの詩を趣味で学んでいるうちに、その語学力が他の用途にも使えるようになった時を考えてもいいかもしれない。

「一般的使用価値」をもつものは、やがて、他の人と交換されるようになるかもしれない。趣味で作っていたアクセサリーには価格がつくかもしれない。アーチストが好きで学んでいた語学力は資格試験の点数と換算的に交換されるようになるかもしれない。つまり、「交換価値」 (exchange value) をもつようになるわけである。

マルクスは、商品がもつ「商品価値」は、この(一般的)「使用価値」と「交換価値」の融合体だとした。もっとも商品は、製作者が自分では要らないぐらいに製作するものだから、交換価値の占める意味が強くなる。投機的商品とは、もっぱら交換価値の観点から売買される商品である。

学びも、本来はとにかく「やっていて楽しい」という純粋な個人的使用価値(=内在的価値・体感的価値・真価)から始まり、やがて学びの一般的使用価値に気づくようになるというのが理想型だろう。

だが昨今は、まず学びの交換価値から学習がスタートする。教師は「英語を学ぶと就職が有利になる」とか、「これを学ぶと試験で点数が取れる」と、下手をすれば学びをはなから交換価値目的にやることを薦めたりする。

これはデューイの言い方を借りるなら、「就職・高得点のため」という道具的価値により、学びを促進していると言える。だが、デューイが言うように、この道具的価値・交換価値が、最後にどこかで学習者が生きることにおける内在的価値・体感的価値・真価・個人的使用価値に結実するかは定かではない。

もちろん、学習者の将来がどのようになるかはわからないのだが、交換価値・道具的価値から勉強を始めるのは、自らの心身で感じる喜びがないままに始まり、その喜びがいつどこで得られるかは定かではない反面、内在的価値・体感的価値・真価・個人的使用価値から学びが始まり、将来それがどんな用途に使われるかわからないというのは、自己の不在・存在という点で、決定的に違う。

もっとも、勉強と交換されるものの価値に対して何ら疑いをもっていない学習者・教師にとっては、交換価値・道具的価値から勉強を始めることに対して、なんら違和感を覚えない。

今朝(2014/01/27)の毎日新聞には水戸健一記者の署名入り小コラム(記者ノート 「英語教育」)が掲載されていたが、そこでは鳥飼久美子先生(立教大学)が、小学校に講演に行くと、しばしば児童に「なぜ英語を勉強しなければならないのか分からない」と問われるエピソードが紹介されている。児童は「担任の先生は『勉強しておけば損がない』と言うけれど・・・」と口ごもるそうだ。

それに対する鳥飼先生の答えは「英語ができる、できないで人生は決まらないけれど、できれば意外とよいことがあるかもしれないよ」であるらしいが、この答えも「道具的価値」による答えであろう。

子どもが訴えたいことを、ここでの用語に翻訳すれば「小学校の英語の授業には体感的価値が感じられない。それ自体面白いと思える内在的価値がない。こんな授業に真価があるのか。道具的価値ばかりで誘導しないでほしい」となるのかもしれない。

さらに言ってしまうなら、子どもは大人を心から信頼し尊敬していたら、大人が言うことはたいてい聞くものである。しかし、子どもが小学校英語教育に対して上のような抵抗を覚えているということは、子どもはこの「グローバル資本主義競争社会」で汲々とする大人を信頼できていないし、尊敬もできていないのではないか。今の大人は、子どもにとって魅力的存在ではないのかもしれない。

水戸健一記者も「グローバル化で海外展開する企業も増え、英語教育は熱を帯びる。だが「とにかく英語が使えさえすればよい」という感覚には不安を覚えるのだ」とコラムに書いている。「とにかくグローバル競争を勝たなければ。そのためには何としても英語!」と力説する大人、そしてそんな力説に力なく肩をうなだれながらなびいているだけの教師に、子どもたちは自然な好意も敬意ももてていないのかもしれない。

教育を問いなおすということは、子どもをどう操作するかということを問いなおすことに還元されてしまってはならない。教育を問いなおすということは、今の大人のありようを問いなおすということでもあるからだ。

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モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
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■ 道具的価値も究極的には内在的価値につながらなくてはならない。

In general what is desirable is that a topic be presented in such a way that it either have an immediate value, and require no justification, or else be perceived to be a means of achieving something of intrinsic value. An instrumental value then has the intrinsic value of being a means to an end. (p. 233)

⇒まとめの部分なので翻訳

一般的に言うなら、トピックが直接的な価値をもち、何の正当化も必要としないように提示されるのが望ましい。もしそれができないなら、トピックが内在的価値をもつ何かを達成するための手段として生徒に認識されることが望ましい。そうすれば道具的価値も、ある目的のための手段であるという意味で内在的価値をもつようになる。

⇒デューイはあくまでも道具的価値を、内在的価値に結びつけて考える。これは、現在、一部の英語教育論者が、英語科の教育内容をもっぱら道具的価値から考え、内在的価値についてほとんど考慮しないのと極めて対照的である。







3. 価値の分離と体系化 (The Segregation and Organization of Values)

■ 幸せといった抽象概念は教育において重要な観点であるが、そういった抽象概念に教育の具体的な営みを還元させてしまってはいけない。

Health, wealth, efficiency, sociability, utility, culture, happiness itself are only abstract terms which sum up a multitude of particulars. To regard such things as standards for the valuation of concrete topics and process of education is to subordinate to an abstraction the concrete facts from which the abstraction is derived. They are not in any true sense standards of valuation; these are found, as we have previously seen, in the specific realizations which form tastes and habits of preference. They are, however, of significance as points of view elevated above the details of life whence to survey the field and see how its constituent details are distributed, and whether they are well proportioned. (pp. 233-234)

⇒教育論が陥りがちな点を、デューイが見事に指摘している箇所なので翻訳

健康、財産、効率、社交性、効用、文化、幸福といった概念はそれ自体は、数多の具体物を総括した抽象的な観点である。これらの用語を具体的なトピックや教育のプロセスを価値づけるための基準とみなしてしまうと、抽象物の源である具体物を、抽象物に従属させてしまうことになる。抽象的観点は、ことばの正しい意味で、価値づけの基準であるとは言えない。抽象的観点は、これまで論じてきたように、趣きと好みの習慣を形成する具体的な実感に見出されるのである。しかし、抽象的観点は、生きることの細々としたことがらから一段上がった視点であり、そこから分野を調査し、その構成要素の細々とした事柄がどのように配列され、うまい割合になっているかをみるには重要である。

⇒例えば「平和」はもちろん大切な観点だけれど、「英語教育は平和のため」とか「英語教育は平和教育」だと短絡的に断定し、特定の教材を特定の教育方法でしか教えなくなると、どこか教育の可能性が損なわれ、教育がいびつになってゆくと思う。

「平和」や他の抽象的な目標が悪いというのではない。抽象的な概念を、よくよく考えもせず、日々の教育実践の細やかな営みに一様に押し付けるのがおかしいと言っているわけだ。「平和」や他の抽象的な教育目標は、善意の塊のように見えるので、この誤りをおかしやすい。気をつけなければならない。

もちろんもし、英語教育は「グローバル化対応」のためといって、「グローバル化」で連想される内容だけを英語教育の内容にするような営みも同様におかしい。



■ しかし抽象的観点は、教育方法と教育内容を調査・批判・改善するための有用な観点である。

And while these considerations are not standards of value, they are useful criteria for survey, criticism, and better organization of existing methods and subject matter of instruction. (p. 234)



■ 各教科は別種の価値をもち、カリキュラムはそんな別種の価値が十分に集まるまで教科を増やすことだと一般に考えられている。

The need of such general points of view is the greater because of a tendency to segregate educational values due to the isolation from one another of the various pursuits of life. The idea is prevalent that different studies represent separate kinds of values, and that the curriculum should, therefore, be constituted by gathering together various studies till a sufficient variety of independent values have been cared for. (p. 234)

⇒翻訳

生きることの様々な営みを互いに分離することにより教育的価値を分離する傾向があるがゆえ、これらの一般的視点の必要性が一層重要になっている。それぞれの教科は、それぞれ別種の価値を表しており、それゆえに、カリキュラムもそれぞれ独立した価値が十分広く集められるようにさまざまな教科を集めて構成されるべきだという考えは広まっている。



■ 「この教科の価値は○○で、あの教科の価値は××」といった俗説の典型例

"Memory is trained by most studies, but best by languages and history; taste is trained by the more advanced study of languages, and still better by English literature; imagination by all higher language teaching, but chiefly by Greek and Latin poetry; observation by science work in the laboratory, though some training is to be got from the earlier stages of Latin and Greek; for expression, Greek and Latin composition comes first and English composition next; for abstract reasoning, mathematics stands almost alone; for concrete reasoning, science comes first, then geometry; for social reasoning, the Greek and Roman historians and orators come first, and general history next. Hence the narrowest education which can claim to be at all complete includes Latin, one modern language, some history, some English literature, and one science." (pp. 234-235)



■ 俗説とそれを支える哲学、そしてそれに基づく教育観。

This attitude toward subjects is the obverse side of the conception of experience or life as a patchwork of independent interests which exist side by side and limit one another. ... There is a philosophy which might well be called the check and balance theory of experience. Life presents a diversity of interests. Left to themselves, they tend to encroach on one another. The ideal is to prescribe a special territory for each till the whole ground of experience is covered, and then see to it each remains within its own boundaries. ... An ideal education would then supply the means of meeting these separate and pigeon-holed interests. And when we look at the schools, it is easy to get the impression that they accept this view of the nature of adult life, and set for themselves the task of meeting its demands. (p. 236)

⇒私なりにまとめるとこうなる。(1)人生なんていろんな雑多バラバラの事柄の寄せ集めという俗説。(2)雑多バラバラの事柄をうまい割合で集めればいいのだという哲学。(3)教育も、雑多バラバラの事柄をいろいろな教科で教えればいいという教育観。

ここには、生きるということは常に「この心身」に統合されていることであるという実感が決定的に欠けていると思う。



■ さまざまな種類の教育が喧伝される中で、教育の本質が失われている。

And it will be found that a large part of current agitation about schools is concerned with clamor and controversy about the due meed of recognition to be given to each of these interests, and with struggles to secure for each its due share in the course of study; or, if this does not seem feasible in the existing school system, then to secure a new and separate kind of schooling to meet the need. In the multitude of educations education is forgotten. (pp. 236-237)

⇒生きるということのまとまりを忘れて、それぞれの教科がバラバラにそれぞれの「教科教育学」なるものを発展させ、どんどんと学会発表業績を積み重ねてゆくうちに、「子どもが生きるということ」という教育の本質が忘れさられているのかもしれない。



■ 「質」というものを忘れた者は、教育改革ももっぱら量的な拡大・削減でしか図らない。

The obvious outcome is congestion of the course of study, overpressure and distraction of pupils, and a narrow specialization fatal to the very idea of education. But these bad results usually lead to more of the same sort of thing as a remedy. When it is perceived that after all the requirements of a full life experience are not met, the deficiency is not laid to the isolation and narrowness of the teaching of the existing subjects, and this recognition made the basis of reorganization of the system. No, the lack is something to be made up for by the introduction of still another study, or, if necessary, another kind of school. And as a rule those who object to the resulting overcrowding and consequent superficiality and distraction usually also have recourse to a merely quantitative criterion: the remedy is to cut off a great many studies as fads and frills, and return to the good old curriculum of the three R's in elementary education and the equally good and equally old-fashioned curriculum of the classics and mathematics in higher education. (p. 237)

⇒これは現在の英語教育改革についても言えること。誰もが英語教育の「質」 ―学びの中で子どもが感じている実感― を、「そんなのは数量化できないからエビデンスにならない」、「そんなことは科学ではない」とばかりに、授業時間や単語数といった量ばかりで英語教育を操作する。

今大切なことは、子どもが学んでいる実感や体感を取り戻すことではないのか。そして教師が教えているという実感や体感を再び覚えることができるようにすることではないのか。

この点、「質を忘れた人々」は、「グローバル化」ということばを振り回す政治家や財界人だけでなく、「英語教育学者」という「科学」を僭称する人々にも多い。実感と体感を現場で感じることができる現場教師は、そんな者たちへの対抗言説を作り上げなければならないと私は考える。

さもないと人間の生が深い所で損なわれてしまう。大人の、そして子どもの。



■ 多様な側面をもつ経験の統一感・統合感

The point at issue in a theory of educational value is then the unity or integrity of experience. How shall it be full and varied without losing unity of spirit? How shall it be one and yet not narrow and monotonous in its unity? Ultimately, the question of values and a standard of values is the moral question of the organization of the interests of life. (p. 238)

⇒大切な箇所なので翻訳

そうなると、教育的価値の理論で大切なのは、経験の統一感や統合感であるということになる。魂の統一感を失うことなしに、経験が十全かつ多様であるにはどうしたらよいのだろう。経験が一つの統一感を保つものでありながら、狭く単調なものにならないようにするためにはどうしたらよいのだろう。突き詰めて考えれば、価値と価値の基準の問題は、生きることにおけるさまざまな興味をどのように有機的に結合させるかという道徳の問題となる。

⇒思い切って"Spirit"は「魂」と、"organization"は「有機的結合」と訳した。







Summary

Fundamentally, the elements involved in a discussion of value have been covered in the prior discussion of aims and interests. But since educational values are generally discussed in connection with the claims of the various studies of the curriculum, the consideration of aim and interest is here resumed from the point of view of special studies. The term "value" has two quite different meanings. On the one hand, it denotes the attitude of prizing a thing finding it worth while, for its own sake, or intrinsically. This is a name for a full or complete experience. To value in this sense is to appreciate. But to value also means a distinctively intellectual act -- an operation of comparing and judging -- to valuate. This occurs when direct full experience is lacking, and the question arises which of the various possibilities of a situation is to be preferred in order to reach a full realization, or vital experience.

We must not, however, divide the studies of the curriculum into the appreciative, those concerned with intrinsic value, and the instrumental, concerned with those which are of value or ends beyond themselves. The formation of proper standards in any subject depends upon a realization of the contribution which it makes to the immediate significance of experience, upon a direct appreciation. Literature and the fine arts are of peculiar value because they represent appreciation at its best -- a heightened realization of meaning through selection and concentration. But every subject at some phase of its development should possess, what is for the individual concerned with it, an aesthetic quality.

Contribution to immediate intrinsic values in all their variety in experience is the only criterion for determining the worth of instrumental and derived values in studies. The tendency to assign separate values to each study and to regard the curriculum in its entirety as a kind of composite made by the aggregation of segregated values is a result of the isolation of social groups and classes. Hence it is the business of education in a democratic social group to struggle against this isolation in order that the various interests may reinforce and play into one another.

⇒この章もとても深いことをデューイが述べていたので、どうぞ皆さん、この要約を皆さんなりにデューイが言いたいことを実感・体感できるよう翻訳してみてください(おじさんは疲れたから、もうやんないwww)。







"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html








岡田尊司 (2011) 『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』、(2013) 『回避性愛着障害 絆が希薄な人たち』 光文社新書





■ 見逃されていた愛着障害

「愛着障害」という用語は私も知らなかったが、『母という病』があまりに面白かったので著者の岡田尊司先生の関連書であるこの二冊を読んだ。これも非常に面白かった。うつ、不安障害、依存症、パーソナリティ障害あるいは発達障害などで苦しむ人達への支援のためには、愛着障害に関する理解が重要だと岡田先生は考えるが(岡田 2011, p. 7)、精神科医も心理療法家も愛着障害に対する認識を欠いていることが多いという(岡田2011, p. 243)。そういった現状では、およそ人間に関わる職業についている人は、この愛着障害について理解を深めておいた方がいいのかもしれない。



■ 広義の愛着障害

「愛着障害」とは、最初は戦災孤児などのように明らかに幼少時に適切な養育を得られなかった児童に対して使われた概念だったが、やがて研究が一般の児童を対象にしはじめると、実の親に育てられていてもかなりの割合で愛着障害が見られるし、成人ですらも愛着障害に苦しむことがあることがわかってきた(岡田 2011, p. 48)。かくして明らかな虐待や養育放棄による愛着障害を「反応性愛着障害」(狭義の愛着障害)とした上で、岡田先生は広義の愛着障害(特に回避性愛着障害)についてこの二冊で一般読者のためにまとめる。



■ 「安全基地」としての養育者

健全な家庭では、養育者が子どもの「安全基地」 (safe base) となる。安全基地とは、「いざという時に頼ることができ、守ってもらえる居場所であり、そこを安心の拠り所、心の支えとすることのできる存在」である(岡田 2011, p. 259)。

健全な家庭では養育者が、(1) 安全感を保証する、(2) 感受性(あるいは共感性)豊かな存在であり、(3) 応答性に優れ子どもが求めることに応じ、求めないことを押し付け子どもの主体性を損なうことがない。養育者はさらに (4) 安定性を備え態度が一貫し、子どもが (5) 何でも話せる存在であり、子どもをいたずらに否定したり傷つけたりしないし、説教や秘密の暴露などで子どもを追い詰めてしまうことがない。 (岡田 2011, pp. 262-264)



■ 養育者による「共感的応答」

健全な養育者の特徴を別の言い方で表現すれば、それは「共感的応答」を子どもに対して与えることができる存在となる。子どもの気持ちを理解することができない、あるいは子どもが何かを求めてきても応えようとしなかったり、求めているのとは見当違いのことを押し付けたりする親は言うまでもなく共感的応答ができていない。

共感的応答は以下の三点で子どもの発達を助ける。 (1) 子どもにわかってもらったという安心感や満足感を与え、他者に対する肯定的な認識を育てる。(2) 共感的な言語化により、言語的にまだまだ未発達な子どもの自己理解を助ける。(3) 子ども自身が他人に対して共感的応答ができるようになる。(岡田 2013, pp. 57-59)。



■ 養育状況の欠損

このような安全感・感受性・応答性・安定性・信頼感や、安心感・共感的言語化・子どもによる共感的応答の取り込みは、虐待や養育放棄などをする養育者によっては与えられないことは火を見るより明らかだ(そして昨今、虐待や養育放棄は決して珍しくないことを私達は忘れてはならない)。

だがそこまでひどい例ではないにせよ、離婚などによる片親の不在や、親の過酷な労働条件などによる子どもの情緒的放置、あるいは家庭内不和による両親の相互非難(子どもはどちらの親も信頼できなくなる)などで、子どもは親密で情緒的な関係をもつことに対して、希望や関心よりも不安や抵抗を覚えるようになる 。子どもは母親だけでなく父親にも愛着しているので、両親が諍い争うことは、子どもにとっては身を裂かれるような苦痛である(岡田 2013, pp. 75-76)。

さらに気をつけておかなければならないのはいわゆる「教育熱心」な親である。「教育熱心」の実質が、親自身の強迫的な「○○せねばならない」という思考に基づく、自然な情愛を欠いた専横的なしつけ(事実上の子どもの支配)だったら、子どもはひたすらに息苦しい毎日を過ごさなければならない。岡田先生はそのような「教育熱心」な育て方について以下のようにまとめる。

ここまで考えると、一見、ネグレクトとは正反対の子育てにみえるものの、その実態は、子どもの欲求や感情、意思というものを”無視”するという点において、まさにネグレクト(無視)が起きていることがわかる。いや、意思とは無関係に強制し、子どもの主体性を侵害しているという点で、ネグレクト以上に過酷な虐待ともなり得る。それゆえ、問題が深刻な場合もあるのだが、親も子もそれを自覚するどころか、この親は”良い親”だと思いこんでいる点で、なかなか質(たち)が悪いと言える。(岡田 2013, pp. 68-69)


加えて近年の新生児室・ベビーベッド・保育所といった制度は、女性が資本主義社会の競争に参加する手助けとはなったが、乳幼児を実の親から引き離すという、他の哺乳類では考えられないことを「当然のこと」としている制度である(人類史上でもこのような引き離しが制度化されたのはここ数十年のことに過ぎない)。さらにテレビはおろかタブレットやスマホあるいはゲーム機などがもっぱらの乳幼児・子どもの相手となることも増えている。

かくして、安全感・感受性・応答性・安定性・信頼感の獲得や、安心感・共感的言語化・子どもによる共感的応答の取り込みを経験しないまま成長する子どもが増える。そうした子どもが苦しむのが愛着障害で、その障害は成人になってからも続く場合が珍しくない。



■ 愛着障害の四類型

健全な育てられ方をした人の愛着パターン(愛着とは、「人と人の間の親密さを表現しようとする行動」と定義できるだろう 参考:ウィキペディア「愛着理論」)は、安定型 (secure) と表現できるが、不安定なパターンは、3つに下位分類される。



(1) 不安型(抵抗/両価型)

不安定な愛着パターンの第一は、「不安型」(Anxious-preoccupied attachment)である(子どもの場合は「抵抗/両価型」(Ambivalent/Resistant) と呼ばれる)。不安型をWikipedia (Attachment in adults)は、次のような表現(不安型の人の自己記述)で端的に説明している。



"I want to be completely emotionally intimate with others, but I often find that others are reluctant to get as close as I would like. I am uncomfortable being without close relationships, but I sometimes worry that others don't value me as much as I value them.”

「他人との申し分ないぐらい情緒的に親密な関係を望んでいるが、多くの場合、他人は私が望むほどの近い関係を望んではいない。親しい関係がないと苦しいが、私が他人を大切に思うほど、他人は私のことを大切に思っていないことが時々心配になる。」

http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults




かくして不安型の愛着パターンをもつ人は、困ったことが起きた場合、誰かれなく相談しようとし、過剰なまでに大騒ぎをし、甘えられる人になら誰にでも甘えようとする(岡田 2013, p 16)。子ども(抵抗/両価型)なら、母親から離されると激しく泣いて強い不安を示すが、母親が再び現れると拒んだり嫌がったりする(だがいったんくっつくとなかなか離れようとしない)(岡田 2011, p. 38)。



(2) 回避型

第二のパターンの「回避型」 (Dismissive-avoidant attachment) を、Wikpediaは次の自己記述で代表させる。



"I am comfortable without close emotional relationships.", "It is very important to me to feel independent and self-sufficient", and "I prefer not to depend on others or have others depend on me."

「親しい情緒的関係がなくても平気だ。自分にとって大切なのは一人で充足感を覚えることである。他人に頼りたくないし、頼られたくもない。」

http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults




岡田先生は次のようにまとめている。



回避型の人は、自分の心中を明かさず、相手が親しみや好意を示してきても、そっけない反応をしがちである。他人といっしょに過ごすことよりも、基本的に一人で何かすることの方が気楽に楽しめる。他人と過ごすことにまったく興味がないわけではないし、その気になればできないことはないが、そこには苦痛と努力を伴うのである。(岡田 2013, p. 18)




かくして回避型の人は、親密な信頼関係を避け、感情や情緒を抑える(岡田 2013, p. 19)。困ったことが起こっても何事もないかのようにただ一人で耐える。(岡田 2013, p. 16)

「普通」の人からすれば考えがたいこういった回避パターンも、小さな頃から親に拒まれ、否定され続けてきたならば(あるいはいくら求めても親は来なかったのならば)、そもそも自分は情愛などを必要としないという自己規定をしていないと子どもは生き残ってゆけなかったと考えれば納得もいくかもしれない。

回避型の子どもは、「母親から引き離されてもほとんど無反応で、また、母親と再会しても目を合わせず、自分から抱かれようともしない」(岡田 2011, p. 38)という。大きくなっても、問題を一人で抱えて耐えるため、周りも異変に気づかない。だが心よりも体の方が先に悲鳴をあげ、頭痛や腹痛、下痢、吐き気、動悸、めまいといった身体症状になってあらわれることも多い(岡田 2013, p. 37)



(3) 恐れ・回避型(混乱型)

第三のパターンである恐れ・回避型 (Fearful-avoidant attachment) をWikipediaは、次のような自己記述で表現している。



"I am somewhat uncomfortable getting close to others. I want emotionally close relationships, but I find it difficult to trust others completely, or to depend on them. I sometimes worry that I will be hurt if I allow myself to become too close to others."

「他人と親しくなるのがやや苦手である。情緒的に親しい関係を欲してはいるが、他人を完全に信頼することができないし、他人に頼ることができない。もし自分が他人に近づくことを自分自身で許してしまったら、自分が傷ついてしまうのではないかとときどき不安になる。」

http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults




岡田先生のまとめによれば、「人に過剰に気をつかい、親しみを求める一方、誰にも心を許せず、他人が信じられない」、「もっとも不安定なタイプ」である(岡田 2013, p. 17)。

子どもの場合は「混乱型」 (disroganized) と呼ばれるが、このタイプの子どもは回避と抵抗が入り混じり、外から見れば一貫性のない行動パターンを示す。精神的状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすいとも言われている。(岡田 2011 p. 39)

むろん、愛着障害は相互排他的にこの三種類に分類されるわけではない(人間を単純に類型化することはほとんど暴力的なことであるが、「知的な」人はこの暴力を無自覚に行いやすい)。

岡田先生も、二冊の巻末に45の質問からなる簡単な「判定方法」を出しているが、そこでの類型は、「安定型」、「安定-不安定型」、「安定-回避型」、「不安型」、「不安-安定型」、「回避型」、「回避-安定型」、「恐れ・回避型」の9種に増え、2013年の本ではそれらに併存しうる「未解決型」も加えられている。もちろん9か10種類なら単純化による知的暴力を避けられるというわけではないが、類型化による裁きの凶々しさもこれなら多少は緩和されているのかもしれない。



■ 自分と他人に対する肯定・否定

以上3つの不安定型の愛着パターンと、健全な安全型の愛着パターンを、自分と他人に対する肯定感・否定感から整理すると以下のようになるとWikipediaはまとめている(Wikipedia掲載の表を日本語に翻訳)。


http://en.wikipedia.org/wiki/Attachment_in_adults#Organization_of_working_models



■ 回復への途

このようなことが多くの症例からわかっている以上、現在いる乳幼児に対して養育者は健全な愛情 ―それは溺愛でも支配でもない― を潤沢に注ぐことに全力を尽くすべきであることは言うまでもない。これは子どもの一生の問題である。いや、それどころか、愛着障害を抱える人は親になった場合、知らず知らずのうちに生まれた子どもまでも愛着障害にしたしまう可能性が高い以上、これは何代にもわたる未来に関する重大な事柄である。

しかし、もうすでに思春期に達してしまった若者はどうすればいいのだろうか。

母親との関係で苦しんだと推定される宮崎駿氏は、次のようにも言っている。



親というものは、子どもの純粋さ、大らかさをややもすれば踏みにじることがあるんですね。そこで、子どもに向かって「おまえら、親に食い殺されるな」というような作品を世に送り出したいと考えたのです。親からの自立ですね。 (大泉実成 (2002) 『宮崎駿の原点』潮出版社 pp. 92-93)



いわゆる「問題行動」とされることにも隠された意味がある。それを思春期の当人が自覚していることは少ないかもしれないが、少なくとも周りの大人(親、親族、教師など)は、その隠された意味を見出すよう努力するべきだろう。少なくとも安っぽいお説教で当人をさらに追い詰めることは止めるべきだろう。また、当人も、若者の抵抗・反抗・自立を描いた芸術作品(特に文学)の力などを借りながら、抑圧的でも冷淡でもない大人を見つけだすべきだろう。

だが、もはや成人になってしまってから自らの愛着障害に気がついた人はどうすればいいのだろうか。

宮崎駿氏は次のようにも言っている。



傷が癒やされるかといったら、それは耐えられるだけであって、癒されることはないですから。人間の存在の根本にかかわることですから、耐えられればいいんですよ。 (大泉実成 (2002) 『宮崎駿の原点』潮出版社 p. 174)



「傷が癒えることがなくともそれは悲劇ではない。傷は耐えられればいいのだ」という諦観はなるほど一種の救いである。これで気が楽になる人も多いだろう。だが、身体の方がもう耐え切れずに諸症状を示し、それと共に心も弱り切ってしまおうとする人はどうすればいいのだろうか。もちろん症状が重篤な場合は専門施設の力を借りるしかないが、岡田先生のこれらの本はそのような人たちというよりは、市井の人々の中にまぎれながら人知れず苦しんでいる人々のために書かれている。岡田先生は、少なくとも三つの途を示している。

一つはまず社会的・職業的役割を充たすことから自己回復を図ることである。個人的で親密な関係に抵抗を覚える愛着障害の人も、機能中心でそれほどの親密な関係を必要としない社会的・職業的な役割なら果たせるかもしれない。その中で少しずつ親しい対人関係を築くことはほどよい訓練となるかもしれない(岡田 2011, p. 294) ― ただし、子どもの頃から親に義務を強要されるような養育を受け、その親の期待に応えることに成功してしまい、親の基準を自らの中に取り込んでそれに同一化してしまった「強迫性パーソナリティ」の人はワーカホリックになりやすい(岡田 2013, p. 47)ので要注意である。

二つ目の途は、後輩や若い人の親代わりとなって、その人達を育てることである。岡田先生は夏目漱石を愛着障害に苦しんだ一人としているが、漱石は、実子の父親としては失敗したにせよ、門人に愛してはよき指導者であったと評価している。門人たちの「安全基地」になることによって漱石は人間的に成長できたのではないかというのが岡田先生の見立てである(岡田 2011, pp. 300-301)。

三つ目の途は、「自分が自分の親になる」ことである。愛着障害に苦しんだ、エリック・エリクソン ―今や誰もが使う「アイデンティティ」概念の生みの親の研究者の人生について、この本を読むまで私は何も知らなかった―は、養父からもらった名前であるホンブルガーをミドルネームのHにして、エリクソンという名前を自分でつけた。彼の名前はエリク (Eric)であり、エリクソンとはもちろんEric-sonつまり「エリクの息子」という意味である。当然のことながら改名は象徴的行為にすぎないが、それでも彼のこの自覚的行為は彼の人生の再生への礎となったであろうことは想像にかたくない。

無論、愛着障害に苦しむ人も、きわめて個人的で親密な情緒的つながりをもてる相手を見つけることができれば、そしてその関係を維持・発展することができれば、それが一番いいのだろう。しかし障害の度合いや置かれた状況によってはそれも難しいかもしれない。それならば宮崎駿の言い方を借りて、「障害がなくなることはない。だが、それは耐えられればよい」とばかりに、以上の三つの途(あるいはそれ以外の途)に可能性を見出すことができるのかもしれない。



■ 愛着障害に苦しんでいたと思われる人たち

この二冊では、愛着障害に苦しんでいたのではないかと岡田先生が推定する著名人が数々のエピソードと共に紹介されているが、これらの人々の名前をずらりと並べる(順不同)と一種壮観である(『母という病』に掲載した著名人はここでは割愛する)。



夏目漱石、太宰治、川端康成、谷崎潤一郎、井上靖、中原中也、種田山頭火、高橋是清、 ミヒャエル・エンデ、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘルマン・ヘッセ、エリック・ホッファー、マーガレット・ミッチェル、ジャン・ジュネ、バラク・オバマ、ビル・クリントン、スティーブ・ジョブズ、チャールズ・チャップリン、マーロン・ブランド、ウィノナ・ライダー、カール・グスタフ・ユング、エリク・エリクソン、ジャン=ジャック・ルソー、セーレン・キルケゴール、ゴータマ・シッダルタ



最後にゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦の名前が出てくるところなどは驚きを通り越して笑いすらこみ上げてきかねないが、彼の出生直後に母親を失うということもあり青年期に物思いに深く悩む彼のことを心配した父親(王)が、妻を娶らせ、その結果かわいい子どもまで生まれたというのに、妻子と王位を捨てて出家するというのは確かに尋常ではない。この愛着障害概念を生半可な理解のまま振り回すのは、愚かさを通り越して危険であるが、この概念は人間理解のためになかなかに重要なのかもしれない。



■ 愛着障害と創造

上のリストを見てみると、文学作品を筆頭に偉大な創造を行った者が多いことに気づく。偉大な創造とは、旧来の価値の破壊であり、安定した愛着関係をもつ者は逆にそういった破壊になかなか踏み切れない。親を代表とする旧勢力に対する根源的な憎しみがあった方が偉大な創造にエネルギーを向けやすいのではないかというのが岡田先生の見立てである(岡田 2011, p. 185)



■ エリクソンの「奇跡」

最後にエリクソンの「奇跡」と呼ばれるエピソードを紹介してこのまとめを終える。エリクソンは1933年にナチスの脅威から逃れるためにウィーンからアメリカにやってきたが、彼は英語がしゃべれず、英単語も百個ぐらい知っていただけだったという。やがて彼も生活のため、精神分析を始める。そんな語学力で精神分析などできるものか、というのが常識だろうが、驚くべきことに、彼は次々に患者―多くは他の精神分析医が見捨てていたような患者―の治療に成功する。

この「奇跡」が起こった要因には、エリクソン自身が愛着障害を抱え、それを克服しようと苦悩しながらもしてきたことがあると岡田先生は考えている。マーサという名前の患者とのエピソードをまとめて岡田先生は次のように言う。



エリクソンは、語学力に大きな困難があってさえも、マーサが直面している困難を、直感的に感じ取ることができたに違いない。なぜ、それが可能だったかと言えば、彼も同じ問題で悩みつづけ、それを克服してきたからだ。彼を苦しめたアイデンティティの問題の根底には、母親や名前も知らない父親、そして養父との不安定な愛着の問題があった。エリクソンのこれまでの人生は、愛着障害を克服するための道のりであったとも言える。(岡田 2011, p. 253)




人間が後世に残せる最大のものとは何かという問いに対して、内村鑑三は、なるほど金も事業も、思想も文学も残すには素晴らしいものであろうが、後世への最大遺物とは「勇ましい高尚なる生涯」だとある講演で述べた。「勇ましい高尚なる」という表現は、日清戦争のあった明治27年にこの講演がなされたという時代背景からくるものか、少なくとも21世紀のポストモダン的現代を生きている今の私には若干の抵抗を覚える表現だが、人間が後世に残せる最大のものはその人の生涯、人生、生命―便利なことばでまとめてしまえばlife―だというのは共感できる。実際、内村は次のように言って講演を終えている



われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います

http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_43561.html




生まれと育ちというものは、ほとんど当人が責任をとりようもないうちに定まってしまい、それが存外残りの長い生涯に影響する(岡田先生によれば、漱石が自らの愛着障害に向かい合うことができたのは、ようやく『道草』―彼の最後の作品―になってからである)。生まれと育ちというものは、一種の定めであるが、定めのない人生がない以上、その定めを生き抜くことこそが人間の偉大さなのかもしれない。少なくとも儲けた金の多寡や勝ち得た地位の高低で人生の価値を測ろうとすることよりは、定めを生き抜くことに人生の価値を見出す方が、多少は品のあることかと思う。

































後世への最大遺物

2014年1月16日木曜日

The Nature of Subject Matter (Chapter 14 of Democracy and Education)



[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]





以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0014




なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです(下線は私がつけたものです)。



スライドは下のURLからダウンロード
https://app.box.com/s/gviotvz6mfsy25w89nkv1h0men0yhs1x








第14章: 教育内容の特質
Chapter Fourteen: The Nature of Subject Matter



追記(2016/01/05)
改めて読みなおして、デューイは学びや知識の"social"な側面をずいぶん強調していることを再認識しました。
"Social"(社会的)を私はよくルーマンに倣って、「一つの自我に回収できない」と定義しています。この場合の「自我」は"perspective"とも言い換えることが可能かと思います。
今回デューイを読んでいてふと思ったのは、"social" (社会的)を「一人ではできない」「一人では不可能な」などと柔らかく訳してみても面白いかなということです。今後も引き続き考えてゆきたいと思います。



1. 教師にとっての主題と学習者にとっての主題(Subject Matter of Educator and of Learner.)


■ 主題 (subject matter)の定義

⇒"Subject matter"は一般的な意味で使われている時は「主題」、教育の文脈で使われている時は「教育内容」と訳すことにした。後者に関しては、「教科内容」と訳すべきかとも思ったが、「教育方法」という用語と対をなす用語なので「教育内容」とした。

It consists of the facts observed, recalled, read, and talked about, and the ideas suggested, in course of a development of a situation having a purpose. (p. 173)

⇒定義部分なので一応律儀に翻訳(苦笑)。

主題とは、ある目的がある状況が発展する中で、観察・想起され読まれ語られた事実、およびそこで示された観念から構成されるものである。



■ 教師の役割

The educator's part in the enterprise of education is to furnish the environment which stimulates responses and directs the learner's course. In last analysis, all that the educator can do is modify stimuli so that response will as surely as is possible result in the formation of desirable intellectual and emotional dispositions. (p. 174)

⇒再三強調されている点だが、重要なので翻訳

教育という企ての中での教師の役割とは、反応を引き出し、学習者の発達を指導する環境を整備することである。突き詰めて考えるなら、教師ができることは、刺激を修正して、望ましい知的・感情的性向を確実に形成するように刺激を修正すること以外の何ものでもない



■ 学校の教育内容と、社会集団の習慣や理想は、かけ離れているように思えるが、それは異なる。

the bonds which connect the subject matter of school study with the habits and ideals of the social group are disguised and covered up. The ties are so loosened that it often appears as if there were none; as if subject matter existed simply as knowledge on its own independent behoof, and as if study were the mere act of mastering it for its own sake, irrespective of any social values. Since it is highly important for practical reasons to counter-act this tendency (See ante, p. 8) the chief purposes of our theoretical discussion are to make clear the connection which is so readily lost from sight, and to show in some detail the social content and function of the chief constituents of the course of study.(p. 175)

⇒まったくその通りなのだが、英語という外国語教育では、「社会集団」が、アメリカに旅行に行った際の社会集団と考えられた会話教材は今なお多い。もちろん「学校にALTがやってきた」といった設定の教材もたくさんあるが、(使用できる英語が初歩レベルなこともあって)どこか絵空事のような設定に聞こえてしまう。

学習者がその中で暮らす「社会集団」を考えると、カタカナ英語やアルファベット表記が多用され、(地域によって異なるが)複数の言語と文化が混在する社会が、学習者にとって多少ともリアリティが感じられる社会集団ではないのか。

もちろん、今は「社会集団」をオンライン上にも求めてもいいのかもしれない。もっともその場合は、ヘイトスピーチも横行するコミュニケーションも含まれてしまうのだが。

うまくまとめられないが、学習者にとっての「リアリティ」ということをきちんと考えたい。そうしてゆくと、文学といった虚構の話こそ「リアリティ」を感じさせるものという結論に到達するかもしれない。いずれにせよ、「会話っぽいことをやっているから、実用的」といった浅薄な考え方には警戒したい。



■ 教育内容は教師の観点と学習者の観点から考えられなければならないが、教師の観点からすると、教師がもつ教育内容の知識は、学習者がもつ知識をはるかに凌駕するものでなくてはならず、さらに、まだ未成熟な学習者の粗削りの活動の可能性が明らかになるような確固とした基準を提供できるものでなくてはならない。

The points need to be considered from the standpoint of instructor and of student. To the former, the significance of a knowledge of subject matter, going far beyond the present knowledge of pupils, is to supply definite standards and to reveal to him the possibilities of the crude activities of the immature. (p. 175)

⇒当たり前のことだけど、まず教師は教育する内容に通暁していなければならない。だからこのようにデューイを読むことも大切だけれど、まずは英語を自分が楽しめるようになろう。以下のサイトも活用してください。



広大教英生がお薦めする英語動画集
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/




■ 教科の題材は、伝承するのが望ましいと考えられる現代社会生活の意味へと、具体的かつ詳細に翻訳されなければならない。

(i) The material of school studies translates into concrete and detailed terms the meanings of current social life which it is desirable to transmit. (p. 175)

⇒教科書を字義通り教えるのではなく、教育内容の中にある意味を学習者にわかりやすく納得させるということ。そのためには、英語教育では、「教師が英語に生きており、英語が教師に生きている」状態になければならない。

関連記事:私は言語に生き、言語は私に生きる
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/orionis23-abc-33the-human-mind-is-idea.html

■ 教師は過去の知的遺産をもとにして、学習者の取り留めもない反応にも意味を見出し、その反応に必要な刺激を与えて、学習者の反応が発展するようにしなければならない。

(ii) A knowledge of the ideas which have been achieved in the past as the outcome of activity places the educator in a position to perceive the meaning of the seeming impulsive and aimless reactions of the young, and to provide the stimuli needed to direct them so that they will amount to something. (p. 175)

⇒ここは、教師の長年の経験が生きるところ。といっても長年、同じ授業を機械的に繰り返しているだけの教師は、こういったことがいつまでたってもできない。生徒から期待しているのは正解だけで、他の答えはすべて切り捨ててしまう(というより、力量がないから、切り捨てざるをえないのかもしれない)。

常に、教育内容と学習者のlife(生活・暮らし・生きていること)を結びつけようとしている教師だけが、経験年数とともにこういった力量を上げてゆくことができるだろう。そういった教師は、たとえ生徒が「不正解」を述べたとしても、「なるほど、なるほど。つまり、○○だから××だと考えたのじゃないかな?他の人にもそう考えた人も多いはずだよね。なるほど、確かに○○だとも思えるけど、本当にそうかな。なぜ○○と思ってしまったのだろう・・・」などとどんどん授業を展開できる(毎度の例で恐縮だけど、田尻悟郎先生は、このような引き出しが驚くほど多かった)。

本当に賢い人というのは、何気ないことにも深い意味を見出だせるもの。浅薄な知性の持ち主は、自分が親しんでいる専門用語にしか意味を見出せない。



■ 教育内容を教育者の観点からしか見れず、学習者の観点から見ることができない教育者は失格

From the standpoint of the educator, in other words, the various studies represent working resources, available capital. Their remoteness from the experience of the young is not, however, seeming; it is real. The subject matter of the learner is not, therefore, it cannot be, identical with the formulated, the crystallized, and systematized subject matter of the adult; the material as found in books and in works of art, etc. The latter represents the possibilities of the former; not its existing state. It enters directly into the activities of the expert and the educator, not into that of the beginner, the learner. Failure to bear in mind the difference in subject matter from the respective standpoints of teacher and student is responsible for most of the mistakes made in the use of texts and other expressions of preexistent knowledge. (p. 176)

⇒大切なところなので頑張って翻訳。

言い換えるなら、教育者の観点からすれば、さまざまな教科は、使える資源、入手可能な資本である。しかし、教育者が若者の経験から遠くはなれていることは、見かけ上のことではなく、本当のことである。学習者にとっての教育内容とは、大人にとって定式化され結晶化され体系化された教育内容 ―書籍や芸術作品などに見出される題材― と同じではないし、同じではありえない。大人にとっての教育内容とは、学習者にとっての教育内容の可能性を示すものであり、決して現状を示すものではない。それは専門家と教育者の活動には直に入ってくるが、初心者つまり学習者の活動に直に入ってくることはない。教育内容が教師と学習者のそれぞれの観点から見ると異なっているということを頭に入れそこねることにより、もっぱら、テクストや既存の知識を表現した他の教材の使い方を間違ってしまう。



■ 教師にとっての教育内容と学習者にとっての教育内容は、それぞれ見え方が違う

The teacher presents in actuality what the pupil represents only in posse. That is, the teacher already knows the things which the student is only learning. Hence the problem of the two is radically unlike. When engaged in the direct act of teaching, the instructor needs to have subject matter at his fingers' ends; his attention should be upon the attitude and response of the pupil. To understand the latter in its interplay with subject matter is his task, while the pupil's mind, naturally, should be not on itself but on the topic in hand. Or to state the same point in a somewhat different manner: the teacher should be occupied not with subject matter in itself but in its interaction with the pupils' present needs and capacities. (p. 176)

⇒ここも重要なので翻訳。

教師が現実のものとして提示するものを、生徒は可能なものとしてしか自らの中で表現できない。つまり、教師は、生徒が学び始めたばかりのことを既に知っているのだ。ゆえに、両者にとっての課題は根源的に異なっている。教えることに直接従事している時、指導者は教育内容をお手のものにしておかねばならない。指導者の注意は、学習者の態度と反応に向けられなければならない。学習者の態度と反応が、教育内容とどう絡まってゆくのかということが指導者の課題である。一方、学習者の心は、もちろんのことながら、心自体に向けられるのではなく、手元にある題材に向けられるべきである。同じことを違ったように表現するなら、教師は教育内容自体に集中するのではなく、教育内容が学習者の今の欲求と能力にどう関係しているかに集中するべきである。

⇒確かに、教科に関する知識はもっているかもしれないが、下手な教師にかかると、学習者は「自分の答えは間違っていないか、どうして自分はこんなに出来が悪いんだ・・・」などと教育内容ではなく自分の心ばかりに目がいってしまう。また教師も職員室で「年々、生徒の出来が悪くなりますなぁ」などと言って自分が好きな英語の本ばかりを読んだりする(あるいはTOEFLの試験対策に励む)。

何度も言うけど、教師が教育内容に精通していることは必要だが、それは教師としての前提条件に過ぎず、本質条件ではない。教師の本質条件とは、学習者の目から教育内容を見ることができ、その視点と教師自らの視点を絡ませて、学習者を伸ばすこと。

だから英語でも、(仮に資格試験で英語力が十分に測れると仮定してのことだけど)教師がある程度の点数を資格試験で取れることは必要だが、いたずらにその点数を上げて、教師の関心をもっぱら英語だけに注目させるのは本末転倒。教育の成果は、教師ではなく、学習者によって決まるものなのだから、教師は学習者の方に関心を向けなければならない。



■ 教科内容だけに詳しい教師の弊害

Hence simple scholarship is not enough. In fact, there are certain features of scholarship or mastered subject matter --taken by itself --which get in the way of effective teaching unless the instructor's habitual attitude is one of concern with its interplay in the pupil's own experience.

⇒翻訳

したがって単に学識があるだけでは不十分である。実際のところ、学識や、教育内容それ自体として熟知しているだけのことは、その教師の態度が習慣的に、教育内容が生徒自身の経験とどう結びつくかということに向けられているのではないならば、いい教え方の障害となってしまう要素がある。

⇒英語で言うなら、たとえ大学院卒であろうが(あるいはネイティブ・スピーカーであろうが)、生徒がどのように教育内容を受け入れるか(あるいは受け入れないか)に興味をもっていなければ駄目。

注意しておきたいのは、これはただ「子どもに興味がある」ことではなく「子どもと教育内容の関わりに興味がある」ことを意味する。前者は単なる子ども好きであり、よい教師ではない。



■ 教師は教育内容と生徒の両方を熟知しなければならない

The problem of teaching is to keep the experience of the student moving in the direction of what the expert already knows. Hence the need that the teacher know both subject matter and the characteristic needs and capacities of the student. (p. 177)

⇒翻訳

教えることの課題とは、生徒の経験を専門家が既に知っている知識の方向へと常に動かし続けることである。したがって、教師は教育内容と、生徒の特徴的な欲求と能力、の両方を知っておかねばならない。







2. 学習者の中での教育内容の発達 (The Development of Subject Matter in the Learner)

■ 教育内容が学習者の中で発達する三段階

It is possible, without doing violence to the facts, to mark off three fairly typical stages in the growth of subject matter in the experience of the learner. In its first estate, knowledge exists as the content of intelligent ability --power to do. This kind of subject matter, or known material, is expressed in familiarity or acquaintance with things. Then this material gradually is surcharged and deepened through communicated knowledge or information. Finally, it is enlarged and worked over into rationally or logically organized material -- that of the one who, relatively speaking, is expert in the subject. (p. 177)

⇒三段階のところだけ翻訳

最初に、知識は知的能力--何かを行う力--の内実として存在する。この種の教育内容(もしくは知るようになった題材)は、物事に親しみ慣れていることのうちに表現される。次に、題材は次第に、コミュニケーションされる知識や情報によって強められ深められる。最後に、題材は拡張され、合理的もしくは論理的に体系化された題材へと発展する --これは相対的に言っての話だが、その主題の専門家にとっての教育内容に相当する。



I


■ 人が最初に得る知識は、「どのようにして行うか」というハウツーの知識

The knowledge which comes first to persons, and that remains most deeply ingrained, is knowledge of how to do; how to walk, talk, read, write, skate, ride a bicycle, manage a machine, calculate, drive a horse, sell goods, manage people, and so on indefinitely. (p. 177)



■ この原初的な「どのようにして行うか」という知識が、過度に科学的な知識概念によって否定もしくは軽視されることにより、教育内容が学習者の欲求や目的から乖離し始める。

When education, under the influence of a scholastic conception of knowledge which ignores everything but scientifically formulated facts and truths, fails to recognize that primary or initial subject matter always exists as matter of an active doing, involving the use of the body and the handling of material, the subject matter of instruction is isolated from the needs and purposes of the learner, and so becomes just a something to be memorized and reproduced upon demand. (p. 178)

⇒翻訳

科学的に定式化された事実と真理以外は何も認めようとしない学術的な知識概念に影響されて、教育が、原初的で最初の教育内容は能動的に行うことの中に存在すること、そしてそれは身体の使用と題材の扱いを含むものであること、を認識できなくなってしまうと、教示の際の教育内容は、学習者の欲求や目的から離れてしまい、単に要求にしたがって記憶され再生されるものになってしまう。

⇒とても卑近な言い方にしてしまうと、「わかってからできるようになるか」と「できるようになってから(もっと)わかるようになるか」とでは、デューイは後者の立場に立つ。だが、多くの教育者は前者の立場で、「まずわからせなければならない。しかもそのわからせる内容は科学的に定式化したものでなくてはならない」と考える --ちなみに私はこの対立を、言語学者が主催した言語教育に関するセミナーで強く感じた。当然、言語学者は前者の立場で、しかも教育内容を科学的厳密性を犠牲にして提示しなければならないことに対してとても抵抗を覚えていた。言語学という生業からすればそうなのだろうと思うが、実践の立場である私としては、そういったアプローチには違和感を覚えた。



■ 成すことによって学ぶ (learning by doing)

Recognition of the natural course of development, on the contrary, always sets out with situations which involve learning by doing. Arts and occupations form the initial stage of the curriculum, corresponding as they do to knowing how to go about the accomplishment of ends. (p. 178)

上記の立場とは反対に、自然な発達段階では、成すことによって学ぶことに関する状況から常に始まる。技芸に集中することがカリキュラムの最初の段階を構成し、それに応じていかに目的を達成するかという知識が得られる。

⇒有名な"learning by doing"ということばが出てきたが、ここで注意したいのは、このことばは、(1)心身二元論的な哲学への反論として出てきたこと、(2)その次の段階での知識の拡充や整理を否定しているわけではないこと、であろう。「とにかく、まあ、何かやらせておく」というのは著しく反知性的な態度であり、それをもってデューイ的な教育と呼ぶことはできないだろう。



■ 学術的な哲学およびそれに影響を受けた教育では、知識と行為能力の結びつきが失われ、知識とは行為とは離れた情報だとされているが、実践分野ではそのような知識観はとられていない。

Popular terms denoting knowledge have always retained the connection with ability in action lost by academic philosophies. ... Only in education, never in the life of farmer, sailor, merchant, physician, or laboratory experimenter, does knowledge mean primarily a store of information aloof from doing. (p. 178)

⇒学者や教師は、市井の実践人からすると変人というのが世間の相場だが、それも故なきことではない。



II

■ こうして意図的・技術的に学ぶことだけが知識の始まりではないことを理解すると、人間は他人からも学ぶということが視野に入ってくる。

But it is likely that elaborate statements regarding this primary stage of knowledge will darken understanding. It includes practically all of our knowledge which is not the result of deliberate technical study. Modes of purposeful doing include dealings with persons as well as things. (p. 179)



■ 他人とのコミュニケーション、つまり語り語られることからも人は学ぶ。「ここからここまでが私の経験で、そこから向こうはあなたの経験」といった線引をすることは困難である。

Impulses of communication and habits of intercourse have to be adapted to maintaining successful connections with others; a large fund of social knowledge accrues. As a part of this intercommunication one learns much from others. They tell of their experiences and of the experiences which, in turn, have been told them. In so far as one is interested or concerned in these communications, their matter becomes a part of one's own experience. Active connections with others are such an intimate and vital part of our own concerns that it is impossible to draw sharp lines, such as would enable us to say, "Here my experience ends; there yours begins." In so far as we are partners in common undertakings, the things which others communicate to us as the consequences of their particular share in the enterprise blend at once into the experience resulting from our own special doings. (p. 179)



⇒以前、デューイは語ることで自らの知識が再構成されたり深まることがあるとも述べていた。実際、学生も友人に説明したりすることで、新たな気づきを覚えることも多い。

上でデューイは、学習者の経験の中で教育内容がどのように発達するかをまとめて、(1)身体的に慣れ親しんでいる、(2)コミュニケーションによって知識が広がり深まる、(3)知識が合理的・論理的に体系化される、の三段階を設定したが、この第二段階目のコミュニケーションが果たす学びへの貢献について、私たちはもっと自覚すべきであろう(言うまでもなく、一斉授業では、生徒同士のコミュニケーションは奨励されていない)。

別に「協同授業」という用語にこだわる必要はないが、私たちはもっとコミュニケーションからの学びについて理解を深めるべきだろう。








■ 教育内容が子どもの経験に即しているならば、それについてのコミュニケーションは自然に促される(逆に、コミュニケーションが生じないような内容ならば、それは教育的な内容ではないとも言える)。

The place of communication in personal doing supplies us with a criterion for estimating the value of informational material in school. Does it grow naturally out of some question with which the student is concerned? Does it fit into his more direct acquaintance so as to increase its efficacy and deepen its meaning -- If it meets these two requirements, it is educative. (pp. 179-180)

⇒翻訳

学習者が個人的に何かをやった時に、コミュニケーションがどのような役割を占めるかで、学校が提示している題材の情報性の価値に対する判断がくだせる。コミュニケーションは、学習者からの疑問から自然に生じるだろうか?コミュニケーションによって、学習者はより習熟し、効率を高め意味を深めることができるだろうか?もしこれら二つの要求を充たすなら、その題材は教育的である。

⇒もちろん本来は教育的な内容でも、教師の問いかけ(発問)が下手だったり悪かったりすれば学習者の間にコミュニケーションは起きにくい。また教師が支配的だったり権威主義的だったりしても同様の結果に終わる。教育内容も、常に教育方法と合わせて考えなければならない。



■ しかし言うは易く行うは難しで、特に情報量が増えている現代では、学習者に大量の情報を与えすぎて、学びから学習者を疎外してしまうことはよくある。

But it is not so easy to fulfill these requirements in actual practice as it is to lay them down in theory. The extension in modern times of the area of intercommunication; the invention of appliances for securing acquaintance with remote parts of the heavens and bygone events of history; the cheapening of devices, like printing, for recording and distributing information -- genuine and alleged -- have created an immense bulk of communicated subject matter. It is much easier to swamp a pupil with this than to work it into his direct experiences. All too frequently it forms another strange world which just overlies the world of personal acquaintance. The sole problem of the student is to learn, for school purposes, for purposes of recitations and promotions, the constituent parts of this strange world. Probably the most conspicuous connotation of the word knowledge for most persons to-day is just the body of facts and truths ascertained by others; the material found in the rows and rows of atlases, cyclopedias, histories, biographies, books of travel, scientific treatises, on the shelves of libraries. (p. 180)

⇒100年前のデューイがこう嘆いているのなら、情報革命で情報が爆発した私たちはどうすればいいのだろう。学習の量的拡大(例えば進学率の向上)などには限界があるし、何より、学びが、学校のため、暗記と進学のためになるという大きな弊害がある。

情報革命の中で私たちは新たな学びの態度を見つけつつあるとも思えるが、それについてもっと真剣に考える必要があるだろう。この点、私は、梅田望夫氏が提起した問題を私たちは十分に検討していないと考える。

関連記事
梅田望夫(2007)『ウェブ時代をゆく』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/11/blog-post.html 梅田望夫(2008)『ウェブ時代5つの定理』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/5.html
斎藤孝x梅田望夫(2008)『私塾のすすめ--ここから創造が生まれる』ちくま新書 http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/x.html
梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/2010.html

ちなみに私なりに、ウェブ時代での学びにおいて重要だと考えることは、知の身体性と知のコミュニケーションによる進化である。

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■ 銀行的知識観:知識とは言明もしくは命題であり、それは人間に貯えられる。

The imposing stupendous bulk of this material has unconsciously influenced men's notions of the nature of knowledge itself. The statements, the propositions, in which knowledge, the issue of active concern with problems, is deposited, are taken to be themselves knowledge. The record of knowledge, independent of its place as an outcome of inquiry and a resource in further inquiry, is taken to be knowledge. (p. 180)

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■ 知識とは命題であるという知識観が論理学者や哲学者によって強化されると、「学習指導要領」は、情報ごとに教科に分けられ、それぞれの教科はそれぞれの時間に分けられ、点数化されるとなる。

If this identification of knowledge with propositions stating information has fastened itself upon logicians and philosophers, it is not surprising that the same ideal has almost dominated instruction. The "course of study" consists largely of information distributed into various branches of study, each study being subdivided into lessons presenting in serial cutoff portions of the total store. (p. 180)

⇒知識を命題の体系と考えれば、確かに上のように教育内容は、区分けされ、部品化される。学びはその区分け・部品の命題を何割習得したかという観点で点数化される。

教育内容の区分けで、私がいつも抵抗を感じるのは、よく言われる「それはもはや国語教育(あるいは社会科教育)の内容であって、英語教育ではない。したがって、我々英語教師が話をするべき事柄ではない」といった意見である。確かに英語教師の多くは、自らのアイデンティティを「英語」という教科においているから、そんな発言になるのだろう。

だが、教育内容とは、生徒の心身と暮らしの中に融合し発展するものというデューイ的な考え(プラグマティズムpragmatism)を取れば、そんな学習指導要領の区分などは、学びにとって本質的な区分ではないことになる。

あくまでも学習者の心身と暮らしから、学校の学びも考えるべきではないのか。



■ 情報は、ことばとして大切なのではなく、それが問題解決のために使われる手段として大切。

To be informed is to be posted; it is to have at command the subject matter needed for an effective dealing with a problem, and for giving added significance to the search for solution and to the solution itself. Informational knowledge is the material which can be fallen back upon as given, settled, established, assured in a doubtful situation. It is a kind of bridge for mind in its passage from doubt to discovery. (p. 181)

⇒翻訳 ("posted"の"post"は、"to appoint to a post of command"の意味だと理解した)

情報を得ることは、何かができる地位を得るということだ。問題に効果的に対処し、問題解決自体とそのための探究に新たな意義を加えるために、主題を自由に使うことができるということだ。情報としての知識とは、どうなるかわからない状況でも、与えられ、安定し、制度化され、成功の見込みがあるとされる題材である。どうなるかわからない状況から発見につながる道のために心に架けられた橋の一種である。







3. 科学あるいは合理化された知識 (Science or Rationalized Knowledge)



■ 科学とはどんな知識か

Science is a name for knowledge in its most characteristic form. It represents in its degree, the perfected outcome of learning,--its consummation. What is known, in a given case, is what is sure, certain, settled, disposed of; that which we think with rather than that which we think about. In its honorable sense, knowledge is distinguished from opinion, guesswork, speculation, and mere tradition. In knowledge, things are ascertained; they are so and not dubiously otherwise. (p. 182)

⇒一種の定義部分なので翻訳

科学とは、もっとも知識らしい知識に与えられた名称である。科学は、程度に応じてのことではあるが、学習成果のすべて -- 学習の成就を意味している。ある一定の事例に対しての知識とは、確実で確かで安定した処理済みのものであり、私たちが思考の対象とするものではなく、思考の道具とするものである。ことばの良い意味で、知識は、意見や推測や思案あるいは単なる伝統とは区別されるものである。知識において、物事は確証されている。それはまさに確証的なのであり、そうでない疑わしいものではない。

⇒私たちの多くは、ほとんど何の不安も抱かずに飛行機と呼ばれるジェットエンジンで空中に放り出される鉄の塊に乗ったり、手術と呼ばれる意識を剥奪され身体を切り刻まれる作業に身を委ねるぐらいには、科学というものを信じている。

だが、手術でも例えば腫瘍のための手術なら、その有効性を疑う医者すらいる。科学に対する確証度・信頼度にもさまざまな度合いがある。







ましてや、「科学的証拠を得た」と称される英語指導法の有効性・確証性・信頼性に関しては、疑いはもっと多くなるというのが、私なりに現場を観察してさまざまな実践者の話を聞いた上での実感。

「科学」という名前が使われたら、疑いなく信じきってしまうというのは、実践の中での知性・思考・省察を重視するデューイの哲学に反する。

かといって逆に「科学」や「知識」を嫌ってしまうのも、極めて反デューイ的態度。

別にデューイに忠義立てるのが趣意ではないが、あくまでも実践の中で観察・省察・思考を重ね、まとめられることはまとめ、ときほぐすべきことはときほぐして生きたい。

というより、端的に、より良く生きたい。



■ 主題について知的な確実性を得ることと、私たちが信じたいがままに信じてしまうことはまったく異なる。

But experience makes us aware that there is difference between intellectual certainty of subject matter and our certainty. We are made, so to speak, for belief; credulity is natural. The undisciplined mind is averse to suspense and intellectual hesitation; it is prone to assertion. It likes things undisturbed, settled, and treats them as such without due warrant. (p. 182)

⇒私たちは知的に怠惰なところがあるから、知的努力をせずに一気に信じてしまおうとする。



■ 私たちは、物事がまあまあうまくいくと、自分の思い込みでいいと思ってしまうし、物事に失敗しても、その原因は自分の思考とデータにあるとは考えずに運や周りの状況が悪いからと考えてしまう。

We are satisfied with superficial and immediate short-visioned applications. If these work out with moderate satisfactoriness, we are content to suppose that our assumptions have been confirmed. Even in the case of failure, we are inclined to put the blame not on the inadequacy and incorrectness of our data and thoughts, but upon our hard luck and the hostility of circumstance. (p. 182)

⇒私は大学という知的変態の巣窟(笑)にいるので、このようにはあまり思わないが、それでも世間知らずとして、他の業種の人たちと交わると、時に驚く時がある。

ある時、ある審議会で県会議員の発言を聞いていたら、その根拠と脈略のなさと反比例するぐらいの自信満々の態度に私は本当に驚いた。と、同時に、こんな押しが強い人が選挙の時などは人気がでるのかもしれないと思った。



■ 科学と人類

Science represents the safeguard of the race against these natural propensities and the evils which flow from them. It consists of the special appliances and methods which the race has slowly worked out in order to conduct reflection under conditions whereby its procedures and results are tested. It is artificial (an acquired art), not spontaneous; learned, not native. To this fact is due the unique, the invaluable place of science in education, and also the dangers which threaten its right use. Without initiation into the scientific spirit one is not in possession of the best tools which humanity has so far devised for effectively directed reflection. (pp. 182-183)

⇒翻訳

科学とは、人間のこれらの自然な傾向性とそこから生じる害悪に対しての、人類としての防波堤である。科学は特別な器具と方法から成り立つが、それらは、手順と結果を検証する状況の中で省察をするために、人類が少しずつ開発してきたものである。科学は人工的なもの(後天的に獲得された技芸)であり、自然発生するものではない。学ばれたものであり、もって生まれたものではない。このことゆえに、科学は教育の中で独自の価値ある地位を占めるわけであり、また科学の正しい利用を脅かす危険性もでてくるのである。科学的な精神に向けられないなら、人は人類がこれまで開発してきた省察を効果的に導くための最上の道具を手にすることができない。

⇒確かに、科学への啓蒙は必要。だが、同時に、科学の誤用・乱用、そして科学への誤解についても私たちは啓蒙されなければならない。



■ しかし科学が、それ自体で成立する切り離された知識として考えられ始めると、科学は既成の知識であり、私たちが自ら経験と思考の中で獲得すべき知識ではないと思われる危険性がある。

On the other hand, the fact that science marks the perfecting of knowing in highly specialized conditions of technique renders its results, taken by themselves, remote from ordinary experience -- a quality of aloofness that is popularly designated by the term abstract. When this isolation appears in instruction, scientific information is even more exposed to the dangers attendant upon presenting ready-made subject matter than are other forms of information. (p. 183)

⇒デューイは「○○である。しかし△△。とはいえ××。」と論を二転三転させているようだが、このような反転がないと、現実は捉えられないと言えるだろう。これ自体単純すぎる主張になってしまうという矛盾をおかしてしまうが、単純すぎる主張には気をつけよう ――私たちは複雑な現実の中での真実に近い表現を探ろうとすると、矛盾表現を必要とするのかもしれないーー。



■ 理想の科学体系とは、それぞれの知識がそれぞれを支え合う論理的で合理的なもの。

The ideal of scientific organization is, therefore, that every conception and statement shall be of such a kind as to follow from others and to lead to others. Conceptions and propositions mutually imply and support one another. This double relation of "leading to and confirming" is what is meant by the terms logical and rational. (pp. 183-184)

⇒この1916年時点での科学観は、正直、楽天的過ぎるように思えて、私は賛同できない。

私はきちんとした科学の訓練を受けているわけではないかが(要は、口先だけのエセ文化人ということ)、ハイゼンベルクの不確定性原理 (1927年)やゲーテルの不完全性定理 (1930年)や20世紀後半のカオス理論脱構築を受けて、上記のような単純な科学の理想を簡単には信じがたい(てか、話を思いっきり卑近なものにすれば、原発って絶対安全じゃなかったの?)

ポスト・モダンということばは、最近取り立てては使われなくなってきたと思うけど、それはこれが私たちの思考の前提になったからではないのか。

でも英語教育界ではまだまだモダニズムでしか考えない人が多いから、おじさんはますます居心地の悪さを覚えるのであった(←おそらくは老化に伴う、適応力の低下)。







4. 教育内容の社会性 (Subject Matter as Social)

■ 教育内容の選択には社会全体で考える暮らしの観点が必要

The scheme of a curriculum must take account of the adaptation of studies to the needs of the existing community life; it must select with the intention of improving the life we live in common so that the future shall be better than the past. (p. 185)

⇒今の御時世(参考:「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」2013年12月13日下村博文文部科学大臣記者会見では、大切なことだから全訳。

カリキュラム構想は、今ある共同体の暮らしが必要とすることに研究を適応させることを考慮に入れたものでなければならない。過去よりも未来の方がよくなるために、私たちの共同の暮らしを改善するという意図をもってカリキュラム構想は選択されなければならない。



■ 教育とはまず人間に関するものでなくてはならない。教育が専門的になるのはその次である

Moreover, the curriculum must be planned with reference to placing essentials first, and refinements second. The things which are socially most fundamental, that is, which have to do with the experiences in which the widest groups share, are the essentials. The things which represent the needs of specialized groups and technical pursuits are secondary. There is truth in the saying that education must first be human and only after that professional. (p. 185)

⇒さらに重要な箇所なので、イタリックにした上で全訳します。

さらにカリキュラムは、必須のものを最初に、さらなる向上をその次に置くようにして計画されなければならない。社会的にもっとも基礎的なもの、つまり、もっとも広い範囲の社会集団で共有される経験に関わるものが必須のものである。特定の社会集団が必要とするものや専門的な追求は二次的なものだ。教育とは最初に人間的なものであり、その後にのみ専門的なものでなければならないという古諺には、真理が含まれている

⇒しかし、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」2013年12月13日下村博文文部科学大臣記者会見というのは、どうも(換喩的表現を使うなら)永田町・霞ヶ関・六本木界隈の人たちの論理を、全国の小学生に、まともな準備もないままに押し付けようとしているだけのようにも思える。(この件については、ひょっとしたら近日中にまとまった論考を公刊できるかもしれません。その時はどうぞ読んでやってください)。



■ 教育と民主主義の関係

Democratic society is peculiarly dependent for its maintenance upon the use in forming a course of study of criteria which are broadly human. Democracy cannot flourish where the chief influences in selecting subject matter of instruction are utilitarian ends narrowly conceived for the masses, and, for the higher education of the few, the traditions of a specialized cultivated class. (p. 185)

⇒翻訳

民主主義的社会が成立するためには、特に、広く人間的な学習指導要領という判断基準を作ることを維持してゆかねばならない。大衆のためには狭い意味の功利主義的目的、特権階級を伝承する少数の者のためにはより高度の教育を与えるという目的が、指導するための教育内容を選択する際の主要要因であるなら、民主主義は反映することはできない。

⇒「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は、建前では国民全員を対象としつつ、実質では教員養成や教材開発の点から不十分で、会話スクールや塾に行ける子どもだけが英語を学べ、それだけの経済的余裕がない子どもは知的にも意欲的にも脱落せざるを得ない結果に終わる可能性は十分にある。正直、恐ろしい。

新自由主義の本質は、富裕階級の権力の回復と強化だとするハーヴェイの主張の説得力はますます高まってきているように私には思える。








今、どんどん政治権力が教育を利用しようとしている。そうではなく教育、すなわち人間的な成長で結ばれた人々の権力 ―それは特に世論や選挙で示される― が政治を動かさなければならない。

この冬、私は心身の調子を崩していてブログ記事も書けなかったけど、特定秘密保護法の強行採決は、明らかにやり過ぎだった。教育者ももっと政治的 ―それは必ずしも党派的ということを意味しない― にならなくてはならない。いや、市民全員がならなければならない。



■ カリキュラムは、私たちすべてが暮らしを共にするために作られねばならない。

A curriculum which acknowledges the social responsibilities of education must present situations where problems are relevant to the problems of living together, and where observation and information are calculated to develop social insight and interest. (p. 186)

⇒翻訳

教育の社会的責任を認めるカリキュラムは、カリキュラムの課題が、人々が共生するという課題と関連し、社会的な洞察と興味が育つように観察が進められ情報が加えられるような状況を提示しなければならない。

⇒昨今の英語教育改革は、新自由主義的であっても、民主主義的ではない、と言えないだろうか。







Summary

The subject matter of education consists primarily of the meanings which supply content to existing social life. The continuity of social life means that many of these meanings are contributed to present activity by past collective experience. As social life grows more complex, these factors increase in number and import. There is need of special selection, formulation, and organization in order that they may be adequately transmitted to the new generation. But this very process tends to set up subject matter as something of value just by itself, apart from its function in promoting the realization of the meanings implied in the present experience of the immature. Especially is the educator exposed to the temptation to conceive his task in terms of the pupil's ability to appropriate and reproduce the subject matter in set statements, irrespective of its organization into his activities as a developing social member. The positive principle is maintained when the young begin with active occupations having a social origin and use, and proceed to a scientific insight in the materials and laws involved, through assimilating into their more direct experience the ideas and facts communicated by others who have had a larger experience.

⇒まとめもかねて、皆さんそれぞれで翻訳してみてください。

といいつつ、私は疲れたので最初の一文だけ翻訳(笑)



教育内容の第一の構成要素とは、現存する社会での暮らしに中味を与える意味である。






⇒今の英語教育、そして現在計画されている英語教育改革は、すべての国民の暮らしにどんな「意味」をもっているのだろう。









"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
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