2017年12月8日金曜日

物語論という観点からラボ・パーティの実践を観察する



現在の私の研究主題の一つは「物語」ですが、その関心から、英語と日本語で語られた物語を子どもたちが協働的に解釈して演ずる実践を行っているラボ・パーティの実践を観察し、物語および物語を使っての実践に対する理解を深めようとしています。先日もある教室での実践を観察させていいただきました。ここではその観察をまとめ、そこから考えたことを少し述べます。


■ 試演と対話

ラボの活動の中では物語が題材となっていますが、物語は絵本で視覚イメージ豊かに、かつ、英語話者と日本語話者の俳優が交互に英語と日本語で録音しているCDで聴覚イメージ豊かに提示されています。私が観察した教室ではシェイクスピアの 『夏の夜の夢』を使っていましたが、この絵本とCDの芸術的な質は高いです(絵本は以前にその他の絵本を何冊か見せていただいたことがありますが、かなり現代絵画的で斬新な表現を使ったもの(たとえば『ピーターパン』)などもあり、「子どもだまし」とは対極のところにあることがわかりました)。ラボに参加する子どもたち --といっても幼児・小学生だけではなく、中高生や大学生にまでいたる幅の広い年齢集団-- は、各家庭で絵本とCDを何度も視聴しそこで視覚的・聴覚的な感覚を得てから教室に来ます。教室では配役を決めた後、CDを流しながら集団でその物語を演じます。初期段階ではCDで聞いた日本語と英語をうろ覚えの場合もありますが、それはそれとしてCDの音声と音楽の流れに合わせながら演じてゆきます。演じる場合の最初の基盤は、絵本とCDから醸成された感覚・イメージです。舞台装置も衣装もない中での演技ですので、身体表現は抽象的というか象徴的なものであることも多いです。

私が観察した日は、『夏の夜の夢』を始めて間もない頃で、「まずは一度やってみよう」ということでCDを流しながら全員で試演してゆきました。試演したら円座になって全員で対話をします。「演じてみてどう感じたか」「このように演じた方がよいのではといった新しいアイデアはないか」と全員で語り合います。この日はこのような、試演と対話が三回繰り返されました。

以上が概況説明です。以下、私が感じたこと、考えたことを書きます。


■ 仮定法的実在性の実験場

私の現在の物語論は、主にブルーナーの論に基いていますが、彼の概念の一つが「仮定法的実在性」 (subjunctive reality) です。

J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html
Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/jerome-bruner-1990-acts-of-meaning.html

物語の読者は、物語のさまざまな言語的工夫に助けられて、物語に描かれている登場人物の経験をいわば間接的にというか仮想現実的に経験します。そこで経験する "reality" --私は "actuality" (「現実性」) と区別するために「実在性」と訳しています-- をブルーナーは「仮定法的実在性」と呼びます。読者は反実仮想的な「登場人物が私である世界」を経験し、その世界の中での経験に実在性を感じるのです。

ラボの試演と対話は、仮定法的実在性の実験場のようでした。

試演では、子どもが物語に即して日常生活では決して口にしないようなことばを、同じく日常生活ではまず言わないような口調で語ります。その試演を終えた後の対話では、物語を演技で身体的に・立体 (3D) 的に経験したことも手伝ってでしょうか、台詞の文字通りの意味の背後にある細部についての問題提起などがされます(たとえば、「この登場人物が出てきた時に、森の木々はどんな反応をするだろうか」)。あるいは物語の喚起的な言語 (language of evocation) --さまざまな想像力の発揮を許す表現-- や絵本の抽象的表現 --映画と比べるなら、はるかに具体的情報が描かれていない表現-- によって、子どもは大胆な問いかけもします(たとえば「妖精って指先ぐらいの大きさなのだろうか、それとも『進撃の巨人』ぐらいの大きさなのだろうか?その二つの大きさで森の様子がどのように変わるかやってみないか」など)。子どもたちは、直訳して終わり、あるいはテクストに書いてあるだけの情報(文字通りの意味)について英問英答して終わるような平板な授業を受けている時とはうってかわって、物語に仮定法的とはいえ実在性を身体で実感し、その実感に基づき物語を解釈してゆきます。「仮定法的とはいえ」と言いましたが、逆に「仮定法であるからこそ」子どもは日常的な自分から離れた実在性の経験ができるのだともいえましょう。ともあれ、この現場では試演と対話を通じて、さまざまな仮定法的実在性が試されました。想像力の実験場ともいえるような仮定法的実在性の実験場だと私は感じました。


■ 対話の場

「対話」の概念に関する私の理論的基盤の一つはボームの対話論ですが、ラボでの子どもたちの語り合いは、まさにボームの言うような意味での対話であったように思えました。

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/04/david-bohm-dialogue.html

語り合いは、小学生から大学生までの幅広い年齢層の集団で行われます。私が見た教室では大学生が一人、高校生が三人、中学生がそれよりも多く、小学生がさらに多いような集団でした(追記:正確には大学生1名、高校生2名、中学生2名、小学生9名でした)。当然年長者の方が経験豊かでいろいろな知識・知恵も兼ね備えているのですが、司会進行役も含めて年長者は決して自分の意見(「ここの解釈はこうあるべきだ!」といった自分なりの思い込み (assumption) )を押し付けません。もちろんそうだからといって自分の意見を述べないわけではないのですが、述べてもある時点では大学生の意見に対して小学生が「それって普通、屁理屈って言わん?」などと反論されているなど、年長者の発言も権威的・抑圧的とは程遠いものでした。そうやって誰の意見・思い込みも、絶対肯定することも絶対否定することもせず、決めつけずに対話を続けてゆくと、小さな子どもからも本当に面白いアイデアが出てきたりします。そのような驚きを何度も経験している年長者(大学生)は実践後の私との語り合いで、「僕は自分の意見をぜったいに通そうなどとは思いません」と述べていました。また、高校生・大学生とテューター(=ラボでの指導者)との最後の話し合いの中では「『決める』という表現を使うと、子どもたちは物事が決まったものとして思考を停止してしまうからできるだけ使わないようにしよう」といった反省も出ていました。ボームの対話論でも「決めつけないこと」 (to suspend) が対話の重要な原則として上げられていますが、ラボにもそのような対話の文化が見られました。

だからといってこの対話がいつも理想的に進んでいるわけではありません。小さな子どもは、関係のない茶々を入れたり、悪ふざけを始めたりします。その状況がひどくなると年長者は「ねぇねぇ、人の話は聞こうよ」などと対話関係に戻そうとしますが、学校の(一部の)教室のように「こら、そこ。静かにしなさい!」と権威・権力者的に叱責したりすることはありません。ある決定事項を迅速に実行に移すため語り方からすれば、無駄といえるぐらいに回りくどいやり方で語り合いが進んでゆきます。ですが、同じように興味・関心・意欲をもっているわけでもない参加者のすべてが、誰もその存在を否定されずに語り合おうとするこの文化はとても民主主義的です。創造的発見が生じる土壌に民主主義的文化があるということ、そして民主主義的文化こそは人権尊重の文化であり全体主義的支配を防ぐ文化であるということからすれば、ここでの語り合いは非常に重要な文化実践であるようにも思えます。


■ 多様性の統一

これら「仮定法的実在の実験場」と「対話の場」という観点からすると、ラボの教室では、一方で想像力の多様性を促進しながら、他方でそれを一つの舞台表現にしてゆくという、「多様性の統一」を行っている場のように思えます。言うまでもなく、多様性を発展させながらもそれを一つの形にするということは、現在、多くの企業や機関が試みていることです。多様性を尊重しない組織は、多種多様な交流が前提となったグローバル社会に対応できませんし、多様性を野放しにして混乱するままの組織は自己崩壊してゆきます。ラボの実践の意義は現代において大きいと思います。

また、こういった実践を可能にしているのが、一義的に確定された真理 (truth) を追求する科学規範の様式 (paradigmatic mode) ではなく、多義的で不確定ながらも複合的に柔軟に対応するとことを可能にする意味 (meaning) を探究する物語の様式 (narrative mode) に基づいていることも重視すべきと考えます。私たちは物語という文化様式をもっと大切にするべきではないでしょうか。さもなければ創造性も人間性も枯渇しかねないと私は考えます。


■ 人工知能と人間

21世紀の教育を考える上で避けては通れないのが人工知能の問題、いかに人間社会が人工知能と共存するかという問題だと私は考えていますが、この点でもラボに見られるような物語的実践は重要であるように思えます。単純化して述べるなら、機械は一義的で確定的意味を扱うことが得意です。機械は、アレントの言い方を借りるなら記号言語 (Zeichensprache) の処理が得意 --人間が太刀打ちできないぐらい得意-- です。これに対して人間は、確定的意味 (ルーマンの言い方なら「現実性」)を伝え合いながらもそこから派生する不確定な潜在的意味(「可能性」)も込めながら語り合い (Sprache) を行います。人間のことばには潜在的意味が付随しているからこそ、人間の語り合いは、さまざまな変異や変化にも対応できるだけの幅と奥行きをもちます。人間のことばは、機械からすればおよそ曖昧で計算困難なものですが、逆にそうだからこそ、人間は限られた言語処理能力で複合的な世界に対応できている考えられます。

アレントの行為論 --『活動的生』より--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/01/blog-post_18.html
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

人間はさらに、一人でことばを使うだけではなく複数の人間の間でことばを使い、さらにことばの潜在的意味(可能性)を開拓して創造性を発揮します。この創造性の発揮は、ディープラーニング以前の機械のような圧倒的な計算能力で総当り方式でしらみつぶしに解を求めるやり方ではなく、複数の人間がそれぞれの視点から、また他の視点から影響を受けてそれぞれの視点を変化させながら意味深さを探究するやり方です。現時点ではこの人間のやり方の方が、複合的で流動的な世界での深い創造性に関しては人工知能よりも勝っていると考えられます。この言い切りが間違いでないことを願うのですが、機械はまだ自足的な独話(モノローグ)しかできないのに対して、人間は相互主体的な対話で協働をすることができます。

人間と人工知能が共存できる世の中 --人工知能が作り出すシステムによって人間が疎外され、地球上の多くの人間が生きる術や意味を失ってしまうことがない世の中-- を作り出すには、機械が得意なことと人間が得意なことを理解し、人間が後者の力を伸ばしながら、人間同士とだけでなく機械ともうまく相互作用することが必要だと考えます。物語によって学ぶことは、機械が不得意だが人間が得意なことを伸ばすという点でこれからますます重要になっていくと思います。もちろん同時に、機械を理解し機械とうまく相互作用するために物語の様式とは異なる科学規範の様式も学ばなければならないのですが。

物語の様式に関する理解を、科学規範の様式に関する理解と同程度ぐらいに深めたいと思います。




関連記事
ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、およびそこでの私の講演スライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/50.html


追記(2017/12/12)
「真夏の夜の夢」を「夏の夜の夢」に訂正し、 教室での参加者の正確な人数を書き加えました。


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