2015年8月31日月曜日

「リスト化・数値化の危険性」

以下の文章は、三友社『新英語教育』2015年7月号の19ページに、「どうする日本の英語教育」のシリーズ第16回目として「リスト化・数値化の危険性」という題名で掲載していただいた私の文章です。出版から少し時間がたちましたので、編集部との予めの合意に基づき、このブログにも掲載します。


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  昨今、教育の目標をリスト化・数値化することが流行っている。英語教育だと、Can-DoリストやTOEFLなどの資格試験が教育の目標だとされる。だが、この流行は怖い。この怖さは、道徳の教科化・点数化と同じだ。誰も道徳の重要性は疑わない。ただ、道徳の内容を、ここからここまでと限定し、その内容をテストで問うて点数化することは危険だ。

  この危険性がわからない人は、理念と概念を混同している。カントは『純粋理性批判』で感性・知性・理性の区分を説いた(翻訳を読むなら中山元氏翻訳の光文社古典新訳文庫 版がお薦だ)。感性とは直感のレベルで気づく働きである。知性はその直感を分析し概念とする。筆者は写真好きなのでそれで例を出すと、ぶらりと散歩をしていて「おやっ」と直感的に気づくのが感性であり、直感の正体を「逆光で輝く木の葉」だと概念にするのが知性である。その知性の概念をさらに抽象化して考えるのが理性である。「逆光で輝く木の葉」といった概念をさらに抽象化し「美」を考えることが理性といえる。概念が高度に抽象化され具体性を失った時、それは理念と呼ばれる。人は概念で具体的な手続きを行い、理念で抽象的な指針を得る。

  道徳は理念である。理念は具体的な概念の単なる集合ではない。「道徳とは、次の1~10を行うことです」などと具体的な項目(概念)にリスト化できない。リストを超える深みをもつのが理念だからだ。問うても問うても、さらに問いが出てくるのが理念であり、その問いの連続が私たちを導く。

  理念は、問えば具体的な答えが必ず出てくる概念とは異なる。テストの得点で表せるのはせいぜい概念の理解にすぎない。テストで理念について測定できると考えるのは愚かである。ところがその愚かな試みが権力をもちはじめると怖い。理念の極めて歪んだ単純化にすぎないテスト得点が、理念を体現するものとして過大評価される。道徳のテスト得点が低ければ、その人の人間性が疑われる。要領よく高得点を取る者は、高潔の人物とされる。概念と理念を混同して、リスト化・数値化を進めれば、私たちの営みが歪められてしまう。

  さて、英語教育では「コミュニケーション能力」が話題だが、これについてそれなりに研究を続けている私の見解は、これは理念であって概念ではないということだ。もちろん私たちは、ある具体的な課題でもってコミュニケーション能力の高低を語る(例えば「印象的な自己紹介ができる」など)。だがその課題(自己紹介)ですら抽象性が高く、具体的に考えてゆくと、何をもって「印象的」とするか、「いつ・どこで・誰に」自己紹介することを考えればよいのか、話し方は朴訥であってはいけないのか、などと、概念化ですら容易ではない。それを点数化しようとすればいわゆる「総合的判断」をするしかないのが実情だ。だがそんな判断は「主観的」だと批判され、誰でも同じ結論が出るような判定基準が概念として定められ、それが「客観的」だと称される。

  そんな課題を集めたテストは「コミュニケーション能力」を客観的に測定する指標とされるが、そんな課題概念の集合は「コミュニケーション能力」理念を過不足なく表してはいない。理念としてのコミュニケーション能力は、奥の深いものであり、誰もそれをリスト化・数値化し尽くせない。それをあたかも語り切り数値化できるように主張することが進歩ならば、そんな進歩は世の中をおかしくする。テストで道徳やコミュニケーション能力を測定できると主張するのは、理性を欠いた知性の暴走である。

理念を概念と混同することを、進歩とか学問などと呼んではならない。そもそも「誰でも同じ結論が出る」とは「バカでもわかる」ということだ。バカでもわかる物差しばかり使っていれば、私たちは皆バカになってしまうだけなのに。



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英語教育は、学校教育の中でも特に時流に流されやすい教科だと思われます。そうであれば、その「時流」とは何であり、それが何故大きな力となっているのかを理解しておくことが重要かと思い、下記の本でも多くのページを割いて、現代の流れに関する考察を加えました。未読の方、お読みいただければ幸いです。








2015年8月20日木曜日

"Power"および"critical"概念に関する学生さんの感想



以下は私の大学院の授業で学生さんが書いてくれた感想の一部です。
この授業では、以下のテクストとブログを使って授業をしました。


Critical Applied Linguistics

Alternative Approaches to Second Language Acquisition



"Power"と"critical"とという概念をしっかりと理解して活用できるように私も勉強を続けなければと思います。(正直、最近の私はまったく勉強が足りていません)。


■ 今期の授業を通して一番衝撃的だった単語は”power”である。予習で初めてpowerのということばを目で見た時は一体それが何を指すのかが理解できなかった。授業を受けたり,復習でこのように書いている中でも,その意味するところはなんとなく理解できても,腑に落ちて理解した感じはなかった。しかし,しばらく経ったある日の授業で,「powerとはこういうことだろうか」と,自分の中で腑に落ちるものを感じたことをはっきりと覚えている。

 それは,確か授業のなかにあるpowerについて議論した時だったと思う。そのときに,ふと,授業を対象にした研究も,その授業を援助するために行われている質的,量的な様々な研究も何かが欠けているような気がしていたことを思い出した。自分の修士論文のテーマに合わせて,いくつかの教室研究(Classroom Research)に関する論文を見ているが,多くの教室研究はある1回の授業を対象にしたものである。そこでおきた談話をすべて拾い上げても,後に教師にインタビューをしても,理解できる部分は多くあっても,なにか違うものを感じていた。それがpowerの概念だったのかもしれない。
 
 そう考えた時,教育実習に行った際のある先生の発言を思い出した。それは,「子どもたちが自主的にやっているようにみせかけていく」というようなものであった。別に子どもたちを欺こうなどという目論見があったわけではないことはその時も理解していたが,今思えばその先生はpowerを自覚していたのかもしれない。つまり,「生徒中心」にするのも根底のところは教師のpowerによるものである,ということがあの発言の中核にあるものだったのだろう。
 
 テキストがAASLAに移り,ここでも様々な発見があったのだが,その中で印象的だったことばがcomplexityに関する章での「説明と予測は異なる」である。授業では「次にこうなると完全に予測することはできない。しかし,後から『あれが決定的だった』などと説明することはできる。それに,説明理論がなくてもパターンをある程度予測することは可能である,もちろん外れることもあるが。」という解説があったと記憶している。
 
 これを基に私なりに理解を拡大させると,だからこそ,教育実習での授業後の討議や,「反省的実践」と呼ばれる,授業後の思考が大切なのだろうと思う。「あの時のあの行動(発言など)によって,その後の授業があのように展開した」といっても,その授業がかえってくることはない。しかし,自らが自分の判断を理解することで次はもっと良くすることができるかもしれない。「前にこの流れでこれをしたら悪い方向に流れていった。だから今日はこの流れにして,少しでもよくしてみよう。」と考え,新たな判断の可能性を作り出すことは,反省によって改善されたものであるのではないだろうか。授業実践ではこの,反省的実践をやる理論的裏付けをこの授業で理解したように思える。
 
 また,この授業を通して私が修士論文で(また,その入口としての卒業論文で)「授業研究」を選んだ理由を何度も反芻した。それは,教室という社会において,複雑に,まるで生き物のように刻一刻変化する生徒や教師の動きを捉えて,そこにあるものを対象としてみたいという思いから授業研究を選択したのであった。だからこそ定量的に生徒の発話数や教師のL1使用などを数えてまとめるだけではなく,なぜその時にそうしたのだろうか,別の可能性があったとすると,そのときどうすることになるのだろうかといった,先生方のアイディアや知識を見つめてみたいと考えている。もちろんすべてを見れる自信はなく,現実的には一部しか見れないということは同時に考えていることであるが。
 
 今期の授業を通して,教室というsocialな部分を考慮に入れる大切さを理解した。cognitiveな部分を否定するという意味ではなく,両者から(もしかしたらもっと別のアプローチもあるのかもしれないが),自分の研究や日々の行動を見つめて行きたい。



■ 私は現在,「授業」や「教室」に着目した研究をしたいと思っており,それに向けて先行研究を読みこれまでの研究の概観を行っている。たまたま先日教室談話(Classroom discourse)の論文を読んだため,その内容と,自分の経験と,今回の講義内容を結びつけながら考えを深めた。

  読んだ論文の多くや,自分の経験でも,教師がおおきなpowerをもつ授業というのが,論文で明示的に書かれていないにしても,あるように思えた。例えば教師が「それ英語で言ってごらん。君なら言えるよ!」と言われると,生徒は英語で発話するしかない(抵抗することもできるだろうが,教室という場で,他の生徒による,ないし他の生徒への影響を考えると,それはよろしくないことだと考えられるだろう)。これまでに何度か実際の授業を見学させていただいたことがあるが,その授業のほとんどが,生徒は自由に活動している場面があるにせよ,大前提(授業デザイン)は教師がしっかりと練っており,それを生徒のpowerによって大きく覆されることはない。教師の予想に反して,追加説明が必要な場面があれど,それは生徒の要求(wants)やニーズに応える形であくまで教師のpowerでもって決定しているはずである。
 
  ここに権力関係を見出せるが,これを「権力は悪いもの」として叩くということがCriticalであるということではないというのが今回の講義にあった話である。先程の文脈で教師-生徒間のpowerを排除させると,授業は成立せず,生徒たちは何も学ばない,「なんでもあり」の教室になってしまう。そうではなく,一定のpower関係の中で,それをどう効果的に使用して「良い授業」が行われているのかを読み解くことがCritical Classroom Discourse Analysisなのだろうと解釈した。まだ研究課題や手法を具体的に決め手はいないが,もし談話に着目することとなれば,この点を考慮にいれることは,より教室内という複雑な中身(ある種のパンドラの箱)を解明する上でとても有用だと思う。



■ 今回の授業で最も印象に残ったのは、criticalであるということは異なる可能性を示すことであり、批判するのであれば代替案を出さなくてはならないということだった。映画好きでもある芸人の江頭2:50さんの言葉で、このようなものがあった。「例えどんなにつまらない映画があったとしても、批評する自分よりも映画のほうが上だ。批評することは簡単だけど、創ることは難しい。」

  英語の教材や試験問題を見た時、ある程度知識のある私は批判することができる。しかし授業の中で教材を再編したとき、試験問題を作ったとき、評価基準を設けてみたとき、自分がいかに知っているつもりだったか気がついた。建設されたものについてあら探しをすることよりも、作る苦労を知る機会をもっと積んでいくことが大切ではないかと思う。
 
  また、自分が正義だと思っているものが、なぜそう思えるのか自照しなくてはいけないということも納得したような気がする。最近よく起こっていることとして、少年犯罪の犯人の写真や本名、親の職業に至るまで探し出し、ネット上に晒すことで彼らを裁いた気になっているユーザーがいる。よく言われている、加害者のプライバシーはなぜか保護されているという事実については慎重に考える必要があるだろう。だからといって、全くその犯罪と関係のない第三者が加害者のプライバシーをむやみに暴くことはあってはならない。そのユーザーは晒したことでヒーローになったつもりかもしれないが、実際やっていることは加害者と変わらないほどたちが悪いのではないかと思う。
 
  上記のような人は、自分で自分の思考を見つめ直す自照はおそらくしないだろう。加害者と思われる者に恐怖を抱かせている自分に酔っている者に対しては、外部から何らかの働きかけがなければ自照の機会は得られないのではないかと思った。

伊藤和夫先生の『英文解釈教室』を使った授業の感想



以下は、私の授業『英語教育文法入門』(学部2年生用)の感想の一部です。教科書として、伊藤和夫先生が書かれた『英文解釈教室』(研究社出版)を使っています。今となっては、英文が少し古いようにも思えますが、しっかりと構文理解するための知恵にあふれた本としてとても優れているので、教科書として使っています。

英語学習についての何らかの参考になればと思い、ここに転載します。「教英」や「初等」は学生さんの所属講座名です。


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■ KY君 (教英)

  この「英語教育文法入門」の授業では、伊藤和夫先生の『英文解釈教室』をもとにしてCh1 「主語と動詞」からCh14 「共通関係」まで、さまざまな英語の文法について学びました。内容は非常に濃いもので、教科書の例文はとても難しかったですし、高校ではあまり見かけないような構文にも出会いました。大学一年生の英語の授業では、英文学や音声学、コミュニケーションなど、高校でやらなかったような新しい英語の学習に触れることが多かったために、高校までの英語の文法についての知識が薄れつつありました。そこへきての今回の「英文解釈」の授業は、高校での文法学習内容を思い出せる絶好の機会でしたし、英文法の楽しさを久々に思い出すことが出来ました。

  しかしこの授業のポイントは、ただ単に教科書を読んで文法を勉強するという学生視点の学び方だけでなく、その文法解釈を「将来生徒に教えることになったときにどう教えるか」という教師視点での学びをすることでした。物事を「自分が理解する」のと「それを人に教える」というのは全くとは言いませんが、別の次元の話になります。この視点で今までやってきた英語文法をもう一度見直すと、かなり景色が違ってきました。自分で理解はしているつもりなのに、それを人にどうわかりやすく教えるかとなったときに、上手く説明できないということが何回かありました。それは結局自分でもきちんとその事項を理解していないということでした。

  この授業で私が学んだのは、英文法についてはもちろん、これからの人生で英語、またはいろんな物事を「学んで」いく上で大切なことでした。授業で言っておられた言葉を使うと、「学び方を学んだ」ということです。ここでは、私が学んだ「学び方」も含めて、学んだことについてまとめたいと思います。
 
1 読んだ順に則して解釈する

 まず1つ目は、英語を読んでいく際は読んだ順に則して解釈していく、ということです。とかく関係詞だとか比較構文だとかをやっていると、その部分から考えていく、つまり左→右という流れを無視して解釈していく癖がつきがちです。しかし、よく考えるとこれは遠回りをしているようなやり方で自分にとっても混乱をまねきますし、他の人に教えるとなったときも教えにくいです。私達が当たり前のように日本語を左から右へと読んでいくのと同じように、英語も自然な流れで読んでいくとわかりやすいということを学びました。

 また、これに関連したことなのですが、I suggested…ときたらその目的語が来ることを予想する、soがきたらその後のasやthatなどを予想する、といったように英語を自然な流れで読む過程で次に何が来るのか予想する、今出てきた構文がどういう働きをするのかを予想するといったことも学びました。これは、複雑な立体構造をもつ英文になってくると活かされてくるスキルだと思います。
 
2 頭の中で絵を描く

 2つ目は、読んだ英文からイメージを思い浮かべる、頭の中で絵を描くということです。この手順を英語の和訳のステップに加える事で、より訳出が簡単になってきます。つまり、(1)左から右へとそのままの流れで読んでいく、(2)読んだイメージを頭の中に思い浮かべる、(3)そのイメージを表す適切な日本語を考える、という手順でやっていくわけです。絵を描くのが難しい抽象的なことを言っている英文だったり、理解し難い英文法の場合はその例を考えてみるということも授業でやりました。記憶に新しいのは、no more than~とnot more than~の違いです。この違いをただ単に「noのほうが強い感情的否定」「notのほうが冷静な論理的否定」と堅苦しい言葉で説明していては、生徒は理解できません。わかりやすくするために、それらを使った例文を考えて、その違いを教える方が自分にとっても分かりやすくて建設的な方法です。

 この「頭の中で絵を描く」「例文を考える」というやり方は斬新でしたが、よく考えれば私達は英語を読む際に、無意識にこの手順を踏まえているのではないかという気もします。ただ、やはり意識してやるほうが当然正確でしょうから、この学び方を学べたのはとても大きいです。
 
3 構文が分かりやすいように音読する

 3つ目は、英文解釈をする際に、ただ英文を頭の中だけで考えるのではなく、「声に出してみること」そこから転じて「難しい構文の音読を工夫すること」です。これはどこかで聞いたのですが、物事を考える、覚える際にはなるべく体のいろんな器官(目、口、耳、とか)を使ったほうが効果的だというのです。英単語を覚えるときとかは、まずその単語を見て(目)、聴いて(耳)、口に出す(口)ということをやると覚えやすいそうです。ですから、構文解釈の際に、その英文を口に出して考えるとやりやすいというのは納得でした。

  授業で、「脳内でその英文がネイティブによって再生されているようにする」とも言われました。音声情報というのは、自分が思ってる以上にいろいろな効果をもっているんだなと私は思いました。

  音読の工夫とは、これは他者を想定したもので、いかに複雑な構文の英文を人に分かりやすく音声で伝えるかということです。会話には、コンマやピリオドなどは存在しませんから、声のトーン、強調、速度、間などを工夫して相手に伝える必要があります。また、これも将来教壇に立って英語の音読をするときにも役立つスキルです。先生の音読が平坦調では面白く無いでしょうし、英文の意図するところをきちんと生徒に伝えられて、なおかつ良い発音を目指した音読ができるようなるのが理想です。

  あと、音読の工夫をするということは、必然的にその英文の構文を自分が把握していなければなりません。この授業で「構文が分かりやすいように音読する」という言葉はそれこそいやというほど目にしましたが、この問には「構造を把握せよ」という意図もあったわけです。音読の工夫ができている状態というのは、英文解釈理解度レベルは相当上の方にいちするのではないでしょうか。
 
4 なんだかんだで読書

  4つ目は、読書をするということです。なぜここで殊更に読書について挙げるかというと、大きく2つの点からです。

  1つは教養的な視点です。「英文解釈教室」に出てきた英文は、言われている内容もかなり専門的なものが多く、多少は知識がないと分かりづらいこともありました。英語というのはあくまで言語ツールであり、重要なのはそこから伝えられる知識、内容であると以前先生は仰ってましたが、その内容というのはいわゆる教養的なものから専門的なものまで様々です。これを理解するにはどれだけ英語を勉強しても意味がありません。本を読んで教養をつけ、知識をつけることで、これから出会う英文の彩りも変わってくるでしょう。

  2つ目は、きれいな日本語訳をするにはまずきれいな日本語に触れろということです。「英文解釈教室」で私がとても勉強になったことの1つに「日本語訳」があります。伊藤先生の訳し方は、私では思いつかないようなとても綺麗で上手い訳で、いつも感嘆させられていました。きれいな訳というのは見ていて気持ちが良いですし、なにより内容がストレートに伝わって分かりやすいです。この「きれいな訳」というのは「翻訳」というフィールドに入ってくるので、「英文解釈」とはまた違ってくるのですが、自分もこのような訳が出来るようになりたいなと授業を通して思いました。そこで私は、私がそのようなきれいな訳ができないのは、そもそも私がそのようなきれいな日本語にあまり触れてないからではないかと思いました。まず私は英語を勉強する以前に日本語を勉強する必要があるのではないかと。もちろん、上手い訳に必要なのはそれだけではありませんが、差し当たって私は読書をすることによって日本語の感性をより高めるということの重要性をこの授業から学び取りました。

  なぜこんなに読書を挙げるかについては、実は根底には、あれほど柳瀬先生が読書をすすめているにもかかわらずこの一年私が全く読書をしていないということがあります。授業で先生が「大学四年間詰め込みで知識だけつけるよりも、『学習』『読書』の習慣を身につける方がその後の人生を豊かにする」と言っていたのが印象的です。読書の習慣だけは最低でも大学にいる間につけていきたいなと思います。

以上4点が私がこの授業で学んだおおまかなところです。英文法について学んだことを上げていくとホントにきりがないのでここではあえて書きませんでした。先程も言いましたが、大学四年間で身につけるべきは、知識よりも「学び方」、「学ぶ習慣」だと私は教えられました。これからの人生の中で、この授業で学んだことは確実に役に立つと私は確信しています。


■ TK君 (教英)

  今学期の「英語教育文法入門」を通して英語学習において本当に必要なこと、英語教員として身につけておかなければならないことを学びました。現在の学校教育において重要視されている「Communication」。しかしCommunicationだけを重視していても意味が無いということはすでにわかっていることだと思います。「話すこと」の本当の意味を理解した教育をしている学校はあるのでしょうか。

  もちろん僕が知らないだけできちんと生徒のことを考えて意味のある英語教育を展開している学校、教員の方々もたくさんいらっしゃると思います。したがってこれはあくまで僕自身の経験だけに基づいて考えていることなのですが、現在学校で取り扱われているspeakingの分野において、「実生活で使えるようにするための教え方」をしている先生はいらっしゃらなかったです。教科書の単元にそって一つの例文を生徒に暗記させてそれをひたすら復唱させた結果、生徒同士で会話させても決められたパターンでしか話せないため、結局は何のためにもなっていないというのを僕は経験しました。

  学校の教科書に載せられている会話表現は日常英会話において使うことができる表現の一つに過ぎず、それだけで会話ができるようになるわけではありません。しかし、だからといってもっとたくさんの会話表現を教えればいいというわけでもありません。

  問題なのはその教え方だと思います。ひたすら暗記、復唱を繰り返すような教え方をしているから実際の会話では使いものにならないし、英語を楽しいと感じることもできません。英語学習において大切なのは「身体で実感すること」だと思います。英語を何の意味も考えずに口に出して読んでいては、その英語にどんな意味を込められているのか、何を相手に伝えたいのかを話者が感じることはできません。そんなことできなくてもテストには関係ないじゃないか、と認識してしまうのが現在の「テスト至上主義」教育です。教科書を読むときに大切なのは「情感を伴って読むこと」です。この欠如が現在の教育における大きな問題であると考えています。
 

■ TMさん(初等)

  あっという間に、最後の授業まで終わりました。この4か月間は、私が「学習者」として成長できるきっかけとなった本当に有意義な時間でした。柳瀬先生は私たちに「1つの単語に1つの意味を当てはめて暗記するやり方の否定」や「英語をそのままの語順で読むこと」「英英辞書を引くことの大切さ」「例文にストーリーをつけて考えること(実の場の英語」「聞いてそのまま理解できるような音読のやり方」など「文法入門」としての学びはもちろん、より良い「学習者」としての学びをしてくださいました。

  私は、柳瀬先生が『言語学の教室』を紹介してくださった時に、実際にその本を購入して読んでみました。内容は想像以上に難しく、最後まで読み上げること自体がまず難しかったのですが、そこから私の「読書」に対する敷居が低くなりました。

  それをきっかけに、児童虐待や新任教師の小学校の学級崩壊を題材に扱った『君はいい子』という映画を見に行き、原作の本を購入し、これから児童虐待などについてもっと学び、多様な子どもたちについて勉強したいという意欲を高めたり、『ブタがいた教室』のモデルとなった『いのちに触れる』という本を読んで、動物を殺して食べるということを実際に子どもたちに学ばせるという授業を通して人間の営みを理解させることについて学んだりと、大学の授業以外の場面で「本」を通して積極的な学びを行えるようになってきました。

  また、TED(私は日曜日の深夜に放送されているスーパープレゼンテーションを毎週録画して、気に入ったものを繰り返し見てました)からも学ぶことが多かったです。英語の音に慣れ、英語を読むときに声として読めるようになったこと、小学校教師のプレゼンで参考にしたい授業があったことなど、TEDからもたくさんのことを吸収できています。

  最後の授業で柳瀬先生は「君たちの時間をお金を払ってもらえるものなら、いくら払ってでももらいたいものだ」とおっしゃいました。私は、今まで、この時間のある大学生活の間にいかに遊べるか、ということを考えてきましたし、先輩からも、「時間のある今のうちに遊んでおけ」とう言われていましたが、柳瀬先生は先輩たちよりもさらに人生の先輩です。先生の言葉は、私にとってとても心に響くものでした。遊ぶことももちろん大事ですが、実習も教採もない、今、この時間のある時に、たくさんの本を読んだり、いい教材に触れ、吸収できるものすべて吸収し、さらに上のレベルの学習者へと成長したいです。この授業では、予習復習と、大変ではありましたが、それ以上に得たものがありました。素晴らしいテキストと、素晴らしい指導者のおかげで、テキストの内容以上に深い、深い学びができました。これからも精進していきます。本当にありがとうございました。
 
 
■ NMさん (教英)

  4ヶ月この英語教育文法入門を受講して、英語を読む意識が大きく変わりました。抽象的な言い方になってしまいますが、英語にもっと近づいたと思います。一対一の訳語、平坦な音読、日本語の語順での解釈など、今までこれが英語の勉強の仕方だと思っていたものが勉強のための勉強でしかなく、英語を味わったり、使えるように英語を教えたりすることとは遠く隔たっていたことが今はわかります。気づけば、コミュニケーションの授業で論文を読んでいたのですが、単語がわからないことはしょっちゅうでしたが、文構造は4月当初と比べるとずっと楽に読めるようになったと思います。あまり行ったり来たりせずに読むようにもなりました。

  これからも英英辞書を引くのを習慣にして、語順そのままに解釈し、頭のなかで絵を描くという英語の読み方を大切にしたいと思います。


■ IT君 (初等)

  私は本授業を受講する前は「音読」というものにそこまで意識をむけたことがありませんでした。英語の音読は中学校や高校の英語の授業で先生に言われて何の気なしに教科書に綴られた英文をお経のように読んでいただけで、また悪い言い方になりますが、先生もそれをよしとしてきたので自分も音読に関して特になにか思うような機会がありませんでした。しかしこの講義を受けていてわかったのは音読というのは相手に伝えるような気持ちでするのが重要であり、そのためにアクセントを置く位置を考えたりどのような強弱でどのように文に抑揚をつけるかを考えたりするのが必要と知ることができました。また、そのような考察をするためにはその英文をなんとなく理解しているだけではだめできっちりと解釈していないといけないわけで(自分が完全に咀嚼できていないものを他人にきっちり伝えるなんてことは不可能である。)そういった意味でも音読は英語教育に必要不可欠なものだと知りました。
 
 
■ FO君 (教英)

  授業全体の振り返りですが、予習復習の時間も含めて、今セメの中で最も中身の詰まった時間であったともいます。まずテキストのレベルの英語の文章を読む機会というのは自分一人では確保できず、仮に出来たとしてもそのモチベーションを維持することはできなかったと思います。それがテキストを与えられ、自分でわからないなりにも時間をかけて予習をし、解説を聞いて新たな発見ができた時に達成感をかんじることができ、英語を楽しいと感じることが出来ました。それでも今セメ中ずっと高いモチベーションを維持できたわけではなく、だらけて予習をなあなあにしてしまうこともありました。

  しかしそのおかげで再度認識できたのは、自分で考えなければならない、ということです。先ほど書いたようにわからないなりにも自分で考えて授業に望めばそれが解決した時かなりの達成感を感じることができたのですが、予習で考えていない時には問題が解決しても、それが他人ごとのように感じることがありました。また、予習をしっかりした箇所なら、授業中でも覚えていたり、授業後にも記憶に鮮明に残っていたります。自分で考えるという段階を踏むだけでこうも学びの深さが違うのだなと感じています。これから夏休みに入りますが、英語に対するモチベーションは高まっています。夏、それからこれから続くセメスターも自分で考えて主体的に英語を学んでいきたいです。


■ ASさん (教英)

授業で学んだ三点についてまとめます。

1 英英辞典

  ほとんど毎回の授業で柳瀬先生がおっしゃっていたことのうちの一つは、「とにかく英英辞典を引きなさい」ということだ。最初にその言葉を聞き実践してみた時は、調べた単語の意味の部分に書いてある単語が更にわからない、という現象がおきてしまい、どんどん単語を調べていくことになり、もともと自分が調べたかった単語の意味を把握するのに、いつも以上に時間がかかったことを記憶している。

  しかしそのうち気づいたことは、専門的すぎる単語に英英辞典を使うのではなく、簡単な単語に英英辞典を使うべきということだ。実際、最初の頃はとにかく英英辞書を引かなければならないという思いで、専門的な単語を調べさらに専門的な単語に遭遇するということがあった。
  慣れないうちは、英英辞典を引くのに時間がかかり、正直きついと感じることもあったが、今となっては英英辞典の方が、単語がもつ細かな意味がわかり、頭にスーッと入ってきやすくなった気がする。英英辞典を引くことの良さや大切さが分かってきたので、これからも根気強く英英辞典を引いていきたいと思う。

2 絵を描く

 英文を読む時にその英文から「絵を描く」ことの大切さに気付くことができた。今まで英語を勉強してきて、長文読解などで英文を日本語に訳していく際に、頭では大雑把な内容は理解したつもりでいた。授業で、「絵を描くようにしなさい」という言葉を聞き、実際に理解できていると思っていた文を頭の中で描こうとすると、ぼんやりとしか描けず、そこで自分がしっかり理解できていなかったことに気づいた。まだ、絵を描くことが習慣的にはなっていないので、速く英文を読んでいきたいときは特に、絵を描くことが忘れがちになってしまう。絵を描くことは、自分が本当に理解できているかを確認するための重要な方法だと思う。これからも意識的に絵を描き、自分の理解度を把握していきたい。
 
3 ストーリーをつける

 「小学生や中学生も理解できるように、例文にストーリーをつける」ということを、授業でする機会は多々あった。例文をそのまま提示するのではなく、例文が使われそうな文脈を自分で考え出して、それをストーリーで語った上で例文を提示するやりかただ(ストーリーは英語で語る方がよいが、日本語でもよい)。

 私はいまだにこのことがとても苦手で、柳瀬先生はもちろん、当てられた人もストーリーをつけてわかりやすくすることができているのを見ると、すごいなと感心してしまうし、自分ができないことにもどかしさを感じたりした。ストーリーをつけるには、正確に英文を理解することと発想力が必要なのだと思う。私は、パッとすぐに考えを思い浮かべることが得意ではないため、まだまだ苦戦してしまうが、できる人に感心するだけでなくその人たちに少しでも近づけるよう、訓練していこうと思う。


■ MAさん (初等)

学習方法についてまとめます

1.読書

  日本語も私たちは日本語を日ごろ読んだり話したりすることで、書いたり話せたりできるようになった。携帯電話の予測変換等により書けない漢字が増えたり、普段敬語を使わないと正しい敬語が咄嗟に出てこないこともある。英語も継続的に触れないと単語やその綴りを忘れてしまったり、正しい文章をつくることが困難になってしまう。英文を一日30分でも継続することで、英語に触れられるだけでなく、発想も豊かになりエピソードを思い浮かべる力もつくし、質のいい文を読むことで深いことが言えるようになる。

2.音読

  日本語でもただ淡々と話されるだけでは内容が頭に入ってこなかったり、話に興味がもてなかったり、講義中に起きていたくても睡魔に襲われてしまうこともある。内容に合わせて声や表情を変えることや、単語の役割によって弱く読んだり(at,whenなど)、対比などの意味によって本来のアクセントとは別の位置にアクセントを置いたり(happy,unhappyなど)することも重要である。また、同じ文章でも読み方により意味が変わってくるものまである。音読の力はTEDの視聴や映画でも養われ、文章を読んだだけで、抑揚のついた「声」が聞こえるようになることもある。しかし、当たり前のことであるが聴くばかりではなく自分の口で発音する練習をしなければならない。わかるとできるは違うのだ。

3.教科書だけでは不十分

  教科書は商品であり、「使いやすい」ということに要点を置いている教科書が多くの学校で使われるということも少なくないだろう。実の場を大切にし、子供の実生活に基づいた発話練習や例文を使用するべきである。ポートフォリオを書きながら、子どもの間で流行っている歌を英訳してみんなで歌えたら楽しそうだと思った。別の授業のお話でもあったが、教科書で使われている話の原文をクラスで配り、原文も丁寧に解読していけば自分たちでも解けるのだ、という自信をつけたり、その話の映画を見せるとイメージもしやすく、内容もわかりやすく、楽しく勉強できる。また、授業中でもあったように、教科書の説明している解釈よりもより納得のいく解釈もある。大切なのは、教科書に頼りすぎないことだ。

4. 英英辞典の活用

  英和辞典で日本語の意味だけを覚えていることの危機感を感じた。単語の意味はひとつではないからだ。また、英和辞典で調べた場合はわかった気になっているだけで終わってしまう傾向があるように感じた。多くの場合、文章の意味を解読することが目的になっているからだ。一方、英英辞典を活用した場合は、英語の説明の中から文章において相応しい意味を見つけることで、他の意味も理解できる。また、意味の説明に使われている英単語から驚きを得られる。実生活からもわかるように、感情を伴うことによりそれらは記憶に残りやすい。そして英英辞典を活用する場合、その単語の理解を深める、ということが目的として大きくなるのだと考えた。

5.イメージしながら読む

 thinkがきたら「何を?」、meetがきたら「誰?」と、というように、全体をみて意味を考えるのではなく、書いてある順に意味を考えることは大切である。これはリスニングや速読に関連する。また、TEDや人の話を聞くときにもこのことの必要性が感じられる。そして、頭の中でイメージする心がけが大切だ。単語の意味がすべてわかっていても、イメージできなければその文章を本当に理解しているのか、怪しいところである。また、短すぎる文章や抽象的な文章には特に、ストーリーをつけるという作業が効果的であると感じた。


■ TK君 (教英)

  授業全体について一言でまとめると「高校で習った英語は、英語の序の口程度のものだった」ということを学びました。高校で習ったのはガチガチの文法だらけで、大学受験で点数を稼ぐためのものばかりでした。習っている当時はそれでいいのだと思っていました。しかしその「テストのための英語」でさえ、テストで点数をとるためには不十分なものだったと思います。文構造を理解するとき、高校では一つの文を何回も読みながら解釈していくという方法を教えられましたが、実際その方法ではテストで点をとれていた生徒は少なかったように思います。この授業で習ったように「英文は頭から読んでいって後ろには返らない」ことが大切だと思います。

  また、読み方によって文構造を伝えることの難しさを痛感しました。しかし、読み方で文構造を表現できれば、テストの長文もサクサク読めるようになると思います。英語学習において、トレーニングばかりしていては英語力はつかないし、嫌いになっていく一方です。大切なことは「実感をもってからだで感じながら学習すること」だと思います。学校で英語を学ぶときは、座った状態ではなく、立ち上がって身振り手振りで表現しながら、頭のなかでイメージを膨らませていく。これが最もやるべき学習方法だと感じました。自分が数年後に先生になったとき、つまらない授業をするような先生にはならないように、これからも頑張っていこうと思います。


■ YAさん (教英)

  最初この授業を受け始めたころは、読んでないも同然の状態で予習の欄に投稿していた。しかし授業のペースは自分にとってはかなり速く、それでいて内容は難しいため、「今の説明はどういうことなのか」、「質問で何を問われるだろうか」ということで頭をフル回転させて授業を受けていた。その分学べることも感じることも多かった。しかしこのままだとついていけなくなるし、何よりも自分がその授業の間、苦痛な時間を過ごしていると感じてしまったことが嫌だった。そこでどうしたらよいか考えることで、授業に対する意識が変わったことが自分でも実感される。

  まず、予習でとことん探る。わからない単語はすべて調べる。自分だけで読んでも分からないところは友達に相談する。先生から学べることはもちろんあるが、先生とは違った視点から同じ学習者として学べることもある。

  このようにして読み込んだつもりでも授業で当てられたときになかなか答えられず、また悔しい思いをした。そこで、2回以上本文に目を通すことにした。そして先生も頻繁におっしゃっていたことだが、英文を、またはその内容をイメージすることを心掛けた。すると理解度も一気に上がり、授業中に当てられた際、短文だったにしろするすると答えることができた。

  小さなことかもしれないが、今まで口ごもってしまったり自信が持てなかった分、そんなひょっとしたことで嬉しくなり自信を持つことが出来た。それだけで自分の授業に対するモチベーションも一気に上がったし、「苦痛」ではなく、ほどほどの程度緊張感のあるワクワクする時間となった。

  また、授業後すぐに復習をした。そのとき手に入れた感覚を忘れないうちに書き込んだ。そして今回のポートフォリオでは、自分が一番苦手としていた比較の項目についてまとめられたのでとてもスッキリしている。しかし授業最終日が近づくにつれて、予習と復習を出さなかった日があったので、そこでは自分の忍耐力の無さを痛感するとともに、大きな後悔が残った。


■ ONさん (教英)

  現代っ子は「ポイント制」にするとやる気が出る。敵を倒してコインや経験値を貯めるゲームにのめり込んだ経験は誰しもあるだろうし、ポイントを集めて限定グッズがもらえるのなら何度も店に足を運ぶ。自分の行った努力が視覚的な数値になって表れると進捗状況が見えてやる気が増すのである。

  柳瀬先生に勧められたGraded Readers (GR)の英語読書もこの類で、なんと30ポイント貯めれば単位のグレードが上がるのだ。かつ自分の英語学習にもなるのだと思うとデメリットがない。そこで火曜3コマが終わったら控えに行って本を借りるというのを日課にしたところ、いつも3日坊主の私にしては思った以上に続けることができた。

  伊藤先生の『英文解釈教室』を通して読んだ文章のように、頭をひねって、解釈を加えて、それでも分からないような難解な文章を読む経験とはまた違った意味があった。私が読んだものは主にLEVEL2~4だったので、英語なのに頭にスッと入ってくるものばかりだった。簡単な英語だが、洋書に毎週触れたことで長文を読むことに対する抵抗はかなり少なくなった気がする。その中で英語独特の印象的な表現(His mouth dropped open.で驚きを表す、'Curiouser and curiouser!'でアリスの不思議な世界観を表現しているなど)を学んだり、会話で使われる表現なども学んだりすることができた。さらに、すらすら読めるので英語をそのまま理解できている感覚が心地よかった。

  継続することは難しい。GRとTEDは毎週の提出締切日があるためここまで続けられた部分はかなり大きいと思う。英語文法教育入門の授業が終わってから、夏休み、4セメ…と今後も継続できるかどうかで、今まで蓄積したものがコップから溢れる水のように、結果として自分に返ってくるかどうかが決まる。もともと私は読書が好きだったため、Readersのほうは完全に習慣化され、継続するのに労力が要らなくなった。そこで夏休みにも読めるように、そしてせっかくのまとまった休みなのでLEVEL5、LEVEL6の本を一度集中してしっかり読んでみようと思い、小野先生の英文学の授業で映画を見ながら原文を読んだ"Oliver Twist"と"Wuthering Heights"を借りた。一度映画を見て内容を確認しているので読みやすいだろうし、純粋にその映画が非常に面白かったのでそれを文章でも触れることができることにわくわくしている。早くレポートを終わらせて読みたい。

  一方TEDはある程度目標がないと続けられないと思う。リスニングはあまり得意ではないので、10分間のスピーチの間ずっと集中しなければならない。大抵5分を超えたあたりで集中力が途切れてしまう。しかし1年生の後期から毎週続けてきた習慣なので、ちょっと頑張って、やってみようと思う。GRと同様、習慣化してしまえばよいのだ。


■ ST君 (教英)

 この授業を通じて、自分が今働きもせずに大学に来ているのは数年後英語教師になるために、なってから困らないようにするために学力や様々な指導技術を身に付けるためなんだと悟ることができたとともに、自分にはまだまだその意識や実力が足りない、ということを実感することができた。最後の授業になっても音読で柳瀬先生に「いいですね」と言わせることもできず、たまに投げかけられる問いかけに対してもなかなか論理的に説明できなかった。

 しかし、勝負はこれからだと私は思っている。この授業で教えられた勉強法をどう継続できるかが重要であり、遅れはいくらでも取り戻せる。下に居れば上が見える。上を見た下の者はグレるか努力して這い上がろうとするもので、私はなんだかんだ今までずっとその後者であった。もう二年の半ば、されど二年の半ばであり、時間はまだまだ在る。部活やバイトを他の人よりしている分英語に当てられる時間は他の人より少ないかもしれないが、意識一つでそんなものはどうにでもなると私は思う。卒業するまでに少しは立派になれるように努力していきたい。


■ IYさん

  授業の導入の際に柳瀬先生がおっしゃっていた、「人のいいところを見つける」「変なプライドを持たない」ということにとても共感しました。実際に私もこれができずに損をしたり様々な機会をのがしてしまったことがあるからです。人の悪いところを見つけている間は自分ができるやつになったような気がする、というのも自分のことを言われているようでドキッとしました。頭ではわかっていたつもりでいましたが今一度考えてみるとそれがどれだけ時間と労力のムダであることかと思います。逆に高いところを見てこの人に近づくためにはどうしたらよいか、何がこの差を産んだのかを認めて追いかけるという姿勢を持つことはそう簡単なことではありませんが、ぜひぜひこれからの自分のためにも行っていきたいです。



*****

上の感想の中にも言及されていましたが、学生さんが見た英語動画(TED中心)と読んだGraded Readersを紹介するサイトを作って運営しています。特に英語動画集は皆様にとっても利用価値があるかとも思います。ぜひご活用ください。



広大教英生がお薦めする英語動画集


広大教英生がお薦めするGraded Readers

2015年8月18日火曜日

8/29(土)に愛媛県松山市で講演をします。



以下の「えひめ外国語研究会」で講演をさせていただきます。この研究会は、小・中・高の枠を飛び越えて、ひろく外国語教育について考える実践者のための会だと聞いております。ご興味のある方はぜひお申込みの上ご参加ください。

なお、この発表内容は、6/13に行った関西英語教育学会での講演を一部修正したものであることをお断りしておきます。

えひめ外国語研究会 8月例会(ご案内)

1 日時  8月29日(土)14:00~16:30
2 日程   開会行事、講師紹介 14:00~14:10
          講演(前半)          14:10~15:00
          休憩                   15:00~15:10
          講演(後半)          15:10~16:00
          質疑応答            16:00~16:20
          閉会行事            16:20~16:30

3 場所  松山市男女共同参画推進センターCOMS(コムズ)  
          3F:会議室3 (COMS 入口の掲示板をご覧ください。)        
    (松山市三番町6丁目4番地20  電話番号089-943-5776・5777)
      http://www.coms.or.jp/
4 講師  広島大学教育学研究科英語文化教育学講座 柳瀬陽介
5 演題  小学校からの英語教育をどうするか  -「引用ゲーム」の限界を自覚する- 
6 資料代 会員:1,000円  非会員:500円
7 備考  COMSの駐車台数が限られておりますので、車でお越しの際は近隣のコインパーキングなどをご利用ください。
8 申込先 えひめ外国語研究会事務局 daisuke.ikeuchi.x●gmail.com (●を@に変えて下さい)
9 締切 可能な限り8/21(金)までにお申込みください。それ以降、あるいはそれ以前にでも、会場が満員になりましたらご参加をお断りする場合がございます。

[懇親会]
日時    8月29日(土) 18:00~
会場    飯台(はんだい)スカイガーデン(松山市三番町8丁目9-1 /JR松山駅前スカイホテル1階)
懇親会費 3,800円(懇親会場にてお支払いいただきます。)



2015年8月4日火曜日

"Image"を敢えて「想い」と翻訳することにより何かが生まれるだろうか・・・



私が自分自身で経験則としてできるだけ順守している一つに、「カタカナ語、特に流行しているカタカナ語は信頼するな」というものがあります。日本語の言語文化で十分咀嚼されて翻訳されないままに広く通用しているカタカナ語は、往々にしてその概念が未消化で曖昧なままに使われているというのが、私の個人的な信念です。

だから、私はカタカナ語の使用に対してはできるだけ警戒的であり、時に愚かなぐらいにカタカナ語を和語もしくは漢語的な日本語に翻訳する試みを続けています。とはいえ、そもそも私の主要関心である「コミュニケーション」をうまく翻訳できないわけですから、この経験則は墨守している鉄則ではありません。しかしながら、私は可能な限りカタカナ語を、生活実感を伴う日本語に翻訳する努力は続けています。

現在、8/10(月)に大阪で開かれる講演会・ワークショップ(下記参照)の準備をしていますが、その中でダマシオの "image" という用語が重要であることがわかってきました。この語は通常そのまま「イメージ」とされ、このカタカナ語はずいぶん日常的にも使われていますが、あまりにも漠然としていているように思えます。また、時にこの語は「心像」とも訳されますが、私にとってこの漢語もしっくりきません。

では何がよいのかと数日考えていたら、案外、「想い」がいいのではないかと思えてきました。考えてみれば"imagination"は「想像力」(あるいは「構想力」)と訳されますから、「想」の字を使うのは合理的なのかもしれません。(その他には、「映り」「心映」「意念」「何か」などを候補として考えましたが、これらはどうもしっくりきませんでした)。

しかし、この「想い」という翻訳語が、ダマシオが使っている意味での"image"に適っているかを点検しなければいけません。

そこで私の英語ブログでのダマシオのまとめの記事を、いったんワードファイルにまとめ(合計70ページになってしまいました!)、それを通読し、特に"image"が使われている文章で、その意味を「想い」という日本語に翻訳してもいいものかを吟味しました。

A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind”
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html
'Feeling' of language as a sign of autopoiesis
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/feeling-of-language-as-sign-of.html
Damasio (2000) The Feeling of What Happens
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/02/damasio-2000-feeling-of-what-happens.html
Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html
Another short summary of Damasio's argument on consciousness and self
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/06/another-short-summary-of-damasios.html

その結果、私としては(少なくとも今のところ)ダマシオの言う"image"は「想い」と訳してもいいのではないかと判断しました。

ひょっとしたら「イメージ」と訳しても同じなのかもしれませんが、私としてはしばらくこの「想い」という翻訳で考え・語り、"image"概念についての理解を深めてゆきたいと思っています。無駄な試みかもしれませんが、私としてはこうやって愚かに試行錯誤してゆくぐらいしか学ぶ方法を知りません。


下は、上記のダマシオ関連記事の中で、"image"に関する重要な箇所の引用を抜き出し、それに拙訳を加えたものです。本来なら翻訳書もちゃんとチェックして拙訳の是非を吟味するべきでしょうが、今は時間がないので、拙訳だけを提示します(誤りや修正意見などもしございましたらご教示いただけたら幸いです。


By the term images I mean mental patterns with a structure built with the tokens of each sensory modalities -- visual, auditory, olfactory, gustatory, and somatosensory. (Damasion 2000, p. 318)

「想い」という用語で私が意味するのは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・身体感覚などの感覚様態で作られた構造をもつ心模様のことである。


images are the main currency of our minds, and that the term refers to patterns of all sensory modalities, not just visual, and to abstract as well as concrete patterns. (Damasio 2012, p. 160)

想いは、心の主要通貨であり、すべての感覚様態が織りなす模様を指している。想いは視覚的なものだけに限らない。またこの模様は、具体的でも抽象的でもありうる。


A spectacular consequence of the brain’s incessant and dynamic mapping is the mind. The mapped patterns constitute what we, conscious creatures, have come to know as sights, sounds, touches, smells, tastes, pains, pleasures, and the like--in brief, images. (Damasio 2012, p. 70)

脳が絶え間なく能動的に [身体の状態の] 地図作りをしているおかげで、心というすばらしいものが生まれた。その地図に描かれた模様が、意識をもつ動物である私たちが、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚・痛覚・快楽などとして知っているもの、つまりは想いである。


Language -- that is, words and sentences -- is a translation of something else, a conversion from nonlinguistic images which stand for entities, events, relationships, and inferences. (Damasio 2000, p. 107)

言語、つまり単語や文は、何か他のものを翻訳したものである。つまり言語は、物体・出来事・関係・推論を表す非言語的な想いが変換されたものである。


Damasio, A. (2000) The Feeling of What Happens, Mariner Books.
Damasio, A. (2012)  Self Comes to Mind, Vintage.




今はとりあえず、この"image"概念を「想い」と翻訳することによって、優れた小学校英語教育実践を読み解く手がかりの一つとしたいと思います。



追記1 (2015/08/05)

用語法の議論ですから、以下の引用(およびその拙訳)も追加しておきます。

A brief note on terminology: I used to be strict about using the term image only as a synonym of mental pattern or mental image, and the term neural pattern or map to refer to a pattern of activity in the brain as distinct from the mind. (Damasio 2012, p. 64-65)

用語法について一言述べておきたい。以前の私は「想い」という用語の使用法については厳格で、「想い」は心で感じる模様や想いの同意語としてだけ使い、心とは区別された意味での脳の活動模様を意味する場合には「神経回路模様」や「地図」という用語を使ってきた。

However, for someone who stands on physicalism, the employment of two terms, one for the mental and the other for the neural (or physiological), is just aspect dualism.
I was simply indulging in aspect dualism and discussing the way things appear, on their experiential surface. But, of course, so did my friend Spinoza, the standard-bearer for monism, the very opposite of dualism.
But why complicate matters, for myself and for the reader, by using separate terms to refer to two things that I believe to be equivalent? Throughout this book, I use the terms image, map, and neural pattern almost interchangeably. (Damasio 2012,p. 55)

しかし [あらゆるものは物質に他ならないとする] 物理主義に立脚する人にとっては、このように心的なものと神経回路的なもの(もしくは生理学的なもの)に対して二つの用語を使用することは、「見え方における」二元論を採択していることになる。
私は「見え方における」二元論に陥ってしまい、物事が私たちの経験の上ではどのように現れてくるかを論述していたことになる。とはいえ、これは私が愛するスピノザもやっていたことである。無論、彼こそは一元論者の代表格であり、二元論の対極にいる。
しかし、結局のところでは同じものだと私が信じている二つのものにそれぞれ別の用語を使うことによって、私自身と読者を混乱させる必要もない。したがって、この本では、「想い」と「地図」と「神経回路模様」という用語を、ほぼ同義として使うことにする。

※「脳の活動模様」は「脳の活動パターン」と、「神経回路模様」は「神経回路パターン」と訳すべきかとも思いますが、ここでは敢えて「心模様」(mental pattern)との整合性を優先させました。



追記2 (2015/08/05)

ある親切な読者の方が、「もう少し柔らかく訳してみてはどうでしょう」と以下の訳例を提示してくださいました。

By the term images I mean mental patterns with a structure built with the tokens of each sensory modalities -- visual, auditory, olfactory, gustatory, and somatosensory.
「想い」とは、見たり、聞いたり、香りを嗅いだり、味わったり、感じたりした経験を元にして心の中に作り上げた模様である。

日本語としてはあきらかにこちらの方が自然です。こちらの翻訳を使わせてもらおうかとも思いましたが、用語法の議論ですので、上の「固い」拙訳は敢えてそのまま残しておくことにします。

さらにその読者の方は"image"を思い切って「記憶」と訳した方がしっくりくるのでは・・・ともおっしゃってくださいました。ですが、ダマシオは"memory"について多く語っているので、"image"までも「記憶」と訳すことは躊躇します。

とはいえ、今後は"memory"を「想い出」と訳しても面白いのかもしれません。「想い」(image)とのつながりを強調することができるからです。もちろん、訳語を決定するためには、上のような作業が必要なので、ここでは備忘録的に書いておくにとどめますが。

また、その方は「何にせよ、image を単に心像だとかイメージだとかに訳してしまわないことで、ずいぶんと image が変わるものだなぁ、と驚きました」と書いてくださりましたが、私もまったく同感です。

ことば(アルファベット・ひらがな・かたかな・漢字など)にはそれぞれの形があり、それぞれの形は他の形のことばと独特のつながりをもちます。私たちがある形のことばを使う時も、おそらく潜在的にはその形とつながる形のことばも私たちの心の奥底では想起されているのでしょう。ことばを大切に使いたいと思います。その点で、繰り返しになりますが、私は最近のカタカナ語の多用には批判的です。

加えて、その方は、ダマシオの一節を読んで想い出しましたとして、三浦しをんの『舟を編む』の一節を引用してくださいました。ここに転載します。

なにかを生みだすためには、言葉がいる。…生命が誕生するまえの海を想像した。ただ蠢くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象られ、昏い海から浮かび上がってくる。

読者の方に改めて深く感謝します。





追記3 (2015/08/05)

別の読者の方が、ダマシオのTED動画を改めて見て「想い」という訳語が適切かどうか検討してみたと教えてくれました。

私も見たところ、一部の"image"は「図」や「写真」と訳した方がよいものの、多くの"image"は「想い」と訳してもよく、また、そのことによって考えが広がるように思えました。特に、"image-making"を「想いを創り出す」と訳すと面白いと私は感じました。

また、訳語の議論とは離れますが、神経科学者であるダマシオが"socio-cultural"な要因の重要性について語っているのも注目です。











*****



以下は、8/10(月)の講演会・ワークショップの主催者案内のコピーです。当人としては面映いところもありますが、転載します。





8/10(月)第10回 OBK講演会

「『わくわく』って、つまりどういうこと?」
英語学習と『わくわく』の関係を哲学的に解明

広島大学 柳瀬陽介先生

・・・・・・・・

What color is a carrot? と聞かれても「わくわく」は起こらない。
What color is spring for you? こう聞かれたら「わくわく」するのはなぜだろう?
What color is peace for you? これはどう?

毎時毎時の授業で、こどもたちの心に「わくわく」を起こしたい。
こどもたちの「こころ」が動きまくるためには、どんな要素が必要?

こどもたちが、英文を読むとき「わくわく」しているだろうか。
こどもたちが、英語の音のかたまりを聞くとき「わくわく」しているだろうか。
こどもたちが、英語の音を発話するとき「わくわく」しているだろうか。

その時、かれらの「からだ」「こころ」「あたま」では、いったいどんな事が起こっているんだろう?

広島大学 柳瀬陽介先生がそのメカニズムを哲学的意味論で説明してくださいます。

教育ってなんだ?
ことばってなんだ?
コミュニケーションってなんだ?

英語も、国語も、音楽も、社会も、理科も、、、
ああ、すべての教育は、「からだ・こころ・あたま」が動きまくることが大切なんだ!

わたしは、これが、からだと こころと あたまにストンと落ちて、とても心地よく、とても嬉しく、とても感動しました。

「からだ・こころ・あたま」が わくわくする英語の授業づくりにチャレンジし続けていきたい!!

みんなにも、このお話を聞いてほしい!
とくに、こどもに何かを教える事に携わる方は、「ああ、報われた・・」という気持ちになられるのではないか、と思います。

時間がないけど、お友達を誘って、いらしてください。

・・・

なお、11月8日に 第2回 こども英語みほん市 あらため 「こども英語教育研究大会」を開催します。

キーワードは、「からだ・こころ・あたま」と「みんなを 連れていく」
そんな授業作りを目指す学校・民間の英語の先生たちが、関学梅田キャンパスに結集する大会です。
柳瀬陽介先生には、その時にもご講評いただきます!

8/10には、「からだ・こころ・あたま」「意味ってなんだ?」のお話をぜひ聴きにきてくださいね。
懇親会もありまっせ!








2015年8月2日日曜日

「小学校の先生たちから、私を含め中・高等学校の英語の先生が学ぶべきことがたくさんあります」



先日(7/25-26)、広島大学を会場として開催された小学校英語教育学会を見ての感想を、備忘録としてここに書いておきたい。

感想を一言で述べるなら、やはり毎日小学校現場で子どもを相手にしている方々の知恵は深いということだ。

■ 英語力の発達を分析的に見るか、子どもの発達を全人的に見るか

拙著『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)の最後の方でも書いたが、これまでの英語教育界はもっぱら「英語力」をどう上げるかについてばかり語ってきて、子ども(児童・生徒)の全人的な発達について語ることが少なかったように思われる。学会誌などのタイトルで見れば顕著だが、ひょっとすると大修館の『英語教育』誌の記事目次タイトルなどで調べてみてもこの傾向はあるかもしれない(調べていないので、もちろん断言はできないのだが)。

これまでの英語教師と英語教育研究者は、英語力を、語彙力やリスニング力や文法力などと分割したうえで、その向上を「分析的」に計測することを中心課題としてきた。もちろんそのようなアプローチの有用性は否定できないが、そのようなアプローチだけでしか教育を考えないと、子どもの実態を見落としてしまうことになりかねない。

その点、子どもの正直な姿に毎日朝から夕方まで接しなければならない小学校教師(担任・専科・外部講師など)は、英語教育・外国語活動においても、子どもを全人的にとらえようとする。担任教師は特に、他の教科も教え、昼間の生活をほぼ共にしているようなものだから、一人ひとりの子どもの個性を把握したうえで、授業が子どものどの側面に変化を与えているかを中・長期的に丁寧に観察している。

だから小学校教師の実践研究は、細分化された観点だけに集中したものではなく、多面的・総合的なものになることが多い。

そうなると明確な数字で結果が出されることも少なくなり、それは一部の人からの批判を招くことになる。実践研究は、教育用語を使って実践について語っているだけだと非難される。

確かに流行りの教育用語がちりばめられただけの底の浅い教育言説はよく見られる。そのような言説に接するたびに徒労感に襲われる人も多いだろう。

しかし、どのようなことばで現実を切り取り語るかというのは、私たちの認識の根幹に関わる重要なことだ。だから丁寧に教育用語を理解し、それを思慮深く使用し、さらにはその言語使用が現実を適確に捉えているかについて反省を加え、その反省に基づき、教育現象の記述を豊かにしてゆくことは、私たちの行動を大きく変えてゆく。

数字で結果を出さない実践論文が「役に立たない」というのは大きな間違いだ。教育を語ることばを、丁寧な理解に基づき思慮深く使用し、さらにそれに批判的な反省を加える教育言説ほどに現実的・効果的で「役に立つ」ものも珍しいとは言えまいか(早い話が、例えば大村はまの言説を「数字が出てこない」という理由だけで切って捨てるのは愚かなことだろう)。

だから、新たな流行語を作るという意味ではなく、教育について豊かに語るためのメモとして、以下に、私にとって印象的だった実践者のことばを書き留めておきたい。書き留めるといっても私なりの理解(誤解)と言い換えが入り込んでいる。そのことにより発表者があらぬ誤解を受けてもいけないので、発表者の名前や所属校はあえてここには書かないことにする。


■ 研究指定を受けた小学校の先生のことば

ある研究指定を受けた小学校で勤務する、もともとは理科を専門としていた先生は、以下のようなことばを重要概念として授業を立案・実施・反省していた。

「学びの有用感」、「子どもの思いや願い」、「伝え合う必要感」、「自己選択、自己決定の場」、「単元の見通し」、「子どもが自己の成長を感じられる」、「学び続けようとする態度」

発表ではビデオで子どもの様子を見ることができたが、その際の着眼点も明確で、子どもの個性を見極めた上で、一見すると見逃してしまいそうな所作に、子どもの変化を見出したものだった。


■ 小学校で教え始めた中学校英語教師のことば

ある発表者は本来は中学校英語教師なのだが、教育センターでの「振り返り」(自らの教育実践に対する反省的考察)の研修を経た上で、近年は小学校で教えている方だった。

その先生は、教育センターでの研修と小学校での現実から、「正解を出さねばならぬ」「教師の意図に近づくことが全てである」というこれまでの英語授業観では子どもに「語らせる」言語活動はできても、子どもが自ら「語り出す」言語活動はできないことを痛感する。

痛感により「天狗の鼻を折られた」その先生は、子どもが英語を自ら「語りだす」授業を立案・実施・反省し、今回の学会発表となった。

子どもが「語り出す」授業のために重要なことは、私なりに少し言い換えてまとめると、発話動機と自己受容と相手意識だ。

発話動機は、発話をする必然性によって子どもの「からだ」から生じてくる情感と私なら定義したい。

自己受容とは、ありのままの自分の気持ちを表現しても、それが受容される教室文化に支えられた自己肯定感といえるだろうか。

相手意識は、よく使われる用語だが、発話の「相手」を単なる一般的な"you"としてしまうのではなく、その相手のこれまでの歴史とその相手と自分との関係をよく理解することと言い換えられるかもしれない。(この発表では、相手を歴史的に実在する「青い目の人形」とした上で、実際に人形も使いながら、子どもたちの相手意識を高めていた)。

と、私なりに発話動機・自己受容・相手意識を定義することを試みたが、無論これらの概念についてはこれまでに膨大な研究があるわけであり、まがりなりにも大学で教鞭を取るものとしては、少しでも過去の遺産を理解しそれを活用しながら、これらのことばを現代的に使いこなせるようまとめをしなければならない。本日は、冒頭にも述べたように備忘録としてここに書き連ねている次第である。


■ 小学校を退職後、中学校で英語を教えている先生のことば

小学校を定年まで勤めあげて、その後中学校で英語を教えている先生の研究の発端は、小学校英語教育に関するある研究論文への違和感だった。大学研究者によるその研究論文は、小学校英語教育において重要なのは「児童指導力と英語運用力」と結論づけていたが、その先生はどうもこの言い方に納得できなかった。

その違和感はどこから生じているのかという問題意識をもとに授業を反省的に実践する中でその先生が現時点で到達したのは、「児童理解に基づく授業ルールづくりと教室英語の使用、そしてチームプレー」こそが重要だということだ。

「児童指導力」というと、どこか教師からの一方的な権力行使のようにも聞こえる。だが、子ども一人ひとりの実態を理解しないままの権力行使は、役に立たないところか、しばしば逆効果に終わってしまう。だからその先生は「児童理解」の重要性を訴える。しかし、一人ひとりの児童を理解したとしても、教師は教室を学びの空間にしなければならない。だから「授業ルールづくり」が必要になってくる。ルールといっても上から与えられるものではなく、子どもがそのルールの重要性を納得し、ルール違反をする子どもがいれば、他の子どもが「それはおかしい」とその子に注意できるぐらいのものでなければならない。そういった意味でその先生は「児童指導力」ではなく、「児童理解に基づく授業ルールづくり」ということばを選んだ。

「英語運用力」という用語にもその先生は違和感を覚えた。「英語運用力」とは漠然とした概念で、その概念を明確に示そうとすれば、多くの人はTOEICなどの資格試験のスコアで表現してしまう。だが、資格試験のスコアがいくら高くとも教室でうまく教えられない英語教師はいくらでもいる。だからその先生は「英語運用力」を「教室英語の使用」と言い換えた。

さらにその先生は「チームプレー」ということばを重要概念として付け加えた。この世の中に万能人はいない。担任が専科や外部講師はもとより、図工が得意な同僚や音楽演奏が得意な同僚などに助けを借りることは、学校の力を上げるためには重要なことだ。そうやって教師がお互いの個性を組み合わせて助け合う同僚性を作り上げれば教師は困難な状況も打開できる。

こうやって実践を語ることばについて丁寧に考え、ことばを選びなおすことにより、この先生は実践を向上させた。繰り返しになるが、教育を語ることばに着目することは重要なことだと私は考える。


■ 児童英語教育に関するあるNPOの方々のことば

この発表者とは、今回(も)よく話をすることができたので実名を出してもいいと思うが、特定非営利活動法人Creative Debate for GRASSROOTSの池亀葉子先生と竹田里香先生の発表(ことばのルールを発見しよう ~オノマトペを活用した不可算名詞の概念化~)は素晴らしかった。長年の実践の工夫の積み重ねを、「ことばへの気づき」という概念からとらえなおし、「ことばへの気づき」を、子どもが身体的に実感できるように仕向けていた。これは、気づいた概念を身体表現化(ジェスチャー化とオノマトペ化)することにより、ことばの身体的理解の促進するとも言い換えることができるかもしれないが、そのように単純で抽象的な言い換えではこの実践の深さを伝えることができない。この実践については、私自身時間をとっていつかまとめたいと思っている(また、この実践では「想像力」も非常に重要な概念であったことを付記しておく)。


■ 「小学校の先生たちから、私を含め中・高等学校の英語の先生が学ぶべきことがたくさんあります」

「ことばへの気づき」といえば、文部科学省教育課程課/幼児教育課による『初等教育資料』(2015年8月号 36-41ページ)での、直山木綿子氏(文部科学省教科調査官)と大津由紀雄先生(明海大学副学長)の対談(「小学校教育として外国語教育に求めるもの)が面白い。

この記事の冒頭で私は子どもの全人的な発達ということばを使ったが、全人的ということは、子どもの母語・母国語も含んだ上で、英語という外国語の学び・使用も考えていくことにつながる。Council of Europeの言い方なら、複合的言語観(plurilingualism)になる。

対談で直山氏は、彼女と大津先生が、「学校教育での外国語学習の一番の意義」もしくは「外国語教育の目的」について共通理解をもっているとした上で、次のように述べている。

外国語教育単体で考えるのではなく、母語と合わせて、言語教育としてとらえる必要がある。今は全く別のものとしてとらえている傾向があると思います。(37ページ)

これは小学校現場の実態・実感に則した、極めて現実的な認識だと私は考える。大人は「英語科」や「国語科」などと教科の枠組みでしか考えないことが多いが、別箇所での大津先生の発言を借りるなら、「子供たちの頭の中ではそんな境界はなく、むしろそこを取っ払ってしまうほうが自然」(41ページ)だからだ。

さらに両氏は、小学校教師が積み上げてきた外国語活動の成果(その一端はこの学会でも十分に感じられた)の意義の高さを強調する点でも共通している。これまで小学校教師が積み上げてきた成果について直山氏は次のように述べる。

小学校の先生だからこそできたと言っても過言ではないと思います。小学校の先生には、自信をもってほしい。まだまだ消極的な人もいるけれども、小学校の先生たちから、私を含め中・高等学校の英語の先生が学ぶべきことがたくさんあります。(41ページ)。

私が岩波ブックレットの題名を『小学校の英語教育をどうするか』ではなく『小学校からの英語教育をどうするか』(強調を挿入)にした大きな理由は、私も上のように、これまでの英語教育関係者は、小学校での実践から大いに学ぶことがあると信じるからだ。小学校実践は、(同書での表現を使うなら)「からだ」と「こころ」から英語をとらえているものが多いからだ。そんな意味で、文部科学省教科調査官が上記のように発言しているのにとても勇気づけられる。私は役所の文化をよく知らないが、ひょっとしたらこの発言は、教科調査官としては勇気ある発言なのかもしれない。もしそうだとしたらその勇気は、小学校現場で働くすべての人々を大いに勇気づける効果を得たという点で、発言のリスクをはるかに超える効果を生み出していると私は思う。


■ 「論文」の壁

だが、楽観できることばかりではない。学会で会った何人もの人が異口同音に、このような小学校現場の知恵を論文にすることが現状では困難であることを訴えていた。ある人曰く、現在の査読者に「実践研究の論文とはどうあるべきか」という理解がない。別の人曰く、「実践者が自分の実践を冷静に観察してそれを文章化する文化・文体がまだ成熟していない」、さらに他の人曰く、「実際、査読付きの学術誌に実践論文が掲載されることは今はまだ少ないが、そうだと大学で人事を行う時に、本当に有用な人材を採用することができない・・・。

だが実践論文とはどうあるべきかという研究については、もちろんこれまでにそれなりの蓄積がある(私にとってとても印象的だったのは、細川英雄・三代純平(編) (2014) 『実践研究は何をめざすか 日本語教育における実践研究の意味と可能性』 ココ出版だ)。


関係者は、実践論文のあり方について学び直し、実践論文の文化・文体を成熟させなければならない。

と、書いていると、私のFacebookのタイムラインに南浦涼介先生(山口大学教育学部)の次の文章が掲載されていた。ご本人の許可を得て、ここに全文掲載し、この文章を終えることにする。


「学校現場の研究」とはなんなのでしょう。

最近は「学力向上」の流れの中で、県をあげて、市をあげて、それに取り組もうと、行政と学校が一体になって「学力を上げる授業」に取り組んでいる。それはいいこと。うん、僕も昔、もっと面白くて賢くなれる授業を受けたかった。

ただ、それが「研究」になった瞬間、違和感が起こります。「一般化」「仮説」「検証」という言葉が踊る文章。アンケートで数値化。「うまくいったこと」だけを取り上げて「うまくいかなかったこと」には目を向けられないこと……。実際に子どもを育て、実践をしているときには考えもしない言葉たちが、「研究」になった瞬間踊り出しはじめます。

実際、当事者の現場の先生たちはこういうことに違和感を感じていることは多いようなのですが、「研究とはこういうもの」という前提の中で、豊穣な「実践のことば」は、形式的な「研究のことば」に置き換わっていきます。

やがて、多くの先生たちにとって、「研究」は日常の仕事の重しにしかならず、「二度とやりたくない!」というものになっていきます。そして、「とりあえずこなす」という、面倒なものに落ちついていきます。しかしそうやって生まれた「成果」は、やがて報告書で、インターネットで公開され、「研究とはこういうもの」を強化し、次の誰かの「面倒な研究」を生み出していきます。

そういうのが嫌で、現場の先生といっしょに取り組んで、楽しい研究、やっていて自分に意味を見出せる研究、人が読んでわくわくする研究をやっています。でも、最終的には「形式があるらしく…」と、それは成果にならないことが多いです。本当に申し訳ないです。(しかし、新たなものを生み出す行為である「研究」に、こうしないとダメという「形式」がなぜ存在するのでしょう)

こういう「学校現場の研究」の文化を作り出したのは、大学教員と行政と学校が、「指導助言」というシステムの中でつながって、長い年月の中でできたものでもあります。大学の教科教育系の教員の僕らの責任もかなりあります。あと20年くらいの中で、なんとか変えていきたいものの1つです。今のままじゃ喜べる人も、救われる人も少ないものね。