[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]
以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。
http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0013
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なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。
■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。
第13章: 方法の特質
Chapter Thirteen: The Nature of Method
Chapter Thirteen: The Nature of Method
1. 主題と方法の統一性(The Unity of Subject Matter and Method)
⇒"Subject matter"を私は、文脈によっては「教育内容」と訳しているが、この章では例えばピアニストにとっての"subject matter"なども語られるのでこのタイトルでは「主題」と一般的に訳した。また、"method"はこの章の多くの部分で「教育方法」(=指導法)の意味で使われているが、時に学習者にとっての"method"も語られているので「方法」と一般的に訳している。以下の記述では主題/教育内容/学習内容、方法/教育方法/学習方法などの翻訳語が文脈に応じて使い分けられている。
■ 学校の三本柱とは、教育内容、教育方法、経営・管理。
The trinity of school topics is subject matter, methods, and administration or government. (p. 158)
■ 心とモノ(物・者)を分離させる二元論により、教育方法と教育内容も別々のものだという考えが生まれてくる。この二元論的見解では、教育内容は、物と他者によって構成される世界に関して予め体系的に整理された事実と原理であるとされ、教育方法は、その教育内容を心に提示し刻印づける方法(もしくは心を教育内容に引き寄せて教育内容の習得をさせる方法)だとされる。
The idea that mind and the world of things and persons are two separate and independent realms -- a theory which philosophically is known as dualism -- carries with it the conclusion that method and subject matter of instruction are separate affairs. Subject matter then becomes a ready-made systematized classification of the facts and principles of the world of nature and man. Method then has for its province a consideration of the ways in which this antecedent subject matter may be best presented to and impressed upon the mind; or, a consideration of the ways in which the mind may be externally brought to bear upon the matter so as to facilitate its acquisition and possession. (p. 158)
■ 心をそれ自体で独立して存在するものとして科学すれば、学習内容が何であろうと成立する学習方法の完全理論が生み出されると人は考えてしまう。しかしさまざまな学習を終えた達人が、そんな学習方法の完全理論を知っているわけではない。そうなると、心が学習を行う方法についての科学であるはずの教育学とは不毛で不要なものであり、教師に本当に必要なのは教育内容に精通しているだけでいいのだとなってしまう。
In theory, at least, one might deduce from a science of the mind as something existing by itself a complete theory of methods of learning, with no knowledge of the subjects to which the methods are to be applied. Since many who are actually most proficient in various branches of subject matter are wholly innocent of these methods, this state of affairs gives opportunity for the retort that pedagogy, as an alleged science of methods of the mind in learning, is futile; --a mere screen for concealing the necessity a teacher is under of profound and accurate acquaintance with the subject in hand. (p. 158)
⇒ALTは、「英語が母国語(並)であれば、それまで教育経験があろうがなかろうが、教壇に立ってよい」という制度である。また、近年大阪府は、TOEFLなどの点数が一定以上だったら、それまでの履歴がなんであろうと「スーパー・イングリッシュ・ティーチャー」とする制度を行っている。 こうした教師観についてあなたはどう考えるだろうか。
ついでながら言うと、最近の教育行政者はなぜ何にでも「スーパー」とつけたがるのだろうか(「スーパーグローバル」にいたっては意味不明だ)。こんな言葉遣いをして、恥ずかしくないのだろうか。
⇒また、未だに英語教育では、英語をそれなりに習得した人が、特定の学習方法を「学習内容が何であろうと成立する学習方法の完全理論」のように語ることがある。(なぜ英語教育では、このように方法に拘泥する人が多いのだろう?)
■ 方法と内容を分離して考えるのは根本的に誤っている。
But since thinking is a directed movement of subject matter to a completing issue, and since mind is the deliberate and intentional phase of the process, the notion of any such split is radically false. The fact that the material of a science is organized is evidence that it has already been subjected to intelligence; it has been methodized, so to say. (p. 158)
⇒一応翻訳
しかし思考とは主題を問題解決状態に導くことであり、心とは思考過程での意図的で志向的な局面なのであるから、そのような[方法と内容の]分離は根本的に誤っている。科学の題材が体系づけられているという事実からも、題材はすでに知性の影響下にあることがわかる。題材はいわば方法論化されている。
■ 方法とは主題に関すること。
Method means that arrangement of subject matter which makes it most effective in use. Never is method something outside of the material. (p. 159)
⇒ここも翻訳
方法とは主題を使いやすいように並べることである。方法が題材から離れることはない。
⇒しかし、英語教育界の一部では、「英語教育方法学」と「英語教育内容学」を別個に考えて、発表者に「それは方法学ですか、それとも内容学ですか?」と問うて困らせることが横行している。私はこれまでもそのような学問政治的な問いを研究を志す者に投げかけるのは有害無益だと思ってきたが、そもそも方法と内容を分離させて考えること自体がおかしい。英語教育の方法を考えていてもやがては内容について考えなくてはならないし、ある題材を英語教育の内容として考えていてもやがては方法について考えなくてはならなくなる。「学者」や「学会」というのは、しばしば真理追求よりも既得権益保護にとらわれてしまっているので、若い人はご用心を。
■ 学習の方法についても同じことがいえる。
How about method from the standpoint of an individual who is dealing with subject matter? Again, it is not something external. It is simply an effective treatment of material --efficiency meaning such treatment as utilizes the material (puts it to a purpose) with a minimum of waste of time and energy.
⇒私の場合は短気だからなのだが、時々若い人に「勉強って、どうやってやればいいんすか」などと投げやりに問われると、「そんな曖昧な聞き方されたって、答えられないよ。もっと何についてのどんな勉強かはっきりしてよ」とプリプリ怒ってしまう(←怒るなおっさん、またハゲるぞw)
■ 私たちは「やり方」について語ることがあるが、「やり方」とは常に「題材をどう扱うか」であり、主題をどう望ましい方向に導くかということである。
We can distinguish a way of acting, and discuss it by itself; but the way exists only as way-of-dealing-with-material. Method is not antithetical to subject matter; it is the effective direction of subject matter to desired results. (p. 159)
⇒「子どもはどう躾ければいいのか」や「英語はどう教えたらいいのか」といった非常に一般的な問いかけは、躾けや英語のどの側面について語っていないので不毛。具体的に語りえることは、できるだけ具体的に考える習慣をつけよう。
■ ピアノ演奏技能は、演奏以前に予め演奏家の手や脳に存在していたのではない。演奏技能の秩序は、望ましい結果に向けてピアノと手と脳を使う性向の中に見いだされる。それは楽器としてピアノを使うためのピアノの行いである。
Every artist must have a method, a technique, in doing his work. Piano playing is not hitting the keys at random. It is an orderly way of using them, and the order is not something which exists ready-made in the musician's hands or brain prior to an activity dealing with the piano. Order is found in the disposition of acts which use the piano and the hands and brain so as to achieve the result intended. It is the action of the piano directed to accomplish the purpose of the piano as a musical instrument. (p. 159)
⇒最後の一文は、結構過激な表現。私はそこまで言い切っていいのかよくわからない。
■ 「教育的」な方法とて同じこと。どういう場合でも方法とは、ある題材をある結果のためにうまく用いるやり方のことである。
It is the same with "pedagogical" method. ... Method in any case is but an effective way of employing some material for some end. (p. 159)
■ 経験においても主題と方法は不可分。ある活動では、人が成すことと環境が成すことが融合している。見事なピアノ演奏ではピアニストの貢献とピアノの貢献を分離することができない。スケートでも会話でも音楽に聞き入ることでも風景に見入ることでも、うまくいっている時には、人が成すこと(方法)と主題を分離しようとする意識などない。
These considerations may be generalized by going back to the conception of experience. Experience as the perception of the connection between something tried and something undergone in consequence is a process. Apart from effort to control the course which the process takes, there is no distinction of subject matter and method. There is simply an activity which includes both what an individual does and what the environment does. A piano player who had perfect mastery of his instrument would have no occasion to distinguish between his contribution and that of the piano. In well-formed, smooth-running functions of any sort,?skating, conversing, hearing music, enjoying a landscape,?there is no consciousness of separation of the method of the person and of the subject matter. In whole-hearted play and work there is the same phenomenon. (pp. 159-160)
⇒ちなみに西田幾多郎は、『善の研究』で次のように述べている。
「我々がまだ思惟の細工を加えない直接の実在とは如何なる者であるか。即ち真に純粋経験の事実というのは如何なる者であるか。この時にはまだ主客の対立なく、知情意の分離なく、単に独立自全の純活動あるのみである」
「純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。」
禅といった文化がまだ生きていた時代に、西洋哲学を読み解くという偉業をなした西田幾多郎の著作はいつかゆっくり読みたい。オイラ、一応全集をもっているので、これは老後の楽しみの一つ(←知的変態)。
■ 私たちが日常生活で食べ物を食べているとき、自分の行いを「食べること」と「食べ物」にわざわざ分けたりはしない。
When we reflect upon an experience instead of just having it, we inevitably distinguish between our own attitude and the objects toward which we sustain the attitude. When a man is eating, he is eating food. He does not divide his act into eating and food. (p. 160)
■ しかし科学的調査をするとなると私たちはすぐに上述のような二分法を採択し、「何」を「いかに」するのか -- 経験「された」のは何で、経験「する」のはいかにしてか -- ということを峻別してしまう。そして「主題」と「方法」という区別が登場するし、「行為対象」と「行為そのもの」という区別も出てくる。
But if he makes a scientific investigation of the act, such a discrimination is the first thing he would effect. He would examine on the one hand the properties of the nutritive material, and on the other hand the acts of the organism in appropriating and digesting. Such reflection upon experience gives rise to a distinction of what we experience (the experienced) and the experiencing -- the how. When we give names to this distinction we have subject matter and method as our terms. There is the thing seen, heard, loved, hated, imagined, and there is the act of seeing, hearing, loving, hating, imagining, etc. (p. 160)
⇒教育実践について考えてきて、だんだんとわかってきたのは「科学」という営みは、知性のごく一部の特殊な営みであり、さらに知性そのものも人間の実践のほんの一側面でしかないということ。だから自称「科学者」のおじさん・おばさんはもとより、「質的研究」をやっていると自負するおじさん・おばさんも、あんまり威張って現場の実践者に説教や指図をしてはいけない。そんな説教や指図は、良くて「ある一面に限って言うなら正しいこと」に過ぎないし、悪くて現場の諸事万事の微妙なバランスを壊す行い。
「学者」たる人が実践者に対して行いうることは、実践者の良い聞き手として実践者の知恵を掘り起こすこと、そしてその知恵をより広い層の人にも通じるように謙虚に翻訳することぐらいではないかとオイラは思う。
この点、古寺などの再建で、現実がわかっていない頭の固い学者とやりあわなければならなかった「最後の宮大工」こと西岡常一のことばは思い。自戒の意味も込めて引用しておく。
おじいさんがいつも言っていました。昔は学者よりも職人が上やった。明治以来、西洋の学問が入ってきて、考え方が西洋式になってしまってから学者が上になってしまった。実際に仕事をする職人が下に見られるようになった、おかしなことや、せやから職人も学問して、しっかりやらないかんと言うてました。
学者にしてもどれだけ深い学問をしているかということですな。学者という人たちは本はようけ読みますやろけど、なかなか実際のことは知りませんやろ。それでいて自分の学説に捕らわれますな。これがいかんのですよ。 (p. 70)
私らでも再建(さいこん)の会議というたら、迂闊なことは言えませんで。ちゃんと調査をして会議にぶつけるんやから、この調査にはずいぶん力を入れましたで。天井の表に置かれている廃材を一つ一つ調べまして、これはあれや、何の部材でこうなったのや、こういうことを見極めてから、この形式はこういうものやったということを話すんですわ。
それで論争になると、学者はこの時代はこういう様式のはずや、あの伽藍はこうやったし、ここはこうやったからこうあらねばならんというようなことを言いますのや。これじゃ、あべこべですな。先に様式を考えているんですな。そうじゃなしに、現にある、廃材の調査からどんなものだったのかを考えなならんのですよ。自分の考えの前に建物があったんですからな。
職人がいて建物を建て、それを学者が研究しているんですから、先に私らがあるんです。学者が先におったんやないんです。職人が先におったんです。 (p. 71)
体験や経験を信じないんですな。本に書かれていることや論文のほうを、目の前にあるものより大事にするんですな。学者たちと長ごうつきあいましたけど、感心せん世界やと思いましたな。
しかし、なかにはよく私らの話を聞いてくれる学者もおりましたし、自分の学説にしばられん人たちもおりました。そうした学者は本当の研究者やなと思いましたものな。 (p. 72)
西岡常一、他 (1993) 『木のいのち 木のこころ』 新潮文庫
■ 区分が思考上のものではなく現実に存在するものと思われ始める。
This distinction is so natural and so important for certain purposes, that we are only too apt to regard it as a separation in existence and not as a distinction in thought. Then we make a division between a self and the environment or world. This separation is the root of the dualism of method and subject matter. (p. 160) ⇒二元論に関して重要な箇所なので翻訳。
この[行為対象と行為そのものという]区別は、ある一定の目的のためにはとても適しており重要なので、私たちはこれを思考上の区別ではなく、存在の点でも分離したものだとみなしてしまう。こうして自己と環境(あるいは世界)が区分される。この分離が方法と主題の二元論の根源である。
■ 人と環境の相即相入
That is, we assume that knowing, feeling, willing, etc., are things which belong to the self or mind in its isolation, and which then may be brought to bear upon an independent subject matter. We assume that the things which belong in isolation to the self or mind have their own laws of operation irrespective of the modes of active energy of the object. These laws are supposed to furnish method. It would be no less absurd to suppose that men can eat without eating something, or that the structure and movements of the jaws, throat muscles, the digestive activities of stomach, etc., are not what they are because of the material with which their activity is engaged. Just as the organs of the organism are a continuous part of the very world in which food materials exist, so the capacities of seeing, hearing, loving, imagining are intrinsically connected with the subject matter of the world. They are more truly ways in which the environment enters into experience and functions there than they are independent acts brought to bear upon things. (pp. 160-161)
⇒ここもとても重要なので翻訳。
つまり、私たちは、知ること・感じること・意図すること等は、独自に存在する自己もしくは心に属するものであり、そららがそれらとは独立に存在する主題に関係することだと思い込んでしまう。モノとは離れて、自己や心に属していることは、モノそれぞれの活動エネルギーとは関係のない、独自の作動法則を有しているとも思い込む。この法則が方法の実質である。しかしこの考え方は、人は何か食べることなしに食べることができるとか、顎・喉・胃の消化活動などの構造と運動は、これらの活動の対象である食物とまったく関係がないとかいう考えよりも、はるかに愚かな考えである。人間という生物の器官が、食材が存在する世界の延長上にあるように、見ること・聞くこと・愛すること・想像することの能力は、世界の主題と本質的に結びついている。これらの行いは、モノとは独立したところからモノに対してなされる行いというよりは、まさに環境が経験に入り込み経験の中で働くことなのである。
⇒「能力」ということばが出てくると、一応「コミュニケーション能力の研究」という看板を掲げているオイラはびくっとするが、オイラのコミュニケーション能力論の枠組みは、
(a)言語学・応用言語学の個人心理学的なコミュニケーション能力論、
(b)相互作用的・共同体的なコミュニケーション能力論、
(c)身体や意識といった観点からのコミュニケーション能力論、
(d)相互作用・共同体を超える「社会」の観点からのコミュニケーション能力論
というもので(「コミュニケーション能力と英語教育(2013年度)」)、心を世界から孤立させてしまう(a)のような考え方は批判しているつもりだけれど、環境や世界ということは、そういえばまだ十分に考えていなかったなぁ。反省。
■ 経験とは心と世界、主体と客体、方法と主題といった二者の組み合わせではない。
Experience, in short, is not a combination of mind and world, subject and object, method and subject matter, but is a single continuous interaction of a great diversity (literally countless in number) of energies. (p. 161)
⇒翻訳
短く言うなら、経験とは、心と世界、主体と客体、方法と主題の組み合わせではなく、実にさまざまな(文字通り数えきれない数の)エネルギーが一つになって連続的に相互作用をすることである。
⇒なんだか、かっこいい台詞だけど、「エネルギー」ということばの意味がよくわからない(汗)。
■ 「何」(主題)と「いかに」(方法)の区別をするのは、経験という統合体をうまく導くためにすぎない。
For the purpose of controlling the course or direction which the moving unity of experience takes we draw a mental distinction between the how and the what. While there is no way of walking or of eating or of learning over and above the actual walking, eating, and studying, there are certain elements in the act which give the key to its more effective control. Special attention to these elements makes them more obvious to perception (letting other factors recede for the time being from conspicuous recognition). Getting an idea of how the experience proceeds indicates to us what factors must be secured or modified in order that it may go on more successfully.(p. 161)
■ 教育において教育方法を教育内容から引き離してしまうことの害(その1)
(I) In the first place, there is the neglect (of which we have spoken) of concrete situations of experience. There can be no discovery of a method without cases to be studied. The method is derived from observation of what actually happens, with a view to seeing that it happen better next time. But in instruction and discipline, there is rarely sufficient opportunity for children and youth to have the direct normal experiences from which educators might derive an idea of method or order of best development. Experiences are had under conditions of such constraint that they throw little or no light upon the normal course of an experience to its fruition. (pp. 161-162)
⇒現在の教師教育の問題点を考えるために重要な箇所だから翻訳。
(I) 第一に(前述したように)、経験の具体的状況がないがしろにされてしまうことがある。探究すべき事例なしには教育方法を発見することはできない。教育方法は、次にはもっとうまい具合に物事が起こるようするにはどうすればよいかと考えながら、実際に何が起こっているかを観察することから生まれるのである。しかし[教師教育の]教示や訓練において、子どもや若者が普通の直接的な経験をして、そこから教育者が教育方法や最良の発達順序のアイデアを得ることができるような十分な機会はほとんどない。そのような制約のある条件下で[教師の]経験は積まれるので、経験が当たり前に熟する道筋に対してほとんど何の光も当たらない。
⇒確かに学生が授業観察する時も、学生は下手をすれば教師の言動ばかりに注目して子どもの学びの実態をあまり見ようとしない(まず、授業観察の立ち位置が教室の後ろだから、必然的にそのようになってしまう。
また、現職教師の講習会も、(会場の関係で仕方がない場合もあるが)とかく教師はどう考えどう動くべきかばかりが教えられ、学習者の観察や学習者の様子の想起などに時間が使われていない。
教育方法学は、教師についての研究ではなく、学習者についての研究であると考えるべきだろう。いや、もっと正確に言うなら、教育内容をめぐる学習者についての研究と言うべきか。
私はできるだけ現職教師の話を聞くようにしていて、これで少しは生身の教師不在の方法論研究よりは一人よがりを避けることができていたかと自負していたけれど、やはり、もっと一歩進んで学習者の話を聞くようにしなければならないと思う。
私は英語教育でも「当事者研究」の考え方は大切で、現職教師を当事者とし、自分を当事者にとっての第二者としようとしているつもりだけれど、可能なかぎり学習者を当事者としなければよい研究はできないのではないか。
関連ブログ記事:石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html
■ 機械的に均一化される教育方法(指導法)
"Methods" have then to be authoritatively recommended to teachers, instead of being an expression of their own intelligent observations. Under such circumstances, they have a mechanical uniformity, assumed to be alike for all minds. Where flexible personal experiences are promoted by providing an environment which calls out directed occupations in work and play, the methods ascertained will vary with individuals -- for it is certain that each individual has something characteristic in his way of going at things.(p. 162)
⇒大書したいぐらい大切な箇所だから、翻訳もイタリックにします。
このようにして教育方法が教師自身の知的観察の表現ではなくなり、「教育方法」として権威的に推奨されるにいたる。このような状況では、教育方法は機械的に均一なものとなり、どんな教師にとっても同じようなものであるべきだとされる。仕事にせよ遊びにせよついつい導かれるように夢中になる環境が与えられ、柔軟で個性的な経験を積むことが促される場合、そうやって獲得された方法は個々人で異なるものとなる -- というのも一人ひとりは物事のやり方に何らかの特徴をもっているからである。
⇒しかし、今や全国各地で、「同じ教材を同じように教えろ、それが教師としての責任だ」、「投げ込み教材など入れるな。自分勝手な教え方などするな」といった風潮が蔓延しようとしていないだろうか(私の思い過ごしでなければいいのだけれど)。
もちろんどんな教師も目的は共有していなければならない。しかし、それぞれの教師の個性・経験・力量などはさまざまに違うのだから、学習者と教育内容という教師にとっての環境との相互作用は、一人ひとりの教師にとって違うはず。そこを機械的に同じことを要求するというのは、教師を工業製品としてみなしているようにすら私は思える。人間の個性という多様性を活かさないと、学習者も教師もどんどん活力をなくしてしまうのではないか。
■ 教育において教育方法を教育内容から引き離してしまうことの害(その2)
10章で論じた自制と興味に関する誤った考え方も、教育内容を教育方法から分離させてしまう。誤った考え方では、教育内容のことを考慮せずに教育方法が考えられ、教育方法はだいたい学習者に対して次の3つのどれかをやることに収束する。(a) いい思いをさせる、(b)罰を与える、(c)とにかく無理やりさせる。
(ii) In the second place, the notion of methods isolated from subject matter is responsible for the false conceptions of discipline and interest already noted. When the effective way of managing material is treated as something ready-made apart from material, there are just three possible ways in which to establish a relationship lacking by assumption. One is to utilize excitement, shock of pleasure, tickling the palate. Another is to make the consequences of not attending painful; we may use the menace of harm to motivate concern with the alien subject matter. Or a direct appeal may be made to the person to put forth effort without any reason. We may rely upon immediate strain of "will." In practice, however, the latter method is effectual only when instigated by fear of unpleasant results. (p. 162)
⇒教育について新聞紙上やネット上で語られる場合も、たいてい、教育内容との関連を考えないままに、上記の、(a) いい思いをさせる、(b)罰を与える、(c)とにかく無理やりさせるのどれかを語ることが多い(そして、そのどれが正しいのかという「ギロン」が応酬することも珍しくない)。
だが、より深刻な問題は、教育の専門家であるはずの教師すらも時に上記のような思考パターンにはまって、そこから逃げられなくなること。専門家はとにかく具体的に考えよう(もちろん時にそれを抽象化して知見を整理することも必要)。
■ 教育において教育方法を教育内容から引き離してしまうことの害(その3)
(iii) In the third place, the act of learning is made a direct and conscious end in itself. Under normal conditions, learning is a product and reward of occupation with subject matter. Children do not set out, consciously, to learn walking or talking. One sets out to give his impulses for communication and for fuller intercourse with others a show. He learns in consequence of his direct activities. The better methods of teaching a child, say, to read, follow the same road. They do not fix his attention upon the fact that he has to learn something and so make his attitude self-conscious and constrained. They engage his activities, and in the process of engagement he learns: the same is true of the more successful methods in dealing with number or whatever. (pp. 162-163)
⇒重要なので翻訳
三番目に、学ぶということが、それ自体で存在する、直接的かつ意識的に達成されるべき目的となってしまう。普通なら、学びとは主題に集中することから生じる成果であり報酬である。子どもは、歩くことや話すことを意識的に学ぶことを開始したりしない。子どもは、他人とコミュニケーションを取り交わりたいという衝動を形にするだけである。こうして直接に活動に従事することによって子どもは学ぶ。子どもに例えば読むことを教えるよい方法も同じ道をたどる。教師は、子どもが何か学ばなければならないということに子どもの注意を固定させて子どもの態度を自意識過剰にすることはしない。教師は子どもをそれぞれの活動に取り組ませ、その取り組みの中で子どもは学ぶ。うまい教育方法については、数を教えることでもその他のことを教えることでも、すべて同じことがいえる。
⇒この点についても、少し時間をとって考えたい。現在の教室では「今日の学び」を授業前に黒板に書き、授業の最後にはその「振り返り」を子どもに言わせることが(特に小学校で)よく見られる。
もちろん、何が狙いかわからないようなグダグダの授業よりは、このように学習することが明確に意識化された近代的な授業の方がいいのかもしれないが、どうも「振り返り」はとても形式的だし ―挙手する子どもは、たいてい教師の意図どおりのことばを発する―、学んだことが本当に子どもの身についているのか ―授業とテスト以外で発揮されるのか― 私には正直疑問だ。
■ しかし教育内容が子どもの衝動や習慣に結びついていないと、教育内容は単に「学ぶべきこと」になってしまう。鋭敏で集中力のある反応をする子どもにとって、これほど悪い条件はない。戦争においても学習においても正面攻撃は害のほうが大きい。
But when the subject matter is not used in carrying forward impulses and habits to significant results, it is just something to be learned. The pupil's attitude to it is just that of having to learn it. Conditions more unfavorable to an alert and concentrated response would be hard to devise. Frontal attacks are even more wasteful in learning than in war. (p. 163)
⇒しかし授業ではこのような「正面攻撃」は多い。
そもそも教師の授業準備が「教えるべきこと」の確認と整理になってしまっていないだろうか。授業準備とは、教育内容をどのように子どもがワクワクするような課題に転換するか考えることであり、それこそが教育方法(=指導法)とは言えないか。そのために教師は、教育内容と子どもについて熟知していなければならない。
ちょっと大胆な言い方をすれば、次のように言えるかもしれない。
教育方法学とは、直接に学習者に働きかけることを研究することではなく、教育内容を通じて学習者に働きかけることを研究すること。
教育内容学とは、直接に教育内容を研究することではなく、子どもを通じて教育内容を研究し直すこと。
■ だからといって子どもに学びを意識させてはいけないというわけでなない。大切なのは、子どもが、「学ばなければいけないから」という理由と目的ではなく、子どもにとって本当と感じられる理由と目的でもって課題に取り組むこと。子どもの経験の中で教育内容が何らかの位置を占めるようにすること。
This does not mean, however, that students are to be seduced unaware into preoccupation with lessons. It means that they shall be occupied with them for real reasons or ends, and not just as something to be learned. This is accomplished whenever the pupil perceives the place occupied by the subject matter in the fulfilling of some experience. (p. 163)
■ 教育において教育方法を教育内容から引き離してしまうことの害(その4)
(iv) In the fourth place, under the influence of the conception of the separation of mind and material, method tends to be reduced to a cut and dried routine, to following mechanically prescribed steps. No one can tell in how many schoolrooms children reciting in arithmetic or grammar are compelled to go through, under the alleged sanction of method, certain preordained verbal formulae. Instead of being encouraged to attack their topics directly, experimenting with methods that seem promising and learning to discriminate by the consequences that accrue, it is assumed that there is one fixed method to be followed. It is also naively assumed that if the pupils make their statements and explanations in a certain form of "analysis," their mental habits will in time conform. Nothing has brought pedagogical theory into greater disrepute than the belief that it is identified with handing out to teachers recipes and models to be followed in teaching. Flexibility and initiative in dealing with problems are characteristic of any conception to which method is a way of managing material to develop a conclusion. Mechanical rigid woodenness is an inevitable corollary of any theory which separates mind from activity motivated by a purpose.
⇒現在の英語教育界では、教育方法(指導法)をあまりに固定化して考え、その効果を個々の学習者の特性などを平均で捨象した統計検定方法で実験的に実証することがあまりにも横行しすぎている(その背後には、「きちんと形が整った」論文を優先的に採択する学会ともっぱら論文の数を業績として処理する大学の体制 ―言ってみるなら「真理の体制」―がある。参考:「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」)。
そういった状況の危うさを指摘するため、上の箇所は翻訳し、イタリックで示す。
四番目に、心と題材を分離させて考えることの影響を受けて、教育方法が型にはまったやり方で、予め定められたステップに機械的に従うことに矮小化されがちである。お墨付きを得たとされる教育方法の下で、どれだけ多くの教室で子どもが算数や文法の時間に、予め制定された公式を唱えることを強いられているだろうか。子どもなりのトピックに直接向かってゆき、うまくゆきそうな方法で試してみてそこで得られた結果から学ぶことは奨励されず、子どもはある一つの固定的な教育方法に従うべきだということが当然の前提とされている。また、もし子どもがある一定の「分析」形式で発言し説明したら、その心的習慣はやがて子どものものになるということも深い考えもなしに当然の前提となっている。教育理論をもっとも貶める考えとは、教育理論とは教える際のレシピとモデルを教師に与えることに他ならないとする考えである。方法を結論に至るための題材の扱い方と考えるなら、問題に柔軟かつ主体的に対処するようになる。心を目的のためになされる活動から切り離してしまう理論を取れば、必然的に機械的で意固地な頑なさが生じてしまう。
⇒他方、英語教育の指導法を、機械的・固定的なものとは考えず、子どもが自らの内から発見し学ぶことを支援する方法と考える書もある。以下は、その好例。どちらも心からお薦めします。
2. 一般的方法と個人的方法(Method as General and as Individual)
■ 教えることはアートであるが、アートとは恣意奔放を意味しない。どんなアートにも伝統がある。
In brief, the method of teaching is the method of an art, of action intelligently directed by ends. But the practice of a fine art is far from being a matter of extemporized inspirations. Study of the operations and results of those in the past who have greatly succeeded is essential. There is always a tradition, or schools of art, definite enough to impress beginners, and often to take them captive. (pp. 163-0164)
短くまとめるなら、教育の方法とはアートの方法、知的に目的に向かう行為の方法である。しかし精妙なアートを実践するということは、即興のインスピレーションとはおよそ異なる。過去に成功した先駆者がいかに行いどんな結果を得たのかを研究することが欠かせない。常に伝統、もしくは流派というものがあり、それは初心者に感銘を与え時に初心者を虜にしてしまうぐらいの確固たるものである。
■ 予め定められた規則に従うか、さもなければ天賦の才能に従うしかないという二分法が誤りであることは、アートの実際を見ればすぐにわかる。
Methods of artists in every branch depend upon thorough acquaintance with materials and tools; the painter must know canvas, pigments, brushes, and the technique of manipulation of all his appliances. Attainment of this knowledge requires persistent and concentrated attention to objective materials. The artist studies the progress of his own attempts to see what succeeds and what fails. The assumption that there are no alternatives between following ready-made rules and trusting to native gifts, the inspiration of the moment and undirected "hard work," is contradicted by the procedures of every art.
⇒ただ問題は、現代ではアート ー身体を通して自らを超えたものを表現する技芸― があまりにも軽視され、機械のような論理だけで考え、時に感情を自らに拘った形ばかりで表現する人々が多くなり権力を得てしまっていること(権力層にのし上がろうとすれば、人はしばしばアートなどに振り向きもせずに、機械的な勉強だけに専心することを強いられる ― もっとも本当に頭のいい人はそんな機械的な詰め込みをせずアートを楽しむのだけれど、そんな人は権力層にたくさんいるのだろうか―)。
だから万事がんじがらめに規則で定めないと、人々は恣意奔放に流れるとばかりに、権力者層は管理体制を強めているとは言えないだろうか。
さらに脱線すると、洋の東西を問わず権力者は独裁的になればなるほどアートを弾圧する。きっと権力者はアートの力が怖いのだろう。
デューイはアートの重要性についてたくさんの著作を残しているそうだが、私は未読。時間があったらいつか読みたい。
■ 一般的方法
Such matters as knowledge of the past, of current technique, of materials, of the ways in which one's own best results are assured, supply the material for what may be called general method. There exists a cumulative body of fairly stable methods for reaching results, a body authorized by past experience and by intellectual analysis, which an individual ignores at his peril. (p. 164)
⇒定義部分なので翻訳
過去、現代的手法、題材、成功の秘訣についての知識が、いわゆる一般的方法の題材となる。過去の経験や知的分析によって確かめられた、結果を得るためのかなり安定した方法の集積というものはあり、それを無視する人は自ら損をするだけである。
■ もちろん一般的方法も悪しき習慣となってしまうこともあるが(第4章を参照)、結果を残した人というのは、他人が思う以上に一般的方法を活用しそれを創り変えているものである。
As was pointed out in the discussion of habit-forming (ante, p. 49), there is always a danger that these methods will become mechanized and rigid, mastering an agent instead of being powers at command for his own ends. But it is also true that the innovator who achieves anything enduring, whose work is more than a passing sensation, utilizes classic methods more than may appear to himself or to his critics. He devotes them to new uses, and in so far transforms them. (p. 164)
■ 教えることにも学ぶことにももちろん一般的方法というものはある。
Education also has its general methods. And if the application of this remark is more obvious in the case of the teacher than of the pupil, it is equally real in the case of the latter. Part of his learning, a very important part, consists in becoming master of the methods which the experience of others has shown to be more efficient in like cases of getting knowledge. (p. 164)
■ 一般的方法と規範的規則の違い
These general methods are in no way opposed to individual initiative and originality -- to personal ways of doing things. On the contrary they are reinforcements of them. For there is radical difference between even the most general method and a prescribed rule. The latter is a direct guide to action; the former operates indirectly through the enlightenment it supplies as to ends and means. It operates, that is to say, through intelligence, and not through conformity to orders externally imposed. Ability to use even in a masterly way an established technique gives no warranty of artistic work, for the latter also depends upon an animating idea. (pp. 164-165)
⇒翻訳
これらの一般的方法は、個人の主体性や独自性 --個性的な物事のやり方-- と対立するものではない。というのも、もっとも一般的な方法と規範的規則の間には根本的な違いがあるからだ。規範的規則は、行為を直接的に導くものである。これに対して、一般的方法は、目的や方法について光を当てることによって間接的に働くものである。つまり一般的方法は、外から押しつけられた秩序に一致することではなく、知性を通じて働くのである。確立された手法をたとえ名人のように使うことができても、それで芸術的な作品ができるわけではない。規範的規則は湧き出てくるアイデアによって支えられなければならないからだ。
■ 外科医の仕事は他の症例や既成のモデルにずいぶん依拠しているように思えるが、症例は似ているかもしれないが同じではない。外科医は直面する事例に合わせなければならない。この際、外科医の個人的やり方は、一般原則に支えられて編み出されるのであり、一般原則に従属しているわけではない。
If knowledge of methods used by others does not directly tell us what to do, or furnish ready-made models, how does it operate? What is meant by calling a method intellectual? Take the case of a physician. No mode of behavior more imperiously demands knowledge of established modes of diagnosis and treatment than does his. But after all, cases are like, not identical. To be used intelligently, existing practices, however authorized they may be, have to be adapted to the exigencies of particular cases. Accordingly, recognized procedures indicate to the physician what inquiries to set on foot for himself, what measures to try. They are standpoints from which to carry on investigations; they economize a survey of the features of the particular case by suggesting the things to be especially looked into. The physician's own personal attitudes, his own ways (individual methods) of dealing with the situation in which he is concerned, are not subordinated to the general principles of procedure, but are facilitated and directed by the latter. The instance may serve to point out the value to the teacher of a knowledge of the psychological methods and the empirical devices found useful in the past. When they get in the way of his own common sense, when they come between him and the situation in which he has to act, they are worse than useless. But if he has acquired them as intellectual aids in sizing up the needs, resources, and difficulties of the unique experiences in which he engages, they are of constructive value. In the last resort, just because everything depends upon his own methods of response, much depends upon how far he can utilize, in making his own response, the knowledge which has accrued in the experience of others. (p. 165)
■ 上記のことは教育のことに当てはまり、子どもから大学生にいたるまですべての学習者が従うべき学習方法があるというのは自己欺瞞であり、嘆くべき結末に至るものである。
As already intimated, every word of this account is directly applicable also to the method of the pupil, the way of learning. To suppose that students, whether in the primary school or in the university, can be supplied with models of method to be followed in acquiring and expounding a subject is to fall into a self-deception that has lamentable consequences. (pp. 165-166)
■ 心/対象、主体/客体、方法/主題などの二元論から、心や方法をもっぱら一般化して考える理論が生まれ、そこから個人差は量の違いに過ぎないと考えられるようになった。
We have set up the notion of mind at large, of intellectual method that is the same for all. Then we regard individuals as differing in the quantity of mind with which they are charged. (p. 166)
⇒翻訳
私たちは、心についての一般的な概念と、誰に対しても同じように適用できる知的方法の概念を作り上げてしまった。そうして個人間の違いを、心の量の違いとしてみなすようになった。
⇒私がこの年末年始で読むことができた数少ない本が、ユングの『タイプ論』だったが、この本を読むと、「こころ」の学であるはずの心理学が、科学としての制約を引き受けることの限界がよくわかるような気がした。いつかこの本についてもまとめてみたい(私はどうも文章化しないと理解した気にならない)。
追記:後日、まとめました。
C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/cg-1987.html
■ 教育で大切なことは、子どもが意味ある活動で力を発揮すること。心・個人的方法・独自性とは、それが目指す行為の質を意味する。
What is required is that every individual shall have opportunities to employ his own powers in activities that have meaning. Mind, individual method, originality (these are convertible terms) signify the quality of purposive or directed action. (p. 166)
⇒翻訳
必要なのは一人ひとりが機会を与えられ、意味ある活動に自分自身の力を使うことである。心、個人的方法、独自性(これらは交換可能な用語である)が意味しているのは、目的をもち導かれる行為の質である。
3. 個人的方法の性質(The Traits of Individual Method)
■ 個人的方法は、その人の先天的な傾向と後天的な習慣や興味から、当然他の人の方法とは異なってくる。
The specific elements of an individual's method or way of attack upon a problem are found ultimately in his native tendencies and his acquired habits and interests. The method of one will vary from that of another (and properly vary) as his original instinctive capacities vary, as his past experiences and his preferences vary. (p. 167)
⇒しかし、いくつかの態度は、そんな個人的方法においても重要である。以下、四つの態度について説明する。
■ (1) 直接性 (directness)
1. It is easier to indicate what is meant by directness through negative terms than in positive ones. Self-consciousness, embarrassment, and constraint are its menacing foes. They indicate that a person is not immediately concerned with subject matter. Something has come between which deflects concern to side issues. A self-conscious person is partly thinking about his problem and partly about what others think of his performances. Diverted energy means loss of power and confusion of ideas. Taking an attitude is by no means identical with being conscious of one's attitude. The former is spontaneous, naive, and simple. It is a sign of whole-souled relationship between a person and what he is dealing with. The latter is not of necessity abnormal. It is sometimes the easiest way of correcting a false method of approach, and of improving the effectiveness of the means one is employing,--as golf players, piano players, public speakers, etc., have occasionally to give especial attention to their position and movements. But this need is occasional and temporary. When it is effectual a person thinks of himself in terms of what is to be done, as one means among others of the realization of an end -- as in the case of a tennis player practicing to get the "feel" of a stroke. In abnormal cases, one thinks of himself not as part of the agencies of execution, but as a separate object --as when the player strikes an attitude thinking of the impression it will make upon spectators, or is worried because of the impression he fears his movements give rise to.
⇒私なりにまとめると次のようになる。
・直接性とは、自己意識や困惑や縛りがないこと。
・物事に向かってある態度を取るということは、その態度を自分で意識するということとは異なる。
・物事に向かってある態度を取ることは自発的で単純なものであるが、だからといって、その態度を自分で意識することが必ずしも異常だということではない。
・ゴルフ選手でもピアノ演奏者でも、時に自らの態度を意識することで間違ったやり方を正す。
・だがそんな必要はたまに起こることであり永続的なことではない。
・うまくいっている時に人は、自分自身のことを目標を実現するための一つの手段と考える。
・異常なケースにおいては、人は自分自身が実行主体の一部ではなく、切り離された対象のように思えてしまう。
⇒このへんは、行為における意識の働きをまとめた箇所だから、本来はもっときちんと論じるべきだが、ここではデューイのまとめを続ける。
■ (2) 心が開かれていること。(Open-mindedness)
Openness of mind means accessibility of mind to any and every consideration that will throw light upon the situation that needs to be cleared up, and that will help determine the consequences of acting this way or that. Efficiency in accomplishing ends which have been settled upon as unalterable can coexist with a narrowly opened mind. But intellectual growth means constant expansion of horizons and consequent formation of new purposes and new responses. These are impossible without an active disposition to welcome points of view hitherto alien; an active desire to entertain considerations which modify existing purposes. Retention of capacity to grow is the reward of such intellectual hospitality. The worst thing about stubbornness of mind, about prejudices, is that they arrest development; they shut the mind off from new stimuli. Open-mindedness means retention of the childlike attitude; closed-mindedness means premature intellectual old age. (p. 169)
⇒翻訳
心が開かれていることとは、解明しなければならない状況に光を当ててくれる考えならどんな考えでも心が受け入れること。そのことによって、このようにあるいはあのようにやればどうなるかということがわかりやすくなる。わずかにしか開かれていない心は、変更不可能なものとして設定された目標を達成するための効率性と結びつきうる。しかし、知的成長とは常に視界を広げ、それに続いて、新しい目的と新しい反応を作り出すことである。こういったことは、これまで知らなかった視点を歓迎する積極的な性向 --既存の目的を変更する考えをも積極的に考えようとすること-- がなければ不可能である。成長する能力を保っていることは、そのような知的に開かれていることの報酬である。心の頑なさ、偏見に関してもっとも悪いことは、それが発達を引き止めてしまうことである。新しい刺激から心を閉ざしてしまう。心が開かれていることは、子どものような態度を保っていることである。心を閉ざしていることは、年齢以上に知的に老いてしまうことである。
⇒当たり前のことのようだけど、やっぱり深いなぁ(←人間は歳を取ると、テクストにいろんなことを読み込むようになるwww)。
■ (3) 一心であること (single-mindedness)
So far as the word is concerned, much that was said under the head of "directness" is applicable. But what the word is here intended to convey is completeness of interest, unity of purpose; the absence of suppressed but effectual ulterior aims for which the professed aim is but a mask. It is equivalent to mental integrity. Absorption, engrossment, full concern with subject matter for its own sake, nurture it. Divided interest and evasion destroy it.
⇒私なりにまとめると次のようになる。
・直接性と重なるところの多い概念だが、興味が純粋であり、目的が統一的であれ、実は他の究極の目的に抑圧されてはいないこと、などの特徴をもつのが一心であることである。心の実直さ(mental integrity)といってもいい。
■ (4) 責任 (responsibility)
By responsibility as an element in intellectual attitude is meant the disposition to consider in advance the probable consequences of any projected step and deliberately to accept them: to accept them in the sense of taking them into account, acknowledging them in action, not yielding a mere verbal assent. (p. 172)
⇒翻訳
知的態度の一要素としての責任とは、踏み出した一歩のありうる結果を予め考えたうえで結果を自ら受け入れる性向である。結果を考慮に入れ、自らの行為の中でそれを認めるという意味で結果を受け入れることであり、単にことばの上だけで認めることではない。
⇒デューイ自身が言っているように、これは知的な意味での責任であり、日本でしばしば「責任を取れ!」と難詰される時のように、「立場にいる限りはどんな結果でも自分の起こしたことして受け入れる」といった「責任」は意味していない。デューイは、この本で一貫して知的な態度について語っているようにも思える。
要約 (summary)
Method is a statement of the way the subject matter of an experience develops most effectively and fruitfully. It is derived, accordingly, from observation of the course of experiences where there is no conscious distinction of personal attitude and manner from material dealt with. The assumption that method is something separate is connected with the notion of the isolation of mind and self from the world of things. It makes instruction and learning formal, mechanical, constrained. While methods are individualized, certain features of the normal course of an experience to its fruition may be discriminated, because of the fund of wisdom derived from prior experiences and because of general similarities in the materials dealt with from time to time. Expressed in terms of the attitude of the individual the traits of good method are straightforwardness, flexible intellectual interest or open-minded will to learn, integrity of purpose, and acceptance of responsibility for the consequences of one's activity including thought. (p. 173)
⇒たしかに本章の論を簡潔にまとめようとしたらこうなる。ここではいちいち翻訳しませんが、みなさんなりにこの文章を丁寧に読んで、本章の論を思い起こしながら自分の経験と結びつけてください。
"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html
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