2017年4月25日火曜日

When Borders Closeの解説記事




以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。

 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


When Borders Close
by Ruchir Sharma
Nov. 12, 2016.
Sunday Review, The New York Times


この記事は、大方のメディアの予想に反してドナルド・トランプ氏が大統領に選出された直後に書かれたものです。この頃に書かれた記事としてはめずらしく、冷静で長期的な視点をもった論考だと思い、私はEvernoteに保存していました。


日本の英語教育界では、およそ単純すぎるグローバリズム観がしばしば表明されます。「グローバリズムだから英語を使わなければならない」、「英語を使えばグローバリズムに対応できる」などです。これらのスローガンの前提としては「グローバリズムは疑いなく受け入れるべき」、「グローバリズムは今後も続く」といったものもあるかと思います。

これらが勇ましい与太話で終わっていればいいのですが、これらの考えは中高の現場での英語教育に大きな影響を与えていますし、大学においても英語だけで卒業・修了できる学部・大学院が無批判的に厚遇されるといった形でさまざまな影響を与えています。

この記事を読んだだけでグローバリスムがわかるとか、世界の未来が予測できるといったことがあるはずもありませんが、スローガンに煽られて思考停止状態になることに楔を打ち込むことはできるでしょう(もっとも権力側にいてオコボレをもらえる限りにおいて思考停止状態になることは存外に快適なもののようです。ですが、それは弱者を蹂躙し社会を歪ませる頑強となることを私たちは忘れてはいけません)。

以下の分析を通じて、日頃から各種報道を批判的に読み比べながら考える習慣を身につけましょう。きわめて個人的な意見ですが、世界の動きや社会の情勢には無関心なまま、資格試験の得点向上だけを考えている英語オタクには公教育の英語教師になってほしくはありません。





*****



■ 6-7
確かにグローバリゼーションの時代には繁栄があったが、その受益者はもっぱらエリート層だった。


■ 8-9
経済危機が訪れると、不満をもった層はナショナリズムを唱え、自由貿易やグローバル金融や移民に制限を加えようとする扇動者を支持した。グローバリゼーションは停滞し、反グローバリゼーション (deglobalization) が始まった。


■ 11-12
この経済危機は第一次世界大戦と共に1914年に始まり、40年間にわたる移住と貿易の増加に終わりを告げた。


■ 12-14
これは、1980年台に始まり2008年のリーマンショックで停滞するまで続いたグローバリゼーションのブームと似ている。今日、グローバリゼーションはまたもや後退している。


■ 19-20
新たな反グローバリゼーションの時代が始まった。この時代はしばらく続きそうである。


■ 23-27
チンギス・カン以来、国境 (border) を越えたヒト・モノ・カネの流れは数十年周期の波で前進と後退を繰り返している。1914年に始まった後退は30年間続き、世界経済を弱体化し人々の不平感をつのらせ、やがてはそれは第二次世界大戦という形で暴発した。2008年に始まった後退はまだその力を増している。経済成長の鈍化やインフレや勃発する(国際的)衝突などの影響を自覚するべきだ。


■ 29-33
1914年と2008年の類似性は驚くばかりである。1914年以前の蒸気船と世界貿易への英国の参入は、2008年以前のコンテナ輸送・インターネットと世界貿易への中国の参入と似ている。


■ 37-41
グローバリゼーションによって引き起こされた20世紀初頭の社会的緊張 (social tensions) も現代と似ている。もっとも裕福な1%のアメリカ人の収入は1870年からどんどん上がり始め1920年代にはピークに達し、「金ぴか時代」の金権政治 ("gilded age" plutocracy) に至った。民衆の不満は広がり、1929年の世界大恐慌以降は特に政治家が国境を閉ざしがちになった。


■ 43
20世紀前半にアメリカは内向きになった。


■ 49
1930年代の最初の頃、アメリカは移民の受け入れを事実上中止したともいえる。


■ 54
国境を閉ざすことで競争と商業活動が停滞し、大恐慌 (the Depression) は長引いた。


■ 54-56
この時期のアメリカでは「アメリカが第一」 ("America First") と唱える 大衆主義者 (populist) は非主流派にすぎなかったが、ヨーロッパやアジアでは大衆主義者が軍事的独裁 (militarist autocracies) の権力を奪取し第二次世界大戦につながった。


■ 59-62
世界貿易が1914年のピークに戻るのはようやく1970年代になってからであった。資本の流れが戻ったのはそれよりも遅い1990年代である。しかしこれらの貿易と資本の流れが速くなると、それは金融危機につながることとなった。


■ 64
現在から見ると、(リーマンショックの)2008年は、(第一次世界大戦の)1914年と同じような転換点であったように思える。


■ 65-67
貿易の国内総生産(Gross Domestic Product)  に占める割合を世界的に考えるなら、1973年の割合は30%だったが、それが2008年には60%にまで上がっている。しかしリーマンショック以降は55%にまで落ちている。


■ 69-71
資本の流れについても同じように国内総生産に占める割合で考えるなら、2007年は16%であったが今ではそれが2%にまで落ちている。


■ 73-75
人の流れも少なくなっている。たしかにヨーロッパへの難民は引きも切らないが、世界全体で考えるなら貧しい国から豊かな国への人の移住は、2011-2015年ではその前の5年間から400万人減った1200万人となっている。


■ 78-81
1930年代と同じように、世界的な貿易や投資や移住の減少によって、世界経済は弱体化している。この新たな反グローバリゼーションの時代は長く続くかもしれない。その理由の一つとして、第二次大戦後のグローバリゼーションの秩序が、ロシアや中国と言った新興国での独裁者と西側民主主義諸国での大衆主義的な政治家によって攻撃を受けていることがある。


■ 84-87
2008年以来、インド、ロシア、中国、アメリカといった国々で保護主義的な政策が取られてきた。保護主義的障壁が一つの産業でできあがってしまうと、それは他の産業にも波及してゆく傾向があるので注意が必要である。


■ 89-93
1980年代に中国が世界貿易に参入して以来、中国の人口爆発によって世界貿易は加速した。原材料を、中国、後にはポーランドやメキシコといった国々に作られた工場へと運ぶことにより世界は繁栄した。2008年以前の世界貿易ブームはこれらのサプライチェーン (supply chain) の中での商品移動によるものが多かった。


■ 93-95
しかしこの流れは変わった。特に、中国が貿易への依存度を低め、中国の工場が国内での生産に乗り出したことが大きい。


■ 97-99
このグローバリゼーションの停滞の理由をオートメーションや中間層の仕事が少なくなっていることに求める者もいる。


■ 99-101
しかしテクノロジーを重視する者たちは、政治的現実 (political reality) を見失っている。今の政治的な流れは、移民と貿易に反対する立場をとっている。反グローバリゼーションの意味合いを認めなければならない。


■ 103-105
二つの世界大戦の間の時代に、反グローバル的な綱領によって国際競争が少なくなり、インフレも手伝って経済成長は弱まった。今日、大衆主義者 (populist) は国内産業を保護して富を共有することを訴えているが、これは前例の繰り返しとなるかもしれない。


■ 107-110
国内での富の再分配は、人々の収入格差を狭める健全な効果をもつかもしれない。だが保護主義が強くなれば、国々の間での富の格差は大きくなるだろう。第二次世界大戦以来、貧しい国が輸出抜きに経済発展した例はほとんどない。


■ 114-117
もっと心配なのは、国境を閉ざすことの地政学的な影響である。2008年以来、開かれたグローバル秩序がよろめき始め、民主主義国家の増加も止まった。Freedom Houseの調査では、2008年以来、自由が高まった国は60あるものの、100以上の国々で自由は後退した。民主主義国家では外国人嫌い (xenophobic) が増加し、独裁国家はより抑圧的になった。


■ 121
自由が後退している国々の政府は国境を閉ざし、軍事力を強化している。


■ 126-127
20-10年前までの軍事費は世界的にほぼ横ばいであったが、ここ10年間の軍事費は東アジアで75%、東ヨーロッパで90%、サウジアラビアで97%上昇している。


■ 129-130
第一次世界大戦で粉々に砕けた希望は、ますます相互につながった世界 (increasingly interconnected world) により、軍事衝突は過去のものになるだろうという希望だった。この希望はここ数十年間再浮上していたが、国々のつながりはほころびかけているし、緊張は広がり、「我が国こそ第一」という大衆主義 (populism) は、アメリカも含めた国々で強くなってきている。


■ 135-137
ヒト・モノ・カネのグローバルな動きはこれから停滞し続けるだろう。過去から学べることは、昼の後に夜が来るように、グローバリゼーションの後には反グローバリゼーションが来るということである。反グローバリゼーションの時代は、グローバリゼーションの時代と同じぐらい続くかもしれない。





2017年4月19日水曜日

今年の昼読はさらに多言語空間になりそうです。



今週から始まった「昼読」ですが、二回目の本日は特にさまざまな言語での読書会となりました。

参加者は院生5名、留学生1名、教員2名の合計8名。

読んだ本の言語は英語とロシア語がそれぞれ2名。あとはフランス語、ドイツ語、中国語、日本語の6ヶ国語となりました。








読書、とりわけ外国語の読書を継続することはそれほど容易ではありません。次から次に来る細々した仕事に追われて後回しにされがちだからです。

「昼読」で(外国語でのものも含めた)読書の習慣が形成されればと思います。

加えて、最後の10分間での意見交換は本当に面白いです。

世界が広がり深まります。

「昼読」は緩やかな集まりですから、ご興味をお持ちの方はお気軽に月・水・金の昼休みに教育学研究科A210室にお立ち寄りください(誰もいなくてもどうぞ勝手に入って下さい)。







留学生も含む学部生による「対話」についての振り返り



ここ最近、私はさまざまな機会を通じて「対話」の実践を促進しています。

以下は、学生間の対話を導入した学部4年生の授業(「現代社会の英語使用」)の第一回目の授業での感想の一部です。一人は留学生ですので、日本語の慣用法からは少し逸脱した書き方もしていますが、意味理解にはまったく支障がありませんでしたので、敢えて修正などはしませんでした。「慣用から少し逸脱しているとしても、これだけ深い内容を伝えられるのなら、この日本語は一つの個性として認められるべきではないか」と考えたからです。

このように母国語話者による修正を最小限に抑える方針(=意味理解に支障がでる場合や意図していない誤解を生んでしまっている場合以外は基本的に修正しない方針)については、アメリカの大学の多くのライティングセンターでは採択されていると聞いたことがありますが、自分自身でその方針についてそれほど共感していたわけではありません。ですが、今回は実際の留学生の日本語を読んで上のように感じた次第です。

もちろん修正についてはいろいろな意見があるでしょうし、文章執筆の目的によっても方針が異なるだろうことは承知していますが、今回は敢えて修正なしの方針を取りました。

ともあれ、以下の「対話」についての学部4年生の意見をお読みいただけたら幸いです。





*****


■ 個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、あらたな考えを創造できる。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 けんかにならないように、などと思って反論しないでいると、対話にならない。傷つけない言い方ができれば、相手を思いやりつつ相手とは異なる意見を言い合えて、対話が進んでいく。

  対話ができた経験があるか、という問いに対し、私は授業や実習で授業を作るための話し合いがそれに該当するだろうと始め思った。しかし、講義中の対話で指摘してもらった通り、授業を作る話し合いは決められた時までに終わって授業を作りきらないといけないという点では、私たちが講義中に捉えた対話の在り方とは少し異なる。具体的に授業を作る話し合いの際は、時間的な制限によって妥協せざるをえない時もあるだろう。他に、わたしはサークルの運営についてサークルのメンバーと話し合うときも対話であったのではないかと思っていたが、その中にも、何月何日までに決めないといけない、など時間的な制限がついていたものがあり、それらも少し違うのだと思った。

そこで後々、対話をした経験は本当になかったのだろか、とさらに考えてみた。ずっと部活やサークルの話になるが、大学の吹奏楽団のみならず、中高の部活についても、母や運営上の関係が強い相手と部活の課題やその解決について話すことがあった。大体、そのときは明確な答えが出るわけではなくてむしろ「難しいね」などとひとまずは話を終えるのだった。そしてまたしばらくして同じ話をする。少しずつしか進展はしなかった。なかなか解決できない、という思いはあるが、いつか答えが見つかるのではないかという前向きな思いは常にあって、辛いとか悲しいといった否定的な思いにはさほどならなかった。対話ができた関係というのは、相手を信頼して安心して発言ができるし、相手も自分の意見を聞いてくれると思って発言できる関係であるから、そのような関係を持てたことはありがたいと思った。

 上司など上下関係がはっきりある相手には、反対の意見を言い出すのも難しく思われる。そういう関係でも対話を意義あるものとして成り立たせるには、上司の側に工夫が必要だろうと思う。あるいは、講義中の意見でも出たように、お互いを知らない時も、反対意見を出すことに抵抗を覚えることがあるだろう。このような時に、対話をうながす態度や話し方ができるようでありたいと思った。それらがどのようであるかということを考える際に一つ思い当たったのは、講義中の対話を見てもらって「間と話しだしの捉え方が人によりけり」と言われたことだった。間の感じ方、これだけ空いたら話せる、という感じ方は違うことを、特に他の国の方と話す時に感じたことがあったが、それは実際には国籍に関係なく生じる個人差である。発言権をバランス良く回す必要があるし、それだけでなく、質問をしたりして議論に巻き込んでいかなければより良い対話にはたどりつけないと思った。


■ 人の呼吸を感じる、という言葉が印象的だった。思い返してみると、高校の部活の試合では「よく相手の動きを見ろ」と言われた。しかし「相手が動いていないのに自分から動いていた」と試合後には同じ助言を何度ももらった。大学のサークルでは「周りの音をよく聞いて」、「口の形を見て」、と言われていたが、いつもずれてしまった。今回の授業で、人の呼吸を感じるということ、表情からその人の感情や動きを読み取る、ということはとても大切なことだと改めて思った。

アイコンタクトを取っているつもりで、何も見ていないのと一緒の時がある。人が目の前にいるのに、ただ浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出すだけの時がある。それは討論どころかコミュニケーションですらない。話していて心地よいと感じる人の特徴は表情や言葉の表現など多くあるのだが、そのうちの一つに、自分が「しゃべりたい」と思ったときにそれを察して、すっと話してから聞き手へと自然にうつるということも挙げられるのではないかと思う。

先日教英の友達と、コミュニケーション能力が高いというのは、ただ笑って話ができるというだけではないのではないか、内容も含めて言えるものではないのか、という話をした。コミュニケーション能力の定義は様々であるが、相手意識は不可欠であるのではないか。こう言ったら、相手はどう思うか、どう返すか、話の流れはどう変わるか、そこまで少しでも見通しをもって話ができれば、相手を大切にしたやり取りが可能になるのではないかと感じた。


■ 
 対話によって、話し手と聞き手の間、意味の完全な一致は前提とされず、意味は差異があることを認めており、むしろ差異があるからこそ、新しいものを作り出すことが出来るという解釈によって、対話の本当の目指すことを考え直した。対話の中に、聞き手は普通に話し手が思っていたこととまったく同じ意味での反応をしないのは、人はそれぞれの背景と価値観を持っており、その価値観によって、自分しか持っていないスクリーンを通じで対話をしているからであろう。そして、対話の中で、自分が言おうとしたことと相手が理解したことの間の差異、本当は対話者それぞれ思考方式の差異だと考えた。その差異から生み出した同じ言葉に対して違うの理解、つまり同じ言葉について考え方の他の可能性そのものは、対話の参加者たちが創造した「共通な新たな内容」ではいかと思った。 

 理想的な対話を作るため、原則的には、対話の議題は定めないことだが、実際に対話をする時に、たとえテーマを決まっていなくても、その対話の最初の発話者によってある話題が提出したら、後の発話者もその人が言ったことあるいは議題に関わる内容しか言えないようになるのは普通だと思う。また、完全に自分の偏見を見捨てて他人に傾聴することも、あるいは自分の思うことをすべて自由に述べることも対話にとっては大切だが、そういった対話をするのがやはり実際の生活でいろいろな場面でも難しいことだなと意識思った。

 対話の参加者の間での意味に差異から何かあたらしいものが生まれてくるのように、私達が言葉にしたことと自分の本当の思考やぼんやりとしか意識できない思考過程の間にきっと何らかの差異があるのだろう。その差異によって、自分の思いに対して新しい認識を得られるかもしれない。それが、私達が言語から自分について学べることなのではないかと考えた。


■ 後半の「対話」というものについて実際に対話をして見るときには,これほど日本語で対話をすることが難しいのかと驚きました。私たちのグループの対話の進め方は,提示されている質問に対して一人一人が意見を述べていくという形でしたが,後から振り返って見れば,これは対話とは到底言えないものであったのではないかと考えてしまいます。対話とは,異なる意見・異なる背景を持った人と話し合う中でなんとなくこれが真実なんだろうね,というものへと近づこうとする試みであると考えますが,私たちが行っていた話し合いではただひたすらに自分の意見を述べるだけで,人の意見を受けて自分の考えを変えたり反論して見たりすることが一切なかったように思います。母国語で対話をすることは造作ないだろうという考えは,私たちが日本語そのものに関する知識は十分なのでしょうが,対話をする経験や意義などを持っていないことに気づいていなかったからこそ持ってしまうのでしょう。


■ 対話についてですが、自分がこれまで思っていたものよりはるかに創造的で高度な営みであるということがわかりました。今回の対話体験を通して一番心に残ったのは聞き手の「受容力」です。特に、聞き手は話し手とまったく同じ意味での反応をするわけではない、という点が印象的でした。自分がとにかく伝えているだけでは相手に伝わらない、したがって相手の理解を踏まえて(受け入れて)少しずつお互いが良いと思う方向にすり合わせていかなければならないことになります。ここで自分を押し付けたりせずに、傾聴する姿勢を持たなければ対話は成立し得ません。




追記 (2017/04/25)

母国語話者以外が書く言語について、 ある学生さんがさらにコメントを書いてくれましたので、ここに転載しておきます。

*****

 その言語の慣用から多少逸脱していても、それは一つの「個性」として捉えられるのではないか、というお話が印象的だった。自分自身、母国ですら完全に使いこなせているわけではないだ、ということを大学に入ってやっと痛感した。「正しい」言語とは何か、ということを母語である日本語を例に考えたとき、「詩」が浮かんだ。詩において、違和感すら与える形容詞と名詞の組み合わせや、倒置法などの不規則な語順こそが、読み手の感情を動かす個性として生きるということが多々ある。

(中略)

 言語において、母語話者が権力を持つ、ということはない。母語としない人からこそ気づかされること、学ぶことも多い。そして、外国語を通して母語への認識を深める、ということはこのようなことからも言えるのではないかと考えた。

 つまり、文化や概念の異なる国の言語を取り扱う際、それぞれの単語や語順などに対する認識には、多少ずれが生じるものであるようだ。それならば、まったく違和感のない文章よりも、むしろ、その人の持つ文化や概念をそのままに、思考を飾ることなく言葉にした文章こそが、その人の言いたかったことを最も身近に感じられる表現へとつながるのではないかと感じた。加えて、他の言語を学習する際、その言語のみでなく、それを使用する人々のもつ概念や文化についても、私たちは学んでいく必要があるようだ。





2017年4月17日月曜日

教英入学式での挨拶

以下は、4月3日に教英の入学式で私がした挨拶です。学生さん共々、初心を忘れないために掲載します。






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学部新入生への挨拶


新入生の皆さん、「ご入学おめでとうございます」ということばを聞き飽きてきていませんか?

確かに大学合格をゴールとしか考えていない人たちには、大学入学はめでたいことでしかないでしょう。しかし、私のように大学入学から卒業までの学生さんの姿を長年見てきた大学教師にとっては、大学入学はスタートでしかありません。

このスタートをうまく活かせるか活かせないかはまさに皆さん次第です。

大学の教師も施設も、皆さんがこれから作る友人も、あるいは保護者も、皆さんの代わりに皆さんそれぞれの人生のレールを引いてくれません。(いや、むしろ、引かせてはいけません)。だから、今は、入学を嬉しく思いながらも、気を引き締める時期だと私は思っています。

とりわけ私が懸念している新入生は、高校卒業までの生活で、自分の「からだ」と「こころ」の実感を忘れてしまった人です。

よく高校の先生などには「大学入学までは我慢をしろ。入学したら好きなことをすればいいから」と言う人がいます。

若い人の中には、そんなことばを鵜呑みにして、自分が「からだ」や「こころ」で感じるさまざまな想いを抑圧してしまった人がいます。「勉強とは自分の嫌いなことを我慢してやること」などと思いこんでしまっています。

そんな人は、大学に入学しても自分は本当は何がしたいのかがわかりません。感性をつぶされてしまったからです。いや、少し厳しい言い方をすれば、自分の感性を他人につぶされてしまうことを許してしまったからです(ここで「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子さんの詩を思い出す人もいるかもしれません)。

そんな人も、しばしば自分は好きなことをやっていると思い込んでいます。ですが、実際は、周りの人がやっていることを、「みんなやっているから」という理由だけでやっているだけです。

だから「みんな」に合わせて、「みんな」の顔色をうかがってばかりです。自分の「からだ」と「こころ」で感じること、そしてその感じたことを表現することができません。表情ですら自分で自由に出せません。自分の考えはひたすらに隠そうとすらします。

だから、一見楽しそうな顔をしていても、実は不安です。あるいはたまにある例ですが、人前では過剰なまでに「幸せな自分」という役を演じて、実際のところは疲れ切っています。

そんな人は、自分の「こころ」--言語以前の未分化な感情-- と「からだ」-- 感情以前の身体内での細かな蠢き-- を忘れてしまっています。そんな人には、身体の底からの意欲は湧きません。心の底からの情熱も出てきません。だから深い知性も身につきません。

だから皆さん、一人になること (solitude) を怖れないでください。

教英は先輩後輩の「縦のつながり」と同級生同士の「横のつながり」に恵まれた素晴らしい場所です。

しかし、自分の個性を大切にしてください。

自分の「からだ」で感じたこと、「こころ」で想ったことを大事にして、それをことばにしてください。流行りのことばをうまく使いこなすのではありません。自分にぴったりのことばが見つかるのを辛抱強く、しかし貪欲に待ち続けて下さい。それこそがことばを学ぶことだと私は考えています。

大学時代に、自分の「からだ」と「こころ」を取り戻してください。あるいはそれらを忘れないまま入学した人は、それらをどんどん育てて下さい。

そして自分のことばを見つけてください。さらには、そのことばで他人に語りかけてください。また、そんなことばで語りかけてくる他人に耳を傾けてください。深い友情を築いてください。今は漠然としか感じられていない自分の可能性を実現させて下さい。

もし皆さんがそんな学生生活を送ることができたら、私は卒業式に心から「おめでとうございます」と言います。

だから今日はおざなりな「おめでとう」は言わず、こう言います。

互いに自分の「からだ」と「こころ」を大切にしましょう。そこから出てくる深いことばで語り合いましょう。

深いことばで学ぶ大学へようこそ。







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大学院新入生への挨拶



大学院に進学された皆さん、ご入学おめでとうございます。

大学院では、学問という古来からの営みにこれまで以上に真剣に従事します。
この営みは、お上手を言い合ったりする世渡りや、巧みに忖度を行う保身や出世とは異なります。

もちろん出世はともかく、世渡りや保身は大切ですから、それらはそれらでうまく行ってください。

しかし、こと学問の時間、研究の場においては、人間関係や利害関係や権力関係よりも、自分自身の納得を大切にしてください。

研究において、自分でどうしても納得できないことに対しては、怖れずに「わからない」と言って下さい。そして自らの疑問を口に出して下さい。納得できていないことに対して "Yes" と言わないでください。

逆に自分が納得できないからといって、その内容をむやみに "No" で否定しないでください。それは現在のあなたの知的限界によって理解できないだけであり、その内容が間違っているわけではないかもしれないからです。

納得できないことに対しては、"Yes" とも "No" とも言わず、疑問を表明してください。疑問すら出ずに不全感ばかり感じる時は、それを肯定も否定もせずに自分の中に静かに留めておいてください。そして数週間後、数ヶ月後、数年後、ひょっとしたら数十年後に「ああ、こういうことか」と膝を打ってください。

人類は有史以来、紆余曲折はあれど、学問(およびそこから派生した科学)と民主主義を大切にした流れでこれまでの歴史を作ってきました。学問(科学)においても民主主義においても、人間関係や利害関係や権力関係とは独立に、お互いの納得を求める営みです。私はそんな人類の歴史を大きく肯定する人間として大学に勤めています。

現在、世界各地で民主主義の後退が懸念されています。その中には学問や科学の成果をあからさまに権力が否定しようとする動きすらあると思われます。こんな時代に、大学・大学院が、研究を世渡りや保身や出世の道具にしてしまってはいけません。それは人類の歴史に対する冒涜だとすら私は考えます。

お互い学問という営み、研究という精神を大切にしてゆきましょう。

それが世界中に二千年以上にわたって存在し続けた数え切れない先達と、私たちの後に続くこれまた無数の人々に対して私たちがもつ義務であり、喜びだと考えます。

と、偉そうなことを言いましたが、実は私自身が一番、きちんとした研究ができずに心苦しく思っているというのが現実です。

皆さん、互いに切磋琢磨して学びましょう。

大学院へようこそ。


Difference Engineの解説記事



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。


 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


Difference Engine: Luddite legacy
The Economist, Nov 4th 2011 by N.V.


以下のパブリックコメントでも書きましたが、これからの(英語)教育は、AIの台頭を考えておかねばなりません。おそらくは近い将来にスマホによって代替できるような定型的な「英会話」能力ばかりを目指しているようではいけないと私は考えています。


中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました


皆さんも以下の記事を読んで、これからの社会と教育のあり方について考えてください(というより考える習慣・考え続ける習慣・考え抜く習慣を大学時代に身につけておいてください)


■ 2
Difference engineとは「階差機関」もしくは「差分機関」と翻訳されている、歴史上の機械式用途固定計算機。現在のコンピュータの前身ともいえる。


Ludditeはいわゆる「ラッダイト運動」のこと。世界史上の常識ですから、今一度確認して下さい。マルクスの批判にも注意。英語教育はビジネスや資本主義のあり方に大きく左右される営みだから、経済や世界史についてはきちんと理解しておこう。


■ 7-9
「ロボットは組合費を払えないだろう」と労働組合の長に言い放ったヘンリー・フォードに対して、労働組合長が「誰がフォードの車を買うんだい?」と言い返したという(真偽不明の)エピソードは、企業が発展するには、その企業の商品を買うだけの購買力をもつ人々(中間層)が必要だということを示している。


■ 11-15
生産性の向上に伴い商品を購入できる消費者の数も増えなければならない、ということをヘンリー・フォードはよく理解しており、彼は自社の従業員にその当時としてはかなり高給を支払った。


■ 22-24
経済学者は上記のエピソードを、オートメーションやイノベーションといったテクノロジーの進展が生産性を上げ、生産性の向上が物価を下げ、需要と雇用を増やし、経済が発展する古典的な例だと考えている。


■ 24-27
上記の経済学者の認識は、ラッダイト運動(の失敗)以来、経済学の「常識」となっている。


■ 29-31
ラッダイト運動の頃、たしかに失業者は出たが、もしラッダイト運動の主張が正しいとしたら、現在の私たちはすべて職を失っているはずである。だが、現実には職がある以上、経済学者の「常識」は正しいと思われる(少なくともこれまでは)。


■ 35-37
「しかしもしテクノロジーの進歩がこれまでになく速くなっている現在、なぜアメリカでは失業者の割合はこれほどに高いのだろうか?実際、景気は悪くないのに、失業者が減らないのはなぜだろうか?」というのが、このエッセイの中心的な問いとなる。この記事は、リーマンショックからの回復が見られた2011年に書かれている。その後アメリカでは2017年から労働者の鬱憤を代弁する(ように少なくとも見せている)トランプ氏が大統領に就任したことからしても、労働者の苦境は引き続き続いている。

「景気は回復したのに、雇用が増えない」、「収入の平均値は上がっているのに、中央値は上がっていない」ということについては、下の記事を参照。

井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)


■ 48-50
このアメリカの労働者の苦境に対する従来の説明は、現在の経済の成長率は十分に高くないというものである。


■ 55-56
この従来の説明には一面の真理があるが、その説明は、テクノロジストが懸念してきたが経済学者が取り上げようとしなかった重大な変化を見逃している。


■ 57-61
経済学者が認めたがらない重大な変化とは、雇用が増えないのはテクノロジーの進歩が十分ではないからではなく、むしろ逆にテクノロジーの進歩が急激にそして不可逆的に高速化したからというものだ。コンピュータによるオートメーション、ネットワーク、AIなどは社会に決定的な変化を与えた。特にAIは、機械学習、言語翻訳、言語認識、パターン認識、などによりこれまで人間がやってきた仕事を時代遅れのものにしている。


■ 63-67
これは産業革命以来の、機械が人間の筋肉労働にとって代わることにより仕事がなくなったが、同時に人間が新たな仕事を生み出してきた歴史とは異なる。今やオートメーションは、定型的な仕事(ルーティーン)だけでなく知性を必要とする課題、あるいは創造的な課題にまで及ぼうとしている。分岐点 (a tipping point) 越えが既に起こり、これまで頭脳労働によってそれなりの収入を得てきた中間層が広い「草刈り場」 (swath)  となったのかもしれない。


■ 69-72
企業からすれば、AIソフトが安くなったので、高い賃金を人間に払いたくないだろう。


■ 74-77
100年前には農業労働者の割合は労働人口の約半分だったがそれが現在は2%強にまで減っている。これと同じことがホワイトカラーの労働者に起きようとしているのかもしれない。


■ 81-83
メディア学者の一人は、イノベーションが起こりこれまで以上に高い教育がなされたとしても、ホワイトカラーの仕事が新たに創生されるということはないだろうと述べている(つまり、上記の経済学の「常識」が通用しなくなるということだ)。


■ 85-89
「ラッダイト運動は間違いだった」という考えには二つの前提がある。一つは、機械は生産性向上のために労働者によって使われるということ、もう一つは、労働者の多くは機械を操作できるということである。しかし、機械そのものが賢く (smart) になり、機械自身が労働者となったらどうなるだろう。言い換えるなら、資本が労働となったらどうなるだろう(注)。

(注) 従来は、資本(剰余金)をもつ資本家は、労働力をもたないので、資本を投入して設備を購入し労働者を雇用して生産をすることにより、さらにその資本を増やすという枠組みで資本主義が動いていた。しかし、資本家が人間の労働者を雇わずに済むとしたら、資本家は労働者として働く賢い機械を買うだけで自らの資本をさらに増やすことができる。

資本主義については以下の記事を参照。

マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ

モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房

池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社

組曲『マルクス経済学』(笑)

ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 『権力を取らずに世界を変える』 同時代社


■ 97-101
AIによって取って代わられるのはホワイトカラーの知識労働者と中間管理職だけではない。データ分析、ビジネス情報分析、意思決定を行うAIソフトが人間の労働力よりも安く購入できれば、いわゆる専門職 (professional) も仕事を失うだろう。


■ 103-104
一例として放射線科医を挙げることができる。現在は長年の大学教育を経てそれなりの高給を得ている放射線科医はもうすぐAIに仕事を取って代わられるだろう。


■ 109-110
法律家も同じように、判例を検索し事件の評価をして結果を要約する賢いアルゴリズム(AI)に仕事を取って代わられるかもしれない。


■ 116-119
もちろん機械が増えれば、機械の維持などの仕事も新たに出てくるだろう。だがそういった仕事もすぐに安い労働力をもつ国々の労働者に取って代わられるか(オフショアリング)、機械の維持を行う機械によって取って代わられるだろう。


■ 122-125
もしテクノロジーが指数関数的に向上するのだとしたら、ラッダイト運動が間違っていたのは、テクノロジー発展が比較的平坦な上昇しか示していなかった時期の時なのかもしれない。だが産業革命から200年余りたち、テクノロジー発展が指数関数的上昇の急勾配の時期に来ているとしたらどうなのだろう。


■ 129-133
ある推計によると40%近くの仕事はやがてコンピュータ上のソフトウェアに取って代わられるとのこと。10年以内のうちにそれらの仕事の多くが消え去るだろうとも言われている。


■ 143-1449
それほど悲観的な見解をとっていない者もいる。機械に対抗して (against) 働くのではなく、機械と共に (with) 働けば、AIの発展は脅威ではなく好機であるというのがその意見である。その例としてAmazonやeBayでの仕事が挙げられている。


■ 155-156
やはりラッダイト運動は現代においても間違っているのかもしれない。だがこれからの仕事が、これまでと同じような形(例えばフルタイム雇用)で続くかどうかはわからない。


■ 156-159
人間を人間たらしめている能力、つまり想像力、感性、創造性、適応力、即興力などによって、私たちは直感を得るし自発的な行為をすることができる。これらの能力は、機械にはなかなかもてないものだ。


■ 162-165
たしかにいくつもの仕事が機械に取って代わられるだろうが、機械は人間の能力を増大化するものである。もし新しい「人間と機械のパートナーシップ」が、人々に経済的報酬だけでなく、仕事の尊厳も与えてくれればすばらしいことになるだろう。ともあれ、一つだけ確かなことは、世界はこれまでとは違ったものになるということだ。




2017年4月12日水曜日

2017年度前期も「昼読」を開催します。


食事と運動があなたの身体を作るように、読書と対話があなたの心を作ります。

インスタント食品ばかり食べて、身体を動かさない毎日があなたの身体を鈍らせてしまうのと同じように、教科書や研究論文以外はSNSでしか文章を読まず、当たり障りのない浅い会話(あるいは仕事上の話)しかしない毎日はあなたの心を貧困で鈍重なものにしてしまうでしょう。

貧困で鈍重な心は、あなたの人生の可能性を潰してしまうだけでなく、その抑圧的で独断的な性質で他人の人生の可能性も押しつぶしてしまうかもしれません。


せめて大学では自発的な読書の習慣を大切にしませんか?






「昼読」は、自発的に集まり、各自がそれぞれ静かに好きな本を読んだ後、その読後感を共有する集まりです。感想の共有という活動は、あなたの世界を広げ、深めてくれます。

授業期間中の4/17-7.28の月・水・金の昼休みに教育学A棟のA210室に集って下さい(昨年とは部屋が異なりますのでご注意ください)。

遅刻・早退・欠席自由です。昼食を食べながらの参加も結構です。広島大学の構成員でしたら学生・教職員を問わず、どなたでも歓迎します。

緩やかに集まり、短くとも深い時間を共有しましょう。


代表管理人:柳瀬陽介(英語教育学講座)
メールは広大アカウントの前に"yosuke"をつけてください。



関連ブログ記事:
2016年度後期の「昼読」を終えて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/02/2016.html
昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/4.html
前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



2017年4月11日火曜日

The scientists who make apps addictiveの解説記事



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。


The scientists who make apps addictive
by Ian Leslie
October/November 2016
The Economist



■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


私たちの多くにとって、もはや欠かすことのできない存在となったアプリがどのようにデザインされているかについて考察してみましょう。アプリ上での英語使用も、結局はそのデザインの枠組みの中でのことに過ぎないと言ったら、悲観的すぎますでしょうか・・・




*****


■ 5-17

心理学者スキナーの行動心理学については教職教養の一部として知っておこう。

キーワードとしてはreinforcement (強化)、operant conditioning (オペラント条件づけ)、スキナー箱 (Skinner's Box) などがある。

ちなみに「オペラント」というカタカナはわかりにくいが、英語で “operant” は、 “behavior (as bar pressing by a rat to obtain food) that operates on the environment to produce rewarding and reinforcing effects”などとも定義されている。カタカナ語の多用を嫌う私としては、どうして「オペラント条件づけ」などと言わずに「行動による条件づけ」、「行動的条件づけ」、「動作的条件づけ」などと翻訳してはいけないのだろうなどと思ってしまう。そうすれば大学生時代の私のように、この概念と「古典的条件づけ」の違いがわからないなどと悩むことも少なくなるのではないかとも考える。(乞うご教示)。


■ 19-21

心理学では1950年代以降、認知心理学 (cognitive psychology)が隆盛となった。認知心理学と行動心理学の違いも教職教養の一部として知っておこう。


■ 22-26

しかし行動心理学は死に絶えることなく、現代では「行動デザイン」 (behaviour design) として再浮上している。その創始者(の一人)が、この記事の中心的話題となるB.J. Fogg https://bjfogg.com/ である。


■ 34
Uber(ウーバー)については最近の話題の一つとして知っておこう。


■ 59-62
Foggは、教育系のソフトウェアや金融管理プログラムなどにも、行動心理学が活かせると考えた。


■ 64-67
社会心理学では、人間の行動特徴の一つとしてreciprocity互酬性)が提唱されているが、Foggの実験では、人間はコンピュータといった機会に対してもこの原則を適用させていることが示された。


■ 68-71
そうなると互酬性の原理にしたがってアプリを設計すれば、人間の行動を変えることが可能になる。しかしこの行動デザインの倫理性についてはまだ十分に検討されていない。


■ 76-80
しかし、現在のアプリには実際、行動デザインの原理が多用されているが、それらは巧みに用いられ人々に気づかれることも少ない。


■ 82-84
Foggの講演を聞いた者は、「危険だ!」と言う者たちと、「ビジネスチャンスだ!」と言う者たちのふた手に分かれた。


■ 86
実際、行動デザインは巨万の富を産んだ。
 

■ 91-92
しかしFoggは、行動デザインの倫理面についてますます懸念を深めている。


■ 94-99
誰かが何かをする時には以下の3つの条件が同時に揃わなければならない。(1) その事をやりたいと願っていること、(2) その事をすることが不可能ではないこと、(3) その事をやるように促されること。


■ 105-106
しかし、大人と子どもでは行動が違ったりする。たとえば、大人は簡単な事ならやるが、子どもはたとえ簡単なことでもゲームのようでないとやらない。


■ 108-110
人に何かをやらせる時は、その人のやる気(モチベーション)を高めようとするが、それよりもその行動そのものをその人に適したものにすればいいのかもしれない。


■ 123-127
うまくデザインされた「ホット」なトリガー (trigger 誘発装置)は、人がまさにそれをやりたいと思っている時にちょうどいい難易度で行動を誘発させる。


■ 131-135
「ホット」なトリガーで情動が高まると、その行動を自動的に選択するようになる。(飛行機のビジネスクラスでの待遇を考えてみてもいい)。


■ 140-141
「人をいい気分にさせろ」ということは、「人に強大な力を得たと思わせろ」と言い換えられるかもしれない。


■ 151-156
Foggの理論以降に台頭したFacebookやInstagramなどのSNSは行動デザインを駆使している。SNSでもっとも「ホット」な誘発装置(トリガー)は、他人である。友人やフォロワーの反応によって、人はSNSにのめり込む。


■ 161-165
たしかにフォローやコメントがついたら嬉しくなるものだが、そればかりを追求するとやがてストレスが溜まってしまう。


■ 175-177
Foggはかつて彼が教えた者たちを見てこう思う。「彼ら・彼女らが作っているのは、良い世界だろうか、それとも金儲けの機会だろうか。私はテクノロジーから人々が自由になることを願っていたのに・・・」


■ 179-184
スキナーがネズミを対象とした実験で解明したことは、報酬を一定にせず、変化させると、余計にその行動に「はまってしまう」 (hooked) ということだ(the principle of variable rewards)。


■ 186-190
Facebookにフォローやコメントがつくかどうかが気になってはまってしまうというのは、まさにこの「報酬変化の原則」である。


■ 192-198
ある学者は、誘発要因は外部に存在するのではなく、その人の内部に存在するようになると理論化している。例えば、人は、もはや気づかないうちに特定のアプリを欲するようになっているからである。


■ 211-216
インターネットの初期には、「情報によって人々を啓蒙する」という理念が掲げられたが、現在は「人々の注意をひきつけ離さないようにしてサイトやアプリで儲ける」ことが中心になってしまった。多くの会社は、私たちの心理的な弱さ (psychological vulnerabilities) を食い物にしている。


■ 218-220
例えば、Facebookは人がプロファイルの写真を変えたら、それをニュースフィードで大きく取り上げるが、それはそういった時に人がもっとも社会的承認(「いいね」やコメント)を欲していることをFacebook社が熟知しているからだ。


■ 231
ある人 (Harris) は、デザイン倫理学者およびプロダクト哲学者という肩書を考えて、デザインの倫理性について真剣に考えようとした。


■ 235-139
しかしそのHarrisもやはり独立して、独自にデジタルテクノロジーの危険性について警鐘を鳴らすことにした。行動デザインはクリックだけの些細なことに思えるが、全世界的に広がれば、巨大な権力となり人間の自由選択が侵されるとも考えるからだ。


■ 241-245
Harrisが常に唱えているのは「メニュー画面を制する者は、人々の選択を制する」である。現代人は、いくつかのアプリだけでさまざまな決定をしているので、それらのアプリのメニュー画面をデザインする者は京大な権力を有することになる。


■ 255-258
アプリ会社は、人々が欲するものを得る手助けをしているだけだ、と言うかもしれないが、現代人が毎日何回もスマホにアクセスすることを考えるとアプリ会社は人々の選択に強い影響力をもっているといえる。


■ 263-266
行動デザインの先駆者はギャンブル産業である。スロットマシンは報酬変化の法則の力を利用している。客は、次にどれだけの儲けがあるのか(そもそも儲けがあるのか)わからずに、スロットマシンから離れられなくなる。


■ 274-278
カジノは客の「機器利用時間」を最大化しようとしている。ギャンブラーはカジノの機器を離れることなく食べ物や飲み物を注文することができるし、照明、装飾、音響、香りなどの環境要因は周到に計算されている。


■ 283-285
数学者は、客がどれぐらい金を払い続けるかを計算している。さまざまな計算で、リスクについて異なる考えをもつ客にも対応し、できるだけ客がお金を使うように報酬の出し方を調整している。


■ 290-300
「ゾーン」もしくは「フロー」というのは、ある活動に完全に集中してしまっている状態のことだが、それに倣った「マシン・ゾーン」ということばもある。多くのギャンブラーは、カジノで「ゾーン」に入ってしまった経験をもつ。


■ 295-300
カジノでは、客に負けが続くとどこからともなく「幸運大使」 (luck ambassador) が来て無料チケットをくれたりする。だが、この登場は、アルゴリズムが、客のそれまでのパターンをデータとして計算した上でのことである。この「幸運大使」の登場により「臨界点」 (pain point) に近づいていた客も、カジノにとどまり続ける。


■ 302-306
カジノに興味をいだく教育産業関係者もいる。学習者が「臨界点」に達しそうになったら「幸運大使」を登場させればいいのではないかと考えるわけだ。


■ 309-315
まるで世界が、それぞれの人にとってのスキナー箱になっているみたいだ。人々が消費者として接するインターフェイスはどれもがスロットマシンのようになっている。だが、このスロットマシンはポケットに入るぐらい小さい。


■ 324-330
テクノロジー界には、行動デザインは人々によい習慣をもたらす進歩であり、何ら問題ではないと考える人もいる。


■ 334-337
「誰も、その人が望まないことをさせることはできない」というのは本当だろうが、ギャンブルにおいてその関係性は非対称的である。ギャンブラーはゾーンの快楽自体が目的となっているが、ギャンブル産業にとってゾーンは利益を得るための手段にすぎない(ギャンブル産業はゾーンという報酬を変化させて、ギャンブラーをかなり操ることができる)。


■ 339-345
システム全体が、デザイナーに有利になっているといえるだろう。グーグルやアップルがやっていることも、結局は、機械利用時間を最大化するために、報酬を変化させることだ。


■ 352-355
AIを恐れる人もいるが、AIは既にインターネットという形で登場している。インターネットでは私たちをはめてしまう方法が次々に開発されている。


■ 357-359
理屈の上では、この誘因と報酬 (incentive and reward) の循環から逃れることはできる。だが逃れる人は少ない。受け入れてつながる (accept and connect) 方が簡単だからだ。私たちは監禁学 (captology) によって喜々として監禁されているのかもしれない。




2017年3月24日金曜日

希望をつなぐということ (教英卒業式・修了式挨拶)






以下は、昨日の教英卒業式・修了式で私が行った挨拶の元原稿です。

卒業生・修了生のご健康とご多幸を心からお祈りしております。折があれば、また大学に寄ってください。


*****


皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。

皆さんの多くは社会に出て、お金をかせぐ生活に入ります。

皆さんが皆さんであるという理由だけでお金をくれるのはおそらく親などの家族だけです。ですから、お金をかせぐということは家族や(お金が絡まない)友人とはまったく別の社会的関係に入ることです。これは大きな変化ですから、皆さんの中にも不安に思っている人もいるかもしれません。

最初に楽観的なことを言っておきますなら、大抵の人は何とかやっているのですから、皆さんも何とかなります。私のようにうつ病になったり、中高年になって三回もおたふく風邪を患ったり、髪の毛を失ったりしても何とかなります。

しかし悲観的なことを言うなら、仕事で疲れ果ててしまう人や倒れてしまう人もいます。逆に金銭や権力の亡者になってしまう人もいます。教師生活においても、学ぶ意欲にあふれた生徒と理解のある保護者ばかりというわけでは必ずしもありません。一般就職にしても、新自由主義の台頭と共に経済格差ひいては社会的格差がどんどん大きくなってきています。それに加えて、今後の人工知能の発展で格差がますます拡大し、ほとんどの中間層が没落するなどという予想も出てきています。未来予想というのはだいたいそのとおりにはならないものですが、このような現状に皆さんが不安を感じたとしても不思議はありません。


そう悲観的に考えるなら、どうやって希望をつなげばいいのか、と思うかもしれません。

私がしたり顔で言うべきことではありませんが、そんな時は皆さんが「ヒロシマ」という固有名詞がついた大学・大学院を卒業したということを思い出してください。







昨年末に映画化され有名になった作品に『この世界の片隅に』というものがあります(ちなみに原作者のこうの史代(ふみよ)さんは、広島大学の理学部を中退された方です)。私は彼女の作品を『夕凪の街 桜の国』(上の画像の作品です)で最初に知り、その表現力に驚嘆したものでしたが、『この世界の片隅に』というもう一つの名作も世間ではほとんど知られていない状況でした。

しかしその原作に惚れ込んだ片渕須直(かたぶちすなお)監督は映画化を決意します。しかし、お金がありません。そこで取った方法は「クラウドファンディング」、つまりインターネット経由で資金を調達することでした。最終的には全国47都道府県の3374人から3912万円あまりの支援金を得たそうです。単純な割り算をすれば一人一万円強の支援ですからものすごい金額の支援というわけではありません。

そこから長年の制作の苦労を経てようやく完成した映画ですが、最初は知名度が低いので、全国で63館しか映画上映されませんでした。さらに一説によりますと、主役の声優をしたのんさん(旧名 能年玲奈(のうねん・れな)さん)の芸能事務所との関係でテレビはNHKを除いてはほとんどこの映画のことを取り上げませんでした。だからなかなか話題になりませんでした。

それでもこの原作の良さを知る人、そして何より映画を見てよかったと思う人たちの口コミで少しずつこの映画は人々に認知されました。ロングランとなり、数々の映画賞ももらいました。いや、観客動員数や数多くの受賞といった権威でこの映画を語るべきではありません。私も含めた多くの人たちが、この映画を心からよいと思い、人生の宝としました。それがこの映画の語り方だと私は思います。


クラウドファンディングをした人、口コミでこの映画のことを語った人々は、皆、社会的に見れば無名の人々です。しかしその無名の人々の連鎖が大きな流れを作り出しました。その流れは海外にも伝わっています。


ですが、それ以上に大切なことは、この映画で描かれている物語が、人々が絶望的な状況でいかに希望をつないでいったかということです。


物語について詳しくは語りませんが、これは1945年前後の広島県呉市の市井の人々の物語です。戦争と原爆で人生を言語を絶するぐらいに滅茶苦茶にされた人々の物語です。

しかし登場人物は、戦争中も家族で冗談を言ったりします。困窮生活の中でも小さな喜びを大切にしたりします。原爆投下直後の地獄絵図のような状況でも無償の親切をしたりします。生命のはかなさを、そして人生の哀しみを知るからこそ、小さな喜びを大切にします。

本当は(映画挿入歌にもありますように)「悲しくてやりきれない」のです。しかし、人は自分の身体の心臓が動いている限りその生命を大切にします。温かいその身体を大切にします。そして心も温かくしようとします。

生き残った人には、人生の喜びをすべて奪われるような深刻な傷を負う人もいます。でもその人たちも、時に怒りを爆発させたり時に慟哭したりしながらも、自分の身体と心の温かさを保ち続けようとします。そして同じように体温をもつはかない存在である隣人を大切にしてゆきます。これこそは動物としての人間がもつ自然 -- human nature --なのかもしれません。

自分の体温を慈しむこと。そんな毎日を続けること。そして同じように体温をもつ他人をも慈しむこと。無理のない範囲で温かさを周りに伝えてゆくこと -- 希望というのはそうやってつながれるのではないかと思います。

実は最近の私にとっての、もう一つの映画の収穫であった『ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー』でも同じテーマが描かれていました。希望をつなぐのは、少数の英雄ではありません。一見、そう思えるとしても、それはその少数の人々を、圧倒的大多数の名も無き人々が支えているからです。名も無き人々の小さな行いの無数の連鎖こそが希望をつないでいるのです。英雄も名も無き数多くの人々がいなければ何もできません。


「絶望的な状況で何ができるのか?どうやったら希望をつなぐことができるのか?」


快刀乱麻の解決法はありません。

ひょっとしたらあなた一人では、希望をつなげないかもしれません。

かといって、どこかの英雄が、希望を与えてくれるのでもありません。

あなたは途方にくれるかもしれません。


でもその時には、自分の体温を感じて下さい。自分の呼吸を感じて下さい。自分の温かな生命を感じて下さい。神あるいは自然から与えられ、保護者や善意の人々によって育まれた自分の生命に宿る温かさを感じて下さい。

辛い時は、感性が損なわれがちです。だからこそ感性を大切にしてください。まずは身体の温かさを感じて下さい。そしてそれを大切にしてください。そして心のなかに温かさを灯して下さい。

希望がつながれるのは、私たちのような数多くの、社会全体からすれば「名も無き人々」の一人ひとりが、平凡な毎日を温かく暮らすからこそだと私は思っています。

その温かさが人から人へと伝わり、それが連鎖となって社会に広がるからこそ希望がつながれるのではないでしょうか。


皆さん、もし仕事に疲れたら、あるいは仕事によって人格が変わりそうになってしまったら、どうぞ自分の体温を感じてください。その温かさを大切にしてください。

あえて言うなら、炎のような情熱も要りません。マグマのような意志も必要ありません。

体温のような温かさ、いや、体温の温かさだけで十分です。


あなたの身体の温もりを大切にして下さい。そして心の温かさを失わないでください。かなうことなら、その温かさを小さな毎日の行為の中で周りに伝えていってください。


人類の偉大さは、そうやってこれまで生き延びてきたことにあると私は考えます。

皆さんも新しい環境で、数多くの名も無き人々の一人としてその偉大な人類の伝統を引き継いでいって下さい。

温かさを保ち、それを周りに伝えることが人間の偉大さだと私は考えます。


皆さんのご健康とご多幸を改めてお祈りします。




※ この原稿を作成するにあたり、細かな数字などはウィキペディアの「この世界の片隅に (映画)」のページを参照しました。










2017年3月22日水曜日

フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来



この記事は「広大教英ブログ」にも掲載されています。


*****


以下はフィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学した経験をもつ学部生のYK君が書いてくれたレポートです。フィリピンの言語教育の現状から、日本の英語教育(過剰な英語志向)について考えようとしたものです。

フィリピンでは、多くの人々にとっての「母語」(現地語)は学術活動や経済活動や政治活動などを担えるだけの「力」をもっていないので、「国語」としてフィリピン語が教えられると同時に「公用語」として英語が教えられています。ですが、言語のもつ「力」としては「国語」としてのフィリピン語よりも「公用語」としての英語の方が圧倒的に強いようです(あるいはそうならざるを得ないような歴史をフィリピンは有しているというべきでしょうか)。

そんなフィリピンの状況から今後の日本の英語教育がとりうるかもしれない一つの可能性について考えた文章です。「一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません」というのはYK君が言うとおりですが、英語教育熱について考えるための一つの視点を提供する文章として読めば面白いのではないでしょうか。

以下、「母語」(200近くの現地語、あるいは家庭内で使われている言語)、「国語」(フィリピン語)、「公用語」(英語)の違いを頭に入れた上でお読みいただければと思います。

なお、下の文章には趣旨を変えない微細な字句修正を私が若干していることを申し添えておきます。




*****


フィリピンの言語教育から見る日本英語教育の未来


0. はじめに

 「コミュニケーション能力と英語教育」最終提出課題は,今までの授業で習ったことの総復習として行うのが主な目的であるが,今回は範囲を絞り,特に授業終盤で取り扱っていた母国語と英語教育の関係に焦点を当てていく。フィリピン大学ディリマン校へ約1年間留学し,今の日本の英語教育の方向と過去のフィリピンで行われてきていた英語教育の趨勢との相似点がたくさん見られることに気づいた。そこで,この課題ではフィリピンで行われてきた言語教育について紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点などを踏まえて今後の英語教育はどうなっていくのかについて考察する。


1. フィリピンの言語教育

 フィリピンの歴史はそのほとんどが植民地支配の歴史といっても過言ではありません。今のフィリピンの中高生の歴史の授業では,なんと16世紀ごろから学び始めるとのことで,つまりそれはマゼラン率いるスペイン船団が最初にフィリピンを訪れてから始まったスペインによる植民地支配の時代からの歴史です。実際に,私がフィリピン教育についての授業を受け,グループごとにその当時の教育制度について発表するものがあったのですが,そこでは「植民地化以前」「スペイン統治時代」「アメリカ統治時代」「日本統治時代」「戦後」というふうな別れ方でした。(ちなみに,日本統治下時代が最悪だったとはっきりと言われてしまいました笑)

 さて,英語教育に話を戻すと,フィリピンで英語教育が本格的に始まったのは19世紀末からのアメリカによる植民地支配です。その時代から首都マニラで主に使われていたタガログを基礎とするフィリピン語を「国語」とし,英語は「公用語」であったのですが,200近くの言語が存在すると言われる国ですので,英語はおろか国語であるフィリピン語すらもまともに話せない国民がいました。その頃から行われていた言語教育は”BEP –Bilingual Education Policy-”と言われるものであり,国語であるフィリピン語と公用語の英語の習得を最大目標にした教育が行われていました。たとえ英語やフィリピン語が母語でなくとも,小学校に入れば学校で母語を使うことはほとんどなく,理系の授業は英語,文系の授業はフィリピン語というような使い分けをしながら全ての授業を母語以外で受けなければいけません。そのような環境での言語教育が長らく行われてきたために,現在のフィリピンでは多くの国民がフィリピン語と英語,そしてそれに加えて母語の3ヶ国語を話すことができます。特に多くの国民が英語を話せるというのは非常に大きな利益であり,多くの国民が英語教師やハウスキーピング,看護師として海外で働いています。驚くことに,海外で働くフィリピン人の家族への仕送りがGDPの約10%をもしめるということで,一見この国の言語教育は大成功を納めているようにも思えます。

 しかし,実情を見てみると,このBEPによって多くの若い学生たちが苦しむことになってしまっていることがわかりました。前述の通り,小学校から(早い所では幼稚園の時から)母語ではなく英語もしくはフィリピン語で授業を行なっているために,当然言語的な問題により授業についていけないという生徒が出てきます。私がフィリピンの教育に関する授業で見た「教育現場の実情を伝えたDVD」によると,小学生の約10パーセントが英語がわからないせいで授業を受けることが困難になっています。そして,35パーセントの生徒しか12歳で小学校課程を終えることができていないのです。日本でも「英語格差」という言葉は時々言われますが,この国で英語ができるかどうかは義務教育を終えることができるかというとても根本的なことにまで影響してしまうのです。英語格差は教育現場だけではありません。映画館ではフィリピン語による字幕や吹き替えの映画などは少なく,ハリウッド映画はそのまま字幕なしで見なければいけませんし,多くの書籍も海外からそのまま輸入しているので英語です。富裕層の間では子供に何よりも英語力をつけさせるために,家庭内言語は英語にし,幼い頃から英語のテレビ番組などしか見せていません。結果として,この国ではその地域で主に使われている現地語が母語である子供と,英語が(家庭内の)母語である子供というふうに分かれてしまいました。フィリピン国内では「英語ができるかどうか」ということが明確に社会的地位を分けてしまっています。

 もう一つ大きな問題があります。私が向こうの大学で出会った社会学専攻の学生がこのバイリンガル教育で何よりも悪影響があるとしていることは,「国語の衰退」でした。一度この授業の予習か振り返りで書いたことですが,彼らは国語で学問的な内容を取り扱うことができません。フィリピン大学という国内ナンバーワンの大学に在籍している学生たちであっても,90分の講義を全てフィリピン語(もしくは彼らの別の母語)で受講することができるかと問うと絶対にできないといいます。大学の教授に同じような質問をしても,やはり英語でほとんどの学問を修めてきたので国語で授業はできないそうです。論文を国語で書かなければいけない時があって,その時は一度英語で書いてしまってからそれをなんとかフィリピン語に直すというような手法をとっていました。明らかに私たちの国語である日本語と彼らの国語の立ち位置というものは全く違っています。私にとっては英語を習得させることに躍起になりすぎると不利益の方が大きくなってしまうように思われました。

 その言語教育もここ数年で変わろうとしていました。それが,”MTB-MLE -Mother Tongue Based Multilingual Education-”といわれるものです。「母語での学習を大事に」という目標を掲げたこの教育計画では,まず小学校2年生までは全ての授業を母語で行い,同時にフィリピン語と英語も母語で習い始めます。そして小学3年生からはこれまで通り理系は英語,文系の授業をフィリピン語で学習していきます。もちろんこれでも日本の教育と比べると国語の存在は薄いものですが,国語で書かれた教科書を用意するのに多大な努力を要すること,そもそもフィリピンの諸言語には学問的な語彙が不足していること(国語であるフィリピン語にも光合成という言葉は存在しません)などを踏まえると大きな改革であります。まずは母語で考える力をつけてから,第2,第3言語を習得していくというスタンスになってからまだ数年も経っていないので,どのような成果が上がるのかはわかりませんが,以上がフィリピンの言語教育の現状でした。


2. 日本の英語教育との相似点
 
  今まで書いてきたようなフィリピンの言語教育と日本の英語教育とで似通った箇所がいくつかあったように思います。

 まず,どちらも実用的な英語の習得を最大の目標としている点です。例えば,私たちが大学1年生の間に学んだ第2外国語の主な目的がその言語を使えるようになるためだったのかといえば決してそうではなかったはずです。どちらかというと教養として学んでおくべき,というような教養的側面が強かったように思います。それに対して,今の日本の英語教育の目標を見ると,多くの場面で「コミュニケーション能力」と言った言葉が使われており,教養的な側面よりも実用的な,「頼むからみんな英語が喋れるようになってくれ・・・!」というようなことが感じ取られます。これは前述の通りフィリピンでの言語教育でもそうで,「英語が話せる国民が増えること=海外で働ける人材の増加→国の収益の増加」という考えがあります。

 次に,外国語である英語を他教科の授業に取り入れる点です。フィリピンでは英語が外国語でなくなってからしばらく時間が経ちますが,日本でも他教科を英語で教える取り組みが行われようとしていることを考えると,両者の共通点とすることができます。


3. 日本の英語教育との相違点

 両者を比較してみる場合,いくつか留意しておかなければいけない相違点があります。

 第一に,両者の英語教育の始まりを見てみると,日本は長い鎖国の後に外国船との交流を通じて英語学習の必要性を感じ始めたのが始まりです。一方でフィリピンでは,スペインによる長い植民地支配が終わったかと思えば,今度はアメリカによる植民地支配が始まり,英語を話せなければいけない状況に陥ったことが英語学習の始まりです。「英語を話さなければいけない」という必要性に関して両者で全く異なります。

 また,日本は日本語話者が大多数を占めますが,フィリピンは多数の民族・言語から成り立つ多民族国家です。その点においても共通言語としての英語(またはフィリピン語)の必要性というものは日本とは変わってきます。


4. 今後の日本の英語教育についての考察

 フィリピンの言語教育について軽く紹介し,日本の英語教育との相似点・相違点をいくつか挙げたことを踏まえて,今後の日本の英語教育がどういったものになっていくのかについて私が考えたことを書いていきます。

 留学中,フィリピンの言語教育を見てきてずっと頭の中に残っていたことは,「もしかすると日本はフィリピンの英語教育の道を辿り始めたのではないか」ということです。現在の日本では,生徒が英語を話せるようになることを最大の目標として掲げているように感じます。国際競争の中で英語が得意な国と苦手な国では大きな差が生まれてしまいますし,私自身も英語を話せるようになることはたくさんの利益があって素晴らしいことだと考えています。しかし,今の英語教育の方向性を見てみると,できるだけ学校現場で英語に触れる機会を多くすることに力が注がれているのではないでしょうか。早ければ幼稚園の段階から英語に触れさせる機会を作っていき,小学校では算数や理科などの教科も英語で教えられるようになり,とにかく英語を中心とした教育が望まれているとするならば,それは今までフィリピンで行われてきた言語教育に近いものになっていくような気がしてなりません。

 少し大げさなのかもしれませんが,このままではフィリピンのように英語で義務教育の全てを行い,英語ができる生徒がいわゆる「勝ち組」で,英語ができなければ数学など他の教科の授業すらも理解できないような事態になってしまうのではないでしょうか。また,英語は達者に話せるんだけれども,母国語であるはずの日本語でまともに読み書きができないような生徒が生まれてしまうかもしれません。この授業の最後に先生が「母国語ではない言語でなされる教育は,知的な格差を生み出してしまう。母国語で考え,学ぶことができなくなることは,英語を使うことができる生徒を生み出すことの利点以上に大きな損害をもたらしてしまう」というようなことをおっしゃっていましたが,私は留学中に実際にそのような状況に陥ってしまっているフィリピンの教育を見て,日本ではそうなってはいけないと考えてきていましたので,全身を使ってうなずきたくなるくらい同意しながら聞いていました。

 もちろんすでに書いた通り,日本とフィリピンという国は全く異なる文化的,歴史的背景を持っており,一概にフィリピンがこうだから日本もこうなる!とは言えません。ですが,フィリピンという国での言語教育の経緯から,日本の英語教育が学ぶべきことはあるはずです。英語「で」教育をしていこうという取り組みから,母国語で思考することができる素地をまずは育てようという教育方針に変えた国があるのならば,今,強力な母国語を持っているこの国がその母国語の価値を薄めてまで英語を学ばせなければいけないのかというと,少し疑問があります。英語教師を目指すものとして,英語を教えるのだからこそ日本語という母語を大切にしなければいけないと強く感じました。





2017年3月15日水曜日

中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました



 本日、中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました。以下には、制限字数を超えた提出前の草稿を掲載しておきます。私の悪い癖で、短い文章に多くの論点を盛り込もうとしているので、これでもわかりにくい点があるかもしれませんが、一つの意見としてお読みいただけたら幸いです。



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 中学校学習指導要領の「外国語」は、浅い「英語力」ばかりを追求しており、学びの主体性・対話性・深さを奪うものとなるでしょう。またその「英語力」の成果も、やがては人工知能に駆逐されるようなものでしょう。今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画として適切ではないと考えます。以下、四点に分けて説明します。


(1) コミュニケーション観があまりに浅薄であり、学びの主体性・対話性・深さが追求できません。

 提案された学習指導要領を読みますと、コミュニケーションとは「簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりする」程度のものとしか理解されていないようです。しかしこれは「情報伝達」にすぎません。

 たしかにコミュニケーションには「情報伝達」という側面もありますが、それ以上にコミュニケーションとは、相手の心を読みながら、相手と自分との関係性から、もっとも自分に忠実でかつ相手に対して効果的な行為を行うことであり、その展開においてはしばしば自らが予想もしなかったり受け入れがたく思えたりする事態もしばしば生じる、複合的な相互作用です。

 このようなコミュニケーションを、優れた中学校英語教師は、日々の授業で実現させています。また入念な準備の末、英語でのスピーチを語り合うことでも実現しています。コミュニケーションにおいて重要なのは、参加者が主体性を発揮し、対話でそれぞれが発見をしながら、共に理解を深めてゆくことです。提案のコミュニケーション観があまりに浅薄なので、以下の(2)や(3)、ひいては(4)といった問題が生じています。

 付言しておきますと、「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」およびそれを「働かせ」ることという表現については、それが意味することを私はまったく理解できません。私は拙いながらもこれまでコミュニケーション(能力)について研究を続けてきましたが、これらの表現が具体的に何を指しているのいっこうに想像できません。これらの表現は、日常語としても学術語としても意味がよくわからない表現だと考えます。


(2)  日本国における公教育で日本語使用を排斥する教育的意義が理解できません。

 高校に引き続き中学校でも「授業は英語で行うことを基本とする」理由として、「生徒が英語に触れる機会を充実する」とともに、「授業を実際のコミュニケーションの場とする」ことが挙げられています。しかし、これは上述したように極めて浅いコミュニケーション理解に基づくものです。

 生徒と教師が充実したコミュニケーションを実感するのは、それぞれの主体性が発揮された対話で、自らとは異なる見解などが立ち現れながらも、それを共有して、それぞれの理解が深まることです。端的には「ああ」、「なるほど」といったことばが思わずもれるような言語経験です。

 こういった言語経験を行うには、少なくとも中学校段階では、中学生の知性と感性の根幹である日本語を適切に使用することが必要です。いたずらに「英語に触れる機会」と称して定型的で凡庸な英語表現ばかり教師が使っても、生徒も教師もコミュニケーションを実感できません(多くの教師が毎時間尋ねる曜日や天候についての英語質問という「英語に触れる機会」が、どれだけ学びの主体性・対話性・深さを促進(あるいは阻害)しているかについて想像してみてください)。

 促進すべきは、(上述した意味での)英語でのコミュニケーションであり、英語の機械的使用ではありません。


(3) 「読むこと」があまりに単純化され、主体性・対話性・深さを追求することができません。

 「読むこと」に関しては「内容を表現するような音読」などと評価できる記述もありますが、その根幹は、情報や概要や要点だけをとらえるものであり、内容(字義・明意)を正確に読み取ること、および正確な内容理解に伴う可能な解釈(含意・暗意)の理解を行うことという「読むこと」の本質が失われています。

 情報・概要・要点などを把握することを超えて、字義・明意を正確に把握すること、さらにはそこから生じる含意・暗意を解釈することは、中学英語でも可能です。例えば"I have brothers and sisters"から話者は最低五人兄弟であること(字義・明意)を把握し、その文およびその文脈から話者の暮らしぶりなど(含意・暗意)を解釈することにより、生徒が英語を主体的に読み解こうとし、対話を重ね、英語理解を深める実践などがあります。

 しかしこのように英語をきちんと「読むこと」には、中学校段階では日本語使用が欠かせません。日本語を適切に使ってこそ、英語が深く理解できます。そしてその深い英語理解が、英語使用の源となります。授業における英語使用の機械的な強制は、英語教育を極めて表層的なものにするもので言語教育として不適切です。


(4) これからの人工知能の台頭を考えた上での教育の方向性が必要です。

 表層的な情報を読み取り、それを出力することは、近い将来、人工知能によって実現するでしょう。現時点でも職業的翻訳家や理工系研究者の少なからずは、機械翻訳を部分的・補助的に使用していますが、人工知能の機械翻訳の精度はこれからますます向上するでしょう。定型的な外国語日常会話でしたらスマホでも実現できる日は遠くないでしょう。

 そうなった時に必要な力は、表層的・表面的な入出力を行う力ではなく、機械・人工知能では実現し難い深い思考力・判断力・表現力です。現在の職業翻訳家や理工系研究者が機械の粗訳を見ながらそれを修正しているような力がこれからは必要です。そしてやがては機械を借りずとも英語で深い思考力・判断力・表現力を外国語で発揮できることが望まれます。

 中学校レベルといえど、この方向性をもつ必要がありますが、提案された「外国語」はやがては人工知能で駆逐されるような英語力ばかりを追い求めているように思えます。

 以上の四点から、今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画としてはあまりにも浅薄なものだと私は考えます。




関連記事

小学校学習指導要領(外国語)についてのパブリックコメントを提出しました
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小学校学習指導要領(外国語)についてのパブリックコメントを提出しました



本日、小学校学習指導要領(外国語)についての意見を文部科学省サイトのパブリックコメント欄に提出しました。言い訳にはならないのですが、短時間で字数制限に合わせて書いたので、少々意を尽くせていない箇所があるかもしれません。読みやすさのために改行や太字化および趣旨を変えない微修正を加えたものを以下に掲載しておきます。


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 小学校学習指導要領の「外国語」は、教育の方向性の誤り、到達目標の高さ、教師教育の不足などの点から無謀です。この提案は、すべての子どもを対象とする義務教育・公教育としては不適切です。

  このままでは、大多数の児童は「外国語」の学びに疎外感ばかり覚える事態が予想されます。教師のほとんども「外国語」の教育に対して深い意義を感じることもなくひたすら目の前の授業に追われ、日本が世界に誇る初等教育が「外国語」という一角からほころび始めると懸念します。

  この「外国語」の提案は取り下げ、小学校5・6年においては従来の「外国語活動」を充実させる方向にするべきだと私は考えます。

 以下、三点にわたり、上記のように主張する理由を説明します。


 (1) 「主体性・対話性・深さ」の追求とは逆の方向に向かっています。

 これまで文科省は思考力・判断力・表現力の育成を強調し、今回の提案ではさらに学びの主体性・対話性・深さを目指すという方向性を示しています。この方向性は、今後の人工知能の発展なども含め、さらに加速化・複合化・多様化する21世紀社会を考えるなら正しいでしょう。

 しかし今回の「外国語」は、高等学校や中学校に設定した数値目標(資格試験の合格率などで規定)に到達するための前倒しのような教科化になっています。語彙にせよ、書くことにせよ、今回の提案の目標に到達させようとすれば、ドリル型・徹底反復型の授業ばかりが増えると思われます。

 「グローバル社会だから英語が必要」という浅薄な通説以上の意義を子どもを含めた国民の大半が英語学習に対して感じていない現状で、このような訓練ばかりを行うことは、大多数の子どもの学びを「主体性・対話性・深さ」の追求とは逆の方向に導くものです。

 今回の「外国語」は、家庭での格別な文化資本・経済資本によって英語学習に対して特別に動機づけられ学校外の塾やスクールでも学習できる一部の子どもを「勝ち組」とし、その他の大多数の子どもを「負け組」にして学びの意味や喜びを奪うものになると考えられます。中高での数値目標が資格試験の合格率で規定されていることからすれば、文科省は子どもの一定割合が資格試験に合格すれば、その他の子どもの意欲や学びが荒廃してもかまわないと考えているのではないかとすら思われます。


 (2) 「書くこと」の到達目標が高すぎます。

 「外国語」では「書くこと」が導入され、そこでは「書き写す」(筆写)だけでなく「十分に慣れ親しんだ簡単な語句や基本的な表現を用いて書く」(創造的に書く)ことが目標とされているように読めます。

 ですが、創造的に書くことはおろか筆写でさえも、十分に英語の視覚提示を経験して、文字だけでなく、語句や文の視覚的認識が容易になった上で導入しなければかなり機械的な作業になります(大人でも慣れないアラビア文字やハングル文字を筆写することは困難であり苦痛です)。さらに英語は発音と綴り字の関係が複雑であり、筆写は多くの中学生にとってすら容易ではありません。

 しかし「書くこと」はペーパーテストと親和性が高いので、子どもはひたすらに一定の表現を形式的に「正しく書く」機械的な訓練に追われるでしょう。「書くこと」の目標は下げるべきです。


 (3) 教師教育があまりにも不十分です。

 文字指導、発音と綴り字に関する指導、「日本語と英語との語順の違いや、関連のある文や文構造のまとまりを認識できるようにする」指導に関して、全国のほとんどの小学校教師は十分な教師教育を受けていません。学習の初期段階は、子どものその後の学びを左右するきわめて重要な段階であることをもっとも痛感している小学校教師にきちんとした準備をさせないままに「外国語」の授業をさせることは、教師の心を荒廃させかねない行いです。

 英語教育は政治家や財界の圧力で「上から」目標が決められる、とはよく言われていることですが、たとえそうにせよ、この学習指導要領を定めた人々の責任は否定できません。この「外国語」がうまくゆくのは一部の教師と一部の児童にすぎないと考えられます。これは公教育としてふさわしくない学習指導要領です。

 さいわい、これまでの小学校教師の献身的な努力で、「外国語活動」についてはそれなりの実のある実践が芽生えてきています。これを全国レベルで普及させることこそ今、必要なことです。

 教科としての「外国語」の計画はあまりに無謀です。その方向性・到達目標を根本的に修正し、従来の「外国語活動」の路線での教師教育を充実させることが文科省の使命であると考えます。政治家や財界からの圧力には屈しないで下さい。また、それに便乗することなど、決してしないでください。文科省官僚は「国民全体の奉仕者」なのですから。



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中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました
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2017年2月25日土曜日

2016年度後期の「昼読」を終えて

以下の記事は「広大教英ブログ」にも掲載しています。


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2015年度後期から始めた自主的な読書活動「昼読」の活動ですが、今年も何とか終えました。

きわめて地味な活動ですし、私自身、仕事の忙しさからさぼってしまおうかと思うこともないわけではないのですが、まさに「継続は力なり」で、この活動がなければ読まなかった本(特に外国語の本)はたくさんあります。また、会の最後での対話から私自身もたくさん学ぶことができました。(ひょっとしたら「昼読」の最大の利点はこの対話かもしれません)。

4月からの来年度では、教英だけでなくもっと広範囲の学生さんに呼びかけて、いろんな講座からの参加者を募りたいと思います。

読書が個人や社会の中で果たす役割を考えると、ぜひとも継続したい活動です。

以下は、今期特に出席してくれた二人の学生さんの振り返りです。




写真は打ち上げの焼き鳥屋さんで撮影したものです





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 2016年度の「昼読」を終えて

学部4年(英語文化系コース) M

今年度も有志で行っているお昼休みの読書会、通称「昼読」に参加させていただきました。昨年度に同じコースの大学院生の方に誘っていただいて以来ですので、かれこれ一年以上の参加になります。今年度は基本的に週三回の開催でした。私自身この昼読への参加の中で多くの事を学ばせていただきました。

 短い時間ながらも、みんなで同じ場所に集まり読書をする。そして、お互いに自分が読んだものの内容や感想、意見をシェアする。このように書くと、単純な活動のように聞こえるかもしれません。しかし、こうした活動形態ゆえに、自分ひとりで読んでいるときよりも、緊張と弛緩のバランスが取れたように感じています。つまり、自分だけで読んでいるときはついつい惰性的になってしまうこともありますが、読んだ後に内容や感想をシェアするとなると、他の人に伝えようという意識が生じるため、読みながら頭の中で緩やかに内容をまとめていくというプロセスが生まれます。

こうした活動の中で、自分が読んでいた本の内容に対して賛成するような意見が出たり、一方で批判的な意見をいただいたりすることもありました。その際、ある程度自分の読みを客観視することができたため、その後の読みをさらに充実させることにつながりました。

 また、この一年間で昼読にご参加いただいた方々のことを思い出してみると、教英だけでなく様々な所属先から足を運んでいただきましたし(e.g. 教育学部の心理学専門、日本語教育専門、文学部の職員の方…etc.)、皆さんが読まれていた本の種類も多岐に渡っていました。

今でも皆さんが読まれていた本のことを思い浮かべることができますが、このように皆さんが読まれている本を知ったことは、皆さんの興味・関心のある分野を知ることが出来ただけでなく、私自身の興味の幅をさらに広げることにもつながりました。今後も幅広い視点で英語教育について考えていくうえで、この昼読のような経験が重要になると感じております。

 最後になりましたが、今年度の昼読にご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました。来年度も、ご機会があればぜひご参加いただきたいと思います。また、新たにご参加いただける方も大歓迎です。ご関心のある方は、お好きな本を片手に、お気軽にご参加ください。お待ちしております。
※以下は、今年度に私が読ませていただいた中で、とくに印象に残っている本の著者とタイトルです。来年度も、素晴らしい本との新たな出会いを求め、読書を続けていきたいと思います。


・J. K. Rowling, HARRY POTTER A L’ECOLE DES SORCIERS (『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語版)
・ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
・オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』
・ロラン・バルト『表徴の帝国』
・夏目漱石『こころ』 







「昼読について思うこと」

学部3年 (日本語教育系コース) O

昼読。今年度の後期から、ポスターを見てたまたま、でも勇気を出して参加してみて、いつの間にか常連になっていた。ここでは、失っていた読書習慣を取り戻せた、話の合う年齢を超えた友人のような知り合いができた、自分以外の知見を得ることができたなど、得たものはたくさんあったように思う。

しかし、昼読について思うこと、強い印象で一番はなにか、と問いかけられたとき、自分にとっての一番は、「出力すること」かなあ、と、参加を振り返って思う。英語で言えばアウトプット、こちらのほうが馴染みのある言葉だろうか。

昼読では、集まりの最後に、各自の読んだ本を紹介したり、感想を言ったり、それに関して別の人が反応したり、という習慣がある。実はこれ、自分にとっては結構ハードルが高かった。というのも、あまり人と本の内容で語り合ったことはなかったからだ。

読書、というのは非常に感受する割合が大きいものだった。書かれていることを読み、それがどんな意味なのか、自分にとってどういうことなのかを、やや感覚的に済ましていた。もちろん、今まで読んできた本の多くが小説だった、ということもあるかもしれないけれど。

ただ、昼読では、受信するだけでなく、送信もいる。読んだことをまとめる能力。まとめた上でどう思ったか、どう感じたか、どう考えたか。「じゃあ、これってどういうことなんだろう?」「どういう伝え方をすれば、この思いがわかってもらえるだろう?」。伝える際に、あんまりにもお粗末な伝え方では、自分にも、相手にも”理解してもらえなかった/できなかった”というしこりが残る気がする。それが嫌で、「考えながら」読んで、しかも「自分にとってどういう意味を持つかを」考えながら読んだ。いや、読むようになった。

伝える視点、この新しい読書視点を身につけられたという変化が、自分の「昼読について思うこと」である。




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2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
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月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
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