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2013年12月23日月曜日

『17歳のカルテ』




生き物の課題とは環境に適応して生き延びることである。環境に応じて自分を変え、時に環境の方をも変える。だがもし、生き物と環境のギャップがはなはだしすぎるならば、適応は失敗し、生命力は損なわれる。

だが生き物は頑強なもので、休養をとり生命力を回復させ、やがて大なり小なり環境に適応する。生き物は、単純な機能固定的マシンではなく、様々な複合性が組み合わさったオートポイエーシス・システムであり、その自生的な対応能力は単純なマシンとは比べものにならない。

生き物の中でも人間は、器用な手を利用し様々な人工物を作り出し、さらには言語という媒体で「今ここ」の体験を、自分の過去・未来・仮想世界と、そして他人とに関連づけ、自分の世界を作り変える。生き物の世界の中で、おそらく人間の世界こそはもっとも複合性の高いものではないか。

人工物は、それが建築物だろうが、被服だろうが、食品だろうが、道具だろうが、芸術作品だろうが、人間が生きることを ―環境に適応することを― 少しは容易にしてくれる。言語は、それが脳内の思考表現であれ、他人との応答であれ、視覚媒体での読み書きであれ、人間が生きるという課題を少しは対処可能なものにしてくれる。

だが、人工物と言語は、人間の外なる環境と内なる意識 ―それは簡単には説明できないやり方で生理学的生命システムとカップリングされている―を、ある意味、極端に複合的にしてしまう。その高度な複合性ゆえに、人間が生きることの可能性は、当の人間が想像できないぐらいに広がった。だから人間は、自らをそして他人をさらには地球さえをも、信じられないぐらい素晴らしいものにすることができる。だが、その可能性は破壊にも開かれている。

人工物と言語を備えた人間が、自分を含む何かを破壊する流れに巻き込まれた時、その流れを止めることは、その複合性ゆえに必ずしも容易なことではない。単純な判断による単純な介入が必ずしもうまくいかないからだ(もちろん、何かを破壊しようとする人間を、介入者が破壊してしまうのだったら、単純な力の行使で流れは止められるが、それは緊急避難的手段である)。特にその人間がことさらに敏感な複合性をもっている場合、単純な介入は介入者の予想をまったく超えた災厄をもたらすことがある。


この映画(『17歳のカルテ』)の主人公のスザンナは、ベトナム戦争の60年台という社会環境 ―若者は実際にくじびきで徴兵され遠く彼方での殺し合いに参加させられた―と、大学教授の娘という一見幸福そうな立場でありながら、実は心理的な葛藤を抱えた母親に育てられたという家庭環境に適応しなければならなかった。

もちろん同じ社会環境と似たような(あるいはもっと過酷な)家庭環境を引き受けながらも、「問題なく」―これは問題を含んだ表現だが、今はそれについては触れない― 過ごす人間も多くいる。いやそれが社会のマジョリティ ―嫌なことばを使えば「普通の人」― なのだろう。だが、スザンナという少女にはそれが耐えられなかった。繊細な完成と鋭敏な知性により、極めて高度な複合性を有する彼女の心は、彼女が、彼女にとっての社会環境と家庭環境に適応しようと努力する中で、彼女自身が予想も制御もできないぐらいに変動し、それに即して彼女は自分の行動に翻弄される。

そして彼女は精神病棟に送られる。


映画ではこのスザンナ役のウィノナ・ライダーWinona Ryder)の演技がすばらしい。スザンナの、世間的な価値観からすれば「常識外れな」行動の「まともさ」が見る者に伝わってくる。そして、権力装置の中で彼女を一方的に判定し彼女を制御・支配しようとする人間の悲喜劇的な凡庸さがよくわかる。

私はこの映画を偶然スカパーで見て、その後でウィキペディアを調べてはじめて知ったのだが、ウィノナ・ライダーは、自らも境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴がある。そういった履歴もあり、彼女は原作(『思春期病棟の少女たち』)に惚れ込み映画化権を買い取って製作総指揮も兼任したそうだ。この映画の演技で注目され数々の賞を得たのは、もっぱらアンジェリーナ・ジョリーだったそうだが、そんな知識なしに映画を見ていた私にとって素晴らしかったのは、断然ウィノナ・ライダーの演技の方だった。彼女の微細な表情は、言語表現が困難なぐらいに微妙な感情を見事に伝えてくれていた。

映画はスザンナが退院するまでを描く。映画は、『カッコーの巣の上で』と同じように、繊細な感性と鋭敏な知性をもつ当事者が不安定になった時に、鈍重な感性と単純な知性によって設計・運営される権力システムが、善意や正義感に溢れながら、いかに追い込まれた当事者をさらに追い込んでしまうか(あるいは、追い込まざるをえないか、と言うべきだろうか)を描き出す。外からの単純な権力行使ではなく、当事者のうちからの回復を待つ ―「支援」ということばでさえもここでは控えるべきなのかもしれない― 環境を整備することが、まわりの人間のなすべきことなのだろうか。

私たちは、単純な善意と正義感に対する警戒感を失ってはいけない。もちろん単純な知性の単純な増幅に対しても。

 繊細な感性と鋭敏な知性を備えたオートポイエーシス・システムの可能性は、自己破壊にだけではなく、回復と自己再生にも開かれている。

私たちは生命の力を信じる。















2013年9月20日金曜日

宮崎駿 『風立ちぬ』



[ 注意: 以下の文章にはネタバレの部分がありますし、論は中二病的展開となっております (汗) ]





宮崎駿のテーマの一つは原罪である。

『風の谷のナウシカ』では、巨神兵までも生み出した人間文明が、徹底的に地球生態系を破壊してしまった世界が背景となっている。

『もののけ姫』では、製鉄のため森林伐採する人々、不老不死の力を求めシシ神の首を狙う人々が主要人物として描かれる。

いずれの世界においても、人間とはそのような所業を行わずにはいられないものだといった世界観が表現されている。知識によって増大された欲望をもった人間は、生きる限り、自然を破壊し、聖性を蹂躙し、お互いを傷つけ殺しあうことを避けられないのではないか ―そういった原罪を避けられないのではないか― という問いかけが宮崎作品の中にはある。

今回の『風立ちぬ』は、原罪が人間社会のレベルではなく、主人公 ―宮崎駿の投影ではあるが、決して本人自身ではない― が有するものとして描かれている。そして主人公はナウシカやアシタカのように、人間の原罪を償い、この世を調停することもできない。いや、しようともしない。

といっても、主人公の堀越二郎 ― 実在した堀越二郎のイメージに基づいて創られた人物であり、決して実在の堀越二郎ではない ― は、強欲な人物ではない。幼少の頃はいじめられる下級生を助け、しかしその行為に高ぶることがない。震災で怪我をした女性を背負い助け、家の者に感謝されるも名も告げずに去る。親の帰りを暗がりでまつ子どもに買ったばかりの西洋菓子を差し出す(菓子は受け取られないが、彼はそのことを不満に思うわけでもない)。

だから主人公は、自らの利害だけに拘泥する男ではない。しかし、彼は鯖の骨の曲線美に見とれては食事中の友人に呆れられ、震災の火事で混乱する現場の中で一枚の絵葉書を見ては、美しい飛行機の夢に思いを馳せてしまう男でもある。彼は強欲ではないが、業は深い。美しい飛行機、ひいては美という業から彼は逃れることができない。

映画の中で、彼はしばしば夢の世界に入る(時にそれは世界的に有名な飛行機設計家カプローニの夢の世界とつながっている)。

ある夢の世界で、カプローニは主人公に尋ねる。「ピラミッドのある王国とピラミッドのない王国のどちらを選ぶ?」。

岡田斗司夫の解説によれば ―私はこの評論をずいぶん面白く読んだ。もっとも私が敬愛する若い友人はこの評論にはクリエイターに対する敬意がないと批判した― ピラミッドは、富と権力(そしておそらくは才能)の階層であり、上層にいる少数の者がそれらを謳歌し、下層にいる多数の者が上層の者を支えている。つまりカプローニが問うのは、「美しい飛行機を作ろうとするのなら、ピラミッドのある社会構造を認め、その中で生き、それを維持しなければならない。お前はその自覚や覚悟があるのか?」ということである。

だが主人公はその問いには直接答えない。「私は美しい飛行機が作りたいのです」とだけ彼は言う。それを受けてカプローニはさらに答えを迫るかと言えばそうでなく、カプローニは「これのことかね?」と急に登場した白い飛行機を指さすだけである。

まさにこれは主人公の夢の世界の出来事である。彼の夢の世界では(まだ)カプローニも誰も究極の答えを要求しない。彼は、自分が求めているのは美だけであると答えるだけである。これが彼の原罪であろう。

だが、ここで私たちは主人公を断罪するべきではない。主人公が本当に自分のことしか考えていなかったとしたら、夢の世界にはカプローニの問いさえ出てこないからだ。宮崎は主人公の夢の世界 ―美しい飛行機が飛び交う世界― を描く。しかし宮崎は、主人公がその世界から現実世界に戻ることができるきっかけを、カプローニの問いという形で残している。

かつてミヒャエル・エンデは、自身の『はてしない物語』について語り、「ファンタジー世界に行く者は必ず現実世界に戻ってこなければならない」と力説したと私は記憶している。エンデはファンタジー世界に閉じ込められる危険性を誰よりも知っていたのかもしれない。宮崎も「美しい夢」 ―私はこれを「ファンタジー」と読み替えることに問題を感じない― の怖さを自覚しているのだろう。

映画は進み、主人公は里見菜穂子と再会する。菜穂子は自らが(当時の)不治の病である結核を患う身であることを知りつつも、堀越との再会に心騒ぐ (二人の出会いでは最初の時も、再会の時も突風が吹く ―「風立ちぬ」―)。最初は菜穂子のことを思い出さなかった主人公も、再会に感謝する菜穂子の涙に促されてか、急激に心が騒ぎ始める。それからは絵に描いたような恋愛が展開し(そもそもこれはアニメである)、二人は菜穂子の父が戸惑うぐらいにすぐさま婚約を決める。

菜穂子は主人公のためにも病気を治そうと決意し、それまでためらっていた人里離れた療養所に行く。だが、そこは病人に対する病理学的な管理が人間的な配慮よりもはるかに勝っていたところであり、菜穂子は病院を抜け出し主人公に会いに行く。

二人は駅のホームで会う。主人公の胸元で菜穂子は「ひと目お会いしたら帰ろうと思っていました」と言うが、主人公は「帰らないで」と菜穂子に言う。

二人は主人公の上司黒川に、離れに住まわせてくれと頼む。いくら婚約中とはいえ、まだ結婚していない男女を一つの部屋に住まわすことはならぬと渋る黒川だが、主人公は黒川が面食らうぐらいに、「それでは今すぐ、結婚します」と宣言する。二人は互いの美に夢中である。

しかし結婚しても、戦闘機の設計に勤しむ主人公は、夜遅くしか菜穂子のもとに帰ってこない。帰ってきても持ち帰った仕事をする。一日中臥せっているだけしかない菜穂子はそれを受け入れ、「仕事をしているあなたを見るのが好き」と言う。

やがて主人公は徹夜明けで帰宅し、飛行機が完成したことを告げ、疲れから眠りに落ちる。

その後、主人公が試験飛行のために数日の予定で家を出た後、菜穂子は、主人公、黒川夫妻、(その日に再び会うことになっていた)主人公の妹に置き手紙を残し、ひっそりと黒川家を出て療養所に戻る。

続くシーンで映画は試験飛行の劇的な成功を描くが、その描写はやがて戦争の ―写実的というよりは象徴的な― 描写に移行する。主人公が設計した飛行機は無残な残骸として地に横たわっている。

画面はやがて草原となる。主人公とカプローニの「美しい夢」である。「ようこそ私たちの夢の王国へ」とカプローニは言う。主人公は「ここが夢の王国ですか。私は地獄かと思いました」とつぶやく。カプローニは「ちょっと違うが、まあ、同じようなものだ」と返す。ここでも宮崎は、主人公が美しい夢、あるいはファンタジーに囚えられてしまうことを防いでいる。

だがカプローニは「君を待っていた人がいる」とかなたを指す。そこにいるのは、パラソルをさした菜穂子。「あなたは生きて」と彼女はささやく。やがて風が立ち、画面は転がるパラソルだけを描き出す。菜穂子は死んでいることが示唆される。

ここにいたって、私たちは、「美しい夢」とは、映画の中の飛行機に関する明らかな夢だけでなく、菜穂子との出会いという、この映画自体もそうであることに気づく。主人公は、自らの美しい飛行機という夢からは覚めるが、美しい女性が自らの仕事を全面的に支え、やがて仕事が終わると美しいまま旅立ってゆくという映画の中にとどまる ― 映画とは所詮、「美しい夢」なのだ。

カプローニとの出会いは単なる主人公が見た明らかな夢だった (映画の中でも主人公が夢から覚める様子が描かれる)。だが、映画の中で描かれた菜穂子との出会いはそれと異なり、主人公の単なる妄想ではない。映画の中で、二人は確かに出会い、愛し合い、死別した。しかし ― 考えてみれば当たり前のことなのだが― その出会いと別れを「現実」とする映画自体が「美しい夢」なのだ。

宮崎はあるインタビューで、「今はもう、ファンタジーなんて描ける時代じゃない」と語気を強めていたが、やはり彼はファンタジーを描いたのではないか。確かにこの『風立ちぬ』は、『魔女の宅急便』や『崖の上のポニョ』のような、親子で楽しめる娯楽作品としての「ファンタジー」ではない。だが、これは宮崎が描かざるを得なかった「美しい夢」としてのファンタジーではなかったのか。宮崎は72歳において、このファンタジーを必要としていたのではないか。

主人公は、映画という「美しい夢」の中に入れ子構造で組み込まれた、カプローニとの夢の王国という「美しい夢」において、「ピラミッドのある世界とない世界のどちらを選ぶ」という問いに直接答えず、美しい飛行機を完成させる。しかし、その飛行機は戦争のためのものに他ならず、それは人を撃ち、人に撃たれ、無残な残骸として地に落ちた。主人公は「美しい夢」(ファンタジー)のもう一つの面を知る。

だが、この映画自体という「美しい夢」(ファンタジー)がもつ、別の一面は映画の中では直接には描かれない。宮崎は映画『風立ちぬ』そのものという「美しい夢」のもう一つの面に無自覚なのだろうか。宮崎は自ら創りだしたファンタジーの世界に閉じ込められてしまったのだろうか。

いや、そんなことはない。ありえない、と私は考える。

宮崎は、映画の試写会で「恥ずかしながら、はじめて自分の映画を見て泣いてしまいました」と述べた。彼は、映画という美しい夢の「もう一つの面」を痛切に感じつつ、それでも、そう生きるしかなかった自分を全否定することもできず、涙を流してしまったのではないか ― これは根拠のない推測であるが、私はこう考える。いや、私は単にこう考えたいのかもしれない。

憑かれたようにアニメという美しい夢(ファンタジー)を描いてきた宮崎の人生について、あれこれと低俗週刊誌のような詮索をするつもりはない (私の友人は、岡田氏の評論はまるで週刊誌のように低俗だったと批判していた)。しかし、宮崎の生涯を通じての「美しい夢」の追求には、代償があったはずだ。


人は、美を追求するとき、しばしば自他の醜を見ないふりをする。醜を抑圧し、美を求める。だが醜はそこにある。人が人である限り。

善についても同じだろう。善を志向する者は、しばしば自他の悪を殊更に否定しようとする。悪を消し去り、善を求める。だが悪はそこにある。人が人である限り。

正もそうだろう。正を求める者は、しばしば自他の邪を認めようとしない。邪のない正を求める。だが邪はそこにある。人が人である限り。

真もそうではないか。真を求める者は、しばしば自他の偽を軽侮する。偽のない真を発見したと主張する。だが偽はそこにある。人が人である限り。

愛も同じではないか。愛を語る者は、しばしば自他の憎を信じない。憎のない世界に自分の愛はあると語る。だが憎はそこにある。人が人である限り。

聖についてもしかり。聖について語る者は、しばしば自他の俗を否認する。俗などないかのように聖を求める。だが俗はそこにある。人が人である限り。

美・善・正・真・愛・聖を求める者は、しばしばピラミッドの高みに立つ。自らの醜・悪・邪・偽・憎・俗を、自らの下層に隠す。さらには、他人を下層に置き、醜・悪・邪・偽・憎・俗を押し付ける。下層の他人を踏みしめながら美・善・正・真・憎・聖を語る。

美・善・正・真・愛・聖を求めながらも、しばしば自らそれを裏切らざるを得ないこと ― これも人間の原罪ではないのか。『風立ちぬ』は、この原罪を描き、示していないか。


もし人間には原罪があるのなら、そこからの救いはないのだろうか。(もちろんキリスト教はキリスト教としての答えを原罪に対して用意しているが、ここではそれは語らない)。

カプローニの問いを忘れること、そもそも「ピラミッドのない世界」など考えることが無意味だと考えることが救いだろうか。

そうとも思えないことは、古今東西の歴史が示していないか(あるいはそうとも思えないのは私の幼さなのか)。

カプローニの問いを忘れられないのなら、宮崎は、おそらく彼の最後となる作品で、人間の、ひいては彼自身の原罪を示し、絶望をもって映画を閉じたのだろうか。


私はそうは思わない。

映画の最後に「おわり」の文字が出てきたときの画面は、さまざまな色を帯びた空であった。自然であった。彼は最後の画面を、アニメーターとしては自ら描けない、水彩画調の背景画で自然を描くものにした。それが宮崎の監督としての決断だった。最後の画面で宮崎はスクリーンの上に自然を再現させようとした。


私にはこれが、救い、あるいは救いの表現であったように思える。


私たちは、美・善・正・真・愛・聖を求める中で、醜・悪・邪・偽・憎・俗をしばしば否定し、そのことによって美・善・正・真・愛・聖を損ねてしまう。

かといって私たちは、美・善・正・真・愛・聖を忘れ去ることはできない。醜・悪・邪・偽・憎・俗の中にだけに生きることもできない。

ならば美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にするもの ―自然― こそは、私たちの救いではないのか。自然を表現することは私たちの救いではないのか。

私たちは自然により生まれ、自然のもとに帰る。私たちが頭でどう考えていようとも、私たちが自然から離れることはない。ならば私たちの努めとは、自然を忘れないこと、自然を損ねないこと、可能なら私たちなりに自然を再現することではないのか。

自然の偉大なる全体の調和を忘れず、損ねず、可能な限り自分たちなりに「人間にとっての自然」として再現すること ― 人間なりに自然の中で自然に暮らし自然を保つこと― これが私たちのなしうる佳きことではないのか。

美を求めながらも醜を受け入れ、善を求めつつそこに悪があることを認める。正を追い求めながらも邪を受け入れ、真を目指しながらもそこに偽があることを認める。愛を求めながらもそこにある憎を認め、聖を目指しながらも俗にとどまる ― これが人間にとっての自然ではないのか。

人間が、人間にとっての自然を忘れないためには、自然 ―大自然そのもの― を忘れず、可能な限りそこにとどまることが必要ではないのか。自然を損なうことを可能な限り止めることが必要ではないのか。私たちの生命とは自然からの恵みである。ならば恵みの感謝を、自然を守り、自然を再現すること ― 私たちのなしうる佳きこと― で表すのが人間の努めではないのか。

宮崎駿は、美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にする自然を描いた画で、映画を終えた。人間は自然の調和の中に生きている ― 私にとっては、これを思い起こすことができることこそが、人間にとっての救いだと思える。





2011年5月15日日曜日

黒澤明(1952)『生きる』

映画『生きる』が、黒澤明監督の代表作の一つだということは当然知っていても、私はこの作品を「死を前にした市役所役人が、心を入れ替えて公園建設に励む」といった安直なヒューマンドラマだとばかり思い込んでいて、これまで見たことはありませんでした。見え見えの筋書きで感動などしたくなかったからです。

しかし、今回の福島の子どもへの放射線線量制限をめぐる、文部科学省官僚の対応を見ていると、最初は福島住民と共に驚き、憤怒を覚えましたが、私個人としては次第に呆れ、会見の場であのような語り方しかできない官僚に、情け無さを通り越して、憐れみさえ感じるようになりました。

なぜあのようにしか語れないのか・・・。

会見の場の官僚も、子どもをもつ親の気持ちがわからないわけではないはずなのに、どうしてあのように、役所の流儀を絶対視して、自らの無作為や無策をあたかも誇っているような言動を取るのか。なぜ陳情にくる住民を、あたかも「物事がわからない困った人たち」のように見下した態度を取るのか。自らもかつては子どもであり、高圧的な態度を生まれつきもっていたのではないはずなのに・・・。


「役所」という近代文化をもう一度考えなおしてみなければならないのではないかと考えるようになりました。そうしてその一環として『生きる』のDVDを注文し、今、見終えました。


よかった。やはりすごい作品でした。単純な感動モノ、勧善懲悪モノなどではありません(当たり前ですよね、自分の傲慢な思い込みに反省)。特に後半の、複数の通夜参列者の語りを基軸にしたストーリーテリングはすばらしい。主人公が貫き通そうとした生きることの尊厳が踏みにじられ、復権され、調子のいい話にされ、一喝され、懐柔され、骨抜きにされ、そして最後に・・・。

この語りの複数性と重層性は、この映画が訴えることの単純な要約や図式化を拒みます。黒澤明がこの『生きる』で言いたかったことは、やはりこの『生きる』という映画作品でしか表現できないというべきでしょう。この映画のどんな要約や評価も、それは派生的に生じた、別の表現に過ぎない(これも当たり前のことですね、ごめんなさい)。

しかし、一つだけ単純化したことを言うなら、この映画を通じて、笑う者、怒る者、泣く者、そして歌う者とはどんな人達かを見極めてください。

逆に、そういった感情を押し殺す者、あるいはそれらの感情をおざなりの社会的演技でしか表現しない者とはどんな人達かを観察してください。そしてあなたはどちらのような人になりたいのか、いや、現にどちらのような人なのかを自問してください。

特に、役所に勤める人は、この映画を10年に一度は見るべきかと思います。この場合の「役所」とは硬直化した組織のことであり、民間でも東電のような組織はここでいう「役所」の範疇に入ります。あるいは首を切られないことをいいことにして、ふんぞり返っている教員も見るべきでしょう(誠に遺憾ながら、教員にもそんな人はいます)。



映画のストーリーテリングは素晴らしく、画面の構図や転換などの映画文法は見事ですが、映画の前半は、戦後の復興期の風俗が、現代日本とあまりにも異なるので違和感を覚えるかもしれません。私も最初は、外国映画を見ているようでした。

さらに後半の通夜を基軸とした展開で、私はこの映画が、役人文化を描いたロシア映画のようにも思えてきました(ご承知のように、役人の生態はロシア文学のテーマの一つです)。

そうしてこの映画を一種、ロシア映画のようなものとして考え始めたら、私は急にこの映画がやはり私たちの日本映画なのだと感じられてきました。

ロシア映画が日本映画?

だって、現在の日本は、チェルノブイリ事故のソビエトそっくりではありませんか。


違う?

ま、確かに、事故対応が旧ソ連より遅く、役人の虚勢を国民の多くがまだ権威として信じているかもしれないという点で、確かに現代日本は旧ソ連とは違うかもしれませんが・・・





***












2010年12月12日日曜日

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)を初めて見た。完全なフィクションで、誤った時代考証やあり得ない設定や展開などあげつらうところは沢山あるが、そのような瑣事にとらわれずこの物語が語ろうとしたことをつかむべきだろう。原作者、映画監督、そして俳優を始めとしてこの映画に関わるすべての人が表現したかったこととは何か。

しかし二時間半あまりの映画表現が伝えようとすることを、ここで私が語り尽くせるはずもない。だからここでは一点だけについて書く。

それは「死をもって生を完成させる」ということ。

しかし、これは死に急ぐということでは決してない。そうではなくて「生の限りを尽くして死を迎えることで生を完成させる」ということ。

映画の中の台詞で(うろ覚えだけど)"Do what you can until your destiny is revealed."というのがあったはずだが、それに近く「成しうることをただひたすらやり尽くさんとする中で死を迎え、それをもって自らの定めとなし、自らの生を終えること」と言うべきか。

あるいは映画の最後で渡辺謙演ずる勝元について、"Tell me how he died."と天皇に問われたトム・クルーズ演ずるネイサンが、"I will tell you how he lived."と答えるくだりが象徴しているように、「生き尽くすことの果てにあるのが人間の迎えるべき死であり、そのような死を遂げた者の生こそを私たちは尊ぶ」、と言うべきだろうか。

ある僧侶が言っていたのだが、自分が死ぬということほど確実なことはない。私たちは、この仕事がうまくいくだろうかとか、この人間関係がどうなるだろうかとか、いろいろなことを悩むが、それらはどれもそうなるかならぬかはわからぬこと。ただ確実にわかっていること、避けられぬ定めこそは、自分が死ぬこと。なのに現代人は、ひたすらに死を忌避し隠し忘れ去ろうとしている。しかし、毎日、自分はどう死のうか、つまりは、今この時に死んでも自分の人生が完成されたものであると言い切れるほどに、生を充実させるにはどうしたらいいのか、ということを切実に考えることは重要なのかもしれない。

菅野覚明 『武士道に学ぶ』によれば、武士道というのは、(1)実際に斬り合い・合戦が絶えなかった時代、(2)帯刀はしても斬り合いが事実上なくなった時代、(3)新渡戸稲造によってキリスト教的解釈によって考察されるようになった時代、で大きく認識が異なる。
現代日本人が「武士道は・・・」と言う場合、多くは(3)の新渡戸稲造解釈をとっているが、それは(1)の時代の武士道とは大きく異なる。斬り合い・合戦で実際に命を落とすことが身近にあった時代の武士道は、徹底的な現実主義の冷酷さと気迫に充ち満ちたものである。その後、(2)の時代になり、文にも長けた武士が、人が闘い殺し合わなければならないことを思想的にも深めたが(例えば「逆縁」の考えなど)、『ラストサムライ』の武士道は、(1)の斬り合い・合戦を日常としている時代の武士が(2)の思想をもっていたという想定で描かれているように思われる。

闇夜の敵の急襲や合戦のシーンは、まさに一切の限定なしの闘いであり、「武芸十八般」という素養は、こういった現実を基にしてできてきたのかと思わされる。現代の「武道」の考えでは、剣道(剣術)をしない柔道家、柔道(柔術)をしない空手家、空手(当身)をしない剣道家などは「当たり前」であり、「忍者」と聞けば笑い出してしまうことが「常識」になってしまっているが、この『ラストサムライ』で(もちろん映画表現として誇張されて)描かれている殺し合いを見ると、そのような現代の「武道」観は武人としてはとうてい受け入れられないものとなる。そもそも試合の日時に合わせて闘う準備をするだけで、若さだけでやってゆける頂点を過ぎたら引退、という生き方自体が、武人的ではないと言えるだろう。

『ラストサムライ』の勝元は最後に討ち死にするが、それは人々に畏敬の念を喚起させるものであった(ただ、映画の描き方は大げさ過ぎる)。武人が死ぬこと、いやそれどころか合戦で負けて殺されることは、それ自体では恥ではない。人が死ぬことは必定だからだ。必定が恥だとしたら、人生の意味が崩壊してしまう。だからどう見事に死ぬか、どう自らの宿命を生き抜くかが大切になる。「潔い」でもなく、「諦めた」ものでもなく、自らの可能性の限りを尽くした上での死こそが、偉大な生なのだ。



買ったままで本棚に置いたままにしていたこの『ラストサムライ』のDVDを取り出したのは、昨晩見たK1グランプリでのピーター・アーツの負け姿に感動してしまったからである。この映画を見れば何かわかるかもと思い、取り出したわけだ。

今回のK1の一つのテーマは、セーム・シュルトをどう止めるか、だった。セーム・シュルト(37歳)は213センチ、136キロの大男で、K1グランプリを4回制覇している。今回、勝てば前人未到の5回制覇になった。しかしセーム・シュルトは、見る限り技術のある選手ではなく、体格の大きさだけで勝っている(ように思える)。今回、彼を止めるのは、これまた195センチ、126キロの筋肉の塊のようなアリスター・オーフレイム(30歳)かと思われていたが、実際に止めたのは192センチ、107キロとセーム・シュルトと比べたら一回り(約20センチ・30キロ)小さいピーター・アーツだった。しかもピーター・アーツは40歳だ。

ピーター・アーツは技術と気迫の試合でセーム・シュルトを判定で下したが、もはやその準決勝で彼は刀折れ矢尽きていた。だから決勝のアリスター・オーフレイム戦では一ラウンド開始早々に負けてしまった。

しかしなぜか私はその負け姿―リングの上に座り込んでしまったピーター・アーツ―に感動してしまった。有明コロシアムの観客もそうだったと思う。フジテレビのスポーツニュースは「新王者誕生」でアリスター・オーフレイムを主に取り上げていたが、私にとっては新王者よりも、新王者に無残に負けたピーター・アーツこそが英雄だった。私の記憶の限り、私は敗者に「よくやった」と慰めるように同情することはあっても、感動したことはなかった。それはなぜなのかと考えるうちに、『ラストサムライ』に手を伸ばしたわけだ。

昔日の日本は、ハリウッドにこのような映画を作らせるぐらいの文化をもっていた。ヒクソン・グレイシーも「サムライ」に憧れていた。だが、実際に日本に来てみたら「サムライ」は一人もいなかったと明言している。

しかし日本の文化の片鱗は現代日本にも残っているはずだ。実際、私もそのような文化を体現するような方に何人かお会いすることができたり、以前の武道・武術の達人の著作を読んだりして、日本文化の奥深さを感じることはある。とくに先日ある本を読んだが、その人が直接書いた言葉をそのまま読めることの幸せをしみじみと感じた。もしこれが外国語ならば、おそらく少々辞書を引いたとしてもわからない、あるいは隔靴掻痒ではないかと思った。

妙に誤解されてはいけないが、死を忘れぬ生、生と死の表裏一体性を身体で感じ取り、充実した生をまさに体現すること、こういった日本文化に対する敬意の念を忘れないようにしたい。「文武両道」というのは「進学校の生徒がスポーツでも頑張る」といった浅く短期的なものでなく、深く生涯を通じて追求するべきものだろう。少なくともそれが「サムライ」である。









おじさんは、今夜も、熱いぜwwwww





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2010年2月27日土曜日

『バットマン ダークナイト』

3本買ったら1本1000円でDVDを購入。

どこかで噂を聞いていた『バットマン ダークナイト』を選び、見る。


すげえ。


ひさびさ面白い映画を見た。


脚本がよく書けている。俳優がいい。音楽がいい。映像と色彩の感覚もいい。

アメコミを題材にして、どんどん人間の影を描き出す。というより影と光の共存を描き出す。

登場人物のジョーカーが、まさにドラマの「ジョーカー」として次々にドラマにカオスをもたらす。

現代の寓話として非常に面白い。(かといって安直な類型化・教訓化は絶対にしたくないけど)



2時間半、ストーリーに飲み込まれてしまった。



「神話」のリアリティが失われてしまった現代、私たちの少なからずはSF仕立ての映画に名状しがたい人間の無意識の動きを語らせているのかなぁ。


設定や登場人物の荒唐無稽さというのは、短く大胆に人間を描き出すときに時に有効なのかもしれない。







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2009年9月6日日曜日

映画「マグノリア」

微熱が続くので、こんな時でもなければ長い映画は見られないと思い、前から気になっていながら見る機会を逃していた映画「マグノリア」を見る。

見ながら必死で複数の人物と出来事を因果律で結びつけようとしている自分に途中で気がつく。


おそらく因果律に基づく合理的な整合性というのは、自分の予想以上に私の中に巣くっているのだろう。

人生も世界も、そんなに単純じゃないのにね。

もちろん単純に捉えることも可能だけれど、そうすると見えなくなってしまうことがたくさんあるのにね。


物事は「起こる」のよね。

複合性 (complexity) で説明するのが、現在のところもっとも妥当な説明法なのだろうけれど、それも後知恵であり、単一の視点だけで、振り返るまもなく実時間で行動している人間にとって、物事はただ「起こる」のよね。

だから、単純な因果律による説明はしばしば破綻し、それどころか意味づけさえうまくいかないのよね。

だから「全知全能」にて、人間には不可解な「神」を想像し、それへの信仰でなんとか乗り切ろうとするけど、それもいつもうまくゆくとは限らないのよね。

起こることを起こるがままに受け止め、ひとつひとつそれらに丁寧に対処できる人がいたら、その人は大人だと思う。



映画のラストシーンで、象徴的な天災(?)が起こるけど、3時間近く、この映画を見ていたら、「うん、そんなことも起こりうる」と妙に納得してしまった。


それから音楽はいい。この映画が一種のミュージカルになっていると言ってもいいぐらいに、映画と音楽がぴったりあっていた。

わけのわからない「文学」的な映画を見たいのでしたら、お薦めです。


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2007年7月3日火曜日

ヒロシマナガサキ


 各種報道によりますと、久間章生防衛相は本日午後、閣僚を辞任する意向を伝え、安倍首相もそれを了承しました。米国による広島、長崎への原爆投下を「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」と発言したことについて、責任を取っての辞任だそうです。

 私自身は、閣僚とは、日本の国益を第一に考えるべきだと考えていますので、上記の発言は必ずしも適切ではないと考えます。ですが、一方では、米国などでは上記のような意見はむしろ「当たり前の意見」として受け入れられていることも事実かと思います。大切なことは、人類史上における核兵器の発明と使用をどう考えるか、核抑止力をどう考えるか、核軍備と核軍縮を理想と現実の往復運動の中でどう考えるか・・・こういった問題をどう考え抜くかということかと思います。(ちなみに私は凡庸な平和主義者として考え抜こうと思っています)。

 この問題は決して閣僚の辞任といったことだけで思考に蓋をするべき問題ではありません。

 折しもこの8月から「ヒロシマナガサキ」(THE WHITE LIGHT / THE BLACK RAIN: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)が全国各地で公開されます。せめて私たちは被爆者14人と爆撃に関わったアメリカ人4人の証言に耳を傾けましょう。それが私たちが考え抜くことのスタートであり、また死者への敬意というものかと思います。

http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/

2007年6月25日月曜日

パッチギ

 人生というのは、歴史と社会に翻弄されて錯綜し混乱します。「何やねん、これ!」と突っ込みでもいれなければやれないことが続き、やがては怒りが爆発したり、わっと泣き崩れるようなことに至り、その中から、なんとも形容のしがたい不思議な笑いが生じたりするものです。日本と韓国の歴史的・社会的関係についても同様でしょうが、似非インテリの私は、その関係についてもほとんど知らなかったりします。

ですからせめてビデオ録画で見たこの映画のよさを多くの人に伝えようと思います。

誤解を怖れずに言ってしまうなら、この映画に出てくる人物は皆アホです。背景となる時代そのものも相当アホです。でもそれらのアホさを、悲しさとユーモアを同居させながら肯定するところにこの井筒和幸監督の偉大さがあったと思います。

私は日本を愛しています。だから日本のアホさをもまるごと肯定したい。日本の間違いもそのまま引き受けたい。だからといって日本ばかりがアホだとか間違いを犯すとも思いません。皆アホです。他の国だって相当アホです。その中で何とかお互いうまくやってゆきたいと思います。

最近、狭隘な「愛国心」が語られすぎていることを私は懸念します。狭隘で偏狭な「愛国心」は、その影として、その「愛国心」を共有しない同国人と、その「愛国」でない国に住む外国人に対して無理解と蔑視の視線を注ぎがちです。

私は日本を愛しています。ですからこそ、排他的な「愛国心」ばかりを標榜する人に賛同できません。

最近の日記で内田樹氏も次のように言います。

人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。
私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。
歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。
それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。
ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。
「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。
それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。
そこから彼らが導かれる結論はたいへんシンプルなものである。
それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。
その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。
歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。

内田樹 http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php

私は『パッチギ』のような映画を見て、「日本人も韓国人もたいがいにアホや。でも日本には一杯ええとこあるで。韓国もそうや。まあ、お互いボチボチやね」ぐらいに思っていたく思います。アホ同士がお国自慢をし合っているぐらいに思っているのが丁度いいのではないでしょうか。

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