文化の役目について:震災と福島の人災を受けて
大友良英
2011年4月28日 東京芸術大学での特別講演から
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html
以下、そこからの抜粋です。読みやすさのために、適宜改行を加えました。また太字強調も私が加えました。
おかしいよ。おかしいよっていうかさ、だって、殺りくに近いことが起こっているんだよ。ただし、ゆっくり殺すっていう、ものすごいDEATHな感じだよね。何十年かかけて殺す。死なないかもしれない。法に触れないやり方でジワジワと住めなくしたり。オレはこれは、非人道的な事態だと思うんです。
なのに、いまだにテレビを見ると、火力発電だってCO2を出すでしょうとか、そういう話になるんですよ。火力発電がCO2出すのはその通りで、原発にも欠点もあるし、いいところもあるんだと思う。だけどこれは、非人道的な事態だということを、オレは、はっきり言った方がいいと思うんです。人殺しに近い、と僕は思っているんですよね。
実際に、ナイフでグッて刺すと分かりやすいけど、そういう分かりやすい事態ではないことはとても厄介で。ナイフで刺すという例えはこの先もしていきますけど、すごく分かりやすいじゃない。ナイフでグッて刺したら、それは良くないよなって思いますよね。刺された人は、それは良くないよなって思う暇もなく、痛てっ!となると思うんですけど、これが、ものすごく長いスパンをかけて起こっている、と僕は思っているんです。
それだけじゃなくて、いきなり住む場所を奪われるということも起きている。水力発電も同じじゃないかという意見もありますが、水力発電で村が消滅することとは、僕は、比べちゃいけないと思います。水力発電の場合も非人道的かもしれないけど、合意の下に形成されている。
だけど、今回の事態は、少なくとも合意ではないし、明らかに非人道的な事態が今、起こっているんだと思います。僕はそのことをまず、みんなに押さえておいてもらいたいと思っています。原発推進でも反対でもいいです。それは、それぞれが考えることだけど、少なくとも今、福島では、非人道的なことが起こっていて、僕は、非人道的なことは良くない、と思ってます。それが、イコール原発が良くないかどうかということは、僕が今ここで言うことじゃない。それぞれが判断すればいいと思ってますが、まずそこは押さえておいてください。その上で話を進めたいと思います。
(中略)
それで実際に福島に行って、人と会うと、みんな、ずいぶん話すんです。すごく明るく見える。だけど、話せば話すほど、これはもう僕だけの感じ方かもしれないですけど、それはもう、福島で会った人、ほぼ全員に言えるんですけど、会った人に対してすごく失礼な例えになったら申し訳ないんだけど、もうみんな心に傷を受けてるというか、心から血がだらだら流れているような感じがして。僕は今までにこんな人たち、見たことがないと思った。それは、家が壊れたり、追い出されて住めなくなった人たちじゃなくてもですよ。
(中略)
福島に行って、福島の人たちと話して一番感じたのは、多くの人がものすごい被害者感情にさいなまれている。みんなが最初に共通して話すのは、風評被害のことなんです。実際に、風評被害はありましたよね。農作物が売れないとか、ホテルで宿泊を拒否されるとか。
ほかにもたくさんあったと思うけど、福島で広がっている風評被害はそのレベルを超えていて、オレが聞いたことないのもあったんですよ。東京駅で福島の人だけにバッヂをつけようという話が進行してるとか。こんなの、東京ではほとんど誰も言ってないけど、福島ではみんなに、東京じゃそういうこと言ってるでしょって言われるんですよ。あと、福島の女の子とは結婚しないとか。それも1人だけじゃないんですよ、何人にも言われたんです。
郡山市でも福島市でも。そういう話が向こうでブワッと広がって、こっちで言われている以上の状態になっている。これはすごく象徴的だと思うんです。オレが思うにそれは多分、どうしていいか分からない、自分たちは孤立しているという感覚、見捨てられているという感覚だと思うんですよね。現実に今それが、起こりつつあると思うんです。
(中略)
だけど、ナイフで差されたけがならお医者さんのところに連れて行って縫えばいいよね。だけど今回のけがは、僕は、福島だけの話ではなくて、東京の人も含まれると思うけど、やっぱり「心」だと思うんですよね。
「心」とか、オレ、今まであんまり、恥ずかしくて使わなかった言葉なんだけど、心の傷を治していくのは精神科のお医者さんだって言われるかもしれないけど、そういう傷とも違うんですよね。個人の問題ではなく全体が傷を負っている。その大きな原因は、これはもう素朴に、自信を失っていることだと思うんですよ。
(中略)
福島っていう名前が、不名誉な名前のままだったら、多分、福島の人たちはやっていけなくて、自信喪失したままだと。あともうひとつ、とても心配してるのは、すでに起こっていると思うけど、福島が切り捨てられていく。さっきも言ったけど、ほかが復興で明るい方向に向かってますよね。そのときに、復興に向かっていない福島のことは、やっぱり伏せておきたいという感情が働くと思うんですよ。そうすると、これまで日本でいろいろ起こってきた公害病と一緒になってしまって、そこの地域だけで起こっている特殊な事情だということにして、ふたを閉めていく。手厚く補償はするけれど、とりあえずこれはその地域の問題だということで収められていく。
だけど僕は本当に言いたい。これは福島だけの問題なのか。日本だけの問題ですらないと思ってる。チェルノブイリのときと一緒だと思う。オレ、これ、原発反対運動に持っていきたくて言ってるんじゃないですよ。そういうことじゃなくて、これは福島だけの問題じゃないとオレは思ってるんです。
だけどそれを、福島だけの問題じゃないと言うためにはどうしたらいいか、ということですよね。ここでオレが、いくら福島だけの問題じゃないと言ったって、説得力はないですから。オレは、そういう意味では、チェルノブイリの方たちには本当に失礼だけど、チェルノブイリの名前は今までずっとネガティブなままで、例えば、原発をなくすための運動の象徴の名前として、オレたちもチェルノブイリを見習え、にはなってないと思うんですよ。なぜかといえば、チェルノブイリからは文化が出てないからだとオレは思ってるのね。あるのかもしれないけど伝わってないと思ってて、もしあったらゴメンなさい。オレ、こういうこと、今まですごく無知だったから。
だけど、原発とはまた違う問題ですけど、広島は「No More Hiroshima」と言われるけど、それが不名誉な響きではない感じがしてるんですよね。平和運動の象徴として、広島の人たちは誇りを取り戻したような気がしている。だったら、福島という名前を、ポジティブな名前に転換していけばいいんじゃないか、と思ったんですよ。今、せっかくネームバリューが最高にあるんだから。
(中略)
福島の名前をポジティブに転換していくということを具体的にやるのはすごく大変だと思うんだけど、日本で侍が刀を捨てて明治維新をしてからたった数十年で飛行機が実用化してるんですよね。そう考えると、できるんじゃねえか。100年後はどうせオレ死んじゃうから、無責任に言ってるんですけど。だけど、夢見る自由はあるだろう、というのがひとつ。その夢見る自由を失ったら、本当に福島は死んでいくと思うんだよ。
オレ、福島に住み続けろと言ってるんじゃないですよ。放射能が本当に危険な場所に、オレたちは夢見る自由があると言って住み続けてはいけない気もしてる。放射能を除去する技術ができない限り、住めない場所があるのは事実だと思うんです。
だけど、福島が全部住めなくなっているわけではないので、そのことを冷静に見つつ、住めないとなったときは、ものすごい厳しいけれど、それを判断することも必要で、それをごまかす文化じゃダメだと思うんですよ。ちゃんと見る。それは文化だけの話ではなくて、科学や政治も協同してやっていかなければならないことだと思う。福島という言葉をポジティブに変えていくために、オレはおそらく、科学や政治だけでは絶対に不可能で、文化の役目だと思ってる。
(中略)
でも、不謹慎なこと、言いたいよねぇ。あれ、同意を求められない(笑)。オレ、福島に行って現状を見て、それでもすごい不謹慎なこと言いたくなったよ。だって不謹慎だよ、この世の中のほうがよっぽど。こんな非人道的な事態を前に、非人道的とは誰も言わなくて、原発どうしましょうとか、テレビでのんきなこと言ってるんだよ。原発の良いところはですねぇとか。そりゃ良いところもあるよね。コストが安いとか。賠償金のことを考えなけりゃ、めっちゃ安いよね。賠償金どうすんだよって。
朝日新聞に東浩紀さんが寄稿した「原発20キロ圏で考える」<朝日新聞 2011年4月26日(火)号 朝刊・文化欄>という文章を読んだ人いる? 原発の避難指示区域を取材して、小学校にランドセルがそのときのまま置いてあるところを見てきたレポートなんだけど、原発のコストにはここにランドセル置き去りにしなければならなかった子どもたちの分は入っていない。オレ、本当にその通りだと思う。家を無くした人に家を与えるコストは入るかもしれないけれど、子どもたちの心に残った傷のコスト、あるいは、僕らだってさ、臆病と言われるかもしれないけど、水道から放射能が出たと言われたとき、ビビったよね。オレ、やっべぇ、と思った。そういうコストは入ってないよね。こんな人として当たり前のことも通用しないなんて世の中の方がよっぽど不謹慎だよ。
(中略)
和合さん [注:福島在住の詩人、和合亮一氏。震災直後からのツィートが話題になる(@wago2828)] と会ったときに、和合さんがすごく象徴的なことを言っていた。「もう自分は壊れてもいい」と言ったんです。
それは、「死んでもいい」という意味に取れるかもしれないけど、もうちょっと狭い意味にとらえると、詩人としての自分のキャリアはどうでもいい。現代詩とか何とかっていうのもどうでもいいっていうことだ、と僕は解釈したんです。
その気持ちはすごくよく分かって、オレも、もともとそういうことはどうでもいいと思ってたけど、もっとどうでもいいというか、そんなことより、今、本当に必要なものは何か、だと思う。自分がこれからそういう中で、音楽で何をやっていくか、ということを考えていくしかない。これでも音楽家ですから。
(中略)
最後にもう一度繰り返します。今福島で起こってるこの事態に対してどうしていくか、そこからどう未来を見つけて行くか。私たちの未来はそのことに本当にかかっていると思います。
そしてそれが出来るのは、今この事態を最も身にしてみて体験している福島の人たちであり、この事態を引き起こしてしまった我々だと思うんです。
将来「FUKUSHIMA」という言葉が、ネガティブな響きのままでいるか、それとも新しい未来を切り開く先駆けになった名誉ある地名として世に残るのかに私たちの未来はかかってると言っても過言ではありません。今この過酷な現実をどう解釈し、どう未来を切り開いてくか。文化の役目はそこにあると思ってます。
http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html
「心の傷」などという言葉を聞くと、「だから感情論は困る。もっと大局的に見て、合理的に考えなければ」などと、したり顔で語る「識者」はいます。
しかしその「合理性」にどれだけの実質があるというのでしょう。原子力ムラの「合理性」とは、自らが利権のためにこうあって欲しいという主観的願望の上に立てられた計算でした。多様な要因が連関する世界の複合性(complexity)は、だれも予測も制御もできないものなのに、自らの見たい世界像だけを見続けそれを「現実だ」と言い、それが今回のように覆されると「想定外だった」と言い続ける ― 人間の合理性なんてせいぜいそんなものでしょう。
しかし、見えない放射能に怯え、外出もままならない生活。原発の近くでは避難を余儀なくされ、家族のように思っていた動物が餓死や共食いを含めた悲惨な状況に追いやられ、しかももう二度と故郷に帰ることができなくなるかもしれない。地域の共同体はすでにばらばらに引き裂かれている。さらには将来、さまざまな健康障害を患うかもしれない。それなのに裁判での立証などを考えれば、東電や国からの補償もないかもしれない ― これは目の前の現実です。すくなくとも「大局的な合理性」とやらよりも、はっきりとくっきりと見える現実です。
3月11日以来、「これが日本なのか」と思わされる機会がたびたびあります。しかしとりわけ恐ろしいことは、日本人の多くが福島(および被災地)のことを考えないことを、静かに選びつつあるのではないかという可能性です。
大友氏が言うように、今、福島で起こっていることは非人道的なことだと思います。しかし、そのことから目を逸らし続けることはもっと非人道的なことなのかもしれません。
といいつつも、被災から逃れた私などはずいぶん気楽な暮らしをしています。気晴らしも多くあります。義援金やブログ・ツイッター以外では、被災地のために何をしているわけでもありません。しかし、福島およびその他の東北の被災地に対して思考停止だけはしたくありません。目の前の快適さを理由にして。
大友良英氏に関する主な情報は以下の通りです。
大友良英のJAMJAM日記 2011-05-09 プロジェクトFUKUSHIMA! スタート
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20110509
PROJECT fUKUSHIMA! 公式ホームページ
http://www.pj-fukushima.jp/index.html
大友良英さんのツイッター
@otomojamjam
なお、上のような感性をもつ大友良英氏はどんな音楽をやっているのだろう、と思い少し調べてみたら、ノイズミュージックやフリー・ジャズなどで活躍されているようです(ウィキペディア)。私はDerek Bailey(Wikipedia)は好きで、6~7枚ぐらいCDをもっているのですが、大友氏のことは知りませんでした。
アマゾンで調べると、エリック・ドルフィーの新解釈をやったり(「ONJOプレイズ・エリック・ドルフィー・アウト・トゥ・ランチ」)、カヒミ・カリィと共演したり(Muhlifein [DVD])されています。私はエリック・ドルフィーもカヒミ・カリィも好きなので、とりあえずこの2作品は注文しました。ご興味のある方はYouTube検索すると、いくつかの(非公式)音源を聞くことができます。
ノイズミュージックとは、私にとって正気を保つための試みであるように思えます(少なくとも私がDerek Baileyを聞くのはそのような時です)。
「これが日本なのか」と愕然とし続けている昨今、私ももう一度ノイズミュージックを聴き始めようかと思います。
これからの福島、東北、そして日本の、長い長い再生の道のりにおいて文化が果たしうることも考え続けたいと思います。
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