2011年1月10日月曜日

武術的授業?

昨年末に「随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい」と書きながらも、締切の過ぎた原稿を抱え、善意の年賀状にもお返事をまだ出さずと、まったくもって諸縁を活かすことができないありさまです。しかしそれだからこそ「諸縁を活かす」というのを願としてゆきたいと思います。

さて昨年からやり残している宿題が達セミ(英語教育達人セミナー)関係で、その一つが昨年末(12/25土曜日)に広島市で開かれた達セミ報告です。ここでは以下にその達セミ報告をします(あと四つの宿題、誠に申し訳ありません。今日はまだご勘弁を)。



■西山正一先生(鳥取県)の職人的仕事

西山先生は、ビンゴ活動に長年改善工夫をされております。私は西山先生のセミナーに参加するのは二回目ですが、前回よりもまた大きく改善されていました。

大きく改善といっても、これはエクセルがあればできることです。しかし西山先生は部分的改善を徹底的に図り、非常に合理的で使いやすいシステムを作っています。こういった一つのことを誠心誠意改善してゆくというのは、日本文化の特徴の一つかとも思います。こういった職人的仕事を私も少しでも真似してゆきたいと思います。



■胡子美由紀先生(広島県)と岡田栄司先生(徳島県)の武術的授業(?)

胡子先生と岡田先生の授業については、「武術的」という言葉でまとめてみたいと思います(すみません、今個人的に武術が面白くてたまらないものでw。でもこんな破天荒な比喩は紀要はおろか商業原稿でも書かせてくれないから、ブログで書くしかないのよ。Free (=自由・無料)の媒体って素敵www)。

「武術」というのは、(私たちが通常親しんでいる)近代的身体操法と比べて以下の特徴を有する身体操法だとここでは暫定的に定義します。


(1)一部の使いやすい筋肉だけを使うのでなく、全身の筋肉および骨格構造を協調的に連動させて使う。可能なかぎり相手の全身も活用する。

(2)我意に囚われず、その時その場の機縁を可能なかぎり最大化する。


なぜ通常の身体操法でなく、ことさらに武術を取り上げるかといいますと、武術の身体操法ですと、通常の身体操法ではとても勝てないような大きな相手にも勝てるからです。

(1)でしたら、普通は自分が使いやすい一部の筋肉だけ使って運動をしますが、それですとその筋肉がすぐに疲れますしまた運動も単調に非常になりますので相手にもすぐその動きが読まれます。しかし武術的動きですと、全身の筋肉・骨格を少しずつ使いますから疲れにくい運動となります。さらに協調的に連動して使いますので、動きが刻々と変化して相手も対応しにくくなります(低いレベルでしたら腕相撲などでもこれは実証できます)。

(2)でしたら、「こうしなくてはならない」「このようにしてやろう」といった我意に囚われず、臨機応変に、その時その場にあるものはすべて活用しようとしますので、最小限の労力で思いも掛けない効果を生み出します。

このように武術的な動きは通常の動きよりも優れていますから、通常の期待を越える実効性をもつ授業を形容する言葉として「武術的」を使います。

「武術的授業」というのは、上記の特徴を敷衍させた特徴を有する以下のような授業だと定義します。


(1)'教師が慣れたパターンの説明を口舌だけで行うのでなく、全人格で知り得ている知識知恵を、全身の表現力を協調的に連動させて伝える。可能なかぎり学習者一人ひとりの全人格・全身を巻き込み、一人ひとりの違いを活かしながら教室全体を一つの大きな流れにする。

(2)'予めの教案に囚われず、その時その場で生じた機運・契機をできるだけ活用する



私の主張は、胡子先生や岡田先生の授業などは(他の優れた授業同様)、これら(1)'と(2)'の「武術的」な特徴を有しているというものです。

いくら私の最近の関心が武術だとはいえ、私とて達セミのセミナーを見ながら最初から武術と授業を類比させるつもりなどありませんでした。ですが両先生の授業ぶりを拝見していると、思わず「うまいなぁ。無理や無駄がなくて、まるで武術的だなぁ」と自らつぶやいてしまい、この類比を思いつきました。当日の私は両先生のデモンストレーションに見惚れており、あまりノートを取れませんでしたが、以下残っているノートをもとに、(1)'と(2)'の具体的な言動を記述してみます。私の関心は「誰が素晴らしい教師か」といった品定めにはありませんので、以下の記述は胡子先生と岡田先生(および全国にたくさんいらっしゃる先生)のものを区別せずに記しています。



●(1)'慣れた説明パターンだけでなく、全人格・全身で、自分と学習者一人ひとりと連なり、教室全体を一つの流れにする。

・一見すると教師がしゃべっているだけに思える場面でも、観察によるフィードバックが多い。教師の発言は一方的な説明や指示ではない。しゃべっているのは教師だけのように見えるが、しばしば教師は生徒の気持ちを代弁している。

・さらにツッコミを入れたり、さりげなく褒めたりして、この教室が何を目指しているかを随時示している。

・生徒に指示したら、その指示がきちんと理解されているかの確認をして、教室全体が協調的に連動するように常に心がける。生徒がペアでしゃべる時にはイスをしまわせるなどの具体的・身体的配慮も忘れない。

・ペアでの話を、教室全体に向けて再生させるなどにより、相手の話をよく聞き、教室全体によくわかるように話すことが自然に達成されるように活動を行う(ちなみにペアの相手の話を教室全体に報告すると、自然に三人称の表現が多用される)。

・ペア活動を授業で固定してしまったら、あまり乗り気でない生徒の相手となった生徒はずっと苦労するので、ペアは柔道の乱取りのようにどんどん相手を換えてゆく。

・教室全体での活動ではしばしば教師が、(まるで「踊るさんま御殿」の明石家さんまのように生徒一人ひとりの良さを活かすように司会する。「班で話す→班長が報告」という流れでも、班長や班員の表情を細かに観察し、時には報告が終了するのを待たずに、「わぁ、それ面白いなぁ、誰の意見?」と少し深く聞き直すなどをして、相互作用を深める。時には班員以外の生徒の反応にも着目し「うん、うなずいているなぁ」などと言って、その生徒の発言も促したりする。


●(2)'予定・予見に囚われず、機運・契機を活用する

・「シーンとした状況」なども、叱らずに「あら、今日は静かね」などと価値判断抜きにただ記述する。あるいは笑いにしてしまい、うまくいかない状況を叱責などでさらに悪化させることなく、その機運をうまく理解し活用させようとする。

・生徒の間違いも何もかも活用する。「○○か・・・そうだよね。よくそう考えてしまうんだよね。ありがとう。でも△△だから◇◇だよね。間違うとよく覚えられるよね」などとフォロー。

※補説:「できないこと」は生徒の常態。それは病気が患者の常態であるのと同じ。よい医者は、患者が病状を示すと「日頃の健康管理がなっていない!」などと説教することなく、冷静にその状態を見極め、その時点での最善の処方箋を示す。教師も生徒ができないことに対して否定的な評価をする前に、冷静に生徒の認知・心理状況を見極め、そこからの最善策を示すべき。医者にも教師にも、否定的な感情は本来必要ではない。


・生徒のいい作品はプリントにして配布するなどして、生徒の力を他の生徒にも波及させる。教師の力(=「使いやすい筋肉」)だけで授業を活性化させようとしない。

・活動時の決定や指示などでの無駄な時間がなく、うまく教室全体の流れを誘導し、流れが途絶えることを避ける。ランダムな指名でも「昨晩、一番遅くまで起きてた人」、「誕生日が近い人」など生徒の個人的関心を喚起するようなやり方で決定する。

・どうしても乗らない生徒(○○)がいる場合、例えばその時に"I think ... "の構文を習っているのだったら、「みんな、○○は何が好きか知ってるか?英語で言ってみようよ」などと他の生徒に英語での発言を促す。発言する生徒の中では(明らかに好みを知っている場合は除いて)"I think ... "という英語表現がまさに生きて使われる。次々に自分についての発言がなされるのを聞く○○もまんざらではない顔で聞き始める。後に○○も少しずつ授業に参加する態度を示し始める。




●「武術」「武術的授業」の前提

このように武術や武術的授業は、通常のやり方((=我意に囚われ、自分のやりやすいやり方だけしかせず、随時随処の機縁を活かさない)と比べてすぐれていますが、これまで通常のやり方しかやっていなかった人間が、いきなり武術や武術的授業の真似をしてもうまくゆきません(というよりかえって失敗するでしょう)。

武術でしたら以下のような前提が充たされている必要があります。


(a)武術の身心(例えば、正中線や丹田が常に活用されている身体)が日頃の稽古を通じてできている。

(b)武術の身心が日常生活の身心となり、行住坐臥において武術の身心を鍛錬する習慣ができている。(逆に言うなら、武術の身心は日常生活の身心でもあるぐらいに静かで力みのないものである)

(c)武術は人間が生きるためにあるということを理解している(武術は闘いの技法であるが、いたずらな殺傷が武術の目的ではない)。



類比的に「武術的授業」の前提を考えますと、次のようになるかと思います。


(a)'英語の身体が日頃の訓練を通じてできている。平易な内容なら、自分が教えるレベル(中学、高校、大学など)の英語で、ことさらの注意資源や意識を使うことなく、自然に(正確に)発話できる。

(b)'英語教師としての姿勢が授業以外でも保たれ、教室を出ての日常生活でも英語教育を改善する習慣ができている。(逆に言うなら、英語教師としての姿勢は日常生活の姿勢でもあるぐらいに平然とした驕りのないものである)。

(c)'英語学習は人間が生きるためにあるということを理解している(英語学習は得点につながるが、いたずらなテスト対策が英語学習の目的ではないことを熟知している)。



これらの前提が胡子先生や岡田先生においても充たされていることは、以下のような観察からも確認できました。

●(a)'教えるレベルの英語が体得されている

・教室での英語発言が、特別に意識せずとも常に正確な発音と文法および自然な表現で自由自在にできるため、生徒の観察ができる。このような基本的な「教室英語力」がついていないと、英語をしゃべることだけで精一杯で観察どころではない。観察ができるようになるためには、日頃から「教室英語力」(および授業準備)を万全にしておく

●(b)'英語教師のあり方が教室外でも生きている

・生徒の問題の多くが、「荒れ」と「しらけ」から来ているのではないかという経験的仮説に基づき、教室外での生徒観察・生徒理解に力を注ぐ。

・英語授業の目的の一つが「生徒にコミュニケーション力をつける」のだったら、人々の間で心をつなぐ「道徳・人権・学活」などと英語授業が直結していることを深く理解しその理解に基づき行動する。その他の日常生活でも「言葉が生きていること」が大事であることを徹底的に自覚しその自覚に基づき発言する。

・学校での観察だけではでは把握しがたい事柄はアンケートなどで掌握する。


●(c)'英語教育の目的がわかっている

・英語の学力をつけ(副産物としてテストの成績が上がること)、生徒のコミュニケーション力が高まることのさらに向こうには、生徒が人間として・社会人として自立することがあることを深く理解し、日頃の活動も究極のところではそこを目指すように方向付けを間違わない(「随時随処の機縁を活かす」ことも、根本の方向付けが定まっていないと、思いも掛けない方向に迷走するおそれがある)。

・「ペア活動のない授業は英語(言語)の授業ではない」(=人間関係を成立させることができず、表面的・形式的に英語構文を産出するだけの授業は、英語(言語)の授業とは言えない」という信念に基づいて授業を創り上げている。

・「リーディングはスピーキングのもとになる」(=リーディングで学ぶ表現は規範的表現(喩えるなら「楷書」)であり、即興のスピーキング(草書)を行う根本となる)など、英語教育の諸側面間の理解がきちんとなされている。




以上、胡子先生や岡田先生などの授業の様子を私なりに「武術的」という言葉を使って説明をしました。この文章が「武術」および両先生の実践に対して誤解という非礼をしていないことを切に願っています(私の錯誤はどなたでもご指摘ください)。

まあ、「武術的」という言葉を使わずとも、樫葉先生の言葉を借りるなら「いい授業が成立している時の教師の力はせいぜい20パーセント。あとの80パーセントは生徒の力によるもの」と一言で済むのかもしれませんが、私としては武術という西洋近代の思考法だけでは捉えがたい東洋の伝燈文化の力を借りることにより、少しは「新しい」(=伝燈文化を継承している人からすれば古くからのものだが、西洋近代だけに染まってしまった人からすれば斬新な)解釈ができるかと思い、ここに拙文をまとめました。


私の説明はさておき、「現場」―褒め言葉です!―の知恵は凄いなあと改めて思わされます。

このような出会いと学びを全国各地で実現させている達セミの谷口幸夫先生には改めて感謝の念を表します。












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