村上春樹の男性主人公はしばしば女性を生身の人間として見ていない。男性主人公の恋人や配偶者が突然姿を消すことはそれを裏付ける根拠である。
より直接的な根拠は、小説に描かれる女性像に求められる。最悪の描き方は『1973年のピンボール』
あるいは『羊をめぐる冒険』
露骨なのは『ノルウェイの森』
そして今回の『1Q84 Book 3』である。ここで村上春樹は青豆という魅力的な女性をほぼ等身大に描くことに成功している(特にこのBook 3では、ネタバレになるから言わないが、青豆はこれまでの村上春樹の女性登場人物が経験しなかったことを経験しようとしている)。
だが、「ふかえり」はどうなのだ。
「ふかえり」はBook 1とBook 2を通してひたすら神秘的で魅力的な女性として描かれる。男性の主人公(天吾)はふかえり―後に彼女は深田絵里子という実名を与えられる―に言いようもなく惹かれる。最初は彼女の小説に、次に彼女の存在自体に。
村上春樹のファンとして、あるいは先に述べたように彼の小説の主人公に共感的に自分を見出している人間として、私もふかえりに深く心ひかれる。特殊な出自をもち、独特の訥々としたぎこちない―というより特殊な語法でしか語れない彼女―しかし彼女のことばは私たちの心にまっすぐに届く(私は小説を読みながら彼女の声を実際に聞いているようだった)。平家物語やバッハの作品を暗記しながらも、読字障害をもち、日常的な能力はほとんどもちえていない彼女―しかし彼女は心の深いところまですっと無防備に入り込んでくる。もし私が実生活でふかえりに会い、その眼で見つめられたら、私は根本的に人生を変えられてしまうだろう。
だから私がBook 3に期待したことは、実はふかえりがどう描かれるかだった。ふかえりはどうなるのだろう。巫女のように天吾を―そして私を―導く彼女は、現実の女性としての着地点を彼女の人生に見出すことができるのだろうか。彼女は、巫女ではなく生身の女性として生きることができるのだろうか。現実世界で仕事を持ち、独特の語り方をわかりにくいと仕事仲間に怒鳴られ、寡黙だが深い彼女自身ことばをわかりやすい通俗表現に取り替えられ、彼女は金を稼ぎ自活することができるようになるのだろうか―夢のないことを言うなと怒られるかもしれない。だが金を稼ぐことも現代を生きるために不可欠なことなのだ。生きる意味より直截的に―。
男性が女性に巫女や母性を求めることは無理もないことであろう。それは女性が男性に騎士や老賢人をつい求めたがることと同じなのかもしれない。しかし男性は生身の女性にしか会えないし暮らせない。それは女性が生身の男性としか会えないし暮らせないのと同じなのだが、おそらく男性は女性に比べて生身の人間と出会いともに暮らすことを不得手とする。だからせめて男性は生身の女性を描いた物語を必要とする。巫女でもなく母性そのものでもない生身の女性を。
村上春樹はBook 3でふかえりを生身の女性として描くことができたのか。それともそれは望むべくこともないことなのか。ふかえりは『1Q84 』の小説世界の中で彼女自身の佳き暮らしを見出すことができたのか。それとも208と209のように男性から思われた巫女としてしか生きることしかできないのか。たとえそれが小説世界の中だけのことだとしても、それは許されるべきことなのか・・・
ファンというのは勝手なもので、愛する作品に過剰な期待を抱く。あるいはファンというものは、勝手に自分自身を作品の中に投影して作品を損ねているだけの存在なのかもしれない。そうだとしたら―そしてそうである可能性は高そうだ―私はこのビールを飲みながらの勝手な文章を今すぐに終えるべきだろう。
『1Q84』は村上春樹が、方法論的自覚を高めながらも、彼の深いところからくるものを損ねないままに書き上げた長編です。私の評価では彼のベストの作品です。これを超える作品は彼の今後の作品だけでしょう。優れた物語がすべてそうであるように、これは外的には完結していても内的には完結していません。多くの謎があり、多義があり、私たちを何度もこの物語に引き込みます(私もこれから何度もこの作品を読み返すことでしょう)。この作品は、もちろんふかえりだけの物語ではなく、主人公は天吾と青豆です。特に青豆は村上作品の新しい境地を示す人物なのかもしれません。その他にもタマルといった魅力的な人物も登場します(誰もが好きになれない牛河も独特の魅力を持っています)。Book 3の展開は力を持ち、一種推理小説のような力をもってあなたを終結にまで導くでしょう(なんせ村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
⇒『1Q84 BOOK 1』
⇒『1Q84 BOOK 2』
⇒『1Q84 BOOK 3』
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