2014年3月25日火曜日

河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫

長い間教師をやっているとカウンセリング的なアプローチに親和的になってくるかと思います(もちろん教師にもカウンセリング的アプローチをまったく嫌う人も結構いますが)。「生兵法は大怪我のもと」という警句をかみしめながら、カウンセリングのあり方から学びたいと思っています。

それにしても、この「カウンセラー/クライエント」という人間関係は、人類史上どのように位置づけたらいいのでしょう。意識・無意識、権力、価値などの扱いという点で、非常に特異な人間関係のように思えますが、この人間関係が出てきて、この力が認められてきたというのは、大げさにいうなら人間の歴史の中の必然のようにも思えます。


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河合隼雄先生はもちろんカウンセリングの専門家ですが、カウンセリングにはこだわりません。他人に対する関わりとしては、カウンセリングだけでなく、直接的な支援、助言、忠告、叱責、環境に対する働きかけなどさまざまなものがあります(5ページ)。別にカウンセリングだけが関わりの唯一の方法ではありません。

しかし、カウンセリングという「ひたすらクライエントの話に耳を傾けて聴く」(9ページ)関わりには、独特の力があります。カウンセラーが、クライエントの話を否定も肯定もせず、自分の意識と無意識の境界もゆるめながら、ひたすらにクライエントの声を心と身体に受け入れてゆく時、カウンセラーは、クライエントの「心の片すみにあって忘れられかかっている声や、ほとんど聞き取れぬほど弱く語られている声に対しても、耳を傾けている」(11ページ)わけです。クライエントは、価値判断されることなくひたすら存在を認められる中で、自らの思いを語るにつれ、これまで自分でも気づいていなかったような思いに気づき、それも語りはじめます。

この聴き方は、カウンセラーの「クライエントの一言半句を聴き逃がすまいという意識的な努力よりも、その場に生まれてくるものを何であれ受けとめていこうという柔軟な態度」(249ページ)に支えられたものです。

これは時間のかかるアプローチですが、カウンセリングの「第一のねらい」である「クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事」は、「どうしても時間を必要とする」(19ページ)と河合先生は述べます。



心理相談ならともかくも教育指導なら、そんな悠長なことは言っていられないと思われる方もいるでしょう。厳しく指導し、できたらすぐに報酬を与える(できなかったら罰を与える)という動物の訓練に似たアプローチこそ教育だと考えている人もまだ多いでしょう。近年の教育指導では結果の「エビデンス」がすぐに判明することが強く求められていることも手伝って、そういった即効的な教育法はもてはやされているようでもあります。。しかしそのように短期的なアプローチを続けた結果、見事に学びの力がついたかといえば、むしろテストには合格し続けても、どんどんと内的な学びの欲求が損なわれている例も少なくありません。

また、そのような「飴と鞭」のアプローチには、どうしても馴染めない(ある意味健全な)子どもも多くいるでしょう。そういった子どもを、結果を求める教師が、これまた即効的で即物的な操作で「動機づける」ことを試みても、それは事態を悪化させる結果に終わるのではないかと私は考えます。

ここは青臭く聞こえても、やはり教育の王道である、本人の潜在力に信頼するアプローチが必要なのではないでしょうか。カウンセリングはそういった本質的なアプローチの一つとして、教科指導においても参考にされるべきことかと思います。

本人を信頼することは、放任や甘やかしではありません。しっかりと、いわば魂のレベルにまで降りようとしながら、静かに耳を傾ける人を前にすると、クライエントは「はっきりごまかすことなく、自分の欠点に正面から向き合わなければならないことを感じ」ると河合先生は言います(22ページ)。カウンセラーは、クライエントが「自分でさえも気づかずにいる心の奥深い可能性の世界に焦点をあてている人」(52-3ページ)なのです。



カウンセリングは通常、何らかの悩みや問題を解決するために開始されますが、カウンセラーは問題解決のための直接行動はとらず、クライエントのいわば真の声をひたすらに待ちます。クライエントはしばしば問題に対処するため、「下手な自我防衛」―自分の無意識がもつ可能性を否定して、現状の自我が得意とするやり方だけで問題に対処し、結果的に問題解決を回避していること― を行っていますが、カウンセリングはクライエントが「そのような下手な自我防衛をせずに、もっと自我防衛の力を弱めて実際の現象に立ち向かってゆこうとすることを援助する」わけです(73ページ)。別の言い方をすると「今までの自我の統合性を少しくずしながら、もう少し新しく広い、あるいは、新しくて大きく高い次元の統合性をもった自我へと発展させていく」(75ページ)となります。

しかしこれまでの自我防衛を崩し、新しい自分に出会うことは、怖いことでもあります。ちょうど家の改造工事をしているときが一番危ないように(77ページ)、クライエントの自我がカウンセリングに耐えられない場合には大変なことになってしまいます(81ページ)。ちょうどよい加減の関わりをすることがカウンセラーの力量なのでしょう。

そうやって注意深いカウンセラーに側面から、あるいは後方から支えられながら、クライエントは新しい自分に出会います。それはしばしば強い情動性を伴うものです(よいカウンセリングでは、情動的・感情的体験が生じ、時には転移・逆転移も生じることはよく知られていることです)。

こうやってクライエントは、人格の再統合へと近づいてゆきますが、そこには「二律背反性」が多くあります。「単純に物事を割りきって考えてしまうと、失敗することが多い」わけです(100ページ)。―ちなみに私は"rationalism"の訳語は「割りきり主義」が適切だと考えています。関連記事:アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について)―。およそ人間のことに関する限り、あまりに一面的で一見安心できそうな考え方は、二つの相反するものの葛藤を無視してしまい、本質的ではないことが多いわけです。

河合先生は次のようにまとめています。

このように、カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、人間というものがこういうものだから致し方ないと思っています。積極的にいえば、人間というものはこの二律背反性のあるゆえにこそ、面白いといってよいかもしれません。つまり、人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。そのダイナミズムを通じてこそ、われわれは、それよりも高い次元のものを創り出すことができるのです。(107ページ)。


ここで弁証法という用語を出していいのかどうか私にはわかりません。しかしあまりにも矛盾や葛藤を避け、単純で一面的な説明ばかりを好む過度の「割りきり主義」は、知性としてはあまり深いものではないし、現実世界への対応としてはむしろ拙いものかもしれないという警戒心は保っておくべきでしょう。(「割りきり主義」で現場にあれこれ指図する「専門家」(=学問をした馬鹿)ほどやっかいなものはありません)。

クライエントは、例えばある人に会いたくないという気持ちと会わねばならないという気持ちの両方を持ち、二律背反に苦しみます。その二律背反を受け止め、片方を否定して割りきってしまうのではなく、「相反するふたつのものが高まって、ふたつの音がそのままひとつのハーモニーにとけこんでいくような態度」を取ることがクライエントにもカウンセラーにも重要です。これを河合先生は、カール・ロジャースのことばを借りて"genuine"であると述べます。ちなみにこのことばを「純粋」と訳すと誤解を招きやすいので、「自己一致」という訳語が充てられていますが、私としてはもっと大胆に「誠実」と訳してもいいのではないかと考えます。

カウンセラーは、クライエントの「どれほどの小さい声、どれほどの大きい声も全部心のなかに響いてくる」(129ページ)ようであるべきです。それこそが"genuine" ―誠実― な態度といえるでしょう。

別の言い方をすれば、カウンセラーは自らの自我防衛も弱くして、新たな人格の創造に立ち会わねばなりません。河合先生はこう言います。

このようにいろいろな気持ちに対して、カウンセラーは自分自身の心に忠実にならねばならない。いうならば、相当自我防衛をはずしていなければならない。そして、その自分自身の字が防衛を薄くしているなかで自我のなかに飛び込んでくるものを相手にぶちあてるのです。すると、その難しい危機と発展とのちょうどよいところでわれわれは反応することができるのです。(84-85ページ)。


教師はしばしば「ドヤ顔」をしてしまい、自らの力量を誇りますが、カウンセラーは「ドヤ顔」とは無縁でなければならないでしょう。

こうしてカウンセラーの支援を受けながら、クライエントの人格の再統合がなされますが、それと同時に問題は解決に向かうことが多いのが現実です。"Objectivism" ―「客観主義」というよりは「対象主義」と訳した方がわかりやすいかもしれません― で、問題を自分とは切り離された対象としてしか考えないと、自分の変化によって問題が変化するなど考えられないことですが、「対象主義」という「割りきり主義」から自由になって、市井の人として常識的に考えれば、問題というのは常に自分の認識(考え方や感じ方)によって存在していることは何ら不思議ではありません。自分の変化に伴い、問題も変化することは当たり前のことでしょう。

ともあれ、問題は解決の方に向かいますが、それだけではなく、できればつけ足したいと河合先生が思うことが「意味の確認」です(34ページ)。実際的な問題の解決・解消だけで満足するのではなく、もう一段深い(あるいは高いレベル)で問題を抽象化して、この問題解決・解消の意味を理性的に確認することもカウンセリングの重要なプロセスです。

こういったカウンセリングの過程を単純化したものが以下の図です。







このようなカウンセリングの実態は、第五章の「ひとつの事例」で見事に表現されています。この事例を要約することは許されないでしょう。ここはじっくり、読みながら自分も葛藤を追体験するようにして事例を味わうべきでしょう。

この問題解決・解消と人格の再統合というカウセリングを音楽にたとえるなら、いったいこの曲を作曲したのは誰だろうと疑問がわいてきます。河合先生の考えはこうです。

クライエントが書いたのでもなければ、カウンセラーが書いたものでもない楽譜。誰がいったいそれを書いたのか。私は、それをクライエントの「自己」が書いたのだ、クライエント自身も知らなない、しかしクライエントの心の底深く存在している心の中心、そして発展の可能性の中心である自己が書いたものだと、思ってみるのです。(289ページ)


ここで前提とされているのは、言うまでもなくユング心理学です。もし、カウンセリング的アプローチが、教師が取りうるアプローチの一つとして学ぶべきものなら、ユング心理学の理解はやはり重要であるといえましょう。もちろん、一知半解、あるいは生兵法ほど危険なものはありませんから、私たちは現場の現実に忠実に謙虚に学ぶ姿勢を堅持しなければならないのですが・・・。











2014年3月24日月曜日

誰も支配せず、誰からも支配されない ― 卒業式挨拶



以下は昨日の卒業式(講座)で私がおこなった挨拶の原稿ですが、私は昨日、この挨拶以外はほとんどカメラマンに徹しました。

彼ら・彼女らの一生に一度の機会を少しでも画像に残しておきたかったというのが私の思いでした。

1000枚以上写真を撮って、その中で何とかものになる写真を約250枚ほどサーバーにアップして卒業生・修了生がダウンロードできるようにしました(ピント合わせと露出が私はむちゃくちゃ下手です 汗)。

式は大学合同のもの、講座主催のものがあり、その後、卒業生主催の謝恩会がありました(幹事の卒業生さん、忙しかったのにありがとう。本当にいい会でした)。

教師歴を重ねるにつれ、教師の第一の心得は、「害をなしてはならない」ということかと思えてきます。別の言い方をすれば、「教師は、自らの力量でなく、学ぶ者の潜在力を信じよ」となるのでしょうか。いずれにせよ、「教師は教え子によって教えられる」とますます確信するようになりました。

卒業生・修了生の皆さん、これまでどうもありがとう。

また会いましょう。きっと。



卒業式挨拶


皆さんが所属してきた学部・大学院の教師としての最後のことばを申し上げます。
私たち教員は、これまで皆さんに知識と能力を授けることに専念してきました。
知識と能力は人々に生きる力を与えますから、私たち教員はこの仕事に誇りをもっています。
そして本日、広島大学は、社会より委託された権威をもって、皆さんに学士・修士・博士の称号を与えました。皆さんは今やそれぞれの称号にふさわしい知識と能力を備えた人間として社会的に認められたわけです。
どうぞ皆さん、自信をもって獲得した知識と能力を存分に使いこなしてください。

知識と能力は自分の人生を切り拓くために使えます。他人からの不当な支配から解放されるためにも使えます。
ですが、それらは他人を支配するためにも使えます。他人を操り、そしてその結果、自分自身の魂を損ねるためにも使えます。

大きな例でしたら原爆やホロコーストをあげることもできますが、小さな例でしたら皆さんの身近にあるかもしれません。

言葉巧みに他人を操る人、理屈で他人をがんじがらめにしてしまう人、他人を力で威圧して自分の優越感を必死に保つ人 ―ひょっとして皆さんはそういった人々により自信を失い主体性を損なわれていたかもしれません。

しかし、皆さんにはもう他人に支配されないだけの知識や能力があります。どうぞ自分で自分の人生を歩んでいってください。自信をもって。
皆さんはもう生物的にも法律的にも、そして本日の学位授与をもって社会的にも独立した人間です。自分の考えと自分の責任で堂々と自分の人生を歩んでください。これまでに培った知識と能力を使いこなしてください。
ですが、どうぞ皆さんはその知識と能力を、逆に、他人を支配し操作するために使わないでください。
私がこのようなことを申し上げますのは、教育という営みは、なまじ善意や正論を前提とするがゆえに、人を型にはめてしまい、人の可能性をつぶしてしまうことがありうるからです。
ですから教育学部・教育学研究科の教師としての私の、自戒を込めての最後のメッセージはこれです。

皆さんは、誰も支配せず、誰からも支配されない人であってください。


特に教師や親になる場合、決して生徒や子どもを支配しないでください。もちろん生徒や子どもに支配されてはいけません。しかし、仮にそうなりかけたとしても、無意味な権力ゲームを始めないでください。支配とは無縁の人生を歩んでください。
皆さんは、偉くもなければ惨めでもない、普通の人であってください。
あざ笑いでもなく、卑屈な笑いでもない、穏やかな笑顔をたたえる人であってください。

互いの自由を尊重し、互いの生命を慈しむ、慎ましい人であってください。

知識と能力に価値があるとすれば、それはお互いの幸福のために使われる限りにおいてでしょう。

知識と能力で他人を奴隷にしないでください。そして、自分自身が知識と能力の奴隷にならないでください。

知識・能力と幸せの間で選択をしなければならない時には、迷うことなく幸せを選んでください。

幸せであってください。そしてその幸せを少しずつ周りに伝えてください。

誰も支配せず、誰にも支配されず、幸せであってください。

これが知識と能力の開発に携わった教師としての私の最後のことばです。
これまでありがとうございました。
皆さんの幸せな人生をお祈りします。











2014年3月19日水曜日

河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫





河合隼雄の晩年である2008年にもともと編まれた本書は、編者の河合俊雄が言うように、「イメージ」と「物語」を中心テーマとしてもっている。したがって、ここでもそれらを中心に私なりにまとめてみたい。

人間が意識と言語をとりわけ発達させているということは、人間を動物の中でも特異な動物にしている。例えば人間が木を見る。それは「木」として概念的に認識される(だからこそ私もこうして何も問題がないように、その行為を読者であるあなたに伝えている)。しかし言語をもたない動物にとっての木とは、「木」として対象化されるものではなく、自らが生きることの中に溶け合い組み込まれた経験そのものである(3ページ)。

何もかもが混ざり合い共に流動し変動するのが自然なのだとすれば、対象を言語で限定し、その言語でもって記憶や思考を構築し、他人にも伝える人間は、およそ反自然的なのかもしれない(4ページ)。特に思考や言語がそらぞらしく感じられ、「生きている身体」が自分で感じられない時(5ページ)、言語を操る意識(自我)は自然と乖離してしまっているのかもしれない。

しかし、人間とて自然の中で進化を重ねて意識と言語を獲得したのだから、この反自然も「人間にとっての自然」 (human nature) なのかもしれない。武術家の甲野善紀の問いの一つに「人間にとっての自然とは何か」があるが、この問いは深い。外国語教育にしても、外国語という不自然な言語を、自ら自然に使えるようになる第二の天性 (second nature) とするという営みと考えれば、「人間にとっての自然とは何か」は、外国語教育関係者にとっても重要な問いであろう。

ともあれ、自然・身体から乖離しかけた言語や意識を、自然・身体と再びつないでくれるのがイメージである。イメージの特性を河合は、(1) 自律性、(2) 具象性、(3) 集約性(多義性)、 (4) 直接性、 (5) 象徴性、 (6) 創造性、 (7) 心的エネルギーの運搬の7つにまとめる。『ユング心理学入門』で河合はイメージ(心像)の特性を、具象性・集約性・直接性としていたので、ここではそれらと重ならない自律性、創造性、心的エネルギーの運搬についてごく簡単にまとめる(象徴性についての説明は、『創造する無意識』をご参照いただきたい)。

自律性というのは、イメージが自我のコントロールを超えて動きだすということである(6ページ)。典型的なのは夢であるが、アクティブ・イマジネーションや文芸作品においてもイメージが自ら展開することはよく知られている(これらについても『創造する無意識』の説明を参照されたい)。

創造性は、自律性と重なり、イメージが自律的に動き始めることにより、文学・絵画・音楽・演劇などの芸術活動、あるいは科学活動においてすら、それまで自我が考えたこともなかった新しいものが創造されることである。創造の背後にしばしばイメージがあるわけである(11ページ)。

心的エネルギーの運搬も創造活動の際に典型的に現れる。河合は次のようにまとめている。

何か新しいことを見出そうとする人は、考えこんだり、あれこれと試したりするうちに疲れてきて、何もできなくなる。このとき、こころのエネルギーは無意識の領域にひきこまれてしまっている。そのとき、ふと新しいイメージが湧き、それが対抗していた心的エネルギーとともに意識領域に流れこんでくる。このときに、そのイメージが新しい発見をもたらすのである。(12ページ)


私は言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」などで、言語を、からだ・こころ・あたま、そして内界・外界をつなぐ媒体としてとらえたが、こと、からだや内界といった無意識的領域と意識的領域をつなぐことに関しては、言語よりもイメージの方が働きやすいといえよう(もっとも、言語とイメージを切り離して考えるのもナンセンスで、両者は常にどこかで結びついているものであろうが)。

このように意識のコントロールを超えて自律的に、さまざまな側面を集約的かつ象徴的に表現するイメージを、意識で真剣に受け止めるということは、「自我の中心的役割を少し弱め」て、「全体としての心のはたらきを活性化することを意味」する(26ページ)。例えば自分の夢やアクティブ・イマジネーションについてできるだけ意識的に考えることは、意識の論理からすれば、およそ辻褄の合わない馬鹿なことをしているように思えるかもしれないが、自らの心の全体性を活かそうとしていることだといえよう。

他人が夢やアクティブ・イマジネーションなどのイメージについて語ることを聞くのは、まさに心理療法家(カウンセラー)の聞き方である。河合は次のようにまとめる。

通常の会話のように、相手の言った内容に関して自分の意識をかかわらせてゆくのではなく、意識と無意識の境界をできるだけあいまいにし、相手の言ったことを自分のこころの深くに投げ込んでゆき、果たしてどんな反応があるのか待つ、というような聴き方をする。あるクライアントに、「先生に最初に会ったとき、私の話をほとんど聞いておられないのじゃないかと思いました」と言われたことがあるが、表面的にはそんな感じがするだろう。意識的にいわゆる熱心に聴くのとは、まったく異なっている。クライアントも最初は不思議に感じるが、すぐにそれは何か意味のあることらしいとわかるようである。(164ページ)


こうして語る者が、自我を無意識に対して開き、聴く者もその語りを自らの無意識に投げ込むようにしながらも意識を保っている関係が始まると、それが「物語」となる。河合は、物語においてもっとも重要なこととして「個人の意識と無意識の関係の回復」(101ページ)をあげる。

この物語を語る者と聴く者の関係を、河合はクライアントと治療者の関係として記述するが、この関係は「水平」なものである(95ページ)。

河合は坂部恵『かたり―物語の文法 』(ちくま学芸文庫)を引用しながら、「告げる」と「告げる」を区別した上で、さらに「語る」を「話す」との関係で説明する。「告げる」ことにおいて話をする者と聞く者は垂直関係にある(癌の告知などはその典型であろう)(94ページ)。それに対して「話す」場合は両者は水平関係にある。

「語る」場合も両者は水平関係にあるが、「語る」ことは、「話す」ことより、それに関わる者の「主体的かかわり」があるといえる(95ページ)。かくして治療者はクライアントの語りを水平関係において聴くわけであるが、それは両者がまったく同等であることを意味しない(97ページ)。治療者は語りを聴く場合に、相当に専門的な知識と技術をもっていなければ、物語にのみ込まれてしまうこともあると河合は注意を喚起する。

物語の危険性としてまずあげられるのが、ある文化・時代において流行する物語である。多くの人は、これを標準や理想として考え苦しむことになる(103ページ)。流行する物語は集合無意識的に共有されている場合もあるが、人は時に流行する物語に適った形に物語を知的に作りだそうとする。本来、物語とは「無意識と意識の協調によってつくり出されるところに、その本質がある」(105ページ)のだが、人間はもっぱら意識的に物語をつくることもできる。いわゆる「つくり話」である。これは人を本当に動かす力をもたないと河合は言う。

だがやっかいなのは、第三者的・客観的に、深い物語と「つくり話」を区別するのははなはだ困難(というよりおそらく不可能)だということだ。話をいきなり英語教育業界のことに移すが、日本の英語教育界がいまだに質的研究を認めようとしないことの大きな理由は量的研究者の勉強不足だと思うが、一つには、「質的研究」の「語り」とされるものは玉石混交で、中にはひどいまがい物もあるという正しい直観もあると私は考えている。さらにまがい物のつくり話ほど、流行している物語に近いので、人気を博しやすいというのも状況をさらに難しくしている。この意味で、外的基準を求めにくい質的研究の語りを無批判的に認めると、研究がガタガタになってしまうかもしれないという不安は正しいものであろう。

しかし、これは音楽でも文学でも同じことである。深い音楽や文学と、浅くどうしようもない音楽や文学の違いを、音楽や文学をまったく経験していない第三者に客観的に説明することはおよそ困難である。しかし、音楽や文学を経験している者にとっては、とりわけその経験が深く広い者にとっては、それらの違いは明々白々である。からだとこころが教えてくれるからである。河合は心理療法について次のように語っている。

「つくり話」であるかどうかは、その物語をつくるときに感じる、イメージの自律性と、それにともなう感動の深さによって知ることができる。これは「物語」をつくる人にとっても、それを聴く人にとっても同様である。心理療法家はそのような判断力を身に着けていなくてはならない。クライアントが「つくり話」に動かされそうになるときに、治療者はそれに乗らずにそこで立止ることができなくてはならない。(105ページ)


ここにはユングが『タイプ論』で述べ、河合も『心理療法序説』などで力説している「こころ」を研究する際の、自然科学の限界や、カントの『判断力批判』にもつながる問題がある。人が主観的・主体的に感じることとは何なのだろう。また主観的・主体的に感じながらも、それがその本人を超えた妥当性を有すると感じることは何なのだろう。人間についてきちんと研究しようとすれば、そういったことをきちんと考えなければならないのだが、ここではもちろんそういった問題の所在を指摘することだけしかできない。



この本から英語教育研究が学べそうなことを、強引に二点にまとめると次のようになる。

(1) 質的研究の語り(ナラティブ)における聞き手(「第二者」)の重要性の理論的理解:語りが当事者(「第一者」)の内部だけに閉塞した話になったり、誰でも言うような第三者的で浅い「つくり話」になってしまわないようにするためには、語りの聞き手(「第二者」)の働きが非常に重要である。この重要性は経験的にはよく知られているが、心理療法やカウンセリングに関する研究からは、有益な洞察が得られるであろう。

(2) 授業におけるイメージの活用法:学習し使用する言語に生命力と創造性を与えるには、私たちの無意識への道を開いてくれるイメージをうまく利用することが有効であると考えられる。実際、写真などのイメージを使って学習者に深い英語発話をさせることは中嶋洋一氏や田尻悟郎氏の実践などで多く観察されている。また、生徒が英作文を作品化するとき、生徒はしばしば文字をレタリングしたり、イラストを添えたりする。それらを「英語学習に関係のないもの」として抑圧するのは短見というものであろう(もちろん、無制限・無批判的にそれらを促進するのも浅慮であろうが)。私たちは英語教育におけるイメージの活用をもっと理論的に考えるべきではなかろうか。

ちなみに、このような提言をすると「それは美術科教育の領域で、私たちは英語科なのですから・・・」と口をとがらせる者がたいていいるが、私はそのように自らの営みを限定的にしか考えない人に対してしばしばことばを失う。そのような人が守りたいのは、子どもの豊かな発達ではなく、自らの小さなプライドではないかと私は思っている。















2014年3月13日木曜日

河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫





1967年に書かれた河合隼雄先生の処女作の再刊です。私も約30年ぶりに読み返しましたが―私は大学二年生の時にこの本を何度も読みました―、深いです。ユングも河合先生も、人間の深い層のことを書いているので、内容がいっこうに古びません。やはり名著というべきでしょう。

ユング心理学の最大の特徴を河合先生は、「堅固な体系を真理として提示することではなく、人間の心、ひいては生き方に対する根本姿勢を問うていること」とします。「人間をその意識することだけではなく、可能な限りその全存在を尊重し、そこに生じてくることをを可能な限り受け入れようとする」のがユング心理学だとします(xiiiページ)。この脱教条的で包括的な態度こそが、ユング心理学の魅力であり、だからこそ林道義先生などは、ユング心理学をあえて「ユング思想」と呼ぶのでしょう。確かに、ユングは狭義の心理学をはるかに超える広さと深さをもっています。








本書は「タイプ」、「コンプレックス」、「個人的無意識と普遍的無意識」、「心像と象徴」、「夢分析」、「アニマ・アニムス」、「自己」に一章ずつ使ったユング心理学への読みやすい包括的な入門書です(あとアクティブ・イマジネーションについての章があれば申し分なかっただろうというのは多くの人が言うことですが、それはさておきます)。

今回私が読みなおして面白かったのは、心像 (image, Bild) などの箇所でしたので、ここではそれについて私なりにまとめてみます。(夢や空想などで私たちの心のなかに浮かぶ「心像」は、通常「イメージ」と言われることが多いかと思いますが、ここでは河合先生の用語法に従います)。

心像の根底にあるのは、ユングが仮説的に想定する「元型」 (archetype, Archetyp)―人間が集合的(河合先生の訳なら「普遍的」に無意識に有している基本的な型― です。心像はそこからさまざまな形象になり私たちの意識に現れますが、その心像の中でも、特に元型に近いものを、ユングは「原始心像」 (primordial image, urtümliches Bild) もしくは「元型的心像」と呼びます(79ページ)。

無意識が意識に知らせる内的な心像は、「意識と無意識の相互関係の間に成立するもの」であり、「そのときそのときの無意識的ならびに意識的な心の状況の集約的な表現」と見られますから、「その心像の意味をよみとることは、非常に大切なこととなる」と河合先生は述べます(104ページ)。

心像は、たとえばことばと比べても、より具象性・集約性・直接性を有します。具象性というのは、もちろん具体的に(内的)感覚でとらえられることを意味しますが、集約性とは、心像が「心の全体的な状況」を集約的に表現している(108ページ)―多様で多義的で時に矛盾すらする諸側面をまとめて象徴している― ことを意味します。

そのように具象的で集約的な心像は、直接的です。人はしばしば他人を知的に、理念(概念)を通じて説得しますが、その説得はなかなかうまく他人の心に届きません。しかし、その人が心のなかに見る(あるいは感じる)心像は、その人にとっての直接体験になり、その人を動かす基となります(111ページ)。

この心像と理念の対比・関係を河合先生は次のようにまとめます。

このように心像は強力なものではあるが、ときにそれは非常に難解であったり、明確さを欠いていたり、あまりにも多義的に感じられたりすることも事実である。それゆえにこそ、われわれは心像より直接に得たものから、その具象性を払いおとし、明確さを与えて洗練された理念にまで高める努力をするのである。しかしながら、われわれが、明確な概念のみを取り扱い、その背後にある心像との連関性を忘れ、概念だけの世界に住み始めると、その概念は水を断たれた植物のようになり、枯れ果てた、味のないものになり下がってしまう。しかし、この逆に、心像のもつ協力な直接性に打たれ、それを概念として洗練する努力も払わず、ただ心像のとりことなって行動するときは、これは生木で家を構築したように、だんだんとひずみが生じてくるのをさけることができない。(111-112ページ)


私がユングを読む度に感じることは、彼が強力な理性(意識性)を保ちながら、大胆に無意識の世界への途を開けていることですが、心像と理念の間においても、一方で心像の力に圧倒されながらもそれを概念化・理念化すること(逆に言うなら、概念化・理念化の努力の中で、無意識とのコンタクトを決して失わないこと)は、ユングの特徴だと思います。意識性と無意識性のどちらが弱くても、ユング心理学は誤解され、ユング心理学はその誤解する人の人生を過たせるかもしれないぐらいの力をもっていますが、逆にその両極の葛藤に耐えつつ均衡を保てるなら、これほど力をもった思想もないのかもしれません。

ちなみにユングはしばしばカントを引用しますが、上記引用の理念・概念・心像の関係も、カントの理性・知性(悟性)・感性の枠組みに対応しています(関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)。

心像は、特に人が自分の意識が抑圧してきた無意識の存在を認めた時に生じます。そういった時、その人の心的エネルギーは退行して無意識に流れ込むので、その人はしばしば、ただ無為に過ごしているように見えたり、幼児的・衝動的な行動に走っているように見える行動を起こします(126ページ)。

この時、その人が無意識からの力に圧倒されて、自我の力を失ってしまったら、思考型の人が急に感情的になったり、内向的な人が急に外向的にふるまったりと、相互反転(enantiodromia)を起こすだけになってしまいます(126ページ)。私たちがよく知るように「180度の変化はしばしば生じるが、その変化は存外浅薄なものである」わけです。

しかし意識と無意識が拮抗しその緊張にその人が耐えうるなら、創造性が生まれ、そこに象徴が生じると河合先生は解説します。

これに対して、このような強い退行現象が起こり、自我はその機能を弱められながら、それに耐えて働いているとき、無意識の傾向と自我の働きと、定立と反定立を超えて統合された心像が現れてくることがある。このように統合性が高く、今までの立場を超えて創造的な内容をもつものが象徴であり、このような象徴を通して、今まで無意識へと退行していた心的エネルギーは、進行 (progression)を開始し、自我は新たなエネルギーを得て再び活動する。このような象徴を形成する能力があることをユングは重要視し、これを超越的機能 (transcendental function)と呼んでいる。(126-127ページ)


これは創造的な活動、特に芸術を考えるとよくわかります。文芸に長ける人は、名状しがたいもやもやを言葉を通じて世界像・人間像として描き出します。画才のある人は、抽象画をあるいは具象画でありながら極めてその人の主観性が込められた絵を描きます。音楽の才能のある人は作曲あるいは演奏します。写真のセンスがある人は、自らの内界が欲求する原始心像を見事に外界に見出し、それを被写体・構図・色調・ピントなどの決定で写真作品にします。それらの創造は、作品の創造であると同時に、その人の(再)創造であると言えましょう。

無意識の元型を源とする(原始)心像は、夢や空想や創造活動により象徴として具象化します(そしてそれは集約性と直接性を有していることは先ほど述べた通りです)。河合先生は次のように象徴を説明します。

心像は、自我に対して心のより深い部分から語りかけられる言葉であり、これによって、自我が心の深い部分との絆を保つことができると考えられる。そして、その内容が高い統合性と創造性をもち、他のものでは代用しがたい唯一の表現として生じるときを象徴ということができる。(128ページ)


象徴を自ら形にする才に恵まれた人でなくても、私たちは自分でもなぜかわからないけど惹きつけられてしまう象徴に出会うことがあります。それはある小説だったり、絵だったり、音楽だったり、写真だったり、あるいは宮崎アニメだったりします(関連記事:岩宮恵子 (2013) 『好きなのにはワケがある ― 宮崎アニメと思春期のこころ』ちくまプリマー新書)。もしくはそれは小石だったり流木だったりするかもしれません。

ですが、それは単なる何かの代理表現ではなく、「過去への洞察と未来への志向性を共に表現している」場合も多い(129ページ)わけですから、自分がとにかく好きなモノというのは大切にするべきでしょう。そしてその意味を考えて概念化・理念化しては、またその名状しがたい魅力に戻ることを繰り返すべきでしょう。(ユング派の分析家は、この時、クライアントの心像や象徴を「拡充法」 (amplification) で、その意味を共に探ります(189ページ))。

宗教というものも、本来は、原始心像や象徴を豊かに与えるものでした。ルドルフ・オットーは、宗教から合理的な要素と道徳的な要素を引き去っても残る「聖なるもの」 (das Heilige) に注目し、それを「ヌミノーゼ」と呼びましたが(199ページ)、ユングはこの考えに基づき宗教とは、結局、「ルドルフ・オットーがヌミノースと呼んだものを慎重かつ良心的に観察することである」と述べました(200ページ。原典(邦訳)は『心理学と宗教』の11ページ)。ちなみに私はおよそ8年前に洗礼を受けましたが、今、この用語を借りるならヌミノースを感じることができなくなっており、自分でも困惑しています。









ともあれ、それが宗教的なものであれ、芸術的なものであれ、単なる夢や空想であれ、無意識に意識が向き合い、それを統合しようとすること ―ル=グヴィンが『ゲド戦記』で雄渾に描き出したこと―は、偉大なことです。





河合先生はユングのことばを引用します。「自我の一面性に対して、無意識は補償的な象徴を生ぜしめ、両者間に橋渡しをしようとする。しかし、これはつねに、自我の積極的な協同体制をもってしなくては起こりえないことに、注意しなければならない」(254ページ。原典はJung, C.G. Fundamental Questions of Psychotherapy. C.W.16, p. 123)。

別の側面から言うなら、「外界との接触を失うことなく、しかも内界に対して窓を開くこと、近代的な文明を消化しながら、古い暗い心の部分ともつながりをもとうとしなけrばならない」(256-257ぺーじ)わけです。

ここで個人的な話をしますと、私は学校行事を撮るために買ったカメラを昨年グレードアップしました。そうすれば多少はカメラをもって歩きまわって、写真を撮るようになるかと思っていましたが、私は多忙で心を亡ぼしており、ほとんど写真らしい写真は撮っていませんでした。自分でも気に入ることができた数少ない写真の一枚が下ぐらいです。

しかし、私も外界と内界のバランスを取るために、そして、私の無意識と意識的に対面するために、少しは写真を積極的な趣味にしようかと思います(いつまで続くかわかりませんが 苦笑)。少なくとも写真は、画才や楽器演奏能力がなくとも、比較的手軽に始められますものですから。

音楽を聞くのは私は相変わらず好きですが、それよりも外界に主体的に向かう写真というのも面白いのかもしれません。

と、最後は大きく脱線してしまいましたが、読みやすく深い本です。河合先生の臨床体験が豊かにあふれています。日本語で読めるユング心理学への入門書としては、やはり最上のものかと思います。





















2014年3月6日木曜日

岩宮恵子 (2013) 『好きなのにはワケがある ― 宮崎アニメと思春期のこころ』ちくまプリマー新書




カウンセラーの岩宮恵子先生の著作のことは、以前、敬愛する先生から「中高生と接する時に役立つ」として教えていただいておりました。今回その岩宮先生が、宮崎アニメとの関連から新刊を出されたので、一も二もなく読みました。

本書は中高生にも読めるように書かれた「プリマー新書」なので一気に読めました。特に面白かったのが「千と千尋の神隠し」の分析です。岩宮先生は、別段、先生は「千と千尋」をご自身の分析に還元・回収してしまおうとしているのではないですが、先生の分析により、「千と千尋」がもつ象徴的な力がより深く理解できるように思えます。



岩宮先生によりますと、カオナシは、仮面以外の自分の顔をもたない存在です。ですから周りの人もカオナシのことにほとんど気づかないし、カオナシ自身も、自分が何をしたいのか、何を主張したいのかもわからない、本当に寂しくて空虚な存在です(81ページ)




ですからカオナシは最初に自分に声をかけてくれた千に執着したりします。カオナシは自分のことばをもたないので物をどんどんあげることにより千の関心をひこうとします。あるいは他人を呑み込むことによって、その他人のことばを丸ごと借りて自分の欲求を訴えようとしますが、もちろんそれはカオナシ自身のことばではありません(97-98ページ)。こういった分析を読むと、確かにこういった人間のあり方というのはあるし、それに対応した千は素晴らしいなと思わされます。



面白かった分析のもう一つはオクサレサマです。




岩宮先生は、オクサレサマに関して「学校でときどき見かける、とてつもなく破壊的な行動をいつもとってしまう子どものイメージと重なってきます」と述べます(85ページ)。ここから岩宮先生は、湯婆婆を学校の校長先生、千を新任の先生、リンを同僚の先生のイメージと重ねてみますが、この解釈は非常に説得力あります。なるほどなるほどと思えます。

千は、オクサレサマにトゲが刺さっているのを発見します。そのことを聞きとめた湯婆婆は全員でトゲを抜くように指示します。トゲが抜けると、ありとあらゆる汚い産業廃棄物がオクサレサマの中から出てきますが、それらが出尽くすと、実はオクサレサマは高貴な川の神であったことがわかります。

このあたりを岩宮先生は次のように読み解きます。

先ほど、学校現場でオクサレサマ状態になっている子どものことに触れましたが、そんな状態になっている子は、大人の世界のドロドロとした廃棄物を自分のなかに抱え込んでいる場合が多いものです。小さい頃から素直で、親の愚痴や、いろいろな無理を何でも黙って受け入れてきたような子が、小学校三、四年生の頃から徐々にオクサレサマ状態になっていくことがあります。やわらかな感受性をもっている子ほど、大人の世界の廃棄物に汚染されて、自分で浄化できないままにオクサレサマに変じてしまう危険性も高いのです。(90ページ)


こうしてオクサレサマになった子どもは、先生が「おはよう」と声をかけても「死ね」と返してきたり、階段の上のほうからつばを吐きかけてきたりします(90-91ページ)。教員もどう対応していいのかわかりませんが、「千と千尋」にはそんな子どもがどう変わりうるかが象徴的に描かれているというのが岩宮先生の見立てです(もちろん岩宮先生は学校現場のこともよくご存知ですから、実際にはどのような注意が必要だし、どんな危険性があるのかについても言及していらっしゃいます)。



こう書いていて思い出したのですが、私もかつて「千と千尋の神隠し」について小文を書いていました。





その中で書いた文章を、一部再掲します。

私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。


その時私は千(千尋)にもっぱら注目してこの映画を見ていました。岩宮先生も言うように、この千(千尋)の対応はすごいものがあります。私はこう書きました。
もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。

彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。

(中略)

だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。

俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。


今年も卒業生を送り出すシーズンになりましたが、私としてはやはり卒業生を千(千尋)と重ねてみたりすることもあります。卒業生、いやあらゆる職場の新人が、彼女・彼らしさを忘れませんように。





と、話は脱線しましたが、岩宮先生は、「千と千尋」の物語すべてを、千尋という女の子のこころの深い層で起こっていることを象徴的に表現した物語として見ることを提案します。

こころの深い層で起こっている物語として考えると、もしかしたらオクサレサマもカオナシも坊も、千尋のこころの奥底に住んでいる千尋の分身なのかもしれません。現実世界ではただのワガママややる気のなさという形でしか出てきていなかった千尋の問題が、異界ではこのような形をとって千尋に直面化を迫ったのかも・・・と考えてもおもしろいですよね。(111ページ)


映画の中で千は、オクサレサマやカオナシや坊と真剣に関わっていきますが、その「直面化のプロセスが千尋の自己意識をしっかりとさせていったのだとかんがえると、臨床的にはとってもしっくりします」(111ページ)と岩宮先生は述べます。



私は先日行ったゼミ合宿で、「『もののけ姫』のユング的解釈」という発表をしましたが、そこでもユングのアクティブ・イマジネーション(能動的想像法)の考えに基づき、「もののけ姫」という作品を一人の人間の内的世界の葛藤の象徴的表現として解釈しました。「もののけ姫」に登場するキャラクターを一人の人間の諸側面の象徴的表現と考えました(人間のキャラクターは意識的側面、人間以外のキャラクターは無意識の側面を特に象徴していると考えました)。ファンタジーとは舞台から登場人物からすべてが創造者の想像の産物なわけですから、ファンタジーをこころの深層の象徴的表現として考えると、多くの人が、筋はわかっているはずなのに何度もファンタジーを見たり読んだりするというのはよくわかります。(ちなみに、私は岩宮先生が「もののけ姫」について徹底的に分析されていたらどうしよう、と思っていましたが(苦笑)、先生の分析は短いもので、それなら私もいつか自分の「『もののけ姫』のユング的解釈」を文章にしようと思いました(医学的にはこういった思念を「中二病」と呼びますwww)。



と、話は幾重にも脱線しましたが、思春期の生徒と向きあう教師が読むととても面白い本かと思います。いや、図書館や学級文庫において、自ら葛藤に苦しむ中高生自身に読んでもらった方がいいかもしれません。「読書とは、言葉にならなかった感覚の確認と発見作業である」というのは岩宮先生がピース又吉のことばとして引用しているものですが(28ページ)、そういった意味での読書こそは「生きる」ことと狂おしいぐらいに直結しているのですから。

















2014年3月4日火曜日

J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)





3月9日(日)に行われる「言語教育エキスポ2014」(案内(PDF))で、「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」 (9:00-10:30) というシンポジウムに登壇させていただいた後、13:00から14:30のシンポジウム「英語教員のための省察的ツールの意義 J-POSTL完成版披露を兼ねて」(司会:久村研(田園調布学園大学)、シンポジスト:金谷憲(元東京学芸大学)、柳瀬陽介(広島大学)にも登壇させていただきます。事務局の方々には本当にお世話になっております。この場を借りて厚く御礼申し上げます。



J-POSTLとは、「ヨーロッパ言語教育履修生ポートフォリオ(European Portfolio for Student Teachers of Languages: EPOSTL)」(Newby et al., 2007. ECML/Council of Europe)の翻案であり,この2月にCouncil of EuropeからCopyrightを取得しているそうです(案内(PDF)より)。

私の役割は、このJ-POSTLおよびその使い方について、無批判的な礼賛でもなく、無意味な全面否定でもなく、私なりの経験と知識と分析から検討を加えることだと認識しています。


私の発表タイトルはこのようにしました。


J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか
―デューイとユングの視点からの検討―


私の検討の柱は次の二本です。

(1) J-POSTLが省察 (reflection) のツールとして有効活用できるかを、デューイの教育哲学(Democracy and Education)を通して検討する。

(2) J-POSTLが教師の成長、言い換えるなら自己実現のために有効活用できるかを、ユング心理学を通して検討する。




これらの柱のもとに作成した、当日投映予定の資料が以下のものです。ご興味あれば、どうぞ御覧ください。







この「言語教育エキスポ2014」はすでに満員で、キャンセル待ちが30名の状態と聞いておりますが、事務局としては発表を録画し、それをYouTubeで公開することを考えているそうです。発表者の反対が多ければ、その公開は中止になるかもしれませんが、私としてはそういった公開には大賛成です。もし、公開されれば、その動画はこのブログ記事にも後日埋め込もうと思っています。





主な参考文献
John Dewey (1916) Democracy and Education
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19631972.html
C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19681976.html
C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』みすず書房
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html
G.リッツア著、正岡寛司監訳 (1999) 『マクドナルド化する社会』 早稲田大学出版部
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/02/1999.html



ビデオが収録され公開されているようでしたので、ここに埋め込んでおきます。ちなみに、私は学会などの場で発表したものを録画・録音されるのは気にしていませんが、公開される場合は、一言お知らせいただければ幸いです。









2014年3月3日月曜日

それは「雑談」ではないし、教育は機械から機械へのデータ移送ではない。





このブログを読んでくださっているある若い方からメールを頂きました。教育というのは、やはり人と人との間の営みだということを私も改めて認識させられる文章でしたので、その方の承諾を得た上で、その方からのメールの一部を以下に掲載します。



(前略)
That l am のブログ記事を拝見し、メールしています。
まるで今の自分のことを、そして大切な生徒たちのことを見通していらっしゃるような言葉で、また明日からがんばろうと思うことができました。
感謝申し上げます。
ありがとうございます。


今年は初めて担任を持つこともあり、よく言えば気合い十分、悪く言えば肩に力が入っていました。
いつの間にか、自分には担任として求められていること、生徒にはこの学校の生徒として求められていることを求めるだけになっていました。
生徒からのサインと同僚の先生方からの助言でその事に気づきました。

自分は一人の人間として生徒に向き合おうと仕切り直したところです。泣きながら生徒に「ごめん」と言いました。生徒のことも、その感情や考えや一人ひとり異なる状況を理解した上で、声かけをしていこうと意識しているところです。だから毎日の雑談を大切にしています。お互い楽になったのか、笑顔が少し増えました。

クラスには色んな生徒がいます。自分の存在が無意味だと感じている子もいます。そういう子たちにはthat you areの姿勢で接して、that l amと少しでも感じてもらえるよう、手を尽くしていくしかないのでしょう。

連日の保護者対応で倒れそうですが、上手くリラックスして早く寝て、また明日から生徒に向き合っていこうと思います。
毎日試行錯誤です!
でもクラスの生徒は大切です。
(後略)





上で若い方は「雑談」と言っていますが、「雑談」こそは人間的な会話です。それが証拠に、家族や親友だとほとんど雑談しかしないでしょう(友人や知り合いレベルですと「面白い話」や「共通の話題」が必要になります)。

「雑談」とは、話をする者同士が、身体と心を解放させ、そこから自然と湧き出てくることばを、お互いに慈しみあうものでしょう。いわばお互いをそのまま認め合うことでしょう。

それに「雑」という文字が付けられたのは、ハンナ・アレントも言うように、仕事中心の社会が仕事以外の行為をすべて「雑」「無駄」とみなすからでしょう。

しかし、アレントも言うように、お互いの人となり (who you are) を開示し、認め合うことこそが人間らしい生き方であり、そこから生まれる活力 (power)を活かす事こそ民主的な社会です。








明確で限定的な目標のために行われる知識伝達講習なら別ですが(関連記事:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)、教育(特に公教育や義務教育)という営みは、人と人との間での営みであり、そこの基盤は人格的な受容と交流かと思います。特に昨今、さまざまな理由で自分を肯定できない若者が増えている学校では、知識伝達の前に、あるいは知識伝達の最中に、まずは人と人としての出会いがなければ学習も成り立たないかと思います(もちろん、その人格的な出会いさえ困難な学校があることも承知しています)。

そうなると学校においては、教師と児童・生徒の間での、いわゆる「雑談」や「無駄話」こそ重要となるでしょう。また、教師間でも「雑談」や「無駄話」も大切でしょう。

実は「雑談」は「雑談」ではなく、人間的な活動なわけですから。それを「無駄」というのなら、友情・愛情や生きていること自体が「無駄」とすらなりかねません。

無論、学校も機能社会の産物ですから、そこでは「仕事」―児童・生徒なら学習、教師なら授業を筆頭にしたさまざまな業務― が中心になります。しかし、そこばかりにしか目を向けず、仕事の効率の最大化しか考えないような「頭のいい人」が管理的な立場にたって、学校を「合理化」すると、そこはそこで行われる「仕事」に適応できる者だけの場所となり、どんな子どもも未来の市民として大切に育てるという公教育・義務教育の責務は損なわれてしまいます。

たしかに「仕事」としての授業は、あたかもコンピュータ間のデータ移送技術を効率化するように、どんどんと合理化し効率化できます。しかし、それが授業や教育のすべてだと勘違いしたら(そういった技術改善が教育学のすべてだと勘違いしたら)、それは大きな災厄を招きます。

「頭のよい人」や「地位のある人」が善意や正論で引き起こす災厄は、市井の人が起こしうる災厄よりも、はるかに大きなものとなりえます。

学校教育という営みは、やはり人間の営みであるという当たり前のことを、今一度、いや何度も、力説しておかねばならないと最近つくづく思います。