2011年1月5日水曜日

椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・

年始に腰が痛くなったので、運動を控えていました。腰痛体操などで少しずつ治ってきましたが、研究室の椅子に座って仕事をすると、立ち上がる時に腰痛がひどくなっていることが露骨にわかります。

あまりに露骨だったので、研究室の椅子を学生控室の回転椅子と交換してもらいました。

研究室の椅子は前任者からそのまま引き継いだもので、頭部までの高い背もたれとしっかりとした肘掛けをもつ高級タイプです。どっかと深く座り込むと思わず「ふぅっ」と声が出るようなものです(ただしクッションは固い)。

私はこの椅子を13年間ぐらい使ってきました。ですが仕事をする時にはどうもやりにくく、正座やあぐらで座っていましたが、正座はすぐに足がしびれますし、あぐらは肘掛けが邪魔でうまくかけません。まあそれでもずっと使ってきましたが、年始からの腰痛が、日常生活ではほとんど感じないぐらいに回復しているのに、この椅子に座って作業するたびに悪化するので、学生控室の回転椅子と交換してもらったわけです。

その回転椅子は通常よくあるもので、背もたれは私の背中半分ぐらいの高さしかなく、肘掛けはまったくありません。それほど高価なものとは思えません(しかしキャスターのついた脚は五本あるし、クッションもやや固めでしっかりとしたものなので、まったくの安物というわけではないでしょう)。

とりあえずその交換した椅子で正座で座りますと、腰がすーっとします。腰骨が立ち、背骨が垂直になり、まるで腰にまとわりついていた痛みの錆がはらはらと落ちるように腰回りがすっきりして身体的な快感さえ感じました。

あぐらをかいても、肘掛けで邪魔されないこともあり、無理なく腰骨が立ち立身状態になります。椅子を換えて一時間あまりは、身体的なスッキリ感を持続的に感じることができました(今これを書いているのは椅子を換えて半日後ですが、当初の劇的な身体的快感は減少したものの、やはり腰骨が立ち立身中正を保ちやすく、肩も落ちて気持ちがいいです。

こうして椅子を換えて姿勢が変わると、なんだか気持ちや意欲が変わってしまって、本日後半は仕事がはかどりました。この研究室には、前の椅子に座って、とにかく仕事をしなければならない日々の記憶や、うつ状態になって腕や肩など鉛が入ったような状態になっていた時の記憶がつきまとっていましたが、すっかりその記憶が身体から抜けたようです(認知的にはこのように想起できるのですが、身体的に想起しにくくなりました)。前の椅子に座るときにはほぼいつも「ふぅっ」「あぁ」「よいしょ」「どっこいしょ」といったように座り込んでしまい、座った途端になぜか疲れが出たような気がしていましたが―そしてそれを私は当たり前のことだと思っていましたが―、それも今の椅子ではありません(本日は椅子交換で、そういった倦怠感が急に消えたわけですから、今日の私の体調がいいから気分がいいわけではないでしょう)。腰痛についても新しい椅子では悪化するということは一切ありません。これもありがたい。今日の前半には、椅子から立ち上がる度に「あたたたた」と小さくうめいていましたから。

また私としては少し驚いたことに、別に正座やあぐらで座らずとも、この椅子でしたら普通に座って、腰骨を立てて背筋をすっと上に伸ばし、背もたれをほとんど使わずにいるだけで楽です。体躯と腿、腿と脚がそれぞれ直角になり、足の裏もぴったりと床についている姿勢が気持ちいいです。そういえば桜井章一先生はある講演会で、「麻雀が下手な奴は座っていても踵が浮いた座り方をしている」と仰っていましたが、今はその意味が実感できます。体躯と脚が垂直に、腿と足が水平になり、足の裏がぴったりと床に着くと落ち着きますし静かな気持ちになれます。

前の椅子のような「高級」椅子、あるいは「お大臣タイプ」の椅子は、深くどっかりと座りしばらくは楽なようになりますが、腰が固定されてしまうので腰痛に悪いのかもしれません。その点、正座やあぐらでは腰骨を立てなければならないので、多様な腰の筋肉を微妙に使うからかえって腰痛にならないのでしょうか。あるいはこの椅子での背もたれをほとんど使わずに垂直水平を活かした座り方をしておいても同じです。背もたれを使わないのは疲れそうですが、私にとってはこちらの方が楽で気持よく腰痛にもいいです(これには私がわずかなりとも武術の稽古をして立身中正や正中線などを意識することを学び、その姿勢を保つための腰の筋肉も少しついたことも関係しているかもしれません)。

前の椅子は、仕事の際は、どっかりと座って体躯を背もたれに後傾させて、腕を無理に伸ばすようにして作業をしてしまいがちでした。あるいは集中すれば逆に体躯をかなり前傾して作業していたようにも思います。いずれにせよ前の椅子では垂直水平は保たれにくいようになっていました。

ここからはさらに推測を重ねますが、ひょっとしたら私の疲労感やうつ感情も、前の椅子がもたらす姿勢によってかなり引き起こされていたのかもしれません。少なくとも腕肩の無理な緊張や、内蔵の圧迫が長時間続いて身心によい影響があるとも思えません。

武術家や演説家などは、立身中正を保ち、正中線を立てることの重要性を説きます。「大げさな」と思われるかもしれませんが、彼らによるなら、緊張状態の中で呼吸と心を静かに保ち、するりと身体が動くようにするためには、垂直・水平方向への意識を高め、身体を垂直・水平を活かした姿勢と動きで使うことが何より重要となります。

姿勢の重要さはマラソンで考えたらわかりやすいかもしれません。40キロ以上を走る二時間余りの間、歪んだ姿勢で走ったらどうなるでしょう。きっと呼吸はしにくく疲労が加速し、腰や膝や足首なども痛めて、タイムも遅くなってしまうでしょう。だからマラソン選手は、他のスポーツ選手同様、フォームを大切にします。

事務仕事をする私たちは、少なくとも時間の上では、マラソンの数倍の時間を毎日座って過ごします。この間、歪んだ姿勢で仕事をすれば、呼吸は滞り脳に本来送ることができる酸素や血液も送ることができず、一部の内蔵は圧迫され機能が停滞し、首肩腰などに猛烈な凝りを覚えるでしょう。できるだけ疲れずに、効率よくかつ冷静に仕事をするにはフォーム、つまりは姿勢が大切です。

ましてや事務仕事は何十年と続きます。自ら気づくことなく、何十年と悪い姿勢をし続け、仕事や人生なんてこんなものだと思ってしまう人の損失はいかばかりのものでしょう。

私は以前から姿勢のことには関心がありましたので、ある学校の助言者になった時に、生徒の基本的生活習慣の一つとして、姿勢の指導はどうなっているかを評議会に出席していたその学校の体育の先生に聞いたことがあります。その会の討論の一連の流れから、他の助言者にはその質問の意義は共感的に理解してもらえましたが、答えるハメになった体育の先生は、基本的に自分は様々な競技スポーツを指導することを職務としていると答えるだけにとどまりました。

しかし日常生活の姿勢や動作が崩れていて、競技スポーツだけ上達するというのもちょっと考えにくいことですし、仮にその競技で勝ちを収めても、その勝利はその競技から引退すれば意義を失うものとすら言えるかもしれません。言うまでもなく、競技をしている時間と、競技をしていない日常の生活の時間は、圧倒的に後者の方が長いのですから、学校教育の「体育」が目指すべき目的は日常生活の姿勢や動作の機能的な優美さだと私などは素人考えをします。

いや、昔の日本でしたら学校に任せずとも、日常生活で立居振舞について厳しく言われ、周りも合理的に身体を使った生活をしていましたから、機能的で優美なという意味で「正しい」姿勢と動作が自ずから身についたのではないかと想像します。

もしかすると明治の大改革を可能にしたのは、そのような日本人の身体作法―およびそれが生み出す活気と知恵―であり、第二次大戦後の復興を可能にしたのもまだ残っていた身体文化だったのかもしれません。

しかしどうやら現代の私たちはどうやらその身体的伝統文化の多くを失ってしまったようです。そうなると「第三の開国」の喫緊の課題の一つは、常日頃の身体操法の質を高めることとすら言えるかもしれません。

単に椅子を換えた話題から、第三の開国まで話題を飛躍させるのは、誇大妄想的無責任ブログ文章の一つの典型ですが(笑)、気になったので書き連ねました。まあせめてこれを機に、私なりに、今までのひどい姿勢や動作について自覚を高め、少しでもそれらを改善しようと思います。

おそまつ。



追記
この記事の主張に賛同してくれた私の友人が愛用している椅子は、これだそうです(色違いのものもあるようです)。私もこういった椅子が仕事には一番合理的だと思います。

さらにその友人は、「腰骨立ての時間」に象徴される基本的な生活習慣を重視する弥生小学校のことも教えてくれました。

この小学校の取り組みを生徒指導に活かしているのが博多中学校ですが、そこでは昔日の元服や裳着に倣った立志式というのを行うそうです。こうしてみると日本の伝燈―語本来の意味は「仏の法燈(仏の心)を受け継ぎ伝えていく事」なので、「伝統」ではなく「伝燈」と書くべきだと先日習いました―はまだまだ全国各地で生きているようですね。(ちなみに私は「腰骨を立てる」という表現はこの博多中学校で学びました)。

この博多中学校の近所は、博多山笠で有名な地域です。こういった記事などを読むと、地元の祭というのが、子どもの成熟・若者の成長にものすごく大きな貢献をしていることがよくわかります。地域の教育力は、家庭や学校の教育力と同じように強調されるべきかと思います。言うまでもありませんが、学校だけが子どもを教育しているわけはありません。学校だけに子どもの教育を任せるのは、度を超えた期待と言えましょう。









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【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

4 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

>この研究室には、前の椅子に座って、とにかく仕事をしなければならない日々の記憶や、うつ状態になって腕や肩など鉛が入ったような状態になっていた時の記憶がつきまとっていましたが、すっかりその記憶が身体から抜けたようです(認知的にはこのように想起できるのですが、身体的に想起しにくくなりました)。

その椅子が悪しき心理的「トリガー」になっていた可能性もありそうですね(過去の身体的記憶を想起させる「トリガー」に)。

なににせよ、先生の腰痛が改善してよかったです。新年早々めでたいことです。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、
たしかに私が気がつかないうちに、前の椅子が「トリガー」になっていたかもしれませんね。
このように気づかないトリガーというのは、結構あるのかもしれない。
その当たりにすぐに気づける感性が欲しいですね。(←てか、部屋を掃除しろw)

Tomo さんのコメント...

逆によいトリガーも作れるでしょうね(成功した時の良いイメージとともに)。でもそれが「臭い靴下」とか「腐りかけのドリアン」とかだったら、残しておくべきかどうかすごく迷いますけど(^^;)

柳瀬陽介 さんのコメント...

なるほど良いトリガーを作ればいいのですね。

「臭い靴下」とか「腐りかけのドリアン」でもいいでしょうが(笑)、例えば「と」という音を聞いたら、それがプチ・トリガーとして働くようにして、話し相手が「と」という音を出す度に、心身が活性化し、その瞬間は瞳孔が1.5倍ぐらい大きくなるなどなれば面白いでしょうね(←てか、話し相手は気味悪がるwww)。