2015年8月20日木曜日

"Power"および"critical"概念に関する学生さんの感想



以下は私の大学院の授業で学生さんが書いてくれた感想の一部です。
この授業では、以下のテクストとブログを使って授業をしました。


Critical Applied Linguistics

Alternative Approaches to Second Language Acquisition



"Power"と"critical"とという概念をしっかりと理解して活用できるように私も勉強を続けなければと思います。(正直、最近の私はまったく勉強が足りていません)。


■ 今期の授業を通して一番衝撃的だった単語は”power”である。予習で初めてpowerのということばを目で見た時は一体それが何を指すのかが理解できなかった。授業を受けたり,復習でこのように書いている中でも,その意味するところはなんとなく理解できても,腑に落ちて理解した感じはなかった。しかし,しばらく経ったある日の授業で,「powerとはこういうことだろうか」と,自分の中で腑に落ちるものを感じたことをはっきりと覚えている。

 それは,確か授業のなかにあるpowerについて議論した時だったと思う。そのときに,ふと,授業を対象にした研究も,その授業を援助するために行われている質的,量的な様々な研究も何かが欠けているような気がしていたことを思い出した。自分の修士論文のテーマに合わせて,いくつかの教室研究(Classroom Research)に関する論文を見ているが,多くの教室研究はある1回の授業を対象にしたものである。そこでおきた談話をすべて拾い上げても,後に教師にインタビューをしても,理解できる部分は多くあっても,なにか違うものを感じていた。それがpowerの概念だったのかもしれない。
 
 そう考えた時,教育実習に行った際のある先生の発言を思い出した。それは,「子どもたちが自主的にやっているようにみせかけていく」というようなものであった。別に子どもたちを欺こうなどという目論見があったわけではないことはその時も理解していたが,今思えばその先生はpowerを自覚していたのかもしれない。つまり,「生徒中心」にするのも根底のところは教師のpowerによるものである,ということがあの発言の中核にあるものだったのだろう。
 
 テキストがAASLAに移り,ここでも様々な発見があったのだが,その中で印象的だったことばがcomplexityに関する章での「説明と予測は異なる」である。授業では「次にこうなると完全に予測することはできない。しかし,後から『あれが決定的だった』などと説明することはできる。それに,説明理論がなくてもパターンをある程度予測することは可能である,もちろん外れることもあるが。」という解説があったと記憶している。
 
 これを基に私なりに理解を拡大させると,だからこそ,教育実習での授業後の討議や,「反省的実践」と呼ばれる,授業後の思考が大切なのだろうと思う。「あの時のあの行動(発言など)によって,その後の授業があのように展開した」といっても,その授業がかえってくることはない。しかし,自らが自分の判断を理解することで次はもっと良くすることができるかもしれない。「前にこの流れでこれをしたら悪い方向に流れていった。だから今日はこの流れにして,少しでもよくしてみよう。」と考え,新たな判断の可能性を作り出すことは,反省によって改善されたものであるのではないだろうか。授業実践ではこの,反省的実践をやる理論的裏付けをこの授業で理解したように思える。
 
 また,この授業を通して私が修士論文で(また,その入口としての卒業論文で)「授業研究」を選んだ理由を何度も反芻した。それは,教室という社会において,複雑に,まるで生き物のように刻一刻変化する生徒や教師の動きを捉えて,そこにあるものを対象としてみたいという思いから授業研究を選択したのであった。だからこそ定量的に生徒の発話数や教師のL1使用などを数えてまとめるだけではなく,なぜその時にそうしたのだろうか,別の可能性があったとすると,そのときどうすることになるのだろうかといった,先生方のアイディアや知識を見つめてみたいと考えている。もちろんすべてを見れる自信はなく,現実的には一部しか見れないということは同時に考えていることであるが。
 
 今期の授業を通して,教室というsocialな部分を考慮に入れる大切さを理解した。cognitiveな部分を否定するという意味ではなく,両者から(もしかしたらもっと別のアプローチもあるのかもしれないが),自分の研究や日々の行動を見つめて行きたい。



■ 私は現在,「授業」や「教室」に着目した研究をしたいと思っており,それに向けて先行研究を読みこれまでの研究の概観を行っている。たまたま先日教室談話(Classroom discourse)の論文を読んだため,その内容と,自分の経験と,今回の講義内容を結びつけながら考えを深めた。

  読んだ論文の多くや,自分の経験でも,教師がおおきなpowerをもつ授業というのが,論文で明示的に書かれていないにしても,あるように思えた。例えば教師が「それ英語で言ってごらん。君なら言えるよ!」と言われると,生徒は英語で発話するしかない(抵抗することもできるだろうが,教室という場で,他の生徒による,ないし他の生徒への影響を考えると,それはよろしくないことだと考えられるだろう)。これまでに何度か実際の授業を見学させていただいたことがあるが,その授業のほとんどが,生徒は自由に活動している場面があるにせよ,大前提(授業デザイン)は教師がしっかりと練っており,それを生徒のpowerによって大きく覆されることはない。教師の予想に反して,追加説明が必要な場面があれど,それは生徒の要求(wants)やニーズに応える形であくまで教師のpowerでもって決定しているはずである。
 
  ここに権力関係を見出せるが,これを「権力は悪いもの」として叩くということがCriticalであるということではないというのが今回の講義にあった話である。先程の文脈で教師-生徒間のpowerを排除させると,授業は成立せず,生徒たちは何も学ばない,「なんでもあり」の教室になってしまう。そうではなく,一定のpower関係の中で,それをどう効果的に使用して「良い授業」が行われているのかを読み解くことがCritical Classroom Discourse Analysisなのだろうと解釈した。まだ研究課題や手法を具体的に決め手はいないが,もし談話に着目することとなれば,この点を考慮にいれることは,より教室内という複雑な中身(ある種のパンドラの箱)を解明する上でとても有用だと思う。



■ 今回の授業で最も印象に残ったのは、criticalであるということは異なる可能性を示すことであり、批判するのであれば代替案を出さなくてはならないということだった。映画好きでもある芸人の江頭2:50さんの言葉で、このようなものがあった。「例えどんなにつまらない映画があったとしても、批評する自分よりも映画のほうが上だ。批評することは簡単だけど、創ることは難しい。」

  英語の教材や試験問題を見た時、ある程度知識のある私は批判することができる。しかし授業の中で教材を再編したとき、試験問題を作ったとき、評価基準を設けてみたとき、自分がいかに知っているつもりだったか気がついた。建設されたものについてあら探しをすることよりも、作る苦労を知る機会をもっと積んでいくことが大切ではないかと思う。
 
  また、自分が正義だと思っているものが、なぜそう思えるのか自照しなくてはいけないということも納得したような気がする。最近よく起こっていることとして、少年犯罪の犯人の写真や本名、親の職業に至るまで探し出し、ネット上に晒すことで彼らを裁いた気になっているユーザーがいる。よく言われている、加害者のプライバシーはなぜか保護されているという事実については慎重に考える必要があるだろう。だからといって、全くその犯罪と関係のない第三者が加害者のプライバシーをむやみに暴くことはあってはならない。そのユーザーは晒したことでヒーローになったつもりかもしれないが、実際やっていることは加害者と変わらないほどたちが悪いのではないかと思う。
 
  上記のような人は、自分で自分の思考を見つめ直す自照はおそらくしないだろう。加害者と思われる者に恐怖を抱かせている自分に酔っている者に対しては、外部から何らかの働きかけがなければ自照の機会は得られないのではないかと思った。

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