2018年7月28日土曜日

森田真生先生の講演会「数学の身体性と普遍性」に参加して考えたこと



広島大学の教育ヴィジョン研究センター(EVRI)による企画である森田真生先生の講演会「数学の身体性と普遍性」(2018/07/28 13:00-16:00広島大学中央図書館ライブラリーホール)に参加しました。とても面白かったので、忘れないうちに自分で考えたことをメモしておきます。

■印に続く文は、森田先生のお話の要約ですが、それには私自身の言い換えや解釈(誤解)が入っていることは最初に申し上げておきます。[ ]内と▲印に続く文は私なりに考えたことです。まあ、要は、以下の記述の中で、何かいいことが書かれていたらそれは森田先生によるもので、間違いが書かれていたらそれは私によるものということです(笑)。



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▲ 全体的な印象を最初に述べるなら、マトゥラーナとヴァレラのシステム論的な考えが基底にあり、その上で急速かつ多面的に変化している現代社会の現象を踏まえながら語っていたのが印象的[私はお話を、自分で理解している限りのルーマンの論に翻訳しながら聞きました]。
関連記事
柳瀬ブログ:ルーマン関連の記事
https://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

■ 「XのためにYをする」という目的-手段構造の問いを何回か重ねると(「では何のためにYをするのか?」・・・)、「αするためにαする」という同語反復が生じてくる。だが、この同語反復命題こそが人間にとって重要。

■ 現在の人工知能研究は発展しているように見えるが、やはりプログラムにおける評価関数は外から予め与えられることが多く、そこに限界があるのかもしれない。ただ遺伝的アルゴリズムの手法を使い、かつ、集団の平均値からもっとも外れた個体の情報を遺伝させるようにすると、非常に面白い進化が生じるとも聞いている。
関連サイト
ウィキペディア:評価関数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E4%BE%A1%E9%96%A2%E6%95%B0
松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/01/2015-2016.html


■ 認識の成功とは変化する世界に参加できていること[デューイ的な発想]
関連記事
John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html

■ 華厳経での「重々帝網」(じゅうじゅうたいもう)を世界の比喩として考えるなら、その網の一部を切り出したのが学問の知恵といえるかもしれない。切り出された網の一部を垂れ下げると樹形図のようになり、その始点を私たちは原因と考える局所的な説明ができあがる。
関連サイト
ウィキペディア 華厳経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C
織田隆深 「人体は、 巨大なネットワーク -- 重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」
http://mitsumonkai.na.coocan.jp/prefaces/preface201801.html
末期癌の医師・僧侶が語る空海「重々帝網名即身」の解釈
https://www.news-postseven.com/archives/20161020_457135.html
宮沢賢治 『インドラの網」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/460_42328.html

■ Knowing [うまい日本語訳が見つからない!] はbeingによって包摂され規定されているが、同時にknowingはbeingを変容される。しかし、近代の学問はknowingをbeingから切り離した上でそれを不動のものとして設定した。

■ 学校の教室とは、学習者がいかに行動しようと、授業という環境が変わらない場所だと表現できるかもしれないが、このように特殊な場所は他にはない(他の場所では、人の行動によって環境はそれなりに変わり、人と環境は相互作用を起こす)。

■ 学校に長い時間いさせるということは、「自分は何をやっても環境は変わらない」という信念を若い人に植え付けることとすら言えるかもしれない。

■ しかも学校・教室という空間は閉鎖的であり、授業という目的に直結しないものはできるだけ置かれないようにされている。

■ しかし思考や創造性を環境変化への対応と考えるなら[デューイ的発想]、環境がnoisyでmessyであってこそ思考や創造性は始動するのではないか。

■ 多様な人間と出会わないと、自分が進むべき道もなかなかわからないだろう。

■ 何の変化もない環境で「考えろ」と言われても、それはおよそ困難な要求であろう。

■ 社会や人間観が変わると同時に学校も変わる。たとえばフンボルトは彼なりに時代の変化を感じ取り新しい大学像を提示したが、現在もこのような大学像のままでよいのだろうか?[初等・中等教育については、テイラーやソーンダイクの影響が強かったが、これにも変化の必要はないだろうか?]

関連サイト
【報告】「哲学と大学」 第3回「フンボルトにおける大学と〈教養〉」
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/02/report-philosophy-and-universi/
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか
Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

■ 学ぶことはもっと生きることに近づかなければならない[デューイ的発想]

■ ヴァレラはなめらかな知性としてのKnow-Howとぎこちない知性としてのKnow-Whatを対比させたが、前者こそが私たちの知の根源である。
関連サイト
FRANCISCO J. VARELA Ethical Know-How: Action, Wisdom, and Cognition
https://www.sup.org/books/title/?id=896
https://www.amazon.co.jp/Ethical-Know-How-Cognition-Writing-Science/dp/0804730334

■ 現在「公準」と日本語に訳されている概念は、古代ギリシャでは「要請」という意味だった。この要請を受け入れた人たちだけが、数学というゲームに参加することができた。例えば、「幅のない線」という概念を認めないと幾何学というゲームに参加することはできない。

■ 数学教育の目的とは、数学の技術(代表的なものとして計算)を教えることなのか、それとも数学を通じて学習者に自己変容を経験させることなのか。

▲ 現状の学校教育で学習者と教師を疲弊させてしまっている要因の一つは、他律的で標準化された評価。こういった評価で管理されると、学習者が学習者なりの自己変容を経験することを支援するのが教師の役目といった考え方は否定される。

■ 生命とはそもそも自律的 (autonomous) であるが[オートポイエーシスシステム(自己生成システム)であるが]、自律的であるということは自らの過去に縛られているということでもある。

■ そんな人間も、計算を覚えると、外部からの入力に対して一定の出力を出すようになるという意味で他律的 (heteronomous) になる。しかしこの他律性により、人間は過去の自分からは考えられないような結果を自らの中で作り出すことになる。最初、その結果は意味不明だが、何度も同じような計算をすることにより、そこに意味が見出されるようになる。

■ 計算のやり方を覚えることが数学の第一段階だとしたら、最初は意味不明に思えた計算結果から意味を見出すことが数学の第二段階と言えないだろうか。

▲ 数学の学びは、最初はrealな身体(=生物学的・歴史的に拘束された実在的身体)で始まるが、やがて数学を学ぶにつれ学習者は計算などで導かれる数学世界で活動するようになりactualな身体(=数学という行為を行うことによって実感される現実的存在)を実感し、ひいてはそのactualな身体でも実感できないが数学世界にいる以上、認めざるをえないvirtualな身体(=数学をやる限りにおいて認めざるをえない仮想的身体)を獲得するとはいえないだろうか。

■ これからは計算を得意とする機械と、意味を見出すことを得意とする人間が相互作用を起こすことにより、創造性が向上するのではないだろうか。

▲ 話を聞いていると、数学教育を刷新する方法の一つは、STEM (Science, Technology, Engineering and Mathematics) にArtを足したSTEAM  (Science, Technology, Engineering and Mathematics) という枠組みで、学習者が何かの現実世界の課題をプロジェクトにして、数学を他の知と連動的に学ぶようにすることであるように思える。この場合、学習者は「気がついたらプロジェクトに参加していて、しかもそれを面白いと思っていた」となるようにするべきだろう(これは『ライフロング・キンダーガーテン』で描かれている学びの姿でもある)。

ただし、これは相当に力量のある教師が融通無碍に協働し、かつ世界のさまざまなリソースを使いこなさないと難しいことなのかもしれない。伊藤穰一がよく言う「押し出す力よりも引き出す力 (pull over push)」を学ぶことが必要だろう。

ウィキペディア:STAM教育
https://ja.wikipedia.org/wiki/STEAM%E6%95%99%E8%82%B2
Wikipedia: STEAM fields
https://en.wikipedia.org/wiki/STEAM_fields
What is STEAM?
https://educationcloset.com/steam/what-is-steam/
ミッチェル・レズニック 『ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考力を育む4つの原則』




伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017) 『9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/01/2017-9.html

■ 学ぶ者は、次に自分が学ぶことで自分がどのように変わるかを予め知ることはできない。この点を考えるなら、学習者にその時点での学習者がわかる理屈で学習を促進させようとするのは筋違い。むしろ、学習者が、学習者のレベルを超えた学びをしている人間と交流し、それら先達が学んだ文化を楽しんで実践している姿を見せることが重要。

■ 社会におけるさまざまなシステムは相互依存しているので、例えばある教育システムだけが改善されたとしても、その教育システムから出た者は、他のシステムでは苦労するだろう(たとえばあるとても先進的な学校を出た者は、日本社会では苦労する)。

■ システムの相互依存性を考えるなら、あるシステムが変わる時はおそらく社会のさまざまなシステムも同時に変わっている時なのではないか。

■ 社会のさまざまなシステムが同時に変化し始めると「当たり前」が通用しなくなる。その時にこそコミュニケーションは意味をもつ。現代はまさにそのような時代ではないか。

▲ 現在の学校教育システムで良心的に教育しようとしている教師は、惰性的に続いているだけのシステムの中にいながら、そのシステムを変革して教育を行わねばならないというジレンマに引き裂かれるような思いをしているかもしれない。だが、考え方を変えるなら、そのような教師の役割とは、現状の学校教育システムの内側で、子どもに現状のシステムへの対応を教えながらも、学校教育システムに潰されないように子どもを守り、いつかくるだろう諸システムの大変化に備えた学びを促進することではないのか。

▲ しかし、諸システムの大変化は一晩で起こるものではないだろう。現在はすでにその渦中にあると考えて行動するべきではないか。



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いろいろと思考を触発される講演会でした。学校教育関係者にはこのような「撹乱」が必要でしょう。さもないと、私たちは窒息してしまうかもしれません。

また、森田先生の著作を読み返したくもなりました。









2018年7月19日木曜日

パネルディスカッション「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか? 」の予稿 +二つの追記情報


以下は、8/9(木)に外国語メディア学会(LET)第58回全国研究大会で開催されるパネルディスカッション「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?」(登壇者:柳瀬陽介・寺沢拓敬・松井孝志・亘理陽一)の予稿原稿です。


外国語メディア学会(LET)第58回全国研究大会
講演・シンポジウム詳細

現在進行中の大学入試改革は、今後の英語教育・公教育のあり方を左右する重要なものですから、できるだけ充実したパネルディスカッションにしたいと思っています。皆さんのご参加をお待ちしております。




追記1
以下のウェブ資料は「建設的な議論のためには基礎的な事実について共通認識を持てることが大切」という認識のもと、「立場を問わず活用できるリンク集」として作られたものです。作成してくださった大橋穣二先生に感謝して、ここにURLを掲載します。

<みんなで使おう>
英語入試関連資料


追記2
下のパワーポイントスライドは、ある大学院生が授業課題の一環として作成したもので、今回の英語入試改革の問題点を手短にまとめています。本人の許可を得て、ここに掲載します。下岡さん、ありがとう。

いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる



この記事は、8/9(木)の外国語メディア学会(LET)第58回全国研究大会パネルディスカッションの準備の一環です。

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Donald T. Campbell
Assessing the impact of planned social change
Evaluation and Program Planning, Vol. 2, pp. 67-90, 1979



この論文は、今や、量的指標が社会に対してもちうる否定的な効果を語る上で古典扱いされている論文かと言ってもいいかと思います。

関連記事:
Wikipedia: Campbell's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Campbell%27s_law
What is Campbell's Law. Diane Ravich's Blog. May 25, 2012.
https://dianeravitch.net/2012/05/25/what-is-campbells-law/
Wikipedia: Goodhart's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Goodhart%27s_law


著者のCampbell氏は社会心理学あるいは応用社会科学 (applied social science) (p. 68) を専門としながら、各種のプログラム評価 (program evaluation) に携わってきました。彼はその経験から、各種指標によって人間を管理することについてやや悲観的な見解をこの論文で表明しています ( "I am, however ambivalently, to present an honestly pessimistic picture of the problems." (p. 68) )。

現在もよく引用され続け、"Campbell's Law" として知られている箇所は論文の最後の方の「量的指標がもたらす腐敗的な効果」 (Corrupting effect of quantitative indicators) の節にあります。著者は、米国では評価研究 (evaluation research) が社会的な意思決定 (social decision-making) の道具として認められ、いわば政治における投票数のように扱われているが (p. 84) 、専門家としてその実態を見ていると次のような悲観的な法則 (pessimistic laws) を提唱せざるをえないと述べます。

The more any quantitative social indicator is used for social decision-making, the more subject it will be to corruption pressures and the more apt it will be to distort and corrupt the social processes it is intended to monitor.  (p. 85)

拙訳:いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる。

著者がこの法則の例として挙げているものなかには警察が、科学的管理法 (scientific management) や説明責任 (accountability) や効用計算運用法 (Planning, Programming, and Budgeting System: PPBS) などの影響を受けて、「事件解決率」("clearance rates") の量的指標で評価された事例があります。この指標で評価されるようになると、警察は市民の訴えをそもそも事件としてなかなか記録しなかったり、記録するにせよ解決されてからはじめて記録するようになりました。あるいは司法取引 (plea-bargain) の制度を濫用し、犯罪者に自分が本当にはやっていない犯罪をも告白させ事件解決率を上げ、犯罪者はその取引で罪を軽くしてもらうといった腐敗が起こりました。 (p. 85)

参考
ウィキペディア:ロバート・マクナマラ>PPBS
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%A9#PPBS
Wikipedia: Output budgeting
https://en.wikipedia.org/wiki/Output_budgeting

ちなみに、「ベスト・アンド・ブライテスト」とも称されたマクナマラが、ベトナム戦争に関して語ったインタビュー映画「フォッグ・オブ・ウォー」は私のお気に入り映画です。戦争といったきわめて複合的な現象においては計算通りにはいかないという、いわば市井の人々なら誰でも知っていることを、エリート中のエリートであるマクナマラが認めたという点が非常に興味深いです。




話を論文に戻します。

行政の例では、職業安定所 (employment office) が「生産性基準」 (productivity standards) を評価基準にして扱ったケースの数を評価基準とすると、スタッフはすぐに終わるが実は有効ではない面談や職紹介をするようになりました。職紹介だけを評価基準にすると、簡単なケースだけを扱い、もっとも行政の助けを必要としているすぐには仕事が見つからないケースを扱わないようになりました。 (p. 85)

教育の世界でも、学力不振の子どもに「契約指導者」(contractors) をつける制度を導入したものの、その契約指導者の報酬は子どもの学力テスト得点向上 (achievement test score gains) で定められるようになると、契約指導者がテスト問題の答えを予め子どもに教えるなどといった腐敗が生じてしまいました。 (p. 85)

Campbellはテストについては次のように述べ、テストがもちうる破壊的な力について警鐘を鳴らしています。

From my own point of view, achievement tests may well be valuable indicators of general school achievement under conditions of normal teaching aimed at general competence. But when test scores become the goal of the teaching process, they both lose their value as indicators of educational status and distort the educational process in undesirable ways. (Similar biases of course surround the use of objective tests in courses or as entrance examinations.)

拙訳:個人的には、学力テストは、一般的な能力向上のために行う通常の授業がなされている限りにおいては、一般的な学校の成果を測る指標としては貴重なものとなると考えている。しかしテスト得点が授業の営みの目標となってしまったら、テスト得点は教育の状態を示す指標としての価値を失い、教育の営みを望ましくない方向に歪めてしまう。(同じような歪みは客観式テストを科目や入試の評価指標として使う場合にももちろん生じる)。

Campbellはこのような腐敗が米国に限った話ではないことを示すために、(当時の)ソ連の例を出します。ソ連の工場でいくつかの量的指標が統計的な記述目的のためだけに使われていた時には問題はなかったのですが、それらの指標を目標値として設定して、その目標達成の具合でそれぞれの工場を評価しはじめると工場生産がおかしくなりました。例えば生産製品の価格で評価すると、工場は同じ製品ばかりを生産し多様な製品の供給が困難になりました。生産製品の重量で評価すると重い製品ばかり生産し、生産した製品の個数で評価すると簡単に生産できる製品ばかり作るようになりました。 (p. 86)


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ここからは私(柳瀬)の意見となります。上記の論文は1979年に出版されたものですが、同じようなこと、つまり「ある限られた観点からの量的指標だけを組織の目標とすることにより組織の営みが歪んでしまうこと」は、現代の経営コンサルタントや実務家や経営学者も認めています。

カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014)
『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です 
コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房

時代の風:「人をつくる」管理職=元世界銀行副総裁・西水美恵子

ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳
『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP


人間の営みに数値目標を押し付けることの危険性は哲学者・科学史家のクリース氏も述べています。

Measurement and Its Discontentsの翻訳

Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳

Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳


そもそもこの問題は、人間は石ころと違って、測定されることを自覚し、その自覚からさまざまな行動を取りうるという一般的な問題として考えるべきなのかもしれません。

Wikipedia: Reflexivity (social theory)
https://en.wikipedia.org/wiki/Reflexivity_(social_theory)


あるいは、西欧近代の文化的傾向が新自由主義で加速しているという視点で考えるべきなのかもしれません。

アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)
『数量化革命』(紀伊国屋書店)

ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)
『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー)

デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、
森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)
『新自由主義』作品社


そういった広い観点から考えた拙稿の一つが下です。

「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿

しかし数値目標による管理はますます進行し、私の大学でも導入されています。その際に具申したのが以下の文章です。

「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文


また、美術と音楽の先生と評価について語った知見は以下の報告書にまとめました。

創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない


2020年度から始まる英語入試改革でも、テストが教育を歪める可能性があります(そもそもこれは昔から指摘されていたことです)。

Shohamy (2001) The Power of Tests のPart Iのまとめ

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」
(ELPA Vision No.02よりの転載)


制度は固定化すると改革が困難になります。またその制度しか知らない若い世代が想像力を発揮しないまま教員となり、教育がますます硬直化する可能性も恐ろしいものです。

英語入試改革について、英語教育関係者は専門家としてもっと考え行動すべきだと私は思います。

小泉利恵 (2018) 『英語4技能テストの選び方と使い方』(アルク)の大修館書店『英語教育』(2018年8月号)の書評末尾に書いたように、私たち英語教育関係者は今、時代にテストされている、つまり試されているのだと思います。



2018年7月18日水曜日

Diane Larsen-Freeman (2017) Complexity Theory: The lessons continueのまとめ



これは今年の8/20-22に京都府立大学で開催される下記のセミナーでの講演のための準備の一環として作成した「お勉強ノート」です。

The 1st JACET Summer (45th) and English Education (6th) Joint Seminar (Kyoto, 2018)
Theme: Classroom research revisited: Who are the ‘practitioners’?



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Diane Larsen-Freeman (2017) 
Complexity Theory: The lessons continue

In Lourdes Ortega and ZhaoHong Han (eds.) 
Complexity Theory and Langauge Development
(pp. 11-50). Amsterdan: John Benjamins Publishing Company


■ Complexity Theory (CT) は "a metatheory"

以前、 応用言語学の世界にComplexity Theory (CT) --複合性理論と訳します-- が導入された時、この理論は比喩 (metaphor) としてとらえるべきではないかという論もあったが、著者はこれをメタ理論 (metatheory) と見るべきという見解をこの章で打ち出している。

■ Overton (2007, p. 154) によるメタ理論の定義

Larsen-FreemanはOverton (2007, p. 154) を直接引用してメタ理論を定義しているが、その引用を読んでもどこか気持ち悪いので、原典を参照したところ、Larsen-Freemanが省略記号抜きに原典の一部を取り除いた引用をしていることが判明した。ここでは原典を正確に引用し、その翻訳を提示する。

原典: A metatheory is a coherent set of interlocking principles that both describes and prescribes what is meaningful and meaningless, acceptable and unacceptable, central and peripheral, as theory - the means of conceptual exploration - and as method - the means of observational exploration - in a scientific discipline. In other words, a metatheory entails standards of judgment and evaluation. Scientific metatheories transcend (i.e., "meta") theories and methods in the sense that they define the context in which theoretical and methodological concepts are constructed. Theories and methods refer directly to the empirical world, while metatheories refer to the theories and methods themselves. (Overton, 2007, p. 154)

翻訳:メタ理論とは、互いに組合い連動する原則の集合であり、これにより何に意味がある・ない、何が認められる・認められない・何が中心的・周縁的であるかが記述され規範化される。これは科学の分野における理論(概念的探究の方法)でもあり、方法(観察的探究の手段)でもある。別の言い方をするなら、メタ理論は判断と評価の基準を有するものである。科学的なメタ理論は理論や方法を超越し(ゆえに「メタ」と呼ばれる)、理論的概念と方法的概念が構築される文脈を定義する。理論と方法が直接に参照しているのは経験的に実証できる世界であるが、メタ理論が参照しているのは理論と方法自体である。

原典
A Coherent Metatheory for Dynamic Systems: Relational Organicism-Contextualism
Overton W.F.
Human Development 2007;50:154–159
https://doi.org/10.1159/000100944
関連文献
Overton (2015) Taking Conceptual Analyses Seriously
doi:10.1080/15427609.2015.1069158


■ 複合性理論が克服している考え方

(1) 還元主義、(2) 単純な因果 (simple-causal links)、(3) 決定論 (determinism) (pp. 22-23)


■ 複合性理論は、単一因果要因を特定しようとする脱文脈的実験を疑う

翻訳:実際のところ、複合性理論の研究者は、第二言語発達 (second language development: SLD) の決定的な因果要因 (the causal factor) を特定しようとした脱文脈的実験 (decontextualized experiment) そのものに疑いをかけた。そのような研究方法はしばしばガウス(分布)の統計学を利用し、母集団を一つの固まり (a whole) として扱い、ばらつき (variability) をノイズや測定誤差として片付けてしまうか「外れ値」 (outliers) してしまった。かくしてこういった研究法は、第二言語発達の過程における個々人の行為主体的な役割 (the individual's agentive role) を捉えそこねてしまった。 (pp. 18-19)

関連記事
ウィキペディア:正規分布(ガウス分布)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E5%88%86%E5%B8%83


■ 応用言語学で複合性理論を取り入れている研究のリスト

このpp. 24-25のリストはとても便利


■ 30の格言 (aphorisms)

Larsen-Freemanは、複合性理論が含意するところを、言語、言語学習者・使用者、言語学習、言語教育について30の格言で表現しているが、ここでは私にとって印象的だったものだけを翻訳する。(番号は格言につけられた番号)

これらが応用言語学における「新しい普通」 ("the new normal) (p. 28) となるとLarsen-Freemanは考えている(私もそうなるべきだと思う)。

8 言語学習者・使用者は特定の文脈で相互作用を行い、共に適応する過程 (a process of co-adaptation) 、つまりは対話者 (each interlocutor) が何度も相手に合わせる (adjust) 反復的で対話的な過程 (an iterative and dialogic process) の中で、頻度が高く、偶発的だが信頼のおける「形式-意味-使用」の構文 (frequent and reliably contingent form-meaning-use constructions) に出会う。 (p. 26)
※ ここでは "constructions" を「構文」と理解したが、この理解でいいのか今ひとつ自信がないので、識者の方のご教示をお待ちします。

9 学習者・使用者が文脈に適応するにつれ、文脈も変化する。うまくいく適応行動 (successful adaptive behavior) には、学習者・使用者が意味を伝え自分が意図していたように自らを位置づける (position themselves) 能力が必然的に含まれる (entail)。 (p. 26)

11 学習者は、他の言語の知識も含めて自分が知っていることの上に知識を形成 (build on) する。しかしこれは転移 (transfer) としてではなく、変容 (transformation) として考えられるべきだ。転移とは決して正確な表現ではない。「転移される」ものは、新しい文脈に叶う (suit) よう、再び働きかけれれる (reworked) のだ。 (p. 26)

13 学習者・使用者の言語的資源 (language resources) は、単なる過去の経験の記録ではない。言語の学習者・使用者は、自分自身のパターンを創り上げて (create their own patterns) 所与の言語記号論的可能性を拡張する (expand the semiotic potential) 活用力 (capacity) をもっており、ただ単に既成の体系 (a ready-made system) に合わせる (conform) のではない。 (p. 27)

14 発達には学習者の個人内と個人間でかなりのばらつきがある (intra- and inter-learner variability) 。それぞれの発達の軌跡 (developmental trajectory) は唯一 (unique) のものである。ゆえに、私たちは集団 (a group) の水準で主張をすることができたとしても、その主張が個々人に当てはまることを仮定することはできない。(しかしながら、個々の学習者から距離を置くことによって、さまざまな学習者特性 (learner profiles) を作り上げることは可能なのかもしれない)。  (p. 27)

15 さらに言うなら、いわゆる個人差 (individual differences) は固定的で一枚板の特性 (stable and monolithic traits) ではない。 (p. 27)

 21 さまざまな対話者との相互作用の歴史が経験の集積 (collections of experiences) となり、それが言語的・認知的・情感的・イデオロギー的な資源 (language, cognitive, affective, and ideological resources) になり、人はその資源を使用する。 (p. 27)

22 これらの資源の中には、身体的 (physical) (例えば身振りの使用)な資源もあれば、象徴的で複数の様態に関わる (symbolic and multimodal) 資源もある。 (p. 27)

 23 複合的なシステムにおいて重要なのは、そのシステムを構成する要素の相互依存的な関係 (interdependent relationship) である。そのような関係に注目することにより、効率的な因果性という単一存在的概念 (single-entity notions of efficient causality) は必然的に拒否される。 (p. 27)





追記 (2018/07/18)
上記のOverton  (2007) について若干の情報を補足しておきます。

■ メタ理論の特徴[要旨]
メタ理論はどの理論や方法に対しても存在する (ubiquitous) ものであり、モデル (models) やパラダイム (paradigms) とも呼ばれる。メタ理論にはいくつかの階層があるが、そのもっとも高次なものは世界観 (world view) と通常呼ばれる。 (p. 154)

■ メタ理論[翻訳]
いかなる分野においても、論理的一貫性と概念的連動性は体系化された実証的知識(すなわち科学的知識)の本体の根本的な特徴である。メタ理論はこの一貫性と連動性の源となるが、それはメタ理論が分野のもっとも基礎的なカテゴリーや構成概念を制定するからである。したがって、作動しているメタ理論を正確に解明することが、いかなる分野においても重要である。
In any field, logical consistency and conceptual coherence are fundamental features of the body of systematized empirical knowledge that is scientific knowledge. Metatheories are the source [of] this consistency and coherence because they establish the field's most basic categories and constructs. Consequently, a precise clarification of the metatheories operating within any field is critical.  (p. 155)



2018年7月17日火曜日

7/22の公開研究集会「外国語教師の身体作法」での柳瀬発表の後の質疑応答



7/22の公開研究集会(「外国語教師の身体作法」)は、私の目算で41名(関係者含む)の参加者を得ましたし、それ以上に、場全体に一体感のあるいい研究会になったのではないかと思います。当日お越しいただいた方々に改めて御礼申し上げます。

下は、私の発表の後の質疑応答の要旨を私なりに書き直し少し書き足したたものです。この研究集会で学んだことは多々ありますから、それらはこれから少しずつ文章化してゆこうと思います。


*****


Q1 言語と身振りの間の関係について。両者は補完する関係にあるのか、それとも実は優劣の関係があるのではないか?

A1 近代以前の古代から現代まで続いている話しことばにおいて、言語―今回の発表の用語法で言えば「言語形式」―と身振りの関係は対等であり、そこに優劣はないと考えられる。しかし、グーテンベルクの印刷革命以来、近代人は身振りを伴わない書きことばを大量に産出して処理するようになったので、その影響から言語(形式)の方が身振りよりも重要であり、言語(形式)の方が主であり、身振りは従であるといった考えが広がったかもしれない。


Q2 ある小学校での英語教育の責任者だが、自分たちの学校では英語教育の評価を三段階でつけることにして、「英語で話す際に身振りをする」という評価基準を入れた。別段、身振りをしないと減点するといったことではないのだが、その評価基準を掲げたら子どもの英語に不自然でとってつけたような身振りが多くなってしまった。さきほどの発表を聞き、身振りは本来は内発的・内因的なものという説を学び、この評価基準を作成してしまったことを後悔し始めてている。とはいえ、子どもが本当に英語発話にのめりこんだら身振りが出てくるというのも事実で、それを評価したいという気持ちもある。

A2 一般に、人間の営みにある評価基準(尺度)を適用したら、その営みに従事している者はその尺度に合わせて行動し始めるため、その尺度は評価基準としての価値を失ってしまうと言われている。ご指摘の事例は、その根本的なジレンマの一例として考えられる。
 もし身振りをした回数で評価をするといったことをすれば、その結果は悲惨なことになるだろう。一方、評価基準を「声や顔の表情あるいは身振りなどが発話の意味に即した自然なものだった」などとすれば、そこまで悲惨な結果を招かないかもしれない。いずれにせよ、評価基準は power (権力)をもつようになるのだから、慎重に策定しなければならない。そもそも評価が必要なのか、必要としたらそれはなぜなのか、といった根底的な問いを徹底的に突き詰めることが必要であろう。評価という権力の濫用という論点はもっと強調されるべきだと考える。

関連記事
Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/robert-crease-measuring-culture.html
Wikipedia: Goodhart's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Goodhart%27s_law
Wikipedia: Campbell's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Campbell%27s_law
What is Campbell's Law. Diane Ravich's Blog. May 25, 2012.
https://dianeravitch.net/2012/05/25/what-is-campbells-law/
Wikipedia: Reflexivity (social theory)
https://en.wikipedia.org/wiki/Reflexivity_(social_theory)


Q3 ベイトソンの著作を読んでいると、からだの方が言語(形式)よりも基盤的であるようにも思える。「身振りを自覚してしまうとろくな事ははない」とさっき言われたが、小学校の実践でもアイコンタクトやジェスチャーを教師が金科玉条のように強調すると、子どもの行動が気持ち悪くて仕方ないようになってしまう(会場、爆笑)。意識して身振りをするということは、言語形式を操る以上に高度なことのように思える。だから身振りを評価項目に入れるのは本当に難しいと思う。また佐伯胖先生は、身体性の重要さを説けば説くほど、どんどんこころとからだが分離してゆくような論文も少なくないと批判していた。このように身振りの研究自体も難しいものであるが、同時にこのような研究に期待したい。

A3 おっしゃる通りだと思う。私が見たある研究授業では "Eye contact, Big voice, Gestures" を授業の目標にしていたが、言語形式の再生に必死な小学生の身体は固まっていた。ALTの女性は、"Everyone, please use gestures." と懇願したが事態は一向に変わらない。そこで中学校から来ていた英語の先生が半ばキレて、厳しい表情で "Everyone. Smile!"と命令した(会場、爆笑)。これは「教室あるある」(=教室でよく見られる現象)と思われるが、こういった状況からの脱却が必要である。
 また、自覚的に身振りを行いながら、身振りの自然さを失わない人々に役者・コメディアン・落語家などがいる。こういった人々がいかに身振りの訓練を行っているかについて学ぶことも今後参考になるだろう。

関連記事
ウィキペディア:スタニスラフスキーシステム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
An Actor's Work: A Student's Diary
https://www.amazon.co.jp/Actors-Work-Students-Diary/dp/041555120X/

2018年7月11日水曜日

7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法(京都外国語大学)は予定通り開催します + 柳瀬の当日発表資料公開


7/6(金)からの大雨で、東広島市も被害を受けましたが、現在(正確には7/9現在)は以下のような状況で、JR山陽本線と高速道路が復旧していないものの、少しずつ生活は平常に戻りつつあります。


広大教英ブログ:広島大学ホームページ
(「平成30年(2018年)7月豪雨災害に対する広島大学の取り組み」)より


ただ、近隣の三原市などは断水が続き食料品も少ないなど、かなり苦しい状況のようです。その他の市町村でも、多くの方々が苦しんでいらっしゃると思います。心からのお見舞いを申し上げます。

こういった状況で私の方にも何本も問い合わせをいただきました。皆様のご厚意に感謝します。

問い合わせの中に、「7/15(日)の公開研究集会の開催は大丈夫ですか?」というものがありましたが、こちらは予定通り開催予定です。(もちろんこれ以降、大災害などがなければの話ですが・・・)


公開研究集会:外国語教師の身体作法
―学習者との身体的同調をうながすための実践的工夫― 
7/15(日)京都外国語大学

ただし7/22(日)の広島大学英語教育学会の開催に関しては今、延期か中止をするかを検討中です。これに関しましては、決定しましたら「広大教英ブログ」(http://hirodaikyoei.blogspot.com/)でお知らせします。


下に開催しましたのは、7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法で柳瀬が発表する際に使う資料です。

大半がこれまでにこのブログで公表していた資料をまとめたものですが、今回はそれをまとめる中で、以下の図などを新たに付け加えました。



身振り (gesture) についてはいろいろな分類図がありますが、当面の間は私はこの上の図を基に考えてゆきたいと思います。ですが、上の図で「仕草」 (manner) と「身体作法」 (kinesics) と仮に命名しておいた概念についてはまったく勉強が足りていませんので、これらについては今後も考えが変わるかもしれません。

以下は、当日の投影資料と印刷配布資料です。投影資料を印刷して配ることはありませんので、もし参加される方でご希望の方はご自分で印刷してもってきてください。


当日投影資料


当日印刷配布資料(A4で裏表1枚)


さきほど打ち合わせのメールで関係者全員で「開催するからには参加者の方々に『来てよかった!』と思われる会にしよう」と思いを再確認したところです。

多くの方々と7/15に京都外国語大学でお会いできることを楽しみにしています。


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公開研究集会
外国語教師の身体作法
―学習者との身体的同調をうながすための実践的工夫―
(http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/06/715.html より再掲)

■ 日程
2018年7月15日(日曜) 13:00-16:00

■ 場所
京都外国語大学4号館452教室 (http://www.kufs.ac.jp/access/index.html)

■ 参加形態
研究者、実践者、学生さんなどどなたでも参加できます。無料です。

■ 趣旨
 外国語学習者は不安を抱きがちで、教師がいくら働きかけても、教師と目線を合わせようとしなかったり感情表現を抑制したりします。教師と学習者がなかなか身体的に同調しません。そんな学習者を前にして、外国語教師は自らの身体の使いこなしにおいて、どんな工夫ができるでしょうか?
 しゃがみこんで学習者と同じ高さの目線になることも一つの工夫かもしれません。わざと教師が複数の人間の役を演じ分けるように発話することも一つの方法かもしれません。教師自身ではなく教師が操る人形とコミュニケーションを取らせることも一つのやり方かもしれません。
 この研究集会では五名の話題提供者からの話を受けての質疑応答と参加者全員による意見交換を通じて、教師が学習者と心を通い合わせる外国語の授業を行うための身体の使い方について理解を深めます。

■ 主催
科研「教員と学習者間の身体的同調を生かした音声指導法の開発」および「教師敎育現場での「対話的身体」の実証、およびその理論化の試み 」

■ 話題提供者(五十音順)
池亀葉子(NPO法人グラスルーツ)、石井達也 (広島大学大学院生)、岩坂泰子(広島大学)、柳瀬陽介(広島大学)、山本玲子(京都外国語大学)

■ 指定討論者(五十音順)
樫葉みつ子(広島大学)、長嶺寿宣(熊本大学)、横田和子(目白大学)

■ スケジュール
13:00-13:20 山本玲子(話題提供20分): 身体的同調について
13:20-13:40 岩坂泰子(話題提供20分):媒介(mediation) の概念から学びを捉える
13:40-13:50 質疑応答(10分)
13:50-14:10 柳瀬陽介(話題提供20分):「身振り」についての理論的整理
14:10-14:30 石井達也(話題提供20分):言語と身体に関する近年の研究動向
14:30-14:40 質疑応答(10分)
14:40-14:50 休憩
14:50-15:10 池亀葉子(話題提供20分):実践者としての私の工夫
15:10-16:00 参加者全員での対話:私の悩み、私の工夫




2018年7月4日水曜日

Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳



以下はRobert Crease (2011) World in the balance: The historic quest for an absolute system of measurement. W. W. Norton & Company. (邦訳:ロバート・クリース(著) 吉田三知世(訳)『世界でもっとも正確な長さと重さの物語』日経BP社)のエピローグの一部の翻訳です。邦訳書は大変参考にさせていただきましたが、以下は私なりの訳出となっています(私にとって翻訳は精読し考えるための最善の方法の一つですのであえて自分で翻訳してみました)。

クリース教授 (Stony Brook University, New York) (自身のホームページ Wikipedia)の文章について私はこれまで以下の記事を書いてきました。


(1) Measurement and Its Discontentsの翻訳
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/05/measurement-and-its-discontents.html

(2) 創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/11.pdf

(3) Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/robert-crease-measuring-culture.html

以下の記事では、クリース教授の意を汲んだ上で、これら (1) - (3) での翻訳よりもわかりやすさを重視した意訳を行い、"ontic measurement" に対しては「存在物の測定」ではなく「物理的存在物に関する測定」という訳語を、 "ontological measurement" に対しては「存在論的測定」ではなく「実存的存在に関する測定」という訳語を充てました(そもそも "ontic" を「存在物の」と訳している時点でかなり意訳なのですが、今回はさらにわかりやすさ・日本語としての通りのよさを重視しました)。また、私はこれまで "a measure" に対しては「測定基準」という訳語を充てていましたが、下では「尺度」と訳しました(これは邦訳書から学んだことの一つです)。

ちなみに (3) でクリース教授は、"ontic measurement" を「基準と対照させる測定」 (measurement against standards) 、 "ontological measurement" を「理想と対照させる測定」 (measurement against ideals) として、後者は基準を使うものではないとしていますが、下では、 "ontological measurement" つまり実在的存在に関する測定でも基準は使うが、その基準は測定者がもつ存在についての可能性や理想であり、"ontic measurement" つまり物理的存在物に関する測定で使われる基準とは大きく異なるものといった論じ方がなされています(だからこそクリース教授は、両者において「測定」という用語を使い続けているのでしょう)。

上の (2) の文章で私は "ontological measurement" (存在論的測定・実在的存在に関する測定)が "ontic measurement"  (存在物の測定・物理的対象物に関する測定)とは異なることを、アレントの複数性の概念から説明していますが、下のクリース教授の文章ではその違いがハイデガーの―アレントが批判したような意味で個人的な―存在論(および実存主義的な言説)から説明されています。

と、また前置きが長くなっていますが(苦笑)、下の文章の趣旨を私たちの問題意識に即した形で翻案してみますと次のようになります。

 私たちが、例えばある人がある組織にふさわしい人物かどうかを見極めるために、その人の人柄やコミュニケーション能力について面接を行う場合、面接官はその人の振る舞いを、各々がもっている「ふさわしい」人柄・コミュニケーション能力という基準(理想像)と比較して評価をくだす。その基準(理想像)は、面接官がこれまでの人生経験を通じて作り上げてきたものであり、各個人によって微妙に異なる。個々人で異なる以上、共通尺度として数量化することは、少なくとも厳密な科学としてはできない。もっとも世間では「社交性」「積極性」といった曖昧な項目に、1-5といった判断基準が不明瞭な順序尺度を当てはめることも多いが、これは科学ではない。この意味でこの人物測定は、自然科学で行われている物理的存在物の測定とは異なる。

 こういった人物測定といったものを、人間が現実にどう生きながらどう可能性を探求していくかという実存を反映した測定として実存的存在に関する測定と呼ぶことができるだろう。この場合の実存的存在とは、測定の対象となる人間だけでなく測定を行う測定者も指す。この測定の対象は、被測定者が示す可能性や測定者が想定する可能性も含んだものであるので、実在物のように測定することはできない。また、測定者が想定する可能性は、それぞれの測定者のこれまでの人生経験およびこれからの人生に対する姿勢を反映したものであるので、この測定に対して厳密な数量化による共通尺度化を施すことは根本的な意味で誤りである。その誤りを無視して、科学的体裁を取った測定を試みても、私たちはどこかに不満を見出すだろう。その不満を無視して、その測定を強要するなら、やがてその測定が私たちの生き方そのものを歪めてしまう。

 とはいえ、科学とテクノロジーの圧倒的な進歩を眼にした私たちの多くは、人間が人間を評価する営みにも物理的存在物の測定に似せたような測定を試みようとし続けている。長期的には、そういった現代の測定文化が誤りであることを私たちが哲学的に自覚することが重要であるが、短期的には(あるいは現実妥協的には)、人間が人間を測定する営みの一つ一つのどこがおかしく、どこに限界があるかを具体的に指摘することが重要であろう。現代の測定文化の暴走を私たちは止めなければならない。


以上が前置きです。それでは以下の抄訳をお読みください。ただこの文章では、ある理想像と自分を比べて反省するという例が実存的存在に関する測定の例としてあげられており、上のように、ある面接官が他の人間(応募者)について評価する例とは表面的には異なっておりますので少しご注意ください(もちろん、これら二つの例は原理的には同じものだと考えられます)。



*****


■ 実存的存在に関する測定 (ontological measurement)

しかしもう一つの種類の測定において、私たちは自分たちを物差しにあてがったり天秤皿の中に入れたりしない。この種類の測定はプラトンによれば「ふさわしい」 (fitting) や「正しい」 (right) という基準 (a standard) を用いて行われるものである。この測定は[外に向かう]行為 (an act) というよりはむしろ[内に向かう]経験 (an experience) である。自分たちがやったこともしくは自分たち自身が、自分たちの可能性や自分たちが掲げる理想 (they could or should be) に比べるならまだ足りないことを自覚する経験である。一定の規則に従うだけでこういった測定を行うことはできないし、そもそも数量化 (quantification) できるような類のものではない。これは「比喩的な」意味でのみ測定であると言うべきだろうか。[しかし]これはある基準 (a standard) と対照させた測定ではある。[ただその基準は物理的存在物に関する測定の際に用いる基準とは異なり]ふさわしいあるいは正しい実例 (the fitting or the right example) である。その実例と私たちの行ったこと (actions) ―さらには自分たち自身 (our selves) ―を比べるなら、私たちは自分たちの存在がまだ不十分であり、まだ発展の余地があること (there is more to be) がわかる。私たちはまだ自分たちの潜在的可能性 (potential) に到達していないことを実感する。これを「実存的存在に関する」測定 ("ontological" measuring) と呼んでもいいのかもしれない(この用語法は哲学者が存在について記述するやり方に基づくものである)。実存的存在に関する測定には、厳密な意味で明確に定義できる特性はなく、数量化できるものは何もない (nothing quantitative)。どんな計算を施しても、実存的存在に関する測定を生み出すことはないだろう。方法論 (method) で行えるものではないのだ。実存的存在に関する測定は、[現実の]人間を超えた何か (something trans-human) と私たちを結びつける。その何かとは、私たちがその内に入り、身を捧げる (participate in) 何かであり、私たちが上から支配できる (command) ものではない。物理的存在物に関する測定において、私たちはある対象をその対象の外 (exterior) にある対象と比べるが、実存的存在に関する測定では、私たちは自分自身もしくは自分が生み出したものを、私たちの存在が巻き込まれ関係づけられている何か (something in which our being is implicated, to which it is related) と比べる(善や正義や美の概念などがその例にあたる)。実存的存在に関する測定は、物理的存在物に関する測定の流儀では行えない (ontically measureless)。

Crease, Robert P.. World in the Balance: The Historic Quest for an Absolute System of Measurement (p.270). W. W. Norton & Company. Kindle版からの拙訳


■ 現代の測定文化 (the modern metroscape)

現代の測定文化において、私たちはただ単に測定そのものに注意を払うのではなくて、私たちが測定することで成し遂げようとしている目的 (the goals) にこれまで以上の注意を払わなければならない。測定が測定し得ないことについていだく不満にもっと注目しなければならない。だがこれらの不満に対して、現在の尺度 (measures) を捨ててより新しくより優れた尺度を求めることで応えてはならない。なぜならそれらの尺度とて結局は私たちの望みを満たしてくれず捨て去らなければならないようになるからである。かといって実存的存在に関する測定は「不可能」 ("beyond" measuring) と思い込んでもいけない。現代の測定文化において私たちは、どの測定 (measurements) が何を測定できず、どこで失敗するのかについてもっと丁寧に言語化 (articulate) しなければならない。しかし現代の測定文化における物理的存在物と実存的存在に関する測定の違いに目を向けるもっとも重要なことは、それぞれの測定という行為がどのように実行されるかについて反省的に省察 (reflect) するだけでなく、測定文化そのものおよびそれが私たちに何をなしているかについて反省的に省察することである。正午に大砲を撃って時を告げる昔ながらのやり方に絶対的な基準を導入して正確を期した後でも、そもそもなぜ私たちがそういった制度を作り出すにいたったのかという人間的な目的 (the human purposes) は何であったのかということを思い起こさねばならない。そしてその最新の方法がそもそもの人間的な目的の障害になるとしたらそれはどこからなのかということについても考えなければならない。

Crease, Robert P.. World in the Balance: The Historic Quest for an Absolute System of Measurement (pp.275-276). W. W. Norton & Company. Kindle 版よりの拙訳



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お知らせ 1

2018年7月22日(日)広島大学英語教育学会
対話の集い:英語テストのあり方





お知らせ 2

2018年8月9日(木)外国語教育メディア学会 (LET) 全国研究大会
パネルディスカッション:大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?





2018年7月3日火曜日

Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳



ロバート・クリース (Robert Crease) 氏については、私はだいぶ前にたまたまThe New York Times紙のエッセイで読みいたく共感しましたので、昨年、そのエッセイの翻訳をこのブログで公開もしました。

Measurement and Its Discontentsの翻訳

ここでは8/9(木)のLET全国大会パネルディスカッション「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?」 (http://www.j-let.org/let2018/page_20180222024053)  の準備の一環として、クリース氏の別のエッセイの一部を翻訳します。

原文は以下から自由に読めます。

Robert P. Crease: Measurement
の中の
Measuring Culture (Physics World Link)
です。


翻訳した箇所は4つで、それぞれ小見出しをつけました。
(1) ケルヴィン卿の宣言
(2) 二種類の測定の区別
(3) 人間の営みを測定する場合は、測定が測定対象となる営みそのものとその営みの目的を歪めてしまう。
(4) 人間の営みを測定する場合は、誰が何のために測定しているのかということもはっきりしておかねばならない。

(1) では19世紀以来続いている「数量化できなければ科学ではない」という考えが表明されます。
(2) では科学的な測定と、そうではありえない測定の区別が提示されます。(これは上記NYTの記事の趣旨でもあります)。
(3) では人間の営みを測定する際の問題点が説明されます。
(4) では (1) や (3) を踏まえた上で、最低限私たちがやるべきことが示されます。

それでは以下が抄訳と若干の補足情報です。


*****


(1) ケルヴィン卿の宣言

「あなたが自分が語っていることを測定し、数字で表現している場合、あなたはそのことについて何かしらのことを知っている。しかしあなたが数字で表現できない場合は、あなたの知識は貧弱なものであり満足できない種類のものである。そういった知識は知識の始まりなのかもしれないが、あなたはそれを思考の中で科学の段階までほとんど進展させていないのだ。これは事柄が何であれである。」

※ 参考情報
Wikipedia: William Thomson, 1st Baron Kelvin
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Thomson,_1st_Baron_Kelvin
ウィキペディア:ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3


(2) 二種類の測定の区別

私は(2011年出版の ”World in the Balance" で初めて表明した)区別を引用した。それは基準と対照させる測定 (measurement against standards) --国際単位系はこの測定である--と、理想と対照させる測定 (measurement against ideals) の区別である。

前者は手続き的で慣習的 (procedural and conventional) であるが、後者は経験に基づくもの (experiential) であり正義や教育といった目的 (goals) とか関わっている。皮肉なことは、私たちの文明が基準と対照させる測定を「新国際単位系」と共にほぼ完璧な測定にしている時に(新国際単位系はこれまでパリにあったキログラムの人工基準を自然科学の定数に換えるものである)、理想と対照させる測定はこれまでになく物議をかもしていることである。

※参考情報
Wikipedia: International System of Units (SI)
https://en.wikipedia.org/wiki/International_System_of_Units
ウィキペディア:国際単位系 (SI)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB

※ 上記の「理想」、あるいは「理念」は、カント哲学の枠組みでの意味合いで使われていると思われます。
簡単に言えば、理念とは、現実の現象世界のさまざまな条件を一切捨象して考えられた無条件的な考え(=現実の諸条件には拘束されずになりたっている考え)です。
「理想」は理念の一種で、無条件的なのですが、具体的で個別的なイメージが与えられています。日常語での「理想像」と同じと考えていいかと思います。

関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/blog-post_5.html

関連記事:Summary of Kant's Critique of Pure Reason
1 Introduction and Key terms
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html

2 Transcendental ideas
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html

3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html

4 Freedom
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html

5 Principle of Pure Reason
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html


※ こういった考え方に基づき、私はかつて「リスト化・数値化の危険性」という文章を三友社『新英語教育』2015年7月号の19ページに掲載させていただきました。要旨は「コミュニケーション能力」は理念であり、必要十分に測定できる概念ではないということです。
短い文章ですので、お読みいただけたら幸いです。

関連記事:「リスト化・数値化の危険性」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2015/08/blog-post_31.html


※ なお「理想と対照させた測定」までも「測定」と呼んでしまうことについては私は少し抵抗を感じています。これに関しては、以下の拙稿をお読みくだされば幸いです。

関連記事:創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/11.pdf


(3) 人間の営みを測定する場合は、測定が測定対象となる営みそのものとその営みの目的を歪めてしまう。

理想と対照させた測定の一つの障害となるのが、ハイゼンベルクの不確定性原理の文化版のようなものであるグッドハートの法則である。この法則は、英国の経済学者であるチャールズ・グッドハートにちなんで命名されたが、彼は1975年にこの法則を表明した。法則の基本的な考え方は、ある尺度 (a measure) が政策決定のために選ばれると、その尺度は尺度としての価値 (value) を失ってしまうというものだ。グッドハートはこの法則を金融政策 (banking policy) に適用したが、他の分野でも同じように、測定は測定される実践 (the practice being measured) を歪めて (distort) しまうだけではなく、私たちが目的をどのように認識するか (the perception of the goal) までも歪めてしまう。例えば知能 (intelligence) を標準化テスト (standardized tests) で測定し始めるやいなや、学校はテストに合わせた教育をしてしまう (teach to the test)。そして知能とはテストに合わせた教育を子どもが受け入れる能力 (a child's ability to be taught to the test) だと考え始めてしまう。もし研究者の質 (researchers' quality)  を出版した論文の数で測定するなら、研究者は質の低い論文を不必要なぐらいに大量生産し始める。

※ 参考情報
コトバンク:不確定性原理
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86-123742
ウィキペディア:不確定性原理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86
Wikipedia: Goodhart's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Goodhart%27s_law
Wikipedia: Charles Goodhart
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Goodhart


(4) 人間の営みを測定する場合は、誰が何のために測定しているのかということもはっきりしておかねばならない。

しかし今日の世界では、ニューヨーク近代美術館に集まったパネリストたちも同意したように、ケルビン卿の宣言が力をもっている。たとえそれが文化的な事柄であれ、政治家、政策決定者、出資者は測定によって動いている (measurement-driven)。したがって私たちは、文化的な機関 (cultural institutions) のために測定基準 (metrics) を考案する際には、もっと巧妙でなくてはならない。だが、グッドハートの法則を回避するためには、私たちは、測定には「それ」 (it) --測定されるなにか--だけでなく、「誰」 (who) --測定をする人間--が関与していることも思い起こさなければならない。理想と対照させた測定を行う場合、測定は匿名 (anonymous) であってはならない。誰が何のために測定をしているかを明確にしなければならない。
 [ニューヨーク近代美術館の管理者である]アントネリが言ったように、「文化的影響 (cultural impact) を測定することの問題は数字だけでは解決できない」のだ。

※ 少しことばを補っておきますと、例えば私たちが入学や入社のために面接試験を行う場合、私たちは常識的というか直感的にそれを「コミュニケーション能力を測定している」と標榜している客観式標準テストの得点でもってすませてしまうことはないでしょう。複数の面接官がさまざまな質問を投げかけ、応募者の応答を観察し、面接終了後はその複数の面接官が話し合うのが現実というものでしょう。その話し合いでは、それぞれの面接官の個性(who) や入学・入社に関する考え (why) を互いに自覚した上で、協議がなされるはずです。こういった現実の営みを、機械的な試験で代替してしまうようなことはおよそ愚かなことです。しかし、私たちは徐々にその方向に文化を導いているのではないでしょうか。

※ このあたりはアレントも強調していることです。

関連記事:真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/blog-post_24.html

関連記事:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post.html


*****

お知らせ



7/22(日)に広島大学で開催される広島大学英語教育学会では、先日締め切った第2回英語教育小論文コンテスト「10代・20代が考える英語テストのあり方」の受賞作品を受けて、一般公開企画として対話の集い「英語テストのあり方」(無料)と情報交換会(茶菓子代として500円)を開催します。

簡易託児所(学生バイトによる管理ですので乳幼児のケアはいたしかねます)も用意しますので、ぜひ皆様もお越しください。




Kim, M., et al.,(2018) A political economic analysis of commodified English in South Korean neoliberal labor marketsのまとめ


以下は、来る8/9(木)のLET全国大会パネルディスカッション「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?」 (http://www.j-let.org/let2018/page_20180222024053)  の準備の一環として作ったお勉強ノートです。読んだ論文は


Kim, M., et al.,
A political economic analysis of commodified English in South Korean neoliberal labor markets,
Language Sciences (2018),

です。

いつものように選択的・恣意的なまとめになっていますので、もしこの論文にご興味がある方は、必ず上記のURLから原典にあたってください。


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■ タイトルについて
タイトルでは  "commodified English" とありますが、論旨からすると正確には  "commodified English test scores" であるべき。その上でタイトルを訳すなら「韓国の新自由主義的労働市場における商品化された英語テスト得点についての政治経済的分析」となる。

■ 韓国の労働市場における英語
ホワイトカラーの職を得ようと思えば、たとえその職では実は英語が使われることがなくとも、応募者は何らかの英語技能 (English skills) の力を示さねば職を得ることができない。(p. 1)
※ 日本の大学入試の状況もほぼこれと同じようになってきている。たとえ進学希望先の学部や講座では英語がほとんど必要ないとしても、入試では英語が必須となる。

■ 英語は社会的流動性の鍵
英語はもやは教科やコミュニケーション手段というよりは社会的流動性の鍵 (a gate-keeper for social mobility) として機能している。 (p. 2)

■ 人的資本としての価値を高めるために英語テストに投資
就活者は人的資本 (human capital) としての自らの経済的価値 (economic value) を高めるために英語テストに投資 (invest) する。就活者は自分という人的資本の企業家 (entrepreneur) になっている。 (p. 2)

■ 数量化され標準化されたスペックを示す
多くの韓国の若者は自分たちの経済的価値を電気製品の "specification" になぞらえて「スペック」 (Spec) と呼ぶ。スペックによって、数量化され標準化された人的資本 (quantified and standardized human capital) としての自分の能力 (competence) を一目で企業に示すことができる。 (p. 3)

■ テスト得点が測定基準によって価値を定められた商品となる
就活者が自らの人的資本の価値を高めるために企業家的な努力をする中で、テスト得点は英語技能の数量的測定基準 (quantified metrics of English skills) となり、商品 (commodity) となる。 (p. 3)

■  英語教育は、就活者にテスト高得点を供給するビジネスとなった
就活者は商品化された英語テスト得点を生み出す労働者 (worker) であると同時に自分の人的資本を増やそうとする企業家でもある。英語技能の数量的測定 (quantified measurements) としてのテスト得点こそが労働市場で重要であり、英語教育 (teaching English) はテスト高得点への需要を満たすビジネスとなった。 (p. 3)

■  特定の試験が公的認定価値を与える
韓国ではTOEICとTOEIC Speaking testsが、英語力の妥当性と信頼性を兼ね備えた測定基準 (valid and reliable performance metrics) であることを売りにして (self-promoting) 、就活者の英語熟達力 (English proficiency) に公認価値を与え (valorize) 、就活者と企業を関係づける媒体となった (mediate the relationship between jobseekers and employers)。 (p. 3)

※ 日本の2020年テスト改革では、ケンブリッジ英語検定、TOEFL iBTテスト、IELTS、TOEIC、GTEC、TEAP CBT、実用英語技能検定の8種類のテストに公認価値が与えられることになります。
関連記事: 南風原朝和(編) (2018) 『検証 迷走する英語入試―スピーキング導入と民間委託』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/06/2018.html

※ この種の議論でよく出てくる "valorize" という語は訳しにくい語ですが、辞書では次のように定義されていますので、上では「公認価値を与える」と訳しました。

Merriam-Webster (https://www.merriam-webster.com/dictionary/valorize)
1 : to enhance or try to enhance the price, value, or status of by organized and usually governmental action
2 : to assign value or merit to

Oxford Dictionaries (https://en.oxforddictionaries.com/definition/us/valorize)
1 Give or ascribe value or validity to (something)
More example sentences
1.1 Raise or fix the price or value of (a commodity or currency) by artificial means, especially by government action.

Dictionary.com (http://www.dictionary.com/browse/valorize)
to provide for the maintaining of the value or price of (a commercial commodity) by a government's purchasing the commodity at the fixed price or by its making special loans to the producers.

■ 商品、使用価値、交換価値についての説明
商品は商品価値をもつが、それには使用価値 (a use value) と交換価値 (an exchange value) の二つの側面がある。使用価値は商品の有用性 (utility) であり、交換価値は「ある使用価値と別の使用価値を交換する際の数量的関係・割合」 ("the quantitative relation, the proportion, in which use values of one kind exchange for use values of another kind" (Marx, 1976, p. 126)) である。 (p. 3)

■ 潜在的交換価値の追求
資本主義者的経済体制 (a capitalist economy) では、利益を求めるため潜在的 (potential) 交換価値をめぐって商品生産が行われる。

※ ここで少し解説すると、資本主義者的経済体制では、資本 (capital) として有している貨幣 (M: Money) で商品 (C: Commodity) を購入しそれを活用・売却するなどして新たに貨幣 (M') を得て、その際に資本として投下した貨幣よりも多額の貨幣が得られるようにすること (M → C → M', where M < M') が大原則となる。ただ、必ず「投下資本 < 利益」(M < M') となるかはわからないため、資本投下時の商品の交換価値は潜在的なものとなる。

関連記事:マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/08/blog-post_14.html

関連記事:モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html

関連記事:Moishe Postone (1993) Time, Labor, and Social Domination (Cambridge University Press)
http://yosukeyanase.blogspot.com/2012/10/moishe-postone-1993-time-labor-and.html


■ 第一の矛盾:テスト得点は重要ではないが、高い得点が必要とされている。
このように労働市場の中でテスト得点が使われていることにより二つの矛盾が生じている。
第一の矛盾は、英語テストスコアは就活全体の成功のせいぜい10-30%ぐらいに関係しているだけなので決定的に重要 (crucial) というわけではないのだが、人文社会系専攻の学生が一流企業に入ろうとすれば「安心できる」基礎得点 (a baseline to "stay safe") としてTOEICの900点という高得点を取らなければならないことだ。だがTOEICで高得点を取ったとしてももちろん就活の成功が保証されているわけではない。ある調査協力者(就活者)は「英語テストの得点は最初の関門を突破するために使うだけの価値しかないので、TOEIC900点を超えたら英語の勉強はやめようと思った」と述懐している。 (p. 5)

■ 第二の矛盾:テストは英語能力を測定しているはずなのだが、テスト得点は実際の能力を反映していない。
すべての調査協力者(就活者・企業人事部)は、TOEIC得点と英語熟達力を、必ずしも互いに関連しているわけではない二つの別物とみなしていた (The jobseekers and HR managers interviewed all treated TOEIC scores and English proficiency as two separate, not necessarily related entities)。 (p. 6)
※ ただここでのTOEICとはリーディングとリスニングの2技能型のもの。

■ 塾では英語学習とテスト対策をはっきり区別し、後者に専念している。
調査に協力したある就活者は、TOEICは労働市場で評価される勤勉さという交換価値を測定するための「必要悪」であり (describing the TOEIC as a "necessary evil" that measures one's diligence, which has an exchange value in labor markets) 、「ことばとしての英語」はグローバルコミュニケーションのための道具であるという 使用価値をもつ、と述べた。

※ ここでは "hakwon" を単に「塾」と訳している。
Wikipedia: hakwon
https://en.wikipedia.org/wiki/Hagwon

調査に協力した企業人事部の人々もTOEIC高得点は短期間の詰め込みで獲得されたものであり、そういった詰め込みのテスト対策勉強は (the cramming, test-oriented method of studying) は「職場での英語コミュニケーション技能」 (workplace English-language communication skill) を高めることはないと考えている。人事部もTOEICは勤勉さを測るテストであり、高得点を取るためにどれだけ勉強したかを測定しているものだとみなしている (The TOEIC is a test of diligence, measuring the work that went into producing the high score)。 (p. 6)


■ スピーキングテスト導入についての肯定的意見と否定的意見
こういった認識もあり、最近はTOEIC Speaking TestやOPIc (Samsungの子会社が運営)といったスピーキングテストが導入され始めている。

ある就活者は、TOEIC Speaking Test対策で詰め込んだ英文を覚えこんで、状況に応じてそれを少し修正して話すことにより英語を話すことへの不安を克服できたと、スピーキングテスト導入に対して肯定的な意見を述べた。

※ ただこのExcerpt 8の英語発話には英語ミスが散見されるので、彼の英語力はそれほど高くない模様。

しかし別の就活者はTOEIC Speaking Testに対して自分は悲観的 (pessimistic) だと述べた。彼女も、TOEIC Speaking Test対策はひな形 (a template) を覚えてそれをテストで再生するだけであり、こういったことは自分のスピーキング技能の発展とは何の関係もない (it had absolutely no relationship with my development of speaking skills) と述べた。 (p. 7)

※ これら二人の考える「スピーキング技能」の概念には大きな差があるように思えます。私なりに推測して補いますなら、前者の就活者は、とにかく発話パターンを覚えて、さらにそれを少し修正することができればスピーキング技能としては十分だと思っています。それに対して後者の就活者は、相手と自分との関係性に合わせて(言語形式だけではなく)会話の話題も適宜選択し相互修正しながら会話を発展させることがスピーキング技能だと思っているようです。

Widdowson (1983) の用語を修正してさらに説明するなら、前者は一定の定められた話題に関する発話パターンをKnowledgeとして覚え、そこから言語形式を選択し文法的に配列するというLinguistic Capacityを獲得できたらスピーキング能力はあると考えているようです。しかし後者は、そういったKnoweldgeとLinguistic Capacityはスピーキング能力のために必要ではあるが十分ではなく、自分に忠実でかつ相手との関係性の中で適切な話題を適宜選ぶTopical Capacityも備えて会話を発展できなければスピーキング能力とは言えないと考えているように思われます。

このあたりのコミュニケーション能力論を来る8/9(木)のLET全国大会パネルディスカッションで少し語りたいとも思っています。それはBachmanのモデルの再解釈という形を取るかもしれません。

※ ちなみに、Widdowsonが使った用語はcompetenceとcapacityだけです。上の私の用語法は彼の考え方を換骨奪胎したものです。

■ 現状ではテスト得点と英語力の乖離は避けがたい
資本主義者的交換という体制で、塾がテスト対策を徹底させて短期間でテスト得点を上げることに専念し就活者がそれを利用するなら、スピーキングテストのテスト得点もコミュニケーション能力を十分に反映したものではないという状況は続くだろう。 (p. 7)

■ 学習者の阻害
この体制では、テスト作成者、テスト対策本の著者、塾講師がコミュニケーションの手段 (the means of communication) を管理 (control) している。学習者は自ら正統なコミュニケーション手段を創り出す機会がない。(The jobseekers themselves do not have access to creating legitimate means of communication) 学習者は、労働市場により英語学習の正統な対象化とみなされているものを生み出すだけであり、自らの学びを享受することはない。これにより学習者は自らの学習から阻害される。 (the jobseekers in this study work to produce what counts as a legitimate objectification of their English learning rather than their own consumption, which alienates them from that learning)  (p. 8)

■ テスト得点はフェティシズムの対象となる
労働市場での交換価値のためにテスト得点を得ようとする限り、テスト得点は物神化され使用価値から阻害される。 (As the test score is sought for its exchange value in labor markets, it is fetishized and alienated from its use value.)  スピーキングテストを導入してもこの状況は変わらないだろう。(p. 9)

■ 英語教育産業とテスト産業の共生関係
テスト得点を資本主義者的に生産する中で (in the capitalistic production of test scores) 、塾といった英語教育産業 (English teaching industry) とテスト産業 (testing industry) が共生関係 (symbiotic relationship) にあることについても今後注目していかねばならない。



*****

以上が私のまとめです。私も2014年にマルクス経済学の枠組みで英語および英語テストについて分析した文章を一般書に書きました。そこでは、11500字(400字詰め原稿用紙約29枚)という分量で書くことができましたし、無料のブログではなく有料の(商品としての!)書籍に掲載する文章として書きましたので、少しはわかりやすい解説になっているのではないかと思います。

以下、その一部を小見出しをつけた上で抜粋します。もしご興味のある方は、この本をお求めいただけたら幸いです。


■ すべての価値を一元的に測る貨幣
貨幣 (money、つまりお金) とは実は不思議な媒体だ。それは単なる金属片や紙片にすぎないのだが、それはすべてを購入し、すべての価値を一元的に測ることができる媒体だとみなされている。

■ 貨幣で測れる商品価値は「真価」ではない。
貨幣を媒介にして、さまざまなモノやサービスが次々に商品化されるグローバル資本主義社会に住む私たちは、あらゆるものの喜ばしさは、貨幣で測れる「価値」(value) あるいは「商品価値」 (commodity value) として測れるし、そう測るべきだと錯覚する。そうして何かを行うことの喜ばしさという真価 (worth) を忘れてしまう。これが資本主義的発想だ。

■ 大規模標準テストの点数は客観的な一元的測定のように見える
ここで英語を、ますます貨幣のように、一見したところ中立で客観的計測が可能な唯一無二の媒体に見せかけているのが、昨今ますます普及している英語力の大規模標準テスト(例えば、英検・TOEFL・TOEICなどの試験)である。

■ 大規模標準テストの点数はコミュニケーション能力の真価を測れない
標準テストが、どれだけ国内・国際的に制度化され、「客観的」な測定が意図されているにせよ、テストが英語でのコミュニケーション能力を十全に測っているというのは幻想に過ぎない。それが幻想であるのは、貨幣が、仮に商品とされたすべてのモノやサービスに価格という一元的な価値を与えることができたにせよ、それぞれに込められた真価を測ることができないのと同じ理由による。

■ 貨幣やテストの限界を知り乱用を防ぐべき
私は「この世から貨幣を一掃しろ」とか「すべてのテストを廃止しろ」といった非現実的な青臭い主張をしているのではない。貨幣やテストなしに近代社会が円滑に動くとは思えない(逆に言うと、そのように私たちの営みを変えていったのが近代化である)。私が言いたいのは、貨幣は私たちの営みの商品価値を数値化することはできても、真価(喜ばしさ)を計測することはできないということ、そして、テストは私たちの教育・学びを商品としてとらえた際の価値を数値化することはできても、教師や学習者がそれぞれに感じる英語の教育・学びの真価(喜ばしさ)をとらえきれないということである。



 


2018年7月2日月曜日

David McNeill (2005) Gesture and Thoughtの第1-4章のまとめ



下に掲載したまとめは、以下の公開研究集会の準備の一環で作ったお勉強ノートです。

公開研究集会:
外国語教師の身体作法
―学習者との身体的同調をうながすための実践的工夫―
7/15(日)京都外国語大学

 この集会は無料で、外国語教育に興味をもつ方でしたらどなたでも参加できるものですので、どうぞお気軽にご参加ください。

今回は、この本の第一章から第四章をまとめました。といいましてもとても選択的で恣意的なまとめですから、興味をもった方は必ず原著にあたってください。


David McNeill (2005)
Gesture and Thought
University of Chicago Press



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CHAPTER 1
Why Gestures?
(なぜ身振りを研究するのか)

■ 身振りは思考と語りを促進する
前著 (Hand and Mind, 1992) は、いかに身振りが思考を表す (reveal) かについてだったが、今回はいかに身振りが思考と語りを促進するか (fuel thought and speech) かについてである。身振りは、想いと言語の弁証法 (imagery-language dialectic) の構成要素 (ingredient) である。(Loc 107)
※ 私は、 "image" ということばは「想い」と訳す方が理解が進むのではないかと考えていますので、ここでも "imagery" を「想い」と訳しました。
関連記事:"Image"を敢えて「想い」と翻訳することにより何かが生まれるだろうか・・・
もちろん "image" "imagery" は異なる語形を有していますが、下の定義 (Merriam-Webster) などを見ると、両者は同義語として扱ってもいいのかと思い、今回は訳し分けていません。
IMAGE
5 a (1) : a mental picture or impression of something; (2) : a mental conception held in common by members of a group and symbolic of a basic attitude and orientation
IMAGERY
1 a : the product of image makers : images; also : the art of making images
b : pictures produced by an imaging system
ただ、読み進めていると、どうもこの本では “image” がしばしば単数形や複数形を取り具体的形態をもつ存在として、 “imagery” が具体的形態をもつ以前の抽象的な存在として使い分けられているようです。
※ 「想いと言語の弁証法」は、後に「発話と想いの弁証法」と言い換えます。その理由などはおいおい述べます。

■ 言語と想いは分離不可能
この本の主題 (the main theme) は、言語と想いは引き離すことができない (language is inseparable from imagery) ということで、これはダマシオ (1994, 1999) に基づくものである。 (Loc 120)

■ 身振りは言語の一部
この本の一つのメッセージは、身振りは言語の一部 (part of language) だということだ。身振りを口頭言語 (spoken language) から切り離された記号体系 (code) や「身体言語」 ('body language') と考えることは間違っている。 (Loc 120)

■ 言語と身振りの弁証法
言語と身振りはある全体 (a whole) の必須部分 (integral parts) であり、この複数の様態を有する単位 (multimodal unit) こそが言語そのものである。 (Loc 294)

■ 「言語」ということばの二義性
この本の査読者は、上記の弁証法で言語が部分でありながら全体であることの矛盾を指摘した。その矛盾を避けるために、用語法をもう少し正確にするなら、言語には二つの意味がある。
一つは、専門的-言語学的 (technical-linguistic) な意味で、「文法や単語などから構成される言語の静態的構造」 (those static structures of language consisting of grammar, words, etc) であり、「言語と身振りの弁証法」はこの意味で使われている。
もう一つは伝統的で日常的な意味での言語であり、この意味においては身振りは言語の一部である。読者はこの二義性を理解してほしい。 (Loc 437)

※ とはいえ著者の主張はやはり、「言語と身振りが言語となる」という読み替えを招いてしまう。著者は、第一の専門的-言語学的な意味を、文法 (grammar) speech (語り)と呼ぶことも適切ではないとしているが、私としてはこれを「言語形式」 (linguistic form) と呼ぶなら、「言語形式と身振りが言語となる」となり、表面的な矛盾は消え去るように思う。
この「言語形式」という用語を導入するなら、今までの議論も、「言語形式と想いは分離不可能であるが、その両者(言語形式-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは言語の一部である。言語形式-想いと身振りは言語の必須部分である」とまとめられるように思う。
あるいは逆に、第二の日常的な意味での言語を「発話」 (utterance) とするなら、これまでの議論は、「言語と想いは分離不可能であるが、その両者(言語-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは発話の一部である。言語-想いと身振りは発話の必須部分である」とまとめられるだろう。
もちろん二義的になりうる「言語」という用語を使わないようにするなら、「言語形式と想いは分離不可能であるが、その両者(言語形式-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは発話の一部である。言語形式-想いと身振りは発話の必須部分である」となる。

以上の用語の関係性を図示すると下のようになる。


1 McNeilによる言語・ジェスチャー・想いの関係性

しかし、こうしてみると、「想いと言語(形式)の弁証法」と言っても、その両者の総合に相当する単位が見られないし、身振りと想いも切り離せないのではないか、といった疑問も湧いてくる。そこでMcNeilが述べていることからは少し逸脱するが、「想いと言語(形式)の弁証法」は削除し、弁証法は「身振りと言語(形式)の弁証法」だけにとどめたのが図2である。


2:発話に発展する身振りと言語要素

2についての解説をさらに述べると言語(形式)という用語は、言語(要素)に換えられている。言語(形式)と言語(要素)の違いは、前者の言語(形式)が(広義の)言語の形式性を表象する抽象的概念であるのに対して、後者の言語(要素)は語・句あるいは定型的な句・文など、話者が使用する具体的な言語のまとまりを表している概念であることである。具体的な想いは、抽象的な意味での言語(形式)にではなく、具体的な言語(要素)に結合しているものと考えると、想いと隣接するのは言語(要素)とするべきだと考えた。また、さまざまな形態をとる身振りと想いも分離不可能と考え、想いは身振りにも隣接させた。

しかし、さらに考えるなら、想いとは具体的形象性に乏しいものであり、それぞれの具体的な言語(要素)や身振り(形態)に個別に対応しているものと考えるべきではないのかもしれない。想いは話者が漠然と自覚している、あるいは自覚しつつある心模様 (mental pattern) (もしくは神経模様 (neural pattern) Damasioaspect dualismの議論を参照のこと― であるとすれば、想いはまとめて図示した方がいいかもしれない。その心模様としての想いが、言語(形式)と身振りという二つの異なる様態の手段・媒体で少しずつ形象性を得つつ相互に影響を与えながら(広義の)言語(あるいは発話)として表現されるというのが図3である。


3:想いを共通基盤とし、発話・語りに発展する身振りと言語形式





CHAPTER 2
How Gesture Carry Meaning
(いかにして身振りは意味を担うのか)

■ 共起表現性 (co-expressiveness)
身振りと言語形式は共起表現 (co-expressive) であるが、冗長 (redundant) ではない。両者は同じ底流にある観念単位 (the same underlying idea unit)  を、独自のやり方で、あるいは独自の観点 (aspect) からから表現 (express) する。 (Loc 463)
※ この「同じ底流にある観念単位」といった表現からしても、上記の図では図3が一番よいのではないかと考えられる。
※ 上記の「言語形式」の原語は “speech” である。通常私は “speech” に「語り」という訳語を与えることが多いが、この本の著者は “speech” にはきちんとした定義は与えていないので、ここではこの用語をこれまでの趣旨と整合性が取れるように「言語形式」と訳した。以下もこの方針を貫いている。

■ 同時性 (synchrony)
身振りと言語形式は、共起表現的であるだけでなく、同時的 (synchronous) でもある。身振りと言語形式という共起表現的な象徴 (co-expressive symbols) は、同じ瞬間に提示される。一つの底流にある観念が、身振りと言語形式において同時に (simultaneously) 提示されるのである。話している時に心 (the mind) は同じことを二つのやり方で行っている。二つの別のこと (two separate things) を行っているわけではない。(Loc 463)
"Synchrony"と似た用語にユングの "synchronicity" (共時性)があるが、両者は異なるものだろうから、前者の訳語は「同時性」とした。

■ 生まれつき目が見えない人も発話の際に身振りをする
生まれつき目が見えない人 (the congenitally blind) も発話の際に身振りをすることは、言語形式と身振りのつながり (bond) の証拠であるように思える。これらの人は他人の身振りを観察したことがないからである。 (Loc 523)

■ 言語形式の使用が許されない場合の身振りは、通常のように語っている時の身振りとは異なる
言語形式の使用が許されない場合になんとか意味を伝えようとする (communicating meaning) 場合の身振りは、いつもの語ることが許されている場合の身振りと異なる。このことも言語形式と身振りの強い結びつき (tight binding) を示していると思われる。

■ 観察者の視点 (OVPT) と登場人物の視点 (CVPT)
身振りを行う際の視点には二つある。一つは観察者の視点 (observer viewpoint: OVPT) もしくは三人称の視点 (the third-person point of view) であり、この場合、手は物語る行為 (narration) の中での対象物 (entities) を表象 (represent) している。 (Loc 666)
もうひとつは登場人物の視点 (character viewpoint: CVPT) もしくは一人称の視点 (the first-person point of view) であり、この場合、手は登場人物の手となり、話者は身振り空間 (the gesture space) の中に入り込み登場人物の役割を演じる。 (Loc 681)

■ 身振りの分類は弁証法的分析にはほとんど役立たない
弁証法的分析 (dialectic analysis) にとって重要なのは、身振りの分類 (gesture classification) ではなく、身振りの内容 (content) の方である。 (Loc 740)

■ たいていの身振りは複数の分類項に属している
たいていの身振りは複数の様相を有している (multifaceted) 。映像的な身振り (iconicity) は直示的身振り (deixis) と結びついていたり、直示的身振りは比喩的身振り (metaphoricity) と結びついていたりもする。 (Loc 754)

■ 身振りはカテゴリーではなく次元で考えるべき
身振りは、カテゴリー別に分類するのではなく、次元 (dimensions) で考えるべきだ。この次元的アプローチ (the dimensional approach) なら、身振りをコード分類 (gesture coding) する際に、どれか一つに入れてしまわなければならないなどと思うこともなくなる。 (Loc 754)

■ 映像-比喩-直示-拍子の四重奏
身振りの次元は、映像-比喩-直示-拍子の四重奏 (the iconic-metaphoric-deictic-beat quartet) として考えるといいだろう。 (Loc 754)
※ しかしすぐに下にあるように、著者は次元を五つに増やしている。

■ 身振りの中の抽象性
比喩的身振りは、抽象的な想い (images of the abstract) を提示する。 (Loc 770)
直示的身振りも、大人が行うものは多くが抽象的指示 (abstract pointing) である。これは比喩的身振りでもあり、この身振りで示される空間と場所 (locus) は、非空間的な意味 (a nonspatial meaning) を提示 (present) するために用いられている。 (Loc 784)
拍子も、話 (speech) のリズムと共に刻まれるだけのもののように思われるが、実は話の重要なポイントを示すためにも使われている。 (Loc 799)

■ 身振りの次元:映像性、比喩性、直示性、経時的協調性、社会的相互作用性
一つの身振りの中に複数の身振りの記号論的特徴 (semiotic properties) が見られることから考えると、一つ身振りは分類のどれか一つに分けられるものではなく、多次元的なものであると考えられるべきである。
身振りの次元には、映像性 (iconicity)、比喩性 (metaphoricity)、直示性 (deixis) 、経時的強調性 (temporal highlighting)、社会的相互作用性 (social interactivity) が考えられる。 (Loc 814) 
身振りはこれらの次元でそれぞれの値を取ると考える方がいいだろう。 (Loc 830)

■ 身振りの意味と機能の解釈
身振りの意味と機能は、身振りがどのような具体的形態 (the form)をとり、どのように時空間的に展開され (deployment in space and time)、話をする際のどのような文脈 (the context of speaking) で使われているのかといった要因で解釈される。どの分類 (type) に属するかということで解釈されることはない。

■ 比喩と比喩的身振りが思考と言語において果たす役割
Lakoff & Johnson (1980) が言うように、比喩は人間の概念化 (human conceptualization) を拡張する手段である。 (Loc 876)
比喩的身振りは、想いとしての形を取りにくい意味 (meanings that are not themselves imaginable) に形を与える。比喩と比喩的身振りは、抽象的内容 (abstract content) と想い (imagery) を近づけ、言語がこの種の情報を提示することができる力を高める点で非常に重要である。 (Loc 906)

■ 慣習的身振りの慣習性を示す4つの特徴
※ “Emblem”は「慣習的身振り」と訳すべきか「定型的身振り」と訳すべきか迷っています。
 たとえば “OK” という親指と人差指で円を作る慣習的身振り(エンブレム)は以下の4つの点で慣習性が高いことが分かる。
(a) 必須形態 (obligatory form):もし親指と中指で円を作ってしまえば別の意味(「精確さ」(precision))を表す表現になってしまう。
(b) 恣意形態 (arbitrary form):親指とくっつけるのが人差し指でなければならない必然性はない。
(c) 文化特有性 (cultural specificity):他の文化ではこの身振りはまったく他の意味をもちうる。
(d) 形態と意味は予め組み合わされている (prespecified meaning paired with the form):形態と意味の組み合わせは固定的で形態素のような働きをする。
 (Loc 936-953)
※ (a) (d)、および (b) (c) はそれぞれ似たことを述べていると私は理解しています。

■ すべての身振りは話し手のためであると同時に聞き手のためでもある
 翻訳:「身振りとは社会的相互作用から個人の認知への架け橋である。身振りが生じるためには、(実在もしくは想像上の)社会的他者 (a social other) が存在しなければならないが、同時に身振りは個人の認知の動態的な要素 (a dynamic element) でもある。」 (Loc 1041)

■ 想い (imagery) の定義
 想い (imagery) を、写真的な実在性 (photo realism) として考えてはいけない。(Loc 1073)
 私たちにとっての「想い (imagery) 」の定義は「意味を直接的に体現している形象」 (a definition of imagery is that form directly embodies meaning) である。 (Loc 1087)

■ 身振りで表現される想い (gesture imagery) の特徴
 身振りは言語(形式)と組み合わさる (mesh)。両者は、底流に流れる同じ観念単位 (the same underlying idea unit) を異なる形態 (unlike forms) で提示する媒体 (medium) である。 (Loc 1087)
 身振りで表現される想い (gesture imagery) は以下の5つの特徴をもつ。(Loc 1087-1102)
 (a) 全域性 (global):身振りを構成する各部分のそれぞれの意味は、身振り全体 (the whole)の意味によって決定されている。これは言語においては、全体の意味が部分の意味によって決定されるのとは対照的である。
 (b) 統合性 (synthetic):一つの身振りの意味は、語りのさまざまな部分 (segment) においても保たれたままである。
※ この部分は私なりに整合的な解釈をしようとして、本書の他の箇所での主張を考慮に入れて、ずいぶん意訳というか書き換えをしています。原文は “A single gesture’s meaning is broken down in speech and separated in different in different segments” (Loc1087) です。
 (c) 瞬時性 (instantaneous):あるジェスチャーが展開 (unfold) するのにいくらかの時間がかかるにせよ、その意味は順次に構成される (build up meaning sequentially) ものではない。身振りの意味は最初から示されている。これは言語の意味が発語の順番にしたがって構成される (the ordered accumulation) のとは対照的である。
 (d) 非構成性 (noncombinatoric):二つの身振りが同時に生起 (co-occur) し、それぞれが同じことを異なる観点から描写することはあるが、これらが統辞的に結合する (combine syntagmatically) ことはない。両者は共存 (coexist) するだけであり、両者の意味はそれぞれの全域性を保ったまま統一される (united globally)。両者は全体の中でそれぞれの意味を保つ。
※ 例えば右手が登場人物、左手がその登場人物が入ろうとしている空間を表現しようとするとき、上のような二つの身振りが同時発生する。
 (e) 動態性 (dynamic):身振りで表現される想いは、語る文脈によって形成される (shaped) が、この文脈は言語的な文脈 (the linguistic context) であると同時に、より大きな談話の文脈 (the larger discourse context) でもある。言語的な文脈とは共起表現的で同時的な語り (the co-expressive, synchronous speech) のことであり、談話の文脈とは話者の記憶や意図を含むものである。身振りで表現される想いは、描写される出来事 (event) の反映であると同時にこの文脈の反映でもある。 (Loc 1102)
※ この動態性とは、言語的文脈や談話の文脈の展開に伴い身振りが変化していくこと、ぐらいの意味で理解していますが、正直、今ひとつすっきりと理解しているわけではありません。



CHAPTER 3
Two Dimensions
(言語の二つの次元)


■ 言語の二つの次元
これまで言語は二つの次元で考えられてきた。以下、それぞれの次元を表す伝統について記述する。 (Loc 1164)

■ 静態性で言語を認識する伝統 (the static tradition)
 この伝統においては、言語はモノであり過程ではない (as a thing, not a process) とみなされてきた。やや俗語的だが不正確ではない言い方 (a homely but not inaccurate word) をすれば、この次元を、言語の「モノ」的性質 (the ‘thinginess’ quality of language) と呼ぶこともできる。 (Loc 1164)

■ 動態性で言語を認識する伝統 (the dynamic tradition)
 この伝統においては、言語は過程でありモノではないとみなされてきた。この次元を言語の「活動性」 (the ‘activity’ of language) と呼ぶこともできるが、私としては言語内存在性 (the ‘inhabiting’ of language) と呼ぶことにしたい。(Loc 1164)

■ これら二つの認識が同時に必要
 私は、どちらか一つの認識だけでは不十分であり、これら二つの認識が同時に必要だと考えている。二つを同時に取り入れてこそ想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学 (the inherent dynamics of an imagery-language dialectic) が理解できる。 (Loc 1179)
※ 「想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学」については後に述べます。
※ 以下、この章ではソシュールとヴィゴツキーの言語論がやや詳しくまとめられていますが、まとめをまとめるのもおかしな話なので、ここではその記述は割愛します。



CHAPTER 4
Imagery-Language Dialectic
(想いと言語の弁証法)

CHAPTER 4.1
Dialectic and Material Carriers
(弁証法的で物質的な具現体)

■ 成長点 (growth points: GPs)
 翻訳:身振りとそれと同時に発せられる言語形式は言語的思考の構成要素である。これらは別のものであるが結合しており、これら二つが合併してヴィゴツキーが「成長点」と呼ぶ最小の単位になる。成長点は想いと言語の弁証法の最小単位である。 (The gesture and its synchronous speech are components of verbal thinking, separate but combined, and they merge into minimal units of a Vygotskian kind, termed here ‘growth points’ (GPs). The growth point is the minimal unit of an imagery-language dialectic.) (Loc 1671)
※ 第三章では、「想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学」 (the inherent dynamics of an imagery-language dialectic) について後述すると述べていましたが、ここでこの概念について少し考えます。「想いと言語の弁証法」とはこの本における重要概念ですが、他にも「身振りと言語の弁証法」という概念もあり、正直少しわかりにくいところです。
このわかりにくさはやはり「言語」 (language) の二義性から生じていると思います。上にも述べましたように、この本での「言語」は、言語学的な意味での「言語」すなわち「言語形式」 (linguistic form) と、日常的な意味での「言語」つまり「発話」 (utterance) のどちらかの意味で使われていますので、読者は「言語」がどちらを意味しているのかをその時々で判断しなければならず混乱します。
そこで私なりに二義性の解消をはかった言い換えをするなら、本書で語られている弁証法は、「想いと発話の弁証法」と「身振りと言語形式の弁証法」になります。下の図4は、前出の図3を少し改変したものです(左の四角が大きくなったのは、単に図のバランスをとるためです)。

4 Imagery-language dialectic and gesture language dialectic

さらにこの図4を日本語表記したのが下の図5です。「語り」と「言語形式」の違いを際立たせたかったので、弁証法の二項の言及の順番を換えています。


5:語りと想いの弁証法、および言語形式と身振りの弁証法

ここで私なりの説明をまとめてみます。

まず言語形式と身振りの弁証法ですが、言語形式と身振りは、想いを基盤とするという点では共通し共起的表現として同時に発生もしますが、互いに質を異にする媒体ですから、それぞれが異なる様態で相補的かつ統一的に想いを表現します。このように言語形式と身振りの両方を連動させながら使うことが言語的思考です。言語的思考を経て、言語形式と身振りが併合され統一されたならばそれが発話となります。この言語形式と身振りの弁証法の「総合」―弁証法の用語です―として、あるいは言語的思考の具現化として表現された発話は、言語形式と身振りという異種の表現媒体が一体化したものです。この発話はまた、発話と想いの弁証法の総合あるいは具現化でもあります。発話と想いも、互いに質を異にする媒体であり、二つは完全に一致することはなく、互いに影響を与えながら発展していきます。この発話は、時間の経緯と共に断片的に生み出されますが、それは語りと想いの弁証法の最小単位(「成長点」)と呼べます。この成長点を次々に産出し、いわばそれを線としてつなぐことで、私たちは思考し続け発話をし続けます。

以上の説明は、現時点での私の限られた読書量にもとづくまとめですので、ひょっとしたら後日修正を必要とするかもしれません。しかし私はとにかく自分の仮説を形にしないと前に進めませんのでここに提示しておきます。


■ 意味は身振りの内に存在する (Merleau-Ponty, 1962)
 身振りは、瞬時性・全域性を有し慣習的ではないことからもわかるように、単に言語形式の外側に付随しているもの (an external accompaniment) ではない(言語形式は順次的で分析であり構成的である)。身振りは意味の「表象」 (representation) ではない。意味は身振りの内に存在しているのである (meaning “inhabits” it)。また、身振りの内に存在する意味は言語形式にも存在している(Loc 1703)

■ 言語形式と身振りのどちらかが先行しているわけではない
 翻訳:言語形式と身振りの弁証法において、言語形式と身振りのどちらかが先行しているというわけではない。どちらかがより基礎的であるというわけでもない。両者は共に必要である。身振りが言語形式に入力されるわけでもないし、言語形式が身振りに入力されるのでもない。両者は共に生じるのである。 (Neither language nor gesture is primary in this dialectic, nor is one more basic than the other. Both are necessary; gesture is not input to speech, nor is speech input to gesture; they occur together.) (Loc 1723)

■ 物質的具現 (material carrier)
Vygotsky (1986) の用語である「物質的具現体」 (material carrier) とは、具体的な行為や物質的な経験において意味を身体化すること (the embodiment of meaning in a concrete enactment or material experience) である。物質的具現体によって何かを象徴化する際の表象能力が高まるように思える。 (A material carrier appears to enhance the symbolization’s representational power.) この考えからするなら、身振りの現実の動き自体 (actual motion of the gesture itself) が意味の一つの次元であることになる。身振りとは想いの「表現」 (expression) や「表象」 (representation) ではなく、身振りこそが想いそのもの (is the very image) であるとなる。この観点からするなら、身振りとは、思いがもっとも物質的に自然に身体化された形態 (the most developed -- that is, most materially, naturally embodied -- form) であることになる。 (Loc 1803)
※ 大変恥ずかしながら私はヴィゴツキーをきちんと読んでいないので、この「物質的具現」といった訳語が適切なのかどうかわかりません。自らの不勉強を改めて恥じます。

■ 身振りや単語は、思考の表現というよりは、思考の一形態としての思考そのものである
 ハイデガー的な考え方からすれば、身振りは表象ではない、もしくは表象だけにとどまるものではない (a gesture is not a representation, or is not only such)。身振りは存在の一つの形態である。 (it is a form of being) 身振り(および単語など)は、それ自身が思考が取りうる形態の一つの形態をとった思考である。 (themselves thinking in one of its many forms) これらは単に思考の表現というのではなくて、思考そのもの、つまり認知的存在そのものである。 (not only expressions of thought, but thought, i.e., cognitive being, itself) (Loc 1819)


CHAPTER 4.2
The Growth Point
(成長点)

■ 成長点の定義
 成長点とは言語カテゴリー的構成要素と想いに関する構成要素 (linguistic categorial and imagistic components) の両方を有すまとまり (package) であり、これらの構成要素をどちかか一方に還元してしまうことはできない。成長点は、ヴィゴツキーが言う意味での最小単位であり、全体であるという特性を保つ (retains the property of being a whole) 最小のまとまりである。想いと語りの全体を、私たちは言語形式と身振りが共起表現的、同時的、かつ一体的に発生することのうちに見出す (we see in synchronized combination of co-expressive speech and gestures)
 成長点という概念は、コミュニケーション上の出来事 (communicative events) の全体性 (totality) 、特に言語形式と身振りが同時に共起表現として生じること (speech-gesture synchrony and co-expressivity) から推測できる。記号論的に述べるなら、成長点は、想いと形態という正反対のものの結合であり、思考と発話を促進させる良性の不安定さ (benign instability that fuels thought and speech) を作り出す。この結合を成長点と呼ぶのは、これが話すための(あるいは話す最中の)思考のための最初の形態 (the initial form of thinking) であり、そこから思考が組織化される動的な過程が創発するからである。 (a dynamic process of organization emerges) (Loc 1959)

 「意味」の意味
 翻訳:意味においては二つのものが連携して扱われる。一つは差異化された焦点であり、もう一つは、焦点を差異化する対立物からなる領域である。この意味の概念を、焦点と背景の関係性以外に還元することはできない。焦点も背景もこの関係性を成立させるために構築されたものである。この意味概念は、意味は「連想」であるとか「強化された習慣」であるとか心の中のある場所にある「内容」であるといった意味の古典的見解とは大きく異なる。 (The meaning is two things taken jointly, including both the point differentiated and the field of oppositions from which it is differentiated. This concept of meaning is irreducibly a relationship of a point to a background, both of which are constructed in order to make the relationship possible, contrasts with the classic view of meaning as ‘association’ or ‘habit strength’ or ‘content’ at a mental address. (Loc 1989-2005)
※ この意味観は、ソシュールの意味観(特に差異の強調)的側面を強調したルーマンの意味観とも記述できるように思える。



CHAPTER 4.3
Extensions of GP
(成長点の展開)

■ 身振りと言語形式の非同時性 (asynchronies)
  ある調査によると発話の10%を超えないぐらいの割合で、身振りと言語形式が同期しないことがある。 (Loc 2437)

■ Kita (2000) IPH (Information Packaging Theory)
Kita (2000) IPH (Information Packaging Theory) は、文脈上のミスマッチ (a contextual mismatch) や記憶漏れ (memory lapse) やその他の破綻 (breakdown) において、身振りと言語形式の非同時性が観察される問題に取り組んでいるが、これは成長点理論が取り組んでいない問題である。
 IPHでは、言語形式と身振りは独立した認知的流れ (independent cognitive streams) として考えられている。これらは同時に流れているがやがて絡み合う。 (running simultaneously and interweaving in time)
言語形式が出てこない (a speech blockage) 時でも、身振りの流れは止まらない。やがて身振りは言語化 (linguistic encoding) が可能な情報にふさわしい形に変化する。つまり、ことばが出てこない時にも身振りは続くが、その身振りに助けられているうちにことばが見つかるわけである。 (The theory thus specifically applied to situations where speech aborts, gesture continues, and then speech resumes, utilizing a new gesture-induced information package.) (Loc 2437)
※ 「ことばが出てこない」というのは、外国語使用でしばしば生じることである。その際の身振りはどうなっているのだろうかについて、もっと調べたい。



CHAPTER 4.4
Social-Interactive Context
(社会的・相互作用的文脈)

■ 身振りの共有とは連携的存在であり、それには真似と借用がある
 ハイデガー的考え方をするなら、コミュニケーションとは認知的存在の同じ状態に連携的に存在することである。 (communication is joint inhabitance of the same state of cognitive being). ある人が他人の身振りや言語形式―存在の物質的具現体―を取り入れたなら、その人は他人の言語的思考のある側面に存在し始めたのである。 (If one person assimilates another person’s gesture or speech, the material carriers of being, this inhabits some aspect of this other person’s verbal thinking). この連携的存在 (joint inhabitance) には真似と借用がある。(Loc 3009)
“Joint” の訳し方についてはよく困ります。ここでは「連携的」としておきました。以下の記事では複数の存在の間での相補性を強調した訳し方をしています。
オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

■ 真似 (mimicry)
 真似とは人格的存在の間での同時性 (interpersonal synchrony) の過程 (a process) である。一人が話しながら行う身振りを、聞き手も同じように行うことである。(Irene Kimbara, 2002) (Loc 3009)

■ 借用 (appropriation)
 ある人が特に身振りなしに言語形式を語る際に、他の人(聞き手)がその言語形式の共起的表現である身振りをその言語形式と同時に行う。(Nobuhiro Furuyama, 2000)。このようにして他人の言語形式に身振りを共起させた人は、身振りによって他人の言語形式を借用 (appropriate) したといえる。その人は身振りを使って他人の言語形式の内に存在しており、まるで他人と連携的にに一つの成長点を作っているかのようである。 (inhabited the speech of another, with the help of the gesture, as if they were jointly creating a single GP). (Loc 3025)
 借用には、他人の身振りに合わせて自分が言語形式を発することもある。 (Loc 3045)

以上


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