ある友人と話をしていて意気投合したことがある。村上春樹の小説の男性主人公はろくでもない人間である。私は村上春樹のファンとして―彼の小説の主人公に共感的に自分を見出している人間として―全面的に同意した。
村上春樹の男性主人公はしばしば女性を生身の人間として見ていない。男性主人公の恋人や配偶者が突然姿を消すことはそれを裏付ける根拠である。
より直接的な根拠は、小説に描かれる女性像に求められる。最悪の描き方は『1973年のピンボール』の双子の女の子(208と209)である―断っておくが、私はこの小説を偏愛している。この小説冒頭部分は、私が日本語で書かれた文章の中で最も好きな文章とすら言えるかもしれない―。主人公は突然208と209を部屋の中に見出す。そして彼女たちを必要とする。だが生身の女性としてではない。一種コミカルな天使としてである。天使扱いされて一時的に舞い上がる女性はいても、自らを天使としてしか見ようとしない男性を好む女性はいない。それは女性を人間扱いしていないということだからだ。
あるいは『羊をめぐる冒険』に登場するとびきり魅力的な耳をもった女性である。彼女こそは主人公を導いた者だった。だが彼女は物語終末部で突然に姿を消す。無論小説はその失踪について説明を加える(羊男―私が愛する登場人物だ―も説明する)。だがその失踪は私には唐突にしか見えない。村上春樹が、主人公と彼女の関係がどのように発展したのかを書ききれなかったのではないかとも勘ぐりたくなる(ひどいファンですね、ごめんなさい)。少なくとも読者は美しい耳をもった女性の人間的な語りを聞けないままだった。
露骨なのは『ノルウェイの森』の直子、いや、正確に言うと直子に惹かれて緑を振り回しながら、緑を好きだと言い、最後には緑と結ばれる男性主人公である。直子は直子の人生を生きなければならなかった。主人公が直子に惹かれたのもわかる。直子は主人公を深いところで捉えた。主人公の無意識は直子を必要としていた。悲劇的にというか、絶望的にというほどにまで。しかし主人公は緑とも会っていた。緑を必要としていた。そしてそれ以上に緑に彼を必要とさせてしまっていた。そして緑は少なくとも直接には直子を知らなかった。だから主人公には緑を守る必要があった。直子から、あるいは直子を必要とする主人公から。私は主人公に対して厳しすぎるのだろうか―しかし私は、主人公は、直子を一種の巫女として、緑を現世のすべてを取り仕切る母として見ていたように思えてならない。ここでも主人公は女性を生身の人間として捉えきれていなかった。
そして今回の『1Q84 Book 3』である。ここで村上春樹は青豆という魅力的な女性をほぼ等身大に描くことに成功している(特にこのBook 3では、ネタバレになるから言わないが、青豆はこれまでの村上春樹の女性登場人物が経験しなかったことを経験しようとしている)。
だが、「ふかえり」はどうなのだ。
「ふかえり」はBook 1とBook 2を通してひたすら神秘的で魅力的な女性として描かれる。男性の主人公(天吾)はふかえり―後に彼女は深田絵里子という実名を与えられる―に言いようもなく惹かれる。最初は彼女の小説に、次に彼女の存在自体に。
村上春樹のファンとして、あるいは先に述べたように彼の小説の主人公に共感的に自分を見出している人間として、私もふかえりに深く心ひかれる。特殊な出自をもち、独特の訥々としたぎこちない―というより特殊な語法でしか語れない彼女―しかし彼女のことばは私たちの心にまっすぐに届く(私は小説を読みながら彼女の声を実際に聞いているようだった)。平家物語やバッハの作品を暗記しながらも、読字障害をもち、日常的な能力はほとんどもちえていない彼女―しかし彼女は心の深いところまですっと無防備に入り込んでくる。もし私が実生活でふかえりに会い、その眼で見つめられたら、私は根本的に人生を変えられてしまうだろう。
だから私がBook 3に期待したことは、実はふかえりがどう描かれるかだった。ふかえりはどうなるのだろう。巫女のように天吾を―そして私を―導く彼女は、現実の女性としての着地点を彼女の人生に見出すことができるのだろうか。彼女は、巫女ではなく生身の女性として生きることができるのだろうか。現実世界で仕事を持ち、独特の語り方をわかりにくいと仕事仲間に怒鳴られ、寡黙だが深い彼女自身ことばをわかりやすい通俗表現に取り替えられ、彼女は金を稼ぎ自活することができるようになるのだろうか―夢のないことを言うなと怒られるかもしれない。だが金を稼ぐことも現代を生きるために不可欠なことなのだ。生きる意味より直截的に―。
男性が女性に巫女や母性を求めることは無理もないことであろう。それは女性が男性に騎士や老賢人をつい求めたがることと同じなのかもしれない。しかし男性は生身の女性にしか会えないし暮らせない。それは女性が生身の男性としか会えないし暮らせないのと同じなのだが、おそらく男性は女性に比べて生身の人間と出会いともに暮らすことを不得手とする。だからせめて男性は生身の女性を描いた物語を必要とする。巫女でもなく母性そのものでもない生身の女性を。
村上春樹はBook 3でふかえりを生身の女性として描くことができたのか。それともそれは望むべくこともないことなのか。ふかえりは『1Q84 』の小説世界の中で彼女自身の佳き暮らしを見出すことができたのか。それとも208と209のように男性から思われた巫女としてしか生きることしかできないのか。たとえそれが小説世界の中だけのことだとしても、それは許されるべきことなのか・・・
ファンというのは勝手なもので、愛する作品に過剰な期待を抱く。あるいはファンというものは、勝手に自分自身を作品の中に投影して作品を損ねているだけの存在なのかもしれない。そうだとしたら―そしてそうである可能性は高そうだ―私はこのビールを飲みながらの勝手な文章を今すぐに終えるべきだろう。
『1Q84』は村上春樹が、方法論的自覚を高めながらも、彼の深いところからくるものを損ねないままに書き上げた長編です。私の評価では彼のベストの作品です。これを超える作品は彼の今後の作品だけでしょう。優れた物語がすべてそうであるように、これは外的には完結していても内的には完結していません。多くの謎があり、多義があり、私たちを何度もこの物語に引き込みます(私もこれから何度もこの作品を読み返すことでしょう)。この作品は、もちろんふかえりだけの物語ではなく、主人公は天吾と青豆です。特に青豆は村上作品の新しい境地を示す人物なのかもしれません。その他にもタマルといった魅力的な人物も登場します(誰もが好きになれない牛河も独特の魅力を持っています)。Book 3の展開は力を持ち、一種推理小説のような力をもってあなたを終結にまで導くでしょう(なんせ村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のような終末をもつ作品を書いたことがある小説家なのですから、安心してはいけません)。どうぞ『1Q84 BOOK 1』からお読みください。これまで村上作品を一冊も読んだことのない人も、物語を愛する人なら、きっと楽しむことと思います。
⇒『1Q84 BOOK 1』
⇒『1Q84 BOOK 2』
⇒『1Q84 BOOK 3』
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