2010年12月30日木曜日

随時随処で諸縁を活かす通じた身体

この12月は少々無理をして人に会いに行きましたが、その実りは予想以上のものでした。

一つは桜井章一先生。先生の著作は長年、何冊も読んでいましたが、実際の姿を拝見したことがありませんでした。桜井先生のことを知るにつれ、これは著作でなく実際の立ち居振る舞いや声の響きを聞かなくてはならないと強く思うようになっていましたので、先日、思い切ってある講演会に参加しました。

想像以上の人でした。

会場に入ってきた姿を私が最初に認めたときに、桜井先生の周りが一枚の壁のようになった風圧を感じました。「ふわっ」とした圧力が面で感じられたのです。その場には、以前に甲野善紀先生の講習会で知り合いになったバレリーナの方もいらしたので、会が終わった後に感想を聞いてみると彼女も同じように感じたそうです。また下に述べる機会でお会いした音楽関係者の方もものすごい存在感を桜井先生に感じたそうです(ちなみにこのお二人は、私と違って桜井先生に関してはほとんど予備知識がなかったので、私が感じた風圧もそれほど的外れなものではないかと思います。もっともこういったものは、感じない人にはまったく感じないのでしょうが)。

そして桜井先生は身体が徹底的に緩んでいました。ちょっと見た目には酔っ払っているのかとすら思えるぐらいに、力みのない身体で、身振りにも声にもまったくといっていいほど硬さ(あるいは頑なさ)がありません。まったく自然な身体―それも練り上げられた自然ではなく、ただただ自然な身体―のように思えました。

実際、お話の中でも、「若い頃は精神・心が大切と思っていたが、最近ますます身体(カラダ)が大切だと思い始めている」とも、「昔は道場生を麻雀で勝たせようと思っていたが、今はもっとうまく身体を使ってほしい」ともおっしゃっていました。

この桜井先生の動く姿をできるだけ私の心に浮かべておきたく思います。それは私の人生の一つの導きになるかとも思います。


もう一つ述べておくべき出会いは、甲野善紀先生と森田真生さんの催しでした。実は私はこの催しについては前もってほとんど知らなかったのですが、甲野先生が福山の講習会に来られた時の懇親会で「こんなものもありますよ」とおっしゃってくださったのでそれだけで行くことにしました。

ですから当日もゲストは誰だか知らない状況だったのですが、ゲストはやはり素晴らしく魅力的な方々でした。一人は舞踏家の山田うんさん。お会いした時から身体表現者としての自由さ・自在さを感じられる方でした。



もう一人は和太鼓奏者の佐藤健作さん。この方は太鼓を運ぶトラックから顔を出した瞬間から破顔一笑の笑顔で、もうただただ惹きつけられました。



催しの頂点は、佐藤さんの太鼓に甲野先生が剣、山田さんが舞でそれぞれに即興で動くというものでしたが、どちらも素晴らしかった。それぞれの即興の動きの柔らかさと自然さは、佐藤さんの太鼓の響きと共に私の中に残っています。(当日の甲野先生の動きは下の動画などからご想像ください。その際、剣や杖よりも身体全体の動きにご注目ください)。







この催しで私はその他にもたくさんの素晴らしい方々―立ち居振る舞いが自然で、虚勢や強張りとは無縁な方々―にお会いできることができました。この縁に感謝します。



こういった出会いの中から、ぼんやりとですが私の来年のあり方についての気持ちが定まってきたので、年の瀬の今日書き記しておきます。


私のあり方としては



随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい



と今のところ思っております。


「通じた身体(からだ)」とは佐藤健作さんとお話させていただいた時に頂戴した(と私が思っている)言葉です。私は素人としての愚問を発することを厭わない人間ですので、佐藤さんに「どうしてほとんど打ち合わせもせずに、甲野先生や山田さんとの即興ができるのか」と尋ねました。その際佐藤さんは、「いや、お互い通じていればできるんですよ」などといったようにお答えしたように覚えています。

その日の三人をずっと観察していた私としては、こういった方々は「通じた身体」あるいは「通じる身体」をもっていると表現したく思いました。相手の動きに余計な壁を作らず、相手の動きを歪ませることもなく、そのままに自分の身体に通し、その動きに自分の動きをさらに加えて、しかも自分の動きを我意で損ねることもなく、相手の動きを二人の動きにして返してあげる身体、と言ったらいいのでしょうか。うまく表現できないので、言い換えますと、相手の言動を強引に拒まず、変容させず、そのまま受けつつ、しかし自分の言動を自分自身で駄目にしてしまわないで相手の言動の流れに乗せることができる身体―そういう身体の人間になりたいと今私は思っています(そしてそんな身体を桜井先生、甲野先生、山田さん、佐藤さんなどの方々の残像から想像しようとしています)。

そういう「通じた身体」の行住坐臥をもって、何時どこに居ようが、その時その場所の様々な関係性の相互作用を豊かに育むことができるようになりたい―「随時随処の諸縁を活かす」ようになりたい―と願っています。


とはいえ、これまでの私は、頑なな心とガチガチの身体で、諸縁を否定し壊し我意をブルドーザーのように貫こうとしてきた人間ですから、このように言葉を紡ぎ出しただけではうまくはいきません。しかし言葉にすることが何かの端緒になればと思い、恥を忍んで、「随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい」という願をかけたいと思います。

来年も私はこの願に反する恥ずかしく無様な振る舞いをするでしょうが、どうぞ皆様ご指導よろしくお願いします。









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「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」(HTML版)

以下は、今年(2010年)の夏に口頭発表したものを文章化したものです。年が明ける前に掲載しておくことにします。


下にも書いていますように、教師といった実践家が自らの実践を語るナラティブは、大きく以下の5つの段階を経ると私は整理しました。


(1)意識化
(2)自己の意識化
(3)自己の意識化の言語化
(4)共有化
(5)書記言語化


このうち、(1)のレベルの「意識」(consciousness)は、本稿ではEdelmanに倣って「原意識」(primary consciousness)と呼んでいます。この(1)の原意識と、(2)と(3)のレベルの「高次の意識」(higher-order consciousness)の二つを総称して「意識」と呼んでいます。なお(3)は、(2)が明確に言語化されたものです。

ですから(1)、(2)、(3)のレベルの「意識」の例をあげますと、(1)は人間が覚醒している(=入眠や失神状態にない)レベルのこと、(2)は、身体運動で言うなら私が「意識の再編成と原理の体得」でも粗述した、(1)よりも明確なレベルの意識になるかと思います。なおこの(2)のレベルの意識は、高岡英夫先生の用語(高岡英夫(2009)『究極の身体』講談社プラスアルファ文庫などを参照のこと)で言えば「身体意識」(体性感覚意識)に相当するかと思いますが、高岡先生がわざわざ「身体意識」と術語化した概念を「自己意識」と呼んでしまっていいのか若干の懸念は残ります。。いずれにせよこのレベルの意識(原意識/身体意識)は、言語化される以前の意識です。

(3)のレベルは明確に言語化された意識で、http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/blog-post_06.htmlJulian Janynes)が言う「意識」もこれに相当します。このレベルに意識をもってくるための言語化が困難なことは、私も「インタビュー研究における技能と言語の関係について」で書きましたが、この実践の言語化という論点は、もともと武術家の甲野善紀先生と光岡英稔先生の考察尹 雄大 (ユ・ウンデ)『FLOW―韓氏意拳の哲学』冬弓舎)から学んだもの(あるいは学びきれなかったもの)です。

そうして言語化された意識が、物語の構造を取り始める時私たちはそれをナラティブと呼びますが、それが(4)の段階です。この共有化がどのような力を持ちうるかというのは、アレントの論考「べてるの家」の実践が教えるところでもあります。

さらにナラティブも音声言語から書記言語へと転換する時に、質的な変化が生じるというのが、私が「http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/html.html」で言おうとしたことです。

いずれにせよ、私は「言語コミュニケーション」(linguistic communication)を研究テーマの一つにしていますが、この「言語コミュニケーション」は、コミュニケーションの基礎レベルで身体に基盤をおきながらも、言語というレベルで意識に基盤をもっています。ですから身体と意識は、言語コミュニケーションを考える際にどうしても必要な論点だと私は考えています。以下の拙論は、その身体と言語の関係を、意識の言語化(術語化)から始まりさらに自らのことばを言語的に発展させてゆくナラティブという言語コミュニケーションについて考えた試みです。英語教育の論考ですからナラティブは英語教師が自らの実践を語るものにしました。もしご興味があればお読みください。


*****


意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察




広島大学 柳瀬陽介





1 序論

1.1 背景

 ナラティブ―本研究では特に「教師が自らの実践を語ること」―が、教師の成長へ貢献すること(吉田他 2009)、およびナラティブを扱う質的研究の性格(柳瀬2010)も明らかになってきた。しかしなぜナラティブが有効なのかという原理的な理解は十分でない。原理的理解がないままにナラティブが単なる「流行」になれば、英語教育の実践および研究にとって逆効果になるであろう。ナラティブに関する原理的理解が必要である。
 
先行研究としては、例えば社会文化的理論的解明もある (Tasker, et al. 2010)が、実践の意識化・自己意識化・言語化というナラティブのもっと基礎的なレベルでの分析も必要である。言語コミュニケーションを教える専門家である言語教師が自らのナラティブというコミュニケーションについて理解を欠くというのは自家撞着であろう。また、ナラティブが他者と共有化され、書記言語化されることもナラティブにしばしば伴う特徴である。これらについての分析も重要である。


1.2 本研究の目的・方法・意義

以上の背景認識を基に、本研究は、ナラティブ実践の過程を分析的かつ原理的に考察し、なぜナラティブが教師成長に貢献するかに関する理解を深めることを目的とする。考察の方法は、基礎分野の知見を整理することによる。教師ナラティブの心理的側面は神経科学、社会的側面はメディア論を準拠枠の基礎分野として、それらの知見を整理し論考を進める。必要に応じて(一般的な意味での)ナラティブの専門家としての小説家の物語論も援用する。本研究の意義は、原理的理解により、より妥当なナラティブ実践が期待できることである。



2 分析

教師ナラティブを通じての教師の成長は、実践の省察 (reflection) から新たな実践 (practice) に至るまでの過程と捉えられる。その過程には、(1)意識化、(2)自己の意識化、(3)自己の意識化の言語化、(4)共有化、(5)書記言語化の五つが通常含まれる。以下、これら五点を整理する。


2.1 意識化

2.1.1 意識の対概念としての無意識と非意識

まず「意識」に関する理解を明確にしておくため「意識」の対概念として何が想定されているかを考えよう。実際、現在私たちが通常有している意識の対概念と、神経科学が有している意識の対概念は異なる。フロイトに由来する「無意識」(unconsciousness) あるいは「潜在意識」(subconsciousness) ―以下ノーベル生理学・医学賞(1972年)受賞者で、特に2000年代から神経科学に基づく新時代の哲学を打ち立てているとも評されるEdelman (2004, 2007)に従い、「無意識」と「潜在意識」の両者を含めて「フロイト的無意識」 (Freudian uncousciousness)と呼ぶ― は、英語教育や第二言語習得の研究でも当然視されている概念である。フロイト的無意識は、普段は意識されていないが精神分析や注意深い想起などで意識化できるものとされている。だが神経科学で用いられているのはむしろ「非意識」(nonconsciousness)(Edelman 2004, 2007)である。非意識は、生理学的メカニズムの限界により決して意識化できない脳の活動であるという点で、フロイト的無意識と異なる。本稿は意識の対概念として「非意識」を採択する。この採択により、第二言語習得研究で時に話題になる「意識から(フロイト的)無意識への変換」(「意識的に学んだ知識を無意識化(あるいは自動化)すること」)に関する整理しがたい諸問題にわずらわされずに、現在明確に自覚している意識から、一定の契機によって想起される(フロイト的無)意識までを幅広く取り扱うことができる。


2.1.2 意識の限定的な機能

 このように「意識」を「非意識でないもの」ととりあえず定義するにせよ、神経科学ではさらに二種類の「意識」を区別することが多い。ここでもEdelman (2004, 2007) が定義する「原意識」 と「高次の意識」 の区別を採択する。
 
最初の「原意識」 (primary consciousness) とは、通常の認知行動にしばしば伴うものである。例えば私たちは外界の何かを原意識で捉えているからこそ、それに対応した動きをする。この原意識の強度は注意と呼びかえることができる。原意識の内実ともいうべきクオリア(qualia)―その者のみが捉えられる感覚質―を科学でどう扱うかは「意識のハードプロブレム」とも称され多くの研究者で見解が異なるが、すべての研究者が同意する科学的事実は、人間が原意識で意識化できるのは、身体が処理する莫大な情報のごく一部に過ぎないという限定性である。

外界が有する莫大な情報量に比して、あるいは脳が非意識的に処理する膨大な情報量に比して、人間の意識―以下、「意識」という用語は原意識と後述する「高次の意識」である自己意識の二つを総称するものとする―は明らかな生理学的限界をもっている。人間の脳で非意識的に処理されていることすべてを意識化するなら、意識は瞬時にその処理の限界量を超える入力を得て飽和し、人間は何の行動もできなくなるだろう。そういった限界の中で、人間は意識を「編集」し「物語化」する(Frith 2007, リンデン 2009)。例えば読書において、眼球はサッカード(saccade)により非連続的な視覚入力をしているが、私たちの意識はその入力を連続した視覚に編集しており、サッカードによる断続を意識しない。認知的葛藤が生じる状況(例えばブラインドサイト(blindsight)―脳による障害で、見えているという自己意識はないが、実際には見えている状態―)では、人間は意識が扱いやすい「物語」を、悪意や利害得失とは関係なく紡ぎ上げる(作話:confabulation)。人間の意識は、自己に関する自己意識はもとより、直接的と思われがちな原意識でさえ、部分的で歪められたものである。この編集と物語化は、意識が他の生命現象と同様、進化のプロセスで生じたものにすぎず、自らの生き残りのために適したメカニズムに過ぎないことの帰結である。意識は、人間が処理しきれない莫大な情報量をもつ複合的な世界を、生き残るために適度な程度に編集してモニターする機構だとまとめられる。


2.2 自己の意識化

2.2.1 自己意識は行為主体なのか?

原意識を有する動物の中で、人間をはじめとした一部の種は「自己意識」 (self-consciousness) を持つ。この自己意識は、「『自らが何かを原意識で捉えていること』を意識している」という意味で「高次の意識」 (higher-order consciousness) (Edelman, 2004, 2007)である。つまり自己意識とは、原意識に関する意識という「意識の意識」である。

近代において、この自己意識は、自らの行為を決定する主体でもあるとされている。実際、近代法が心神喪失の人間の罰を減軽したりするのは、自己意識の中の自由意志(free will)こそが行為の決定要因であるという前提に基づいている。だが神経科学は、この自由意志も、近代社会を支える法的な前提ではあっても、厳密な意味での科学的な事実ではないかもしれないと問いかけた。つまり自己意識(特に自由意志)の行為主体性 (agency) に疑問符を突きつけたのだ。Libet (2004)は、各種の注意深い実験により、自己意識―彼はこれをしばしば「気づき」 (awareness) と言い換えている―は、その後に起こる行動のための脳活動が起動し始めてから約0.5秒後に生じるものであることを明らかにした。つまり近代的前提が想定するように、私たちの行動は自由意志を創出し自覚(自己意識化)してから始まるのではなく、自己意識が自由意志を自覚する前から、その自由意志が引き起こすことになっている行動は非意識レベルで始まっているわけである。私たちの自己意識の中の自由意志は、その非意識レベルの脳活動の追認にすぎない。自己意識は通常、非意識の脳が始めた自らの行動を監視 (monitor) するだけであり、その他にせいぜいできるのは、その自己意識化された自由意志を自らへの一種の新たな入力とみなし、それに対して拒否 (veto) をして起動していた行動を実行寸前で停止するぐらいである(注1)。私たちが自己意識の中で覚える自由意志も実は極めて限定的な機能しかもっておらず、自らの身体の主ではないかもしれないことは理解しておくべきである。それでは自己意識の機能とは何なのか。このあたりの整理を進めるために、次は神経科学の自己意識(高次の意識)の概念を概観しよう。

2.2.2 自己観察から自己記述へ

 自己意識、つまり自己を意識化してとらえることとは「高次の意識」であり、これにより人間を筆頭とする一部の生物は原意識をもつ意識し「自己」を創出する。この原意識の意識化は、原意識という総体的な体験を対象化することを必要とする。この対象化において使われるのが記号 (典型的には言語) である。原意識の体験(あるいはクオリア)を例えば○○という記号あるいは言語という形式で認識することにより、名状しがたい原意識のクオリアは、<○○>という記号的同定、あるいは「私は今○○を見ている」といった言語的意識、という自己意識となる(注2)。となれば、自己意識化において重要なのはどういった記号・言語を用いるか、そもそもどのような記号・言語を有しているかである。
 
自己意識とは、自らの原意識の「自己観察」(self-observation)であると言えるが、その自己観察は言語を用いた「自己記述」(self-description)となる時に明瞭な自己意識となる。近代学校教育において高度な言語教育を受け、小説というメディアで言語的な自己記述の文化に親しんでいる私たち近代人は、言語的な自己記述を自己意識の典型例として通常考える。
 自己観察と自己記述の関係をもう少し敷衍しよう。私たちは暮らしの中で、ぼんやりと自分を観察している。それは明確な自覚以前の名状しがたい「気分」と言うべきかもしれない。だがその気分といった漠然とした自己観察も、しばしば言語による自己記述でより明確な輪郭を与えられる。「ああ、いい気持ち」といった単純な言葉ですら、発せられるや否や、原意識のクオリアはそのようなものとして意味づけられる。自己観察は自己記述により明確な意味づけがされる。
 
 「明確な意味」といったが、それは「同じ言語を使う者に理解してもらいやすい」という公共性を指しているものの、言語による自己記述が常に妥当な自己観察と言い切れるわけではない。例えば「うーん、驚いたというか、戸惑ったというか・・・」と言葉を連ねる人は、自己記述が自己観察としてどこか不全であるという思いに駆られている。どんな言語化でも行えばそれで十全というわけではない。だがその自己記述への不全感も、自己観察を言語化し、対象化したからこそ覚知できたことだろう。「自己観察→自己記述」と進み言語化がなされるが、言語化は「『自己観察→自己記述』の自己観察」を促す。「自己観察→自己記述」が言語により形式を与えられ、観察しやすい対象となったからである。自己記述はさらなる自己観察を促し、言語使用により私たちはより的確に自己を―そして自己が体験する世界を―記述し、そのことによってさらに的確に観察することができる。ある意味で、自己記述は自分に対する贈り物である。自己記述は自ら、および自らが体験する世界を(取り敢えずとはいえ)規定するからである。この規定において、自己記述は自らの生に意味を与える。常に単純で否定的な自己記述しか見出せない者は、単純で否定的な人生を自らに対する贈り物としていることになる。次節ではさらに自己意識の言語化について考察を進めることにしよう。
 
 
2.3自己意識の言語化

2.3.1外からの制度的・権力的言語

 日常生活で私たちが自己意識を言語化していると考える場合において、外からの言語により思考が規定されているにすぎない場合がある。典型的な例は、授業実践についての振り返りを求められた場合の教師が、条件反射的に学習指導要領の用語を出すものの、その後すぐに言葉に詰まる事例である。フーコーやアレントが述べるように(柳瀬2005, 2009)、権力は言説の流通により創出し維持される。教師が実践のナラティブを行う際も、私たちはその言葉が存外に、社会に通用している権力の言説にすぎないかもしれないことに注意しておく必要がある。本稿が「自己意識の言語化」という場合、それは制度的で権力的な言語だけをもって自己像を創り上げることを意味しない。
 
言語は外からだけでなく内からも来る。内からの言語を最も大切にする人としては小説家が代表例となろう。小説家の小川(2007, 50)は書くことにについて、「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人皆が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」とも、「現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し、鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与える」とも述べる。


2.3.2言語による意識の構造化・複合化・物語化

そうして現れた言語は、最初は一つの単語かもしれない。しかし単語は言語の一部としての拡張性をもつ。単語は連想により関連する他の単語を呼び出す。それらの単語はメタファーやアナロジーとして使われるなら、さらに次々と自己意識の対象を広げてゆく(Jaynes 1977/2000, Lakoff & Johnson 1980)。さらに単語は統語的に連結され、物語を紡ぎ出す要素となる文となる。例えば自らの実践を振り返り「苦しさ」という単語が浮かんだならば、「無呼吸」が連想され授業が「潜る」というアナロジーで捉えられるかもしれない。さらに「沈没船の中に閉じ込められ、出口を求めて泳いでいる」というメタファー文さえ浮かぶかもしれない。こうして最初は一つの単語といった単純な形で捉えられた自己意識も言語の語彙と統語の体系性を通じてどんどんと構造化・複合化してゆく。やがて私たちは物語を紡ぎ出すだろう。

だが物語とは科学的真実ではない。しかし私たちは物語を必要とする。特に困難で錯綜した状況において、私たちは自らに物語を与えることにより、理解しがたい現実に意味と構造を与える。制度の枠組みを超えた出来事あるいは他者に遭遇した時に、物語は、時に「かくあるべし」といった倫理的・哲学的な枠組みさえ超えて展開する。そこで私たちは物語の語り手でありながら、登場人物でもある。物語を自由に語れるようでありながら、語られた物語の状況の中に捉えられている(自らの物語から抜け出すことはしばしば非常に困難である)。地下鉄テロ事件の被害者の聞き取り調査を終えた村上(1999)は物語の性質を次のように表現している。
人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験を行なうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話し」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。
(村上 1999 pp.749-750)


このように原意識が自己観察・自己記述的な自己意識となり、それが言語の力を得て物語に自己展開してゆくときに、私たちは自分が創り上げたはずの認識構造に捉えられてしまう。それは私たちに一貫した意味を与えるものでありながら、その意味は私たちの制約ともなる。物語のレベルになると自己意識のナラティブは自らもその結果が予測しがたい複合的な自らへの贈り物となる。みずからがどのような言語を見出し選び取り、どう物語を紡ぎ出すかというのは、私たちにとって大きな問題である。


2.4 言語の共有化

2.4.1 相互作用としてのナラティブ

こうして私たちはしばしば物語をもつ。あるいは物語というまでの長さや複雑さをもたずとも言語による自己記述をもつ―以後、長い物語も短い自己記述も総称して述べるためにナラティブという用語を使うことにしよう―。経験的に私たちが熟知していることは、私たちはしばしばナラティブを他人に伝えたがるということだ(時に私たちはナラティブを語る相手がいない状況を耐え難いものとさえ思う)。

人の心に響くナラティブ―私たちはそのようなナラティブを考察の対象としている―を語るということは、一方的な行為ではなく、語り手と聞き手が相互に影響を与える相互作用的な行為である。語り手はまず聞き手を選ぶ。「この人ならわかってくれるかもしれない」と思わなければ私たちは深いナラティブを始めることはない。語る中でも、聞き手の聞き方・合いの手・問いかけ・コメントなどにより私たちのナラティブは独自の発展を遂げる(聞き手の反応に促されて「そうそう!」と言いつつ興奮気味に新しくナラティブを発見的に展開することを私たちはしばしば経験している)。ナラティブは共同構築される(Nair 2003, Nelson 2003)。語り手は聞き手に理解してもらおうとする努力の中で新たな自己意識やナラティブの発見すら時に行う(予測がつかないのが会話の楽しみであることは私たちが周知していることである)。この変容は、個人では起こりえない変容であり、ここにナラティブを自己に留めずに他者に語る意味がある。


2.4.2 ナラティブにより維持発展する共同体

ナラティブが共有化されることにより共同体が維持され発展する。神経科学レベルでも、対話者の心身はかなり同調することが示されている(Greg. et al. 2010)。認知科学レベルでも、ナラティブが共有されるということは、語り手が聞き手の「心の理論」(Theory of Mind)(子安2000)をうまく推定できたということ、同時に聞き手も話し手の推定する心の理論に同調できたということを示す。ナラティブの共有は、話し手・聞き手双方の心の理論の働きが拡張し、双方の認知の枠組みが広がったことを意味する。ナラティブの共有化により、ある一人の自己意識が共同体の共有財産となり、個人の受容感と共同体の連帯感が高まる。ナラティブが語られ聴取されるたびに、共同体は理解の枠組みを共に豊かにし、その共有する枠組みでさらに連帯感を高める。孤立した自己意識に起源するナラティブも、他者に向けて語られ受け入れられることにより、語り手を共同体に招き入れ語り手に大きな力を与える。ナラティブはこうして共同体的行為となる。


2.5 言語の書記言語化

2.5.1 近代言語学の音声言語中心主義

ナラティブは語られるだけでなく、時に書かれる。だが近代言語学および近代言語学の影響を受けた外国語教育学は音声言語中心主義 (speech primacy) を教義として掲げ、音声言語と書記言語の間に特段の差異を認めない。書記言語とは音声言語を文字化しただけであり、パラグラフ概念など以外の取り立てての特徴はないものとする。もちろん近代言語学の中にも、書記言語は名詞化 (nominalization) や語彙的稠密性 (lexical density) といった特徴をもつと指摘するものもあるが(Halliday 1989)、近代言語学は概して、社会学的メディア論(ルーマン2009, Ong 2002)のように、書記言語というメディアが人間の意識と文化を変え近代文明を形作ったことを捉えてはいない。私たちは音声ナラティブを書記言語化することの意味合いを捉えなければならない。

2.5.2 「書く」ということ

話すことと比べて、書くことは、労力を要し時間がかかることと、自らの言語が目の前に残り対象化されること、の二つを特徴とする。この時間のかかる対象化という特徴により、情報選択が吟味され、より深い意味の探究が促される。「書くことにより初めて考えることができる」としばしば言われるが、それは、明晰に考えることは、ただ漠然と前-言語的に想いを巡らせたり無反省にペラペラとしゃべったりすることでは達成できず、労力と時間をかけながら自らが発する言語を吟味し、さらにそれを目の前に対象化して反省的考察を重ねる、書くという行為を経なければ困難だ、ということを指すと考えられる。

自己意識化という自己記述は、自己および自己が認識した世界を観察しそれに言語形式を与えることであるが、話すことに比べて言語産出に労力と時間を要する書くことにおいては、記述対象を精選しなければならない。書く場合は、目につく特徴(差異)を片端から書くのではなく、重要な差異―さらなる差異を生み出す差異―を選択して書かなければならない。さらなる差異を生み出す差異とはベイトソン(2000)の「情報」(information)の定義である「差異を生み出す差異」(a difference which makes a difference)でもある。「情報」とは、数ある差異の中でもその情報発信者が「意味ある」あるいは「重要」だとみなした差異だ。話す時と比べて書くときには私たちはしばしば意味ある重要な情報だけを記述の対象とする。

したがって書かれた言語を観察することにより、私たちはそこに記された情報を受け取るだけでなく、その情報発信者が情報に関してどのような判断をしたのかということを知ることができる。つまり情報発信を観察することにより、観察者としての私たちは、その情報を発信した者がどのような判断をするシステムなのかを知ることができる。これは情報自体の文字通りの意味(literal meaning)の把握でもなく、その発信者が慣習の力を借りながら意図する意味(speaker meaning)の推定でもない。情報発信者に関するこの知見は、情報発信者を注意深く観察する者のみが得ることができる解釈であり、情報発信者は通常この解釈を企図はしていない。

もちろん情報発信者と観察者が同一人物であることもある。情報発信をする自己を観察するわけだ。だがこの自己観察は、書くこと以外の方法では容易ではない。自らがある情報に気づくだけでは自己観察を行うことが難しい。私たちの日常的な情報の発見は一過性のものであり、気づいても、すぐに他の作動を始める。「あっ」「へぇーっ」と思ったものも、多くは他の作動を始めた次の瞬間には忘れられる。このように次々に忘れ去られる情報を観察するのは難しい。

だが情報を発信するなら―後に自己観察をする自分自身を含めた他人が観察しやすいように、自ら見出した情報を自らの頭の外に出すなら―その情報選択という判断を観察することが容易になる。頭の外に出す方法もっとも簡便な方法の一つは口頭でその選択した情報を述べることであろう。音声言語でも自己観察は可能だ。だが、もしその情報選択を何か永続性のある媒体(紙、コンピュータなど)に書き記すならば、書き記すという手間はかかるものの、観察はずっと容易になる。多くの場合、深い自己観察は、情報発信を記述し残すことによってはじめて可能になる。情報発信が自己の情報選択についての自己記述でもあるとすれば、自己記述が自己観察を容易にし、自己観察を反省と言い換えることができるのだから、自己記述は反省を促すとも言える。書くことは、言語に、それが産出された時空を超えた可搬性を与えるというよく知られた利点をもつが、それだけでなく、言語産出者自身が自己観察による反省的思考を経て自らをより深く理解することができるという利点ももつ。もちろんこの理解は他人にも開かれている。書くことにより、書き手も読み手も、深い理解に到達することができる。

メディアの点でいうなら、近年の電子メディアの急速な普及 (情報革命) は多様な言語表現を飛躍的に増やし、電子ポートフォリオの拡張された親密圏で書き・読むこと、およびミニブログ (Twitter)・ブログの世界に開かれた公共圏(Blogosphere)で書き・読むことが可能になっている。このメディアの普及により、自己記述・自己観察による自己理解、および他者観察による他者理解、さらにはそれらの観察・理解を相互に観察・理解するという高次の観察・理解が共有され、より広く高度な共同体も構築される。活版メディアは近代を作ったが、電子メディアはポスト近代を作る。私たちのナラティブもポスト近代的展開の可能性を有している。


3 結論

 人間の生理的限界から私たちのナラティブが、実践のすべてを語りうることは決してありえない。ナラティブは実践者と実践者共同体によって編集された認識法であり、必ずしも真実ではない。ナラティブは真実そのものの写実ではない(そもそも「真実」とは人間が到達できない統整的理念(カント)だとも言うべきだろう)。また、ナラティブにどれだけの決意表明が込められていても、ナラティブが直接的に人を変えることはない。世界も私たちもそのように単純なものではない。
 
 しかしナラティブは無力ではない。自らの内にひそむ言語は、アナロジー・メタファー・統語的連結といった言語の体系性を通じて自己展開してゆく。それは複合的で手に負えない状況に一貫した意味を与える。だが私たちは物語に巻き込まれる。自らナラティブを紡ぎ出しながらそのナラティブに編み込まれる。だから私たちは丁寧にナラティブを語る必要がある。
 
 丁寧にナラティブを語る方法の一つは、他者に語りかけることである。他者に語ることは、聞き手とナラティブを共同構築することだった。語り手は心の理論を拡張する。聞き手も語り手のナラティブに潜む認識構造を獲得する。個人のナラティブは共同体のナラティブになり、共同体的連帯感が生まれる。新たなナラティブにより共同体が更新され再生する。この一連の過程通過の中で人は自然に丁寧にナラティブを語るようになる。丁寧にナラティブを語るもう一つの方法は、書くことである。労力がかかる書記では記述の意味が大きくなり、大きな「差異を生み出す差異」が選択され記述される。さらに記述の対象化により観察が容易になり、深い理解を促す。書くことにより、音声ナラティブでの共有よりも安定した観察が促され、より深い認識が共同体にもたらされる。この観察と理解の過程の中でナラティブは吟味される。
 
 実際にナラティブを経験した者(注3)は、「『自分はいい授業はできない』と逃げていたが自らの実践について語り始めると少しずつ気づきはじめた。気づくということは生徒が見えるようになるということ」とナラティブと授業改善の関連について証言している。また「書くということは、自分と向き合うこと。最初はリフレクションを書けないのは、時間がないからだと思っていたが、実は自分を見つめて、ありのままの自分を認めようとすることが怖かったから」と自己対象化の重要性についても語っている。
 
 ナラティブが教師成長に貢献するのは、丁寧に語り・書くことにより、ナラティブが困難な状況に見通しを与え、自己の認識システム―ビデオ撮影などでは接近できない自己の内部―を観察することが可能になるからだ。自己観察に基づかずに、徒に外部から教授法を取り入れても、それはしばしば自己および自己が直面している状況に適したものにならない。自己観察と自己理解こそは教師成長の礎である。さらにナラティブは共有されることにより、教師の同僚性を高め、教師のempowermentにつながる。アレントも言うように、コミュニケーションこそが民主的な権力(power)の根幹だからだ。コミュニケーションとしてのナラティブは、私たちに観察と理解を促し、その観察と理解の妥当性に応じてナラティブ共同体は順当な権力を得る。
 
 ナラティブの具体的な実践研究に並んで、このような原理的考察は重要である。さらなる課題として残るのは、ナラティブを知己でなく「一般的他者」に対して書くこと、あるいは外国語であり教育の目標言語である英語で書くこと、さらには新たな電子メディアで書くことなどについての原理的考察である。また身体的技能の観察と記述に関する考察(柳瀬2007)も深められるべきだろう。


(注1) 第二言語教育研究者がここで思い起こすのはKrashen(1982)の立論であろう。Krashenの用語・概念の非厳密性はさておき、少なくとも意識の働きの限定性に関してのKrashenの主張は妥当なものであったと考えられる。
(注2) 記号のないクオリアでは知覚対象の同定も再認もできない。記号使用のない原意識は、対象の同定も再認もない、その場限りの反応を生み出すだけである。
(注3) 第36回全国英語教育学会大阪研究大会でのナラティブ関連研究ポスター発表者への聞き取りによる。

参考文献
Edelman, G. (2004). Wider than the sky. New York: Yale University Press. (エーデルマン、M.著、冬樹純子訳(2006)『脳は空より広いか』東京:草思社)
Edelman, G. (2007). Second Nature. New York: Yale University Press.
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Greg J., Stephens, G.J., Silbert, L.J, and Hassonc,U. (2010) Speaker-listener neural coupling underlies successful communication. PNAS Early Edition. Retrieved Aughst 6, 2010, from http://www.pnas.org/content/early/2010/07/13/1008662107
Halliday, M. (1989). Spoken and Written Language. Oxford:Oxford University Press.
Jaynes, J. (1977/2000). The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind. New York: Mariner Books. (ジェインズ、J.著、柴田裕之訳(2005).『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店)
Krashen, S. (1982). Principles and Practice in Second Language Acquisition. Oxford: Pergamon.
Lakoff, G. & Johnson, M. (1980). Metaphors We Live by. Chicago: University of Chicago Press.
Libet, B. (2004) Mind time. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press. (リベット、B.著、下條信輔訳(2005)『マインド・タイム』東京:岩波書店.)
Nair, R. 2003. Narrative Gravity: Conversation, Cognition, Culture. New York: Routledge.
Nelson, K. 2003. Narrative and The Emergence of Consciousness of Self. In Fireman, McVay, T. and Flanagan, O. (eds) Narrative and Consciousness. New York: Oxford University Press.
Ong, W. (2002). Orality and Literacy. London: Routledge.
Tasker, T., Johnson, K & Davis T. (2010). A sociocultural analysis of teacher talk in inquiry-based professional development. Language Teaching Research, 14, 2, 129-140
小川洋子(2007).『物語の役割』東京:筑摩書房.
子安増生(2000).『心の理論』東京:岩波書店.
ベイトソン、G.著、佐藤良明訳(2000).『精神の生態学』東京:新思索社.
村上春樹(1999).『アンダーグラウンド』東京:講談社文庫.
柳瀬陽介(2005).「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」『中国地区英語教育学会研究紀要』35. 167-176.
柳瀬陽介(2007).「インタビュー研究における技能と言語の関係について」『中国地区英語教育学会研究紀要』37. 111-120.
柳瀬陽介(2009).「現代社会における英語教育の人間形成について」『中国地区英語教育学会研究紀要』39. 89-98.
柳瀬陽介(2010).「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ―EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40. 11-20.
吉田達弘他(2009).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』東京:ひつじ書房.
リンデン、D. 著、夏目大訳 (2009).『つぎはぎだらけの脳』東京:インターシフト.
ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.


追記:この研究は、科研「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」(課題番号21520577)の成果発表の一部である。










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2010年12月20日月曜日

学校秀才と茂木久美子さん

学部一、二年生の授業では積極的に時事的な話題を「無駄話」として語るようにしています。その一つで山形新幹線の売り子さんである茂木久美子さんの話(『買わねぐていいんだ。』)をしました。JR東日本で売上ナンバー1の彼女は、仕事でさまざまな知恵を生み出していますが、中学時代はアルファベットを最後まで言えなかったそうです。

この茂木さんの例から「結局は、生きる知恵が大切で、学校の成績が優秀でも現実社会で知恵が湧かないと意味がない。現実社会での対応ができなくて『俺は/私は学校では秀才だったんだ』などと言っても惨めになるだけだから、学校で学ぶことと現実社会の知恵を結びつけるように今から心がけておいてほしい」といったことを述べました。

それを受けて、ある学生さんが次のような感想を寄せてくれましたので、ここに全文掲載します。


学校秀才なんて自慢したってみじめなだけ。「生きる知恵」をつけよというお話が印象に残りました。まったくその通りだと思います。

中学・高校時代、いわゆる「正しいやり方」で受身の勉強を必死にしていたせいか、私はどちらかというとテストなどの成績はいい方でした。そんな私に対して周りは「頭いいんだね。」という。そして、自分自身も「どんなもんじゃい。がんばって勉強してよかった。」などと思っていました。

しかし、自分が得たものはただテストのための知識だけで、「生きる知恵」ではありませんでした。そして、「生きる知恵」がつかなかっただけでなく、あれほど勉強して得たテストのための知識でさえも今ではもうほとんど忘れてしまっています。「生きる知恵」がどれだけ大切なものなのかということに今になってに気付き、過去の自分を後悔しています。

でも実際、多くの人が「学校秀才=頭いい・知恵がある」という式が当たり前のように成り立つものだと思い込んでいると思います。先日、ある美容師さんに「どこの大学生?」と聞かれました。私が「広大です。」と答えると、彼に「うわーすごいね、頭いいんやね。」と言われてしまいました。「いや、そんなことないです。」といっても「またまたー、良いくせに。」といわれ、かなり心にグサッときました。「いや、本当にそうじゃないのに…実際あなたの方が...」と心の中で呟いてました。本当にみじめです。

それでもやはり、世間一般では、特に学校ではそのように「成績がいい」ことが「良いこと」だと思ってしまう人が多いのは事実だと思います。自分もそう勘違いして後悔しているわけですが、残りの大学生活では受身の勉強ではなくいろんなものに自分から挑戦し、学び、視野を広げて、「生きる知恵」をつけたいです。そのうえで、自分が教師となったときに、どういうことが本当に必要なのか、大切なのかを生徒たちに伝えられるようになりたいです。生徒には自分のように「成績がいい=頭いい・すごいこと」とは信じてほしくありませんし、将来後悔してほしくありません。成績がいい生徒だけをちやほやするような教師にだけは絶対なりたくないと思います。



この『買わねぐていいんだ。』では茂木さんがコミュニケーションの達人であること、そしてそのようになれたのは、現実世界で他人の中でもまれて、いろいろな感情を経験したことであることなどがわかります。

言語使用の基盤はこのようなコミュニケーションの力にあると再認識させられた書でした。いずれにせよ、学校英語教育も現実世界の「生きる知恵」につながればと思います。

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2010年12月12日日曜日

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)を初めて見た。完全なフィクションで、誤った時代考証やあり得ない設定や展開などあげつらうところは沢山あるが、そのような瑣事にとらわれずこの物語が語ろうとしたことをつかむべきだろう。原作者、映画監督、そして俳優を始めとしてこの映画に関わるすべての人が表現したかったこととは何か。

しかし二時間半あまりの映画表現が伝えようとすることを、ここで私が語り尽くせるはずもない。だからここでは一点だけについて書く。

それは「死をもって生を完成させる」ということ。

しかし、これは死に急ぐということでは決してない。そうではなくて「生の限りを尽くして死を迎えることで生を完成させる」ということ。

映画の中の台詞で(うろ覚えだけど)"Do what you can until your destiny is revealed."というのがあったはずだが、それに近く「成しうることをただひたすらやり尽くさんとする中で死を迎え、それをもって自らの定めとなし、自らの生を終えること」と言うべきか。

あるいは映画の最後で渡辺謙演ずる勝元について、"Tell me how he died."と天皇に問われたトム・クルーズ演ずるネイサンが、"I will tell you how he lived."と答えるくだりが象徴しているように、「生き尽くすことの果てにあるのが人間の迎えるべき死であり、そのような死を遂げた者の生こそを私たちは尊ぶ」、と言うべきだろうか。

ある僧侶が言っていたのだが、自分が死ぬということほど確実なことはない。私たちは、この仕事がうまくいくだろうかとか、この人間関係がどうなるだろうかとか、いろいろなことを悩むが、それらはどれもそうなるかならぬかはわからぬこと。ただ確実にわかっていること、避けられぬ定めこそは、自分が死ぬこと。なのに現代人は、ひたすらに死を忌避し隠し忘れ去ろうとしている。しかし、毎日、自分はどう死のうか、つまりは、今この時に死んでも自分の人生が完成されたものであると言い切れるほどに、生を充実させるにはどうしたらいいのか、ということを切実に考えることは重要なのかもしれない。

菅野覚明 『武士道に学ぶ』によれば、武士道というのは、(1)実際に斬り合い・合戦が絶えなかった時代、(2)帯刀はしても斬り合いが事実上なくなった時代、(3)新渡戸稲造によってキリスト教的解釈によって考察されるようになった時代、で大きく認識が異なる。
現代日本人が「武士道は・・・」と言う場合、多くは(3)の新渡戸稲造解釈をとっているが、それは(1)の時代の武士道とは大きく異なる。斬り合い・合戦で実際に命を落とすことが身近にあった時代の武士道は、徹底的な現実主義の冷酷さと気迫に充ち満ちたものである。その後、(2)の時代になり、文にも長けた武士が、人が闘い殺し合わなければならないことを思想的にも深めたが(例えば「逆縁」の考えなど)、『ラストサムライ』の武士道は、(1)の斬り合い・合戦を日常としている時代の武士が(2)の思想をもっていたという想定で描かれているように思われる。

闇夜の敵の急襲や合戦のシーンは、まさに一切の限定なしの闘いであり、「武芸十八般」という素養は、こういった現実を基にしてできてきたのかと思わされる。現代の「武道」の考えでは、剣道(剣術)をしない柔道家、柔道(柔術)をしない空手家、空手(当身)をしない剣道家などは「当たり前」であり、「忍者」と聞けば笑い出してしまうことが「常識」になってしまっているが、この『ラストサムライ』で(もちろん映画表現として誇張されて)描かれている殺し合いを見ると、そのような現代の「武道」観は武人としてはとうてい受け入れられないものとなる。そもそも試合の日時に合わせて闘う準備をするだけで、若さだけでやってゆける頂点を過ぎたら引退、という生き方自体が、武人的ではないと言えるだろう。

『ラストサムライ』の勝元は最後に討ち死にするが、それは人々に畏敬の念を喚起させるものであった(ただ、映画の描き方は大げさ過ぎる)。武人が死ぬこと、いやそれどころか合戦で負けて殺されることは、それ自体では恥ではない。人が死ぬことは必定だからだ。必定が恥だとしたら、人生の意味が崩壊してしまう。だからどう見事に死ぬか、どう自らの宿命を生き抜くかが大切になる。「潔い」でもなく、「諦めた」ものでもなく、自らの可能性の限りを尽くした上での死こそが、偉大な生なのだ。



買ったままで本棚に置いたままにしていたこの『ラストサムライ』のDVDを取り出したのは、昨晩見たK1グランプリでのピーター・アーツの負け姿に感動してしまったからである。この映画を見れば何かわかるかもと思い、取り出したわけだ。

今回のK1の一つのテーマは、セーム・シュルトをどう止めるか、だった。セーム・シュルト(37歳)は213センチ、136キロの大男で、K1グランプリを4回制覇している。今回、勝てば前人未到の5回制覇になった。しかしセーム・シュルトは、見る限り技術のある選手ではなく、体格の大きさだけで勝っている(ように思える)。今回、彼を止めるのは、これまた195センチ、126キロの筋肉の塊のようなアリスター・オーフレイム(30歳)かと思われていたが、実際に止めたのは192センチ、107キロとセーム・シュルトと比べたら一回り(約20センチ・30キロ)小さいピーター・アーツだった。しかもピーター・アーツは40歳だ。

ピーター・アーツは技術と気迫の試合でセーム・シュルトを判定で下したが、もはやその準決勝で彼は刀折れ矢尽きていた。だから決勝のアリスター・オーフレイム戦では一ラウンド開始早々に負けてしまった。

しかしなぜか私はその負け姿―リングの上に座り込んでしまったピーター・アーツ―に感動してしまった。有明コロシアムの観客もそうだったと思う。フジテレビのスポーツニュースは「新王者誕生」でアリスター・オーフレイムを主に取り上げていたが、私にとっては新王者よりも、新王者に無残に負けたピーター・アーツこそが英雄だった。私の記憶の限り、私は敗者に「よくやった」と慰めるように同情することはあっても、感動したことはなかった。それはなぜなのかと考えるうちに、『ラストサムライ』に手を伸ばしたわけだ。

昔日の日本は、ハリウッドにこのような映画を作らせるぐらいの文化をもっていた。ヒクソン・グレイシーも「サムライ」に憧れていた。だが、実際に日本に来てみたら「サムライ」は一人もいなかったと明言している。

しかし日本の文化の片鱗は現代日本にも残っているはずだ。実際、私もそのような文化を体現するような方に何人かお会いすることができたり、以前の武道・武術の達人の著作を読んだりして、日本文化の奥深さを感じることはある。とくに先日ある本を読んだが、その人が直接書いた言葉をそのまま読めることの幸せをしみじみと感じた。もしこれが外国語ならば、おそらく少々辞書を引いたとしてもわからない、あるいは隔靴掻痒ではないかと思った。

妙に誤解されてはいけないが、死を忘れぬ生、生と死の表裏一体性を身体で感じ取り、充実した生をまさに体現すること、こういった日本文化に対する敬意の念を忘れないようにしたい。「文武両道」というのは「進学校の生徒がスポーツでも頑張る」といった浅く短期的なものでなく、深く生涯を通じて追求するべきものだろう。少なくともそれが「サムライ」である。









おじさんは、今夜も、熱いぜwwwww





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2010年12月7日火曜日

17歳と20歳が考える「考えること」

ほぼ日刊イトイ新聞で山田ズーニーさんが連載している「おとなの小論文教室」のある回に掲載された17歳の高校生の意見がめっぽう面白かったです。

この高校生は、どうやらそれなりの進学校に通い、吹奏楽か何かの部活動をしていながら、「自分で考えること」や「自分で感じること」を大切にしているようです。それだからこそ自分の世代があまり考えないことに危機感を抱き、彼なりの考察を展開しました。

以下、引用します。



僕たちの世代は、
「考える」ということが少なくなっている様な気がします。

もしかしたら、大学に行けば
「考える」人も増えるのかもしれませんが、
少なくとも今の僕の周りには、
そんな人は少ない様な気がします。

目の前に「やらなければいけないこと」がたくさんあって、
それをこなすので精一杯になってる感じです。
問題意識が無いというか‥‥。

(中略)

ひとつの考えが浮かびました。

それは、世の中には「ほぼ正しいやり方」が
出来上がっているのではないか、ということです。
山田ズーニーさんは
とっくに思っていた事かもしれませんが、
最近僕の考えている事なので、ご勘弁ください。

例えば受験。

「どうすれば受かるのか」を考える前に、
塾が「ほぼ正しいやり方」を提示してくれます。
その通りにやれば確かに受かるかもしれませんが、
それで良いんでしょうか。

(中略)

芸術関係の集団で出場するコンクールもそうだと思います
(特に学生のコンクール)。

吹奏楽部や合唱部など。
どうすれば全国大会に行けるのかという
「ほぼ正しいやり方」に、
いかに生徒たちを近づけさせるか。
より近づけば金賞、といった感じです。

(中略)

より高い基礎力を求められるが為に、
「考える」ことのできる余裕さえ無いのです。
それでは、表現までたどり着くことさえできません。
「どういう風に吹きたいとか無いの?」と
偶にいらっしゃる外部の先生に何度も言われましたが、
その時の僕等は意味も分らず、
笑って誤魔化しているしかありませんでした。
今考えれば、成程といった感じです。

受験やコンクールなどの競争社会では、
「ほぼ正しいやり方」が出来上がり、
それをこなすのに精いっぱいになり、
「考える」ことが減っているのだと思います。

http://www.1101.com/essay/2010-11-17.html



この記事を授業で紹介したところ、学部二年生が感想を書いてくれました。現在剣道三段の女子学生、M.N.さんです。

全文を引用します。


 
17歳からのメールを載せたWebページについて書きたいと思います。授業のときにもこの話はとても気にかかったのですが、それは「受験やコンクールなどの競争社会では、『ほぼ正しいやり方』が出来上がり、それをこなすのに精いっぱいになり、『考える』ことが減っているのだと思う」という箇所です。今まで言葉として意識したことはありませんでしたが、まさにその通りだと思います。ただし付け加えるとしたら、社会ではこの「正しいやり方」に沿ってさえいれば、間違えることはないと考えられている、という事でしょうか。

 クラシックの世界では、作曲者がいるのでまずはその作曲者の意図に沿わなければいけません。これを逸脱するのが「のだめ」流であって現実のコンクールではまず評価の対象にはなりません。ただしコンクール受けのするような演奏というのは、このいわゆる「ほぼ正しいやり方」にあたりますが、ある程度のところまでは評価されてもそれ以上は伸びません。結果を出すには一番てっとり早い方法ですが、そこに「自分」はありません。このような演奏は、少年のメールにもあるように、音楽の世界ではすぐに見破られてしまうことです。そして「のだめ」の強さもそこにあるのです。「自分」を表現する方法を知っているのですから、あとは楽譜を読み込み、作曲者と「対話」することによってそれまで枠からはみ出していた「自分」を納得させていけばいいのです。その過程は型にはまった演奏をするよりも何十倍も楽しいはずです。オーケストラやアンサンブルでは尚更です。「自分」をもった他者が何人もいるのだから、「対話」の数もその数だけあります。音楽の楽しさは突き詰めればそういった「他者」との対話にあるのだと思います。逆にいえば、そのようなことをしないただの「音の練習」に音楽の本質は存在しえない、と私は思います。

 勉強においても同じようなことがいえると思います。「ほぼ正しいやり方」に沿っただけのやり方で終えた受験には、結果の如何にかかわらず、何も残らないのではないでしょうか。何百時間も費やした受験勉強を終えたあと、手に入れたものは入学先(の学校)、、というのはまあそれはそれで(私も浪人をしているので…)めでたい事かもしれませんが、それだけじゃなあという気は拭えません。「理科で原子記号とか化学式とか化学反応式とか…習ったけど、『そもそも原子ってほんとに存在するの?』とかって1年間考え続けて、気づいたら受験も終わっていた。」という話は極端かもしれませんが、その疑問とそれを解決しようとする思考に、次の学習に続くプロセスがあるような気がします。実際、浪人時代に出会った友人には、そのような遠回りを繰り返してばかりの者も多く、彼らは私にとって「疑問の天才」でした。彼らと話すのは本当に楽しく、それは彼らが「自分の感性」、そして「他者の感性」を大事にしているからだと思います。「対話」というプロセスで答えを得たときの嬉しさはとても大きかったです。

 最後になりましたが、17歳からのメールにある、受験やコンクールなどの世界で子供たちの「考える」機会を奪っているのは、目先の結果を追いすぎる大人のエゴだ、とはいえないでしょうか。生徒をより良い進学先へ合格させたい、コンクールに入賞させたい、と思うことは、生徒の努力を結果に結んであげたいという理由があってのものだと思いますが、その結果は残念ながらその瞬間だけのものであるのも事実です。生徒がちょうど自分の目の前にいる、その時だけのものだと思います。「あと3偏差値だけ高い高校、大学にいれてあげればあなたの人生はもっと幸せになったわ」なんてことは火あぶりの刑に処させられそうになっても生徒には言いたくありませんし、教え子をそんな風に考える生徒に育てたくもありません。ただ、「考える」ことを身につけさせるかどうかで…と言いかけましたがおこがましいので、「生徒の『考える』機会を奪わない教師」になることで、生徒の人生、未来を豊かにしてあげることはできるのでは、という理想を私はもっています。
 
 私は物理が大の苦手で、テストは毎回赤点でした。ですが「考える楽しさ」や「他者との対話の楽しさ」を教えてくれたのはこの物理の教師で、彼は3年間で一度も問題の正解を教えてくれませんでしたが、大学で勉強をする上での、そして教師を目指す上での大きなヒントを与えてくれました。

 

いい感性をもち、観察力に優れ、きちんと考えることができる若者はやっぱりいるのだなぁと改めて思いました。

私も「生徒の『考える』機会を奪わない教師」であることを常に心がけたいと思います。










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2010年12月1日水曜日

意識の再編成と原理の体得

この間、学生さんのバスケットサークル(「教英バスケ」)に混ぜてもらったのだけど、ディフェンスをしていて二度ほど転んでしまった。

元バスケ選手の学生さんが解説してくれるには、「それはよくあること」、なぜなら「意識が上半身にしかいっていないから」ということ。

人間は上半身を意識しやすく、下半身には意識を向けにくい。特にディフェンスでは相手の持っているボールに意識が向いて、さらに自分が一番意識しやすい手だけをそのボールに届かせようとしてしまう。このように上半身(特に相手のボールと自分の手)だけに意識を向けた運動をしてしまうと、それは往々にして全身のバランスを欠いた運動・姿勢になってしまい転倒するというわけ。なるほどね。

その学生さんは、そういった人間の癖(意識しやすいところだけしか意識しないこと)を取り除くため、ボールのないバスケットボールのプレーを時々練習させられたとのこと。ディフェンスの練習でも、相手がボールを持っていないと、相手のボールの動きにごまかされることなく相手の身体全体に対してこちらも身体全体で反応できるようになるとのこと。フリースローでも、ボールなしで練習すると日頃はボールに気を取られて意識できない膝のゆるみなどに意識が向けられ、スローが改善されるとのこと。なるほど、なるほど。

格闘技でも、相手がいるとついつい「勝とう」とか「負けたらどうしよう」とかばかり考えて相手の心身全体に感応することができなくなってしまう。自分の身体にしても意識しやすい腕や肩ばかり意識して、「力んだ」突き、つまりは全身が協調的に動いていない突きしか出せず、相手にはほとんど効かない。あるいは入門数ヶ月の新人がむりやり試合をすると、本当に笑えるぐらいに子供の喧嘩のように手を振り回してしまい、「突き」ができない。ある技能を習得するには、その技能に適したように意識を再編成し、技能の原理を体得させておかねばならない。

だから空手だったら、最初の練習は「三戦(サンチン)立ち」という、日常生活からすれば特殊な立ち方をさせる。身体の重心が丹田にあることを意識させ、なおかつ身体の中心が垂直な線によって天地に貫かれていることを意識させやすくして突きの練習をさせる。移動稽古でも、「前屈立ち」という立たせ方をさせる。重心(丹田)が左右はおろか上下に不必要に動かないように、かつ重心の前への移動と突きが同調するようにして突きの練習をさせる。日常生活の動きの意識や、興奮・動揺して相手にとにかく手を出そうとする動きの意識を徹底的に再編成させる。身体意識が正しく再編成されたら、それを頼りに自己鍛錬ができる。正しい自己鍛錬が続けば空手の原理が自ずから自得される。もちろん意識と運動の同調の微調整は必要だけれど、要は意識を再編成させることが訓練の最重要課題。意識を再編成させやすい課題を考案し、うまく学習者の意識を変え、原理を体得させるのが指導者の役目。

ひるがえって、英語学習はどうか。英語学習でも普通の人はすぐに「カイワ」をしたいと願い「ネイティブ」のいる会話学校に行く。だが大抵の場合、それでは英語は上達しない。それはバスケットや空手の原理を意識せず理解・体得しないままに練習試合ばかりする人が上達しないのと同じである。

無論商売としては悪くはない。原理を教えず、いわば上達を困難にする構造を作り保ったまま、「カイワ」や「試合」の楽しさを訴え続ければ、学習者はいつまでも上達せずに習い続ける。学習者が「いつかは上手くなるかも」という幻想を抱き、「カイワ」や「試合」の小手先の楽しさを感じている限り、授業料は徴収できる。やがては止めるだろうが、広告をうまく展開して幻想と楽しさを訴えれば新入生も入ってくるだろう。焼畑農業が成功する程度に、この商売は成功する。

だが学校教育がこうであってはならない。学習者にこれまでとは違う原理を理解させる。異なる心身の動きを体験させ、心身の可能性に気づかせる。原理に忠実な課題で、学習者に新たな心身の可能性を探求させ、学習者の意識を再編成させ、その心身の動きを体得させる。そうして闇雲に試行錯誤することでは決して到達できない状態にまで学習者を上達させる。再編成した意識で学習者が自律的に自己鍛錬ができるように導く。そして自ら原理を体得する喜びを感じさせる。公的な学校教育はこういった原理を大切にした教育体系を持つべきだろう。

それでは英語学習の「意識再編成と原理の体得」とは何だろうか。思いつくままにいくつか書く。

発音については母語では口舌の意識はほとんど育っていないだろうから、英語という新たな口舌運動の意識を創り上げる。構音の原理(フォーム)を理解させそれを自らの口舌で実感できるように体得させる。

文については、まず主語を明示的に意識させる。主語の後には原則として主語の動きを示す動詞をすぐに置かせ、文の基本構造をすぐに示すように文構成の意識を再編成する。具体的な新情報は、次々に継ぎ足すように追加し、情報の根幹部分は先にもってくるようにも意識を変える。そのように意識を変えた上で、その原理が意識しなくてもできるように訓練で導く(注1)。

長文を書くことにおいては、(これは実は日本語でも同じなのだが)「自分が書きたいように書く」のではなく、「相手が読みやすいように書く」ように意識を再編成する。あるいは話の流れを構造化し、その構造を適宜示すように意識を育てる(注2)。相手を意識せざるような課題を出し、書くことの原理を体得させる。

その他にもたくさんあるだろうけど、英語教師はどれだけこういった原理を理解し、明示的に指導しているだろうか。

あるいは原理の発見すらがまだまだなのかもしれない(あるいは先人の発見した原理を私たちが軽んじ忘れてしまっているのだろうか)。原理を意識して、自ら英語を学び使い、他人に丁寧に教える英語教師は十分な数だけいるだろうか。

さらにはその原理を頭の上の理屈として理解させるだけでなく、学習者が体得するように効果的に訓練方法を開発している英語教師はどれぐらいいるだろうか。「只管音読」といった一種の根性主義(注3)ではなく、知的感性を要し育み、知的意欲が思わず喚起されるような意識的上達法を英語教師はどれだけ知っているのだろうか(注4)。

優れた英語教師のもとで学ぶ学習者は、たとえ最初のうちには「カイワ」をする機会がなくとも、訓練の中で自分の意識が変容し、新しい心身の動きが獲得される成長の喜びを感じる。そして自ら進んで学ぶようになる。やがて驚くほどに英語が使えるようになる。そうすれば学習者自身が「やたらと会話ばかりしようとしても駄目だよ」と無理なく言うようになるだろう。英語教師はそのような学習者を多く育てないかぎり、世間の「カイワ」願望や「ネイティブ」信仰はなくならないだろう。もちろん末永く焼畑農業的に商売を続けたいのなら別だが、学校教師は金儲けをやっているのではない。それならば生徒が喜び、自らも楽しい探求的な英語教育をするのが理というものだろう。

英語教師自身が英語学習・英語使用の原理を探求し、自らの意識を次々に再編成して高次のものに変えてゆく。そうして自ら英語学習者として成長し、現実社会における優れた英語使用者になる。そしてその成果を学習者に伝える―こうした英語教育の内発的な喜びを感じられるように英語教育の文化を変えたい。



(注1)「主語」をめぐっては拙稿文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―をお読みいただければ幸いです。

(注2)英語を書くことに関する原理的解明としては『理科系のための英文作法―文章をなめらかにつなぐ四つの法則 』(中公新書)がすばらしいです。(私の紹介記事はこちら)ぜひお読みください。

(注3)「とにかく○○さえ徹底すれば上達する」というのは、私は悪い意味での根性主義だと考える。昔の空手道場にも似たようなところがあり、「とにかく基本さえ繰り返せば強くなる」と言ったきり、原理も理解させず意識のあり方も教えないままにとにかく「繰り返せ、繰り返せ」とやってゆくと、ごく少数の才能・感性・意欲に恵まれた者は原理を自得するが、ほとんどの者は上達できずに「自分には根性がない」と挫折して止める。このような根性主義での成功者は、多くの挫折者の屍の上に立っていることを忘れてはならない。(もっとも、忙しく考える暇もない人に「○○さえ繰り返せばよい」と暗示をかけるというのは現実的な手段としてはそれなりに有効であろうが、可能ならば指導者は原理や意識変容について短時間で指導できるように自らの力量を高めておくべきであろう)。

(注4)「知的感性を要し育み、知的意欲が思わず喚起されるような意識的上達法」の実践者としては私は第一に甲野善紀先生のお名前をあげさせていただきたく思います。










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【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


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