2016年3月31日木曜日

2016年度も月・水・金に「昼読」を行います



(チラシはクリックで拡大します)





2015年度後期に引き続き、2016年度も「昼読」を行います。


「昼読」とは昼休みに集まって、それぞれが持ってきた本を静かに読む時間を共有する場です。少々行儀は悪いですが、お昼ごはんを食べながら本を読んでもかまいません。読書の文化を根づかせるために行っています。広大の構成員(学生・教職員)なら誰でも歓迎します。

授業期間中の月・水・金の昼休みに行います(ですから四月の初回は4/8 (金)です)。一応12:05-12:45という時間帯を設定しますが、皆さんぞれの都合があるでしょうから、遅刻や早退はまったく問題ありません。場所は教育学部のK207教室です。

2015年度後期は曜日ごとに読書ジャンルを定めていましたが、2016年度は特に定めません。月・水・金のどの日も自分が読みたい本をもってきてください。

日本語で書かれた純文学や娯楽小説、あるいはノンフィクションや自然科学の啓蒙書、はてまた新聞でもかまいません。英語ならGraded Readersでも普通のペーパーバックでもかまいません。第二外国語の読本や参考書・問題集も歓迎します(第二外国語の習得はなかなか進まないものですから、第二(あるいは第三・第四・・・)外国語の場合は、自発的に選んだ参考書や問題集を読むことも認めることにしましょう)

ただし自由な読書文化を促進させるための試みですので、必要に迫られての授業の予習などは歓迎しません。あくまで自主的・自発的に選んだ本をもってきてください。

昼読の最後の五分では、その日の読書の感想を周りの人と共有します。その語り合いで私たちの世界が広がることを期待しています。

書物のことばは、(質の悪い例外を除けば)練りに練られたものです。SNSなどで刹那的あるいは衝動的なことば遣いが横行する現在、読書文化を守り、育ててゆきましょう。読書で培われた思慮深いことば遣いこそが近代社会の基礎となると私は信じて疑いません。




追記
英語のGraded Readersを読んだら、ブログでその感想を共有しませんか?


広大教英生がお薦めするGraded Readers


(投稿方法については「はじめに」と「記事の投稿方法」を読んだ上で柳瀬にお問い合わせください)




ことばの「権力」と「温かい力」 (卒業論文抄録挨拶文)



ことばの「権力」と「温かい力」


平成26-27年度英語文化系コース主任
柳瀬陽介


  慣例にしたがってコース主任として卒業論文抄録の挨拶文を書きます。この抄録の題目一覧を眺めていると、皆さんの顔が浮かんできます。特に私がゼミで直接担当したゼミ生や、中間発表や最終口頭試験で接した皆さんの思考の軌跡や主張の作法などが思い起こされます。

  皆さんはこうして卒論を完成させることで無事卒業資格要件の一つを充たすことができました。他の要件を充たしていればの話ですが、これで皆さんも大卒という権力を得ることができます。権力とは大げさなことばのように思えますが、実際、大卒という資格がなければ就くことができない職業もあったり、大卒かそうでないかで給料が違ったりすることもあるわけですから、皆さんが得る大卒資格は、社会的に認められた一つの権力だと言えると思います。

  どうぞ皆さんはこの権力を適正に使用してください。この権力に基づき他人に何かを要求する場合は、自分のその要求が適切な理由・根拠に基づき、望ましい目的へと合理的につながっているかを吟味してください。教師でしたら、当たり前のように宿題や課題を児童・生徒・学生に対して要求しますが、これも一つの権力行使です。教師は、その要求が妥当なものかを自己吟味する必要があります。こう書きながら、大学における私自身の権力行使はどうなのだろうと思うと少し恐ろしくもありますが、そういった自己省察を忘れないことが、たとえ小さなものであれ権力を行使する人間には必要なことだと思います。

  さらに昨今は、何事につけやたらと評価をすることが推奨されています(それでいて、その流れ自体についての評価はあまり聞きませんが、それは別の話としましょう)。他人の努力に対して一定の制度的評価を下すことも権力行使の一つです。この権力行使は、人を一喜一憂させる、結構罪作りなものです。私もつい先日まで後期の成績をつけていたところですから、これもどうだったのだろうと改めて職業人としての自分の権力性に思いを馳せます。

  権力は下手に使うと人を不幸にもするものですが、近代社会の制度を活用して生きる私たちに権力は不可欠です。火力や電力がなければ暮らせないように、権力がなければ近代生活をおくることができません。権力は、使い方によれば凶器にもなりますが、それは刃物も同じことです。人間はおそらく石器時代から刃物と共に暮らしてきました。長い歴史を通じて、刃物は確実に進歩しましたが、それと同程度に刃物の使い方も進歩したと思いたいところです。ことばによる権力の創出と行使も、人類史と共に進歩しましたが、私たちはことばそのものだけでなく、ことばの使用についても智慧をつけたいものだと思います。いや、ICTといった伝播手段や、実験や統計といった論証手段が進歩し、ことばがもちうる権力性が高まっている以上、権力的なことばの使用に対する智慧を深めることは、ことばの権力を有する者にとって必須の課題でしょう。

  と、ここまで、ことばがもつ力を (一つにはアレントの著作翻訳の訳語にしたがって)「権力」と称してきましたが、ことばが持ちうる力は社会制度的な権力だけに限りません。社会制度とは無関係に、私たちを勇気づけ支え合う力もことばはもっています。

  実は先日、私のゼミでは、三回目のゼミ合宿を行いましたが、そこではそんな力を感じることがでました。参加者はそれぞれに自分が好きなことや気になっていることについて20分の発表をしましたが、連続三回目の参加となる修士2年次生 (およびOBとOG) などは、さすがに発表をしていても、その中に自分の姿をよりいっそう明らかにしてくれていました。お互いに知っているつもりの間柄でも、そのようにことばで自らのことを、勇気をもって明確に語り、周りもそれに対して自らの正直な思いをことばに託して語り合うと、そこには何ともいえない力 --温かいい力-- がみなぎります。その力に支えられて、何気ない食事での会話やレクリエーションでのことばのやり取りにも温かい力が感じられました。

  ことばは権力をもつ前に、このように温かい力をもつものなのでしょう。その多くは家族や親しい友人の間に見られるものでしょうが、時に見知らぬ人の間にも、ことばを通じて、このような温かい力が働くことを私たちは知っています。ことばの権力は、本来、このような温かい力に基づき、温かい力を守り育むためだけに使われるべきものではないのでしょうか。

  皆さんのこれからが、ことばの温かい力に充たされますように。そして皆さんの権力行使が、そんな温かい力を育むものとなりますように。






ゼミ合宿で行った休暇村大久野島の玄関前でのうさぎ 






2016年3月23日水曜日

卒業式・修了式での挨拶


皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。皆さんと、皆さんを支えたご家族ご友人の皆様にお祝いを申し上げます。

教師としての最後のことばとして「和顔愛語」を皆さんにお送りします。

和顔、すなわち、穏やかな顔つきや静かなほほ笑みは、赤子から老人までもつことができるものです。愛語、すなわち、優しく温かいことばも、およそことばを知る者なら誰でも発することができるものです。

実際、子どもは和顔愛語に満ちあふれています。

しかし子どもが大きくなるにつれ、それに陰りが見え始め、やがては和顔愛語とは真逆の顔つきと言葉遣いの方が多くなってしまうことも多く見られることです。どこか不自然でこわばった顔つきで、嫌味や皮肉や自慢を織り込んだ言い方をすることが得意になってしまいます(今の私がそうでないことを心から祈ります)。

多くの人は、それを仕方ないこととします。

「それが大人というものなのだ」、「生活はキレイ事ではない」、「社会は結局弱肉強食なのだ」と言います。

しかし、大人、生活、社会が大切にしなければならないのはやはり和顔愛語ではないでしょうか。

子どもが和顔愛語であるのは当たり前です。和顔愛語は大人のためのことばです。

大人が、自ら獲得した力で生活を支えながら、制度的に仮託された権力で社会を維持・発展させるのは、すべての人、あるいはできるだけ多くの人が和顔愛語で暮らせるようにするためではないでしょうか。そうであってこそ大人であり、生活であり社会であるのではないでしょうか。

皆さんはこれまでに得た力でもって、これから社会で(あるいは大学院で)いくばくかの権力を行使することになります。それが仕事です。

その際に、自問してください。この仕事、つまりこの権力行使は、人々の和顔愛語をもたらすためのものか。そしてこの仕事をなしている自分自身が和顔愛語の人であるのか、と。

こう言った瞬間、私は自分が和顔愛語とは真逆の態度でふるまっていた多くの時間を思い出し、反省の念にかられます。

しかし、そうやって反省するからこそ、私は少しでも私の仕事である研究を行い、和顔愛語をもたらす英語教育を実現させるための考察と論述をしなければと思います(最近、思うようにできていませんが)。また、自由時間では(これも最近さぼりがちですが)、武術の稽古を下手ながらも少しでも行い、どんな時にでも和顔愛語を保てる力をつけようと思います。

どうぞ皆さんも、人々の和顔愛語のために働き、自ら和顔愛語の人となれるようにと志を立ててくださいませんか?

一人ひとりの力は弱くとも、共に志を立て、その志で自らを、そして互いを律するなら、困難なことも成し遂げることができるのは、これまでの人間の歴史が示していることです。

最先端の科学技術と高度な社会制度のおかげで、人類は、これまででは考えられなかったほどの権力を行使できるようになりました。この権力行使で、人類は、ごく少数の人々の短期的な快楽や驕奢のために、多くの人々を犠牲にし、地球環境を修復不可能なほどにまで破壊することが可能になりました。こんな時代に社会に出る皆さんにはぜひ和顔愛語を大切にしていただきたいと思い、このようなお話をさせていただきました。

  みなさんどうぞ健康に気をつけて、和顔愛語をもって和顔愛語のために働いてください。

  みなさんのご健康とご活躍をお祈りいたします。









2016年3月21日月曜日

「コミュニケーション能力と英語教育」のレポートから



以下は、2015年度の「コミュニケーション能力と英語教育」という授業評価のためにポートフォリオとして提出された学部3年生の作品の一部です。

一部、「制作」(仕事)と「活動」、あるいは"different but equal"と"same but deviant"といった用語は、これらの作品を読むだけではわかりにくいかもしれませんが、そのまま掲載しておきます(もしご興味があれば、前者の用語対については「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」、後者の用語対に関しては『アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析』をご参照ください)


ここに掲載したのは一部の印象的な作品だけですが、下にHSさんが書いているように、この授業を通じて直接対面しながら、あるいはBb9(電子掲示板)越しに、さまざまな対話ができたことは私自身とても勉強になりました。これからも対話を大切にした授業をしてゆこうと思います。


HSさん
 「コミュニケーション能力と英語教育」の授業を通して、上でまとめたもののほかに、教訓として学んだことがあります。それは、多種多様な価値観の存在を認め、それらを丁寧に理解しようとする姿勢を大切にするということです。予習で全員共通の記事を読み、授業において全員が同じ時間・空間の中で一人の先生から講義を受けても、それに対して生まれる考えは人によって多種多様で、様々な視点があることに何度も驚かされました。自分と異なると反射的にその考えを疑ってしまうこともあれば、自分の考えが大勢の人と違うととたんに不安になることもあります。しかし、人は物事を経験に結びつけて理解しているとすれば、みんなそれぞれ違う人生を歩んできたのだから、人によって理解の仕方や考え方が異なるのは当たり前です。偏った思考に陥らないためにも、様々な角度からものごとを見る姿勢を持ち続けようと思います。







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コミュニケーション能力と英語教育ポートフォリオ


広島大学教育学部英語文化系コース EJ

※私はこの授業の自己評価をA-とします。

1.「教室は生き物である」

  このポートフォリオでは本講義を通じて私が考えるようになったことをまとめようと思います。本講義、そして教育実習を受ける前の私は今思えばとても頭でっ かちであったように感じます。私は教壇に立つという経験がないままに大学で理論や技術を学んできました。大学で受ける講義や英語教育に関連する本に載って いる理論や技法、授業案のようなものはとても説得力があるように思え、あたかも「この教え方をすれば絶対に生徒の英語力は伸びる!」ように感じてしまって いました。

しかし、教育実習を経験して今まで学んできたことをそのままやればよいという考えは間違っていたことに気づきま した。実際に教壇に立ってみると、生徒たちの表情や教室の雰囲気というのは簡単なきっかけで、輝きだすし、一瞬にして暗くなることを、身をもって感じまし た。理論や技能を学ぶことは教師として絶対に必要なことなのは間違いありません。しかし、それ以上に大切なことは「教室は生き物だ」ということを常に意識 することだと思います。

大学の講義で習うような理論や技能は確かにたくさんのデータを取って、研究を重ねたうえで成り立っ ているということは確かです。しかし、「データ化する」という過程の中には切り捨てなければならないもの、割り切らなければならないものがたくさんありま す(このことは授業の中でも多くの人が口にしていたことです)。いま自分なりに考えてみると、それらの割り切られてしまったもの、切り捨てられてしまった ものというのが、「人間味(人間らしさ)」なのではないかと強く感じます。偉い学者や大学教授の方が編み出した理論や授業技術というものに出会ってしまう とそれに飛びついてしまいがちになってしまいます。教育実習中の私がそうでした。

しかし、それを実際に授業でやってみても 生徒の反応がイマイチだったことが多くありました。クラスというのは40人の個人が集まって成り立っている集団です。先ほども「教室は生き物である」と書 きましたが、クラスというのは1つ1つ異なる色というものを持っています。クラスによって好みが分かれることなんて当たり前のことだし、同じクラスでも日 によって表情を変えることなんてざらにあることだと思います。このように異なる生物である教室が日本に数えきれないほどあるのに、1つの教え方が全部のク ラスに同じような効果を与えるなんてありえないと思います。

私は実習中、そのことに気づいていなかったために、目先の理論 や指導法に飛びついてしまいました。教育実習生という立場では1つのクラスに単発で授業をすることがほとんどで、クラスの特徴、生徒一人一人の性格などを 考慮に入れることが難しいかもしれません。しかし、今考えてみると、指導教官のアドバイスや大学で得た知識などに頼ってしまうばかりではなく、自分なりに 「生徒たちはどのような教え方をしたら、興味を持ってくれるだろうか。」などといったことを「自分なりに考える」ということすべきであったと深く反省して おります。いい授業を作るために必要なことは、生徒をよく観察し、生徒の一人ひとりを理解することで「生徒が求めている授業」というのを肌で感じることで はないかと思います。「教室は生き物だ」ということを常に頭において、その生き物の変化に敏感でありたいと切に願うばかりです。


2 コミュニケーション能力とは

  英語科においてコミュニケーション活動と呼ばれているものは本当にコミュニケーション能力の育成に役に立っているのかというのは本講義を受ける前から疑問 に思っていました。今の中学校学習指導要領では目標として「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」とありま す。高等学校学習指導要領においては「情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う」とあります。4技能を鍛えるこ とは英語を学ぶ上で必要不可欠なことだとは思います。

しかし、コミュニケーションの手段であるこれらの技能をコミュニケー ション能力であるとして目標にしてしまっているのではないかと私は思います。さらに高校の目標を見てみると「情報を伝えられればよい」というように私には 感じられます。今の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力とはなんなのか」はっきり定義しないまま、形式的な表現ばかりをつかった表面上の情報のや り取りを「コミュニケーション活動」としているように思えます。

本講義の中で、「物体を使う力」「心を読む力」そして「言 語を使う力」についてのお話がありました。これらの要素を掛け合わせることで私たちのコミュニケーションは成り立っています。これらの要素をコミュニケー ション能力の基盤であると捉え、授業も工夫すべきではないかと思います。私は特に「心を読む力」というのが大切なのではないかと感じます。日々の生活の中 で、「こいつ言葉には出さないけど、絶対なんか怒ってるわ」と感じたりすることは多くあります。それ以外にも皮肉だったり、言葉通りの意味ではなく、裏の 意味を考えないといけない場面は非常に多くあります。今英語の授業で行われているコミュニケーション活動では「心を読む力」が身につくようにはとても思え ません。

講義の中でも話にありましたが、「心を読む力」の育成に文学作品は非常に大きな役割を果たすのではないかと思いま す。中学校くらいの頃からずっと感じていたことではありますが、教科書の中の文学的教材というのは少なすぎるように感じます。あってもせいぜい1つか2つ です。これはなぜなのか考えてみると、やはり文学がコミュニケーションの敵だと捕らえられてしまっていることが原因ではないかと思います。文学作品を用い る授業では教授法として文法訳読式を用いると決めつけて受け取られ、教師からの一方通行な授業になってしまうと考えられてしまっていることも原因ではない かと思います。しかし、文学作品にはコミュニケーション能力育成の大きな可能性が秘められていると思います。文学作品というのは作者と読者のコミュニケー ションであり、そして読者同士のコミュニケーションにもなり得ると私は思います。作者にはいろんな想いがあってそれらを文学の中に吹き込んでいるように思 います。それらを読むことでなにかを感じること、作者は何を考えていたのだろうと考えることは非常に大切なことだと思います。また、文学というのは幅広い 解釈の可能性を与えてくれます。その解釈を巡って読者同士で語り合うことは立派なコミュニケーションであると思います。ウォリック大学に教英のプログラム で留学したさいに、「ジェーン・エアー」に関する解釈についてディスカッションをしたことがありました。そのときに、他の生徒の自分とは異なる解釈を知る ことで、作品の捉え方が変わったりしてとても有意義に感じたことを覚えています。

コミュニケーション能力というものを単な る情報の伝達を円滑にする能力として捉えるのではなく、様々な状況やテクストの中での相手(読者や作者)とかかわる能力だと考えると、文学作品の活用とい うことをもう少し考えてみる必要があると思います。この「文学作品とコミュニケーション能力の関係」については卒業論文のテーマとして研究しようと思って います。英語の学習の中に文学作品を有効的に活用する方法を考えていきたいと思います。


3.身体・対話の大切さ

  本講義では身体、そして対話の大切さについて深く考えさせられました。教師の仕事というのは文字通り生徒に対して何かを教授することです。そのためには教 師の声を生徒に届かせなければなりません。声を届かせる難しさというのは実習を通じて身をもって感じました。生徒に聴いてもらおうと思って声を張り上げて も生徒は知らんぷりだったりすることは珍しくありませんでした。しかしこれは私自身が「どうせ実習生の授業なんてきいてくれないだろうな」と心のどこかで 思っていて、それが生徒に私の体を通じて伝わってしまったからではないかと今となっては思います。

人の話を聞くとき私たち は声だけを聴いているわけではありません。話している人の体の動き、そして表情から私たちは何かを感じ取ろうとしています。どの教師も生徒に何かを伝えた いという思いがあるからこそ、教師という職業を志しているはずです。その意志があれば、何かを生徒に伝えようとするときに自然と身体からあふれ出るものが あるはずですし、無意識に体が動くはずだと思います。声を届かせるために身体を使おう使おうと意識することは難しいことではないかと、個人的な考えですが 私は思っています。

竹内敏晴さんと野口三千三さんが言っているように、身体を動かそうとするよりも自分の中にある重心とい うものに敏感でなりたいと強く思います。自分の中にある重心とは私は意志であったり、信念や想いではないかと思います。重心が体のあっちこっちに行ってし まうようでは自分の言葉の重さが失われてしまうように感じます。言ってることがコロコロ変わるような奴は信用できないのと同じです。自分の重心を常に体の 中心におけるように心掛けることが身体を使うということではないのかなぁと私なりに講義を通じて考えるようになりました。

教 育というのは人と人との温かい営みだと私は思っています。教師は生徒に何かを教授するという立場から、生徒を正しい道に導くという役割がある一方で、生徒 を対象としてみてしまう危険性を秘めているようにも思います。教育というのは教師と生徒という立場の違いはあれど、対等な人間同士の営みであるべきだと思 います。教師が上、生徒が下というような身分上の差の様なものが学校教育の中に色濃く出てしまうと、生徒は本当の自分というものを出せずに成長していって しまうことになる恐れがあります。自分自身の学校生活を振り返ってみても、自分の考えではなく、先生に気に入られるような答えばかりを考えてしまっていた ようにも思えます。生徒の声を聴くためにも対等な立場として生徒と対話する機会が学校の中にもっとあればいいのにと思います。

生 徒と良好な関係を築く第一歩は生徒の声を聴くことだと思います。生徒の本音の聞くためには教師が「言いたいことを言っていいんだよ」と身体を、心を生徒に 対して常に開いておかなければならないと思います。「対話」を通じてお互いのことを深く知ることができるという点を考えるともっと対話というのが重視され てもよいはずではないかとは思いますが、いまの社会では対話は軽んじられているように思えます。会議などではいかに効率よく、解決策までたどり着けるのか という点が重要視されています。企業のような利益をもとめる場ではそれでも良いかもしれません。しかし、教育というのは人を育てることを目指しているわけ であり、お金などの利益を目的としているわけではありません。企業的な考えが教育にも流れ込んでしまうことは危険なことではないかと思います。対話をする ことで生徒のより深いところまで知ることができ、良好な人間関係を築き上げることができるのではないでしょうか。

何回も書 いてしまっていますが、教育とは人と人との温かい営みです。そして基盤となるのは人間関係だと思います。(くさい言葉で書くと「絆」となるかもしれませ ん。)対話というのは時間がかかるものかもしれませんが、私たちは時間を問題視するべきではないと思います。人間関係を築き上げるのに時間がかかるのは当 たり前ですから。

4.最後に

 私は物事をあまり深く考えることが苦手です。楽観的に 生きているように思えますし、深く熟考しないといけない問題なのに、熟考せずに物事を判断してしまい後で後悔するということは少なくありません。しかし、 本講義だけでなく柳瀬先生の講義を通じて自分なりに考えることの大切さがわかりました。特に哲学は自分とは縁のないものだと感じていましたが、英語教育に 哲学が強く結びついているということに気付きました。私は小説はよく読みますが、哲学的な本には手を付けることがありませんでしたが、本講義を機に、いろ いろな哲学関連の書籍を読むようになりました。本をたくさん読んでいると今まで自分の知らなかった世界を知ることができ、自分の生きている世界が少しづつ 広がっていく感覚になります。これからも本をたくさん読み、自分なりに考える習慣を心掛けていきたいと思います。







 
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コミュニケーション能力と英語教育 ポートフォリオ


 MK


1.    はじめに

 本ポートフォリオは、木曜日1コマの授業「コミュニケーションと英語教育」で学んだことを通しての私の自己変容を大きなテーマとして、そこから繋がる3つの柱(①英語教育について ②言語文化について ③哲学について)について、柳瀬先生、一緒に授業を受けている皆さん、そしてこの文章を書いている自分、書いたあとの自分を宛先に記述したものです。予習記事や、私がbb9で書いた記事を見ながら考えていきたいと思います。


2.    英語教育について

2.1    授業観の変容

 昨年9月と10月に教育実習を経験し、実践の場で苦しみ抜いた経験と、それを持って読んだ予習記事は、明らかに私達の英語教育観を激しく揺さぶり、変容させたものだと思います。研究授業を通して生徒理解の重要性に気づいた私は、第一回授業の予習でこのように述べています。
「良好な関係を生徒と作っていくための土台としての生徒理解は、すべての教育活動の礎でもあるように思います。」

『教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ』や、『当事者研究とオープンダイアローグ』などの記事でみたように、教師と生徒の関係性のなかにあまりにも、客観主義的な科学の考え方を適用しすぎることは、学校や授業内での教育活動のあり方を「Aの問題を持った生徒にはA’の対応を取れば解決できる(できなければおかしい)」というものに傾けてしまう恐れがあります。教育実習を終え、授業を受けたうえでの私の授業観の根本は、上記の「生徒理解」から、「教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係」(1/7予習記事)へと変容を遂げています。

第一回授業で言い尽くすことができなかったことについて今考えてみると、私が研究授業を行ったクラスで実感として「良い授業が」できたなと思えた原因は、教師と生徒の信頼関係を比較的短い期間でできるだけ形作ることができたことにあると思います。教育実習生は、持っている授業が通常5つほどなので、一つ一つの授業を別々のクラスですることが多く、一回きりの授業が教師にとっても生徒にとっても、最初で最後の授業となります。しかし、私が研究授業を行ったクラスでは、指導教員に授業を増やしていただき研究授業を含めて三回授業をする機会がありました。その中で最も心がけていたのは、「生徒とできるだけ言葉をかわす」ことでした。授業前の十分間や授業後の僅かな時間、そして机間巡視中に、多くの生徒に言葉をかけたり(「おいおい白紙やんけ」「これはテスト的にはバツだけど俺は百点回答だと思う」など)、授業中笑いを誘うような提示の仕方を考えたり、ここでは、それまでに学んだ授業構成や指導の理論ではなく、人と人が好意的に関わりあうためにどうするか、どうコミュニケーションするか、が考えられていたようです。

 その結果、十分ではないとはいえ私と生徒の間には「この先生にならついていける」と思えるような信頼関係が構成され、授業的には失敗の、生徒の取り組みとしては成功の、そんな研究授業ができたのはでないかと思います。

「『良い授業』は緻密な授業計画と教師の豊富な知識だけではなく、生徒との関係、クラスとの関係があってこそ「良い授業だったね」ということができると思います。「良い授業」を構成するものの中で最も重要な要素こそが、教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係ではないか」(1/7振り返り)
つまり、私達みんな、人間と人間、主体と主体が関わっていく中でいい加減にしちゃいけないことって、あるよね。1対40人、みたいな数字でばっかり考えるんじゃなくて、「私とあなたとあなたとあなたと・・・・・あなた」が関わっていく空間での一回きりの祝祭的な授業をつくれたら、という気持ちで授業を作っていきたいな、と思うようになりました。


2.2合理主義と非合理主義

 自然科学的手法に則って物事を見ることが教育現場では絶対に悪手である、という極端なことを学んだのだ、というわけには行きません。。五十万人ほどの大学入試志望者を期間内で評価してゆくためには、ある程度割りきって客観的に、時間内で学力を測るための方法を策定しなければなりません。

膨大な物事をとりあえず割り切るための割り切り主義は必ず必要です。ただ、ものごとをテキパキと無思慮に割り切っていくようなことは避けなければなりません。そしてもちろん、割り切れないからといっていつまでも答えを保留するようなおこともあってはなりません。
 ここで難しいのは極端な合理主義、極端な非合理主義どちらに居着いてもよくないのだということです。本質的に割り切れない世界のことをわかっていながら、割り切っていかなければならないことが多いです。私達は、合理主義と非合理主義に引き裂かれつつ生きていくことを学んだのだということができます。



3.    ことばの文化について

3.1    しゃべくるだけがコミュニケーションではない

 「原初体験と表現の喪失」を読んで、ハッとしたのが、そういえばコミュニケーションコミュニケーションと言っているけれど、広い意味で考えたら口で話して意図を伝える、それだけがコミュニケーションではないな、ということです。コミュニケーションの媒体は言語のみにかぎらず、「モノや商品やお金、あるいは突き蹴りや投げ」もあると柳瀬先生は授業用ホームページの冒頭でおっしゃっています。

 「コミュニケーション能力の三次元的理解」で、身体・物体、心、言語の三次元の合成ベクトルでコミュニケーション能力について捉え直しました。これまでの私の理解では、コミュニケーションを四技能で表せるような言語の側面のみで、捉えていたように思います。
 言語文化系コースに在籍している自分としては、広義のコミュニケーションのなかでも言葉を媒介にした「芸術」についての興味が授業を受けながら高まってきました。



3.2    コミュニケーションとしての短歌

 このセメスター中に出会った「短歌」という芸術は、私がコミュニケーションについて考える上で非常に重要な役割を果たしたのではないかとおもっています。教国の友達に穂村弘の歌集『ラインマーカーズ』を貸してもらったことがきっかけだったのですが、そこで現代短歌と歌人・穂村弘の魅力にドハマリして彼のエッセイをどんどん買い漁るようになってしまいました。

 穂村弘は『世界音痴』で、みんなが生きている世界に入っていくことができない、世界からの疎外感を中学生時代から感じてきたと述べます(みんなが衣替えした次の日に衣替えをする、怖くてベッドから起き上がることができない)。そんな中出会った短歌を使うことによって、自分に見える世界が言葉にできたことについて『短歌という爆弾』で述べ…と、ここまで書いて思い出したのですが、この話って『綾屋紗月さんの世界』で綾屋さんが自分を記述する言葉を得ていく話とすごく似ていますね。

彼の詠む短歌は非常に難解なことで知られています。例えば

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

と、とても初見では意味がわからない(というかこれなどまだ分かりやすい方なのかもしれない)歌が歌集にはあふれています。

短歌の定形、五、七、五、七、七に、世界を自分のフィルターと言葉を使ってえがく、言葉にすることで、私達は単に言葉にする以上のものを伝えることができて、受け取った側も、作者が込めた以上のものを一首の短歌から受け取ることができる。そんなコミュニケーションのありかたとしての短歌に出会うことができ、そしてそれについてもっともっと理解を深めようと思うことができたのは、コミュニケーション論の授業でのコミュニケーションというものについての幅広い考察あってのものだと思います。

また、ことばによるコミュニケーション理解の深まりは、一年生の時から言われている「みずみずしい感性」を育てていくうえでも重要になると思います。文学作品、詩を通して、もっと私たちは世界理解を深く強いものにしていくことができると思います。


4.    哲学について
 
4.1    哲学への誘い

この授業では多くの記事を読んできましたが、特に思想家・哲学者に関する記事に惹きつけられる自分を見つけました。野口三千三や竹内敏晴の身体論、理性は身体の主人ではないこと、ハンナ・アレントの「複数性」についての話などがかなり面白く、勉強しなければならないこと、勉強したいことが膨大に増えていったような気持ちです。

 とくに面白いと思っているのが、柳瀬先生の論文『「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」のように、哲学者の思想によって物事を読み論じるような方法で、なるほど、そのようにして哲学を英語教育に活用できるのだ、と感じました。

「ハンナ・アレントの「行動的生活」-労働・制作・活動による田尻実践の理解という、英語の授業から想像もしない場所に橋をかけるような壮大な授業だったなと思い返します。」(1/28振り返り)
 昔に書かれたテクストなのに現代でも十分に使用に耐えること、英語教育の一授業実践を読み解く鍵になりうること、を考えると哲学から得られるものは多そうだし、自分でもそういったやり方ができるのではないか、例えば「思考・判断・表現についてレヴィ・ストロースやアレントのテクストを手がかりに考えてみる」というようなことができそうだな、と考えられたことが、私にとって大きな変容ではないかと思います。

4.2    テクストはテクストを呼ぶ

 アレントについてもっと知りたい!と思ったことが、彼女の著作や解説書を読もうと思ったことのきっかけになりました(『今こそアーレントを読みなおす』は、大変面白く読みました)し、複数性の世界で人間が他者との交流を通して自己を発見する「活動」を学んで、他者論についての興味が生じてレヴィナスの他者論を学びたいと思うようになりました。(目下、内田樹による『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』を読みなおしています)さらに、レヴィナスがその他者論を発展させていく礎となったフッサール現象学についても興味は増していき、そして現象学をかじっていく中でフッサールが現象学的還元において参考にしたデカルトのコギト命題へ・・・

 テクストがテクストを呼ぶような、欲望が欲望を点火するような、壮大な学びの中に自分が位置づけられようとしている興奮を覚えることができたことに、とても驚いています。柳瀬先生の記事を読む中で、先生が別に教える気もなかったし勉強させる気もなかったことについて学ぶことができる、そしてそれは、今のところは柳瀬先生の記事を読まなければ発動しなかった学びかもしれない。学びのダイナミズムを学ぶことができたのは、非常に大切な経験だったと思います。

 哲学について とは書きましたが、もっと大きく「学びについて」と題したほうが良かったかも知れません。単純に、未知を知ることの愉悦を再確認できたという自己変容なのですが、死ぬまで学び続ける教師像をより具体的にすることができました。毎週HRのたびに、「今こんなことやってるんよ~」と見せびらかせるような先生になれたらと思います。


5.    まとめ

 ここまで3つのテーマについて自己変容を記述してきました。まだまだ書き足りていないこと、言語化できていないことが多くあるのですが、とりあえずはこの3つについて考えたことをもってこのポートフォリオを終わりたいと思います。この授業を通して、だけではないのですが私は少しずつ変わり続けているような気がします。

三年生が始まる前は、世界だけでなく教育界が、矛盾をはらみつつ存在していることに我慢がならず、そんな世界で生きていく事自体に嫌な気持ちがあったのですが、今ではもっとポジティブに考えることができるようになったと思います。様々な物事が複雑に絡み合う世界を、今より少しだけ愉快にできるような私として学びを深め、そんな仕事ができるような生徒をどんどん育てることができれば、結果的にみんな愉快に暮らして行けるようになるよね、と楽観的に考えています。







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コミュニケーション能力と英語教育 期末ポートフォリオ課題


「他分野から考える英語教育
-弓道と物語の領域から」



広島大学教育学部第三類英語文化系コース 3年 MY


0.    はじめに

本ポートフォリオは広島大学教育学部第三類英語文化系コースの講義「コミュニケーション能力と英語教育」の期末課題として提出するものである。はじめにお断りしておきたいが、このポートフォリオは本講義の内容を網羅したものではない。むしろその断片を少しつっついたくらいの程度でしか講義の本筋には触れていない。私は今回あえてこの形式をとったが、それは自分自身の経験を最大限に生かしたポートフォリオの作成を考えたからである。本講義を受講する中で自分自身の体験を見つめ直し、その再分析、また英語教育におけるその応用を考察した結果を主に記述した。第一部「物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ」では、物語を読んだり書いたりすることを通して私が学んだこと、また英語教育における物語作品に対するアプローチを考察した。次の第二部「弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」」では、私自身が高校生時代に体験した弓道を通して学んだ心体経験を下敷きに、英語教育における「こころ」と「からだ」について端的に分析した。

あくまで狭い範囲でしか講義の本筋には触れていないが、英語教育をあえて一見遠く離れたように思える分野から考えることにより、常に新しい視点から英語教育について考えていく。こうした考え方がこのポートフォリオ作成の軸となった。英語教育は英語教育だけで自立できるものではない。さまざまな領域の考えや方法が複合的に影響し合って紡ぎ出されるものだ。本講義ではその重要性に改めて気づかされた。この感覚を決して忘れてはならないと思う。英語教育を考えるにあたって躓くことは多々あるだろうが、そんなときに本ポートフォリオで考察したことが補完的に働いてくれることを期待したい。また本ポートフォリオを読んだ人がそうした考えを持つきっかけになることも同じように期待している。このポートフォリオ自体が私自身の「活動」であり、「こころ」と「からだ」の体験であるからである。

なお、本ポートフォリオについては公開を許可することとする。ブログ記事等での公開により、さらに多くの英語教師、またその卵たちと共有できることを期待したい。



1.    物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ

1.1    物語を読むこと

 私は物語を読むことが好きだ。幼少の頃は日本の昔話を親から絵本で聞き、その後自分で読んだ。小学校のころになると図書館で小説を借りて読むようになった。中学校、高校、大学と長い年月が流れても、物語に対する気持ちは変わらなかった。むしろ、それは徐々に強まっていったし、おそらく今後も変わることはないだろう。物語は人の心を豊かにしてくれる様々な魅力を持った芸術であり、人間生活の文化的側面において重要な役割を持つ、そう考えている。物語は人の心的生活においてどのような役割を果たすのだろうか。ここでは私自身の経験に即して考察していきたい。

 まず、活字になっている物語には基本的に流動的な映像は付されていない。絵本であれば各ページにシーンの情景を示す絵が添えられていたり、小説などでも時折挿絵が挿入されていたりすることがあるが、基本的には読者は物語の流れを頭の中で想像することになる。それは物語の語りとなる文章をもとに行われるが、その内容は読者それぞれに委ねられている。なぜなら、同じ文章に触れたとしても、それぞれの読者によって思い描く情景は変わってくるからである。たとえ10人の人間が「桃太郎」を読んだとしても、彼らが頭に描く桃太郎は10通りの姿をとるだろう。解釈の仕方によっては物語を読むということは作者の意図をくみ取るという考え方もできるが、それ以上に読者それぞれが考え、感じたように読むことを重視して良いだろう。こうした読みによって、読者は想像力を掻き立てられる。その三者三様の解釈を許容する性質は物語、とくに活字体のみで読まれるものの長所である。私自身、読むことが好きだったということに加え、親からそうした物語の大切さというものを時折話されていたことも今まで物語の重要性を考察しているきっかけとなった。自分の知らない世界が、その描写が写実的なものにしろ幻想的なものにしろ、頭の中で非常に強いリアリティーをもって再現される。物語を読むことによって想像される世界を体験するほうが、現実世界で体験するよりもむしろ現実感があると考えるものもいるくらいだから、物語が人の想像に働きかける力の強さには異論はないだろう。ハンナ・アーレントのいう「人間の条件」に即して考察すると、物語を読む際のこの段階は「制作」と呼ぶことができる。なぜなら、これは読者自身の心的充足を満たしてくれる。読むことは創造された作品を受容的に楽しむ行為と考えられるかもしれないが、実は読む行為も創造的である。作者が生み出した作品は読者の認識のフィルターを通して、いかようにもその姿を変える。その際に読者は作品を再創造するのだ。ここに物語のおもしろさがある。

 物語には人の想像力を豊かにし、心的充足感を与えてくれる。物語が持つこの側面は高い評価に値すると考えてよいだろうが、しかしアーレントの人間の条件から考えるとこれだけでは不十分かもしれない。なぜなら、この段階までは人は孤立していても物語を楽しむことができる。手元に本があれば、たとえ独りでも想像の世界に耽溺していられるのである。しかしながら、これだけでは人間的な生活とはいえない。他者と関わってこその人間である。

しかし物語はもう一つ高次の段階へと人を導いてくれる。それは物語を読んだあとに他者と語ることだ。何を語ってもいい。単なる感想でもいいし、分析的なコメントをしても良い。登場人物について語ってもいいし、ストーリ―自体について語ってもいいのだ。とにかく自分がどう読んだかについて語ってみると良い。物語を読むという体験による喜びを誰かと分かちあうことに意味があると考えたい。自分とは違う読み方、自分とは違う感性の持ち主によるコメントはあなたの想像力になんらかの影響を良い形で及ぼすだろう。読み方によってその人の性格が分かるかもしれないし、世界に対する考えがわかるかもしれない。また、そうした他者の感性との差異から、自分自身についての理解も深まるのではないだろうか。こうした側面はハンナ・アーレントの人間の条件、3つ目の項目、「活動」と捉えることが可能だろう。個人的な楽しみ方だけでなく、他者とのコミュニケーションを促進し、さらに心的充足感を深めてくれる。物語を読むということは、想像世界と現実世界を橋渡しすることができるだけでなく、読者と読者のあいだに橋を架けてくれるのである。


2.2 物語を書くこと

 物語を読むという行為には、人間の生活を豊かにしてくれる「活動」としての役割がある。一見受容的に思えるこの行為が人と人とをつなぐことができることについては、世間一般的に役に立たないと言われがちな物語にも高い評価を与える必要があることを示している。では、この読む行為に加え、次に物語を書くという行為を考察したい。私自身の経験の中に物語を書くというものがあった。それは極々短い短編小説を書いてみたという経験だった。物語を読んだ経験は数えきれないほどあったものの、書くという経験はそれまで無かった。もちろん芸術家ではない私の経験なので、これで物語を書くという行為を正確に考察できるかは定かでないが、自分の経験を再分析することも兼ねて考えてみたい。

 私は現在、物語を書こうと思ってもなかなか書けない。以前物語を書いたときは書きたいという衝動に駆られて書いたのである。この行為は物語を読む行為と似ている点がある。それは物語を頭の中で想像することによる心的充足である。物語を読む際にも想像力を掻き立てられるが、書く際にはそれ自体が原動力になる。自分でスト―リ―や登場人物を創造する、つまり物語に息を吹き込むのだ。自分の実体験や空想をもとに物語を作っていくわけであるが、あまり頭で考えすぎても書けないような気がする。凝った文章を書こうとすると、逆に考えすぎて一向にペンが進まない。最初はあくまでも自分で書きたいときに、書きたいように書くのが良い。だが、やはりこれも人間生活における「制作」に留まっている。物語を創造する行為は作者の想像力を最大限に活性化してくれるだろうし、それにより彼の感性はさらに豊かになるだろう。しかし、それは読む行為の場合と同じで、あくまで独りでもできることである。では、この後どうするか。読む行為と同じように「活動」を追求するならば、書いた作品をまず他者に読んでもらうことが必要である。そして読んでもらったあとに感想をもらう。ポジティブなものでもネガティブなものでもいいが、とにかく読んでくれた人からコメントをもらい、その人と作品について語り合うのである。空想を言語化した作品をさらに言語によって説明し直すこと自体さらに感性を豊かにするだろうし、また作者の主観により生まれた作品を、他者の認識のフィルターを通すことで異なった方向から評価することができる。他者との語りの中で自分の作品を再分析することができるのだ。この段階に達することにより、物語を書く行為は「活動」の領域にまで引き上げられる。この物語を自分で創るという行為は、自分自身何度も体験したことがあるわけではない。しかし確実に自分の人間生活の精神面において良い影響を与えてくれていると思う。また、こうした行為が与えてくれる喜びは身体的な体験となる。すべてのプロセスを体で感じることが必要である。その身体経験を他者と共有する。それは物語を読む場合も、そして書く場合にも同じように重要なのである。


2.3 物語とのつきあい―英語教育の中での使用

これまで物語を読む行為と書く行為、またそれらの行為がどのように「活動」となるかについて考察してきた。人間としての生活において、こうした物語との付き合いがいかに重要な役割を果たしてくれるかがご理解いただけるだろう。このように私たちの生活に欠かせない重要な文化である物語であるが、これは何も日常生活だけに限られることではない。ここでは最後に、英語教育の中で物語の良さを引き出すにはどのような点について考えることが必要かについて考察していきたい。

英語教育では英米文学作品をはじめ、各国の文学作品が英語に直されたものを題材に教材が作られていることがある。実際に英語科で使われている教科書を見てみると、たしかに文学作品が採用されていることがある。それは小説や詩など形式は様々であるが、問題はその扱われ方である。たしかに教科書に文学作品が含まれていること自体は少なくない、だいたいどの教科書にも一応含まれているのである。しかし、そのほとんどはオプション、つまり教科書内の単元の流れには直接関係ないことも多い。Further Readingといった、少し発展した教材として扱われていることが多い(実際はほとんど読まれていないのだと思う)。それは教材を扱う英語教師自身がそうした教材の扱い方がわからない、難解である、発問が用意されていない、そもそもいわゆる実践的なコミュニケ―ションにつながらない(と思われている)といった理由が原因である。こうした理由から日本の英語教育では文学作品が以前と比べて急速に姿を消しつつあることは否めない。だからどうした、そんな難解な教材あっても使えないだろうと考えられているのかもしれない。しかしやはり、上述のような物語との接触の中で人が経験する成長は、英語教育においても見過ごされてはならないのではないか。たしかに母語ではない言語で文学作品を読み解くことは教師にとってですら難解な場合がある。しかし現在ではより簡易な英語に直されていたり、映画化されていればそれが補助教材になったりと、いかようにも工夫のしかたはある。場合によっては部分的に原文を用いて、文学作品の原文が持つ言語形式の魅力に断片的に触れることも良いだろう。やはりそうした工夫を通して、学習者に物語を純粋に楽しむ経験を提供していきたい。それは物語を教材とすることを通してのみ味わうことのできる魅力の一つではないだろうか。そしてその体験を他の学習者と共有する機会も合わせて与えるといいだろう。物語を学習者と学習者をつなぐ「活動」の領域にまで引き上げる。文学作品の減少を危惧するものとして訴えていきたい良さがそこにあるのだ。



2.    弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」

2.1 竹内敏晴の「心体」感覚

 「弓道」とは単なる的中てではない。いや、的に矢を中てること自体は間違いではないが、究極的な目標はそこにはない。弓道とは精神修養の場である。それは弓道部員の一人として弓道に携わっていた高校生のときに、私が心で感じた身体経験そのものだった。

 弓道は的に中ててなんぼ、外したら終わりと思われるかもしれない。たしかに試合では的中数がはっきりと勝敗を分ける。また仮に手元が数ミリ狂っただけで、的に当たるころにはそれが十センチ以上の狂いになるほどの精密な技芸であるため、まさに一瞬の失念ですべてが決まることもしばしばである。だから選手はみな極限まで集中力を高めるために日々鍛錬を積んでいる。しかし、ここで考えたいことは、それは副次的なものに過ぎないこと。矢をつがえ弓を引く動作が的に中てるために存在するのではない。むしろその逆、すべての動作とそれによる精神の変容過程のために的があり、試合がある。つまり、弓道の目的はこの一連の動作の中で「こころと「からだ」が融合することにある。

 「こころ」と「からだ」の融合とはどういうことなのか。それは弓を引く以前からすでに起き始めている。当時、私が高校の弓道場で練習していたころ、練習開始時には部員全員で集りあいさつをしていた。弓道は礼を非常に重要視しているのだが、これも精神統一のためのものである。また、あいさつの直後に毎回1分間の黙想を行う。その当時はこれといって深く考察することはなかったが、今振り返るとこの黙想は「こころ」と「からだ」をつなぐために一度心を無の状態に帰すためにあったものだと気づいた。弓道では邪念は手元を狂わせ、体全体を狂わせる。的に中てようとする意識がかえって矢を的から遠ざけるのだ。的に意識をさらわれてしまえば、それが射形を崩す原因となってしまう。逆を言えば、正しい射形と精神状態で弓を引けば、的が見えなくても的を射抜くことも可能だと言われている。「からだ」に関して深い考察をされている竹内敏晴氏が弓道について述べることは、まさにその正しいあり方を示していると思われる。

私の場合は、弓を引いて、その記録を持っているけれども、的に当てるために弓を引いていたわけじゃないということに、その時に非常にはっきり気がついたんです。(「竹内敏晴ノート」、竹内 2010, 112-113)

竹内氏が上で述べているような感覚を常に持ち続けることは非常に難しいことである。試合ともなれば、中てよう中てようとする意識が高まることは自然なことですらある。しかし、一見矛盾しているような竹内氏のこの記述も、弓道を半ば極めたものであるからこそ述べられた感覚なのではないだろうか。

自分の実感からいうと、左手に弓を握って前へ押し、右手を弦で引っ張るでしょう。すると世界が水平に無限に広がっていくわけです。それで広がり広がって、あるところでビューっと矢が飛んでいく感じだった。水平だけでは駄目で、もちろん垂直にもやるわけだけど、五重十文字といいますが、無限に広がっていってはじめてぶち当たるある存在感みたいなものがあって、それがスポっと開いたとたんにパーンと当たっているということです。(「竹内敏晴ノート」、竹内2010, 112-113)

弓道では体を外へと徐々に開き、矢を引っ張ると同時に弓を押す動作も行われる。「会」と呼ばれるこの動作は、外見上ではほとんど識別できない体の内側の動作である。「世界が水平に広がっていく」という表現は、竹内氏の「からだ」の中で行われていた動きが彼の「こころ」とリンクした状態を表しているのではないだろうか。弓は腕で引くものではなく、こころで引くものと言われるのもこの状態を指した表現である。

 矢を打ち終えたあとも、こころと体の融合は終わらない。打ち終えたあとの動作に残心、または残身というものがある。「心」と書いても「身」と書いても良いが、その際にこの動作がこれら両方の要素を備えているという認識を持っていなければならない。矢を打ち終えた後数秒間そのままの姿勢を保つこの動作は、心身ともに一息置く役割を持っている。この段階を終えて初めて、心体の融合が解かれる。的を射る位置に立ち、矢をつがえ、的を射抜き、最後に心体ともに休息を与える。この一連のプロセスの中でどれだけ集中力を保てるか、またプロセスをいつまで続けられるかが弓道の課題になる。高校生だった当時の私のような素人では到達しえない境地ではあるが、そんな中でも時たまに感じられる、いわゆる「神懸かり」的な状態が無いわけではなく、その場合はしっかりと的を射抜いていることが多い。それをどうやって成すかということについて説明することは非常に難しいし、他人がそのような状態になったことを説明してもらうときも、なかなかうまく表現できないようである。それは心的・身体的な状態を言葉で表すことがそもそも難しいわけであり、その一方でその状態をできるだけわかりやすく叙述している竹内氏については、弓道の腕前はもちろんであるが、ことばの表現力に関しても非常に卓越していると言えるだろう。


2.2 英語教育の「心体」感覚

 弓道における心体感覚を簡単に要約することは難しい。もちろん竹内敏晴氏にとってですら、その詳細を明確に記述することは難しいはずだ。なぜなら心体感覚はそれを実際に体験することが最も明確なアクセスになるのであって、言語化すること自体本来ナンセンスなのかもしれない。しかしながら、それを自分なりに分析して言語化することは、自分自身の中でその状態を再分析し、さらなる心体感覚の体験への橋渡しになりうる。それは何も弓道に限ったことではないだろう。かなり唐突ではあるが、この心体感覚という一見不可解な現象は英語教育の中でも体験することができるものではないだろうか。

 私は自分が中高生の時分に英語科授業の中で心体感覚というものを体験したことがない。そもそもスピーキングの機会が少なかったし、やはり自分が発していることばと自分が考えていることがリンクしていなかった。私たち生徒の口から発せられていたのは、教科書から引用した定型文を必死に覚えたものばかり。自分が伝えたいことを言語化するという感覚は無かった。もちろん、言語材料が少ない初期段階ではある程度機械的な定型文再生も必要であると思う。そこから英語の文法やリズムを学ぶこともできるので、最初の訓練としての段階ではあながち無碍にはできない。しかしそれだけでは教育にはならない。著書『小学校からの英語教育をどうするか』で柳瀬先生が述べられているように、まさに私たちが行っていたのは「引用ゲーム」だったのだ。心と体がリンクしていなので、ことばを発しても実感が無い。本来言語は自分が伝えたいことを伝えるため、意思疎通のために生まれたものであるのに、伝えたくもないことを口から発しなければならない。これでは定型文しか使えないようになるのはもちろん、そもそもの動機づけに欠けてしまっている。これは英語の4技能すべてにあてはまるものである。しかし、もちろん現場で働いている教師の方々がこのことを必ずしも軽視しているわけではないだろう。これには授業の形態、評価のシステム、学校制度など様々な要素が複合的に影響している。簡単に解決できるものでもないだろう。ではどうするか。

 私は現場で働く教師ではない。ただの学生である。したがって、述べることがある程度机上の空論に成り得ることはやむをえない。心体の融合などといっても、しょせんは理論上の考察に過ぎない。しかしながら、そんな私にも確実に訴えられることが一つある。それは自分自身の心体感覚である。英語を使用するにあたって私が体験した、言語使用に伴う喜びとしての心体感覚である。私自身が伝えたいことを英語にできたときの、聞き手または読み手に伝えられたときの感覚においては、心と体は分離していない。本当の言語使用は身体経験を伴うものである。ただ音としての英語を発するわけではない。すべての感覚を総動員してはじめて言語使用は行われるのである。学習者に英語使用の持つ楽しさを生徒に味わってもらうには、まず私自身が持つこの経験を常に忘れないようにしなければならないと考えている。その体験が無ければ、それを生徒に体現してもらうためにはどのような方法が適切かイメージしづらいだろう。しかしイメージだけでも頭の片隅にあれば、それを下敷きに授業を考えることができるかもしれない。

 私は心体感覚についてまず弓道を、次に英語教育を端的に考察した。一見全く異なるこの二つの領域だが、「こころ」と「からだ」という点に関して言えば、実は共通点が挙げられることがおわかりいただけると思う。心と体が乖離しているときは、弓道も英語教育も成功しない。この人間が持つ二つの重要な要素、心体という根源的な要素を軽視してはならない。ただの的あて、ただの引用ゲームは人間の営みとは言えないのである。しかし、かくいう私自身もこの問題に関しての考察においては、そのスタートライン付近でうろついているにすぎない。高校生だった私が体験した弓道の心体感覚の断片を、うまく英語教育に応用していくことを私の今後の課題としたい。







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ポートフォリオ
~第6セメスター「コミュニケーション能力と英語教育」を通して~


教育学部第三類英語文化系コース3年 AS


0.    はじめに

このポートフォリオは第6セメスター開講「コミュニケーション能力と英語教育」(指導教員:柳瀬陽介教授)の講義を受講して私の思考を整理したものです。柳瀬先生はもちろんのこと、他の先生方、この講義の受講生、他の広島大学生、その他の学生にも自信を持って公開できるような、また自分自身(5年後10年後の自分も含む)が何度も読み返したくなるようなポートフォリオを作成することを目指しました。ポートフォリオの作成にあたって、この講義で学んだことの全てを整理しようとすると膨大な量になるであろうことが容易に想像し得るため、特に「何年経過しても考え続けたい」と私が思った議題を抽出して文章を書きました。(Bb9上の予習や振り返りで過去に書いたことの繰り返しは意図的に避けています。)

また、このポートフォリオに対してはA-(エーマイナス)の評価を希望いたします。


1.    英語教師の責務とは何なのか

 英語教師の責務について考察するにあたり、まずは私自身の教育実習における体験を振り返ります。私が教育実習に臨むにあたり意識していたことは「たった数回の授業であっても、いかに生徒たちの英語力を向上させるか」ということでした。教育実習のシステム上、実習校一校につき、与えられる授業回数は5回です。(期間は2週間)加えて、その5回の授業において担当するクラスというのは全て異なっていました。要するに毎回の授業は、私(教育実習生)からすれば「初めて対面する生徒たち」であり、生徒たちからすれば「初めて見る実習生の先生」であったということです。ですが、授業を担当する教師が附属学校の先生であっても教育実習生であっても生徒にとってみれば1回の授業ということに変わりはありません。だからこそ、その1回の授業の中でいかに生徒の英語力(単語・文法の知識や発音など)を向上させるかということに拘っていました。しかし、私には「英語を通して何かを学ぶ」という視点が欠如していたのです。強いて言うなれば、英語を通して英語のみを学ぶことを強制していたことになりますが、私の行った授業でたとえば、今まで自分が学んできた言語である日本語に対する興味が湧いてきたという生徒は皆無だったのではないかと想像します。外国の文化に触れることで自国の文化に立ち返ることがしばしばあると思いますが、言語も同様だと考えます。ですが、教育実習中の私はAll Englishの授業形式も相まって英語を英語として切り離し、独立させていました。ましてや、学ぶこと自体への今興味が湧く(learn to learn)ような授業とは到底言えませんでした。英語教師の責務を考えた時に、英語力をつけさせることは確かに重要なことです。(英語教師ですから・・・)ですが、それだけでは視野が狭いと言えるのかもしれません。英語の授業を通して、生徒に学ぶこと自体に興味を抱いてもらえるようにするのも英語教師の責務ではないかと考えるようになりました。


2.    授業において見られる「計算主義」に関して

 「コミュニケーション能力と英語教育」の講義の中で柳瀬先生による学校教育においては計算主義の傾向が強すぎるというご指摘を受け、改めて計算主義について考察しました。確かに教育実習中では授業の指導案、さらには細案を作成することに膨大な時間を費やしました。それは教育実習のシステム上、教育実習生に要請されることでもありましたし、なにより私自身が指導案や細案を作成しなければ不安だったのです。(中学校や高等学校で教壇に立つという経験の少なさから)しかし、先生もおっしゃるように授業案どおりに綿密に授業をやろうとするとたいてい上手くいかないということを自身の体験から痛感しました。特に細案まで作成すると、そこには「自分がこのような発話をする、生徒はこのような応答をするだろう」という構想が台詞のように全て記載されています。(それらを作成するのにたいそうな苦労を味わったわけですが・・・)そのため、生徒からの想定外の発言に対して反応できないという場面が多々ありました。予想外の出来事に対応していくことで授業が進化していくということを受容することができなければ、自分の自信の無さを細案で誤魔化してしまうような英語教師になってしまう可能性があると考えるようになりました。


3.    専門家のTrapにまつわる警告

 専門家のTrapに関しては、このポートフォリオをおそらく読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に警告をするつもりで考察したいと思います。現在、学部での3年分の勉強を終えようとしている私は英語教育に関して専門家になりつつあると言ってもよいと考えています。1年後であれば学部での勉強をすべて終え2年後以降であれば英語教員として現場に出ているであろうと思いますが(願いますが)、その頃には今よりも高度な専門的知識を有していなければなりません。ですが、英語教育に関しての専門性を高めれば高めるほど、ある意味でその視野は固定されていきます。そして大学在学中に4年間学んだことでもって英語教育の現実を全て知った気になるのも愚の骨頂だと言えるでしょう。だからこそ、「未来の自分、現場に出て自惚れちょったらいけんっちゃ!」とあえてこのポートフォリオには相応しくないであろう口調で未来の自分に警告します。専門的な勉強をするのはもちろん奨励されるべきであり、専門家としては当然のことですが時折、柳瀬先生の「専門家はどれだけ自分の見識が狭いかを理解している謙虚な人」という言葉を思い出すべきでしょう。


4.    ウィトゲンシュタイン的に技能を考えるということ

 昨今の英語教育において、四技能をバランスよくということが叫ばれるようになってきていますが、そのことからも分かるように、まるで「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」の四つの技能区分しか存在しないかのような論調になっていると感じます。事実、私も受験生であった頃はそのような区分に関して何の疑問視もしていませんでした。しかし、柳瀬先生がおっしゃるように「投げる」「打つ」「走る」という要素を全て足しても「野球」が完成するわけではないのと同様に「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」四技能全てを足しても「英語」が完成するわけではありません。そのためそれぞれの雑多な概念をよくよく観察しなければならないでしょう。例えば、スピーチはスピーキングの技能だと考えるとそれはあまりに観察不足だと言えるのかもしれません。スピーチに関して言えば、メモを取るといった行為やスピーチの準備段階でマテリアルを読み情報収集するといった行為を無視して単純にスピーキングの技能だとひっくるめることはできないと考えます。スピーチをスピーチとして観察することがこの場合は必要になってくるのです。


5.    「色々な音を拾い上げる」ということ

 内田樹氏のいろんな音を拾い上げることがコミュニケーションであるという理論に関して考察したいと思います。現実世界のやり取りを鑑みるとコミュニケーションには様々な「音」が存在しています。例えばどんなに言葉上では「元気だよ」と言っても普段よりも小さな声でボソボソと、しょんぼりとした低いトーンでその言葉を発したとしたら、実際は言葉と真逆の状態であるかもしれません。要するに同一の言葉でも、本当に元気な「元気だよ」もあればそれを偽った「元気だと」もあるということです。だとすれば、英語におけるスピーキングを流暢さ(Fluency)・正確さ(Accuracy)・複雑さ(Complexity)といった観点のみで測ろうとするのはそのような現実世界に即しておらず、乖離してしまっていることになるのではないでしょうか。同様に現実世界のやり取りはメタメッセージにあふれています。例えばどんなに恐ろしい脅迫めいた言葉を放ったとしても、その表情が笑顔でありリラックスした態度であれば、それは冗談であると判明します。この場合メタメッセージは非常に強力な役割を果たしており、メッセージ(言葉自体)よりも強いことが分かります。しかし、今日の英語教育ではメッセージばかりが取り上げられメタメッセージに焦点が当てられるということは滅多にないと言ってよいでしょう。(I see.という表現を教える際もそのメッセージの側面のみが切り取られています。) このことから英語教育では現実世界と反してメッセージの方がメタメッセージよりも強力であるかのように扱われていることが分かります。この現実世界との反転を是正するために英語教師自身がメタメッセージの重要性を教える必要があるだろうと考えます。


6.    教科書や例文の捉え方に関して

 教科書に対する認識として、教科書で扱うやり取りは実際に現実世界で起こり得るものだと考える英語教師は少ないであろうと思います。現に私は中学生であった頃、実際に起こり得るものだというよりは、教科書という独立した世界の中でのやり取りだとう印象を抱いていました。そのような印象しか抱かなかった原因の一つは現実世界とのリンクを教わらなかったからであると分析します。例文に関しても同様に、文法を教えるためのものであり現実世界とは乖離していました。教科書という独立した世界の中でやり取りが行われ、現実世界とは切り離されて例文が扱われ、それらのものが独立した定期テストという形で出題され、その得点が評価されていました。当時の私にとって現実世界から見た教科書の世界はまるでパラレルワールドであるかのようでした。「教科書のパラレルワールド化現象」を食い止めるにはそれに対する英語教師の認識から改めていかなければならないと考えました。(教師の認識が生徒の認識へと正の方向にも負の方向にも連鎖しやすいと考えるからです。)


7.    英語科における思考力とは何なのか?

 近年の学校教育においては「思考力・判断力・表現力」を育むことが重視されていますが、英語科における思考力とは何かを考えた時に、それを定義することは中々難しいことであると考えます。私自身は「何らかの基準や根拠に基づいて論理的に物事を考え抜く力」であると考えていましたが、「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において柳瀬先生のおっしゃった言葉が私の定義を打ち崩すくらいに強烈なものでした。それは、思考力とは(教師さえも予想しない)新しいものを生み出す力であるというものでした。とある研究授業での、鯉のぼりを英語で説明する際に生徒の口から咄嗟に出た”a big fish swimming in the sky”という表現は私の印象に残っていますが、このような表現を生み出す力こそ思考力と言えるのかもしれません。また、柳瀬先生は思考力とは自分の経験と結びつかなければならないともおっしゃいましたが、この発言をした生徒は鯉のぼりに関する自分の経験を思考と結びつけています。英語教師は固定的に定まった知識としてのCompetenceだけをTrainingによって重視するのではなく、思考力としてのCapacityもEducationにより重視する必要があると考えています。確かに上記の独特な表現は教科書にも載っていなければ、文法やマークシートで測ることもできません。しかし、思考力というものをマークシートで測ろうとしたり、点数化しようとしたりしているのが今後の英語教育界隈の動向であるとしたら、思考力の本質を見落としている(もしくは気づいているがあえて目を瞑っている)と言えるのではないかと考えました。


8.    英語力と英語コミュニケーション力に関して

 英語力と英語コミュニケーション力に関して、英語教師の視点で考察することはAll Englishでの授業が求められる現在の英語教育では非常に重要なことであると考えます。似て非なる両者の考え方を履き違えるのは危険でしょう。英語力による文法説明という場面を考えた時に、まるでネイティブスピーカーのようにペラペラと英語で解説できる力がそれに該当するかと思います。このようなスキルは時には必要でしょう。私は教育実習中のとある授業で、Warm-upや導入までを英語で行い、文法説明の段階に移行すると日本語に切り替えました。そのようにした理由は、英語による文法説明は生徒にとって理解するのが困難であろうと考えたと同時に、私自身にとっても英語による説明が困難だという考えが頭をよぎったからです。しかし、今まで私(実習生)の英語を聞き、生徒自らも英語を話すという場が出来上がっていた状況で、日本語が使用言語に切り替わると急に生徒の士気が低下していくのが見て取れました。(英語による流れが日本語により途切れると生徒は英語を使用したいと思うモチベーションが低下するというフィードバックを指導教員の先生から頂きました。) このような状況下では上記の英語力が必要なのかもしれません。しかし、英語力による文法説明は生徒の存在を排除した独りよがりの指導であるのではないでしょうか。英語教師に必要なことは英語コミュニケーション力に支えられた指導ができるとうことだと考えます。英語コミュニケーション力というのは相手の表情や反応を見る力です。「みんなが分かっていなさそうな顔をしているな・・・この表現に言い換えてみよう。」などと試行錯誤することは生徒の存在を重視していると言えます。All Englishの授業が求められている今日だからこそ、英語力と英語コミュニケーション力を混同するべきではないと考えました。自分がいかに英語力を発揮するのかという問題といかに相手の興味・反応によって表現や内容・方法を臨機応変に変えるのかという問題は別問題なのです。


9.    Different but equalの考え方を目指して

 私は「コミュニケーション能力と英語教育」の講義でこの言葉に出会えて良かったと感じています。今の英語教育が目指すべきはこのまさにDifferent but equalの状態ではないでしょうか。そして、おそらくこのポートフォリオを読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に向けて再度警告を発したいと思います。私は中学生の時にバスケットボール部に所属していたため、例えば体育でバスケがあった時やクラスマッチが催された時にはそれなりの活躍ができました。しかし、コートには多くのバスケ未経験者がいて彼らも未経験者ながら精一杯コートを走り回っていました。そこに違いはあっても権力差はありません。そのコート場にいた者がみな同じバスケという競技をプレーしており、それを楽しんでいたというだけなのです。これがサッカーの場合だとどうなるでしょう。私はサッカー経験者ではないため、決して上手とは言えませんがそれなりにピッチを駆け回ります。サッカー経験者はその経験を活かしそれなりに活躍をします。このケースも先ほどと同様だと考えます。つまり、そこに違いはあっても権力差はありません。これを勉強で当てはめてバスケは英語、サッカーは数学とでもしましょう。先ほどのスポーツの例からも言えるように英語においても数学において元来はDifferent but equalであるはずなのです。しかし、現在の英語教育においてはsame but deviantの考えが先行しているように感じます。英語を学習しているという点では同じだが、そこには権力差(偏差)があるというものです。確かに英語ができる生徒とそうではない生徒とで進学先等は変わってきます。それは英語教育においてsame but deviantの考えが蔓延しているからでしょう。だからこそ、このポートフォリオにそぐわないであろう口調で未来の私自身に向けて再度警告を発します。「未来の自分、生徒をsame but deviantに扱いよったらいけんで!」


10.    英語教育における「一人でできること」と「一人ではできないこと」に関して

 「コミュニケーションと英語教育」の講義の中で印象的であった議題の一つです。英語教育において自分を表現したことがあるか?と問われたら高校生までの私だったらまず間違いなく校内順位や偏差値といったワードが出てくることでしょう。「テストで○点取って校内順位において△位だった」「模試の偏差値が□だった」「英検で◎級を取得した」という具合に自分を表現していただろうと想像します。しかし、このように文字に起こしている最中にも気づきますが、上で表現されている自己は私という人間である必要はなく、代替可能な自己なのです。テスト・模試・資格試験の類のための勉強は一人でもできることです。私が中高生であった頃は一人でもできることをクラスの全員でやっていました。要するに教室という空間にクラスメートはいても、やっていることは「一人でもできること」だったのです。だからこそ、田尻実践における”My Treasure”スピーチのように「一人ではできないこと」を実感する場が必要なのだと考えます。クラスメートが自分のことを聴いてくれているという安心感がある中で、自分という自己を表現することは「一人では決してできないこと」です。教師がそのような場を提供し、英語がその橋渡しになるとすれば、学校において英語を学ぶ意義は生徒にとっても理解し得るものになるだろうと確信しています。


11.    おわりに

 これまで「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において私が学んできたことの中でも、とりわけ「何年経過しても考え続けたい」と感じた議題を抽出し思考を整理し文章としてアウトプットしてきました。このポートフォリオを締めくくる言葉として、第10回の講義で柳瀬先生がおっしゃった言葉を拝借いたします。「現在の英語教育が全て完璧に上手くいっているとは言えない。全て上手くいってはいないからこそ考え続けなければならない。」先生が訴えかけているように、学部3年生を終えようとしている今も、広島大学を卒業するであろう1年後も、そして英語教員として働き出してからも、自分の頭で(自分の感性で)英語教育の向上について考え続けていかなければならないと私も考えます。このポートフォリオはその際の大きな手助けになるであろうと考えると、「書いてよかったなぁ」と素直に感じています。全13回にわたり刺激的な講義と思考する機会のご提供をありがとうございました。















2016年3月8日火曜日

統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察― (学会発表スライド)



きたる3/12(土)と13(日)に武蔵野美術大学で開催される言語文化教育研究学会で口頭発表をします。



言語文化教育研究学会
 http://alce.jp/

第2回年次大会 総合案内 (PDF)
http://alce.jp/annual/annual2015full.pdf

予稿集 (PDF)
http://alce.jp/annual/proceedings2015_all.pdf



以下は、私の発表 (統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察―)のスライドです。ご興味があれば御覧ください。







上記の予稿集のうち、私の発表部分だけを掲載したワードファイルは下からダウンロードすることができます。



私の発表はともかくも、この学会は言語教育での質的研究もずいぶん進んでいます。今はまだ日本語教育の発表が多いですが、英語教育、その他の外国語教育、国語教育など、広く言語教育一般を対象とした発表を求めている学会です。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご参加ください。





関連記事

統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察― (学会発表スライド)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/blog-post_8.html


統合情報理論 (Tononi and Koch 2015) の公理、および公理と公準をまとめた図の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/tononi-and-koch-2015.html


統合情報理論 (Tononi 2008) の哲学的含意の部分の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/11/tononi-2008_16.html


統合情報理論 (Tononi 2008) において、意味について言及されている箇所の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/11/tononi-2008.html

統合情報理論: Tononi (2008) の論文要約とTononi and Koch (2015) の用語集 (表1) の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/tononi-2008-tononi-and-koch-2015-1.html

Tononi (2008) "Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto" の「数学的分析」の部分の翻訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/tononi-2008-consciousness-as-integrated.html

統合情報理論を直観的に理解するための思考実験
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/blog-post_7.html

クリストフ・コッホ著、土屋尚嗣・小畑史哉訳 (2014) 『意識をめぐる冒険』 岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/10/2014.html

2016年3月7日月曜日

当事者研究とオープン・ダイアローグにおけるコミュニケーション (学生さんの感想)



以下は「コミュニケーション能力と英語教育」の最後の授業のための予習と、その授業の振り返りのコメントの一部です。この授業では当事者研究とオープン・ダイアローグにおけるコミュニケーションについて考えることを目標としました。

またもや親バカのようなコメントとなりますが、学生さんは深いことを書いてくれていると思います。これらのことばを私が丁寧に読み取ることが、私に課せられた最低限の責任かとも再認識させられました。





***予習コメントの一部***

■ 
  今回の予習を行う中で、生徒が本当に必要としているコミュニケーションが何か見えてきたように思います。

  塾で教えている時に、何かを質問したり、分からないところを聞いたりしても、何の反応も示してくれない生徒に出会った経験があります。たまに反応してくれる時がありましたが、その時はとても不安そうな小さな声で話していました。私は、まず、この子のことを知ろうとせずには信頼関係も築けないと思ったので、好きなことや部活についてなど質問して聞き出す努力をしました。しかし、その子は私がいろいろ聞き出そうとすればするほど、黙り込んでしまい、どうしたらいいのだろうとわからなくなってしまったことを思い出しました

 予習記事の中に「コミュニケーションとは自分の言葉を通じて自分を語ることである」とありました。この記事を読んだ時、自分の行動が相手にとって、コミュニケーションを行うことを苦しくさせているのだと気付きました。なかなか言葉を発せてもらえないと、焦って次々質問してしまっていましたが、時間をとって相手が何か伝えようとするのをしっかり待つことがとても大切なのだと思いました。
  
 その待っている間には、相手にわかってもらえるのかという不安やどういう言葉で伝えたらいいのかなどという複数のことが渦めいていると思います。その時、自分が相手の言おうとしていることを勝手に想像して言ってしまったり、すぐに答えの選択肢を与えてしたりしてしまうと、相手は自分の気持ちを無視されたと感じてしまうかもしれないと思いました。コミュニケーションを通じて、相手のことを理解するために、相手を待つ時間や聞く姿勢を大切にしていきたいです。

 教師になったら様々なタイプの生徒と出会うことになると思います。中には問題行動を起こす生徒などもいるでしょう。ただ、いじめはだめだ、非行はだめだと表面上で怒ったり、教師の視点からだけで主張したりするのではなく、十分な時間をとって、一人一人の生徒の話にしっかり耳を傾けていきたいと思いました。生徒が本当の自分を見つけられるように手助けのできる教師になりたいと思います。
 



  「当事者研究」や「オープンダイアローグ」について読み、コミュニケーションは他者と関わることだけれど、他者だけではなく私たち自身にも様々な影響を与えるのだと思いました。

 「病気にはある意味で人間が根源的に抱えている,人間としての弱さなりから生まれてくる,とても大切な安全装置みたいな意味をもった部分があります。」とありました。病気や弱さがあるからこそ人はそれと向き合い、乗り越えようとすることで自分らしい生き方を見つけていくのではないかと思います。

  最近、「最高の人材の履歴書が必ずしも理想的でない理由」というある会社で人事部長を務めるレジーナ・ハートリーさんのスピーチを聞きました。そのスピーチは、エリートがたどるような道ではなく、様々な困難を乗り越え、寄り道をしてきた人の話をぜひ面接で聞いてみてください、というようなことが述べられています。「米国では調査対象となった 起業家の35%が 読字障害を持っていたのです 驚くのは心的外傷後成長の経験者である。これらの起業家の中には自分の学習障害は長所になっていて『望ましい欠陥』なのだと考えている人がいることです。・・・ 彼らはトラウマや苦難を自己形成の主要な要素として受入れるとともにそのような経験がなければ成功に必要な力や根性は身につかなかったかもしれないことを理解しています」

  自分自身の弱さを知り、どう苦しまないのかを考えるのではなく弱さを弱さとして受け容れ自分らしく生きていこうとすることは、こういった障害をもった人だけではなく多くの人にとって大切なことだと思います。学校の中では進路についての理想を語るばかりではなく、それぞれが自分の弱さや苦手なものを知り、決してそれは悪いことではなく生きていくためには大切なものであり、どう乗り越えていくのか、という過程を示唆することが大切ではないかと思いました。

  そして、そのためには「当事者研究」にあったように言葉にして自分を語るということが重要であると感じました。これまで、コミュニケーションというのは他者とつながるためのものだと思っていましたが、その大元をたどると自分自身と向き合うことである、ということがわかりました。「当事者が語るということ」の中で、抑圧的な親とその子供の会話の例が挙げられていましたが、子供の声に耳を傾けないということはその子供の言葉や表現することを奪ってしまうだけではなく、その子供が感じようとすることにも制限をかけてしまうのではないかと思いました。これまでの授業でもあったように、子供たちの発する声や言葉に耳を傾けることの大切さを改めて感じました。



  べてるの家のコミュニケーションの過程は教育的な視点から考えて、学べることが多くあると感じました。学校では生徒を全体としての生徒として教師との権力差を用いてコントロールしようとすることが多々あります。生徒は「自分の言葉」で語る場面が少なくなり、定型的な発言しかしなくなり、授業におけるコミュニケーションがなくなっていきます。べてるの家での取り組みは、その逆の方向性であると考えます。まず「言葉の獲得」ですが、自分のことを自分の言葉で語るというのは自身のアイデンティティーに関わってきます。言葉を獲得する部分から始めることで、「定型的な発言」からの脱却をし、自分のことを自分で語る言葉を獲得していくことが先決であると納得しました。

  次に「関係の獲得」です。獲得した言葉を用いて他者との関係を築き、広げ、深めていきます。べてるの家では「ミーティング」という時間でこの関係性が築かれています。この時間が自己表現と共感、支え合いの場となり、関係性をつくるきっかけになっています。教育においても(特にコミュニケーション能力の育成を謳っている英語教育ならばなおさら)このような関係性を築くための「場」の設定が重要になってくるのだと思います。授業で定型的に教えた表現をペアで練習するといったようなものではなく、それぞれが自分の言葉で語り合う場を作ることが出来れば、それこそがコミュニケーションの授業といえるものではないでしょうか。教師の役割はその「場」をいかに整えていくかというところにあるのだと考えました。そうして語り合いが始まれば、そこにアレントのpower、自発的な活力が生まれ、それが英語力を含めた様々な能力にプラスの影響を与えていくのだと考えました。



  今回の予習記事を読んだ中で最も印象的だったのは、「べてるの家」での言葉を獲得してゆくプロセスです。これは「べてるの家」にとどまらず、我々にも当てはまるからです。まず当事者が自分の気持ちに気づき、それを言葉として表現できるようになるところから始まる、という点に共感できました。例えば人間が強烈な恐怖などの現実の壁にぶつかるとそれを脳が勝手に押さえつけようとする、という事は聞いたことがあります。そのような状態になってしなった人にとって、その傷を再度えぐるようなことは非常につらい事だと思います。その時にそれを助けるのが、下野さんの言う周囲の環境なのだと思います。学校でもなかなか自分の感情を表現したり、気持ちを伝えたりすることができない生徒はいると思いますが、教師や保護者、クラスの生徒がどのように接するかでそのような生徒が自分の気持ちを表現できるようになるかどうかが決まるのではないでしょうか。自分の中にも、言葉としては知っていても実際にその言葉をどのように使うかを本当は知らない言葉があるのでは、と気づき始めました

  そして、そのような言葉を獲得するための人間関係もおおいに納得できます。先日友人三人と飲みにいき、お互いの今後の進路や教育に対する考えなどを語りました。この時まさに人間関係から自分の中の、あるいは他者からのことば、ことばがまとまってできた表現、表現がまとまってできた考えがあぶりだされたように思います。同じような境遇の仲間という関係があった上で自分の中にもやもやとしていた概念のようなものがことばとして表出された時なんともいない新鮮な気分になりました

  今回の体験からも自分から全力でことばを発するという事をもっと意識して行おうと思いました。



  今回は、「べてるの家」関連図書5冊の内の1冊である『降りていく生き方』(横川和夫)で述べられている「当事者性」に関して考察を深めました。横川氏による「よく考えてみると、私たちも日常生活のなかで、当事者性を無視されたり、ないがしろにされたりしているのではないだろうか。」という指摘はあまりに重くガーンと私の上にのしかかりました。こと学校教育の場では、確かに学習者がどんなものに関心を持っており、何を学びたいのかという当事者性はしばしば軽視される傾向にあると考えます。小学校に入学する際も、中学校に進学する際も履修しなければならない教科・科目は決まっています(決められています)が、たとえそれら以外の分野に関心があったとしても学校ではその分野の授業をしてはくれないでしょう。(私は義務教育で例えば恐竜の授業・恐竜のテストといったものを受けたことはありません。)

 加えて、横川氏は「興味や関心があるなしにかかわらず、教科書にもりこまれた内容を画一的に教え込む授業が進められている。」と痛烈な批判をしています。英語教育で考えるならば、英語に一切の関心を持たない学習者(もしくは「英語なんか嫌いだ」という負の関心を持つ学習者)に対しても英語の授業・英語のテストは行われます。これらのことから、小学校に入学した時点で既に学ぶべき教科は指定され、たとえ関心がなくても勉強を強いられるとしたら長い年月をかけて当事者性は奪われていくことになります。しかし、私が小学生であって頃は国語・算数・理科・社会等々を勉強することに何の疑いもありませんでした。自分が気づかない内にジワリジワリと当事者性が奪われていくことが実に恐ろしいことなのかもしれません。

 横川氏は先の具体例に加えて、早期教育に力を入れる保護者の例を挙げています。子どもの将来を思って、塾に通い詰めにさせることが実はその子どもの当事者性を奪っているというのはなんとも皮肉的だと考えます近代社会における「上へのベクトル」は進歩・発展・上昇ですが、この場合の自分の子どもをいわゆる有名中学や有名高校に進学させたいというのも個別具体的な「上へのベクトル」であると言うことができると思います。「上へのベクトル」のみを見据えて目の前の子どもの当事者性に目を向けることができないという保護者が増えているのだとしたら、それは危惧されるべきことなのではないでしょうか。(少子化の煽りを受けているにも拘わらず、都内中学受験者数は例年ほぼ変わらず、盤石な人気を保っていることからも想像することができます。)「当事者性」に関して、教師も保護者も、そして当事者自身も考えていかなければならないだろうと感じました。



  当事者研究の中での『「人間とは弱いものなのだ」という事実に向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。』という言葉に強い印象が残りました。フィンランドに留学している時、フィンランドの教育方針には、’Every student needs some help.’という考え方が根本にあるという話を何度も聞きました。日本とは違い、国費の多くを教育にかけているフィンランドでは、約20人の1クラスが2つに分かれたり、さらに支援が必要な生徒は違う教室での学習や場合によっては違う学校に行ったりと一人一人に合った支援が行われていました。誰もが支援を必要としているという認識から、誰もが自分の「弱さ」を認め、その中で何ができるのかを考えることができていたのだと思います。日本では、支援を必要とする生徒は「特別」であり、あれもこれもできないからというように思われがちです。誰もが持っている「弱さ」を認め、そこから可能性を見つけ出せるような環境を整え、自ら自分の「弱さ」を見つけられるようにすることが必要なのだと感じました。

 またオープンダイアローグに関しては、当事者が自分の思いをしっかりと伝えられるように聞き手の反応、どのような言語を使うかということが大事になってくるのだと思いました。よく、標準語で話すよりも方言で話している時の方が自分の感情を表現しやすいというようなことを耳にします。このことから、専門家たちが、当事者が日常的に使っている言語を自分たちの発言に織り込むように工夫している理由が分かります。よりよい人間関係を構築するためにも、当事者(学校で言うなら生徒)により適切な言語を使用することが必要なのだと思いました。

  外国語である英語で会話をする時には、普段使っていない言語であるため、そこから関係を気付くことは大変なことだと思います。しかしそのような環境でも、お互いに思っていることを伝えられる教室環境を整えることが必要なのではと感じました。



  今回の記事では、極限状態の「当事者」が語る言葉について考えました。

  教師の仕事は、英語を教える以前に、生徒との関わり合いが土台となります。生徒は実に様々で、今回の記事のように、自分の語る言葉に抑制をかけた(もしくはかけられた)生徒も少なくありません。英語教育について学ぶうえで、このようなことについて考えるのは必要不可欠であると感じました。

  問題を抱えた当事者がそれを解決しようとするとき、周りとの関係が必要であることは、私たちが周りとの関係で自我を保っていることに等しいと思います。私たちは、一人ぼっちでは自分のことがわかりません。他者との関わり合いの中で、自我を育成・維持することができています。よって、当事者の問題を解決しよう と思った際、まずしなければいけないのは、当事者との関係づくりであると考えます。当事者との関係を築いて、当事者が自身の言葉を話すことができるように なる第一歩を手助けする必要があります

  このような極限状態は自分に関係ないと思いがちですが、自分の身にも案外簡単に起こるものなのではないでしょうか。私たちの他者との関係は目に見えないもの なので、強い関係でも一瞬にして壊れてしまうこともあります。そんな時、私たちはたとえ短時間でも、自分を見失ってしまったり、自分の言葉を抑圧してしま うことがあります。そんな時助けてくれるのはやはり他者の関係による手助けなのですが、こんなことを繰り返すうちに、他者との関係は非常に繊細なものであ ることに気が付きます。しかし、だからこそ貴重で、いつも大切にしなければならないものなのだと思います



  アレントの「活動」「語り」に繋がるものとして今回の予習記事における「当事者研究」「オープンダイアローグ」を理解しました。自然科学的手法を万能のものとしてすべての物事に適用していくことは必ずしも正しくないということ、英語教育界においてもしばしば無批判に「(1)普遍性、(2)再現性、(3)定量性(数値化)を要求する」手法が受け入れられていることがあるということについては以前の予習記事でも読んだ覚えがあります。

 当事者研究のなかで、当事者は仲間とともに自己を「研究」することで、奪われた「自らのことばの事実確認的なpowerと行為遂行的なpower」を取り戻します。(当事者が語るということ)当事者たちが、専門家と対峙した際に「自らの状態、自らが誰であるかを表現することさえ抑圧されてしまう」としたら、とんでもないことです。教員と生徒の関わりでこれを考えると、生徒が何者であるのか、どんな状態にあるのかということは教員により権力的に規定されてしまいます。実はこんな場面は、日常のいたるところで見られるものなのかもしれないというのが恐ろしいことです

 言語の持つ権力により、私たちは他者の語りを阻害してしまうかもしれないという危機感は、ことばを教える教師になるならば常に持っておくべきものなのかもしれません



  私には問題行動を起こす児童・生徒と直接対面し解決策を模索した経験はありません。しかしながら、そうした子供たちと話をするときに、やはり私の、他者からの、つまり当事者の外側からの視点で話をしてしまう、ということを想像してしまいます。それはある意味で客観的な視点なのかもしれませんが、それだけで根本的な解決が訪れるわけではありません。まず、子供たちが自分自身の内側を見て、そこから自分自身を一つの対象としてとらえること。その対象化を手助けするのが教師の役目になってくるかと思います。実際に自分自身を対象化して考えることに関しては教師自身、いや人間誰しもが困難を覚えることではないでしょうか

  問題行動を行う子供たちは、もしかするとそのような行動を行うことのない他の子供たちよりもずっと敏感に、詳細に世界をとらえているかもしれませんし、自分自身に正直になることができているのではないでしょうか。しかし、それを彼らが自覚できているわけではないでしょう。そのような自分自身を対象化し、まずは受け入れる。それは他者との対話を通じて行われるため、教師はまず子供たちの声を聴かなければなりません。教師は「こうすればいいよ」と一方的に、専門家の立場から助言を与えれば良いわけではなく、「聴く」ことによって子供が自分自身に気づく場を拵える役目を持っています。それをきっかけに子供たちが自分を振り返って、自分自身で解決策を見いだせることが最も重要なのではないでしょうか。

  また、余談ですが、「聴く」ということは単に耳を使って聞くことではありません。それは「聴」という字を見るとわかります。「聴」には「耳」の他に「目」という字が含まれています。人の話すときは「耳」だけでなく「目」も使わなければならない。話すときはちゃんと相手の眼を見ろ、ということはよく耳にします。しかし、実はそれでもまだ足りなくて、この二つに加えて「心」も必要となります。相手と心を通わせようとする姿勢は聴く行為に不可欠なのです。「耳」と「目」と「心」、これらを総動員して始めて「聴」くことが「十」分になるのではないでしょうか。(これは私が小学校の全校集会で校長先生からお聞きした話に「心」と「十」分のくだりを追加したものです)


■ 
  今回の予習記事を読んで、教育というのは「対等な人間同士のあたたかな営み」なのだということに改めて気づかされました。多くの人が「先生」と「生徒」と教室内を分けてしまったときに、そこには「先生」が上で「生徒」が下といったような格差のようなものを頭の中にイメージしてしまうと思います。いままでの長い教育の歴史から、「先生はえらい。だから先生に従わなければならない。」といったようなイメージがぬぐいきれなのは仕方ないし、もしかしたら不可能かもしれません。

  しかし、これから教師になろうとしている私たちは、教室内の営みは「先生」と「生徒」という立場は異なるものの、同じ対等な人間なのだという感覚をしっかりと持つ必要があると思います。先生は生徒に教えを授けなければならないという使命があるゆえに、多くの先生が生徒を教える「対象」として捉えてしまっているのではないかと思います。僕の感覚として、生徒を「対象」として捉えてしまった瞬間に生徒たちの中から人間的な性質がすべて奪われてしまうかのような感じがします。そして、「対象」として生徒を捉えてしまうことにより、生徒に何かを与えるという行為は出来たとしても、「生徒たちから何かを授けてもらおう」という考えが永遠に教師たちの頭から失われてしまうようにさえも感じます
 
  教師の仕事は確かに「教える」ことだと思います。しかし、生徒たちも教師と同じ1人の人間であり、彼らたちが持っている可能性というのは想像を超えるものであるように思えます。生徒たちは「対象」ではなく「主体」であると記事の中にもありました。教師(そして教師になろうとしている私たち)は「主体」である生徒たちからも学ぼうという姿勢を持たなければならないと思います。そのような姿勢を持たずに生徒の声に耳を傾けようというのは甚だおかしなことのように感じます。

 教師と生徒が対等な人間として、そしてお互いがお互いから学びあう関係性を築くために必要なことが「対話」なのだと記事を読んで私は理解しました。教師が生徒を「対象」とみなしているようでは、コトバは教師から生徒に対して一方通行になってしまいます(教師が生徒たちから何かを得ようとしていないからこのような一方通行になるのだと私は考えています)。教師と生徒間の「対話」がなされることであたたかな人間らしい関係性が教室の中に生まれるのだと思います。
 
 私自身、「対話」のすばらしさは高校時代に身をもって感じました。私は野球部に所属していたのですが、野球だけでなく多くのスポーツがそうであるように、そこでは「対話」が非常に重要な役割を担っています。試合のあとのミーティング、練習後の反省、新チーム発足の際の方針決めなどチーム内で話し合わなければならない機会は数えきれないほどありました。僕のチームは全体で50人ほどいたのですが、全員が全員同じ考えを持っているわけではなく、意見がまとまらずに口論になることも多々ありました。結果、全員が完全に納得する結論に達しないことももちろんありました。
 
 しかし、記事の中に「単一の見解で経験世界を支配しようとするのは極めて危険だと考えられます。私たちは最終解がないままに、互いに耳を傾けあい、お互いに相補いながらなんとか事態を乗り切ってゆくべきではないでしょうか」ともあるように、対話を続けることに意味があるのだと今では理解できます。「結論の出ない長い話し合いなんて無駄だ」という人が多数である今の世の中で、一度立ち止まってこのような考え方をすることが求められているのではないでしょうか。
 
 高校の野球部のとき、答えの見つからない話し合いを何度もしましたが、いまではそれが無駄であったとは全く思いません。その「対話」の中で異なる多数の意見を取り込むことでチームがうまく働くようになったことも確かであるし、何より考えは異なれど、みんながチームのことを真剣に考えているのだということを認識できるきっかけになったからです。
 
 このような経験から、教室内の教師-生徒間の対話ももっと重要視されるべきだと感じます。教室を作り出すのは教師だけではありません。授業を作るのは教師の力だけではありません。一人ひとりの生徒が「こうなってほしい、こうなるといいな」と感じていることが少なからずあると思います。全員が納得する結論には達することは出来ないかもしれませんが、教師が教室を支配するのではなく、生徒との対話を通じてともに教室を作り上げることができるといいなと切に願います







***振り返りコメントの一部(授業全体の振り返りも含む)***


  授業の中で「言葉のあり方に自分が表れている」や「言葉にすることで自分のことを他人にゆだねることができ、それが受け入れられたとき活力が生まれる」という言葉が心に残りました。問題行動を起こす生徒たちは、自分の弱さや悩みを抱えている場合が多いと思います。反抗することによって、教師に助けを求めているのだと思います。生徒の行為一つ一つには、メッセージがあるのだと改めて気づきました。それらをただ否定するのではなく、生徒の思いや悩みを受け入れて、生徒を支援していきたいです。

  また、問題行動を起こして自分の気持ちを表現できる生徒はよいが、それができない生徒はどうだろうと考えました。教室にいる40人を見渡せば、大部分を占めるといっていいのはあまり問題行動を起こさない、また自分のこともあまり表現できない生徒であると思います。表面上は、教師の話を聞いてくれて、他の生徒の邪魔をしない良い生徒として評価される一方で、一番注目されづらい存在です。こういう生徒こそ自分の悩みを内に秘めている可能性があるのではないでしょうか。どうしても問題行動など目立った行動を起こす生徒に目が言ってしまいがちになると思いますが、こういう生徒の様子の変化にも注目し、小さなサインやメッセージにも気付いていけるようにしていきたいです。


  この授業を受けて、コミュニケーションとは何かについて様々な視点から学び、自分の視野を広げることができました。今まで、コミュニケーションとは学習指導要領にあるキーワードということくらいの浅い理解しかできていませんでした。しかし、この授業を通じて、コミュニケーションとは心技体が一体となったもので、相手に伝えたいという気持ちがあってこそ成り立つものであるということを学びました。また、相手の言葉を受け取ったり、言葉で自分自身を表現したりすることで「活力」が生まれることも学びました。それは英語の教科に限ったことではなく、生徒と関わりの中で信頼関係を築くためにも、音楽やスポーツなどにおいても同じで、生きていく上で必要不可欠なものであると学びました

また、この授業のおかげで自分の今までの経験や背景が今の自分にどう結びついているのかについて考えられたのも良かったです。それらと哲学や英語教育を組み合わせて考えることで、今まで点としてバラバラだったものが線になってつながっていくように感じられました

この授業で学んだ様々なことを忘れず、これからの人生においても応用して、生かしていきたいと思います。貴重な学びの機会を与えていただき、本当にありがとうございました。



  私は、今回の授業で学校現場において問題行動を起こす子供について考えました。特に、「学校でキャラ作りを強いられ、自己を抑圧している子供たちがいるということ」について焦点を絞って考えたいと思います。

 「学校」という現場では、必ずしも全ての子供が自分をありのままに表現できる場でないのは私も経験上知っているつもりです(そして教員ももしかしたら学校での顔を作っているのではないでしょうか)。多くの子供はきちんと前を向いて授業を聞くでしょうが、ある子供は問題行動(授業中席を立ったり、注意散漫になっている)を取ったり、ある子供は授業中ぐったりしていたりということはよくあることではないでしょうか。しかし教員や指導者は問題行動を起こす子供の内に秘めた葛藤や苦しみなどに配慮しないまま叱ったり、矯正したりすることは多いと思います。結果、自分を表現できる場を失って学校に来られなくなる子供は相当数いると思います。

 当事者研究で大切なことは、対話を通して、言葉に耳を傾けることであると習いましたが、まさにこうした子供を理解するのにも対話が必要だと強く感じます。例えば、問題行動を起こす子供の中には家庭での不和や、複雑な家庭事情のために家庭でも自己を抑圧せざるを得ない状況にあったり、逆に明るく振舞っている子供でも、それは他のクラスメイトから強いられたキャラであり、自己を抑圧しているなど、事態はそんなに単純ではありません。そのようなときに教員までもが子どもの話に耳を傾けず、頭ごなしに叱るような子供の「敵」となるべきではないと考えます。すなわち子供を改心させることを必ずしも目標に据えるのでなく、子どもとの関係を作るために対話を行うべきと考えます。

 今、上に述べたことは、生徒の良き理解者である教師として当たり前に行うべきことかもしれませんが、改めて、学校現場に置き換えて考えることで対話の大切さについて今一度再認識することが出来ました。

  またこの授業を通じた私の所見を簡単に述べたいと思います。

 私は「思考し、それを表現する」ことの大切さをこの授業を通じ改めて感じました。私はどちらかというとせっかちで結論を早く下したいと思う方なので、多くの事例や抽象例を読んで、まとめるのは最初は容易なことではありませんでした。しかし、ある結論が見えている中でも、様々な事例 -具体的なものもあれば、抽象的なものもありましたが- を読んでいくうちに、自分の経験に落とし込んで、一つ一つの事柄を「自分のもの」として身体化していていく過程に喜びを感じました。これこそがまさに「思考」そのものであったと考えています

 そしてそれを言語で表現することの難しさです。頭の中で、内容が呑みこめたと思っても、それを言語化するにはまた別の思考が必要です。これにも最初は四苦八苦していましたが、回を重ねるごとに、「ああ、自分はこのように思考していたんだ」と頭の中の思考の「霧」が晴れてとてもさわやかな気分になりました。思考に思考を重ねて、言葉が先鋭化され、洗練されていく過程に喜びを感じました

 しかし、これで「思考」をとぎらせてはいけません。ポートフォリオを作る過程でさらに思考を再構成しなければいけないからです。さらに一段階次元の高い思考をしたいと思います。



  前回の授業の振り返りコメントの中に「本当の意味でのコミュニケーションの意欲は、生徒からにじみ出るものではないか」というものがありました。単に意欲があるだけではなく「にじみ出る」としている点がこれまでの授業も踏まえてあり、共感できる部分でした。そのようなコミュニケーションの活動をクラスの中で行う際には生徒たちが躊躇することなく自己表現することのできる雰囲気が必要で、そのための生徒や教師、生徒同士の信頼関係の構築が重要だと思います。また、授業や学校の中で取り扱う内容は実生活とかけ離れた机上だけの内容であってもなりません。実生活に近いものである必要があり、生徒たちが必要としているものは何なのかに関心を寄せることが大切だと思います。そして、生徒たちの言葉が生徒たちの体からにじみ出るようなものにするためには、学校の中で生徒たちの感性を磨くことを大切にしていかなければなりません。しかし、評価ばかりに縛られ完璧であることや点数を稼ぐことばかりに目がいってしまうと、生徒それぞれが持つ想像力や独自の感性が育たない可能性もあります。学校教育と評価は切っても切り離せない関係にありますが、その在り方には十分注意をし子供たちの成長を妨げるものであってはならないと思います。

  当事者性については、「問題行動を行う子供と向き合う際に大切なことは、その生徒自身が自分自身と向き合うことではないか」という言葉が印象的でした。問題行動を行う子供に対してだけではなく、生徒と向き合う際にはアドバイスなども大切ですが、当事者である生徒が自分自身と向き合わなければ根本的な解決にはつながりません。コミュニケーションを取る際に、特に相談に乗ったりする場合には自分が主体となって話を進めていこうとするのではなく、相手が何を伝えようとしているのかや、言葉がなかなか出てこない場合にも言葉になるまで待つ、といったことを大切にしていく必要があると感じました


  この授業全体を通し、コミュニケーションや言語教育は人間の成長と深くかかわっているということを感じました。教育、英語教育、言語についてそれぞれに新たな視点が加わり、視野が広がったと思います。また、自分自身の経験や弱さについて考える機会も与えてくださり、自分自身の成長も感じることのできた期間でした。ポートフォリオの方で学んだことをしっかりとまとめたいと思います。



  自分の苦しい経験や思いを言えないために、問題行動を起こしてしまう生徒がいるというという話がありました。私も中学3年生の頃、本当に些細なことなのですが、家族にも友達にも先生にも言えない悩みがあり、学校に行きたくなく、いつもの通学路とは違い道を通り、遅刻ギリギリに登校している時期がありました。(実際に遅刻すると親に見つかり、怒られるのが怖く、時間には間に合うように行っていたのですが…)2年生の頃までは、唯一何でも話せる先生がいらっしゃり、何かあるとその先生に相談していたのですが、その先生が転勤され、なかなか相談できる相手がいませんでした。学校に行きたくなくなっていた時期が中学校卒業間近だったために、そのまま自然に解決することが出来ましたが、あの状態が続いていたら、もしかしたら「問題行動」を起こしていたかもしれません。その時に感じたのが、1、2年生の時のように話せる相手がいたらよかったのに、ということでした。
 
  自分の中にため込んでしまうと、いつかそれが爆発してしまいます。自分の弱さを見せられる関係にある友達を見つけることの大切さに改めて気づきました。同時に、これから教師になった時、生徒と弱さをさらけ出せる関係を築くことが必要なのだと感じました。「問題行動」を完全に見逃すことはできません。しかしそれをいつも頭ごなしに叱っていては根本的な解決にはなりません。教師と先生という立場ではなく、一人の人として、生徒との関係を築くことが必要なのだと思いました。そして、ことばを通して関係を築けるような環境を作っていこうと思いました。

 コミュニケーション能力と言語力は全く違うものであるということが言われました。学校のテストでは全てを測ることはできません。特にテストをする時には細かな場面設定を行い、その中でパフォーマンスし、それを評価することが求められています。しかし現実社会では、状況は複雑で、決まりきった場面に遭遇することはありません。そのような中で適切にコミュニケーションを取ることが出来る能力を付けることが求められるのだと思います。だからと言って、全く評価しないわけにもいきません。このバランス(中庸)をこれからも考えていかなければいけないのだと思いました



  今回の講義で、べてるの家の方が「下野君、日本語上手くなったね。」という言葉が印象に残りました。予習の段階ではあまり気にせずに読み流していましたが、授業中に再び読み返してみると「とても深い言葉だなぁ。」と感じました。私たち日本人は日本語の母語話者であるので何十年も生きていれば日本語は流ちょうにそしてより正確に話すことができて当然だと最初のほうは思っていたのですが、言葉を使いこなすというのは形式的な観点ではなくその話者が言葉を通して自分自身の活力を獲得していくことを指すのだと気づきました
 
  私自身もこれに似た経験をしたことがあります。大学に入るまで、私は自分の気持ちを言葉に出して、それを他人に受け入れてもらおうとすることを拒んでいました。いわゆる日本人の足並みをそろえて自分を押し殺していく典型的な例だと思っています。輪を乱してはいけない、だとか私はここで発言をするべきではない、だとかそういった理由をつけて自分の言葉を発することから逃れていました。そのせいで、授業中に出したイップスの例のように、逆に心を締め付けていたのです。それでも心が折れないようにと、何とか自分は強いのだと言い聞かせて気持ちを自分の中にしまい取り繕っていました。それが悪循環となってさらに自分を追い込み、選手をやめマネージャーに転向しようかとも考えました。しかし、周りは私のことを察してチームメイトが話を聞いてくれて、監督も相談に乗ってくれたのです。そこでようやく私は自分の言葉で語ることができたのです。その後、私は立ち直って選手として最後の大会にも出場することができました。今考えれば、私は語ることによって安堵感や前向きな気持ちを獲得していたのではないでしょうか。弱さを取り繕おうとしていても、そのメッキはすぐにはがれてしまいます。そうではなく、自分の弱さに向き合って言葉で語り合うという行為は人間が強く生きていくうえで欠かせない営みであるということを考えることができました


  もう一点、これはコミュニケーション能力の授業でずっと話題になっていたのですが、物事を両極端に考えてしまうことの危険性については常に意識しておかなければならないというように感じました。特に今回で言えば、コミュニケーションとリハビリテーションの理念の違いです。英語教育においても同様にリハビリテーションのような教師の介入による専門的な知識・技能の教授や専門的な観点からの評価は必要です。しかし、教師がそのような立場に立つだけでは、正確な英語を話すことだけが目的となりかねません。そうではなく、英語はコミュニケーションを図るための手段であるはずです。以前”Never make fun of someone who speaks broken English. It means they know another language.”という言葉を聞きました。教師はある程度の英語力は評価しなければならないけれど、英語教育はそれだけで語ってはいけないということを肝に銘じておきたいです。この講義では、英語教師として両極端に走らず、どのように中庸を見つけていけばよいかを考えることができました。



  今回の授業での「病気は人間としての弱さなりから生まれてくる、とても大切な安全装置」という言葉が心に残りました。病気というのはマイナスなイメージがありますが、実は私たちを守ってくれているものです。例えば、それと似たものに、痛覚があります。もし私たちに痛覚が備わっていなかったら、危ないこと・ものに気が付かず、身はズタボロでみんな早くに死んでしまうでしょう。痛覚は、生きていくうえで必要なものです。
 
  そして心の場合は、『うつ病』や『引きこもり』で表現されます。悲しいこと・辛いことに耐えきれなくなったら心の病気になりますが、それは自分を守っている証拠で、自然なプロセスです。社会からはじき出されたような気分になるかもしれませんが、風邪をひいても必ず治るように、心の病気も必ず治ります。しかも、怪我や病気をすることで 身体が強くなっていくように、心も必ず強くなります。しかし、心の病気である当事者はそのことに気付けないので、周りで支えている人たちが常に覚えておく必要があります。そうすれば、周囲の人の焦りや戸惑いも軽くなるでしょう。私の好きな歌の歌詞に、「僕が僕を諦めたら もう痛みなどないんだ。それだけでこれら全てがたまらなく愛しいんだ」というものがあります。心が傷つくのは自分を大切に思っている証拠で、全く悪いことなんかじゃない、むしろ幸せだということを、どんな場面でも忘れないようにしたいです
 
 
  この授業を通しての感想ですが、今まで「哲学」というものの意味がいまいちわからなかったのが、この授業を通して何となくわかった(体感した?)ように思います。コミュニケーションの在り方や言葉の性質など、目に見えない・形にならないものについての記事を読んだり話し合ったりすることは大変困難でしたが、 これこそが哲学的思考を巡らせているのかなと感じました。また、そのようなものが私たちの生活(特に自分自身のことや他人との関係の面での生活)を豊かに することを知りました。生活を技術的に便利にするのは科学かもしれませんが、人間それだけでは満たされません。人間の心の範囲をより良いものにするため に、哲学は生まれたのかな…と考えます
 
  また、授業を通して一番学んだことは、人は関わり合って生きているということです。本当に当たり前のことですが、様々な角度からコミュニケーションについて学ぶことを重ねて、私が考えていたよりも遥かに他の人との関係で自分は成り立っていることを実感しました。そして、他の人かのら影響があるように、自分も他の人に影響を及ぼす存在です。自分の行動や発言には、気を配るべきだと反省しました。
 
  このように、この授業では生涯を通しての学びを得ることができました。授業で学んだ様々なことをこれからポートフォリオにまとめ、いつでも見直せるようにしたいと思います。ありがとうございました。



今回の授業の中で「自分を失ってしまったとき、自分自身を関係において回復し、自身を取り戻すしかない。」という言葉がとても印象に残りました。というのもこのような体験を実際に自分は経験したからです。

  自分は小学校2年生のころに野球を始めました。野球を始めたころから私はずっとレギュラーとして試合に出ることができました。小中とクラブチームではキャプテンも務めていて、自分でいうのもなんですが、当時は自分がチームの中心選手だという自覚がありました。しかし、高校では小中学校のときのようにすべてがうまくいくわけではありませんでした。高校3年生になったとき、1つ下の後輩にレギュラーを取られてしまい、試合に出ることが少なくなりました。今まで試合に出ることが当たり前だった自分にとって「補欠」の自分は受け入れがたいものであり、今振り返ってみると人生最大の挫折であったように感じます。
 
  当時野球が生活のほとんどを占めていた自分は、自信を失ってしまい、投げ出してしまおうかと思ったこともありました。しかし、そんな中でどのようにして自信を取り戻したのか考えてみると、授業の中でもあったようにチームメイトとの関係の中で取り戻したように思います。自分は今までグラウンドに立っている側だったので、ベンチで控え選手たちがどのような思いでいるのか理解できていませんでした。しかし、試合に出れない立場になって初めて、補欠の選手たちがどのような思いでいるのかわかりました。試合中ベンチを眺めてみると、みんな試合に出たいはずなのに、悔しい思いがあるはずなのに、試合に出ている選手に自分を託して必死に声をかけていました。そのとき初めて「試合に出ていなくても一緒に戦っている」という感覚が理解できたのだと思います。
 
  よく、「野球は9人でやるものではない。グランドの選手、ベンチの選手、スタンドの選手全員でやるものだ。」いいますが、自分はそのことを理解できていなかったのですが、試合に出れない他のチームメイトがそのことを私に教えてくれました。あるチームメイトが「試合に出たいのは当たり前だし、すごい悔しいけど、試合に出れなくてもやれることがある。グランドのやつらが苦しい時は俺たちがベンチから助けてあげることができるやろ。」と私にいったとき、試合に出れなければ意味がないと思っていた私の考えは180度変わりました。試合に出れなくても戦うことは出来るのです。そして、自信をほとんど失いかけていた私は、もう一度野球に対して真正面から取り組むことができたのだと思います。その後必死にレギュラーを取り返すべく努力をしましたが、結局最後の夏の大会では1ケタの背番号をつけることは出来ませんでした。しかし、チームメイトのおかげで私は試合には出れませんでしたが、自分の役割を果たすことができたと思います。

 自分が自信を失って自分が誰だかわからなくなったときに、自分の自信を回復するには他者との関係が不可欠です。私の場合は野球で自信を失い、野球におけるチームメイトとの関係の中で回復することができました。私はチームメイトに自分の思いを正直い話したし、チームメイトもそれに真剣に答えてくれた。そんな関係がなりたっていたからできたことだと思います



  今回の授業において、相手を理解するためには、相手を待つ時間・聞く姿勢をもつことが大切であるということを深く感じました。例えば初対面の相手に対して、あるいは何か普段とは様子が異なる友人に対して、その人のことを理解しようとすればするほど、質問攻めしてしまうことはよくあると思います。教育現場に置き換えて考えると、例えば問題行動を起こした生徒に対しては、まずその生徒に対して「なにをしたのか」「なんでそんなことをしたのか」を聞きたくなります。しかし、問題行動を起こした生徒にとっては、問題を起こすことはそれ自体に目的があったわけではなく、様々な要因からくる不安や、教師に対する不信感などを、何とかして外に出したいのに、その手段としての「ことば」が見つからないために起こった結果かもしれません。
 
  つまり、問題行動そのものに目を向けていては、根本的な問題解決に繋がらないことがあるのです。ここでは、生徒に自分自身と向き合い、自分を表現するための「ことば」を見つけていく時間を十分に与えることが必要であると理解しました。また、自分を表現する「ことば」を見つけることができたとしても、それを外に出す環境が整っているかも重要な問題となります。聞き手である教師としては、自分の価値観や生徒のイメージなどに過度に頼ることなく、「ことば」のありのままを受け止める姿勢も必要であると感じました。


  講義全体を通しての感想を述べたいと思います。私はこれまで本を読む習慣がなく、まとまった文章から新しい知識や情報を得たり、著者の考えを理解したりすることをあまりしてきませんでした。また、理解したことを自分の経験と結び付け、それを他の人と共有するために文章化することも、授業でレポートの課題が出ればやるくらいで、正直「字数書き切れば終わり」くらいの気持ちで取り組んでいました。しかし、本講義を通して触れた文章は、私にとっては大変難しいものが多く、真剣に頭を働かせなければ何が言いたいのかちんぷんかんぷんなものばかりでした。本講義においては、「~に例えるなら・~にあてはめて考えると…」と、いったん内容を抽象化したり、逆に具体にあてはめたりして、内容を理解していくことができました。
 
  また、文章化ということに関して、自分が伝えたいことを文章におこすことは、とても難しいことですが、一方でとても面白いプロセスであると感じました。予習・復習の際、ぼんやりと頭にある疑問や考えも文章化してみるとはっきりとしてきたり、逆に明確にわかっているとおもっていたことも言葉にしようとすれば理解が曖昧だったことに気づいたり、正しいと思っていたことも文章にしてみると筋が全く通っていないことに気づくことがあったからです



  今回の講義を受けて、問題行動を起こしてしまう子どもと周りの子供の気持ちに関して考えました。

  本日の講義に参加していた学生の方、もっと言えば広島大学で学んでいる人のほとんどは、私を含め小中高でしっかりと勉強し、問題行動とはなかなか縁遠い人が多いのではないかと思います。学校生活において割と真面目に過ごしてきた人にとって、先生に反抗したり、問題行動を起こすということはあってはならないことだったと思います。もちろん、そうした子供たちも反抗したい気持ちが全く起こらなかったわけではないと思いますが、大部分の人はそうした気持ちを抑圧し、その反抗心などを直接行動に反映させることは控えること多い。しかし、それは「反抗させてくれる場」というものが子供たちに与えられてなかったことが原因であることも多いのではないでしょうか。今学生である人たちも、小中高生時代に不良と呼ばれる子供たちが教師に対して反抗的な行動をとったさい、「自分が言いたいことを言ってくれた!」と思うことは一度ならずあったのではないでしょうか
 
  こうしたことから考えると、他の生徒からすると、問題行動を起こす生徒には迷惑をかけられることもあるが、時には自分の言いたいことをはっきりと言ってくれるような代弁者にもなり得るのだと思います。しかし、そのような自分に正直な代弁者も、一度問題行動を起こしてしまうと、やけに強いプライドが邪魔してなかなか元に戻れなくなってしまうのではないでしょうか。それはその生徒個人の問題である一方、そのような生徒の声を聴いてあげられる場所が無いことも原因です。自分が言うことを聞いてくれる人がいいから、問題行動という違う形式でメッセージを伝えているだけだと思います。
 
  だから私は、今回の講義の話し合いでも話しましたが、問題行動をとる子供は正直(自分の気持ちに正直に行動する)であり、素直じゃない(プライドが邪魔してなかなか元の状態に戻ってこられない)と考えました。こうした生徒、またすべての生徒のために、まず必要なのは生徒の声を聴く場。教師とまわりの生徒が「私たちはあなたの話を聴く準備ができているよ」といった姿勢が感じられる場であると思います。問題行動を起こす生徒であっても、彼らの声を頭から否定していては、生徒たちの代弁者の声をも止めてしまうことにつながります。どうすれば生徒が自分から話し、話す過程で自分の問題や弱さに気づくことができるのか、これが教育現場においては大きな課題になっていくのではないでしょうか。


 また、ここで「コミュニケーション能力と英語教育」の講義全体についての感想を述べたいと思います。

 最初に講義用のブログ記事全体をざっと見まわしたところ、「ヴィトゲンシュタイン」「身体」「チョムスキー」といった英語教育畑とは若干距離があるのかな(実際は重要な関係を持っていたことがわかりました)と思ったトピックが多いと感じた記憶があります。しかし、今講義を終えて振り返ってみると、英語教育を専攻すると言っても英語教育一辺倒では視野が狭ってしまうことを痛感しました。柳瀬先生がいつか教育学というのは色々な分野と強く関係しており、英語教育だけの狭い視野だけでは成り立たないということをおっしゃっていたことを思い出しました。応用できることは積極的に応用し、常に広い視野を持つことの重要性を改めて実感しました。また、いろいろな学問分野からアイデアを持ってきているとはいえ、そちらの分野のほうに引きずられることはなく、あくまでも現場のリスペクトを忘れない。身体感覚を非常に重要視されている点も、実践者である現場の教師の方々への強いリスペクトから来るものなのかなと思います。その点は先生の著書である『小学校からの英語教育をどうするか』を拝読した際にも感じられた点でした。

 また、講義内での様々な分野からのアプローチは、それぞれの学生に新しい分野の開拓のきっかけを与えるものとなったかと思います。講義は終わったあとにクラスメートを講義内のことについて話していると、それぞれが自分の興味を持った分野に関して意見を交わしていました。ブログ記事に載っていた本を実際に買ったり、図書館で借りたりして読んでいる人もいました。やはり興味関心を持ったのも、柳瀬先生がそれぞれのトピックに関して非常に詳細に分析し、なおかつ自分の意見をしっかりと示していることが大きなきっかけとなっていると思います。やはり、学生は単なる知識の紹介だけでなく、その知識、トピックに関してその人がどのように考えているのかということは重要な興味関心の対象になるのではないでしょうか。 

 最後に基本的なことであるかもしれませんが、学生一人ひとりがしゃべった内容をうまく咀嚼し、他の生徒がより容易に理解できるようまとめていただいたこともこの講義の評価する点だと思います。大学の一斉講義ではなかなか学生一人ひとりの声を聴くことは難しいです。こうした場で知った様々なアイデアが、学生一人ひとりを成長させいきます。その意味で、本講義では学生が伝えたいことを他の学生や教師が聴く場をうまく設定させていただいたので、非常に感謝しております。





授業関連資料

授業用スライド
https://app.box.com/s/s1w8wiskeh46d7xi2eipfzqg4p1y744q


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田尻悟郎先生の授業ビデオをハンナ・アレントの哲学の枠組みを通して解釈する試み (学生さんの感想)



以下は、2015年度の「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で、田尻悟郎先生の授業録画をハンナ・アレントの哲学の枠組みを通して解釈する試みを行った時に学生さん(学部3年生)が書いた文章の一部です。色付けをしたのは私ですが、それ以外は基本的に手を入れていません。

田尻悟郎先生の授業録画は、田尻先生が公立M中学校で三年生まで持ち上がった時の最後の三年生の授業の一部です。この学年が一年生の時は学校が荒れて殺伐とした状況で、田尻先生は文字通り毎日頭痛に悩まされたそうですが、この録画にはそんな中学生が三年生の最後になって行ったスピーチ (My treasure) が三名分記録されています。詳しくは下記の論文をお読みください。


アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析


この授業実践を解釈するために、私が使ったアレントの著作はVita activa oder vom tatigen Leben (The Human Condition)です。日本では長らく後者の英語版の翻訳『人間の条件』が流通していましたが、最近、前者のドイツ語版の翻訳『活動的生』が出ました。この『活動的生』はすばらしい翻訳で、私もとりあえず二度ほど読み、あと数回は読みなおして重要な箇所は原著と照合しようと思っていますが、今回の授業では、その新訳の成果はほとんど反映できませんでした。


 


なお同著の重要概念である "Die Arbeit", "Das Herstellen","Das Handeln" ("labor", "work", "action)は、『活動的生』では「労働」、「制作」、「行為」となり、『人間の条件』では「労働」、「仕事」、「活動」となっていますが、授業ではそれらを混交させたような形の「労働」、「制作」、「活動」という用語で説明しました。

ともあれ、学生さんは自分たちなりにいろいろ考えてくれましたので、ここにその一部を公開する次第です。改めて、毎回毎回きちんと自分に向き合い文章化をしてくれた学生さんに感謝します。



*****




  授業の中で見た、田尻先生の授業がとても印象的でした。今まで、コミュニケーションとしての英語、心を育てる英語の授業とは何かを考えてきましたが、それがどのようなものなのかをビデオを通じて、実際に知ることができたように思います。最後の生徒のスピーチは特に印象的で、発せられる言葉一つひとつにとても心に訴えかけるものがあり、心に残るスピーチでした。確かに、文法的なミスはありましたが、私はこのときそのことは全然気にならないくらいにスピーチに自然と引き込まれていました。これは、生徒の発する言葉の一つ一つが自分の言葉となって、伝える力を持っていたからであると思います。生徒は先生にやらされているという感じではなく、自分の意志で英語を話しているように思いました。

  私が今まで受けてきた授業を振り返ってみると、英語は一人で学ぶもの、いわば個人個人で学ぶものというような授業だったように思います。具体的に言うと、先生がだしたタスクを自分一人で考えて、解くという受動的なものでした。この時は、自分以外の他者の存在に全く目を向けることはありませんでした。田尻先生の授業のように、誰かと助け合って学んでいくことでこんなに「活力」が生まれること、教室にいる仲間全員で学ぶことで、こんなにも英語の授業はいきいきとしたものに変わるのだと驚きました。

  教室には、様々な違った背景を持ち、性格の違った生徒が集まっています。それは、ただ自分以外と他人とが一緒にいる空間といってしまうこともできるでしょう。しかし、認め合うことや協力することを通じて、その集団は「活力」を生み出し、自分たちのいる空間をかけがえのないものに変えていく力を持っていると思いました。

  活力が生まれるような経験、例えば、協力して何かを成し遂げたり、他者の苦しみなどを受け止めたりする中でそれは生まれるのではないでしょうか。そのような場を英語の授業の場面で与えていきたいと思いました。教室の中にいて、生徒が心地よい空間を作りたいです。隣に座っているのは「敵」や「他人」ではなく、大切な仲間の一人だと感じることのできるような学級経営、英語の授業をしていきたいと思いました。



  田尻先生のスピーチの授業で英語が生徒同士を介在するために存在していたというのにたいへん感動しました。生徒に英語を学ばせようとすると文法項目や単語といった教えなければならない項目が先にきて、英語を自分の気持ちを伝えるような「道具」として使わせることがなかなかできないと思います。そんななかで英語を使って生徒に自分の気持ちを伝えるだけでなく、人の心を動かすような経験をさせるのは、英語が通じたという成功体験ができたり生徒たちの心を豊かにさせることができると思いました。

  また、先生が「これは日本語でやることさえ難しい」と話されていたと思うのですが、私は逆に英語ですることがよかったのではないかとおもいました。反抗期・思春期の子供たちには感情をストレートに表現すること=恥ずかしいことだと考えていると思います。日本語ではいろんな表現を知りすぎていて、回りくどい表現をすることで正直に伝えることから逃げてしまうかもしれません。英語は知っている表現が少ない分、よりストレートに気持ちを伝えようとするのではないかと思いました

  しかし、いま私が同じ授業をしてもかならず成功するものとは言えません。授業の中でも出ていましたが、生徒の正直な気持ちを引き出す声かけが必要になるはずなので、生徒のことをよく理解したうえでできる活動だと思いました。また「活動」のお話ではやはり教英行事のことが浮かびました。もし教英行事がない大学生活を過ごしていたら、私は日々授業に出席し家事をこなすぐらいで、友達はできていたとしても単調な生活を送るだけになっていたかもしれません。そう思うとぞっとします。教英という自分らしさを開示できる場で、教英行事という自分らしさを開示できる活動ができていることは恵まれているなと改めて思いました。



  今日の授業では田尻先生の授業の映像がとても印象に残りました。またこの授業実践が普通の公立中学校―とりわけ荒廃気味の大規模校―で行われていたことに驚きました。そこで中学校の英語で教師と生徒のコミュニケーションを大切にした授業を行っていくことの意義について私なりに考えてみました。

  中学生は肉体的にも精神的にも多感な時期であると思います。ちょっとした言動がもとでけんかをしたり、仲たがいをしたりと人間関係が目まぐるしく変わっていきます。同時にそういった人間関係を通じ子供は自我を自覚し、思考の仕方、ものの見方を大きく変容していきます。言い換えると、この中学生の時期に経験したことが、その後の個人の価値観や人生観に多大な影響を及ぼすといえます。(これは私自身の中学時代を振り返っても分かるのですが、中学では「思考の転換期」でり、高校は「思考の安定期」であったような気がします)。したがって、どんな人と出会い、どんな人間関係を構築していくのかが重要になっていきます。

  私が田尻先生の授業を見て感心したのは、英語の授業一時間(もちろん担任クラスだったようなので、ほかの時間でも生徒と関わる時間はあったでしょう)の中で生徒を「変えた」ということです。先生が赴任した当初は生徒同士が言葉かけもせず殺伐としていたのにもかかわらず、DVDに撮影されていた三年生の生徒たちは生き生きといていました。ここで私が気になることとして、DVDで切り取られなかった英語の授業で先生はどんな実践をされていたのかということです。

  ここからは私の推測となりますが、先生は三年間を通じ、まず英語を話す姿勢を養うために、何度も発音練習などさせて自信をつけさせる〈労働〉の時間、また文法的に正しい英文を書くために何度も書く練習〈制作〉をやらせていたのではないか、しかし何よりも先生が大事にされていたのは教室内の生徒とともに勉強し、一人ひとりを受け入れ、形成していくことではなかったかと考えます

  最初は生徒同士が互いを思いやることもなく、関心がない。しかし英語で書いたり、話したりして、自己表現をすることができるようになる。そしてさらに他の人に発表することを通じ他の人がその存在に気付くこと、そして「認め合う」ことを実践されていたのではないかと思います。このように「英語」を通じ人間関係を構築するきっかけを作っていたのではないかと思います。田尻先生の実践は多感な子供に単に英語力の育成だけではなく、良好な人間関係を構築し、人格の形成にも影響を及ぼしているのではないかと考えました。

  田尻先生の実践は現場に対して大きな疑問を投げかけていると思います。それは生徒の学力をつける力量を持った「記録」を作る教師が多いのではないかということです。教師としてはやはり教科の学力を生徒につけることでその力量を認められるところも多いですが、それはあくまで生徒の「記録」を作るのに奔走したにすぎません。しかし、私は田尻先生の実践のように生徒の人生にどう関わっていき、影響を与えていくか、言い換えれば、生徒の「記憶」に残る教師として何ができるか考えていきたいです



  私は今回の講義で田尻実践のDVDを視聴して、英語教師を志す身として感銘に受けたことが2点あります。1点目はA男による”My treasure”のスピーチの内容です。そして2点目は田尻先生がそのスピーチを評価するのではなく、生徒に感想を書かせたことです。

  1点目については予習の段階で自分なりに考察したので、今回の振り返りでは2点目に焦点を当てたいと思います。評価に関して、昨今の英語教育界では客観的指標が必ずと言ってよいほど付いて回るきらいがあると感じています。例えば、私が教育実習に行った際も常に「評価はどうするのか?評価規準をどのように設定するべきか?」ということを考え、それは悩みの種となっていました。要約等のライティング活動を練る時も、スピーキングの活動を練る時も絶えず評価の問題は後を付いてきます。評価をすることが困難であるため、そこまで仲間とともに考えてきた活動の計画をがらりと変えざるを得ないという状況にも陥りました。私はこの経験を通して客観的指標の持つ力の強大さを思い知りました。(評価の大切さやその難しさは第6セメスター開講「英語教育評価論」の講義においても痛感する日々です。)

 上記のような体験があるからこそ、田尻先生が客観的指標を用いて”My treasure”スピーチの評価をしなかったことに対して感銘を受けると同時に驚きを隠せませんでした。教育実習時、また「英語教育評価論」受講時も、私は常に客観的な評価規準を模索することに必死でした。しかし、そこに欠如していたのは生徒の評価に対する目線だったのではないかと思います。仮に今回のスピーチ後に教師側が「いや~、素晴らしいスピーチだったね。しかし、文法上のエラーにより○点減点、発音上のエラーにより○点減点、流暢さの観点から○点減点・・・よって総合点は○点です!」などと評価を行っていたとしたら、生徒は聴衆(オーディエンス)の存在などもう頭の中から排除し、ひたすら文法や発音の正確さの向上のみを目指すでしょう。そうなってしまえば、それは評価がもたらし得る悲劇だと言えます。なぜならそのような状況はアレントの主張した人間の条件である「人間の複数性(plurality)」や多様性を無視していることになるからです。評価が人間の複数性や多様性を奪っていくことは非常に恐ろしいことではないでしょうか

 最後に評価に関してまとめたいと思います。「評価はどうするのか?評価規準をどのように設定するべきか?」と評価だけに捕らわれるのではなく、例えば田尻先生のように感想文を書かせて評価を超えた生徒同士の心の交流を促進させることも重要なのではないかと今回の講義を通して考えました。



  今回の授業で印象に残ったことが、他人の存在によって自分を知ることが出来るということです。

  私は、家族内での自分の立場と、高校の友達の中での立場が正反対です。家庭内では末っ子ということもあり、家族に甘えてばかりいて、そして頼りないから(過保護な面もありますが)何をするにしても助けてあげなければいけないというように思われています。一方、高校の友達の中では、計画を立てたり、何かしらの決定をしたりする時に中心になってすることが多いです。もし私が、ずっと家庭に閉じこもって、友達との交流を持っていなかったら、このように頼られることは少なく、自分一人では何もできないと思っていたかもしれません。逆に家庭内で家族とあまり関わっていなければ、何もかも自分で決めなければならないと思い込んでいたかもしれません。

  そもそも誰とも交流を持っていなければ、このように、自分がどういう存在なのかに気付くことはできなかったのだと思います。複数の集団と関わることで、それぞれの中での自分の立場というものができ、そこから自分がどのような人物であるのかが見えてくるのだと思います。学校は、様々な人と交流することのできる貴重な場です。学級、部活動、委員会活動など場面によって多種多様な人と関わることが出来ます。その中で自分がどのような人なのかということを見つけ出せるのだと思います。

  田尻先生がA男君にしてあげたように、教師として生徒の新たな面を見つけてあげることもできます。また生徒がお互いの長所を引き出せるような関係作りができるように手助けすることが出来ます。田尻先生のコメントにもありましたが、英語はコミュニケーションの仕方を教える教科です。アレントの言う「活動」は一人ではできないことです。学校では一緒に学ぶ人がいます。一緒に「活動」することで自分らしさを見つけられるのではないかと思います。もちろん、全ての生徒がその環境に絶対に馴染めるというわけではありませんが、少しでもその集団の中でよりよい関係が築けるように手助けすることが英語教師には求められるのではないかと考えました。



  田尻先生の授業を見て、今まで自分が「スピーチ」という「活動」を単なる「制作」として捉えてしまっていたことに気付いた。私は高校一年の時に、田尻先生の授業と同じ、「私の宝物」というテーマでクラス内スピーチを行ったことがある。クラスメイトがそれぞれ自分で原稿を用意して、聞く人にとって分かりやすく面白いスピーチをしようと工夫を凝らしていたため、楽しいスピーチ発表会となったが、私は自分が発表した内容も、クラスのほとんどの生徒の発表内容も思い出すことができない。これはきっと、私も、クラスメイトも、先生もこのスピーチ発表会を単なる「制作」ととらえていて、伝えたいという思いよりも、その場をしのぐことを優先してしまっていたからではないか、と考えた。

  また、私自身の教育実習での授業を考えてみても、何の文脈もない、唐突な最終活動が多く、その単元のまとめとして何らかの形で残そう、という「制作」の部分しか考えていなかったように思う。このような活動を生徒が「したい」と思うわけもない。これに対して、田尻先生の授業では、中学生生活の最後に、「My Treasure」というタイトルでスピーチをさせるというもので、きっと生徒にとっては、自然に自分の中に「伝えたい」「語りたい」という思いが上がってくるものだったのだろう。このようなことから考えると、私たちは英語を人と人とをつなぐものではなく、単なる教科の一つとして考えすぎているような気がする。大学入試のための英語の勉強や、TOEIC、英検の英語の勉強は一人でも出来るものであり、やはり、高校の授業の中で試験対策ばかりするのは間違っていると思う。教室の中でしかできないこと、英語教師にしかできないこと、英語を使ってしかできないことを英語の授業ではするべきであると思った



  今回の講義で見た田尻先生の授業実践の中で、A男君がスピーチ発表において良い意味で自分の中の一線を越え、自分自身も知らなかったのかもしれない自分をさらけ出すことができたことに強い印象を受けました。スピーチの場面を見ただけでも、A男君は1番目と2番目に発表した生徒と比べると自己主張があまり強くないのかもしれない、といった印象を受けていました。したがって、田尻先生に促されるまで、自分が影ながら頑張っていた経験を自ら発表しようとは思ってもいなかったでしょうし、そもそもそのことについて自分が他者から評価を受けるに値するとは思っていなかったのではないでしょうか。

  これはA男君に限らず人間だれしもが経験することです。「自分のことは自分が一番知っている」こういった考えも的外れなわけではありません。自分の精神や身体は当然自分が(語弊があるかもしれませんが)所有しているので、かなりの程度で自分がそれらについて把握していることは明らかです。しかし、他人と交流することによって、「○○さんはこんな良いところがあるよね」「○○さんはこんなところに気を付けるといいよ」といった、他者からの評価・指摘が自分を新たに作っていくことも多いはずです。

  A男君は田尻先生に促されるまで、自分自身をさらけ出す前に、自分自身のことを人前で堂々と公開できるほどまでには知らなかったのかもしれません。しかし、スピーチ発表を通じて本来の自分というものをクラスメートにさらけ出すことに成功しました。この発表はA男君と他の生徒、また田尻先生とのつながりを強めたり、新たに作り出したりするきっかけになったことでしょうし、A男君が自分自身を再発見することにつながったのではないでしょうか。もともと予習段階でもわかり易いと感じたのですが、こうした具体的な実践例をもとに考察することで、アーレントの言う「人間の条件」で必要とされる「活動」が何であるか、またその重要性についての理解が深まりました



  田尻先生の授業実践における、三人の生徒のスピーチから、授業の振り返りをしたいと思います。映像を見て印象的だったのは、生徒たちの生き生きとした表情でした。特に、スピーチの最中ではなく、スピーチを始める瞬間の表情です。スピーチの最中の、表情や身振り手振りは、練習すれば自然とそれらしく魅せることはできると思います。そのような指導はよくなされていると思います。しかし、今から「話すぞ」「伝えるぞ」というスピーチが始まる直前の生徒の表情は、教師によって作り上げられたモノではなく、生徒自身からにじみ出た「何か」で、まさにそこから、本当に伝えたいという気持ちを感じ取ることができるのではないかと思いました。スピーチの最中、アイコンタクトをしていたか、身振り手振りを付けていたか、聴衆とインタラクションがあったか…などは、評価の際にはよく見られるところですが、本当の意味でのコミュニケーションへの意欲(生徒が、伝えようとしているか)は、この、生徒からにじみ出る「何か」を感じ取ることによってしか見ることはできないのではないかと思います。

  また、スピーチをする場合に限ったことではありませんが、自分自身を開示するためには、共同体を作り上げることが大切であると感じました。授業実践のスピーチ活動において、A君がクラスメイトの前で、自分も知らなかったような本当の自分をさらけ出すことができたのは、田尻先生による教室の風土づくりがあったからではないかと感じました。耳を傾けてくれる人が目の前にいるからこそ、喋り出したくなるのだと思います。「自分」というのは、「自分」一人だけで完結するものではなく、他者との関わり合いの中で存在するのだということが、少し理解できたように思います







授業関係資料

■スライド
https://app.box.com/shared/oh69hm6b35

■ アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418
■ 「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html

■ E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/e-2008.html
■ 仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2009.html

■ 人間の条件としての複数性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_8473.html
■ この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post_24.html
■ 「政治」とは何であり、何でないのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html
■ アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html
■ 世界を心に閉じこめる近代人
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_1835.html
■ 欠陥商品としての「考える」こと
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_16.html

関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
■ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2008.html
■ ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2004.html
さらに
■ 「現代社会における英語教育の人間形成について―社会哲学的考察」を読んでください。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html
ついでに
■ 「当事者が語るということ」もどうぞ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

▲西洋哲学の寵児の政治的判断
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_10.html
▲人間、ハンナ・アレント
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/blog-post_12.html
および
▲アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけ:エクセルファイルの概念図
https://app.box.com/shared/lseur17j1e
映画『ハンナ・アーレント』予告編

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/