2017年8月9日水曜日

意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料



全国英語教育学会第43回島根研究大会において8/19(土)の朝9時半から個人発表(「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--」)をさせていただくことになりました。会場は第10室(教養1号館)です。

下に、当日に投映する予定のスライドと配布する予定の印刷資料をダウンロードできるようにしましたので、ご興味のある方はご参照ください。


なお同日の13時半からは、私は樫葉みつ子(広島大学)・中川篤(広島大学大学院生)に続く第三著者として、「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究―コミュニケーションの学び直しの観点から―」の共同発表も行いますこともお知らせしておきます。こちらの場所は第13室(教養2号館)です。


 
投映予定スライドのダウンロード

配布予定資料のダウンロード



以下、簡単な参照用に配布予定資料の内容とスライドに掲載した引用文献の情報をコピーしておきます。



*****



意識の統合情報理論からの基礎的意味理論
英語教育における意味の矮小化に抗して


広島大学教育学研究科
柳瀬陽介 (YANASE Yosuke)







1 序論

1.1 現状

1.1.1 英語表現の意味の知覚対象化
客観テストでは、可能だが確定的ではない推意・暗意 (implicature) は構造的に排除されている。

1.1.2 英語教育の意味の貨幣化
英語教育の成果(意味)が、客観テストの得点で測られ、得点が貨幣のように扱われている。

1.2 客観主義者的意味論
意味は、客観的に記述できる確定的な静態的対象である。
「客観主義者的意味論・客観テスト・新自由主義・一元的客観主義」の連環が近代社会に組み込まれている。

1.3 経験基盤主義からの意味理論
意味とはモノではない。意味は私たちにとって有意味だということに関わっている。それ自身で有意味なものは何もない。有意味性は、ある種類の存在者がある種類の環境の中で機能するという経験の中から生じる。

1.4 ルーマンの意味理論

1.4.1 現実性 (actuality) と可能性 (potentiality)
意味とは、無数の可能性の中に浮かび上がった現実性である。

1.4.2 複合性 (complexity)
人間が進化の過程で獲得した意味という意識の素材 (medium) は、現実性とつながる無数の可能性という形式で複合性を表象する。

1.4.3 自己生成システム (autopoietic system)
自己システムとしての意識の作動 (operation) においては、その素材・要素としての意味が生じるが、意味は出来事 (event) であるので流動的であり、絶えず新しい意味に取って代わられる。

1.5 研究課題
ルーマンの意味理論を自然科学の意識の理論と矛盾なく統合することによって、意味の主観性と客観性を統合的に扱える意味理論を導出する。(その意味理論により、英語教育界における意味の矮小化の是正を目指す)。



2 方法

2.1 統合情報理論  (Integrated Information Theory: IIT)
意識の現象学的基盤から出発し、神経科学的な知見をうまく説明できる数学的モデル(情報理論)を構想

2.2 本論考における限定
意識における意味だけを扱い、コミュニケーションにおける意味は扱わない。神経科学的説明と数学的説明も割愛。



3 意識の統合情報理論からの意味理論

3.1 意識の内在性
意識の主観性の措定:意識の存在は外部観察者 (external observer) とは無関係の内在的視点 (intrinsic perspective) で現象学的に自明とされる。

3.2 意識の機構性
意識の客観性の措定:存在するものは、何かに対する因果力を有し、因果力を生むための物理的機構を有しているはずである。意識の因果力は、意識自身に対する自己因果力と考えられる。
単純な回路の③と④の状態の確率分布から自己因果力について考える。

回路がないなら(矢印がないなら)、③と④の状態は (0, 0), (0, 1), (1, 0), (1, 1)が (1/4, 1/4, 1/4, 1.4) の確率分布を示す。だが、もし回路があり、①と②の状態が (1, 0) か (1, 1) なら、次の瞬間の③と④の状態の確率分布は (0, 0, 0, 1) になる。時間軸を逆にして、③と④の状態が (1, 1) なら、前の瞬間の①と②の状態の確率分布は (0, 0, 1/2, 1/2) となる。このように単純な回路でも自己生成のあり方の可能性(選択肢)を減らすという点で情報量を有する。

意識は自己生成システム:脳が複合的な回路であり、意識はその回路から生じるとするなら、意識は脳が自らの状態に関して生み出す情報(選択肢の縮減)であると考えることができる。意識は動態的な過程 (dynamic process) である。

3.3 意識と複合性
現実性と可能性、確定性と不確定性の統一:ある瞬間 (t) のニューロンの発火状態は現実的 (actual) であり確定的 (determinate) であるが、次の瞬間 (t+1) に発火するニューロンの状態は、tの時点では可能性 (potentiality) として存在する。意識の複合性の高さのため、ある瞬間 (t+n) のニューロンの発火状態(すなわち意識の状態)を正確に予測することは極めて困難である。

3.4 意識と意味

情報⊃統合情報=意識⊇意味

意識としての統合情報は、構成部分としての数多の情報をもつが、その総和以上の統合された情報であり、それ独自の違いを意識自体にもたらし、意識を変容させる。
意味とは、意識自体に格段の変化をもたらす意識であると定義することが、日常言語での「意味」の用法に近いだろう。
また、日常語での「意味がわからない」とは、現在の意識の状態が未来のどのような状態につながるか、また、過去のどのような状態に由来しているのかについて、まったく「見通し」がもてない状態であると解釈できる。



4 英語教育における意味の拡充

4.1 新しい意味概念
(1) 意味は、客観的実在物上での主観的経験である。
(2) 意味の経験では現実性の確定性と可能性の不確定性が共存する。
(3) 意味は、動態的過程として常に変化する。

4.2 英語表現の意味

4.2.1 英語表現の意味は、第一に、理解者の自己生成として経験されるべきもの

4.2.2 英語表現の意味理解の検討は多元的であるべき

4.3 英語教育の意味

4.3.1 自己生成の多様化と精妙化による適応能力の向上

4.3.2  意味の可能性と動態性の否定による適応能力の低下

英語教育界における意味の矮小化に対して、私たちは抵抗しなければならない。




引用文献

 Damasio, A. (2010) Self comes to mind. Vintage
Lakoff, G. and Johnson, M. (1987) Women, fire and dangerous things. University of Chicago Press.
Luhmann, N. (1990) Complexity and Meaning. In Essays on self-reference. Columbia University Press. (pp.80-85)
Tononi, G. (2008) Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto. Biol. Bull. Vol. 215 No. 3 216-242
Tononi, G. (2012) Phi: a voyage from the brain to the soul. Panthenon.
Tononi, G. and Edelman, G. (1998) Consciousness and complexity. Science. Vol. 282. pp.1846-1851.
Tononi, G. an-d Koch, C. (2015). Consciousness: here, there and everywhere? Philosophical Transactions of the Royal Society B. Vol. 370, Issue 1668. DOI: 10.1098/rstb.2014.016
アレント, H. 著、森一郎訳 (2015) 『活動的生』みすず書房
日本英文学会(関東支部)編 (2017) 『教室の英文学』研究社
柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂 (2014) 『英語教師は楽しい』ひつじ書房
柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』岩波書店
柳瀬陽介(2016) 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」  ELPA Vision. No.2. p.9.
柳瀬陽介(2017a) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』No.47. pp.83-93.
柳瀬陽介(2017b) 「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17
ルーマン, N. (1984). 「社会学の基礎概念としての意味」. ハーバマス, J.・ルーマン, N. 著、佐藤嘉一・山口節郎・藤澤賢一郎訳『批判理論と社会システム理論』. pp.29-124.





2017年8月8日火曜日

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17



以下は、『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19 (2017年3月)の7-17ページに掲載していただいた拙論です。この論文の刊行にあたりましては、論文の基になった応用言語学セミナーに私を招待してくださった大津由紀雄先生、セミナーおよびその後の原稿整理をしてくださった中川仁先生をはじめとした多くの皆様方のお世話になりました。ここに厚く御礼を申し上げます。

自分としては、それなりに思い切って書きたいことを書いた原稿です。ご興味がございましたらご一読の上、ご批評いただけたら幸いです。



*****


意味、複合性、そして応用言語学

柳瀬陽介(広島大学)


1 意味

 本稿(注1) の目的は、意味概念の検討を通じて、応用言語学が「科学」でありうるのか否かについて考察することである(注2) 。応用言語学を「科学」と考えるべきという見解は今回のシンポジウムでの大津提案に、応用言語学は科学の厳密な方法論には必ずしも則さない探究であるという見解は例えば米国応用言語学学会 (AAAL) の定義(注3) に見られる。ここで筆者の立場を明らかにすれば、筆者は教育学部で英語教師の養成と現職教育に従事する者であり、広義の応用言語学者といえるだろう。だが、海外の大学の中には、Applied LinguisticsとTeaching English as a Foreign Languageを別のコースとして設置しているところもある。この二区分ならば筆者は後者に属するだろうから、その点では筆者は狭義の応用言語学者とはいえないかもしれない。いずれにせよ本稿は、言語教育といった現実世界問題に従事している者からの立論である。ちなみに筆者個人の研究履歴は、修士課程での心理言語学を基盤にした実験研究から、博士課程ではウィトゲンシュタインの哲学を基盤とした論考に転じ、その後、アレントやルーマンといった社会哲学的なコミュニケーション論を基盤にしながら言語教育の諸問題について考察するようになったものである。この研究関心の変化によって、より現実世界問題に対応しやすくなったというのが筆者の基本認識である。

 さて、意味概念の検討の導入として、具体例を取り上げたい。シンポジウムの頃の話題の一つは、ドナルド・トランプ氏が大半のメディアの予想に反して大統領として当選したことであった。トランプ氏の勝利宣言を筆者は録画で見たが、そこでは氏がそれまでの罵倒や暴言などの過激な言動を控え、アメリカ国民全員に訴えかけようとするかのごとき神妙な語り方が印象的であった ―もちろん、その時の氏に淡い期待を持った者は、氏の大統領就任直後に徹底的に裏切られることにはなったが―。その演説で、多くの人々が様々に感じた意味は、図1の小さな破線の四角枠(言語学の範囲)だけでは捉えられず、大きな実線の四角枠(哲学の範囲)ではじめて十全に捉えられるものであろう。

図1:意味の分類

小さな四角枠は、(狭義の)言語学が捉える意味の範囲(意味論的意味と語用論的意味)である。それに対して大きな四角枠は言語学的意味だけでなく、非言語的な意味(周辺言語学的な意味(注4) と言語以外のモノ・コトの意味)をも含んだ範囲である。トランプ氏の勝利宣言が多くの人々に喚起した意味は、言語学的意味だけでなく、非言語学的意味も含むものであった。彼の口調や背後に並んだ取り巻きなどの様子は少なくとも筆者にはとても意味深く感じられた。このことからすれば、科学的な言語学が扱いうる意味は、私たちが生活の中で感じている意味(ここではそれを「現象学的意味」と称する)を十全には扱い得ないことになる。

それではその現象学的意味の理論はどのようなものになるだろうか。次節では、意味を言語学の標準的な作法で定義するのではなく、基本的には20世紀後半の理論社会学者の最高峰と考えられるニクラス・ルーマンの意味理論(注5) に基づいて説明し、部分的には21世紀になって特に注目されている神経学者のジュリオ・トノーニの意識の統合情報理論 (Integrated Information Theory) でルーマンの意味理論を補いながら、意味の理論を再構成する。紙幅の都合で説明が短く抽象的になりがちであることを予めお許しいただきたい。
 

2 意味と複合性

 意味とは、意識が重要と自己認識する意識の特定の配置 (constellation) である(注6) 。意識は無数の要素(注7) の配置から成るが(統合情報理論における意識の第二公理「構成」)、その配置はさまざまで、ただぼんやりと目覚めているだけの状態を生み出す配置もある。だが、特定の配置において意識はその状態を重要と認める。その配置が意味である(注8) 。そしてその配置の種類は、私たちが意味として認めうる限り、ということは、ほぼ無数にある。また、意識は次々と遷移するため、意味も次々に遷移する。したがって通常、意味は意識の中での出来事として経験される。意味は意識の特定の配置であるが、その配置は長く同じ形にとどまることはなく、次々に別の配置へと遷移する。つまり私たちは通常、意味が次々に自己展開していく様態、つまりは出来事の連続として意味を経験する。言いかえるなら、意味は永続的に固定された「モノ」ではなく、刻々と変化する「コト」である。

 意識は、世界の複合性 (complexity)に対応するために意味を有するように進化した。複合性とは、システムが多くの要素をもち、それらの組み合わせの数が莫大になるため、要素の組み合わせによるシステムの状態変化のすべての可能性が一度に観察できない状態を指す(注9) 。莫大な要素をもつ世界は複合的であり、世界がどう展開するかは誰も完全には予測できない。意識もその複合性に対応するために自ら複合性をもつように進化した(注10) 。だが同時に、意識は脳に過大な負担をかけるため、意識は実生活で扱いうるぐらいの限定的なものでなければならない(注11) 。そこで意識が進化の過程で生み出した素材 (medium) ―自己生成システムとして意識が自らを構成する素材― が意味 (meaning) である。意味は、世界の複合性を以下に述べる構造で効果的に縮減する。

 意味は、無数の可能性 (possibilities) を伴う現実性 (actuality)  (注12)という構造でなりたっている。現実性とは意識の焦点である。ぼんやりしていた意識に意味が創発した時に、意識は焦点化し、その焦点がその意識にとっての現実性となる。しかしその焦点化された現実性は、他の無数の可能性とつながっている。例えば誰かが「広島カープ」と言った瞬間、そのことばを聞いた人の意識の中に焦点が定まる(無論、そのことばを知っていればの話ではあるが)。それはある人にとっては赤い野球帽かもしれないし、他の人にとっては(このシンポジウムが開かれた年に)「25年ぶりに優勝して話題になった地方球団」といったぼんやりとした記憶かもしれない。いずれにせよ、それぞれの人の意識は、それぞれの焦点を中心とした構成へと再編成されるが、その焦点は、単独で存在しているわけではない。意識の焦点として際立つ現実性は、他の無数の可能性と様々な様態と程度においてつながっている。

可能性とは、将来の時点では現実性となりえるかもしれないが、現時点では意識の焦点の背景に潜んでいる意味の部分である。現実性としての赤い野球帽は、「そういえば・・・」と後に焦点化するかもしれない、黒田博樹投手やマツダスタジアム、あるいは広島市の原爆ドームや大学時代のカープファンの友人等などといった無数の ―自分で数えたこともないし、おそらく数え尽くすこともできない程多くの― 可能性とつながっている。だが意識の限定性からして、人間はそれらの可能性のすべてを同時に焦点化することはできない。ゆえに意味において、可能性は現実性に伴っているが、現実性のいわば背後に潜んでいるという構造をもつ。意味とは、数多の可能性とつながった現実性である。意味は、無数の可能性を背景に潜ませたまま、とりあえずその現実性を意識の前景に焦点的に提示する。意識は現実性にとりあえず集中することによって、その現実性と潜在的につながっている無数の可能性およびそれら同士の膨大な組み合わせという複合性に対応する。意識の前景に現れる意味の現実性は、意味がもつ複合性を縮減した表象として意識に提示されている。

 現実性という前景か可能性という背景のどちらか一つだけを切り離したものを意味と呼ぶことはできない。 流れてくる音声を<ヒロシマカープ>とした認識した瞬間に、カープの赤い野球帽の画像を出力できる単純なコンピュータプログラムがあったとしよう。そのプログラムにおいては、<ヒロシマカープ>という入力は赤い野球帽の画像出力以外の他の何とも結びついていない。人間のように、「それで思い出したが・・・」と数々の可能性が次々に浮上してくることはない。単純なプログラムは<ヒロシマカープ>という入力を知覚する (perceive) ことはできても、「広島カープ」ということばの意味を理解 (understand) することはできない。

 意味において現実性と可能性は互いの差異を保ったままつながっている。例えばある女性にとっては、「広島カープ」ということばに伴う可能性の一つに、カープ狂いで、飲む・打つ・買うの暴力的な元夫があったとしよう。その不幸な女性の前で、ある人がたまたま「広島カープ」ということばを口にした時に、もしその女性が「この人でなし!」と激昂したとすれば、彼女は「広島カープ」ということばの可能性を現実性と取り替えて理解していることになる。たとえ彼女の中で「広島カープ」ということばと元夫がつながっていたとしても、それをこのことばが生み出す現実性とみなせば、彼女はこのことばをまともに理解していると私たちはみなさない(注13) 。現実性と可能性はつながっているが、それらは意識において(たとえ大まかにせよ)区別されていなければならない。この点から表現するなら、意味は現実性と可能性の差異の統合である。

 問題だらけの元夫を可能性の一例としてあげたことからも推測できるかもしれないが、この可能性概念は、意味論でいう含意 (connotation) よりもはるかに広い。意味論の含意は、例えば「家庭」なら「温かさ」や「安らぎ」であろう。しかし、ある人が育った家庭は(さらに不愉快な例で恐縮だが)暴力や虐待の場であったとする。その人にとって「家庭」ということばは、暴力や虐待の場などの可能性につながっている。その人の意味の背景にはそういった悲劇的な要素が潜んでいる。それは一般的な含意ではないが、その人の意識の中に生じる意味という出来事ではそのような悲劇的要素がやがて高い確率で前景化することは否定できない。

 上では少数の可能性の例しかあげなかったが、もちろん実際には一つの意味の現実性は無数の可能性につながっている。さらにそれらの可能性は、さらなる他の可能性とも派生的につながっているし、そもそも、すべての可能性は多様な形態で相互循環的につながっている。意味を乱暴なほどに単純に視覚化することを試みるなら、意味は図2のように茫漠とした境界をもつ同心円として表象できる。現実性は輝く白色で、その輝く白色と密接につながる可能性は灰色で、可能性としてすらも浮上していない部分はかなり黒っぽい灰色で表記されている。

図2:意味の現実性と可能性

ただ昏睡しているわけではないといった混濁した意識は(図は省略するが)全面が黒っぽい灰色で覆われているだけである。そこに何かのきっかけで意識の中に意味が形成されると、意識は図2のような状態になる。ぼんやりとした意識が「あっ、明日は○○の締め切りだ!」と気づいた状態に変化したとすれば、意識にはその明日の締め切りを焦点とした白い光がさす。と同時にその光の背後に淡い光が灯る。その人の意識には明日の締め切りが現実性として迫ると同時に、その人にはまだ明確に意識できていないにせよ、その締め切りに関係した数多くの可能性が浮かび上がってくる。図では単純に光を円で表現したが、本来なら現実性との可能性のつながりを白い線で表現し、その白い線が数多く重なった部分ほど白く輝いて見えるような図を想像してほしい。当然ながら、可能性の範囲も図2のように均一な色の円にはならず複雑な模様として表示される。また、現実性も一つの均一な色の円から構成されているのではなく大きさと輝きでさまざまに異なる点の集まりとして表示される(注14) 。

あるいは別のたとえをしてみよう。無限に広がる布があったと想像して欲しい。その一部をあなたが空中からつかみ、引き上げる。つかまれた箇所と共に、その箇所とつながった布の他の部分も宙に浮く。つかまれた箇所を中心に、さまざまなひだや広がりをもって布は宙に浮く。それが意味である。つかまれた箇所が現実性で、それにつながって宙に浮いた部分が可能性である。同じ箇所(現実性)をつかんだとしても、引き上げられる角度や勢いなどから、布のひだや広がりの様子(可能性)はそれぞれに異なるだろう。またつかまれた部分とそれに伴って引き上げられた部分(現実性と可能性)の境界は曖昧であるが、それらは区別できないわけではない(注15) 。

この意味理論は、非言語的意味(周辺言語学的および無言語学的意味)もうまく説明できるように思える。例えば、長大で音の洪水としか思えなかったブルックナーの交響曲の意味が突然「わかった」と思えた時、あるいは単純な図形の集まりとしか思えなかったマーク・ロスコの抽象画の意味がしみじみとわかるように思える時などは、明晰に言語化できない意識の状態 ―それは通常、思考というよりは感情とみなされている― が、その人の現実性として経験され、さらにそれよりも把握しがたい意識の可能性が無限に広がっていることと実感されていると表現することができるだろう(注16) 。意味を、意識に焦点とそこからのつながりが生じた状態として説明することにより、私たちは命題化しにくい非言語学な意味内容についての意味もうまく扱えるのではないだろうか。

考えてみれば私たちが「わかった!」と叫ぶ場合の多くにおいて、私たちはわかったことの内容(現実性)を言語化できない。私たちが実感しているのは、それまで混濁していた意識が一気に一つの秩序を成し、その秩序のかなたには数多の可能性が広がっている、つまりは自分が今わかったと感じていることは、多くのこととつながっているのだという確信である。その「わかった」を私たちはしばしば言語化し(科学者は数学化し)意味の現実性とそこからの可能性への展開をより明確に説明する。それは意味理解をますます発展させることだが、「わかった!」と叫んだ時の意味理解は、無数の可能性に通じる現実性が自らの意識へ到来したこと、およびその現実性と可能性の意識の配置を感得したことであるとは説明できないだろうか。言語学では、意味は何らかの明確な表象によって表現されるが、そういった言語学的な意味表象も、意味表象として整理される以前の複合的な意識の配置に由来するものとして考えられるだろう。ルーマンに基づく意味理論では、非言語学的意味を基盤にして言語学的意味を考察することができる。

前述したような立場で研究と教育を進めている筆者にとっては、科学的・言語学的な意味理論よりも、このような哲学的な意味理論の方が有用性が高い。第二言語学習者が経験する言語使用を考えるにせよ、その経験の上に成り立つ言語獲得(注17) について考えるにせよ、あるいは学習者が時に問いかけてくる「学校で英語を勉強することの『意味』」について考えるにせよ、意味を科学として成立させている言語学(意味論と語用論)の範囲に限定していては、第二言語教育の当事者や関係者に訴えかける論考がしがたい。たとえ、具体的な論証が厳密にできない哲学的な「意味観」にすぎないと言われようが、こういった意味理論を採択して研究や教育を進める方が広義の「応用言語学者」としての学術的・社会的責務を果たしやすいと筆者は考えている。


3 意味と応用言語学

 広義の応用言語学者の一人として筆者が有用性を認めているこのような哲学的な意味理論は明らかに科学ではない。科学においては、具体的な事象が理論的に厳密に予測されそれが実験や観察で実証されること(正確に言うなら反証されないこと:反証可能性)が求められるが、こういった哲学的な理論は、なんら具体的で厳密な予測をしない。反証可能性をもたないこの種の立論を科学と呼ぶことはできない(注18) 。

 だが、そもそも複合性の概念を導入した時点から、つまりは、単純化(あるいは理想化)された研究対象を超えて、要素の多い複合的な対象を研究が選んだ時点から、反証可能性は保ち難いのではないだろうか。複合性の高さから、初期値の僅かな変動でさえも後々の大きな違いをもたらす複合的な事象においては、反証可能性の前提となる再現可能性すらも保ち難いからである。早い話が、高層階の窓から一枚の紙切れを落とすとする。紙が着地するまでの過程の説明で必要なのは、基本的には物理学の力学理論だけかもしれないが、刻々と変化する紙の向き、風の向き、温度、湿度、等などの相互作用の莫大さから、紙がどこに着地するかを理論的に予測することはできない。せいぜいできるのは、何万回と紙を落として、着地点の記述統計をとり、そこから着地点の確率分布を定めることであろう。だが、それは統計学の技術的利用であり、反証可能性を堅持する科学による紙落下の説明ではない。もし応用言語学が、理想化した対象だけを扱う言語学よりも広範囲の事象を対象とせざるを得ず、論考に複合性が導入されるなら、応用言語学が反証可能性・再現可能性を必須の前提とする科学であることはできないのではないだろうか(注19) 。

 さらには、このような哲学的な意味理論は「応用『言語学』」とすらも呼べないのかもしれない。言語の自律性に基づいて認識された「言語」の意味ではなく、私たちが内在的に経験する「意識」(統合情報理論の第一公理)の意味について述べているからである。言語の意味理論というよりも、意識の意味理論というべきだからである。「応用」という修飾句をつけるにせよ、このような哲学的な意味理論は、もはや「言語学」からの派生・発展とはみなせないという意見もあるだろう。

 だが、たとえ「科学」や「言語学」でなくともかまわないというのが筆者の立場である。もちろん「役立てばなんでもよい」というわけではない(それならば哲学的論考よりも扇動的な大衆運動の方がよほど有効であろう)。そうではなく、論として成立するだけの最低限の自己整合性を保ちながら、現実世界問題への何らかの有用性を示すならば、それは「応用言語学」として(あるいはお望みなら他の名称の学問として)、認められるべきだと筆者は考える。

 そもそも科学、あるいは言語学という特定の科学が説明できるのは、世界の事象のごく一部である。優れた科学者こそ自らの探究の限界を熟知しているはずだ。そうならば科学者は、反科学的な科学弾圧や、疑似科学的なごまかしには反対しても、非科学的な営み(科学以外の領域での営み)に格別に反対する理由などない。科学と哲学は相互排他的概念ではない。探究は最初、「知を愛する営み」としての哲学から始まる。アリストテレスにとって博物学も哲学であったが、やがて観察そして実験といった方法論を得た諸学は次々に哲学から分化し科学となった。語用論も当初は哲学でしかなかったものが、方法論の整備と共に現在、言語学として成熟しつつある分野である。意識も当初は哲学的にしか語り得ないものであったが、現在、哲学と科学の両方の素養を有した研究者により(あるいは哲学者と科学者の対話により)科学化が進行している分野である。言語教育といった応用言語学の典型的な分野が50年後や100年後に科学となるのかはわからない(科学の営みが人工知能の参入でさらに加速化しようとする現在、誰がそのように遠い未来のことを予測できよう)。だが現時点で、応用言語学を科学だと言い切ること、あるいは科学であるふりをすることには、筆者は反対したい。科学の方法論を貫けば論証の厳密性は高まれど、対象領域はおよそ狭まり、現実世界問題への妥当性や関連性は低くなり社会的意義が失われるだろう。かといって、科学のふりをして疑似科学的な論証をすることは、科学と現実世界問題の両方への裏切りである(注20) 。本稿は意味の理論だけを事例にして考えたが、もし言語学者・科学者として訓練を受けた者が「応用言語学者」としての領域を新たに開拓するならば、それらの言語学者・科学者は、哲学的な思考法を新たに学び、さらには哲学的考察の源泉である現実世界の観察および現実世界の実践者との対話を必要とすると筆者は考える。




 (1)  本稿は科研「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号15K02787)の研究成果の一部である。

 (2)  本稿の内容は2016年11月26日に明海大学で開催された第19回応用言語学セミナーのシンポジウムで行った筆者の口頭発表をもとにしたものであるが、紙幅の都合上、その発表の一部だけを論文化した。口頭発表の全容に関しては以下のURLをご参照いただきたい。発表ならびにこの論文執筆の機会を与えてくださった関係者には改めて厚く御礼を申し上げる。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html

(3)  AAALのDefinition of Applied Linguisticsは、以下のURLから参照できる。
http://www.aaal.org/?page=DefAPLNG

(4) 周辺言語学的な意味を言語学に含める考え方もあるだろうが、ここでは科学性を重んじた狭義の言語学観を基にしてこの図を作成した。

(5) 本稿は、ルーマンの(めずらしい)英語論文に基づいたものである。ルーマンの意味理論をきちんと論ずるなら、彼の初期・中期・後期のドイツ語文献を丁寧に参照するべきだが、本稿ではそれが間に合わなかった。

(6) ルーマンは、意味を、意識とコミュニケーションの素材としているが、紙面の限られた本稿ではコミュニケーションに関する議論は割愛し、意味を意識の観点からに限って論考を進める。

(7) 意識の要素として、統合情報理論に倣って、特異な刺激だけに反応をするニューロンを考えることができる。たとえばあるニューロンは、垂直線分の有無だけに反応をするかもしれないし、他のニューロンは白色光の有無にだけ反応をするかもしれない。これら無数のニューロンの働きの組み合わせが私たちの意識を構成している。

 (8) 「意識の特定の配置が意味である」というのは、意識概念を使用している点で現象学的であり、配置という概念を使っている点で神経科学的な表現である。より現象学的な表現をするなら、それは「意識の特定の配置が意識に与える経験が意味である」となるだろう。

(9) 簡単な例を出すなら、囲碁はかなり局面が進むまで複合的であるが、九マスの中での三目並べはすぐに複合的ではなくなる。

(10)  より正確に言うなら、世界と意識の複合性は即応している。世界は、複合的なシステムにとってのみ複合的な世界として表象される。システムはそれが認識する世界が複合的であるに応じて複合的である。表象あるいは観察されない、いわば「世界自体」(カント的表現なら「物自体」)については、私たちは何も語り得ない。

(11) SF的な想像であるが、もし一度に世界の存在物のすべての要素と構造を見せられたとしても、意識はそれだけの莫大な情報量を扱うことはできない。

(12) ルーマンの用語である “actuality”と “possibility”を「顕在性」と「潜在性」と訳す文献もあるが、筆者は“actuality”こそが意識を有する人間にとっての現実的なものとなると考えているので「現実性」という訳語を選び、その対語として「可能性」という訳語を選択した。ちなみに「現実」という訳語は、本稿では扱わないハンナ・アレントの “Wirklichkeit”に対して使いたいため、ここでは使わなかった。

(13)   この女性の場合は単に錯乱しているだけと思えるかもしれない。よりよい例は、「あぶない」ということば(の現実性)を「包丁」と「ガスコンロ」と思っている幼児かもしれない(その幼児は台所に入ってさまざまな物を触ろうとしては「あぶない!」と叱られていると仮定しよう)。言うまでもなく、「あぶない」ということばが私たちの意識の中に引き起こす可能性の中には、切り傷や火傷を引き起こしかねない「包丁」や「ガスコンロ」は含まれるが、「あぶない」ということばが「包丁」と「ガスコンロ」を第一義的に指示しているわけではない。

(14) 例えば広島カープの野球帽にしても、それは色や形態などのさまざまな要素の集合体としてイメージされる。この野球帽を構成する要素は多数ある。だが、意識はこれらの要素を常に統合体として認識する(統合情報理論における意識の第四公理「統合」)。

(15) あるいは、さらに想像をたくましくして、その布は特殊な布で、表と裏の二層の間に流動的な液体からなる中間層があり、その中間層にはさまざまな形・大きさ・色の粒子が散りばめられていると考えてほしい。その布は、引き上げられ方の違いによって、さまざまな模様を描く。引き上げられた勢いに伴い、粒子は動き模様は変わり続けるだろう。このたとえは、同じことを(現実性として)想起してもその想起の仕方によって意味は変わるし、また想起された意味も時間と共に変化することをうまく説明できるかもしれない。

(16) 交響曲の「わかった!」の典型例は、ある時点でのメロディーやハーモニーが、それ以前・以後のメロディーやハーモニーの展開とつながっていることがぼんやりとでも直覚できた時かもしれない。抽象画の意味理解の典型例は、ある色合いや形象の構成が、見る人のそれまでの色彩や形象に関する無数の経験と(その人が説明できないレベルで)潜在的につながった時かもしれない。いずれにせよ、意味は、顕在的な現実性を知覚するだけでなく、それが潜在的な可能性とつながっていることを、意識と無意識の端境にあるぐらいの明瞭度で意識が自覚できた時にはじめて理解されたといえる。レコーダーやカメラは、交響曲や抽象画を正確に記録できるが、その記録対象を、それら自身の過去の記憶と結びつけるメカニズムをもたない以上、意味を理解しているとはいえない。

(17) 誤解のないように言っておくが、筆者は別に言語の生得性を否定しているわけではない。筆者が述べているのは、生得性の基盤の上に経験される言語使用が、私達が言語獲得と呼ぶ状態をもたらすということである。

(18)  ポパーに由来するこの科学観は、今井・西山 (2012) にも見られる。

(19) だからといって、筆者は統計的な研究、特に教授法の比較研究を無批判的に肯定しているわけではない。詳しくは、柳瀬(2010)や柳瀬 (2017)を参照されたい。

(20) 残念ながら疑似科学的な論考が「英語教育学」には多すぎるというのが筆者の懸念である。科学という営みを敬い、かつ、英語教育に関する現実世界問題の深刻性を憂う筆者にとって、そういった疑似科学的な「英語教育学」は有害無益の営みに思える。


参考文献

今井邦彦・西山祐司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」、『中国地区英語教育学会研究紀要』第40号、11-20頁。
柳瀬陽介 (2017)「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」、『中国地区英語教育学会研究紀要』第47号、83-94頁。
Luhmann, N. (1990). Complexity and Meaning. In Essays on Self-Reference. New York: Columbia University Press. (pp.80-85)
Tononi, G. and Koch, C. (2015). Consciousness: here, there and everywhere? Philosophical Transactions of the Royal Society B. Vol. 370, Issue 1668. DOI: 10.1098/rstb.2014.016




2017年8月7日月曜日

自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか



8/4(金)に広島県民文化センターで開催されたヒッポファミリークラブ西日本主催のシンポジウム「多言語 x 脳科学」は大変に刺激的でした。ヒッポファミリークラブについては「ことばを歌う」 (=多言語のマテリアルを細かな音や意味などを追わないで、リズムやメロディを音楽のように楽しみながら口ずさんで、歌を歌うように、ことばのらしさを波に乗ってまねをする) ことなどによる多言語習得が有名で、私も昔から興味をもっていたので、今回のシンポジウムに参加しました。

シンポジウムはマサチューセッツ工科大学のSuzanne Flynn先生と東京大学の酒井邦嘉先生の講演、それらへの質疑応答を主にして、時折、ヒッポファミリークラブの子ども会員の外国語使用の実演が組み込まれたものでした。

フリン先生のお話は、多言語習得に関するいくつかの原則に基づくもので、「学校英語教育」といった枠組みを超えて、私たちの周りの世界で起こっていることを見るならば、非常に納得できるものでした。

酒井先生のお話は、私は初めて聞いたのですが、ひろしま美術館にあるゴッホの絵の話や、広角21mmレンズで撮影した平和記念公園の写真などから話が始まり、「いったい何の話なんだろう?」と聴衆を引きつけておいてから、脳科学での知見を述べ、最後にすべてのエピソードをまとめるというすばらしいものでした(後で知ったのですが、酒井先生は、多くの専門論文に加えて、芸術家との対談本『芸術を創る脳: 美・言語・人間性をめぐる対話 』も出版され、科学報道のあり方についても提言されていました)。

酒井先生のお話の中で特に印象に残ったのは、次の三つの主張です。(私の記憶とメモに基づく記述ですので、誤りを怖れます。あくまでも柳瀬が解釈した限りでの記述とご理解ください)。


(1) 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか。

(2) 音声は情報が豊かなので、ことばや音楽は耳から覚えた方がはるかに自然で理にかなっている。

(3) 言語習得についてあえて一言でまとめるなら、それは"Be natural"になるだろう。


(1) の「人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか」はもちろん大まかな仮説ですが、私としては聞いた瞬間に「あっ、そう考えた方が、物事がよく見えるかもしれない!」と啓発されるものでした。学校英語教育に従事している者としては自己否定にもなりかねない主張ですが、さまざまな知見から酒井先生が提示されたこの大まかな仮説に基いて、物事を観察・考察し直すなら、今まで見落としていた多くのことが見えるような気がします。

ちなみに、懇親会の席で、フリン先生と私で上とはまったく異なる流れで話をしていた時にも、フリン先生は「むしろ今のような学校外国語教育の制度で外国語習得をした人の偉業について私たちは驚くべきなのかもしれない」と語っていました。私が学校外国語教育の成功者は "against all odds"での成功なのだろうと合いの手を入れると "Exactly!" と同意されていました。

また、Dwight Atkinson教授が先日広大で講演してくれた際の問題提起も、第二言語教育における「自然さ」とは何かというものでした。

Natural Second Language Pedagogy? Dwight Atkinson教授の講演から

学校外国語教育という、机上の計算ではもっとも合理的に外国語を学ばせるために作られた環境が、実は言語習得にとってはとても不自然な環境であり、それゆえに、学校教育に順応できる人となかなかそうできない人の差が大きくなってしまっているのではないかという仮説は、学校での語学の成績はよくなかったのに、なぜか現実世界ではうまく外国語を使ったり新たに習得したりしている人の存在からすると、無視できない考え方です。学校英語教育関係者は、学校秀才の成功体験を前提とした発想をとりがちですが、それを疑うことは必要でしょう。

といっても学校英語教育関係者としてのことさらの自虐をてらうのではなく、「人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか」という仮説に即して冷静に観察と考察を繰り返すことが必要だと思わされました。


(2) の「音声は情報が豊かなので、ことばや音楽は耳から覚えた方がはるかに自然で理にかなっている」については、酒井先生は、スズキ・メソードの実践についても触れながら、曲を耳から覚えることができても、楽譜から覚えることは困難であるというエピソードも紹介されました。ヒッポファミリークラブの子ども会員の外国語使用も(当日は、英語、中国語、フランス語などでの実演がありました)非常に音楽的で、それぞれの言語らしさを体現したものでしたが、このような外国語使用は確かに文字からの学習だけではほとんど不可能なものでしょう。

楽譜や文字は、音楽やことばという表現の情報を極度に圧縮した表象であり、その抽象度の高さゆえ、伝達することも簡単です。しかし、その凝縮された表象から、もともとの音楽やことばを再現させることは容易ではありません。

「文字からではなく、音声から外国語を教える」というのは、20世紀の初頭からしばしば言われてきたことですが、日本の英語教育では文字という伝達が容易な媒体にあまりにも慣れすぎたせいか、まだ音声の豊かさを十分に味わうほどの英語教育を学校ではなしえていません(それは教科書付属CDの音声の不自然さからも明らかかと思います)。英語教師も現代ではさすがに標準的な英語発音での教科書音読をすることぐらいはなんとかできますが、適確な感情表現で教科書を朗読することができる教師は、極めて残念ながら多くはありません)。

ヒッポファミリークラブの「ことばを歌う」という表現(フリン先生は "singing the sounds of the language"と訳していました)についても丁寧に考えるべきかと思います。


(3) の「言語習得についてあえて一言でまとめるなら、それは"Be natural"になるだろう」というのは酒井先生がさらりとおっしゃったことですが、これも含蓄のあることばです。

自然科学的に考えるなら、「人間の生得的能力を最大限に活かすことがもっとも効果的」と翻訳できるかもしれませんが、外国語教育という点から考えるなら一捻りが必要です。といいますのも、「第二言語」とは異なり「外国語」とは身の回りで使われていない言語ですから、外国語の学習は自然状態ではまず起こらない現象だからです。

ですから「外国語学習における自然」とは、武術家の甲野善紀先生がしばしばおっしゃる「人間にとっての自然とは何か」と似ています。もはや近代社会に適合してしまって自然界の動物のようには生きられない動物になった人間にとっての自然とは、言ってみるなら「不自然な自然」あるいは「人為を帯びてしまっている自然」となります。動物界における人間と同じように、外国語習得は言語習得界においても特異な存在です。外国語学習は、幼児からの第一言語獲得や第二言語習得と同じような「自然」さではなしえません。外国語の学習開始年齢はしばしば遅く、周りでその言語を使っている人もいないからです。だから「外国語学習における自然」も、「不自然な環境の中に創り出したできるだけ自然な状態」にならざるをえません。学校教育という人工的な空間に慣れすぎてしまった学校教育関係者にとって、「自然であれ」という箴言は丁寧に考えるべきものかと思います。

今後ともに、視野を学校英語教育内に狭めることなく、学校英語教育、いや学校外国語教育、学校言語教育、ひいては学校教育について考え続けたいと思います。

このすばらしいシンポジウムを開催してくださいました関係者すべての皆様に厚く御礼を申し上げます。


Natural Second Language Pedagogy? Dwight Atkinson教授の講演から



迂闊なことに、このブログではお知らせし忘れていて、「広大教英ブログ」だけでのお知らせとなってしまったのですが、7/21(金)に広島大学教育学部で開催したDwight Atkinson教授 (the University of Arizona)の講演内容は非常に示唆深いものでした。このまま記憶が薄れることを怖れ、ここに私の解釈を含んだ備忘録的記録を残しておきます。




仲良くさせていただいているのでファーストネームで呼ばせていただきますが、Dwightの講演は、当日は、Natural Second Language Pedagogy?  (Are humans & maybe even some animals natural born teachers?)と少し変更されましたが、私が理解する限り、その要旨は、Kline (2015)の枠組みに基づき、第二言語教育を、人間および他の動物が進化の過程で獲得してきた5つの類型の行動から再解釈するものでした。(5つの類型についての詳しい説明は、下の論文をお読みください)。

1. Teaching by social tolerance
2. Teaching by opportunity provisioning
3. Teaching by stimulus or local enhancement
4. Teaching by evaluative feedback
5. Direct active teaching


Kline, M. (2015). How to learn about teaching: An evolutionary framework for the study of teaching behavior in humans and other animals. Behavioral & Brain Sciences, 38, 1-17.



ここからは私の単なる思いつきになりますが、おそらくは人間が他人に何かを教える際も、もっとも「自然な」1からもっとも人為的な5へという順番で基本的に進めるべきなのではないでしょうか。それなのに、近代社会で人工的に設計された要素を多くもつ学校では、教えることを5から始めてしまっているので、「自然に」学ぶことができず、いわば「学校秀才」ともいうべき、近代の人工的学習環境に慣れた人たちだけがもっぱら成功していると考えることはできませんでしょうか。

外国語教育にしても、すぐに5. Direct active teachingで表現を直接的に教え、その成果をすぐに4. Teaching by evaluative feedback、つまり小テストや口頭での修正でチェックするという形が、日本の英語教育での主流であるPPP (Presentation - Practice - Production) でも取られているように思えます。

3. Teaching by stimulus or local enhancementのような工夫も、英語を表情豊かに即興的に表現できる英語教師のみに限られ、日本の英語授業では頻繁には見られません。さらに、2. Teaching by opportunity provisioningは、TBLT (Task-based Language Teaching)でもない限りあまり与えられず--与えられたとしてもすぐに評価という褒賞・懲罰の枠組みに組み込まれ--、 1. Teaching by social toleranceという興味に応じて言語使用を参画的に観察する機会もほとんど与えられず、すぐに教材を与えられるのが日本の英語教育の典型ではないでしょうか。

この前提を問い直すことを私としても試みたいと思います。




追記 (2017/08/10)

Dwightの上記の講演の基になった論文は以下で読むことができます。


Homo Pedagogicus: The evolutionary nature of second language teaching
DOI: https://doi.org/10.1017/S0261444816000458 







2017年6月23日金曜日

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ



※ 音声録音ファイルと質疑応答のまとめを追加しました(2017/06/26)。

*****


明日(2017/06/24)の中国地区英語教育学学会で口頭発表する際に使用する投影スライドと配布資料をここでもダウンロードできるようにしました。ご興味をお持ちの方はご参照ください。

この発表は、昨年の理論的整理を受けての、実践者分析です。



投影スライド



配布レジメ




***配布レジメの抜粋***





中国地区英語教育学会(2017/06/24 広島大学教育学部)

優れた英語教師教育者における感受性の働き
―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―

柳瀬陽介(広島大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/

1 序論:感性の重要性
1.1 背景
1.2 これまでの研究:
1.2.1 カント・ダマシオ・ボームの諸概念
1.2.2 ルーマンの意味理論
1.2.3 ユマニチュードの理論と実践
(A) 眼と眼を合わせる (B) 声を届ける (C) 相対的位置関係を整える (D) 身体的自由を与える
(1) 出会いの準備 (2) 学びの準備 (3) 経験の調和 (4) 肯定的感情の想起 (5) 肯定的見通し
1.2.4 オープン・ダイアローグの情動共鳴
オープン・ダイアローグ:関係者全員が対等な関係で語り合う中で全員で事態を改善させる
情動共鳴:関係者の情動表現が同期・同調することによって事態が好転する
1.2.5 アダム・スミスの『道徳感情論』
1.3 研究課題:優れた英語教師教育者のふるまいは、感受性の観点からはどのように記述できるか?
2 方法:観察とインタビューからの解釈
対象:三名の「優れた英語教師教育者」 TIK
データ:観察記録とインタビュー
解釈:1.2の諸概念をアブダクション的に利用し整合性を担保する
3 結果:情動共鳴とコミュニケーションの自己生成
3.1 高い感受性
3.2 情動共鳴への誘導
3.3 情動共鳴によるコミュニケーション
3.4 授業方法の基盤と授業実践の喜び
4 考察:教師行動の再検討
4.1 驚くべき事例
4.2 再考したい教師行動
(1) 一方的指名や懲罰的指名、(2) 心が伴わない英語定型句、(3) 外見だけの固定的評価、(4) 形骸化する「授業の振り返り」
5 結論:実践と研究における情動的感受性の重要性
優れた英語教師教育者は、情動的感受性を基盤とする授業運営をやっているように思われる。
教師教育の実践と研究は感性的な側面について注目すべき(ただし主観性、相互主観性に留意)
今後は、もっと具体的な実証、および「物語様式」への理論的探究が課題



*****


追記(2017/06/26)

以下に、私の学会発表の音声録音ファイルと、質疑応答のまとめを掲載します。

 この発表が終わって、何人もの実践者の方とお互いに共感しながら話す機会をもち、改めて自分はそれほどおかしな話をしているのではないと思えました。他方、下に書きましたように質疑応答をまとめてみますと、私は現代日本の「英語教育学界」という業界では、およそ異端なのだなと再認識する思いでした。

 しかし私としてはこの「異端」のやり方の方が、たとえ業界の仲間内では評価されなくても、英語教育の現場で働いている方々に資することにおいては長じているのではないかと思っていますので、これからもこの「異端」のやり方を発展させ、現場の方々に私なりの応援を行いつつ、できるだけ丁寧に自らの認識論・方法論を反省的に記述することによって業界の「主流派」「正統派」の方々の考え方にも風穴を開けたいと考えています。


(1) 柳瀬の学会発表の音声録音

デジタル録音機で録音した音声をダウンロードできるようにします。ただ、私は当日、さまざまに動き回りながら(話題に応じて、発表者と聴衆の相対的位置関係を考えながら)発表しましたが、デジタル録音機は机上に置いたままでしたので、録音音声が大きくなったり小さくなったりしています。お聞きになる場合は、必要に応じて音量を上下させてください。また、すべて即興でしゃべていますと、聞き直すと、(話し言葉ではよくあることですが)、文が完結していない箇所などありますが、その点もご容赦ください。


2017/06/24の柳瀬の学会発表(音声録音ファイル)




(2) 質疑応答のまとめ

以下は、10分間の質疑応答の録音にもとづき、四名の質問者とのやり取りを再構成したものです(質問者の同意を得ることは試みませんでしたので、録音の公開はしません)。質問者の質問は、録音を聞き直して、できるだけ忠実に要約したつもりです。私の答えは、当日の答えに加えて、今ならこうも言いたいといった内容を加えたものです。


Q1: 教育実習生などは、教材がしっかり頭に入っていないので児童・生徒を見ることができないと思う。新人教師が、発表で紹介されたような優れた英語教師(教育者)のように、児童・生徒を見ることができるためには、やはり経験が必要なのか?

A1: 経験は必要。ただし、これまでは新人教師が英語学力を高めるといった知的な目標は漠然とあったと思うが、児童・生徒との感性的なやり取りをするといった感性的な目標は自覚されていなかったと思う。新人教師を育てる際には、知性的な目標だけでなく、感性的な目標(そして理性的な目標 --さまざまな要因が絡む事象に関して総合的な判断ができるなど--) の三つを立てる必要があるのではないか。
 ただし、感性的な目標や理性的な目標は、知性的な目標と異なり、達成されたかどうかを明確かつ一元的に判定できるものではない。感性的な目標や理性的な目標を教師教育で立てるのはいいが、それが妙なテストで「客観的」に(=「一元的数直線によって」)判定されるようになってはいけない。感性的な事柄は相互主観的に、理性的な事柄は多元的に評価されるべきだからである。

関連記事
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html


Q2: 今日の発表での話し方が、発表内容の主張そのままだったので印象深かったが、本日主張された「情動的感受性の育成」はどうすればいいのだろうか。

A2: [そのような質問が出ること自体に驚き、困惑しながら] 情動的感受性といったものは「子どもの時は子どもらしく遊ぶ」とか「大人も、<人間らしく>生きる」とかいったように、(社会的)動物として自然な生き方をすることで育成されるものだろう。ちなみに日本は、古来から四季折々に花鳥風月を愛でるさまざまな文化があるが、そういった文化を大切にすること(商業的なイベント=馬鹿騒ぎと金儲けの機会にさせることなく、虚心坦懐に楽しむこと)も方法の一つだろう。もし現代日本の多くの人が、情動的感受性を失ったているとしたら、それは後天的な要因によるものだと考えられるので、私たちの生活文化を変える、私からすれば「人間としてあるいは動物としてまともなものにする」、ことが必要だろう。



Q3a: 「ユマニチュードは技術だ」といった発言があったと思うが、今日、発表の中で紹介されたT, I, Kの三人も技術として、実践をしているのだろうか?

A3a: 時に「ユマニチュードは単なる技術だ」と言われることがあるが、それはユマニチュードによってこれまで動こうともしなかったお年寄りが動いたのを見た人たちが「ユマニチュードは奇跡だ!魔法だ!」と言うのに対して、「いや、これは技術に過ぎません」と言われているからである。
 しかし、ユマニチュードの提唱者がはっきりといっているように、ユマニチュード(<人間らしさ>)は哲学に基づいた技術体系である。その哲学の根幹は、世界人権宣言にも求められることができる。
 私が紹介した三人も、単なる機械的な技術としてああいった実践をしているわけではない。


Q3b: そうであるならば、「教師教育で扱えるのは技術の側面だけ」と考えるのか、それとも「技術だけでなく哲学の側面も教師教育で保障すべき」と考えるのか、どちらだろう?

A3b: [再びそのような質問が出てくること自体に困惑しながら] ご質問の中に、「哲学的な側面を教師教育で扱うことは難しいのではないか」という前提が見えてきたので、私はむしろその前提に驚いている。
 たとえば文学部では小説などを通じて、単なる機械的な技術や誰にとっても同じような情報に還元されない知恵を教えていると思うのだが、どうして教育学部でそのような知恵を伝承できないのだろう?
 その関連で言うと、私の最近の興味の一つは物語論で、改めて「論理-科学的様式」とは異なる「物語的様式」での物語(あるいはナラティブ)で英語教育の「現実」を記述する可能性についてきちんと考えたいと思っている。極端な話をすると、これまで三十年間程度、「論理-科学的様式」だけに即した量的研究が英語教育で山のようになされてきたが、それが英語教育の実践者にどれだけ納得感をもたらしただろうか?きちんとした量的研究を否定することはしないが、いいかげんな量的研究をするよりは、英語教育の実態に関する優れた小説が書かれる方が、私は英語教育の改善には役立つのではないかとすら時に思っている。
 

Q3c: 質問の趣旨は、「哲学を教えるとなると、カリキュラム化は難しい」ということである。哲学的な内容をどうカリキュラムに明文化できるのだろうか?

A3c: たしかに哲学的な内容(あるいは理性的な内容)を一問一答式のような形で明文化することはできないし、もしそうしたらそれはおぞましいことになると思うが、その困難性は、学校で行われている(あるいは行わねばならない)道徳教育の困難と通じるものがあると思う。道徳教育を厳密なカリキュラム化の対象とし、厳密なテストで効果測定できるものと考えるのは、哲学や理性の総合的性格(=さまざまな考え方の違いを抹殺することなしに統合する性質)を否定することなので、それはやってはならない。道徳教育はそのような誤り・危険をおかさずになされていると私は考えている(あるいはそう信じたい)。教師教育で<人間らしさ>の哲学を教えることは、道徳教育と同じような問題点を抱えているが、それを実行することは可能だし、現時点では必要だと私は考えている。


Q4a: 言われればそのとおりだなと思える内容だったが、介護や精神医療の現場でユマニチュードやオープンダイアローグの実践は本当に普及しているのだろうか?

A4a: まだまだ少数派ではあるが、今、非常に注目され、広がろうとしている。


Q4b: 注目されているということと、実際に効果が出ているということは別の次元の話だと思うのだが、実際に効果は出ているのか?

A4b: 現場が変わるのには二つの場合がある。一つは権威・権力がある者からの命令で変わる場合(例えば文科省からの「指導」など)。もう一つは、現場が効果を認めて自発的に・自生的に変わる場合。ユマニチュードやオープンダイアローグは後者である。ユマニチュードやオープンダイアローグは、あるい意味、これまでの専門家の権威や権力に対するものすごい挑戦であり、革命的といってもいいぐらいの変革であるのだが、それにもかかわらず普及し始めているのは、現場の現実がこれらの方法によって変わっているからに他ならないと私は考える。

Q4c: 現在の英語教育界では、上からの「PDCA」モデルの強制などで、昔から自発的に広がろうとしていたアクションリサーチなどの方法が受難を受けているとも思えるので、このような発表は心強い思いだった。[ここで時間終了のベルがなる]

A4c: ありがとうございます。





*****



関連記事

「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post_24.html
カント、ダマシオ、ボームの用語の定義 (感性・知性・理性、情動・感情(中核意識)・拡張意識、感受性)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_22.html





*****




お知らせ

7月21日(金)にアリゾナ大学のD.アトキンソン教授が広大教英で講演 http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/06/721d.html 







率直で開かれたコミュニケーションから私たちの喜びである共感や連帯感が生まれる(アダム・スミスの『道徳感情論』から)



明日の学会発表準備の中で、アダム・スミスの『道徳感情論』についておさらいしていたら、予想以上に面白かったので、ここでは以前に書いた下の記事では行っていなかった拙訳をごく一部ではありますが、行ってみます。今回は、下記の翻訳書は手元になかったので参照できていません。拙訳に誤りがあれば、どうぞご指摘ください。


アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫



■ 共感や連帯感こそは私たちの喜び

共感が何から起こるか、あるいはどの程度の強いものであるか、などにはかかわらず、自分の胸で感じる情動が他人にもあるように観察できる連帯感を覚えた時に、私たちはもっとも大きな喜びを感じる。その反対に、連帯感が観察できない時に私たちはもっとも大きな衝撃を覚える。

But whatever may be the cause of sympathy, or however it may be excited, nothing pleases us more than to observe in other men a fellow-feeling with all the emotions of our own breast; nor are we ever so much shocked as by the appearance of the contrary.
I.I.14



■ 率直で開かれたコミュニケーションを私たちは望んでいる

率直で開かれていることによって信頼が生まれる。私たちを信頼してくれる人を私たちは信頼するものである。その人が示してくれている道がはっきりと見えるように思え、喜んでその人の案内と指示に従おうとする。その反対に、抑制していたり隠したりしていると信頼が失われる。どこに行くのかわからない人についていこうとはしないものだ。加えて、会話と社交の最大の喜びというものは、情緒や意見が一致することから生じるものだ。それは多くの楽器が同時に鳴り、拍を同じくするようなものだ。しかしこのもっとも喜ばしい調べは、情緒や意見が自由なコミュニケーションで表明されなければ得られない。この点からすると、私たちは、お互いがどのような情感を得ているかを感じ、お互いの胸中に入り込み、そこにある情緒や情感を観察することを望んでいるのだ。この自然な気持ちを私たちに見せてくれる人、つまり私たちを自分の胸中に招き、まるで門戸を開けてくれるような人は、他には見られないほどの喜ばしいおもてなしをしてくれているようである。普通に機嫌良い状態にいる人が、自分のほんとうの情緒を感じるがままに、あるいは感じているがゆえに、示す勇気を出すなら、周りの人も機嫌よくなるだろう。この抑制されていない純粋さゆえに、子どもの片言も心地よいものとなるのである。心を開いた子どもの見解がどんなに脆弱で不完全なものであろうと、私たちはその子の胸中に入れることに喜びを感じるし、その子の能力に応じて理解しようと努めるだろう。どんな話題であれ、その子が考えたように思われる観点から考えようとするだろう。

Frankness and openness conciliate confidence. We trust the man who seems willing to trust us. We see clearly, we think, the road by which he means to conduct us, and we abandon ourselves with pleasure to his guidance and direction. Reserve and concealment, on the contrary, call forth diffidence. We are afraid to follow the man who is going we do not know where. The great pleasure of conversation and society, besides, arises from a certain correspondence of sentiments and opinions, from a certain harmony of minds, which like so many musical instruments coincide and keep time with one another. But this most delightful harmony cannot be obtained unless there is a free communication of sentiments and opinions. We all desire, upon this account, to feel how each other is affected, to penetrate into each other's bosoms, and to observe the sentiments and affections which really subsist there. The man who indulges us in this natural passion, who invites us into his heart, who, as it were, sets open the gates of his breast to us, seems to exercise a species of hospitality more delightful than any other. No man, who is in ordinary good temper, can fail of pleasing, if he has the courage to utter his real sentiments as he feels them, and because he feels them. It is this unreserved sincerity which renders even the prattle of a child agreeable. How weak and imperfect soever the views of the open-hearted, we take pleasure to enter into them, and endeavour, as much as we can, to bring down our own understanding to the level of their capacities, and to regard every subject in the particular light in which they appear to have considered it.
VII.IV.28



 






2017年6月22日木曜日

カント、ダマシオ、ボームの用語の定義 (感性・知性・理性、情動・感情(中核意識)・拡張意識、感受性)





以下は、今週末の中国地区英語教育学会で私が発表する際の資料の一部です。カントの感性・知性・理性や、ダマシオの情動・感情(中核意識)・拡張意識や、ボームの感受性などの用語の関係性についてまとめた図を提示し、その関係性に基づきながら、私なりに簡単にまとめた定義 (1) と、彼らの原典での記述に忠実な定義 (2) の両方を掲載します。これらの用語を使って議論・論考をする際に、整合性を保つことが目的です。これらの定義を作り出す際に参照した資料はこの記事の下に掲載します。おかしいと思われる箇所などありましたらどうぞご指摘ください。







■ カントの用語


感性 (Sinnlichkeit, sensibility) 

(1)  何かに「あっ」と気づける能力。この感性が私たちのさまざまな気持ちを生み出す。

(2) まだ概念として分析されていない対象 (Gegenständ, object) から直感 (Anschauung, intuition) という表象 (Vorstellung, representation) を受容 (Rezeptivität, receptivity) できる能力 (Fähigkeit, capacity)


知性 (Verstand, understanding)

(1)  気づいた対象を概念化したり言語化したりする能力。これにより初歩的もしくは具体的な思考が可能になる。

(2)  対象の直感を思考 (denken, think) して、概念 (Begriff, concept) として自生 (Spontaneität, spontaneity) させる能力 (Vermögen, faculty)


理性 (Vernunft, reason)

(1)  さまざまな概念や言語を統一的にまとめ上げる能力。これにより抽象的で包括的な高次の思考が可能になる。

(2)  知性では不可能な全体性 (Totalität, totality) あるいは思考の最高次の統一 (die höchste Einheit des Denkens, highest unity of thought) を理念 (Idee, idea) としてまとめる能力



■ ダマシオの用語


情動 (emotion)

(1)  生きている限りいつでも生じている身体内の動き・活動(例えば脈動、ホルモン分泌、神経伝達、筋肉の自律的調整、外的刺激へのさまざまな反応など)。これらが私たちのやる気、気分、喜怒哀楽、などのさまざまな気持ちの核となっている。柳瀬はこれを「からだ」と称することもある。ちなみにemotionは語源的には、e(x) + motionと分解でき、「最終的には外に表現されるに至る身体内の動き」とも読み替えることができるだろう。

(2) 生命体の維持や健康に関わる身体内の動き。恒常性 (homeostasis) 、痛みや快への反応 (pain and pleasure response)、衝動 (drive) や動機 (motivation) といった低次のものから、漠然とした気分などの背景的情動 (background emotion) 、恐れ・怒り・嫌気・驚き・悲しみ・幸福感などの基本的情動 (primary emotion) 、共感・困惑・恥・罪悪感・誇り・嫉妬・羨望などの社会的情動 (social emotion) といった典型的な情動 (emotions-proper) までのさまざまな種類がある。


感情 (feeling)

(1) 自分で自覚している情動もしくは気持ち。この感情が自分の思考の核になる。柳瀬はこれを「こころ」と称することもある。また、情動と感情を総称して、情感 (affect) や気持ちと呼ぶこともある。気持ちについてもう少し詳しくいうなら、情動は、気持ちの核もしくは基盤であり、まだ自分の中ではよく把握されていない。感情は、自分でも自覚している気持ちであり、それゆえにそれを自分の考えとして言語化することもある。

(2) さまざまな情動によって形成されたある種の身体状態 (a certain state of the body) の知覚 (perception) であり、この知覚と共に、ある種の思考過程と思考結果の知覚 (the perception of a certain mode of thinking and of thoughts with certain themes) も生じる。


中核意識 (core consciousness)

(1) たとえば朝起きた瞬間の自覚、あるいはただ「ぼーっ」としている時の漠然とした自覚のように、ただ、今・ここに自分が存在していること、および、自分の外に何があるかや自分の内の状態がどうであるかを認識している意識。これが後述する拡張意識の中核となる。感情(「こころ」)を意識の一種として表現した用語と考えてもよい。

(2) 自分が「今・ここ」にいることの感覚 (the sense of the here and now)。これにより自分の人間としての存在 (personhood) が確認される。この中核意識は言語がなくとも成立する。


拡張意識 (extended consciousness) 

(1) 中核意識・感情・「こころ」を基盤にしながら、自分の意識を「今・ここ」以外の時空に拡張させて展開する意識。例えば、昔のことを思い出したり、将来のことを予想したり、遠い場所や空想上の世界を想像したり、他人の気持ちや考えを推測したりする意識。この拡張意識での働きにより、思考の中でも、中核意識・感情・「こころ」での初歩的な思考を超えて、体系的思考が可能になる。ちなみにこの思考の体系性を維持・発展するためには、言語体系や数学体系といった何らかの記号体系がおそらく不可欠であると考えられる。

(2) 今・ここ以外の時空にまで拡張された意識。これにより人間としての存在だけでなく、自己同一性 (identity) が確認される。自伝的意識 (autobiographical consciousness) とも呼ばれる。


想い (image)

(1) いわゆる「イメージ」で、認知の広い領域で一定のパターンとして認識されるもの。想いは、「からだ」で感じられるぼんやりとした未分化の気持ちであることもあれば、「こころ」で感じられる形の定まった気持ちであることもあれば、「あたま」で漠然と描かれようとしているさまざまな考えのまとまりであることもある。想いの源泉はさまざまな感覚器官から得られた感覚だろうが、想いは中核意識や拡張意識においてことばとして結晶化する。

(2)  視覚・聴覚・嗅覚・味覚・身体感覚などの感覚様態で作られた構造をもつ心模様 (mental patterns) であり、心 (mind) の主要通貨 (the main currency) となる。


ことば (language)

(1) 情動、感情・中核意識、拡張意識のさまざまなレベルで知覚された想いを、育った文化での慣習(および生得的な言語能力)にしたがって、記号体系的な表現にしたもの。ことばは想いから生じ、想いは「からだ」から生じ、「こころ」や「あたま」で発展し、ことばとなる。

(2) 想いが変換 (conversion) もしくは翻訳 (translation) されて単語や文の形をとったもの。



■ ボームの用語

感受性 (sensitivity)

(1) 感性・知性・理性、もしくは情動・感情(中核意識)・拡張意識のすべての領域において示される鋭敏さ。高い感受性により、人はさまざまな直感を得、さまざまな概念の内容および発展性を理解し、幅広い理念について思考することができる。

(2) 自分の内外で起こっていること (what is happening) に対する感覚を得るだけでなく、その感覚をまとめる (hold it together) 意味 (meaning) の感覚を得る能力




参照した資料(原典情報はそれぞれのページに書かれています)

「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました

Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"

A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind”

Introduction and Key terms (Summary of Kant's Critique of Pure Reason #1)







 7/21(金)のDwight Atkinson教授特別講演にもぜひお越しください!
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/06/721d.html