2009年7月24日金曜日

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)

この本は,ここ数年間で私が読んだ本の中で,最も深い本かもしれません。人間についていろいろと考えさせられました。そして読後,自分がずいぶん自由になっていることに気がつきました。

「べてるの家」とは,1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点です。この本はそこで暮らす人々が,医療関係者やソーシャルワーカーの協力を得ながらも,あくまでも「当事者」として,自らの症状を研究するものです。

べてるの家のホームページ「べてるの家とは
ウィキペディアの解説「べてるの家


この「当事者研究」は,べてるの家のソーシャルワーカーである向谷地生良氏のまとめに従えば,5つの特徴をもちます(4-5ページ)。その特徴は,私なりに言い換えますと--私なりのまとめですから,正確を期すためには必ず実際に本を読んで下さい!--,次のようになります。



(1) 症状と人間を,切り離し可能なものとして考える: 症状と人間を不可分なものとしてみるのではなく,症状が,たまたま現在(あるいは長年)その人にやってきたものとしてみなす。

(2) 症状に自分でぴったりと思える名前をつける: 学術的な名前ではなく,自分が経験している症状の意味や状況をうまく取り入れた名前を症状につける(例,突然どこからともなく聞こえてくる声は「幻聴さん」,突然わきおこってくる否定的思考は「お客さん」,「幻聴さん」や「お客さん」の訪問により強迫的に繰り返される行動は「くどうくどき」など。63ページ)

(3) 症状にまつわる一連の出来事のプロセス・構造の解明: 反復されるプロセスの構造を幅広い視野から明らかにして,その症状がもつ「可能性」や「意味」を探る。

(4) 自分が自分を助けるにはどうするかを考える: 他者(専門家や仲間)に助けてもらうのではなく,自分が自分のために何ができるかを具体的に考え,練習する。

(5) ふり返る: 以上の分析と対応を実践し,その結果を検証し,仲間と共有する。



「精神障害者が,自分の症状について考える」などと言いますと,それは「科学」とは最も縁遠い行為のようにも思えますが,私はこれは,人間を研究する「人間科学」としては,極めて「科学的」なアプローチだとさえいえると思います。

私はここで「科学」の前に「人間」という言葉を追加して「人間科学」という用語を使っていますが,この言葉の追加によって,「科学」はどのように変わってくるのでしょう。「科学」と「人間科学」はどう違うのでしょう。

まずは人間科学は,科学を否定するものではないことを確認しておかねばなりません。べてるの家で活躍する精神科医の川村敏明氏も,精神医学における分子レベルでの医学研究の大切さを第一に認めます(263ページ)。

ですが川村氏はこう続けます。


精神病に限らず,病気にはある意味で人間が根源的に抱えている,人間としての弱さなりから生まれてくる,とても大切な安全装置みたいな意味をもった部分があります。そんなものまでなくしてしまうような技術というのは,少し行きすぎているのではないか。「病気になってはいけない」という,否定的な捉え方に基づいた治療方法は,人間の存在を妙なかたちでコントロールするものになるのではないかと思います。 (263ページ)

※同書のこの箇所は,医学書院のホームページでも読むことができます。この他にも非常に深い言葉がちりばめられていますので,ぜひお読みください。


向谷地氏も,従来の医療の偏りを指摘します。

従来の医療は,「この患者さんの抱えているこの苦痛を,いま取ってあげなくてはならない」という急性疾患への対処を中心に組み立てられたモデルのなかにあります。一方,いわゆる慢性疾患の場合,患者さんたちは病を抱えながら生きていかなければならないわけです。278ページ


「病を抱えながら生きる人間」は,その経験に「意味」を見出そうとします。これこそ単なる物理的・生理学的対象として捉えた「ヒト」とは異なる,「ヒト」以上の,現実世界の「人間」ではないでしょうか。もし「人間」に対して,特定の価値観にしばられずに,虚心坦懐に分析をしようとするなら--つまりは「科学的」にアプローチしようとするなら--,分析者は「ヒト」を越えて,その「人間」が感じ取っている「意味」を分析の対象にしなければならないでしょう。

本書の「当事者研究」は,まさに当事者が中心となって,症状に苦しみながらも,一方でできるだけ症状と症状に苦しむ自分を突き放して考え,その病の「意味」を解明するという点で,「人間科学」であるといえると私は考えます。

「人間科学」という言葉がお嫌いでしたら,「精神の生態学」と言ってもよいかと思います。この当事者研究は,精神つまりは心の有様を,その心がおかれた状況・環境の中で正確に理解しようという"ecology of mind"とも言えると私は思うからです。

精神の生態学」というのは,もちろんベイトソンの著作のタイトルでもあります(原題はSteps to an Ecology of Mind)。

この本の中でベイトソンは,アルコール依存症などに関する卓越した分析をしていますが,べてるの家の当事者研究も,その分析に通じる見解を多く示していました(ですが,私はこのベイトソンの著作をまだまだ十分に読みこなしていないので,今後機会を見つけて丁寧に読んで,その読書を通じてきちんと考えようと思っています)。


「精神障害者が自分の病気について考える!」という,世間の常識をひっくり返すような方法は,実は至極まっとうな方法であり,その知見の一部は20世紀を代表する知性でもあるベイトソンとも重なるのではないかというのが,私の正直な読後の感想です。「当事者研究」というのは,「人間科学」として注目すべき方法の1つかと思います(実際,私が「当事者研究」という用語を初めてしったのは,ある質的心理学の本を読んでのことでした)。


他方,現代社会で標準的とされている,分子レベル研究により生成された薬剤投与中心の医学的アプローチの方にこそ,若干の問い直しが必要なのかもしれません。

医学の「標準的」アプローチは,幻聴にせよ,摂食障害にせよ,被害妄想にせよ,逃亡癖にせよ,自己虐待にせよ,それらの症状は,とにかく投薬によって消滅させるべきものとしてたいていの場合考えます。

ある意味,それももっともなことです。このような症状は,世間的に考えれば,とても歓迎されるものではないからです。しかし,当事者研究によって,これらの症状にも次のような「意味」が見出されました。


「自分自身の感情」を(意識上にあらわれる前の時点で)封殺・封印することで生き延びてきたヒトが,実はその感情が生々しく蓄積されていること,それがじわじわと溢れ出していることに気づいて大混乱に陥り,自分という存在を守るためになんとかそれを封印しなおそうと必死で獲得した「生きるための技術」--それが摂食障害である。(渡辺瑞穂「摂食障害の研究」22ページ)


[買い物依存からの]金欠の研究をしてみて,これは,コミュニケーションの技がなければできない技であることがわかった。とくにぼくが共同生活で生活を始めて仲間の部屋をまわって金策を重ねた結果,住居全体のコミュニケーションが活発になり感謝された。じつは,ぼくが入居している共同住居は入居者の交流が乏しく,それが課題となっていた。(坂雅則「生活の"質"(しち)の研究」54ページ)


幻聴と被害妄想は,「空虚さ」というわたしのこころの隙間を埋め尽くし,「生きていることの虚しさ」という現実からわたしを避難させるという役割を果たしていたといえるのではないか。(清水里香「被害妄想の研究」98ページ)


したがってこのテーマは,精神科医に頼んで「被害妄想という症状を治してもらう」というような単純なものでは決してない。なぜならば,それは自分が被害妄想にまみれた「幻聴の世界」で生きることを選ぶのか,それとも,人間関係の苦労をともなう生々しい「現実の世界」で生きることを選ぶのかという「選択の仕方」なのだと考えるからである。つまり,幻聴は時としてさまざまな不快でつらい体験をもたらすが,一方では,先にも述べたように私たちが「依存」している部分もあるからである。(清水里香「被害妄想の研究」106ページ)


じつはわたしの「逃亡」は,巷に蔓延している「引きこもり」や「ネット集団自殺」などにも通じるような気がしている。逃げるということは,何かに追われているということでもあるが,その一方では何かに見切りをつけていることでもあるだろう。(荻野仁「逃亡の研究I」145-146ページ)


自分のプロフィールを明らかにしてゆくなかで見えてきたのは,先にも述べたように,自分は「自己演出」をしてきたのではないかということだった。たとえばぼくは,パフォーマンスがエスカレートして保護室に入る際に,「いかにしたら出られるか」とはいっさい考えなかった。目的は一つ,「どうしたら退屈をしのぎ,かまってもらえるか」だけである。そこに全エネルギーをかけるのが毎日の日課だった。(藤田卓史「マスクの研究」216ページ)


「自己虐待」とは,自分に対する精神的・心理的・身体的な暴力である。そこにはつねに他者へのコントロール欲求がある。つまり,注目してほしかったり,かまってもらいたかったりする「想い」を言語化できず,自分の思うとおりの反応が相手から返ってこないと,ストレスが溜まっていく。そのような状況が続いていくと,自己破壊的手段でしか自分を救えなくなるのである。(吉井浩一「『自己虐待』の研究」223ページ)




ある精神障害者の息子を抱える母親は,こういった「意味」の発見に驚き,実は正さなければならなかったのは,母親である自分の価値観ではなかったのかと省察するにも至っています(中山周「『当事者』としてのわたしは,何に悩み,苦しんできたのか」243-251ページ)。

こうした,「世間的な常識」という固定観念から自由な考察を前にすると,むしろ精神障害の症状をとにかく薬で消滅させてしまおうという医学的アプローチの方が,一定の価値観に固定されたイデオロギー的であるとも思えてきます。ひょっとしたら精神障害の症状を消滅させてしまおうというアプローチは,「科学」というよりは,現代の支配的価値観に基づく"social engineering" (a concept in political science that refers to efforts to influence popular attitudes and social behavior on a large scale, whether by governments or private groups.) --支配のための工学--ではないかとも思えてきます(フーコーもきちんと読まなくっちゃ 汗)。


いずれにせよ当事者研究で,「精神障害者」と呼ばれる人たちは,「問う」という営みを獲得しました。これこそが当事者研究で大切なこと,と向谷地氏は考えています(3ページ)。

またこの本では,「精神障害者」が一人の人間として,実名と写真を堂々と出して,自分の研究の文章を公開しています。この本によって,精神障害がずっと身近なもの--私や世間一般の人々とつながった存在--として見ることが容易になったことは,この本を読んだことの思わぬ副産物でした。


医学書院のホームページにはこの本の詳しい解説もあります。決して悲壮な本でも堅苦しい本でもありません。むしろ当事者の,自らを客観的に見ようとする中で示すユーモアに何度も笑ってしまう本です。ぜひ皆さんも,手にとって,ゆっくり考え,感じながら読んで下さい。








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