2012年1月24日火曜日

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から




研究社に提出する学習英文法の原稿に「言語の記号的理解と身体的理解」という表現を使ったので、それについてちょっと詳しく書いておこうと思っていたら、そのためには『論考』についてまとめておかねばならないと考え、先日「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」という記事を書きました。

本日はやや体調もよく、時間も少し取れそうなので、その記事を受けてようやく「言語の記号的理解と身体的理解」についてまとめようと構想を練り上げていましたら、やはりウィトゲンシュタインの『哲学的探究』をもう一度きちんと読み直さないといけないと思い始め、黒崎宏先生による『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』(1994年、産業図書)を読みウィトゲンシュタインの議論の流れを追いながら、注目すべき箇所のPhilosophical Investigationsで英訳とドイツ語原文をチェックし始めました。

黒崎先生の翻訳が親切なこともあり(注)、かなり引きこまれ ―ということは、かなり自分でも考えさせられながら― 読んでいくと、88節までで私が本日勉強できる時間がなくなりました。もともとは「言語の記号的理解と身体的理解」というタイトルで記事をまとめるための『探究』再読ですが、この小さな読解はそれなりに小さくここでまとめておくべきかとも思い始めました(てか、そうしないと来週の講義に間に合わない)。もちろん『探究』についてまとめるにせよ、本来なら、この翻訳に従って適宜英訳とドイツ語原文を参照しながら、せめて『探究』の第一部(693節まで)を全部読んでからまとめるべきでしょうが、まったくの自転車操業で勉強する時間がなかなか取れませんし、取れたら取れたで、その時には体力が果てていたりすることが多いので、ここでウィトゲンシュタイン後期代表作である『探究』の1-88節の部分を、特に『論考』との関連からまとめておくことにします。(←前置き長い。早く要点だけ述べろ!)

なお、『探究』からの引用に関しては、原文と英訳(上記本のAnscombe, Hacker & Schulteの もの)も掲載しましたので、日本語訳に関してはやや意訳気味に思い切って訳した拙訳を掲載しています。ただ67節などでは少々ドイツ語理解に自信が持てないところがあります。もし誤りが見つかればどうぞご指摘下さい。



***





■『論考』の意味論の確認

ウィトゲンシュタインは、『探究』の最初の節に、アウグスティヌスの言語観を引用することで、彼が『論考』で取っていた意味論を確認します(『論考』に関しては「野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)」の記事をご参照下さい)

「子どもは、周りの大人が「これが○○だ」と呼ぶのを聞いて言語を獲得するのだ」というアウグスティヌスの素朴な(そして誤った)考えを受けて、ウィトゲンシュタインは、自分がこの『探究』で乗り越えようとする『論考』の意味論を次のようにまとめます。



1.
[アウグスティヌスの]これらの言葉には、人間の言語の本質に関する一つの考えが表されているように私には思える。つまり「言語において、単語とは対象の名であり、文とはそのような名の結合である」という考えである。 言語についてのこの考えの中に、あなたは次の観念の根を認めるかもしれない。つまり「それぞれの単語には一つの意味がある。この意味は単語に連結している。この意味とは、その単語が表している対象である」という観念である。


1.
In diesen Worten erhalten wir, so scheint es mir, ein bestimmetes Bild von dem Wesen der menschlichen Sprache. Nämlich dieses: Die Wörter der Sprache benennen Genstände -- Sätze sind Verbindungen von solchen Benennungen. -- In diesem Bild von der Sprache finden wir dir Wurzeln der Idee: Jedes Wort hat eine Bedeutung. Diese Bedeutung ist dem Wort zugeordnet. Sie ist der Gegenstand, für welchen das Wort steht.


1.
These words, it seems to me, give us a particular picture of the essence of human language. It is this: the words in language name objects -- sentences are combinations of such names. -- In this picture of language we find the roots of the following idea: Every word has a meaning. This meaning is correlated with the word. It is the object for which the word stands.


この意味論にどう反駁し、これを越える意味論・言語論をどう展開するかが『探究』であると言っても過言ではないかと思います(やはり『論考』と『探究』は合わせて読まれるべき本なのでしょう。どちらも一筋縄ではゆかない本ですが。)




■単純な名指しだけで言葉を獲得するためには・・・

ウィトゲンシュタインの批判は、「これが○○だ」といった定義方法(「直示的定義」)で子どもは次々に着実に言葉を獲得することはない、というものです。なぜなら「これが○○だ」の「これ」が何のを指しているのか、そのどの側面を意味しているかは、一義的には決定されないからです。例えば二つのリンゴを指して「これが『2』だ」(=「コレガ『ニ』ダ」)と言っても、子どもはこの特定のリンゴを「2」(=『ニ』)と思うかもしれません。あるいはこの大人は今、果物のことを話していると思うかもしれません。あるいは「食べ物」のこと、あるいは「色」のこと、と思うかもしれません。

既に(少なくとも)第一言語を獲得している私たちには、このような懐疑はいかにもとってつけたもののように思えるかもしれません。しかしここでウィトゲンシュタインが行おうとしていることは、究極のレベルでの名指し ―『論考』で彼自身が「対象」と「名」の間に成立させようとした名指し― は、それだけでは成立せず、他の言語表現に既に習熟していることを必要としていることを、戯画的に示すことです。

誤解を避けるために、大人は他のミカンや本などを指しつつ「これも『2』だ」と言って、彼が意味しているのは「果物・食べ物」でも「色」のことでもないことを示そうとしながら、「この『数』が『2』である」と説明するかもしれません。これなら誤解のしようがないようですが、この直示的定義には「数」という語が導入されています。この直示的定義を理解するためには、子どもは子どもなりに「数」とは何かを既に理解しておかねばなりません。そして「数」を理解しておくためには、他の多くの言語概念を知っておかねければならないというのが、ウィトゲンシュタインが『論考』でわずかに示し(3.26およびその補助命題)、この『探究』で全面的に展開しようとする論点です。

さて、このように定義の中に別の(定義を必要とする)語を導入するというやり方で、なんとか理解ができることにしたとして(つまり、子どもは言語獲得の複合的循環性という矛盾を、なんとか周りの大人に支えられながら言語使用することで解決する、として)、それではどの語を定義に導入するか、「数」でいいのか、それとも他の語なのか、という問題が浮上するように思えるかもしれません。

しかしそのいわば「究極の説明語」とは何か、ということを脱文脈的に、一般論・抽象論として考えてしまっては出口を失ってしまいます。他の何も必要としない語(『論考』でいうところの、単純な「対象」、そしてその「名」)はないからです。

何をもって説明とするかは、その文脈およびその人次第です。説明がうまくいくか、いかずに誤解を受けるかは、予めはわかりません(もちろん、人は過去の多くの類例経験からある程度の推測をすることはできますが)。

単純に言い切ってしまえば、どんなに素晴らしい説明をしたと教師が思っても、生徒が実際にその説明された事を実践してみなければ、その生徒がきちんんとその事を理解し獲得したかどうかはわからないのです。

いや、それどころか、その生徒が教師の素晴らしい説明を丸暗記していたとしてもその生徒がきちんと理解し獲得しているかどうかはわかりません。なぜならその生徒は自分自身が暗記しているその説明の解釈や適用において誤るかもしれないからです。

具体的な文脈の中で、 他の言語使用者と共に言語使用を重ねることでしか、言語理解の適切さ、ひいては言語獲得はわかりません。人は言語獲得をしてその後に言語使用をするのではなく、言語使用の中で言語獲得をしてゆく(逆に言えば、言語獲得の試みの中で言語使用をしてゆく)のです。学習者の実際の言語使用抜きに、いくら教師の言語説明の良し悪しを語ってもそれは的を外しています。

ウィトゲンシュタインはこう言います。


29.
「2」を直示的に定義する時に「数」という言葉が必要になるかどうかは、その語がないと説明を受ける人が、あなたが思った定義とは違うように誤解するかどうかによって決まる。また、これは定義が与えられた状況次第でもあるし、誰が説明を受けるかどうか次第でもある。

説明を受ける人がどのように誤解するかは、その人が説明された語をどのように使用してゆくかに自ずと示される。

29.
Ob das Wort "Zahl" in der hinweisenden Definition der Zwei nötig ist, das hängt davon ab, ob er sie ohne dieses Wort anders auffaßt, als ich es wünsche. Und das wird wohl von dem Umsänden abhängen, unter welchen sie gegeben wird, und von dem Menschen, dem ich sie gebe.

Und wie er die Erklärung 'auffaßt', zeigt sich darin, wie er von dem erklärten Wort Gebrauch macht.


29.
Whether the word "number" is necessary in an ostensive definition of "two" depends on whether without this word the other person takes the definition otherwise than I wish. And that will depend on the circumstances under which it is given, and on the person I give it to.

And how he 'takes' the explanation shows itself in how he uses the word explained.


言語獲得や言語教育は、具体的文脈抜きの超越論的な一般論として語られるべきでなく、具体的な文脈の中の具体的な人間の問題として語られるべきというのが、ウィトゲンシュタイン的考えになろうかと思います。




■個人の言語獲得も、言語共同体での歴史的な問題

かくして第一言語を獲得しようとする子どもの周りの大人、および第二言語を学習しようとしている生徒の教師は、その子ども・生徒にわかりやすいような例でもって言葉の説明を行います。しかし誤解を避けるには、複数の例があった方がいいでしょう。大人・教師は、子ども・生徒の反応を見ながら次々に例を提示するかもしれません。

やがて子ども・生徒は「わかった!」と叫ぶかもしれません。そして実際、その子ども・生徒は、それ以降の使用でことごとく適切な言語理解をするかもしれません(もちろん現実には間違いもおかすでしょうが、ここでは議論を簡単にするために、その子ども・生徒はその後適切な言語使用をするようになったとさせてください)。

この時、私たちはその子ども・生徒が何か深遠なものを獲得したと考えたくもなります。その子ども・生徒が、未来の無数の言語使用においても常に通用するような真理か何かを会得したというわけです。

しかし、それは考え過ぎでしょう。後でも再び述べるつもりですが、言語の意味も使用もある面で拡張されたり(端的な例はメタファー)、ある面で衰退したりと、時間的に変遷しうるからです。また、前にも述べましたように、子ども・生徒は、自分の理解の解釈・適用において誤ることがありうるからです。その自らの理解に関する自らの誤りは、言語共同体の他の複数のメンバーの指摘を待つしかありません。

だからこの「わかった!」というのは、子ども・生徒が何か超時間的な真理を個人的に獲得したことを示しているのではなく、単にその子ども・生徒が、これからその言語共同体でうまくやってゆける自信を持ったことを示しているだけに過ぎません。その自信が適切なものなのかそれとも単なる過信なのかは、言語共同体の中で時間をかけながら一回一回と言語使用を重ねてゆくしかありません。言語獲得とは、言語共同体での歴史的な問題なのです。言語獲得は、個人的で瞬時に成立するものではありません。

だから、誰にでも一回与えればそれで済む完璧な説明などというものはありません。もちろん完璧な説明がないからといって、どんな説明も同じようなものだとか、説明などは一切いらないとはなりません。場面や人によってよりよい説明というのはあるでしょう。しかしここで確認しておきたいのは、大人・教師が、子ども・生徒に適したと考える例をいくつか出して、子ども・生徒に実際に言語を使わせてみて、その様子を観察するということは決して理に適わないことではないのです。むしろ、完璧な説明を求めて右往左往すること、あるいは完璧な説明を得たと思い込んで、それを子ども・生徒に詰め込もうとすることの方が無理筋と言えましょう。



71.
人はいくつか例を与え、そしてそれらの例がある意味で理解されることを望む。 -- しかしこう言ったからといって、それらの例を聞いた人が、私が何かの理由で表現できない共通要素を見て取るに違いないなどと私は言いたいのではない。そうではなく、例を聞いた人は、これらの例をあるやり方で使用するようになるだろう、と言っているのだ。この例示というものは、きちんとした説明ができないから、説明を間接的なやり方でやったとかいうものではない。なぜならば、どんな一般的な説明というものも、誤解されうるからである。私たちはまさにこのようにして(言語ゲームという)ゲームを行うのである。


71.
Man gibt Beispiele und will, daß sie in einem gewissen Sinne verstanden werden. -- Aber mit diesem Ausdruck meine ich nicht: er solle nun in diesen Beispielen das Gemainsame sehen, welches ich -- aus irgend einem Grunde -- nicht aussprechen konnte. Sondern: er solle diese Beispiele nun in bestimmter Weise verwenden. Das Exemplifizieren ist hier nicht ein indirektes Mittel der Erklärung, -- in Ermanglung eines Bessern. Denn, mißverstanden kann auch jede allgemeine Erklärung werden. So spielen wir eben das Spiel. (Ich meine das Sprachspiel mit dem Worte "Spiel".)


One gives examples and intends them to be taken in a particular way. -- I do not mean by this expression, however, that he is supposed to see in those examples that common feature which I -- for some reason -- was unable to formulate, but that he is now to employ those examples in a particular way. Here giving examples is not an indirect way of explaining -- in default of a better one. For any general explanation may be misunderstood too. This, after all, is how we play the game. (I mean the language-game with the word "game".)


と、上の引用では「言語ゲーム」という用語が登場してしまいました。次はこのウィトゲンシュタインの用語を簡単に解説します。




■『論考』の単一的な言語観から、『探究』の多様な言語観へ

前期の『論考』におけるウィトゲンシュタインは、世界を記述する論理的な言語をもっぱら考察し、その完璧の(あるいは究極の)説明や単位を求めていました。後期の『探究』は、ウィトゲンシュタインがその枠組から自らを解放し、言語のあり方、説明や単位のあり方の多様性を見るようになった作品とも言えるかと思います。

ウィトゲンシュタインは、『論考』時代の自分のような人物を『探究』に時折登場させ、その人と対話します。65節では、その登場人物に、言語の本質を明らかにしようとしないウィトゲンシュタインは「安易な道を歩んでいる」のだと批判させます。

以下はウィトゲンシュタインの返答です。


65.
実際その通りである。 -- 私達が言語と呼ぶものすべてに共通するものを提示する代わりに、私は、この言語と呼ばれる現象には、ある一つの共通要素があり、それにより私たちは等しく「言語」という言葉を使っているのではない、と言っているのだから。言語と呼ばれる現象は、互いに様々な方法で使用されているだけである。この使用 ― いや様々な使用というべきか ― ゆえに私たちはこれらの現象をすべて「言語」と呼んでいるのだ。


65.
Und das ist wahr. -- Statt etwas anzugeben, was allem, was wir Sprache nennen, gemeinsam ist, sage ich, es ist diesen Erscheinungen gar nicht Eines gemeinsam, weswegen wir für alle das gleich Wort verwenden, -- sondern sie sind mit einander in vielen verschiedenen Weisen verwandt. Und dieser Verwandtschaft, oder dieser Verwandtschaften wegen nennen wir sie alle "Sprachen".


65.
And this is true. -- Instead of pointing out something common to all that we call language, I'm saying that these phenomena have no one thing in common in virtue of which we use the same word for all -- but there are many different kinds of affinity between them. And on account of this affinity, or these affinities, we call them all "languages".


時間的な積み重なりと、言語共同体による承認を要する、歴史的で共同体的な言語使用において言語獲得を考えようとするウィトゲンシュタインの言語観は、決して超時間的・無時間的なものでも個人的なものでもありません。多くの近代言語学は「共時的」(synchronic)という前提で時間的推移を考えなかったり、時には言語獲得を瞬時に行われるものとするという仮定を導入したりもしました。さらには言語を「個人心理学」の問題ともしました。しかし、ウィトゲンシュタイン的に考えるなら、言語も言語獲得も言語教育も、言語使用に即した歴史的で共同体的なものとして考えるべきとなります。「真理」は、神のイメージに即するなら、神という個体が所有する超時間的・無時間的なもののように思えるかもしれませんが、人間の言語に関する事実は個人的なものでも超時間的・無時間的なものでもありません(参考記事:「アレントによる根源的な「個人心理学」批判」「「政治」とは何であり、何でないのか」)。たとえこれまでの人間の歴史を鳥瞰してその中に常に成立している「真理」が発見されたとしても、その「真理」が未来永劫続くかどうかはわからないというのが、進化論的考え方でもあるかと思いました。

話が大きくなりました。ウィトゲンシュタインに戻ります。次は「親族的類似性」という用語です。




■ある語は、必ずしも一つの共通要素ではなく、直接・間接の関連でつながる、と考えるべき


例えば「言語」という語が、様々に使用されながらも、その多様性にもかかわらず同じように「言語」と呼ばれる現象は、単純な集合論的な発想を取れば矛盾です。すなわち「言語」の集合に属する、言語の使用例(U1, U2, U3, ...Un)はすべて言語の集合に共通の要素をもっていなければならないと発想するからです。

しかしウィトゲンシュタインは、そのU1, U2, U3, ... Unは、いわば一つの親族(広い意味での家族)のメンバーみたいなものだと考えます。「○○家」と呼ばれる親族メンバーがいくつかの分家などを経験しながらも、まだ「○○家」としてのまとまりを失わずに、「○○家」という言葉が使われている時、その○○家の構成メンバーの全員がすべて同じ特徴をもっているわけでもないでしょう。

記号的に表現するなら、U1, U2, U3, ... Unにすべて同じ特徴Xが共有されているわけでは必ずしもなく、U1, U2, U3, ... Unの7割のメンバーが例えばAという特徴をもち、他のメンバーの組み合せで合計6割の○○家メンバーがBという特徴をもち、あるメンバー番号周辺にはCという特徴が固まっているかと思えば、Dという特徴はメンバー全体にまんべんなく散らばっているといったように、様々な特徴が重なりあい、離れあっているのが○○家の実態ではないでしょうか。

ウィトゲンシュタインは、もっと単純なメタファー(「糸」)を使い、「親族的類似性」を次のように説明します("Familienähnlichkeiten" ("family resemblances"))は通常「家族的類似性」と訳されていますが、ここで意味されているのはいわゆる大家族的な意味での家族だと思いますので、私はここでは「親族」と訳しています)。



67.
この類似性を表すのに、私は「親族的類似性」以上の言葉を思いつくことができない。というのも、多様な類似性は、一つの親族の異なるメンバーの間で重なりあい、離れあいながら成り立っているからである。例えば、体格、顔つき、眼の色、歩き方、気質などである。さらに私はこう言いたい。「ゲーム」も一つの親族を構成しているのだ。

同じように、例えば数の種類も、一つの親族を構成している。私たちはなぜあるものを「数」と呼ぶのだろう。それは「数」と呼ばれるものには、私達がこれまで数と呼んでいたもののいくつかと、ある直接の関連があったからである。このことによって、それには私達が数と呼んでいたもの他の数と間接的な関連があると言うこともできる。私たちが数の概念を拡張するのは、私たちが繊維と繊維をより合わせて糸を紡ぐやり方にも似ている。糸が強いのは、何か一本の繊維が糸の端から端まで貫いているからでなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているからである。


67.
Ich kan diese Ähnlichkeiten nicht besser characterisieren, als durch das Wort "Familienähnlichkeiten"; denn so übergreifen und kreuzen sich dier verschiedenn Älichkeiten, die zwischen den Gliedern einer Familie bestehen: Wuchs, Gesichtszüge, Augenfarbe, Gang, Temperament, etc. etc. -- Und ich werde sagen: die 'Spiele' bilden eine Familie.

Und ebenso bilden z. B. die Zahenarten eine Familie. Warum nennen wir etwas "Zal"? Nun etwa, weil es eine - direkte - Verwandtschaft mit manchem hat, was man bisher Zahl genannt hat; und dadurch, kann man sagen, erhält es eine indirekte Verwandtschaft zu anderem, was wir auch so nennen. Und wir dehnen unseren Begriff der Zahl aus, wie wir beim Spinnen eines Fadens Faser an Faser drehen. Und die Stärke des Fadens liegt nicht darin, daß irgend eine Faser duruch seine ganze Länge läft, sondern darin, daß viele Fasern einander übergreifen.


67.
I can think of no better expression to characterize these similarities than "family resemblances"; for the various resemblances between members of a family -- build, features, color of eyes, gait, temperament, and so on and so forth -- overlap and criss-cross in the same way. -- And I shall say: 'games' form a family.

And likewise the kinds of number, for example, form a familiy. Why do we call something a "number"? Well, perhaps because it has a - direct -affinity with several things that have hitherto been called "number"; and this can be said to give it an indirect affinity with other things that we also call "numbers". And we extend our concept of number, as in spinning a thread we twist fibre on fibre. And the strength of the thread resides not in the fact that some one fibre runs through its whole length, but in the overlapping of many fibres.





■様々な言語ゲームの変遷的集積としての言語

以上のような考えをもつ後期ウィトゲンシュタインは、言語を、多様な言語使用の集積と考えます。さまざまな面で、直接的・間接的に相互に関連している言語使用の集積です。さらには、時代によって流行り廃りなどの変遷を経て、閉じた集合を形成していない、未来の可能性に開かれた言語使用の集積です。

加えて、ウィトゲンシュタインは、言語使用を「言語ゲーム」と名づけることにより、言語使用とは、単に言語を形式的に操作することではなく、言語を使うことによって私たちが私たちの暮らしを豊かにするものだということを印象づけようとしています。

以下の23節には、ウィトゲンシュタインがあげた言語ゲームの例が本当は続くのですが、この引用ではそれらの例は省略しています。ウィトゲンシュタインに頼らずに、私たちの暮らしの中での言語使用の多様性を思い起こすことが、言語教育の充実のためにも重要かと思います。



23.
しかし文にはいくつ種類があるというのだろうか。平叙文、疑問文、命令文の三種類だろうか。いや数え切れないほど種類があるというべきだろう。私達が「記号」「単語」「文」と名づけるものすべてを考えるなら、そこには数えきれないほどのさまざまな種類の「記号」「単語」「文」の使われ方があるのだ。しかし、この種類の多さは、一度にすべてが与えられて定まったものではない。そうではなくて、新たな類の言語、新たな言語ゲームとでもいうべきものが現れ、他方で他の言語ゲームが古くなり忘れ去られるのだ。(この変遷は、数学の変遷に似ていないこともない)。

「言語ゲーム」という表現を使うのは、言語を話すということは、私たちの営み、暮らしの一部であるということを言いたいがためである。

言語ゲームの種類の多さを、以下の例、およびその他の例によってよく考えてほしい。


23.
Wieviele Arten der Sätze gibt es aber? Etwa Behauptung, Frage und Behehl? Es gibt unzählige solcher Arten: unzählige verschiedene Arten der Verwendung alles dessen, was wir "Zeichen", "Worte" "Sätze" nennen. Und diese Mannigfaltigkeit ist nichts Festes, ein für allemal Gegebenes; sondern neue Typen der Sprache, neue Sprachspiele, wie sagen können, entstehen und andre veralten und werden vergessden. (Ein ungefähres Bild davon können uns die Wandlungen der Mathematik geben.)

Das Wort "Sprachspiel" soll hier hervorheben, daß das SprechenSprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebensform.

Führe dir die Mannigfaltigkeit der Sprachespiele and diesen Beispielen, und andern, vor Augen:

23.
But how many kinds of sentence are there? Say assertion, question and command? -- There are countless kinds; contless different kinds of use of all the things we call "signs", "words", "sentences". And this diversity is not something fixed, given once for all; but new types of language, new language-games, as we may say, come into existence, and others become obsolete and get forgotten. (We can get a rough picture of this from the changes in mathemetics.)

The word "language-game" is used here to emphasize the fact that the speaking of language is part of an activity, or of a form of life.

Consider the variety of language-games in the following examples, and in others:



他の言語使用者と共に言語ゲームを覚え、さらに新しい言語ゲームを覚えて一つ一つ重ねながら、同時に、重なり合わないところを拡張する部分としながら、自らの言語を広げてゆく。どの時点でも自らの言語がそれなりに完結していながら、決して閉じられておらず、自分の言語が少しずつ広くなり変化もしてゆく。それと同時に自分にとっての言語共同体も少しずつ広くなり変化もしてゆく。そしてこれらの流れの中で質的な変化も生じてゆく -- うまく言えませんが、こんな歴史的で共同体的な言語観を、ウィトゲンシュタインに倣いながら、もう少し自分の中で熟成させたいと思います。








(注)

黒崎先生は、例えば『探究』の中でも最も引用される43節を「或る語の意味とは、言語ゲームに於けるその語の使用である」と翻訳しています。

この箇所の原文は、"Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache."ですしAnscombe, Hacker & Schulteの英訳でも"the meaning of a word is its use in the language."ですから、黒崎先生が「言語ゲーム」と翻訳されたところは直訳的にいうなら「言語」に過ぎません(藤本隆志訳でも「言語」となっています)。しかし、黒崎先生がおっしゃるように、ウィトゲンシュタインの議論からすればここはあくまでも「言語ゲーム」での使用について語っているのであり、ウィトゲンシュタインは例えば第7, 65, 116節などでも「言語ゲーム」と言うべきところを単に「言語」としか言っていないので(黒崎(1994)、34ページ)、ここも「言語ゲーム」と翻訳すべきかと思いました。


黒崎先生は、この『ウィトゲンシュタイン哲学的探求 第I部 読解』について次のように自ら説明しています。


本書は、そのような『探求』を、私が理解したと思うところに従って、(独断や偏見であるかもしれないという事を恐れずに、)言葉を補いながら徹底的に読解をし、解きほぐそうとしたものである。それ故、本書は、解説と言うには説明が少なすぎるが、翻訳と言うには挿入が多すぎるし、原文から離れすぎている。したがって本書は、普通の意味では、翻訳ではない。(3ページ)。


「普通の意味での翻訳ではない」と言うものも、気になる箇所は原文や英訳を参照すればいいわけですから、この黒崎先生の「読解」は、『探究』への一つのアプローチとして優れたものだと思います(現在、品切れ状態のようなのが残念です)。




追記

細かいことをついでに申し上げておきますと、私はこの"Philosophische Untersuchungen" ("philosophical investigation")を『哲学的探究』と通常訳しています。『探求』と訳さないのは、ウィトゲンシュタインはこの本の中で、物事を哲学的に「究」明しようとはしていても、何か(答えのようなものを)を「求」めてはいないだろうと考えるからです。さらに個人的にはウィトゲンシュタインを読み始めた頃に、柄谷行人の『探究 I』『探究 II』を何度も読んで影響を受けたので「探究」という語の方に親しみを感じているということがあります。










2012年1月21日土曜日

まとまった文書の作成法




以下の説明は、レポートや研究発表などのある程度まとまった文書を書く方法を、学部一年生に対して説明するためにまとめたものです。

いきなりワープロソフトを立ち上げて、まとまった文書を書こうとしてもまず失敗します。私もこの稼業についてある程度の年月を過ごしていますが、ある程度まとまった文章を書こうと思えば、必ず以下のような手順で、少しずつ自分の思考を段階的に視覚化してから書き始めます。結局はこのような手順を踏んだほうが早く、良い文章を書けるからです。

甘い先生でしたら、いきなりワープロに書きつけたような文章でも単位を出してくれるかもしれません。しかしそのような文書作成では、あなたの分析力は高まりませんし、思考力も深まりません。単位は得ることはできても、あなたの知的成長がないといしたら、私はその「勉強」は時間の無駄だと思います。

単位のためでなく、自分のために、以下のような手順を踏んで、丁寧に考え、丁寧に文書を作成することを教師としてはお勧めする次第です。



1 キーワード: キーワードを整理する

1.1 アンダーライン: これまでに読んだ資料や取ったノートのキーワードにアンダーラインを引く

1.2 キーワードを書き出す: アンダーラインを引いたキーワードの中でも特に今回の文章にとって重要なキーワードを、何か他の媒体に書き出す。

1.3 キーワードの分類を考える: 次の準備のために、それらのキーワードはどのようなグループに分けられるかを考えておく。


2構造的関係の二次元的表現: マインドマップなどの要領で、キーワードの構造的関係を、二次元平面で表現する

2.1 最重要キーワード: 今回、最重要だと思うキーワードを図の中央に書く

2.2 第二次キーワード: 最重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第二次重要キーワードとして選び、それらを最重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。

2.3 第三次キーワード: それぞれの第二次重要キーワードに直接関連する複数のキーワードを、第三次重要キーワードとして選び、それらを第二次重要キーワードの周辺に並べて線でつなぐ。

2.4 キーワードの追加: 以上の過程で、新たに必要なキーワードが見つかったら、たとえそのキーワードがこれまでに読んだ資料や取ったノートになくとも、そのキーワードを付け足してゆく。

2.5 必要に応じての再編成: 以上の過程で、最初に想定していたキーワードの親子関係(最重要-第二次重要-第三次重要)の間の結びつきよりも強い結び付きが、別の親子関係に属するはずのキーワードとの間にあまりにも多く見つかったら、それはそのマインドマップに改変の余地があることを示しているので、新しい媒体(紙やファイル)で2.2からさらに始める(ただし古い媒体も保存しておくこと。作業をするうちに古い媒体での表現の方がやはりよかったと思い直すことはたまにあるから)。

2.6 キーワードの順番づけ: 次の準備のために、この二次元平面で表現したキーワードの構造関係を、話して説明するという時間的順番で説明するとしたら、どういった順番になるかを考えておく。


3 構造的関係の時間的表現: 桁番号付きの命題で、キーワードの構造的関係を、説明する時間的順番で表現する。

3.1 文書全体のタイトルの決定: 最重要キーワードについて、結局何を言いたいのかを命題で表現する。つまり単に最重要キーワード「X」の語だけを書くのではなく、「XはYである」や「XはYをZする」などの文の形で表現する。これがあなたの文章のタイトルの原形となる。

3.2 一桁命題の作成: そのタイトル命題を、説明するいくつかの柱を、一桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの一桁命題を順番に語れば、あなたがタイトル命題で言いたかったことがよくわかるように、一桁命題を作り並べる(必要に応じて作り替え並び替える)。

3.3 二桁命題の作成: それぞれの一桁命題をもう少し詳しくするためのいくつかの柱を、二桁命題として説明する順番に並べる。つまり、それらの二桁命題を順番に語れば、あなたが一桁命題で言いたかったことがよくわかるように、二桁命題を作り並べる(必要に応じて作り替え並び替える)。

3.4 必要に応じての桁数の追加: 必要に応じて三桁命題も同じように作る。だが、無理に作る必要はない。また四桁命題までつくると、文章の構造が複雑になりすぎるため、四桁命題は作らないことを原則とする(作ったとしても、他人に読ませる文章には必ずしも表示しない)。

3.5 口頭で語る: 書き上げた命題集を、一桁レベルの命題だけを使ってうまく口頭で説明できるか確かめる。次に二桁レベルまで語ってうまく口頭で説明できるか確かめる。三桁レベルまであれば、もちろん次に三桁レベルまで語って確かめてみる。


4 文書作成: 文章を書き始め、文書を完成させる。

4.1 命題文を段落文にする: できあがった桁番号付き命題を、文書の骨格(構造図)として、それぞれの命題を見出しにして、その見出しを説明する文章を段落で書く。段落は複数になってもかまわない。

4.2 段落内・段落間での整合性確認: 一度書き上げたら、書いた文章が、それぞれの命題内容を忠実に反映しているか、またその命題の他の命題との構造的関係を乱すものになっていないかをチェックし、必要に応じて書き直す(2と3の作業がいい加減だと、この段階で文書が破綻していることがわかるので、2と3の作業 (特に3.5) は丁寧にやっておくこと)。

4.3 細かな作業: 書き上げたら校正をして、脚注や参考文献などを加える。

4.4 さらに細かな作業: (コンピュータで書く場合)さらにフォントの種類や大きさなどを調整する(逆に言うなら、これまでの執筆では細かなことにあまり拘らずとにかく内容に集中して書く)。この意味で、4.2までの執筆はテクストエディターで行い、4.3から初めてワープロソフトを使う(テクストエディターの文章をコピー・アンド・ペーストする)ようにすることを勧める。


以上




なお、まとまった文書を作成する場合のテクストエディターとしては、私はWZ EDITORをお勧めします。アウトライン機能が非常に便利で上記の「3.1 - 4.2」を簡単にできるからです。(ちなみに私はWZ EDITOR 5の版のままですが、これでまったく問題は感じていません)。

また、最初の段階からワープロソフトを使うことを私が勧めないのは、現在、標準的ワープロソフトとして使われているMS Wordが、あまりにもお節介で不安定な使いにくいソフトだからです。罫線機能は時に分けのわからない動作をしますし、コメント機能や脚注機能などはよくフリーズさえします(私は基本的にこれらの機能を使わないのですが、他人からの文書を編集しなければならない時に苦労します)。

文書を作る時は、あまりMS Wordの機能に依存した文書を作らず、テクストエディターだけでも表現できるような基本的構造の簡潔さ、ひいては論理の明確さで、わかりやすい文書を作ることを目指すべきだと思います。



■関連記事

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学術論文における一人称(I/we)の使用




今、卒論と修論のチェックをしているのですが、こういった学術論文における一人称(I/we)の使い方がやはり気になります。

最近の傾向としては、「『学術論文では一人称(I/we)を使わない』というのは神話だ!」として、積極的に一人称の使用を勧めているみたいですけど、やはりあまりに一人称がこのジャンルで多用されていると、ちょっと奇異。

今年初めてライティングの教科書として使ったJ. Williams & G. Colomb (2010)の Style: The Basics of Clarity and Graceでは、学術論文における一人称(I/we)の使用について次のようにまとめています。



They [=Academic writers] do use the first person with verbs that refer to the writer's own writing and thinking: cite, show, inquire. These verbs are often active and so in the first person: We will show ... They are examples of what is called metadiscourse.

Metadiscourse is language that refers not to the substance of your ideas, but to yourself, your reader, or your writing.
J. Williams & G. Colomb (2010, p. 31)



Metadiscourseについてはここにも解説があるけど、私なりに言い換えれば、論文のトピックについての「語り」 (=discourse) に「ついての」 (=meta) 著者の見解・態度・判断・方向づけなどを示す「語り」が「高次の語り・一段階高い所からの語り」 (=metadiscourse) であるとなりましょうか。

Metadiscourseの典型例でしたら、調査結果を報告した後に、積極的に著者の独自の解釈・結論を示したい時の"We claim"や"We conclude"などになりましょうか。こういった場合に一人称は積極的に使われるわけです。


これに対して、著者独自の考えなどではなく、研究を行う者なら誰でもやるような調査手続きなどに関しては、いちいち一人称を使わず、受動態で表現することが多いとWilliams & Colombは言います。


On the other hand, scholarly writers generally do not use the first person with verbs that refer to specific actions they performed as part of their research, actions that anyone can perform: measure, record, examine, observe, use. Those verbs are usually in the passive voice: The subjects were observed...
J. Williams & G. Colomb (2010, pp. 31-32)



まあ、日本語で考えてみても、日本語はだいたい一人称を始めとした人称表現はあまり使わなくても済む言語だけれど、それでも学術的な論文で「この分析結果の中で、私が特に注目したいのは・・・」などと「私」という表現を使うのは別にかまわないでしょう(もちろん「この分析結果の中で特に注目に値するのは・・・」といった表現の方が多いでしょうけど)。

しかし論文の中でいちいち「次に、私は○○を測定した。その後、私はその測定結果を前節の△△の分析結果と比較した。つまり私は○○と△△を実証的に検討したのである」などと書けば、その日本語は相当に「ウザイ」ものとして聞こえるでしょう。

英語は日本語と比べると、はるかに人称表現を使う言語ですが、それでも、個人的な話ではなく客観的な内容について語る学術論文では、著者の独自性を示すべきところでこそ一人称を使って"Agent-Action"(あるいは"Character-Action")で表現すべきであり、他の客観的な内容については受動態などの"Topic-Comment"のパターンで表現しておく方がいい、とまとめられましょうか。(別の言い方をしますと、通常は"Topic-Comment"のパターンで淡々と研究内容について述べているからこそ、いざという時に使う"Agent-Action"パターンが活きる、となります)。


もちろんこういった使い分けは、厳密な規則(rule)ではなく、だいたいの原則(principle)ですから、上の引用を金科玉条のように振りかざすのは愚かなことです。結局は、多く学術論文を英語で読み、だいたいどのように一人称が使われているかを感覚としてつかんでおく必要があります。

もちろん、多くを読んで言語感覚を身につけておかねばならないというのは、人称に関する表現だけの話でなく、また学術論文というジャンルについてだけの話でもないのですが・・・。











2012年1月17日火曜日

平田オリザ先生のワークショップに参加して




本日(2012/01/17(火曜)、10:30-12:00)に広島大学大学院日本語教育学講座が開催した、劇作家・演出家平田オリザ先生(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)のワークショップに参加することができました。他講座の私にも参加を許してくれた日本語教育学講座の皆様と、講師の平田先生に厚く御礼申し上げます。

以下は、そのワークショップで私が聞いた平田先生の言葉を、私がワークショップで体験したこと、およびこれまで考え感じてきたことをもとにまとめたものです。


■演劇と言語教育の深い関係

言語教育関係者の集まりで、演劇の話題を出すと、「なぜそんな関係のない(あるいは薄い)話題を取り上げるのですか」といった冷たい反応を受けることがいまだに多いです。実際、数年前に私のゼミ生(演劇経験者)がスタニスラフスキーの演劇論を取り上げた時、周りからは「英語教育との関係は」と聞かれるだけでなく「学習指導要領のどこにそんなことが関連しているというのですか」などと聞かれて議論の中味の方についてはあまり話を聞いてくれないので、そのゼミ生も私も閉口した覚えがあります。(学習指導要領は、その時々の国の教育方針を共有する文書として尊重されるべきですが、その枠組や用語でしか物事を考えないことは言動の教条性・頑なさにもつながりかねないので注意すべきだと私は考えています)。 ―― ちなみに日本語教育界は国際学会でも平田先生を招待したりするなど、積極的に日本語教育の理解を豊かにしようとしているそうです。また平田先生も日本語教育だけでなく国語教育でもご活躍されているとのことです。英語教育界も、もう少し、頭を柔らかくしましょう!――

ともあれ、演劇に関して、多くの言語教育関係者は(あるいは一般市民は)、「何か特別なこと」と思っているふしがあります。「わざとらしい」「そんな演技をするな」という非難は、ひょっとすると演劇に関するあまりよくない含意を暗示しているのかもしれません。

しかし、平田先生がおっしゃった演劇・演技論を、私なりに言い換えて表現しますと、演劇とは、「自分とは異なる役の中にほんの僅かでもいいから自分の心身のあり方との共通点を見出し、そこからその役の心身を自分の心身で体現しようとする中で、自分の心身の新たな可能性を見つけること」となるかと思います。つまり言葉(戯曲)を通じての自己発見・自己開拓であり、これは文学を読むことの身体性をさらに発展させたもととして解釈できます。そう解釈すると、演劇・演技は決して特別なことではありません。なぜなら私たちは身体を媒体とせずには言語使用ができず、言語使用の可能性は(戯曲や小説などの)文学によっておそらくは最も豊かに広がり深まり展開するからです。

演技を、通念が考えるように「何か、一般に『それっぽい』とされている言動を、意識的に再現する」のではなく、平田先生は自分の人格と戯曲の役柄の共有部分から少しずつ自分の領域を開拓してゆくことと捉え、その展開を


「SympathyからEmpathyへ」


と表現されました。平田先生によれば、このうまい翻訳はなかなかないそうですが(平田先生はある翻訳表現を口にされたのですが、私はそれを失念してしまいました)、上記の意味でのこの表現を、私のいつもの悪乗りで自分なりの造語で翻訳するなら、

「覚感から体感へ」

ともなりましょうか。「なるほど、こんなところは私もあるかもしれない」と知する共通点を、自分のでも十分に感じることができるようにするからです。

さらに悪乗りして脱線しますと、この演劇という人工的に新たな自分を創りだそうとする試みは、「人間にとっての自然」とすら言えるかもしれません。

「人間にとっての自然」とは武術家の甲野善紀先生がよく使われる言葉で、私が最近再読した『剣の精神誌―無住心剣術の系譜と思想』 (ちくま学芸文庫)の最後でもこの論点が取り上げられておりました。

私たちはしばしば老荘思想的な「無為自然」を口にし、それをもって問題の解決にすべしと言いますが、私達にとって「無為自然」は果たして達成可能なこと(あるいは容易なこと)なのかと甲野先生は問いかけます。なぜなら私達人間は意識をもち言語をもち、さらにはその意識と言語をさまざまなテクノロジーで増大・増幅させるという一種の「業」をもっているからです。人間がこの「業」から離れることができないのなら、人間はもはや無垢の自然を求めることはできないわけです。それならば、業をもったままの「人間にとっての自然」あるいは「有為自然」を探究・開拓すべきなのではないかというのが(私の理解する限りでの)甲野先生のお考えです。

「人間にとっての自然」や「有為自然」という表現は、形容矛盾 (oxymoron) のように聞こえるかもしれませんが、本能でほとんどの行動が決定される他の動物と違って、人間は本能以外の文化で多くの行動を決める「自由」をもっていますから、これらの表現は人間にとってまさに本質的な課題を述べていると思えます。

話を演劇に戻しますと、演劇とは日常生活にはない戯曲という人工物をもってきて、そこに書かれてある他人の言葉を理解し身体化しようとする中で、新しい自分という自然 ―新たに獲得したが自在に使いこなせる心身― を得るという、「有為による自然」をつくりだす試み、「人間にとっての自然」を得る文化と言えるかもしれません。



■脚本を身体化するということ

平田先生のワークショップの中では、短い脚本を実際に演じてもらう箇所もありました。

ここで改めて演劇が言語教育・英語教育と無関係でないことを強調しますと、いわゆる「会話文」が多い中学校の英語教科書など、脚本ばかりの教科書と言えるかもしれません。ただ英語教科書の会話文は、(外国語という制限もあって)脚本というほどには言葉が練り上げられておらず、(挿絵は時々あるものの)ト書きのようにメタ言語的情報を提供する手段も十分ではありませんから、英語教科書を一種の「脚本集」と呼ぶにはためらいがあるでしょう。

ですから多くの英語教師は、残念ながら教科書を「標準的な発音」で機械的に音読するだけ(あるいは「発音」はCD録音かALTに委託するだけ)になっていますが、例えば佐藤綾子(さとう・りょうこ)先生などの、自然な感性を英語授業でも活かすことができる先生は、「正しく」「標準的」だけれども人格的な意味が伝わってこない音読を超えて、自然な(わざとらしくない)朗読を目指しています。英語教育の改善のためには、どの英語教師もこのような朗読ができるようにすべきでしょうから、英語教育にとって脚本をどう身体化するかという演劇の課題は決して無縁なものではありません。

平田先生は脚本の話し言葉を取り上げて、「話し言葉には書き言葉以上に個性が表れる」とおっしゃいます。書き言葉というのは、もともと人工的に作られて人工的に維持改良されている標準的な言語規範ですが、自然な話し言葉というのは個性にみちたものです。その個性を声で表現するためには、脚本の登場人物がどんな人間なのかというイメージや登場人物がおかれているコンテクストをありありと思い描かなければなりません。さらにはそのコンテクストの中にいる登場人物の内に入り込むように想像力を働かせなければならないでしょう。

ワークショップで使った脚本は、偶然同じ列車に乗り合わせた三人(二人組と一人)の短い脚本であり、この中でも「旅行ですか?」という何の変哲もない一行をどう表現するかを焦点として解説がありました。これに似た試みは英語教育でも「この"Oh!"をどう読むか」という実践などに見られます。だとしたら英語教育関係者は、こういった試みの大先達である演劇関係者の言うことにもっと謙虚に素直に耳を傾けましょう。 ―― 本や論文のタイトルに「英語教育」という言葉がついていないと読みもしないという偏見はいいかげんに捨てましょうね。「忙しくて他の分野のものまで読めない」のなら、「英語教育」とは名がついてもくだらない本や論文を見極めてそれらを読まないことによって時間を作り出して、積極的に他の分野に学びましょうね。そもそも「英語教育研究」なんて盤石の体制があるわけでなく、私達の試行錯誤で進化させてゆくものだから、あまり教条的にならないようにしましょうね ――。



■英語授業でも使える活動例

ワークショップの中ではいくつかの活動を経験しましたが、その中でも互いの趣味を知りあう活動は面白かったです。

それは「あなたの趣味は何ですか」「サッカーが好きです」「そうですか、さようなら」といった身も蓋もないものではありません。(こんな活動はしばしば英語授業では見られますが・・・)

参加者は一枚ずつカードを引きますが、そこには1から50までの番号が書かれています。その番号で、参加者は番号を決めなければなりません。1が最もおとなしい趣味で、50が最も活発な趣味です。もちろんこの趣味は自分の本当の趣味である必要はありません。むしろ自分の数字の程度に合わせて趣味を考えつき、それを自分の趣味として活動に参加するべきでしょう。

参加者は次々に一人ずつ相手を見つけ、互いの趣味について語り始めます(三人で話しあうことぐらいまでは許されますが、あまり大人数で話すことは禁止です)。互いに話す時には、数字以外は何を言ってもかまいません。たとえば自分の趣味をサッカーと決めたら、自分は「サッカーをプレーするのが好き」でも「サッカーについてYouTubeで動画を見るのが好き」でも何でも自由に語ります。

大切なのはその人の「つもりになって」語ることです。自分の数字が小さいならおとなしく、大きいなら活発にと、自分の数字に応じて趣味を決め、その人らしく語ります。

語りながら参加者は相手の数字を推定します。活動はゲーム形式になっており、自分と近い数字の人間を見つけたと思ったら(互いに数字を言い合うことなく)そこで座ります。一度座ったらもう立ち上がって他の人と話すことは許されません。座った二人の数字の差が一番小さいペアが優勝です。差が一番大きいと最下位ということになります。自分と同じようなおとなしさ・活発さを、他人の話の内容と話し方から推定しなければならないのです。あまり早く決断して座ってしまうと二人の数字の差が大きすぎるかもしれません。かといってあまり決断に時間を取っていると、立っている人間自体が少なくなりますから、これまた数字の差の大きな人間とペアにならざるをえなくなるかもしれません。

この活動は、自分が話す内容と話し方を吟味し、同時に相手の話す内容と話し方に注目しなければなりませんから非常に面白いものでした。工夫次第では英語授業でも使えるのではないかと思い、ここで紹介させていただきました。(活動は他にもありましたが、あまり平田先生のアイデアをこんなブログで紹介するのもマナー違反かと思いますので、この紹介だけに留めておきます)。

ちなみにこの活動で私はなんと「1」を引き当てました。ですから私は「線香の火を見つめるのが好きです」とボソボソと言い続けました(笑)。―― これって、結構自分の潜在的可能性かもしれない(爆)――。



■コミュニケーションの関係性と場に注目

活動に続くお話では、コミュニケーションの関係性と場を重視する90年代以降のコミュニケーション教育についてのお話がありました。

例えばあなたが母親だとします。小学校1年生の子どもが息せき切って帰ってきて「ねぇねぇ、お母さん、今日ね、ボク宿題しなかったの。でもね、○○先生は怒んなかったよ!」と笑顔で伝えてきた場合、あなたはどう応答するでしょうか。

「駄目じゃない、宿題やらないと」とあなたが言うなら、子どもはきょとんとするかもしれない、と平田先生は言います。もちろん、子どもがきょとんとすると、あなたはそれを理解できないかもしれません。それは言語的には子どもは弱者であり、あなたは強者だからです。

言語的強者は、もっぱら文字通りの意味だけで自分が言いたいことを表現する術をものにしています(書き言葉による表現がその典型例です)。しかし言語的弱者は、そのような言語表現力はもっておらず、コンテクストや非言語的情報(この場合なら「息せき切って近づいてきての笑顔」など)に大きく依存しなければ自分を表現できません。

近代社会というのは、言説(=言語使用の重層)によって権力が生成・維持される社会だというのは、フーコーアレントなどが言うとおりかと思いますが、言説権力での弱者とは、言語で自律的な表現ができず、場の力を借りざるを得ないがゆえに言説を十分に操れずに弱い立場に置かれ続ける人々のことかと思います。例えば、学習・健康・若さなどで、弱者とならざるを得ない子ども・患者・要介護者は、自分の言葉で自分の立場を十分に表現できません。

これら言語的弱者を人間としてきちんと理解するためには、言語的強者は、弱者の発言の背後(あるいは足下)にある場・コンテクストを理解することが必要です。以前私は、言語になりきれていない弱者の声を拾い上げることの重要性を、内田樹先生の議論を通じてデイヴィドソンの論と関連性理論を比較しながら「言語使用の倫理?」という小文を書いたことがありますが、平田先生のおっしゃったこともこのような問題意識に重なるのかと思います。

もし言語的強者が、言語的弱者の文字通りの意味しか捉えようとしなかったら、その不理解から、弱者はますますコミュニケーション能力の不全を示すでしょう。そうしてコミュニケーションの機会を失えば、弱者はますますコミュニケーションというまたとない言語の学びの機会を失ってゆきます。言語的強者は、弱者の言語コミュニケーション力を育むべきであり、それを損なうべきではありません。

コミュニケーション能力論で言うなら、コミュニケーション能力は純粋な個人内能力ではないことを再度強調しなければなりません。しかし、詳しくは『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』でまとめましたが、言語学・応用言語学のコミュニケーション能力論のほとんどはもっぱら個人の枠組みでしかコミュニケーション能力を捉えていませんので、注意が必要です。(個人主義的コミュニケーションから相互作用的コミュニケーション、社会的コミュニケーションと考察の領域を広げるのは私の研究課題の一つですが、現時点での一般読者向けのわかりやすい記述としましては、大津由紀雄編(2009)『危機に立つ日本の英語教育』所収の小論をご参照いただければ幸いです)。

コミュニケーション能力の発現は、そのコミュニケーションの場と関係性に大きく影響されることは無視できません。もしあなたが言語強者の間での言語使用にしか従事していないなら、その重要性には気づかないかもしれませんが、例えば「べてるの家」の記録などを読みますと、コミュニケーションの場と関係性を育てることがどれだけ大切なことかがよくわかります。言語的強者、特に言語的弱者を育てる社会的責務を負う言語教師は、コミュニケーションの「場」、およびその場に共存する人間の「関係性」を大切にしなければと思わされます。


平田先生が所属する


大阪大学コミュニケーションデザイン・センター
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/


は、人間が日常生活の中では深く深く知っているが、これまでの学術研究では等閑視されてきた「新しい」観点からコミュニケーションを研究しているそうです。キーワードの一つとして、単純な一方向の因果関係だけに注目しない「複雑系」の考えを込めた意味での「コミュニケーションデザイン」を掲げているそうです。このセンターの活動にも注目したいと思います。















追記 (2012/01/17)

上の文章を書いて一息ついたら、仮に強者と同じだけの言語力をもっていても、他の(非言語的な)意味で弱い立場にあったら、その人は直接に文字通りの意味でメッセージを伝えない傾向にあることに(改めて)気づきました。つまり言語力の有無を問わず、弱者は直接的なメッセージを避ける傾向にあるということです。なぜならば直接的なメッセージならば、それを否定された場合のダメージが大きいからです。

考えてみれば、語用論でもこのようなことは標準的な説として教えていました。以下は、Pragmaticsの66ページの表を改変したものですが、弱者は上の表現を好みます。下の表現になればなるほど弱者は言いにくいものです。



1 Say nothing
2 Say something
2.1 Off record
2.2 On record
2.2.1 Face saving act
2.2.1.1 Negative politeness
2.2.1.2 Positive politeness
2.2.2 Bald on record




1は、何も言わずに「察してくれる」ことを期待しつつ、思わせぶりな態度を(さりげなく)行うことです。

2になりますと、言語を使いますが、2.1でしたら、あたかも独り言を言ったように(つまりは相手に直接話したとは思われないようなやり方で)語ります。

2.2では直接相手に話しかけているという話者の意図が、相手に明確に伝わるようなやり方で発現しますが、2.2.1では相手のメンツを潰さないような言い方をします。

2.2.1.1でしたら相手の自律性や自由を損なわないように控えめに発言します。2.2.1.2でしたら、相手と自分の間の連帯感に訴えかけて発言します(それだけに相手に「お前なんか仲間ではないよ」などと態度や言語で示されたらダメージを負います)。

2.2.2がもっとも直接的で、あからさまにメッセージだけを伝えます。

具体例は省略しますが、むしろ何かの例に即して、自分でそれぞれの項目の例文を考えてみると面白いかと思います。





2012年1月16日月曜日

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)




慶應学習英文法シンポジウムの準備の頃からずっと、野矢茂樹先生によるこの『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)の議論が気になって、以来、三回ほど通読し、何度もアンダーラインを引いた箇所を読み返しました。同シンポジウムに関する研究社出版への原稿は先日第一稿を書き上げ、また推敲し書き直すために、今「寝かせて」いるところですが、その原稿でも結局この本から直接的に引用することこそありませんが、この本の議論からはある程度の影響を受けました。

授業の「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」でも近いうちにウィトゲンシュタインを扱うので、やはりこの本をまとめられないかと試みましたが、やはり私はこの本(というよりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』)の全体像を要約することはとてもできません。 ― 『論理哲学論考』に関しては、Ogdenの英訳版でしたらProject GutenbergのPDF版、ドイツ語原文とOgden英訳とPears/McGuiness英訳の便利な対訳版でしたらこのPDF版、ドイツ語原文とOgdenの英訳のHypertextならこのページがオンラインで入手できます ―。

と、いったんこの本の全体的な要約を諦めたものの、授業準備のために後期ウィトゲンシュタインのPhilosophical Investigations)(日本語翻訳は『哲学探究』)の最初の部分を読み返していたら、何だか『論理哲学論考』の少なくともいくつかの論点が急にはっきりわかるように思えたので、その論点だけでもここに書き残しておこうと思いました。(やはりウィトゲンシュタイン自身が『哲学的探究』は『論理哲学論考』と合わせて一冊として出版されるべきだと考えていたことからも示されるように、これらのウィトゲンシュタインの初期と後期の代表作は、重ね合わせるように読まれるべきなのでしょう)。

というわけで、以下は、野矢先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の一部の論点を私の理解(あるいは誤解)なりに整理したものです。「○ページ」と表記されたページ数はこの本のページ数です。なお野矢先生は『論理哲学論考』の翻訳も岩波文庫から出版されています。こちらから引用する場合は「(岩波)」と表記します。

「1.1」など表記された数字は『論理哲学論考』の節番号を表します。節番号は一桁のものが最も重要な節です。桁数の多い節は桁数の少ない節の補助説明です。

ドイツ語はウィトゲンシュタインによるもの(上記サイトより引用)で、英語は、末尾に(O)と書かれたものはOgdenの英訳表現で、(P/M)と書かれたものはPears/McGuinessの英訳表現です。


以下のまとめでは、私が野矢先生(およびウィトゲンシュタイン)が行った厳密な用語法を、乱暴にまとめてしまったところも多々あります。また途中で、野矢先生が言ったことから脱線して、私個人の愚論を展開しているところもあります。ですから、ご興味のある方は必ず、上記のきちんとした本を読んで下さい。



***



■「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」としての「論理形式」

「対象」(Gegenstand; object (O)(P/M))(2.01)を、とりえあず「世界の究極の要素」ぐらいに考えた上で、ウィトゲンシュタインがその「対象」について述べていることに注目してみましょう。


2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。(49ページ)

2.0131 Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht sene externen -- aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.

2.0131 In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities. (0)

2.0131 If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its intrnal properties. (P/M)


この内的/外的な性質について野矢先生は次のように解説します。


ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば、物体は時間空間的位置をもつ。物体がある特定の時間空間的位置を占めていることは偶然的なことであり、外的であるが、そもそもなんらかの時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。(51ページ)


と、ウィトゲンシュタインは内的/外的な「性質」について述べますが、野矢先生はこの「性質」は、「形式」あるいは「論理形式」と呼んだ方が誤解が少ないだろうとします。(52-53ページ)。その上で、野矢先生は対象の内的性質、論理形式について次のように述べます。外的性質を知ることの記述に引き続いての文です。


それに対して、対象の内的性質、論理形式とは、そうした探求の範囲を示すものである。そのトマトは、位置について、色について、形について、硬さについて、味について、いかなる性質をもっているかを探求することができる。いわば、対象の論理形式とは、その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリーにほかならない。その質問の答えを知っている必要はない。しかし、どういう質問をすることができるのかは理解していなければならない。たとえば、それがどこにあるのかは知らなくても、「それはどこにあるのか」と尋ねることができる、そのことは分かっていなければならない。その対象の論理形式を捉えていないのであれば、そもそも何を調べてよいか分からない。そして対象を捉えるとは、「さて、これからこいつについて、どんな性質をもっているかを調べてやるぞ」と探求の出発点に立つことを意味している。それゆえ、対象を捉えるためには、その対象の論理形式を把握していなければならない。(55ページ)


トマトの論理形式の例として、上には位置・色・形・硬さ・味が上げられていますが、それらがトマトのもつ論理形式のすべてなのかについては疑問が残ることでしょう。しかし(どこで読んだか忘れましたが)ウィトゲンシュタインはこの「対象」の議論で、何ら具体的な物を考えていたのではなく、形而上学的な議論を行なっていたはずなので、ここではそれを問題とはしないことにしましょう(ウィトゲンシュタインは「形而上学的」という言葉を嫌っていますが、それもここでは問題としないことにします)。その上で述べるなら、


「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」


としての「論理形式」とは十分に理解できる概念かと思います。



■「対象」、「事態」、「事実」、「世界」

究極の「対象」、すなわち他の対象と組み合わされていず、それだけで成立している純粋で単一なる「対象」とはまさに形而上学的概念であり、それを具体的に例示することはできませんが、私達が普通に「事態」と呼ぶものは、いくつかの「対象」が組み合わさったものだ、という考え方は、まあ日常的にも理解できるものでしょう。

ウィトゲンシュタインの考え(世界観)をまず単純化して表現するなら次のようになります。


世界 = すべての事実の総体 (1)

一つの事実 = いくつかの事態が成立していること (2)

一つの事態 = いくつかの対象が組み合わさっていること (2.01)


あるいは

世界

=複数の [事実] の総体

= 複数の [たくさんの《事態》] の総体

=複数の [ たくさんの 《多くの対象の組み合わせ》 ] の総体

とも表記できるかもしれません。

つまり「世界」はすべての「事実」から構成されているが、一つ一つの「事実」とは、多くの「対象」の組み合わせからなる「事態」がさらにいくつか集まって成り立っていることから成立している、となります。

「だからどうなんだ」と言われそうですが、「対象」を理解するためには必要ですし、『論理哲学論考』では、いきなりこの用語法が出てきて面食らうことが多いので、ここにまとめておく次第です。

日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。(「成立していることがら」 (der Fall, the case)という用語が入ってきますが、議論の骨子は上で単純化した通りです。




1 世界は成立していることがらの総体である。 (岩波 13ページ)

2 成立していることがら、つまり事実とは、諸事態の成立である。 (岩波 13ページ)

2.01 事態とは諸対象(もの)の結合である。 (岩波 13ページ)


1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.

2 Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.

2.01 Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen. (Sachen, Dingen.)


2 The world is everything that is the case. (O)

2 What is the case, the fact, is the existence of atomic facts. (O)

2.01 An atomic fact is a combination of objects (entities, things). (O)


1 The world is all that is the case (P/M)

2 What is the case -- a fact -- is the existence of states of affairs. (P/M)

2.01 A state of affairs (a state of things) is a combination of objects (things)(P/M)






■論理的な使用に限っての「言語」

さて次は『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインが「言語」についてどう議論を展開したかについて考えます。最初に断っておかなければならないのは、ここでの「言語」はもっぱら論理的に使用されるものに過ぎないということです。言うまでもなく、言語使用には、論理的でもなく真偽を決定できる命題でもない言語使用があります(例えば挨拶や命令文)。しかし『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは、論理的な使用に限っての「言語」についてのみ議論を進めます。私たちの思考の限界を見極めようとして論理的に使用される言語についてのみもっぱら考えます。論理に限らない多彩な人間の営みは、 後期の『哲学的探究』で登場します。


そういうウィトゲンシュタインの(論理的な)「言語」とは、すべての「命題」の総体です。それぞれの「命題」は現実の「像」である限りにおいて真か偽でありえます。「命題」のうち有意味な命題が私たちの「思考」と呼ばれます。

私なりに単純化するとこうなります。


「命題」 = 現実の「像」
(ただし、真の「像」もあれば偽の「像」もある)

「思考」 = 有意味な命題
(ただし、真偽を確定しようとして、後で偽と判明する命題を語ることも有意味ではある)。

「言語」 = 命題の総体
(つまり、真の命題も偽の命題も、有意味な命題もナンセンスな命題も含めた、
あらゆる可能な命題の総体)



日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。


4 思考とは有意味な命題である。 (岩波39ページ)

4.001 命題の総体が言語である。(岩波39ページ)

4.003 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。・・・(後略) (岩波39ページ)

4.01 命題は現実の像である。
命題は現実に対する模型であり、そのようにしてわれわれは現実を想像する。 (岩波40ページ)

4.06 命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる。 (岩波47ページ)


4 Der Gendanke ist der sinnvolle Satz.

4.001 Die Gesamtheit der Sätze ist die Sprache.

4.003 Die meisten Sätze und Fragen, welche über philosophische Dinge geschrieben worden sind, sind nicht falsch, sondern unsinning. ...

4.01 Der Satz ist ein Bild der Wirklichheit.
Der Satz ist ein Modell der Wirklichkeit, so wie wir sie uns denken.

4.06 Nur dadurch kann der Satz wahr oder falsch sein, indem er ein Bild der Wirklichkeit ist.


4 The thought is the significant proposition. (O)

4.001 The totality of propositions is the language. (O)

4.003 Most propositions and questions, that have been written about philosophial matters, are not false, but senseless. (O)

4.01 The proposition is a picture of reality.
The proposition is a model of the reality as we think it is. (O)

4.06 Propositions can be true or false only by being pictures of the reality. (O)


4 A thought is a proposition with a sense. (P/M)

4.001 The totality of propositions is language. (P/M)

4.003 Most of the propositons and questions to be found in philosophical works are not false but nonsensical. (P/M)

4.01 A proposition is a picture of reality.
A proposition is a model of reality as we imaginie it. (P/M)

4.06 A proposition can be true or false only in virtue of being a picture of reality. (P/M)


さて「言語」が『論理哲学論考』においては、論理的な使用に限った言語といった特殊な意味で使われているのと同じように、「名」は『論理哲学論考』において「対象」の代わりをするもの、という特殊な意味で使われています


3.22 名は命題において対象の代わりをする。 (岩波27ページ)

3.22 Der Name vertritt im Satz den Gegenstand.

3.22 In the proposition the name represents the object. (O)

3.22 In a proposition a name is the representative of an object. (P/M)


この定義から、「対象の論理形式」は、「名の論理形式」と等しいことになります(63ページ)。「命題」の中の「名」は、対象の論理形式が許す範囲で命題の中で使われます。ということは「有意味な命題」(=「思考」)において「名」が示す「名の論理形式」こそが「対象の論理形式」ということになります。

しかし究極あるいは単一で純粋な「対象」とは形而上学的概念であり具体的な事物ではなかったように、純粋な「名」も形而上学的概念であり、『論理哲学論考』での「名」を、私たちの日常言語の名詞と考えるべきではないでしょう。(「名」は、命題が「完全に分析された」要素となった「単純記号」のことであるとウィトゲンシュタインは定義しています (3.201および3.202)。

ですから「私たちが名詞をどのように・どこまで使えるか、というのが世界の究極の構成要素の分析となっているのだ」などというのは短絡です。「私が目の前に見ている『これ』に対して私は『X』という名詞を使う」という関係が、そのまま「対象」と「名」の関係であるわけではありません。「対象」は、私達が認識する事態や事実の中に複雑に組み込まれています。そして「対象」の像である「名」は、私達が日常的に使用する文や文章の中に複雑に組み込まれています(ウィトゲンシュタインは「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能」とさえ言います(4.002)。また『哲学的探究』にも単純な対象を同定することの困難が語られています)。だから日常言語の名詞の使用の詳細な分析が、そのまま世界の究極の分析となるなどとはなりません。




■言語獲得と言語使用は、思考の獲得であり使用である


しかし純粋な「名」が複雑に組み合わされた「命題」の総体 ―あらゆる可能な命題のすべて― が「言語」である(4.001)とは言えるでしょう。

「総体」といった緩やかな意味で、言語を習得するということ、つまりは言語を使用できるようになるということは、同時に真偽や有意味性を学ぶであるとは言えるでしょう。つまり、言語を習得するということは、可能な命題をすべて扱いうるようになるということであり、その中でどの命題が真でどの命題が偽であり、どの命題が有意味な思考でどの命題がナンセンスであるかを見極めながら使用することと言えるかもしれません。(もちろん一部の言語学者でしたら、完璧に統語的だが意味不明な言明ばかりする人も「知性に偏りがあるものの『言語』(あるいは『文法』)は獲得している」というでしょうが、ここでは常識的な意味での言語習得・言語使用について議論します)。

命題の真偽判定は、現実世界に関わることですから、観察や計測などで決定される経験的なものです。しかし、何が有意味であり何がナンセンスであるかを判定するのは、まさに思考を学ぶということです。

ですから非常に単純化した言い方をすれば、言語を習得するとは、(現実世界での真偽決定という経験的な言語使用に加えて)、思考を学ぶということになります。逆に言うなら、思考を学ぶには、言語を習得しなければならない、となります。そして思考の学び=言語習得は、言語使用においてなされます。言語をきちんと使用することができるようになることは、同時にきちんと思考できるようになることと言えるでしょう。




■文学や哲学は世界のあり方の可能性を探ること

真偽決定できる経験的言語使用以外の、有意味・ナンセンスの境界線まで届こうとする言語使用を学ぼうとすることは、事態の中に複合的に組み込まれた対象の「論理形式」(「内的性質」)の複合的な組み合わせについて考えることを学ぶということです。これは可能な世界のあり方について考えることです。世界はどうあり得て、どうあり得ないのかということを、「外的性質」の経験的実証はさておき、「内的性質」「論理形式」において考えようとすることです(前にも説明しましたように、その「内的性質」「論理形式」は単純な対象の「内的性質」「論理形式」ではなく、多くの対象の「内的性質」「論理形式」の複雑な組み合わせなのですが)。

さてこれまでは言語使用の論理的な側面だけを考察した前期ウィトゲンシュタインと彼の翻訳者に従って"Satz"を「命題」(proposition)と訳してきましたが、ご承知のように"Sats"とは「文」(sentence)とも訳せる語です。今、私はウィトゲンシュタインが述べたことを、緩やかに言い換えていますので、その方針を続け、今後は「文」という表現も必要に応じて使うことにします。

経験的実証の「外的性質」ではなく、対象・事態・事実・世界の「内的性質」である「論理形式」をもっぱらの基準にして言語を使用することの典型例の一つは、小説です。例えば村上春樹の『1Q84』 などの小説は、月が二つあるなどの点で私達の世界の「外的性質」には大きく違反するような世界や出来事を描きながらも、私達の世界理解の「内的性質」・「論理形式」には違反しない物語を書くことにより、世界中の読者の共感を得ています。このような小説を読んでも、科学的知識はおろか世俗的知識もほとんど得られず、大げさに言うなら私たちはひたすらこの世界の「内的性質」、私達の「論理形式」の可能性について小説の言語を通じて学んでいます。この学びは経験的な知識は増やしませんが、私達の世界のあり方の可能性を広げ深めさらには質的にも転換してくれています。

小説家だけでなく、哲学者も「ありうる世界」「あるべき世界」について語ります。世俗知に長けた人は、しばしば小説家や哲学者を「世間知らず」として馬鹿にしますが、仮にそうだとしても、小説家や哲学者は世俗知に長けた人よりはるかに「世界のあり方」について知っているのではないでしょうか。

どこで読んだか忘れたのですが、「世間は、政治家やビジネスマンが未来を創ると思っているが、未来を創るのは文学者である。文学者は新たな言語を紡ぎだすことで、新たな世界のあり方を創っている」といった発言を最近読んだように思います。必ずしも物事の「外的性質」には即していないかもしれないが、物事の「内的性質」「論理形式」を見極め、その可能性の限界を広げるや哲学者は、言語の可能性を探ることで、私達の思考、そして私達の世界の可能性を豊かにしていると言えるでしょう。




■言語習得の複合的・循環的全体性

数多くの「対象」が複雑に組み込まれた事態や事実は、「対象」の「論理形式」も複雑に組み込まれた形で含んでいます。その事態や事実をの真偽を確かめるために文を使い(=例、自然科学における言語使用)、さらにはその事態や事実の可能性を限界まで考えようとしてナンセンスとなるギリギリまで文を使うこと(=例、文学や哲学などの人文学での言語使用)は、数多くの「対象」、つまりは事態や事実の論理形式を、分解できない複合的な全体性の中で学ぶことになります。特に、後者の言語使用での文の有意味性やナンセンス性の判断 ―つまりは思考―は、世界の表現としての言語の分解できない複合的な全体性に基づいています。

ここに思考を学ぶこと=言語使用を学ぶことの難しさがあります。思考と言語は、分解して学べないのです。複合的な全体性の中にいわばいきなり飛び込まねばなりません。飛び込むと、分解不可能だと思った部分が実はさらに分解可能だったり、その他の部分と複雑に絡み合ったり、さらにはその他の部分の理解が実は当の部分の理解に基づいていることに気づいたりします。完全な分析など不可能な、複合的で循環的な言語使用の全体性をものともせずに、言語を使い、「なるほど」と言われたり「そうかな」と問われたり「それは違うだろう」と反駁されたりと言語共同体の中で言語使用し続けるしかありません。そのように複合的で循環的な言語使用の全体性に飛び込まないと、私たちは思考と言語を学べないのでしょう。

母国語(第一言語)を獲得するとは、まさにそのようなことです。野矢先生は次のように言います。(私からすれば、野矢先生は「名」と日常言語の「語」、および「命題」と日常言語の「文」をそれぞれ同一視したような言い方をなさっているように思えますが、それは今は問題にしないことにします)。


実際、われわれが母国語を習得してきたプロセスは、いきなり仲間にさせられるというものであったろう。ひとつひとつ語の論理形式が説明され、それを順番にきちんと把握しながら習得してきたわけではない。それはまさに言語全体の循環の中に参加していくプロセスだった。よく訳の分からない状態で言語使用のただ中に放りこまれる。そしてつながりあった論理形式の網の目を調整し、拡大しながら、いまに至っている。その結果、まがりなりにも、「猫」の論理形式ぐらいは胸をはって知っていると

こうして子どもが言葉を学んでいく過程は、同時に、世界から対象を切り分けていく過程でもある。赤ん坊は最初から物たちの世界に生きているわけではない。周りで使用される未分節の命題が名に切り分けられ、その論理形式が網の目全体としてしだいに明確になってくるにつれ、対象もその姿を明確にし始める。これが、われわれが対象に到達する方法に他ならない。

目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。だが、そのことはすなわち、ミケが他の場所に動いていったり、ミケがもっとスリムだったり、いまは寝ているミケが起きて走りまわっていたり、さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後にもっていなければ成り立たないことである。すなわち、眼前の事実から対象を切り出すには、その対象がどのような可能な事態の内に現れうるかを了解していなければならない。他方、可能性は言語によってのみ開かれる。ミケという対象の可能性は、「ミケ」という名がどのような命題によって現れうるかという可能性、すなわち「ミケ」という名の論理形式としてのみ、捉えられるのである。しかも、ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである(73-74ページ)




■『論理哲学論考』の中の言語使用的意味論

よく私たちは、後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』を、前期の『論理哲学論考』の完全な否定として捉えがちです。『哲学的探究』の有名な意味論が「語の意味とは、言語内でのその語の使用である」(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. - The meaning of a word is its use in the language.)(43節)である以上、そのような意味論の使用説は前期の『論理哲学論考』にはでてこないのではないかと思ってしまいますが(私もそう思っていました)、野矢先生が解説するように、言語習得の複合的・循環的全体性が『論理哲学論考』で論じられている以上、使用説的意味論は ―あるいはその根源的な形は― 『論理哲学論考』にもあります。具体的には3.26とその補助命題です。


3.26 定義を用いて名をさらに分解することはできない。名は原子記号である。(岩波28ページ)

3.261 定義によって導入された記号はすべて、その定義に用いられている記号を通して [複合的なものを] 表現する。定義はそうして [複合的なものに至る] 道を教える。
原子記号、および原子記号によって定義された記号、この二種の記号が同じ仕方でものを表すことはありえない。名を定義によって他の記号へと分割することはできない。(他の記号に依存することなくそれだけで意味をもつ記号を、定義によって他の記号へと分割することはできない。) (岩波28ページ)

3.262 記号において表現されえないことを、記号の使用が示す。その記号が呑み込んでいるものを、記号の使用が表に現す。(岩波29ページ)

3.263 原子記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原子記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味にすでになじんでいるひとだけが、解明を理解しうる。(岩波29ページ)

3.26 Der Name ist durch keine Definition weiter zu zergliedern: er ist ein Urzeichen.

3.261 Jedes dininierte Zeichen bezeichnet ü b e r jene Zeichen, duruch welche es definier wurde; und die Definitionen weisen den Weg.
Zwei Zeichen, ein Urzeichen, und ein duruch Urzeichen definiertes, können nicht auf dieselbe Art und Weise bezeichnen. Namen k a n n man nicht duruch Definitionen auseinanderlegen. (Kein Zeichen, welches allein, selbständig eine Bedeutung hat.)

3.262 Was in den Zeichen nicht zum Ausdruck kommt, das zeigt ihre Anwendung. Was die Zeichen verschlucken, das spricht ihre Anwendung aus.

3.263 Die Bedeutung von Urzeichen können durch Erläuterungen erklärt werden. Erläuterungen sind Sätze, welche die Urzeichen enthalten. Sie können also nur verstanden werden, wenn die Bedeutunggen dieser Zeichen beteits bekannt sind.


3.26 The name cannot be analysed further by any definition. It is a priminitve sign. (O)

3.261 Every defined sign signifies via those signs by which it is defined, and the defionitions show the way.
Two signs, one a primitive signs, and one defined by primitive signs, cannot signify in the same way. Name cannot be taken to pieces by definition (nor any sign which alone and independently has a meaning). (O)

3.262 What does not get expressed in the sign is shown by its application. What the signs conceal, their application declares. (O)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by elucidations. Elucidations are propositions which contain the primitive signs. They can, therefore, only be understood when these signs are already known. (O)


3.26 A name cannot be dissected any further by means of a definition: it is a primitive sign. (P/M)

3.261 Every sign that has a definition signifies via the signs that serve to define it; and the definitions point the way.
Two sigins cannot signify in the same manner if one is primitive and the other is defined by means of primitive signs. Names cannot be anatomized by means of definitions. (Nor can any sign that has a meaning independently and on its own.) (P/M)

3.262 What signs fail to express, their application shows. What signs slur over, their application says clearly. (P/M)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by means of elucidations. Elucidations are propositions that contain the primitive signs. So they can only be understood if the meanings of those signs are already known. (P/M)



すこし緩くさらに拡張して言い換えますと、こうなるでしょう。

もし仮にとても単純な対象があり、その対象にある名があり、言語を習得していない子どもがまず最初にその名を習得しようとするとしてみよう。子どもは、周りの大人からその名の定義を与えられることによってその名の意味を理解することはない。なぜなら定義は他の名の組み合わせによって構成されているからであり、子どもはそれら他の名の意味を知らないからだ。

しかし、子どもが、その名を含んだ発話が周りの大人によって有意味に使用される環境で、その大人にあたかもその子どもはその発話を既に理解できる存在であるかように取り扱われ生活を共にすることによって(Zone of proximal development?)、その子にとっては、だんだんとその語の意味がどんなものであるか解明されるようになる。この場合の「解明」とは、自分が既にできていること(ということは、理解しているし知っているはずのこと)のあり方がだんだんと明らかになってゆくこと(そしてその使用がますますうまくなること)であり、自分がまったく知らないことが定義によって新たに・突然に把握されるといった「説明」とは異なる。

複雑な意味の語は言語使用に長けていないと理解できない、というのは想像しやすいことであるが、単純極まりない意味の語すらも言語使用の中に入り込まないと理解できないということは考え難いことかもしれない。しかし「『X』って『あれ』さ」というこれ以上単純にできないぐらいの直示的定義(ostensive definition)ですら、聞く者は「あれ」が何であるのかを容易に理解できないのは、後期の『哲学的探究』が示す通りである・・・。(このあたりの議論は、後日、稿を改めて行います)。

「解明」について、野矢先生は次のように述べています。


それ [=解明] は何も知らない人に何ごとかを教えようとする「説明」ではありえない。すでに名を用い、命題を使用できている人だけが、自分のやっていることを明確にすべくそれを反省し、整理して、自分の言語使用を解明することができる。それは積極的に循環の中に入り込むことにほかならない。(272ページ)


いずれにせよ、『論理哲学論考』が言語習得の複合的・循環的全体性を語り、語の習得のためには、(あたかも既にその語を理解しているように)その語を言語共同体の中で使用しなければならない、といった考えを示しているように思えることは、強調しておくべきでしょう。




■語りえないことを語り続ける

そうして言語使用に私たちの考察を向けてゆくと、メタファーのことが気になってきます。メタファー(特に「隠喩」)は、語の論理形式に違反するような言語使用でありながら、ナンセンスに聞こえないからです。野矢先生は次のように述べます。


この方向で考察すべき話題はまだ数多く残されている。たとえば、いま私にぼんやりと見えているひとつの主題は「比喩」である。「山が笑う」のように言ったとき、この比喩表現を知らない人にとってはこれはただのナンセンスでしかない。「山」も「笑う」も知っている。しかし、その組み合わせを許すような論理形式はまだ知らない。そこでたとえばある人と浅い春の日を歩いているとき、その人が「山笑うって感じだなあ」などと口走ったとしよう。そのときそこに、何か未知の意味があると思うだろう。そしてそれが無効に見えている山の、まだ白っぽい緑のうぶな情景を表すのだと知るとき、「笑う」としか形容しようがない山の表情が論理空間の中に新たに組み込まれることになる。この比喩は歳時記にも載っている定型表現であり、いわゆる「死んだ比喩」であるが、ひとはときにまったく新しい比喩を使う。それは数学の問題がそうであるように、「私に意味を与えてみよ」という挑戦として、聞き手の前に現れる。そうして新たな比喩は、論理空間の外にいる意味の他者の声となるのである。(319-320ページ)


このように私たちの既知の論理形式に違反するような言語使用は、前期ウィトゲンシュタインにとっては(確証はありませんが)「語り得ぬもの」だったのかもしれません。だからウィトゲンシュタインなら、私たちは「沈黙せねばならない」と宣言するかもしれません。


7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 (岩波149ページ)

7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

7 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. (O)

7 What we cannot speak about we must pass over in silence. (P/M)


しかし、私たちの論理形式を、ひいては論理空間を揺るがすような比喩は私たちの言語生活の中で確固とした役割を果たしています。「言語の創造性」といえば、私たちは言語における統語論のrecursionのことを第一に考えますが、意味論のmetaphorも言語的な人間の創造性の源であるともいえるでしょう(このあたりと「教師の成長」の関係を、ひつじ書房の『成長する英語教師をめざして -- 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』で書きました。お読みいただけたら幸いです)。

私たちは新しい表現を、例えば比喩で作り出し、その有意味な使用において、私たちの言語使用、ひいては思考の可能性を豊かにします。野矢先生も、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」を「語りきれぬもの」とした上で、次の言葉を本書の結びの言葉にしています。


語りきれぬものは、語り続けねばならない。(323ページ)




この虎の威を借りて、狐の私としては、このような駄文を書き連ねることの言い訳としたいと思います。


おそまつ。





















2012年1月14日土曜日

介護、武術、そして教育




「英語教育」という看板を掲げながら、武術ヲタのような話ばかりをするこのブログに愛想をつかしかけている方もいらっしゃるでしょうが、そんな方にトドメをさすために本日は介護の話をします(笑)。

というより、本日読んだ医学書院の「かんかん! 看護師のためのwebマガジン」の記事があまりに素晴らしかったので以下に紹介する次第です。

教室や学校における身体のあり方の重要性をすでに痛感されている方は、そのまま原文を読んだほうがいいかもしれません。



「介護されるプロ」、古武術介護を体験する
http://igs-kankan.com/article/2012/01/000540/



以下は、ほんの少しだけ身体について考え始めた私が私なりにまとめたものです。私は、近代競技スポーツの一種となってしまった「スポーツ武道」ではない、昔からの武術を教えていただく中で身体の重要性をようやく自分の身体で実感できるようになりました(このわずかの実感さえなかった以前の私ってどんな心身だったんだろう。まあガチガチの我意マシーンだったのだろうなぁ。離婚もするしうつ病も患うわけだw)。

私は武術を学ぶ中で、身体が緊張するとは何か、「力む」とは何か、「力みを捨てる」とは何かなどということを考え続けています。これらの理解により、力みのない身体(ひいては心身)とならないと、武術の技などできないからです。

そのような問題意識を持つ私には、生まれつきの脳性まひという障害で「起床から身支度、排泄、入浴に至るまで、生活全般において他者の物理的な手助けを必要として」おり、かつ「極度に緊張しやすい」熊谷晋一郎氏の、自分自身の「緊張」の現象を記述した文章は、非常に勉強になりました。



■「緊張」の三側面

熊谷氏は「緊張」という現象を、「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」、「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」の三側面から説明します。



■「自明だった動きパターンの崩壊」

第一の側面は、緊張で過剰に自意識が発動してしまい、無意識(非意識)の動きが阻害されてしまうものです。


緊張しているときの体の動きは、それまで半ば無意識に、自動的にこなせていた歩行や姿勢維持といった基本的な運動パターンがわからなくなり、次にどちらの足を動かすべきか、などの一挙手一投足の選択決定に、意識が張り巡らされた状態になっている。


武術でしたら、技にダメ出しをされたことなどがきっかけとなって、うろたえ緊張し、自分の動きを過剰に意識してしまい、これまでできていたことまでもが急にできなくなることなどがあります。

身体技能としての英語使用でしたら、私は初めてアメリカに行ったことを思い出します。実は私が初めて渡米したのは9.11以後でした。アメリカでの入国審査が厳しくなったという話をさんざん聞いていた私は、アメリカでパスポートを提示した時にかなり緊張していました(私にはかなり心配性のところがあります)。その緊張状態で入国審査官に「あなたが参加する学会のapplied linguisticsとは何のことか」と問われた時に、私はてっきり疑いをかけられたのかと思いガチガチに緊張してしまいました(書きながら、今思い出しました。私はドイツで列車に載っている時に、不法移民と疑われ私服警官5人にいきなり取り囲まれてひどく驚き緊張したことがあります。アメリカ入国の時にも無意識レベルでそのことを想起していたのかもしれません)。

そう緊張しているとまあ自分でも驚くぐらい英語が喋れなくなりました。私は先日受験したTOEFL-ITP試験では677点(リスニング68、ストラクチャー68、リーディング67)を取るぐらいの英語力はもっていますが(この記事末尾の「追記」を参照)、もうまともに文構成すらできず、しどろもどろになってしまいました。後で考えると私は列の最後尾で、その日は暇だったのか、審査官は世間話をしようとしただけなのでしょうが、まあ、緊張するとこんなにもパフォーマンスが低下するものかと自分でも驚きました。ですから緊張すると「自明だった動きのパターンが崩壊」するということはよくわかります。皆さんも似たようなご経験はおもちでしょう。



■「動きの自由度の減少」

第一の側面に続いて、熊谷氏は第二の側面である「動きの自由度の減少」を説明します。


それと同時に、体全体がしなやかさを失って、硬い棒のようになる。例えばリラックスしているときならば、全身にたくさんある関節や筋肉をそれぞれバラバラに動かすことができるが、緊張すると、一つの部分を動かそうとすると他の部分も連動し、一体化して動いてしまうのである。


武術でしたら「びびって」あるいは「あがって」緊張してしまって、身体がガチガチになった状態でしょうか。下手をすると可動点が少なく可動範囲も小さなロボットみたいな動きしかできなくなってしまいます。

熊谷氏もこの「動きの自由度の減少」が非常に大きな問題となることを述べています。


体が緊張すると何が問題か。それは、緊張の二側面のうちの一つ、「動きの自由度の減少」にかかわっている。一つの身体が、重力や、外界にある様々な道具や起伏のある地形などとしなやかに関係を取り結びつつ、自らの動きを生成し続けるためには、身体の内部に柔らかな自由度がなくてはならない。もし体が岩のようにがちっとした一塊ならば、動きのレパートリーは「転がる」か「砕け散る」かぐらいしかなくなってしまうのだ。そして私の身体は、岩ほどではないにしても、その硬さによって外界としなやかな関係を取り結ぶことが難しいのである。


武術で緊張してしまったら、例えば相手の攻撃を受けようとしても、自分が一塊の剛体みたいになって、一定程度までは踏ん張っても、その臨界点を超えたら、急にバターンと倒されてしまいます。しかし「力みを取る」ことができていたら相手の攻撃に柔軟に合わせながら自分のバランスを失わず、相手の動きと自分の動きを調和させ、さらにはいつのまにか相手のバランスを失わせて崩すことすらできます(私はまだほとんどできませんが)。

言語使用で考えますと、緊張してしまったら顔がこわばり、言葉も滞りがちになり、準備していた言葉や常套句をかろうじて発語するだけになってしまいます(こうした緊張に備えて、多くの人は大舞台でのスピーチなどには、読み上げれば済むだけの完全原稿を手元に用意します)。緊張していなかったら、当意即妙に言葉が出てくる人も、緊張してしまったら言葉につまることは私達もよく経験することだと思います。



■「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」

緊張しやすい熊谷氏は、このように「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」をしばしば経験します。それでいて、「まったく無防備な自己の身体を、他者に預け続ける」ことが必要なわけですから、熊谷氏には「それなりの怯えと覚悟が必要」となります。

その中で生じるのが、緊張の第三の側面である「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」です。第一、第二の側面と違って、この第三の側面は肯定的な働きを持ち得ます。

ですから私は、この「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」という第三の側面は、常に緊張状態の中で他人の介助に頼らなければならない熊谷氏が発達させた側面だと考えます。第一・第二の側面である「自明だった動きパターンの崩壊」と「動きの自由度の減少」は、通常の人間が覚える「緊張」を構成する要件として考えられますが、第三の側面の「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」は、熊谷氏が自らの緊張状態時に発揮することを学んだ側面であると私は理解します。この側面は、熊谷氏の緊張に伴うことはあっても、通常の人間の緊張には伴わないからです。

いわば「介護されるプロ」として、熊谷氏は、緊張しながらも、以下のように感性を研ぎ澄ませます。


たとえば、はじめて出会う介護者に身体を触れられる時などは、全身の感覚が研ぎ澄まされ、タッチの柔らかさやリズム、しなり、フィット感などから、その介護者についての情報をなるべくたくさん得ようとしている。緊張は、先ほど述べた二つの側面に加えて、入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされるという、3つ目の側面を持っているといえるのかもしれない。恐る恐る触れてはすぐに引っ込める、弱腰の介護者がいるとおもえば、物を扱うようにやる、侵入的な介護者もいる。終始かったるそうな人もいるし、善意だが不器用な人もいる。たとえが適切かわからないが、そのとき私の身体は、ちょうどセクシュアリティーに匹敵するような繊細さで、情報を収集しているのである。


さらに熊谷氏は、「≪能動的に触れられる≫工夫」をします。介助者に、突然一方的に触られてしまうのではなく、介助者の意図を察知しその意図を自分でも共有しつつ触らせ・触られるようにするわけです。


誰でも、不意に触れられた時というのは、「その感覚がなにものであるか、それに対して次に何をすべきか」という意味付けが間に合わず、びっくりするものだ。逆に能動的に触れるときは、意識をこれから触れる対象に照準し、視覚聴覚など五感を総合しながら触れるため、意味付けが容易で驚くことは少ない。

介助が生活必需品である私は、他者に触れられる機会が多い。先ほど述べたように受動的に触れられるというのは怖い事だから、工夫が必要になる。そこで私が重要視しているのは、触れられる前の意図の共有である。つまり、意図を共有することで受動性をなくし、≪能動的に触れられる≫工夫が必要なのだ。


この≪能動的に触れられる≫工夫が特に必要になるのは、例えば駅で見知らぬ人に介助を頼まなければならない時です。熊谷氏は周りの人を見て、その視線の合い方で、進んで介助してくれそうな人を見つけ出します。見つけ出すといってもそれは一方的なものでなく、介助してくれそうな人は、視線の共有によって熊谷氏にその意図を伝えています。いわば、二人が同時にお互いを見出すわけです。

熊谷氏はそのような人に介助を願います。


こちらが「いける」と思える人は、介助に対する能動性を発している。体の構えは、いつでも動けるように前傾姿勢でスタンバイしている。そういう身体の一挙手一投足をじっと見て取り込み、その人になったつもりで頭の中で再構成し追体験すると、相手の意図が読めてくる。まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚だ。熊谷が能動性を失わずに触れられることを可能にできるのは、この「憑依」ともいえる状態が実現されたときである。

相手の「能動的な意図」が私に憑依すると、私の身体もモゾモゾと構えを変え始める。介助してほしい身体部位に意識が集中していくのが分かり、介助されやすいような姿勢に体が組み換わっていく実感がある。



■武術に本質的な感性・感知・感応、そして「水月移写」

このあたりの熊谷氏の記述は、まるで武術の記述かとも思わされました。合気道系の接触技(あるいは中国武術での「聴勁」)では、触り触られる中で相手の意図を(それどころか時には、相手がまだ自分でも自覚できていない意図までも)感知しそれに感応して動きます。あるいは非接触系の武術でも、達人は相手の心身の動きを、即そのまま自分の心身に写しこみます(いわゆる「水月移写」です)。

通常、「カウンター」攻撃といえば、(1)「相手の攻撃動作そのものへのカウンター」、を指します。相手の攻撃行動が開始された後に相手よりも速い自分の攻撃行動を開始して相手に打撃を与えます。これには相手の動きよりも自分の動きが「速い」必要があります。

しかし「カウンター」にはあと二種類あります。二つ目のカウンターは、(2)「相手の攻撃動作の起こり」に対するカウンターです。相手の攻撃動作が本格的に開始される前の微細な動きを感知しそれに対して反射的にカウンターを与えるわけです。

三つ目のカウンターは、(3)「相手の攻撃しようという意志」に対するカウンターです。(2)の微細な動き以前・以下でしか現れない、相手の意志の動きを自分の心身に移写しそれに感応してカウンターをするわけです。(「相手の意志を自分の心身に移写」などというと非科学的に聞こえるかもしれませんが、ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で言うように、人間は、自らが身体を動かそうという意志を自覚するよりも約0.5秒前に既に神経活動を開始しています。ですから卓越した達人が、その神経活動のほんのわずかの体現を、常人にはとても察知できない微細なレベルで感知しそれに反応することは、科学的にも十分考えられることです。というより実際問題としても、この三番目のレベルのカウンターを実際に行なっている武術の達人は現在もいます)。

一つ目のカウンターが「速さ」(=動作そのものの速度)に依拠しているのに対して、二つ目と三つ目のカウンターは「早さ」(=動作の開始タイミング)によるものです。二つ目のカウンターは、相手の攻撃行動が本格的に指導する前の「早い」時点でカウンターを始めています。三つ目のカウンターにいたっては、相手が自分の攻撃意図を自覚するかしないかの非常に「早い」時点でカウンターをします。ですから相手としてはもう何が何やらわからないうちにやられてしまう格好になります。(以上の「カウンター」に関する記述は、日野晃先生の『武術革命―真の達人に迫る超人間学』の209ページの記述を参照・参考にしたものです)。

三つ目のレベルのカウンター攻撃は、上記の「水月移写」レベルの心身をもっている人(注)のみができるものでしょうが、まあ、そこまでは言わずとも身体が非接触状態でも、人間は相手の意図を感知することができます(これは、相手の心を推量する・理論的に予測するなどという「賭け」ではなく、相手の心身と自分の心身を同調させる外れることのない感応です)。非接触時でもこうなのですから、相互の身体が接触している時には、相手の心はより読みやすいでしょう(武術ヲタでない方、お待たせしました。熊谷氏の話に戻ります)。




■相互協調する複数の心身

熊谷氏を駅でたまたま介助をすることになった人は、多くの場合、介助になれていないでしょうから、熊谷氏は接触している身体を通じて、相手に非言語的に自分の意図を伝え、リードします。しかし常にそうであるわけではありません。


基本的には私が司令塔ではあるが、いつも私がリードする訳ではなく、時には介助者がリードする局面もある。そんな時でも互いに憑依した状態ならば、自分で自分に触れる時と同じように触れる意図、触れ方、触れられる感覚が予期できているから、怖いということはない。しかし、憑依から外れて意図が読めなくなると、急に皮膚の予期しない場所に、予期しない刺激が、予期しないタイミングで訪れるため、びっくりしてしまう。そして再び意図の結びなおし作業が必要になってくる。


このように感性に優れた二人の場合は、接触面を通じてお互いがお互いの意図を読み取り、修正し、相互協調的に意図を合わせてゆきます。次は、古武術を基に介護技術を開発している岡田慎一郎氏に介助された時の熊谷氏の記述です。


2秒か3秒程度、私の体を這いずり回った手は、やがて答えをはじき出したかのように、ひとつのまとまった運動を形成し始めた。それは、意志が確定した瞬間のように私には感受され、私自身も「よし、もちあげられよう」という意志が同時に固まった。その瞬間、めったにないような軽やかさで、体がふわりと宙に浮いた。自明な動きパターンの崩壊だけでは具体的な動きを形成できない、しかし、動きの自由度の減少だけでは相手の体としなやかな関係を取り結べない。あくまでその両方に引き裂かれる緊張の中で、そのつど、相手となじんだしなやかな動きが即興的にうみおとされていくのである。


もちろん、そもそもが異なる心身である二人が、いつも完璧に同調しているわけではありません。しかし同調が崩れた時も、二人の心身は協調的に同調を取り戻そうとします。


私は岡田氏が「持ち上げよう」と意志を固めた瞬間に、同じように「持ち上げられよう」という意志を固める。しかし、実際の持ち上がり方がにぶいものだった場合、その情報は岡田氏の脳だけではなく、自分の脳にも届けられる。介護者の重みや疲れを被介護者も同じように感じられる時というのは、二人の意志が共鳴しているだけではなく、二人の身体が効率よくエネルギーや情報を伝えあう協応構造を形成しているのだろう。


こういった介護の現場から、人間の身体には相互を感知し合う優れた能力があることがわかります。この能力の存在は武術の現場からもわかることは上で述べた通りです。武術家の甲野善紀先生が最初に介護のことを語り始めた時に、私も武術と介護のつながりを理解することができませんでしたが、身体を最大限に働かせようとするなかで、介護と武術は繋がってゆきます(強弁をしますと、究極の武術とは、邪気と敵意を持った相手を介護し、相手のその邪気と敵意を祓ってやることとすら言えるかもしれません)。




■相対する心身の現象としての授業

強弁ついでに、授業という教育活動について考えてみましょう。授業を単なる情報伝達の場と考えて、授業を機械に代行させることができるものとみなすこともできますが、現場教師にとっては、授業とは、必ずしも学ぶ気になっていない学習者(時にはあからさまな敵意さえもっている教室の囚われ人)に学びを誘発する行為とみなした方が納得がいくのではないでしょうか。

しかしその「誘発」が容易ではないので、多くの教師は力づくで学ばせる途を選びます。その力には、教師の大きな体格、突然の物音・音声、高圧的な態度、権力による脅し、不安にさせることによる支配などさまざまな力がありますが、どれも学習者の心身の状況にかまわず、一方的に押し付ける点で共通しています。そして私たちはそのような手段でとりあえず学習者をコントロールできる教師を時に「教育のプロ」と呼んでしまいます。

もちろんそのような「教育のプロ」などというのは、真の達人ではありません。いや「達人」という言葉を出すまでもなく、そのような力ずくの教師は、同じようなSM的感性をもった一部の成功した学習者を除いて、学習者に慕われることがないでしょう。さらに重要なことは、学習者はその先生のもとを離れたら、おそらくはその学びをやめてしまうでしょう。たとえその先生の前ではよい点を取っていたとしても。

介護の世界にも、そのような悪い意味での自称「プロ」がいるようです。熊谷氏はそのような人に対して批判的です。


経験上、「腕に覚えのある介護のプロ」と自認をしている人に対して、私は良い印象を持っていない。自称「介護のプロ」の中には、《オレ流》を押し付けてくる人が多いという偏見をもっているためである。それは、過剰な自信によって介護者自身に緊張が不足しており、被介護者の身体から発せられる情報を拾わずに、あらかじめ決められたやり方を遂行する介護状況だから、情報の流れが「介護者→被介護者」と、一方向的になる傾向がある。そのような介護者の手は、道具ではあっても、探知機にはなっていないと思っている。


究極の教育とは、別々であった二人の人間が、学ぼうとする心身として互いに同調(あるいは共鳴)すること、と言えるかもしれません。最初は教師にだけあった学ぶ心身が、学習者にも伝播します。伝播といっても一方的なものではなく、教師は学習者の心身に合わせて自分の心身を同調(あるいは共鳴)させます。だから学習者は自分は理解されたとも思いますし、先生を理解したとも思います。そうやって学習者の心身が学びについて整えられたら、おそらくはその学習者はその先生のもとを離れても、学び続けるでしょうし、学びの喜びを他人にも伝えるかもしれません。

このセクションの私の教育論は、青臭い理想論・観念論のように聞こえるかもしれません。いや実際、教師としても、武術を稽古している者としても駄目な私が語っている以上、これは理想論・観念論にすぎません。しかし、教育とはどうあるべきかという理想・観念があまりにも失われているように思える昨今、このように、他分野の現象記述を参考にしつつ、教育という分野で人間の心身が本来なしうることを模索しようとすることも決して無意味ではないと思います。

まあ、難しいことを言わずとも、私達の身体はこわばっていませんか。あるいは学習者の身体は。教師と学習者の心身が伸びやかな教室を私たちは望みたいと思います。


















(注)
「水月移写」は「うつるとも 月も思わず うつすとも 水も思わぬ 猿澤の池」(あるいは「広沢の池」)という道歌から来ていますが、日野晃先生は、『武学入門 武術は身体を脳化する』で、この「水月移写」を達人の核として次のように解説しています。


その核とは、色々な武術資料等に残る「水月移写」という言葉であり、(もちろん精神を支えとした身体状態である。

この言葉の実体は、意識や無意識領域、そして肉体の隅々までも安定させていれば、自分の身体に全てを写し出すことが出来る、ということになる。

一般的には「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」、つまり、こちらの意識や無意識領域を含んだ全てが水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じ取ってしまう、ということであり、心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される、という訳になっている。

この「水月移写」という身体状態は、人間を「生物」というレベルにまでコントロールする。そうすることで、生物としての「反射」を可能にするのだ。

しかし、これは一般的に言われる、運動としての「反射神経」というレベルではない。運動としての反射は、いわゆる動態視力的なものを指し、「具体的肉体運動の起こり」に対しての資格情報からの運動だ。

達人の「反射」は、そういった動態視力を介在した反射なのではなく、相手の意識の揺らぎに対しての「反射」だ。つまり、運動が起こる以前の意志や意識に対しての反射である。

だから、この「生物反射」と「武術的運動」が組み合わされているのが、名人の体術の核ということになるのだ。(48-49ページ)


このような無意識的反射としての「水月移写」を、日野先生は医療場面にも見出します。


例えば、いくら治療の技術が卓越していようが、その治療家(医者も含む)が気遣いのない人間であれば、また、思い込みをはじめとする観念的なことが先走っている人、そして、対立・対抗的な人(総称で言えば、幼稚で傲慢、人との関わりを全く分かっていない人)だとすると、大方の病気の方は無意識的に「緊張」という反射を起こしてしまう。そうすると、いくら治療の技術が卓越していようが、病気の方はまずはじめに「緊張」し、そのことによって無意識的なところで拒否反応が出てしまうので、結果として良い治療の結果が得られない。さらに悪いことには、人との関係を全く分かっていない医者は、病気の方に対して「不快感」を与えることになり、治療以上に逆の作用を与えてしまうことにもなるのだ。もちろん、こういった無意識的なことなので、患者側も敏感に察知できる方とそうではない方とに分かれるが、察知できないからといって、悪い高価がないのではない。ただ察知できないだけなのだ。(160ページ)


このような話を聞くと「はあっ?そんなのエビデンス出してから言ってくださいよね」と馬鹿にする人もいますが、私は上の幼稚で傲慢な医者などとは正反対の人を実際に知っていますので、このようなことはあることだと思えます。私が知っているその方は、多くの人に思慕され、その人が来ただけで場が和むような人です。― と、こう書きながらその方のことを思い出していると、その方とは正反対のような人のことも思い出してしまいました。そのような人が来たり、声が聞こえてくると、確かに私などの身体は微かながらも確実に緊張します。

と、私のことはさておき、このような身体論をする時に大切なのは、やはり


「身体の実感に自分の頭が素直に従えるだけの柔軟性があるのか?」(221ページ)


ということでしょう。




追記 (2012/01/18)

ある学生さんが教えてくれたのですが、TOEFL-ITPでの677点というのは満点なのだそうです。私のスコアはリスニングとストラクチャがそれぞれ68点でリーディングが67点だったので、私はリーディングを一問間違えたかと思っていたのですが、これらのスコアは全部満点でした。

TOEFL-ITPのスコア表(2012年1月18日にダウンロード)
TOEFL-ITPの公式ホームページ
http://www.ets.org/toefl_itp/content/

「嘘つけ!」と疑う人のために、念のためのスコアのコピー(笑)
TOEFL-ITP(2011年12月17日実施)柳瀬のスコア







2012年1月13日金曜日

白井恭弘 (2012) 『英語教師のための第二言語習得論入門』大修館書店



『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)の時と同様、この本の草稿を読ませていただくことができた御縁で、この『英語教師のための第二言語習得論入門』もいち早く入手することができました(よく言われることですが、ゲラ刷り原稿ときちんと製本された書籍というのは、まったく違って見えるものです。総合作品としての書籍はやはりいいものです)。

冷静に第二言語習得論を考えるということは、「明日から使える授業のテクニック」などを求めて東奔西走し右顧左眄することよりも、はるかに実践的で現実的だと思います。この『英語教師のための第二言語習得論入門』は、タイトルが示すように、前作の『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)よりもはるかに親切に第二言語習得論が教室現場にどのような意味合いをもつかを解説してくれています。こちらを先に読んでから岩波新書を読むと、第二言語習得論という科学の実践的意味合いがより理解できるでしょう(科学と実践は、直接的・直線的には結びつきませんが、科学の理解は実践の洞察力を深め、実践の経験は科学に展開を促す批判的な問いを与えます)。

値段も安いこともあり、この二冊は英語教師必携・必読の、専門的教養書といえるかと思います。まあせめて、このくらいは買って読みましょう。














2012年1月5日木曜日

日野晃先生による「文科省が『武道』を導入」という記事




1月3日の私の記事「身体で考え、示す」でも書きましたように、ふと日野晃先生の著作が目にとまり、それらを再読できたことは本当に幸運なことでした。

そうやって日野先生のことを少し改めて調べてみるとブログも書かれておりました。



日野晃のさむらいなこころ
http://blog.ap.teacup.com/hinobudo/



あわててRSS購読を始めましたところ、すぐに知ることができたのが1月4日の「文科省が武道を導入」の記事でした。このブログ記事の続きは以下のページに全文掲載されていますので、ここではその全文掲載ページのURLを掲載します。



文科省が「武道」を導入
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



読んで、様々なことを感じさせられましたので、勝手ながらここに日野先生の文章を引用(適宜、読みやすさのための改行を挿入)しながら、私の蛇足の文を加えます(ご興味ある方はぜひ上のページの全文をお読みになって、原文の流れに即してご自身で様々なことを感じ取ってください)。



日野先生は、文科省が武道を学校教育に導入するというニュースに対して、日頃から「日本の軍国主義(への逆戻り)」を過敏に糾弾する国々が何もコメントを出していないことから、国際的にも「武道」というものが、「完全に習いごとやスポーツの一つであり、何ら本質が無い」と見られていると考えます(そういえば国内でも武道の導入を「本来怖ろしいものを学校教育に入れること」として捉えている声はほどんどないように思えます)。日野先生は「武道も舐められたものだ」とおっしゃいます。

日野先生が慨嘆されていることは、武道とスポーツの違いがまったく理解されていないことです。まあ、たいていの日本人にとっての「柔道」とはオリンピック競技のことであり、海外の人にとっては"Judo"でしかないというのが実際のところでしょう。「えっ、Judoも武道でしょう?」というわけです。しかし、日野先生は武道とスポーツの違いを見失ってはいけないとします。



むろん、スポーツ競技が悪いだのレベルが低いだのという話ではない。

スポーツと武道は全く違うという話だ。

武道と呼ぶからには、少なくとも GHQ が禁止したものでなければいけない。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



こう書くと、日野先生は、武道導入によって軍国主義を復活させるべきと言いたいのかと思われるかもしれませんが、それは誤解です。



しかし、ここで勘違いてもらっては困る。
武道=軍国主義ではないし、武道=意味の無い精神主義でもない事を。

武道の本質には二重性がある。

その一つは、自分以外の価値のあるものを、 自分の生命を投げ出して守ること 。
例えば、家族であり、地域であり、国のことだ(外国でいえば軍人のことだ)。

その一つは、 生命ということを直視(死生観)すること である。

この二点が暗黙の内に備わっている精神が、日本には脈々と流れており、それが日本を取り巻く当時の環境や間違った指導者の為に歪められた結果、軍国主義と呼ばれる結果になっただけなのだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



競技スポーツは大半の場合、競技者個人の栄光や満足のために行ないます(そしてその個人を有する組織・団体・国がその栄光をできるだけ利用しようとし、競技者に様々な便宜をはかることも周知の通りです)。しかし武道は、個人(=言い切ってしまうなら、私利私欲)のためでなく、自分以外の何か・誰か大切なものを守るために稽古します。自分自身をも守ることも当然ながら目指しますが、武人は究極のところで、犬死でなく、自らの生を完成させるための自らの死に方・死に場所を求めます ― そのあたりをエンターテイメント作品でわかりやすく描いているのは「ラスト・サムライ」です。現実世界では例えば、東京消防庁ハイパーレスキュー隊がそういった「サムライ」がまだ生きていることを示したかと思います ―。

この、生命を投げ出すことをも回避しないという武道の第一の本質は、第二の本質である死生観にそのままつながります。

武道では、人を殺傷しかねない技を稽古します。現代の稽古では仮想上のことにすぎないかもしれませんが、稽古での身体を通じて生死と向きあうわけです。武道の稽古では死生観が練磨されます。


つまり、こちらの一瞬の隙、一瞬の決断の鈍り、曖昧な動き、無駄な動き等が、こちらの生命の危機に直接繋がるということであり、こちらの攻撃そのものは、相手の生命と関っているからである。

したがって、死生観とでもいうべきものと共に、成長していかなければならないのが、武道の稽古なのである。

死生観 とは、死を通した生の見方をいう。

人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?死後や死者をどう捉えるか?その大前提の下に、生きることとは何か?死ぬこととは何か?等に対しての見方、考え方のことである。
むろん、正解などどこにもない。

そのことと正面から向かい合い考える。

その考える過程に意味があるだけである。

その意味で、答えだけを求めたい、あるいは知りたい現代人には、まるで不向きなことだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



下手をしたら相手に大怪我をさせてしまいかねない武道の稽古では ― つまりルールで安全を十二分に確保した競技スポーツではない本来の武道の稽古では ― 自分本位で身体を動かすことが許されません。そのような自分勝手な動きでは攻撃することも防御することもできないからです。武道の稽古では我意・我見・我執を取り去った動きを修めなければなりません。


また武道を、体操や単なる運動と無意識的に捉えていれば、 脳から身体そのものに発する神経系統の信号は、従来のまま、つまり、幼児や子供の頃から自然成長的に培ってきた、単純な運動系の信号でしかないからだ。

そして、自我と自意識の表れとして、根本的に自分本位で物事を進める、という思考回路が定着している。

そこを変換させる、進化させる、ここに武道を稽古する意味、稽古が武道になっていく意味があるのだ。

そこが面白いところだ。

つまり、端的に言えば現代において武道を学ぶとは、自分を超えて行くところにある、という一語に尽きるのだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm


この「自分本位で物事を進める思考回路を変換させ」、「自分を超えて行く」ことが単なる観念論でなく、実際の技に直結していることを日野先生は解説されます。ですがこのあたりは理解しにくいところかとも思いましたので、以下、日野先生の文章を私なりに書き直してみます(同時に私は、私の誤解が混入してしまうことを怖れます。繰り返しますが、ご興味を持たれた方はぜひ原文をご参照ください)。



「自分を超えて行く」とは、心においては「自分勝手を排除する」ということであり、運動においては「自分勝手に動かない」ことです。「自分勝手に動かない」ことは、よく言われる「相手の力を利用する」や「相手に逆らわない」でもありますが、これは言うは易く行うは難しいことです。特に相手が武道をきちんと稽古しているなら、その相手は違和感を察知する能力が極めて高く、自分が「相手に逆らわない」ように動いているつもりでも、相手にはその違和感がすぐに察知されてしまうからです。

武道での察知能力は、相手の投げる、突く、斬る等の「いま・瞬間」、意識の起こりを察知することです。武道の守り(盾)においてはこの察知能力を高めます。しかし、戦わなければならない相手には守るだけでなく攻撃しなければなりません(矛)。ですが、その攻撃(矛)が相手に察知されれば攻撃はできません(逆に反撃すらされてしまいます)。

ここに武道の稽古の「矛盾」があると言えます。つまり互いに限りなく攻撃能力(矛)を高めながらも、同時に限りなく察知能力(盾)を高めなければならないということです。相手の高い察知能力(盾)を超えようとする中で、武道を稽古する者は自分の攻撃(矛)の背後にある「意識の起こり」(=自我や自意識、ひいては自分勝手)を消すことに努めなければなりません。そのように稽古をつめば攻撃能力(矛)は高くなります。また、それは自らの察知能力(盾)をさらに高くすることにつながるでしょう。かくして武道の「矛盾」は限りなく武人を練磨するわけです。



日野先生は、この身体操作における自我・自意識・自分勝手の問題に向き合うことも、武道にとって本質的なことであり、この問題を回避したままの運動を武道の稽古と呼んではならないとお考えのようです。


つまり、ここを乗り越えていけるかどうかは別として、乗り越えて行こうとする事を武道の稽古と呼ぶのだ。

そして、そのことは昔日の達人と呼ばれた人達だけが、逆に言葉を返せば、ここに気付いた人、乗り越えた人が達人と呼ばれ後世に名を残す結果となったのである。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



さらに日野先生は、もし「武道」を学校教育に導入するのなら、この自意識の問題を外してはならないとします(この問題を扱わないのなら、「武道」導入は、単なるスポーツ種目の追加であり、学校教育に本質的な変化はもたらされないと考えるべきでしょう)。ですが現実の「武道」導入の背後には様々な政治的事情があるにせよ、多くの国民が思っていることは、日本社会はこのままでよいのか、何らかの本質的な変化が必要なのではないか、ということでしょう。それならば新たなスポーツ種目ではなく武道を学校教育に導入すべきでしょう(しかし、指導者が圧倒的にいないという深刻な問題もあるのですが)。


もしも、学校教育として武道を導入するなら、これらの要素を外しては話にならないのだ。
また、これらの要素を外してはいけない理由に、武道としてではなく社会生活を送る人としても外してはいけない。

幼い自意識の大人を排出すれば、つまり、自分勝手を正しいと思う人を排出すれば、社会は無茶苦茶になるから。

それは、メディアを賑わす事件を見れば分かる筈だ。
すでに排出されているということだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



と、武道の話をしましたが、このブログの本来の読者(のはず)である、学校英語教育関係者の方々は、縁遠い話と思われたかもしれません。

しかし、そうではありません。

それは日野先生が滋賀県のある小学校で6年生のあるクラスで行ったワークショップのエピソードからもうかがうことができます。


小学生達は少し緊張した面持ちで、教室に集合していた。
初日は、まず武道についての話を、休憩を取らず二限に渡って話をした。
この長時間に及ぶ難しい話を子供達は、微動だにせずに聞いた。
それをこの場にいた、校長を含め各クラスの担任や副担任は驚いたのだ。

休憩時間の時、その事が話になった。
担任達は一限であっても、子供たちを集中させるのは難しいのに、どうして皆は私の話を聞いたのか、と不思議がってその理由を私に聞いてきた。
それが本来の武道の最重要要素である「相手に声を届ける」の実際であり、「正面向かい合い」だ。

私自身が子供達と正面から対峙し話をした。
もちろん、それだけではない。
子供達の表情、身体の表情を観察し、退屈しているのか集中されているのか、を見極めながら話をしていたのだ。
それが正面向かい合いの一面でもある。
つまり、一方通行的正視ではなく(一方通行的正視は『睨む』という)、相互に関係性が築き上げられる仕掛けを持つ正視ということである。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



この、相手に「正面から向かい合い」「声を届ける」ことは以下のセミナーで行われているようです。


武禅
http://www.hino-budo.com/buzen3.html
第85回武禅(平成23年10月8~10日)レポート
http://www.hino-budo.com/buzen5.html




たまたま卒業生からもらったメールでの新年メッセージにも、次のような述懐がありました。

9か月の教員生活を経験して、英語教員として新たに気づいた課題も多くあります。授業規律をつけることの難しさ(生徒指導面)、生徒一人一人と信頼関係を築くことの難しさ、そして授業には日々”変化”が必要であるということなどです。

こうして字面におこしてみると、学生時代にも上記のことの重大さを知っていたような気が致しますが、実際に生徒たちの日々の変容を目の当たりにしてみると、まるで違ったことのように感じられます。今まで考えていた対処法をすれば、すっと解決する、そんな簡単なことではないと実感します。

学生時代に対処法だと思っていたことがこんなにも実践するのが難しいことなのかと、日々考え、悩んでおります。生徒たちは、言葉尻ひとつ、ことば選びひとつで、全く違う感情を抱きます。そう考えると、二の足を踏んでしまったり、対応が後手になったりと多くの失敗を重ねました。これらを次年度には生かしていきたいと思います。


学生時代に字面で学んだ知識が無駄だとは思いませんが、その知識も、教師の生身で具現化し、生身の生徒との関係の中で活かされなければ、役にたちません。教師は「現場」の「実践家」である以上、具体的な関係性の中で感性を十分に働かせなければなりません。

教師が生徒に「声を届ける」ことの大切さは、かつては竹内敏晴氏などが力説していましたが、まずは生徒と正面から向き合い、生徒に声を届けることを、すぐにはできないにせよ、試みなければ、どんな指導法を学んでも、どんなに声を荒らげても、無駄なのかもしれません。


まあ、そのように自分自身と他人(ひいては自他の生死)と向かい合うことを回避し続けることが可能になるように、企業が次々と商品を発売してゆき、人々が次々にそれに目を奪われようとすることが、現代の高度資本主義社会・消費社会と言えばそれまでなのですが。





しかし、この文章をまとめながら感じたことは、この書いている自分自身の自分勝手さです。こうして文章を書くことで振り返ってみると、私は武道の稽古はおろか、日常の仕事も生活も自分勝手にしか行なっていません。私も少しはきちんと自らの我意・我見・我執に向き合わなければと思います。少なくとも自分は恥ずかしい存在なのだという自覚は忘れないようにしたいと思います。







2012年1月4日水曜日

言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版)




以下は、2011年8月21日の第37会全国英語教育学会で口頭発表した研究の草稿です。授業「言語コミュニケーション力論と英語授業」の参考資料としてここに掲載します。


***



言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述




広島大学 柳瀬陽介



1 序論


1.1 背景と先行研究

質的研究は、2000年代から日本の英語教育界でも認知されるようになってきたが、質的研究に関する原理的理解はまだ十分ではない(柳瀬 2011)。リフレクションやナラティブも実践としては進められているが(吉田 2009)、さらなる発展のためには原理的理解を必要とする。自己やコミュニケーションといった根源的テーマを理論的に掘り下げ、かつその理論的理解を実証的に検討しておく必要がある。

自己やコミュニケーションについては、近年の神経科学やルーマンの社会学などがそれぞれの立場から同じような理論的理解に到達しようとしている。神経科学は「自己」について、フロイトらが説明した無意識(unconsciousness)以外に、自覚や想起が不可能な非意識(non-consciousness)の領域があることを明らかにした。その非意識がなしていることは膨大なものであり、私達が「自由意志」(free-will)として想定していた意識の働きは存外に限られかつ遅延されたものであることも解明されてきた(Libet 2005, Eagleman 2011)。さらに「自己」(self)とは、認知機構(mind = consciousness, unconsciousness, non-consciousnessのすべてを含む概念)が自己言及を行うことにより生じるといった哲学的展開(Damasio 2010)も生じている。

自己言及(self-reference, Selbstreferenz)に関する哲学的展開は、20世紀前半のラッセルのパラドックスゲーテルの不完全性定理など、さらに20世紀中頃のサイバネティックスや人間の言語の最大の特徴とされる"recursion"に代表される大きな潮流だが、その潮流をコミュニケーション論に結実させたのがルーマンの社会学(ルーマン 2009, Luhmann 1998)である。(なお"self-reference"を、この論文では主に「自己言及」と訳すが、自らに"recursion"(「再帰」)するという意味では「自己回帰」「自己参照」といった訳語、自らを基盤とするという意味では「自己準拠」といった訳語も可能である。以下、「再帰」「自己回帰」「自己参照」や「自己準拠」といった語も"self-reference"の意味合いを明確にするために適宜用いる)。

ルーマンは自己組織化するシステム(オートポイエーシス・システム:後述)を理論基盤とし、コミュニケーションは、人間の意識を基盤としながらも、意識とは独立して自己組織化するコミュニケーションシステム(「社会システム(soziale System, social system)」)だとした。意識も意識システム(「心理システム(psychische System, psychic system)」)であるが、これもその基盤となる生物システム(「生命体(Organismus, organism)」)には還元できない自己組織化を示す。しかしこのような基礎理論に基づいたリフレクション・ナラティブ研究は、TESOL Q (2011, 45,3)の特集号(the special-topic issue on Narrative Research)などにも見ることができない(Barkhuizen, 2011)。基礎理論の取り込みは英語教育研究の課題である。


1.2 研究課題と意義

上記のような背景から、本論はリフレクションやナラティブを、特に自己とコミュニケーションの観点から理論的かつ実証的に解明することを目的とする。研究課題は、言語教師志望者のリフレクションとナラティブを、ルーマン社会学にならって自己観察と自己記述として捉え、その自己言及的側面を理論的に理解し、かつ実際のデータからその理論的理解の妥当性を検討することである。

本研究は、リフレクションやナラティブそのものの理論的側面に着目するという点で理論的意義を有する。さらに、リフレクションやナラティブ実践への理論的支援という実践的意義も持つ。さらに、自己やコミュニケーションという根源的テーマは、現実の言語使用をめぐる営みの基盤であり、これらの解明は、その他の英語教育研究にも深いレベルでの洞察を与えることが期待できる。

ここで本研究の免責事項を付記しておくなら、本論は研究者の主体的関与を考慮しない(あるいは否定する)いわゆる「客観的実証的研究」ではなく、そのような枠組みによって評価・批判されることを是としない。また後述するプロジェクトの教育的卓越性を示そうなどとするものではない。さらに、研究協力者のプライバシーを守るため、研究協力者の個人的分析などを避け、データIDや記述においても、万が一の個人特定を避けるため、所属講座や性別はわざとわかり難いように記述する。



2 理論的背景

ここでは主にルーマンの晩年の大作『社会の社会』(ルーマン 2009)に依拠しながら、観察・二次的観察、自己・自己言及・オートポイエーシスといった概念を整理する。

まずは観察(Beobachten, observation)である。観察を理解する際に重要なのは、自分が何かを観察するとき、観察をしている自分自身は観察対象から外れていることである。しかし観察されていないからといって、もちろん自己が不在なわけではない。自己は、自らが何かを観察している時、その観察をしているという自覚において成立している。つまり、何かが観察されているからには、それを観察している何か(=自己、Selbst, self; 主体、Subjekt, subject ― 本論では「自己」と「主体」を同義とする)があるはずだと、自らの認識が自らに回帰することにより自己(あるいは主体)が、観察によって基礎づけられるわけである。ルーマンは次のように端的に述べる。


主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(ルーマン 2009 1166)

Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (Luhmann 1998 868)


自己とは自らが認識や行為を自覚的に重ねる度に自己回帰的に形成される。新たな認識や行為を行う度に、それらを行なっている自己が自己準拠的に生成する。それは不変・不動の機械が、インプットを内に入れアウトプットを外に出すイメージではない。機械は作動により自らが変容することはない(たとえ摩耗することはあるにせよ)。だが自己は機械と異なり、認識や行為の度ごとにその作動が自己回帰し自己そのものが変容する。変容といってもそれはランダムな変化ではなく、認識や行為に適した形での変容であるので、それは組織化と言ってもいい。さらにその組織化は自己を基盤として新たな自己を作り出すわけであるから、「自己組織化」(self-organization)「自己再生産」(self-reproduction)や「自己創出」とも呼べる。ここにおいて、システム論的に作動的閉鎖性(operational closure ―システムの作動はシステム内に閉じられているという意味―)が強調される時、「オートポイエーシス」(autopoiesis)という用語が好まれる。本論も今後この用語法に倣う。

自己をことさらに観察(自己観察)しようとするなら、私たちのオートポイエーシス性が更に顕在化する。自己は私達とは分離独立した時空に存在する実体ではないわけであるから、自己観察は私たちの行為や認識を観察することによって行うほかない。自己は、その行為や認識を改めて観察することによりようやくそれなりの形を表す。もしもともとの認識が(何か他のものの)観察ならば、この自己観察は「観察の観察」という意味で「二次的観察」(second-order observation)と呼べる。

しかし重要なことは、二次的観察も観察に過ぎず、それ独自の盲点を持つことである。二次的観察を行なっている際の自己はその観察の基底ではあるもののその観察の対象とはなっていない。三次的観察を行えば二次的観察の際の自己を観察できるだろうが、その三次的観察にも盲点がある。観察の次元を上げても観察が完璧に近づくわけではない(この理由でルーマンらは「三次的観察」といった「二次的観察」以上の高次の標記は使用しない。本論もこれに倣う)。さらに観察は多様であり多元的でもある。私たちはこれ以上の観察を要しないような最終的で客観的な観察を持ち得ない。

最終的で客観的な観察を持ち得ないということは、このオートポイエーシス的な認識論が近代以降の伝統的認識論と異なることを示している。伝統的認識論は、主体とはまったく独立し、観察されることによってもまったく変容しない客体(の存在と認識)を主張している。もちろん例えば計測機械を用いることにより、私たちは長さや重さといった観察において高い客観性を担保できる。しかし計測機械などがない観察においては、この伝統的認識論の客観性は主張しがたい。人間は観察されているとわかっただけで振る舞いを変える(「ホーソン実験」)し、観察者も被観察者に観察を自覚されたことを自覚してしまうと観察が変わる。私たちの日常的・人間的な観察において、客体も主体も変容を免れない。

とはいえ私たちは時に、ある物事が一定の形でしか観察できないと感じる。しかし、それは「客観性」を得たのではなく、ある主体が自己回帰的に観察を繰り返す中で、一種の観察パターン(「固有値」)が成立したと考えるべきであろう(ルーマン 2009 1186) 。また、自己の要素は多種多様で多く存在するわけであるから自己要素の組み合わせの総数をシステムは予め知り尽くしておくことはできない。オートポイエーシスは時に自らが驚くような自己を産出する。



3 データ収集方法

概要:データは、ある教育学系の大学院で英語、国語、もしくは(第二言語としての)日本語を専攻する修士課程1年生を対象に行われた「プロジェクト」の活動を通じて収集された。プロジェクトの説明を聞いた上で筆者の活動グループへの帰属を希望した14名は、匿名化されたデータ公開に改めて同意し、プロジェクトに正式参加した。プロジェクトの第一目的は「私はなぜここにいるのか」というテーマで、自分が言語教師を目指すに至った経緯を想起(自己観察)し、それを書く(自己記述)することである。これは参加者の学究生活充実のために設定された。同時にプロジェクトは第二目的をもち、これが本論での研究となった。第二目的は、第一目的での自己観察・記述を重ねる中で気づいたことをまとめること、つまりは二次的観察・記述であった。記述は参加者だけがアクセスできるWebCTシステムにすべて蓄積された。日本語を母国語としない者も複数いたが、その参加者もすべて日本語で記述した。

期間:2011年5月から7月にかけての8週間。活動をするのは1週間に一度の90分の授業と、授業外でのWebCTシステムへの書き込みであった。

(1)第1期の5週間は書記言語活動であり、(1a)授業の大半を使っての自らの学習履歴の想起と記述(自己観察・記述)、(1b)授業最後の10-15分を使ってその日の自己観察・記述を振り返りそのことについて書く(二次的自己観察・記述)、(1c)授業外の時間に他の院生の学習履歴記述を読んで気づいたことを書く(他人の自己観察・記述の二次的観察・記述)こと、が5週間(つまりは5回)繰り返された。

(2)第2期の3週間は音声言語活動であり、14名がランダムに3グループに分けられ、そのグループで第1期に気づいたことを話し合った。具体的には(2a)授業の大半を使ってのグループ討議、(2b)授業最後の10-15分を使ってその日の討議を振り返り気づきを記述、(2c)授業外の時間に他の院生の書き込みを読んで気づいたことを書くこと、が3週間(つまりは3回)繰り返された。

方針:以下の方針が最初に説明され折に触れ再確認された。(i)自分が書く話は結論づけなくてよい:いわゆる「いい話」にまとめなくてよい。(ii)完成品は求めない:記述は未完成のままでもよいし、文体上の統一なども求めない。(iii)規範的な判断はしない:教師も含めて誰も書かれた内容に関して道徳的な批判をしない。(iv)いかなる強制もしない:書きたくないことは書かなくてよいし、何か書きたくないことがあるということも書かなくてよい。(v)プライバシーに留意:WebCTシステムの範囲とはいえ書かれたものは他人に読まれるので、関係者のプライバシー侵害には十分気をつける。

理論的導入:本プロジェクトの第一目的はともかく、第二目的は趣旨を理解しにくいとも思われたので以下の理論的解説を行った。(ア)ルーマンのオートポイエーシス論(筆者のグループ帰属が決まる前の合同説明会で20分)。(イ)神経科学の意識論(第1期初回の15分)、(ウ)ユングのタイプ論(第1期初回の15分)、(エ)村上春樹の自己記述に関するエッセイ(第1期初回の10分)。(ア)と(イ)は本論で説明した趣旨であり、(ウ)は観察の先入観について、(エ)は自己を抽象的・客体的に取り出すことの困難について説明したものであった。

データ整理:以下の過程でデータを整理した。(A)基本データの確保:WebCTシステムに残されたすべての文章(約16万文字)を電子ファイルにコピー。(B)一次抽出:基本データから理論的に興味深いと思われた表現を抽出(約3万7千文字。基本データの23%)ただし導入した理論に反することや、それに関係ないことも排除しない。(C)二次抽出:一次抽出データを読み直し分類化してさらにデータを絞る(約2万4千文字。基本データの15%)。(D)分類化された二次抽出データをさらに何度も読み直し、口頭発表・論文執筆の際に参照するデータを精選する。データには、順番に、ランダム化した個人番号(2桁のアラビア数字)・日本語が第一言語(F)か第二言語(S)かの区別・書かれた日付(4桁のアラビア数字)が記号化して付与されデータIDが付けられた。つまりデータIDは7桁の英数字である。だが、記述の簡素化のため、以下しばしば冒頭の2桁数字だけを参加者を示すために用いる。



4 データ解釈


4.1 意識のオートポイエーシス性

自己観察と自己の固有値:当然のことながらこのようなプロジェクトでは自己観察が促進されるが、興味深いのは最近のこと(学部時代)のことは書きにくく、昔のことの方が書きやすいことである(12F0603)。自己観察・記述が単なる記憶の再生なら、最近のことについての方が書きやすいはずであるが、実際はその逆であることは、自己観察・記述(のパターン)は、年月を重ねて徐々に重層的に形成されるものであることを裏付けている。

そのような重層的な自己観察・記述は、自己回帰的でもあり、それゆえ時に「固有値」に収束していることも裏付けられた。例えば06F0520は、自分が普段から自分についてよく考え「私」像を強く一定の形で形成しているので、本プロジェクトのような特別な機会ではその枠組に入らない自己観察・記述を自分が拒んでいるかもしれないとする。だがその枠組からの解放も可能で、同じ06は約一ヶ月後の感想で自分の人生を書けなかった理由を書いている(06F0616)(しかしこの記述をするためには一ヶ月のコミュニケーションが必要であったとも言える)。また別の、あるべき自己像を強くもっていると述懐していた13も、プロジェクト終盤にかけて、たくさんの『自分』を対象化できたのがよかったと述べ、唯一であるべき自己から解放されたとする(13F0630)。またこういったパターンは他人にも観察されることが「他人の目を気にしながらもやはり『記述にその人らしさが出る』」(10K0623)などからもうかがえた。

意識の自己準拠・回帰・参照的創出:04S0609は明確に「自分の歴史は自分で作っているように強く思う」と言い切る。しかしその「作る」とは同時に「記憶が当てにならないこと」の自覚を伴ったものであり、この04は後に自己観察・記述が「素顔」であるという気持ちと、「薄化粧」だという気持ちの両方が自分の中にあると述べている(04S0616)。このことから「自分で作っている自分の歴史」も、単一的な意思による単純な作成ではないことがわかる。この自己の不確定性は08F0610の「いろんな考えが思い浮かびはしたが、どれが本当のそのときの自分の気持ちなのか、全く分からなかった」という発言、あるいは09F0616の「自分の過去の事実は変わらないが、思い出すそのときの状況で過去から受ける印象や細部の有無が変わっており、その記述も変わる」といった発言でも確認できる。とはいえ自己観察・記述は、まったくの恣意でないことは、11S0502が自分について「どうしてこうなったか学習履歴を振り返って原因を探し出したい」と自己観察・記述を信頼していることからも伺える。

意識と書記言語:言語発話とは単なる意識の直接反映ではなく、また音声言語と違い、書記言語によって表現されることによってはじめて明らかにされる意識のあり方もあることが今回のデータから明らかになった。

まず挙げられるのは、書記言語を使用することにより、断片的な意識や思考がまとめられ対象化されて、自己意識が明確になることである。10F0513は「思考がそのままパソコンの画面に出たらいいのにとも思うが、書き言葉として、自分の考えを表出することも自分のことを振り返るために重要」とも述べる。さらに直截的には、13F0603は「履歴として羅列をすると、量(頻度)が目で把握できる」ため普段の生活では意識に上がりづらいネガティブなことに気づくことができるとする。

こうした対象化に促されて思考がはっきりするし、思ってもみなかったことが出てくることは、10F0513や05F0609の発言にも伺われた。これらは、書記言語を媒介にして自己から出てきた自己観察・記述が、さらに素材となり次の自己観察・記述を招くというオートポイエーシスが生じていることを示唆している。この事態を、11F0603は「一時的に何を書けばいいのか分からなくても、とりあえず書く、そのうちに何を書きたいかだんだん分かるようになる」と表現し、01F0708は「言語化することで、その時の感情が改めて思い出され、実はそうだったのかという気づきが多く出てきました」と表現する。

そうしてオートポイエーシスによって生じた自己記述は、自分で予期しなかったものとなることもある。09F0513は「最初は自分の思うままに書き始め、その時その時の自分の考えを書いているが、読み直して整合性がなかったら修正を加える」と述べる。09はさらに「何度も読み直したり推敲したりしたにもかかわらず(むしろそのせいで)、後から読んでみると自分の感じていたことと異なっていることがあるというのが、なかなか興味深かった」(09F0623)と述懐する。自己観察・記述は最終的な完結を迎えることもなく、「自己」とはどこかぼんやりと把握できるにすぎないものである。08F0708はこう発言する―「思考していた時の自分の思いと、最終的に文章化されたものと見比べたときの、あらゆる変化や、ただ頭の中だけで考えても分からない、自分自身の性質のようなものを発見することができた」。自己観察・記述は、(書記)言語が固有のメディアとして働くことにより生じるものであり、言語は意識の状態をそのまま表現する透明な媒体などではない。


4.2 言語のメディア的特徴

ここでは特に意識、コミュニケーションといったシステムの違いにかかわらず成立していると思われる言語のメディア的特性について述べる。

メモ言語とコミュニケーション書記言語:自分自身のためのメモとして書かれる言語と、書面のみで他人に意味を伝えるコミュニケーション用の書記言語は、同じ「書記言語」であっても、実質はかなり異なる。その違いは「どう書けば読み手が理解してもらうか、或は理解しやすいか」(03S0602)、「文章に直すことで更に、『他人に読みやすいものを』との意識が更に高まる」(13F0602)、ひいては「『うまく書こう』とか『表現を整えよう』という心理が働き、思ったことをそのまま書くことはできなかったように思う」(14F0527)といった述懐に見られる。

音声言語と書記言語の違い:音声言語は書記言語に比べて産出の労力が少なく、かつ話者と聴者が同一の時空を共有し表情などのパラ言語的表現を間近に観察できているため、メタメッセージ ―例えば「このメッセージを冗談として理解せよ」と示す笑顔など― が明確であり、信頼関係が醸成されやすい。そういった特性から「私自身は文字で書けなかったことが正直に話せました」。(04S0630)といった発言なども見られた。また簡単にできる質問といった相互作用により、書記言語では理解しがたかった点も理解できたというのは(07F0623)の述懐である。

他方、言語の産出の労力が大きくかつ言語が対象化されそのまま半永久的に残る書記言語においては、書き手は慎重に思考し分析的になる。12F0624は「その場で消えていく話し言葉と、後に残る書き言葉では、その重みが全く違うように思いました」と述べる。書記言語のほうが思考に適していることについては、03S0630は「言語化しないと、意識が明確にならないこともあります。だから、何かを考える際に、考えるだけだったらめちゃくちゃになる可能性があるので、書いたほうがわかりやすいかもしれません」と述べ、04S0609は「書くことと考えることは同時に起こっているような気がする。書いているうちに考えが浮かんできて、それらを整理し、まとめていくことができる」とした。

第二言語性:日本語を第二言語とする参加者は、端的な困難(04S0603)、ニュアンスが表せない苦労(03S0603および04S0630)、自分が書いたものが小学生が書いたものに見えるかもしれないといった不安(03S0526)、異文化を伝えることの苦労(04S0630)などをやはり感じていた。さらにジャンル習得から来る困難もあった。04は、「論文やレポートなどの学術的な書類の書き方と違って、学習歴は自分の体験や日頃感じたこと、考えていることを書くという創作的な(小説を書くような)書く作業なので、外国語でどこまで自分の心情をありのままに、的確に表現することができるのか、一種の無力感さえ覚えました」(04S0630)と述懐した。

ただ言語教育指導の点で興味深かったのは、このプロジェクトでは言語正用・誤用について一切の介入も行われなかったのにもかかわらず、第二言語参加者は、言語的判断から解放されて書くことの楽しさを表明するだけでなく(11S0527)、正確性を逆に追求するようになったことである。04S0708は「外国語としての日本語で書く作業では、意味がだいたい通じればそれでいいというのではなく、できるだけ正確な日本語で書くように、自分の中で強く思いました。速くて多くのことを書くよりも、内容が少なくなっても正確に書くように注意を向けていました」と述懐した。


4.3 コミュニケーションのオートポイエーシス性

 オートポイエーシスは、コミュニケーションという集団のレベルでも観察される。とはいえ、本研究の主要データは、あくまでも参加者個人による書記言語報告であり、第2期の音声言語での討議も録音していないことを予め断っておく。
 
 異なる人々が集まってのコミュニケーションでは、個々人のコミュニケーション・スタイルの違いが当然のことながら問題になる。自己開示に対しては「怖い」「困った」と感じる者から、「気にしていなかった」「そんなことは忘れていた」と述懐する者など様々であった。しかし自己開示に消極的であった参加者も「私だったら、これを人に知って欲しくないので書きたくないだろうと思うことを、受講生の方が書き出されたのを見て、心の底から『勇気あるな~』と思って、感動しました」(04S0616)と感じ、「お互いの書き込みを何度も読むことによって、知らずに信頼関係が築けているようにも思います。書き言葉の重みも感じています」(04S0623)と述懐するなど、プロジェクトのコミュニケーションが、新たなコミュニケーション・スタイルに自己組織化していったことが示唆される。
 
 しかしコミュニケーションの自己組織化は、個々人それぞれに異なる影響を与える。08F0623の総括によれば、影響は内容面での影響、文体・表現の面での影響の二つに大別できる。内容面については、02F0616は「ほかの人の書いたものを読んで,面白いなあと思った部分も自分の“人生”の中で必死に探しました。人に喜ばせる,面白いと思わせる内容を書きたい」と正直に述懐した。文体・表現面については、表層的には前に述べたメモ言語からコミュニケーション書記言語への転換で述べたようなことが見られるが、深層については13が次のように総括する。
 
書く際の意識に関わらず、どこかで他者の目を気にした文章になっていたり、書く時点での自分の状況が求めるようなつながりになっていることは、ほとんどの人に共通するところだと改めて感じた。しかし、逆に言えば、こういった感想を書く際も、自分の中にある真の考え等とは別にした、よそいきの感想を書いているのかなとも感じた。(13F0623)


 しかし集団でのコミュニケーションが個人の意識に影響を与えるというのは、「本当の自分」を阻害するといった否定的な意味合いで捉えられるというより ― そもそも本論は「本当の自分」といったものに疑いの目をもっている ―、コミュニケーションとは、他人の見方を先取した表現方法を学ぶということなのかもしれない。
 
「他の人」「見ている人」を意識して書くようになってきていると思いました。何回も「書く」「他の人のを読む」を繰り返していくうちに、自分も含めた「読み手」の特性のようなものを理解して、それを意識した書き方になっているのではないかと思いました。(09F0616)


 コミュニケーション、特に書き話すことは個人では学べないと言えるかもしれない。



5 結論

 理論的に確認された自己観察と自己記述の自己言及的側面(オートポイエーシス性)は、今回のデータにより、意識レベルでもコミュニケーションレベルでも見られた。
 
 個々人の意識は、自己参照・自己準拠的に重ね書きされるものであり、自己回帰が過ぎると時に固有の自己観察・記述パターンに収束する。だが、そのパターンも書記言語によって記述されるならば新たな二次的観察の対象となり意識化され、そこからの解放も可能である。集団でのコミュニケーションも、個々人は集団でのコミュニケーションのあり方に大きく影響を受け、いわば、誰から・どこからということもなく、コミュニケーション自体が自己準拠的・自己組織的に展開する。
 
 意識とコミュニケーションの両方において言語は大きな役割を担う。音声言語と書記言語はそれぞれのやり方で意識とコミュニケーションそれぞれの形成に関与する。書記言語は特にメモ言語なのかコミュニケーション書記言語なのかで大きくあり方が変わる。加えて第二言語で書く際には、言語的困難・ジャンル習得の問題があるものの、互いにできるだけ正確に内容を理解し合いたいという動機があれば、外的な強制や介入はなくとも自然と正確な言語使用に向かっていく例も観察された。
 
 オートポイエーシスは、言うまでもなく「自己」を基盤としたものである。言語使用を、意識の十分な開拓およびコミュニケーションの十分な展開に基づくものとしようとするなら、言語使用における「自己」は重要である。だがこれは、特段に自分のことばかりを述べることを意味しない。観察・記述のオートポイエーシス性からするならば、狭義の「自分」以外の他のものの観察・記述も、「自己」の表現である。しかしこれまでの外国語教育では、ともすれば正用法・模範例文に即すること(典型的にはそれらを暗記すること)ばかりが強調され、言語表現と「自己」の関わりが軽視されがちであった。学習する外国語使用も、あくまでも一人一人の学習者がそれまでに培ってきた感情・思考、そしてそれらの表現媒体である言語(母語およびそれまで習った第二言語)に根付いたものでなければ、外国語は体得しがたいといえるだろう。
 
 意識とコミュニケーションは言語使用(および言語使用の学習)によって共進化する。ならば言語教育は、(それが単に言語形式の教育を行っている以外の時には)、意識システムとコミュニケーションシステムそれぞれの自己言及、および両者の接続を促さなければならない。つまり言語を言語のみとして教えるのではなく、言語を、自己意識を育て集団のコミュニケーションを構成するメディアとして改めて位置づけなければならない(この当たり前のことを認識しなければならないことが外国語教育の問題点の一つである)。
 
 この研究に対する考えられる反論について予め応えておく。反論の一つは、この研究では研究者の理論的バイアスがかかっている、というものである。それに対する応答は端的には「その通り。しかし『客観的』な実験研究でもその仮説に従った観察しかできない」となろう。いかなる研究とて理論的バイアスを持つ。測定の方法がいかに「客観的」なものであれ、測定の項目はその研究が採択する理論の傾向によって決まらざるを得ないからである。
 
 考えられるもう一つの反論は、研究者の権力性が今回のデータを引き出した、というものである。これに対しては、研究における教師と学生の権力関係を否定はしないものの、8週間にわたって14人の大学院生の全発言をコントロールすることは困難と応答する。本論ではページ数の関係で、ごくごく一部しか示していないが、数多くのデータが多種多様な形で理論を裏付けている。これらのデータすべてが教師の権力性によって生み出されたとするのは考えすぎであろう。
 
 今後の課題について述べるなら、意識・言語・コミュニケーションの関連は、言語教育の核でもあるので、より理論的な研究が必要であろう。同時に、歴史研究に比するべき、ある教師もしくは教師共同体に関する、より個性記述的な研究も必要であるし、そのような理論的・実証的研究に裏付けられた、教師リフレクション・ナラティブの支援も英語教育研究の課題の一つである。



参考文献

Barkhuizen, G. (2011) Narrative knowledging in TESOL. TESOL Quarterly, 45, 3. doi: 10.5054/tq.2011.261888

Damasio, A. (2010). Self comes to mind: Constructing the conscious brain. New
York: Pantheon.

Eagleman, D. (2011). Incognito: The secret lives of the brain. New York: Pantheon.

Libet, B. (2005). Mind time: The temporal factor in consciousness. New York: Harvard University Press.

Luhmann, N. (1998). Die Gesellshaft der Gesellschaft. Berlin: Suhrkamp Verlag.

柳瀬陽介(2011).「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』41.77-86.

吉田達弘他(2009).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』東京:ひつじ書房.

ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.


謝辞: 今回の研究は、参加者の理解と協力なしには成り立たなかった。参加者の誠意と熱意に改めて感謝する。また本研究は科研「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」(課題番号21520577)の一部である。科研の研究支援にも感謝する。