しかし、今回の福島の子どもへの放射線線量制限をめぐる、文部科学省官僚の対応を見ていると、最初は福島住民と共に驚き、憤怒を覚えましたが、私個人としては次第に呆れ、会見の場であのような語り方しかできない官僚に、情け無さを通り越して、憐れみさえ感じるようになりました。
なぜあのようにしか語れないのか・・・。
会見の場の官僚も、子どもをもつ親の気持ちがわからないわけではないはずなのに、どうしてあのように、役所の流儀を絶対視して、自らの無作為や無策をあたかも誇っているような言動を取るのか。なぜ陳情にくる住民を、あたかも「物事がわからない困った人たち」のように見下した態度を取るのか。自らもかつては子どもであり、高圧的な態度を生まれつきもっていたのではないはずなのに・・・。
「役所」という近代文化をもう一度考えなおしてみなければならないのではないかと考えるようになりました。そうしてその一環として『生きる』のDVDを注文し、今、見終えました。
よかった。やはりすごい作品でした。単純な感動モノ、勧善懲悪モノなどではありません(当たり前ですよね、自分の傲慢な思い込みに反省)。特に後半の、複数の通夜参列者の語りを基軸にしたストーリーテリングはすばらしい。主人公が貫き通そうとした生きることの尊厳が踏みにじられ、復権され、調子のいい話にされ、一喝され、懐柔され、骨抜きにされ、そして最後に・・・。
この語りの複数性と重層性は、この映画が訴えることの単純な要約や図式化を拒みます。黒澤明がこの『生きる』で言いたかったことは、やはりこの『生きる』という映画作品でしか表現できないというべきでしょう。この映画のどんな要約や評価も、それは派生的に生じた、別の表現に過ぎない(これも当たり前のことですね、ごめんなさい)。
しかし、一つだけ単純化したことを言うなら、この映画を通じて、笑う者、怒る者、泣く者、そして歌う者とはどんな人達かを見極めてください。
逆に、そういった感情を押し殺す者、あるいはそれらの感情をおざなりの社会的演技でしか表現しない者とはどんな人達かを観察してください。そしてあなたはどちらのような人になりたいのか、いや、現にどちらのような人なのかを自問してください。
特に、役所に勤める人は、この映画を10年に一度は見るべきかと思います。この場合の「役所」とは硬直化した組織のことであり、民間でも東電のような組織はここでいう「役所」の範疇に入ります。あるいは首を切られないことをいいことにして、ふんぞり返っている教員も見るべきでしょう(誠に遺憾ながら、教員にもそんな人はいます)。
映画のストーリーテリングは素晴らしく、画面の構図や転換などの映画文法は見事ですが、映画の前半は、戦後の復興期の風俗が、現代日本とあまりにも異なるので違和感を覚えるかもしれません。私も最初は、外国映画を見ているようでした。
さらに後半の通夜を基軸とした展開で、私はこの映画が、役人文化を描いたロシア映画のようにも思えてきました(ご承知のように、役人の生態はロシア文学のテーマの一つです)。
そうしてこの映画を一種、ロシア映画のようなものとして考え始めたら、私は急にこの映画がやはり私たちの日本映画なのだと感じられてきました。
ロシア映画が日本映画?
だって、現在の日本は、チェルノブイリ事故のソビエトそっくりではありませんか。
違う?
ま、確かに、事故対応が旧ソ連より遅く、役人の虚勢を国民の多くがまだ権威として信じているかもしれないという点で、確かに現代日本は旧ソ連とは違うかもしれませんが・・・
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