2018年4月7日土曜日

いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose


以下は、Introductionから始まる私の「お勉強ノート」です。 

  
Todd Rose (2017) 
Penguin Books 
  
Chapter 2 
  
How Our World Became Standardized 
(いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか) 



 産業界でのケトレーともいえるテイラー 

フレデリック・テイラー (Friedrick Taylorを、20世紀の誰よりも人々の生き方に対して影響を与えた人物だと考える人もいます。テイラーはケトレーの考え方を、産業界に適用しました。ビジネスは、個々の労働者に合わせるべきではなく、ビジネスのシステムに合う「平均人」 (the Average Man) を採用するべきだとするのがテイラーの考え方でした。テイラーは何事にも唯一最善の方法 (one best way) があり、それこそは標準化されたやり方 (the standardized way) であると固く信じていましたテイラーからすれば労働者がそれぞれに個性的なやり方で仕事を進めることほど悪いものはなかったわけです 

それでは標準的なやり方を誰が考え出すかという問題が残ります。テイラーは、標準的な仕事の計画 (planning) や管理 (control) や意思決定 (decision making) 、労働者に任せるのではなく、専門の計画者 (planner) に任せるべきだと考えました。テイラーはその人たちを当時は新しかった管理職 (manager) という名前で呼びました。現在、自らは手を動かさずに計画や管理などに専念する管理職という職種は当たり前のものになっていますが、19世紀の感覚ではそういった自ら体を動かさない人間というものは非常に奇異でした。しかしこの 管理職という職種ををテイラーは普及させたのです。 

1911年に彼が出版した『科学的管理法の原理 (The Principles of Scientific Managementはアメリカだけでなく、国際的なベストセラーになりました。農業社会から産業社会へと社会が大転換しつつも、たとえば1900年のアメリカでは高卒が人口の6%、大卒が2%しかいなかったような状況では、不慣れな労働をする多くの労働者には、標準化された方法を「唯一最善の方法」と呼んで教え込むことは現実的な選択だったのかもしれません 

現在、自分の会社がテイラーの科学的管理法の考え方を採用していると認める会社はほとんどないでしょう。なぜならばテイラー主義 (Taylorism) は今ではレイシズムやセクシズムと同じように、悪い意味合いをもつようになってしまったからです。しかしながら、テイラーの考え方は現在でも非常に強く、多くの会社や組織はテイラー主義で動いています。 

蛇足 
今では、テイラー主義やフォーディズムといった用語は批判の対象になることはあれ、表だって称揚されることはほとんどないことは、上にあるとおりです。しかしここで気をつけておきたいことがいくつかあります。 

一つは、その当時ではテイラー主義はそれなりの効用をもっていたに違いないということです(そもそもそうでなければ、テイラー主義がそれだけもてはやされるわけはありません)。工場での作業が単純だが労働者はその仕事のやり方をよく知らないし、そもそもそれまで同じ場所で同じように働く習慣がなかった時代においては、テイラー主義のやり方は有効でありかつ画期的だったのでしょう。 

しかし、単純作業が複雑(複合的 complex)課題になりますと唯一の正解はなくなります。私たち一人ひとりが自分なりの選択によって課題どこからどのように対処するか決定しなければならなくなります。私たち一人ひとりの個性(長所や短所)を踏まえた上で、自分なりの戦略を立て、その順番と方法で課題に挑み、その成功や失敗からさらに自分の戦略を修正してゆくやり方です。 

その戦略は、他の人にとっては有効な戦略ではないかもしれません。しかし、課題が複合的であるため、課題遂行に「唯一最善の方法」がない場合は、それぞれの人間が自分にとってもっともぴったりする方法を自分なりに選んだ順番で試すことの方が、「平均人」に基づいて予め策定された「唯一最善の方法」を強制的にやらされるよりも効果的なはずです。もちろんその課題についてほとんど知らない人には「平均的な方法」をマニュアルとして示すこともあります。初心者はマニュアルを最初は頼りにするでしょう。しかし初心者も、少しずつマニュアルのやり方を少しずつ自分に合わせて変えたり、マニュアルにはない自分なりの方法も考案したりするでしょう。少なくとも自律性といった動機づけの点では、自分なりの方法を試す方が有効でしょう。 

複合的な課題に対処する場合は、「平均人」に基づいて考案された「唯一最善の方法」を押し付けることもなく、また、誰か特定の(たとえば名人の)やり方を押し付けることもなく、各人に課題と自分の間の相互関係を理解させながら、それぞれのやり方を発展させる方が有効なはずです。 

いいたとえになるかどうかわかりませんが、たとえば将棋という複合的なゲームでよい弟子を育てる場合を考えてみましょう。この場合、師匠は弟子の個性を見極めながら最小限の助言しかせず、弟子に自分なりの棋風を見つけさせることが多いのではないでしょうか。別の例をあげます。私は会社勤めの経験がないのでよくわかりませんが、優れた上司が優れた営業職を育てる場合は、上司は部下に画一的なマニュアルの遵守を求めるでしょうか?上司自身のやり方を部下に押し付けるでしょうか?もちろんそんな上司も多くいるでしょうが、そんなやり方では部下が育たないというのが現実ではないでしょうか。 

こうなると人を育てる管理職がするべきことの理解が変わってきます。複合的な課題に対応する場合においては、管理職は既成の方法を教え込んだり押し付けたりするより、部下の個性をよく理解した上でその部下の課題への独自の取り組み方を部下と共に探すべきでしょう。そのためには管理職は、部下のことばをよく聞かなければなりません。そもそも部下の個性は管理職より部下の方が知っている場合の方が多いのですから、独自の取り組み方を見つけ出すのは部下である可能性の方が高いでしょう(すぐれた管理職はそれまでの経験から、一人ひとりの部下の個性を見い出すことに長けているかもしれませんが、その可能性は今はおいておきます)。 

この点、次のように、人間には司令を下す管理職に適した人々と司令を実行する労働者に適した人々の二種類があると類型的に述べているテイラーは、やはり人間を個性でなく類型で見ており、この点は批判されるべきでしょう。以下は、ローズの本では引用されていないテイラーのことばです。 

It is also clear that in most cases one type of man is needed to plan ahead and an entirely different type to execute the work. 

Taylor, Frederick Winslow. The Principles of Scientific Management [with Biographical Introduction] (p.26). Neeland Media LLC. Kindle 版. 

私は今回、テイラーのThe Principles of Scientific Management読んでみましたが、テイラーには(ゴルトンや後に出てくるソーンダイクと同じように)、かなりの階級意識というか、「何かに優れた者は何においても優れているし、何かでダメな者はどんなことにおいてもダメ」といった考えが強いように思えます。これが差別意識から来るのか、それとも当時の公教育が不十分で人々の個性的な長所と短所を理解する機会がほとんどなかった時代的制約から来るのかは私には判断できませんが、いずれにせよ、テイラーの考え方を今そのまま称揚することはとてもできません。 

しかし、そういったテイラー主義は口では批判的に語られても、実際は、時代遅れのままに継承されているということは強調されなければなりません。特に日本では、あるやり方を無批判的に墨守することが望ましいと思われているような職場が未だに多いようですが、私たちが取り組む課題がますます複合的になり、私たち一人ひとりに創造性が求められ、かつ、私たちの多様性がますます明らかになってきた現代において、私たちはテイラー主義の限界を頭でも身体でも理解し、その使用をきわめて限定的にした上で、新しい働き方を創造してゆく必要があります。 

考えてみれば、それこそがこの本の狙いの一つですから、このあたりで私の蛇足は止めて、本書のまとめに戻ります。 


 敎育界に波及するテイラー主義 

テイラーの考え方は教育界にも波及しました。多くの教師が教育の新しい使命は、卒業生をテイラー型の経済活動に適した労働者にすることだと考え始めました。テイラーは個性ある一人ひとりのためのシステムではなく、平均的な労働者 (average workers) のためのシステムを作るべきだと考えましたが、教育界におけるテーラー主義者たちも同じように、学校も一人一人の個性を伸ばすことよりも、平均的な学習者のための標準的な教育 (a standard education for an average student) を提供するべきだと考えました。 

テイラー主義者たちは、子どもを、産業界の課題を「完璧に」 (in a perfect way) こなす労働者にするための体系的敎育を行うには、教育システムのすべてを科学的管理法の中心的教義にかなうように設計し直さなければならないと考えた。すべてを平均に即して標準化するのである (standardize everything around the average)。アメリカ中の学校が「ゲーリープラン」を採択したが、これはそれが発祥した産業化の進んだインディアナの市の名前にちなんだものである。学習者は年齢集団によって分けられた(学習者が実際にどれだけできるのか、どれだけ興味をもっているのか、どんな適性をもっているのかによって分けられるのではない)。この学習者集団はさまざまな授業を受けたが、どの授業も標準化された時間だけの長さをもっていた。始業のベルも導入されたが、これは工場のベルを真似たものであり、子どもに将来の仕事に対して心の準備をさせることが目的であった。 

To organize and teach children to become workers who could perform industrial tasks in “a perfect way,” the Taylorists set out to remake the architecture of the entire educational system to conform to the central tenet of scientific management: standardize everything around the average. Schools around the country adopted the “Gary Plan,” named after the industrialized Indiana city where it originated: students were divided into groups by age (not by performance, interest, or aptitude) and these groups of students rotated through different classes, each lasting a standardized period of time. School bells were introduced to emulate factory bells, in order to mentally prepare children for their future careers. Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.722-727). Penguin Books Ltd. Kindle . 

テイラー主義者は、敎育界における管理職ともいえるカリキュラム策定者 (the curriculum plannerという役割も生み出しました。 

科学的管理法の考え方にしたがって、これらのカリキュラム策定者は、固定的で変更不可能ななカリキュラムを作り出した。このカリキュラムは、学習者は何をどのように教えられなければならないか、教科書には何が内容として含まれなければならないか、どのように評価されなければならないかなど、学校で起こるすべてのことに対して指示を与えた。  

Modeled after scientific management, these planners created a fixed, inviolable curriculum that dictated everything that happened in school, including what and how students were taught, what textbooks should contain, and how students were graded. Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.727-730). Penguin Books Ltd. Kindle . 

こういったテイラー主義の考え方は時代の要請や気風に合ったのでしょうか、1920年代にはアメリカのほとんどの学校がテイラー主義に基づいた敎育をするようになったそうです。  
蛇足 
自分が何を当然と思っているのかに気づくことは難しい。なぜならまさにそれを当然と思っているからだ」("It is hard to notice something you take for granted because you take it for granted."といった言い回し (Ken Robinson) がありますが、ここの指摘を読んで、「そうか、敎育にはそれ以外の方法もあるのか」とほぼ初めて気づく方も多いのではないでしょうか 

といいますのも、テイラー主義的な以下の命題を「当然」と考える敎育関係者(および学習者)は多いと思われるからです。 

(1) 教師は標準的な教育方法と評価方法で学習者を教え評価する。それを受け入れない学習者は指導の対象となる 

(2) 教師はカリキュラム策定者が標準として定めた教育内容と教育方法と評価方法を受け入れる。それを受け入れない教師は指導の対象となる 

しかし(1)で指導の対象となった学習者の中に、実はその分野に独自の適性をもっていた場合も多いはずです。また(2)で指導の対象となった教師の中で、その個性をなんとか貫きとおしたため、後年、きわめて優れた教師に成長し、同業者の尊敬を受けている方は、私は何人も直接的に知っています。 

現在の多くの敎育がテイラー主義的であること。そしてそのような敎育が、いつ、どのような時代背景で浸透し、その当時の現実、そして現在の現実とどのような齟齬を生じさせているのかを理解することは、敎育関係者にとってとても重要なことだと思います。もし私たちが本気で創造性と多様性を大切にしようと思っているなら、それは必須の課題ともいえるでしょう。 

話をまた本書のまとめに戻します。 



 教育界でのゴルトンともいえるソーンダイク 

ケトレーの考え方が、産業界でテイラーによって適用されたとするならば、ゴルトンの考え方はソーンダイクによって教育界に適用されました。ゴルトンがケトレーの考え方を不十分だとみなしたのと同様、ソーンダイクもテイラーの考え方は不十分だとしました。(実に奇妙な一致です)。 

ゴルトンは、ケトレーの「平均は類型 (type) である」という考え方を受け継ぎながらも、その平均からどれだけ離れているかで人々を階級 (rank) に分けることができると考えましたが、同じようにソーンダイクも、平均に基づく標準的な教育方法を採択するべきという考え方を継承しながらも、その教育方法はできる子とできない子を選別するために用いるべきだと考えました。 

テイラー主義者は、敎育の目的は、どの学習者にも同じ平均的な敎育を授け、同じ平均的な仕事への準備をさせることだと主張したが、ソーンダイクはそれは間違いだと考えた。ソーンダイクによるならば、学校は、若者を能力にしたがって選別 (sort) するべきである。そうすれば若者はそれぞれの人生において適切な地位に効率的につくことができる。それは管理職かもしれないし労働者かもしれない。卓越した指導者かもしれないし使い捨てされるようなはみ出し者かもしれない。いずれにせよ、そうすれば教育的資源を能力別に配分することができるのだ。 
But Thorndike believed that Taylorists were making a mistake when they argued that the goal of education was to provide every student with the same average education to prepare them for the same average jobs. Thorndike believed that schools should instead sort young people according to their ability so they could efficiently be appointed to their proper station in life, whether manager or worker, eminent leader or disposable outcast—and so that educational resources could be allocated accordingly.   Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.750-753). Penguin Books Ltd. Kindle .  
ソーンダイクは、平均との差 (deviation 偏差)による選別で学習者を階層化 (ranking) するとい自分の考えを具現化するために、手書き、スペリング、算数、読解、絵画などで次々に標準化テスト (standardized tests) を作成し、それはアメリカ中に広まりました。 

このソーンダイクを著者のローズは次のように評します。 

ソーンダイクにとって、学校の目的とは、すべての学習者を同じ水準にまで教育することではなく、生まれもっての才能の水準にしたがって学習者を選抜することであった。敎育の歴史の中でもっとも影響力をもった彼が、敎育は学習者の能力を伸ばすことはほとんどできず、敎育はすぐれた脳をもって生まれた学習者と、劣った脳をもって生まれた学習者を区別することに限定されていると信じていたのはひどく皮肉なことである。 

For Thorndike, the purpose of schools was not to educate all students to the same level, but to sort them, according to their innate level of talent. It is deeply ironic that one of the most influential people in the history of education believed that education could do little to change a student’s abilities and was therefore limited to identifying those students born with a superior brain—and those born with an inferior one.  Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.778-781). Penguin Books Ltd. Kindle . 

しかし今日ソーンダイクのランク付けの考え方は、学習者だけではなく教師にも行き渡っています。教師は管理職に評価されその評価の階級によって、昇進・賞罰・終身雇用などが決められます。学校や大学も様々なメディアでのランキングで格付けされますが、それらのランキングの多くはGTA などの平均によって決まるものです。また各国の教育の状態もPISA (Programme for International Student Assessment) といった国際的な標準化テストによって定められます。 

私たちの21世紀の教育システムは、まさにソーンダイクの意図通りに作動している。小さい頃から、私たちは平均的な学習者のために設計された標準化された敎育カリキュラム上でどれだけのことをなすかという点で選別される。平均よりも上なら褒美や機会が与えられるし、平均以下なら制限が加えられたり見下されたりする。現代の評論家や政治家や活動家はしきりに、私たちの教育システムは壊れていると語るが、実際にはその逆が正しい。ここ一世紀にわたって、私たちは教育システムを完璧なものにしたので、今やそれはうまくオイルの回ったテイラー主義マシンのように、設計の意図通りの目的のためにおよそ効率的に動いている。学習者を社会でそれぞれに見合った場所に送るために効率よく学習者を階級化しているのだ。 
Our twenty-first-century educational system operates exactly as Thorndike intended: from our earliest grades, we are sorted according to how we perform on a standardized educational curriculum designed for the average student, with rewards and opportunities doled out to those who exceed the average, and constraints and condescension heaped upon those who lag behind. Contemporary pundits, politicians, and activists continually suggest that our educational system is broken, when in reality the opposite is true. Over the past century, we have perfected our educational system so that it runs like a well-oiled Taylorist machine, squeezing out every possible drop of efficiency in the service of the goal its architecture was originally designed to fulfill: efficiently ranking students in order to assign them to their proper place in society.  Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.799-805). Penguin Books Ltd. Kindle .  
もちろん、テイラー主義やソーンダイク主義などの平均主義 (the averagarianismの長所もありました。20世紀にこれらの考え方がなければ、アメリカをはじめとした国々は産業化にうまく対応できなかったでしょう。標準化テストで人を選抜することで、血縁第一主義 (nepotism) やコネ第一主義 (cronysimの影響を少なくすることができたでしょう。 

しかし、平均主義の浸透により、私たちは、学校や職業生活や人生でうまくやるためには、狭い範囲の期待に自分を合わせることを社会から強制されるようになってしまったのです。(society compels each of us to conform to certain narrow expectations in order to succeed in school, our career, and in life.) (Kindle の位置No.819-821) 

 現状をローズは次のようにまとめます。 

私たちは皆、他の人たちと同じようになろうと必死になっている。いや、もう少し正確にいうなら、私たちは他の人達と同じだが勝っているようになろうと必死になっている。ある学習者が才能豊かだと判定されるのは、その学習者も他の人たちと同じ標準化テストを受けてその得点が勝っていたからだ。ある志望者が望ましいと判定されるのは、他の人と同じ資格をもっているがその格が上だからだ。 

We all strive to be like everyone else—or, even more accurately, we all strive to be like everyone else, only better. Gifted students are designated as gifted because they took the same standardized tests as everyone else, but performed better. Top job candidates are desirable because they have the same kinds of credentials as everyone else, only better.  Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.821-824). Penguin Books Ltd. Kindle . 

ローズはこのようにも言います。 

私たちは個性の尊厳を失ってしまった。私たちの独自性は、重荷、障害、もしくは成功への途上での後悔すべき寄り道となってしまった。 
 We have lost the dignity of our individuality. Our uniqueness has become a burden, an obstacle, or a regrettable distraction on the road to success.  Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.824-825). Penguin Books Ltd. Kindle .  

このような社会状況で、いかにして個性を理解し活かすことができる条件を作り出せるのかというのが著者の根源的な問いかけです。 

  
⇒蛇足 
こうしてみますと、21世紀の日本の教育もソーンダイク的な考えに染まっているように思えます。先程の(1)と(2)の命題に続いて、以下の命題を信じている人は、学校教育について権力をもっている人に多いのではないでしょうか。そしてその人たちの言い分を多くの市民・教師・保護者・学習者が「そんなもんだ」と思い込んでいるのではないでしょうか。 

(3) 社会が学校教育に第一に求めることは、産業界の人材として適したエリートを選別することである。 

(4) 限られた敎育資産は、できるだけエリートの敎育のために使われ、非エリートの敎育は彼ら・彼女らが反社会的にならない程度にとどめておいた方が合理的だ。なぜなら、) エリートはおしなべてすべてに優れ、非エリートはだいたい何をやっても劣るからだ。 

(5) 教師や学校の評価は、どれだけエリートを輩出できたかによって決まる。 

(6) エリートの選抜は標準化されたテストによって行われるのがもっとも科学的であり公正である 
  
(7) 標準化されたテストに対してもっとも効率のよい準備をするのが、もっともよい教育である 

(8) 標準化されたテストで評価されないことを学ぶのは、無駄な寄り道にすぎない 


しかし、これらが唯一の考え方ではないはずです。そもそもこういった考え方に基づく学校教育が、子ども・若者を幸せにしているのでしょうか。日本の社会を活性化させているのでしょうか? 

これらの考え方は、大量生産体制への社会的な準備競争が必要だった19世紀中頃から20世紀中頃ぐらいまでにせいぜい有効だっただけで、社会の競争(というより協調)が、均一性に基づくものから、多様性に基づくものに変化した21世紀には時代遅れのものとはなっていないでしょうか。 

21世紀の前提は、たとえば、複合性・非対称性・不確実性や(伊藤穰一)、過程化・頭脳化・流動化・投映化・共有資産化・共有社会化・自動選別化・再編創造化・相互作用化・自動記録化・発問化・新生化(ケヴィン・ケリー)などといった概念でとらえられるものに変わっているのではないでしょうか。 

関連記事 
伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017) 『9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房 
   
ケヴィン・ケリー著、服部桂訳 (2016) 『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』 NHK出版 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/01/2016-12-nhk.html 


そうなると上記の(1)から(8)の前提を私たちは書き換えなければなりません。以下、私の考えをとりあえず提示します(これらについてはこれから随時考えることによって、今後改訂するかもしれませんが、まずは書き出すことによって、私の、そして読者の皆さんの、思考を活性化することを狙って書き出します。参照の便を考え、これまでの前提を(1)、新しい前提を(1)' といったように表記します。 


(1) 教師は標準的な教育方法と評価方法で学習者を教え評価する。それを受け入れない学習者は指導の対象となる。  
  
→(1)' 標準的な教育方法と評価方法に対して困難を覚える学習者に対して、教師は学習者にあった教育方法と評価方法を探す。 
  
  
(2) 教師はカリキュラム策定者が標準として定めた教育内容と教育方法と評価方法を受け入れる。それを受け入れない教師は指導の対象となる。 
  
→(2)' 教師はカリキュラム策定者が定めた教育内容と教育方法を参考にしながらも、公教育の教育方針の範囲内で、それらを教育の現状に合うように、それらを変更することも、それらとは異なったこともを考案し実践する。もちろん言うまでもなく、その試行に対して教師は教育的責任を負う。 
  
  
(3) 社会が学校教育に第一に求めることは、産業界の人材として適したエリートを選別することである。  
  
→(3)' 社会が学校教育に第一に求めることは、学習者一人ひとりの個性を尊重し、それを伸ばすことである。 

参考:日本国憲法第13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 
  
  
(4) 限られた敎育資産は、できるだけエリートの敎育のために使われ、非エリートの敎育は彼ら・彼女らが反社会的にならない程度にとどめておいた方が合理的だ。なぜなら、) エリートはおしなべてすべてに優れ、非エリートはだいたい何をやっても劣るからだ。 
  
(4)' 学習者がそれぞれに示す能力が異なるがゆえにそれぞれが受ける教育が異なるものであるにせよ、どの学習者も等しく自らの能力を伸ばす政治的権利を有する。(学習者は「異なれども対等」に教育を受ける権利を有する)。 
  
参考:日本国憲法第26条:すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
  
    
(5) 教師や学校の評価は、どれだけエリートを輩出できたかによって決まる。  
  
(5)' 教師や学校の評価は、どれだけ一人ひとりの学習者の可能性を開花させたかによって決まる。 
   
  
(6) エリートの選抜は標準化されたテストによって行われるのがもっとも科学的であり公正である。  
  
→(6)' もし「エリート」が「すべての側面において優れた人」を意味するのなら、これは現実に即していない概念である。一人ひとりの可能性を発見する方法として、標準化されたテストは適切な方法ではない。 
※ この論点は大きなものなので、これについては、2018年8月8日の外国語教育メディア学会 (LET) のパネルディスカッションで詳しく説明したいと考えています。詳しい説明についてはしばらくお待ちください。 
  
外国語教育メディア学会第58回全国研究大会 
講演・シンポジウム講師紹介 
講演・シンポジウム詳細 
  
  
(7) 標準化されたテストに対してもっとも効率のよい準備をするのが、もっともよい教育である。  

(7)' 標準化されたテストへの対策を過度に行うことは、学習者一人ひとりの学びの可能性を限定してしまう。 
  
  
(8) 標準化されたテストで評価されないことを学ぶのは、無駄な寄り道にすぎない。  
  
→(8)' 学びは標準化されたテストで出題される・されないにかかわらず、学習者の可能性を伸ばすために行う。 


これら8つの考え方についてはいろいろな意見がありうると思います。 
  
現場教師、特に困難な現場で教えている教員にとっては(1)'や(2)'は、当たり前のこと、というより、そうでないと毎日が成立しないものでしょう。 
  
(3)や(4)に関しては、多くの政治家や実業界で教育に関する「有識者」と呼ばれている人たちの本音かもしれません。ですから(3)'や(4)'は、そういった人たちにとっては、いかにも青臭く、とりあえず建前として否定はしないものの、現実にはほとんど実現する気のない理想なのかもしれません。 
  
(5)'に関しては、現場教師が毎日の実践で、あるいは卒業生がふらりと学校に訪ねてその近況を教えてくれた時などに実感していることかと思います。しかし同時にそんな教師は(5)のプレッシャーを、権力志向の強い管理職だけでなく、一般の保護者からも感じているのかもしれません。 
  
(6)と(6)'については上にも書きましたように、もっと詳しい説明が必要です。そういった説明ができるようになるためにも、私はこの一連の記事を書いたり、他の勉強も続けていますので、その説明に関しては今しばらくお待ちください。 
  
(7)は進学校の現実です。その中で(7)'のような考え方をを教師までもが失ってしまうことが怖いです。また進学校でそれなりにいい思いをして来た優等生が、大学の教育学部で教育について広い視野と深い思考から考え直すことなく卒業して教師となってしまうことも私は実は怖れています。 
  
(8)は、実は私は大学生からよく聞きます。「無駄な寄り道」をしてしまったと言う学生さんほど、私からすると魅力的な人物であることが多いのですが、彼ら・彼女らにそう思わせないようにするにはどうしたらよいのかと思っています。ついでながら申し上げますと、(8)を頑なに信じて大学に合格してきた学生さんと対話をしていると、私には、彼ら・彼女らが私と目をなかなか合わせようとしなかったり、そもそも目に力がないような表情をしていたりすることが多いように思います。もちろんその観察は私という存在の影響であったり反映であったりするのかもしれませんが、学生さんの表情を教育におけるもっとも有効な指標の一つと考える私にとっては、学生さんが(8)と考えてしまうことには大きな懸念をもっています。 
  
  
以上、駄文も含めて、この本の第二章をまとめました。私は先日、翻訳書も手に入れて読みましたが、翻訳は読みやすく、また参考文献にはすでに翻訳された書籍の情報もありますので、この翻訳書はお薦めです。ただし、上の翻訳は私が行ったものであることは付記しておきます。 




関連記事

Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html

いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html 



 
追記(2018/04/18)
一試合得点数の高いプレーヤーばかり集めることによってチームがガタガタになってしまったバスケットボールチームのNew York Knicksのエピソードはやはり興味深いので、その件に関するリンクを備忘録としてここに掲載しておきます。

Bad Decision Making is a Pattern With the New York Knicks
https://www.huffingtonpost.com/david-berri/bad-decision-making-is-a-_b_7283466.html

この記事の著者のDavid Berriの著書には Stumbling on Wins があります。








 










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