一つは桜井章一先生。先生の著作は長年、何冊も読んでいましたが、実際の姿を拝見したことがありませんでした。桜井先生のことを知るにつれ、これは著作でなく実際の立ち居振る舞いや声の響きを聞かなくてはならないと強く思うようになっていましたので、先日、思い切ってある講演会に参加しました。
想像以上の人でした。
会場に入ってきた姿を私が最初に認めたときに、桜井先生の周りが一枚の壁のようになった風圧を感じました。「ふわっ」とした圧力が面で感じられたのです。その場には、以前に甲野善紀先生の講習会で知り合いになったバレリーナの方もいらしたので、会が終わった後に感想を聞いてみると彼女も同じように感じたそうです。また下に述べる機会でお会いした音楽関係者の方もものすごい存在感を桜井先生に感じたそうです(ちなみにこのお二人は、私と違って桜井先生に関してはほとんど予備知識がなかったので、私が感じた風圧もそれほど的外れなものではないかと思います。もっともこういったものは、感じない人にはまったく感じないのでしょうが)。
そして桜井先生は身体が徹底的に緩んでいました。ちょっと見た目には酔っ払っているのかとすら思えるぐらいに、力みのない身体で、身振りにも声にもまったくといっていいほど硬さ(あるいは頑なさ)がありません。まったく自然な身体―それも練り上げられた自然ではなく、ただただ自然な身体―のように思えました。
実際、お話の中でも、「若い頃は精神・心が大切と思っていたが、最近ますます身体(カラダ)が大切だと思い始めている」とも、「昔は道場生を麻雀で勝たせようと思っていたが、今はもっとうまく身体を使ってほしい」ともおっしゃっていました。
この桜井先生の動く姿をできるだけ私の心に浮かべておきたく思います。それは私の人生の一つの導きになるかとも思います。
もう一つ述べておくべき出会いは、甲野善紀先生と森田真生さんの催しでした。実は私はこの催しについては前もってほとんど知らなかったのですが、甲野先生が福山の講習会に来られた時の懇親会で「こんなものもありますよ」とおっしゃってくださったのでそれだけで行くことにしました。
ですから当日もゲストは誰だか知らない状況だったのですが、ゲストはやはり素晴らしく魅力的な方々でした。一人は舞踏家の山田うんさん。お会いした時から身体表現者としての自由さ・自在さを感じられる方でした。
もう一人は和太鼓奏者の佐藤健作さん。この方は太鼓を運ぶトラックから顔を出した瞬間から破顔一笑の笑顔で、もうただただ惹きつけられました。
催しの頂点は、佐藤さんの太鼓に甲野先生が剣、山田さんが舞でそれぞれに即興で動くというものでしたが、どちらも素晴らしかった。それぞれの即興の動きの柔らかさと自然さは、佐藤さんの太鼓の響きと共に私の中に残っています。(当日の甲野先生の動きは下の動画などからご想像ください。その際、剣や杖よりも身体全体の動きにご注目ください)。
この催しで私はその他にもたくさんの素晴らしい方々―立ち居振る舞いが自然で、虚勢や強張りとは無縁な方々―にお会いできることができました。この縁に感謝します。
こういった出会いの中から、ぼんやりとですが私の来年のあり方についての気持ちが定まってきたので、年の瀬の今日書き記しておきます。
私のあり方としては
随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい
と今のところ思っております。
「通じた身体(からだ)」とは佐藤健作さんとお話させていただいた時に頂戴した(と私が思っている)言葉です。私は素人としての愚問を発することを厭わない人間ですので、佐藤さんに「どうしてほとんど打ち合わせもせずに、甲野先生や山田さんとの即興ができるのか」と尋ねました。その際佐藤さんは、「いや、お互い通じていればできるんですよ」などといったようにお答えしたように覚えています。
その日の三人をずっと観察していた私としては、こういった方々は「通じた身体」あるいは「通じる身体」をもっていると表現したく思いました。相手の動きに余計な壁を作らず、相手の動きを歪ませることもなく、そのままに自分の身体に通し、その動きに自分の動きをさらに加えて、しかも自分の動きを我意で損ねることもなく、相手の動きを二人の動きにして返してあげる身体、と言ったらいいのでしょうか。うまく表現できないので、言い換えますと、相手の言動を強引に拒まず、変容させず、そのまま受けつつ、しかし自分の言動を自分自身で駄目にしてしまわないで相手の言動の流れに乗せることができる身体―そういう身体の人間になりたいと今私は思っています(そしてそんな身体を桜井先生、甲野先生、山田さん、佐藤さんなどの方々の残像から想像しようとしています)。
そういう「通じた身体」の行住坐臥をもって、何時どこに居ようが、その時その場所の様々な関係性の相互作用を豊かに育むことができるようになりたい―「随時随処の諸縁を活かす」ようになりたい―と願っています。
とはいえ、これまでの私は、頑なな心とガチガチの身体で、諸縁を否定し壊し我意をブルドーザーのように貫こうとしてきた人間ですから、このように言葉を紡ぎ出しただけではうまくはいきません。しかし言葉にすることが何かの端緒になればと思い、恥を忍んで、「随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい」という願をかけたいと思います。
来年も私はこの願に反する恥ずかしく無様な振る舞いをするでしょうが、どうぞ皆様ご指導よろしくお願いします。
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3 件のコメント:
柳瀬先生
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
先生がここで紹介してくださった、内田樹さんや桜井章一さんの本をこの休みに読みました。大きな木槌で頭を思いっきり打たれたような感じでしたね。ここ十年くらい、受け持った子どもたちやその保護者、そして、同僚達の様子が、以前とどこかが違う、何かがヘンだと感じてきたことについて、納得がいく説明を得られて、少し頭の中が整理されたようです。
私自身は、運動も武道も全くダメなので、おそらく体の使い方がダメなんだろうなぁと思いますから、体で学ぶというのはまったく不得手でしょうね。でも、学びたい知りたいという気持ちは、まだ失ってはいません。今年も、ぼちぼち学びながら、仕事を続けていきたいと思います。
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
僕も甲野さんに会ってみたいなぁ。
身体性というのが僕も同じく、今年のテーマになりそうです。
ポッピーママさん、Tomoさん、明けましておめでとうございます。コメントならびに日頃のご愛顧ありがとうございます。
ポッピーママさん、内田先生や桜井先生の著作を読んでいただきありがとうございました。それだけでもブログ記事を書いた甲斐があります。
Tomoさん、自らと分離した分析対象ではない、自ら感知する身体というのは本当に面白いテーマだと思います。医学でも哲学でも教育でも「身体」はもっと考察され自知されるべきかと思います。
甲野先生の講習会は、ぜひ機会を見つけて参加してみてください。とても学究的な方です。
なお、
http://www.shouseikan.com/zuikan1101.htm#1
に甲野先生の新年の挨拶がありますが、これもしみじみとしたいい文章だと思います。
>
あとは私の技が「人間が生きている」という現象そのものにどこまで斬り込んでいけるかが課題なだけである。
そして、この課題に対する評価は私自身が下すべきものであって、人からどう言われようと私が自覚しているもの以上に褒められてもシラケるだけだし、見当違いに批判されても「ああ、わかってないなあー」と思うだけである。
ただ私としては、この「まさに自分は生きている」という実感は、やはり武術を志した者として、この身体を通した実感と共に味わいたいと思う。
(略)
この先どうなるか分からないが、とにかく流れに沿って、この先の日々を送ってゆこうと思う。
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