ある読書会で以下の章を読みました。ここではそのためにつくった「お勉強ノート」を掲載しておきます。
Chapter
9 Critical Realism, Policy, and Educational Research
by Allan
Luke
Generalizing from Educational Research:
Beyond Qualitative and Quantitative Polarization (pp.173-200). Taylor and
Francis. Kindle 版.
最初に総説的なことを述べておきます。
一口に英語圏といってもその中にやはり多様性はあり、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、あるいはシンガポールなどには、幅広く現実的な教育研究という点では、米英よりも進んだ研究が見られるようです。
たとえばニュージーランドでは多くの教育研究者が以下の前提を共有しているそうです。
まとめるなら、教室と学校は実験室とは異なり、複合的で乱雑で特異に局地的で社会的な生態系である。政策が学ばなくてはならないのは、いかにエビデンスの科学が一般化可能性のあるように見えても、教育改革は、複合的で局地的な現象であり、改革がなされるためには、政策的・物質的・文化的・組織的な条件を必要とするということである。
(p.188)
あるいはシンガポールでは、以下のように教育研究が進められているそうです。
シンガポールの研究デザインは、複数のレベルで、横断的・縦断的、量的・質的な豊かなデータベースを作ろうとしている。ミクロな質的研究を、生徒の社会階層と言語的背景、教師の背景、生徒と教師の調査などに関する大規模な量的データセットの中に入れ込んでいる。学校のテストと試験得点は、一つの成果にすぎず、制度や個人の有効性を示す唯一無二の指標とは決してみなされていない。このようにして従来の成功指標(たとえばテストや試験の得点や、学校の特徴とされるもの)を受け入れることを超えて、教育的有効性を評価する際に何を成果とみなすことができるのかという問いを探究しているのである。
(p.189)
これらの国々の教育研究者は、社会の急速な変化を鋭敏にとらえて自らの研究方法を、旧来の(擬似)実験室研究から多様化させそれぞれの方法論において研究の厳しさを追求してているようです。日本は世界でも珍しいぐらいに移民が少ない国かもしれませんが、それでも学校現場や労働現場などで「日本は単一民族国家」などと称することはもはや欺瞞でしかないでしょう。新自由主義の浸透に伴い社会の階層化は進行し、それが経済的・社会的・文化的な格差の拡大につながっているようにも思えます。性・ジェンダーといった意味での多様性も進行し、もはや「平均的」な学習者を想定しただけの研究は現実をとらえられず、その研究結果を元にした政策が一律に実行されたら、それは益以上に害を生み出すのかもしれません。
研究者という人々は、知的革新に長けた人々というのが一般的想定で、実際そういった優れた研究者も多くいますが、自分が若い時に覚えた方法論でしか研究をせずに、社会の現実よりも、同好の士による学界状況ばかりを見ている方もいないわけではありません。
ここ40年ぐらい米英で至適基準 (gold standard) とされてきた(擬似)実験研究の軛から日本の研究者も自由になり、より社会の現実に沿った研究をするべきだと思わされます。著者もこう結論づけています。
教育研究は、実務的で問題解決的で知的な仕事である。そのようなものとして、教育研究は、量的研究と質的研究、論理-分析的研究と批判的-解釈的研究といった、社会科学のアプローチとモデルの多様な画材を引き出し拡張することができる。流動性とリスク、不確定性、曖昧性そして偶発性にあふれた世界の中で、教育システムが直面している諸問題は、教育研究が狭いアプローチではなく、豊かなアプローチを取ることを要請している。21世紀の教育研究は複合性に対処しなければならない。その対処は単純なモデルに戻ることによっては達成されない。(p.196).
以下、この章で私が気になったところの要点を書きました。ただし特に重要な箇所は私なりに翻訳をしました。ページ番号はKindle版が示したページ番号です。
概要
■ この章では、批判的実在論者 (critical realist) として教育研究および政策立案 (policy making) へアプローチする。
(p.173).
■ この章では、古典的な入力・過程・出力の記述 (classical input/process/output descriptions)だけでなく、教師と生徒が学校で有するようになる人生の軌跡 (life trajectories) と資本 (capital) についても描く。 (p.173).
■ 批判的実在者による研究を、政策形成に翻案しようとすれば、歴史的な物語 (historical narratives)とシナリオ作成 (scenario planning) が必要になる。これらは、物事はいかにこのようになったのか、そして他のどんな規範的なシナリオ (alternative normative scenarios) が構築可能だったのかについての説明となる。 (p.173).
■ 現在の至適基準 (gold standard) が想定しているのは、(擬似)実験研究からの一般化は、空間・時間・人間・生態系(地域・学校・共同体)を超えて一般化可能だということである。
(p.174).
■ しかしこの至適基準の考え方は、教育行政や政策立案状況および学校と教室という生活世界の生態系が本質的に乱雑な状態であること (the intrinsically messy ecologies of educational bureaucracies and
policy-making contexts, and those of the lifeworlds of schools and classrooms) について何も語っていない。仮にある教育方法を分析的に特定して実行しようとしても、システムからの要求 (systemic prescription) によってその教育方法はプラスにもマイナスにも作用する。実験室のような正確な再現は不可能であり、共同体・職員室・教室での相互主観的な対応力と物質・社会的な関係によって修正される。 (remediated through the intersubjective capacities and material
social relations) (p.174).
■ 質的研究が抱える問題がその知見を政策として実行する際に大規模化 (scaling up) してよいのかというものだとしたら、量的研究の問題は学校や教室の「複合的な生態系」 (complex ecologies) が大規模政策 (larger scale policy) によってその場独自の巻き添え被害 (collateral local effects) にあうのではないかということである。
(p.175).
■ 教育行政で働いたことがある者なら誰でも知っているように、カリキュラムや予算や評価についての決定は、さまざまな基準によって出される。それは財政的であったり政治的であったり、教育研究にまったく基づいていない逸話や個人的見解によるものだったりする。教育行政が数字だけを扱うテクノクラート (technocrat) であるというのは神話である。教育行政は、複合的で相互主観的で社会的な現場 (complex, intersubjective social fields) である。 (pp.175-176).
■ 研究デザインには新たな厳しさ (a new rigor) が必要だが、これは多分野的で解釈的な厳しさ (multidisciplinary and interpretive rigor) であり、神話的な (mythical)
擬似実験デザインの至適基準を超えて、教育へのアクセス、社会的・経済的平等、新しい人生経路 (educational access, social and economic equity and new life
pathways) といった論点を新たに焦点化する試みの一部でもありえよう。
(p.176).
■ 国の教育政策は規範的なものであり、三段階で進む。
1 物語機能 (narrative function):学校教育の目的および成果に関して国のイデオロギーとなる物語、およびそれに批判的に対抗する物語を確立する。(The establishment of a state ideological narrative and critical
counternarratives over the purposes and outcomes of schoolings)
2 資源の流れ (resource flow):人的資源 (human resources)、言説的資源 (discourse resources)、財政的資源 (fiscal resources) の流れを目的に適うように制御する。 (purposive regulation)
3 教育的調整 (pedagogical alignment):カリキュラム・指導・評価という伝達システム (the message systems of curriculum, instruction, and assessment) を調整して資源を国レベルでも地方レベルでも活用する。 (pp.177-178).
■ 米英では、過去40年間にわたって政府が研究の幅を狭めて擬似実験的な研究ばかりを後押しして、妥当性と信頼性に関する古典的基準を復権させることを要求した。 (calling for a reinstatement of traditional criteria of validity
and reliability) (p.178).
■ 1970年代にいたるまで米英での博士論文ではプレテスト・ポストテストのデザイン (the pre-post design) が規範的基準 (the benchmark) となっていた。今でもその影響は、奨学金を得て米英で博士号を取った者が教師となった南米やアジアで見られる。 (p.180).
■ これから、教育研究が質的および批判的になった過程を素描する。批判的かつ実証的に厳密で解釈的・多分野な教育研究計画 (a multidisciplinary, interpretive educational research agenda that
is both critical and empirically rigorous) を再定義 (reframe and re-enlist) し、教育的達成 (educational achievement) と貧困 (poverty) ・階層化 (stratification)・社会的再生産 (reproduction) をめぐる複合的な諸問題に対してより正義に適った (a more forensic) アプローチを提示したい。
(pp.179-180).
■ 過去30年間にわたる批判的・質的転換 (the critical qualitative turn) は、単なる反実証主義的な反動 (anti-positivist reaction) ではなく、教育成果の階級階層化 (class stratification of educational outcomes) の事例を指摘しその機構を理解しようとする試みでもあった。 (p.181).
■ 過去20年で、博士論文は不利な状況 (disadvantaged backgrounds) や危険な状態にある (at risk) 生徒に注目するようになり、ネオマルクス主義、ポスト構造主義、フェミニスト理論、質的な事例研究、アクションリサーチ、批判的エスノグラフィー、言説分析的な方法が使われるようになった。この傾向においては米英よりもオーストラリア(およびカナダ)の教育研究者の方が先行していた。 (p.183).
■ この変化は社会の新しい文脈と条件に対応するように生じた。ポスト産業社会の北側・西側諸国において人々の文化的・言語的多様化が促進したこと、新たなテクノロジーと共に新たな言説・実践・技能 (discourses, practices and skills) が生じたこと、自己同一性と主体性、世代や人生を通じての経路の形成 (the formation of identity and agency, generational and life
pathways) が目に見えて変わったこと、などへの対応である。(p.184).
■ 20世紀の中盤から後期にかけて学校教育を直面した二つのもっとも重要な社会的事実は、社会経済的・文化的に周縁化された共同体の生徒の成績が不平等で高度に階層化されたものであったこと (the unequal and highly stratified performance of students from
socioeconomically and culturally marginal communities)、および、国の教育システムの中で言語的・文化的多様性が進行したことである。心理学者と社会学者は、社会階層的、人種・文化的、言語的、ジェンダー的に階層化された学業成績 (social class, race/cultural, linguistic and gender stratified
performance) を説明せねばならなくなった。 (p.185).
■ エビデンスに基づく政策は、教育システムのみならず社会的・経済的政策を統治するのに、論理的で実行可能で生産的な方法
(a logical, viable, and productive route for the governance) であろう。しかし教育研究者の国際的な共同体は、そのようなアプローチは、広く豊かで分野的に多様なデータに基づき、そのようなデータとの意味およびつながりをめぐる議論を呼ぶさまざまな分析と解釈に基づいていなければならない (such an approach must be based on broad, rich, and disciplinarily
diverse data, on contending and varied analyses and interpretations of the
meaning of and connections between this data) と主張している。この広く批判的で質的な転換と、現在求められている実証的検証・実験デザイン・再現可能で一般化可能なエビデンスとの間を調停することはできるのだろうか?以下の三つの命題から始めることができるだろう。 (p.186).
■ 第一に、教育界には、物質的・認知的・社会的な条件、相互作用、過程 (material, cognitive, and social conditions, interactions and
processes in educational worlds) があり、それらは厳密な観察と注意深い理論化によって研究され、追跡され、検討されうるということ。 (p.186).
■ 第二に、間口が狭く問題をより好みしてしまう心理測定学 (narrow, selective psychometrics) ではない、厳密な多分野的社会科学を通じて、上記の事柄は研究することができ、そうすることによって社会人口統計的 (sociodemographic) データ、学校や教師が置かれた文脈に関するデータ、教師と生徒が直接向き合っている教育学 (face-to-face pedagogy) 、さまざまな種類の教育的成果 (educational outcomes) を検討することができること。(p.186).
■ 第三に、これらの過程は、ある特定の共同体や実践がどのように定義され位置づけられ表象 (define, position and represent) されるかという点でも、またそれらがある特定の有権者 (constituents) やメディアや政治家や政策決定者にどのように理解されるかという点でも、表象の政治学を十分に理解した上で解釈し表象され (interpreted and represented in ways that are mindful of the
politics of representation) るかということ。 (p.186).
■ 国際的に見て、統合的な多分野的方法でもっとも包括的なのは、ニュージーランドのIterative Best Evidence
Synthesis Programmeであろう。 (p.187).
関連サイト:BES (Iterative Best Evidence Synthesis)
■ このニュージーランドのモデルは、目的に合わせるアプローチ (fitness-for-purpose) であり、文脈的な妥当性と関連性 (contextual validity and relevance) に焦点を合わせている。「どんな条件の時に、なぜ、いかにして、何がうまくゆくのか」
(what works, under what conditions, why and how) という考え方である。方法論的パラダイムやイデオロギー的正しさ (ideological rectitude) などにはお構いなしに、あらゆる形態の研究エビデンスを考慮に入れ、何がうまくいくのかについて、文脈的に効果的で適切で局地的に強力な例 (contextually effective, appropriate, and locally powerful examples
of what works) を見つけようとしている。 (p.188).
■ 翻訳:このニュージーランドの原則は現在のアメリカモデルの基本的想定とまったく異なっている。アメリカでは、指導的介入 (instructional treatments) は、文脈の違いにかかわらずすべての文脈で一般化可能で普遍的な有効性をもっていること (generalizable and universal efficacy across and despite contexts)、その教育的成果の産出における有効性は標準化された学力テストの結果 (standardized achievement test results) によってのみ評価されること、および、システムの改革はこういったアプローチを「厳密に処方」し、標準化し、実行すること (the "hard prescription," standardization and
implementation of these approaches) によってのみ達成できることが基本的な想定である。 (p.188).
■ 翻訳:まとめるなら、教室と学校は実験室とは異なり、複合的で乱雑で特異に局地的で社会的な生態系である
(complex, messy, and idiosyncratically local, social
ecologies) 。政策が学ばなくてはならないのは、いかにエビデンスの科学が一般化可能性のあるように見えても、教育改革 (educational reform) は、複合的で局地的な現象であり、改革がなされるためには、政策的・物質的・文化的・組織的な条件を必要とするということ (educational reform is a complex, local phenomenon requiring a
range of enabling conditions—policy, material, cultural, and institutional) である。 (p.188).
■ 翻訳:米英の多くのエビデンスを求める擬似実験的アプローチは、これらの可変的な過程と実践 (variable processes and practices) を適切にとらえることに失敗している。主な原因はブラックボックスアプローチを取っていることにある。入力と変数を制御し、教育的成果を還元主義的に数量化するアプローチである。 (a black box approach, controlling inputs and variables, with a
reductionist quantification of educational outcomes) 教育学、教師と生徒が面と向き合う教室実践 (pedagogy, face to-face classroom teaching) を軽視しているのだが、そこでこそ教えることと学ぶことが実践されているのだ。
(pp.188-189).
■ 翻訳:シンガポールの研究デザインは、複数のレベルで、横断的・縦断的、量的・質的な豊かなデータベースを作ろうとしている。ミクロな質的研究を、生徒の社会階層と言語的背景、教師の背景、生徒と教師の調査などに関する大規模な量的データセットの中に入れ込んでいる。学校のテストと試験得点は、一つの成果にすぎず、制度や個人の有効性 (institutional or individual efficacy) を示す唯一無二の指標
(the single or sole indicator) とは決してみなされていない。このようにして従来の成功指標 (conventional indicators of success) (たとえばテストや試験の得点や、学校の特徴とされるもの (school-assigned marks) )を受け入れることを超えて、教育的有効性を評価する際に何を成果とみなすことができるのか (what might count as an outcome in the evaluation of educational
efficacy) という問いを探究しているのである。(p.189).
■ 最近現れ始めた文脈に対応するためには、教育評価のパラダイムシフトが必要である。新しい人的資源 (new human resources) を言説的で傾向的 (discursive and dispositional) に評価し、さまざまな種類の文化的・社会関係的・象徴的資本を評価する方向に向かうべきだと個人的には考えている。(p.193).
■ 現代の認識論的研究は、No
Child Left Behindのような政策の提唱者が提唱した至適基準 (the gold standard) よりもはるかに多彩である。(p.195).
■ 翻訳:学校と教育システムは新しい生徒の自己同一性とますます社会的階層化する成果、新たな職場と市民文化 (new workplace and civic cultures)、デジタルテクノロジーと新たな支配的表象モード (new dominant modes of representation)、グローバル化した経済ときわめて変動的な雇用傾向 (volatile patterns of work)、そして変化する国家・共同体・宗教的価値システムの新たな動態という複合的な問題に直面している。これらの問題の背後には、新たなリヴァイアサン的多国籍企業によって支配された社会的・政治的・経済的秩序に直面する現在において、いかにして種として生存し、生物的・社会的な持続可能性を保ち、人間的な正義を貫くために重要な教育とは何かというより大きな課題がある。しかしこれに対する教育界の反応は、カリキュラムを細分化し「基礎に戻れ」と唱えることであり、教師の仕事を事細かに定めて監視すること (the scripting and surveillance of teachers’ work) であり、学校の市場化
(the marketization of schools) である。これはアイルランドの貧困についてスウィフトが書いた風刺作品のように見える。時間はもうない。教育と教育研究についてのもっと実質的な見通しを得ねばならない。(p.196).
関連サイト
リヴァイアサン(ホッブス)
A Modest Proposal (Swift)
■ 翻訳:教育研究は、実務的
(pragmatic) で問題解決的で知的な仕事である。そのようなものとして、教育研究は、量的研究と質的研究、論理-分析的研究と批判的-解釈的研究といった、社会科学のアプローチとモデルの多様な画材を引き出し拡張することができる。流動性 (fluidity) とリスク、不確定性 (indeterminacy)、曖昧性 (fuzziness) そして偶発性 (contingency) にあふれた世界の中で、教育システムが直面している諸問題は、教育研究が狭いアプローチではなく、豊かな (rich) アプローチを取ることを要請している。21世紀の教育研究は複合性に対処しなければならない。その対処は単純なモデルに戻ることによっては達成されない。(p.196).
関連記事
Generalization from Qualitative Inquiry by
M. Eisenhart (質的研究からの一般化について)
On Qualitative and Quantitative Reasoning
in Validity (質的研究と量的研究における妥当性の考え方)
0 件のコメント:
コメントを投稿